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Constructing the “Anti-racism”

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Constructing the “Anti-racism”
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Author(s)
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開 : 1970年代カリ
フォルニア州フォルサム刑務所の「人種主義」撤廃運動
高廣, 凡子
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
人間社会学研究集録. 2007, 3, p.27-55
2008-02-29
http://hdl.handle.net/10466/9667
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
人間社会学研究集録 3(2007), 27-55 (2008年2月刊行)
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
――1970 年代カリフォルニア州フォルサム刑務所の「人種主義」撤廃運動――
高廣凡子*
はじめに
1960 年代後半から 1970 年代初頭は、アメリカ合衆国(以下、アメリカとする)
の監獄にとって特質すべき時期だった。それはこの時期に隆盛をみた監獄「暴動」
が、60 年代の運動の中でもとりわけ黒人運動との「連動性」と、それによる「暴動」
、、
の「政治性」ゆえに受刑者主体の運動として捉えられてきたからである1。
だが当該期の受刑者運動が注目に値するのは、その抵抗の事実のためだけではな
い。むしろ、そこにはアメリカ社会の人種問題が縮図的に表れていた。ここでいう
人種問題とは、ひとつには、あくまでも人種性に拘泥する黒人の戦略が、人種を梃
子にした管理実践の論理に横領される問題である。またいまひとつには、その戦略
と横領が一致する危険性を理由に、また白人の理解と承認の代償に、黒人が人種性
を消去した普遍の言葉で異議申し立てを行わなければならない問題を指す。言い換
えるとこの時期の受刑者運動は、単に外部運動と連動した処遇改善要求運動だった
のではなく、現在の人種をめぐる問題の困難さを表した成熟した運動であった。す
なわちこの運動は、異人種間連帯の困難さを最もよく表した運動だったのである。
したがってこの運動の意味を見極めることは、監獄と人種主義の関係について考え
る手がかりとなるとおもうのである。
同時に管理への影響という点からもこの時期の受刑者運動は見落とされるべき
ではない。受刑者運動は、1968 年に受刑者自身が自分たちの運動を「野蛮な男たち
の単なる戯言ではない」2と主張したように、自分たちを「受刑者」たらしめる社会
*
大阪府立大学人間社会学部研究生
1
U.S. congress, House of Representatives, Committee on Internal Security, 93rd Cong., 1st Sess.,
Revolutionary Target: The American Penal System (Washington, D.C.: U.S. GPO, 1973), p. 1.(以下、
Revolutionary Target とする)Robert Adams, Prison Riots in Britain and the USA (1992, London:
Macmillan Press, Ltd., 1994). The NOBO Journal of AfricanAmerican Dialogue, Black Prison
Movements USA (Volume 2 Number 1, Africa World Press, 1995).
2
1968 年から 69 年の受刑者運動については次を参照。拙稿「ポスト公民権期アメリカ合衆国に
28
高廣 凡子
の排除と包摂の技術や論理を察知していた。だからこそこの時期の受刑者運動は監
獄外部運動と共振し、そのことによって「革命的」や「戦闘的」といった理由で押
さえ込まれもした。
この時期を経て 1970 年代半ば以降の管理の徹底化が受刑者を無
害化・無力化していく。
1980 年代以降いくつかの監獄は、60 年代のような受刑者による「蜂起」の可能
性を排除した、受刑者のためのたんなる収容施設となる。そこでは更生プログラム
も刑務作業もほかの受刑者との接触もない。それはカリフォルニア州ペリカンベイ
刑務所に典型的に象徴されている。また他方で、受刑者の無用な身体から利益を搾
り取ろうとする動きも現れる。監獄の民営化である。それはアンジェラ・デイヴィ
スが「監獄の建設と、この新しい建物を人間の身体でいっぱいにしたいという衝動
を駆り立ててきたのは、人種主義というイデオロギーと利益の追求である」3と指摘
したように、人種主義と結びついている。この一連の流れを方向付けた、1960 年代
後半の「法と秩序」政策に伴って始まる新しい管理の技術とその様態の解明という
点からも、またその後の監獄の管理のあり方に影響を与えたという点からも、当該
期の受刑者運動の再検討は無駄ではないだろう4。
前述のとおり、1960 年代後半から 70 年代初頭の受刑者運動は、研究史上におい
ては黒人運動との関係が自明視され、二つの運動の連動性が強調された結果、受刑
者主体の運動の内実が問われずにいた5。このようななか、
「プリズン・ムーブメン
ト」についての体系的な実証的研究は、カリフォルニア州における監獄運動を論じ
おける『プリズン・ムーブメント』の発生――カリフォルニア州サンクエンティン刑務所の事例
を中心に――」
『歴史』
(東北歴史学会)第 105 輯(2005 年)
、134‐165 頁。
3
Angela Davis, Are Prison Obsolete? (NY: Seven Stories Press, 2003), p. 84.
4
1971 年に開かれた連邦下院の監獄に関する小委員会に、レーガン州知事による監獄のセキュリ
ティ対策の再検討を命じる行政命令R33-71 が提出された。それは、1971 年にソルダッド監獄内
部で起こったジョージ・ジャクソンの逃亡未遂に伴う彼の射殺事件を受けて出されたものであっ
た。その中でレーガンは、事件の再検討の必要性を述べると同時に、この種の事件の原因は監獄
内に増大する「暴力的犯罪者と監獄内外革命勢力」にあるとした。U.S. Congress, House of
Representatives, Committee on the Judiciary, 92nd Cong., 1st Sess., Corrections Part 2: Prisons, Prison
Reform, and Prisoners’ Rights: California (Washington DC: GPO, 1971), p. 325.(以下、Corrections と
する)
5
John Pallas and Bob Barber, “From Riot to Revolution,” Issues in Criminology 7:2 (Fall 1972), pp. 1-19.
Daniel Glaser, “Politicalization of Prisoners: A New Challenge to American Penology,” in Corrections:
Problems and Prospects, second ed., ed. David M. Petersen and Charles W. Thomas (NJ: Prentice-Hall,
1980), pp. 142-148. Robert Martinson, “Collective Behavior at Attica,” Federal Probation: A Journal of
Correctional Philosophy and Practice (Feb. 1972), pp. 3-7. Roberta Ann Johnson, “The Prison Birth of
Black Power,” Journal of Black Studies 5 (1975), pp. 395-414.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
29
たエリク・カミンズの 1994 年の研究を俟たねばならない。カミンズは、監獄内外の
運動を繋いでいたものが「男らしく革命的な囚人像」であった点に着目し、その自
己像に翻弄された「プリズン・ムーブメント」の失敗を論じた6。同時に彼の研究は、
受刑者の主体性を軽視した結果、黒人運動による受刑者の扇動という結論に収斂す
るという重大な問題を抱えることになった。一九六〇年代の黒人運動の見直しが進
むなかで、これら学説史の問題点から導かれる課題は、自明視された黒人運動との
「連動性」自体とその実態を問い直し、受刑者運動そのものの意味を探ることであ
ろう7。
本稿では、1970 年代初頭のフォルサム刑務所において、
「白人だからという理由
で、
(中略)政治での無力さと、日常生活での惨めさに我慢させられている」
、いわ
ば権力構造の底辺にいる白人受刑者の側から発せられた<人種主義>撤廃要求運動
を手がかりに、1970 年にフォルサム刑務所で起こったストライキ(以下、フォルサ
ム・ストライキとする)を再検討するものである。しかし、だからといって、本稿
は、無徴化された普遍的存在としての「白人性」を問う近年の学問的潮流の先鞭を
つけたデイヴィッド・ロディガーが試みたように、この歴史的事例のなかに「白人
性」の放棄と解体の可能性を探るものではない8。それは単に<白人>を「問題の俎
6
Eric Cummins, The Rise and Fall of California’s Radical Prison Movement (CA: Stanford UP, 1994).
7
特に近年、ブラック・パワー運動研究の見直しに対する貢献が大きいのはペニエル・ジョセフ
(Peniel E. Joseph, 1973-)である。彼は 2001 年、ブラック・パワー研究について特集した『ブラ
ック・スカラー The Black Scholar』の巻頭論文でブラック・パワー運動の研究史を纏め上げ、新
たな方法論と着眼点を指摘することで、これからのブラック・パワー運動研究の広がりの可能性
を示した。そこで彼は、
「ブラック・プリズン・ムーブメントについての歴史研究によって、ブ
ラック・ラディカルと監獄の知識人たちとの間の関係がもっとよく理解できるようになる。さら
にはそのような研究は、受刑者の権利に関わる諸問題がブラック・パワー運動の諸組織に与えた
インパクトを明らかにするかもしれない」と述べ、受刑者とブラック・パワー活動家による良質
な運動の展開を示唆すると同時に、その両者の関係性の再考を促している。Peniel E. Joseph,
“Black Liberation Without Apology: Reconceptualizing the Black Power Movement,” the Black Scholar
31:3-4 (Fall/Winter, 2001), pp. 2-19. そのほか彼のブラック・パワー運動に関する近著は以下であ
る。Peniel E. Joseph, ed, The Black Power Movement: Rethinking the Civil Rights-Black Power Era (NY:
Routledge, 2006); Peniel E. Joseph, Waiting ‘Til the Midnight Hour: A Narrative History of Black Power in
America (Owl Books, 2007).
8
David R. Roediger デイヴィッド・R・ラーディガ「社会的構築物としての人種の発見から白人
性の放棄へ」
(椎名美智訳)
『思想』859(1996 年1月)
、31-50 頁。ロディガーは、反白人性の提
唱と同時に「階級」という視点の慎重な導入によって、
「白人性」に潜む人種優越が「白人」内
部の階級的差異を隠蔽し、力を持たない「白人」を政治的無力に服従させている点を指摘した。
30
高廣 凡子
上に載せる」ことが<人種>の解体に繋がるとは思えないからである。ただ、下層
白人の「悲惨さ」を論じるよりも、後に詳しく見ていくような徹底した<人種>の
管理の中で<白人>が、
<人種主義> を問題化したことの意味は問われるべきだと
思うのである。
従来、フォルサム・ストライキは、その具体的経緯や過程を鑑みられることなく、
要求書の中身のみで受刑者の「労働組合主義の発露」を見出しうる意義あるストラ
イキとして無批判に評価されてきた9。事実、ストライキで受刑者たちが刑務作業条
件改善要求を提示したことは、全米で初めてとなる、受刑者の憲法上の権利保護を
謳った受刑者組合設立へと間接的に繋がった。しかしながら、受刑者社会内部の力
関係と監獄内外の「協力関係」に注目し、ストライキ前後の監獄内外の動きを考慮
しつつ運動の展開を詳しく検討すると、それは、受刑者組合の設立へ向かって単線
的には展開しなかったことがわかる。ストライキでは、黒人と白人の人種的利害、
受刑者と外部支援者の「階級」的利害、監獄内外の急進派と受刑者組合設立派の信
条的利害が複雑に錯綜し、最終的にストライキは、受刑者自身によって「崩壊」と
捉えられる。このことを踏まえたとき、当該ストライキを、
「労働組合主義の発露」
という点から論じるだけでは不十分であるようにおもわれるのである。
そこで本稿では、とりわけ人種関係に焦点を当てながらフォルサム・ストライキ
を再検討し、1970 年初頭という、マイノリティ運動の隆盛する最後の一時期におけ
るこの運動の意味について考えてみたい。以下では、まず<人種>の問題が監獄内
部で(再)浮上してくる背景を明らかにし、次にフォルサム・ストライキを再考す
るために、1971 年同刑務所で起こった抗議運動の動きを確認する。最後にフォルサ
ム・ストライキの具体的検討を通して、1970 年代を迎えるなかで同刑務所一連の運
動の帯びていた意味を提示してみたい。
1.
〈人種主義〉撤廃要求運動の背景
(1)
「矯正」と新たな管理のテクノロジー
1960 年代後半のアメリカの行刑制度を象徴する言葉は「ポスト・リハビリテーシ
ョン」であった。この言葉は単純に考えれば、
「更生」なき時代を意味する。だが、
すなわち彼は、
「白人性」の放棄と解体の可能性を、権力構造の底辺の一部をなす白人自身の中
に見出したのだった。なお本稿では、Roediger をロディガーと表記する。
9
Cummins, op. cit. Ronald Berkman, Opening the Gates: The Rise of the Prisoner’s Movement (MA:
Lexington Books, 1979).
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
31
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』のなかで、次のように指摘していた。すなわ
ち、監獄において<矯正>は、既にその出発点から、補足的役割にすぎず、監獄の
機能とは自由の剥奪と技術による個々人の変容の企てであったのだ、と10。フーコ
ーによれば、犯罪発生率を減少させず、再犯率を増加させ、非行者をつくりだす監
獄の「失敗」とは、
「違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、ある者には
自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を排除し、他の人間
を役立たせ、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引き出す」権力効果のなか
に組み込まれた「運用の一部分」
、つまり結果的には「
《非行性》を種別的に扱う」
「監獄の成功」であった11。
だとすれば、1960 年代後半の「ポスト・リハビリテーション」が意味していたも
のとはいったい何であったのだろうか。それはおそらく、被疑者に関する調査・点
検・分類といった点における、フーコーの言葉で言えば「個々人の変容の企て」の
放棄、であっただろう12。1960 年代後半の監獄の「劇的変化」13は、管理実践の場
における管理技術のなかにこそあった。では、それはいかなる技術によって、なぜ、
どのように放棄されたのか。
監獄の管理に新たに加えられた項目は、
「<人種>の管理」であった。そしてそ
こには明らかに、ブラック・パワー運動の隆盛の影響があった。ブラック・パワー
運動とは、
「黒」や「黒人」の肯定的解釈と再定義のため、その言葉のとおり、あえ
て「人種性」を強調した運動であった。当時カリフォルニア州のブラック・パワー
運動においては、1960 年代後半に黒人コミュニティの自衛組織として登場したブラ
ック・パンサー党
(Black Panther Party 1966 年結成)がその急先鋒とみなされていた。
10
Michel Foucault, Surveiller et Punir: Naissance de la Prison, Gallimard, 1975 ミシェル・フーコー
『監獄の誕生――監視と処罰――』
(田村俶訳、新潮社版、2002 年)
、124-134、231-246 頁。
11
同上、264-282 頁。
12
Michel Foucault, “The Subject and Power,” in Michel Foucault: Beyond Structuralism and
Hermeneutics, trans. F. Durand Bogaert, Hubert L. Dreyfus and Paul Rabinow, (U of Chicago P, 1983),
pp. 208-226.(訳は「主体と権力」
『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ 自己/統治性/快楽』
(蓮實
重彦・渡辺守章監修、筑摩書房、2001 年)を参照した。
)
13
もちろん当局と受刑者の間で、この「劇的変化」に対する認識は異なっていた。1971 年カリ
フォルニア州の仮釈放審査委員であったヘンリー・カーは、特に 1966 年から 71 年にかけて導入
された州の新しい保護観察助成プログラムや仮釈放規則違反者に対する迅速な仮釈放取り消し
処分を行う法案の立法化などを「劇的変化」として列挙した。Corrections, pp. 129-130. 一方、
サンクエンティン刑務所で受刑者に対して聞き取り調査を行ったミントンは、受刑者の処遇に対
、、
する当局の態度が劇的に変化したと、受刑者自身が考えていると記している。Robert J. Minton, Jr.,
Inside: Prison American Style (NY: Random House, 1971), pp. 318-320.
32
高廣 凡子
警察の蛮行に武装して立ち向かうというパンサー党の闘争スタイルは白人社会にと
って、公民権運動の「非暴力」からのあからさまな転換と映ったのみならず、ブラ
ック・パワー運動の「暴力性」のイメージを助長した14。
これに伴って監獄では黒人受刑者が当局にとって目につく存在となってきた。つ
まり彼らは可視化したのである。それは、当局にとって黒人受刑者がブラック・パ
ワー運動の急進的な活動家たちを表していたからにほかならない。実際にパンサー
党が監獄に深くコミットした組織であったことは、黒人受刑者への暴力的処遇に拍
車をかけていた15。フォルサム刑務所の黒人受刑者による以下の言葉は、黒人受刑
者に向けられる当局の暴力的処遇の理由を彼らが敏感に察知していたことを表して
いる。
外での運動が世界の注目を集めるにつれて、それは刑務所長たちの注意もひいた。
そして彼らは、マルコムXが囚人だったという事実と我々が囚人であるという事実
を結びつけ始めた。それから、アフロヘアが、ラップ[・ブラウン――引用者注]
と同一視され、
「ラップ・ブラウンの髪型」あるいはソルダッド刑務所のブタども[看
守――引用者注]が呼ぶところの「フットボールのヘルメット」になった。アフロ
ヘアをしたニガーがテレビの画面やあるいは新聞の第一面に現れるたびに、彼は銃
を手に持っていた。だからブタどもはまたそれを我々と結びつけ、我々はかつてよ
りも一層彼らの脅威となった。我々は、もはやただの「ニガー」ではなく、
「銃を持
ったニガー」であった。そしてアフロヘアはいずれの刑務所でも違法なものとなっ
た16。
マルコムX(1925-1965)は、ポスト公民権運動において、ブラック・パンサー党
など急進的組織の思想的参照点の一人であり、一方ラップ・ブラウン(1943-)は、
公民権運動組織としての出発を果たしつつその後白人組織員排除を経て急進的なブ
ラック・パワー運動組織へ変貌した学生非暴力調整委員会(Student Nonviolent
Coordinating Committee)の幹部であった。その意味では、両者ともブラック・パワ
ー運動を体現した存在であった。白人社会でブラック・パワー運動は「暴力」を意
味し、
監獄で黒人受刑者はブラック・パワー運動を担う黒人活動家と同一視された。
14
なお、
「非暴力」が構築する「敵対性」についての重要な指摘は次を参照。酒井隆史「攻撃で
はなく防衛――暴力批判のためのノート――」
『現代思想』第 31 巻3号(2003 年3月)
、174-183
頁。
15
パンサー党が監獄の諸問題に実質的に深く関わっていくきっかけは、ひとつには創設者の一
人であるヒューイ・ニュートン(Huey P. Newton, 1942-89)が 1967 年に警官殺害容疑で起訴・拘
禁されたことにあった。
16
Eve Pell, ed. Maximum-Security: Letters from Prison (NY: E.P. Dutton & Co., Inc., 1972), pp. 231-234.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
33
監獄で不可視であった「黒人」がブラック・パワー運動の隆盛とともに可視化した
のであった
ところで、1960 年代後半の監獄における黒人受刑者の可視化は、それ以前の監獄
における黒人受刑者の不在を意味しない。事実、1950 年代から徐々に黒人受刑者数
は増加の一途を辿りはじめ、それは、とくにネイション・オブ・イスラム(Nation of
Islam 以下、NOIとする)の監獄内部での教徒のリクルート活動の根拠となった。
しかし、
「反白人」を公言して憚らなかったブラック・モスリムすら、ブラック・パ
ワー運動隆盛以前には監獄内で可視的存在とはならなかった。NOIはカリフォル
ニア州刑務所において 1960 年代初頭に作られた最初の黒人だけのグループであり、
当時監獄内での活動を当局側に「正式に」認められていた17。NOIは「暴力的な
までに反白人であったにもかかわらず、どんな革命的イデオロギーにも寄与してい
なかった」ため、数年後「刑務所当局に宗教グループとして正式な承認を得るのに
成功した」18。
監獄内で黒人受刑者が「急進的」で「暴力的」な「脅威」として映るには監獄外
部の黒人運動が先鋭化する 1960 年代後半を待たねばならなかったといえよう。
この
時期に監獄内で「黒人である」ことは「暴力」
、
「騒擾」
、
「混乱」を指し示すことと
なった。とくに黒人受刑者が「ナイフを隠し持っていた」という嫌疑をかけられ暴
力的処遇の対象となったことは、看守の持つ黒人受刑者のイメージの変化を象徴的
に表していた19。というのも、武器を持つ黒人のイメージは、黒人受刑者が「銃を
持ったニガー」という暴力的な「脅威」の存在として認識され始めたことと軌を一
にしていたのである。
(2)
「分断し、統治せよ」
では、いかなる技術によって二つの人種は管理されたのだろうか。黒人受刑者と
17
Revolutionary Target, p. 75. 確かに、重警備棟の受刑者から弁護士に送られた手紙の中には宗
教的な嫌がらせへの不満はなく、ニューヨークの受刑者運動の要求書と比べても、明らかにブラ
ック・モスリムから出された要求だとわかる、
「食事に豚肉を出すな」といった要求がカリフォ
ルニアの受刑者による要求書の中にはない。だが 1967 年にはサンクエンティン刑務所で、モス
リムによって宗教的自由を要求するストライキの呼びかけがあり、
「正式に」認められていたか
らといって必ずしも権利を保障されていたわけではないことがわかる。Pallas and Barber, op. cit.,
p. 8.
18
Revolutionary Target, p. 75.
19
Erik Olin Wright, ed. The Politics of Punishment: A Critical Analysis of Prison in America (NY: Harper
& Row, 1973), p. 83-92.
34
高廣 凡子
白人受刑者の管理は、
「分断し、統治せよ」
(divide and conquer)という不文律のも
とにおこなわれていた。基本的に監獄では、南部公民権運動の結果、表面的には撤
廃されたはずの公的施設における人種隔離が監獄の
「秩序」
維持の手立てであった。
監獄内の「秩序」とは、異人種の受刑者が物理的にも心理的にも接近しないことで
あった。異人種の接触が、両者の協力関係構築と当局に対する反抗意識の醸成に繋
がるかもしれないからである。
例えば、サンクエンティン刑務所の白人受刑者が「仕事以外で黒人と絶対に口を
きくな」という監獄内の「規則」によって「人種主義者であることを余儀なくされ
ている」と述べたように20、当局側は「秩序」維持のための「規則」として、白人
受刑者に黒人憎悪の感情を植え付けた21。その際、看守自らが白人受刑者の見本と
なっていた。黒人を他者化し、排除・抑圧する自分たちに白人受刑者が同一化する
こと、すなわち、自らが白人受刑者のアイデンティティ形成の「鏡」となることこ
そが、監獄における「分断と統治」の肝要な点であった。幾人かの白人受刑者は、
「奴ら[黒人――引用者註]を行儀よくさせるためには時々奴らを刺さなきゃなら
ない」22と、看守と同じ論理で黒人受刑者に対する暴力行為を正当化していた。
「反
黒人感情を持つ[白人――引用者註]受刑者と職員たちの・・・連帯意識はあから
さまで、共有されたものであり、享受されるもの」23だという証言のとおり、黒人
受刑者への憎悪を植え付けられた白人受刑者とは、黒人受刑者にとって管理実践の
現場を仕切る看守の「分身」だったといえよう。だが、ゆえに、白人受刑者にとっ
ても必然的に自らの命の保証は、黒人受刑者への憎悪を仲間の白人受刑者と看守に
対して示すことであった。
一方黒人受刑者は、
「黒人受刑者にとって安全である唯一の方法は、二つの人種、
あるいは様々な人種の完全な分離である。建物のこちらの者とあちらの他人という
具合に」と、その「規則」を甘受せざるを得ない状況にあった24。それは、当局側
の白人受刑者の懐柔と、彼らとの「協力関係」による、黒人受刑者への差別的な暴
力的処遇という戦術の「効果」にほかならない。
こうして個々人の罪ではなく<人種>によって受刑者の分類と管理が徹底化さ
れた。1960 年代後半、白人受刑者と看守の鏡映関係と、それによる受刑者への圧力
はどちらも、過剰でない限りにおいてはうまく機能していた。
20
21
22
23
24
Ibid, p. 120.
Pell, pp. 218-219.
Wright, p. 112.
Pell, pp. 155-157.
Ibid, pp. 160-161.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
35
(3)1971 年〈人種主義〉撤廃運動
この監獄内外の動きを背景に、1968 年から、
「プリズン・ムーブメント」と呼ば
れる、受刑者による監獄改善要求運動が起こる。カリフォルニアにおいてそれは、
68 年サンクエンティン監獄での改善要求運動を皮切りに、
1970 年代初頭まで続くこ
とになった。
その背景には、先述したように、ひとつには、1960 年代後半における、
「法と秩
序」政策の一環としての厳罰化を中心とした監獄政策が、またいまひとつには黒人
運動の隆盛があった。これら二つの動きは<人種>を争点としていた。したがって
これらを背景にしたカリフォルニアのプリズン・ムーブメントは、不可避的に<人
種>の問題を内包しながら展開していた。
それでも、1970 年までの受刑者運動が、黒人受刑者に対する差別的で残酷な罰や
処遇といった監獄内の<人種>の問題を運動の前面に押し出すことはほとんどなか
った。たとえば、1968 年から 69 年のサンクエンティン刑務所における一連の監獄
改善要求運動は、受刑者間で「団結」しつつも、
「人種性」を完全に隠蔽したもので
あった。1970 年サンクエンティン刑務所における黒人受刑者によって組織化された
ストライキでさえ、黒人受刑者は、自分たちへの差別的処遇に対する抗議の言葉の
代わりに、
「人権を奪うな」や「正義を求める」といった抽象的な言葉を使わざるを
得なかった25。
このカリフォルニアの受刑者運動における「人種性」の消去は、次のことに起因
している。すなわち白人受刑者が<人種問題>を運動に持ち出さないのは、それを
<黒人問題>と捉えているからであり、白人受刑者にとって<黒人問題>は受刑者
の権利に無関係だからであった。
一方黒人受刑者側にとっても<人種問題> は<黒
人問題>であるが、彼らがそれを運動に持ち出さないのは、そのことによって白人
受刑者の支持が得られないと考えるからであった。このことは、1970 年サンクエン
ティン刑務所におけるストライキを振り返った黒人受刑者の次の言葉に如実に表れ
ている。
「ネルソン[刑務所長――引用者註]はみんなに言ったんだ。白人は黒人で
はなく白人に従うべきだ、このストライキは黒人所長を求めるものだぞ、ってね。
連帯が崩れ始めたのはそのときだったよ。
」26このように 1970 年までの受刑者運動
では、表面的に「連帯」しながら、決して<人種問題>を公に問題化するものでは
なかった。
25
26
Wright, pp. 103-106.
Ibid, p. 105.
36
高廣 凡子
ところが、1971 年初頭のフォルサム刑務所における白人受刑者による監獄改善の
動きは、明らかに<人種主義>を問題化していた。だが監獄における<人種主義>
とはいったいどういったものであったのか。ここで、1971 年<人種主義>撤廃の動
きを確認していこう。
カリフォルニア州バークリーの新左翼系アンダーグラウンド新聞『バークリー・
バーブ』は、1971 年4月 30 日‐5月6日付の記事に、受刑者たちからカリフォル
ニア州矯正局長レイモンド・プロキュニア宛に送られた監獄改善を要求する嘆願書
を掲載した27。その嘆願書は9名の主に白人受刑者たちによって作成されていた。
そこでは、監獄に蔓延する「深刻な問題と危機」として、次のような監獄内部の実
情が告発されていた。その嘆願書は、看守が「自分たちに与えられている」独断的
な力を奪われつつあることを危惧し、物事を行う際の「昔どおりのやり方」を正当
化するため、人種間の暴力を煽り、そのことが受刑者の命を危険に晒している、と
いうことを告発していた28。
ここで看守の「昔どおりのやり方」とは、具体的にはどのようなことであったの
だろうか。受刑者たちは嘆願書の中で次のように続けた。看守たちが「受刑者間に
深刻な暴力的出来事を作り出すために、人種間に暴力をあおり始めた」
、すなわち、
「ニグロと敵対するようメキシコ系の受刑者をかき回し、すべての受刑者と敵対す
るよう白人受刑者をかき回している」
、と受刑者たちは主張したのであった29。
このような行為は、フォルサムでの運動以前にも、次のような文脈でしばしば問
題化されていた。サンクエンティン刑務所の教戒師であったエリク・ライトが 1970
年に監獄の実態調査のために受刑者と看守にインタビューを行った中で多くの受刑
者と、一部の看守さえもが、<人種主義>が監獄政策の暗示的な一部となっている
点を認めていた。看守と受刑者の認識する<人種主義>の中身を整理すれば、それ
はまず、黒/白二分法に沿って受刑者を分類・序列化し、黒人に差別的管理を行う
看守の行為であり、次に受刑者内部のナチ党に代表される白人優越主義者による黒
人受刑者への差別的言動であり、さらに興味深いことには、受刑者たちをコントロ
ールするために看守が用いる戦略としての、異人種を分断させる「嫌がらせ」行為
を指していた30。つまり、1971 年に白人受刑者たちが告発した、看守による「人種
間の扇動」行為とは、とりわけ上述の三番目の行為を指しており、それは監獄内で
はまさしく<人種主義>であった。
27
28
29
30
“Folsom’s Gonna S-T-R-I-K-E!” Berkeley Barb 12:16 (Apr. 30-May 6, 1971), p. 5.
Ibid, p. 5.
Ibid, p. 5.
Wright, pp. 106-123.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
37
したがって、監獄の<人種主義>とは、白人受刑者にとっても使命を制する問題
であった。そのため 1971 年に抗議行動を始めた白人受刑者は、監獄改革の必要性を
自分たちが認識していることを当局に見せつけるために、人種間の喧嘩をやめ、お
互いとではなく看守と闘おう、1970 年、
「外からの協調性のない要求、人種的不和、
所長による心理作戦のため」ストライキは潰されたが、我々囚人のストライキと一
致団結こそが監獄改革を推進可能にするのであり、我々の側にある最も大きな棘は
看守だ、と主張したのであった31。
その後、プロキュニアが嘆願書を黙殺したとき、受刑者たちは、
「彼[プロキュニ
ア――引用者註]が記者に『人種主義のとんまたち』を一掃すると言った」にもかか
わらず、彼が嘆願書を事実上「完全に無視した」ので、
「我々に可能な唯一の代替策、
すなわちストライキという手段以外に頼るものがない」と言って、ストライキを呼
びかけることとなる32。
1970 年のストライキに触れた上の言葉から明らかなとおり、<人種主義> を監
獄内から取り除こうとする受刑者たちのこの動きは、明らかに 1970 年のフォルサ
ム・ストライキへの反省を踏まえて起こってきたものであった。受刑者たちは 70
年ストライキに対する批判の中に、今後の監獄改革にとっての鍵を見出しており、
従ってそこには同時に、70 年ストライキの性格が示唆されていたといえるだろう。
そこに暗黙に指摘されていた 70 年ストライキの性格とは、ひとつには、71 年の
抗議行動で受刑者が目の前の「深刻な問題と危機」を生み出している「敵」とは看
守であるとわざわざ名指さなければならなかったことから明らかなとおり、70 年ス
トライキが受刑者間の関係性を規定している監獄内部の力関係に対して無自覚に展
開したという点であった。二点目には、
「外からの協調性のない要求」と受刑者たち
が述べたように、監獄内外の「協力関係」のあり方に問題があったことが挙げられ
る。最後には、監獄内の<人種主義>に関する受刑者たちの限定的な定義や「人種
的不和」という言葉から窺えるように、70 年ストライキの反省として、
「人種問題」
を従来のように「黒人問題」と規定すること自体の問題を、71 年運動の中に受刑者
たちが提示していたのではないかということである。
受刑者が監獄改善にとっての鍵と捉えた以上の三点は、1970 年ストライキにおい
て、まさに運動の展開に影響を与えた点であり、この三点を軸に 70 年ストライキを
読み解くと、
「労働組合主義の発露」や監獄内でのブラック・パワー運動の展開とい
31
“Folsom’s Gonna S-T-R-I-K-E!” Berkeley Barb 12:16 (Apr. 30-May 6, 1971), p. 5. “Folsom’s May
Day,” Berkeley Barb 12:16 (Apr. 30-May 6, 1971), pp. 11.
32
Ibid, p. 5, 11.
38
高廣 凡子
った従来の解釈とは違う、フォルサム・ストライキの展開と性格が見えてくるので
ある。そして<人種>を軸にこの運動を読み直すことは、監獄と人種主義の密接な
関係を明らかにすることにも繋がるであろう。
以下では、この三点に焦点を当てながら、70 年フォルサム・ストライキの経緯と
展開を詳しく見ていくことにしよう。
2. フォルサム・ストライキの経緯
(1)組合設立運動としての始まり
フォルサム刑務所は、当時、カリフォルニア州行刑制度における唯一の重警備刑
務所であった。重警備とは、監視塔、高い壁、二重になったフェンスなど設備の面
における警備の厳重さをさす33(図1)
。その反面、フォルサム刑務所は、受刑者に
とってはサンクエンティン刑務所よりも「マシな刑務所」であった。それは、
「
[サ
ンクエンティンの受刑者よりも――引用者註]もっと正気で、他人のことにあまり
関わりたがらない年とった受刑者が多い」ことにあるといわれる34。とはいえ、右
上のような、ブラック・パワー運動の隆盛に伴う新たな力の配備と行使を背景に、
カリフォルニア州を覆った一連の受刑者による異議申し立ての波にのって、フォル
サム刑務所でも他の監獄同様、ストライキが計画されていた。
フォルサム・ストライキの発端は、あるチカノ受刑者35と監獄外部の新左翼系
組織の協力関係の下での受刑者組合結成の動きにあった。
だが、
このストライキは、
受刑者組合設立というたったひとつの目的に向かって単線的に展開したのではなか
った。
「人種、信条、肌の色」の多様性が、運動の方向性を錯綜させ、このことによ
って、この運動は 1971 年の「人種主義」撤廃の動きへと繋がっていったのである。
まずはストライキの経緯を追っていこう。
1970 年 11 月3日にはじまるフォルサム・ストライキは、偶発的なものではなか
った。これは、ストライキ決行以前に、ストライキの主導者であった受刑者たちが、
33
Leonard Orland, Prisons: House of Darkness (NY: Free P, 1975), p. 52.
George Jackson, Soledad Brothers: The Prison Letters of George Jackson (NY: Coward-McCann, 1970:
Chicago: Lawrence Hill Books, 1994), p. 58.
34
35
チカノ Chicano とは、メキシコ系アメリカ人に分類される人々を指す呼称の一つであり、それ
はヒスパニックやラティーノというカテゴリーに分類されるエスニック集団のサブカテゴリー
である。ヒスパニックという呼称が持つ意味の歴史的変化については以下を参照。佐々木惠「ヒ
スパニックの『名前戦争』――包括的名称およびメキシコ系の呼称について――」
『同志社アメ
リカ研究』
(同志社大学アメリカ研究所)36(2000 年)
。
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
39
他の受刑者たちにストライキ決行の日時と場所を詳細且つ具体的に伝達していたか
らであった36。
この計画性が、外部支援者獲得の一助となった。前々から作成されていた要求宣
言書のコピーが、ベイエリアにあるいくつかの組織に頒布された。31 項目からなる
要求宣言書の中心的作成者は、フォルサム刑務所の印刷所で働くマーティン・スー
ザというチカノ受刑者であった37。スーザはおそらく面会の際に自分の妻を通して
要求宣言書のコピーをベイエリアの新左翼系組織のひとつ、受刑者組織調整評議会
(Coordinating Council of Prisoner Organizations: 以下、評議会とする)に渡した。カ
ミンズとのインタビューに答えた評議会のジョン・アーウィンによれば、この間、
スーザと評議会の間には幾度となくやり取りがあり、当初よりこのストライキは、
監獄内部での組合結成を明確な目的とするものであった38。ストライキは、受刑者
と新左翼系組織との「協力関係」を基盤にスタートをきることとなった。
だが受刑者運動に介入しようしたのは、組合結成を目的とした新左翼系組織だけ
ではなかった。当時カリフォルニア州ではとりわけベイエリアと呼ばれるサンフラ
ンシスコ湾岸地域を中心に隆盛した黒人運動に深く係わっていた弁護士たちが、こ
の運動へ参入しようとしていた。特にソルダッド・ブラザーズ弁護団と呼ばれる弁
護士たち39による、この運動を黒人解放運動の前衛として展開させようとの目論見
が、ストライキの方向性を複雑化していくことになる。
(2)
「労働者」の地位と受刑者の権利
一方、監獄内に目を向けると、受刑者たちは「労働状況が改善されない限り働か
ない」と明言して、11 月3日のストライキ決行を宣言した後、11 月5日までに医務
室と食堂での「労働」に従事する受刑者をのぞくほぼ全員が刑務作業を停止した40。
36
Revolutionary Target, p. 77.
Cummins, pp. 199-200. Samuel Melville, Letters from Attica (NY: William Morrow & Company, Inc.,
1972), p. viii.
37
38
Cummins, p. 200. 労働組合の設立を目的にアーウィンを中心とする評議会がストライキに介
入したことは、彼がその後のカリフォルニア受刑者組合設立の中心メンバーとなったことからも
明らかである。“Cal Prisoners Union Gets It On,” Berkeley Barb 12:23 (June 18-24, 1971), p. 12.
39
ソルダッド・ブラザーズ弁護団とは、カリフォルニア州ソルダッドにある成人男子用監獄に
収容されていた3人の黒人受刑者の救援弁護団である。この3人の黒人受刑者は 1970 年に看守
殺害容疑者として無作為に選ばれ、起訴された。3人の中には、当該期の黒人運動のカリスマ的
存在となるジョージ・ジャクソン(George Jackson, 1941-1971)が含まれていた。
40
具体的に受刑者は、
「労働状況が改善され、監獄外部産業による監獄内への参入が許可され、
組合の定めた最低賃金で受刑者を雇用し、受刑者を労働させているすべての矯正施設が州と連邦
40
高廣 凡子
その時受刑者たちは、破壊的・暴力的行為の否定を慎重に付け加えた41。
そもそも受刑者のストライキは次の2つの理由で違反行為であった。まず、従来
から監獄では受刑者の憲法上の権利として言論や集会の自由が建前上保障されてい
た。だが実際には施設内の秩序維持の優先がその権利を否定してきた42。よって、
受刑者の組織化は認められてこなかった。次に、当局にとって、当局と受刑者は、
受刑者が刑務作業に従事していようとも、雇用者と被雇用者の関係にはない。故に
受刑者には刑務作業をめぐる当局との交渉権は認められていない。従って、交渉の
要求手段であるストライキは違反行為であり、
「暴力性」を伴う「騒擾」や「暴動」
へと変換される。受刑者はストライキの建設性と正当性を訴えるため、その「違法
性」から「暴力性」を断ちきろうとしていた。
ストライキの主眼は当初、まさにここにあった。つまりそれは、以下で詳述する
ように、いかなる保障もない劣悪な「労働状況」の改善を通して、
「労働者」として
の受刑者の権利を獲得することだった43。
このことは、要求宣言書の中身を詳しく検討することで明らかとなる。要求宣言
書は、
「フォルサム受刑者の要求宣言と反抑圧的綱領」と題され、次のように宣言し
ていた。すなわちそこには、
「われわれフォルサム刑務所の受刑者は、人種、信条、
肌の色にかかわらずすべての受刑者によって経験された不正義の終結を求める」と
いう文言が付されていた。ここで「人種、信条、肌の色にかかわらず」と受刑者た
ちが明言したように、表面上、要求宣言書は、人種、信条、肌の色の異なる各受刑
者の意見を反映した中身となっていた。だが、ここで「人種、信条、肌の色にかか
わら」ないというのは、後にストライキの展開でも明らかになるように、文字通り、
人種、信条、肌の色の差異を消し去った「受刑者」としてのまとまりの宣言であっ
た44。
の最低賃金法に従い、仕事中の災害保険に対するプログラムを組み、受刑者たちが労働組合を設
立することを許可されるまで働かない」
と宣言していた。
“Folsom Work Strike,” Berkeley Barb 11:17
(Oct. 30-Nov. 5, 1970), p. 3.
41
“Fuckin’ Folsom Prison,” Berkeley Barb (Nov. 8-12, 1970), p. 3.
42
Paul Comeau, “Labour Unions for Inmates: an Analysis of a Recent Proposal for the Organisation of
Inmate Labour,” Buffalo Law Review 21:3 (Spring 1972), pp. 963-985.
43
特に 1971 年の委員会に出席した評議会のアーウィンと、後にカリフォルニア受刑者組合
(California Prisoners Union)から分裂する受刑者連合組合(United Prisoners Union)の指導者となる
ポピー・ジャクソンは、
「最低賃金と労働者としての保障」
、
「更生」の一部としての職業訓練、
当局との交渉手段としての組合の必要性等を訴えた。Corrections, pp. 91-93.
44
Pell, pp. 191-194. 要求宣言書は Pell 編纂の書簡集のものを訳出。フォルサムの要求宣言書を載
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
41
「受刑者」としての彼らの要求は、監獄の更生機能の追求であった。それはまず、
宣言と要求の間に挟まれた序文の文言から明らかである。序文の文言はカリフォル
ニア州刑務所についての受刑者の次のような認識を示していた。受刑者たちは、
「カ
リフォルニア州矯正制度の運営者たちが、人びとを社会的に矯正するために設計さ
れたはずの施設を、現代アメリカのファシスト強制収容所へと作り替え、その中で
『受刑者』は『犯罪者』という烙印を捺され動物のように扱われている」と告発し
ていた45。つまり、受刑者の要求とは監獄を当初の「人びとを社会的に矯正するた
めに設計されたはずの施設」へと戻すこと、言い換えれば、監獄の更生機能の追求
だったのである。
それはまた、要求宣言書からも明らかである。31 項目の要求宣言書は大きくは4
つに分類することができる。すなわち、
(1)受刑者の日常生活や生死に関わる暴力
的処遇の廃止と改善に関する要求、
(2)刑務作業改善に関わる要求、
(3)収容さ
れている「革命的活動家」の処遇をめぐる要求、
(4)<人種>に触れた要求、であ
る。
(1)はいわば更生プログラムの要求であり、さらに細かく5つに分類できる。
①仮釈放審査委員会(Adult Authority)46において代理人を立てる権利や異議申し立
てをおこなう権利など受刑者の憲法上の権利保障を要求した第1、7、8、14、17、
20、26 項、②医療や家族との面会の環境改善を要求した第2、3、24、31 項、③受
刑者に対する懲戒処分の改善を要求した第4、5、6、27 項、④受刑者への身体的
暴力の廃止を要求した第9、18 項、⑤制度の抜本的改革を要求した第 10、25 項の
計 19 項目に及ぶ。
(2)は、具体的には受刑者の「労働者」としての地位獲得とい
う要求に収斂される第 11 項から 13 項と第 15 項及び第 21 項から 23 項の計7項目で
ある。
(3)は第 16 項と 19 項の2項目であった。
(4)は、人種間に憎悪を煽るこ
とをやめるよう求めた第二八項と、とくに人種マイノリティの差別的環境是正を要
求した第 29 項と 30 項の計3項目であった(表1)
。
このように、31 項に及ぶ要求宣言書の要諦は、わざわざ「人種、信条、肌の色に
かかわらず」という文言が付されたとおり、それが、どのグループの要求にも特化
せた論文・史料はほとんどすべて Pell 編纂に載せられたものと同じ 31 項目の要求宣言書を用い
ている。
45
Ibid, p. 192
46
1944 年カリフォルニア州に設置された機関。主として、裁判所による刑執行後の受刑者の矯
正状況に応じて、受刑者の仮釈放申請の認可・棄却、その後の保護観察を行う権限を持つため、
ここでは、仮釈放審査委員会と訳した。この機関は拘禁後の受刑者の刑期を自由裁量で決定する
権限も持ち、裁判所が刑期を決定しない、このいわゆる不定期刑は、長く受刑者運動の中で批判
されてきた。
42
高廣 凡子
しない、
「受刑者」への更生プログラムの要求、すなわち監獄の更生機能の追求にほ
かならない、ということであった。事実、要求(1)
(2)に関する文言では、要求
と併せて監獄の矯正機能の欠如が強く非難されている。これに対し、
(4)の〈人種〉
に触れた要求は付加的な印象を免れ得ない。要求(4)のとくに人種マイノリティ
の差別的境遇の告発と重なる要求(3)は、ボビー・シール(Bobby Seale 1937-)
など有名な「政治囚」47の解放要求を通して有色人種に不当な刑事司法制度を告発
するものとなってはいるが、監獄内部の人種マイノリティの差別的情況を告発し改
善を要求するものではなかった。
監獄の更生機能にとって重要であったのが、当該ストライキ当初の主要目的であ
った、
「労働者」としての地位の獲得という要求に収斂される「労働状況の改善」で
あった。それは受刑者にとって、受刑者としての権利獲得・保護のための重要な手
段だったからである。つまりそれは、次のようなことである。受刑者組合の監獄内
における展開の是非について論じたポール・コモーが「組合という形態が受刑者の
権利の多くを保護する効果的な手段となりうる」と指摘するように、囚人にとって
「労働者」としての権利獲得が、その他全ての権利獲得の手段となりうるものだっ
たといえよう48。従って、
「労働者」としての権利要求は単に刑務作業環境改善要求
だったのでなく、不当な処遇の改善に関する当局との交渉権を含めた権利獲得を意
、、、、 、、、
味していたと考えられるのである。いかなる保障もない劣悪な「労働状況」の改善
、、、、
を通して、
「労働者」としての受刑者の権利を獲得すること、これが更生プログラム
の一環として以上に殊更この要求が強調された理由であったといえよう。
こうして見てみると、受刑者が、監獄は受刑者を矯正するはずだと信じる改革者
たちと同じ言葉を繰り返すことで、ふたつの意味で<監獄>の現状維持に加担して
いる、ということに気づく。まず、ストライキは監獄内では監獄内のパワーバラン
スの維持に流用される。サンクエンティン刑務所のある看守部長が、
「我々は、もし
受刑者の大多数が我々の味方でなかったら、我々はこの場所をコントロールするこ
となどとてもできない。もし受刑者が望めば、彼らはここを5分で占拠するだろう」
と指摘したように、当局にとってストライキや異議申し立ては、過剰な管理への暴
力的抗議を引き起こさないための、一種の「ガス抜き」であった49。更には、その
47
「政治囚」とは、すべての黒人受刑者に対してとりわけパンサー党が好んで使った言葉であ
った。これは、黒人とはシステムの不正義によって投獄される「システムの犠牲者」という認識
に基づいている。
48
49
Comeau, p. 985.
Wright, pp. 141-142.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
43
内容が更生機能の追求であることで、当局はそこに受刑者の、
「社会化」のための更
生の度合いではなく、
「刑務所化」を確認する。こうして双方によって監獄の「秩序」
が保たれるのである。また、受刑者の更生機能の追求は、
「更生」のための施設とし
ての地位を(一度もその機能を果たしたことがないかもしれないのに)<監獄>に
保証することにもなるのであった。
だが、だとしても、この運動の意義は、ひとつには、このストライキが実際に全
米で初めての受刑者組合設立のきっかけとなっていた点にあり、いまひとつには、
後に詳しく論じるように、監獄内の、ひいては社会における、とりわけ<人種>を
めぐる力関係を大きく揺るがしかねない一つの綻びを創り出していた点にあった。
(3)秘密の情報網
上述のような受刑者の動きに対し当局は、
「犯罪者」と管理の間に存在するはずも
ない交渉権を容認するはずもなく、当初、ストライキの存在自体を隠蔽しようとし
た。当局は、ストライキの始まった 11 月3日に刑務作業者の「休日」を言い渡し、
刑務作業の停止がストライキによるものではないかのようにみせかけた50。また、
要求宣言書は「いつもの経路」でフォルサム刑務所のクレイブン所長に送達された
が、クレイブンは受刑者たちの要求宣言書を受け取っていないと公言した51。
3日以降も刑務作業を拒否し、各居房で座り込みを続ける受刑者に対して、当局
は4日間何も食料を与えず、5日目にはすべての外との通信手段を断った。日が経
つにつれ、当局はストライキの終結のために、
「このストライキの首謀者は共産党と
共謀している」と言って受刑者を脅した。受刑者側によれば、このことを口実に、
受刑者の中には仕事に戻る者もいた。当局側の脅しや嫌がらせにもかかわらず、そ
の後もストライキは続いたが、11 月 23 日の当局側による武力鎮圧の示唆により、
ストライキは終焉を迎えることとなった52。
ところでクレイブンへ要求宣言書を送達する「いつもの経路」とは、受刑者によ
って監獄内外に張り巡らされた秘密の情報網であった。当局による外部との通信手
段の断絶にも拘らず、ストライキ中秘かに続けられた監獄内外の通信は、発信源も
その経路も定かではない受刑者だけの非公式のネットワークを通じたものだった。
フォルサム刑務所の元看守であったマイケル・ブラウンによれば、当局による通信
手段の断絶後も外からの手紙が監獄内に持ち込まれていた53。中心のない情報の網
50
51
52
53
“Fuckin’ Folsom Prison,” Berkeley Barb (Nov. 8-12, 1970), p. 3.
Ibid, p.3.
Pell, pp. 206-207.
Cummins, p. 201. フォルサム要求宣言書が受刑者間で廻し読みされたことに関して、受刑者の
44
高廣 凡子
の目の完全な破壊は不可能だったといえよう。
(図1)フォルサム刑務所における受刑者の人種・年齢別割合
1.80%
その他
30.4%
黒人
16.4%
メキシコ系白人
51.4%
白人
0
45
10
20
全受刑者数に占める
割合
30
40
50
年齢別割合
60
フォルサム
サンクエンティン
ソルダッド
40
35
30
25
19.8
20
19.7
17.8
15
10
14.9
9.9
8.6
5
4.3
4.2
上
以
60
歳
9歳
55
-5
4歳
50
-5
9歳
45
-4
4歳
40
-4
9歳
35
-3
4歳
年齢
30
-3
4歳
20
-2
下
以
20
歳
9歳
0.80%
0
25
-2
0
出典:U.S. Congress, House of Representatives, Committee on the Judiciary, 92ed Cong., 1st Sess. Prisons, Prison Reform,
and Prisoners’ Rights: California, Washington, D.C.: U.S. GPO, 1971, より作成。
秘密の情報網に触れながら推測しているものは次を参照。Frank Browning, “Organizing Behind
Bars,” in Prison, Protest, and Politics, ed. Burton M. Atkins and Henry R. Glick (NJ: Prentice-Hall, 1972),
pp. 132-133.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
45
(表1) フォルサム要求宣言書
フォルサムの受刑者の要求宣言書と反抑圧綱領
1.我々は、仮釈放審査聴聞会において受刑者が法的代理人を立てる憲法上の権利と、仮釈
放取消審理聴聞会で証人の反対尋問や仮釈放者側の証人のための、例えば弁護士のよう
な、手続き的防衛手段を認めない仮釈放審査委員会の訴訟手続からの保護を要求する。
2.我々は、医療職員、医療政策、医療措置の変革を要求する。フォルサム刑務所の病棟は、
全く不十分で、職員の数が不足しており、受刑者の治療に有害である。
3.我々は、フォルサムの受刑者とその家族に対して、面会の環境と施設を十分に整えるこ
とを要求する。
4.我々は、懲戒処分施設に現在収容されている各受刑者に対して、厳しく制限された状態
に彼らが置かれている理由を正確に説明した、所長の署名の入った文書が提示されるこ
とを要求する。
5.我々は、懲戒処分施設への不定期間の収容を直ちに廃止し、代わって善行によって、あ
るいは罪の性質によって収容期限の切れる、固定した収容期間を設定することを要求す
る。不定期間の収容のために受刑者は今も何の説明もなく無期限に収容されている。
6.我々は、受刑者の政治的信条を理由に、その受刑者を一般居房に収容された受刑者から
隔離することを廃止するよう要求する。
7.我々は、政治的、人種的迫害の廃止と、合衆国郵便で郵送される政治的新聞、著作物、
あるいは他の教育的、時事的なメディア刊行物の購読権を要求する。
8.我々は、平和的な異議申し立てという憲法上の権利を行使する受刑者に対する迫害と処
罰の廃止を要求する。
9.我々は、居房に閉じこめられている受刑者に対する催涙ガスの使用の廃止を要求する。
我々は、受刑者が更生されるか更生されないかは別にして、彼らが無期限に閉じこ
められる不定期刑の廃止を求め、最小刑期と最大刑期を決定する法案の可決を要求する。
10.
我々は、産業経営者が施設に入って、受刑者を1日8時間労働のために雇用し、等
級賃金を求める労働者の範疇に受刑者を分類することが許可されることを要求する。
11.
12.
我々は、受刑者による労働組合の設立と加入の許可を要求する。
13.
我々は、受刑者が自分たちの家族を扶養する権利を与えられることを要求する。
我々は、看守が生死に関わる状況以外で受刑者に発砲、威嚇射撃をした場合、ある
いは残虐で異常な行為に至った場合、法的な問題として起訴する権利を要求する。
14.
我々は、受刑者労働を利用するすべての施設が、州と連邦の最低賃金法に従うこと
を要求する。
15.
我々は、革命家であることを公言し、有罪判決を受けた囚人と捕虜に、自由世界革
命連帯協定の下で、アルジェリア、ロシア、キューバ、ラテン・アメリカ、北朝鮮、北
ヴェトナムなどの国々に政治的避難所を与えられることを要求する(以下略)
。
16.
我々は、合衆国憲法に明記されているように、審理が進行し、被告人の同輩のいる
法域から選ばれる陪審員がいない場合、サンクエンティン刑務所構内や、あるいは他の
17.
46
高廣 凡子
刑務所で行われる裁判を中止することを要求する。
我々は、カリフォルニア州刑務所、特にサンクエンティン、フォルサム、ソルダッ
ド刑務所で拡大する受刑者への身体的暴行の終結を要求する。
18.
我々は、レイーシュ・ティジェリナ、アーマド・エヴァンズ、ボビー・シール、チ
ップ・フィツジェラルド、ロス・シェイティ、デイヴィッド・ハリス、そしてソルダッ
ド・ブラザーズのような有名で重要な政治囚に対して国外に政治的避難所が与えられる
ことを要求する(中略)
。
19.
我々は、有罪宣告後に救済を求める受刑者に法的援助を与えるため、そして受刑者
の苦情が当局の注意をひくよう当局と受刑者間の連絡係として、カリフォルニア弁護士
会から 3 人の弁護士を常勤で任用することを要求する。
20.
我々は、産業活動の条件を、カリフォルニア州法の定める基準にまで引き上げるこ
とを要求する。
21.
我々は、
刑務作業に関連した事故への保障のための受刑者労働者保険計画の確立を
要求する。
22.
我々は、職業訓練課程修了時に組合指導者、組合賃金、組合員資格を準備する連邦
刑務所制度の労働組合化された職業訓練プログラムに匹敵するプログラムの確立を要
求する。
23.
我々は、囚人福祉基金の年間会計報告と、基金の使途について受刑者に発言権を与
える受刑者委員会の公式な設立を要求する。
24.
我々は、知事によって指名される仮釈放審査委員会が廃止され、それが人民大衆の
投票によって選ばれた仮釈放委員にとって代わることを要求する。
25.
我々は、州と刑務所当局が「ソルダッド幹部会報告」の第1勧告に従うよう、強く
要求する。すなわち、
「州議会は常任で有給の監督局を州刑務所のために設置すること。
監督局は、非人道的で理不尽な違法行為で告訴される職員に対する受刑者やその家族・
友人・弁護士による申し立てを判断する責任を負う(中略)
。
」
26.
我々は、刑務所当局が、最近フォルサム刑務所の懲戒処分施設の中から発表された
要求宣言書に記述されていた暫定的要求に従うことを要求する。
27.
我々は、
この州の刑務所当局が人種関係に軋轢を生み出すことを直ちにやめるよう
要求する。
28.
我々は、カリフォルニア州の刑務所システムがフォルサム刑務所に、この刑務所の
ブラウンと黒人受刑者に必要とされる専用の活動のためのエスニック・カウンセラー業
務の設備を要求する。
29.
我々は、
黒人とブラウンの受刑者に対する仮釈放の差別的判断と割り当ての廃止を
要求する。
30.
我々は、州刑務所の看守による居房内の捜索と所持品検査の際に、すべての受刑者
が立ちあうことを要求する。
31.
(出典:Eve Pell, ed., Maximum Security: Letters from Prison, NY: E.P. Dutton & Co., 1972.)
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
47
3.ストライキの「崩壊」から〈人種主義〉撤廃運動へ
(1)
「外からの扇動」の遮断
前節で触れたように、外部運動にとって受刑者運動の方向性には二つの選択肢し
かなかった。すなわち、労働組合設立を果たすか、
「反体制運動」の前衛か、のどち
らかであった。この外部の思惑とは裏腹に、受刑者は最初から外部運動に規定され
ない運動を展開させようとしていた。ストライキ当初から監獄内外には「受刑者の
運動」に関する認識に温度差があったのである。
受刑者のストライキは、その始まりから、外部運動に規定されることを様々な形
で拒否していた。受刑者は最初から受刑者が主体となる運動を展開させようとして
いたし、運動の展開過程で、外部運動の過度の介入を障害に感じていた。外部運動
の過度の介入は、当局から「外部の扇動」と捉えられ、受刑者の要求の正当性が認
められない可能性があったからである。受刑者にとっては最初から、他者=外部運
動に規定されないこと、他者=当局の戦略に巻き込まれないことというこの二つの
ことが重要であった。
従って受刑者は、ストライキの目的が具体的な単一の要求に収斂しないことを、
「人種、信条、肌の色にかかわらず受刑者全員が被る不正義」と表現し、次のよう
に外部組織によって干渉されないストライキの展開を宣言した。すなわち、フォル
サム・ストライキは外部の人びとに扇動されて始まったのではなく、服役を経験し
た受刑者たちこそが、外部の人々へ支援を要請したのだ、と彼らは主張していた54。
ここで、
「外からの扇動」という当局の非難に対する受刑者側の否定は、受刑者に
とって二つの役割を果たしていた、とみることができる。それはひとつには、要求
宣言書の有効性を、いまひとつには受刑者の主体性の保証を担っていた。
「外部の扇動」という当局の「中傷」の否定は、当局による要求宣言書の無効化
への抵抗であり、
ストライキが受刑者の意思によるものであるという主張であった。
実際にクレイブンは、フォルサム・ストライキが「外部の扇動者によって組織され、
支配されて」おり、
「要求書は受刑者たちによって書かれたものではない」55と指弾
していた。当局にとって外部支援者は、
「問題を引き起こす」ような「間違った方向
に受刑者を導いて」いた56。ストライキに対する当局の認識はいつも、
「九八%の受
刑者は我々の味方」であり、
「たった二%の受刑者がいつもすべてを台無しにする」
54
55
56
“Fuckin’ Folsom Prison,” Berkeley Barb 11:18 (Nov. 6-12, 1970), p. 3.
“Up Against the Wall, Folsom,” Berkeley Barb 11:20 (Nov. 20-26, 1970), p. 7.
Corrections, p. 11.
48
高廣 凡子
というものであった57。すなわち、当局に受刑者が作成したのではないとみなされ
る要求宣言書は真剣に受けとめられない。受刑者にとってはなによりもまず「外部
の扇動」という非難こそが否定されるべきであった。
同時に上の受刑者の宣言は、外部組織に対するひとつの意思表示でもあった、と
みることができる。それは、外部組織による運動の規定を拒否していた。要求宣言
書とは受刑者にとって「受刑者であるという共通の経験」を表すものであったから、
「受刑者」の経験を共有していない外部組織による運動の嚮導は道理に合わないこ
、、、
とであった。したがって、右の宣言は、実際の「外からの扇動」を切断し、受刑者
の主体性を回復しようとする意思表示であったとも捉えられるのである。
加えて、二つの外部支援組織の分裂が、受刑者と外部支援組織を分かつ決定的要
因となった。その二つとは、前出の評議会とソルダッド・ブラザーズ弁護団であっ
た。二つの組織は、要求宣言書の第 16 項と第 19 項に書かれた「政治囚の解放」と
いう要求をめぐって分裂した。
ジョン・アーウィンが「彼ら[マーティン・スーザら要求宣言書作成者――引用
者註]がこの要求書を作るときに他の受刑者を引き入れていた。彼らの支援を得る
ためにスーザらは多くのかなり強く主張された不合理な考えに迎合しなければなら
なかった」と指摘したように、評議会にとってそれらは「不合理な」要求であった58。
実際アーウィンは、マーティン・スーザの妻に、要求宣言書からその二つの要求を
除外するようマーティンを説得しろと言った。彼らにとって「政治囚の解放」はな
んら政治的意味を持たず、ストライキそのものを無駄に終わらせかねなかったから
である59。
一方、ソルダッド・ブラザーズ弁護団は問題の二つの要求に固執した。ベイエリ
アのブラック・パワー運動では、1967 年に起こったパンサー党ヒューイ・ニュート
ンの逮捕を皮切りに、党と幹部への取り締まりが激化するなかで、
「政治囚の解放」
は運動の主たるスローガンの一つとなっていた60。そうである以上、ブラック・パ
ワー運動の「協力者」61である弁護士グループにとっても「政治囚の解放」という
57
Wright, op. cit., p. 102.
Cummins, op. cit., pp. 200-201.
59
Ibid, pp. 200-201.
60
Bobby Seale, Seize the Time: The Story of the Black Panther Party and Huey P. Newton (1970, MD:
Black Classic P, 1991), p. 419.
58
61
ベイエリアの黒人運動は、白人との「連帯」を、
「特定の目的のための特定の連帯」と呼び、
その「連帯」の戦略性を強調した。“Stoke in London: Blasts Whitey Black or White,” Berkeley Barb 5:9
(Sep. 1-7, 1967), p. 5. Seale, op. cit., p. 219.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
49
「政治的領域」の問題解決こそが優先課題だったのである。
この時明らかとなった評議会と弁護団の間の亀裂は、その後も溝を埋められない
ままであった。ここでは詳しく述べられないが、そのことは、ストライキ後、
「受刑
者組合設立」の動きと「政治囚の解放」運動が何ら接点を持ち得なかったばかりで
なく、受刑者組合自体もその二つの方向性をめぐって分裂したことからも明らかで
ある62。
この外部組織の分裂こそは、おそらく受刑者たちの外部組織の介入回避の決定的
事件となっていた。そもそも 1968 年サンクエンティン刑務所での「プリズン・ムー
ブメント」で確立された受刑者と監獄外部支援者との関係性は、これまで「距離感」
のあるものだった。受刑者が外部支援者に運動の主体を委ねたことは一度もなかっ
たし、また外部支援組織が自らの信条的な利害を受刑者に押しつけることもなかっ
たのである。外部支援組織による受刑者支援は、受刑者の示威行動に支持を表明し
つつ、それとは自律的なものであった63。
ところがその関係性は、外部組織同士の分裂という事態をきっかけに明らかに変
容しつつあった。それは、1971 年「人種主義」撤廃要求運動における外部支援要請
、、、
の際、受刑者が外部支援者の役割を次のように特定していたことからも明らかであ
る。1971 年運動の中で受刑者は外部支援者を、当局と、監獄内の人種主義廃絶とい
う「共通の動機」によって結束した受刑者との間の「仲介者」と呼んだのであった。
このとき、受刑者の代表者は受刑者自身であることが同時に明言された64。これは、
外部支援者が受刑者の「代表」にはなり得ないことを明確に伝えるものであった。
受刑者は、外部組織の分裂に、受刑者とその運動を外部組織の利害に基づいて規定
し統制しようとする暗黙の意図を読み取ったのであった。なぜならそれは、受刑者
の主体性を奪い取るものであったからである。このような受刑者の主体の危機こそ
が、受刑者を外部支援組織の介入から引き離す原因となっていたと考えられよう。
(2)
「人種的不和」と「ストライキの崩壊」
では、受刑者は当初より外部運動からの規定を拒否する宣言をおこなったにもか
かわらず、なぜストライキは「崩壊」と捉えられたのであろうか。それを知る鍵は、
62
“Two Prison Rallies,” Berkeley Barb 13:12 (Oct. 1-7, 1971), p. 16. Mike Fitzgerald, Prisoners in
Revolt, Harmondsworth: Penguin, 1977 マイク・フィツジェラルド『囚人組合の出現――イギリス
の囚人運動序説――』
(長谷川健三郎訳、りぶらりあ選書・法政大学出版局、1979 年)
、290‐291
頁。
63
拙稿(2005 年)参照。
64
“Folsom’s May Day,” Berkeley Barb 12:16 (Apr. 30-May 6, 1971), pp. 5, 11.
50
高廣 凡子
この後のストライキの展開にあった。71 年の運動で、
「ストライキは、外からの協
調性のない要求、人種的不和、所長による心理作戦のために崩壊した」と受刑者が
述べたように、そこには<人種>の問題が深く関係していた。
まず「人種的不和」によるストライキの「崩壊」の兆しは、要求宣言書の序文に
孕まれていた。それは、当局と交渉をおこなう活動家の名前の書かれた箇所にあっ
た。要求宣言書で受刑者は、
「人種、信条、肌の色にかかわらずすべての受刑者が被
った不正義」の廃絶を謳い、監獄の機能不全を非難した文言の後、続けて、当局と
交渉する4名の外部活動家の名前を指名していた。そのうちの3人については、具
体的に、ブラウン・ベレーというチカノグループのサル・カンデラリア、ブラック・
パンサー党のヒューイ・ニュートン、多くのパンサー党員などの弁護を務めた白人
弁護士チャールズ・ギャリーの名前が挙げられていた。4人目の「これから指名さ
れることとなるカリフォルニア受刑者組合の代表」については、具体的な名前がま
だ挙がっていなかった65。
4人の交渉人が実際に当局と交渉した事実はないが、次の3つの理由により、4
人の交渉人は、受刑者にとってストライキの命運を担った受刑者の「代弁者」であ
った。
まず、受刑者は、当局と交渉するときに通常組織化されるいかなる受刑者委員会
も発足しないとし、序文において、ラジオ、ニュース、個人的訪問を通したこの4
人の指示を受け取るまで刑務作業を再開しないと明言して、この4人に当局との交
渉の全権を委託していた。つまり、いかなる譲歩をどれだけ当局から引き出すこと
ができるかは、この4名の交渉にかかっていた。
次に、先に引用したように、この指名が、
「受刑者の側からの外部支援要請」と
いう主張のもとであったこともまた重要であった。この指名は、交渉者の帰属する
組織ではなく、受刑者の利害を当然優先事項とする交渉を確信してのことであった
からである。
さらには、
「監獄の問題を国家的な政治的争点とする」ため、外部支援者の具体
的な支援は、この時期の受刑者による監獄改革にとって重要な戦略となっていた。
受刑者の主体性を保持する、外部との「距離のある」関係性の可能性は、今後の受
刑者運動の行方に関わる問題であったといえよう。従って、受刑者全体の「代表」
である交渉人は、要求宣言書の「複数性」を表すかのように、一応は、人種、信条
的バランスのある指名となっていた。
ところがそのバランスの崩壊がストライキ開始後9日目におとずれた。この時、
65
Pell, op. cit., p. 194.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
51
まだ指名されていない4人目の交渉人「カリフォルニア受刑者組合の代表者」の名
前の代わりに、パンサー党の幹部であったデイヴィッド・ヒリヤード(David Hilliard
1948-)の名前が浮上していた66。そして、受刑者が 1971 年運動の中で指摘した、ス
トライキを崩壊に導いた「人種的不和」とは、この交渉人の指名を巡る事態を指し
ていたのではないか、と考えられるのである。
その理由は、まず、
「人種的不和」の原因が要求宣言書の中身自体にあったとは
考えづらいからである。なぜならば、外部組織の間に第 16 項と 19 項をめぐる不和
があったとしても、
最終的に受刑者たちは 31 項目の形で要求宣言書を提出していた。
1971 年運動の中で受刑者たちの言うように、
「当該ストライキとその時の結束力こ
そが監獄改革運動への貢献要因である」という認識をこのストライキから受刑者が
得たのだとすれば、それがたとえ受刑者間の団結のための修辞であったとしても、
問題が、受刑者によって主体的に作成・提出された要求書そのものにあったとは考
えづらいのである。
つまり、
「人種関係の緊張の表れとして捉えられる、警察嫌いのニグロの急進的
組織」67ブラック・パンサー党幹部2名と、パンサー党とも関わりの深いチャール
ズ・ギャリー弁護士の「指名」
、この要求宣言書の「複数性」とは矛盾するようにみ
える交渉人の人種と信条の偏り、これらの点にこそ、受刑者はストライキ「崩壊」
の要因をみたと考えられるのである。
ヒリヤードの「指名」に関して、少なくとも宣言書作成者の間で合意があったの
か、また実際に彼が最終的な段階で4人目の交渉人に確定したのかどうかは明らか
ではない68。受刑者の間に浮上している名前を左翼系の新聞があたかも受刑者間の
合意による代表者名として報道しただけかもしれない。受刑者の意向を外部へ伝達
する媒体は弁護士であったが69、アーウィンの言うように、一方に組合設立を目指
す組織とその意向に沿った運動を展開させようとする受刑者、他方に「弁護士に扇
動された」
「不合理な考え」を抱く受刑者がいて、前者をアーウィンら評議会が代表
し、後者を弁護士が代弁していたとしたら、報道されたヒリヤードの名前は後者か
ら出てきただけのものかもしれないとも考えられる。弁護士以外の秘密の情報網に
66
67
“Get It On for Folsom,” Berkeley Barb 11:19 (Nov. 12-19, 1970), p. 3.
“Waiting for the Verdict,” Newsweek 72:12 (Sep. 16, 1968), p. 23.
68
『ニューヨークタイムズ』紙は 11 月 22 日のストライキ終結直前の記事で、この時点でまだ、
受刑者たちが四番目の「代表者」を選んでいないと報じていた。Wallace Turner, “Warden and
Convicts at Coast Prison Are Locked in Confrontation,” New York Times (Sun, Nov. 22, 1970).
69
“Shuck in Folsom Prison: Anti-Strike Holiday,” Berkeley Barb 11:18 (Nov. 8-12, 1970), p. 3.
Corrections, p. 11.
52
高廣 凡子
よって外部へ伝達された情報だとしたら、合意や確定の問題に関してその信憑性は
ますます疑わしい。
だが、多くの非黒人の受刑者にとって問題はおそらく、この運動が特定の人種・
信条を代弁する運動へと傾斜していくように見えてしまうこと、そして実際に傾斜
していることであった。というのも、受刑者にとって、運動が「黒人の」運動とな
ることの問題は、
ひとつには要求そのものが争点とならない点に、
いまひとつには、
その結果、それが運動においても日常においても永久に「二つの」人種を分断する
こととなる点にあった70。
「ニガーのストライキ」は、当局にとっては受刑者間を<人種>で分断するよい
口実となった71。
「ニガーのストライキ」という表現に表れているように、ある特定
の<人種>、すなわち黒人受刑者だけがこのストライキによって得をする、という
常套的な表現は、白人受刑者をストライキから引き離すには効果的であった72。先
述したように、黒人受刑者と関係を持つことは白人受刑者にとっては罰をもたらす
こととなっていたからである。
「ニガーのストライキ」という性格は、白人受刑者の
支持を奪うという意味においても、まさにストライキの「崩壊」を導く要因だった
のである。
ここにこそ、つまり 1970 年ストライキにこそ受刑者の<人種>アイデンティテ
ィへの拘泥という「戦術」が当局の<人種>を梃子にした管理戦略に一致する危険
性を、フォルサムの受刑者自身が察知し、明確に意識化していく契機があったので
あった。
(3)
「権力のゲーム」と<人種主義>の政治性
フォルサム・ストライキは、運動の方向性までも決定しようとする監獄外部に
よる運動への過度の介入を回避したものの、異人種の受刑者間に植えつけられた相
互不信感や、あまりに強い人種アイデンティティに基づくポリティクスへの志向が
受刑者たちの足元を掬うことになったといえよう。
だが、フォルサム・ストライキのこの限界は、ひとつの成果に繋がった。それは
<人種主義>が問題化されたことである。監獄の問題が<人種>=<黒人>の問題
へ特化していくことがときに問題であることに受刑者たちが気づき、監獄の<人種
70
ある白人受刑者は、黒人受刑者が時々人種性を出しすぎる「ばかげた要求」を出すことを非
難した。Wright, op. cit., p. 108.
71
72
Pell, p. 206.
Wright, op. cit., pp. 106-107.
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
53
主義> が「連帯を阻む意図的な戦略の一部」として、はっきりと認識されることと
なったのである。特に、本稿の第1節でみたような、白人看守と白人受刑者の共犯
関係による黒人受刑者への残酷な処遇・差別状況のなか、白人受刑者の側から<人
種主義>撤廃が主張されたことは画期的なことであったといえよう。というのは、
白人受刑者からの<人種主義>の告発の衝撃は、白人受刑者に与えられている「特
権」を白人受刑者自身が拒否することによって、同時にあらゆる監獄内の「普遍的」
ルールの否定を伴うという価値転覆力にあるからである。
71 年に<人種主義>撤廃要求運動の中心を担った受刑者たちは、自分たちが<人
、、、、、、、、、
種主義>を問題化せざるをえなかった状況を次のように表現した。彼らは、
「われわ
73
れはこのゲームの政治的担保である」 と言って、受刑者の人種意識を利用し、受
刑者を<人種>に還元して支配する当局のやり方を告発したのであった。それは受
刑者によって「分断と統治」戦術や「偏執狂の受刑者を扇動してほかの受刑者を襲
わせるようなマキャヴェリ的たくらみ」74と表現された<人種主義>という「権力
のゲーム」であった。
白人受刑者は「権力のゲーム」を乗り越えようとした。すべての問題を<人種>
=<黒人>問題へ還元することは、監獄においては受刑者間に連帯感を作り出さな
い当局のやり方であった。すなわち<人種問題>を創り出すことは当局の欲望であ
った。ゆえに<人種主義>撤廃運動を主導した受刑者にとっては、黒人受刑者が「人
種アイデンティティ」
に拘泥すればするほどそれは当局の戦略に近づくのであった。
白人受刑者たちは物事が<人種問題>に収斂していく点に、<人種>に還元され、
管理・利用される自己像を見出し、それを乗り越えようとしていたのである。
だから白人受刑者は、<人種主義>とは黒人に対する人種主義のことだけを意味
しないということを主張していた。<人種>を<黒人>と実体化して捉える当局に
対し、彼らは自らを有徴化し、自分たちも<人種主義> に巻き込まれる<人種>で
あることを主張したのであった。彼らは、監獄の問題を特定の<人種>の問題では
なく、どの受刑者にとっても死命を制する問題として定義し直し、敵を正確に看守
と定めることで、運動の主体となろうとしていたといえよう。
おわりに
1970 年代初頭にフォルサムで展開した監獄運動の検討からは、次のことが証明さ
73
74
“Folsom’s Gonna S-T-R-I-K-E!” Berkeley Barb 12:16 (Apr. 30-May 6, 1971), p. 5.
Ibid, p. 5.
54
高廣 凡子
れたといえる。それは、
「犯罪者」を拘禁する「矯正施設」である監獄が、その統治
形態という点でとくに人種主義と密接に結びついており、フォルサムでの受刑者運
動は明示的にも暗示的にも<人種>を争点として展開したということである。フォ
ルサム・ストライキを<人種>に着目して検討することでわかったのは、<人種>
を過度に強調しすぎる黒人受刑者の運動形態の限界であり、それが白人受刑者によ
る<人種主義>撤廃運動という画期的な出来事へと繋がったことであった。
だが他方でこの運動自体は、監獄の処遇が黒人やその他の非白人受刑者に差別的
に抑圧的であるという事実を問題化するものでは決してなかった。それはむしろ、
「受刑者」には「白人」も「黒人」もない、受刑者はみな同じように抑圧的状況に
ある、ということによって、非白人受刑者に加えられる差別的処遇を覆い隠してし
まうものであったといえるだろう。これは<人種主義>を問題化していながら監獄
と<人種主義>の結びつきを否定することにも繋がりかねないような危うい運動だ
ったのである。
その意味で、この運動がマイノリティ運動の隆盛する最後の一時期に起こったこ
とは象徴的であるようにおもわれる。それは、カラーブラインド論に代表される、
<人種>が中立性を装いながらマイノリティの困難な状況を隠蔽するような時代の
到来を告げるものでもあったのである。
Constructing the “Anti-racism” Movement in the
American Prison System
Folsom Prison, California, early 1970s
Namiko TAKAHIRO
What is “racism”? As Gilroy (1991) says, it is often thought that race “is presented as
an unproblematic common-sense category, therefore, racism is reduced to “prejudice and its
consequent behavioral focus,” especially against racial minorities. An investigation of the
prison movement of the early 1970s, centered in Folsom Prison, California, allows us to
develop a new interpretation of “race” and “racism” as performatively created, because, in
this movement, white prisoners protested against “racism” toward them and other minority
people.
This movement, however, embodied a difficult situation for African Americans. Since
their strategies of emphasizing “black” coincided with the authority’s tactics based on “race”
アメリカ合衆国の監獄における受刑者運動の展開
55
they were forced to raise objections to their conditions in general terms and avoid the
discourse of “race,” This helped them achieve strategic accordance with, and the
confirmation of, white people.
This paper shows that 1970s movement in Folsom is the embodiment of these
difficulties of race relations, which are still current in American society.
56
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