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2004年度 - 新潟大学人文学部

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2004年度 - 新潟大学人文学部
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
新潟大学人文学部
文化コミュニケーション履修コース
2004 年度
卒業論文概要
鈴木
祈
藤子不二雄研究
―成長物語としての『ドラえもん』―
山口
聖美
ルイ・ヴィトンと日本人女性の関係
相庭
暁美
〈酒〉をもとに文学作品を読み解く
の比較と考察―
裕太
新潟県における部落差別
石綿
知沙
ヨーゼフ・ボイス論
圭佑
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 2
―太宰治と江國香織
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 3
池田
大久保
‥‥‥‥‥ 1
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 4
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5
テレビドラマ『金八先生』における熱血教師像
‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 6
狩野
寛美
イザベラ・バードの見た明治日本
熊谷
理恵子
吉田秋生の世界
坂田
香織
在仏マグレブ系移民の自己表象
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 9
坂部
真利子
ピエール・ロチの見た日本女性
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 10
佐藤
千恵
太宰治作品における身体
佐藤
千尋
ミュージカル映画の女性表象
の追求について
―青い眼に映った奥地―
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 8
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 11
―『シカゴ』における欲望
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 12
佐藤
雅子
シュルレアリスムとM.エルンスト
清野
暁
「あひゞき」における二葉亭四迷の翻訳とロシア
田口
莉沙子
宮崎駿映画における少女像
橘
中川
美保
麻理
2004 年度卒業生
‥‥‥ 7
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 13
‥‥‥‥‥‥‥‥ 14
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 15
河瀬直美映画作品における「私」と他者の関係性について
まんが・アニメキャラクターにおける『萌え』
‥‥‥‥ 16
‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 17
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
長岡
春美
牛腸茂雄のまなざし
橋本
佳子
新潟における日本語学習者の質的研究
平岡
喜久恵
死神像の東西
武士俣
かすみ
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 18
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 19
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 20
ケラリーノ・サンドロヴィッチにおける笑い
―恐怖との共存―
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 22
堀川
慶子
高度情報化時代の地域コミュニケーション
増田
百恵
日本における「個性」の変遷
宮澤
麻子
夏目漱石における手紙というメディア
清水
菜々弥
『三国志演義』と元禄日本
倪
鳳翔(Ni Fengxiang)
上海都市論
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 23
真弓
黄
仁祚(Hwang Injo)
―中国「新新人類作家」たちの作品
グリム童話の女性
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 26
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 27
日本における「韓流」現象の分析
を中心に―
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 24
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 25
における「現代都市」上海の変容―
林
―ドラマ『冬のソナタ』
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 28
山崎
智子
『赤い鳥』とその時代
唐澤
千恵
野田秀樹の作品における「原作」の再解釈
鈴木
奏子
太宰治論
中村
さやか
那須正幹作品と子どもたち
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 29
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 30
―太宰治の書簡と作品の関係について―
五十嵐
玲子
宝塚歌劇団の誕生と変容
茂出木
将之
阿部和重論
‥‥‥‥‥‥‥ 31
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 32
―少女唱歌隊から「タカラヅカ」へ―
‥ 33
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34
小川
庫右
記号化する都市
小柳
真美子
“Ebonics”、その起源と現状
舘田
大輔
交通の発達から見た富山県
2004 年度卒業生
‥ 21
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 35
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 36
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 37
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
藤子不二雄研究 ―成長物語としての『ドラえもん』―
鈴木
祈
この論文は、
『ドラえもん』の魅力は身近さにあるという観点から『ドラえもん』がのび
太の成長物語であると結論付けた。
まず、のび太とドラえもんの関係について、二人が親友同士であると同時にドラえもん
はのび太を同じ目線で受け入れた上で叱咤激励し、成長、自立させる存在であると考えた。
ここに二人の主従関係は成立していない。このドラえもんの教育とのび太の努力によって
のび太は自身最大の夢である「しずかとの結婚」を実現させるのである。
(第一話で示され
るのび太の将来はジャイ子と結婚するという悲惨なものであった。
)一方、そののび太の将
来、及び、のび太としずかの恋愛について描かれる作品にドラえもんは一切登場しない。
これはのび太がドラえもんと共に少しずつ努力しながら成長し、自立したことを裏付ける
と考えられる。ドラえもんの出す道具はそのほとんどがのび太の欲求を具現化させるもの
である。何もできないダメ少年のび太は彼の欲求をドラえもんと彼の出す道具によって満
たそうとする。しかし、大人になり成長したのび太は自分の欲求を道具という外的手段に
頼るのではなく、自分の中で解決できるようになったと考えられる。つまり彼は自立し、
そんなのび太にドラえもんはもう必要なくなったためにドラえもんは登場しないのである。
ここからも『ドラえもん』がのび太の成長物語であることが指摘できる。
しかし、
『ドラえもん』を個々の作品ごとに見ていった場合、のび太の夢(日常の希望)
はほとんど叶えられない。この「のび太の夢が叶わない」という要素は『ドラえもん』に
おける「基本パターン」として定着する。しかし、のび太の夢が叶わなくても読者はがっ
かりしない。それはもし『ドラえもん』がのび太の願いを全て叶えるというストーリーで
あったならば、読者にとってのび太は非常に遠い存在となってしまうからである。読者は
のび太のダメさ加減やそれでも成長しようとする姿にどこか一つでも共感し、のび太に自
己投影をする。ここから『ドラえもん』に対する読者の「身近さ」が発生するのである。
最後に藤子・F・不二雄は「努力をすれば夢は叶う、そしてどんな子供にも明るい未来
がある」というメッセージを投げかける。のび太としずかの結婚はその証明である。つま
り作者はのび太の成長を願うと共に読者の成長をも願っているのである。そして作者は『ド
ラえもん』という夢の世界を描きながら、読者に対しドラえもんは実在しないのだから自
立しなければならない、つまり子供から大人へ成長しなければならないと示す。ドラえも
んはそんな作者のメッセージを代弁する存在ともいえる。
『ドラえもん』はその知名度からも他の作品を圧倒し、老若男女を問わず幅広い世代に
受け入れられている。したがってその魅力も十人十色であろう。しかし、
『ドラえもん』に
おける「身近さ」という要素は意識的、もしくは無意識的に読者が感じている魅力である
と思われる。そしてそれが『ドラえもん』が今までも、そしてこれからも読み継がれてい
くであろう要因であると考えられるのである。
2004 年度卒業生
-1-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ルイ・ヴィトンと日本人女性の関係
山口
聖美
この論文では「ルイ・ヴィトン」と日本人女性の関係、つまり、
「ルイ・ヴィトン」の商
品が日本人女性に受け入れられた理由について歴史的背景、デザイン、女性たちが持つそ
れぞれの価値観や基準をもとに考察した。
まずは「ルイ・ヴィトン」の創業から日本に上陸するまでの歴史に着目し、
「ルイ・ヴィ
トン」の伝統がフランスから日本に根付いていく過程を調べた。そこからは創業者ルイ・
ヴィトンのあまり裕福でも幸せでもない幼少期があったからこそ「ルイ・ヴィトン」とい
うブランドが誕生したこと、贋作が皮肉にも「ルイ・ヴィトン」のデザインや品質の向上
に貢献していたことが読み取れる。そして、ルイ、ジョルジュ、ガストンと3世代にわた
るヴィトン家の人々が時代を先取る力をもち、王や貴族たちの流行をいち早く察知して商
品を作り出したことも分かった。この点は、新しいものをいち早くキャッチし、最先端の
スタイルを生み出す現代の若い女性たちの感性に似ており、彼女たちが「ルイ・ヴィトン」
を積極的に受け入れようとする姿にも納得がいく。ここに、
「ルイ・ヴィトン」を日本中に
広めた現 LVJ(ルイ・ヴィトン・ジャパン)グループ社長の秦氏の活躍が加わり、それま
での歴史と複雑に絡み合うことによって今日の「ルイ・ヴィトン」の人気を支える土台が
できたと言える。
次に、多種多様なデザインに注目し、人気を呼ぶ理由を考察した。
「モノグラム」と「ダ
ミエ」という「ルイ・ヴィトン」の商品の中で最も親しまれているデザインが、実は家紋
や市松模様といった日本古来の文化と関係しており、これらがフランスを経由して新しい
形となって再び日本に流行を巻き起こした。目立ちたい一方で目立ちたくないという矛盾
した感情、つまり日本人独特の美意識や価値観にこれら2つのデザインが見事に応えてく
れた結果であると言える。
しかし、現代の日本人女性の中にここまで述べてきたような伝統や歴史といった事実を
知っている人はほとんどいないと言っても過言ではない。ではなぜ彼女たちは「ルイ・ヴ
ィトン」の商品を購入するのだろうか。そこで、彼女たちがもつ価値観や基準をもとにな
ぜ「ルイ・ヴィトン」が選ばれるのかを考察した。10 代や 20 代の若い女性たちが「感情
充足的価値」を基準に「ルイ・ヴィトン」を選ぶのに対し、母親や祖母の年代になると「技
術充足的価値」が基準となる。このように年齢とともに変化していく彼女たちの価値観や
基準に合わせ、全ての年代を、そして、男性をも納得させる商品を提供してくれるブラン
ドであると言える。
以上の考察から、
「ルイ・ヴィトン」と日本人女性の関係が見えてくる。詳細な歴史やデ
ザインができるまでの経緯を知らないながらも彼女たちは「ルイ・ヴィトン」を選ぶ。そ
れは、彼女たちが日本人であるがゆえに、伝統や昔ながらのものを愛する心とともに、そ
れぞれの価値観をもち、これらを満足させるものが「ルイ・ヴィトン」であったと言える。
2004 年度卒業生
-2-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
〈酒〉をもとに文学作品を読み解く ―太宰治と江國香織の比較と考察―
相庭
暁美
作品に登場するさまざまな種類の〈酒〉とそのもつ意味、物語に及ぼす効果や役割を考
察し、作家による相違、共通点、時代背景、できればそれぞれの作家の特徴や本質を明ら
かにしたいと考えた。
取り上げたのは、戦前から敗戦直後に活躍した太宰治の2作品『斜陽』、
『人間失格』
、現
代作家・江國香織の2作品『神様のボート』
、
『きらきらひかる』である。
『斜陽』において、物語の語り手で女主人公である「かず子」と、弟の「直治」が口に
する〈酒〉は安い日本酒と焼酎である。
〈酒〉が頻繁に登場し、重要な役割を果たしている
のは、一つに、物語の背景が日本の戦後すぐであるから、二つに、学徒動員で南方に出征
し、戦場の修羅をくぐり抜けたが、一時は阿片中毒にもなって帰国した直治が、社会の激
変、人々の安易な心変わりに絶望し、こうした現実からの逃避を〈酒〉に求めたからであ
る。一方かず子にとって〈酒〉は、直治や小説家・上原の「死ぬ気で飲んでいるんだ。生
きているのが、悲しくて仕様がない」というのとは異なる。彼女は、没落地主の悲惨な生
活に突き落とされながら、
〈酒〉に飲まれることなく、上原に接近し、彼の子を宿し、生ま
れる子のために、前向きに生きようとする。
軍国主義の色合いが濃くなっていく日本の 1930 年代前半を主な背景とする『人間失格』
において、主人公「大庭葉蔵」が飲む〈酒〉
(安酒の痛飲)は、女性との同棲や別れ、結婚
と妻のあやまちなどによって、アル中、デカダンな生活、催眠薬自殺、麻薬中毒へと、エ
スカレートする。彼は子供の頃から周りの人々との間で陽気な道化の役を演じてきた。し
かし彼は、仮面のしたに、本当の気持ち、悲しみ、侘びしさを隠しもっていた。彼は自分
の苦しみを世間の人々や、親のせいにすることは一切しなかった。彼は恥を知っており、
罪作りな自分を罰しようとした。
「神様みたいないい子」の書き残したノート(三つの手記)
は、人が生きることの真剣さ、切なさを十分に伝えている。
江國の作品、特に『きらきらひかる』における〈酒〉は、およそ 5 種類、10 品目以上に
及び、登場回数も多い。さらにミネラルウォーターなどのノンアルコール 4 種類を加える
と、飲物のデパートと言ってよいほどである。多様で多彩な〈酒〉が意味するのは、1980
年代後半から現代へと続く、豊かな、物に恵まれた、消費を謳歌するような、都会(東京)
のマンション生活であり、一方〈酒〉に依ってバランスをとらなければならない、傷つき
やすく、孤独な個人である。
最後に、時代や作品、作風が違っても、二人の作家から私たちが受け取るメッセージは
同じである。人はみな孤独であり、傷つきやすい。生きることは悲しいことではあるが、
人はそれに耐えていかなければならない。生きることは自分のためだけではなく、自分以
外の誰かのためでもある。人は、誰かに見守られて、生きているからである。
2004 年度卒業生
-3-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
新潟県における部落差別
池田
裕太
〈研究目的・問題設定〉
近年、様々なかたちで人権問題に関して触れられる中で、日本の歴史の中で長い間問題
とされてきた「部落問題」について、その関心が薄れているのではないだろうか。特に、
2002年にはこれまで被差別部落の生活環境や部落民の就労などを援助してきた特別法
が廃止され、国としての対策は終了した。この理由としては、これまでの対策によってあ
る程度の改善は達成できたという国の判断がある。しかし、実際の部落の状況は現在どの
ようになっているのか。部落問題はなくなったのであろうか。また、そもそも部落問題と
はどのような問題であるのか。どのような歴史的背景をもって生まれてきたのか。そして
現在部落問題をどう捉えるべきなのか。
これらの問いについて考えるために、新潟県の部落問題の実態を調査し、部落問題の現
在の状況と今後の動向について考察した。
〈構成〉
まず部落問題の相対的な理解のために、部落問題の歴史や政府により行われた実態調査
をもとに全国の現在の状況を把握した。この中で、部落問題の地域差が指摘されたため、
新潟県における考察においてもその歴史や生活状況など、新潟県部落における実態の調査
を行った。また、行政の対応や市民団体の活動など、現在の新潟県における部落問題に関
する事項についてとりあげ、今後の動向について考える材料とした。
〈結論・反省〉
当初、社会全体の問題としての部落問題と捉え、その実態の把握として新潟県部落をと
りあげる予定であったが、考察を行う中で部落問題の地域性の存在に気づき、新潟県にお
ける部落問題の調査へと方針を転換することとなった。そのため結論では新潟県部落に関
する現在の状況について言及することとなった。結論としては、新潟県内の部落では部落
としての規模が小さいことや、少数散在という特性上、部落問題としての意識が低く、こ
れによって行政による対策などで支障が出ている。また、生活環境や差別問題の発生など、
現在も部落問題はなくなってはいないということが確認された。新潟県においては今後も
部落問題について考えていく必要があるということが、今回の研究によりわかったことで
ある。
今回の研究の反省点としては多くあるが、その1つとして現地調査をほとんど行わなか
ったことがあげられる。新潟県部落の現在の実態を具体的に知るためにも、現地調査を行
う必要があった。
2004 年度卒業生
-4-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ヨーゼフ・ボイス論
石綿
知沙
ヨーゼフ・ボイス(1921−1986年)は戦後ドイツ美術界のカリスマとして国際
的名声を博している芸術家である。ボイス作品が呈示している「傷」の痕跡に強く引き付
けられた。作品を目にしたときに感じざるを得ない、不穏な痛みの感覚はどこから生じて
いるのか。痛みの後に広がる微かな安らぎは何なのか。
ボイスは多岐に渡る表現手段を用いてメディアを横断し、芸術という領域を政治や教育、
経済、エコロジーなど様々な方向に社会全体へ向かって開き、現代美術作品に社会的発言
力と影響力を持たせた。だがその評価は今もなお賞賛と無理解の間を揺れ動いている。ボ
イス作品の解釈の視座は様々である。ボイスの荒唐無稽さに対する批判、作品中に潜むキ
リスト教的またはケルト神話的な要素を指摘するもの、ボイス=シャーマンと位置付けシ
ャーマニズムとの関連性から解釈するものがボイス作品への代表的な見解だ。
しかしそれらの解釈だけではボイスが意図した戦略の一つに乗じているに過ぎず、社会
が抱えていた戦争のトラウマや分断的な状況、時代のジレンマや狂気というような傷の様
相を捉えるにあたっては欠落している部分がある。集団的な傷に対してのアプローチとと
もに、作品を支えているのは「私たちが生きるこの世界をどのように形成し現実化するか。
それは進化する過程としての彫刻だ。すべての人が芸術家だ」とする「社会彫刻論」であ
る。この思想は経済こそが資本であるとする貨幣信奉や資本主義経済といった社会システ
ムの亀裂の克服と、等閑にされた人間の創造性や内面性の復権に期待を寄せている。
傷に関する様々な意味の多層性が作品から読み取れる。ボイス作品の基盤と考えられる
ドローイングは、社会において力や優位性を持たない弱者を主なモチーフとし、消え入り
そうな揺れ動く儚い線で夢の残像をもどかしげに描くように描かれている。生々しく醜い
脂肪や野暮ったいフェルトを用いた彫刻は固定化されることに抗いながらも原初的な仄か
な熱を内包している。癪に障るほど挑発的なアクションの中でも、排除されたものの孤独
を体現した「コヨーテ」は犠牲になったものへのレクイエムのようだ。すべてのものへ用
意された安息の場のようなインスタレーション「パラッツォ・レガ−レ」には、社会と芸
術の交流・交感の場をたえず探り続けたボイスの最後の「夢」が表現されている。
すべての作品の中には他者、動物や植物など人間以外の他のあらゆる存在、名もなきも
の、あるいは存在さえも不可視のものなど、傷を負ったすべてのものへの愛が一貫して込
められているのだ。荒涼としながらも同時に優しさをたたえている、矛盾を孕んだボイス
作品の無数の傷跡はわたしたちを挑発し続けると同時に、傷口の下に流れる血脈の温もり
を改めて意識させてくれる。それは解決できない不条理ではなく、生あってこそ存在する
有機的な暖かい矛盾だ。その「傷」と同時に、すべての存在への愛と再生への希望が作品
を静かに包み込み、すべてのものが生の総体であると肯定している。
2004 年度卒業生
-5-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
テレビドラマ『金八先生』における熱血教師像
大久保
圭佑
『3 年 B 組金八先生』(TBS 系、1979 年第 1 シリーズから 2005 年現在放送中の第 7 シリ
ーズまで)において、武田鉄矢扮する国語教師、坂本金八が生徒達それぞれの問題に対面
し、解決していく教師の姿は、しばしば「熱血」と称され、人々の中に定着している。し
かし坂本金八という人物が、実際に物語中において、どのような意義を持つのかについて
は特に言及されず、金八の教師像とは、その独自のキャラクター性や人生を諭すような言
動だけに注目した、イメージとして語られている部分が強いといえる。本論文は、このよ
うな漠然とした捉え方ではなく、物語構造や登場人物同士の係わり合いを踏まえた、具体
的な教師の実像として、坂本金八を捉えるという問題意識が、前提となっている。
第一章では、プロップの物語論を足がかりに、
『3年 B 組金八先生』の第1シリーズ(1979
∼ 1980 年、以下『金八先生1』)の一話毎の基本的な物語構造を明らかにした。ここでは、
問題を起こす生徒たちは、まず学校を欠席する、またはどこかへ失踪するという行為が先
立ち、金八はその生徒を探索する行為の過程の中で、生徒たちの家庭環境、心情、ひいて
は問題の大元の要因を理解する。そして最後に、実際に学校へと連れ戻す行為において、
問題の解決がなされる。この分析によって、
『金八先生1』では生徒たちの抱える問題の大
元には受験戦争があること、そして金八という教師は受験に囚われた社会の枠組みから逸
脱しようとする生徒を、元へ戻すという役割を担っていることが分かる。
また第二章では、
『金八先生』第6シリーズ(2001 ∼ 2002 年、以下『金八先生6』
)を
『金八先生1』と比較した。一話毎に問題を解決していく『金八先生1』とは異なり、
『金
八先生6』は複数の生徒たちが、自らの家庭環境や心的問題を隠した状態で物語が展開し、
徐々に一人一人の抱える個別の問題が明らかになっていく。問題を抱える生徒は、クラス
の不仲を引き起こすが、金八は個々の隠された事実を認識し、他の生徒に力になるように
働きかける、また他の人物の助力を介することで、それらの生徒をクラスの団結へと導い
ている。この意味で、
『金八先生6』における金八という教師は、複雑化した問題を抱え孤
立した生徒を、人物同士を結びつけることによって、クラスと一体化させるという性質を
持っているといえる。
このように坂本金八という教師を、物語構造という観点から見るとき、生徒たちとの関
わり方、問題の解決の仕方も異なっており、
「熱血教師」というキャラクターとしての一義
的なイメージだけで語ることは出来ない、問題の解決へと導く行為者としての教師の姿が
明らかになったといえる。
2004 年度卒業生
-6-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
イザベラ・バードの見た明治日本 ―青い眼に映った奥地―
狩野
寛美
英国生まれのイザベラ・バードは 42 歳から始めた旅行に半生をかけた。マレー諸島やチ
ベット、韓国などを旅した。1878(明治 11)年には日本を訪れ、『日本奥地紀行』という
旅行記を書いた。その題名のとおり、バードは日本の「奥地」と呼べるような人に知られ
ていない土地を旅し、見たものを詳細にわたり描写した。しかし、それだけではなく、旅
行記中には当時の政府に対するバードの考えが含まれているように思われた。そこで本論
文では『日本奥地紀行』から政府に対する考えがどのようなものであるかを読み取り、明
らかにしようと試みた。
『日本奥地紀行』では農民に関する記述が多く、バードはその理由を、
「文明化」を目指
す日本政府が作ろうとしている「新文明」の主要な材料である農村の真相を描くためであ
り、
「文明化」を目指す政府の役に立たせるためとしている。そこで、本論文ではバードの
描く農村に着目した。
第一章では奥地の農民の衛生状況に着目し、バードが「文明化」した場所と述べる東京
や横浜の衛生状況と比較することによって、農村がいかに「文明化」した都会と差があり
不衛生であるかをみた。そして農民は不衛生な状況であるがゆえに、健康を害していた。
バードは農民の不衛生な状況について執拗ともいえるほどに書いており、彼女にとってこ
の状況は政府に伝えるべき農村の真相の一つであった。
第二章では奥地の交通に着目した。バードは、悪路のために他の地域から閉ざされた場
所は貧しく「文明化」しておらず、よい道のために交通の盛んな場所は豊かで繁栄してい
るという様子を描いていた。交通のために豊かさに違いのあるという農村の状況もまた、
彼女が政府に伝えようとした真相の一つであった。
第三章では、当時の政策とバードの考えの相違点をみた。政府は「文明化」するために、
バードと同様に国民の衛生状況をよくしていくこと、道路や輸送手段を整備していくこと
が大切であるとの考えを持っていた。しかし、実際は軍事力強化による強国づくりという
政策をたて、また、都会に重点を置く政策方針をとっていた。そのようにして政府は近代
国家を作ろうとしていた。
バードの描いた農村の真相は衛生状況や貧困、
「文明化」の点において都会と大きく差が
あり、すさまじいものであった。
「新文明」を作るために、政府はそのような農村の真相を
見つめなければならなく、都会の交通の整備や軍事力を蓄えることよりも、農村の整備を
最優先しなければならないとバードは考えた。つまり、
『日本奥地紀行』は富国強兵の国家
を作ろうとしている政府に、そのために最優先事項とすべき農村整備の重要さを示してい
るものであった。
『日本奥地紀行』は旅行記であるとともに、政府に対し、とるべき策を示
したものでもあった、という結論が導かれた。
2004 年度卒業生
-7-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
吉田秋生の世界
熊谷
理恵子
いまやマンガは性別や年齢から分けられた読者層によって様々なジャンルを持っている。
それらは少年・少女・青年・成年・レディースマンガなどで、それぞれ独特のカラーが見
られる。しかし、そうしたジャンルの壁を取り払い、多くの層の読者を掴んだ作家として
吉田秋生という女流マンガ家が挙げられるだろう。
吉田秋生は主に少女マンガ誌で活動してきた。他の少女マンガと同様に思春期の少女た
ちを描いているが、しかし、そこには一線を画している。少女マンガで描かれる少女たち
はあくまで少女のままでいようとしたのに対し、吉田の描く少女たちは大人へと向かって
成長していくことを自ら選択しているように見える。
少女マンガの世界とは、ある種閉じられた世界であると言える。内容的観点から見ると
「主人公の女の子とカッコイイ男の子との恋愛」による自己肯定に偏っており、また技術
的にはそうした少女の夢の世界を描くための、例えば登場人物の大きく輝いた瞳や背景に
咲いた花などの派手で繊細な図柄や、少女マンガというジャンルが発展する過程で獲得さ
れた特有の、内面描写のための複雑なコマ割りといった表現技法によっている。そのため、
少女マンガは他のジャンルの読者にとってはとっつきにくいものなのである。
しかし、夢の世界を描くための華美さという少女マンガにおいてなくてはならないもの
が、吉田マンガには見られない。登場人物の目ひとつをとっても少女マンガのそれとは異
なっている。大きさは普通の人間大で、丸く黒くなっており、少女マンガに比して吉田マ
ンガの登場人物たちは地味な印象である。また、主に定型コマを使用し、図面構成は極め
てシンプルであると言える。こうした従来の少女マンガに反した特徴が、かえって他の少
年マンガや青年マンガのジャンルの読者を引き込むことに有利に働き、新たな読者を獲得
させる要因のひとつとなったのではないだろうか。
吉田秋生は『BANANA
FISH』という作品において、少年を主人公としたアクションも
のも描いている。だが、この作品で最も注目すべきなのは、少年マンガ的英雄である主人
公の少年「アッシュ」に、かつて『吉祥天女』で女性性そのものとして描かれた「小夜子」
という人物造詣を与え、少女マンガと少年マンガの融合型としてのマンガを『BANANA
FISH』で成し遂げたことである。
少女マンガという閉鎖的世界にあって他ジャンルへの読者への掛け渡しとなり、新たに
道を拓いた作家として吉田秋生を挙げることができるのは間違いない。難解な技術を使わ
ないことにより、他ジャンルの読者へも読み易さを与え、華美さを抑えたシンプルな背景
や絵柄によって夢の世界的な少女マンガの雰囲気から脱却し、人物たちの自立性というも
のにより、子供マンガ以上の年齢層の読者にとって読むに堪えうる物語が創造されている
のではないだろうか。
2004 年度卒業生
-8-
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
在仏マグレブ系移民の自己表象
坂田
香織
マグレブ諸国出身の在仏移民に焦点を置き、彼らの置かれた状況を調べたところ、現在
移民への露骨な差別は影を潜めているが、いまだに国際犯罪、国内の治安悪化といった社
会問題が発生するたびに敵意のまなざしが向けられていることが分かった。同時にこれま
での先行研究は、移民問題に直面するフランス社会からの視点が中心であり、移民に対す
る政策・差別の実態を記述しているものが主でることが明らかになった。そこで、ウェブ
サイト上で閲覧可能となっている在仏移民のポスター 1579 枚を利用し、移民受け入れ側の
フランス社会からの視点ではなく、マグレブ系移民側の視点を記述することにした。
まずポスターを移民の出身国ごとに分類し、サイト内のポスター検索用にあらかじめ用
意されている 164 種のキーワードを手がかりに、各出身国のポスターごとに該当するキー
ワードの種類・数を機械的に計算する定量的分析をおこなった。その結果、マグレブ諸国
出身者に関するポスターの総数は、他国出身者に関するポスター数よりもはるかに多く、
とりわけ「芸術」と「政治」分野のキーワードで抽出されるポスターが多いことが分かっ
た。さらにマグレブ系移民の「芸術」「
・ 政治」ポスターの中から典型的な例を取り上げ、
各ポスターの訴求内容や属性(言語、クライアント)、ポスターが発行された社会的背景に
ついて 1 枚ずつ検証し、ポスターの特性とそこから浮かび上がる彼らの営みを記述した。
「芸術」分野のポスターは、マグレブ系移民の祖国文化と結びついた芸術活動の宣伝ポ
スターが多く挙げられた。彼らの祖国文化の認知活動は、確固たる一義的・集団的な民族
アイデンティティを形成し、異文化としての固有性をフランス社会で受容されることだけ
に躍起になっているわけではなく、
「故郷」という拠り所を根底に持ちえながら、フランス
社会との相互性・関係性において彼らのアイデンティティを構築していく営みであると推
測された。また、
「政治」的訴求をおこなっているポスターは、市民権の要求や移民差別撤
廃、移民の祖国民主化を求めるポスターが主であるが、政府や人種差別主義者に対して訴
求するものの他に、移民に積極的な政治参加を呼びかけるポスターや、デモ・討論会など
の移民の自発的な活動を誘発しているポスターも見受けられた。ポスター分析から見えて
きた移民の活動から、マグレブ系移民一つをとっても出身国・故郷の文化・宗教的実践・
世代間などによって抱えている問題や考え方に変化が生じており、差し迫る個々の問題に
疑問を呈する者たちが、逐次是正していく動きが見て取れた。マグレブ系移民が社会に投
げかけている問題は多様かつ流動的であり、その多様性と流動性こそが移民たちの置かれ
た状況が具体的に透けて見えてくるのだと考えられる。
ポスター分析から、フランス社会からの視点だけでは見えてこなかったマグレブ系移民
たちの心境や足取りを垣間見ることができたと思われる。マグレブ系移民たちにとってポ
スターは自らが主体となって語ることができる表現の場であり、彼らの軌跡を形あるもの
として記録・証言するメディアでもあると言えるだろう。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ピエール・ロチの見た日本女性
坂部
真利子
ピエール・ロチは海軍士官として全世界に足跡を残し、その経験をもとに小説、紀行文、
随筆を執筆し、十九世紀後半のフランスを代表する異国趣味作家であった。
『お菊さん』は、
長崎滞在当時の体験の小説化であり、そこで出会った「お菊さん」クリザンテエムとの同
棲生活を綴ったものであるが、他のロチの作品と少し違って、悲恋の恋愛小説として成り
立っていない。そのことをロチ自身も理解し、期待に添えなかったことを読者に対して侘
びている箇所が多い。ロチの文章に表れた描写を通して、
『お菊さん』においての日本、
日本女性がどう描かれているかを考察する。
彼はヨーロッパで流行っていた日本の美術工芸品に描かれた日本女性を想像し、日本女
性に、西洋文明が取り込まれてきている時代の日本で西洋化されていない古い日本的なも
のを探した。そこに異国情緒や官能的な魅力を感じ、西洋世界から遠く離れた日本で「恋
愛」を求めた。同棲生活を送るために買った芸者のお菊さんは、ロチの目から見て、憂鬱
そうで何を考えているか分からない、理解しがたい存在であった。自分と日本との距離が
遠いのを表わすかのように、登場人物の名前はフランス語でつけられ、始終響いているお
菊さんの弾く三味線という言葉も guitare と意図的に訳されていた。
また、周りの環境から耳に入ってくる音に敏感で、聴覚描写が多く見られた。視覚的要
素以上にここでは聴覚的要素が重要な役割を果たしていて、その解釈が周辺の人間や環境
に対する接近‐後退、受容‐拒絶を示す指標として、ロチの日本に対する関わりの姿勢そ
のものを示すと考えられる。彼女の三味線の音色に、日本人の魂のようなものを感じ、日
本に対する見方を変え、それに伴い彼女の呼び方を Chrysantheme から本来の音を持つキク
サンと変え、guitare と呼んでいた三味線もシャメセンと呼称を変えている。ロチは「日本
的なもの」を掴もうとするが、その理解不能の「日本的なもの」と西洋人である自分との
間に深い距離「神祕的な恐ろしい深淵」を感じとり、そこで再び彼と日本の距離は離れて
いってしまうのだ。理解できないことが分かった後、彼女の三味線はその音を響かせるこ
となく、物語の最後に響く音はもらった金が贋金かを調べるお菊さんの鼻唄と銀貨を叩く
音で、ロチが意図的に加えたと思われるフィクションであった。
冒頭の献辞にはじまり最後物語を締めくくるまで、あらゆるところで自分の作品に登場
するものを卑下し、過小評価しているが、それはそのイメージを読者に押し付け、恋愛物
語に展開することなく、日本に対して理解不可能という結論を出してしまった自分を受け
入れてほしいという弁解であったのだ。彼はムスメ mousume という日本語だけを終始その
まま使っている。彼にとってムスメたちは小さく珍妙なものではあったが、
「ニッポンの言
葉の中でも一番きれいな言葉」とロチが言うように、言葉でも支配出来ない存在、お菊さ
んが東洋のエキゾチシズムをも覆す存在であったのだ。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
太宰治作品における身体
佐藤
千恵
太宰治の作品はこれまで作家論の枠組みの中で解釈されることが多かったが、こうした
評価は意図的な作品の構成や作家としての技巧といったものにあまりに目を向けていない
もののように思われる。本論文では、太宰が女性をある身体的な側面から規定しようとい
う意図を持って創作活動を行っていたと考えられることに注目し、作品を分析の中心にす
えて、身体性といった観点から太宰における女性とはいかなるものかを明らかにしていく。
我々の社会には一般的に、主体として女性を「見る」男性と、客体として「見られる」
女性という図式が存在している。しかし、自意識の文学とも評される太宰の作品において
は男女ともに「見られる」という意識を持っており、そうした図式が必ずしも安定してい
ない。むしろ太宰の作品においては、視覚というモデルに代わって、触覚的な側面から男
女の決定的な差異が描き出されていると考えられるのである。
第一章では皮膚感覚の過敏によって動物化する女性を描いた「女人訓戒」という短編を
とりあげた。この作品では、皮膚と衣服がリスペクタビリティを超え出る契機となるのに
対して、細胞が異質性を召喚し種と種の境界を超越させる契機となっているという違いは
あれ、ともに身体を通じて見境なく「肉体交流」を行う女性の姿が描かれていた。
第二章で取り上げた「皮膚と心」では、皮膚病をきっかけとして「見られる」皮膚から
「触られる」皮膚への転換が起こることによって、これまでは阻まれていた様々な社会的
空間へのアクセス可能性が現れ、まなざしを意識し合ってぎくしゃくしていた夫との関係
も変化するなど、コミュニケーションの拡大が起こっている。この作品における皮膚の崩
壊とは、語り手の女性の抑圧された自己という枠を破棄し「女」というセクシュアリティ
ーの解放をもたらすと同時に、一対一の夫婦という社会的な関係の枠を越え出ようとする
奔放さを持った女性存在のあり方を露呈するものであったのだ。
第三章における『斜陽』の分析では、主としてかず子と弟直治の「恋」と「革命」
、すな
わち貴族階級から逸脱しようとする両者の対照的なあり方を検証した。直治による貴族的
身体の廃棄が反貴族的な「ハビトゥス」の獲得という観念的・記号的な水準に留まるのに
対し、かず子は肉体的な「恋と革命」の実行と出産という行為を通じて、文化的記号とし
て「見られる」身体というカテゴリーを抜け出し、そうした境界の先にある、文化的記号
の範疇に収まらない身体性を獲得していると考えられる。換言するならば『斜陽』とは、
そうしたかず子の能動的なプロセスを描いた作品なのである。
これらの作品は視覚の関係のみによって語りきれるものではなく、太宰治作品における
女性のあり方がむしろ触覚的な語彙によって特徴づけられるべきものであることを示して
いる。以上のことから、太宰が作品中で描こうとしたのは様々な境界を身体的な側面から
越えていこうとする女性のあり方であると結論づけることができる。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ミュージカル映画の女性表象 ―『シカゴ』における欲望の追求について
佐藤
千尋
2002 年度アカデミー作品賞ほか 6 部門を受賞し、高く評価されているミュージカル映画
『シカゴ』は、通常のハリウッド・ミュージカル映画の形式に当てはまらない作品である。
ロマンスを中心とする物語ではなく、ミュージカル場面の表現方法も異なり、このジャン
ルが追求する「理想的世界」とはかけ離れた犯罪と悪人に満ちた世界があるように見える。
本論では、
『シカゴ』の異色さに疑問を持ち、ミュージカル映画における女性の表象、特に
女性の欲望とその追求に注目して、
『シカゴ』の魅力を解明することを目的とした。
第二章では、通常ミュージカル映画が求める理想的世界を作る物語内容と、ミュージカ
ル場面という表象形式を考える。ミュージカル映画は恋愛の成立とショーの成功(女性主
人公のサクセス・ストーリー)の物語であり、映画内の日常に歌やダンスが取り込まれて
作品は理想的世界を作る。
『シカゴ』のヒロインも従来のヒロインも同じくスターになりた
いという欲望を持っており、ミュージカル映画を女性の欲望の追求の物語と捉えることが
できる。欲望の追求の仕方の違いが、
『シカゴ』を理想的な結末に導いたと考えられる。
第三章では、ミュージカル映画における女性の表象と欲望の追求は、恋愛物語とどう関
係しているのか考える。50 年代までの恋愛の成立する物語では、女性は男性の詩的・視覚
的・性愛的欲望の対象として描かれており、女性の欲望は男性の欲望を前提として生まれ、
追求された。60 年代以降の恋愛が成立しない作品では、男性の欲望をこえて女性自身がキ
ャリアへの欲望を追求すると、結婚や恋愛の破綻が起こる。
『シカゴ』では、女性は夫や恋
人を殺すことで自ら恋愛を放棄する。死刑を免れるために名声を得てスターになりたいと
いう主人公の欲望は、男性の欲望とは無関係に生まれ追求されている。
第四章では、物語におけるミュージカル場面の効用を考える。
『シカゴ』の原点であるミ
ュージカルではない映画『Roxie
Hart』(42 年)や舞台版『シカゴ』と映画を比較し、
『シ
カゴ』のミュージカル場面は多くの登場人物の欲望を映し出し、女性主人公の「空想」と
しての映画独自のミュージカル場面が主人公の強い欲望を示すとわかった。
第五章では、
『シカゴ』における欲望の追求を考える。登場人物は他者の欲望に抑圧され
ずにそれを利用し、特に主人公は「仮面」を被ることに困難を伴わずに自身の欲望を追求
する。これが可能であるのは、
『シカゴ』には通常の社会を形成する〈ホモソーシャルな欲
望〉が機能していないからである。恋愛がなく、女性だけの刑務所という社会から排除さ
れた場所で起こる『シカゴ』の世界は、仮想の空間といえる。女性主人公は「空想」と「仮
面」によって欲望を追求し、理想の姿を現実に取り込み、
『シカゴ』を理想的世界に導いた。
結論として、
『シカゴ』の魅力とは女性の欲望の追求の姿勢にあるといえる。主人公は強
い女性ではないが、自身をうまく切り替えながら周囲の抑圧も困難とせずに欲望に向かう
姿が、本作の面白さとなり、私自身を魅了するものとなったのだろう。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
シュルレアリスムとM.エルンスト
佐藤
雅子
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に起こったシュルレアリスム運動は、この時代の
他の芸術、科学、政治などの運動と連動して起こった運動である。シュルレアリストたち
の多くはダダ運動にかかわっていたことから見てもシュルレアリスムはダダの後継といえ
るが、シュルレアリスムはダダ運動を受け継ぎながらも、既存の常識や意味の破壊だけで
はなく、より高次の現実意識(超現実)を目指した。
超現実とは、
「夢と現実という、一見まったく相容れない二つの状態」が溶け合った地点
と、シュルレアリスムの中心人物であったアンドレ・ブルトンは述べている。ブルトンは
超現実世界を目指すために、自分の意識や理性の検閲がない状態での表現として、具体的
に自動記述(ecriture automatique)を発明する。自動記述とは、〈
「 言葉になった思考〉と出
ひとりごと
来るだけ一致した、できるだけ早口の 独言 」といった、できる限りの速さで思考を書き連
ねてゆくものである。ブルトンは自動記述によって得られた作品は、本人の理性と無関係
であるため、制作した本人と全く無関係のものであると断言したが、この考えはエルンス
トのコラージュ作品に対する考えとも一致している。自動記述はまず文章によって実行さ
れ、その後画家たちによって美術にも応用された。またシュルレアリストたちは隔たった
二つのものを接近させ、そのときに偶然起こる組み合わせにより既存の意味が破壊され、
新たなイメージが現れるデペイズマン(depaysement)という概念を重視した。ブルトンは
1924 年『超現実主義宣言』を出し、シュルレアリスムという語の定義や運動についての思
想を発表した。
エルンストはドイツのケルンでダダ運動を展開したあと、1922 年パリへ渡り、シュルレ
アリスムの美術において重大な影響を及ぼした。エルンストが 1919 年にケルンで制作し始
めたコラージュは、ピカソやブラックなどが 1912 年頃から既に始めていた、絵画上に新聞
紙や羽毛、針金などを張り合わせる試みと同一視され、双方をまとめて「コラージュ」と
呼ぶことが一般的には多い。だがピカソたちが行ったこの行為は単に新たな造形効果や物
体間を生み出すことに主眼が置かれ、厳密には「パピエ・コレ(papier
colle)
(貼り紙)
」
と呼ばれている。エルンストがカタログを切り貼りして制作した「コラージュ」は「ふさ
わしからざる一平面の上での、たがいにかけはなれた二つの実在の偶然の出会い」に等し
いとエルンストは述べている。これはシュルレアリスムのデペイズマンという概念であり、
パピエ・コレとは根本的な発想が違うとシュルレアリスムでは考えられている。エルンス
トはその後、フロッタージュやデカルコマニーなどといった新しい絵画の技法を発見する
が、いずれもデペイズマンや自動記述を重視した技法となっている。エルンストはシュル
レアリスム思想を美術の技法で表現しようとした。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
「あひゞき」における二葉亭四迷の翻訳とロシア
清野
暁
二葉亭四迷(本名長谷川辰之助)は、1864 年(元治元年)江戸の尾張藩上屋敷で生まれ
た。1875 年(明治 8 年)に日露間で起こった樺太千島交換事件をきっかけに、将来ロシア
は日本の深憂大患となるだろうと考え、81 年東京外国語学校露語科に入学し、ロシア語を
習得した。生涯、
「愛国の志士」でありたいと思い続けた二葉亭はしかし、金銭を得るため、
文章を書いて生計を立てなければならなかった。
二葉亭の代表作「あひゞき」は、ツルゲーネフの処女作短編集『猟人日記』(1852 年)
の中の一遍を翻訳したもので、1888 年(明治 21 年)に雑誌「国民之友」で発表された。
「あ
ひゞき」における二葉亭の翻訳には、大きく分けて2つの特徴がある。一つ目はできる限
り原文に忠実に訳をしようとした点。もう一つは、原文に忠実ではない訳を行っている点
だ。この矛盾した2つの特徴は、作者の詩想を移すことを最も重視した二葉亭自身の翻訳
論による。
彼は原文のコンマやピリオド、単語の数、並べた語の順番は作者の詩想を表していると
考え、作者の詩想を移すためにはそれらを無視してはならないとも考えた。そのため、日
本語の文法から言えば倒置的な文章で訳すなど、原文にできる限り忠実であろうとした。
また二葉亭はツルゲーネフの詩想を「晩春の相」であると語っている。
「秋」の白樺林が
舞台である「あひゞき」で、ツルゲーネフの文章の持つ「晩春の相」を表現するためには、
ただ原文に忠実に訳するだけでは足りないと感じたのだろう。二葉亭はツルゲーネフの原
文から自分が感じ取った印象を日本語に移すため、あえて原文に忠実ではない訳を行った
のである。
二葉亭が訳した「あひゞき」の中には実際に、
「春」を感じさせる表現を見つけることが
できる。春の季語である「おぼろ」という言葉や、どこかまるみのある、柔らかい表現が
使われているのだ。これらは特に、ツルゲーネフが最も得意とした自然描写に多く見られ
る。二葉亭が傾倒したロシアの批評家ベリンスキーは、ツルゲーネフの自然描写は、彼が
見て感じ取ったものを彼が考えたように表現している、と語っている。二葉亭は翻訳をす
る際、その作者と心身を同じくして翻訳を行うのが最も良いとしている。ツルゲーネフが
行った自然描写と同様の方法で、二葉亭は原文から感じたものを自身の言葉で表現しよう
としたのだろう。その結果、
「あひゞき」の中に「春」の表現が使われたのだ。
二葉亭は「志士」でありたいと願うと共に、文学を尊敬していた。自身を文士と位置づ
けることを嫌った二葉亭の根底には、この二つの思いがある。金銭を得るためとはいえ、
文学を非常に尊敬していたからこそ、二葉亭は非常な苦労をしながら「あひゞき」の翻訳
を行った。
「あひゞき」とは、この二つの思いによって引き起こされるジレンマに、まださ
ほど悩まされることがなかった若い二葉亭だからこそできた「文学作品」なのである。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
宮崎駿映画における少女像
田口
莉沙子
宮崎駿は日本を代表するアニメーション監督である。その宮崎が作る映画には、少女が
主人公として登場することが多い。この論文では、宮崎映画に登場するヒロインの少女た
ちがどのように描かれているのかを考察した。
最初に、少女の性格や行動といった側面から、少女の人物像について考察した。宮崎の
描く少女たちの共通点として、まず「無垢」であるということが挙げられる。そして、少
女たちの「無垢」からは時にセクシャリティが感じられることがある。それは少女が「性
的魅力に無頓着」であるという点においてみてとることができる。また、ヒロインたちは
少女でありながら母親のような「母性」を持つ者としても描かれている。しかし、少女は
そのような「性」を感じさせる〈客体〉としてのみ存在するわけではない。少女たちは自
らの意志で決断と同時に行動するような、主体的な人物としても描かれているのである。
また、宮崎映画の少女たちは一貫して特異なアイデンティティを持っている。特異なア
イデンティティとは、少女たちの巫女や魔女としての性質である。宮崎映画の少女たちは
神々や精霊とつながる力や魔法といった特殊な能力を持つ者として描かれていることが多
い。例えば『となりのトトロ』の主人公であるサツキとメイは、トトロという異界の生き
物と交流する。宮崎によると、トトロは千年以上にわたって日本の森に棲んできた精霊で
あり、物語中ではサツキとメイだけがトトロに出会うことができた。このように、宮崎の
描く少女たちからは神々や精霊、動物と通じ合う姿をみてとることができ、このことから
宮崎が少女たちに巫女のような性質を与えているとも考えられるのだ。また『魔女の宅急
便』と『天空の城ラピュタ』では、それぞれ魔法を扱う少女が登場するが、この二つの作
品からは宮崎が魔法といった未知の力を女性特有のものとして捉えている様子が伺える。
そして作品中では、その魔法の力が少女たちによって担われているのである。
少女たちの持つ特殊能力は不完全であることが多く、
『魔女の宅急便』のキキのように魔
法が一時的に喪失してしまうという例もある。そしてその失われた力は、少女が自分にと
って大切な〈他者〉を危機から救出する場面で回復される。少女は〈他者〉を救出するこ
と、救出のために喪失した特殊能力を用いることを迷わず「決意」する。少女はその迷い
のない「決意」を介在して、今まで自分の意志でコントロールし得なかった力を自らの意
志で発揮させる。このように、少女は決断と行為が一続きになった時、究極的に解放され
ているように思われる。それは、特殊な力の解放と同時に、少女自身が迷いから解き放た
れている瞬間なのではないかと考えられる。宮崎映画の少女の魅力は、その迷いのない「決
意」の瞬間にもっとも強く現れるのではないかと考えた。そして、少女の迷いのない「決
意」によって解放されるファンタジックな世界が、視覚的、また感覚的に観客に迫り、興
奮と感動を呼ぶのではないだろうか。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
河瀬直美映画作品における「私」と他者の関係性について
橘
美保
本論文は、河瀬直美のドキュメンタリー映画作品における撮影者である河瀬直美(「私」)
と被写体である他者の関係性という問題に焦点をあてて、河瀬直美のドキュメンタリー映
画の独自性や世界観を論じたものである。
第一章では、ドキュメンタリー映画の理論や方法論が各時代のドキュメンタリー映画の
かたちを規定していることから、時代を代表するドキュメンタリー映画の理論や方法論を
取り上げた。日本のドキュメンタリー映画は、1960 年代を境に、それ以前がポール・ロー
サの論を元にした構成主義であり、それ以降が撮る者と撮られる者の関係を基点にした関
係主義であるといえる。そして現代においては、60 年代以降の関係主義を受け継ぐ一方、
セルフ・ドキュメントや個人映画のような現代特有の関係主義をみることができた。河瀬
のドキュメンタリー映画もこうした流れと無関係ではない。以上のことから、河瀬のドキ
ュメンタリー映画も関係主義の点からみていく、本論文の方向付けを明らかにした。
第二章では、河瀬のドキュメンタリー映画作品に対する先行研究を検討した。ドキュメ
ンタリー映画作家の福田克彦によると、河瀬のドキュメンタリー映画は、作品に立ち現れ
る人と人との関係性から、その独自性や世界観を見出すことができるものである。また、
映画評論家の四方田犬彦によると、撮影方法や表象形式の特徴から、河瀬の独自性や世界
観を導き出すことができる。以上から、河瀬のドキュメンタリー映画は、撮影者の「私」
と被写体の他者の関係性がどのような撮影方法や表象形式によりあらわれているかが問題
となることを確認した。
第三章では、実際に河瀬のドキュメンタリー映画のなかでも代表的な三作品の分析を試
みた。『につつまれて』(1992 年)では、「私」と不在の父親の関係と、作品中に現れる他
のメディアの働きとの関連に注目し、『かたつもり』(1994 年)では、「私」と養母の関係
と、長回し撮影や同期撮影、クロースアップの働きとの関連性に注目した。また、
『杣人物
語』
(1997 年)では、
「私」と村人たちの関係が、8 ミリカメラによる撮影方法と関連して
いることをみることができた。
河瀬直美のドキュメンタリー映画は、第一段階として、
「撮影者である河瀬」対「被写体
である他者」という関係性を作り出し、第二段階として、撮影行為のプロセスを軸に、撮
る河瀬と撮られる他者の意識を超えた「私」と他者のもうひとつの関係、もうひとつの世
界を作り上げている。それを可能にしているのが、8 ミリカメラの働きをはじめ、作品中
に現れる他のメディア、長回し撮影や同期撮影、クロースアップなどの働きである。以上
の撮影方法や表象形式により、なまの関係性や世界を記録するのではなく、撮影という行
為によりはじめて可能になるもうひとつの関係性や世界を創造している点に、河瀬のドキ
ュメンタリー映画の独自性や世界観があることを明らかにすることができた。
2004 年度卒業生
- 16 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
まんが・アニメキャラクターにおける『萌え』
中川
麻理
まんが・アニメは戦後において大きく発展を遂げ子供たちの娯楽としてあり続けてきた。
しかし近年その対象を成人においた作品の増加が目立ってくるようになった。これに伴い
物語以上にそのキャラクターを重視するような「キャラ立ち」
、そして独自の発展を遂げて
きた「美少女」
、さらに「萌え」といわれる事象を生むに至った。しかし「萌え」とはそも
そもどういったものか。これを探るべくまず一章において、
「萌え」の発生した舞台である
と考えられる「オタク」について考察し、
「オタク」
、
「オタク文化」がさまざまな形に姿を
変え多様化し広がっていることがわかった。
さまざまな層のオタクの広がりを見せた背景の一つに美少女フィギュアがあると考えら
れる。美少女フィギュアは『新世紀エヴァンゲリオン』以降顕著な発展を遂げてきた。二
章ではこの美少女フィギュアについて考察し、その背景に潜む性的要素を挙げた。さらに
美少女フィギュアは「キャラ立ち」に伴う「キャラクター消費」といった「物語」を必要
としない消費行動を見ることが出来た。
「キャラ萌え」とは前述のような物語を必要としない消費行動であるとして三章では「萌
え」要素の具体例、たとえば「猫耳」、「めがね」、「妹」などを挙げ考察した。目に見える
アイテムに対する「萌え」と目に見えない、いわば関係などに対する「萌え」が多くの場
合組み合わされて生じていた。そして「萌え」を「好き、かわいいに近い感情であるがそ
の設定や外観から想起されるイメージに対して愛情を昂らせること。この愛情には性的欲
求が少なからず含まれている。
」と定義した。
四章では「萌え」が孕む性的要素について言及した。90 年代以降の「萌え」系のアニメ、
イラストを挙げその特徴を述べた。そしてそもそも「萌え」とは「芽が出る、きざす、芽
ぐむ」
(広辞苑)とあるため、子供(女の子)と成熟した女性との中間地点にあるキャラク
ターに「萌え」を見出しているのではないかと考えた。
「萌え」キャラクターの特徴として
その多くはその表情が童顔であること、幼児体型をしているが隠れた性的要素を孕んでい
ること、成熟した女性の体型をしているが顔の描写は「萌え」系イラスト特有の幼い表情
をしていることが挙げられる。すなわち「萌え」キャラクターとは外見の成熟と中身(女
性としての自覚)の成熟のどちらかが欠落しているものだと言うことができる。
以上のように「萌え」をその隠れた性的要素という視点で見てきた。これは主に男性か
らの視点であるといってよい。しかし「萌え」という言葉が広まっていく中で女性もこの
言葉を使い、その意味も「好き、かわいい」とほぼ同義で使われることが多いのも事実で
ある。近年では「萌え」のかわりに「属性」という言葉も使われるようになってきた。
「萌
え」はさまざまな方向から言葉、姿を変えわれわれの間に広がっていると言える。
2004 年度卒業生
- 17 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
牛腸茂雄のまなざし
長岡
春美
牛腸茂雄は 1946 年新潟県加茂市に生まれ 36 歳で夭折した写真家である。牛腸は障害を
負った体で約 15 年間写真家として活躍し、三冊の写真集を残した。本論文では写真家とし
ての牛腸が写真で何を成し遂げたかったのかについて論じた。
写真家としてデビューしたころ、牛腸は「コンポラ」写真家の筆頭として挙げられた。
同時代の写真家から批判を受けたが、その作風の特徴として、何気ない日常を捉えている
点、個々の作家にとって必然性のある写真であるという点が指摘されている。
関口正夫との共著『日々』は街行く人々の何気ない様子を撮った 24 枚の白黒写真で構成
されている。牛腸は、被写体から見られずに撮る、という手法を用いている。そのため被
写体の殆どは牛腸を見ていない。二冊目の写真集『SELF AND OTHERS』は牛腸の写真集
の中でも完成度の高い作品と言われている。この写真集は牛腸が「自己と他者」の関係を
見つめ記録するための写真集である。牛腸の友人や家族、偶然出会った人々を、記念写真
のように淡々と撮っていった白黒写真である。この写真集の特徴は、最後の数ページに牛
腸本人が写っていることである。写真集の最初からカメラを通して OTHERS(被写体)をま
なざしてきた SELF(牛腸)が、写真集をめくる人にとっての OTHER になってしまうので
ある。被写体の表情は『日々』のように自然なものではなく、あくまで牛腸にだけ向けら
れた表情であることがわかる。三冊目の写真集『見慣れた街の中で』は『日々』同様、街
中でのスナップ写真である。違う点はカラー写真であること、被写体との距離が『日々』
では一定に保たれていたのに対し、
『見慣れた街の中で』では距離が伸縮しているように感
じられる点である。牛腸は前作で問うた「自己と他者」の関係を、自己と他者が生きる世
界においてそれを問い直すために、自らの身体を都市の中へ投げ入れたといえる。
牛腸は写真を始めたころから好んで子どもを被写体にしてきた。
『見慣れた街の中で』刊
と
き
行後、牛腸は「幼年の〈時間〉
」というタイトルの、子どもを被写体にした写真集の出版を
計画していた。ここでは、かつてあくまで「見る主体」として子どもをまなざしていた牛
腸が、被写体からまなざしを向けられる客体となって写真を撮っていることが、被写体の
生き生きとした表情から読み取れる。
牛腸は三冊の写真集を出版したが、その作風は全く異なっている。しかし、その根底に
は「自己とは何か」という一貫した問いかけがあった。障害のせいで「20 歳まで生きられ
るかどうか」と言われ、常に死を身近に感じていた体であるにもかかわらず、重労働であ
る写真家という職業を選んだことの必然性は、この問いのうちにみることができる。
「自己
とは何か」という牛腸の問いを、われわれは写真集を通じて牛腸とともに追いかける。そ
のことがわれわれ自身が「自己とは何か」を考える契機になる。牛腸にとって写真集を遺
すことは、自分がかつて生きていたということの証であった。
2004 年度卒業生
- 18 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
新潟における日本語学習者の質的研究
橋本
佳子
本論文では新潟に居住する「日本語学習者」について大量のデータに基づいたサーベイ
調査による量的研究ではなく、実際に日本語学習者と接触し、生の声を聞いて集めた事例
・データに基づく質的研究を目指した。三名の「留学生」という形態の日本語学習者を対
話・聞き取りによって調査し、
「留学生」という日本語学習者の学習動機、新潟という学習
環境、対人関係、そして異文化状況下における自己の混乱と再構築についての考察を行っ
た。
「留学生」という日本語学習者の学習動機は、副次的で曖昧な動機が主であった。しか
しながら日本語を学ぶ理由の曖昧さこそ、日本語選択時において日本語学習者が日本語や
日本に対するプラスイメージを持っていたことの裏づけであると考える。日本語学習者の
学習動機の曖昧さは、第二言語を選択する際に学習者側の持つイメージを示唆してくれる
重要なものである。
また「留学動機」から、新潟という学習環境は積極的に選択されるものではないことが
わかった。その要因として、新潟に日本語教育が行われる場が少なく、新たな「留学生」
の到来が妨げられていることが考えられる。大学やそれに準ずる教育機関への入学準備の
ための日本語教育の場を設けることが、今後新潟の学習環境を整える課題として残されて
いる。
「留学生」という日本語学習者にとって最もストレスフルな問題は、異文化性を伴う「対
人関係」である。
「留学生」と日本人学生の対人関係については、接触機会や接触動機、そ
して自己開示に関する問題があるが、必ずしも異文化性をともなう「留学生」の対人関係
が不良なものではない事実が明らかとなった。
「留学生」と同出身国の「留学生」の対人関
係については、最もネットワーク形成が容易であること、また同出身国内でも出身地域の
違いによって異文化性を孕んでいることが明らかになった。そして出身国が異なる(母語
が異なる)
「留学生」同士の対人関係では、第ニ言語を使用するために生じる誤解や言語イ
メージ差という重要な問題が浮上した。
最後に「留学生」の自己形成と再構築について、「カルシャー・ショック」「逆カルチャ
ー・ショック」という視点から考察を行った。カルチャー・ショックと逆カルチャー・シ
ョックは「留学生」という日本語学習者にとって、自己の再構築を行う重要な「きっかけ」
を与えてくれるものであり、また自己の存在に「気付き」を与えてくれるものである。
新潟における「留学生」という日本語学習者は、積極的に選択したわけではない学習環
境にもかかわらず、新潟で多くの異文化性を伴う問題を抱えながら、文化的調節や自己の
混乱に対処しつつ生活している。同じ新潟に住む我々は、日本語学習者の抱える問題に留
意し、学習環境・生活環境をより快適なものへと整え導き、日本語学習者をとり巻くソー
シャル・サポート・ネットワークに積極的に関わる必要があると考える。
2004 年度卒業生
- 19 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
死神像の東西
平岡
喜久恵
私たち日本人が「神様」と呼んでいる八百万の神々の中で、死神はおそらく最も歓迎さ
れない神のうちの一人だと思われる。ではその死神とは一体どのようなものかと問われる
と、死に関係のある神という程度の認識で、意外と詳しいことは知らないという人が多い
のではないだろうか。今回の論文ではこの死神を対象とし、本来形の無い、不思議な現象
や状況を表す言葉が、性質や形を得ていく変遷をたどりながら、死神について考察した。
第一章では、絵画や民話の中の死神の姿を分析し、総合的に見ていく事で西洋における
死神像を探りだしていった。西洋では中世及びルネサンスからバロック、ロココ期にかけ
てのありとあらゆる抽象的概念を擬人化して表す風潮や、14世紀ペストの流行による死
への関心の高まりが、死神に姿を与えた。加えて、死者の舞踏など中世に多く描かれた絵
画のなかに見られる「死」の描写も、現代までつながる死神の姿のベースとなり、民話の
世界の死神は、具体的な形は無いものの、当時の死神の性質を現代に伝えていると考えら
れる。これらは死を表象化、または擬人化していく中でその形と死神という概念が結びつ
いたもので、西洋の人々のイメージの中に次第に定着していった。
第二章では日本における死神像について上記の方法を用いながら、かつ歴史を追って調
査した。日本では死神は、死全般を司るというよりは、原因の分からない死を説明する語
句として用いられ、江戸時代以降は悪霊や妖怪に近いものとしてのイメージが強かった。
妖怪図という江戸時代の物の怪の体系化の流れの中で形を与えられ、人々に言葉としてで
はなく存在として知られるようになった。その後、3 代目尾上菊五郎が歌舞伎の場で初め
て死神を演じ、その姿がその後の歌舞伎や落語に受け継がれていったが、明治時代以降、
日本の死神像の形が定まる前に、演劇や絵画などから西洋的な死神像が流入し、日本の死
神像は定まった決まりを持たないまま、個人のイメージによって様々に描かれていく。
第三章では現代日本の表象文化の中から漫画をとりあげた。現在の日本において、形と
名前が一致した人々の共通認識としての死神像はない。しかしながら、仏教や西洋文化を
取り込みながら、確実に具現化の道を進んでいる。
日本において、死神の概念は神、悪霊、妖怪といういくつかの領域にまたがり、性質に
ついても諸説様々で定義しがたい。なぜなら、死神は、死をベースにしたものであり、
「死
とは無である、だから無であるものは、表現されようがないし、思い描きようがない」
(フ
ィリップ・アリエス)からである。この、死神という存在が持つあいまいさが、人々の想
像力、創造力を刺激し、我々を死の具現化としての死神の描写に向かわせるのではないだ
ろうか。あいまいであるからこそ、それを明らかにしたい、形にしたいという意思が働く
のではないか。死神を描くということは、死という超自然的なものを我々の世界の中に体
系付けようとする作業なのかもしれない。
2004 年度卒業生
- 20 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ケラリーノ・サンドロヴィッチにおける笑い ―恐怖との共存―
武士俣
かすみ
本論は劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチのシリアス・コメディ作品に注
目し、彼がいかにして笑いと恐怖を同一作品中に描き出しているのか分析したものである。
第一章では、演劇空間における「笑い」を、思想家などの発言をもとに「自己の思考と
現実とのズレを解消するための作用」と定義し、笑いを生み出す仕掛けであるギャグを、
〈常
識ギャグ〉、〈反常識ギャグ〉
、〈非常識ギャグ〉に分類した。〈常識ギャグ〉と〈反常識ギャ
グ〉はどちらも、その笑いの土台に現実の常識が存在することで成り立つが、
〈非常識ギャ
グ〉は、
「日常的意味」を無化することで笑いを生じさせている。
第二章では、笑いと共に恐怖が生まれうるかと言うことについて論じた。まず、劇場空
間が「無秩序性への接近」という特性を持つことを明らかにした。次に、前章で挙げた三
つのギャグが恐怖を生む可能性について考察した。ギャグは〈非常識〉性を高めることに
よって、観客に自らのよって立つ現実世界を不安定なものと感じさせる効果を生む。その
ような世界は、日常の秩序から外れた一種のエントロピーであると捉えられる。ケラの作
品は、幕切れに秩序の回復が行なわれないことから、彼が、その悪夢的世界の顕在化を作
品の中心に据えていることが窺える。
次に、ケラの作品の分析を通して、彼が笑いと恐怖を共存させる手法を論じた。第三章
では、物語の展開方法に、第四章ではシリアス・コメディ作品において頻繁に見られるモ
チーフに注目している。前者に挙げたのは、コントの挿入、パロディ、同じようなシーン
や台詞の反復、後者に挙げたのは、死のモノ化、道化的人物の挿入とその人物と殺人の結
びつき、超常現象の挿入である。これらのことから、ケラが笑いと恐怖を共存させるため
に行なっている手法は次の三点に要約できる。それは、笑いとしてイメージされるものを
恐怖へ、恐怖としてイメージされるものを笑いへとずらすこと、演劇世界の不安定化によ
る恐怖の喚起、笑いによる演劇世界の〈非常識〉化である。
第五章では、ケラが作り出す演劇世界とそれが多くの人々の支持を得る理由を分析した。
ケラは「俯瞰的な距離感」をもって、重層的なキャラクター、すなわち「「関係」としての
人間」を描く。そのキャラクターの一貫性のなさが、場面に笑いを与える一方で、
〈非常識〉
な演劇世界を作り上げていると考えられる。彼は、観客の日常と大きく異なる舞台を設定
することによって、現実の社会問題に依拠することなく、生の非意味性と偶然性を持った、
リアルな「人間の有様」を観客に提示しているのではないだろうか。
ケラは、観客に「劇世界を俯瞰できる」という特権を強く意識させつつ、劇世界や登場
人物を重層的に描く。それは、日常の中で「作られたもの」が日常の文脈で理解し得ない
ものに変化していることを観客に気づかせ、観客は舞台に向けられていたはずの笑いを自
らにも向けざるを得なくなる。この笑いの自虐性が恐怖を喚起するのだと言えるだろう。
2004 年度卒業生
- 21 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
高度情報化時代の地域コミュニケーション
堀川
慶子
今日メディアには過剰なまでの「田舎」イメージが氾濫している。だが、高度情報化の
波は地方にも押し寄せており、このように生産・消費されているイメージのみで地方地域
を語ることは難しくなっていると考えられる。では、地方地域は今日の情報化の潮流の中
でどのような場となっているのだろうか。従来都市のメディアによってイメージを付与さ
れることの多かった地方地域は高度情報化時代においてそのメディアを用い、どのような
地域コミュニティを形成しつつあるのか。一方的な都市からの情報伝達からは明らかにさ
れない地域の実態を、地域メディアに着目したフィールドワークによって明らかにする。
そこで高度情報化時代の地域を考察する上で重要な視点であるニューメディア、とりわ
け地域メディアとして期待された CATV に着目して考察を試みると、先行文献からは 1980
年代において大きな可能性を持って地域にもたらされながらも地域と密着できず、地域に
おける効用の限界が明らかとなった CATV の姿が見出せる。だがこれら先行研究には方法
論上の問題点も見られる。
本論では、実際に CATV を用いて町作りを行う秋田県大内町の CATV である ONT に着
目し、CATV と地域の関係を検証することにした。フィールドワークによって得られたデ
ータから先行研究との比較を行った結果、従来の研究では示されてこなかった地域と CATV
の関わりの形が見えてきた。さらに ONT のコンテンツ分析を行うことで地域と CATV の
関係性についての考察を進めると、CATV が地域と密接な関わりを持って地域住民に受容
されている実態が明らかとなった。
このような地域との関係性を支えているのが CATV の機能であり、ONT は地域のコミ
ュニケーション空間としても機能しており、本来の目的であった地域情報の提供のみに留
まらず、多様な地域ニーズの受け皿としの役割を果たし、多方面から地域を支えているこ
とが分かる。ONT からはその多機能性を活かし地域に密着することで重要な地域メディア
として受容され、今後においても地域の抱える問題に対応し、地域と相互に影響し合い、
地域を多方面から支えうる可能性を持った CATV の姿が見出せるのである。
これまでは一方的に都市からの情報を受け取るだけであった地方地域だが、地域メディ
アを用いることで「地域の情報」という選択肢を獲得し、地域情報を充実させ、さらには
新しいコミュニケーションを生み出している地域も存在していた。このような地域の情報
化に伴う地域コミュニティやコミュニケーションの変化が、今後の地域を都市との分かり
やすい対比のみで語ることを難しくすると考えられるだろう。CATV を用いた地域の実態
からは高度情報化の流れの中、地域メディアを用いることで地域コミュニティの醸成を図
り、従来の「田舎」イメージのみでは語れない重層性、複雑性を獲得しつつある地方地域
の側面が明らかになるのである。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
日本における「個性」の変遷
増田
百恵
日本社会において新聞や雑誌、教育界などで見られる「個性」概念を研究対象とした。
「個
性」という言葉は、それが語られる文脈や背景によって実にさまざまな意味を付与されて
いる。そのような「個性」言説は、受け手にどのような解釈をせまっているのだろうか。
日本社会において「個性」がどのようにとらえられ、考えられてきたかを探るために、
第1章では明治・大正期の文学者の作品を取り上げ、それらに見られる「個性」観を考察
した。第1節では夏目漱石の「私の個人主義」を、第2節では有島武郎の『惜みなく愛は
奪ふ』をとりあげて、それぞれの作品中に描き出された「個性」の内容を検証した。そし
て第3節で明治・大正期の文学者の考える「個性」と現代で語られる「個性」の比較を行
った。
第2章と第3章では、「個性」の内包する意味内容が変化していった過程を見るために、
日本の教育界に主軸を置いて考察した。第2章の第1節では教育基本法制定の背景とその
内容について見ていき、第2節では教育と個性について論じた教育基本法制定以前の文献
を頼りに、当時の「個性」観を探った。第3章では国土社から出版されている雑誌『教育』
を手がかりにして、教育における「個性」の語られ方を年代別に見ていった。
第4章では、日本社会に見られる現象と「個性」がどのようにかかわっているかを考察
した。第1節では日本の消費社会にあらわれる「個性」について、その意味内容を考察し
た。第2節では 1970 から 80 年代に日本社会で多く見られた現象で、研究も盛んに行われ
ていた「アイデンティティ」概念や「自分探し」といったものと「個性」を比較・検討し
た。
終章では、これまで考察してきた「個性」の特徴をまとめ、現代社会に生きる私たちと
のかかわりあいの中で「個性」概念がどのような位置づけにあるべきかを概観した。
第1章では、「個性」の担い手は“個人”であるということと、「個性」と位置づけるに
は“個人”の内面からわき出る「内発性」が伴う必要があるという、個人に立脚した「個
性」観をつかむことができた。第2章と第3章では、教育界において「個性」がさまざま
に定義され、解釈されていった様子と、政策者側や財界などがある程度の意図をもって「個
性」を使用してきた歴史を見ることができた。第4章では、
「アイデンティティ」概念や「自
分探し」といったものと「個性」を比較することで、
「個性」という言葉が自分自身の内面
について、時には強迫的とも思われるほどに個々人に問いかける作用をもつものへと変化
していないだろうかと考えた。終章では、
「個性」について述べられている最近の新聞記事
が、
「個性」という言葉が個々人に対して作用し続けてきた負の側面について言及している
部分を取り上げて、現代の「個性」観について考察した。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
夏目漱石における手紙というメディア
宮澤
麻子
この論文は、夏目漱石作品において「手紙」というメディアが果たす役割について考え
たものである。
第一章においては、
夏目漱石と 18 世紀のヨーロッパの書簡体小説の歴史について概観し、
その伝統をふまえて、漱石が書いた小品「手紙」の新しさを検討した。18 世紀のヨーロッ
パの書簡体小説には二つの特徴があった。ひとつは、他人の手紙のやりとりを、つまり書
き手のプライヴァシーを覗き見するような快楽を提供してくれる一面。もうひとつは、手
紙のやりとりを公開することで読者の「教育」を企画し、社交界の世論を作り出そうとい
う社会的な一面である。漱石自身は、18 世紀のヨーロッパの書簡体小説については「長た
らしい」と断じ、否定的である。
では、漱石は作品中で手紙をどのように描いたのか。小品「手紙」
(明治 45 年、
「東京朝
日新聞」掲載)では、手紙の書き手、受け取り手、そして盗み見る者との関係がひとつの
手紙を通じてあらわになってくる。主人公の「自分」は親戚の青年宛の、遊女の書いた手
紙を偶然見つけてしまう。この手紙から「遊びはしない」といっていた青年がうそをつい
ていたことを知るのである。この小説において、書き手のプライヴァシーをあらわにする
のではなく、
「受け取り手」のプライヴァシーをあらわにすることができるという手紙の新
しい機能が発見されている。
第二章においては、
『三四郎』
(明治 41 年、朝日新聞掲載)の分析を通じて、漱石作品に
おける「移動する手紙」の機能を考えた。主人公三四郎は、自分をとりまく世界を「三つ
の世界」に分けて考えている。第一の世界は故郷、第二の世界は大学、そして第三の世界
は魅力的な女性の世界である。第一の世界との手紙のやりとりは頻繁で、スムーズなのに
対し、第二、第三の世界との手紙のやりとりにおいてその世界のルールを知らず失敗して
いる。漱石作品の中で、
「移動する手紙」とは、人と人がどのように関係しているのかを描
くツールとして利用されているといえるだろう。
第三章においては、
『彼岸過迄』(明治 45 年、朝日新聞掲載)の分析を通じて、
「テクス
ト」としての手紙について考えた。
「テクスト」としての手紙とは、ある手紙の文面が公開
されているものを言う。
『彼岸過迄』の主人公の敬太郎は、友人の須永の親戚に職の世話に
なってから、須永の家の周辺事情を様々な人に聞いて回ることになる。敬太郎の役割は探
偵じみたものであり、話を語ってくれる人たちもまた「誰かから聞いた」話を敬太郎に話
して聞かせる。この「代行」の物語を断ち切るために、
「テクスト」としての手紙が登場す
る。須永が叔父にむけて書いた自らの心情を述べる手紙の文面が公開され、敬太郎の耳を
離れて読者に須永の真実の声がとどくことで、
「代行」の物語は終わることができるのであ
る。
2004 年度卒業生
- 24 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
『三国志演義』と元禄日本
清水
菜々弥
中国の白話小説『三国志演義』が,日本では江戸時代初期に翻訳され,元禄 2 年に『通
俗三国志』として刊行された。
『通俗三国志』には,中国の小説を機械的に模倣したのでは
なく,原文を十分咀嚼し,日本的にアレンジされた部分があると思われる。もとの明・羅
貫中の作『三国志演義』と,湖南文山訳の『通俗三国志』を比較して表現の在り方や語句
の解釈の異なるところを調べて,日本文化の特質を反映した書き方などを見つけていく。
『三国志演義』で物語の根本を流れている「桃園結義」という盟約がある。その内容は,
劉備・関羽・張飛の三人が,国家を救うことを目的にする公的正義「義理」と,生まれた
日は違うが同じ日に死のうと誓う私的正義「義気」の,ふたつの意味を持つものである。
吉永慎二郎氏は,日本ではこの「桃園結義」の本質にある意味や,そこにある「義」の重
要性を認識できていないと指摘した。吉永氏の指摘は,
『通俗三国志』と『三国志演義』を
比較してみても言えることであるのか検証する。
『三国志演義』で描かれている「桃園結義」は,劉備ら三人の「義気」の上に成り立っ
ているものとしての性質が強く,劉備と関羽・張飛の関係は,単純に主君と臣下という主
従関係ではない。梁蘊嫻氏の言うように『三国志演義』では「義」とされているものが『通
俗三国志』では「忠義」と訳し直される傾向がある。「忠義」の意味や,「忠義」という言
葉を使うことによって劉備ら三人の主従関係の認識が『三国志演義』とは異なってくるた
め,
『通俗三国志』では,劉備らの関係は,君臣の間柄としてだけ捉えられていることがう
かがえた。このことから吉永氏の指摘は『通俗三国志』と『三国志演義』を比較してみて
も言えることであるとわかった。
『通俗三国志』を読んでみると,日本では『三国志演義』の物語を,単純に逐語訳では
なく,日本の文化や言葉の慣習になじませて解釈し,構成しなおし,手を加えながら受容
したということがわかる。それは『三国志演義』のなかの中国の文化の視点からみて使用
されている「義」という言葉を,
『通俗三国志』では「忠義」に訳し変えることで,日本の
慣習・特質に即して三国志の物語を理解しているという姿勢からうかがえる。また,
『通俗
三国志』には,刊行された時代の日本の社会や文化に拠っている部分があることもわかっ
た。ひとつは『通俗三国志』には,
『三国志演義』で重要な意味をもつ「義」という言葉と
並べて,元禄の時代に重要とされていた「忠孝」という言葉を使用していることである。
もうひとつは,日本人が「義理」と「人情」の葛藤に美意識を働かせるという傾向が『通
俗三国志』にも見られることである。このように日本で日本好みにアレンジを加えたもの
であるからこそ,
『通俗三国志』は元禄の時代に大変な好評を得て,その後の通俗小説にも
影響を及ぼす作品になったのであろう。
2004 年度卒業生
- 25 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
上海都市論 ―中国「新新人類作家」たちの作品における「現代都市」上海の変容―
倪
鳳翔(Ni Fengxiang)
近年中国の文壇で活躍している上海在住の若い作家たちは自ら住んでいる「都市上海」
を小説に描き、この都市に生きる欲望、苦悩、焦燥を告白している。本論では、これらの
作家たちの作品を用いて、
「現代都市」上海を分析する事を試みた。つまり、上海という都
市に生きている人々はどのようにこの都市を経験したり、観察したりしているのか、とい
う問題に注目にした。第一章ではアヘン戦争から改革開放後の本日までに到る上海の略史
を紹介している。第二章では、小説『告別薇安』に描かれている都市上海像を浮びさせよ
うとしている。全篇に漂っている「孤独感」はこの小説の最大な特徴とも言える。この孤
独感を生じる根源は上海の独特な「植民地文化」であろう。そして、この小説のもうひと
つの特徴は主人公のコミュニケーションの手段の「インターネット」である。インターネ
ット上のチャットは主人公が他人とコミュニケーションをとり、内心的の孤独感を解消す
る手段でありながら、
「インターネット」という空想の世界によって孤独感が増大する。こ
うして、このような「孤独感」に包まれる都市に生きる小説の主人公たちの生活空間はい
かなるものであるかを解明した。第三章では、中国では発禁とされた話題小説『上海ベイ
ビー』を扱った。その注目すべき問題点は、今までの中国社会と異なる主人公の「性」に
対する大胆な態度であろう。主人公は「上海人」の恋人との心通じ合う心の愛、
「西洋人」
ドイツ人の愛人との肉体的な愛、との間で迷う。しかし、その迷いの背後には主人公の二
つの文化の違いに対する困惑がある。そして、「性」だけではなく、「愛」「金銭」「消費」
などの問題に直面する時に、
「植民地文化」という文化背景のもとで、人々、また「上海」
という都市自身が「伝統文化」と「外来文化」の間で迷い、
「服従」か「反抗」か、との取
捨選択に悩んでいる。こうして、上海は「現代都市」としてどのような事を反映している
のかを解読した。第四章では、
「新新人類作家」の出現してきた背景を明示した。今、中国
は〈消費〉中心の社会へと転換しつつある。そこで、
「現代都市」を舞台にした彼らの作品
は、娯楽、消費の記号としてのモノや、新しいメディアなどの現代都市的記号によって存
分に書きこまれている。モノとメディアは人間の欲望を満たすためにつくられた。しかし、
そのものとメディアの不断の生成は人間の新たな欲望を刺激する。
「新新人類作家」たちは
小説の中で様々な物質や娯楽場を描き出し、都市的風俗を描くことに多くの力を注いでい
る。それとともに金銭、名誉への欲望を飽く事なく語り続けている。彼らは膨らみつつあ
る自分達の物質・金銭・愛情への欲望を語る同時に、現代都市上海に生きる人々の特有の
焦燥感も描き出している。このように、モノ・消費・欲望が無限に拡大される現代都市の
姿がそこに映されている。こうして、彼らが描き出したモノ、欲望の世界「都市上海」の
作品は変化する最新の「上海」を読み解く鍵の一つではないかと考えられる。
2004 年度卒業生
- 26 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
グリム童話の女性
林
真弓
グリム童話集に登場する女性は、
どのような人物として描かれ物語を進めているかを「
、小
さい版」に収められている 50 話を中心に見ていく。
今日グリム童話やおとぎ話はフェミニズム的視点からの解釈も盛んに行われているが、
グリム童話集に登場する女性たちはそれほど弱く劣った人物として描かれているだろうか。
確かに物語の細部に目を通すと、男女ともに見られるモチーフが男女によって展開が異な
っていることが分かる。禁止を破るという行為はグリム童話集の中で男女ともに見られる
が、男性の好奇心は罰せられないのに対し、女性の好奇心は罰せられる。さらに、人を救
うための沈黙という課題も男女ともに科されているが、女性の場合、沈黙しなければなら
ない期間が長く、さらには罰として沈黙を科せられることもある。これらのことから、女
性の好奇心やおしゃべりが女性の低劣な性向として見なされているということが、グリム
童話集からも読み取ることができるだろう。眠りというモチーフも、受身の象徴とも、ま
た心理学的には成熟するための過程とも解釈されているが、物語の中では女性により結び
ついていることは確かである。
また、女性と糸紡ぎが結びついた物語が多く見られる。物語の中では、糸紡ぎの才能や
家事能力が美徳として讃えられており、それらを怠ける女性たちには容赦なく罰が与えら
れている。怠惰な男性も登場するが、女性の怠けはもっぱら糸紡ぎや家事といった現実的
なことに結びついている。糸紡ぎや家事能力は当時の女性に求められた、または当たり前
の仕事であった。グリム童話集には当時の社会観や道徳観が組み込まれていると考えるこ
とができるだろう。
このように個々に注目すると、グリム童話集には明らかに性による差異が認められ、女
性は罰を受けたりつらい目にあう場合が多い。女性は家事というように男女の役割分担も
物語では見られる。しかし、女性は受動的で男性より劣った人物として、つらい目にあう
人物として描かれていると単純に言うことはできないと思われる。まず、フェミニズム的
視点からの解釈では物語の中で女性の発話が奪われていると言っているが、グリム童話集
全体を通して女性の発話が極めて少ないという印象はなく、女性の発言が解決へと導く物
語もある。さらに物語で男性が女性を救うイメージは強いが、グリム童話集には兄弟や夫
を救う女性の物語も案外多いからである。彼女たちは虐げられたり沈黙を強いられたりし
ながらも、それらを乗り越え幸福な結末へと導いていく。彼女たちはそのつらい状況を乗
り越える強さを持っていると考えることができる。女性の象徴である糸紡ぎは、人を救っ
たり導いたりするための手段になることもある。グリム童話集に登場する女性たちは、つ
らい目にあうだけの弱い人物ではなく、むしろ強さを持った人物として、幸福な結末へと
導く人物として描かれていると捉えることができるだろう。
2004 年度卒業生
- 27 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
日本における「韓流」現象の分析 ―ドラマ『冬のソナタ』を中心に―
黄
仁祚(Hwang Injo)
日本では去年から韓国ドラマ『冬のソナタ』をはじめ、韓国の大衆文化(映画、k − pop、
ドラマなど)が人気を博しており、ドラマの主役を演じた俳優や主題曲も話題になってい
る。このような韓国大衆文化の流行を日本のマスメディアは「韓流」と呼んでいるが、
「韓
流」という言葉はすでに 4 年前から中国、モンゴル、台湾、香港など東アジア地域でも使
われていた言葉である。この事実から本論文では、日本で流行している韓国大衆文化を、
日本より早く「韓流」が流行していた東南アジア、東アジアの各国の「韓流」現象と比較
という方法から分析、評価するのを目標にした。そのために、東南アジア、東アジアの諸
国の「韓流」現象の状況や効果を調べ、そこから得たことを日本の「韓流」現象と比較し
た。特に、日本の「韓流」現象はドラマ『冬のソナタ』から始まったので、日本の場合は
『冬のソナタ』を中心に分析した。
その結果、「韓流」現象の波及効果の面(韓国文化への関心が高まり、韓国のイメージが
肯定的に変化、経済効果発生など)では東南アジア、東アジアと日本がほぼ同じだったが、
「韓流」現象の原因の面では異なった。東南アジア、東アジア地域の場合は、中国の政治、
経済、文化的な状況の変化と香港の中国への返還そして台湾の放送環境など複雑だったが、
日本の場合は 2002 年日韓ワールドカップ共同開催と NHK の『冬のソナタ』放映が「韓流」
のベースとなっていた。ドラマ『冬のソナタ』の人気も日本での「韓流」の要素であるが、
それより大事なのは NHK や日本の文化産業界が「韓流」ブームを積極的に利用したとこ
ろにあると思われる。なぜかというと、2004 年日韓の『冬のソナタ』効果による経済的な
利益が韓国より日本のほうが多かったからである。つまり、日本での「韓流」は NHK と
日本の文化産業界が『冬のソナタ』のブームを利用したマーケティング戦略が経済的な反
響をもたらしたうえに、マスメディアの話題化によって生まれたということである。無論、
韓国大衆文化自体の魅力もあったが、それより日本の文化産業資本が『冬のソナタ』を利
用して、
「韓流」を作りだしたというのが日本における「韓流」現象の正体であるだろう。
2004 年、日本での「韓流」ブームは「日韓友情年 2005」とつながり、これからの日韓の
文化交流はもっと活発になると予測される。しかしながら、
「韓流」現象にも不安の要素が
ある。何よりも、日本で「韓流」ブームを起こしているのは、日本の文化産業資本であり、
韓国の何人かの俳優であるからである。特に、日本の場合は『冬のソナタ』を中心にした
韓国のドラマと特定の俳優に人気が集中しているため 、日本での「韓流」は韓国文化の総
体的な流行とは言いにくい。しかし、大事なことは「韓流」によって日本と韓国が第 2 次
世界大戦以降もっとも友好的な関係になったということであるだろう。
2004 年度卒業生
- 28 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
『赤い鳥』とその時代
山崎
智子
論文のねらい
主に大正期に刊行された児童向け雑誌『赤い鳥』について取り上げた。
『赤い鳥』の童話
に好んで取り上げられた題材は家庭の様子、友情、過去の郷愁などである。登場人物は今
から見ると、生き生きと描かれておらず、よくいえば模範的にすぎており、一見現実的な
世界が描かれているのだが仮構された印象を受ける作品が多いように感じられる。このよ
うな『赤い鳥』の作風を一応の西欧化が定着した大正という時代との関連のうちに考察し
ていくことを示した。
第一章
『赤い鳥』について
『赤い鳥』の創刊以前の児童雑誌についてみていった。
『赤い鳥』創刊者の鈴木三重吉は
当時出版されていた立身出世、戦争美談、任侠がテーマとなり、主人公が活躍する様子が
講談調で綴られた物語を、子どもの刺激をあおる下品で軽蔑に値するものと考えていたよ
うだ。そのため三重吉は従来とは異なる上品でなめらかな口語体を使用し、登場人物の感
情を重点に描いた作品を掲載した『赤い鳥』を大正 7 年に創刊した。
第二章
作品分析
『赤い鳥』の童話について分析した。とくに家庭のようす、親子関係について描かれた
作品に着目した。一見当時の現実世界を描いているようにも考えられるがなぜか仮構され
た印象を受ける。作品で描かれる家庭は西洋風の生活様式の裕福な家庭であり、登場する
大人たちは子供や動物を慈しみ、尊重する。また子供たちは自発的にものごとを学び取る
ことができ、体の不自由な人の気持ちを理解し、気遣うことができるほどの人格をもつ様
子で描かれている。しかしそれらの美しい心を持つ登場人物達が奇妙な印象さえ与えてい
る。
第三章
大正期と『赤い鳥』
まず『赤い鳥』の読者層について見ていった。
『赤い鳥』の読者は農村よりも都市、いわ
ゆるホワイトカラーとよばれる都市中間層の子弟が中心を成していたと推測される。都市
中間層の人びとは西洋的な趣味を取り入れた生活を送った。しかしそのような生活は一部
の人びとに限られていたという側面が見られる。根拠は必ずしも十分ではないが、
『赤い鳥』
の作品において「個人の尊重、博愛、平等」といった西洋準拠の価値意識に基づいたと推
測される理想的人物が描かれているが、大正期の現実にあってはそのような理想を実現す
ることは困難であったのだろう。そうして現実と理想が乖離した結果作者たちは童話の中
でみずからの理想像を登場人物に投影したのではなかろうか。
2004 年度卒業生
- 29 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
野田秀樹の作品における「原作」の再解釈
唐澤
千恵
本論文は、野田秀樹のパロディー、またはアレンジ戯曲とその「原作」を、比較し、論
じていくことを目的とする。扱う作品は、『真夏の夜の夢』(1992)、『半神』(1986)『贋作
・罪と罰』
(1994)『贋作・桜の森の満開の下』
(1989)である。この四作を選んだ理由は、
戯曲のオリジナル作品として、野田が選ぶ「原作」が、多岐のジャンル、時代にわたって
いることを紹介するためだ。実際、
『真夏の夜の夢』のオリジナル作品である『夏の夜の夢』
は、
ルネサンス期のイギリスの戯曲で、
『戯曲・半神』
のオリジナル作品になる『半神』
は、
1984
年に、少女漫画雑誌に発表された作品である。さらに、『贋作・罪と罰』は、19 世紀ロシ
アの長編小説、
『罪と罰』が、『贋作・桜の森の満開の下』は、1947 年に発表された短編小
説『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』がオリジナル作品になっている。
こうした野田の、
「原作」を意識して作られた戯曲は、
「原作」のキャラクターの設定や、
テーマを生かしながら、そこに、野田自身が芝居において大事だと考えている「娯楽」的
な要素が盛り込まれている。また、野田のそんな「娯楽」の要素が、
「原作」にはなく、か
つ、単なる揶揄やパロディーにも終わらない、彼自身の「オリジナル」な物語を作ってい
くのだ。そして、ときおり戯曲内に現れる「娯楽」的要素を含まない真剣みのある台詞は、
その情緒的な部分が強く印象に残る。以下、それについて詳しく述べる。
まず野田は、「原作」を土台とした戯曲の中に、「はて?」と「果て」、「テイショク(定
職)」から「焼肉(定食)」、
「餃子(定食)」など、ある言葉から「コトバ」への「ひらめき」
を生かそうとしていることがわかった。そうした洒落で、「娯楽」の要素を、「原作」より
もさらに取り入れようとしている姿勢が、ここからわかってくる。また、野田が「ひらめ
き」や「言葉遊び」などから導き出した自身の「オリジナル」の話と、
「原作」の物語を意
識した話が、たびたび戯曲内で往来するように、物語が構成されているということも、留
意しなければならないところである。
さらに野田は、オリジナル作品のテーマや、印象的に残る部分を、野田版の戯曲の中に、
主に「叙情的な」台詞を通して取り入れてもいる。それは、
『贋作・桜の森の満開の下』に
おける、夜長姫の最後の台詞や、
『贋作・罪と罰』英の、罪の告白の台詞などにたとえられ
る。今まで野田の「スピード」感や「ひらめき」、「娯楽」にあふれた戯曲の世界にのめり
こんでいればいるほど、その、感情に任せた台詞は、観客の不意をつき、はっとさせるの
だ。以上から、オリジナル作品がその戯曲の土台となっている野田の作品は、
「原作」を通
し、より、野田の戯曲の特徴を特に表していると考えられるのである。
こうした野田秀樹の演劇は、まだわけのわからないものとして、[emputy]、
「ジェットコ
ースター」と評されることもある。だが、それでも活動の仕方を変えない彼が、これから
先どのような戯曲を執筆していくかということは、ぜひ注目したい事柄である。
2004 年度卒業生
- 30 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
太宰治論 ―太宰治の書簡と作品の関係について―
鈴木
奏子
本論文では主に、作品にみられる手紙の特徴及び効果と太宰治が手紙をどのような存在
と認識し作品に利用したかを考察した。太宰治はその作家生活において常に手紙に関係す
る作品を書き続けていた。
太宰治の作品は一人称で語られる場合が多く、この特有の文体は潜在的二人称と呼ばれ
ている。潜在的二人称とは読者に直接語りかけてくるようなかたちをとる。このような表
現をしていた理由は絶えず読者への伝達を意識せずにはいられなかったからだ。この語り
の方法は形式上手紙に酷似していた。
作品内の手紙の機能について「葉桜と魔笛」を例示した。手紙の基本的性質は特定の差
出人と特定の受取人がいること、偽証可能性、私的性、秘匿性、告白の媒体、保存可能性、
読むか否かの選択権、時間的・空間的距離などであった。また、手紙の変型として「きり
ぎりす」から離縁状を、「斜陽」「おさん」から遺書をみた。手紙との相違点は、離縁状は
別離を前提にした自己内省であり、遺書は最後の心情吐露と一方通行を強制することであ
る。「風の便り」「トカトントン」は往復書簡体形式であり、複数の語り手が存在するため
重層性がある。
「虚構の春」は複数の特定個人から「太宰治」への来簡集である。
「虚構の春」の頃、太
宰治は川端康成と芥川賞をめぐる応酬があり、芥川賞を受賞出来なかったことを含め、そ
の直接的な原因となった読み方に激怒する。川端康成がしたように「虚構の春」で読者が
作中人物と作家を重ねてみていることを表現している。太宰治は作家と読者の関係の修繕
を標榜して「虚構の春」を創作したと思われる。したがって、太宰治は「虚構の春」で読
者という他人の目による作品を試み、現実に受取った手紙を取り入れたのである。雑誌発
表時には実在する手紙の差出人が実名で載っていたり太宰治の実際の作品名が話題に上っ
たりしているので「虚構の春」の内容は現実と虚構の区別が判然としない。しかし、原稿
依頼が後に手違いだったと判明するなど複数の手紙を配列した構成の効果は大きい。手紙
の中には太宰治自身の体験ともとれる内容が別人の名前を付与されて紛れ込んでいる。太
宰治は手紙の受取人「太宰治」を設定しつつ、他人の名前を付けた手紙によって、作者の
事実、あるいは事実と思われるような出来事を書いた。
「パンドラの匣」は太宰治の読者木村庄助の日記を換骨奪胎し書簡体形式にした作品で
ある。日記と書簡体という現実感を引き出す要素を持つもの同士が組み合わされている。
主人公が一人称で語り随所で君と呼びかけられるので、太宰治の文体が顕著に感じられる。
太宰治は書簡体形式を多用したが、そのため特に「太宰治」が登場する作品は理解し難
いものになった。そこに一片の太宰治像を垣間見ることは可能だが、作者本人とは一線を
引くべきだと思った。
2004 年度卒業生
- 31 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
那須正幹作品と子どもたち
中村
さやか
新聞やテレビの報道などで本離れ、活字離れが進んでいるという話題を耳にする。手軽
に楽しむことのできる新しいメディアの登場により、敢えて読書というものを選択しなく
とも情報を簡単に取得することができる世の中になってしまったのだ。その中でも特に活
字離れが進んでいるといわれるのは子供たちである。彼らを対象とした作品である児童文
学は、過去どの時代を見ても子供たちの社会的な立場や考え方と関わりが深い。ならば現
在のこのような変化も何かしら上に挙げたような子供たちの変化と関わっているに違いな
い。そこで 27 年もの長期に渡り続いたシリーズである那須正幹「ズッコケ三人組」シリー
ズを取りあげた上で、その周辺における子供たちの意識の変化、周囲の環境の変化を考え
ながら子供たちと本の関わりについて探っていくことにした。
「ズッコケ三人組」シリーズとはごく普通の小学 6 年生の 3 人の男の子が主人公の物語
である。この少年たちが事件を起こし、巻き込まれ、そしてそれを解決していくという物
語がこのシリーズのほぼ統一した流れとなっている。各巻で起こる事件は必ず少年たちの
日常の延長線上に突然現れるというのがこのシリーズの大きな特徴である。そしてもうひ
とつ、主人公たちのキャラクター像がはっきりと示されているというのも大きな特徴とい
える。この 2 大特徴によって読者は物語の世界に上手く導入され、主人公とともに冒険へ
と出発するのである。そこに待ち受けているのはありそうだけどあり得ない世界、それが
ズッコケシリーズの世界なのである。
この冒険ということに関して、作者の那須正幹は読者からの手紙を通してその受け止め
方の変化を感じたと話す。初めの頃は「物語に触発されて自分もやってみた」というよう
な現実に近い存在であった物語の世界も、90 年代になると「自分にはやれないことを三人
組がやってくれて楽しい」といったファンタジーのような世界に変化しているというのだ。
このような読者の受け止め方の変化は実際の子供たちの変化にも通じる部分がある。那須
正幹はこういった部分にも気を掛けながら作品に冒険を盛り込んでいる。その彼の描く冒
険は子供の頃の実体験に基づいたものであるという。冒険を通じて味わう達成感や喜び、
そしてそれと隣り合わせの危険を現代の子供たちにも感じてもらいたいと話す那須正幹。
子供たちの置かれている環境がすっかり変化してしまった現代では、彼の抱く冒険論を伝
える手段は物語を通じてというのが最も有効なのかも知れない。
改めて見直してみると出版された時代に応じた子供像が見え隠れする。一方で昔の作品
がつまらなく最近の作品が面白いなどという世代間格差を感じることもない。現役の子供
から親世代まで幅広く愛されている作品、こう考えてみるとこのシリーズは実に不思議な
空気を持つ。人の生きるという普遍性を信じつつ新たな挑戦を続ける那須正幹の作品は、
きっとこれからも時代に応じた子供たちへのメッセージを発していくのだろう。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
宝塚歌劇団の誕生と変容 ―少女唱歌隊から「タカラヅカ」へ―
五十嵐
玲子
今日の宝塚歌劇団は、演劇の中で「宝塚歌劇」という一つのジャンルを形成している。
それは宝塚歌劇団の特徴である女性が男性の役を演じる、ということだけでなく、衣装、
演技、台詞、脚本、演出全ての総和として、宝塚歌劇団が持つ特殊性によるものである。
しかし、成立当初の宝塚歌劇団は、今日ある劇団とは異なる性質を持っていた。それは少
女達への西洋音楽の教授という学校教育に基づく考え方であった。唱歌隊は現在の宝塚歌
劇団よりも公共性を持っていた。
しかし、その性質は日本における西洋文化受容の成熟とともに弱まり、一方で宝塚歌劇
団が宝塚歌劇らしさを打ち出すという商業性が強くなっていった。宝塚歌劇団はレビュー
の移入にともない、現在のような宝塚歌劇らしさを打ち出し 、「タカラヅカ」あるいは
「TAKARAZUKA」というブランドを作り上げ、宝塚歌劇を演劇の中の一つの特殊ジャン
ルとして確立させた。
宝塚歌劇の最初期の性質はどのようなものであったのか。またそれをどのような要因に
よって変化させていったのか。現在の宝塚歌劇とはどのようなものであるのか。それを考
察する。
第1章
宝塚少女歌劇団の設立
ここでは、宝塚歌劇団という名称の前身である宝塚少女歌劇団が設立されるための要因
――創設者小林一三、三越少年音楽隊、日本へのオペラの移入と演劇改良運動の関係性に
ついて、小林一三の自伝、三越少年音楽隊の設立理由、オペラの移入の歴史書などを調べ
てまとめ、考察する。
第2章
小林一三の演劇事業への野心と女性観−宝塚歌劇はなぜ「国民劇」にならな
かったか−
宝塚少女歌劇の成功を受けて、小林は演劇事業への野心を抱く。小林は東京の日比谷に
演劇街を作り、国民が家庭単位でたのしめる娯楽としての「国民劇」の創生を目論む。こ
の「国民劇」の構想は西欧の大劇場主義の影響をうけたものであった。しかし小林はその
女性観により宝塚歌劇団を「国民劇」と考えなかった。
第3章
現在の宝塚歌劇
宝塚歌劇団外部には、宝塚歌劇団に対するイメージがある。また一方、劇団側は、宝塚
歌劇そのものが虚構であることを全面に押し出し、そこに宝塚歌劇の演劇的な存在意義を
もとめている。
2004 年度卒業生
- 33 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
阿部和重論
茂出木
将之
本論文は、阿部和重の文学観や、阿部和重の作品世界における物語構造ないし描写方法
について論じるものである。まず第一章では、阿部和重が、
「J 文学」という文学ジャンル
の中でいかに評価、理解されているかを概観した。
「J 文学」は、佐藤良明、? 秀実、大塚
英志などから、それぞれ「「J」回帰」的、「ジャンク」的、「ずらしの文学」といった様々
な評価をうけており、多重の意味をもっている。阿部和重の作品は、そういった「J 文学」
的な要素を断片的にもち得るものであるが、阿部和重がつくる物語は、しばしば侮蔑され
る「J 文学」作品として軽視すべきではなく、時代に即した問題を提起する文学作品とい
う意味で、今後の作品にも注視すべきである。第二章では、デビュー作『アメリカの夜』
について分析した。ここでは、阿部和重における「小説」と「映画」の二面性が、物語上
の語り手にも反映されている。語り手が二人に分裂するというテーマを用いることで、二
重の物語世界が構築されており、また描写方法では、身体や事物の詳細な描写、擬音語の
繰り返しなどの「映像的描写」が駆使されている。第三章では、
『インディヴィジュアル・
プロジェクション』について分析した。ここでは、物語における語り手の分裂が、
『アメリ
カの夜』で見られた二重のものから、多重の分裂として表現されている。また、
『アメリカ
の夜』に見られた映像の問題が、いわば心理的な水準に移行し、
「心理的投影」として表現
されている。そして第四章では、
『シンセミア』について分析した。ここでは、物語が、三
人称形式を採用することで、ある種ポリフォニックな物語になり得ていることを理解する
ことができた。また、物語の共同体内における「パノプティコン」的監視網の考察から、
「特
権的映像」の質的変化について理解することができた。
『アメリカの夜』、『インディヴィジュアル・プロジェクション』、『シンセミア』の三作
品をこうして順番に論ずることで、阿部和重が、最終的に、独特の物語構造――「他者性
の増大」と描写方法――「映画的描写」へと行き着いたことを理解することができた。一
人称形式で書かれた前二者においては、
「語り手の分裂」を描くことで、自己が内省的批評
を試みる様が表現されており、また、
「映像的描写」と「心理的描写」という二つの形式が、
描写の生々しさを可能にしていた。しかし、
『シンセミア』における三人称形式によって、
自己と他者が連結する物語世界が構築されることになった。また、描写については、カメ
ラ的視線を用いることで、
「映像的描写」と「心理的描写」を発展させた「映画的描写」な
るものが成熟したのである。これらを可能にしたのが、
「小説家」と「映画批評家」をパラ
レルにこなす阿部和重の資質なのである。
本論文では、
「映画批評家」としての阿部和重を十分知ることができなかった。課題を挙
げておくならば、彼の映画観なるものを知りえて初めて、阿部和重の全体を語ることが可
能になるのかもしれない。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
記号化する都市
小川
庫右
都市が“非日常性を演出する装置”として発見されたのは 1970 年代。その象徴的事例と
して「パルコ渋谷店」のイメージ戦略が挙げられる。これは都市がメディアとしての側面
を持つようになったことを意味している。このような都市のメディア化が、当時の文化記
号論・消費社会論とシンクロナイズしていたことは言うまでもない。本稿はこうした都市
の消費社会化・記号化に焦点を当てている。
一方、現在ではそれが都市に止まらず、郊外という新たな場所でも見られる点に注目し
ている。つまり本稿の目的は、1970 年代の都市の消費社会化を受けてそれが郊外において
も同様に見ることができるのか、むしろ 1970 年代的な「都市−空間」
「都市−消費」の方
法論とは異なる形で見られるのではないかという私の視座を提示することである。本稿で
はこの点を「スペクタクルな都市」から「フラットな郊外」という図式で捉えている。前
者が非日常的な記号で覆われていたのならば、後者は日常的な記号に埋没しており、郊外
.
.
はあらゆるモノが汎用し氾濫する「汎(氾)−記号化」した場と言えるだろう。
以上の視座を提示するために本稿は 4 章構成をとっている。まず第一章では、都市の消
費社会化の流れを確認する上で、明治期の百貨店の室内化戦略と「パルコ渋谷店」のイメ
ージ戦略を取り上げている。それは百貨店が建物(ハコ)の内部をひとつの街のように演
出したことと、パルコがハコの置かれた渋谷という街そのものを自らのイメージ空間とし
て演出したこととを対応させるためである。上述のように、1970 年代の渋谷において、都
市は“非日常性を演出する装置”として発見されたのである。第二章では、パルコの戦略
の限界を提示し、郊外という新たな場所が誕生したことを見ている。それは都市が都市に
なり得ていた言説が崩壊したことを意味している。第三章では、都市の衰退と郊外の成長
によって消費の場が都市から郊外へ移っている過程をロードサイドビジネスの成長から検
証している。ロードサイドビジネスによって郊外の風景が均一化されると同時に、私たち
の消費生活もまた均一化されるのである。第四章では、1970 年代の渋谷で見られた「他者
のまなざし」
(自分がまなざすことが相手からまなざされることを意味し、そうすることで
自らが演者として振舞うようになる)が現在の郊外には存在しないという私なりの結論を
述べている。なぜなら、郊外は<未来>への希求の場ではなく、日常の中に埋没している
場。つまり、
「まなざすこと」と「まなざされること」が相互媒介的でなく、完全に切り離
されていると考えられるからである。
「スペクタクル」で“非日常性”に覆われた都市から「フラット」で完全に日常の中に
埋没した郊外へ。それはまさに、どこへ行っても同じような風景が広がり、どこへ行って
も同じようなモノが手に入る、空虚で閉塞感漂う現代社会そのものを表しているように思
われるのだ。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
“Ebonics”、その起源と現状
小柳
真美子
どれほどの日本人がエボニクスという言葉について知っているだろうか。エボニクスと
は、アメリカ国民の一部が話す言葉を指す。外国人にはなじみがない言葉である。試しに、
辞書で調べてみるとどうだろうか。実際、外国人向けの辞書には載っていないことが多い。
しかし、アメリカ社会で暮らす人々にはきちんと認識されている言葉である。近年、まだ
まだ数は少ないが、やっと辞書にも載るようになった言葉である。
エボニクス、とは何か。エボニクスという単語の持つ意味は、アフリカ系アメリカ人に
深く関係している。しかしながら、その定義の認識は人によって違う場合が多い。私がエ
ボニクスという言葉に始めて出会ったのは、アメリカ合衆国で交換留学中に受講していた
異文化コミュニケーション論の授業内であった。エボニクスを単純に、一つの定義で断定
することは出来ない。誰も詳細に説明出来ないこの単語に興味を持ち、数年前、この“エ
ボニクス”を巡って大きな論争が起きたことを知った。その論争は、何と過去 30 年にも渡
っていて、現在もあらゆる場面で引き続き議論が行われているのである。
エボニクスを取り巻く環境は、明らかにヒスパニック系の人々がアメリカ合衆国で話す
スペイン語などの他の言語とは異なっており、複雑である。国土が狭く、一つの言語で成
り立つ日本に住む私達には、なかなか理解し難い問題である。
エボニクスについての討論は、オークランドで下された決定のためにスタートしたのだ
が、それはアメリカ合衆国全体に大きな影響を与えた。エボニクス論争が起こったことに
より多くのアメリカ国民に、学校で起こっている重要な問題に目を向けさせるきっかけと
なった。多数の議論の内容は、エボニクスが標準英語より劣ってはいないこと、エボニク
スについて教師も知るべきであるし、一つの言語として認識されるべきであるといったも
のである。
異なること、そして差別という問題は密接に絡み合っている。それは、エボニクスを取
り巻く環境においても同じことである。
“差別”の難しさ。それは、自分の中の差別意識に
自分で気付かないことが多々あるということである。差別の意思をはっきり示す一部を除
き、
“無言の差別”が日々起こっているのである。さりげない仕草、言い回しからも差別は
始まっている。マジョリティに属していれば、差別が起こっているという意識は芽生えず、
全く気付くことはない。そこにある違いを理解することと、受け止めて適応していくこと
とは違う。
本論では、そんなエボニクスの起源とその状況を調べ、その展望を探ることをテーマと
している。
2004 年度卒業生
- 36 -
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
交通の発達から見た富山県
舘田
大輔
交通というものが、明治から現在にかけての富山県のイメージ形成にどのように影響し
てきたのかを探ろうと考えた。それらを考える上で大きく三つの段階に分けてみる。
日本に鉄道が開通したのは、明治 5(1872)年である。当時も現在もそうであるが、富
山県がまず克服すべきだとされていたのが、都市圏との格差がもたらす後進性からの脱却
であった。県内では、明治以前から関西方面との結びつきから、鉄道の発展が始まった。
文明開化の象徴としての鉄道をもたらすことによって、後進性からの脱却を切望した。明
治中ごろの鉄道敷設状況は、太平洋岸では東京から東北や関西方面を結ぶ路線が縦貫し、
北海道・九州・四国にも鉄道が敷かれ始めているが、日本海側では、大阪と敦賀が結び付
いているだけで、建設政策に含まれていなかった。県内においては、明治 30(1897)年に
最初の鉄道が、県内だけの局地的なものとして起こったが、それらも、明治 5 年の鉄道開
業から遅れること 25 年である。この時代の富山県は太平洋側を中心とした考え方から見る
と「裏日本」と呼ばれ、その格差に苦汁をなめていた。明治 19 年から始まった第一次鉄道
会社設立ブームに反映され、日本海側各県の“裏日本化”が拍車をかけられた。
第二期としては、水資源を生かした電源開発県やそれらから派生した工業県へと変貌し
ようとする時期である。明治中期、鉄道建設の遅れは即、工業化の遅れを意味し、また資
本主義経済化・経済近代化のための産業基盤構築の遅れを示していた。それに乗り遅れま
いと豊富な水源開発のために鉄道を敷くこととなった。その開発地としての立山・黒部を、
今まで「表日本」にあるような目ぼしい観光地などがなかった富山県においての観光産業
の礎にしようとも画策された。しかし、これらは、激化する太平洋戦争によって、中断さ
れることを余儀なくされたのである。
第三期としては、戦後に再開された挙県的事業としての近代開発への着手である。その
中で立山連峰は国立公園事業として開発されることになり、日の目を見ることとなった。
昭和 34 年当時の吉田県知事の「山の夢」構想が、現在の富山県の顔といってもよい立山黒
部アルペンルート開通による観光立県へ向けた県の動向のきっかけとなった。ただ、これ
らの構想では、年間 500 万人もの観光客の入りを期待しているなど、見通しの甘い面が指
摘できる。実際には、立山の登山客は戦前が 1 万人といわれ、ケーブルカーなどの順次開
発により 20 万人に増加し、
「黒四」や立山黒部アルペンルート開業以後は、100 万人を超
える人々が訪れているにすぎない。
こうして考えてみると、交通の発達によって、県イメージの改善は多少なりとも図られ
たようだが、それが確固たるものとして定着していないように思う。課題としては、後進
性の格差を埋める努力をするだけではなく、地方の強みを開拓し、将来的な北陸新幹線の
開業といった交通体系の変化に合わせた柔軟な対応をとっていくことだろうと考えられる。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
2004 年度卒業生
- 38 -
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