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講義録(121ページ。PDFファイル)

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講義録(121ページ。PDFファイル)
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第1回「自己紹介/授業の内容と方針/性格ってなんだろう」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
自己紹介
はじめまして。あべ やすしといいます。ふだんは障害者の訪問介助の仕事をしています。専攻は障害学、社会言語
学、識字研究などです。研究テーマは、日本語をよみかきするということについて、差別論、情報弱者をうみださない社
会をつくること、などです。よろしくおねがいします。前期の金曜日だけ愛知県立大学にきています。岡山市出身で、京
都市で生活しています。
授業の内容と方針
1. 自己紹介、授業オリエンテーション
2. 「多文化」の歴史
3. 学校がつくる差別
4. 文化ってなんだろう
5. 言語ってなんだろう
6. 通訳ってなんだろう
7. 国籍ってなんだろう
8. 障害ってなんだろう
9. 映画鑑賞(解説と議論)
10. 食文化の多様性と対立
11. あなたが図書館の司書だったら
12. 多文化社会をささえる情報技術
13. コミュニケーションに正解はない
14. ユニバーサルデザインという理念
以上の内容を予定しています。要望に応じて、かえるかもしれません。
授業中、意見や疑問、批判などがあれば自由に発言してかまいません。マイクをわたします。
毎回、最後の10分間に疑問や感想、意見などをかいてもらいます。「出席」の確認ではなく、フィードバックをもら
うためです。いただいた意見や感想はプリントで紹介するようにします。すべて匿名にしますので、ご安心を。ほかの学
生の感じかたや意見に接することで、ものごとを多角的にとらえることができます。レポートの練習にもなります。
評価は、中間レポート(50%)と期末レポート(50%)です。
レポートのねらい
レポートでは、きちんと事実をふまえ、ほかのひとの意見を参照しつつ、自分なりに試行錯誤して、なにかを論じる
ことができるようになることをめざします。剽窃(ひょうせつ)をした場合、単位は不可にします。引用は、出典をあき
らかにし、引用と自分の意見をはっきり区別した文章にしてください。具体的にどうすればいいのかについては、授業
のなかで説明します。中間レポートは返却しますので、かならずうけとってください。
やすむこと、いねむり、ノートについて
毎回、くわしいプリントをくばります。
実習や体調不良、5月病、イベントなどで欠席することがあるでしょう。そういったときにも、あとから授業の内容に
アクセスできるようにプリントは /tabunka2012/ で公開します。ウェブからアクセスできる状態にしますので、授業
をうけていない学生や学外のひともプリントをよむことができます。
1
板書をすることがありますが、わたしは、視覚的な効果として、はなしことばの補助として板書するだけです。「ノー
トをとってほしい」というメッセージではありません。板書→ノートをとるというのではなく、むしろ、疑問に感じた
こと、ひっかかったこと、いい!とか、ひどい!とか、おもしろい!と感じたことなどをメモしてほしいです。みなさん
の自由ですが。
授業中に、学生がいねむりすることもある。だから、プリントは要約(レジメ)ではなく、きちんと文章化したもの
をくばります。
わたしは学生のころから、いままでずっと、いねむりばかりしています。他人に「ねるな」といえる立場にはありませ
ん。ねむたいときは、ねてください。ねむくならないように、こちらも努力します。
この授業の視点―性格を例に
この授業では、ものごとを多角的にとらえるということを大事にしたいと思います。
なにかにスポットライトをあてれば、その裏側には影ができます。スポットライトは、影をつくる。なにかに焦点を
あてることで、みえなくなるものがある。それならば、ちがった角度からもスポットライトをあててみよう。そうすれ
ば、それまでみえなかったものが、みえるようになる。固定的にとらえていたことが、ちがったようにみえるようにな
る。
「ほんとうのわたし」という物語
「○○さんは□□だよね」といわれる。たとえば、「なやみなんか、なさそうだよね」。そのとき「そんなことない
のに」と感じる。そこで「わたし」は、「そんなことないわたし」を「ほんとうのわたし」だとおもっている。
「○○さんは□□ですね」という発言は、「わたしにはできないな」「わたしとはちがう」という意味をふくんでい
ることがある。それはつまり、同時に自分自身をかたっているのだ。「わたしはこうだ」とか、「あなたはこうです
ね」というのは、結局、比較をしてのことである。本人はそうでないと感じようとも、そうであるともいえるし、そう
でないともいえる。そのひとのどの面をみて、どのように比較しているかによって変化するものだ。
だれしも、いろんな面をもっている。ある面をみせていたら、みせていない面は指摘されない。それで、「ほんとう
はそうじゃないのに」と感じたりもする。しかし、その「ほんとう」の面は、ほかのだれかにはみせていて、そのひと
にはまた別の面をみせていない場合がある。まるい地球は、いつもすべての面が太陽の光をあびているわけではない。
スポットライトがあたれば、どこかは影にかくれるのだ。それを、「ほんとうの地球は」などといってもしかたがな
い。
スポットライトをあてたら、影ができる。その影の部分が「ほんとう」だというのは、なにが「ほんとう」なのか
は、スポットライトの角度に依存していることになる。つまり、たまたま照明があてられている部分があり、それ以外
が「ほんとうのわたし」だというのであれば、ちがう面に照明をあてれば、また「ほんとうのわたし」はちがう面に移
動することになる。
わたしたちは、状況に応じて行動している
サトウタツヤと渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)による『「モード性格」論』では、「私たちは性格という概念のレ
ンズで自分や他人を理解しようとしている」と説明されている(サトウ/わたなべ2005:152)。
著者のふたりは「性格そのものがあるわけではない、というのが本書を貫く主張」だとする(152ページ)。
ここで否定されているのは、「性格というものが個人個人に内在していて、それを客観的に分析すれば、そのひとの性
格をかたることができる」という発想である。ふたりの説明をみてみよう。
社会心理学的な見方からいうと、性格というのは確実な実在というよりは、本人および本人の持っている性質
と、それを観察する他者との間に生じる複雑な相互作用の産物です。そして、性格がどのように認知されるかは
本人と他者との関係によっていくらでも変化するものです(90ページ)。
コミュニケーションが性格をつくるといってもいい。この「相互作用」という視点が重要である。「わたし」も「相
手」も動的な存在だということだ。固定的ではなく、流動的で、変化する可能性がある。それは、両者の関係について
も、おなじことがいえる。
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『「モード性格」論』は自分自身についてや、他人とのコミュニケーションをふりかえる参考になる。著者のふたり
は、つぎのように説明している。
…私たちは状況や相手によって行動を華麗に変化させています。そのことを前提にしてみましょう。
誰と一緒のときの行動が心地よいか、そういう行動を常にするにはどうすればいいか。もちろん、自分だけが
心地よければよいのではありません。相手に迷惑をかけていたりしないか、を考える必要があることは言うまで
もありません。自分が誰かに縛られるのがいやなように、人も誰かに縛られるのがいやなのです。
自分が人に対してある意味で状況になっている、こういうことにも思いを馳せるのがモード性格論です。
自分も他人もさまざまなモードを生きていく。そのために重要なのは、まず、人間がいろいろな行動をする柔
軟な存在だということを知ることです。
次に、自分の行動が固定的で嫌なものだとするなら、何が固定させているのかを知ることです(250ペー
ジ)。
状況に応じて柔軟に行動する。それが、わたしたちが現にしていることであり、コミュニケーションにおいて要求され
ていることでもある。でも、その場に応じて「適切にふるまう」というのは、ほんとうにむずかしいことだ。なぜな
ら、自分にとって適切なことが、ほかのひとにとっても適切であるとはかぎらないからだ。
「性格ってなんだろう?」という問いから、コミュニケーション論に接続する。こんなふうに多文化社会やコミュニケ
ーションについて論じていく予定です。
具体的な問いをたてる
この授業で大切にしたいのは、具体的なテーマを設定して、根源から問いなおしてみることです。こたえをかんがえる
ことも重要ですが、問いをたてることも重要なことです。「そもそも、○○ってなんなのだろう?」と。問題提起と試
行錯誤のプロセスをわかちあっていきましょう。
次回は、「「多文化」の歴史」についてです。
参考文献
サトウ タツヤ/渡邊芳之(わたなべ・よしゆき) 2005 『「モード性格」論―心理学のかしこい使い方』紀伊國屋書店
(文庫版:『あなたはなぜ変われないのか―性格は「モード」で変わる 心理学のかしこい使い方』ちくま文庫)
用語解説
出典:引用元の文献情報のこと。今回のプリントでいえば、
・本文では、引用を「」でくくったり、字さげして引用であることをあきらかにしている。
・最後の「参考文献」で、文献情報を明示している(「注」で文献情報を明示する方法もある)。
こうすることで、自分の文章と引用文とを区別することができる。
図書館にいこう
愛知県立大学の図書館には、『社会言語学』という雑誌、『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解
放』、『識字の社会言語学』という本があります。わたしの文章がのっていますので、よかったら手にとってみてくださ
い。
3
本は、最初から最後まで通読しないといけないと思ってしまいがちです。しかし、たいていの研究者は通読するのは一
部で、もっている本のほとんどを「辞書のようにつかっている」のが実際だろうと思います。たくさん本をかってしまう
けども、全部はよめない。しかし、なにか気になることがあったとき、手にとってみて参照する。まさに、辞書のよう
につかっているのです。
全部よまなくては…と思ってしまうと、ハードルがたかく感じられます。気楽によむことができなくなります。おもい
こみをすてて、気楽になったほうがいいです。図書館には映画などの映像作品もあります。
練習問題
1. 体調不良や生理痛などで欠席することがある。試験の日を設定してしまうと、無理してでも出席することを強制する
ことになってしまう。それでいいのだろうか?
2. レポート課題は、読字障害など、文字のよみかきが苦手なひとにとって不利になってしまう。どうすればいいか?
ひとつの正解などありません。問題提起し、議論し、試行錯誤するしかありません。あなたの意見は?
いますぐ意見をもてなくてもいいのです。時間がかかってもいいから、じっくり、なやんでみましょう。ヒントは、い
ろんなところにあるはずです。
わたし自身もまた、なやみつづけている一人だということをご理解ください。
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「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第2回「「多文化」の歴史/問題意識について」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
歴史からみた「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業科目
近年、たくさんの大学で「多文化社会」や「多文化共生」という名のつく授業をひらいている。愛知県立大学では
2009年度から「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業を開講している。わたしが学部生のころ、そうい
った授業はほとんどなかった。あったのは「異文化交流論」くらいのものだ。
日本で「多文化共生」というスローガンがひろく使用されるようになったのは、1995年の阪神大震災のあとだといわ
れている。それ以前では、英語圏からの輸入概念としての「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」という用語が使用
されていた。
多文化主義にせよ、多文化共生にせよ、そこでイメージされているのは、ひとつの社会においてさまざまな文化が共存
しているということだ。
近代社会では、ひとつの国家で、ひとつの言語(国家語=国語)を普及し、ひとつの文化を形成することが理想とさ
れてきた。しかし、現代社会では、そういった均質主義的(同化主義的)な社会観を反省し、さまざまな言語や文化が
存在することを認知するようになった。多様性を抑圧するのではなく、共存することを目標にかかげるようになった。
おおざっぱに説明すると、このような歴史的背景がある。
多文化社会におけるコミュニケーションという科目で、たんに「外国人とのコミュニケーション」を論じるのであれ
ば、社会の変化に対応できていない、時代錯誤な授業をしていることになる。自分の専門や研究テーマ、つたえたいこ
とが「外国人とのコミュニケーション」であるなら、仕方がないのかもしれない。しかし、わたしはそうではない。
「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業で、なにを論じるのか。それは、そのひとの世界観や問題意識
によるものだ。その意味では、「わたしがなにを論じるのか、論じないのか」という授業の内容そのものが「自己紹
介」になる。それはつまり、ほかの教員が担当すれば、また別のアプローチをするだろうということだ。あべによる
「多文化社会論」がすべてではない。あくまで、ひとりの視点である。
「外国人とのコミュニケーション」をどのように論じるのか
多文化社会は、「国民と外国人」というような単純な構成で成立しているものではない(「国民」と「外国人」の境
界線をどのように設定するのか。それが議論になるのが多文化社会である)。とはいえ、「外国人とのコミュニケーシ
ョン」というテーマは、いまの日本社会で重要視されていることのひとつである。
言語学を専門とするネウストプニーは1982年に『外国人とのコミュニケーション』という本をだしている。そのなか
で「人間社会の多様性」を論じた部分をみてみよう。
私はここで人間の多様性の一つのあらわれである「外国人」に焦点を合わせ、この外国人が「我々」とコミュ
ニケーションを行なう時、どのような問題に対面し、それをどう解決するかを考えてきた。外国人問題からの
「脱出」は、ここでキーワードの一つである。外国人としての悩みを経験した人は、とにかく、その状態からぬ
け出たいという気持がある。これは当然の願望であろう。
しかし、この「脱出」説への反論もある。コミュニケーション、国際理解や国際行動のための教育によって、
「外国人」の自己がしだいに失われ、国民性による差がなくなり、最終的には世界はなんのおもしろみもない、
画一的なものになってしまうのではないか、それでいいのだろうか、という問題である。また、過渡期の人間
は、どのような対策がとられようと、やはり悩むだろうという疑問もある。
…中略…すくなくともつぎの二つのことを考える必要がある。一つは、外国人の問題を社会の「異質集団」の
問題という、より広い枠の中で再検討しなければならないという問題であり、もう一つは、これらの「異質集
団」の性質が、人間の歴史とともにどのように変わってきたかを明らかにする、という問題である(ネウストプ
ニー1982:166-167)。
わたしはネウストプニーが主張する「二つのこと」にほとんど賛同する。ただ、「国民性」などの表現は、現代的な
視点からすれば適切ではないと感じる。文化を、国を単位にしてとらえた表現だからだ。ネウストプニーは、つぎのよう
につづける。
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社会の異質集団は、社会の「主流」と対立して存在している。たとえば、現在の日本社会では中央部に対し
て、辺地は依然として異質的なものと見なされがちである。同じく、男性に対して女性、中年層に対して子ども
と老人、健康な人間に対して身体障害者、プロテスタントが多数を占める社会ではカトリック教徒、アメリカで
は白人に対して黒人などの例があげられる。民族的異質集団――つまり、少数民族、移民、一時的外国人、旅行
者など――もやはり、社会の主流との対比では、異質集団である。
だれが主流で、だれが異質的かは、権力の問題であり、簡単に数とか、価値で決まるものではない。…中略…
あらゆる社会において女性は半数か半数以上を上まわるグループなのに、社会の主流をなすのは、やはり男性で
ある。問題は、数とか質ではなく、力関係である(167-168ページ)。
ネウストプニーのいう「異質集団」は、「マイノリティ(少数派)」といいかえることもできるだろう。
マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係においてマイノリティであるの
だ。ネウストプニーのいう「問題は、数とか質ではなく、力関係である」というのは、そういった意味である。
マイノリティとして「外国人」や「少数民族」をとらえるということ。歴史をふまえるということ。そのふたつが重要
である。たとえば『外国人とのコミュニケーション』が出版された1982年から30年後の現在、日本社会はどのように
変化したのか。制度はどうだろうか。ひとびとの態度はどうだろうか。
「多文化」の歴史
いまの日本社会で「多文化社会」というとき、それは「外国人がふえたから」「多文化社会になった」という認識に
もとづいている。「多様性がそとからやってくる」。それなら「それ以前」は均質だったのか? そうではないはずだ。
安田敏朗(やすだ・としあき)はつぎのように議論している。
何が問題かといえば、学界や政策立案レベルもふくめて、多言語社会を新しい問題かのように捉える傾向であ
る。…中略…つまりは、多言語性のない社会などなく、それをだれがどう捉えるか、という多言語性認識こそが
問題なのである。新しい問題としてみる立場は、これまで存在してきた多言語性に気づかないか、あえて無視し
て議論をしている。それは「単一民族・単一言語国家日本」を前提としたものであり、帝国日本という歴史やそ
の結果として存在しているマイノリティの問題、先住民族、少数民族、そしてその言語、また手話という言語の
存在を捨象して、「単一民族・単一言語国家日本」が、異言語・異文化の人たちをあらたに「受け入れる」とい
った認識である。たとえば、『多言語社会がやってきた』という本は、「様々な民族が日本に移住してきて、急
速に多言語社会になりつつある」という認識を示し、「そのことから、言語に関して数多くの問題が生じてき
て」いるが、この問題は、「私たちが21世紀を生き抜いていくためには取り組まなければならない問題」なの
だと述べる。ここで示される観点は、安定した「単一民族・単一言語国家日本」に「外部」から撹乱(かくら
ん)要素が入ってきた、だから対応しなければならない、というものである(やすだ2010:142)。
安田は「多言語社会」について論じているが、「多文化社会」「多文化共生」についても、おなじことがいえる。つ
まり、文化の多様性のない社会などないし、いつもどこでも、あらゆる社会は「多文化」だということだ。
日本では敗戦後、「単一民族」という幻想がつくられた(おぐま1995)。近代の日本には、おきなわのひとたち、東
北のひとたちの言語を「標準語」に「矯正」させた、同化主義の歴史がある。アイヌも日本語/日本文化に同化させ
た。日本列島で話されていた言語は地域ごとにちがいがあったが標準語を強制した。植民地では、皇民化政策によっ
て、日本の文化を強制した。
わたしたちは、すっかり同化させられ、均質幻想をうえつけられてきた。それを反省するようになったから、「多文
化社会」を論じるようになった。多文化社会をかんがえるためには、過去をふりかえり、また、現代社会で無視され、
排除されているひとたちのことを認知する必要がある。わたしたちは、なにをしらないのか。なにをわすれているの
か。そもそも、「わたしたち」とは、だれのことなのか。
歴史学などの研究領域でも、あまり注目されてこなかった地域のひとつに、小笠原(おがさわら)諸島がある。石原
俊(いしはら・しゅん)の『近代日本と小笠原諸島―移動民の島々と帝国』をみてみよう。
…小笠原諸島は、イギリス帝国・アメリカ合衆国・徳川幕府などによる領有競争を経た後、主権国家としての日
本帝国が形作られていく過程で、「北海道開拓」や「琉球処分」と並行して、1875年、「小笠原島回収」の名
において本格的に占領され始める。そして、それまでに世界各地から移住してきていた「外国人」は、日本帝国
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の出先機関の説諭(せつゆ)と命令によって、1882年までにすべて臣民として帰化させられ、「帰化人」と呼
ばれるようになっていった。他方、明治政府の法的バックアップの下で、その時点までに日本帝国の主権下にあ
った「内国」――伊豆諸島を含む――からの殖民が開始された(いしはら2007:29-30)。
石原は、この歴史が「研究者を含む大多数の人びとから忘れられている」と指摘している(30ページ)。小笠原の歴
史は、「わたしたち」が「わすれている」ことの、ほんの一例だ。「多文化社会」を把握するには時間がかかる。
移民は、「やってくる」だけなのか? 日本からの移民の歴史
多言語や多文化を「外部からの移入」としてとらえることの問題については、「多文化社会をどうとらえるか」という
論考で藤井毅(ふじい・たけし)がおなじような指摘をしている。
考えてみれば、明治から昭和前期にかけて、日本は、海外への移民送り出し国として、他国の社会に異文化を
持ち込む主体として存在していたのではなかったか。確かに日本社会にポルトガル・ブラジル語話者が増大した
ことは、新現象であり、かつて経験したことがなかったものであるかもしれない。しかしながら、それを南米に
渡った日系移民の歴史体験と切り離して考えてしまうと、日本社会が他者により一方的に変容を強いられている
という見方を暗黙のうちに容認してしまうことになってしまうのではないか。
…中略…
こうしてみると、「多言語多文化社会がやってきた」という状況分析は、近現代日本がたどってきた歴史に触
れずして、日本社会をあくまでも他者により影響を受けるだけの受動体としてとらえていることがわかろう。そ
こでは、他者に働きかける主体としての認識、あるいは、相互に影響を及ぼしあう存在という見方は、明らかに
欠落している。その空白部に、「日本社会本来の姿が、外よりの影響で変わっていってしまう」という見方が入
り込み繁茂(はんも)するのは、容易なことである(ふじい2010:38-39)。
藤井の指摘は、いわゆる「外国人脅威論」の問題を示唆している。現在の日本で、排外主義的な主張をくりかえしてい
るひとがいる。そのひとたちは、たとえば横浜の「海外移住資料館」で、鏡をみることになる。
海外移住資料館では、日本からの移民の歴史を展示している。そのなかには、日本人移民にたいするバッシング(い
わゆる黄禍論(こうかろん))なども紹介している。太平洋戦争中のアメリカにおける日系人収容所についても紹介して
いる。図書室には、『Caught in Between ―故郷(くに)を失った人々』というドキュメンタリーのDVDがある(リ
ナ・ホシノ監督、2004年)。2001年の9.11以後、アメリカでイスラム教徒にたいする国家的な迫害が開始されたこと
にたいし、強制収容を経験した日系人たちが「歴史のあやまちをくりかえすな」と声をあげた。それを記録したドキュ
メンタリーだ。
歴史をわすれて日本の排外主義に賛同するのか。あるいは、迫害されるイスラム教徒と連帯した日系アメリカ人に賛同
するのか。その中間か、どちらでもないか。あなたは、どうありたいか。
1990年入管法の改正―日系人とその家族が日本へ
1990年の入管法改正では日系3世とその家族に「定住者」という在留資格がみとめられた(2世は「日本人の配偶者
等」という在留資格)。定住者というビザは自由に労働できるものであり、南米からの日系人労働者がふえることにな
った。これが「在日外国人が増加した」要因のひとつである。
ここで、1990年代に出版された「多文化」に関する本をみてみよう。現代の視点からいっても重要性をうしなってい
ないものを中心にとりあげる。
田中宏(たなか・ひろし) 1991 『在日外国人』岩波新書(→『在日外国人 新版』が1995年に)
中野秀一郎(なかの・ひでいちろう)/今津孝次郎(いまづ・こうじろう)編 1993 『エスニシティの社会学―日本社
会の民族的構成』世界思想社(→2版1994年、3版1996年)
マーハ、C. ジョン/本名信行(ほんな・のぶゆき)編 1994 『新しい日本観・世界観に向かって―日本における言語と
文化の多様性』国際書院
外国人地震情報センター編 1996 『阪神大震災と外国人―「多文化共生社会」の現状と可能性』明石書店
三浦信孝(みうら・のぶたか)編 1997 『多言語主義とは何か』藤原書店
中島智子(なかじま・ともこ)編 1998 『多文化教育―多様性のための教育学』明石書店
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言語権研究会編 1999 『ことばへの権利―言語権とはなにか』三元社
はたして、これまで、日本観や世界観をどれだけ「更新」することができたのだろうか。「多文化」の中身については
どうだろうか。どれだけ充実させることができたのだろうか。
「多文化」の中身
中島智子(なかじま・ともこ)は『多文化教育』で、つぎのように説明している。
多文化教育においてキーワードとなるのは、多様な背景をもつ子どもであるが、それは必ずしも外国人=外国
籍の子どもを意味しない。多文化教育は、今日では民族や人種だけでなく、ジェンダーや社会経済的背景、障害
者、高齢者、同性愛者など、社会において不利益を被(こうむ)る立場におかれる人々を含むのが一般的だ…後
略…(なかじま1998:24)。
…多文化教育とは隠れたカリキュラムも含めた学校文化の見直しであり、文化を相対化する視点であり、社会と
の関与を意識するプロセスである。また、多文化教育においてはマイノリティを主な対象とするのではなく、ア
メリカやイギリスなどでは「白人」性が問題とされてきているように、マジョリティ自身が問われている。民族
や文化のちがいを意識しにくい日本社会において、「日本人」性を意識する必要は逆に大きいと考えられる…後
略…(28-29ページ)。
いまの日本で「多文化社会」「多文化共生」「多文化教育」というとき、「ジェンダーや社会経済的背景、障害者、
高齢者、同性愛者など、社会において不利益を被る立場におかれる人々」について、どれほど関心をむけているだろう
か。中島の問題意識はまだまだ共有されていないといえるだろう。
たとえば、大阪人権博物館(リバティおおさか)では、さまざまなマイノリティの社会運動について展示している。機
会があれば、ぜひ訪問してほしい。さまざまな展示をみることで、ネウストプニーのような問題意識にたって「多文化社
会におけるコミュニケーション」をかんがえることができるだろう。
鎖国史観をこえて
ここで、時代を近世にさかのぼってみる。一般的には、江戸時代は鎖国していた、ということになっている。しかし、
歴史学の領域では『朝鮮通信使をよみなおす―「鎖国」史観を越えて』(なかお1996)、『「鎖国」という外交』(ト
ビ2008)、『それでも江戸は鎖国だったのか―オランダ宿 日本橋長崎屋』(かたぎり2008)などの本がある。いずれ
も、従来いわれてきた「鎖国」史観をといなおす内容になっている。
ロナルド・トビは、歴史学における「鎖国」史観の変化(みなおし)をつぎのように説明している。
…「鎖国」が完成したとされた…中略…1640年以降の日本は、東アジアにおいて確固とした存在感をもってお
り、東アジアの発展と歩調を合わせていた。従来の「鎖国」論は、日本がアジアの一員であることを無視して、
ヨーロッパとの関係だけを切り離して論じていたといえるだろう。しかし、明らかに日本は東アジアに対しては
国を閉ざしてはいなかったし、ヨーロッパに対しても完全に閉ざしてはいなかったのである。
そして、1980年代以降活発になってきた「鎖国」をめぐる研究を通じて、今日では研究者レベルでは「鎖
国」=「国を完全に閉ざしていた」という認識はほとんど否定されているといっていいだろう。それを象徴する
のが、千葉県佐倉(さくら)市にある国立歴史民俗博物館(歴博)の総合展示第三展示室(近世)のリニューア
ルである。
筆者も監修者のひとりとして協力したこのリニューアルは、数年の準備期間を経て、2008年3月に公開され
た。この新たな近世展示では、「国際社会のなかの近世日本」というコーナーがまず入室者を迎える構成になっ
ている。そして、長崎・対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)という「四つの口」を通じて中国
(明・清)・オランダ・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)・蝦夷(えぞ)といった異国・異人たちと交流をもち、世
界とつながっていたという点が強調されている。説明書きでも、以前は「鎖国体制」という言葉が使われていた
のに対して、リニューアル後は「近世日本は、『鎖国』をしていたと思われがちだが、東アジアのなかで孤立し
ていたわけではない」などと、大きく変化している。
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もちろん、近世日本が「鎖国」ではなかったとしても、完全に開かれていたわけではない。ただ、「鎖国」と
された近世日本の外交方針は、決して「国を閉ざす」という消極的なものではなく、江戸幕府が主体的に選択し
ていったものなのである(トビ2008:19-20)。
現在、日本社会の閉鎖性を指摘し、それを問題視するとき、その閉鎖性の背景には「鎖国していた」ことも原因があ
るという議論がある。これは、場合によっては、「そういった歴史があるから『仕方がない』」という論理にもなって
しまう。しかし、そもそも「鎖国」という認識そのものが歴史の一側面しかみていなかったということだ。
朝鮮通信使との交流を、いまでも継承している地域がある。たとえば、岡山県の牛窓(うしまど)は、朝鮮通信使が
寄港していた町である。牛窓には、「海遊文化館」という朝鮮通信使についての歴史資料館があり、秋には「唐子踊り
(からこおどり)」という祭りを開催している。
そもそも「歴史」ってなんだろう
さいごに、歴史について。成田龍一(なりた・りゅういち)は『近現代日本史と歴史学―書き換えられてきた過去』
で、つぎのように歴史や歴史像、歴史学について説明している。
…歴史とは、ある解釈に基づいて出来事を選択し、さらにその出来事を意味づけて説明し、さらに叙述(じょじ
ゅつ)するものということになります。本書ではこれを「歴史像」と呼んでいきます。
ここでの前提は、歴史と歴史学は別ということです。歴史は無数の出来事の束から成っています。そのなかか
ら重要な出来事を選び出し、関連づけ、意味づけて叙述し歴史像にしていくのが歴史学です。教科書はこうした
歴史学によって解釈され叙述された歴史――実際には歴史像になりますが――を提示しているのです。
歴史学ではしばしば問題意識ということが強調されます。問題意識とは、歴史の無数の出来事のなかから、何
を重要なものとするか、歴史のなかに何を求めるかということです(なりた2012:ii)。
なんらかの問題意識をもつことなしに、「多文化社会におけるコミュニケーション」を論じることはできない。
どのような問題意識にたち、なにに注目し、どのように論じるのか。レポートのポイントも、そこにあります。
今回の内容については、「文化ってなんだろう」や「国籍ってなんだろう」の回で、さらにくわしく論じます。
次回は、「学校がつくる差別」についてです。
参考文献
石原俊(いしはら・しゅん) 2007 『近代日本と小笠原諸島―移動民の島々と帝国』平凡社
小熊英二(おぐま・えいじ) 1995 『単一民族神話の起源』新曜社
片桐一男(かたぎり・かずお) 2008 『それでも江戸は鎖国だったのか』吉川弘文館
スレイター、ローレン 岩坂彰訳 2005 『心は実験できるか―20世紀心理学実験物語』紀伊國屋書店
高橋幸春(たかはし・ゆきはる) 2008 『日系人の歴史を知ろう』岩波ジュニア新書
トビ、ロナルド 2008 『「鎖国」という外交』小学館
中尾宏(なかお・ひろし) 2006 『朝鮮通信使をよみなおす』明石書店
中島智子(なかじま・ともこ) 1998 「序 多文化教育の視点」中島智子編『多文化教育―多様性のための教育学』明石
書店、13-31
成田龍一(なりた・りゅういち) 2012 『近現代日本史と歴史学―書き換えられてきた過去』中公新書
藤井毅(ふじい・たけし) 2010 「多文化社会をどうとらえるか」『シリーズ多言語・多文化協働実践研究』別冊3、
37-44
安田敏朗(やすだ・としあき) 2010 「日本語政策史から見た言語政策の問題点」田尻英三(たじり・えいぞう)/大
津由紀雄(おおつ・ゆきお)編『言語政策を問う!』ひつじ書房、133-147
用語解説
学校文化:学校における教員のありかた、学校の教育システム、カリキュラムや校則など、学校で当然視されているもの
ごとを表現したもの。どちらかといえば、批判的な意味で使用する。
9
同化:不平等な関係においては、一方がもう一方に同化をせまられる。しかし同化にはおわりがない。権力をもつ側
は、いつでもその同化の努力を無化し、出自をおもいだしたり、同化が不十分だと非難したりする。
日本からの移民:移民先は、ハワイ、グアム、北米/南米、植民地朝鮮・台湾、「満洲国」、フィリピン、南洋諸島な
ど。敗戦後も、人口抑制のための国家的な政策として、移民を奨励(しょうれい)したことをわすれてはいけない。
あべが「多文化社会におけるコミュニケーション」を担当することになるまでのプロセス
父親の両親(わたしの祖父母)は、アメリカ移民一世。父のきょうだいは、アメリカうまれ。ひとりはアメリカ国籍
を選択し、サンフランシスコと岡山を往来している。その影響もあり、15才のころ将来はアメリカに移民しようと計
画。英語の学習に没頭。1998年に山口県立大学の国際文化学部に入学。入試は英語と国語だけ。ほかの教科は、まった
くできなかった。大学入学後は、手のひらをかえすように英語以外の言語の学習に没頭。漢語(いわゆる中国語)と朝鮮
語に関しては、日常会話ができる程度に。4年間、中華料理屋でアルバイト。厨房で調理補助と通訳をする。
1年のときから、「日本語をどう表記すればいいか」についてかんがえるようになる。あるとき、訓よみ漢字をつかわ
ないという方針をとっているひとの文章を発見し、衝撃をうける。社会福祉学部の「点字」の授業を受講。
20才になり、なまえを「あべ やすし」とかながきするようになる(それ以後、論文はすべて「あべ・やすし」/「あ
べ やすし」で発表している。パスポートの署名も「あべ・やすし」)。卒論は「視覚障害者にとっての漢字」というテ
ーマにしようと計画。
おなじく社会福祉学部の「手話」の授業をうける。近所の教会でも手話をならう。「ろう文化」について興味をもつ
ようになる。そのあとに、障害学のおもしろさに気づく。植民地期の台湾における「ろう教育」を研究するために台湾
の大学院に留学しようと計画。2度めの台湾訪問で、漢語で研究するのは自分には無理ではないかと感じ、韓国に留学す
ることに。ウェブを検索してテグ大学をえらぶ。「現代日本における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論」という
卒論を完成。
テグ大学大学院で障害児教育をまなぶ。専攻は、「言語・聴覚障害児教育」。テグ大学には、さまざまな障害をもつ
学生が在学していた。寮のルームメイトは中途失明の弱視者。
在学中に、論文を発表。「漢字という障害」(卒論の一部。のちに改訂版を『ことば/権力/差別』に収録)、「て
がき文字へのまなざし」(のちに改訂版を『識字の社会言語学』に収録)など。修士論文は、「ろう者の言語的権利を
めぐる社会言語学的研究」(2章の改訂版を『ことばの世界 愛知県立大学言語教育研究所年報』4号に収録)。
2004年に留学生活がおわり、実家の岡山に。半年はニートをして、イタリア料理屋の厨房でアルバイトをはじめる。
2006年の12月31日まで継続。
2005年から市民講座で朝鮮語を担当。2007年1月から3月まで、岡山市内の中高一貫校で12月に退職したALTの代用
として臨時採用される。
ハローワークで知的障害者の施設での仕事(生活支援員)をみつけ、就職する。2010年4月まで継続。2008年の10
月ごろから精神的にしんどくなり、「脱施設」を計画。
2010年5月から京都市に移住。「日本自立生活センター」の「介助派遣事業所」に登録して介助者になる。愛知県立
大学の教員から依頼をうけ、2011年度から多文化社会におけるコミュニケーションを担当することになる。
大学院を卒業してから2010年までに「文字のよみかきをめぐる差別」「漢字という権威」「識字と人権」「均質な文
字社会という神話―識字率から読書権へ」「言語という障害―知的障害者を排除するもの」「日本語表記の再検討」な
どの論文をかく。2010年12月に『識字の社会言語学』という本を5人で執筆。本の5割は、あべの文章。この本の効果
で、いろいろと依頼されるようになった。2011年には「情報保障の論点整理」という論文をかく。
基本的に「在野の研究者」という位置づけ。趣味で論文をかいている。現在の心境は、「もう一度学生になった気
分。講義する立場になって、ひさしぶりに本気でべんきょうした。大学の非常勤講師は一度やってみたかった。やって
みたので満足。だけど、自分のためになるから、もうちょっとつづけてみよう」。
訪問介助の仕事は、現在、月曜に10時間と水曜から木曜にかけての19時間半がメイン。プラスアルファで、あいてい
る時間に介助の依頼をうけている。
以上、質問への応答として。個人史における「多文化の歴史」といえるかもしれない。論文については、ウェブサイト
を参照のこと(http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/ronbun.html)。
10
感想、疑問、苦情の紹介
好意的なコメントがほとんどでしたが、苦情や異論を歓迎します。無人島(一人島)のAさんの性格についてのはなし
は、ヘタな解説だったと反省しました。「だれかと比較することなしに、「わたし」や「だれか」の性格を説明するこ
とができるだろうか?」 これだけの文章で、表現できることでした。責任の分散については、『心は実験できるか』を
おすすめします。
わたしは慢性的な鼻づまりのため、口で呼吸をすることがあります。4限の感想では、口呼吸の音が気になるというコ
メントが複数ありました。マイクの位置を工夫します。わたしの体でホワイトボードの字がみえなかったという指摘も。
気をつけます。 / あつくなかった。窓をあけて、逆にさむかったというコメントも。すみません。
―――
ものごとを多角的にとらえることは、ある意味自分の考えが揺らいでしまうのでは?と思った。(相手の意見が自分の
意見より優れているのだろうから、問題はないと思うが。)…後略…
【あべのコメント:ゆらいでしまうことを大事にすると同時に、どこかで自分の信念のようなものを確立していくとい
うことも大事なのだとおもいます。】
―――
相手A、B、Cには見せていない面である「ほんとうのわたし」を相手Dに見せた場合、「ほんとうのわたし」は違う面
に移動するというお話がありましたが、本人が「私はほんとうの自分をDさんに見せている」「Dさんの前では私はほん
とうの自分としてふるまえている」と感じている場合もあると思います。
人にはいろいろな面があって、同じ人間の中にも「親切な面」「いじわるな面」等、相反するような面すらあると思い
ます。それを相手によってふるまいを変える、決めるというのは私も同意見です。しかし人によっては一貫した「ほんと
うのわたし」というものがある気がします。「ほんとうのわたし」とは、一番演じていない、とりつくろっていない一
面だと思います。(社会的な役割とか、おちゃらけたキャラを演じているとかいう意味です) これは他者と比較すると
いうよりは自分の内面、自分がどう感じるかということだと思います。もちろん「ほんとうのわたし」も変わることは
あると思います(その時その時で)。
【あべのコメント:いいコメントですね。「一貫した性格」といった性格観については、心理学の分野で「一貫性論
争」という議論があったそうです。レポートの見本のようなコメントだと感じます。なにが「ほんとうのわたし」なの
か。そんなものはないと、ひらきなおるか。これが「ほんとうのわたし」だと、そのときその状況で意識するのか。そ
れは、自分できめることです。】
―――
スポットライトを当てると影ができる=「ほんとうの私」はその都度変化する、と先生はおっしゃいました。私はすご
くなるほど、と思って、同時にすごく安心しました。でもよく、表裏のない人、と言われる人がいますが、その人はど
んなふうにスポットライトを浴びているのでしょうか? 誰にでも同じ部分しか見せていないのでしょうか? また、私は
よく「本当の私」がわからなくなりますが、こう演じよう、と思いながら行動している「私」も素で何も考えずに動いて
いる「私」も、どちらもスポットライトの当て方がちがうだけで、「本当の私」なのでしょうか。…後略…
【あべのコメント:ことばとして存在するだけの概念。観念でしかないもの。「表裏のない人」や「本当の私」という
のは、そのたぐいではないでしょうか。小学生のとき、担任に「あべくんは裏表がない」といわれましたが、友人は苦
笑していました。そんなわけがないのですから。自分を不安にさせたり、なやませるだけの観念でしかないなら、そん
なもの(「ほんとうのわたし」という物語)とは決別すればいい。それがわたしの意見です。】
―――
…口頭試問と記述のちがいは、記述は書きなおしたり、考えて答えを出すことができるけれど、口頭の場合、声に出せ
ば取り消すことはできない、ということだと思います。友だちと連絡をとるときも、メールはいろいろと文章を練ること
ができるし、電話だとすぐに答えがかえってくるけれど、その分言葉には注意しなくてはいけない。なので、口頭試問は
面接みたいな形式でいいと思うけれど、考える時間をしっかりとらなければ、記述と差ができてしまうと思った。
―――
練習問題2について考えたこと。
もし電話にしたとして…
・即興でうまく話せない人がいるかも? →結局原稿を用意せざるをえない?? ならレポートでよいことになる。
・電話ならうまく話せる人がいる?? カダイについて知る時にも、他者の意見を知るためにも自分の要点を整理するに
も文字を読むことはかかせないのでは? …後略…
11
【あべのコメント:第3回のときに解説しますが、日常的に文字をよみかきしている自分の視点から距離をおいてみる必
要があるでしょう。ほかの立場にあるひとが、どのように学習しているのか、どのような選択肢が提供されているのか、
いないのか、その現実をふまえなければ、あまり意味のある検討にはならないと感じます。その現実をふまえるための
手段は、本をよむだけではない。また、本をよむというのは、自分でよめなくても、対面朗読してもらったり、録音図
書をきく、よみあげソフトをつかうという方法もあります。練習問題2については、14回の講義がおわるころに、どうす
ればいいのかが段々とみえてくる、というかたちになってしまうかもしれません。今後の展開にご期待ください。】
―――
練習問題にあったレポート課題についての問題は考えてみると全然思いつかなかった。
目が見えない人もいれば耳が聞こえない人、手が不自由でパソコンが使えない人など多くの、異なった人がいるので試
験内容をレポート課題という1種類にするのではなく、選択制にしたほうが確かにいいと思う。(しかし教師が成績をつ
ける際、色々な様式で課題を出されるので基準がバラついて難しいかも…)
私はレポート課題以外に絵(絵本をつくって学んだことをストーリーにするとか)で提出する、とかカセットテープに録
音して提出する、くらいしか思いつかない。…後略…
【あべのコメント:わたしの問題意識は、要するにユニバーサルデザインということなのですが、そこで重要なのは
「たし算」の論理と「選択の自由を保障する」ということです。いいコメントだと感じました。】
―――
大学の評価について、1対1で口頭で試験を行うというのは事実上難しいが、メリットはかなりあると思う。レポートで
の評価では、思考力だけでなく、文章力なども必要となるので、本当はとても面白い意見を持っているのに、それを文
章でまとめるのが苦手で伝わらないということが起こり得る。…後略…
―――
…レポートの代わりに1対1で話すことは賛成です。しかし、部屋をとって行うとかたくなってしまうのもわかるので、
京都の町並みを散歩しながら、途中で見つけた和菓子のお店でお茶をしながら話すことを提案します。
このような文章を、「おもしろい」と感じる人もいれば、今のご時世「調子にのっている」と思う人もいると思う。先
生はどちらでしょうか。
【あべのコメント:おもしろいですね。いいんじゃないでしょうか。自分で要望をいわないひとが文句をいうのは、ま
ちがっています。各自が要望をだせばいいことです。そして、だれかが不公平だと感じたときは、教員が悪者になればい
いだけです。学生同士が非難しあうような陰湿な空間にはしたくないですね。】
―――
…疑問なのですが、大学の講義は映像授業にして自分が見たいときに見るというふうにするのはいけないのでしょう
か。対面のよさがあるのもわかるのですが、映像授業の是非についてあべやすし先生の意見が聞きたいです。
【あべのコメント:いいですね。放送大学は、まさに、そういうものですよね。
スカイプで大学院の授業に参加しているというひともいます。ユーストリーム(USTREAM)で配信し、動画を保存して
公開するというのも、ありですよね。じつは、そういうことをやっていたりもします。授業ではなく、おあそびとしてで
すが。録画を編集をして、ユーチューブ(YouTube)で公開するという方法もあります。】
―――
人は、意識化することが難しい「見えないルール」にしばられるのに、決められたルールは簡単に破ります。
【あべのコメント:するどいですね。「決められたルール」というのは、やぶるひとがいるから、そして、それは「こま
るから」ルールとして規定するのではないでしょうか。意識化されないルールは、ごくたまにしか違反するひとがいない
ために、ルールとして存在することが意識されないのだといえそうです。】
―――
私は今まで何かを考えるときに、無意識のうちに基準をもうけてしまっていることをあたりまえのことだけど再確認し
ました。基準をもうけて物事を考えると差別や偏見につながってしまうと思います。これから様々な方向に視点を向け
てみたいと思います。
【あべのコメント:基準をもうけることは、わるいことではないでしょう。自分が設定している基準の妥当性を定期的
に検討してみる必要はあります。それがこの授業の目的だということです。】
12
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第3回「発達障害というカテゴリーをめぐって」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
多数派には名前がない/多数派は名前をしらない
初対面のひとに「わたしはトランスジェンダーです」と自己紹介されたら、自分はどのように自己紹介するだろうか。
トランスジェンダーの意味をしっていないと「わたしはトランスジェンダーではない」とはいえない。ましてや「わたし
はシスジェンダーです」といえるわけがない。自分の名前をしらないのだから。「わたしはトランスジェンダーです」と
いうひとに出会えば「わたしの名前」がもうひとつふえる。この「名前」を社会的属性、あるいはカテゴリーという。
医者にたいして、女医ということがある。文学のなかで女流文学というジャンルがある。なぜか。医療や文学はオトコ
がやるものだという認識があったからだ。オトコは普遍的で、オンナは「オトコではない」というあつかいなのだ。
記号論や社会学では、この場合の「医者」を「無徴(むちょう)」といい、それにたいして「女医」を「有徴(ゆう
ちょう)」という。有徴とは「しるしがついている」ということであり、無徴は「それが標準」と認識されているため
「余分なラベルがついていない」。この有徴と無徴という対比は多数派と少数派の関係をかんがえるときに参考になる
キーワードだ。
ふつうと認識されるものには名前がない、特殊だと認識されたものには名前がつけられる。そこで、多数派には名前
がない、少数派には名前があるという現象がおきる。少数派の名前がつけられたあとに、少数派が多数派に名前をつけ
ることもあるが、その名前を多数派はしらないことがある。「シスジェンダー」や「異性愛」「墨字(すみじ)」「聴
者」「晴眼者」などがそうだ。
文化相対主義―自分を普遍化しない/自分を「ふつう」に分類しない
シスジェンダー ←→ トランスジェンダー
異性愛 ←→ バイセクシャル、同性愛
墨字 ←→ 点字
聴者 ←→ ろう者、難聴者、中途失聴者
晴眼者 ←→ 盲人、弱視者
これらの名前をしらずに自分を「ふつうのひと」と表現してしまうことがある。それは相手を他者化し、特殊化し、
その一方で自分を普遍化することである。これでは公平な態度とはいえない。自分を無色透明の無徴な存在、中立的な
立場、あるいは「社会で支配的な価値規範そのもの」としてとらえるのではなく、自分は、ふたつや、みっつ、あるい
はそれ以上のなかの「ひとつ」であると、自分を相対化する必要がある。
自分を相対化しなければ、結局のところ、安全なところから「マイノリティ」をならべてあそんでいるにすぎなくな
る。他者についてかんがえることは自分についてかんがえることであり、その関係のありかたをかんがえることである。
そこでは自分自身がとわれる。自分をといなおすなかで自分自身のイメージが、ゆらぎ、変化する。自分が、わからなく
なったりもする。そのとき理解しておくべきことは、カテゴリーはどこまでも流動的であり、その境界線はあいまいであ
るということだ。
今回は、すこし予定をかえて、発達障害というカテゴリーをとりあげる。
発達障害と定型発達(神経学的多数派)の異文化接触
近年、発達障害ということばが認知されるようになった。発達障害に対して、それ以外の多数派を表現する「定型発
達」や「神経学的多数派」という名前も考案されている。
発達障害が顕在化するのは学校や職場においてである。たんに日常のコミュニケーションをしているだけでは異文化を
感じないのに、学校や労働現場では異文化を感じることがある。多数派にとって、その「ちがい」は、以前は「変だ」
「なまけている」と一方的に非難するものでしかなかった。発達障害という認識が普及するにつれて、さまざまなひと
がいるという人間の多様性のありかたとして理解されるようになってきた。
学校文化は発達障害のひとにとって、適応しづらい面がある。逆にいえば、学校では「学校のルールに適応すべきだ」
と想定されているからこそ、「不適応」が問題視され、「どうしたらいいのか」が議論されることになる。
すぎむら なおみは、『発達障害チェックシートできました』で、つぎのように論じている。
13
発達障害をもつ人は、状況理解や表現方法が、「一般」的ではないからこそ、発達障害と認知される。つま
り、発達障害の生徒はいわば「異邦人」であり、そのかれらにであうとは、「異文化接触」を経験することと同
義なのではないか。
通常、人は自らの経験則で他者に対峙(たいじ)している。その状況理解のしかたは、その個人の生きてきた
「文化」に依存している。つまり自らと「異なる文化」を生きている他者と対峙するとき、よほど意識的に「異
文化の存在」を認知していないかぎり、自文化に存在する「文脈」で、他者の言動を推しはかろうとしてしま
う。それがトラブル発生の原因となることはおおい。発達障害についての知識をえるとは、言葉をかえれば「異
文化」の「文脈」を学習することでもあるのだ(すぎむら/「しーとん」編2010:126)
必要な配慮をするための区別
すぎむらは、クラスのなかで、だれかを「特別扱い」するのは不公平だという主張に対して、つぎのように反論してい
る。
発達障害の生徒に必要な配慮とは、「ふつう」の子と区別され、発達障害的要素をもつこどもの日常生活が円
滑にいくよう必要な配慮がなされたうえで、発達障害があるとして差別されないよう「区別しない配慮」が必要
となるのだろう。いわば、「区別して配慮する」のが、「ふつう」の子と可能なかぎり同じ学習をできる条件を
ととのえるための配慮(=特別支援)であり、「区別しない配慮」が「障害児だからと課題を免除したり、参加
させないという方法をとらない」「『ふつう』の子とともに可能なかぎり学習に参加させる」(=特別支援教
育)ということであろう(108ページ)。
読字障害(ディスレクシア)のひとの学習環境
ここでは、発達障害のひとつである読字障害に注目してみたい。
読字障害とは、文字のよみかきが困難なことをいう。日本社会では認知度がひくい(あべ2010)。そのため、学校で
読字障害のひとが必要としている配慮をせず、ただ放置し「不良」や「やる気がない」というレッテルをはってきた歴史
がある。読字障害のひとの困難は個人差がおおきい。
読字障害についての認知がすすんでいる社会では、さまざまな配慮があるため大学や大学院に進学するのもむずかしい
ことではない。配慮の例をみてみよう。アメリカのシラキュース大学では、つぎのような支援をうけられたという。
・授業のノートはボランティアが取った分をコピーさせてもらえる
・テストを別室で受けられる
・テスト時間を延長してもらえる
・文章題は朗読してもらえる
・テストは口頭試問で受けられる、多少のスペリングミスは許される
・図書館の視覚障害者サービス(個室のなかにコピー機のような機械があり、その上に本を開いておくとそのペ
ージを機械が読む、というサービス)を受けられる
・テキストブック・オン・テープという、教科書の1章を吹き込んだテープを貸してもらえる(しながわ
2003:70-71)
ワシントン大学では、つぎのような支援がある。
・支援技術の提供
・録音図書の提供
・ノート作成者の提供
・試験時間延長
・別室受験など(なかむら2007:36)
日本の場合、そもそも大学受験のところで読字障害の学生を排除してしまう構造になっている。
日本の「センター試験」でも2010年1月から発達障害のある受験者も「受験特別措置」をうけられるようになった。
しかし、その内容はつぎのような水準にとどまっている(http://www.dnc.ac.jp/modules/center_exam/
content0443.html)。
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・試験時間の延長(1.3倍)
・チェック解答
・拡大文字問題冊子の配布(一般問題冊子と併用)
・注意事項等の文書による伝達
・別室の設定
・1階又はエレベーターが利用可能な試験室で受験
・試験室入口までの付添者の同伴
・試験場への乗用車での入構
・トイレに近い試験室での受験
・座席を試験室の出入口に近いところに指定
根本的にポイントがずれているとしか感じられない。文字に関しては、「拡大する」という配慮しかない。拡大文字
にするだけで、文字をよむハードルがさがるというひとも、たしかにいる。しかし、それだけでは不十分である。
そこで、さらなる改善が必要になる。たとえば藤芳衛(ふじよし・まもる)は「テストのユニバーサルデザイン」とい
う論文で、つぎのように指摘している。
文字認知に障害を有する学習障害者及び中途失明者のセンター試験等の受験を可能にするためには、音声問題
の開発が必要である。センター試験では、通常の文字問題冊子に加えて、重度視覚障害者用に点字問題、弱視者
用に拡大文字問題が用意されている。しかし、音声問題がないため、文字認知に障害を有する学習障害者の中に
は受験が困難な者がいる。また、点字で受験するためには3ないし5か年以上の触読訓練が必要であるため、中
等教育段階での中途失明者は受験を断念せざるを得ない。
長文で問題の文書構造が複雑なセンター試験等には、独自の音声問題の開発が必要である。欧米では試験官が
直接問題を読み上げる対面朗読方式及びオーディオカセット方式の音声問題が常に用意されている(ふじよし
2009:1025)。
藤芳は、情報機器を利用したテストのユニバーサルデザインを開発しようとしている(1025-1026ページ)。その内
容は、テストの新時代を感じさせるものである。
中邑賢龍(なかむら・けんりゅう)の『発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー』という書名にもあ
るとおり、そのひとの可能性をひきだすことが「教育」の目的ではないだろうか。そうしてみると、支援技術(テクノロ
ジー)や人的支援(学習支援員)などを利用して、そのひとにとって学習しやすい環境を整備することが必要である。
そうでなければ、ひとつの型に人間をおしこめるような、画一的な教育をつづけることになる。
カテゴリーとスペクトラムのあいだ―自閉症を例に
わたしは、2007年4月から2010年の5月まで知的障害者の入所施設で生活支援の仕事をした。3年のあいだ、わたし
の内面は日々変化し固定されることはなかった。「そのひと」がよくわかるようになったとおもえば、途端に、わから
なくなったりもした。知的障害や自閉症がなんとなく把握できてきたころには、あらたな疑問がうまれた。当初は、自
閉症は非自閉症者とはまったくことなる集団であると感じていた。だが、いつのまにか自閉と非自閉は連続しているこ
とに気づくようになった。「自閉症スペクトラム」という視点である。
竹中均(たけなか・ひとし)は『自閉症の社会学―もう一つのコミュニケーション論』で、自閉症は「あれかこれ
か」の二者択一のカテゴリー概念よりも「「スペクトラム概念の方がふさわしい」という考え方から、「自閉症スペク
トラム」という考え方」がうまれたことを指摘し、つぎのように説明している。
自閉症は、個々のケースが非常に異なっており多様なので、白か黒かに割り切ってしまうカテゴリー概念にはな
じみにくいのです。おそらく、あらゆる障害というものが、カテゴリーにはなじまない側面を持っていると思わ
れるのですが、自閉症の場合、この問題がとりわけ顕著なようです。このスペクトラムという考え方を突きつめ
れば、〈普通の〉人々と自閉症の人々との境界線も明確なものではなく、連続的な程度の差ということになって
きます(34ページ)。
15
施設では、日常の衣食住をささえつつ、個々人のさまざまな要求をうけてそれにこたえる。それが支援員のしごとだ
った。そこでは「自閉症とは」「知的障害とは」というテーマは存在しない。ただ「このひとは、いま」が存在し、そ
して「わたしになにができるか」ということがあるだけだった。
もちろん、なんとなくのイメージとして「自閉症のイメージ」は存在し、それは支援していくうえで参考になる。けれ
ども、一番たよりになるのは、わたしがそのひとと関係してきたなかで、つみかさねてきたものだった。結局、大事なの
は、自閉症がわかる/わからないの問題ではなく、「そのひと」がわかるかどうかだ。
現在、自閉症についての本はたくさん出版されている。参考になる本もおおい。自閉症のひとと出会えば、わたしと
そのひとの「ちがい」が目につくこともある。しかし、連続している部分も同時にみえてくる。自閉症というカテゴリー
をつかって「だれか」のことをかんがえるときには、スペクトラム(連続体)という視点を一方で維持しておきたい。
竹中は「何のためのカテゴリーか」として、つぎのようにのべている。
カテゴリーはあくまで、自閉症スペクトラムの人々と〈普通の〉人々の社会的な共生のために役立つものでな
ければなりません。ですがカテゴリー化は、両刃の剣(りょうばのつるぎ)なのです。この剣を安全に使うため
には、既存のカテゴリーを何度でも見直し、スペクトラムに立ち戻っては、新たなカテゴリー化を模索するとい
う作業を繰り返すべきでしょう。社会学的視点が「ともに生きる」ことを大切にするのならば、自閉症スペクト
ラムの人々の世界と〈普通の〉人々の世界を「地続き」に捉えようとするスペクトラム概念は、つねに立ち戻る
べき出発点ではないでしょうか(39ページ)。
たしかに、だれかに対して異文化を感じることはある。しかし、つきあっていくなかで、にているところ、おなじとこ
ろを感じるようになる。それは、「同質」「おなじ文化を共有している」と感じていた相手にも、いえることだろう。
「おなじだ」「にている」と感じていた相手に、異文化を感じることもある。
排除するための区別やカテゴリー化ではいけないということだ。
参考文献
あべ やすし 2010 「均質な文字社会という神話―識字率から読書権へ」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会
言語学』生活書院、83-113ページ
品川裕香(しながわ・ゆか) 2003 『怠けてなんかない! ディスレクシア』岩崎書店
すぎむら なおみ/「しーとん」編 2010 『発達障害チェックシート できました―がっこうの まいにちを ゆらす・ずら
す・つくる』生活書院
中邑賢龍(なかむら・けんりゅう) 2007 『発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー』中央法規
竹中均(たけなか・ひとし) 2008 『自閉症の社会学―もう一つのコミュニケーション論』世界思想社
藤堂栄子(とうどう・えいこ)編 2010 『学習支援員のいる教室』ぶどう社
広田照幸(ひろた・てるゆき) 2003 『教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み』春秋社
藤芳衛(ふじよし・まもる) 2009 「テストのユニバーサルデザイン」『電子情報通信学会誌』92(12)、1022-1026
保井隆之(やすい・たかゆき) 2009 『みんなが主人公の学校』大日本図書
柳治男(やなぎ・はるお) 2005 『〈学級〉の歴史学―自明視された空間を問う』講談社
用語解説
発達障害:自閉症(知的障害のある自閉症、アスペルガー症候群)、ADHD(注意力欠如障害、多動性障害)、学習障
害(読字障害、書字障害、算数障害の総称)、知的障害などを包括的にとらえる用語。
変(へん):「変であること」を肯定し、自分たちを積極的に「ヘンタイ」と自称する性的少数派もいる。英語でクイ
ア(queer)という。
漢字の筆順をめぐって―学校教育を批判する
あべ・やすし(2008年11月22日公開)
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/hituzyun.html
はじめに
わたしは「漢字という障害」において、漢字学習の困難だけでなく、漢字教育のむずかしさとジレンマを紹介し、日
本語をよみかきするうえで、漢字がおおきな障害となっていることを指摘した(あべ2006)。なぜ、漢字教育はむずか
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しいといえるのか。それは、「日本語には、2000字もの漢字がつかわれており、その漢字には訓よみと音よみがあり、
画数もおおく複雑な字づらのものが大量にある」からである(同上:159)。漢字をよむのは、むずかしい。そして、漢
字をかくのも、むずかしい。それは、日本語をはなし、漢字のよみかきを学習したひとなら、だれしも共感できること
だろう。むずかしいからこそ、何度も漢字テストにつきあわされてきたのだ。
ひとは、なにかをおしえるさいに、なんらかの指針となるものを必要とする。おしえるうえでの根拠となるものがなけ
れば、こころもとなく、不安になり、うそをおしえているような気分になってしまう。おしえてみれば、わかることだ。
じっさい、わたしにも経験がある。いってみれば、おしえるひとにこそ、テキストは必要なのである。
漢字をおしえるのも、おなじことだろう。質問をうけたときに「きちんと説明したいから」という理由から、漢字の
テキストを必要とするのは、ごく当然のことである。だが、今回といなおしてみたいのは、専門家による漢字研究の成
果が、教育実践において、どれほど活用されているのかということにある。いいかえれば、漢字研究と教育実践は、ど
れほど接点をもちえているのか、ということである。ここでは、漢字の筆順の問題を中心にとりあげてみたい。筆順の
問題は、「てがき文字へのまなざし」でとりあげたように、いきすぎた規範主義の一例として、批判的に検討すべき課題
である(あべ2003)。結論をさきどりすれば、「二画以上の文字であれば二通り以上の筆順があって当たり前」なので
ある(こばやし2003:56)。だが、それを指摘するだけでは「正しい筆順という幻想」は、のりこえられないだろう。
1. 『漢字指導の手引き』をめぐって
なかの まきは、「左手書字をめぐる問題」という論文で、つぎのように説明している。
「正しい」筆順というものは明確に定められてはいない。学校教育では、文部省『筆順指導の手引き』によっ
て示されている。そこで示された規範は「はやく、正しく、きれいに」書くためのものであって、その根拠は
「先人の知恵」という慣習によるものである(なかの2008:68)。
それではここで『筆順指導の手引き』に注目してみよう。藤堂明保(とうどう・あきやす)は、『漢字の過去と未
来』において、つぎのように解説している。
書き方の強制と並んで、教師と児童を悩ませているのが「筆順」の強制である。これは文部省に責任がある。
昭和25年[1950年―引用者注]ごろ、文部省国語課の人が、さる書家に頼んで当用漢字を書いてもらい、当事
者であったある役人が主となって「筆順の手引き」というものを出版した。わたくしの聞くところでは、これは
もと国語課の役人の私的な出版物であったという。ところが世間では、これを文部省の出したものだと思いこ
み、後生大事にそのまねをした。その時にサンプルを書いた書家が、もし戦時戦中と同じ流儀を伝えた人であっ
たなら、問題は小さかったはずだが、たまたま行書の筆法を楷書に持ち込むくせのある人であったから、戦前戦
中の教育を受けた親たちと、今日の子どもたちの間に、筆順が目立つようになった(とうどう1982:200)。
最近の著作では、阿辻哲次(あつじ・てつじ)が『漢字を楽しむ』で『筆順指導の手引き』について、つぎのように説
明している。
筆順はもともと楷書や行書あるいは草書など、書体によってことなっていたもので、またおなじ書体であって
も何とおりかの書き方があって、統一されたものではなかった。しかし学校で子どもたちに漢字の書き方を指導
するうえでの混乱がないようにとの配慮から、筆順の基準となるものが考えられ、それが昭和33年(1958)に
文部省から「筆順指導の手引き」という名前で発表された。これははじめ政府の内部文書として作られたものだ
ったそうだが、しかしほかに同様の著述がなく、さらに文部省の名前を冠して出たものだから、いつのまにか絶
対的に正しいものと認識され、いまでは筆順に関する規範とされるようになった(あつじ2008:103)。
だが、そもそも『筆順指導の手引き』の「前書き」には、「ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りと
するものでもなく、また否定しようとするものでもない」と明言されていたのだ(同上:104)。
2. 「かきやすさ」のための筆順
なかの まきは、「左手書字」という観点から、筆順の指導をつぎのように批判している。
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筆順は、書きやすいように書けばそれでよいものであろう。ただし、やはりはじめて文字をならう子どもや、
日本語学習者にとって一応の基準が必要となる。問題は、教育者が「正しい筆順」にこだわり、それだけを考え
てばかりいるから、「正しさ」にあてはまらない左手書字者への一応の基準を示せないところにある(なかの
2008:72)。
この点は、阿辻もつぎのように指摘している。
要するに筆順とは、その漢字を書くときにもっとも書きやすく、また見栄えよく書けるようにおのずから決ま
る順序にすぎない。大多数の人は右利きだから、世間で認定される筆順は右利きの者に書きやすいようになって
いるが、左利きの人には当然それと異なった筆順があってしかるべきである(あつじ2008:104)。
このように、筆順本来の性質である「かきやすさのための慣習」という点をかんがみるならば、「これまで縦書きで
の書き方を基準に考えられてきた筆順が、横書きの動きにあわせて変化してもいっこうに不思議ではない」ということ
だ(同上:103)。
3. 学問をうらぎるもの―学校教育の管理主義的体質
それでは、なぜ教育現場では筆順の規範が、ほとんど絶対的なものかのように想定されてきたのだろうか。それは、
小林一仁(こばやし・かずひと)の『バツをつけない漢字指導』という本が、逆説的にしめしているのではないか。つ
まり、これまでの漢字指導は、バツをつけるためのものだったということだ。バツをつける「ため」とまではいえない
としても、すくなくとも、バツをつけるのを当然視してきたことは、明白な事実である。そして、それを正面から指摘し
たのが、「漢字テストのふしぎ」というドキュメンタリー作品であった。この作品は、長野県の梓川(あずさがわ)高
等学校の放送部が製作したものであり、ウェブ上でも公開されている。書籍では、阿辻の『漢字を楽しむ』でくわしく
紹介されている(あつじ2008:74-76)。
小林は、『バツをつけない漢字指導』で、つぎのようにのべている。
学校教育で、一つ一つの文字の筆順が、なぜ問題とされ、取り上げられるのか。…中略…人により、また時と
場合により通る道が違い、どのルートを通っても目的地に着けるのなら、いずれの道順であってもよいのではな
いかというのが、柔らかな応じ方である。一つに限るというのは、管理的、統制的な仕方である、と思われる
(こばやし1998:209-210)。
そして、小林は「筆順はテストすべきでない」と主張している(同上:220)。漢字研究の成果によれば、筆順には
「ひとつの正解」というものが、ほとんどないからである。あるいは、「流派によってちがう」という表現もできるは
ずである。学校教育という空間において、はたして、ひとつの流派だけが「正しい」とすることに、どれほどの「教育的
意義」があるのだろうか。もし、学校という空間が学問的正当性ではなく、管理する思想によって支配されているので
あれば、もはや議論の余地はなくなる。「ひとつの正解」は、教員の絶対的権力によって、いつまでも保障されること
になる。だがそれは、学問をうらぎる行為である。
なかの まきは、日本語教育の現場でも、筆順の規範が当然視されている現状をあきらかにしている(なかの
2008:70-72)。日本語教育は、国語教育にくらべれば、まだしも日本語学の研究成果がいかされている空間であるとい
えるだろう。その日本語教育の領域においても、筆順の規範がいきのこっているのだ。教育実践においては、漢字研究
の常識が、ほとんど活用されていないことをしめしているといえよう。
おわりに
教育をかえるのも教育であるならば、保守主義で支配された教育は、いつまでも保守主義を維持しつづけることにな
る。教育実践の場には余裕がなく、学問の成果にふれる余裕など、ほとんどないのかもしれない。だが、今回とりあげ
た文献のほとんどは、一般むけの書籍がほとんどである。あるいは、つぎのような背景もかんがえられる。ひとは、自
分にとって都合のよい情報にだけ、注意をむけるものだと。バツをつける側は、自分にはバツをつけないものだと。
最後に、つぎのようにといかけることを、おゆるしいただきたい。
学校教育は、いつまで学問を、うらぎりつづけるのだろうか。
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参考文献
阿辻哲次(あつじ・てつじ) 2008 『漢字を楽しむ』講談社現代新書
あべ・やすし 2003 「てがき文字へのまなざし―文字とからだの多様性をめぐって」 『社会言語学』3号、15-30
あべ・やすし 2006 「漢字という障害」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解放』
三元社、131-163
小林一仁(こばやし・かずひと) 1998 『バツをつけない漢字指導』大修館書店
小林一仁(こばやし・かずひと) 2003 「学校教育における「漢字」学習」『しにか』4月号、50-56
藤堂明保(とうどう・あきやす) 1982 『漢字の過去と未来』岩波新書
なかの まき 2008 「左手書字をめぐる問題」『社会言語学』8号、61-76
ましこ・ひでのり 2003 『増補新版 イデオロギーとしての「日本」―「国語」「日本史」の知識社会学』三元社
ウェブページ
長野県 梓川(あずさがわ)高等学校 放送部 2007 「漢字テストのふしぎ」『第29回東京ビデオフェスティバル』
(http://www.jvc-victor.co.jp/tvf/archive/grandprize/tvfgrand_29a.html)
松本仁志(まつもと・ひとし) 1997 「いわゆる「正しい筆順」の幻想」『広大フォーラム』29期2号
(http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-2/hitujyun.html)
感想、疑問、苦情の紹介
私語が気になるという苦情が複数ありました。学習環境の改善にご協力ください。プリントに余白がほしいという要
望がありました。工夫します。今回はまだ改善できていません。
―――
…「外国人とのコミュニケーション」をどのように論じるのか、という話で (1)外国人や少数民族をマイノリティとし
てとらえる (2)歴史をふまえることの2つが重要と話してましたが、何に対して重要なんですか? あと(1)はなぜマ
イノリティとしてとらえるのが必要な考えなんですか? 他とはちがうアイデンティティの持ち主として外国人を認識する
ことで人間の多様性を壊さずにすむからですか?
【あべのコメント:するどい質問、ありがとうございます。『Xメン』という映画シリーズをしっていますか? あの物語
は、特別な能力をもつ「ミュータント」が地球上で差別や迫害の対象になってしまう状況をえがいています。そこでモチ
ーフにされているのは、アメリカにおけるアフリカ系市民の公民権運動、性的マイノリティの権利運動などです。つま
り、さまざまなマイノリティの視点から「よみとく」ことができる物語になっています。
この社会には、さまざまなマイノリティが存在します。それは、たんにバラバラに存在しているわけではない。あるマ
イノリティの社会運動が、のちに、ほかのマイノリティの社会運動に影響をあたえることもある。なぜなら、それぞれの
問題は個別でありながら、共通する点があるからです。歴史や社会という、すこし「おおきな文脈」におくことで、みえ
てくることがあるはずです。】
―――
多数派、少数派というのが集団を名付けることで生まれることは確かにそうだと思いました。そこで、言葉を持たない
とされる人間以外の動物たちには差別はないのかなと考えました。…後略…
―――
「マイノリティ」と「マジョリティ」について。
→「少数派」は対象化され、他者化され、差別化されているが、「多数派」には名前がつけられていないために、自分
たちは 普通 だと思わせているということは、「ああ、なるほど!!!」と思いました。この話を聞いて、私は小学校や中学
校のときのクラスの話し合いの授業を思い出しました。何かを決めるときに、最後に多数決を取るのですが、私は、み
んなが手を挙げるほうの案に、いつも賛成をしていました。それは、「みんなと一緒じゃないとおかしいと思われる」
と自然と考えていたからだと思います。「差別はいけない」と言われているけれど、無意識に「マイノリティ」のほうを
「おかしい」と思う感覚があると思うと、少し怖い気がしました。
―――
自分を基準にして考えると、それが当たり前で普通だと思ってしまうけれど、よくよく考えてみれば、視点がかわれば普
通で表される特徴が全部かわるんだなと改めて思った。「普通だし。」とか「みんなそうじゃん」とか、安易に使えな
いと思った。その普通にも必ず特徴があるはずだから、もっと注意して物事を捉えたいと思った。
19
―――
他の授業で「有標・無標」という言葉を習いました。有徴・無徴と同じですか。
私たちが片面だけに視点を置きがちなのは学校教育に1つ原因があると思います。特に歴史では「これが正しい」という
感じで習うので片面しか知りません。だから歴史観について摩擦がおきるのだと思います。
【あべのコメント:有標・無標とおなじです。】
―――
確かに考えてみると「多数派には名前がない」というのはとても良く理解出来ると思いました。オタクなんていい例で
はないかと思います。特定の分野のみが少数派とされ、同じように熱狂的にのめり込んでいるのにも関わらず、そのよう
に分類されない…。目線によってもだいぶ変わりますよね? ある物を基準に捕らえると多数派だったのに、基準を少し
変えると少数派に部類されたりと。…後略…
―――
…「マイノリティ」が異質とされる、ということで名前が付けられるようだと述べられてらっしゃいましたが、例えば
「看護士」←→「看護婦」という言葉では、「看護婦」は有徴だがマイノリティではないように感じました。「女性自体
がマイノリティである」と定義すると、「ヘルパー」←→「男ヘルパー」という授業内であげられていた例と矛盾してい
るように感じました。「マジョリティ」にも名前があることもあるのでは?と思いますがどうでしょう。
【あべのコメント:歴史的な文脈をみれば、看護師という表現を普及させたのは、性別をとわない表現をつかうほうが
適切だという認識がひろがったからです。女性が男性との関係においてマイノリティであるということと、ヘルパーは女
性がするものという認識があることは別のことであり、両立します。また、介護は女性がするものという認識の背景に
あるのは、性差別(性別役割分業を固定化する態度)です。個々の文脈において、ひとはマイノリティであったり、マジ
ョリティであったりします。民族的には多数派であっても、身体的には少数派であるというように。】
―――
「多数派は名前がない(知らない)」という話がありましたが、同性愛の例でいうなら、自分が異性愛に属していると
いう意識がある者は、その分対極の位置にある存在を意識しているという意味で、対極の存在に近しいような、少数派
となり得る存在であるといえるのでしょうか。
【あべのコメント:そのとおりです。つまり、自分の立場を相対化できているということですから。】
―――
自分がマジョリティ=主流であるという感覚は安心感をもたらすのだと思います。力を持っている集団に属している訳で
すから。しかし、マジョリティーのアイデンティティはマイノリティーという対立者によって支えられています。マイノ
リティーなしでは、マイノリティーは団結し得ないのです。マジョリティとマイノリティの対立は、集団の必然ではない
でしょうか。
―――
…少数派に名前をつけて呼ぶのに対し、多数派じゃ名前がなかったり「普通」と言われたりします。その「普通」はど
こから来たのか、私はよく気になります。
【あべのコメント:天からふってきたものではないことは、たしかです。制度がつくったもの、ある状況で、つくってし
まっているものだとおもいます。】
―――
日本は島国であるので、ヨーロッパ諸国よりも内と外の意識が強いのであろうと考えました。…後略…
【あべのコメント:これも、「どこに注目するのか」という点に関係してくるのですが、この世界には島国がたくさん
あります。日本以外の島国は、どのような社会なのでしょうか。それをふまえる必要があるでしょう。】
―――
最近、障がい者や外国籍の方、被災者の方々に対する自分の中の差別意識や偏見に悩んでいます。「差別しちゃいけな
い、こんな風に考えちゃ失礼だ」という意識との葛藤があります。どうしたら、自分の中にある2つの気持ちに折り合い
をつけて、相手に心をこめて接することができるようになりますか?
【あべのコメント:「悩んで」いること、「葛藤」していること、それ自体が大事なことです。それは自分なりの倫理が
あるということですから。そして、意識はどうあれ、どのように接するのかということに注意できたら、それでいいとお
もいます。肝心なのは、意識ではなく、行動(態度)でしょう。】
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「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第4回「文化ってなんだろう」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
対義語としての自然と文化
ことばには文脈がある。ことばの意味は、文脈によって具体的になる。部分は全体に規定され、全体は部分に規定さ
れる。「文化」の意味も文脈によってさだまる。文化をどのような語と対比させるのか、どのような語とくみあわせる
のかによって、「文化」の意味がきまるということだ。具体的にみてみよう。
文化人類学は、なぜたんに人類学ではなく文化が頭につくのか。それは自然人類学と区別するためだ。ここでは、文
化を自然と対比させている。この文化と自然を区別する視点は「文化」を定義する議論においてもみいだすことができ
る。ましこ・ひでのりによる文化の定義をみてみよう。
複数の人物が共有する行動様式、およびそれにともなう価値観。拡張解釈することで、ホ乳類や鳥類の地域
差・集団差、ヒトとほかの種の体系化された意思疎通なども、これにふくめてもよい。
ヒ ト の 行 動 の う ち 、 生 得 的 に プ ロ グ ラ ミ ン グ さ れて い る 様 式 以 外 は 、 こ の 「 文 化 」 の 産 物 ( ま し こ
2010:105)。
ましこは「要は、本能的行動以外はすべて文化的行動(ないしは、その派生物)」としている(106ページ)。ここで
は本能と文化が対義語になっている。
日本文化をかたるということ
「日本人」についてかたるとき、それがどのような意味の「日本人」なのか、あまり意識することがない。その「日
本人」とは、国籍をさすのか。民族性をさすのか。文化か。言語か。血液か。居住地か。たいていの場合、そのどれで
もない。すべてをうやむやにした「日本人」がイメージされている。なかには、日本人というカテゴリーに「ふつう」と
いう、さらにあいまいな表現をくわえることがある。
「ふつうの日本人」
「日本人」があいまいな概念であるように「日本文化」というのも、あいまいな概念である。それは「国民の文化」
なのか、「民族の文化」なのか。アイヌ文化や沖縄の文化をふくめるのか、ふくめないのか。日本文化としてイメージさ
れているもののなかには、大陸(中国やインド)を起源とするものがある。そのような「外来の文化」は日本文化なの
か。「外来の文化」というものをそぎおとしていけば、「純粋の固有の文化」というものが発見できるのか。
文化はすべて、交流の産物である。ひとはたえず移動してきたし、これからも移動しつづける。外来と土着という概念
は不毛な対立にすぎない。純粋という概念は異物を認識したときに、事後的に認識されるものにすぎない。異物なしに
は純粋という概念が成立しないということだ。そもそも、国境線を文化の境界線としてとらえることに問題はないの
か。西川長夫(にしかわ・ながお)の議論をみてみよう。
フランス文化や日本文化の存在に疑問をいだくということは、文化の問題を「民族」や「国民」のレベルで切
り取ることについて疑問をいだくことである。より一般的な形で「国民文化」への疑問と言いかえてよいであろ
う。多民族国家の例を引くまでもなく、「国民」は一般に雑多な文化を担う集団の集まりであるから、「国民」
がある単一な文化の基礎的な集団でありえないことは誰の目にも明らかだろう。ある人間が 人と呼ばれるの
は、その国の国籍を有することが唯一の条件であって、その人物の文化的な内容は問われない。またベネディク
ト・アンダーソンがいみじくも定義したように「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体」で
あって、心に描きだされたような「国民」が現実に存在するわけではない。
では「民族」であれば文化の基礎的な集団となりうるであろうか。一般に民族は文化の母胎であると考えられ
ている。だが「民族」は「国民」以上に曖昧な概念である。「国民」にはその容器ともいうべき国家があり、領
域を区切る国境があるが、「民族」の境界を定めるものは想像力以外に何もない(にしかわ2001:286)。
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「外国人」に日本文化を紹介するというとき、日常生活には登場しないものをもちだすのは、なぜだろうか。キモ
ノ、茶道、歌舞伎などをもちだすのは、どうしてなのか。
異文化に接するのはたのしい。「めずらしい」からだ。ちがうものは新鮮だからだ。しかし、その「ちがい」をプレ
ゼンテーションしようとして自分たちの日常から「とおい」ものをもちだすのは、文化を「博物館に陳列されるもの」
のようにとらえる態度である。
人間は、それぞれちがう。そして、同時に、それほどちがってはいない。共通点はいくらでも発見できる。それだけ
のことだ。ありのままの日常生活に文化があり、ちがいがある。人間は文化や伝統の継承者であるだけでなく、文化を
つくる主体である。「いきる」ということが、人間の生活が、さまざまな文化をかたちづくっている。
文化を比較しようとするとき、便宜的に集団をおおざっぱに色わけし、分類し、文化をぞれぞれ記述する。それは便
宜的な記述にすぎないし、そのひとの視点、そのひとの世界観にすぎない。しかし、その分類や記述を固定化したり、
絶対視したり、その「色わけ」を「敵と味方」の境界線にしてしまうことがある。
なんのために文化をかたるのか。文化を比較する目的はなんなのか。その目的をあきらかにする必要がある。おおざ
っぱな議論は、異論を抑圧してしまう。
「日本人はふつう、このようにする。」
このような想定が、多様な価値観を抑圧してしまう。文化論は、きめつける行為でもある。福岡安則(ふくおか・や
すのり)は、『在日韓国・朝鮮人』でつぎのように「単一民族」という幻想を批判している。
…日本は同質的社会だという言説には、日本は同質的社会であるべきだという価値観がセットになっている。事
実認識のよそおいをもって価値判断が語られるとき、無意識裡(むいしきり)の不寛容がはたらきやすい。そこ
に問題がある(ふくおか1993:15)。
「日本人はふつう、このようにする」という主張には、「日本人は、このようにふるまうべきだ」という価値判断が
こめられている。
出羽の守(でわのかみ)の問題―「○○では、□□だ」
鈴木義理(すずき・よしさと)は『つくられた日本語、言語という虚構―「国語」教育のしてきたこと』という本の
「あとがき」で、つぎのようにのべている。
外国から帰った人びとのことを「出羽の守」ということがあるらしい。何かと言うと、「○○では」というこ
とからそう呼ぶようだが、この言葉を知ったのはもう30年以上前のことになる。だが、現在でもあのころとほ
とんど事態は変わっていないような気がする。相変わらず「出羽の守」たちが、たくさんいるのだ。自分もそう
ならないようにするためには、かなり注意しなくてはならない。高校で「国語」の教員をやりながら、インドの
言語政策のことをあれこれ調べて出版したのはもう2年前になる。ついつい「インドでは」などと言うことが多
くなってしまった。だが、インドなるものは何かと考えてみると、それは、ほとんどはっきりと焦点を結ばない
ということに気が付くまでに10年以上の年月がかかった。例えば、「インドでは日本みたいなカレーはないん
ですよ」などと、よく言っていたのだが、あるとき、にんじんとジャガイモの入ったポークカレーをケーララの
町で食べたことがあり、それ以来、私は今までの不明を恥じ、インドのカレーについての発言を控えるようにな
った。「出羽の守」になっている自分に気が付いたからだ(すずき2003:231)。
「でわのかみ」とは、「どこどこでは、こうなんだよ」とその社会の一面だけをきりとり、それがすべてのように断言
してしまうことをさしている。これに類するものとして、たとえば「とわのかみ」というものも、あるのではないか。
「自閉症とは」「同性愛とは」「日本文化とは」…。
結局のところ、なにごとにせよ、ある視点にたって、一面的に論じることしかできない。どんなことについても、そ
れをかたるのが、だれであっても、一面的であることをさけることはできない。すべてを把握したうえで、すべてを説明
しつくすことはできないからだ。その点に注意しながら、「○○とは」をかんがえるようにしたい。
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摩擦(まさつ)としての異文化コミュニケーション
価値観や習慣のちがいがあれば、摩擦がおきる。異文化は、いつもどこでも「心地よい」わけではない。しんどい、
めんどくさい、わずらわしい、そのような感情をひきおこすこともある。そのとき、摩擦をさけるために接触をさけた
り、自分の意見をいわずにだまったり、相手をだまらせたりすることがある。そのようにして、居心地のよさが担保さ
れる。安心をえる。「だれかを排除して、自分の安心をみつける」――ことばにすると印象がわるい。けれどもそれ
は、わたしたちが日常的にしていることではないだろうか。
「ここにいると、ほっとする」「いっしょにいると、安心する」――そのように感じるのは、そこに摩擦がないから
だ。ひとりになると、ほっとする。摩擦をさけていけば、最後にはひとりになる。
ひとりになると「ほっとする」ことがあるのは、あたりまえのことである。それは否定すべきことでもない。摩擦は
しんどい。それども、だれも、ひとりだけでは生活できない。摩擦と安心の両面をいきていくしかない。
のぞむ、のぞまないにかかわらず、この社会にはさまざまなひとが共存している。その多様性はたのしいこともあれ
ば、いやなこともある。多様性を尊重しない社会は、個をたいせつにしない。一色になることを要求する。そのなかで
は自分らしさは発揮できない。いきがつまる。自由がない。
「わたしは自由になりたいが、ほかのひとの自由はみとめない」――そのような態度は批判される。みんなに保障さ
れなければ、わたしの自由はない。自分だけの自由は、自由というよりも権力である。権力あらそいは、どこにでもあ
る。なくすことはできないだろう。しかし、一方で民主主義という理念があり、この社会は民主主義をめざしている。
自分らしさをいかすために、自分らしくいきるために、多様性を尊重することをえらぶ。共存するということは、と
きには摩擦がおきるということだ。ぶつかりあうということだ。みんな仲よくというのは幻想にすぎない。価値観は対
立する。習慣はちがう。けんかにもなる。けれども、それでいいのではないか。
習慣や価値観、社会制度をめぐって意見が対立するとき、どちらかだけが一方的に非難されるような状況は、公平と
はいえない。しかし、ただ両者が意見をぶつけあっているような状態であるなら、問題とはいえない。むしろ、歓迎す
べきことではないか。
関係を固定することなく、異論をかかえたまま、摩擦をこわがることなく、自分の権利を主張し、そして、異論や対
立する権利があるなかで、いかに「おりあいをつけていく」のか。模索することしかできない。
民主主義の社会、多文化社会はさわがしいのが当然である。もし、しずかな社会があるとすれば、それは異論を抑圧
し、自分をださずにいるからだ。
世界観を更新する
社会問題や差別について議論するとき、きまり文句のように「偏見をもつのはよくない」という。先入観をもってい
たことに気づいて「反省した」という。しかし、ひとそれぞれに世界観があり、知識がある。そして、しらないことがあ
る。だれもが、なんらかの偏見や先入観をもっている。それは表現をかえれば、「世界観」や「経験則」である。
重要なのは、さまざまな他者と交流していくなかで、自分の世界観や知識、あるいは価値観を更新しつづけることがで
きるかどうかである。ゆらいだり、とまどったり、わかったと感じたあとに、わからなくなる。そのような経験をたい
せつにすることができるかどうかである。
「多文化」が政策になるとき―多文化主義をめぐって
カナダやオーストラリアなど、多文化主義を政策的にとりくんでいる国がある。日本でも総務省が2006年に「地域に
おける多文化共生推進プラン」をさだめ、地方自治体に通知した。「多文化」は社会運動のスローガンにとどまること
なく、国の政策レベルまで浸透している。その状況のなかで、多文化主義をめぐる議論を検討しておく必要がある。
鄭暎恵(ちょん・よんへ)は多文化主義(マルチカルチュラリズム)の「可能性と困難」について議論するなかで、つ
ぎのように多文化主義の問題点を指摘している。
まず、最初にあげられるのは、マルチカルチュラリズムを導入することで生じる、諸文化のステレオタイプ化
という問題である。相互理解が可能となるよう、文化を規格化する問題といいかえてもいい。また、そうして規
格化された文化を「尊重する」という名目で、「保存を義務化」することの弊害がある。本来、マルチカルチュ
ラリズムは自文化に対して自己決定権を保障するために導入されたはずなのだが、ステレオタイプ化/規格化/
保存の義務化というプロセスにはまった途端、本末転倒していく。他者化され、外から規定されることで、文化
は内からわき出る生命力を失う。文化とは、ある人々がともにその風土の中で生き延びる(サヴァイヴ)ために
編みだした生活様式だったのだから、状況に応じて当然変化するはずであった。が、マルチカルチュラリズムを
通した途端、文化は「博物館」に陳列され、他者の賛辞は受けるかもしれないが〈見られる/記述される/評価
23
される対象物〉となる。マルチカルチュラリズムの中で尊重されるべき文化かどうか、査定される必然性が生じ
るからだ。誰の目にも留まらない文化は、そもそも文化の一つとして数えられることもない。
つまり、マルチカルチュラリズムは「文化は分類することが可能だ」という前提に基づいているわけだ。が、
文化を分類するのはいったい誰なのか(ちょん2003:224)。
多文化主義を政策にかかげるならば、文化を査定し、分類し、そのうえで尊重するという状況が生じる。そこでは文
化は固定的にとらえられ、状況に応じて変化するような生命力をうしなってしまう。これは抽象的な議論ではあるが、
もっともな指摘である。
たとえば、学校教育のカリキュラムのなかで、どのような文化をとりあげるのか。どのような団体に補助金をだすの
か。そのように、公教育や税金の問題を想定すると、これが政治的な問題であることがあきらかになる。
ふたつの「ちがい」
さいごに「多文化共生センターきょうと」のキャッチコピーを紹介したい。このグループは阪神大震災のときに設立さ
れた「多文化共生センター」の京都支部として出発し、のちに独立した。現在では医療通訳にとりくんでいる。
あってはならないちがいをなくす
なくてはならないちがいを尊重する
あってはならないちがいとは、権利をめぐるちがいである。不平等や差別をなくすということだ。そして、なくてはな
らないちがいとは、文化の多様性ということである。多文化共生センターきょうとのサイトでは、つぎのように説明し
ている。
国籍やことばによる「ちがい」による格差と排除(情報の格差、社会保障の制限・差別や偏見)をなくし基本的
人権の保障を求めると同時にそれぞれの文化背景やアイデンティティなどの「ちがい」を認め尊重する(http://
www.tabunkakyoto.org/top/センターについて/)。
次回は、現代社会において国籍がどのように機能しているのかについて検討してみたい。
参考文献
鈴木義理(すずき・よしさと) 2003 『つくられた日本語、言語という虚構―「国語」教育のしてきたこと』右文書院
鄭暎恵(ちょん・よんへ) 2003 「マルチカルチュラリズムの可能性と困難」『〈民が代〉斉唱―アイデンティティ・
国民国家・ジェンダー』岩波書店、199-234
西川長夫(にしかわ・ながお) 2001 『増補 国境の越え方―国民国家論序説』平凡社ライブラリー
福岡安則(ふくおか・やすのり) 1993 『在日韓国・朝鮮人』中公新書
ましこ・ひでのり 2010 「科学の対象としての文化・再考―文化の社会学序説」『知の政治経済学』三元社、105-123
用語解説
自文化中心主義:エスノセントリズム(ethnocentrism)の訳語。自分が属す文化をたかく評価し、そのほかの文化を
おとしめる態度をさす。
文化相対主義:自文化中心主義や文化帝国主義などと対比してつかわれる。文化に優劣はないという文化人類学の立
場。一定の意味があるが限界もある。限界については「食文化の多様性と対立」などで論じる。
自然人類学:進化論などにもとづく、生物学的な人類の研究。
ステレオタイプ:固定的なイメージ。固定観念。
想像の共同体:ベネディクト・アンダーソンの古典的名作『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』。ナショナリ
ズムの歴史的起源をあきらかにした。2007年に定本が出版された。
24
「文化と生活のあいだ」(レポートの例1)
あべ やすし
近年、「多文化社会」や「多文化共生」という理想がさまざまなかたちで論じられ提唱されるようになってきた。だ
が、ものごとを慎重にかんがえるならば、そこで「文化」とされているものはいったいなにか、という根本的な問題を
さけてとおることはできない。
「文化」という概念に関する議論として、複数文化研究会による『〈複数文化〉のために』に注目してみたい。同書で
は、「はじめに」で「単一の純粋な文化」という概念に疑問をなげかけ、つぎのようにのべられている。
…民族であれ宗教であれ言語であれ、何らかの単一の「文化」の存在が自明視されるとき、そうした大文字の
「文化」の名のもとに、複数の〈文化〉の微細(びさい)な運動が封じ込められてしまうことになる。そのよう
な「文化」とはもはや、ある特定の価値規範へ人々を動員してゆくイデオロギー装置でしかないだろう。
私たちはつねに、複数の文化が幾重(いくえ)にも重なり合った網の目のなかに投げ込まれている。…中略…
いかなるかたちであれ、均質な一体性をもった文化などというものは、ありえない。私たちが日々接しているの
は、揺らぎや騒音をはらんだまま、どこまでも〈複数〉のものとして存在する〈文化〉なのである。こうした文
化の複数的なありようを、ここではさしあたり〈複数文化〉という表現で呼ぶことにしよう(複数文化研究会編
1998:1-2)。
「文化」はただ、複数として存在するのではない。重要な点は、「複数の文化が出会う場面においては摩擦や軋轢
(あつれき)が生じざるをえないし、そうした齟齬(そご)はしばしば主導権をめぐる熾烈(しれつ)な争いを呼び起
こすことにもなる」ということである(同上:2)。文化の多様性には不均等な力関係による格差が存在する。さまざま
な文化が不当にしいたげられているのが現代社会の現実である。そして、なかには、文化とさえみなされずに抑圧されて
いる弱者/少数派の生活習慣も存在する。
これまで「文化」とみなされず、ただ抑圧されてきたものとして、「ろう文化」の存在があげられる。手話を第一言語
として使用する、きこえないひとたちの文化である「ろう文化」は、1995年の「ろう文化宣言」(きむら/いちだ
1995=2000)によって、近年になってやっと研究者のあいだで認知されはじめた文化である。そのため、一般的にはま
だまだ認知度がひくいだろうと予想される。ろう文化は、宣言されることによって、やっと注目をあびるようになった
文化である。
「ろう文化宣言」は社会的注目をひいた(現代思想編集部編2000)。だがたとえば、「はなづまりの文化」「鼻炎文
化」などというものは、突然説明されても、すぐに理解されることはないだろう。いくら鼻炎の当事者である筆者がそ
の文化としてのありかたを議論しようとも、文化の研究者のあいだでも「はなづまりの文化」はなかなか理解しがたい
主張ではないだろうか。だが現に、はなづまりは生活習慣におおきく影響するものであり、ウェブ上の掲示板では、鼻
炎のひとたちによる意見の交換など、一種のネットワークをみいだすことができる。そして、そのネットワークでは周
囲のひとびとの態度について、しばしば不満がのべられている。
ここで「はなづまり文化」を一例として、「文化」としての地位を確保できずにいるさまざまな生活/習慣の存在を想
定してみるなら、「文化」とみなされるだけでもそれは社会的な地位がある程度は確保されている可能性がたかいとい
う点に気づかされる。ここで、多文化共生というある種の理想をかかげる以上は、一般的には「文化」と認識されてい
ないものをどのようにつつみこむのかという問題にいきつく。そうでなければ、すでに常識化したもの、文化とみなさ
れたものが社会的権威をたもちつづけることになり、結果として「文化という抑圧」が生じてしまう。
一般に「文化」とよばれるものには、ある種の「わかりやすさ」がある。しかし、ありふれた日常生活にちかづけば
ちかづくほど、一般的な認識では「文化というほどのものではない」とみなされやすくなる。もちろん、それを「生活
文化」とみなしていく意義はたしかにある。けれども、そこまでくれば、ただ「生活」でよいのかもしれない。
ここで重要なのは「ろう文化宣言」などのように「これは文化だ」という「宣言」さえ必要としない社会をめざすこ
とである。もちろん、その過渡期ではさまざまな「文化宣言」がさけばれてよい。だが、生活というありふれた、けれ
ども現に序列化されている「人間のいとなみ」をきちんと価値相対化していくことが重要なのではないだろうか。した
がって、多文化主義/多文化共生の課題は、「ありふれた日常生活」にひそむ差別を解消すること、「それぞれの、そ
れぞれなりの生活」を保障することである。
参考文献
現代思想編集部編 2000 『ろう文化』青土社
複数文化研究会編 1998 『〈複数文化〉のために―ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』人文書院
25
おすすめ映画
『サムサッカー』
『グッド・ウィル・ハンティング』
『ベッカムに恋して』
『GO!』
『ウリハッキョ』
『Xメン』シリーズ
『私がクマにキレた理由(わけ)』
『メゾン・ド・ヒミコ』
『13歳の夏に僕は生まれた』
『この自由な世界で』
『誰も知らない』
『愛についてのキンゼイ・レポート』
『フライド・グリーン・トマト』
『カッコーの巣の上で』
『さようならCP』
感想、疑問、苦情の紹介
第3回は「漢字テストのふしぎ」についてのコメントが多数ありました。関連する文献を紹介しておきます。わたしの
漢字表記についての方針や問題意識については論文やサイトをみてください。
笹原宏之(ささはら・ひろゆき) 2006 『日本の漢字』岩波新書
笹原宏之ほか 2003 『現代日本の異体字―漢字環境学序説』三省堂
高島俊男(たかしま・としお) 2001 『漢字と日本人』文春新書
野村雅昭(のむら・まさあき) 2008 『漢字の未来 新版』三元社
―――
漢字テストに限らず、人それぞれの定義にバラつきがあることでズレを感じることが生活していて多々起こる。漢字に関
する意識の違い、というだけだと簡単なようだが、その意識の違いによって、受験のような、自分の人生を決定するよ
うな場面が大きく変わってしまうことになり得る。いい加減な規則というものは最終的には自分の解釈できまる。
私個人としては一つに統一すべきと思う。どれだけ崩れていくか、という意見が出ていたがまさしくその通り。字の中
にも似た字だってあるし、その内解読も困難になっていくかもしれない。まるで万葉仮名の時代のようである。同じ文
字を意味していても何通りもある。現代の書物にも解読を要する時代にしてよいものか。
【あべのコメント:漢字は、てがきするなら「異体字」が発生しつづけるのをさけることはできません。戸籍に人名を
登録するとき、漢字をてがきしたために、さまざまな異体字ができたように。この異体字をどれだけ社会で普及させる
のか。渡辺の「辺」などは歴史的にたくさんの異体字があります。「邊」「邉」などはパソコンで入力できるが、
「辺」の異体字はそれだけではない。異体字の存在は、漢字という文字の特性ともいえます。ただ、漢字は「入力する
もの」に変化しつつある現在、異体字は統一化されつつあるともいえるでしょう。】
―――
…前略…漢字の基準の話では、つつきだすと漢字だけじゃなくて基準という基準全部ゆらぐんじゃないかな、と思いま
した。基準を目標にしてがんばれる人もいるのでは? できないことをやれというのはおかしいけど。
センター試験だって、どんな人にとっても純粋な学力テストじゃない。マークを間違えない力が問われてしまう。それぞ
れ個人に対して柔軟でかつみんなにわかりやすい方法、難しいけど探すのをあきらめちゃダメだなと思いました。
―――
「漢字テストのふしぎ」を見て、確かに漢字の採点において、許容範囲が狭すぎると思った。書き順などは一応教える
が、絶対ではない、という姿勢が必要なのではないだろうか。知識としては、行書につながる筆順も知っていて役に立
たないことはないと思うからだ。つまり、教えることとテストをもう少し切り分けたらどうか、と感じる。
―――
26
漢字についてのビデオがとても興味深かったです。私は漢検をいつも受けているので書き方や細かいところを気にします
が、ビデオを見ていると基準が何なのか分からなくなってしまいました。漢字が何のためにあって、そもそも文字とし
て扱われているのかどうかも疑問です。最終的に先生の感性によって決められていたり、形(図形)のテストだと言われ
たり、苦しまぎれに出たもののように聞こえました。
自閉症ではないけれど、私の知りあいに知的障害の人がいます。その人は文字が書けないし、うまく言葉で伝えること
もできませんが、それでも動作であったり目であったり態度で表現してくれます。そのことを考えると、必ずしもコミュ
ニケーションの手段に文字を使わなくてもいいのだと思ってしまいます。…後略…
―――
漢字テストの話で、応じる先生方の解答にも問題があったと思うが、字は書いていくうちに少しずつその人の個性にあわ
せて変化する。変化していく前のおおもとの字を、ゆるい規準でもうければ、その後の変化も大きくなっていってしま
う。江戸の頃の字を見てもらうとわかると思うが、あの頃の文献はまさに「ゆるい規準の字」によって書かれていて、
偏や旁(つくり)の位置が変化していたり、省略がされていたりと、人によってまったく違う字を書いている場合があ
り、伝達に不便がある。高校入試が終われば、後は基本的に「糸」を「糹」と書こうがとやかく言われないのだから、
せめて、一つの規準を共有して、その上で「許容範囲」を考えて書いてもらわなくては、異体字があふれてしまって困
る。…後略…
【あべのコメント:歴史的にみれば、近代以前の言語表記は、どの言語でも「ゆるい規範」しかありませんでした。シ
ェイクスピアは、いまでは「Shakespeare」という表記で統一されています。しかし、近代以前は「シェイクスピア」
の表記はさまざまなバリエーションがありました。「Spelling of Shakespeare's name(シェイクスピアの名前のつづ
り)」というウィキペディアのページを参照してください。
日本語でも、現在、漢字の形は教科書体や明朝体、ゴシック体など書体による形のバリエーションはありますが、かな
り均質化されていることはたしかです。現在はむしろ、異体字が生じにくい状況にあるといえるのではないでしょうか。
パソコンで入力することが日常化して、漢字の形をわすれていってしまうことが指摘されてきました。わたしは、漢字は
形が複雑なのだから、わすれるのも当然のことだとおもいます。】
学校内だけでなく、私は社会において、「平等」という言葉を疑問に感じます。平等、平等と言っても、「アイデンティ
ティ」があったり、感情がそれぞれあったりします。
男女平等と言っても、身体のつくりから違うし、社会に女性が進出するようになっても、力仕事は少なかったりしま
す。健全者と障害者、男と女という言葉がある時点で、また、その言葉がつくられた時から、差別は始まっていると感じ
ます。言葉として、1つの枠組みをつくることは大事だけれども、その言葉があるからこそ、「ふつう」「ふつうじゃな
い」が生じるのだと思います。
その点でユニバーサルデザインは素晴らしいと思います。「誰もが使いやすい」ということは、何も 異 や 差 を感じず
にすむ、素敵なものだと思います。このようなものが、世の中に広く、多く、出回れば、誰も不快を感じずに生きてい
けるのだろうと思います。 異 や 差 を独特や特徴として良いものととらえる人だけの世界ならば平和だが、そうではな
いので、そのための対策において、大事だと考えます。
―――
漢字指導の手引きについて
私も漢字指導の教育の仕方について不思議だと思っていました。いちばんおかしいなと思うのは、筆跡によってその人
の性格や普段の生活態度が分かるという考えです。文字というものは、そもそも何かを伝えるための道具であって、人の
内面を見るものではないのではないかと思います。字が汚いから性格が悪いとか、だらしないとか、決めつけるのは間
違っていると思います。それ以前に、「字のきれいさ、汚さ」の基準は人によって異なるのだから、「この人は字が汚
いからだらしないんだ」とか一概に言うことはできないと思うし、これは一種の差別ではないかと思いました。
―――
私の出身高校の先輩に障害によって文字を書くことができない方がいたと先生にきいたことがあって、その方は授業中
は耳で全てを聞き、テストは口頭で答えて先生が紙に書き写すということをしていたそうです。そしてその方は成績が優
秀でしたが大学(第一希望)には合格できなかったそうです。
この話をきいたとき、大学には合格できなかったけどちゃんと卒業したなんてすごいじゃんとか思ったけど、もし日本
がもっとユニバーサルデザイン的なテストを推進していたら本当はもっとやりたい事ができたんだと思って、日本の障害
者に対する柔軟性の弱さを実感した。
―――
27
漢字テストについての映像がとても面白かったです。漢字検定や漢字テストなど身近なものが題材だったことと、教免を
とろうと思っている身としては、こんな風に生徒に「どうしてまちがいなの?」と迫られたら、自分はどう答えよう、と
考えてしまいました。確かに字は何らかの情報を伝達するために使われるコミュニケーションツールなわけですが、だか
らといってただ 伝わればいい というわけではないことが、難しいなあ、と感じました。
あと、「女性だから字がきれいでなくてはならない」という社会の基準が恐ろしかったです。私も、手書きは強制すべ
きではないと思いました。
【あべのコメント:ふと気づいたのですが、わたしは「てがき」以外の選択肢をみなさんに提供していませんね。メー
ルでコメントをおくるという選択肢もあってしかるべきでした。今後はメールでのコメントも歓迎します。】
―――
私は字が汚いので、親にも先生にも、社会に出ると絶対損するからキレイにきちんと書きなさいと言われて、いつも腹
が立ちました。そんな事で性格まで決められてたまるか!と思います。私は字が汚いですが、絵は繊細で美しいと評価さ
れる事が多いので、履歴書と共に絵も持参して面接などに行けたらいいのになぁと思います。…後略…
―――
…前略…きちんと指導した方が生徒のためにもなるから、厳しくて良いのではないか。採点を甘くされて育った生徒
は、 ゆとり世代 と言われるのが目に見えている。
【あべのコメント:というか、「ゆとり世代」というのは、不当なカテゴリー化だと感じます。世代で区分して論じる
ことに、どれほどの意味があるのでしょうか。世代論というのは、統計をふまえた精密な議論というよりは、印象論に
すぎないのではないでしょうか。「だれが」「だれを」問題にしているのかに注目してみると、すでに権力をもっている
側が、相対的によわい立場にあるひとたちを非難しているという構図があります。もちろん、統計をふまえた冷静な議
論をすることもできるわけですが、なんのために世代で社会を論じるのかをきちんと説明する必要があるでしょう。】
―――
私のアルバイトしている歯科医院では外国人の患者さんも時々くるので、話せるけど漢字が読めないという人が結構いま
す。なので問診票の記入のときは口頭で聞いて対処しています。私が気をつけていることは、難しいことばをなるべく使
わないで簡単なことばを選んで使うようにしています。…後略…
―――
発達障害のある受講生に対する配慮が非常に遅れていることに驚いた。アスペルガーの友人と知り合って以来、発達障
害について考えるようになったが、それまでは意識したことのないことだった。「障害」というのは、社会がつくり出
しているものだと感じる。目が見えなくても、体が不自由でも、生活しやすい環境が整えられている社会であれば、そ
れらは生活していく上での「障害」にはならないはずだ。
なぜ日本は漢字に異様なまでに固執するのか。(家庭教師をしているが、漢字を教えるときは複雑な心境だ)
―――
私は国語の教職をとっていますが、国語の先生になるにあたって、どのような点に留意しなければならないのでしょう
か。どういうことが、差別をしないで教えることなのでしょう。国語で漢字を教える意味はあるのでしょうか?
【あべのコメント:すみませんが、わたしが解説することではないです。できないし、すべきでもない。ご自分で、じっ
くり、ゆっくり検討してみてください。ひとついえることは、社会に構造的な問題があるとき、その構造(システム)を
放置したまま個人の努力にまかせても根本的な解決にはならないということです。教員は完璧な存在ではないという、
あたりまえの事実から出発する必要があります。】
―――
今の教育現場に、障害へのフォローを求めるのは無茶だという思いと、こぼれ落ちてしまった障害者をすくい上げるの
が公的機関の役目だという思いがあります。教員は今、過労状態で働いています。それに更なる負担を強いることはでき
ません。しかし、障害者をすくい上げなくてもなりません。私には、解決策が見えません。
【あべのコメント:解決策というのは、過労状態にある教員の労働環境を改善すること、教育のありかたをかえること
でしょう。教員個人の責任ではなく、システム全体の問題だということです。もちろん、システムはすぐに改善できるも
のではありません。しかし、個人の問題(責任)ではなく、社会の問題だと気づくことに意味があります。すこしは気
が楽になるからです。なんでも教育で解決しようとする社会では、教員はしんどくなるばかりです。】
―――
…前略…手書きより、パソコンとか使う方が便利な時もあるけど何でもパソコンでやりとりされると、パソコンが苦手
な人にとっては、ちょっと困っちゃいますネ…
28
中間レポートについて
しめきり:6月1日まで。おくれた学生には、ユニパで完全にしめきる時間を連絡する。
テーマ:授業でとりあげたことから自由に選択。自分なりに問いをたてて論じる。
アプローチ(着眼点、問題意識):つぎの2つから選択。
1. 無知や誤解、偏見がいかにコミュニケーションを規定しているか(限定しているか)に注目する。
2. 関係の非対称性や制度上の差別がいかにコミュニケーションを規定しているか(限定しているか)に注目する。
相互理解の問題として論じるか、平等や権利保障の問題として論じるか、ということです。
分量:A4で2枚程度。表紙は不要。
条件:かならず本か論文を参照すること。事実をふまえること。どのような議論があるかを引用すること。自分の意見
をのべること。引用は全体の3割∼4割程度におさえること。
注意する点:具体的な題をつけること。引用のルールをまもること。
提出方法:あべに直接わたす、学務課のレポート提出ボックスに提出、メールに添付。
引用のルールとは:どの文献の何ページから、だれの発言を引用したのか、あきらかにすること。文献情報には、発行
(発表)年、出版社を明記。自分の文章と引用文とをはっきりと区別し、よむひとが誤解しないようにすること。
どの引用文が、どの参考文献からの引用なのか、わかるようにすること。
参考文献の提示方法:
1. 「レポートの例1」のように、本文と巻末の参考文献で提示する。
2. 脚注1 や巻末注2 で文献情報を提示する。
1
脚注とは、そのページの下で注意がきすること。
2
巻末注とは、その文章の巻末に、注意がきすること。
29
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第5回「国籍ってなんだろう」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
国籍に注目する意味
異文化コミュニケーションについて議論するとき、ほとんどの場合、無知や誤解が差別につながり、対立や摩擦をう
んでしまう、だから相互理解が必要だというアプローチをとる。それは、たしかにそのとおりである。しかし、コミュニ
ケーションを規定しているのは、それだけではないはずだ。
わたしたちは、ただ「文化がちがう」だけではない。あるひとは、そのひとの社会的属性、生活様式などによって、
制度上の差別によって権利が制限されている。その一方で、多数派に属するひとは、そういった差別があることすら意
識していないことがある。このような状況のなかで、わたしたちはコミュニケーションをしている。
無機質な「AとB」がむきあい会話をしているのではない。ただ文化のちがう「□と△」がコミュニケーションをして
いるのではない。むきあっている相手と自分とでは、保障されている権利に差があることがある。その一例が、国籍に
よる差別である。
近代の国家観にたてば、国家が国民を優遇するのは当然のことだといえる。しかし国際人権規約などの国際条約の観
点からすれば、その地域に在住するひとの権利を無視することはできない。
国籍とは、なんだろうか。国籍がもつ意味や機能をふだんの生活でどれくらい意識しているだろうか。日本には、日
本国籍のひと、外国籍のひと、無国籍のひと、日本政府が国籍と認定していない籍のひと、在留資格のない外国籍のひ
と(非正規滞在者)がいる。日本国籍のひとは「無国籍」のひとが存在することさえ、しらない場合がある。山本敬三
(やまもと・けいぞう)はつぎのようにのべている。
これほど国際化した世界の中に身を置くことになったわれわれ日本人も、しかしながら、国籍というものにつ
いて意識することはあまりないようである。何事につけ、ある事柄をそれとしてとくに意識しないですむという
ことは幸いなことである。しかし、意識することがないからといってその事柄を知らなくてよいということには
ならないし、また意識しなければならない状態でありながら、あえてそれを避けて通り、そのために多くの人々
が苦悩しているという現実がもしも存在しているとするならば、結果的には、それは社会的不正義に加担してい
ることにならないであろうか。
国籍は、まさにそのようなものと考えてよいであろう(やまもと1979)。
おなじように、もりき和美(もりき・かずみ)はつぎのように指摘している。
まず国家があるのではなく、個人が生かされるために国家があることを信じたい。空気のように、国籍につい
ても日頃その意味を問うてみたりしないが、個人の基本的人権が国境を越えて考えられなければならない時代を
私たちは迎えている。日本人=日本民族=日本国籍=日本市民(住民)という図式をどう描きなおすか、それは
私たちの地域社会、ひいては日本社会をどう作っていくかという問題に直面する(もりき1995:12)。
日本社会における国籍のありかたについて議論するということは、国際的な視点から、日本という国のありかた、憲
法や法律にスポットライトをあてるということだ。ここでは、日本社会における国籍の歴史と現在に注目する。
オールドカマーの戦後史
1945年に日本が敗戦するまで、朝鮮人と台湾人(植民地出身者)は、日本国籍だった。なおかつ、朝鮮戸籍と台湾戸
籍という日本人の戸籍(内地戸籍)とは別のわくぐみを設定されていた。これは同化を強制しつつ、同一の権利は保障し
ないためのものだった(えんどう2010)。ここでは、敗戦後のながれをみてみよう。
敗戦を迎えた日本政府は、「国体護持」をなににも優先させて、朝鮮、台湾、沖縄、千島などの保有を断念し
た。と同時に、戦前・戦中の「内鮮一体」、「一視同仁」、「日鮮同祖」といった多民族帝国的色合いの濃いイ
デオロギーを即座に捨てた。そして、GHQの対朝鮮人姿勢が明らかになる前に、内地在住の朝鮮人が内地人と同
等の権利を獲得しないよう先手にでた。
30
女性の参政権を初めて保障した1945年12月の衆議院選挙法改正だが、日本政府はそこに「内地」に限る「戸
籍条項」を設け、「外地」籍者の選挙・被選挙権を「当分の間」「停止」すると定めた。皮肉なことに、直前の
12月20日付けの内務省の草案は、「内地在住朝鮮人・台湾人に選挙権を与えるための特別処置」が必要である
としていた。そこには、終戦によって植民地人ではなくなった在住朝鮮人の活発な政治運動を見て、この人たち
に参政権を認めればその運動が天皇制廃止にもつながりかねないと恐れた、日本政府の強い危機感があった。…
中略…
帝国憲法の改定作業が始まった1946年2月から4月にかけて、日本政府は在日朝鮮人の権利にさらに巧妙な仕
掛けをした。マッカーサーが提示した新憲法草案には、在日朝鮮人に関する二つの条文(第13条と第16条)が
含まれていた。第13条には「全ての自然人は、法の前に平等である。人種、(中略)出身国により政治的関
係、経済的関係または社会的関係において差別がなされてはならない」、第16条には「外国人は法の平等な保障
を受ける」と、それぞれ規定されていた。しかし日本政府は、その「マッカーサー草案」を受けとると、直ちに
第16条を削除した。また、第13条の「全ての自然人」を「全ての国民」と書き換えた。この結果、外国人の平
等な権利保障が新憲法から消えたのである。
7月になると、さらに「マッカーサー草案」になかった第10条を挿入した。これは、旧帝国憲法の「日本国民
たる要件は、法律でこれを定める」と同じような文言で「国民」を規定した条文で、その「法律」が、父親が日
本人であることを要件とした1950年の国籍法になった。なお、この微妙な法的操作には重大な意味が隠されて
いた。…中略…新憲法が施行された1947年5月3日の直前になって、在日朝鮮人を「当分の間」「外国人とみな
す」とする外国人登録令が制定されたのである(リケット2006:192-193)。
在日朝鮮人の参政権をみとめず、「外国人とみなす」という方針をうちだしながら、一方では、1948年1月に「「義
務教育」については、日本人同様に日本学校への「就学義務」を負うとの見解が文部省から示された3 」(たなか
2007:19)。ここにも、強制的な包摂と排除の論理がみてとれる。
この文部省の通達「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」をうけて、つぎのようなうごきがあった。
3月から4月にかけて各都道府県は、この通達に沿って朝鮮学校にたいし学校閉鎖令を言い渡したため、全国
でこの学校閉鎖令への在日朝鮮人の抗議が繰り広げられた。そのため、4月24日、兵庫県では交渉の末、知事が
学校閉鎖令を撤回したが、GHQはこの日の夜半に非常事態宣言を発し、この措置を撤回させた。4月26日には
大阪で開かれた抗議集会に参加した16歳の金太一(キムテイル)少年が警察官の発砲により翌日に死亡するとい
う事件が起きた(ぱく2008:179-180)。
いわゆる阪神教育闘争である。この事態をうけ、文部省は5月5日に「私立学校として認可を申請する」ことを条件に
朝鮮学校の存続をみとめた。その後、「在日朝鮮人は、在日中国人とも力を合わせ、…中略…1975年までにすべての朝
鮮学校の各種学校・準学校法人認可を得た」(181ページ)。しかし、各種学校の法的位置づけは、一条校(一般の公
立学校や私立学校)にくらべると、たいへん不安定な状態にある(ぱく2008:第6章)。
国籍条項の問題
「当分の間」「外国人とみなす」とされていた旧植民地出身者は、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効日から
日本国籍をうしなうと宣言された。
日本が主権を回復した1952年4月28日、旧植民地出身者は「外国人」になったとされる。外国人にしてしま
えば、あとは「日本国民」でないことを〈口実〉に、さまざまな差別や排除が正当化される。
在日コリアンが「日本国籍」を失ったその日に制定されたのが現在の外国人登録法で、初めて「指紋」押捺が
導入され、彼(女)らを直撃することになる。…中略…
同じ時に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法には「国籍条項」が〈再登場〉し、日本の戦争に同じように
駆り出されたのに、在日コリアンは国家補償から全く排除された。(たなか2007:24)
この点について、『裁判の中の在日コリアン』ではつぎのように問題を指摘している。
1952年以後は、在日朝鮮人/台湾人を「外国人」と規定したため、「就学義務」はなくなった(たなか2007:20)。
現在でも日本は「外国人」を義務教育の対象にしていない。
31
3
…日本国憲法の10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」としているのに、行政の通達のみで在日
コリアンの日本国籍を喪失させたのは憲法違反ではないかという疑いは当然残ります。また、世界人権宣言15条
2項が「何人も、専断的にその国籍を奪われたりその国籍を変更する権利を否認されたりすることはない」とう
たっていることにも反します。さらに、諸外国に目を向けますと、英国がビルマ(ミャンマー)の独立を承認す
るにあたり法律を制定して英国国籍との国籍選択権を与えた事例、フランスがアルジェリアの独立に際し在仏ア
ルジェリア人に国籍選択権を認めた事例、日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国であったドイツ(旧西ドイツ)
がオーストリアの独立に関して国籍問題規正法を制定して在独オーストリア人に国籍選択権を保障した事例等が
あり、これらの諸外国の事例と比べても、国籍選択権をまったく認めずに一律に在日コリアンの日本国籍を喪失
させたのは不当ではないかという意見も説得力があります(在日コリアン弁護士協会編2008:94)。
この旧植民地出身者の国籍問題は、いまだにほとんど対策がとられていない。1991年の法改正で旧植民地出身者に
「特別永住者」という在留資格を保障しただけである。
近年、個々人が申請して日本国籍を取得したり、日本国籍のひとと結婚し、こどもが日本国籍を選択するなどして、
朝鮮半島や台湾にルーツをもつひとの国籍は、日本国籍へと移行しつつある。しかし、歴史的背景から日本国籍を取得
する(「帰化」する)ことに抵抗を感じるひともいる。そこで、不自由ではあっても外国籍のまま生活しているひとた
ちがいる。
日本政府は韓国としか国交がないことを理由に、朝鮮籍を国籍として認定していない。日本政府は「朝鮮籍」とは、
出身地域をさす「記号」であり、国籍ではないとしている。朝鮮籍は「北朝鮮国籍」ではない。
インドシナ難民の来日が制度をかえた
1970年代まで、公営住宅や国民年金、児童手当三法に国籍条項をもうけて外国籍のひとを排除していた。この状況を
かえたのが、難民の来日だった。
この自国民中心主義に思わぬ一撃を放ったのが、75年のベトナム難民の来日だった。同じ年にサミット(先進
七ヶ国首脳会議)が発足したことも手伝って、日本の難民受け入れに世界は注目した。ベトナム難民は、公営住
宅にも入居できなければ、母子家庭向けの児童扶養手当も支給されなかった。
英紙『ガーディアン』は、「この国(日本)にも〈人種差別〉が存在すること、他民族に対する態度に何かが
欠けていることを認めない限り、事態の改善は望めない」と論評した(79年)。
やがて、日本政府は、内外人平等を掲げる国際人権規約、難民条約を批准し、公営住宅なども外国人に開放さ
れ、国民年金法や児童手当三法の国籍条項もあっさり削除された。
ひと握りの難民が、60万在日コリアンの処遇改善に大きく貢献したことになる(たなか2007:25)。
日本が難民条約に加入した背景には、アメリカ政府の要請があった。それにはつぎのような背景がある。
アメリカ政府は、東南アジア諸国が、インドシナ難民の大量の流入と滞留のために、経済的、政治的に不安定な
状態になり、そのことによって共産主義活動の温床が生まれて、共産主義勢力がそこまで浸透することを懸念し
て、日本をはじめとする西側諸国が、インドシナ難民をできるだけ多く受け入れることをつよく求めたのであ
る。
他の地域からの人々については、日本政府は、アメリカ政府から、それほどつよい受け入れ要請をうけていな
かった(ほんま1990:31-32)。
これはつまり、政策としての難民うけいれは、資本主義国の反共政策の一環でもあるということだ。難民をうけいれ
るのは「人道上の配慮」だけでなく、共産圏の拡大をふせぎ、崩壊をみちびこうという意図もある。
国境線を管理する―入国管理局
ひとの移動を管理する国家機関として、法務省の入国管理局(入管)がある。入管の業務は「出入国管理及び難民認
定法」(入管法)に規定されている。
法務省の入管の役割に、日本人および外国人の出入国管理・外国人の在留管理・外国人登録・難民の認定など
がある。もうひとつあげられるのは、非正規滞在者、いわゆる 不法 滞在外国人の退去強制である。その退去強
32
制の過程で非正規滞在者は外国人収容所にいれられる。犯罪や強盗など人としての過ちをおかしているわけでは
なく、単にビザがきれただけの非正規滞在者を収容している。
行政上の入管法に違反したすべての人を収容するため、本国にもどれない人々、すなわち難民申請者・日本人
の配偶者・日本に生活基盤をもつ外国人までもがその対象とされる。さらに収容に適さない人、たとえば通院中
の患者・子ども・妊婦・授乳婦さえも収容している。両親が収容され、子どもは児童相談所に保護されるという
親子分離もおきている。しかも収容期間は無期限で、1年、2年、3年とつづく(やまむら2010:172-173)。
長期収容によって拘禁(こうきん)症状になり、精神的不安定や体のさまざまな不調をうったえるひと、自殺をはか
るひとや、じっさいに自殺したひとがいる。そのような状況のなかで、被収容者は長期収容者や病人の仮放免(かりほ
うめん)をもとめてハンガーストライキをするなどして声をあげてきた。2010年3月のハンストはマスコミにも報道さ
れ、国会でもとりあげられるなど、社会的な注目をあつめた。その結果、1年以上の収容はしないという「明文化されな
いルール」がつくられたようであり、仮放免されるひとがふえてきている。
仮放免という身分は、労働資格がない、社会保険に加入できない、月に1度入管に出頭する義務がある、県外にでると
きにも入管に許可をえる義務があるなど、社会生活におおきな制約がある。
もし、法務大臣が「在留特別許可」をだせば、不安定な生活から解放される。難民認定の数と比較すれば、在留特別
許可の数はおおい。2008年の数字をみてみよう。
2008年は難民申請が1599件に上り、難民認定者数は57人、人道的な配慮による在留特別許可は360人にな
ったが、その大半はビルマ難民に偏重している(くさか2010:182)。
山村淳平(やまむら・じゅんぺい)は難民申請者に「在留特別許可(在特)」がだされることについて、つぎのよう
にのべている。
難民申請者に在特があたえられるのは、たしかによろこばしい。だが、それは難民性を否定されたうえで
の 恩恵 である。それに在特の継続の保障はなく、支援はいっさいない、きわめて不安定な法的地位である(や
まむら2010:169)。
もし難民認定されれば「定住者」という在留資格がえられる。難民条約に加入しているほかの国に難民として移住す
ることもできる。定住者ビザは3年ごとに更新が必要であるが、「永住者」資格にきりかえることもできる。選挙権がな
いこと以外は、日本国籍とおなじ法的権利が保障される。日本の難民認定のすくなさは、欧米諸国と比較するとケタち
がいである。中尾秀一(なかお・しゅういち)の説明をみてみよう。
日本の難民認定申請、また認定は以前より数が増えたとはいえ、欧米諸国と比較するとそれ程大きな数字とは
いえません。多く[の―引用者注]欧米諸国では1年間の申請者数が数万人、認定者数が数千人に上り、1万人
以上を認定する国もあります。例えば、2008年イギリスでは44,423名が申請し、7,287名が認定されていま
す。日本の29年間の合計数よりも一年間の申請数、認定数が多いのが当たり前というのが、欧米諸国の難民認定
状況です(なかお2011:147)。
日本は難民条約に加入して30年になる。しかし、日本の難民認定制度はほとんど機能していないといえるだろう。
外国人労働者をめぐる社会状況
移住労働は、プッシュ要因とプル要因の影響をうける。つまり、その国が不況や不安定であれば、その国を出国する
(おくりだす)ことになる(プッシュ要因)。一方、ある国が労働者を必要としていれば、移住労働者をうけいれる
(ひきいれる)ことになる(プル要因)。
日本では、経団連は移民うけいれに積極的であっても、法務省の入国管理局は拒否的であるという状況がつづいてい
る。そのため、日本では移民政策といえるものは消極的にしか存在しない。おおきな柱としては、つぎの3つがある。
(1) 日系人とその家族:日本は1990年に入管法を改正し、日系人(とその配偶者やこども)の在留資格として「定住
者」資格をもうけた。定住者は労働になんら制限をおかれないため、デカセギとして南米からたくさんの日系人が入国
した。永住志向のひともおおく、「永住者」の在留資格にきりかえるひともいる。そこで、こどもの教育という問題が
浮上している。
33
2008年のリーマンショック以後、世界的な不況により、たくさんの日系人が失業した。日本政府は2009年の4月か
ら1年間、日系人の帰国希望者に「帰国支援金」を給付した(「帰国支援事業」)。この給付をうけた場合、「当分の間
は再入国禁止」としたこともあり、「手切れ金」だと批判をうけた。
(2) 研修生/技能実習生:「移民二世が発生しない外国人労働者」のうけいれシステムとして、外国人研修制度・技能
実習制度がある。
外国人研修制度・技能実習制度は、建前上は「途上国に技術や知識を伝授する」という「国際貢献」としてつくられ
た制度である。しかし、実質的には低賃金で労働力の不足をおぎなう制度であると指摘されている。
工場、あるいは農業や漁業、水産加工業など、日本人の従事者がへっている現状がある。そこで、1年から3年のあい
だ安定して業務にあたる人材が確保するために、研修生/技能実習生を導入しているわけである。
日本人は、いつでもイヤになったら退職できる。しかし研修生の場合、研修期間の途中で帰国すると本国の送り出し
機関に「罰金」をとられることがあった(やすだ2010:122)。そのため、帰国することもできず、不当な労働環境にお
かれても自分たちの権利を主張しにくいという問題があった。
しかも2010年の法改正まで、研修生/技能実習生には労働基準法が適用されなかった。そのため、最低賃金がまもら
れず、場合によっては残業が強制された。パスポートをとりあげる、暴力をふるうなど、研修生にたいする悪質な行為は
メディアでも報道されてきた。もちろん、研修先でよい関係をむすび、感謝して帰国したひともいる。
問題は、日本の労働問題の解決口として研修生/技能実習生制度が利用されているということだ。
(3) 非正規滞在者:日系人や研修生の労働条件よりも、さらに不安定な状況におかれているのが在留資格のない外国人
労働者である。入管の取締がきびしくなかったころ(2004年ごろまで)は、警察官が職務質問でオーバーステイ(超過
滞在)のひとをみつけても、仕事をしていることがわかれば逮捕しなかったといわれている。そのため、日本で10年以
上はたらいてきた非正規滞在者がたくさんいる。40代をすぎたころに、今度はきびしく摘発するという方針をうちださ
れ、途方にくれることになる。それでも、こどもが学校に在学しているような場合には在留特別許可がでるようになって
きた。しかし、入国時に「不法入国」だった場合は、強制退去命令がくだり、入管に収容されてしまうのが現状だ。
NGOや地方自治体のとりくみ
日本政府の方針は、移民にたいして排他的な性格がつよい。しかし、市民のあいだでは「共生」の歴史を基盤とした
さまざまな支援活動もひろがってきている(シッパー2010)。なかでも、移住労働者と連帯する全国ネットワーク(移
住連)や移民政策学会などの団体は、活発に支援活動や問題提起をしている。
地方自治体でも、外国人との共生政策をうちだしている地域がある。神奈川県の川崎市は1996年に外国人の意見を市
政に反映させるために「外国人市民代表者会議」を設置した。それ以後、にたような外国人市民会議がいくつかの地方
自治体に設置されている。
日本はかつて移民をおくりだした国である。ハワイや南米、北米には日系人のコミュニティがある。そしていまでも、
経費削減のためにアジア各国に日本の工場をつくっている現状がある。その一方で日本への移民を排除するということ
は、倫理的にとおらないのではないか。
次回は、さまざまな言語的少数者の言語権について検討したい。
参考文献
移民政策学会編 2009∼2012 『移民政策研究』1∼4号
移住労働者と連帯する全国ネットワーク編 2012 『移住者が暮らしやすい社会に変えていく30の方法』合同出版
遠藤正敬(えんどう・まさたか) 2010 『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍―満洲・朝鮮・台湾』明石書店
草加道常(くさか・みちつね) 2010 「在留特別許可の現在」外国人人権法連絡会編『外国人・民族的マイノリティ人
権白書 2010』明石書店、184-187
在日コリアン弁護士協会編 2008 『裁判の中の在日コリアン』現代人文社
シッパー、アピチャイ 2010 「日本の多文化民主主義を見据えて―外国人支援NGOが持つ意味」加藤剛(かとう・つよ
し)編『もっと知ろう!! わたしたちの隣人―ニューカマー外国人と日本社会』世界思想社、233-265
田中宏(たなか・ひろし) 1995 『在日外国人 新版―法の壁、心の溝』岩波新書
田中宏(たなか・ひろし) 2007 「日本という国―外国籍住民の視点から」李洙任(り・すーいむ)/田中宏『グロー
バル時代の日本社会と国籍』明石書店、15-63
34
中尾秀一(なかお・しゅういち) 2011 「難民と歩む社会を目指して」米勢治子(よねせ・はるこ)ほか編『公開講座
多文化共生論』ひつじ書房、131-153
朴三石(ぱく・さむそく) 2008 『外国人学校』中公新書
本間浩(ほんま・ひろし) 1990 『難民問題とは何か』岩波新書
もりき和美(もりき・かずみ) 1995 『国籍のありか―ボーダレス時代の人権とは』明石書店
安田浩一(やすだ・こういち) 2010 『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書
山村淳平(やまむら・じゅんぺい) 2010 『難民への旅』現代企画室
山本敬三(やまもと・けいぞう) 1979 『国籍 増補版』三省堂
リケット、ロバート 2006 「朝鮮戦争前後における在日朝鮮人政策」大沼久夫(おおぬま・ひさお)編『朝鮮戦争と日
本』新幹社、181-261
用語解説
インドシナ難民:ベトナム、ラオス、カンボジアからの難民。この3国が1975年に社会主義体制になったことが背景に
ある。
戸籍制度:戸籍は、さまざまな規範にもとづいている。異性愛、性別二元論、夫婦同姓、家制度、婚外子差別などであ
る。皇族には戸籍がなく「皇統譜」に記載されている。結婚などで皇籍離脱する場合はあたらしく戸籍がつくられ
る。戸籍は日系人である証明書としても利用されている。
強制退去(強制送還):日本は、帰国すれば生命の危険がおびやかされる難民を難民認定せずに強制送還することがあ
る。そのたびに国際的な批判をあびている。
無国籍:「国籍はだれにでもある」わけではない。無国籍のひとは世界中にいる。国籍の制度が国ごとにちがうこと、
国 交 の 有 無 な ど が 関 係 して い る 。 無 国 籍 ネ ッ ト ワ ー ク と い う グル ープ が あ る ( h t t p : / / w w w . s t a t e l e s s network.com/)。
練習問題
3. 日本の法務省は、2012年7月に「外国人登録制度」を廃止し「在留カード制度」に移行する。外国人登録制度とは、
どのようなものだったのか。在留カード制度は、どのような内容なのか。関係者に、どれほど告知しているのか。
4. 世界人権宣言、国際人権規約、難民条約、子どもの権利条約、女性差別撤廃条約、人種差別撤廃条約、障害者の権利
条約など、国際条約の内容は、どのようなものか。日本はどのような勧告をうけているだろうか。
5. いくつかの地方自治体が設置している外国人市民会議は、どのような役割をはたしているのだろうか。たとえば、
「外国人県民あいち会議」は?
感想、疑問、苦情の紹介
前回みた『ブラジルから来たおじいちゃん』については、ききとりにくいところがあり、日本語字幕があったほうが
よかったという感想がありました。これはそのとおりで、気になっていました。映像のバリアフリーについては、「多
文化社会をささえる情報技術」のときに紹介する予定です。映像をみてもらうのも、よしあしですね。
アイデンティティについての感想が複数ありました。興味のあるひとは、映画や小説の『GO!』や、つぎの本をみて
ください。
石川准(いしかわ・じゅん) 1999 『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』旬報社
上野千鶴子(うえの・ちづこ)編 2005 『脱アイデンティティ』勁草書房
35
外国人のこどもの不就学や言語学習、学校文化の問題については、つぎの本を参照してください。
佐久間孝正(さくま・こうせい) 2006 『外国人の子どもの不就学』勁草書房
佐久間孝正 2011 『外国人の子どもの教育問題』勁草書房
社団法人日本社会福祉士会編 2012 『滞日外国人支援の実践事例から学ぶ 多文化ソーシャルワーク』中央法規
宮島喬(みやじま・たかし)/太田晴雄(おおた・はるお)編 2005 『外国人の子どもと日本の教育―不就学問題と多
文化共生の課題』東京大学出版会
―――
このドキュメンタリーを見て考えることが多くあった。日本にはブラジル人の出稼ぎ労働者が多くいるのは知っていた
けど、ブラジルにも世界最大の日系人コミュニティがあることは初めて知った。
出稼ぎ労働者の子供が義務教育ではない学校に行かないとあったが、本来勉強を見てくれる親が日本語を理解できてい
ないがために、子供に教えてあげたくても教えてあげられないということもあるのではないだろうか。日本人の子供であ
れば学校外で親から様々なことを学べることは多いが、彼ら外国人にはその環境がない、というのを別の授業のテキス
トで読んだ。
ブラジル人 としてのくくりで囲んでしまうのではなく、外国人を1人1人見ることが大切ではないかと感じた。
―――
日本人でありながら、日本語がしゃべれない、その逆のパターンもありえるということを考えると、その人の人種(日本
人、アメリカ人 ex)などはどこを基準にすればいいのかわからなくなります。見た目であるのか、考え方なのか、言葉
なのか…。こう考えると、○○人だからと考えるのはやはりおかしいことです。でもやっぱり人間はなにかわけなくては
生きていけない生き物なんだなぁ…と感じます。
―――
「○○人」という定義はその国で生まれ育ち、その国の言語を話すこと、というように勝手に思っていましたが、そう
なると2ヶ国語を使いこなす人だっているし、生まれ国と育った国がちがう可能性もあるだろうし、よくよく考えれば難
しい問題だと思いました。…後略…
―――
動画の中で「いくら自分たちが良い人でいようとしても、同じブラジルの誰かが悪いことをしたら、日本や他の国の人
から、外国(ブラジル)人皆が悪者扱いされる」と言っていた事に考えさせられました。日本にいると、大体、中国や
北朝鮮との問題で、向こうの国の人たちは皆モラルがないのでは、という偏見を持っていた自分がいます。私は中国人の
友人がいるので(高校時代に)、それからはあまり外国人に対する偏見は少なくなったと思いますが、やはり国籍が違
うだけでその人に対する接し方が変わってしまう、妙に気をつかったり、卑下したりしてしまうのが日本の現状なのか
な、と思いました。…後略…
―――
映像の中でファビオくんが「僕が悪いことをすれば、ブラジル人全員がそう思われる。」と口にしていたが、残念なが
ら、それは、本当にそうなる可能性が高いだろう、と感じます。実際は同じ国、同じ地域または一家族内でさえも1人1
人考え方から違うことがあるのに、一つかみの情報を得るとそれがまるですべてのように感じ取ってしまうのは、よくあ
ることだと思う。それを防ぐには、1人1人が普段から情報をうのみにしない、また、自分が見たり聞いたりするもの
は、すべてにおいて全体像のごくごく小さな一部なのだということを意識して、注意する姿勢が必要だと思う。
―――
…前略…私は外国人同士の子の家庭教師をしています。その子は日本の小学校に通っていますが家庭ではスペイン語しか
話せないので日本語にとても苦労しています。その家庭にはお金に余裕があるので私のような家庭教師をやとうことが
できていますが、でかせぎできている家庭にそのようなことは不可能です。子どもは同じ気持ちだろうに…。
―――
今日のビデオは、とても興味がわくビデオでした。私の地元は西尾(愛知)なのですが、小学校、中学校、高校とすべ
て、ハーフだったり、ブラジルの友達がいて、その子たちはビデオにでてきたファビオ君やドグラス君のように、日本語
を学んでいて、私も、よく教えたりしました。逆に、ポルトガル語を教えてくれたりして、とても仲良しで、一緒に登下
校したこともあるので、今思えば、良い環境だったんだなと思います。ですが、外国人は気にいらない、話したくな
い、という子もいて、やっぱりビデオの中で紺野さんが心配していたように、いじめなど、親からしたら気になるだろ
うなと思いました。環境って大事だなと思いました。
―――
…前略…外国人は義務教育の対象からはずれるのはなぜか。外国人の差別を問題にして話し合ったりするにもかかわら
ず大人よりも精神的に弱い子どもに壁を生みだしてしまうのはどうかと思う。…後略…
―――
36
僕は小牧市という場所に住んでいる。そこはとてもブラジル人の多い場所で、この作品を見るととてもなつかしい気持ち
になった。小中にはブラジル人の友人がいたが、高校にはいなかった。やはり勉強の壁というものがあるからだろう。
―――
こんのさんのような方は、日本人と呼ぶのでしょうかブラジル人と呼ぶのでしょうか。 ∼人 というくくりはなかなか難
しく、生まれも育ちもその国で両親もその国の人です、という人は ∼人 と呼ぶことができても、他の人はどうでしょう
か。国際化がすすんでいる今、 ∼人 と断言できる人はへっていくのではないかと思います。
【あべのコメント:そうですね。複合的で多元的なルーツや文化をもっているひとは、ひとくくりにできなくなります。
だからこそ、そうした時代の変化に対応できる多元的な視点や価値観、そして制度の改善が必要なのではないでしょう
か。】
―――
映画のなかの「ブラジル人でも日本人でもなくなる」という部分にこわさを感じました。日本で生まれて、生活している
私には身近な問題ではなくそのように感じましたが、私自身が日本人と思っているものとは何なのだろうと思いまし
た。国籍以外の部分は時代によって変化していきやすくて、日本らしさ、日本人らしさというものは私のイメージよりも
固定したものではないのだろうと思いました。
―――
19才の時に単身でブラジルに渡ろうと決意するだなんてすごいとしか言えない。自分も今年19才になるけれど、親元か
ら離れるだなんて考えられない…。一人暮らしをしているっていう友達のことさえすごいと思うのに、一人で海外に行く
だなんて自分は考えられないと思った。時代っていうのもあるかもしれないけれど、言葉の通じない所へは、やっぱり
あまり行きたくないと私は思う。
―――
ビデオを観て一番強く考えたのは、自分と相手との距離をつくるのは「言葉」ではないかということです。私たちは伝
えないと相手が考えることがわかりません。コミュニケーションの中で最も重要なのは「言葉」だと思います。話す言葉
が同じだというだけで親近感を感じますが、話す言葉がちがうだけでかなりの距離を感じます。もう少し非言語のコミ
ュニケーションも考えなくてはならないと思いました。
―――
レポートについての質問なのですが、引用する 本 は、論文やエッセイなどだけでなく、小説でも良いのでしょうか。先
生のおすすめ映画にあった「GO!」の金城一紀さんが大好きなので、ぜひ原作の小説を使ってレポートを書きたいので
すが、それでは 論じる にならないでしょうか。
【あべのコメント:『GO!』の原作はいいですね。歓迎します。『GO!』や『図書館戦争』シリーズのように参考文
献のある小説はいいですね。】
―――
レポートに関する質問ですが、例えば日本におけるコミュニケーションの現状と他国におけるコミュニケーションの現状
の比較、のような他国を引っぱり出すのもいいのでしたっけ。
【あべのコメント:いいです。】
―――
「ふつうの○○」という言葉は日常生活の中で何気なく使われているが、その「ふつう」という言葉が人々に与える影響
は大きいと思う。授業プリントにもあったように、「ふつうはこのようにする」という主張には、「このようにふるま
うべきだ」という価値判断がこめられている、という事実は、自分もよく感じることがある。自分は、周りの皆との間
で違うところがあると、「自分は普通じゃないのかも」と思ってしまうことがある。それで悩んだこともあるけれど、
100%同じ人なんているはずがないのだから「普通じゃない(人と違う)」は「普通(みんな違う)」だと思うように
している。「ふつう」という概念は同時に「ふつうではない」という差別を生んでしまうように思う。それでも、自分も
含め人々は「ふつう」という考え方を捨てることはできないだろうとも思う。それは、人がいかに人の目を気にしてい
るかということを示しているのかもしれない。
【あべのコメント:いいコメントですね。よかったら、倉本智明(くらもと・ともあき)さんの『だれか、ふつうを教
えてくれ!』をよんでみてください。】
―――
先入観や偏見があるのは仕方のないことなのかもしれないが、だからと言って、その人について知りもしない、知ろう
としないのにあれこれと口にするのは、おかしいことだと思う。
37
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第6回「民族ってなんだろう/言語ってなんだろう」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
◆民族ってなんだろう
国籍に注目するだけでは焦点をあてることができない問題がある。そのひとつに民族問題がある。
日本には民族的マイノリティとして、朝鮮人、おきなわ人、アイヌ人、さまざまな「外国人」が生活している。それで
は、多数派の日本人は、「なにじん(何人)」なのだろうか。「日本人」といえばよいのだろうか。
日本国籍人という軸をつくるとしよう。そのなかには、アイヌ人やおきなわ人だけでなく、日本国籍の朝鮮人がい
る。「日本国籍をもつひと」という意味での「日本人」と、民族としての「日本人」をおなじく「日本人」と呼称する
と、議論が混乱してしまう。そこで、「ヤマト人」や「和人」という名前をあてがうこともできる。しかし、わたしを
ふくめて、多数派の日本人は「ヤマト人」や「和人」という表現を日常的につかうことは、まったくない。なぜか。
それは、「民族」という視点をかかえこむ必要がないからである。端的にいえば、「多数派には名前がない」という
ことだ。つまり、民族的な多数派は、民族と国籍というカテゴリーを区別しなくても、とくに問題が生じない。なにも
問題はないと認識しているのである。
「民族」であるとか「エスニック」というものは、自分たち以外の、なにか「別のひとたち」のはなしであると「お
もえてしまう」のである。
「にほんじん(日本人)、あいぬみんぞく(アイヌ民族)、つちぞく(ツチ族)」
このようにならべてみると、「じん、みんぞく、ぞく」にはあきらかに序列がある。その序列を設定しているのは、
じん(人)=多数派の日本人である。
うえのような序列をなくすのであれば、すべて「じん(人)」とよぶ必要があるだろう。ヤマト人、アイヌ人、ツチ
人といったようにだ。そうしなければ、民族を相対的にとらえることはできない。
現在、民族という概念について社会学的な議論がすすみ、民族というカテゴリーは本質的なものではなく、ゆらぐも
の、想像されたもの、社会的につくられるものだと認識されている。「民族というのは幻想だ」ともいわれる。
ただ、ここで注意しなければならないことがある。民族というカテゴリーから自由でいられるという、「民族フリ
ー」の「日本人」の立場から、「民族は幻想だ」ということは、歴史や社会的背景をふまえないまま、安易な発言をし
ているのかもしれないということだ。
近代社会は、民族的少数派に制度上の差別をつくり、差別的なまなざしをむけてきた。そのなかで、少数派は自分た
ちの言語や文化を否定的にとらえるようになり、多数派の文化に同化してきた。
一方、多数派は近代文明をとりいれる過程で自分たちの文化を欧米化させてきた。しかしそれでも、日常の生活なか
で自分たちの言語や文化をまなび、継承し発展させてきた。日本の学校教育は、ヤマト人のための民族教育をしてい
る。ただそれに気づかないだけである。
アイヌの文化権や言語権(文化や言語を継承する権利)をみとめようとしないヤマト人が、つまり、この日本社会の
現実が、アイヌが「アイヌでいること」をやめさせたり、あるいは「アイヌであること」をたえず意識させつづける、あ
るいは、意識させつづけながらも、それをかくそうとさせる。アイデンティティは、そもそも自由であるはずである。そ
れにもかかわらず、アイヌや朝鮮人などの少数派は「アイデンティティのジレンマ」においこまれている。
多数派の親と少数派の親をもつこどもは、さらなるジレンマにおいこまれることがある。「おまえは、どっちだ」と
いうまなざしをむけられ、自分自身もそこで葛藤してしまうからである。しかし、「どちらでもある」のではないか。
「どちらも大切」といえるのが重要なのではないか。
平等な関係をきずきあげていけば、どちらかだけを選択することにはならない。片方の言語や文化だけを継承すると
いうことにはならない。移民二世の場合も同様である。日本社会で生活していくには日本語が必要である。しかし、親
と会話したり、親の家族、コミュニティとつながるためには民族語が必要である。どちらも大切なのだ。
文化の交流がすすみ、さまざまなアイデンティティが交錯する社会では、個々人の生活のなかに複数の文化や言語が
共存することになり、複合的なアイデンティティをもつようになる。だれも「ひとつ」の「なにか」だけにしばられない
社会になるということだ。そのような社会を「多文化社会」ということができる。
単一ではなく、複数である。その複数は、共存と対立のはざまにある。その状況を、どのようにとらえるのか。
38
◆言語ってなんだろう
世界観の基盤としての言語
人間は第一言語によって世界観を獲得するという。そのため言語の喪失は、ひとつの世界観の喪失であるといわれて
いる。言語が世界観をつくる。ひとは言語によってモノに名前をつけ、世界を分類しているのである。ケネス・ガーゲン
は、社会構成主義について解説しながら、つぎのようにのべている。
何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた
瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます(ガーゲン
2004:328)。
「何か」に名前をつけ、説明するのが言語である。ペルクゼンはつぎのように説明している。
…ことばは世界を目に見えるようにするだけではない。ことばは世界にはたらきかけるのだ。言語という鏡は現
実に反作用をおよぼすのであり、それは部分的には自立した力なのである。無数の拡散した印象がひとつの概念
に運びこまれ、そこにひとつの名前が貼りつけられると、この名前がある種の自立性を獲得する。それが限られ
た視点と眺望しか含んでいないことは忘れられ、物そのものと名前が混同される。こうして名前はできあいの制
度をもつ惰性を帯びることとなる。…中略…わたしたちは自分たちに合わせてことばを仕立てるが、その後は、
まるでことばという制度を着ているかのようにふるまう(ペルクゼン2007:36-37)。
たとえば、「家がないという状態」をあらわす「ホームレス」という表現は、あたかも「ひとつの存在」のようにみ
なされている。当初の意図や文脈をはなれて、ことばがひとり歩きしている例である。
そのため、言語表現を改善することは社会のありかたを改善することにつながる。たとえば、「いまここで、いっし
ょに生活している」という実感からすれば、「外国人」という表現はしっくりこないことがある。そこで、現に共生して
いる「だれか」のことを「外国人」ではなく、「おなじ市民」「住民」などと表現するようになれば、今度はそのひと
のおかれた社会状況に違和感をおぼえるようになる。逆にいえば、だれかを「外国人」と規定しつづけることで、どん
な差別的な待遇も「外国人だから」で正当化できてしまう。これは一種の循環論法(トートロジー)である。
音声言語と手話言語―言語を分類する
ひとは言語によって世界を分類する。言語そのものを分類することもできる。言語学には言語類型論という分野があ
る。文法の類似性などで世界の言語を分類するというアプローチをとる。
ここでは「言語形態」の分類について確認したい。「障害者とのコミュニケーション」をかたるとき、安易に点字と
手話をセットにすることがある。その問題について、亀井伸孝(かめい・のぶたか)がくわしく説明している。
まず、人類の自然言語全体を、音声言語と手話言語のふたつに大別することができます。音声言語は、文字を
もつ言語と文字をもたない言語に分かれます。一方の手話言語は、文字をもたない言語の数かずです。そして、
文字をもつ言語に対しては、墨字と点字というふたつの文字の体系が考案されています。
ここで、「手話と点字をまとめてあつかう」こととは、人類の自然言語の一部である手話という諸言語と、音
声言語の中の文字をもつ言語の、さらに一部の文字体系である点字を、無造作にひっくるめて同じ仲間と見なし
ていることです。この分類には論理的な根拠がなく、「英語と漢字」のようにまるで異質なものを並べているの
と同じです(かめい2010:155-156)。
…「手話と点字」というふうに、マイノリティの文化だけを中身によらずまとめてあつかうと、それらだけが特
殊なものとして対象化されます。そして、それぞれと対をなすはずの「音声言語」「墨字」という自分たちの文
化を呼ぶことばがかき消されてしまいます(157ページ)。
つまり、「手話と点字」をならべて論じることは、論理的でないだけでなく、多数派による少数派文化の有徴化であ
り、自分たちの文化を普遍化(無徴化)する行為であるといえる。多数派のコミュニケーション手段を相対化するため
に、音声言語や墨字(すみじ)という表現をおさえておきたい。墨字と点字はどちらも音声言語の文字表記である。
39
言語と国家
国語、外国語、二カ国語、中国語、韓国語など、言語を国家とむすびつけた表現がある。しかし、言語の境界線は国
境線ではない。「一つの国に一つの言語だけ」ということは現実にはありえない。小島剛一(こじま・ごういち)は
「何カ国語ぐらい話せますか」というコラムでつぎのように論じている。
言語の数と国の数は一致しないし、言語分布の境界と国境とも重ならないのが普通だから、「何カ国語」とい
う数え方は無意味であり、答えようが無い。「スペイン語だけが話せる人」は、スペイン語を公用語としている
国が21カ国あるから「21カ国語話せる」と言えるだろうか。独立国ではないがプエルトリコも「国」のうちに
数えると「22カ国語」になる。「アイヌ語と日本語が話せる」人は、アイヌ語がどこの国の「国語」にもなって
いないから「1カ国語しか話せない」ことになるのだろうか。日本のテレビには時々「二カ国語放送」という文
字が流れる。どことどこの二カ国を考えているのか分からないが、どうして単純明快に「○○語と○○語の二言
語放送」と言わないのだろう(こじま2010:90)。
たとえば、大学で手話の講義や研究科を設置するとして、どの学部に設置するのか。社会福祉学部か。それとも「外
国語」学部か。手話は福祉というのは従来型の発想であり、現代には適当ではない。しかし、日本手話を「外国語」と
表現するのも、ふさわしくない。はじめから「言語学部」という学部名にしておけば、なにも問題はないはずだ。
「ひとつの言語」とはなにか
小島は「「いくつの言語が話せるか」と問い直されても残念ながら答えられない」とのべている。小島があげた5つの
理由のうち、いちばん重要なひとつめの理由を引用する。
一、「同系統の異言語」と「一言語の諸方言」を区別する客観的な基準が無いから「言語の数」は数え方次第で
ある。お互いに難なく通じてしまうくらいの近縁関係にあるマケドニア語とブルガリア語、あるいはチェコ語と
スロバキア語をそれぞれ「二言語」と数える一方で互いにひとことも通じない鹿児島弁と津軽弁を「どちらも日
本語の方言」と見做すのは、政治的な分類である(90ページ)。
これは、言語をどのようにカテゴリー化するのかという問題である。田中克彦(たなか・かつひこ)の『ことばと国
家』は、「「一つのことば」とは何か」という議論からはじまる(たなか1981)。田中は「ことばの数をかぞえる」こ
との困難をのべる。その困難とは、「どういうふうであれば、あることばが一つのことばとして勘定できるのか、言い
かえれば、ことばという単位とはいったい何かという問題」によるものである(7-8ページ)。小島が指摘している「言
語と方言」の区別の問題について、田中もつぎのように説明している。
…日本語ならわかると思っている私にとって、わからなさの点において琉球語は外国語(同然)なのである。
しかしこうした言いかたは、琉球人、もしくは沖縄県民の感情をひどくそこねることもあるだろうし、あるい
は逆に歓迎されることもあり得よう。琉球が政治的、文化的に日本の不可分の一部であると信じ、とりわけアメ
リカの占領下にあった時代に、日本への復帰を強く願った人たちにとって、日本語とは別の琉球語を考えること
は、その復帰運動を妨害するものだという印象を与えることになろう。それはあくまで日本語に属する一変種、
すなわち、鹿児島方言などと同じ場所にならぶ琉球方言であるとその人たちは主張するであろう。
つまり、あることばが独立した言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言である
のかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動
植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない。世界の各地には、言語学の
冷静な客観主義などは全く眼中に置かず、小さな小さな方言的なことばが、自分は独立の言語であるのだと主張
することがある(9ページ)。
マックス・ワインライヒは、「言語とは、陸海軍をそなえた方言のことだ( A language is a dialect with an army
and navy. )」と表現している。言語の問題は、政治的である。権力が作用している。
ニューカマーの子どもの教育と言語問題
太田晴雄(おおた・はるお)はニューカマーの子どもの教育の問題について、つぎのように指摘している。
40
ニューカマーの子どもをめぐる現行の教育実践に共通するのは、「問題の所在」を当該の子どもたちに求め、
「問題の解消」をかれ・彼女らの「ガンバリ」に求めることにある。「授業についていけない」のは、子どもが
「日本語を理解できない」からであり、「問題の解消」は、子どもが「欠いている」日本語能力を身につけるこ
とによるのである。日本語教育は、「不足している能力」を埋め合わせることを目標におこなわれ、その際、当
該の子どもが持つ言語能力=母語能力は無視されるか、もしくは「問題の言語」として否定される(おおた
2005:74)。
この状況は、これまで障害者が治療やリハビリばかり要求され、「問題の解消」を「障害の克服」にもとめられてき
た状況とよくにている。太田は「ユニバーサル・デザインという考え方」を紹介したうえで、つぎのように論じている。
「障害」を作り出してきた社会の変容なしにはユニバーサル・デザインが実現できないのと同様に、多様な文
化的背景を持つ子どもたちが、「障害」を感じることなく学習に参加できるためには、教育システムおよび学校
それ自体の変容が必要になる。日本語の授業がわからない子どもに日本語の習得を優先的に求めるのは、車椅子
の人に階段を登らせるのと同じ発想といわねばならない。「日本語がわからないから問題」と考えるのではな
く、「日本語がわからなくても問題にならない教育システムとは何か」という発想の転換が必要なのである。
どのような背景を持っていようとも、すべての子どもが「意味のある学習」に参画できること、これをユニバ
ーサル・ラーニング(UL)と呼ぶならば、ULを可能にする教育システムの探究こそが、ニューカマーの子ども
の今後の教育を展望するうえで重要な課題となるであろう(75ページ)。
ここで問われているのは、「みんな」のなかにある「ちがい」をどのようにとらえるかということである。
バイリンガル教育(二言語教育)について議論するとき、言語のちがいは、つぎの3つに整理される。
(1) 問題としての言語
(2) 権利としての言語
(3) 資源としての言語
資源としての言語について、末藤光子(すえふじ・みつこ)はつぎのように論じている。
第三の「人的資源としての言語」という考え方では、日本語以外の言語を個人と社会にとって有用な資源とみ
なすことになり、日本語以外の言語と深い関わりをもつ子どもたちの存在そのものを肯定的にとらえていくこと
ができる。日本語以外の言語とは、たとえば、アイヌの人々にとってかつて母語であったアイヌ語、在日朝鮮人
たちの民族の継承言語としての朝鮮語、新たに日本にやってきた人々にとっての母語である中国語、カンボジア
語、ベトナム語、ポルトガル語、スペイン語等々、また帰国生が現地で身につけてきた諸外国の言語などのこと
である(すえふじ2000:19)。
最近の本では、『マルチリンガル教育への招待―言語資源としての外国人・日本人年少者』という本がおなじような問
題意識にたっている(なかじま2010)。
言語権という理念
多文化共生や多文化主義と同様に、近年になってしばしば理想としてかかげられているのが、多言語主義という理念で
ある。多言語主義と関連するキーワードとして、言語権という理念をあげることができる。言語権については、『こと
ばへの権利―言語権とはなにか』(言語権研究会編1999)という論集がだされてから、さまざまな議論が提示されてき
た(すなの編2012)。言語権とは、ひとつの社会においてさまざまな言語が使用されているなかで、相対的に力のよわ
い言語(=少数言語)を使用するひとの、言語に関する権利を意味する。はたして言語権とは、いったいどのようなこ
とを意味するのだろうか。木村護郎クリストフ(きむら・ごろうクリストフ)は、つぎのふたつにまとめている。
ひとつは、自らが帰属意識をもつ集団の言語を習得・使用する権利であり、もうひとつは当該地域や国で広く使
われる言語を学習・使用する権利である。日本の場合、例えば、日本語を第一言語とする在日韓国・朝鮮人の朝
41
鮮語学習は前者に、新しく来日した外国籍の子どもが学校や日本社会で孤立しないための日本語学習は後者に含
まれる(きむら・ごろうクリストフ2006:13)。
木村によれば、「言語権はだれがどこでも好きな言語を使ってよいという権利ではなく、ある言語の話者に対して不
平等・不都合がある場合に問題になりうる」ものである(14ページ)。言語コミュニケーションにおける不平等につい
て、かどや ひでのりはつぎのように論じている。
…ある言語の第一言語話者と非・第一言語話者が言語上のコミュニケーションをとるとき、そこではどういう状
況が現出するであろうか。非・第一言語話者の側がその言語に習熟していないならば、コミュニケーションの不
成立、中断がひんぱんにみられるだろう。そのとき第一言語話者は、コミュニケーションが成立しない責任を、
その言語について「不勉強で無知な」非・第一言語話者に、一方的におしつけるという現象が一般的に観察され
る。はなされたこと、かかれたことがわからないのは、「わからないひと」が使用言語を十分に習得していない
からだ、とされるわけである(かどや2006:114)。
かどやは「日本語、朝鮮語、イングランド語などの言語は、「学習が容易であること」を意図して形成された言語で
はないため、その実態はいちじるしく複雑化した巨大な「慣習」になっている」とし、それがその言語の「学習・習得
をきわめて困難なものにしている」と指摘している(115ページ)。
かどやの議論は、一方で「学習しやすく、だれの第一言語でもない」言語として、ザメンホフが考案したエスペラント
があるという点にある。現在、エスペラントに注目するひとはすくない。しかし、エスペラントは世界中に話者がい
る。使用実績の歴史もある。
エスペラントは「国際補助語」といわれる。日常生活では第一言語を使用し、第一言語がことなるひととはエスペラ
ントを使用する。そのほうが平等だという理念にたっている。社会言語学の研究者のなかにはエスペランティスト(エス
ペラントの理念に賛同し、使用するひと)がいる。エスペラントの理念はじっさいにエスペラントを学習したり使用す
るひとを必要とする。
一方、公共での掲示を多言語化したり公的に通訳を保障する場合、個人の実践(努力)は必要としない。ろう者や移
民が生活にかかわる情報をえるためには、「コミュニティ通訳」、多言語表示、「やさしい日本語」によるパンフレッ
トの配布など、さまざまな「言語サービス」が必要になる。第7回「通訳ってなんだろう」につづきます。
参考文献
ガーゲン、ケネス J. 東村和子訳 2004 『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版
かどや ひでのり 2006 「言語権から計画言語へ」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者
の解放』三元社、107-130
亀井伸孝(かめい・のぶたか) 2010 「少数言語としての手話、少数文字としての点字」広瀬浩二郎(ひろせ・こうじ
ろう)編『万人のための点字力入門―さわる文字から、さわる文化へ』生活書院、151-162
木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ) 2006 「「共生」への視点としての言語権」植田晃次(うえだ・こ
うじ)/山下仁(やました・ひとし)編『「共生」の内実―批判的社会言語学からの問いかけ』三元社、11-27
黒田龍之助(くろだ・りゅうのすけ) 2004 『はじめての言語学』講談社現代新書
言語権研究会編 1999 『ことばへの権利―言語権とはなにか』三元社
小坂井敏晶(こざかい・としあき) 2011 『増補 民族という虚構』ちくま学芸文庫
小島剛一(こじま・ごういち) 2010 『漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」』旅行人
末藤光子(すえふじ・みつこ) 2000 「日本の学校におけるバイリンガル教育の展開」山本雅代(やまもと・まさよ)
編『日本のバイリンガル教育』明石書店、11-46
スチュアート、ヘンリ 2002 『民族幻想論―あいまいな民族・つくられた人種』解放出版社
砂野幸稔(すなの・ゆきとし)編 2012 『多言語主義再考―多言語状況の比較研究』三元社
田中克彦(たなか・かつひこ) 1981 『ことばと国家』岩波新書
角田太作(つのだ・たさく) 2009 『世界の言語と日本語 改訂版―言語類型論から見た日本語』くろしお出版
中島和子(なかじま・かずこ)編 2010 『マルチリンガル教育への招待―言語資源としての外国人・日本人年少者』ひ
つじ書房
西江雅之(にしえ・まさゆき) 2003 『「ことば」の課外授業― ハダシの学者 の言語学1週間』洋泉社新書y
ペルクゼン、ウヴェ 糟谷啓介訳 2007 『プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延』藤原書店
42
山本真弓(やまもと・まゆみ)編/臼井裕之(うすい・ひろゆき)/木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすと
ふ) 2004 『言語的近代を超えて―〈多言語状況〉を生きるために』明石書店
用語解説
社会言語学:言語問題を社会学や政治学的な視点から研究するもの。あるいは、言語のバリエーションを地域差、性
差、世代差などに注目して調査し、記述するもの。
社会構成主義:社会構築主義とも。素朴実在論や本質主義と対比される。性格を例に説明すれば、個人に本質的に性格
というものが内在しているとするのが本質主義/実在論である。一方、性格というものは状況や関係(コミュニケーシ
ョン)によって「つくられる」ものであり、固定的なものではないとするのが社会構成主義である。。
第一言語:母語ともいう。最初に習得した言語。母語という表現は、「育児は母親がするもの」という性別分業意識が
反映されている点で問題がある。また、ろう児の親が聴者である場合、「母語」という表現は適さない。ろう児
は、ろう学校などの「ろうコミュニティ」に接すれば手話が第一言語になる。以前は「母国語」という表現をつか
う研究者もすくなくなかった。その問題点については、田中克彦『ことばと国家』を参照。
練習問題
6. 四角のうえに、丸をふたつ書いてください。
感想、疑問、苦情の紹介
猫ひろしさんのオリンピック出場問題について言及するコメントが複数ありました。「オリンピック」の現在を象徴
する出来事だったとおもいます。
前回、外国人労働者について注目しました。労働問題一般については、大月書店から『労働再審』という6冊シリーズ
がでています。
本田由紀(ほんだ・ゆき)編『労働再審 第1巻 転換期の労働と〈能力〉』
五十嵐泰正(いがらし・やすまさ)編『労働再審 第2巻 越境する労働と〈移民〉』
藤原千沙(ふじわら・ちさ)/山田和代(やまだ・かずよ)編『労働再審 第3巻 女性と労働』
西澤晃彦(にしざわ・あきひこ)編『労働再審 第4巻 周縁労働力の移動と編成』
仁平典宏(にへい・のりひと)/山下順子(やました・じゅんこ)編『労働再審 第5巻 ケア・協働・アンペイドワーク
―揺らぐ「労働」の輪郭』
山森亮(やまもり・とおる)編『労働再審 第6巻 労働と生存権』
現代日本の労働問題の全体像のなかに移住労働というテーマや、みなさんの就職というテーマがあるわけです。
―――
国籍のところで、日本国籍は父親が日本人であることという条件があることを知りませんでした。母親が日本人で父親が
外国人である場合、日本国籍はとれない。それはその人を憲法(?)で差別しているということになるのではないでし
ょうか。
【あべのコメント:国籍法の父系主義は、1985年に「女性差別撤廃条約」を批准したさいに撤廃しました。説明不足で
した。】
―――
今は就職氷河期と言われている。…中略…若者だけでなく中年世代も人件費削減のためといわれてクビにされる話もめ
ずらしいものではない。げんに、僕の友人にも父親が解雇された。そこで外国人の出かせぎにくる。素直に賛成できない
のは私の心がせまいからだろう。出かせぎに来て、困れば本国に帰り、また戻る。だが日本に住む私は帰える国はここ
である。困って帰る国はよそにはない。原発の問題で多くの外国人が国に帰ったという話を聞いた。彼らも安全になっ
たらまた日本に来るのだろう。だが重ねて書けば、私の帰る国はこの日本である。正直に言って、困ったら日本は捨て
れば良い、国に帰れば良いと考えているのではないかと考えてしまい良い気持ちはしない。やはり私はまだまだ未熟な
43
のだろう。だが、3年後には就職活動に参加する私としては、あまり余裕も綺麗事も考えられないのが現実だ。就職もで
きないし、退職すれば他に行く所があるのか。グローバル化が進む中、経済、生活という言葉の前にまだまだ人間は無
力なのかもしれません。他人に手を差しのべられるのは、自分に余裕があることが前提になってしまうのかもしれませ
ん。
【あべのコメント:まず、心がひろい、せまいの問題ではないです。日本の労働問題全体のなかに、外国人労働者がおか
れた状況があります。日本の労働問題を全体的に改善することなしに、外国人労働者のおかれた状況が改善することは
ないです。労働者を都合よく酷使する状況は、派遣労働やアルバイトの待遇にもあらわれています。一方で、正社員もま
た過労気味の状況にあります。「外国人」、あるいは「公務員」「正社員」などをスケープゴートにして、「あいつらの
せいだ」というのは、うっぷんばらし以上の意味をもちません。なぜなら、現実をふまえていないからです。研修生に依
存している労働現場はたくさんあります。公務員の待遇をさげれば、民間企業もそれにあわせるだけです。「外国人なら
低賃金でいい」という状況を黙認すれば、外国人を「追放」したあとに、日本人の派遣労働者などがその穴埋めをさせ
られることになるだけです。日本の労働問題の全体像をおさえる必要があるでしょう。そのなかで、「わたし」や「だれ
か」のことをかんがえることが重要だとおもいます。
「他人に手を差しのべられるのは、自分に余裕があることが前提になってしまう」というのは、ほんとうにそのとおり
です。わたしは、たまたま余裕があるだけのことです。「心」の問題ではないです。自分は無力だと感じているなら、社
会の問題に意識的になるのはむずかしい。なにも決定権/権限をあたえられていない(と感じられる)のに、「責任感
をもちなさい」といっても無理なはなしです。余裕のある社会にしないといけませんね。】
―――
内外人平等の話で思い出したのですが、他県の県立大学の多くは、県民と他県民で授業料等に差がありますが、我らが
愛知県立大学は、県民も他県民も授業料等に差がありません。県民税等のことを考えると、むしろ県民の方が金銭負担
が多くなっている(それまでに払った税が運営に使われているので。)くらいで、他県民に親切です。
【あべのコメント:そういうものなのですね。しりませんでした。わたしが卒業した山口県立大学を確認してみると、
県内/県外で入学金に差がありました(授業料はおなじ)。
ちなみに、国連の国際人権規約では、高校と大学の無償化をかかげています。日本はずっと「留保」しつづけてきまし
た。2001年に勧告をうけています。今年になって「協議する」とのニュースがありましたので、数年のうちに大学も無
償化されるかもしれません。国際条約は日本社会をよりよくしていくための指針になります。】
―――
現在民主党は外国人参政権を成立させようとしているが、私は反対である。国籍という一つの指標にもとづいて国政参
加者を決めることは普通のことだ。民族の誇りを持っていくことにはそれくらいのリスクは負わなくてはならないと思
う。
【あべのコメント:そもそも「外国人参政権」という表現にチグハグしたものを感じます。何世代も日本で生活している
ひと(三世、四世…)を「部外者」あつかいするのはおかしい、「外国人」という表現はしっくりこない、そのような
実感がひろまったときに、「「かれら」にも選挙権を」という議論になるわけです。そのとき、「かれら」の呼称は
「市民」や「永住者」となるはずで、「外国人」のままではないでしょう。】
―――
国籍の問題は、いつどこでも取り上げられていますね。なぜ取り上げる人は、そういった差別を無くそうとするのです
かね。私自身が、引きこもりな性格をしているので、わざわざ外国に出てさらにその国での権利を求める、という考え
が理解できません。差別されるかもしれないという心構えを持った上でいくべきだと思いますね。こういう思考なので、
中々同意してくれる人がいないですねぇ。少数派っぽい気もするので、そのうち差別なんて自然となくなるんじゃないで
すかね。
【あべのコメント:社会現象ですから、「自然となくなる」ということはありません。議論をかさねることで、なくし
ていくことができるものです。歴史をわすれないでください。「外国」を植民地支配したり、戦場にしたりしたのは日本
です。そして、歴史的背景をふまえて、日本人が、そういった差別をなくそうとしているのです。けっして「外国人」だ
けが声をあげているのではありません。】
―――
44
国籍はグループ意識だと思います。だから差別などの問題が生まれてしまうと思います。移民の人の問題も、国籍でグル
ープ分けしようとするから生まれているのだと思いました。
―――
国境なんてなくなればいいと思います。
【あべのコメント:ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞は、そういうことですね。それがたんに理想論であっても、
その理想論から現実をながめるとき、みえてくることもある。そういうふうに感じます。ただ、この世界に貧富の差があ
り、軍隊があるかぎり、国境はなくせないでしょう。】
―――
今、普通に日本で生活していると、1日に5人ぐらいは外国人にどこかで遭遇します。その人がどういう経緯で日本にい
るのか(日本に生活しているのか、旅行できているのかなど)は分からないけど、外国人としてみてしまう。その人が
日本うまれ日本育ちで日本語しかしゃべれなかったとしても、ただいるだけでは外国人がいると思ってしまう傾向が当
たり前のようにある。…中略…私は今まで国籍はあたり前に世界中の誰もが持ってるものだと思っていたけれど、そう
ではないと分かっておどろいた。例えば、外国人と結婚したらどうなるのかとかいろいろ問題があると思った。
―――
私の父親には在日コリアンの友人がおり、実際に会ったことはないが、私は小さい頃から父親にその方の話を聞かされ
てきた。その方は当時京都に住んでいて、どんな暮らしをしていたのかも話していた。また、私の通っていた高校には、
在日コリアンの先生が勤めていて、彼女から直接、選挙権の話などを聞いたりもしていた。私の周りの友人たちは、今ま
で在日コリアンの人たちのことを知る機会があまりなかったからか、彼女のことをハングルも話せる人としかみていな
いようで、横で話を聞いていて、モヤモヤすることがよくあったことを思い出した。…後略…
―――
私は日本に難民の人が周りにいると感じたことはありませんでした。これは政府があまり難民を受け入れていなかった
り、私たち自身があまり問題意識をしていなかったためかなと思いました。
―――
…前略…日本は、技術も何でも発達していて「先進国」と呼ばれているのに、なぜ、外国人の受け入れ態勢についてはう
まく考えることができないのだろうと思います。もっと先進国らしい対応を考えるべきです。…後略…
―――
私は、今の日本の入管の難民申請者への対応に疑問を感じます。そもそもの日本の難民認定の数が低すぎます。…中略…
難民不認定となったりビザが切れたりして「不法滞在外国人」となった人々への処遇がおかしいと思います。収容所の
環境も悪いようですし、「非人道的」だと思います。…中略…入管はどんな理屈で「非人道的」ともいえる行為を行っ
ているのでしょうか。「基本的人権は 国民 にしか保障されていないから、外国人に対しては何をしてもいい」というこ
となのでしょうか。
―――
…前略…三谷幸喜が脚本を書いた「12人の優しい日本人」という舞台を見ました。私は国民性はあると思うし、「日本
人の性格」というのも特徴があると思います。「日本人によくある雰囲気」というと決めつけな気もしますが、日本人
のことがうまく描かれていると思いました。おもしろいので、是非!!
【あべのコメント:舞台ではなく映画をみました。あれはおもしろいですね。まわりを確認しながら手をあげるシーン
など。1957年のアメリカ映画『十二人の怒れる男』や2007年のロシア映画『12人の怒れる男』もあわせてどうぞ。】
―――
中間レポートについての補足
中間レポートについては第4回のプリントで説明しました。あの説明では「無理だ」「むずかしい!」と感じるひとも
いるでしょう。
この授業でとりあげた「なにか」について、具体的に論じるという内容であればオーケーです。プリントで説明不足だ
と感じた点や気になった点について、しらべてみる、そして、それについて自分の意見をのべるという内容でもオーケー
です。「なにか」というのはプリントにでてきた語句ということです。
例:「大学入試における障害学生への配慮の現状と問題」「日本手話とは、どのような言語か」「リーマン・ショック
がもたらしたもの」「偏見とはなにか」「差別論の現在」。
45
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第7回「通訳ってなんだろう/多言語表示について」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
言語教育によって、主流社会の言語を学習したり、民族語を学習したり、ほかの地域の言語を学習することができ
る。しかし、言語学習には限界がある。そこで、翻訳や通訳が必要となる。ある言語をべつの訳すとき、どのような現
象がおこるだろうか。また、現代の日本社会では、どのような状況で通訳が必要とされているのだろうか。また、通訳
や翻訳のほかに、どのような対応がとられているのだろうか。
通訳とパターナリズム
自分の第一言語と相手の言語がちがうという点で、ろう者と聴者の立場はおなじである。ろう者は聴者の言語(よみ
かき、あるいは口話)を学習し、日常的に使用している。その一方、聴者には、ろう者の言語がわかるひとがほとんど
いない。言語的少数者であるろう者は聴者の言語を学習し聴者にあわせようと代償をはらっている一方、聴者は手話を
しらなくとも社会生活に問題が生じない。聴者の玉井真理子(たまい・まりこ)は、このような状況をふまえて、いわ
ゆる「健常者」あるいは「健聴者」を「手話障害者」ととらえる視点を提示している。
耳が聞こえないという事実と、手話ができないという事実は、事実としての重みは変わらないはずである。単
純な多数決の原理だけで手話ができないという事実の方は軽く見られ、あたりまえのこととして世の中で通用
し、その一方で、耳が聞こえないということのみが重たい事実として取り上げられている。二人の間のコミュニ
ケーションが成立しにくいという困難な事態にとって、つまり二人の間の「障害」にとって、耳が聞こえないと
いうことも手話ができないということも、どちらも重たい事実であるはずなのに……(たまい1995:173)。
もし聴者が「手話障害者」という立場を受容するなら、手話通訳で支援されているのは、ろう者ではなく聴者である
ということになる。しかし、これまで手話通訳は「耳の不自由なひとをたすけるための福祉サービス」と認識されてき
た。ここに聴者とろう者の権力関係がうつしだされている。
聴者とろう者の「文化的媒介」としての手話通訳
木村晴美(きむら・はるみ)と米内山明宏(よないやま・あきひろ)は「ろう文化を語る」という日本手話による対
談で、手話通訳者の意識について批判している。まず、木村は「これまでの手話通訳者には「ろう者を助ける」という意
識があった」と指摘する。ここで、ふたりは「手話通訳は福祉活動だ」という発想を批判し、つぎのようにのべてい
る。
米内山 「福祉労働者」という言い方でしょう。私はこの言葉には非常に抵抗を感じます。
木村 私も抵抗を感じています。通訳者とは二つの異なる言語の仲介者です。それを、「援助する」とか「福祉
労働」というふうに考えているから、ろう者としては通訳者に対して警戒心をもたざるを得なくなる(きむら/
よないやま1995:390)。
うえのように、ふたりは通訳者とは「言語と言語の仲介」であり、それと同時に「異なる文化の間に立って仲介す
る」こと、「橋渡し」する存在であるとする(390ページ)。このような視点は、保護するようなパターナリズムを拒
否し、ろう者と聴者の対等な関係を要求するものだといえる。
コミュニティ通訳
水野真木子(みずの・まきこ)は「在留外国人の言葉の問題」「コミュニケーションの齟齬(そご)の問題」につい
て、つぎのようにのべている。
外国人登録、転入・転出届、婚姻届、離婚届、出生届などの戸籍関係、母子健康手帳給付、新生児訪問指導、
就学手続きなど出産・育児関係、雇用保険、国民健康保険、介護保険、国民年金などの保険・年金関係、税金関
46
係、ガス・電気・水道、電話などの公共サービス、公営住宅など、さまざまなことがらに関する窓口で、言葉が
通じないことが問題となる状況は枚挙にいとまがありません。また、生活相談、心の健康相談など、さまざまな
相談窓口でのコミュニケーションの問題もあります。
さらに、病気になったり怪我をしても、医者の言葉がわからない。緊急に救急車を呼ぶことすら出来ない。こ
のように、救急時、病院での診察、検査、薬局での投薬指導などの医療に関わる場面でも、言葉の壁は大きな障
害になっています。また、警察官による職務質問、取り調べ、裁判での証言などの司法関係の場面でも、言葉が
通じないことは深刻な問題となります。さらに、家族で日本に住む外国人が急増していますが、その子どもたち
が日本の教育制度の中でうまくやっていくには、コミュニケーションが非常に重要な要素です。多くの子どもた
ちが学校で授業についていけず、不登校になり、中には不良仲間にはいってしまう子どももいるという現状があ
るのです(みずの2008:6)。
このように言語が通じないということは生活全般にかかわる問題である。こうした生活に密着した通訳をコミュニテ
ィ通訳という。
たとえば病院を受診したときを想定してみよう。病院を受診するのは、こころやからだに異変を感じるからである。
その症状をつたえることができなければ、きちんと診断されない可能性がある。医療通訳は生存にかかわる問題であ
る。司法通訳も、そのひとの人生を左右するおおきな問題である。
そもそも、通訳というのはたとえば日本語話者と非日本語話者(日本語学習者)の双方を支援することである。医療
通訳でも、ことばが通じなければこまるのは患者だけでなく、医師や看護師もおなじである(さわだ2006、まつの
2006)。通訳を一方的に「弱者にたいする支援」とみなすパターナリズムをなくす必要がある。
司法通訳でも、通訳者がいなければ裁判が成立しない状況をかんがえれば、通訳を準備する主体は国であるべきだ
(むらおか1995)。
コミュニティ通訳は生活全般にかかわることであるため、通訳ができるだけではその役割をはたせない。さまざまな
制度についての知識が必要となる。ただ、そういった知識を通訳者だけに要求するのは無理がある。通訳者とはべつに
「多文化ソーシャルワーカー」のような人材も必要である(いしかわ2011)。杉澤経子(すぎさわ・みちこ)は、つぎ
のように説明している。
「在留資格の変更はどうしたらできるのか」「賃金不払いのまま解雇された」「離婚をしたい」「日本で高校に
行くにはどうしたらいいか」等々、定住する外国人の増加に伴って、自治体等には様々な相談が寄せられるよう
になった。在留資格など制度上の問題や言語・文化の異なりによって生起する問題に的確に対応するためには、
言語・文化的マイノリティを日本社会に橋渡しができる通訳(コミュニティ通訳)とともに、外国人特有の問題
に精通し、適宜専門家につなげられるスタッフ(コーディネーター)がいなければ問題の解決は難しい。
法務省が、東京都新宿区に2009年11月16日に開設した「外国人総合相談支援センター」では、7言語の通訳
兼相談員とコーディネーターが配置され、外国人住民の生活相談全般に対応している。来訪者も多いが電話相談
も全国から寄せられている。各地の自治体から通訳支援を求められれば、相談者、自治体職員、通訳の3人が同
時に通話できるトリオフォンを使って通訳にあたり、労働問題や離婚、教育、心の問題など専門家の支援が必要
な場合には、コーディネーターがネットワークを駆使して問題解決に当たっている(すぎさわ2011:194)。
これは、言語にだけ焦点をあてるのではなく、そのひとの生活に注目する必要があることをしめしている。この「外
国人総合相談支援センター」の設置は、これまで一部の地方自治体で独自に実施されていた「外国人相談」がネットワ
ーク化されたという点でおおきな意味がある。そして、もうひとつ重要な点は多文化社会をささえる業務や職業がうま
れはじめているということである(195ページ)。
管理のための多言語化/いのちをまもる多言語化
愛知県の多言語化の状況を調査した糸魚川美樹(いといがわ・みき)は、つぎのようにまとめている。
街頭の多言語化は、警告文や注意文によるものが多く、外国籍住人に対して、日本人と同じ一市民であると捉え
る視点が欠如している。言語権保障とは無縁もしくは対立する多言語化現象すら存在し、犯罪取り締まりや生活
管理のための多言語化、情報を発信する側の利益だけを意図した性格が色濃くみられる。
通訳については…中略…警察には数言語にわたる通訳が配置されている一方で、医療・教育現場での通訳はま
ったく不足している。警察の職務をまっとうするために、当然通訳の充実は必要なのだろうが、それは医療であ
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っても教育であっても同じである。外国籍者の生命に関わるという意味では、医療の分野での多言語化は必須で
あろう(いといがわ2006:58)。
まず、警告文や注意文を多言語化したものが多いという点について注目したい。
ここでは、わたしが撮影したものを2点紹介する。
写真1(豊田市内で撮影)
日本語、英語、ポルトガル語で禁止事項について説明
がある。
写真2(東京都内で撮影)
日本語では、「ドロボーにご用心!!」「ゆるめるな心の鍵と家の
鍵」とある。
朝鮮語は「空巣被害防止重点地区」とある。漢語の文章にある「侵
入住宅盗」という表現は、「ニセ漢語」。設置した警察署の造語
で、日本語の「住宅侵入盗」の語順をいれかえたものだろう。
「住宅侵入盗」は「空巣」の警察用語。
これはつまり、日本人には「家の鍵をしろ」と注意をよびかけ、
「外国人」には「泥棒をするな」と警告しているということだ。
こうした差別的な多言語看板については、「差別ウォッチネットワーク まちの多言語警告・差別表示に関する調査」
というサイトがある(http://www.migrants.jp/v1/Japanese/whatsnew/s-watch/)。
また、愛知県における医療通訳についていえば、2011年の10月から愛知県でも医療通訳の派遣がはじまっている。
愛知県の「地域振興部 国際課 多文化共生推進室」のページを参照してほしい(http://www.pref.aichi.jp/kokusai/
tabunka.html)。
医療通訳は、神奈川県や京都市、愛知県など一部の自治体でしか保障されていないのが現状である。
48
多言語化に「やさしい日本語」を追加する
近年、多言語による情報提供に熱心な地方自治体は、さまざまな言語で情報発信するだけでなく、「やさしい日本
語」でも情報発信している。
やさしい日本語とは、災害時における緊急措置として提唱されたものである。つまり、災害が発生した直後から多言
語で情報を提供することはできないから、多言語で情報を提供できるようになるまで、やさしい日本語をつかった音声
で情報を提供しようということだ。弘前大学の社会言語学研究室が中心になって研究/実践をすすめてきた。
わかりやすい表現を必要としているのは日本語学習者だけではない。むずかしい漢字表現や外来語が苦手なひともい
る。やさしい日本語を、たくさんのひとが必要としている。
2011年の東日本大震災をうけ、『識字の社会言語学』で「やさしい日本語」を紹介した部分をウェブに公開した。く
わしくは、そちらをみてほしい(http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20110312/1299860811)。
東日本大震災における多言語情報
2011年3月11日の東日本大震災ではさまざまなメディアで情報が提供された。テレビやラジオ、新聞といった旧来の
メディアにくわえて、ウェブ上ではさまざまな情報サイトが誕生した。グーグルによる「消息情報」「避難所情報」「計
画停電情報」などのサイト、東京外国語大学多言語・多文化教育研究センターのサイトでの「被災者向け情報〈多言語
版〉」、あるいは「ダイバーシティ(人の多様性)に配慮した避難所運営」というサイトなどをあげることができる。
アンジェロ・イシは在日ブラジル人コミュニティにおける情報アクセスについて、つぎのようにのべている。
多くのブラジル人は情報の「不足」に悩んだというよりは、相反する情報の錯綜、誇張された警告の洪水など、
むしろ「情報過多」に翻弄された。課題となったのは情報の「量」よりも「質」であった(イシ2012:191)。
それは、たとえば日本語のツイッターでもおなじような状況だったといえる。つまり、原子力災害をめぐって、専門家
のあいだで意見が対立し、さまざまな情報と意見がとびかい、なにを信用すればいいのか、判断しづらい状況だった。
情報源が確実でなければ、それを翻訳しても、まちがった情報をつたえることになる。
あきらかになった情報をきちんと開示し、説明し、そのうえで各自に判断させる。そのような情報開示の文化が確立
できていなかったといえるだろう。
震災以来、多言語支援センターで活動している土井佳彦(どい・よしひこ)はつぎのようにのべている。
発災から5ヶ月が過ぎた今なお、さまざまなメディアで震災に関する情報が発せられている。そうした情報の
波の中から、一個人がどれだけの情報をキャッチし、その真偽についてどれほど正確に摑む(つかむ)ことがで
きるだろうか。筆者は6月下旬に被災地を訪れた際に数名の外国人の声を聞いたが、中には「あまりにも情報が
多すぎて、何を見聞きしていいのか、何を信じていいのかわからない。毎日流される津波の映像なんて二度と見
たくなかった。だから、しばらくはテレビもラジオもインターネットも見なかった」という人もいた。約2ヵ月
間、被災者に少しでも安心を届けたいとの思いで情報提供に取り組んできた筆者にとっては、目から鱗が落ちた
瞬間であった。どんなに意味のある情報でも、不特定多数の人に向けて一方的に発信しただけでは、必要として
いる人の元に届かないかもしれないということはわかっていたが、災害時には耳も目も塞いで自ら情報をシャッ
トアウトしたくなる人もいるのだということを、このとき初めて知った。
また、「日本のメディアと海外のメディアは言っていることが違っていたり、どこからか回ってくるメールは
デマだと思うものも少なくなかった」と教えてくれた外国人は、「国際交流協会のスタッフや日本語教室のボラ
ンティアなど、日ごろから接点のある一部の日本人の言うことを何より信じていた」と言っていた。言葉は関係
性の上に機能するというのは、まさにこのことだろう。情報は正確で相手に理解しやすく入手が容易なものであ
るだけでなく、適切な量とタイミングを考慮し、信頼性をもって届けられるよう、身近な人を介した伝達が重要
であることを覚えておきたい(どい2012:170-171)。
情報の信頼性だけでなく、「だれが伝達するのか」という関係性が重要な意味をもつということだ。それはつまり、
災害がおきるまえの日常の関係が重要だということだ。他人に無関心な社会では、いざというときに、たすけあうこと
はむずかしい。社会のどこかに居場所があり、そこでの接点があれば、その「つながり」は命綱になる。
49
もうひとつの「通訳」―言語障害のあるひとの発話をききとる
身体障害者のなかには言語障害があるひとがいる。ここでの言語障害とは、発音が明瞭でなく、通じにくいというこ
とだ。言語障害が比較的軽度であれば、初対面でも通じる。しかし、重度の言語障害があれば、なかなか通じない。そ
こで、介助者が通訳の役目をになうことがある。もちろん、会話する本人同士が直接はなすのが一番よいだろう。しか
し、それをすべての場面でしていたら、ほかのことができなくなってしまう。状況に応じて、自分で会話したり、介助者
に通訳をさせる。言語障害があり、介助を利用しているひとは、その都度それをえらんでいる。
ききとるコツは、そのひとの発音の特徴をつかむこと、早とちりをしないこと、何度も確認することなどだ。わかっ
たふりをしても、おたがいのためにならない。
要約筆記(文字通訳)
きこえないひと、きこえにくいひとは、みんなが手話を使用しているわけではない。中途失聴者や難聴者は日本語を
日常のコミュニケーションで使用している。ただ、きこえない、きこえにくいため、相手の発言を筆記してもらう必要が
ある。つまり、筆談をするか、要約筆記をつけるということである。要約筆記は、大学のような学習する場では「ノー
トテイク」ということもある。最近では、「文字通訳」という用語が定着しつつある。
言語のちがいだけでなく、身体のちがいを視野にいれると言語権の射程はひろくなる。最近では、包括的な用語とし
て「情報保障」と表現することもある(あべ2011)。
次回は、テーマをかえて「障害ってなんだろう」です。
参考文献
あべ やすし 2011 「情報保障の論点整理―「いのちをまもる」という視点から」『社会言語学』11号、1-26ページ
イシ、アンジェロ 2012 「在日ブラジル人とメディア」鈴木江理子(すずき・えりこ)編『東日本大震災と外国人移住
者たち』明石書店、190-196
石河久美子(いしかわ・くみこ) 2011 「多文化ソーシャルワーカー養成の現状と課題」近藤敦(こんどう・あつし)
編『多文化共生政策へのアプローチ』明石書店、181-192
糸魚川美樹(いといがわ・みき) 2006 「公共圏における多言語化―愛知県の事例を中心に」『社会言語学』6号、
45-59
亀井伸孝(かめい・のぶたか) 2009 『手話の世界を訪ねよう』岩波ジュニア新書
河原俊昭(かわはら・としあき)編 2004 『自治体の言語サービス―多言語社会への扉をひらく』春風社
木村晴美(きむら・はるみ)/米内山明宏(よないやま・あきひろ) 1995 「ろう文化を語る」『現代思想』23(3)、
363-392
沢田貴志(さわだ・たかし) 2006 「医療通訳は誰のため?」外国人医療・生活ネットワーク編『講座 外国人の医療と
福祉―NGOの実践事例に学ぶ』移住労働者と連帯するネットワーク、54-57
庄司博史ほか編 2009 『日本の言語景観』三元社
杉澤経子(すぎさわ・みちこ) 2011 「多言語・多文化社会における専門人材の養成」近藤敦(こんどう・あつし)編
『多文化共生政策へのアプローチ』明石書店、193-208
玉井真理子(たまい・まりこ) 1995 『障害児もいる家族物語』学陽書房
土井佳彦(どい・よしひこ) 2012 「多言語支援センターによる災害時外国人支援」鈴木江理子編『東日本大震災と外
国人移住者たち』明石書店、159-173
橋内武(はしうち・たけし)/堀田修吾(ほった・しゅうご)編 2012 『法と言語―法言語学へのいざない』くろしお
出版
松野勝民(まつの・かつみ) 2006 「医療通訳の公的制度を求めて」外国人医療・生活ネットワーク編『講座 外国人の
医療と福祉―NGOの実践事例に学ぶ』移住労働者と連帯するネットワーク、57-58
水野真木子(みずの・まきこ) 2008 『コミュニティー通訳入門』大阪教育図書
村岡啓一(むらおか・けいいち) 1995 「通訳を確保する義務の主体は誰か?―外国人刑事事件からみえてくるもの」
『季刊刑事弁護』4号、30-34
50
用語解説
オールドカマー:ニューカマーの対義語。1945年以前(あるいは、1980年代以前)に日本に移住したひとをさす。区
分の年代は論者の視点や目的によってちがう。大阪、兵庫、京都や神奈川県(とくに川崎市)などオールドカマーの社
会運動がさかんだった地域では、ニューカマーにたいしてもさまざまな支援のネットワークがある。
ニューカマー:オールドカマーの対義語。1980年代、あるいは1990年以後に日本に移住したひとのこと。在留資格の
種類や所在地によって、状況はさまざまである。
練習問題
7. 地元や近所の市役所では、どのような言語サービスを提供しているだろうか。例:「外国人相談」を実施している
か。防災のための多言語パンフレットを提供しているか。
8. 「やさしい日本語」をよんでみよう。きいてみよう。かいてみよう。
感想、疑問、苦情の紹介
「今の時代最低限英語は話せないと…」という考えにはいつも疑問を抱いています。「日本人は英語は苦手」などとい
う意見を聞くと、言語の構造も社会の文化も違うのだから当たり前ではないのかと思ってしまいます。また、フランス語
などもともとかなり似ている言語を話す人と条件が異なることには注目せずに、まるで日本の恥のように英語をうまく
話せる人の割合が少ないことを強調するのはどうかと思います。
―――
…前略…「言語の問題は政治的である。」とありましたが、言語によらず、文化などもそうではないかと思います。もと
もといくつもあったものを、誰かが分類して、それを当たり前のこととして認識しているのが現代だと思うので、多面的
な考え方をすると新しい面が色々見えておもしろいなと感じています。
―――
…前略…双方向のコミュニケーションについて、私はいつもここは日本なのだから、ある程度コミュニケーションが成立
するレベルの日本語を話せる人が日本に来てほしいと思う(旅行などは別)のですが、これは自分本位な考え方でしょ
うか。もちろんこちら側も難しい語いは使わないなど配慮はしますが、日本に出かせぎに来ている外国人コミュニティ
は日本語があまり通じないといったケースは何か違うと感じます。
【あべのコメント:日本人も、たとえば外国の支社に派遣されるときに現地の言語が十分にできる状態で移動している
かといえば、そうではない状況があります。北海道に移住した日本人(和人)がアイヌ語を必死で勉強したという歴史も
ありません。日本は日本語だけで成立する単一言語社会ではなく、多言語社会なのです。】
―――
英語を専攻している学生です。今日の講義のようにみんながこぞって英語を勉強する風潮を批判する視点がありますが、
私はそうは思いません。理想としては、すべての言語が平等であればいいと思いますが、現実はいくつかの言語が優位に
たってしまうことは仕方がないことであり、ごく自然なことに感じます。新しい言語を作ったり、自国の言語を圧力を
感じながらも使い続ける試みこそ、不自然ではないかと感じます。言語についてあまりよく知らないので、視野が狭いの
かもしれませんが一人の意見としてそう思いました。あべさんはこのことについてどう考えていますか。
【あべのコメント:「自然か不自然か」で判断することに反対です。「自然であること」よりも自由や権利が保障され
ることが重要だとおもいます。「自然だから、それでいい」というのを「自然主義の誤謬(ごびゅう)」といいます。
いくつかの言語を強制的に学習させるのではなく、選択できるようにすることが重要ではないでしょうか。】
―――
今日の授業で、「何か国語話せますか」という内容はとても興味深かったです。私の母はよく「私はバイリンガルよ、だ
って標準語と名古屋弁を使いこなすことができるから」と笑い話のように言うのですが、あながち母の言っていること
も間違ってはいないなと思いました。私は生まれも育ちも名古屋で、両親も名古屋で育ったので、私はよく名古屋弁を
使いますが、高校や大学に行くようになってから話がつたわらなかったことがよくあります。その時に、「もっとふつう
にしゃべってよ」と友だちに言われるのですが、私にとって名古屋弁を話すことはふつうのことなのに…と思ったこ
51
ともあります。同じ日本の中にいて、それぞれ自分にとってふつう・あたりまえの日本語をしゃべっているはずなのに伝
わらないって不思議ですね。
―――
「四角の上に丸をふたつ」の例はとても分かりやすかったです。私も「こういったじゃん。聞いてなかったの?」と言う
ときも、言われるときもあります。お互い自分が正しいと思いこんでるせいで、正確にコミュニケーションがとれてない
のだと思いました。
―――
練習問題をやってみて、隣の子とイメージが違っていたことを知って、 これしかないでしょ って思っていたこと事体が
まちがいだったんだと思った。日常でも行き違いはよくあることだけれど、さっきの私のような これしかありえない と
いう考え方がぶつかりあうことで、起こってしまうんだな、と思い、考えをあらためて、それぞれの人にそれぞれの考え
方があることを理解しなければいけないし、そういう努力や意識を持たなきゃいけないなと感じた。
―――
コミュニケーションをとるうえで、確認をとることが重要だということが分かった。友達と話していても、たまに話が通
じなくなって、お互いに困ったことになった経験があり、途中で確認すれば良かったと思うことは多々ある。しかし、
聞く(確認をとる)タイミングをつかむのは難しいです。
―――
コミュニケーションは双方向に行われるべきものですが、学校や会社や親子間ではしばしば一方通行になりがちのよう
に感じます。特に会社での、上司と部下の間では、部下の言い分は聞き入れられず、上司の一方通行になってしまうこと
がたくさんある気がします。コミュニケーションがうまく成立しないから、ストレスが発生するんだなと改めて感じまし
た。
―――
マイノリティへの差別行為の一つとして、蔑称等の名付けというのがあるかと思います。その名称というものを変更しよ
う!という動きが見え、今回の話でもあべ先生は「じん、みんぞく、ぞく」と分けるのではなく、すべて「じん
(人)」に統一する必要がある、とおっしゃってたように思います。
しかし、何の本だったか、名称を変更したって無意味。そのマイノリティの人達に対する差別意識、固定概念が抜けない
限り、何度でも蔑称としてついてまわる、という内容のものがありました。…後略…
【あべのコメント:どれが正解というものではないでしょうね。言語は社会のありかたを反映するものだという言語論
があります。これは、そのとおりです。しかし現実には、ただ反映するだけでなく、言語(表現)もまた社会の制度その
ものであるのです。社会のありかた、差別問題にアプローチするとき、表現(名前)を変更する「だけ」では十分な効
果はないでしょう。しかし、問題を改善する手がかり、ひとつの手段であることは否定できないでしょう。
『アメリカの差別問題―PC(政治的正義)論争をふまえて』や『言葉は社会を変えられる』などの本をどうぞ。】
―――
私もよく、○○弁のように、方言を県や地域によって分類している。また、方言と対比するものとして、標準語がある。
しかし、何を基準に標準と決めているのだろう。東京に住んでいても、愛知に住んでいても話す元の言葉は日本語であ
る。発音や語尾が違うだけで、 標準でない と思われてしまう。
「∼だべ」や「∼だら」などと語尾に付けたことで田舎者だとバカにしてるのをみたことがある。 東京に行けば標準語
を話さなくてはならない とよく言われる。しかし、方言は県や地域の個性である。それを変えようとするのはおかしい
と思う。田舎っぽいから、聞いた感じが悪いなどと言った理由では、方言を話す人達にとっては、不平等である。もっ
と方言が重要視されて、地域の個性が生かされればいいと思う。
―――
大学に入って自分が住んでいる地域以外を地元としている友だちと過ごしているうちに方言について考えるようになっ
た。愛知県立大学は愛知県にあるから名古屋弁や三河弁が主流だと思うので、それ以外の方言の子が珍しがられるのは
自然な現象かもしれない。しかしだからといって彼らが人に「なまってるね」と言われるのを見ていると違和感があ
る。東京の人からしてみれば名古屋弁もなまっているわけだから。しかし、たとえ標準語だと言われても愛知県民から
してみれば「変だなー」と思うもの(例えば「熊」のイントネーション)もあるから、最近は、言語に正しいとか標準
とかいらないと思いはじめた。
【あべのコメント:そうですね。言語学からすれば、ある言語にはバリエーションがありますが、そのちがいは、たん
に「ちがう」というだけで、優劣や正誤をあわらすものではありません。ちなみに、正確には「(高低)アクセント」
といいます。イントネーションというのは、「いく?」「いくよ」「いけ!」などの語調のことです。】
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「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第8回「障害ってなんだろう」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
コミュニケーションにマニュアルはない
倉本智明(くらもと・ともあき)は『だれか、ふつうを教えてくれ!』で自分の価値観をおしつけるボランティアの問
題を指摘し、つぎのようにのべている。
問題は、「向き合うべきは誰なのか」ということなんですね。本で読んだり、授業で聞いたり、経験を積むな
かから得られるものはもちろんたくさんあります。けれど、向き合うべきは、あくまで、他ならぬ目の前にいる
「その人」なんです。教科書でも、先生の話でも、ボランティアのマニュアルでも、過去の経験でもない。
もし、あなたが障害者についてのなにがしかの知識をもっていたとしても、それはいったん、横っちょに置い
たほうがいいかもしれません。もっている知識は参考程度にとどめておいて、目の前にいるその人のことばに耳
を傾け、その人のふるまいをよくながめてみることです。
知識でもって現実を解釈するのではなく、現実と照らすなかで、知識に修正を加えていくことが大切です。そ
のためには、「自分はわかっていないんだ」ということをわかっている必要がある。でなければ、虚心に目の前
の現実とは向き合えませんから。
この本についてもおなじですよ。参考にしてほしいけれど、本当にぼくの言っていることが正しいのかどうか
は、あなた自身が、これから経験する現実と照らして、確認してみてください(くらもと2006:125-126)。
「障害のあるひとと接した経験がほとんどないから、どのように接したらいいのか、わからない」。そのように質問
されることがある。その質問に、「経験者」として解説することはできない。そもそも「解説」などしたくない。便利
なマニュアルがどこかにあるわけではない。その場、そのとき、自分なりに、「その人」との関係をつくる。そして、知
識や価値観を更新する。わかった気になったり、わからなくなったりしながら、試行錯誤する。そういうものだろう。
障害学―医療モデルから社会モデルへ
障害とは、なんだろうか。そこに焦点をあてる研究領域がある。障害学という。障害学は、障害者運動の歴史と議論
をふまえ、今後の展望をきりひらくものである。
これまで、障害者は専門家に命令され、治療され、リハビリをさせられてきた。その歴史に異論をとなえ、障害は身
体の問題ではなく、社会のありかたの問題であると主張してきたのが障害者運動の思想であり、障害学の理念である。
障害学は、これまでの医療中心の障害認識を「医療モデル」と表現し、それに抗する理念として「社会モデル」を提唱し
ている。長瀬修(ながせ・おさむ)は「障害学のアプローチ」について、つぎのようにまとめている。
障害学の柱は「障害者が直面する問題の核心は、障害者自身の身体ではなく、社会、環境にある」とする社会
モデルと、「障害者には独自の文化がある」とする文化モデルにある(ながせ2002:144)。
長瀬は、社会が「多様な人間像を前提とせず、非常に狭く定義されたノーマルなものからはみ出している者に肩身の
狭い思い、自分が悪いのだという思い、みんなの重荷になっているという思いを持たせてきた歴史がある」と指摘し、
つぎのようにのべている(144ページ)。
しかしそもそも介助が必要な人に介助がないのがおかしい。目が見えない人に点字や音声での情報がないのが
おかしい。むずかしい字が読めない人に漢字ばかりの文書しかないのがおかしい。公共機関の連絡先に電話番号
しかないのがおかしい。会議に手話通訳者の準備がないのがおかしい。段差ばかりの建物がおかしい。〈おかし
いのは自分ではない。こうした自分を受けとめていない社会こそがおかしいのだ〉という視点への転換が起こっ
たのである(145ページ)。
もし、社会が「多様な人間像を前提」とし、その多様性に配慮していれば、少数派が社会生活をおくるうえで障害に直
面することもないだろうということだ。そして、「多様な人間像を前提」とした社会は、公平で生活しやすいはずだと
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いうことである。重要なのは「こうした転換を明確に起こしたのは、社会による排除を身をもって経験してきた障害者自
身である」ということだ(145ページ)。
山下幸子(やました・さちこ)は、「障害者が無力化される要因を当該社会の法、制度、価値、慣習に見出そうとす
るのが障害学である」と説明している(やました2008:18)。
からだの多様性
さて、そもそも「障害」とは、いったいなんだろうか。なにをもって「障害」とするのだろうか。浜田寿美男(はま
だ・すみお)は『「私」をめぐる冒険』という本の第2章「自閉症という「私」の鏡」において、つぎのように治療と障
害について論じている。
私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードル
があるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中
略…cure[キュア。治療、なおすという意味―あべ]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながるこ
とがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味では、障害を、数ある
人間の複雑なヴァリエーションのなかの一つとしてとらえる視線は大事だと思います。平たくいえば、そんな性
分の人もいるというていどに考えたほうが、いいのではないかと思います(はまだ2005:87-88)。
ものの見方によっては、かぜも白血病もダウン症も自閉症も心臓病もすべて、生物として、人間としてあたりまえのこ
とであり、なにも特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病気と病気ではない状態を区別することがあり、
それはそれぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別なのである。それゆえ、なにかを病気だとすること
も、病気ではないとすることも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論である。そのことは、障害をめ
ぐる人類学的研究においても確認できる(イングスタット/ホワイト2006)。
配慮の平等
石川准(いしかわ・じゅん)は、「配慮の平等」という視点を提示している。石川は、駅の階段とエレベータを比較
してつぎのように論じている。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、
「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレ
ベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上が
れない。とすれば、エレベータを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきも
のとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない(いしかわ2008:93)。
石川は「停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者
となる」と指摘している(93ページ)。そして、つぎのようにまとめている。
要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところに
は障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。そして中間的な環境には健常者と障害
者がいる。そしてそのような中間的な環境では、多数者への配慮は当然のこととされ配慮とはいわれないが、少
数者への配慮は特別なこととして意識される(94ページ)。
これが、ある配慮が「特別あつかい」として意識され、「弱者のため」というパターナリズムがとりこまれるメカニ
ズムである。
「ちがい」への態度
『みんなちがっている』という障害理解の本で、ミラーとサモンズは「だれもが、ちがっている」という。そして、
「だれもが、ちがいに反応する」という(ミラー/サモンズ1999:1―あべ訳)。たしかに、ちがいは存在する。ひと
は、そのちがいに気づき、ある反応をみせる。問題は、「どのように反応するのか」だ。
54
好井裕明(よしい・ひろあき)は、「障害者を嫌がり、嫌い、恐れるということ」という論文で、障害者にたいする
否定的な態度をとりあげ考察している。その論考で、好井は「なぜわたしたちは障害者を他者として理解できないのだろ
うか。また理解できないことから由来する漠たる恐れや怯え、不安がフォビアとして現象してしまうのだろうか」と疑問
をなげかけている(よしい2002:108)。フォビアとは、嫌悪という意味である。
好井は、その理由として一般的な「障害者イメージの偏り」と「わたしたちが障害者、障害者の暮らしを「しらな
い」ということ」を指摘している。そして、もうひとつに差別はいけないとわかってはいても「でも嫌いなものは、やっ
ぱり嫌いなんだ」という、感情の問題にすることで合理化(正当化)してしまうことをあげている(108-110ペー
ジ)。それなら、どうすればよいのだろうか。ちがいへの態度をかえていくことはできるのだろうか。ミラーとサモンズ
は、つぎのようにのべている。
態度の変化は、われわれが、さまざまな障害について「より理解をふかめ」、さまざまな障害をもった人ともっ
と出会うことによって生じるものである(ミラー/サモンズ1999:46―あべ訳)。
態度は一般的な理解だけでなく、もっと出会うこと、つまり、具体的なコミュニケーションをかさねることで変化す
るものである。
出会い、感動する。そして日常の風景になる
乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)のベストセラー『五体不満足』に印象的な場面が紹介されている。乙武が水泳で25
メートルをおよいだ。それをみて感動していたたひとたちをクラスメイトが評した部分である。
なかなか止むことのない、最大級の拍手だった。そんななか、ボクのクラスメイトは、岡先生にこんな報告をし
ていた。
「ほら先生、あそこのオバサンたち、泣いてるよ」
その目は、いかにも不思議なものを見るような目だった。先生は、そのことが何よりうれしかったと言う。こ
の子どもたちは、乙武をただのクラスメイトとしか見ていない(おとたけ88-89)。
乙武の存在は、クラスメイトにとってはありふれた光景だった。だが感動したひとたちには、そうではなかった。だ
から、感動できたのである。乙武のクラスメイトにとっては、不思議なものとは、乙武の身体などではなく、乙武に感
動するひとたちだったのだ。これは、乙武とクラスメイトとの「ぶあついコミュニケーション」によってもたらされた変
化である。具体的な「出会い」と「ぶあついコミュニケーション」が、態度をかえたのだ。
「異常」が「あたりまえ」になる
たとえば、自分にとって「だれか」がどれほど「異常」にみえたとしても、そのひととのコミュニケーションをつづ
けていけば、異常は「ふつう」や「あたりまえ」に変換される。なぜなら「異常」にみえたものが、「ごくありふれた
風景」にかわっていくからである。そうなれば、「異常」どころか「特徴」でさえなくなる。「なんでもなくなる」の
である。「配慮」も同様である。はじめのうちは、ある配慮が「特別あつかい」「特別な配慮」などと認識されるかも
しれない。しかし、それが日常の風景になれば「特別あつかい」などと認識されなくなるかもしれない。
根本的な問題は、だれも「すべてのひと」と出会うことはできないことにある。すべてのひとと、ぶあついコミュニケ
ーションをつづけていくことは、とうてい不可能である。みなれないひとに出会えば、とまどい、奇異にみてしまう。
場合によっては「異常だ」と感じてしまうかもしれない。「きもちわるい」と感じるかもしれない。
重要なのは、そのように感じたときに、そのままそれでよしとするのか、自分の内面とむきあってみるのか、そのど
ちらをえらぶかである。
おなじだけど、ちがっている。ちがっているけど、しかし…。
杉野昭博(すぎの・あきひろ)は、つぎのようにのべている。
55
障害者は健常者から「ぼくたち同じだよね」と言われれば「違うだろ」と言いたくなるし、逆に「あなた方は違
います」と言われれば「同じ人間じゃねえか」と言いたくなる。つまり障害者は、「同じ」という主張と、「違
う」という主張をつねに両方持ち合わせている必要があるし、障害差別はそのようなかたちでしか抵抗できない
ものである(すぎの2007:247)。
これは、「在日外国人」についてもおなじことがいえる。日本語をはなし、日本社会で生活している。その現実をみ
れば、それほど「違う」わけではない。「同じだよね」といいたくなる。しかし、ちがうところも、たしかにある。
「ちがいを無視しないでほしい」ということもあるだろう。おなじだけど、ちがう。ちがうけど、にている…。その両
方の感覚を大切にしたい。
次回は、感情とコミュニケーション、感情労働ついてです。
参考文献
石川准(いしかわ・じゅん) 2008 「本を読む権利はみんなにある」上野千鶴子(うえの・ちづこ)ほか編『ケアとい
う思想』岩波書店、91-106
イングスタット、ベネディクト/ホワイト、スーザン・レイノルズ 編 中村満紀男ほか訳 2006 『障害と文化―非欧米世
界からの障害観の問いなおし』明石書店
乙武洋匡(おとたけ・ひろただ) 2001 『五体不満足 完全版』講談社文庫
かどや ひでのり 2010 「じゃんけんのユニバーサルデザイン―構造的差別に視点をおいた人権教育実践」『人権教育研
究』10号、60-76 http://www.tsuyama-ct.ac.jp/kadoya/zyanken.pdf
倉本智明(くらもと・ともあき) 2006 『だれか、ふつうを教えてくれ!』理論社
杉野昭博(すぎの・あきひろ) 2007 『障害学―理論形成と射程』東京大学出版会
長瀬修(ながせ・おさむ) 2002 「障害学」市野川容孝(いちのかわ・やすたか)編『生命倫理とは何か』岩波書店、
144-150
浜田寿美男(はまだ・すみお) 2005 『「私」をめぐる冒険』洋泉社新書y
山下幸子(やました・さちこ) 2008 『「健常」であることを見つめる―1970年代障害当事者/健全者運動から』生
活書院
好井裕明(よしい・ひろあき) 2002 「障害者を嫌がり、嫌い、恐れるということ」石川准(いしかわ・じゅん)/倉
本智明(くらもと・ともあき)編『障害学の主張』明石書店、89-117
Miller, Nancy B., Sammons, Catherine C. 1999. Everybody's different: Understanding and changing our reactions to
disabilities. Paul H. Brookes Pub. Co.
用語解説
障害者:現在、障害者という表現について、さまざまな改善案がある。障がい者、障碍者、障害のある人、障害をもつ
人、しょうがい者、しょうがいしゃ、ハンディのある人などである。障害をめぐる認識を転換しようとする障害学の領
域では、そのまま障害者と表記するひとがほとんどである。それは障害をめぐる認識の中身の問題であり、表記の問題
ではないという問題意識によるものである。重要なのは、障害は社会的につくられるという認識であるという立場であ
る。
健常者という表現も、自分の立場性を明示するために、あえて自覚的に使用する健常者もいる。一方で、非障害者と
表現するひともいる。
練習問題
9. いま日本では国連の障害者権利条約に批准するために国内法を整備している。障害者権利条約は、どのような内容の
ものだろうか。日本の法律にどのような影響をあたえているだろうか。
10. ユニバーサルデザインの視点からリニモをみてみよう。
56
感想、疑問、苦情の紹介
日本手話について誤解したコメントが複数ありました。日本手話は、日本で「ろう学校」ができて、そこに、ろう児
があつまり、誕生した言語です。日本語とは無関係です。日本語を手で表現したものではないです。ろう者は、手話で思
考します。世界のいろんな地域の手話は、それぞれ、ろう者のコミュニティが発生したときに誕生したものです。
―――
電話相談は、匿名性があるぶん気軽に相談しやすいかもしれない。しかし、電話では相手の表情や身ぶりをうかがうこ
とができず、直接会って話をするよりコミュニケーションの手段が限られてしまうため、わたしは電話による相談をあま
り良い手段とは思えない。
【あべのコメント:よしあしですね。いそがしい毎日をおくっていれば、窓口まで相談にいくのが大変です。】
―――
「コミュニティ通訳」の話で医療での問題点が指摘されていましたが、医者自身がポルトガル語などを勉強している方も
いるようです。県大の看護学部でも医療系のポルトガル語などの授業も受けられるようです。また、以前私が行った内科
では、ブラジル人労働者専用の診療日を設置していたりしていました。
―――
…前略…医療通訳専門の人が病院にいれば、安心して看護の仕事ができると思う。
―――
あいち医療通訳システムにおいて、利用料がかかってしまう事、患者から要請できないことなど、大きな問題だと思う。
京都のように先をゆく地域を見倣い早く制度を整えた方が良いと思う。しかし通訳のシステムのことは今まで知らなか
ったが、いのちにも関わる医療系とのつながりに第三者が介入することは、ミスが起きた時に誰が責任を負うのかとい
う重大な問題がでてくるだろう。言葉の伝わらない人同士を支援する良い取り組みだが、なかなか難しいものだと思
う。
―――
街頭の多言語化について、外国人が日本で暮らす上で日常生活と密着したサービスなどが不足している反面、警告文や注
意文に多言語化が多いことは大変残念に思います。しかもそれが時に差別的である例を見て思うのは、警告や注意の看
板にイラストを使用すると良いのでは、ということです。絵は世界共通で言語が分からなくても理解が容易であるし、
何より見る側に不快感を与えにくいのでは、と感じます。
―――
「やさしい日本語」を見た時に、昔利用していた「ヤフーきっず」を思い出しました。あのホームページも日本語が易し
く、小学生の時にわかりやすいな、と思った経験がありました。NHKが「やさしい日本語」のホームページを作ってい
るならヤフーやGoogleも使えれば便利なのではと思いました。たとえば「ヤフーきっず」にあるカテゴリを外国人向け
もとり入れて「ヤフーじゃぱん」にするとか。…後略…
―――
やさしい日本語は とても わかりやすい! 一文一文が みじかくて、言葉も簡単なものを使っていた。難しい本もこんな
感じにわかりやすくしてほしいです…。
【あべのコメント:いちお、わたしが目標にしているのは、そういうことです。むずかしいことを、わかりやすく。】
―――
英語の授業のとき、イギリス人やオーストラリア人の先生が話す英語は、ほとんど聞きとることができます。でも、テレ
ビでの英語のインタビューなどは発音の仕方、速さ、単語において違いがかなりあって聞き取るのが難しいです。こうい
うとき、普段先生たちがやさしい英語を使ってくれているんだと感じます。
【あべのコメント:そうですね。それを、言語学の用語で「フォリナー トーク」といいます。相手につたわるように、
わかりやすく会話するということです。日本語でも、日本語学習者と会話をしているうちに、やさしい日本語をはなせる
ようになるでしょう。フォリナートークが過剰になると、バカにしているような印象をあたえることもあります。】
―――
確かに、実際のアメリカ人が使う言葉や英語の小説は、私からしたらわかりにくい。習った文法どおりでないし、一文
一文が長くて、どこできればいいのか考えるのも難しい。それならば、逆の場合もそうであるのはあたりまえだ。災害
がおこったとき、ただでさえ不安でいっぱいなのに、難しい日本語をならべられたら余計不安になってしまう。やさし
い日本語は、とてもいい活動だと思う。
57
―――
…前略…震災のときは東京にいて、輪番停電もありました。停電をするのか、しないのか、どこのグループに入るのか、
何時からなのか、ギリギリまではっきりしなくて不安だったことを思いだしました。我が家では結局、町内放送を頼り
にしていましたが、放送は日本語のみでしたり、きこえにくい人はどうしていたんだろうと思います。
―――
言語障害の話とは少し違うのですが、私の祖母は耳が遠くなかなか会話が通じません。介護センターから支援を受ける
ことになって、今介護士さんが家を訪れて祖母と言葉を交しているのですが、「大きく、はっきりと、ゆっくり、簡単な
言葉で話す」ことが、理解につながるようですね。しかし本人、本当に分かっているのかいないのか、些か(いささ
か)心配ではあるのですが。
―――
中央に手すりのあるベンチを、名古屋駅付近の公園で見ました。ホームレスの方も数人いる公園でしたので、「これじ
ゃ寝れないじゃないか」と思ったのですが、それが目的だったのですね。今日聞いてビックリしました。
―――
ベンチの真ん中の手すりや、変なトコロにあるオブジェなど、「何故こんな所に?」と思っていたが、話をきいて納得
した。言われてみれば、ディズニーランドなど入場料がかかる施設に置かれているベンチには、わざわざ真ん中に仕切り
をしているものはなかったように思う。
―――
これから公園のベンチの見方がかわります。きっとベンチでなくても他のものにも、特定の人に対するメッセージをこ
めたひにくなものがあると思います。これから町を歩くときには、なにげないものでも少しへんだなと思ったら、どう
してだろと考えながら歩いてみたいです。
前半を終えて。どの問題も答えがなく難しいです。考えれば考えるほどわからなくなっていきます。でも、考えることで
よりよい方に導くことができるのかなと思いました。
―――
今回は、おまけとして2008年にブログにかいた文章をご紹介します。
「じゃんけんのユニバーサルデザイン」
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080708/1215532781
きょうのはなしは、じゃんけんのユニバーサルデザインについてです。
グーというのは石。パーというのは紙。チョキというのはハサミ。なるほどね。グーは、手をにぎる。パーは、指をの
ばす。チョキは、ひとさし指と中指をだして、のこりの指は にぎる。
おもうんだけどさ、グーとかチョキとか、できないひと いるじゃん。指が にぎれないひと。パーとグーが ほとんど
いっしょになるひとね。そういうひとって、いくらでも いるわけですよ。からだの特性でパーしか できない。
「だれでもグーとかチョキとかできるはずだ」ってのは幻想なわけ。だれでも できることじゃない。グーができない
ひとって、たくさん いるわけ。
それでは、どうしたら いいんでしょうか。あなたなら、どうしますか。
「え、グーもチョキもできないの? じゃあ、あっち いってて。できないんじゃ、しょうがないじゃん。」
「あ、グーもチョキもできないの? ああそれって、指が にぎれないってことね。おっけ。だいじょうぶ。」
あなたなら、どうしますか。これね、いい方法を おしえてもらったの。
・手のひらをしたにむけて、グー。
・手のひらをうえにむけて、パー。
・手のひらをたてにして、チョキ。
おー。意外と かんたんですね。パーのままで じゃんけんできる! すげえ。
58
ここから以下、うそでたらめを かきます。ご注意ください。
半年くらい前ね、「西日本じゃんけん愛好会」の会長さんにインタビューしたんですよ。
まず、わたしが「手のひら じゃんけん」を実演してみせました。それで、「手のひらのむきをかえるだけで じゃんけ
んできるんですよ。大発見でしょう? いかがですか。おもしろいでしょう?」
そしたら、会長さんはとっても残念なことを おっしゃるわけです。
会長「そもそも じゃんけんというものはだね。グーは石であり、パーは紙だ。で、チョキはハサミだね。きみも よく し
っているだろう。」
あべ「はい。まあそうですね。」
会長「じゃんけんには歴史もあり、意味もある。それを、手のひら じゃんけんだと? ばかにしてるのか!」
あべ「そんなことは…(涙目)。」
会長「そんなもんはな。もはや、じゃんけんと よべるもんじゃないんだよ。そんな ふざけたことをやりたいやつは、愛
好会には入会させんぞ。わかったな。」
あべ「入会したくて うかがったわけではありません!」
…中略…
会長「ともかく、きょうは つかれた。かえってもらえんかね。」
あべ「………。失礼しました…。」
わたしは、じゃんけんにたいする愛が たりなかったのだろうかと自問自答しました。手のひら じゃんけんなんて、だ
れも みとめては くれないのか…。いくら手のひらのむきを かえてみても、しょせんは全部パーなのか…。じゃんけんっ
て、いったい なんなんだ?
じゃんけんって、なんのためにするんだろう。わたしは迷路に まよいこんでいました。こたえのない こたえを さまよ
う迷路に はいりこんでしまったのです。手さぐりで つかもうとしながらも、わたしの心は うつろでした。
それから、3ヶ月たったときでしょうか。「チューリップ大学 じゃんけん同好会」の みほさんに偶然であったので
す。
あべ「あー、チューリップの。じゃんけ…。」
みほ「そうそう。あー、あべちゃん元気?」
あべ「どうかな…。微妙?」
みほ「ふーん。ところで、じゃんけん しようよ」
あべ「え…? やだよ。」
みほ「いいからさー。はあい、じゃんけんぽい。」
わたしは、なげやりに、手をはらうポーズをしました。
みほ「あ、あべちゃんパーね。わたしグー。まけちゃった。」
あべ「いや、だしてないし。やらないよって手でジェスチャーしただけやん。」
みほ「それでも いいの!」
「それでも いいの!」に ふかく感動したのは、いうまでも ありません。
「それでも いい」。なんて すてきなの! その日から、「それでも いいの」が頭から はなれません。「それでも いい
の」に とりつかれてしまったのです。すべてを うけいれ、肯定する つよい力を感じたからです。
さて、「西日本じゃんけん愛好会」の会長さんも、歴史をせおった人物です。じゃんけんに没頭し、ねる時間を おし
んでさえも、じゃんけんの歴史を ひもとき、そして、じゃんけんの すばらしさを世間に うったえてきた。その愛着とい
うか、信念というものは、ゆるがないものでしょう。それは、うけいれることが できます。
けれども、あの会長さんにしたって、指が にぎれないひとに であう機会があれば自分では「ただしい じゃんけん」
をしつつも、相手の「手のひら じゃんけん」を うけいれることでしょう。
それにしても不思議です。なぜ あの博識の会長さんが「手のひら じゃんけん」を しらなかったのか。
59
わたしは、そこにもまた歴史を感じます。だって会長さんは物理的に であえなかったのです。チャンスを あたえられ
ていなかったのです。会長さんが 学生だったころ、「体に障害があると みなされる」ひとたちは、学校に かよってい
なかったのです。おたがいが隔離されていたのです。
じゃんけんは指が にぎれなくても、手のひらのむきを かえれば できないことは ないんだ。わたしは信念をもって、
じゃんけんのユニバーサルデザインを提唱しました。
もちろん、これまでの じゃんけんを全否定し、「手のひら じゃんけん」だけを普及させようとしたのではありませ
ん。こういった じゃんけんもあることを うったえる活動をしたのです。
そして きょう、衝撃の事実を しりました。これには、まいってしまいました。ほとほと自分の ごーまんさに気づか
され、ふかく反省させられました。友だちの けんちゃんが いうのです。
「じゃんけんって、ルールが理解できないひとも いるよね。あれって けっこう むずかしいゲームじゃん。」
けんちゃんには、知的障害のある おにいさんが います。その おにいさんは、じゃんけんができないというのです。な
るほど。そのはなしは、わたしにとっても納得できるものでした。なぜなら、わたしにも おもいあたるひとたちが いた
からです。
じゃんけんなどに興味をしめさないひとたちも いる。ルールを しろうともしないひとが いる。たしかに そうだ。
はたして、ここで「じゃんけん障害」ということばを つくってラベルをはることに、なんの意味がありましょうか。
むしろ問題なのは、じゃんけんに過剰に意味づけをして、じゃんけんが人間にとって「だれでも たのしめるゲーム」
であると錯覚してきた わたしのほうに、問題があったのではないか。
ああ。じゃんけんのユニバーサルデザイン…。わたしは なきそうです。
けんちゃんは技術屋さんです。けんちゃんは すでに、ボタンをおせば ランダムにグーチョキパーが表示される道具を
つくっていたのです。
けんちゃんの説明によると、ほかのひとたちが まず通常どおり じゃんけんをする。そして、そのひとにボタンをおし
てもらう。それで表示された グーやチョキやパーで勝敗が きまるんだと。
けんちゃんは、「あとだし じゃんけんなんだけど、それが いいんだ」と力説します。「まず、ほかのひとたちが じゃ
んけんをする。でも、それでは勝負は まだ きまらない。この じゃんけんマシンが最後になって、あいこか、かちまけを
きめるんだ。どうだ。わくわくするだろう?」
わたしは うなってしまいました。そうだなあ。それも おもしろそうだなあ。
あべ「けど、けんちゃん。それってマシンでやるひとは たのしいのかな。」
けん「ん、それは むずかしいね。けど、マシンで参加したひとが、いざ かったとしよう。で、賞品をもらう。それな
ら、うれしいかもしれないぜ。」
たしかにそうです。もし、マシンが存在しないことで、賞品をもらえるかもしれない可能性が うばわれてしまうとす
れば、それは残念なことです。そうだなあ。
ああ。じゃんけんのユニバーサルデザイン。
じゃんけんをするとき、その状況ごとに理由があるはずです。目的があるはずです。まず、「なんのための じゃんけ
んか」が重要です。そして、じゃんけんに こだわらない姿勢をたもつことも、重要なのかもしれません。
ふとすると、わたしたちは だれかを「じゃんけん障害」だなんて よびならわすかもしれないのです。それって、おそ
ろしく ごーまんなことです。
60
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第9回「ケアってなんだろう/感情労働について」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
障害者の自立生活運動と介助
わたしは障害者の自立生活をささえる介助者である。自立生活とは、つぎのようなものだ。
身体障害者、なかでも全身性の障害を持つ、重度とされる人々の「自立生活」という言葉が使われる。この言
葉は、しばしば、そこに込められている独立・自律への希求を具体化した生活の形として、日常的に介助=手助
け を 必 要 と す る 障 害 者 が 、 「 親 の 家 庭 や 施 設 を 出 て、 地 域 で 生 活 す る こ と 」 を 指 し 示 す ( あ さ か ほ か
1995:1)。
日本では障害者の自立生活運動は1970年代から活発になった。当初、それをささえる介助は無償でおこなわれた。そ
のうち一部の自治体が有償介助をはじめた。2003年に支援費制度が成立し、有償介助が公的に保障された(わたなべ
2011:16)。支援費制度は、2006年から障害者自立支援法にひきつがれた。
わたしは自立支援法で規定されている「重度訪問介護」をしている。全身性の身体障害者の生活全般にかかわる介助
をする。介助を24時間利用しているひともいる。家事、外出、入浴やトイレなど、柔軟に対応できるという点が、ほか
の介護制度よりも便利な点である。渡邉琢(わたなべ・たく)はつぎのように説明している。
重度訪問介護は、とても使い勝手のいい制度であり、なおかつ見守り介護も認められている。多くの知的や精
神の障害をもつ人々には、どこかで目を離さずに見てくれる人がいれば地域生活ができる、という人が多い(そ
れは認知症の高齢者にもあてはまる)(108ページ)。
重度訪問介護の問題点としては、報酬がまだひくいこと、入院時には利用できないことなどがある。
重度障害者の入院時コミュニケーション支援
一部の地方自治体で、「重度障害者の入院時コミュニケーション支援」というとりくみがはじまっている。ふたつの
理由がある。ひとつは、入院中はふだん利用している介助/介護サービスが利用できないという問題である。病院のな
かでは医者と看護師がすべて処置するのだから、福祉サービスは必要ないという論理である。これが国の方針であるた
め、一部の自治体が独自に制度をつくっている状況にある。
もうひとつは、言語障害のある身体障害者や知的障害者の表現は、ふだんから接していない医者や看護師にはつたわ
らないことがあるということだ。その結果、ベッドに放置される、苦痛や病状、要望がつたえられないという問題がお
きる。渡邉琢(わたなべ・たく)は、つぎのようにのべている。
現行の制度では入院時に日常入っている介助者に入ってもらうことができず、多くの重度障害者は入院に恐怖を
おぼえている。通常の感覚では、看護師が介護してくれるから安心と思うかもしれない。しかし、まず看護師は
障害者につきそう余裕などない。またそもそも障害者とコミュニケーションがとれず、まっとうな介護ができな
い場合が多い。
重度障害者の前では、看護師は介助の素人でしかない。入院して、十分な支援なくそのまま帰らぬ人になった
人、死んでも入院はいやで病気の症状が重くなっても入院を拒む人、入院して褥そう(じょくそう)をつくって
帰ってきた人など多々いる(109-110ページ)。
気管を切開して人工呼吸器をつけたALS(筋萎縮性側索(そくさく)硬化症)のひとの目線による文字盤のよみと
り、重度の言語障害のある脳性まひ者の発話のききとりなどは、日常的に接するなかで理解できるようになるものであ
る。ふだん接している介助者でも、ひとによって「うまい/へた」がある。
知的障害者の表現も、ふだんから接していれば、なにを欲求しているのか、わかることがおおい。渡邉が主張するよ
うに「入院時も日常慣れ親しんだ介助者に入ってもらえるようにしなければならない」といえるだろう(同上:110)。
「重度障害者の入院時コミュニケーション支援」は実施している自治体ごとに制度のよしあしにバラつきがある。そ
して、ほとんどの自治体では実施していない現状がある。これは国レベルで解決すべき問題だろう。
61
障害者と介助者へのまなざし
たとえば、あなたの目の前に、車いすのひとと、その介助者がいるとする。あなたは、どのようにコミュケーション
するだろうか。一般的な傾向を、岡原正幸(おかはら・まさゆき)はつぎのように説明している。
車椅子に乗った障害者とそれを押す介助者を視野に捉えた世間の人々は、ほとんど自動的に、一方を「運ばれ
る客体」、他方を「運ぶ責任主体」と定義する。そして、彼らと関わらなければならないときには、人々はもっ
ぱら介助者の方を行為の相手に選ぶ。たとえば、障害者が自分の財布からお金を出して商品を買った場合でも、
店員は介助者の方に釣銭を渡そうとすることが多い。「お店の人が、介助者にばかり説明するんですよね。こっ
ちに説明すればいいのに、こっちに説明しないで向こうでちょこちょことね。介助者のほうもそれを聞いてるん
ですよ。」 車椅子での階段の昇降を頼まれた通行人も、「どうすればいいのか」とか「どこを持てばいいのか」
などの質問は、車椅子に座っている方に向けてなされることはなく、まずまちがいなく、それを押している方に
向けられる(おかはら1995:136-137)。
このような現象を、テーヤ・オストハイダは「第三者返答」と表現している(オストハイダ2011)。
自立生活をささえるという趣旨で介助をしているひとにとって、このような態度に同調することはできない。そこで、
障害者と接したことがほとんどないようなひとが障害者と直接コミュニケーションをとるように、工夫をする。
たとえば、コンビニのレジで「お弁当、あたためますか?」ときかれたとする。そのとき介助者はどうするか。
わたしは、つぎのような対応をとる。自分はこたえない。障害者がこたえるのをまつ。あるいは、障害者のほうをみ
る。そのことで、「判断する主体はだれか」ということを店員につたえる。そのあとは、店員は障害者に直接はなしか
けるようになる。しかし、そのようにしようと心がけていても、じっさいには、本人が返事をするまえに、介助者がこ
たえてしまうこともある。
認知症をいきるということ/介護するということ
三好春樹(みよし・はるき)は文化の視点から老人介護をつぎのように説明している。
成人の世代から見ると、子どもは未発達、老人は衰えた存在に見える。でもそれは、「自民族中心主義」にな
ぞらえば「自世代中心主義」と言うべきだろう。老人問題とは、私たちの世代が老いた世代にどう関わっていい
か判らない、という問題ではないか。それは同時に、私たちが子どもにどう関わっていいか判らないということ
でもあるだろう。そしてさらに、老人世代自身がどう老いと関わっていいかが判らなくなるという問題なのだ。
老いを、救済や矯正の対象としてではなく、異文化として捉えること。その異文化と関わるにはその文化を内
在的に理解せねばならないだろう。介護現場はそのフィールドワークの場なのだ(みよし2008:161)。
「老い」そして、「ぼける」ということについて、本人もその周囲も、とまどってしまう。それを文化という視点から
とらえなおす視点である。
『認知症と診断されたあなたへ』という本がある。この本がおもしろいのは、認知症の本人にむけたメッセージだと
いうことだ。編者のひとりである小澤勲(おざわ・いさお)はこの本をつくった背景をつぎのように解説している。
この本は、共編者の黒川さんが教えておられる学生さんが、ゼミで「認知症に関する本には、啓蒙書もあり、
専門家向け、ケアスタッフ向け、家族向けのものもあるのに、なぜご本人に向けた本がないのですか」と問われ
たことから計画されました(おざわ/くろかわ2006:7)。
小澤は、「たしかに、誰よりも不安で、悩み苦しんでおられるに違いない方に向けた本が、これまではなかった」、
「認知症と診断された方に、まず読んでいただくような本も必要なのでは、と考えました」としている(7ページ)。こ
の本は「認知症をかかえるあなたの、日常生活に役立つガイドブックを目指している」という(8ページ)。
この本は、たくさんの質問にこたえるという形式をとっている。たとえば、「認知症は、めずらしい特別な病気なの
でしょうか?」という質問に、つぎのようにこたえている。
そうではありません。ごくありふれた病気です。…中略…60歳代では1パーセント程度ですが、80歳代以降で
は4∼5人に1人が認知症をかかえているのです。
62
それでも、特別な病気という見方がはびこっているのは、今の世の中では、地位の高い人、できる人、お金持
ち、社会の枠組みのなかで完璧に役割を果たす人……ばかりが評価され、さまざまな理由があって、そうはいか
ない人は疎まれるという風潮が行きわたっているからでしょう。このような社会では、生きることも、老いるこ
ともむずかしいと思います(20ページ)。
「頭を使わず、怠けていたせいで認知症になったのでしょうか?」という質問には、つぎのようにこたえている。
とんでもない。決して、そんなことはありません。
認知症というのは病名ではなく、熱がある、咳が出る、痰がからむ、「しんどい」などと同じ、症状レベルの
名称です。記憶障害(もの忘れですね)、見当識障害(けんとうしきしょうがい)(時間、場所、人についての
認識がうまくいかない)、抽象的思考の障害(言葉や数などを使いこなすことがむずかしい)などの症状を集合
して命名したものですから、症状群というのが正確なのですが(21ページ)。
ほかにも、「将来、どうなってしまうのか心配です。」という質問もあり、そのこたえのなかに「人は病い一般を生
きるわけではありません」という印象的なフレーズがある(25ページ)。
これまでのあゆみ、いまの生活や環境、そのすべてをとりさったところに「認知症」というひとつの症状があるので
はない。それぞれ個別に、それぞれの認知症をいきている。
西川勝(にしかわ・まさる)は『ためらいの看護』のなかで、つぎのようにのべている。
大切なのは、私たちが「認知症」に対して問うのではなく、「認知症」という不自由を抱えて生きようとして
いる人から私たちに向けて発せられている問いにどう答えていくかだ。
「認知症」は、できていたことができなくなる。さらに、できないことを人に伝えにくい不自由が重なる。理
屈を超えた対話でなければ、問いも答えも互いに届かない。「認知症」のわからなさを、わかりあうことを一番
の基準にしている私たちの常識にどう接続させるのか。一方的な理解や、巧妙な操作ではなく、相手との関係を
その都度、微調整しながらつくりあげていく「ていねいなお付き合い」を「認知症を共に生きる暮らし」の中で
豊かにしていかなければならない(にしかわ2007:198-199)。
「認知症」ということばではなく「認知症」を抱える生身の人と、どのような出会いをかたちづくるのか。「認
知症」の真実は、さまざまな人と人との間で作り上げていくほかはない(202ページ)。
まさにコミュケーションの問題だということだ。
老人介護というフィールドワークの現場を紹介するマンガに『ヘルプマン!』がある。どのように制度が現実を規定し
ているのか、うかがいしることができる。
役割期待とケア
武井麻子(たけい・あさこ)は『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』でつぎのような短歌を紹介し
ている。朝日新聞に投稿されたものだという。
天使にもペテン師にもなりきれぬまま
二年目ナースの今日が始まる(たけい2006:41)
期待されている像と、じっさいの「わたし」。それが一致していない。「わたし」は天使などではないし、ペテン師
でもない。それがあたりまえである。しかし、「わたし」は身勝手に期待され、想定され、規定されている。勝手なイメ
ージを投影されているといってもいいだろう。そのイメージは内面化されて、自分の行動規範にもなる。そして、「この
ようにありたい」という理想と現実の自分とのギャップにくるしくなってしまう。
このような状況に直面したとき、たとえばチャンブリスの『ケアの向こう側―看護職が直面する道徳的・倫理的矛
盾』は、自分のおかれた状況を客観的にとらえる視点をあたえてくれる。
看護師を「白衣の天使」と表現することがある。看護師は天使のような存在であってほしいという願望が投影されて
いる。このような期待を、社会学では「役割期待」とよんでいる。「女は女らしく、男は男らしくあるべきだ」という
63
のも役割期待である。障害者役割といえるイメージもある。「つつましい被災者役割」というのもあるだろう。たんな
る固定観念(ステレオタイプ)にとどまらず、規範になっていることに注意したい。
感情労働としての看護
ここで、感情労働という視点からケア労働(看護や介護など)をふりかえってみたい。石川准(いしかわ・じゅん)
は、つぎのように「感情労働」という概念を解説している。
職務として求められ、遂行される感情管理のことを「感情労働」と呼ぶ。…中略…とくに接客、医療、看護、
教育などの対人サービスの領域で、自覚的、非自覚的に広範におこなわれる(いしかわ2004:63)。
感情管理とは、たとえば、なきたいのに笑顔で仕事をする。暴言をはかれ、むっとしても、なにごともなかったよう
にふるまうことなどをいう。労働者が「お客さまにとって心地よいサービス」を提供しようと努力するとき、自分の感
情をコントロールし、「適切にふるまう」わけである。なにが「適切」なのか。それをきめているのはその社会の価値
観/規範である。どのように「いらっしゃいませ」というのか。それをきめるのは、その店のポリシーであったり、一
般的なイメージであったりする。「ラーメン屋は元気よく」、「デパートの案内係は上品に」といった具合である。
そして、看護師には「献身的」なイメージがある。石川は、看護師の感情労働のしんどさについて、つぎのように解説
している。
看護が目的とするケアは、患者との全人格的なかかわりを要求する。その一方で、特定の患者に過度に感情移
入してはいけないこと、冷静沈着であることを叩き込まれる。あまりに感情が高ぶってぼんやりしたり仕事に集
中できなくなったりでもすれば、すぐに医療ミスに直結する。自分の感情をコントロールできずに医療という現
場を戦線離脱する看護師はプロとしては失格の烙印が押される。
こうした相反する感情規則は、看護師を追い詰める。よい看護師であろうとすると、挫折して疲労する。悪い
看護師でもいいではないかと開き直ろうとしても、どうしても低自尊心を抱え込んでしまう。このような自責の
念にとらわれないようにするため、防衛的に「感情消去」という態度をとる看護師も現れる。
鈍感にならなければ仕事ができない。そして、感情喪失におちいってしまう。あるいは感情鈍麻に気づきショ
ックを受けセンサーの感度を上げて再び患者と向き合おうとして疲労する。そうした反復に翻弄されることもあ
る(79ページ)。
どちらにしても、つかれてしまう。バランスのとりかたがむずかしい。
世間が「かなしい事件」や「ひどいこと」について熱論したり、いかりを表明したり、さわいでいるとき、自分は共
感できないことがある。そのとき、共感できない自分をせめることがある。それにたいして、石川はつぎのようにのべ
ている。
感情を「正しい感情」や「逸脱した感情」に分類するのは社会であって、感情それ自体の価値に差はない、した
がって「逸脱した感情」を抱くからといって自分を責めることはない、と感情社会学は語っている…後略…(い
しかわ1999:100)。
石川は、このような「言語化できない痛みに形を与えてくれる新しい認識は、それ自体「癒し」として機能する」とい
う。そして、しかし「感情社会学はどこかにほんとうの気持ちや心がある、とは言わない――あるいは言えない」こと
を指摘し、つぎのようにのべている。
これは何やら不快であり、不安です。けれども、感情社会学が言うことに耳をふさげばよいという話でもあり
ません。私たちは言語を通して認識し、感じ、呼吸し、存在しています。だから感情社会学の言説は私たちの内
なる声の言語化です。自分に向かう知は、自己反省的とならざるをえません。ややこしいことだし不安でもあり
ますが、僕は逃げずに考える選択を勧めます(100ページ)。
社会学はものごとを解釈する視点を提供し、もやもやした疑問を整理し言語化してみせる。しかし「これが正解だ」
と道案内してくれるわけではない。固定観念をときほぐし、相対化してとらえるのは出発点にすぎない。そのあと、どう
するのか。それは、自分でかんがえるしかない。
64
研究のすすめ
ひとは、やっかいなコミュニケーションや困難な状況に直面したとき、否定的な感情をもつ。それをいやがることも
あれば、とまどうこともあるだろう。否定的な感情を、そのまま行動にうつしてしまうこともあるだろう。そのまえで
も、そのあとでもいい。自分自身の感情とむきあってみたいと感じたとき、「わたし」の研究がはじまる。それは社会
学かもしれない。社会心理学かもしれない。文化人類学かもしれない。社会言語学かもしれない。ジェンダー研究かも
しれない。障害学かもしれない。あるいは、映像表現かもしれない。音楽かもしれない。どこかにヒントがある。
次回は、食文化の多様性と対立についてです。
参考文献
安積純子(あさか・じゅんこ)ほか 1995 『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』藤原書店
石川准(いしかわ・じゅん) 1999 『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』旬報社
石川准(いしかわ・じゅん) 2004 『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』医学書院
江川晴(えがわ・はる) 2009 『ユートピア老人病棟』小学館文庫
岡原正幸(おかはら・まさゆき) 1995 「コンフリクトへの自由―介助関係の模索」安積ほか『生の技法』藤原書店、
121-146
小澤勲(おざわ・いさお)/黒川由紀子(くろかわ・ゆきこ) 2006 『認知症と診断されたあなたへ』医学書院
オストハイダ、テーヤ 2011 「言語意識とアコモデーション―「外国人」「車いす使用者」の視座から見た「過剰適
応」」山下仁(やました・ひとし)ほか編『言語意識と社会』三元社、9-36
角岡伸彦(かどおか・のぶひこ) 2010 『カニは横に歩く―自立障害者たちの半世紀』講談社
川口有美子(かわぐち・ゆみこ) 2009 『逝かない身体―ALS的日常を生きる』医学書院
くさか里樹(くさか・りき) 2003∼ 『ヘルプマン!』(既刊20巻)講談社
「支援」編集委員会編 2011 『支援』1号(特集「個別ニーズ」を超えて)、生活書院
「支援」編集委員会編 2012 『支援』2号(特集「当事者」はどこにいる?)、生活書院
スレイター、ローレン 岩坂彰訳 2005 『心は実験できるか―20世紀心理学実験物語』紀伊國屋書店
武井麻子(たけい・あさこ) 2006 『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』大和書房
チャンブリス、ダニエル F. 浅野祐子訳 2002 『ケアの向こう側―看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』日本看護協会
出版会
夏石鈴子(なついし・すずこ) 2006 『いらっしゃいませ』角川文庫
西川勝(にしかわ・まさる) 2007 『ためらいの看護―臨床日誌から』岩波書店
野村知紗(のむら・ちさ) 2011∼ 『看護助手のナナちゃん』(既刊2巻)小学館
ホックシールド、A.R. 石川准ほか訳 2000 『管理される心―感情が商品になるとき』世界思想社
三好春樹(みよし・はるき) 2008 「ブリコラージュとしてのケア」上野千鶴子(うえの・ちづこ)ほか編『ケアとい
う思想』岩波書店、151-162
渡邉琢(わたなべ・たく) 2011 『介助者たちは、どう生きていくのか―障害者の地域自立生活と介助という営み』生
活書院
用語解説
重度障害者の入院時コミュニケーション支援:財源は障害者自立支援法が規定する「地域生活支援事業」の「コミュニ
ケーション支援事業」である。各自治体の裁量で必要とおもわれるサービスを提供することができる。手話通訳や要約
筆記の派遣、知的障害者のガイドヘルプなどは、この制度を利用している。逆にいえば、国はこれらのサービスを自治
体まかせにしている。
練習問題
11. コミュケーションで、もやもやしたことについて、ふりかえってみよう。どんな状況で、なぜ、もやもやしたのか。
12. 自分は、どのように感情労働(感情管理)をしているか、ふりかえってみよう。
65
感想、疑問、苦情の紹介
前回、リニモの肯定的な面を紹介しましたが、不便な点や問題点をご指摘いただきました。ありがとうございます。
―――
ひとくちに「じゃんけんができない」と言っても、いろいろな原因があるから、手のひらじゃんけんが通用しない場合
もあるだろうなと思いました。
じゃんけんについてはとても深く考えていらっしゃいますが、「障害者」ということばを使うことに関しては、「みんな
が使っているから」という理由で終わらせていいのでしょうか。「障害者」ということばを差別だとして、別の言い方
を考えたり提唱している人がいると思うのですが、福祉の現場にいる先生としては、「別にそこまで考えなくてもみん
ながふつうに使っているんだし、誰も文句言わないよ∼」ということなのでしょうか? 実は前から授業中、気になって
いました。どうなのでしょうか?
【あべのコメント:じゃんけんのユニバーサルデザインは、おわりがありません。永遠とつづきます。ああでもない、こ
うでもない…。こういうときは、こうやって…と。それが大事だということです。表現についてですが、ことばによる差
別だけが問題なのでしょうか? それも重要な論点ですが、社会のありかたを改善することなく、ただ表現をかえてみて
も、不十分な議論でしょう。社会のありかたも改善し、表現も改善する。現在は、そのプロセスにあります。
「障害者」を対象化せずに、「みんな」が生活しやすい社会をつくる。それが理想でしょう。ユニバーサルデザインとい
うのは、そういった理念です。しかし、それを実現するには、人間の多様性を完全に把握していなければ実現できませ
ん。それができないから、さまざまな障害をもつひとの意見をきくということをしています。いまの社会は不公平だから
こそ、その結果として、障害者を対象にした社会政策がとられます。重要なのは、排除のための政策なのか、そうではな
いのかということでしょう。排除するためだけに、おとしめるためだけに「障害者」というのか。その問題意識こそが
重要なのだとおもいます。もちろん、おっしゃるように、そのすべてを検討したうえで、「障害者」というカテゴリーを
といなおすということは重要です。
後藤吉彦(ごとう・よしひこ) 2007 『身体の社会学のブレークスルー』生活書院をおすすめします。健常者/障害者
というカテゴリーについて根本的に再検討したものです。「別の言い方」を提唱するものではありません。】
―――
じゃんけんのユニバーサルデザインが単純かもしれないけど簡単にはおもいつかないようですごいと思いました。チョキ
からどっちにいくか…みたいなかけひきが誰でもたのしめるなぁと思いました。
―――
優生思想について。現代の医学の発展により起こった出生前診断についての問題で、今もまだ生きている思想ではないか
と思った。今、出生前診断によってダウン症など、いくつかの先天性の障害があるのかどうかの可能性が、母親のおな
かの中にいる胎児でも分かる時代になっている。ふつうに考えれば障害があるからといって中絶など、子どもの命を奪
うことは差別であり、優生思想でもあると思うが、それが自分の子どもだった場合、どう思うか、この思想は間違って
いると思っても、産んで育てるという選択が出来るのだろうかと思う。障害者が産まれなければいいなんて思っていない
が、健康な子どもを産んで育てることをどうしても望んでしまう。これも差別なのかと思うとつらいし、複雑な問題だと
思う。
【あべのコメント:ほんとうに現在進行形の問題ですね。それも差別だとおもいます。それを個人的なこと、親の問題
としてしまうことも問題だとおもいます。こどもは社会でそだつもの。それが実質的に保障されていれば、なやむことは
ないはずです。『優生学と人間社会』『否定されるいのちからの問い―脳性マヒ者として生きて』『ダウン症は病気じ
ゃない』『はじめて学ぶ生命倫理』『社会で子どもを育てる』『子どもが育つ条件』などの本をおすすめします。】
―――
病院に予約するとき電話予約だけでなく、ネット予約とかもできると、電話が苦手な私でも安心なので、単に障害のあ
る人のためだけでなく、全ての人が便利に利用できる環境づくりを広められると良いと思う。
―――
名古屋の地下鉄桜通線のホームには、ホームドアが設置されました。視覚障がい者の方が安心だと言っていました。
―――
…ユニバーサルデザインでリニモを紹介されましたが、ようしゃなく時間に忠実に閉まるリニモのドアだけはユニバーサ
ルデザインから離れていると思います。人に当たってもあまり反応しません。
66
―――
障害者と健常者を「同じ」だとか「違う」だとかを考えること自体間違っていると思います。何でもそうですが、グルー
プに分けることで区別が生じるのなら、いっそグループ分けなんてしなくてもいいのではないかと思います。
誰だって人を理解することは難しいのに、障害者を理解しよう、とするのはそもそも無理があると思います。本当に大
切なのは「理解する」ことではなく、「知る」ということではないでしょうか。
―――
人間は直立二足歩行ができて、両手両足二十本の指が自由に動かせて、文字が読めて、言葉によって意思を伝えることが
できるという生き物であるというのが当たり前だと、思いこみすぎだと自覚しました。
『公共機関への連絡先に電話番号しかないのはおかしい』ということをすぐに何がおかしいのか理解できない自分が恥
ずかしいと思った。
―――
リニモの隙間については知らなかったので驚きました。いわれてみれば確かに乗降しやすいですね。ただ、リニモはつり
かわが少なく、(何か理由があるのでしょうか)一応頭上につかまるものはありますが、背が低い自分にとっては辛い
時があります…。…後略…
―――
「障害者」、「健常者」という表現について。自分がそう呼ばれることに抵抗のある人もいれば、関心のない人もい
る。どう呼ばれたいのかを決めるのはその人自身が決めることであって、他の人が「それは差別用語じゃないか」と勝
手に決めつけることではないと思う。最近、差別用語とされ、記事や本などで使用をひかえるようといわれる言葉が増
えているようだが、問題なのは、その言葉を使うことそのものよりも、その言葉をどのような気持ちで使うか、ではな
いだろうか。
【あべのコメント:そうですね。「なんのために」という問題意識が大事だとおもいます。】
―――
障害学について。やはりここでもマイノリティ、マジョリティの問題ではないでしょうか。 非常に狭く定義されたノー
マル な人々(マジョリティ)が中心となった社会なので、 そこからはみ出している者 (マイノリティ)が肩身の狭い思
いをさせられるのです。
普段乗っているリニモがユニバーサルデザインの面から見て、そんなに多くの利点があるなんて知りませんでした。そう
考えてみるとリニモの駅のエレベーターに車いすの人用のボタンがついていて、そこにはドアが開いている時間を通常に
比べて長くするボタンもあり、こんなことができるんだ、と思ったことがあるのを思い出しました。(他のエレベータ
ーを気にしたことがなかったので、それが特別なものかどうかは分かりませんが…。)
―――
障害者の権利条約という言葉はあまりきかないが、本当にこれは障がい者のためのものだろうか。実際は健常者が障が
い者を区別するものにはなっていないだろうか。それと同じで、国内法をかえてもその国内法が人を区別にしてしまうと
おもう。…後略…
【あべのコメント:疑念をもつのはいいことですが、内容を確認してみてください。どのようなプロセスをへて、どのよ
うな内容になったのか。どのようなメンバーがつくったものなのか。健常者が勝手につくったものではないです。】
―――
障害 と一言で言っても、 障害 の度合いも状況も様々で、ユニバーサルデザインという定義も難しいものだと思いま
す。みんなが使用できるデザインと言っても、人それぞれなのだから、こちらが立てば、あちらが立たず、といったこと
になるのではないでしょうか。よって、私は完全な「ユニバーサルデザイン」なんてものは存在しないのだと考えます。
【あべのコメント:あくまで理念ですからね。たったひとつの理想的なデザインをめざすのではなく、いくつかの選択
肢を保障するということが重要です。いろいろなひとに便利という視点と、いくつかのデザインという視点が必要だとい
うことです。】
―――
記号式の投票は、代理投票を頼みづらい人や依頼するのが面倒な人にもやさしくて良いと思った。記号式投票や階段・
エレベータのように、機械が入ることで誰もが利用しやすい環境になるものもあれば、機械だけでは判断の難しいもの
もあります。点字・手話・言語通訳のように、人の意思を汲むという点には機械より人のほうが長けていたり…。
【あべのコメント:そのとおりです。機械化、技術の進歩だけでは解決できません。人的支援が不可欠です。理想的なデ
ザインとサポート、その両方を実現することで、やっと「ユニバーサルデザイン」といえるのだとおもいます。】
67
―――
ユニバーサルデザインの視点からリニモを見ましたが、リニモは駅員さんがホームにいなくて、時間がきたら自動的にド
アがしまってしまうので、よく人が挟まれそうになるのを見かけて危ないなあと思っているのですが、ユニバーサルデザ
インを重視しているのなら、なぜそこを改善しない?と思いました。
【あべのコメント:これも重要な論点です。現在、ホームドアは全国的に普及しつつありますが、ホームドアを導入する
さいに、無人化する、ワンマン化するという問題点があります。経費削減という意図が一方にあるからです。これは、危
険ですし、必要なサポートができなくなるかもしれないわけで、人員を削減することなく、安全なデザインにする必要
があります。】
―――
「Wikipedia」を教材の一部として大丈夫なのですか? 大学でレポートを書くにも何にも「Wikipedia」を参考文献とし
てあげてはならない、と規制されます。「Wikipedia」には誰でも投稿できる(?んですかね。くわしくないです…)か
ら、内容に信頼性が薄い、というような理由からだとか何とかで。ちょっとした興味範囲に私的使用するのもよいかも
しれませんが、教える立場としては何処かに申し出られたりしないか心配です。参考文献の表記にこだわっていたようで
あるあべ先生だったので少々驚きました。
それにしても、リニモが肯定的に見られていることに驚きました。リニモ通学する学生の多くはリニモに不満を抱いてい
ると勝手に思い込んでいるのですが、私の中で最も改善すべきなのはその窮屈さだと思います。利用者とスペースのバラ
ンスでいえば地下鉄の電車も変わりはないのですが、満員状態では車イスの方用のスペースも意味あるのでしょうか。
(満員時に車イスの方を見かけないのでわかりませんが)扉に関しては、2つの扉が開いたり閉じたり反応が多くて音が
うるさいとしか思っていなかったものが、そのような意味があるとは。ひょっとしたら、他にも私が不便と感じている
部分を有効に使っている方がいるのかもしれないということですね。無意味な、排除すべきと思っていたもの(梅雨の
時期には、リニモホームの上方の隙間が非常に意識されます)が、実はすごい工夫された構成かもしれない、と思うと
少しリニモに興味が沸きました。
【あべのコメント:ウィキペディアについて、一律にダメだ、レポートで利用するなという意見はよくみられるものです
が、同意しません。どのように利用するのかによって、いいレポートにもなりえるし、ダメなレポートにもなります。な
にかを禁止してしまうのは、明快で簡単なわけですが、表現をかえれば、安易だといえます。ウィキペディアは、編集履
歴がのこります。どのIPアドレス(あるいはID)からアクセスして編集したのか、ということもわかります。ほかのウェ
ブサイトと比較すれば、編集の歴史が確実にのこるという点で、利点があります。もちろん、いまのウィキペディアは論
争的なテーマについては「編集合戦」といって、客観的な記述よりも意図的に印象を操作しようとする編集がみられま
す。そういった項目については、「ノート」という箇所を参照してみてください。「ノート」というのは、その項目の記
述について議論するページです。ウィキペディアのどのページにも、ノートへのリンクがあります。項目の記述とノート
の議論をあわせて参照することで、どのような議論があるのか、どのような立場があるのかを確認することができます。 ご指摘のように、信頼性という点で注意すべきだというのは、そのとおりです。ただ、それを参照する側が、きちんと判
断できるだけの知識と見識をもちあわせていれば、問題は生じないでしょう。肝心なことは、教科書であれ、論文であ
れ、まちがっている場合が、かならずあるということです。「○○だから安心だ」という保証はありません。
ウィキペディアだから、まちがうのではないです。だれでも、まちがえるのです。それは、わたしもおなじです。
リニモについては、どのような視点から評価するかによって、評価できる点と改善すべき点がみえてくるはずです。】
―――
…前略…じゃんけんなど、 私たちが当たり前にできるもの ととらえているが、実はそうではないものが、世界には溢れ
ていると思う。
―――
おねがい
おすすめの映画、ドラマ、小説、マンガなどがあれば、おしえてください。まとめて紹介します。
68
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第10回「食文化の多様性と対立」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
文化は、ただ多様なのではない。ときには意見が対立し、ぶつかりあうこともある。多文化社会は、摩擦のなかにあ
るともいえるのだ。その一例を食文化の多様性という視点から確認してみたい。
食文化の多様性に対応する―航空会社の場合
西江雅之(にしえ・まさゆき)はイスラム教では豚肉がタブーであること、インドのヒンドゥー教徒は牛肉をたべない
こと、ベジタリアンの存在を指摘し、つぎのようにのべている。
このような異質な文化を持つ人々に、日常的に対応しなければならない職業の筆頭は、航空会社の仕事です。
国際線には様々な宗教の信者が乗客として乗ってくるわけですから、会社ではあらかじめ客に食事の種類を確か
めておいて、それを用意しなければならないということになるのです。
意外に知られていないことですが、イスラム教では豚肉はいけないが牛肉や羊肉ならばどんな料理でもよい、
というわけでもありません。イスラム教の教えに従った方法で屠殺した牛肉や羊肉だけが、食べることを許可さ
れます。したがって、ヨーロッパの航空機などでは、イスラム教徒の機内食を見ると、 イスラム教の教えに従っ
て料理をした…… といったような但し書きがついているカードが、牛肉や羊肉には付けてあるのが普通です。
豚肉は、もちろん運ばれてくることはありません(にしえ2005:20-21)。
ここでは日本航空(JAL)のサイトをみてみよう。
まず、「JAL ユニバーサルデザイン」というページがある。 http://www.jal.com/ja/ud/
そのなかに「機内にあるユニバーサルデザイン」というページへのリンクがはられている。 http://www.jal.com/ja/
ud/inflight.html
そして、ユニバーサルデザインのひとつに機内食をあげており、つぎのような説明がある。
JALでは、健康に気を配られているお客さまや宗教にかかわるご要望のあるお客さまのために、様々な機内特別
食を取り揃えております。
また赤ちゃんや小さいお子さまのお食事もございますのでご遠慮なくお申し付けください。
さらに、「機内特別食」のページにリンクがはられている。 http://www.jal.co.jp/inflight/s_meal/
そこにあげられているのは、「ベジタリアンミール(卵と乳製品の入っていないお食事)」「ベジタリアンミール(卵
と乳製品の入っているお食事)」「ベジタリアン・ヒンズー・ミール(アジア風)」「ベジタリアンミール(生野菜)」
「ヒンズー教徒食」「モスレム教徒食」「ユダヤ教徒食」「ベビーミール(離乳食/幼児食)」「チャイルドミール」
「糖尿病食」「低コレステロール食/低脂肪食」「その他の機内特別食」である。その他の機内特別食には、低塩分
食、シーフード食、ジャイナ教食(菜食)、フルーツのみのお食事などがある。
一般のレストランでこれだけの対応をとることはむずかしい。しかし、ニーズはある。そのため、たとえば日本に旅行
にきたベジタリアンはインド料理店などのエスニック料理店を利用している。インドカレーのお店では、ベジタリアンメ
ニューを用意していることがおおい。なかにはハラール(「イスラム教の教えにしたがった方法で屠殺した牛肉や羊肉」
のこと)に対応している店もある。トルコ料理店、パキスタン料理店などもハラールに対応している。
食文化と自文化中心主義
ひとが移動し、交流がすすみ、食文化の多様性をきちんと認知し、対応することがもとめられるようになってきた。
たとえば、学校の給食をどうするかという問題がある。また、豚肉や牛肉を使用していることを情報開示する必要性も
生じてくる。そこで第一に必要なのは、まず、イスラム教徒は豚肉をたべないということをおぼえておくことだ。
…ムスリムが宗教上の理由から豚肉を食べないということは、日本でも意外に知られていないようだ。かつて、
九州のある市でアジア諸国が参加する国際的なスポーツ大会が開かれたとき、主催者である市が、アジア各国か
69
らやって来た選手たちに歓迎の意を表するために、土地の名物である豚骨ラーメンを振る舞ったことがある。と
ころが、選手のなかに多くのムスリムがいて、知らずにそのラーメンを食べてしまった。あとで、たいへんな騒
ぎになったことは、いうまでもなかろう。…中略…
この豚骨ラーメン騒動の根底にあるのは、自文化中心主義(ethnocentrism)である。自分たちが食べている
ものだから、まさかそれを食べない者がいるとは思いもしない。そうした思い込みがトラブルを引き起こしたと
いえよう(しみず2006:54-55)。
アレルギーに関する食品表示は、すこしずつひろまってきている。肉食に関しても、豚肉や牛肉、あるいは動物性の食
品をふくんでいるなど、情報開示をしていく必要がある。食品に関する情報開示は、消費者の知る権利を保障するとい
うことだ。
食文化をめぐる自文化中心主義の問題として、つぎのような事例もある。
世界の飢えた人びとへの食糧援助にかかわる異文化研究は、アメリカ合衆国の文化人類学者を中心として、
1930年から1940年代に取り組みが開始された。よく引き合いに出される例は、ミルクの国際援助である。アメ
リカやカナダは、食糧不足の国々に援助物資として粉ミルクを届けた。しかし、コロンビアやグァテマラではそ
れを漆喰塗り(しっくいぬり)に使い、インドネシアでは下剤として使った。西アフリカの一部では、それを悪
霊の食べ物と信じた。その他の多くの人びとは、捨ててしまった。さらに、飢えを減らすどころか、ミルクが腹
痛や嘔吐のような病気を引き起こす人びともいた。1965年に、それがミルクを消化できないラクターゼの欠乏
によるアレルギーであり、ミルクの飲めない民族も多いことが明らかになったが、その後もしばらく粉ミルク援
助が続けられたという。それは、ミルクを日常的に飲む人びとのエスノセントリズム(自民族中心主義)を示す
一例でもある(かわい2006:32)。
自分たちにとって有用であるからといって、ほかのひとにも有用であるとはかぎらない。ミルクが消化できない症状
については、ウィキペディアの「乳糖不耐症」にくわしい。
食文化とナショナリズム
現在、「なにをたべるか」「なにをたべないか」について、価値観が多様化している。遺伝子組換え食品をさけるひ
と、さけないひと。無農薬/低農薬の野菜をえらぶひと、気にしないひと。白米をたべるひと、玄米をたべるひと、雑
穀米をたべるひと。鶏肉はたべないというひと。牛肉や豚肉はたべないというひと。さまざまである。
自分がたべないだけでなく、ほかのひとも「たべないでほしい」「たべるべきではない」と主張するひともいる。肉
全般、クジラ、イルカ、イヌなどである。
日本でもあまり認知されてこなかったが、日本では和歌山県でイルカ漁をしている。食用にするのと水族館に販売する
のが目的である。『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画にくわしい(イルカ漁を批判する側の視点によるもの)。
現在では、人間とイルカの交流がすすみ、「イルカをたべてほしくない」という主張が一方にある。地元ではイルカ漁
はずっとつづけられてきたことであり、かんたんにやめるわけにもいかない。
日本でも、捕鯨については許容するひとが、イルカ漁については否定的であることがある。捕鯨にもイルカ漁にも反対
しているひともいる。
今の日本ではイヌをたべる習慣はない。ただ、歴史的にはイヌをたべる習慣は存在した。歴史をふまえるなら、犬食
という日本の伝統文化を復興しようとする活動があっても不思議ではない。しかし、そのような議論はまったくない。
その一方で、クジラをたべることについては議論がある。「日本の伝統文化であるから捕鯨をつづける」という主張
である。「伝統だ」と認識され主張されている文化と、わすれられている文化がある。このちがいは、なんだろうか。
ひとついえるのは、ナショナリズムを刺激されたかどうか、ということだろう。つまり、捕鯨については外国からの批
判があるため、たくさんの「日本人」のナショナリズムを刺激している。その一方で、犬食については外国からの批判と
いう要素がない。そもそも、過去に存在したことすら認識されていない。現在、日本人がイヌを日常的にたべないのは
「自主的な選択」の結果としてしか想定されていない。
現代日本では、パンをたべる習慣がひろく定着している。これは日本人が主体的に「えらんだ」といえるだろうか。
歴史をみれば、そうではない。日本でパン食がひろまったのは、アメリカの占領政策の影響がある(すずき2003)。食
文化の変化には社会的な背景がある。
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文化相対主義の視点では、文化には優劣はないという。しかし、どのようなことであれ、文化と認識すれば、なにも
かも正当化できるのか。死刑や拷問、こどもにたいする虐待など、文化によって認識にちがいがある。つよく否定する
文化と許容する文化がある。そして、許容している文化圏の内部でも議論が対立している場合がある。
これを「どちらでもよい」とはしないからこそ、国連の人権理事会やアムネスティインターナショナルなどの国際的な
活動がある。
朝鮮半島や中国、台湾などではイヌをたべる習慣がある。それにたいして批判する議論がある。韓国の国内でも反対
するひとがいる。反対する理由には、愛玩動物をたべることの是非という点にくわえて、イヌを屠畜する方法が残虐だと
いうことがある(批判する側からすると「残虐」ということ)。それがどのようなものであるのかは、キム・ギドク監
督の『受取人不明』という映画にえがかれている。
イム・ヂョンシクは韓国の犬食を「文化相対主義」によって擁護する議論について、つぎのようにのべている。
文化相対主義は「フランス人は犬をたべない。一方、中国人と韓国人は犬をたべる」というように文化の多様
性を記述する記述的な性格をもっている。しかし、文化相対主義に依存してわれわれの犬食文化を擁護しようと
するひとたちは、もう一歩すすんで「ほかの社会集団の慣習について批判するのは間違っている」、あるいは
「ほかの社会集団の慣習には沈黙するべきだ」と主張していることに注目しなければならない(イム2002:18―
あべ訳)。
議論は議論として、あっていいはずである。しかし「沈黙するべきだ」とまで主張してしまうことがある。これはおか
しい。超越的な立場からある文化を否定し、おとしめるのは、越権行為といえるだろう。しかし対等な立場で、それぞ
れが自分の主張をのべるのであれば、なにも問題はないのではないだろうか。
イム・ヂョンシクは「文化であるという一点だけで、それがどのような内容のものであろうと「アンタッチャブル」と
いう特権をえることはできない」と結論づけている(212ページ)。
ケネス・ガーゲンは社会構成主義の視点から、相対主義という超越した立場はありえないと指摘している。
そもそも相対主義という立場はありえません。いかなる価値観も支持することなく、競合するさまざまな声のも
つメリットを比較して優劣を決めることのできるような、超越した立場は存在しないのです(ガーゲン
2004:340)。
「文化である」ということは、なにも「善である」とか、「ただしい」ということを意味しない。文化という概念
は、なにかを正当化するために使用するのではない。文化という概念は、この社会をとらえる(解釈する)ための、ひ
とつのメガネである。世界を言語化するための、ひとつの表現である。石川准が指摘するとおり、「文化という考え方
は出発点であって終着点ではない」のである(いしかわ1999:114)。
こうした文脈のなかで、「文化ってなんだろう」という問いなおしが必要になるのだ。
現実をふまえる
内澤旬子(うちざわ・じゅんこ)は世界のたくさんの地域の屠畜風景を取材し、『世界屠畜紀行』という本にまとめ
ている。第7章は「韓国の犬肉」であり、取材したイヌの屠畜風景を絵にしている(うちざわ2011:181)。それをみる
と一般的に知られている韓国でのイヌ屠畜方法とは手順がちがう。これは内外からの批判をうけとめて改善したのかも
しれないし、業務用の屠畜方法だからかもしれない。
『いのちの食べかた』というドキュメンタリー映画をみてもわかるように、現在社会の屠畜は流れ作業によるもので
あり、手順が合理化されている。その一方で、日本では屠場(とじょう)労働者にたいする差別がのこっている。
スーパーにいけば食肉がある。だれもが日常的に目にしている。しかし、その肉がどのようにできあがったのかは、ほ
とんど注目されていない。
東京の品川駅のちかくに東京都中央卸売市場食肉市場のセンタービルがあり、その6階に「お肉の情報館」がある。そ
こで食肉がどのように生産されているのか、くわしく知ることができる(かわもと2003)。
もし、屠畜の現場をじっさいに見学したり、解説をきいたりする経験をもてば、イスラム教徒がなぜハラームにこだわ
るのか、あるいは、捕鯨や犬肉をめぐる議論についても理解しやすくなるかもしれない。
ひとの生活が動的なものである以上、文化も動的なものである。その時代、その地域の価値観に左右され、また国際
的な動向の影響をうける。現に変化しつつある文化を、一面的に固定的にとらえてしまうと議論のすれちがいをまねいて
71
しまう。きちんと現実を把握したうえで、みずからの意見を表明するようにしたい。それが、自分の発言に責任をもつ
ということだ。これは、レポートをかくときに注意すべき点でもある。
補論:ナショナリズムについて
社会心理学を専門とする小坂井敏晶(こざかい・としあき)は、ナショナリズムについてつぎのように解説している。
民族対立や民族紛争に言及される際、複数の民族の間にある相容れない利害関係や、信仰上の相違、文化的内
容の差異などという与件がまずあり、そのために民族の平和共存が難しいのだと理解されやすい。しかし…中
略…、固定した同一性を出発点として民族を考えること自体がすでに誤っている。また、集団の対立は必ずしも
現実の利害関係や文化の違いがあるために生ずるとは限らない。
社会心理学における実証研究は、二つの集団の間に利害対立がまったくない場合でも、範疇化が起きるだけ
で、自らが属する集団を優遇し、他の集団の構成員を差別する傾向を明らかにする。例えば、硬貨を投げて裏が
出るか表が出るかによって無作為に選ばれた半数の被験者を「紅組」と名付け、残りの半数を「白組」と呼ぶだ
けで、各被験者は自らが属する組をひいきする(こざかい2011:36)。
つまり、「範疇化自体が差別行動を生む」ということだ(38ページ)。それなら、カテゴリー化、線ひきをしなけれ
ばよいのか。しかし「我々はみな社会的な存在であり、民族・宗教・職業・性別といった範疇から完全には自由になれ
ない」(39ページ)。
自由になれないから、しかたがないのか。そうではない。そのようなカテゴリー化のメカニズムを理解し、その問題
点を把握していれば、なにか感情的な対立が生じたとき、もやもやしたときに、状況を冷静に判断できるようになる。
小坂井の主張にしたがうなら、線ひきによって生じた対立により、文化のちがいが「発見される」ということも、十
分にありうる。あるいは、積極的に差異化するということもあるだろう。線のむこう側の存在だからこそ、ちがいをつ
よく感じるということがありうるわけである。逆にいえば、線の内側は同質的だと感じてしまうことになる。
このような問題をかんがえてみると、なるほど「文化」という概念は、あやうさをはらんでいるといえる。いいかえる
なら、文化の問題は、きわめて政治的であるということだ。
次回は、「あなたが図書館の司書だったら」です。多文化と障害の視点から図書館サービスに注目します。
参考文献
石川准(いしかわ・じゅん) 1999 『人はなぜ認められたいのか』旬報社
イム・ヂョンシク 2002 『犬肉をたべようが、たべまいが?』ロデムナム(韓国)
内澤旬子(うちざわ・じゅんこ) 2011 『世界屠畜紀行』角川文庫
ガーゲン、ケネス J. 東村和子訳 2004 『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版
河合利光(かわい・としみつ) 2006 「序章 異文化の学び方」河合編『食からの異文化理解』時潮社、15-35
川元祥一(かわもと・よしかず) 2003 「と場の労働と食肉文化」『部落解放』3月号、108-116
小坂井敏晶(こざかい・としあき) 2011 『増補 民族という虚構』ちくま学芸文
清水芳見(しみず・よしみ) 2006 「食のタブー 何を食べ、何を食べないのか―ムスリム社会の場合」河合編『食か
らの異文化理解』時潮社、39-55
鈴木猛夫(すずき・たけお) 2003 『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』藤原書店
鶴田静(つるた・しずか) 2002 『ベジタリアンの文化誌』中公文庫
西江雅之(にしえ・まさゆき) 2005 『「食」の課外授業』平凡社新書
練習問題
13. あなたにとって学校給食は、どのようなものでしたか? よかったこと、こまったことをおしえてください。
(ただ、だれもが学校給食の経験があるわけではありません。『外国人学校』中公新書の49-50ページを参照のこと)
14. 食の異文化体験をふりかえってみよう。どんなところで(だれにたいして)異文化を感じたか。どのように感じた
か。おもしろかったこと、もやもやしたことはありますか?
72
感想、疑問、苦情の紹介
感情労働については、『私がクマにキレた理由』という映画をおすすめします。文化人類学に興味のある若者がベビーシ
ッターをするという物語です。キレるところがポイントです。労働者には権利があります。拒否したり、反論したりする
ことがあっていいはずです。
―――
役割期待、というと「兄」だから、ということが思いうかびました。先輩だから、あるいは後輩なんだからという期
待?は結果として考え方がせまくなってしまうのではないかと思いました。でも「兄」として、というのは誰かに言われ
なくても意識してしまうんですよね。期待されていると勝手に思い込んでしまってつかれてしまうこともあるのではない
でしょうか。
―――
人間には、いい言葉で言えば「公と私」悪い言葉で言えば「表と裏」があると思います。私自身も家にいる時と一歩外
に出た時とは違う自分になっていると思います。大学に入って、看護師になることをますます意識するようになり、人と
話す時は笑顔でいることを心がけるようにしています。受験生の時も学校ではできるだけ明るく、笑っていましたが、家
で1人になると、不安でいつも泣いていました。やっぱり周りからはいい人にみられたいから「裏の自分」を隠している
と自分でも感じます。こんな自分で看護師になれるだろうか…と今日の講義で改めて思いました。感情労働について、と
ても興味をもちました。とくに「天使にもペテン師にもなりきれるまま二年目ナースの今日が始まる」という詩が心に
残りました。
【あべのコメント:不安をもっているくらいのほうが、いい看護師になれるんじゃないかなと、無責任にコメントして
おきます。ただ、無理はしないでください。しんどくなったら、やすんでください。】
―――
看護だけでなく、どこにでも理想と現実のギャップは存在すると思う。でも、押しつぶされそうになったら一旦逃げる
というのも大切だと思う。自分がつぶれてしまったら他者に何かすることもできないし、何よりツラい。(逃げること
によって罪の意識にさいなまれることもあるかもしれないですが)…後略…
【あべのコメント:そうですね。心理学では、「タイムアウト」という用語があります。ケンカをしたり、興奮してしま
ったりしたときに、一時的にその場をはなれることをいいます。そういうタイムアウトが必要なときは、だれにでもあり
ます。】
―――
私は飲食店でアルバイトをしていた時、「いらっしゃいませ」の言い方は「いらっしゃいませ↗!!」と語尾を上げて元気
に言えと教えられていました。店長から1日に何度も何度もしかられた日には、涙ぐみながら笑顔をつくって接客しまし
た。現在は結婚式場でアルバイトをしていますが、ここでは「いらっしゃいませ↘」と語尾を下げて高級感を出せと言わ
れるし、常に笑顔で!!というのはとくに徹底されています。高級感を出すためにある程度ヒールのある靴をはかなければ
いけないし、料理の皿を同時に3枚運んだり、時間に追われているし体力的にきついものがあるのに、演じなければなら
ない役割もなかなか大変です。CAや看護師のつらさが少し想像できます。また、私は新郎新婦の入場の際や生い立ちビ
デオなどで感動して泣きそうになるのですが(涙もろいので)実際に涙を流していたらひかれてしまうのでこらえます。
まだ始めたばかりなのですが、いつか仕事に慣れて完全に感情をコントロールできるようになったらそれはそれで怖いな
という気がします。
―――
看護師がむりやり笑顔をつくることはしなくていいと思いました。患者さんにひどいことを言われたりした時、悲しい
顔をしたり、元気がなくなったりしていいと思います。その方が患者さんに人間的に近づけるように思います。むりに笑
顔を返すと、仕事上のコミュケーションしかとれないように思います。人間対人間であることが大事だと思うので、私は
無理に笑顔をつくる看護師にはなりたくないと思いました。
―――
〈介助者へのまなざしについて〉 自分の意思、存在が無視されることは、ショックだ。効率的な応答は、コミュケーシ
ョンを歪めていると思う。ゆっくり人の話を聞いてくれる人がいるとほっとする。自分もそうありたい。
〈認知症について〉 以前は、ぼけが進むことで生活が困難になるのではないかと恐ろしかったが、何だかぼけは意味が
あると思いはじめた。社会のルール(食事は三食、トイレで用を済ますなど)は本当は不必要で、そういったものは忘
れても、ぼけたなりに生きていけるのではないかと思った。人間のもつ生きる本能を見守るようなかたちで、父や母の
老いも見つめていきたいような…。
73
〈感情労働について〉 労働に限らず、相手を否定して、自分の望むように相手を動かそうとする行為はハラスメントで
あり、場合によっては暴力だと思う。
―――
感情労働について、とても興味がわいた。自分もバイト先で「お客様を家族だと思って」接するように、といわれた
り、とにかく店長が接客に厳しい人なので凹んでる時とかはとても辛いです。日本は何でこんなにサービスにうるさくな
ったんでしょうかね…。外国ではレジの人とかがあまり愛想よくないと聞きましたが、それが当たり前だと少しは心が
軽くなりそうだなと思った。
―――
最近機械の「いらっしゃいませ」などという装置を設置しているところもみかけるが、あれは感情労働の点においてな
にかかんけいあるのではないかと思った。
【あべのコメント:おもしろいのは、人間型の知能ロボットの開発をしている石黒浩(いしぐろ・ひろし)さんのアプ
ローチですね。石黒さんが開発しているロボットのひとつに、「病院で医師のうしろにすわって患者さんの表情にあわ
せてうなづく」という「共感をしめすロボット」があります。感情労働をロボットにさせるという発想がすごい。
石黒さんとは関係ないですが、『新・自虐の詩 ロボット小雪』というマンガがあります。】
―――
障害者と介助者のお話で、つい介助者とやりとりしようとしてしまうのは、介助者は障害者の管理をする人という意識
が働くからではないかと思います。または、健常者と対応した方がてっとり早いと思ってしまい、障害者に限らずお年寄
りなど動きがスムーズでない人を待つという優しさが足りないのかなと思いました。感情労働については、私もアルバイ
トで接客をしていますが、その職業や機関の質を保つためにはある程度仕方ないと思います。しかし「こうあるべき」と
いうイメージは一つではなくて、いろんな形があってもいいと思います。
―――
重度訪問介護の資格は学生でもとれますか。先生にとって資格を持つということはどうゆう意味があるのですか。福祉
の専門性とかいろいろ言われている中で知識だけ持っていても素人に変わりないとすると、資格をもつ意味はなんだろ
う、と疑問です。私は雰囲気的に障がいをもつ人に障がいについてやその支援について聞くことにためらいがあるのです
が、極力相手に聞いた方が良いということでしょうか。
【あべのコメント:重度訪問介護の資格は学生でもとれます。最近、月曜日は大学生と二人で入浴介助をしています。
障害や支援については、いっしょに時間をすごすことで、本人がはなしてくれることがあるでしょう。それをきく。それ
くらいで、いいんじゃないでしょうか。もちろん、心配なことはどんどん質問したらいいでしょう。名称独占資格は就職
や待遇(給料)の面でプラスになることがあります。資格をとれば、いい仕事ができるというものではないでしょう。た
だ、研修をうけることで、なにかヒントがえられるかもしれません。あと、資格の取得は試験が将来むずかしくなるか
もしれませんよね。だから、今とれる状況にあるなら、とっておいては?】
―――
…前略…質問:見守り介護って何ですか?
【あべのコメント:たとえば、必要最低限の家事援助や身体介助以外にも、日常生活のなかで、ふと介助が必要になる
ときがあります。それなのに、夕方になるまで介助者が家にこないとすれば、それまで我慢しないといけない。それで
は、こまってしまいます。見守り介護は、「横で待機する」「その都度、要望に応じる」ことです。文脈によっては、
「保護」的な意味をふくむ場合もあります。】
―――
私には同居しているおじいちゃん、おばあちゃんがいるので「認知症」などの話についてとても身近に感じました。私
のおじいちゃんも同じエピソードを何度も何度も話します。普段は無口なおじいちゃんですが昔の話をする時は、とても
いきいきとしていて嬉しそうです。少しずつ認知症の症状がでてきているようなですが、共に認知症とつきあうことが大
切なんだなぁ…と改めて思いました。
―――
高校の時、バス通学でしたが、乗務員さんはたまーにいました。車イスの方がいる時など、補さ的なことをしていらっ
しゃいました。
―――
私が中学生の頃に何度かデイサービスや介護施設へ手伝いに行ったことがあります。その時に、今日あべ先生がおっし
ゃっていた資格による違いをみたような気がします。私が行ったデイサービスには看護師1人、ヘルパーさんが3、4人く
74
くらいいました。高齢者の方のお世話のほとんどをヘルパーさんが行い、看護師はほんの数時間、ヘルパーさんが手を
出せないことだけやっていました。
どんなに経験が豊富でも、資格がないからやれることが制限される。これは納得できるようでできません。実際私が目
指しているのは業務独占資格である看護師なので。でもこれは介護の現場においては、ヘルパーよりもできることが多い
のは看護師だけど、医療の場においては看護師よりも医師の方が制限されていません。このような資格には制限される
などという面もありますが、私はその制限される中でできることを最大限にできる人が増えていくといいと思います。
今、いろいろな講義で「看護師」とはなんだろう、とか、「看護師」としてのいろいろな考え方を学んでいます。規範、
イメージそれらを学んでいるうちに決めつけられてしまっている気がします。この規範はあった方が良いとは思うが、将
来働く上で、大きな負担になってしまうのだろうか…と考えます。
【あべのコメント:医療的ケア(人工呼吸器や胃ろうの人の「たんの吸引」)に関しては、介護職でもやっていいとい
うことになりました。これまでは、ダメだけど仕方がないので放任するというグレーゾーンの状況でした。
負担については、労働条件や労働環境によっても、おおきく左右されるでしょう。】
学生のおすすめ映画、ドラマ、小説、マンガ
私は『SPEC』というドラマをおすすめします。
作品内では、特殊な能力を持つ人間が存在し、スペックホルダーと呼ばれています。作品のストーリーもかなり面白いの
ですが、登場人物がもつスペックホルダーに対しての認識がそれぞれ違ってそこに注目しても面白いと思います。映画に
もなっています。
―――
おすすめの映画:『名探偵コナン』
【あべのコメント:『名探偵コナン 11人目のストライカー』をみました。とてもおもしろかったです。】
―――
おすすめのマンガ:『フルーツバスケット』という少女マンガですが。奥が深く、男の人でも読めますよ!!
あと、『鬼灯の冷徹』が今一番おもしろいと思います。地獄のことがおもしろおかしく描いてあって、好きなマンガの1
つです。
―――
1年生か2年生のときにリーディングの授業で Tuesdays with Morrie (『モリー先生との火曜日』)という本を読み
ました【あべ:題名を訂正、補足しました】。ALSを発病した恩師のもとに通って人生について大切なことを教えても
らう話でした。(モリー先生が亡くなるまで、毎週火曜日はそんな人生の授業の日だったようです。)この本で私は初め
てALSという病気を知り、生きるとは何か、死とは何かのさまざまな考え方を知りました。
―――
『リアル』というマンガがおすすめです。プロのバスケットボール選手をめざす主人公と車イスバスケ選手の物語で、深
いです。
【あべのコメント:いいマンガですよね。】
―――
老人の「老い」に関する本で、スペインのコミック・アーティストのパコ・ロカ(Paco Roca)という人の『しわ』
(Rides)という作品が面白いそうです(日本では未出版・未翻訳?)。
【あべのコメント:日本語版も出版されていますね。おもしろそうなので、かってみました。】
―――
有名ですが、映画『ターミナル』です。
【あべのコメント:メイキングのインタビューもおすすめです。】
―――
ディズニーの『ブラザー・ベア』が好きです。感動した。
―――
オススメのドラマは『ランチの女王』『のだめカンタービレ』です。
―――
75
おすすめ映画『アイス・エイジ』
―――
おすすめのマンガ:授業に関連するやつだと『光とともに…』はいいと思います。作者さんが完結する前に亡くなって
しまったのは残念でしたが。普通におすすめなのは、『鋼の錬金術師』『ゴシック』『妖狐 僕SS』あたりです。
【あべのコメント:自閉症者の世界をえがいた小説に『くらやみの速さはどれくらい』があります。おすすめです。】
―――
ALSをきいて、『1リットルの涙』というドラマを思い出しました。主人公の女の子(あや)は、バスケ部で他の子と変
りなく、バスケをしていました。しかし、病気のために筋肉が萎縮し、最終的には話せなくなり、先生が授業で話して
いた透明の文字盤を使っていました。…中略…
おすすめの小説:『告白』。映画化もされました。犯人が誰なのか、すごく気になる面白い本です。
―――
『死にカタログ』という本がおすすめです。この授業とどう関わるのか、と言われると困りますが、自分の生き方、生
きること、死ぬことなどについて私の考えに大きな影響を与えてくれた本です。タイトルに「死」と入っているので引か
れることが多いのですが内容は明るく笑ってしまうことも多い本です。
―――
映画『シザーハンズ』。とても有名な映画です。ジョニー・デップが出ています。私はこの映画を見て、「手がハサミで
出来ている異質な人に対する、人々の反応」が印象的でした。とても深い映画だと思います。
―――
私は『神様のカルテ』という小説が好きです。映画化もされていますが、私は全般的に原作のものが好きです。一時期話
題になったのでご存知かもしれませんが、地域医療の話です。気が向いたら是非。
―――
オススメのドラマ:『マイボス・マイヒーロー』
―――
『Dr.コトー診療所』というドラマは面白かったです。患者側の苦しみだけでなく医療者側にも多くの苦悩があることが
描かれている。小さな島で1人の医者が島の人々と打ち解けていく様子が分かる。
映画『悪人』は見るべきです! 出演者の演技の上手さに驚きます!笑 いろいろ考えさせられます。
―――
『itと呼ばれた子』という小説を中学生のときに読みましたが、こんな悲惨なことがあったのかと衝撃をうけました。
『ハッピーバースディ』というマンガ(?)小説(もあるのかな?)を中学の時に読みましたが、家族の大切さが分かる
すてきな本です。『余命1ヶ月の花嫁』という映画を高校生の時に見ましたが、私もがんばろう!とも思いましたし、ク
ライマックスは号泣するほどすてきな作品でした。
―――
マンガ『夏目友人帳』:妖怪が見える男の子が主人公の、緑川ゆき先生の作品です。妖怪たちの視点を通して、いかに人
間が自分勝手なのか、何て偏見に満ちているのか思いしらされました。とても優しい物語で気持ちがホッコリします。
小説『一億円もらったら』:赤川次郎さんの隠れた名作(…と私が勝手に思っている)です。様々な立場の人に突然一
億円をプレゼントする遊びをする金持ちおじいさんとその秘書の物語です。短篇集なので読みやすいです。お金があれ
ば、愛や友情、復讐だって買えるらしいです。
ゲーム『MOTHER』シリーズ:シリーズそれぞれ男の子が冒険するのは共通で、優しいドット絵で描かれています。し
かし、内容は差別とか侵略とか重い重い。プレイしながら色々と考えさせられる作品です。個人的には操作キャラのお
サルさんが差別によって、嫌われて、ケリとばされるシーンに衝撃を受けました。
あとは『ポポロクロイス物語』シリーズや大神とかいうゲームはオススメです。ゲームっていうのは、他の立場の人間を
擬似的に体験できて、良い教材だと私は思うんですけれどねぇ。
【あべのコメント:『マザー』はすきなゲームです。1と3はクリアしました。「おとなも こどもも おねえさんも」とい
うコピーがすきです。音楽もいいですね。】
―――
ライトノベル:有沢まみず『いぬかみっ!』電撃文庫(アスキー・メディアワークス)
映画:『涼宮ハルヒの消失』
【あべのコメント:長文のご紹介、ありがとうございました。省略して、すみません。】
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「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第11回「あなたが図書館の司書だったら」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
「図書館の自由宣言」をよむ
根本彰(ねもと・あきら)は『理想の図書館とは何か』で、有川浩(ありかわ・ひろ)の小説『図書館戦争』4部作に
言及し、つぎのように説明している。
物語は、国家的な検閲に対抗して図書館の自由を守るための自警的な軍隊が整備され、国家対図書館の内戦が日
常になっているという状況設定のもとに進められる。そのなかで、図書館員となって検閲と戦う女性主人公のラ
ブコメ風成長物語が展開する。
著者がこれを書くのにヒントにした「図書館の自由に関する宣言」(1954年、1979年改訂)は、戦前戦中ま
での思想統制状況と戦後の冷戦状況における思想対立に対して「知的自由」という大義名分を掲げて図書館がい
ずれにも与(くみ)しないことを高らかに宣言したものであった。「自由の宣言」の最後の主文「図書館の自由
が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」は、戦うことも辞さない強い意思が感じられ、部
外者にこのような物語を書かせるきっかけになったのもうなづける(ねもと2011:160)。
この「図書館の自由宣言」は、日本図書館協会の綱領である。宣言は、「図書館は、基本的人権のひとつとして知る
自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする」という一文からはじまる。「表現の自由
の保障」や「知る自由」の保障に主眼をおき、検閲やプライバシーの侵害に反対することを表明している。
「図書館は資料収集の自由を有する」という第1項目では、資料収集の方針を説明している。
2. 図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
(1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
(2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
(3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
(4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したり
はしない。
(5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていよ
うとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。
(http://www.jla.or.jp/portals/0/html/ziyuu.htm)
主文には、つぎのような主張もある。
すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等
によっていかなる差別もあってはならない。
外国人も、その権利は保障される。
『みんなの図書館』という雑誌があるように、図書館は「みんなのもの」だということだ。
ランガナタンの「図書館学の五原則」
インドの図書館学者ランガナタンは、1932年につぎのような「図書館学の五原則」を発表した。
1.
2.
3.
4.
5.
本は利用するためのものである
本はすべての人のためにある。または、すべての人に本が提供されなくてはならない
すべての本をその読者に
読者の時間を節約せよ
図書館は成長する有機体である(ウィキペディア「ランガナタン」より)
ここに、図書館はみんなのものという思想が確認できる。問題は、これをどのように実現するのかということだ。
77
だれも排除しない。みんなが利用できるようにする。―でも、どうやって?
図書館をだれでも利用できるようにするには、つぎの3つの対策が必要だろう。
1. 施設をユニバーサルデザインにする
2. 特定の集団や属性のひとを排除の対象にしない
3. 移動の面で図書館に来館できないひとに、積極的なアプローチをする(アウトリーチ活動)
まず、1については、建設や改修のときに注意すればよい。しかし、2と3に関しては、図書館員の実践が必要になる。
だれでも図書館を利用できるようにするためには、さまざまな工夫が必要になる。論点をならべてみよう。
・図書館まで移動できない
・野宿者が排除の対象にされることがある
・声のおおきいひとや、さわがしいこどもをつれて来館しづらい(遠慮してしまう)
・カウンターなどでのコミュニケーションに不安がある
・利用したい(できる)資料がない
図書館までの移動に障害があるひとには、郵送でとどける、移動図書館を実施する、その人のいるところに訪問する
という方法がある。
野宿者(ホームレス状態にあるひと)や声のおおきいひとの利用を制限しないということは、個々の図書館できちん
とした認識をもつ必要がある。
カウンターや資料の問題は、多言語対応(蔵書の多言語化(手話の映像資料をふくむ)・カウンターでの対応)と図
書館資料の多様化(録音図書、拡大図書、点字本、映像、音楽、写真集、マンガなど)が必要である。
たとえば、山内薫(やまうち・かおる)は、知的障害のある利用者が図書館から排除されたケースを紹介している。
…大学生からこんな話を聞いた。その学生がアルバイトをしていたある図書館で、職員と一緒にカウンターをや
っていた時のことだ。入口からある一人の陽気な男性が入ってきた。その途端、図書館職員はすかさず「ここは
あんたたちの来るところではない」と追い出したというのだ。
その男性はどうも、度々図書館にやってきていた知的障害の人だったらしい。学生はショックを受け、すぐに
その図書館でのアルバイトをやめたという(やまうち2008:82)。
にたような例として、河原正美(かわはら・まさみ)は学習障害(LD)や注意欠陥・多動性障害(ADHD)のこども
に図書館は利用しやすい場になっているだろうかと問いかけている(かわはら1999)。
河原はLDやADHDについての理解をふかめるとともに、「読み聞かせや人形劇」など、図書館でできることを実施す
ることで、図書館に「LDやADHDの利用者を迎える」ことができるのではないかと主張している(187ページ)。
多文化サービスをすすめる―むすびめの会(図書館と在住外国人をむすぶ会)
現在、図書館の課題のひとつに「多文化サービス」がある。日本図書館協会には「多文化サービス委員会」がある。
たとえば『多文化サービス入門』という本を出版している(日本図書館協会多文化サービス研究委員会編2004)。
小林卓(こばやし・たく)は、図書館の多文化サービスをつぎのように定義している。
図書館の多文化サービスとは、奉仕地域・対象者の文化的多様性を反映させた図書館サービスの総称である。
その主たる対象としては、民族的、言語的、文化的少数者(マイノリティ住民)がまず第一義的にあげられる
が、同時にその地域のマジョリティを含むすべての住民が、相互に民族的、言語的、文化的相違を理解しあうた
めの資料、情報の提供もその範囲に含む、奥行きと広がりをもつサービス概念である(こばやし2007:188)。
日本での多文化サービスのはじまりは、1988年に大阪市立生野(いくの)図書館に「韓国・朝鮮図書コーナー」がつ
くられたことである(日本図書館協会多文化サービス研究委員会編2004:16)。生野は、在日朝鮮人がたくさん生活し
ている地域である。
図書館の多文化サービスをすすめるための民間団体に、むすびめの会(図書館と在住外国人をむすぶ会)がある。
78
むすびめの会の小林卓(こばやし・たく)は、つぎのように説明している。
図書館とは本質的に「多文化な存在」であると思います。
それは、一つには、「知の国際性」からきています。ある図書館の蔵書をみたとき、一つの国の一つの文化に
関する図書だけで図書館という店は張れないということは、はっきりしています。知とは本来的に多文化であ
り、それを住民に伝える図書館もまた多文化でなければなりません。
もう一つ、図書館の多文化性とは、「図書館の自由」の思想に基づきます。対立する意見があるときはその双
方の収集に努めるというのは、図書館の自由に関わる図書館の存立基盤ですが、この意見の併存や異質性を認め
るということからも、「図書館」というものの在り方の中に、多文化主義の思想が組み込まれているというの
が、むすびめの会の活動の中から見えてきた考え方です(こばやし2011:195-196)。
愛知県図書館にも2006年に「多文化サービスコーナー」ができた。 http://www.aichi-pref-library.jp/multi.html
IFRA(国際図書館連盟)とユネスコが発表した「多文化図書館宣言:多文化図書館―対話による文化的に多様な社会
への懸け橋」の「原則」をみてみよう。
グローバル社会では一人一人が、すべての図書館・情報サービスを受ける権利を持っている。文化的・言語的
多様性に取り組むにあたって、図書館がすべきことは以下のとおりである。
・その人が受け継いだ文化や言語よって差別することなく、コミュニティの全構成員にサービスする。
・利用者にとって適切な言語と文字で情報を提供する。
・全てのコミュニティとあらゆるニーズを反映した、幅広い資料やサービスを利用する手段を提供する。
・コミュニティの多様性を反映した職員を採用し、協力して多様なコミュニティにサービスできるよう訓練を
施す。
文化的・言語的に多様な状況下での図書館・情報サービスには、あらゆる種類の図書館利用者に対するサービ
スの提供と、これまで十分なサービスを受けてこなかった文化的・言語的集団を特に対象とした図書館サービス
の提供という両面がある。文化的に多様な社会の中で多くの場合取り残される集団、すなわち、マイノリティ、
保護を求める人、難民、短期滞在許可資格の住民、移住労働者、先住民コミュニティに対しては特別な配慮が必
要である。(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/access/ifla/multi-lib-manifesto-jp.html)
図書館の多文化サービスは、日本では一部の図書館でさまざまな言語の本や雑誌、新聞をおくというレベルにとどま
っている。カウンターでの対応や、レファレンスサービスにとどまらない情報提供など、できることはたくさんあるはず
だ(あべ2010、2011、2012)。今後の展開に期待したい。
図書館利用に障害のある人々へのサービス
図書館の多文化サービスをすすめるうえで、参考になるのが図書館の障害者サービスの実践である。当初は視覚障害
者を対象にしたものだったが、現在、図書館の障害者サービスは、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」に発
展している。つまり、だれでも図書館の資源を利用できるように、積極的にアプローチするということだ。
山内薫(やまうち・かおる)は『本と人をつなぐ図書館員』でつぎのように説明している。
公共図書館は地域に生活するすべての人に開かれている。
誰もが図書館や資料を利用する権利を有しているのだ。それは、生まれたばかりの赤ちゃんから寝たきりのお
年寄りまで、目の見えない人から矯正施設に収監されている人まで、すべての人を含む。
しかし、図書館や資料を利用したくても利用できない人が大勢存在する。そうした人に対しては、その人のも
とに出かけていったり、その人が読めるように資料を変えなければならない。こうしたことを実現するのが、い
わゆる障害者サービスと言われる図書館サービスだ。
図書館の障害者サービスは、心身に障害のある人へのサービスを指すわけではなく、図書館や資料を利用しよ
うとした時に、何らかの障害が生じた場合に、その障害を取り除くサービスである。
例えば、スキーに行って骨折してしまい入院を余儀なくされれば、誰であろうと図書館まで行くことはできな
くなってしまう。こうした例から考えれば、すべての人が何らかの図書館利用の障害者に該当、あるいは該当す
る可能性を持っているということになる。
79
だから「図書館利用に障害のある人へのサービス」というのは、決して特別な人へのサービスというわけでは
なく、図書館にとって普遍的な、あるいは根源的なサービスであり、図書館という公共機関が存在しなければ果
たせないサービスだと言うことができる(やまうち2008:186-187)。
山内のいう「その人のもとに出かけてい」くような積極的なアプローチを、「アウトリーチサービス」という。山内
は自身が実践してきたさまざまなアウトリーチサービスを紹介している。また、今後の課題として、受刑者にたいするア
ウトリーチサービスについて言及している(141-162ページ)。この点については、その後『刑務所図書館―受刑者の
更生と社会復帰のために』(なかね2010)が出版され、おなじ年に「矯正と図書館サービス連絡会」ができた。
http://kyotoren.cocolog-nifty.com/
障害者サービスで重要なサービスのひとつに「対面朗読」がある。私的文書の代読や代筆をすることもある。これま
で視覚障害者を対象にしてきたが、今後さらに対象を拡大することで、図書館サービスの可能性がさらにひろがること
が期待できる。
愛知県内で障害者サービスを提供している図書館は、愛知県図書館、名古屋市図書館、豊橋点字図書館「明生会館」
などがある。
図書館の現状
図書館という公共機関には、図書館員がいる。図書館員は、いろいろなことをしようとしている。しかし、日本では
そういった図書館の意義や実践があまり認知されていない。図書館は、たんに「本がたくさんあるところ」ではない。
図書館の魅力は、「ただで本をかりることができる」というだけではない。
図書館は地域住民の居場所であり、まなび、交流する場所であり、情報サービスをうけられる公共施設である。社会
における図書館の位置づけをあらためる必要がある。
もっとも、山内がみとめているように「現在の公立図書館はとても厳しい状況にある」(やまうち2008:187)。人件
費削減のため、職員の外部委託化と非正規雇用化がすすんでいる。このような状況を改善するためにも、やはり図書館
の位置づけをかえる必要がある。いくらウェブを利用した情報アクセス/情報発信が一般化しても、カウンターで対面し
て解説をうけられるという図書館の意義はゆらがない。図書館のレファレンスサービスの意義はある。
次回は「多文化社会をささえる情報技術」です。
参考文献
あべ やすし 2010 「識字問題の障害学―識字活動と公共図書館をむすぶ」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社
会言語学』生活書院、257-283
あべ やすし 2011/2012 「「多文化」の内実をといなおす」(1/2)『むすびめ2000』77号/78号(在日外国人と
図書館をむすぶ会(むすびめの会)会報)、5-13/45-50
河原正美(かわはら・まさみ) 1999 「みんなの図書館、というけれど。―学習障害、注意欠陥・多動性障害を中心
に」『現代の図書館』37(3)、154-157
小林卓(こばやし・たく) 2007 「図書館における多文化サービス」矢野泉(やの・いずみ)編『多文化共生と生涯学
習』明石書店、187-217
小林卓 2011 「日本に住む外国人と公共図書館をつなぐ」世界とつながる子どもの本棚プロジェクト編 2011 『多文化
に出会うブックガイド』読書工房、194-196
小林卓/野口武悟(のぐち・たけのり)編 2012 『図書館サービスの可能性―利用に障害のある人々へのサービス その
動向と分析』日外アソシエーツ
読書権保障協議会編 2012 『高齢者と障害者のための読み書き(代読・代筆)情報支援員入門』小学館
中根憲一(なかね・けんいち) 2010 『刑務所図書館―受刑者の更生と社会復帰のために』出版ニュース社
日本図書館協会多文化サービス研究委員会編 2004 『多文化サービス入門』日本図書館協会
根本彰(ねもと・あきら) 2011 『理想の図書館とは何か―知の公共性をめぐって』ミネルヴァ書房
藤澤和子(ふじさわ・かずこ)/服部敦司(はっとり・あつし)編 2009 『LLブックを届ける―やさしく読める本を知
的障害・自閉症のある読者へ』読書工房
山内薫(やまうち・かおる) 2008 『本と人をつなぐ図書館員―障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』読書工房
山内薫(やまうち・かおる) 2011 「公立図書館と情報保障」『社会言語学』別冊1号、21-44
80
練習問題
15. 「わたしたち」という表現について。中間レポートで気になったのが、「日本人である私たちが」「健常者の私た
ち」といった表現です。「だれか」と「わたしたち」を区別した「排他的な私たち」という表現は、どうしても必
要なのでしょうか。「わたしをふくめて、○○は」という表現のほうが適切ではないでしょうか。「わたしたち」
とか、「日本人は」と表現することがありますが、そのように一般化することができるのでしょうか。佐藤裕
(さとう・ゆたか)が『差別論』で指摘しているように、「わたしたち」には包括的な「わたしたち」と排他的な
「わたしたち」があります。だれかを除外して「わたしたち」といっているとき、そこに他者はいないことが前提
になっているように感じます。でも、ほんとうに「いない」のでしょうか。いるかもしれないと想像することが必
要ではないでしょうか。これは「だれにむけて発信しているのか」という問題でもあります。
感想、疑問、苦情の紹介
前回の練習問題13と14は、ほかの学生のコメントをよむことをふくめて「練習問題」です。
なかなか、おもしろいですね。
練習問題13「給食について」
私は中学校の時だけ給食でした。私は卵や牛乳にアレルギーがあって食べられず昔から今も完全除去しています。だか
ら、給食のときは、似たものを母に作ってもらって持参したか、給食の方が、私専用のものを作ってくれました。献立
表を見て何が食べられないかチェックもしました。アレルギー表示をしたり、食べられないものの対応はとても安心で
きます。もっと学校や店で対応化が進んでほしいと思います。
―――
給食によって食べものの好き嫌いが減った気がします。カレーとソフトめんの組み合わせが一番好きでした。
―――
小学校の時うどん1袋が食べれずに友達と半分コしていましたが、分ける相手がいない場合は残すのはよくないという雰
囲気でした。食の多様化だけでなく量も選択可能になるといいのかなと思います。
―――
給食は、私にとって最高の存在でした! 毎日給食の時間がウキウキでした! きっと地域によって違うから、全国の給食
を食べてみたい。今すごく給食が恋しいです。
―――
給食だいすきでした。給食センターで作られていてとっても美味しくて好きでした! クリスマスとかにはデザートを4種
類からえらべたり、年に2回くらい?給食を提供している学校の生徒にアンケートとったりして、好きな品ばかりがでる
日もありました。給食を提供しているお店が地元にあるのでたべてみたいです!
―――
給食は好きでした。でもどうしてもご飯に牛乳はおかしいと思います。一番思い出に残っているのは小6最後の給食が体
育館で給食バイキングだったことです。
―――
学校の給食で困ったことは時間が短いということ。よくかんで食べなさいと言われるのにとてもせかされて、「あんな
に速く食べれないよー」と思った。
―――
給食はあまりおいしくなかったように思います。お皿から大きくはみ出すような味気のないコッペパンをムリヤリ牛乳で
流しこんでいました。小学校低学年のころはそうたくさん食べることができなかったのですが、担任の先生の方針ですべ
て食べきるまで、昼休みも食べつづけなければならなかった年もありました。
―――
食文化は世界中にさまざまなものがあるので、レストランや給食で対応するのは難しいと思います。しかし他文化のため
に給食をなくしてしまうと違った部分で問題が発生してしまいます。やはり情報公開が必要ではないかと思います。
―――
私は給食が好きではなかったので、中学校のとき弁当でもスクールランチでもどちらでもよかったので、それはよかった
ことだと思います。
―――
81
選べる給食というのはいいですよね。私の学校はデザート(例えばプリン or ゼリー)が選べるくらいでした。好き嫌い
が多い私にとって給食はけっこうつらかったです。
―――
給食は、嫌いなものを無理矢理食べさせられて更に嫌いになった。強要するのはおかしい。
―――
練習問題14「食の異文化」
アメリカに旅行しにいった時、和食レストランに入っておすしを食べたのですが、1口食べて「あれ? これ本当におす
し??」と感じました。日本で食べているものと全くちがうものになっていて、おそらくアメリカ人好みの sushi に変
わったのだろうと思いました。その時は、本当はこんな味じゃないのに、これが日本食として広まってしまう!と思っ
ていました。日本政府も同じことを思ったらしく外国にある日本料理店の日本食に基準を決め、政府が日本の食べ物だ
と認めたら、その店に日本政府認定の印を与えようとする動きがあったらしいです。しかし、海外からの反発が強くその
案はすぐになくなってしまいました。というのも、「日本だってラーメンやカレーを自国の文化にして元の形がすでに無
くなっているじゃないか」とごもっともな意見を頂いたからです。日本にあるカレーやラーメンに(味の差異はあったと
しても)正解・不正解は存在しないのと同じで、海外の日本料理も全部まちがっていないんじゃないかと思うようにな
りました。…後略…
―――
中国に行った時、日本で定番の 中華料理 がなかったのには驚いた。
【あべのコメント:北京には、日本でたべるような「中華」があった気がします。でも、たしかにちがいますね。】
―――
カナダに行く飛行機で隣のおじいさんがベジタリアンフード(卵・乳製品有)を食べていました。他の人より先に配ら
れます。聞いたら、年をとったから健康のためにあまり肉を食べないと言っていました。インドからカナダに帰化した
人なのでもしかしたら宗教も関わっていたかもしれません。付いてきた十勝ヨーグルトを見てこれは何だ?と困ってい
ました。JALはパッケージにもう少し気を配るべきです。また、インドネシア人の友達と学食で食べた時、これ豚入って
ますか?と聞いていました。ちなみに本山にハラルフード専門店があるそうです。
―――
捕鯨については欧米の団体から非難をあびていますが、牛や豚が良くて鯨がダメというのは勝手な気がするし、「かわ
いそう」と思える動物を保護しようとしている気もします。
―――
「くじらを食べることは日本の文化だと思いますか?」という質問に答える際に、私は自分がくじらを食べるかどうか
によって判断しているということに気づきました。自分は常にくじらを食べているわけではないので、 日本の文化 とは
言えないのではないかと考えました。しかし、くじらを食べ、大好物である人にとっては、もはやそれは文化なのかも
しれないと思いました。受け入れられる文化と受け入れられない文化があると思うけど、良いと思ったことは吸収しな
がら生きていけたらなと思っています。犬は食べたくありません。
―――
「クジラ」を食べる文化!について。私の地元の長崎では、「あります!」 先生もおっしゃていたように「ありま
す!」 それが普通だと思っていました。こっちに来て、残念に思いました。給食のメニューにもクジラのカツが確かあ
ったと思います。
【あべのコメント:今年は長崎に旅行にいこうと計画中です。長崎は、見所がたくさんありそうです。】
―――
文化相対主義はこの大学に入って学んだけれども、 文化だから という言葉ですませてしまうことになってしまうのは、
私はとても嫌だ。問題を解決することを全て放棄してしまっている気がする。 対等な立場 からお互いを批判することに
制約は無いと言うが、数字上でも、社会構造上でも、 対等な立場 というのは有り得ないと思う。批判だけで、絶対に終
わるわけがない。そこに何らかの形で攻撃が加わるのだから、文化相対主義は結局手の届かない理想でしかないのでは
ないか。
【あべのコメント:「対等な立場」や文化相対主義の理念は、たしかに理想でしかないものです。でも、というか、だ
からこそ追求するというのが人権論の立場です。人権論でなくても、なんらかの理念や倫理感から発言をするひとは、
発言せずにはいられないわけですね。どうしても。で、それに対して「うるさい」「おしつけるな」というのではなく
て、自分も感じたこと、おもうことを発言するというのが理想的ではないかということです。】
82
―――
とちくの話をきいて思い出しました、おすすめの漫画とかで、荒川弘さんの『銀の匙(さじ)』と言うのがあります。農
業高校の日常を描いたもので、自給自足や、食について、考え方が、読むと変わる!本でした。また、農家や牧場の現状
を知ることができます。…後略…
【あべのコメント:『サンデー』連載の人気マンガなんですね。かってみました。よむのがたのしみです。】
―――
私はベジタリアンではないのでふつうに肉をたべる。とりが好きだけど、馬も羊も、差し出されたら食べる。犬もくじら
も、多分食べる気がする。その人たちにとって食べるのがあたり前なら、多少は受け入れるべきだと考えるからだ。…
後略…
―――
日本人は宗教がないから何でも食べられると思っていたが、犬やイルカ、虫、猿などはほとんど食べない。食べてはい
けない物はないが、食べないものはある。だったらイスラム教の人達が豚を食べないことと似ているような似ていない
ような。…後略…
―――
食文化の多様性に関して、「沈黙する」というよりは「認めあう」というふうにするほうが大事なのかな、とレジュメを
読んで感じました。例えば、イルカ漁に関していうと、高知県でもイルカ漁をしているそうです。和歌山県も同じなのか
もしれないですが、イルカ漁をする理由は、イルカが害獣だからだそうです。漁のアミをイルカがやぶってしまって、漁
ができない、追い払ってもすぐに戻ってくる、捕まえても捨てることができないから食べるんだそうです。宗教と同じよ
うに、背景があるものだから、他の食文化の背景も理解するようにした方がいいと思いました。
―――
犬とかクジラとかイルカを日本人も食べていた(いる)という話に対し、「えーウソー」「ありえなーい」という反応が
きこえてびっくりした。今はともかく、そういう時代や地方があったことを知らない人がいるとは…。今だって、スズメ
を食べたり豚を食べたりしているのに、その反応はいかがなものか、と思う。授業でもあったが、自分の手の届く世界
のことを当然として、それ以外を否定するのは、自ら世界を閉じてしまっていることになると思う。「私も豚食べる
し、そういう人もいるかもね」と受容することも、時には必要なのではないかと思った。ミニブタもウサギもスズメも
かわいそうだと思うが、おいしいのでアリだと個人的には思う。気の毒だけどありえなくはない。そのための「いただ
きます」だと思う。『豚がいた教室』という映画を思い出した。
【あべのコメント:あの映画、最後の討論の場面は、演技ではなく本気でしゃべっている感じがしましたね。あれは実
話にもとづく映画ですが、「なんで最初の予定どおりにしないの?」と、わたしは感じます。】
―――
お肉の情報館を見て、差別とかの書き込みがあると見聞きして、その書き込みやハガキを送る人の気持ちがわからな
い。普段、食べているし、「誰か」がやらなければお肉は食べれない。そのことを理解していない人が多いのではない
かと思う。
―――
JALの機内食の配慮には感心したが、日本の普通のレストランでは逆にアレルギーには注意しても宗教に注意することが
日常的に行われているとは思えない。学食にしても文系の大学ではあまり配慮されていないが理系の大学には配慮されて
いるところが多いと聞いたことがある。やはり実生活にそういう人がいるかいないかで対応が変わってくるのだろう。
JALのHPは日本語以外の言語でも見れるのか気になった。 【あべ:確認しました。多言語に対応していますね。】
現代では自分で動物を殺して食べるということは日常で行われないが考えてみればむしろそれは不自然というような気
がした。ある人に(農業をやっている男の人)ニワトリでも殺して自分でさばいてみたら食べ物の考え方が変わるから
体験した方がいいよと言われた。実際生き物を目の前にした時、自分は殺すことができるのか。仮に殺せないとした
ら、それでも肉を普段食べれる。とじょう労働者に感謝しなければいけない。普段肉を食べている人がそのような人の
仕事を否定することはありえない。
―――
私は飲食店でバイトをしているのですが、ときどき宗教上の理由だと思いますが、豚肉の入っていない料理をください
といわれました。私のバイト先は、中華料理屋なのですが、肉しゅうまいや、小ろんぽうには豚肉が含まれているため
に注文できる料理がとても少なかったです。私のバイト先では、肉のかわりにしいたけを入れて、肉をいっさい使用しな
いでつくったぎょうざがあります。このように、お肉が食べれない人にも、お肉を食べている感覚や味わえるものが、ど
のお店にもあればいいなと感じました。ほとんど、どの飲食店でもお肉を使用しています。お肉を使っていないメニュー
がないお店には、ベジタリアンの人はくるなといっているようなもんだなと感じます。
83
【あべのコメント:ベジタリアンもいろいろでしょうけど、菜食生活になれてしまうと、そもそも「肉をたべたい」とい
う欲求がおきないですね。「お肉っぽい料理」は、ゆるベジのひとにはいいかも。】
―――
高校の家庭科でタイ米を食べたことがある。日本人の私としては、とても食えたものではなかった。「不味い!」とい
うより、「これはどうだろう…」という感じだった。
【あべのコメント:わたしは料理が上手なので(笑)、タイ米をうまく調理できました。調理方法の問題かも?】
―――
私のおじいちゃんはハチを育てて、いためて食べます。ハチの幼虫もいためて食べます。私はあまりおいしくは思いませ
ん。昔は巣から幼虫を出すのを手伝ったりしていましたが、いつのまにか抵抗を感じるようになりました。いとこは、
豆だと騙されて食べていました。確かに、私も虫だと思わなければ食べられたかも。
―――
学生のおすすめ映画、ドラマ、小説、マンガ
『ヘタリア』というマンガが、いろんな国の文化がわかるし、おすすめです。
―――
オススメの映画:『男はつらいよ』シリーズ。破天荒な寅さんですが、そのバックの人間関係は結構重たい。生と死、介
護、痴呆、差別、発達障害など、実に多様な人々(特に女性)が登場します。案外、寅さんのように「確かにオカシイ
かもしれねえよ、でもそれが何だってんだ」という姿勢は、結構正しいのでは?と思ったりもします。
【あべのコメント:へええ。そうなんですか。みてみます。「それが何だってんだ」。ほんとうにそうですね。】
―――
おすすめの映画は『听说』という中国の映画です。この映画はほとんど手話のやりとりですが、私は小学校の時真剣に
手話を勉強した時期がありところどころで中国の手話と日本の手話の違いを発見できてとても楽しいです。また耳のきこ
えない人たちが日常生活をどのように工夫して暮らしているかもこの映画を見ると少しですが見てとることができます。
中国映画は楽しいものが多いです。
本でいうなら東野圭吾の『変身』や百田尚樹の『永遠の0』はおすすめです。
【あべのコメント:「あら?」とおもい、確認したのですが、やっぱり台湾の映画ですね。日本手話と韓国手話、台湾
手話はよくにています。植民地期に朝鮮と台湾にろう学校を設置したからです。中国手話と日本手話は、共通点はすくな
いでしょう。どれもしらない作品でした。ありがとうございます。】
―――
私のおすすめ映画は『ショーシャンクの空に』です。すっごく感動します。
【あべのコメント:名作ですね。刑務所図書館がすばらしかった。】
―――
ドラマ:『プロポーズ大作戦』
映画:『エスター』『フェア・ゲーム』『5デイズ』『阪急電車 片道15分の奇跡』『ゲーム』デヴィッド・フィンチャ
ー監督、『ゴールデンスランバー』『モテキ』など。 【あべ:説明は省略しました】
【あべのコメント:一部、省略せずに紹介すると『フェア・ゲーム』は「核爆弾をめぐるアメリカとイラクの話。事実を
基にしているため、見て損はない」、『5デイズ』は「北京オリンピック開幕時におきたロシアvs. グルジアの戦争の
話。みるべき映画」ということで、この2作は、ぜひみてみます。ほかの映画も、そのうち。】
―――
『ジャンプ』連載中のマンガ『トリコ』(「おいしい食材が毎回どんどんでてくる」)
―――
84
中間レポート(50点満点)の採点基準
題がない ­5
あいまいな題 ­2
引用のルール ­1(何ページから引用したのか不明、どこでどの文献を参照したのか不明、発行年不明、出版社不明)
剽窃(ひょうせつ) ­50
自分の文と引用をはっきり区別していない(読者にはどれが(どこまでが)引用文か不明) ­5
自分なりの意見、主張がすくない ­3
テーマにそっていない ­5
1ページしかない ­3
巻末に文献一覧がない ­1
事実ではない ­2
本や論文を参照していない ­10
おもしろい +1∼2
中間レポートは、失敗するためのものなので、ゆるく採点してあります。期末レポートは、2倍きびしく採点します。
いいレポートだと感じた場合には「すばらしい」「いいレポートですね」などとコメントしています。
高得点だったとしても満足しないでください。今回の採点基準ではその点数だったにすぎないのかもしれませんか
ら。点数=レポートのよさだとはおもわないでください。
レポートの採点基準は、わたしのこだわりを反映するものです。ほかの教員が採点すれば、ちがう点数になるでしょ
う。
期末レポート(50点満点)について
1. スタイルを【論評型レポート / 整理型レポート】から選択すること。
どのスタイルをえらんだか、かならず明記すること。
論評型は、自分の意見をしっかりかくことがポイントです。
整理型は、きちんと文献にあたって、しらべることがポイントです。
どちらも、具体的なテーマについて論述してください。
2. テーマ:多文化社会にかかわること。社会的なこと、政治的なこと、言語や情報、障害の問題、食文化…
たんに「コミュニケーション」に関することではダメです。具体的なテーマにしてください。抽象的なテーマの場合、お
おきく減点します。中身がみえるような、具体的な題をつけてください。副題をつけるといいかも。
加点するポイント
・複数の文献を引用/参照している(参考文献にあげるだけではダメ)
・しっかり自分の意見をかいている
・ふだんは意識しないような視点から論じている
・おもしろい(着眼点、独創性)
減点するポイント
・「多文化社会」との関連がうすい
・題や内容が抽象的
・題とあっていない
・事実誤認
・本や論文を参照していない。
・引用のルールをまもっていない
・かんがえていない
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レポートで注意すること
本文
はじめの部分で、どのようなことを論じるのか、説明する。引用からはじめない。
引用は、「かっこ」でくくるか、字さげ(インデント)すること。字さげとは、つぎのようにすること。
父「ありがとう。たすかったよ」
マキ「どういたしまして」
MSワード:字さげする部分を選択する(反転させる)。「書式」から「段落」を選択。「左のインデント幅」を2に。
マックPages:字さげする部分を選択する(反転させる)。「インスペクタ」から「テキスト」の「リスト」を選択。
「インデントレベル」の「→」を一度クリックする。
本文中で引用元をあきらかにする場合は、(著者名 発表年:ページ)と表記すること。
注に引用元をかく場合は、引用するごとに注記すること。
出典というのは、さいごに参考文献を明記するだけでは不十分です。本文中でも、どの文献からの引用であるのか、ど
の文献を参照して要約したのか、あきらかにしてください。
だれが主張しているのか、だれの議論なのか、著者の名前を明記せずに引用している例がたくさんありました。それ
もやはり、のぞましい引用ではないです。「序章」の部分の引用で、その部分の著者が「編者一同」となっている場合は
別です。そのときは編者の名前をかいてください。例:【言語権研究会は、】。
参考文献
本の題と著者(編者)だけではなく、引用した論文名と著者をあきらかにすること。
論文の著者 発表年 「論文の題」編者『本の題』出版社
論文の著者 発表年 「論文の題」『雑誌名』○号
ウェブの文書を引用した場合、文献欄や注に
「タイトル」
http://○○○
と表記してください。
86
中間レポートの題
「ぴーぷる いん じゃぱん―憲法からみた人権」「不就学問題と四日市市の対応」「オーストラリアにおける多文化
主義とアボリジニの認識」「「お」医者「さま」の文化」「ディスレクシアと情報科学技術についての考察」「外国人登
録廃止でこぼれ落ちる不法滞在者の人権」「多数派は少数派に対してどうあるべきか―左利きを例に」「制限され続け
る「見えない」二重のマイノリティ―同性愛を例に」「「無知」に囲まれた障がい者―現代日本における「試験」スポッ
トを当てて」「誰にとっての普通であるか」「コミュニケーションを「学校」という集団の中の発達障害から考える」
「性別という枠がつくる障害」
「教育における障害者に対する支援の現状と課題」「障害者と雇用問題」「在日外国人の差別問題と多文化共生への課
題」「外国人住民と多文化共生―外国人労働者の生活と諸問題をめぐって」「漢字の存在意義」「日本の中での「在
日」という名のマイノリティ」「障害者を演じる」「異文化を理解すること―見えない差別」「異文化コミュニケーショ
ンにおいての、自己主張とは?」「マジョリティによるマイノリティの支配」「在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ」
「日本の大衆文化に見られる偏見」「終わらない外国人差別」「性格とは何か」「不登校に対する認識」「発達障がい
のある子への支援は特別なのか」「「では」「だから」から生じるコミュニケーションの問題」「マイノリティの自由と
マスメディアの影響」「障がい児の教育とは」「外国人は「問題要素」なのか」「なぜ「ゆとり世代」は理解されない
のか」「男と女」「共通語と方言の共存」「国籍」「宗教の違いが生むコミュニケーション障害」「日本語は難しい言
語か」「外国人労働者の受け入れとコミュニケーション」「身近に住む外国人とのコミュニケーション」「障害児と教
育現場」「人という集合の中の障害者」「障害児教育と障害観」「烙印化された社会で生きる」「わかりやすい日本
語」「言語の違いによる不便さ」「「日本人だから外国人が苦手」という意識」「外国人労働者について考える―外国
人労働者受け入れの是非論の考察」「少数派への視線」「障害者と非障害者の壁」「日本の外国人生徒のハードル」
「高機能自閉症を抱える子どもとの付き合い方」「同性愛者の抱える問題」「会話のルール」「協調性を超える」「英
語の普及を例に言語選択を考える」「マイノリティとの多文化共生社会―外国人犯罪から考える」「聴覚障害者に対する
偏見」「本名を名乗れない在日韓国・朝鮮人」「障害者と共存する」「在日韓国人への偏見」「障がい者を取りまく言
葉」「日本人ができること」「「ろう者」に対する誤解・無知に関する情報仲介者の影響について」「無意識な差別」
「言語サービスと外国人住民」「差別と偏見について」「日本に住む外国人の現状」「日本人であること」「外国人・
他宗教に対する無知の及ぼす影響」「在日外国人の日本でのコミュニケーション」「川崎市における外国人教育発展―
川崎市在日外国人教育方針から」「カテゴリー概念からスペクトラム概念へ― 自閉症 が 自閉症スペクトラム へと変化
する必然性」「共生社会で異文化とつきあっていくために」「どれだけ「ふつう」が「ふつう」でないか」「国籍から
考えた難民問題」「手話の世界から考える多文化社会におけるコミュニケーション」「外国人と地域住民の関わり方」
「外国人とのコミュニケーションのありかた」「「外国人」との相互理解」「外国語と手話」「国家を支える愛国心」
「ことばのエスノセントリズム」「障害の壁を越える」「なぜ人は誤解するのか」「偽善が生み出す差別」「手話言語
への先入観」「ローマ字表記―「n」と「m」」「教育現場における相互理解」「国籍という言葉の認識」「発達障害の
子どもとその教育」「発達障がい者に対する私たちの対応」「多文化教育とアイデンティティ―在日の子ども期を豊かに
するために」「必要のない差別」「教育におけるノーマライゼーション」「Minority・Majority の概念がコミュニケー
ションに及ぼす影響」「はたらく女性」「介護における外国人労働者」「世界共通語と英語」「国際結婚と国籍の問題
点」「グローバル化における国籍問題」「民族問題について」「外国人労働者と日本」「発達障害の子どもの教育につ
いて」「血液型と性格の関係性」「無国籍者について」「性的マイノリティが生きやすい社会」「異文化コミュニケーシ
ョンとフィリピンの歴史」「異文化における生活」「わたしたちの周りの障害者」「自由について」「外国人の子ども
たちの困難」「言語の壁・言語の難しさ」「現在における教育現場の課題」「言語権・子ども移住者の言語権につい
て」「 女らしさ・男らしさ から生じる生きにくさ」「日本語における点字の問題点」「不平等なことばの壁」「差別の
ない社会へ―偏見をなくすことはできるか」「アスペルガー症候群の友達と上手く付き合うために」「ジェンダーの先入
観とこれから」「ジェスチャー」「非言語における対人距離」「障害と偏見」「世界観とコミュニケーション」「障害
者と私たちの壁をなくすには」「現代社会におけるステレオタイプ」「差別を考えるために―語ることの難しさ」「発
達障害の子どもたちと学校教育の役割」「発達障害児への教育において教員が直面する問題点について」「抑圧された
手話―昔、手話はろう者だけのものではなかった」「意思伝達と、既存イメージによる偏見」「在日朝鮮人の教育」
「ディスレクシアへの理解不足によるコミュニケーションへの弊害」「ブラジル人移民との付き合い方とは」「学習障害
をもつ子どもたちとのふれあい」「差別はなぜなくならないのか」「外国人と地域社会」「現代社会の障害に対する認
識」「多文化社会の浸透とジレンマ」「国籍と在留資格」「発達障害を持つ人々が生活しやすい社会とは」「子の発達
障害と親の愛情の関係」「発達障害児と教育」「発達障害の可能性を広げるためには―アスペルガー症候群を例に」
「発達障害におけるコミュニケーション」「異文化とのコミュニケーション」「外からみた日本人」「日本の精神文化」
「日本社会におけるマイノリティとは」「国籍とは何なのか―日本人の従来の国籍観から考える」「自閉症の人たちとの
コミュニケーションの取り方」「「障害」と「障害者」をどう理解するか」「皮肉の本性ってなんだろう」「多文化の
87
共生」「アスペルガー症候群について」「外国人労働者の人権」「障害と教育」「私の中の私と相手から見た私」「視
覚障害者と社会の現状と問題」「消えない差別―在日外国人について」「健常者が狭める身体障害者の生活と可能性」
「ADHDの子ども達とのコミュニケーション」「「発達」が障害されるということ」「「ほんとうのわたし」はどのよ
うにしてうまれるのだろうか?」「英語の支配」「外国人の子どもに将来はあるのか」「名前をみる」「日本の「マイノ
リティ」概念」「障害児とその家族への誤解と偏見」「「いじり/いじられ」のコミュニケーション」「外国人差別の
問題」「発達障害者とコミュニケーション」「情報の取捨選択」「自分を語るということ」「看護師国家試験の意義」
「在日外国人との共生」「性別による「らしさ」について」「国籍とは何のため」「発達障害のコミュニケーションと
偏見とは」「障害者と労働」「外国人労働者・在日外国人の文化」「言語が取り巻く共生社会の実情」「グレーゾーン
発達障害者を救うこと」「「普通」がもたらす偏見と差別」「現在の日本に在住している外国人の差別と人権問題はど
のようなものか―そしてこのことをどう解決していくべきか」「身のまわりにある差別」「障害をもつ人たち」「異文化
の見方」「文化とコミュニケーション」「在日韓国人と「日本人」」「在日外国人と指紋押捺問題」
88
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第12回「多文化社会をささえる情報技術」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
今後の予定
7月13日:第13回「コミュニケーションに正解はない」、7月20日:第14回「ユニバーサルデザインという理念」
補講(7月27日)はありません。8月3日は、レポートの受付と授業をします。テスト週間なので、時間に余裕のある
人は、きてください。期末レポートの題も公開します。
講義録は、よほどのことがないかぎり、 /tabunka2012/ で公開しつづけます。
前回、声のおおきい利用者が図書館から排除されることがあることを指摘した。その問題について、歴史の視点から
再検討してみたい。
読書の歴史―音読から黙読へ
だまって、ひとりで本をよむ。これが一般的な風景になったのは、近代以降のことである。黙読がひろまるまで、人
は声にだして音読していた。周囲の人は、それをきくことができた。そのようにして情報を共有するというかたちがあっ
たのだ。山梨あや(やまなし・あや)は、つぎのように説明している。
そもそもものを「読む」という行為はどのようなものであり、如何(いか)なる歴史的変遷(へんせん)をた
どっているのだろうか。「音読」と「黙読」という二つのことばが示す通り、「読む」行為は二種に大別され、
前者の歴史が後者のそれよりも圧倒的に長いことは洋の東西を問わない。換言すれば黙読するという行為は、活
版印刷技術の改良により大量印刷が可能となり、書物を入手することが容易な状況が生まれること、ひとりでの
読書を可能にする識字率の向上、そして黙読を要求する書籍の内容や図書館に代表される読む空間の誕生などの
条件の上に成り立つ、近代化の一つの産物なのである(やまなし2001:73)。
永嶺重敏(ながみね・しげとし)は、この音読から黙読にうつりゆく過程の社会状況を分析していて興味ぶかい。永
嶺は『雑誌と読者の近代』で近代の日本で図書館がつくられるさいに、「音読の禁止」をルールとして規定したことを
あきらかにしている(ながみね2007)。また、『〈読書国民〉の誕生』では、電車という近代的な空間のなかで「音読
する」という伝統的な読書が、どのようなまなざしをむけられたのかをあきらかにしている。永嶺は、つぎのように当
時の状況を説明している。
それまで人々が長く慣習化してきた音読という身体的行為が、新しく登場してきた汽車という西洋的公共空間の
論理と摩擦を生じ、そこから排除されようとしている(ながみね2004:109)。
公共の施設では、しずかにする。それは、いまでは常識のようになっている。だからこそ、さわがしい利用者を排除
するようなことがおきる。ある意味では、そのような近代的な公共観が「他者」を可視化してしまうのだといえる。
読書の歴史という点からみたとき、音読されることで共有できていたものが黙読の普及によって、共有されないもの
になったということができる。読書の個人化は、すべての人に「よむ能力」を要求することになった。しかし、それは
不可能な要求である。それでは、どうするか。ここに現代の課題がある。
方法は、情報技術を利用することと、人の手をかりることである。今回は、情報技術に焦点をあてる。
マルチメディアデイジー(DAISY)の可能性
図書館の資料には、録音図書というものがある。本の内容をよみあげ、録音したものだ。これを「音訳」という。従
来はカセットテープに録音していたが、最近では電子媒体に録音するようになっている。デイジー図書という。
デイジーとは、当初は「Digital Audio-based Information System」の略語だった。現在では「Digital Accessible
Information System」の略語として使用されている。
つまり、はじめは録音電子図書のための国際標準規格だった。いまでは、「だれでもアクセスできる情報システム」の
国際標準規格とされている。
89
現在、デイジー図書には2種類がある。たんに電子媒体に録音されたものと、マルチメディアデイジー図書である。電
子媒体であるため、章や節の移動がしやすいという利点がある。さらに、マルチメディアデイジーの場合、さまざまなこ
とが可能になる。
マルチメディアデイジーは、テキストとよみあげを同期している。よみあげている部分がテキストで表示され、その部
分をハイライト表示することができる。カラオケのような本と表現すればイメージしやすいかもしれない。
文章は、字のおおきさ、字体(フォント)、背景と文字の色などを自由にかえることができる。音声のはやさをかえる
こともできる。ふりがなを表示することもできる。
現在、マルチメディアデイジー図書は、公共図書館などで製作がすすめられており、利用を登録した人は、「サピエ図
書館」というウェブ上の電子図書館からダウンロードすることができる。登録の条件は、読書になんらかの障害がある
ことである。
現在、ボランティアを中心にマルチメディアデイジー版の教科書をつくる作業もすすめられている。
クローズドキャプション―字幕を表示させたり、かくしたりできる
マルチメディアデイジーを製作、普及活動をしている「調布デイジー」は、神山忠(こうやま・ただし)のディスレク
シア(読字障害)についての講演をユーチューブで公開している。この動画には、字幕があり、よみあげられている部分
が黄色でハイライト表示されており、手話通訳もついている。まさに、ユニバーサルデザインの動画であるといえるだろ
う(「神山忠先生の講演・手話通訳編(2011年調布デイジー講演会)」 http://www.youtube.com/watch?
v=hKjuZkAS0kk)。
現在、DVD/ブルーレイディスクやテレビ放送には字幕がついていることがある。なにも設定せずに視聴していれ
ば、その字幕は表示されない。字幕を表示するように設定すれば見られるようになる。このような字幕を「クローズド
キャプション」という。
わたしがオススメする映画『サムサッカー』にはクローズドキャプションがついている。これは日本語字幕とは別のも
ので、英語の字幕である。日本語字幕とその英語字幕を同時に表示させることもできる。
日本語の映画でも、日本語の字幕をつけるように要望があがってきている。
映画『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』のDVD/ブルーレイディスクは「バリアフリー仕様」として「視覚障害者
対応日本語音声ガイド・聴覚障害者対応日本語字幕収録」である(http://www.yoisame.jp/)。
ウェブアクセシビリティ(ウェブを利用しやすくする)
わたしは韓国に留学したとき、学生寮で生活していた。ルームメイトは中途失明の弱視者だった。その人は、パソコ
ンに文字と背景のコントラストを強調するソフトをいれていた。たとえば、文書を編集するときは、黒の背景に、黄色
の文字がでる。わたしにも、つかいやすいものだった。
しかしウェブをみているとき、あることに気がついた。ウェブページによっては、逆に文字が見えにくくなるというこ
とだ。そこに文字があるのに、ほとんど見えなくなってしまうのだ。そのソフトは見えやすいように自動で色をかえると
いうものだった。わたしは当時、これでは本末転倒だと、そのソフトの欠点だとみなしていた。それがウェブサイトの
側の問題であることに気がついたのは、何年も後のことだった。
ウェブページは、ウェブブラウザによって表示させるものである。ウェブブラウザには、たくさんの種類がある。ウィ
ンドウズのパソコンにはインターネットエクスプローラー(IE)が標準で装備されており、アップルのマックにはサファ
リが装備されている。ほかにも無料でダウンロードできるウェブブラウザがたくさんある。
グーグルクローム(Google Chrome)、ファイアーフォックス(Firefox)、オペラ(Opera)などである。
どのウェブブラウザをつかうかによって、ウェブページの見えかたは、すこしちがう。標準の設定を自分なりにアレン
ジすることで、ウェブページの見えかたは、さらに変化する。
文字をおおきめに表示したり、画像は表示させないなど、つかいやすいようにアレンジしてウェブページを見ていると
き、サイトによっては、文字と文字が重なって表示されたり、ほとんど情報がぬけおちてしまう場合がある。それは、
ウェブページのHTMLの記述に問題があるからだ。HTMLとは、ウェブページの文章を記述する言語のことである。
文字が重ならないようにするためには、行間(line-height)を指定すればいい。
画像(img src)には代替テキスト(alt= )をつける必要がある。
テキストブラウザや音声ブラウザをつかっていれば、画像は表示されないし、よみあげられない。だが、画像に代替テ
キストをつけていれば、それが表示され、よみあげられる。ウェブページは、見ためをよくするために画像をたくさんつ
90
かっている場合がある。その場合、画像に代替テキストをつけていなければ、必要な情報にアクセスできないというこ
とがおきてしまう。
現在、たくさんの人がウェブで発信をしている。ブログやウェブサイトを運営している人はすくなくない。ウェブアク
セシビリティについての基本的な理解が必要である。
ウェブ上にはウェブアクセシビリティについて解説するサイトがたくさんある。HTMLの記述を自動で判定するサイト
もある(「Another HTML-lint gateway」 http://htmllint.itc.keio.ac.jp/htmllint/htmllint.html(日本語サイト))。
パソコン、スマートフォンやタブレットを使用した情報支援
多文化共生センターきょうとは、京都市内で医療通訳者を派遣する事業のほかに、機械をつかった多言語情報支援に
とりくんでいる。たとえば、病院の受付用に「多言語医療受付支援システムM3」を開発したり、患者用に多言語医療問
診ができる「多言語問診M3(M-Cube)」というスマートフォンのアプリを開発している(アンドロイドとアップルの
iOs(iPhone、iPod touch、iPad)に対応)。また、看護師用には「プチ通訳 for Nurse」を開発している(アンドロ
イド対応)。どれも和歌山大学との共同開発である。
株式会社エスケイワードは、名古屋大学と名古屋文理大学の教員と刈谷豊田総合病院との共同で「EXランゲージ ナー
ス編」(アップルiOs対応)や「EXランゲージ 受付編」(iPad対応)を開発している(http://www.skword.co.jp/
collaborate/ipad.html)。
日本財団は、聴覚障害者むけに遠隔情報・コミュニケーション支援事業をはじめている。東京赤坂の日本財団のビル
内に「遠隔情報・コミュニケーション支援センター」を設置し、被災地三県(岩手、宮城、福島)の聴覚障害者は無料
で利用できるようにしている(http://plusvoice.jp/nf-support/)。ここでも情報機器を有効利用している。
情報機器をうまく活用し、通訳者や情報支援者などの支援職が職業として成立するようになれば、多言語・多文化社
会のコミュニケーション問題は、おおきく改善する。
参考文献
あべ やすし 2010 「識字のユニバーサルデザイン」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院、
284-342
成松一郎(なりまつ・いちろう) 2009 『五感の力でバリアをこえる―わかりやすさ・ここちよさの追求』大日本図書
永嶺重敏(ながみね・しげとし) 2004 『〈読者国民〉の誕生―明治30年代の活字メディアと読書文化』日本エディタ
ースクール出版部
永嶺重敏 2007 『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール出版部
藤田康文(ふじた・やすふみ) 2008 『もっと伝えたい―コミュニケーションの種をまく』大日本図書
山梨あや(やまなし・あや) 2001 「近代化と「読み」の変遷―読書を通じた自己形成の問題」『慶應義塾大学大学院
社会学研究科紀要』52、71-84
練習問題
16. ケータイ電話、スマートフォンが普及しています。ケータイやスマホは、もっとも身近な情報機器です。ケータイや
スマホがあって、よかったという経験はありますか? 逆に、こまったことはありますか?
17. 今回は、カタカナばかりのプリントになってしまいました。外来語をめぐって、コミュニケーションがうまくいかな
かったことはありますか? 文章の理解で、つまづいた経験はありますか?
感想、疑問、苦情の紹介
前回は、3限は学生2人に、4限は学生3人にレポートを発表していただきました。ご協力ありがとうございました。
学生のコメントにも「もっとたくさんの人のレポートを聞きたかった」という感想がありました。同感です。
きくだけではなく、よみたいというコメントも複数ありました。
「レポートを返す時、他の人の先生からのコメントがけっこう聞こえてきましたが、それでいいのか、と思いました」
というご指摘がありました。おっしゃるとおりです。改善すべき点ですね。
91
―――
レポートの発表を聞いて、二人とも自分の意見をしっかりと述べていて、本当にすごいなと思いました。私は、頭の中で
いろいろと考えて、人に伝えたい時に、思うように言葉がでてこなかったりして、上手く伝えられず、もどかしい気持ち
になることがよくあるので、人前で堂々と発表できるコミュニケーション力にすごくあこがれます。先生のように、話す
内容に深みがあり、聞いていると「なるほど」というように納得するような説得力のある話し方にはどのようにしたら
なれるのでしょうか?
【あべのコメント:わたしは、まだまだ未熟です。なにごとも、経験のつみかさねです。とにかく、やってみること。】
―――
他の人のレポートを聞いて。これは、私の勝手な考えだろうが、この科目のレポートは自分に体験があるほど、書きや
すくまとめやすいものになっているのではないかと思う。体験談があるほうが、書き始めも、まとめも書きやすい気が
した。だから、体験がない人は、どうやって 良い と言われるレポートを書けばいいのだろうか。
【あべのコメント:たしかに、採点していて、すばらしいと感じたレポートは自分の体験をかいたものがほとんどでし
た。なにか実体験があると問題意識をもちやすい。それを論じればいいのだから、かきやすい。そのとおりです。とは
いえ、「体験がない人」というのは、いるんでしょうか。なにか、あるんじゃないでしょうか。どうでしょうか。】
―――
今日他の学生の方のレポート発表を聴いて共感する点が幾つかあったので、そのことについて書きたいと思います。私
は…中略…父の転勤で中国に住んでいました。転勤が決まった頃、中国は遅れた国というイメージが強く、だれ1人とし
て私の 海外 への転校をうらやましがる人はいませんでした。むしろ 中国って危なくないの? 空気汚くない? という
マイナスの反応ばかりでした。また帰国し高校に入学してからも、周りの日本の人たちの私に対する反応は悪いものばか
りでした。学校の先生は日本人学校に通っていた私に「あなたは国語が苦手でも仕方ないわね。」とか「中国に住んで
いたんだから漢文は当然できるよね。」と言った言葉を投げかけてきました。こういう苦い思い出があるからか、わた
しは高校に対する愛着があまりなく、高校の友人との深いかかわりがありません。この経験は恐らく今日話してくださ
った学生の方を含め帰国子女と呼ばれる人たちが感じる日本人に対する壁なのだと思います。
【あべのコメント:最近でた本に、サンドラ・へフェリン『ハーフが美人なんて妄想ですから!! 困った「純ジャパ」との
闘いの日々』中公新書ラクレというのがあります。すこし共通する点がありそうですね。】
―――
2人の発表した方のレポートをきいてみて、同じ授業を受けていても感じとったり、自分が気になって調べてみたいと思
う観点がさまざまなのだなあと改めて思った。自分自身のかえってきたレポートももう1度読み直してみたが、今の自分
は一ヶ月前の自分とは違っているので、「今はこう思う」と考え方も少し変わっていたりして自分にとっては、新鮮だっ
た。期末レポートでは、今の自分が伝えたい気持ちを、興味のあるテーマに対して最大限に表現できたらいいなと思っ
た。
―――
練習問題15「わたしたち」について(意図、文脈、問題意識など)
「わたしたち―が」という表現について疑問を感じたことはなかったように思います。書き手の意図における「わたした
ち」に自分が入らない場合、自分と書き手が違う立場に立っていると理解し、異なる立場から違う立場に立っていると
理解し、異なる立場からその文章を読むのだ、と前提を明らかにして読むようになるだけ、という認識でいました。
「―であるわたしたち」という表現は―でないものが存在しているからこそ出てきたものだと思います。それほど悪い印
象はないのですがどうでしょうか。
―――
「わたしたち」とすることで、自分の所属や立ち位置を明確にしたい、と考えているのではないかと考えます。私を含む
○○とすると、その含む母体の存在感がうすくなる気がします。
―――
あえて、日本人とそうでない人、健常者とそうでない人というように意図的に分けたい場合には、「排他的な私たち」た
る表現は有用だろう。ただ、日本人(以前授業に登場したように、定義が曖昧)とかいうよく分からない枠組みは、使
用する際に、何を中心軸(国籍、居住地域など)にするかを考慮せねばならぬと思う。定義が曖昧である以上、それに
よる「一般化」は難しいと考える。
―――
92
今回レポートを作成した際に、「わたしたち」という表現を無意識に使用していました。あべ先生の言う通り、これは
差別的ですね。無意識に使ってしまったということにとても反省しました。除外の仕方は様々ありますが、「わたした
ち」が何なのか具体的に示し、誰に伝えたいのかをハッキリすれば良いのかな、と感じました。「このような人たちも
いる」ということが伝えられたら良いです。その他の人たちは邪魔者や異常者ではなく、今回はこの視点から、という
ことを言いたいです。
【あべのコメント:そうですね。意図や文脈、問題意識の問題で、どのような意味で「わたしたち」というのか。それ
をかんがえてみようという問いかけでした。「差別的だ」「反省しなさい」というような指摘ではなく。わたしも結論
やポリシーがあるわけでもなく。】
―――
先生の授業では、ふと、はたっと「ああ言われてみればおかしい…」と思うことがありますが、まさにそれでした。私
は「わたしたち」という言葉を使うとき、明らかに自分の基準で何かを「一般化」「標準化」していましたが、それに
よって排除される何かは全く頭にありませんでした。ただ漠然と「一般(標準)からずれたもの」という認識だけがあ
りました。全くもって、「自分」を 普通 だとして考えていました。こんなところに隠れた心の奥底の差別意識(無意識
ですが…)が浮きぼりになるとは… 盲点でした。
―――
私も中間レポートのタイトルで「私たち」という言葉を使っています。このレポートを書いた時はあまり意識していませ
んでしたが、確かに無意識に誰かを分けてしまっていたのかもしれません。どこまでが、「私たち」でどこからが「私
たち」ではないのか考えてみる必要があるのかなと思いました。しかし、誰に向けて使っているのか今はまだよくわか
りません。
―――
「わたしたち」という表現を改めて考えてみると、使う時によって本当に様々で抽象的だな、と思いました。
―――
「わたしたち」という表現について、日本語では聞き手を含むと含まないとで、どちらも同一に「わたしたち」です
が、中国語では「我们」と「 们」の区別がありますよね。「我们」は聞き手を含まず、「 们」は聞き手を含むのです
が、誰にむけて発信しているのかを普段意識していない日本人には、この2つの使い分けが難しいと思いました。
【あべのコメント:「我们(women)」と「 们(zanmen)」の区別。そういえば、ありましたね。なるほど。】
―――
排他的なわたしたちは、自分中心な考えだと思います。いじめとかで、でてくるのではないでしょうか。前までは。ある
「私たち」の中に含まれていたのに、いつのまにかその「私たち」の輪から外されていた。ということは、よくある話
だと思います。
―――
小さいときに「みんな○○もってるから○○買って」とか親にねだることがよくありました。その中の「みんな」は私
の友達だからすごく少人数だし狭い範囲だから全然万人を指すものではないと大きくなって気づきました。
【あべのコメント:その「みんな」は、たしかに少人数なんだけど、だからこそ大事で、ほしくなるんですよね。】
―――
図書館の多文化サービスは初めて聞きました。国際交流センターの図書室にはいくつかの言語で書かれた本(洋書)が
ありましたが、そこは特別だと思っていました。愛知県図書館はまだ行ったことがないので、是非行きたいです。
図書館の利用について:ほとんどの図書館が貸し出しをしない在住、在学者に限定していることが多いと思いますが、
私はこれが許せません。限定しておかないと、本を返さない人が出てくる…など問題が起こることはわかります。しかし
私は市内の図書館に行くより、隣の市へ行った方が近いのです!
―――
図書館をだれでも利用できるようにする3つの対策は、ほとんどの公共施設に当てはまる問題ではないでしょうか。
【あべのコメント:そのとおりです! 図書館の理念や問題意識から、ほかの問題をかんがえてみると見えてくるものが
あります。たとえば、学校教育の課題、交通バリアフリーの問題、医療や介護の問題など。】
―――
図書館には日本伝統のかみしばいがたくさんあります。家に本はあってもかみしばいがあることは多くないでしょう。そ
の点でも図書館は大事だと思います。
―――
93
私の地元の図書館でも、子どもたちを集めて読み聞かせをする機会が設けられています。図書館をみんなのためのものに
するためには、どうしたらよいか考えることは多文化社会の国にとってとても大切だと思いました。知的障害のある利
用者が図書館から排除されたケースを読んで、 騒いでしまう人は図書館を利用することができないのか ということにつ
いて考えさせられました。図書館で静かにすることができない子でも本を読む権利・本を借りる権利はあるのです。
…中略…知的障害児にとって苦手な施設は図書館の他にもあると思います。歯医者・美容院などの多文化サービスも調
べたり考えたりしてみたいと思いました。
【あべのコメント:わたしが支援員をしていた知的障害者の施設では、散髪にいけない人は訪問の理髪師さんに散髪し
てもらっていました。京都には訪問歯科をしている歯科があります。検索してみたら、日本訪問歯科協会という団体があ
るんですね。 http://www.houmonshika.org/】
―――
県大図書館でレポートの論文を探すと、ほしい論文ほどないし、種類が偏っています。国立国会図書館まで行くわけには
いかないし、学生のための図書館なのだからもう少し幅広くとりよせてほしいといつも思っています。
【あべのコメント:そうですね。ただ、「文献複写依頼」の紙をかいて大学図書館にだせば、とりよせてもらえます。
だいたい1週間でとどきます。もちろん有料ですが、数百円です。】
―――
最近大阪の中之島図書館が話題になりました。歴史的な建築物としての価値を重視し、「図書館を廃止して別の施設に
しよう」という案が出て、多くの人の反対に遭っています。私ももちろん反対ですが、中には「専門的な資料ばかりで一
般向けではない」と賛成派の人もいるようです。しかしそれはその専門書を必要としない人たちだから言えることです。
図書館は「みんなのために」あるのであり、その「みんな」は多数派という意味ではなく「全ての人々」という意味で
あるはずです。このニュースを知り賛成派の意見を聞いたとき、猛烈に反対したかったけれど、どうにも言葉にならない
もどかしさを感じていたのですが今日のお話を聞いて自分の中で言いたいことがはっきりしました。
―――
…前略…図書館におく本は、図書館員の好みで選んではいけない、というところに特に関心をもちました。そこから話
を発展させて、マンガはどういう扱いになるのだろうと思いました。マンガを読みたいと思う人はたくさんいるはずな
のにマンガは図書館にはふさわしくないと考えられているのでしょうか。疑問を感じます。ファッション雑誌を何種類
もおいている一方で、マンガは王道なものしかおいていない…。読者はいっぱいいるはずなのに図書館はマンガをあま
りこころよく思っていないのではないかと感じました。
【あべのコメント:専門書もあれば、マンガもある。そういう空間であってほしいですね。】
―――
図書館が障害者に対してかなり開かれたものになっていることに驚きました。特に朗読や来館できない人に郵送するサ
ービスは、図書館員が様々な障害を理解する必要があると思いました。また、声の大きい人や騒がしい子供の利用を制
限しないことについて、他の人が静かに利用したいと思っていても、声の大きい人が利用することの方が優先されるの
であれば、何か違うと思います。この2つは矛盾していて共存できないのではないでしょうか。
―――
「図書館利用に障害のある人々」という表現は、初めて耳にしましたが、とても納得できる表現の仕方だと思いまし
た。「障害者」の方に負担をかけるのではなく、図書館側が責任をもつといったやり方は、どの人にも平等で良いと思
いました。障害者の方が心配や不安をせずに快適に利用できるのはすばらしいと感じます。図書館以外の公共施設にお
いても、このような考え方が広がり、全ての人が利用しやすい施設が増えていくといいなと思いました。
―――
学生のおすすめ映画、ドラマ、小説、マンガ
『カフカ』の変身も面白いと思います。一人の男がある日突然大きな虫となってしまい、それによって引き起こされる
周りの人との衝突を書いたものです。
―――
有川浩さんのオススメの本:『植物図鑑』(女の子と男の子が雑草をいかに美味しく食べるか研究するラブコメディ
ー)、『レインツリーの国』(聴覚障害の女の子と男の子が、思いやり故にすれちがってしまうラブストーリー)
―――
東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
94
期末レポートについての補足
しめきり:8月3日。提出方法は、中間レポートとおなじ。おくれた学生にはユニパから最終しめきりを通知する。
ながさ:A4で2枚。1枚だけなら減点する。3枚以上だから加点することはない。表紙は不用。
内容:前回のプリントで指定したとおり。なぜそのテーマについて論じるのか、冒頭で説明があるといい。
コミュニケーションに関係のない内容でもいい。むしろ、コミュニケーション一般についてだと、社会的なことに
焦点があたらず、わたしが「おもしろい」と感じることはあまりないでしょう。たとえば、「なぜ誤解するのか」
のような、たしかにコミュニケーション一般についての内容ではあるものの、多文化社会という視点がない場合。
おねがい:3限か4限かを明記してほしい。
まず、題について。なにか具体的に注目したいことがあれば、テーマは明確になり、内容も具体的になります。その
内容をふまえた題にすれば、あいまいになることはありません。また、副題をつけることで、中身が見えるようにする
という工夫もできます。
論評型と整理型について。論評型のレポートをかくためには、まず自分自身に問題意識が必要です。なにか論じた
いこと、かんがえたいことがあり、それをうまく表現するために、基本的な事実と他人の意見をふまえる。そのうえで、
自分の意見を展開する。つまり、参照する文献は手段にすぎないのです。でも、それって、いきなりできるわけじゃな
い。むずかしい。ただ、だからといって、いつまでもそういった練習をさせないままでいいのか。いつになったら、そ
ういう練習をさせてもいいのか。どっちみち必要なこと、大事なことなんだから、むずかしいかもしれないけれど、や
ってみてもらおう。それが、わたしの意図です。
ただ、中間レポートをみていて、問題意識という面ではよわいかもしれないけれども、事実や論点をきちんと整理して
いるレポートがたくさんありました。そういった内容のものを、たんに「自分の意見がすくない」といって減点するの
は、どうなんだろうか。それで、いいんだろうか。――そういうわけで、期末レポートでは「整理型レポート」でもいい
ということにしました。ただ、それでも、できるだけ自分なりの視点をだしてほしいです。
どのような結論をだそうと、その内容について減点はしません。その結論をだす「プロセス」を重視しま
す。うまく説明できているか、論理的に論じているか(根拠を提示しているか)、事実誤認をしていないか。これについ
ては、加点もするし、減点もします。
基本的に重視するのは「レポートの形式」です。主張を評価の対象にしないという方針をとるためには、そういっ
たことでしか減点ができないという理由もあります。自分の意見と引用をはっきり区別すること、どの文献をどのよう
に参照したのかをあきらかにすることは、読者とのコミュニケーションにおいて、重要なことだとおもいます。
期末レポートは、返却しません。問いあわせは歓迎します。成績が通知されたあとに、連絡してください。
字さげして引用するさいの注意点
1. 段落のはじめから引用する場合、
はじめに、○○(1字さげ(全角スペース))
2. 段落の途中から、文章の頭から引用する場合、
だから、○○
3. 段落の途中の、文章の途中から以降を引用する場合、
…公民権運動の歴史を○○
(… は省略したことをあらわす。文の途中を省略するときは、…中略…などとする。)
字さげして引用する場合は、要約などせずに、そのまま引用するものです。要約して引用する場合は、○○によると、
……という(○○2010:12-15)というふうにしてください。そうすれば、そこは参照した部分だと明示できます。
95
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第13回「コミュニケーションに正解はない」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
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言語の規範
ダグラス・ラミスは「イデオロギーとしての英会話」というエッセイで、つぎのようにのべている。
発音は相対的なものである。イギリスとアメリカの両方に多くの方言があり、変化があり、おのおのの国内で
どれが「スタンダード」であるかは、力関係によって決められる問題である。「スタンダード」とは、つまり支
配階級の言語である。同様に、フィリピンで発達したいろいろの英語が「正しくない」ということは不可能であ
る。…中略…どちらの発音をあなたが勉強したいかを決めるのは、言語学的なことではなく、政治的なことであ
る。それはあなたが誰に話したいかという問題である(ラミス1976:24)。
英語は多様であるといわれる。英語という言語はひとつではなく、複数形で表現されることがある(Englishes)。に
もかかわらず、日本で学習する場合、英語というのは「アメリカ英語」であることがほとんどだ。インドの英語ではない
し、フィリピンの英語ではない。アフリカの英語でもない。アメリカの黒人英語でもない。なぜか。
それは、アメリカ英語が「つよい」という社会的背景があるからだけでなく、やはり「あなたが誰に話したいか」と
いう選択の問題であるといえる。
いまの現状では、「英語は多様である」という指摘は、「英語は世界中でつかわれている」という幻想まじりの主張
であり、「だから、あなたたちも英語をつかえ」という要求になっている。しかし、多様性を平等にあつかうなら、す
べての英語話者が同等にあゆみよることがもとめられる。つまり、アメリカ英語の話者もフィリピンの英語、インドの
英語、アフリカのさまざまな英語などをそれぞれ学習する必要があるということだ。そうでなければ、自分たちだけに
都合のよい論理で英語を普及しているだけにすぎない。
このような状況を改善するには、異言語話者どうしのコミュニケーションでは通訳を介在させること、あるいは、お
たがいがエスペラントを学習し、使用するということが必要になる。しかし、この社会はそれほどまでに平等をのぞん
でいないから、どちらか一方だけが相手にあわせることになっている。さらには「正しい英語をつかいなさい」と要求
されている。しかし、ことばの正しさとは、いったいなんなのか。ジェームズ・ミルロイとレズリー・ミルロイによる
『ことばの権力―規範主義と標準語についての研究』をみてみよう。
一般の人々(すなわち標準語イデオロギーを疑問なく受け入れている人々)にとって、「文法」とは外部の権
威者たちがことばの用法の上に強制的に押しつけてきた一連の「規則」のことである。この規則の大半は現に用
いられている特定の用法(different to など)に対する数々の禁止令である。言語学でいう「文法」とはこれよ
りもはるかに広い概念である。それは外部から押しつけられた規則ではなく、もともと言語に内在する複雑にか
らみあった抽象的体系のことである。ネイティブ・スピーカーとはこうした文法知識を本能的に身に着けている
人々のことであって、この生得の知識のおかげで彼らはその言語を理解し使用することができるのである(ミル
ロイ/ミルロイ1988:114-115)。
言語学では文法を「記述文法」という。そして、ミルロイらが指摘しているような「規則」を「規範文法」とよぶ。
言語を観察して「みいだす」のが記述文法であり、言語の権威者が「つくりだし、強制する」のが規範文法であるとい
えるだろう。言語学は言語のすがたを観察し、記述するということに目的がある。
社会言語学では「ネイティブ・スピーカー」という概念についても批判的に検討されている(おおひら2001)。
「コミュニケーション能力」をといなおす
現在、学生は「コミュニケーション能力を身につけるべきだ」とさけばれている。これは就職(活動)を念頭において
の議論であり、いかに自分をプレゼンテーションすることができるかという、「プレゼン能力」が必要だという主張で
ある。
しかし、「コミュニケーション能力がない」「たりない」というのは、なにを根拠にしているのだろうか。その評価
は、だれがしているのか。だれなら「コミュニケーション能力」を判定できるのか。コミュニケーション能力のない人と
いうのは、どういう人を想定しているのか。
96
ここで、貴戸理恵(きど・りえ)による『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』という本を紹介した
い。貴戸はつぎのような問題意識から出発している。
…他者や場との関係によって変わってくるはずのものを、個人の中に固定的に措定(そてい)することを、「関
係性の個人化」と呼んでみましょう。学校や職場という、人と人が出会い関係を築いていく場において、私たち
はしばしば、「あの人はコミュニケーション能力がある/ない」などの言い方で周囲の人を評価し、「関係性の
個人化」を行っています。
けれども、こうした文脈依存的にしか見出すことのできないものを、「能力」という個人化された言葉で表現
することは、どのくらい適切なのでしょうか。そこに問題はないのでしょうか(きど2011:3)。
いいかえれば、「コミュニケーション能力」というものは「他者や場所との関係によって変わってくる」ものであり、
個人化することはできないということだ。
だれが、だれと、どのような状況でむきあっているのか。その文脈をはなれて「コミュニケーション」を評価すること
はできない。人の「性格」を評するのとおなじである。
「コミュニケーション障害」をといなおす
コミュニケーションは、「おたがいさま」である。そのようにとらえてみると、いわゆる「コミュニケーション障害」
というのは一方的な議論であることに気づく。
たとえば、鯨岡峻(くじらおか・たかし)は「コミュニケーションの障害」を「機能障害」の問題におしこめること
に疑問をなげかけ、つぎのようにのべている。
私たちはコミュニケーションの障害を子どものもつコミュニケーション機能の障害として子どもに帰属して考え
がちですが、どこまでが子ども「本来の」障害なのでしょうか。障害と捉えていることのなかに、子どもと関わ
る人(自分)との関係が難しくなっていることが含まれていないかと問うてみると、答えにくい場合がしばしば
あるのに気づきます。…中略…私たちは暗黙のうちに健常者の機能を基準にとり、それに達している、達してい
ないで「障害」を考えてきていたことが示唆されます。…中略…「コミュニケーションの障害」はもっぱら障害
をもつ人の機能に帰属される問題として考えられるべきではありません。むしろ二者の関係が差し当たり難しく
なっているという、より広い意味において考える必要があるのではないでしょうか(くじらおか
1998:174-175)。
だれが接するかによって、「その子ども」の行動が変化することがある。それは関係性が両者の行動に影響をあたえ
るからである。ふだんから接している人と対面すれば、おちついていられる。一方、病院という、日常とは異質な空間
で初対面の医師が接するときには緊張するだろう。あたりまえのことだ。しかし、そういった要素をいっさい考慮せず
に、ただ「この人はコミュニケーション障害だ」というのは不公平ではないか。そこでは、困難な状況をいっしょに解
消するという視点がない。おたがいさまという視点がないのだ。
能力の共同性へ
竹内章郎(たけうち・あきろう)は、「そもそも、能力が個人の私的所有物だ、という感覚自身が疑わしい」とのべ
ている(たけうち2007:131)。そして、竹内は知的障害者や認知症の高齢者の「伝達能力」についてつぎのように説明
している。
…知的障がい者や認知症の高齢者も、たとえ部分的にせよ、立派に自分の体調や欲求を、周囲に「伝達」してい
ます。けれどもこの「伝達」は、ふつうの言葉がしゃべれない彼らの言語能力(私的所有物)だけによるもので
はありません。彼らと接する優秀な指導員による人的サポートがあってこそ、この「伝達」も実現するのです。
つまり、こうした優秀な指導員が音声や繰り返される同じ単語から、障がい者たちの体調や欲求を読み取るから
こそ、彼らの「伝達」能力が成り立つのです。…中略…優秀な指導員がいるか否か、またそうした指導員を育て
る仕組みや社会・文化があるのか否かで、そんな「伝達」する能力は実現したりしなかったりするのです。つま
りはこの「伝達」する能力も、個人の私的所有物としてのみあるのではなく、指導員などの他者と知的障がい者
たちとの関係の中にあるのです(140ページ)。
97
竹内は、こうした視点を「能力の共同性」とよんでいる(141ページ)。ここで重要なのは、たがいに協力しあうこと
によって、そのふたりやグループがどのような関係性をきづき、コミュニケーションをつむぐことができるかということ
である。
たとえば、肥後功一(ひご・こういち)は「コミュニケーション障害を産み出す見方」という論考で、「 できない
(依存) と できる(自立) との間には」「 いっしょに○○する(共同性) という世界が豊かに広がっている」と指
摘している(ひご2000:37)。できる/できないを「自分の力」でできるかどうかで判断する視点が、障害を「個人の
問題」におしこめるのだ。
完全に依存するのでもなく、たったひとりで孤立するのでもなく、そのあいだをいきるということ。それが可能にな
れば、いきやすくなる人は、たくさんいるだろう。
「はなしをきく」こと、「いやだ」と「たすけて」がいえること
それでは、コミュニケーションにおいて重要なこととはなんだろうか。最低限必要なのは、「相手のはなしをきくこ
と」「いやだといえること」「たすけてといえること」だろう。
どうすればいいか、わからないときは「どうしたらいいですか?」と相手にきく。
「いやだ」と感じたとき、「それはおかしい」と感じたときは、それをつたえる。表現する。
こまったときは「たすけて」という。それができれば、十分ではないだろうか。
積極的にコミュニケーションをすることだけが「いいこと」ではない。必要なときには「コミュニケーションをとじ
る」こともある。「ひきこもる」のも、ひとつのコミュニケーションである。拒否することがあってもいいのだ。
コミュニケーションに正解はないとはいっても、人権という理念をわすれることはできない。「正解はないから、な
んでもオーケー」というわけにはいかない。
人権や社会参加、民主主義という理念を具体的に実現するための実践的な思想として「ユニバーサルデザイン」をあげ
ることができる。次回は、「ユニバーサルデザインという理念」です。
参考文献
あべ・やすし 2011 「言語という障害―知的障害者を排除するもの」『社会言語学』別冊1、61-78
大平未央子(おおひら・みおこ) 2001 「ネイティブスピーカー再考」野呂香代子(のろ・かよこ)/山下仁(やまし
た・ひとし)編『「正しさ」への問い―批判的社会言語学の試み』三元社、85-110
貴戸理恵(きど・りえ) 2011 『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』岩波書店
鯨岡峻(くじらおか・たかし) 1998 「関係が変わるとき」秦野悦子(はたの・えつこ)/やまだ ようこ編『コミュニ
ケーションという謎』ミネルヴァ書房、173-200
佐藤慎司(さとう・しんじ)/ドーア根理子(どーあ・ねりこ)編 2008 『文化、ことば、教育―日本語/日本の教育
の「標準」を越えて』明石書店
竹内章郎(たけうち・あきろう) 2007 『新自由主義の嘘』岩波書店
肥後功一(ひご・こういち) 2000 「コミュニケーション障害を産み出す見方」大石益男(おおいし・ますお)編『改
訂版 コミュニケーション障害の心理』同成社
マッカーサー、トム 牧野武彦 監訳 2009 『英語系諸言語』三省堂
ミルロイ、ジェームズ/レズリー・ミルロイ 青木克憲訳 1988 『ことばの権力―規範主義と標準語についての研究』南
雲堂
安田敏朗(やすだ・としあき) 2006 『辞書の政治学―ことばの規範とはなにか』平凡社
ラミス、ダグラス 1976 『イデオロギーとしての英会話』晶文社
練習問題
18. レポートについて。ある価値観を前提にしたレポート課題がでることがあります。たとえば、「多文化共生のために
必要なこと」というようなテーマです。ここでは「多文化共生」が理想であることが前提にされています。こうい
ったテーマは、「教員がよろこびそうな」ことをならべるという自体をまねくのではないでしょうか。自分の意見
を論じるというよりは、そこで想定されている「模範解答」をかくということに、なっていないでしょうか。そう
した課題に、意味があるのでしょうか。そして、それでは、どうしたらいいのだろうか。
98
感想、疑問、苦情の紹介
―――
本日のプリントの4頁めの「体験があるほどレポートが書き易い」ということについて、先生は「体験がない人というの
はいるんでしょうか」とおっしゃっているが、ささいな体験を体験ととらえるかどうかは個人差があると思う。それを
体験があるのが『普通』という対応をするのは、仮にもこの授業において、どうなのだろうか。興味あることと経験が
あることが違う人もいるだろうし、この授業は全体的に、いわゆる『少数派』に対する知識、経験が少ない人を冷遇し
ている、と感じることがたまにある。P.S. 私は冷遇されている側ではないので、これは感情的な私怨ではないのであし
からず。
【あべのコメント:わたしは、ふだん注目しないことに注目しようというスタンスでやっています。そこで、少数派にス
ポットライトをあてることになります。ただ、いちばん重要な論点は「社会のありかた」です。だれでも関心をもてるよ
うに工夫をこらしているつもりですが、「知識、経験が少ない人を冷遇している」と感じることがあるというのであれ
ば、まだまだ改善の余地があるということでしょうね。んー。がんばります。】
―――
ウェブアクセシビリティのところを読んで、高校のある先生のことを思い出しました。その先生は若い頃、生徒がわかり
やすいように、と沢山の色のチョークを使って黒板に書いていたそうですが、ある日1人の男子生徒から、「自分は赤緑
色盲だから、時々文字が読めないんです。」と何気ないことのように言われたそうです。以来、白と黄色のチョークだけ
を使い続けている、と言う定年間近の先生に、心動かされました。時代が変わっても、できるだけ沢山の人の目線にな
って、やさしい環境をつくるということは大切だな、と改めて思いました。
―――
ウェブアクセシビリティについて、ただ単にどんな人でも見やすいウェブページ、のことではなくて、その人に合わせて
設定を変えた時でも見やすいウェブページ、ということに考えさせられた。ウェブページの作成者で、そこまでたくさん
考えて作っている人は少ないだろうなあと思った。
―――
分かちがきやフォントで分かりやすくなる、というのは、自分でも見にくいなーとか、区切りがわからないなーと思う
ことがあるのは納得した。特に学科の授業でくずし字(行書体がさらにうねうねしてつながったようなの)を見ると、
変な魔術の呪文みたいにしかならないし、何とか頑張って「はなすなり」などひらがなにしても、改行も。も、もない
ので、「∼は、為す成り」なのか「話す成り」なのか「離す成り」なのかが分からず、とり違えて意味が全く違うものに
なってしまう。そこで思ったが、例えば分かち書きをしたり、やさしい日本語でかいたり、MSゴシック体などを使って
も、識字障害の程度によっては全くわからなかったり、練習しても読めなかったりするのではないだろうか。そういう
時に役立つのは音声や音声つきの映像などが一番なのではないか。今は幸い技術も進んでいるし、そういったものを完
備するよう志すことが、一番の近道ではないか、と思った。
―――
分かち書きについて。確かに日本語は単語などで区切りがなく、長く文章が続いた時に特に、とても理解しにくいこと
ばだと思いました。普段日本語を使用している私でも、単語の区切りを間違うことがあるのに、日本語に慣れていない
人はさらに難しいでしょう。よく文章について「句読点までが長い文章はよくない」と言われるけれど、読字障害や外
国の人々にとっても配慮不足であるという面もあるのではないかと思いました。
小学校の先生について。授業で見た映像の、講演の中で話していた先生、講演者の先生の小学生時代に、文字を理解で
きず行動ができなかったことをしかった先生について。私や読字障害に普段ふれることのない人たちは、文字が理解で
きない人がいるのだとは思わないのであろうと思います。小学校だと、障害なのか、やる気がないのか見分けがつきに
くく、そういった障害への理解と対処が必要なのだと思います。
―――
読みやすさの動画を見て思ったのですが、漢字も文章を読みやすくするものですよね。画数が多かったり形が多かった
りで疎まれることもあるけれど、全部ひらがなだと読みにくいのです。効果的なところだけ使うのが一番ですかね。
―――
テレビを見るとき、私は出せるものはほぼ全て字幕を出しています。アニメなど展開のはやいものはよく聞きのがしてし
まうからです。字幕が出せるのは大変ありがたい機能なのですが、文字が画面にかぶり、大事なところが見えないこと
がよくあります。文字を出す位置や大きさが選べたらいいなと思います。
―――
…前略…文字の意味が分からないとか読めないっていうのは、イコールで目が見えないとか知的機能障害がある(私が
見て明らかにそうだと分かる人たち)とか、そういうイメージしかありませんでした。…後略…
―――
99
小学校の時は、国語の授業でよく音読をしていたのですが、区切りがわからなくて変な日本語になり、笑われてしまっ
たことを思いだしました。
―――
DAISY図書は初めて体験しました。人が読みあげているものなら問題ありませんが、機械の音声だとイントネーション
がおかしかったりして聞きづらいということはないんでしょうか。 機械 というとどうしてもそのあたりに疑問を感じま
す。
【あべのコメント:利用者のなかには、不必要な感情がこめられていないから合成音声のほうがいいという人もいま
す。基本的に、音訳では音訳者の感情をこめてはいけないとされています。それでも、合成音声のほうがいいという人も
いるわけですね。合成音声は、なれるまで違和感があるでしょう。機械ですから、よみまちがえもあります。逆に、機械
だからこそ、まちがわないこともあります。よしあしですね。対面朗読の利点は、その場で質問できることです。】
―――
マルチメディアデイジー、とても便利なものだと思います!! 先生が言ったように語学テキストで導入してくれたらどんな
に勉強しやすいかと思います。私は語学がすごく苦手でとくにしゃべることがだめです。ききとろうとしても、速くてな
かなかできません。音声のはやさまでもかえることのできるマルチメディアデイジーは、私にとってとても魅力的な技術
です!
―――
練習問題16:ケータイ電話、スマートフォンについて
ケータイやスマートフォンは、GPSや地図が便利で、たすかるというコメントが複数ありました。「わからないことを
すぐに調べられる」という点も複数の人が指摘していました。
―――
わたしは、ガラケー(携帯電話)なんですが、みんなスマホで時代におくれている感をすごく感じます。…後略…
―――
正直いろいろ機能がついて使える人には便利だと思いますが、全く意味のわからない人にとってはそのような話になっ
たときについていけなくて困るしかないです。
―――
ケータイが手元にあれば、緊急事態とか急用があった時に、すぐに一報を入れることができる。これは良いことのよう
に思う。だが、誰でもケータイを持っていて(使えて)当然という風潮は困る。(少し問題とはズレるが) 私は大学に
入るまでケータイを持っていなかったが(しかも往々にして不便していなかった)、高3の時、学校祭関係の連絡を円滑
に回せることを意図してか、ある子がクラスの子の連絡先(正確にはケータイの番号ないしアドレス)を聞いて回ってい
た。皆持っていて当然という空気に呑まれた瞬間だったが、あれには困らされた。(パソコンについても同じことが言
えると思う。ワープロ等々でレポートは作成しろと指定されたり、連絡はユニパで流しますとか、大学のシステムとかは
パソコンを持っていない ないし 使えない人には優しくない)
―――
数ヶ月前にスマホに変えましたが、未だにフリック操作?が苦手です。しょっちゅう押し間違えます。以前、ニュースか
なにかで、高齢者用のスマホ講座をやっているのを見ました。お年寄りがスマホを使いこなすことができるのかな?と
思いましたが、お年寄りにとってスマホは押すところが大きかったりなど、意外と使いやすいようで驚きました。
―――
いつでも連絡がとれるというのは便利だと思いますが、他の人も自分と同様な使い方をしていると思っている人が多い
ので人間関係に問題がでてくることがありました。私はメールは事務的なことにしか使わないし、ケータイをチェック
することも少ないので、日常的なことをメールし、すぐにメールで返信するタイプの子には嫌われているのかと悲しい思
いをさせたことがあります。
―――
迷子になった時に連絡がとりあえたことは良かったと感じました。反対に困ったことは、あまりにもケータイなどが普
及しすぎて、公衆電話がほとんど姿を消してしまったことです。ケータイを忘れてしまった時に、必要な連絡がとれず、
非常に困りました。
―――
ケータイしか持っていないけど、ケータイは便利。ゲームとかでひまつぶしできるし、わからないこともすぐに検索でき
る。でも、たまに、みんながラインで会話して、自分だけ参加できないときはさみしい時もある。
100
【あべのコメント:スマホをつかっている学生のあいだでは、ライン(LINE)というアプリがかなり流行しているよう
ですね。わたしの周囲では、あいかわらずスカイプが人気です。】
―――
ケータイやスマホがあってよかったことは、急に暇つぶしをしなければいけなくなった時でも音楽を聴いたりネットを
したり、できること。困ったことは、依存をする人が多いことだと思う。友人同士で一緒にいても、そこには会話がな
く、お互いにケータイをいじっている光景をよく目にする。いくら便利な物でも、人同士の関わりを防げるようではい
けないと思う。
―――
練習問題17:カタカナ語、外来語について
世界史の固有名詞が大変だったというコメントが複数ありました。
―――
私はパソコンの操作が苦手で、分からないところをインターネットで調べることがあります。しかし、解決方法を見て
も、あまりよく知らない用語ばかり使われていて、解決方法が提示されているのにもかかわらず、結局何もできなかっ
た、ということがありました。私の勉強不足もいけなかったのですが、そのような言葉の羅列をみせられても全ての人
が理解できるわけではないだろうし、不便だなと思います。
―――
カタカナ語が多用してあると、意味が分からなくて困ったことがあります。普通に日本語があれば日本語で書いてもらい
たいなと思った経験はかなりあります。例:責任→レスポンシビリティ(普通に責任って書けよ!って思ったことがあり
ます)
―――
近所のお年寄りと会話する機会があったときに、色々なはなしをしたけど、私が カタカナ の言葉をたくさんつかってし
まって、おばあさんが 横文字の言葉が多いね と途中でいわれて、気がついて、なるべく使わないようにしたけど、言わ
れるまで、会話が成り立っていないことに気がつかなかった。楽しくおはなししたかったけど、おばあさんにとっては
楽しくなかったと思う。
―――
おまけ。2007年にブログにかいた文章です。知的障害者の施設で仕事をしていたときのことです。排他的な「わたし
たち」も登場します。
「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/2f1b48a4a3e7f8de60ce6eea5d4c47e0
このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあ
と。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴す
る感動…。
福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。
印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけ
ど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは
ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。
その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれ
ど、ひととのコミュニケーションは だいすきなんです。けれども、それは自分が満足できれば それでいいという、あく
まで一方通行が基本方針となっています。ひとからの指示が きけない、わからないのではないけれども、たとえば だき
つかれたりすると、おそらく いやがって おいはらうであろうということで、つまりは自分のテリトリーをまもって生活
している。けれども かまってほしくて いちいち ひとのところまで はしっていって、「だめ?」と きいて「だめ」とか
いわせようとする。
101
そういう性格が、全部ひっくるめて わたしは すきなのですが、そのひとの人間性が あまり まだ みえていないひとにと
っては、わかれの あいさつをかるく ながされるのは、さみしいものでしょう。
自閉症はコミュニケーションに障害があると いわれます。うまく他人とコミュニケーションが とれないということで、
ひとつには他人の気もちというものが理解できないということが あるわけです。他人に「感情」があるというのが想像
できないというか。
自閉症は孤立症ではありません。たしかに孤立傾向のつよい ひとも いますが、それは自閉症のひとつの類型であって、
すべてではありません。ひととの かかわりが、かなり すきなひとも おおいのです。ただ、その かかわりかたが、「奇
妙にみえる」ということです。
自閉症は病気じゃないと いわれることがあります。ですが、わたしの かんがえでは、自閉症だけが病気ではないのでは
なくて、なにひとつとして、病気など存在しないのです。かぜも、白血病も、ダウン症も、自閉症も、心臓病も すべ
て、生物として、人間として あたりまえのことであって、なにか特別なことではない。ただ、なにか目的があって、病
気と病気ではない状態が区別されることがあり、それは それぞれの文脈において正当性があり、あるいは不当な区別な
のであって、なにかを病気だとすることも、病気でないことも、それぞれの観点と目的に即したもので、相対的な議論
です。
ひだりききが障害でないならば、視覚障害も知的障害も障害などではありません。逆に、性同一性障害を障害とするな
らば、ひだりききも色盲も学習障害も障害として さしつかえありません。たんに身体的/知的マイノリティを便宜とし
て障害と よんでいるに すぎないのですから。
自閉症が病気であろうと、なかろうと自閉者と非自閉者には ちがいが あります。そのちがいを把握することこそが、自
分勝手で一方的なコミュニケーションをしないために 必要なことなのです。
自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが あ
りました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。
そして、しばらくして気づいたのです。なぜ、わたしは「自分勝手だ」と感じたのでしょうか。それは、わたしが この
ように接したら、このように反応してほしいと想定していたからに ほかなりませんでした。このようなとき、ひとは
「ふつう」このように反応するものだし、それが あたりまえだ。そうしないのは勝手だと、ごーまんにも わたしは か
んがえていたのです。
そこで わたしのあたまは ひっくりかえりました。おお、なんて わたしは自分勝手なコミュニケーションをしていたのだ
ろうかと。文化人類学の用語でいえば、自文化中心主義に とらわれていたのです。わたしの常識は、自閉者の非常識で
あり、わたしの ものさしを、身勝手にも おしつけていたのです。
もちろん、わたしは なにかを物理的に強要したわけではなくて、わたしのあたまのなかでの判断/評価を勝手に くだし
ていたということに すぎません。とにかくも、わたしは自閉者の世界に乱入して、自閉者の論理をおとしめてしまった
のです。
ということはですよ!!!!!
「あのひとは勝手だ」。
もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだ
っていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?
102
わたしは、「漢字という障害」という論文で、つぎのように かいた。
知的障害者のなかには、ことばでコミュニケーションをとること自体に困難をもつひともいる。コミュニケーシ
ョンとは、相互行為によってなりたつものである。それゆえ、その「困難」の原因を一方だけに課すことはでき
ない。いうなれば関係性の問題である(『ことば/権力/差別』151ページ)
おお、なんと しらじらしいことでしょう。自分でも よく わかっていないことを、あたかも自分は「理解ある」人間で
あるように みせかけて「論じて」います。
まあ、わかる、というのは、なにか失敗してみないと肉体的には わかりえないのかもしれません。
さて、まとめます。
身勝手なコミュニケーションとは、片方だけが身勝手であることによって成立するのではありません。双方ともが ひと
しく身勝手で、自分さえ よければ よいという態度にもとづいて行動していることによって うまれるのです。そして、さ
らに大事なことは、わたしたち人間すべてが、いつも、どこでも身勝手に いきている、ということです。
ひとの社会化というのは、そういうことであり、生活習慣や文化というものもまた、そういうことなのでしょう。なに
が身勝手かというのは、ひとそれぞれで相対的であり、ひとはみな ひとしく身勝手だということです。ただ、「身勝
手」のありかたが ちがうというだけのことなのです。
自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを
発見するときなのです。それをみのがしつづけるかぎり、うまくいかないコミュニケーションの責任を、片方だけに お
しつけつづけてしまうのです。
その片方とは、いつも、少数者、社会的弱者では なかったでしょうか。
―――
おすすめ映画
『殯(もがり)の森』:認知症のおじいさんと新人介護者。
『モーツァルトとクジラ』:アスペルガー症候群のカップル。「ふつう」ってなんだろう。
『青い鳥』:いじめと、その後の「教育」について。
『山の郵便配達』:手紙。郵便配達。そのふたつの原点をみるような。
『達磨よ、遊ぼう!』:ただ、うけいれるということ。案外、にているということ。
『ネル』:「ホンモノの野生児だ。」「彼女は野生児じゃない。こどもじゃない。」
『めぐりあう時間たち』:選択について。
103
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第14回「ユニバーサルデザインという理念/まとめ」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
ユニバーサルデザインとは
ユニバーサルデザインを提唱したのはアメリカの「建築家であり製品デザイナー」のロン・メイスである(かわうち
2006:97)。ユニバーサルデザインは「問題を社会的なアプローチで解決しようと考えており、いわゆる『社会モデ
ル』をベースにした考え方である」(98ページ)。川内美彦(かわうち・よしひこ)はロン・メイスが提唱した「可能
な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」(98ページ)という視点をつぎのように説明している。
UD[ユニバーサルデザインのこと―引用者注]はこれまで省みられることのなかったニーズをも取り込んで、
よりよいものづくりを行なっていこうとする考え方だが、一方で、すべての人に使いやすいなんて理想論であっ
て現実にはありえないという批判もある。人のニーズは非常に多様だからこの批判は正しいといえるが、UDは
「すべての人に使いやすい」が不可能なことであることをよく承知しているので、それゆえ定義の中に「可能な
限り最大限に」と述べているのである。
「すべての人に」はゴールとして掲げるとしても、そこには行き着けないことはわかっている。しかし行き着け
ないとしてもできるだけそのゴールを目指していくことは重要なことであり、その姿勢を「可能な限り最大限
に」と言っているのである(101ページ)。
当然のことながら、人間やニーズの多様性に「一つのやりかたで解決する」のは不可能である(107ページ)。そのた
めユニバーサルデザインは、複数の「よりよいデザイン」を用意する必要がある。
ユニバーサルデザインをおぎなう「ユニバーサルサービス」
通訳や介助/介護の必要性をみてもわかるように、いくら社会設計を改善してもすべての困難や障害が解消されるわけ
ではない。人的支援も不可欠である。
ここで、ユニバーサルデザインをおぎなう「ユニバーサルサービス」という視点に注目したい。井上滋樹(いのうえ・
しげき)は『ユニバーサルサービス』という本でつぎのようにまとめている。
ユニバーサルデザイン(UD)は、多くの自治体や企業で進められているが、建築物や商品などのハードの部分
でないソフトの部分、すなわち「ユニバーサルサービス」を同時にすすめていく必要がある。
ユニバーサル(Universal)とは、「普遍的な」、「万人共通の」、「あるいは一般のために」といった意味
だ。子どもからお年寄り、病を患っている人、障害のある人など、年齢や性別、障害の有無にかかわらず、あら
ゆる人の立場に立って、公平な情報とサービスを提供するのがユニバーサルサービスである。つまりユニバーサ
ルデザインのハード面だけでない、コミュニケーションや人的サポートなどのソフトの部分を担うのがユニバー
サルサービスといえる(いのうえ2004:17)。
ほかにも『ユニバーサル・サービスのデザイン』という本でユニバーサルサービスが議論されている(おおさわ ほか
編2004)。大沢真理(おおさわ・まり)はこの本の「はしがき」でつぎのように解説している。
人が、生まれ、育ち、学び、働き、憩い、育み、支えあい、看とり、そして生をまっとうするうえで、不可欠
なサービスが、誰にも利用可能な条件で、どの地域でも公平かつ安定的に提供されることが、本書のユニバーサ
ル・サービスの趣旨である。年齢や性別、身体の状況などによらず誰もが安全に使いやすく、わかりやすいよう
に設計するという意味のユニバーサル・デザインを、サービスにあてはめたものといってよい(iii)。
たとえば、社会生活に必要となる情報を、個々人のおかれた条件に関係なく、だれでも利用できるようにサービスす
ることを「情報のユニバーサルサービス」とよぶことができる。情報のユニバーサルサービスを実施している公共機関の
ひとつに公共図書館がある(やまうち2008、あべ2010)。
東京の港区立図書館のサイトには「ユニバーサルサービス」という利用案内のページがある(http://
www.lib.city.minato.tokyo.jp/j/guide5.html)。この「ユニバーサルサービス」という表現は「図書館利用に障害のあ
る人々へのサービス」のニュアンスを的確にあわらしているといえる。
104
全国どこでも利用できる―「ユニバーサルサービス料」の意味
電話料金の領収書をみると「ユニバーサルサービス料」という記載がある。5円ほどの料金が課金されている。これは
なんだろうか。NTTドコモの「ユニバーサルサービス制度」というページをみてみよう。
ユニバーサルサービスとは、電気通信事業法7条により、「あまねく日本全国で提供が確保されるべき」と規定
されているサービスです。加入電話の基本料や、社会生活上の安全および戸外での最低限の通信手段を確保する
観点から設置されている第一種公衆電話、さらに特例料金となる離島通話および110番・118番・119番の緊急
通報がこれに該当します(http://www.nttdocomo.co.jp/corporate/disclosure/universal_service/)。
電話は情報、コミュニケーションをやりとりするための重要な社会基盤(インフラ)であり、どの地域で生活していて
もサービスが利用できるようにする必要がある。おなじ理由で、郵便局は全国どこにでもある。「過疎の村だから郵便
局は必要ない」ということにはならない。むしろ、郵便局が重要な公共機関として機能する。
たとえば、行政と郵便局が連携して郵便局員が独居老人を訪問するシステムがある。ひまわりシステムという(あべ
2010:324-326)。最近ではコンビニが地域の重要なインフラになりつつある。しかしコンビニは商売のためのもので
あり、ないところにはない。どこにでもあるわけではない。
いつでも、どこからでも、電話で相談―よりそいホットライン
前回、コミュニケーションにおいて重要なこととして、相手のはなしをきくこと、「いやだ」と「たすけて」が言える
ことの3つをあげた。気軽に「たすけて」と言えるための社会資源に、電話相談がある。
電話相談には「いのちの電話」をはじめ、性暴力、配偶者からの暴力についての相談など、さまざまなものがある。
ここでは、社会的包摂サポートセンターによる「よりそいホットライン」を紹介する(http://279338.jp/yorisoi/)。
社会的包摂サポートセンターのサイトの「代表理事ご挨拶」というページをみてみよう(http://279338.jp/
message.html)。代表理事の熊坂義裕(くまさか・よしひろ)はつぎのように説明している。
昨年[2011年のこと―あべ注]の10月11日に、仙台で1回線だけで始めた「よりそいホットライン」です
が、3月11日から国の補助金をいただいて、全国で受け付ける体制が整いました。
「よりそいホットラン」は「どんな人のどんな悩みでも」受け付けて、一緒に解決を考える24時間の無料の
電話相談です。いままで、このような形の電話相談はありませんでした。
今までは、「どのようなことを相談したいか」によって、窓口が分かれていて、相談者が、「どこに相談した
らいいか」知らなければなりませんでした。「よりそいホットライン」は、何でも相談ですから、「どこに相談
したらいいか分からない」方でも大丈夫です。相談員がちょっとお時間をいただいたとしても、一緒に「どのよ
うにしたらいいか」を考えていきます。そのために弁護士の方など専門領域の方のバックアップもお願いしてい
ます。
悩みは、決して単独ではありません。皆さん複合した悩みを抱えておられます。私たちは、電話をかけてくだ
さった方に「よりそって」、一つ一つ問題を解きほぐし、まずできることから一歩すすめるお手伝いをしたいと
考えています。
仙台でスタートしたとき、相談者の方から「相談員が優しい」というお言葉をいただきました。相談者の方の
孤独を感じました。「社会的排除」は本当に進んでいます。「よりそいホットライン」が「排除から包摂へ」、
誰もが「居場所」と「出番」を持てる社会となる役割を担えれば、こんなに幸せなことはありません。…後略…
電話番号は、0120-279-338。24時間対応している。よりそいホットラインは、多言語に対応しており、現在のとこ
ろ「英語、中国語、韓国・朝鮮語、タガログ語、タイ語、スペイン語、ポルトガル語」に対応している。
現在、この社会で生きづらさを感じている人はたくさんいる。そうした人たちが「たすけて」と言える仕組みがある
ことは、ひじょうに重要なことである。
民主的な決定プロセスの重要性―意見を尊重するということ
田村太郎(たむら・たろう)は「多文化共生とユニバーサルデザイン」という論考で、つぎのように論じている。
105
多文化共生はプロセスである。これで完成というものはない。ハードからソフトへの広がりを見せる「ユニバ
ーサルデザイン」もまたプロセスであろう。施策のメニューそのものより、その施策がどのように実施されるの
かが、大きな意味を持つ(たむら2002:64)。
ここで、近年の障害者運動において重要なスローガンとして提唱されている「私たちぬきで私たちのことは何も決める
な( Nothing About Us Without Us )」という理念を紹介したい。これは、これまで障害者施策が当事者の視点ぬき
で決定されてきたことに対する抗議の意味をこめている。そして、政治的決定のプロセスに障害者が参与することの重要
性をうったえている。
もし、だれもが生活しやすい社会というものをめざすのならば、その「だれもが」の中身が問われる。人間、生活文
化、生活環境の多様性をどれだけ把握しているのか。政治構想は、その社会認識によって規定される。そして、政治家だ
けの力では社会の多様性を把握しきることは困難である。そのため、さまざまな少数派の意見をきく場を設定する必要
がでてくる。たとえば、「障がい者制度改革推進本部」や「川崎市外国人市民代表者会議」がそれにあたる。
障がい者制度改革推進本部は、障害者権利条約に批准するにあたって事前に国内法を整備する必要があるため、内閣
府に設置されたものである。
自分とは関係のないところで自分に関する法制度が決定され施行されていると感じられるなら、政治のうごきに関心
をもちにくい。自分たちの意見が尊重され、議論に反映されることが実感できれば、政治に興味をもてるようになる。
それでこそ、人は社会の当事者になることができる。
民主主義ということは、「わたしは無力ではない」と実感できるということだ(ラミス2004)。
もちろん、さまざまな意見に耳をかたむけていれば、衝突しあう意見の存在に気づくこともある。尊重するというこ
とは、口でいうほど気楽なものではない。しかし、そのような衝突があることをきちんと把握したうえで、ものごとを決
定していく必要があるのではないか。
まとめ―ナショナリズムをこえて
なにごとであれ、「おなじところ」「ちがうところ」「にているところ」がある。そのどれに注目するかによって、
同一性を強調したり、ちがいを強調したりする。
人が「文化」をかたるとき、しばしば内部の同一性を強調し、外部の異質性を強調してしまう。そのような議論は同
化主義的で排外主義的な文化論である。「グローバルな共生」という視点から多文化社会を論じるのであれば、ナショ
ナリズムをこえた文化論がもとめられる。それはつまり、境界線を絶対視しない、固定的にとらえないということだ。
そこで第一に、文化を相対的にとらえることが必要である。そして第二に、人権など、文化以外の視点をとりいれる
必要がある。その両方が重要なのだ。どちらか一方だけでは不十分である。
文化を相対的にとらえるということは、「別の世界は可能だ」ということだ。人権の視点をとりいれるのは、「より
よい世界を想像する」ということだ。
文化という概念は、意義ぶかいところもあり、危険なところもある。「文化」という視点がコミュニケーションをひ
らくものになるのか、とじるものになるのか。それは、わたしたち次第である。文化という概念は手段であって、目的
ではない。「多文化社会」という認識にたって、どのような世界を展望するのか。その先にどのような将来像をむすぶこ
とができるのか。それはつまり、「わたしはどのような社会で生活したいか」ということだ。
参考文献
あべ やすし 2010 「識字のユニバーサルデザイン」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院、
284-342
井上滋樹(いのうえ・しげき) 2004 『ユニバーサルサービス』岩波書店
大沢真理(おおさわ・まり)編 2004 『ユニバーサル・サービスのデザイン』有斐閣
川内美彦(かわうち・よしひこ) 2006 「ユニバーサルデザインについて」村田純一(むらた・じゅんいち)編『共生
のための技術哲学―「ユニバーサルデザイン」という思想』未来社、96-109
古瀬敏(こせ・さとし) 1998 『ユニバーサルデザインとはなにか―バリアフリーを超えて』都市文化社
田村太郎(たむら・たろう) 2002 「多文化共生とユニバーサルデザイン」波田永実(はた・ながみ)編『自治体政策
とユニバーサルデザイン』学陽書房、29-75
山内薫(やまうち・かおる) 2008 『本と人をつなぐ図書館員―障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』読書工房
ユニバーサルデザイン研究会編 2008 『人間工学とユニバーサルデザイン』日本工業出版
ラミス、ダグラス 2004 『私たちは経済成長がなければ豊かになれないのだろうか』平凡社ライブラリー
106
練習問題
19. もしあなたが「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業を担当するとすれば、どのような内容のテーマ
をとりあげますか? どんなことに重点をおきたいですか? また、あべによる「多文化社会におけるコミュニケー
ション」に不足していたのは、どのようなことですか? よかった点、よくなかった点などを指摘してください。
感想、疑問、苦情の紹介
―――
実体験のレポートが良い評価を受けましたが、文献などで論理的に述べられていることと比べ、実体験はその内容につ
いて根拠がないと思うので私は記述するのを控えていたのですが、どう実体験をレポートに組み込むのが良いレポートに
なりますか。
【あべのコメント:いいレポートは、あくまで論理的に記述したものです。なにか実体験をふまえてレポートをかいてい
た人は、文献を参照しながら、きちんと論理的に論述していました。だから、いい評価にしました。「実体験を論述し
たから」ではありません。実体験がある人が有利になるのは、はっきりした問題意識があるということ、そして論理的
だということです。なぜ論理的になるかというと、たとえば周囲から非論理的なことばかり指摘されていると、その主
張のおかしさに気づくことになり、なにが、どのようにおかしいのか、わかるようになるからです。偏見というのは論
理的ではないからです。自分の失敗を教訓とする場合も、失敗の原因、問題点を論理的にかんがえることになります。】
―――
「バカ」の意味も、愛情と非難と、対極に位置するイミがあるんですね…。先生の「バカバカ」が愛らしかったです
(笑) 他にも色々知りたいと思いました。すごい国語辞典ですね(笑)
【あべのコメント:図書館で『新明解国語辞典』の版ごとのちがいを比較するもよし、『新解さんの謎』をよんで爆笑
するもよし。たのしみかたは、いろいろあります。】
―――
動物園の辞書の言いまわしがとてもおもしろかったです。分からない語があり、辞書で調べても、ほとんどの辞書は堅
い言葉で書いてあり、いまいち意味がつかめません。でも、あのように私たちの日常生活に近い感じで書かれていると
分かりやすく、頭に残るなと思いました。
―――
言語の規範について、私も大学に入ってから疑問に思うことが度々あります。大学は高校の時と違って県外から入学して
くる学生もたくさんいるので、様々な方言が飛びかっています。そこでいわゆる ∼弁 と呼ばれる方言を喋っている人々
に対して、県内出身の人々は なまっている と言って少しばかにしているところがあります。私は高校入学まで県外に住
んでいたので、私からすれば愛知県民の人たちも「尾張弁」「三河弁」といった方言を使っていてなまっているように思
います。ここで注目すべき問題は先生がおっしゃっていたような「力関係」であると思います。愛知県では名古屋弁が力
をもっているし、他県にいけばそこの方言が「スタンダード」になり力をもちます。これは仕方のないことなのかもしれ
ませんが、方言を使うことによって、相手を批判したり馬鹿にするようなことは絶対にあってはならないし、そうする
ことがコミュニケーションの妨げの一因にもなると思います。
―――
1年生のときの英語の授業で、外国人の先生に How are you? って聞かれて、みんなが I m fine. って答えていたら、先
生がもうその答えはうんざりだと言っていました。そしたらみんなが I m sleepy. とか I m hungry. とか言い出したけ
ど、先生はそっちのほうが納得していて、おもしろかったです。確かに、元気じゃなくても I m fine. って言うのが普通
だったし、中学校で英語の授業が始まる前に先生が How are you? って聞いて、「I m fine thank you, and you?」
と、生徒全員で答えてから着席するっていうふうになってたのもおかしかったなと思いました。
―――
「∼力」「∼能力」について。近年、「∼力」という新しい言葉が増えているように思う。例えば「女子力」とか。で
も、それが実際にどのような能力かを明確に説明できる人は少ないのではないだろうか。これは一種の流行のようなも
のだと思う。そして、それがどうして流行するかというと、目標を達成するのに自分には足りないとおもわれることに
対する不安を、「∼力」と名前を付けることで、明確になったと思う(思い込む)ことで解消したいからではないだろ
うか。
【あべのコメント:重要な指摘ですね。不安をあおることで消費をあおる、マーケティング戦略といえるかも。】
―――
107
自分勝手 これは悪いことのように思えますが、自分も同じように振舞ってしまっているので、他人のことをとやかく
言える立場ではないなと感じました。でも「こう言ったんだから、こうやって返してほしい」という期待を持たないよう
にするにはとても訓練が必要な気がします。だから、自分が思ったことと違う反応が返ってきたとしても、相手の考える
ことを受け入れることを前提にするのが良いと思います。相手が行きすぎた言動や自分の領域にふみこんできた場合には
「No」と言えるように必要があると思いました。
―――
最近よくニュースで目にする大津市の中学生のいじめ自殺問題。非常に残念な事件だと感じているし、中学校側、警察
側、市役所側、教育委員会側、全ての対応に悲しくなっています。話を戻しますがこの中学生は「いやだ」と「助け
て」が言えなかったのでしょうか。この2つがコミュニケーションで大切な事であるならば自殺してしまった少年はコミ
ュニケーションが下手だったという悲しい結果になってしまわないでしょうか。いじめられた人間は「いやだ」や「た
すけて」はなかなか言いづらい点も多いでしょうが、コミュニケーションは少し難しいと感じました。
【あべのコメント:「いやだ」と言えるようになりなさい、ということではないです。個人にむけてできることは、「い
やだと言ってもいいんだよ」というメッセージをつたえることだけです。あとは、「いやだ」と言えるような状況(環
境)をつくること、配慮することです。「いやだ」と言えるかどうかを、「能力」の視点でとらえてしまうと被害者バッ
シングになってしまいます。おもわず、声にだせず「いやだ」と言えなかった。そのことをせめるべきではない。そこで
必要なのは、「しんどかったね」「つらかったね」と、気もちを共有することでしょう。「あなたのせいじゃない」
と、はげますことでしょう。大津市の件でいえば、「たすけて」というメッセージは発していたようですね。それを、
うけとめる人がいなかった。無視してしまった。】
―――
今回のレジメの、先生が知的障害者の施設で働かれていた時の文章がとても心に響きました。私は、知的障害のある子
どもと遊ぶサークルに入っています。私の担当の子どもは自閉症の男の子で、電車と自動ドアが好きなので、他の子ども
が部屋の中で遊んでいても、その子は出入口(自動ドアがあって、そこからは電車が見えます)から離れようとしませ
ん。他の子どもは、毎回学生が準備するゲームや工作に取り組みますが、その子はペンや教材を渡しても投げてしまい
ます。私を含め、その子担当の学生はいつもその子に少しでも部屋の中に入ってもらい、ゲームや工作に参加してもらう
ことを目標としてきました。しかし、これはその子に対する押しつけでもあったんだと気付かされました。
出入口から離れてくれないけれど、電車が通った時や自動ドアが動いた時は、私の手を握って、とても嬉しそうにこっち
を見て笑ってくれます。きっと、それがその子なりのコミュニケーションであり、皆と同じように部屋の中でゲームなど
に参加する、一緒に作業をするというのは学生側の勝手なコミュニケーションだったのかなと思いました。
これからは、 皆と同じように∼してほしい ではなく、その子なりのコミュニケーションをもっと理解して接していきた
いと思いました。
【あべのコメント:なんだか情景が目にうかぶようです。むかしをおもいだして、じーんとしました。なにかを期待する
ことは、わるいことではないはずです。ただ、「期待」が支配欲になってしまっていることがあります。そして、そうい
うことは、ほんとうによくあります。大事なのは、その場を共有する、いっしょにいるということでしょう。その人の
ことを気にかけているからこそ、それが相手につたわっているからこそ、「手を握って、とても嬉しそうにこっちを見て
笑ってくれ」るんだとおもいます。自信をもってください。】
―――
…前略…授業で登場したコミュニケーション障害といわれる子の話も、臨機応変に変えられる側(この話の場合医師)
がコミュニケーション力を問われるのである。この授業を受けて最近思うのは、「障害をもつ子」と言われる人は、そ
れについての能力を問われる必要のない人、ということになるんじゃないかなと思いました。臨機応変に対応できない
側とコミュニケーションをとるために、変えられる側が変化させる能力。それがコミュニケーション力(?)
【あべのコメント:「障害をもつ子」と言われる人も、日々変化しています。成長しています。その人に基準をおいて評
価することもできるはずです。たとえば、コミュニケーションがうまくいくようになったとして、その理由は、本人が成
長したからでもあるでしょう。】
―――
私も以前から就活生に対して「コミュニケーション能力」が必要だと言われているのに疑問を感じていました。そう言っ
ている人たちには、具体的に何がどうして、何で必要なのか説明してほしいです。
―――
108
コミュニケーション能力について、私は自分が内向的で人と話すことをあまり得意としない人間だと思っていますが、ア
ルバイトでは接客をしており、その時には様々なお客様と話すことに何の緊張もすることなく堂々と話せます。この違い
が、まさに「他者や場所との関係によって変わってくる」ということなのかな、と納得しました。
―――
積極的が良いとか消極的が悪いとか評価する人がいます。他者とコミュニケーションを積極的にとることを良しとされる
のはすごく差別された気がします。私は他人と話すのがあまり得意ではないですが、全くできないわけではないし、自
分と他者の間に笑いを提供する自信はあります。ただ少し消極的なだけなのにコミュニケーション不足と評価されたこと
があります。同じような立場にいるのは私だけじゃないと思います。消極的は性格だけの問題のはず。こういうふうに考
えたことがあったので今日の授業で、コミュニケーションを評価することについてきけてとても参考になりました。
―――
自称コミュ障が多くて困ります。例えば、人と話すのが苦手だからとか、初対面の人とうちとけられないからコミュ力
低いとかなんとかいう人って結構いますけど、話すだけではコミュニケーションは成り立つものでないですし、聞く事
もとても重要だと思います。話す事ばかりが注目されるのはあまりよくないと思います。
あ、そういえば、ディズニーランドは同性カップルでも結婚式が挙げられるっていう事が以前ツイッターで話題になって
いましたけど、本当にディズニーランドって夢と希望の国で、日本とは違うんだなぁと思いました。もっと日本にもこう
いう動きが増えたらいいのになと思います。
―――
「コミュニケーション能力」は他者や場所との関係によって変わってくるという点に納得しました。しかし就職活動で、
学生たちに企業が望む「コミュ力」というものは、つまりは「誰とでも」上手につき合っていける力のことを指してい
るのだと思います。他者や場所に関係なく、誰とでも、どんな場所でも上手に相手や物事と距離をとることのできる人
は「コミュ力」が高い、ということになり、そんな人を企業は採用したいと考えているのだろう、というのが私の考え
です。あとコミュニケーションにおいて重要なことは、いやだと言えること等の他に、「好きだと言えること」もいえる
と私は考えます。物事や人を好きだと言えることは、その対象を救うことにもなりえると思います。助けてといえる力を
求めるなら、他者や物事を助ける力を求めてこそ平等でニュートラルではないかと思います。
【あべのコメント:ああ、すてきですね。「好きだと言えること」。】
―――
コミュニケーション能力について、私も本当にあてはまるなと思いました。はじめから威圧的だったりこわい人には経
験上ずっとその人にはコミュニケーション能力がないと私は思われていたと思います。またはじめから話しやすい人には
そうは思われていないと思います。
―――
・「コミュニケーション障害」について。「コミュ障」という言葉を、最近よく見聞きするなあと思います。私は、「こ
の人はコミュニケーション障害だ」というように、他人について指す言葉、というよりは、「私コミュ障だからさー」
というように、自虐的に使う言葉というイメージが強いです。
・社会学を専攻していて、私もコミュニケーションや人間関係について学んでいるのですが、積極的・肯定的な表現ばか
りがコミュニケーションではないということは、普通に生活していて(普通という言葉が適切かどうか、わかりません
が)あまり気がつかないことなんだな、と思います。言葉を発することなく黙ったままでいることもコミュニケーション
の1つだということに、気がついている人は少ないのではないかと思います。(先生はコミュニケーション自体について
はあまり興味がないのですね…。)
【あべのコメント:抽象的な次元でコミュニケーション一般について論じるというのは、おもしろくないというか。そ
こになんらかの力関係があり、その関係性がいかに両者のコミュニケーションをゆがめているか、というようなことに
関心があります。平等などの「理念」や「社会」に興味があるからでしょうね。】
―――
練習問題18:レポートについて
―――
レポートについて。似たようなものだと思いますが、中学生のころ「道徳」の授業で「差別」や「平等」などといった
テーマで作文を書かなければならず、毎回「一人一人が差別をなくす努力をしなければいけないと思います。」というよ
うな定型文で締めていて嫌気が差したので、ある日良識に反するような論理展開(詳しくは忘れましたが「差別を完璧
になくすには人類が滅びるしかない」というようなもの)で書いて提出したら後日先生に呼び出されてうんざりした覚
えがあります。
―――
109
私は小学校のころから感想文や日記は先生がよろこびそうなことや道徳の教科書的なことを書いてきました。大学のレ
ポートでも特に感情的な先生のレポートにはあまり素直な自分の意見は書けません。模範解答を書くようなレポートに
意味があるのかはわかりませんが、自由に書いていいですよというレポート課題の方が楽しいですし、読む人のことをく
っきりと考えて書いていると思います。
―――
レポートに等しく言えることは、「模範解答」が存在していて、皆多かれ少なかれその「模範解答」に沿って記述する。
その方が楽だからだ。社会規範に逆らって論じようとすると、当然、そう言うに至った背景、根拠を示さなければなら
ない。「模範解答」に沿って書くと、「当たり前」のことを言う訳だから、根拠などは参考文献などに記述されている
のだ。私は、授業のレポートは学者の論文ではないので、それでいいのではないか、と思う。
―――
模範解答を書くようになっています。それは、点数が欲しいからで、それに意味があるのかは分かりません。一応そのこ
とについて考えているので少しは意味があるとは思います。ただ、先生によっては自分の考えにそわなければ、アウトに
してしまうため、それならばと模範的なものになってしまいます。僕としても、いっそ世間とは反対の考えで書いてみた
いと思ったことはありますが、そういうものはよほど良い出来じゃないと評価されないため、チャレンジできません。
あらかじめ「模範的なレポートは∼」と話したり、レポートの点数基準について話してもらえれば、少しは変わるとは
思いますが、それでも無難にしてしまうかもしれません。
―――
私もレポートを書くときに、いろいろな学者さんが今まで述べてきたような考えを参考にして、書いてしまうことが多い
のですが、様々な物事に対しての先入観というものは、このようにして浸透していくのではないかなあと思いました。
「模範解答」にならないようにするには、他の人の考えに対して、何か疑問となるようなことを見つける姿勢でいれ
ば、模範解答を受け入れただけのレポート課題にならないような気がします。
―――
「解答」があるのがあたりまえ、というのが高校までの教育で、いきなり自分の考えを論じろといわれても…となるの
かもしれない。だからこそ、他人や教室の意見に迎合した「解答」を用意するのだと想う。新しい考えをそしゃくし、
受けいれ、自分の身にすることが、「学び」だと考えるので。しかし、「解答」がない世界は、とても生きづらいと想
う。自由で、楽しくて、やりがいもあるけれど、やはり不安を感じる。
―――
レポートなどの評価で「模範解答」を書いた方が良いと考えるのは、今までの学習(特に国語)で、「模範解答」を求
められてきたからではないかと思います。人とは違う考えを好む先生もいれば、問題のない模範的な考えを好む先生もい
ました。義務教育の中で個人の考えを評価していくときに、模範的な考えが最も評価しやすく、人と違ったことを考え
たときに、評価がされないという刷り込みがなくならなければ、「模範解答」はなくならないように感じます。
―――
…〈どうしたらいいのだろうか〉 「多文化共生」への是非を問う課題にしたらよいのではないでしょうか。なぜ必要だ
と思うのか、なぜ必要ないと思うのか、学生がそれぞれの立場から意見を出すのも良いと思います。
―――
第一回目の授業が始まる前に、教員から何かを学ぶ前に、レポートを書く。または、何の文献も使用せずにレポートを
書く。そうすれば、生徒の考えのみが述べられているレポートができると思う。
【あべのコメント:オリジナルな意見というのは「あるようで、ないもの」だとおもいます。だれもが、周囲や社会の影
響をうける。教員の影響もうける。だから、ある意味で「似たりよったり」なレポートがあつまるのは当然のことなの
かもしれません。「個性」を追求したさきに、「個性的なわたし」に到達できるというものでもないでしょうし。この
授業に関していえば、授業をうけたあとのほうが、いろいろなテーマのレポートがあつまるはずだと自負しています。】
―――
課題をするために、頑張って課題内容について調べるので、知識はつくと思いますが、自分で何かを考えなきゃ、知識
をもっているだけじゃ何の意味もない! ただ、そのことについてかいてる本ではなく、体験者の話がかいてあるような
本をよめば、共感したり、なにかしら自分で思うことができると思います。
―――
模範解答を書かないと評価が悪い授業は確かにある。ジェンダー論の先生に、ジェンダーとさけぶ人の中には必要以上に
過敏になっている人がいて、区別まで差別と言う、ということを論じたら、あまり評価がよろしくなかった。先生の考
えにあった論を展開して評価を貰うのも一つの道だが、私は一方の意見だけをもとに話をするのが嫌いなので、完全に
先生方の意見におもねることはしない(と思う)。
―――
110
文献案内
さいごに、「多文化社会におけるコミュニケーション」をかんがえるために、社会学や文化人類学、社会言語学や障
害学などのおすすめ文献を紹介します。
綾屋紗月(あやや・さつき)/熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう) 2010 『つながりの作法―同じでもなく 違うで
もなく』生活人新書(NHK出版)
李清美(イ・チョンミ) 2009 『私はマイノリティ あなたは? 難病をもつ「在日」自立「障害者」』現代書館
移住労働者と連帯する全国ネットワーク編 2009 『多民族・多文化共生社会のこれから』現代人文社・大学図書
乾美樹(いぬい・みき)/中村安秀(なかむら・やすひで)編 2009 『子どもにやさしい学校―インクルーシブ教育を
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養研究センター
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岩田正美 2008 『社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣
植田晃次(うえだ・こうじ)/山下仁(やました・ひとし)編 2011 『新装版 「共生」の内実―批判的社会言語学から
の問いかけ』三元社
上野千鶴子(うえの・ちづこ)編 2005 『脱アイデンティティ』勁草書房
大野更紗(おおの・さらさ) 2012 『困ってるひと』ポプラ文庫
外国人人権法連絡会編 2010 『外国人・民族的マイノリティ人権白書2010』明石書店
河西英通(かわにし・ひでみち) 2001 『東北―つくられた異境』中公新書
金水敏(きんすい・さとし) 2003 『ヴァーチャル日本語―役割語の謎』岩波書店
グールド、J. スティーヴン 鈴木善次ほか訳 2008 『人間の測りまちがい―差別の科学史』上下、河出文庫
グロース、ノーラ エレン 佐野正信訳 1991 『みんなが手話で話した島』築地書館
サイード、エドワード W. 今沢紀子訳 1993 『オリエンタリズム』上下、平凡社ライブラリー
酒井直樹(さかい・なおき) 1996 『死産される日本語・日本人―「日本」の歴史-地政的配置』新曜社
佐倉智美(さくら・ともみ) 2006 『性同一性障害の社会学』現代書館
佐藤裕(さとう・ゆたか) 2005 『差別論―偏見理論批判』明石書店
塩川伸明(しおかわ・のぶあき) 2008 『民族とネイション―ナショナリズムという難問』岩波新書
渋谷智子(しぶや・ともこ) 2009 『コーダの世界―手話の文化と声の文化』医学書院
清水睦美(しみず・むつみ)/「すたんどばいみー」編 2009 『いちょう団地発! 外国人の子どもたちの挑戦』岩波書
店
白戸圭一(しらと・けいいち) 2011 『日本人のためのアフリカ入門』ちくま新書
杉田敦(すぎた・あつし) 2005 『境界線の政治学』岩波書店
すぎむら なおみ 2011 『エッチのまわりにあるもの―保健室の社会学』解放出版社
田中優子(たなか・ゆうこ) 2012 『グローバリゼーションの中の江戸』岩波ジュニア新書
トマス、ジェニー 浅羽亮一ほか訳 1998 『語用論入門―話し手と聞き手の相互交渉が生み出す意味』研究社出版
直野章子(なおの・あきこ) 2011 『被ばくと補償―広島、長崎、そして福島』平凡社新書
中村桃子(なかむら・ももこ) 2007 『「女ことば」はつくられる』ひつじ書房
ななころび やおき 2005 『ブエノス・ディアス、ニッポン―外国人が生きる「もうひとつのニッポン」』ラティーナ
バウワー、ローリー/ピーター・トラッドギル編 町田健 監訳 2003 『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」
をくつがえす』研究社
花崎皋平(はなさき・こうへい) 2001 『増補 アイデンティティと共生の哲学』平凡社ライブラリー
浜本満(はまもと・みつる)ほか 1994 『人類学のコモンセンス―文化人類学入門』学術図書出版社
ホブズボウム、エリック/テレンス・レンジャー編 前川啓治ほか訳 1992 『創られた伝統』紀伊国屋書店
本田由紀(ほんだ・ゆき) 2011 『軋(きし)む社会―教育・仕事・若者の現在』河出文庫
マッツァリーノ、パオロ 2007 『反社会学講座』ちくま文庫
馬渕仁(まぶち・ひとし)編 2011 『「多文化共生」は可能か―教育における実践』勁草書房
保井隆之(やすい・たかゆき) 2009 『みんなが主人公の学校―学校はみんなでつくる場所』大日本図書
好井裕明(よしい・ひろあき)編 2009 『排除と差別の社会学』有斐閣
111
「多文化社会におけるコミュニケーション」愛知県立大学(2012年度 前期)
第15回「第14回の感想紹介」あべ やすし
http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/tabunka2012/
[email protected]
「感想、疑問、苦情の紹介」について
プリントを準備するとき、よく感じていたのは、わたしの内容よりも学生のコメントのほうがおもしろいということ
でした。たぶん学生もそのように感じているだろうと想像していました。ある意味で、「四角の上に丸をふたつかいてく
ださい」とおなじようなことを提示していたといえるでしょう。つまり、人によって、これほど印象がかわってくるとい
うこと、知識や経験が多様であるということ。学生のコメントが、全体としてとても有意義な情報になるということ。
フィードバックがあるということ
コミュニケーションにおいて重要なポイントは、フィードバックがあるということです。なにかを発言しても、なにも
反応がかえってこなければ、不安になる。なにか態度をしめしてほしい。そのように感じる。介護の現場でも、相手の
表情が重要なメッセージになる。メッセージがどれだけ伝達できているか。たくさんのメッセージのうち、どこに注目
があつまるのか。気になることはたくさんあります。一方的なコミュニケーションでは不安になってしまう。だからこ
そ、反応を気にする。確認をとる。それはつまり、わたしも不安な人間のひとりということです。
感想、疑問、苦情の紹介
―――
ユニバーサルサービスという言葉を初めて聞いて、大切な観点だなと思いました。ユニバーサルデザインはこれまでに聞
いたことがあったけど、人が生きていくためには人同士のかかわりあいが不可欠だと思うので、コミュニケーションや
人的サポートに重点を置くことの意味は大きいと思います。ただ、先生のレジュメにもありましたが、国籍が同じでも家
族でも、1人として同じ人はいないので、何か1つの解決策があるわけではないということを意識しておくことはすごく
大切だなと思いました。
また、よりそいホットラインの存在を初めて知って、そういったサービスがあっても知らないことが本当に多いと思う
ので知らせることに力を入れなければ、知らずに利用できないまま困っている人が救われないと思います。
―――
ユニバーサルデザイン、サービスに関して:ちょっと違うかもしれないけれど、企業への問い合わせや予約が大体電話な
のが辛い。最近はオンラインでメール・会員登録制のものが増えてきて助かってますが(ピザハットのオンライン注文、
あれは良いですね。) 公共料金やアパートに関して不動産屋さんと連絡するとき連絡先がTEL番しかないと辛いです。
授業に関して:レジュメとスクリーンが見易くて良かったです。自分の聴力のこともあってとても関心のある分野だった
ので楽しく受けられました。…後略…
―――
障害者運動のスローガン「Nothing About Us Without Us」について、これと同じことが東日本大震災の復興計画につ
いても言えると思う。東北の被災地の方と話をしていると、どうも現地に暮らす人々の意見がいかされていないように感
じる。被害を受けていない政治家が、快適な場所でのうのうと復興について語っていてもリアリティに欠けていて、本当
に必要なものが見えてこないのではないかと思う。
―――
練習問題の1を振り返って思ったのですが、個人的にテストなどにおける生理痛がひどい人への配慮が欲しいなと思っ
た。私自身、ある程度あり、立っていられないこともあるので、そんな時にテストは大変です。大学の受験時はピルを飲
んでいましたが、毎回テスト時に服用するということは大変なのでなかなかできません。しかし、人によって程度もちが
うし、別日を設けるというのも難しいことだと思う。また別日を設けることでテスト勉強ができていないからという理
由で嘘の自己申告をするという問題が出てくる可能性があるということも難しい点であると思う。全ての人に完全に対
応するというのはなかなかできないことだなと思った。
―――
電話相談は相談できる内容が限られているというものだと思っていたが、今はあらゆる相談ができるものがあるという
ことが分かった。「よりそいホットライン」は24時間受けつけていてすごいと思った。でも、電話相談はもし相談した
いことがあったとしても、私にとっては少し勇気がいるように感じる。まだ、メールの方が相談しやすい。
―――
112
「よりそいホットライン」について、いつでも誰でも相談できるということが目的であるとあったが、本当に誰でも相
談できているのか。私もその1人なのだが、何人かは相談したくてもできない人もいると思う。「他人に相談することが
恥ずかしい」と思っている人だったり、「他人に相談して解決したためしがないから、他人に相談するなんて無意味
だ」と思っている人だったり…。もちろん、その「他人」には家族も含まれているので、結局1人で抱え込んでしまう。
そのような人の心を開くようなもの(?)を探すことが先ではないのだろうか。
【あべのコメント:ほかの実践もあり、電話相談もありという、複数の回路を確保することが大事でしょうね。】
―――
よりそいホットラインは、どんな人でも相談できるというのがいいと思いました。インターネットで相談すると、自分
の悩みが匿名といえど、多数の人に見られてしまいます。しかし、電話だとそういう心配もないなと思いました。なかな
か相談したいことがあっても、周りに知られるのが年齢を重ねるごとに恥ずかしくなって、相談できないことがありま
す。それを解消してくれる取り組みだなと思いました。
―――
「よりそいホットライン」で思い出したのが、中学生のころ同級生のヤンチャ坊主が子ども電話相談室に「チャーシュ
ー麺一丁!」というイタズラ電話をして学校に連絡が行ったことがありました。悪いのはイタズラをした方ですが、「相
談内容は誰にも言いません。秘密です。」という文句に裏切られた気がしました。
―――
よりそいホットラインについて。話を聞いてただただ共感してほしいという人はたくさんいるのではないかと思いまし
た。傾聴が大切とよく聞きますが、だれでも人に認められたいという思いがあるから(これも偏見かもしれません
が…)傾聴が大切なのかなと感じています。
―――
…本当に自分の心の中だけにとどめておきたくて、親や親しい人だからこそ言えない悩みがあるとき、自分だけでため
込まない様に誰かに話したいとき、この「よりそいホットライン」は本当に有えきだと思う。悩みは誰かに話すことで
少し楽になるというのは事実だと思うし、今、ため込みすぎて、 うつ病 になる大人が増えていると聞いたことがありま
す。全く自分のことを知らない受話器の向こうの相談員だからこそ飾らないありのままの自分を出せるという利点もある
と思う。もっと全国的にこのサービスを知ってもらえるようにアピールすべきだと思いました。
―――
この授業を受けて、「皆平等」とか「多文化共生」って、(言い方が悪いかもしれないけれど、)言い出したらキリが
ないんだなと思った。でも、普段、何気なく生活しているだけでは気が付かないようなことをたくさん知れてよかっ
た。今日の授業のインタビューみたいな感想の聞き方は嫌だった。私はそういうのが苦手なので、思わず拒否してしまい
ました…。
【あべのコメント:拒否するのも大事なことです。だから、ふだんはああいう聞き方はしないんです。いいたいことは、
自主的にマイクをうばいとって発言してほしい。それがわたしの理想です。けれども、それがじっさいには困難だから、
コメントをかいてもらっています。ただ、その場で感想をいっしょに共有するのも大事だとおもうのです。】
―――
質問:よりそいホットラインについてですが、「住む家も食べるものもない」人が、どうやって電話やネットを使える
のでしょうか。気になります。
【あべのコメント:よりそいホットラインの広報をどんどんしていく必要があるわけですが、どうやって?ということ
をかんがえると、むずかしい点があります。存在をしっていれば、公衆電話から無料通話で相談することができます。】
―――
模範的なレポートを書いてしまうということは私にもあてはまります。おもしろいことを書きたいという気持ちと、無難
に点数をとりたい気持ちがあり、提出起源に追われていたりすると、どうしても無難なほうになってしまいます。自分で
も後から読んでつまらないなと思います。
【あべのコメント:わたしが言いたかったのは学生に「模範的なレポート」を「かかせてしまう」教員側の問題です。
時間をおいて自分のレポートをよんでみると、いろいろと発見がありますね。ブログでもなんでもいいですが、自分の意
思でなにかを発信するとき、どれだけ率直にかくことができるか。自分で納得できる文章がかけるか。それが大事で
す。もちろん、最初からうまくいくわけはありません。なにごとも練習です。】
―――
113
今までならきっと、「多文化」をテーマとしてレポートなら、きっとそれっぽい本をさがして、読んで、プラスそれにつ
いて思うことをそれなりに書いて出していたんだと思います。色々な話を聞いて、色々な角度からの意見を聞いて、少し
は知識も増えて、たくさん考えるようになって、でもわからなくて、日常にそういう偏見とかを探すことができなくて、
きっと今回もありがちのレポートになってしまいそうで、でもそれに使う単語に慎重になって書けなくて、みたいな感じ
で全然進みません!! でも、がんばります…
【あべのコメント:慎重になって表現しづらくしてしまったことについては、すこし反省しています。】
―――
多文化共生に完成はない、というのにとても共感したし、力強さを感じました。
―――
練習問題19
(もしあなたが「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業を担当するとすれば、どのような内容のテーマ
をとりあげますか? どんなことに重点をおきたいですか? また、あべによる「多文化社会におけるコミュニケーショ
ン」に不足していたのは、どのようなことですか? よかった点、よくなかった点などを指摘してください。)
―――
私の友人、知人には発達障害の人、自閉症の人、元自殺志願者、鬱の人、特に診断は受けていないけれど言動がちょっ
と 普通じゃない 人、車椅子の人、ダウン症の人、全身麻痺の人、重度のアトピーの人、片親の人など、割合いわゆる少
数派の人が多い。又、小学校が知的障害者学級をもっていることもあって、地域では知的障害の人をちらほら見かけ
る。先出の全身麻痺の人は、私の5つ下の学年に居た子で、普通教室に通っていた。もちろん勉強はもとより話すことも
ほとんどできなかったが、いつもクラスの友達に囲まれていて、少しずつ表情が生まれていた。そういった経験をテーマ
にしたいと思う。又、重点としては 少数派 につきまとうイジメの問題に重きをおきたい。私自身もそれなりのイジメ・
迫害を経験しているので、多少現実味のある話として受けとって貰えるのではないかと思う。
―――
普段全く勉強してこなかった福祉や介護の分野を多く学べる機会になって良かった。でも海外における多文化社会につ
いて1コマでも授業があったら良かった。例えば先生の行ったことある韓国などについて多文化社会はどのくらい認知さ
れているのか、とか。似ているように思われるアジアだからこそ、もし差異があったらおもしろいし、興味がとてもあ
る。
【あべのコメント:韓国にいたのは2002年から2004年ですが、最近は状況がかなり変化していて、みっちり文献にあ
たらないといけません。一応、しらべているところです。来年は、ぜひとりあげます。】
―――
…もし、自分がこの授業を担当することになったら、自分が国文学科所属なので、文学に関するテーマを取り上げたい
と思います。昔話・お伽話に関することは、地域性やその文化が表れているので、そこから多文化を見つめてみるという
のも、おもしろそうに思います。
―――
多文化にはいろいろな解釈があると思います。例えば、年齢によっても文化は異なります。今日の学生さんのコメントに
もあったように、「多文化」ときくと、外国の話や福祉の話などが出がちですが、自分の所属している立場(年齢でい
うなら、20代とか若者とか)から考えることも必要かなと思いました。
―――
・いいところ:休んだときもプリントとか用意してあり、フォローができたこと。
・よくないところ:プリントがきっちり書いてあるから、後で読めばいいやって思っちゃう。
―――
先生の授業は他の先生と違って価値観を押しつけたり、「∼であるべきだ」と言わないところがとても好きです。あと
様々な参考文献を教えてくださるところがとてもわかりやすくて役に立ちます。
―――
この授業全体を通して、ふだん考えたことのないようなことに注目して紹介を聞く、読むということは興味深かったで
す。ですが、新しいテーマが提示される→引用や先生の文章、という流れのくりかえしの中で、だんだん「こういうテー
マはこういう考えが正しいんだよ」と押しつけられている気がしてきてしまった部分がありました(感想のコメントなど
を読んでいてもたまに感じました)。こういうふうに感じる私があまりよくないのかもしれませんが…。どんな意見も一
度受けとめて議論する、というよりは、正しいと決められたことを教えられている、というかんじを受けることがあり
ました。
114
もし私が「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業を担当するとしたら、いろいろな国の人々の話をした
いなと思います(「多文化社会におけるコミュニケーション」と聞いて「アメリカ人やらオランダ人やらペルー人やらウ
ガンダ人やら世界中の人々の話が聞けるのかな」と勝手に連想してしまうので)。いろいろな国々の社会や文化の違い
とか共通点とか。それによって日本がどんな国なのかということも考えることのできる授業がしたいです。
【あべのコメント:「こういうふうに感じる私」は「あまりよくない」どころか、すばらしいとおもいます。おっしゃる
とおり、わたしの授業でも「同化」があります。わたしの授業そのものに対しても、「しょせん、あべの視点にすぎな
い」と相対化したほうがいいです。「批判的に問いなおす」って、そういうことですから。】
―――
もう少し考えやすい問題が1回ぐらいあったほうがよかったと思います。言葉だけではなく写真などで実際にものを見る
ことが多かったのはよかったです。
―――
全体を通して、私が思ったこと学んだことで1番にくるのは、正直自分についての性質じゃないかと思います。私はこの
授業で答えのないような様々な話を聴いて、混乱してしまったり、重要なことだとは思いますが、定義の見直しを一々
行ったり、極端な言い方をすると「差別はいけない」などという道徳的にわかりきったことを色々な例をあげて詳しく
話していくということに面白味を感じない人間なのだと思いました…。でも、物事について深く考えたりするのは好き
な人間なので、きっと私が先生のように広い範囲への知識や興味がないだけなのかとも思います。先生や他の生徒の人
の感想などを読むのは面白いと感じることもある一方、自分はその分野について語る意見すらもたない教養のない人間
なのかも、など気持ちが暗くなることもありました。もっと興味をもてたらいいとも思います。
【あべのコメント:たまたま、わたしのアプローチになじめなかっただけで、ちがう教員の授業なら「もっと興味をも
て」るかもしれません。わたしも、ある程度かんがえやすいテーマを設定するなどしていれば、「気持ちが暗くなる」こ
とはなかったかもしれません。1年生から受講できる授業なのだから、知識がなくても関心がもてるように配慮すべきで
した。すみません。】
―――
もし「多文化社会におけるコミュニケーション」を担当したら、日常生活で起きる異文化と摩さつ、特に、友だちと
か、家族の間におきる、身近なところのコミュニケーション上の問題についてとりあげたい。日ごろ困っていることを解
決することに重点をおきたい。
よかった点:
・とりつきづらいトピックでも、分かりやすく、共感できるような切り口から取り上げてもらった。
・レポートの評価基準が明確。
・先生がちゃんと生徒のコメントに反応をくれる。
・みんなの意見が知れる。
・深い知識が無くても参加できる。
よくなかった点:
・抽象的な結論。具体的な解決策がない。
・レジュメが文字が多くて(スタイルの問題?)見づらい部分がある。
・自分のコメントがプリントにないと、的外れなことを書いたのかと、とても不安になる。
―――
大学の授業は初めてだったので、概念を教えるのではなくアプローチ(考え方)の仕方を教えてもらうのは新鮮でした。
(他の授業ではあまりそうではないので)私はおもしろい授業だと思いました。毎回ごとに各自が問題を考えるように
できるというのが理想的だと思いますが、授業としてハッキリしたまとめもほしかったと思います。
【あべのコメント:あれでも、まとめたつもりでした…。収集がつかなくなってしまったのかもしれません。】
―――
残念ながら、今の社会構造では障害がある人は生活が困難であることはもうわかりきっていることなので、在日外国人
の方々がかかえる問題や、あまり広く知られていない問題についてもう少し掘り下げてくださるとよかったです。この講
義は好きでした。
―――
115
私は社福なので障害の話が多かったことに今日まで気がつきませんでした。普段からきき慣れているので。でも確か
に、多文化社会における…という授業なので、思わぬところで、といった感じはありますね。他学科の、とくに外国のこ
とをやりたいと思っていた学生さんにとっては、ものたりないというか、不満に思うところもあったのかも知れない
な、と思いました。でも社会福祉を多文化という視点でみるのはおもしろく、あべ先生の視点というのもとても参考に
なり、他の授業とリンクして考えられるのでよかったと私は思いました。…後略…
―――
外国のことを取り入れたら、日本のことをまた違った風に見られるので、少し取り入れるといいかもしれないです。多分
外国語学部の人は興味があります。あと、方言は出してしゃべったら、もっと多文化っぽい気がします! これからのた
めになることがいっぱいでした。ありがとうございました。
―――
私は外国語学部なので、多文化コミュニケーションといわれると、やはりグローバルな面を中心に考えてしまいます。こ
の授業をとったのも、そのような内容がきけるんじゃないかなと思ったからです。けど、「通訳とは」とか、バイリンガ
ル―!とかそういう系の話だと思っていたのですが、通訳には手話も含まれているんだなとか思って、改めて考えさせら
れました。外国語学部では絶対ないような話が沢山あってよかったです。貴重だったと思いました。他の人の意見をみ
てすごいなと思ったり、自分の意見が載ってコメントされてると嬉しかったり、良かったです。たくさん寝てしまってす
いませんでした。
―――
個人的には、国際関係学科に所属していることもあってもう少し文字通りの内容を期待していました。でも障害や福祉
のお話は普段聞けないので新しく興味が持てました。他の授業と比べて、ゆるかったです。いい意味です。生徒の意見
を、批判でもしっかり受けていたところが良かったと思います。京都から、お疲れ様です。
―――
この授業を受ける前の私の「多文化」へのイメージは、アメリカや中国など外国のことを指すと考えていた。だが何に注
目するかによって、文化のとらえ方も異なり、そう考えると、「多文化共生」といったときに、とらえ方によっては膨
大な数の人が対象となるため、「多文化共生」を私たちがどのように認識するべきか考えなければいけないと思った。
自分が書いたコメントを真っ向から否定されなかったところが良かったと思いました。
―――
「多文化社会におけるコミュニケーション」の授業を私が担当するなら、現在のメディアの報道に重点をおいて、いろん
な国の人々のことをとりあげてみたいです。でも知識も理解も深くないため、何年たっても、人の前で講義をするのは難
しいと思います。
あべ先生の授業は寝ている人や休む人に対してもやさしくて、いつも資料をたくさん用意してくれて、こんな授業はなか
ったので本当に良かったです。自分の意見について考え直してみること、いかに自分が偏見をもって考えていたかを知る
ことができました。この授業をうけれて良かったなと本当に思います。寝てしまうこともありましたがとてもおもしろ
かったです!
【あべのコメント:メディアの報道に注目するのはおもしろそうですね。/ いちばん大事なのは、いつも参加し、積極
的にコメントをかいた学生が満足できる内容だったかということですね。】
―――
発言もありましたが、色んな人の意見が読めるのがすごく面白かった。レポートだけではなく、「模範解答」な発言を
求められることが多いので、意外に皆さんが正直なところを感想に書いていたのは、先生の雰囲気がよかったのかなと
思う。
【あべのコメント:ほめてくださって、ありがとうございます。どうでしょうか。授業内容に対して肯定的なコメントが
ならんでいるだけで、それに共感できない人は発言しにくくなってしまいます。】
―――
他の方のコメントにもあったように国際的・世界的な内容が思ったより少ないように思えましたが、自分にとっては身
近なテーマが多くいろいろなことを知ることができました。また毎回受講生の意見感想を提出させてそれをいろんな人
が読めるようになっているのが他の授業ではあまりなかったのでとてもよかったと思いました。そのおかげであるテー
マに対する考えや認識の視野をひろげることができました。また、かたくるしさがまったくなくて気軽に受けることもで
きました。情報科学部の者なのですが必修科目では高校の延長のような悪くいえばあまり刺激のないものばかりだった
のですが、この授業は個人的に想像していた大学の授業の理想的なものだったようにも感じました。
―――
116
自分が授業をするとしたら、具体的にこれを教えたいというのは思い付きませんが、あべ先生の授業では「こんな考え
方があったんだ、こんな見方があったんだ」と気付かされたことがたくさんあったので、少しでも物の見方の視点を変
えられるような授業ができたら理想的だなと思います。
多文化社会において、色んな問題がたくさんあって、簡単には解決できなくて、それをどうにかしたいって思うことはす
ごく素敵なことだと思います。皆がよりよく、生活できるような社会になったらとっても良いと思います。でも、「より
よく」って何を基準に、誰の視点で言ってるんだろうなって。色んな人が生活していて、問題はたくさんあるけど、なん
とかやっているのを変えるのってとても難しいことだなと思った。
―――
先生の話はいつも深くて考えさせられる。基準がわからなくなる。色々考えさせられることばかりを授業であつかって
頂いて考えるきかいを与えて頂いて感謝です。もっといろんな本をよんでいろんな考え方を吸収していきたいです。
【あべのコメント:ぜひ、いろんな媒体からたくさんのことを吸収してください。】
―――
自分だけではふだん考えないようなことも考えたりちがう理解や考え方を知る機会になったのでよかったです。先生の
意見は、なるほど。と思うところもいっぱいありました。ありがとうございました。
―――
もし私が「多文化社会におけるコミュニケーション」という授業を担当するならば、意識して見ることで見えてくる多文
化をテーマに広げていきたいです。あべ先生の講義では普段はあまり考えないことが取り上げられていたりしてとても勉
強になりました。社会福祉学科で勉強しているので、まだ知らなかった機関など、様々なことが知れてよかったです。ま
た、同じ講義を受けた人の意見なども聞けてこうゆう考えもあるんだなと思ったりもできて、自分の考えが広げることが
できたのでよかったです。全体的にもっと国際的な講義内容なのかと思っていましたが、福祉の事が多かったので受けれ
て本当によかったです。
―――
今まで「多文化共生論」という授業を取ったことがあるが、多文化=外国人というイメージがあったが、障害、食文
化、学校教育など日本人の私たちの中にも多くの文化は存在しており、幅広い面から物事をとらえられて、とてもおもし
ろかった。あべ先生は先生とヘルパーという面をお持ちなので一方的に上から言うのではなく、経験をふまえて授業を
してもらえたので良かった。
私がこのような授業をする場合、毎回「外国人」「出身地」などのテーマを決めて、何に戸惑ったかを討論し合うよう
な授業をやれば、本音が知れておもしろいと思いました。
私は国際関係学科だが、学部の授業だけでは学べないことが学べたし、考え方や意識を変えることができて、自分にと
って、とてもプラスになった。
【あべのコメント:ある意味で、「わたし」を前面にだした授業ですよね。だからこそ、それにむきあう「わたし(学
生)」にとっても、なにかひびくものがあるのかもしれません。しかし、それが「しんどい」「なじめない」という学
生も、たしかにいるはずです。/「出身地」というテーマはおもしろそうですね。】
―――
講義を受けて、いろんな視点で見れるようになりました。…中略…「多文化社会における∼」を受ける前に、「文化人
類学」という講義を受けました。その講義では、いろんな国の民族に対する講義だったので、勝手にこの講義もいろん
な国の話をするのかなーという先入観をもっていました。日本の中だけでも、こんなにあるんですね。
【あべのコメント:わたしは、学部のとき文化人類学のゼミでしたし、この授業でも文化人類学の視点、論点をかなり
とりいれています。テーマはちがっても、応用できるものです。】
―――
私は差別とか大きい社会問題を語るよりも、もっと小さいちょっとした問題を扱いたい。どちらかといえば社会学より
な考えのためそのときそのときの話題(今だったらいじめ、生活保護など)を扱いたいなと思っており、多文化という
論点からはちょっとずれるかもしれない。この授業は板書などがないため、一つの物事に対する自分の考えをゆっくり
とまとめることができたなと思う。また、この用紙にも毎回やんわりとテーマを決めてくれていたのも書きやすくて良か
った。
【あべのコメント:時事問題というのは、教養がないと対応できませんね。わたしには教養がないので…。教養科目を
やっているのに…(笑)。幅ひろい知識のある人なら、時事問題をてきぱきと論じることができるでしょう。】
―――
117
今まであまり考えていなかったテーマについて深く学ぶことができていい機会になりました。レポートを書くときは自分
で問題提起をしてさらに意識的に考えることもできました。ドキュメンタリー映画などももっと見たいと思いました。
P.S. 中間レポートが返されたのが、どこが修正すべきか分かってとても良かったです。期末レポートもどうだったか教え
てほしかったです。
―――
これだけたくさんの受講生がいたので現実的には不可能だったかと思いますが、自分が先生の代わりにこの授業を担当
することになったら、毎回まわりの人と意見を交換する時間を設けて、他の人とより多くの価値観を共有できるように
します。この授業のコメント欄をみているだけでもひとりひとり個性のある意見が多かったので実際に言葉で意見をか
わせるとよりよくなると思います。介護の仕事にたずさわっている先生から障害についての話をきいたときには、より説
得力を感じました。ビデオをみた回は、だいたい面白かったなという印象です。とくに漢字テストのふしぎは、良いと
ころをついていると思いました。ビデオをみせる回数も、その長さも丁度よかったです。正直、この授業は英米の専門科
目より面白かったです。
【あべのコメント:おもしろかったとすれば、わたしが自由にやりたい放題やっていたからでしょう。】
―――
最初のころは、授業を聞くと何も考えられなくなっていましたが、色々聞いているうちに、何事も多様な見方があるん
だということを大切にしていきたいなと思いました。
―――
みなさんのコメントでもありましたが、自分が今まで考えたこともないような部分に焦点が当てられていて毎回毎回本
当に勉強になったし、考えることで自分の中身が充実していくような気がして楽しかったです。先生の講義は、自分自身
では興味をもちにくいようなことにも、関心を向けさせるのが上手かったと思います。考えることが膨大になって困るこ
ともあったけれど、その中の何かにフォーカスして調べるのもやってみたいです。また、この講義のおかげで色々な分野
の人と色々な話ができるようになりました。
【あべのコメント:つめこみすぎな面もあったように感じます。それがプリントの文字だらけの原因ですね。わたし
は、おちつきがなく、ぜーたく(貧乏性ともいう)なので、いろんなことを言いたくなってしまうんです。】
―――
この授業のおかげで、色々な視点からものごとを見ることができるようになったと思います。先生の自由な授業スタイル
が、とても好きでした。プリントを後ろから配る先生は今までいなかったので、さすがあべ先生!と思いました(笑)
去年もこの授業をとりたかったのに、抽選ではずれてとれなかったので、今年受けることができて嬉しかったです。
【あべのコメント:去年、希望者がたくさんいたおかげで、今年は3限と4限を担当することになりました。去年より
は、いい授業ができたとおもいます。なにごとも経験ですね。】
―――
この科目が何かの学部の専門だったら、視野はせまく、深くの方が良いと思うけど、これは教養科目で多くの学部生が
参加するのだから、広く浅くで良いと思います。もし、僕が授業をするなら、外国関係の話になってしまうと思います。
やっぱり、自分の興味のある方に傾いてしまいますね。
―――
授業全体を通して、自分の身の周りにあるものであっても気にしたり、気付かなかったものに対して改めて考えることが
出来たのが良かったです。図書館の中での設備など、障害者が公共の施設にあわせて対応するのではなく公共の施設が
設備を整えるのだという話は強く頭に残っています。
―――
私語が多いならもっとグループワークを増やしたらどうか、と思いました。
―――
グループワークもあると良かったかも! しかくにまるを2つかいてってやつは盛り上がった!
―――
授業の中で考える時間がほしかった。グループワークとか。自分だけで考えられないことも一緒に考えることでスムーズ
にいくことがあります。
―――
扱う話題が簡単なものではないので他の授業と比べることが間違っていますが、私が寝ない授業は、少人数ということ
もあり生徒が発言する機会が多く、話をする声の調子に抑揚がある(メリハリがある?)もので、そういった点を入れ
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ると皆起きていられると思います。今まで教科書のような考え方の授業が多かったので、独特な考え方の先生の授業を
受けられてよかったと思いました。
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…寝てもいいよ。などと授業がゆるめだったのでせっかくのいい授業が生徒に聞いてもらえないのが残念だと感じまし
た。出欠だけは取った方がいいと思います。
【あべのコメント:出席をとり、おきなさい!という授業だと、学生の主体性をうばってしまうと感じるんです。授業に
きて、はなしをきくのは、学生の主体的な意思にもとづく。そのような状況であればこそ、身につくものがあると信じて
いるというか。もちろん、単位というものがあるかぎり、「主体的」というのはカッコつきの「主体的」ですが。】
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とてもいい授業でした。ただ、いくつか加えて考えたい点はあります。一つは、評価し、評価される関係について。他者
との関係の中で、相手を評価したり、自分も評価されたりということがありますが、私はそういう関係に長年苦しんで
いて、できれば評価しない関係でありたいと思っています。評価でなく、存在自体をよしとするような関係でありたいで
す。その点で大学のレポートなども評価関係の一つと言えると思います。評価が目的となると本来の学びの姿が歪みま
す。難しい問題です。(評価が意欲や喜びになったりもするので) でもやっぱり評価する関係は何かちがう気がするの
で、私は大学にのこるかわかりません。
【あべのコメント:「評価でなく、存在自体をよしとするような関係でありたい」という点、同感です。しかし、評価
する、単位認定をするという「しがらみ」をひきうけることで、みなさんと時間を共有することができた。それも事実
です。自主的に学習するということは、いつでもできます。ただ、体系的にまなぶということは単独ではむずかしい。
わたしがみなさんから不満や問題点をききだそうとしたのは、わたしもまたみなさんに評価される側であるからです。
ただし、残念なことに「力関係」はあります。そういった「評価し、評価される関係」があるとしても、それでも大学と
いう空間に魅力を感じる人は、大学に居場所があると感じているのでしょう。そうでないとしたら、もっとおおきな、
構造的な問題があるのかもしれません。「何かちがう気がする」ということについて複数の人と共有してください。】
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問題点や不満を探すのは意外と難しいな、と。特に県大全体があまり発言をするような空気でないので、余計に気を使
ってしまうのかな、と思いました。日本のマイノリティが淘汰されるような風潮も少しあるのかな、などと考えてみた
り。でも、先生がコメントや今日の発言のように、生徒の意見を引き出そうとするやり方は大学にもっと増えても良い
のではないか、と思います。授業の悪いところ?を考えてみたのですが、先生の話し方がやさしいので少し眠くなってし
まうこと、くらいしか思いうかびませんでした。すいません。
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多文化社会におけるコミュニケーションという授業名から最初に思い浮かんだのは 外国 でした。多くの日本人と見ため
からして異なる人々の住む、海を越えた国々というのは分かりやすく異文化を持っていて、特にアメリカはいくつもの言
語、民族、文化が共生しているというイメージがあったためだと思います。私は自分と違う(似ているのに違う)、自分
の身近なものを排除して考えていたせいで、日本にある自分と違う文化について理解していなかったと思い知らされまし
た。
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私は 多文化社会 と聞いて、この授業で国際的な問題を扱うと思っていたのですが、考えてみれば、日本の中にも多文化
は存在していて、それらの問題を私は今までほとんど真剣に考えたことがなかったんだと気づきました。外国との関係
を考えることにも興味がありますが、私が実際に生活している日本の中での問題を考えることも、とても重要なことで
すね。意義のある時間が過ごせて良かったです。ありがとうございました。
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今日は、みんなが授業について思っていることを聞けて、たのしかったです。睡眠を大切にする先生はめずらしいです
ね。大学生は自分で責任をとるべき歳だと思うので、先生のその考え方はいいと思いました。
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・レジュメの文字がつまっていて読みづらい。
・中間レポートの発表で、通知表に「/」をつけられた子がいて、「小学を卒業できたかもわからない」ということを言
った時に、小学校は義務教育だから、良くも悪くも絶対卒業できるというのを、何故教えてあげなかったのかな、と疑問
です。
【あべのコメント:すみません、おぼえてないです。レポートに事実誤認があれば赤で訂正をしたのですが、そのはなし
については記憶がないです。おっしゃるとおりですね。】
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疑問
少し疑問に思うことがあるのですが、多文化社会とか自分と違う人間を認めるとか様々なことが言われていますが、も
し自分に相手の文化を理解することができないと思ったとき、あえて距離をおく(干渉しない)としたらこれは差別に
入りますか。
【あべのコメント:差別をふたつに分類してみましょう。まず、制度的な差別。そして、差別行為。制度的な差別は、構
造的な、組織的なものです。それに対して、差別行為は個別的、個人的なものです。コミュニケーションの授業なので、
差別行為について議論することになりがちです。しかし、構造的差別という視点をおさえておく必要があります。構造的
差別があるとき、一個人では、どうにもならないことがあります。そして、それを改善するには、社会のありかたを改善
することがもとめられます。構造的差別を前にすれば、個人の意識など、問題ではなくなります。「わたし」がどのよう
な意識であろうと、そこには差別があり、そしてその構造のなかに自分も位置づけられています。それなら、問題は個人
の意識レベルにとどまらないわけです。差別にはいろいろな状況があります。一個人の差別行為ももちろん問題ですが、
公的な組織、公共機関が制度的な差別をもうけていることがあります。そういう制度的/組織的な差別は、法律や裁判
の判例で禁止されるようになってきました。たとえば、その人の社会的属性を採用の判断材料にすることです。
「あえて距離をおく」というのは、おおざっぱにいえば「拒否をする」「さける」ことです。それが組織的なものであれ
ば問題になりやすい(裁判で不利になる)でしょう。個人レベルでは、それが差別にもとづくのか判断しにくいでしょ
う。そもそも、それが「どちらのせい」か、判断しづらいわけですから(「おたがいさま」なら差別ではない)。】
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…原発の意見交換会で電力会社の社員がいたことが問題になっていますよね。電力会社の社員だって1国民じゃないか、
と思う反面、絶対会社の命令で応募しただろう、と勘ぐってしまいます。もし社員と明らかにしてから、原発反対と言っ
たら、会社の反応・世間の反応はどうだったんだろう、と思いました。結局、出入り禁止になりましたがどう思います
か?
【あべのコメント:7月21日の毎日新聞の報道によると、7月29日の広島市での意見聴取会に中国電力は社員を出席さ
せて会社の見解を表明させる予定だったそうです。内部文書が暴露されて発覚しました。さもありなんという感じです
ね。ただ、ご指摘のように、社員が「反対」と表明したら、会社や世間の反応はどうだったんだろうという点は重要で
すね。反対派は、ここぞとばかりに利用するでしょう。会社は、あくまで個人の意見と切断するでしょう。それぞれ、
組織の意見、個人の意見を表明する場を設定するほうがいいでしょうね。】
質問
以前にあべ先生がおっしゃっていた、あべ先生が持っている資格についてもう一度教えてほしいです。私も将来は福祉に
携わる仕事につきたいので、あべ先生が持っている資格に興味を持ったのでぜひよろしくお願いします。
【あべのコメント:「重度訪問介護」の資格です。「重度訪問介護」は重度の身体障害者の介助のことでしたが、先日
の法改正(障害者自立支援法から障害者総合支援法へ)で対象を拡大することになりました。具体的なことはまだ不明
です。社会福祉学部に在学中なのですから、いろいろな介護サービスに対応できる資格をとっておくほうがいいでしょ
う。重度訪問介護の資格では重度訪問介護しかできません。】
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おまけ。2009年にブログにかいた『精神』というドキュメンタリーの映画評です。リンクは省略しました。
「ドキュメンタリー『精神』」
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090720/1248057491
7月18日と19日は、映画の上映あとに監督や出演者が おはなしされるということで、19日に『精神』というドキュ
メンタリー映画を シネマクレールで みてきました。
『精神』は、精神障害者の日常を「こらーる岡山」という「診療所であり、居場所であり、作業所である」空間を 舞
台に「観察」した映画です。監督は、想田和弘(そうだ・かずひろ)さんで、デビュー作は『選挙』というドキュメンタ
リーです。ひじょうに たいせつな素材を 提供してくださるドキュメンタリー作家だと おもいます。
映画の舞台が岡山だっただけに、観客さんは ものすごく たくさんでした。18日も満員だったそう。
映画は、モザイクや音楽を つかわず、スジがきもない。淡々としていますが、おもしろ おかしく、あったかい。いろ
んなことを かんがえながら、うるうる ないていました。何度でも みたいような映画ですね。2時間以上あるんですけど
も。
想田監督の『精神病とモザイク』という本は すでに かってあったのですが、『精神パンフレット』と『シナプスの笑
い』8号(ラグーナ出版)を かってきました。ラグーナ出版というのは、「私達、精神障害体験者、医師、看護師、精神
保健福祉士が集まり、「出版社」を始めました!」ということです。鹿児島の出版社です。
ええと、映画の感想ではなく、映画のあとの座談会で感じたことを かきます。映画に、すてきな詩を かく おじさん
が でてきて、たまならく魅力的なんですが、座談会を みていると、「こんなに すてき」という はなしが きこえてく
る。わたしも、すてきだなあと感じたのですが、かんじんなのは、その主語でしょう。「あの おっさん、ええなあ。と
もだちになりたいわ」というのなら いいのですが、いっきに飛躍して「精神障害者は こんなに」という物語にしてしま
いそうなところがありました。もちろんそういった感想は、その「すがのさんという おじさん」だけの魅力ではなく
て、ほかの たくさんの ひとたちの魅力に ふれてこその感想なのだと おもいます。ただ、とにかく、個人の魅力は、個
人に とどめておくべきではないかと おもいます。
部分を もって 全体を 評価するような やりかたは、あやうい方向にも ながれていくものです。
わたしが いいなあと感じたのは、すがのさんの詩を みんなで よんで、きいていて、やんや わんやと わらいながら、
たのしそうにしていた みなさんの笑顔でした。それから、すがのさんが しゃべりっぱなしのよこに、ただ ことばすく
なげに すわっている ひとでした。
精神障害者と「そうでない ひと」のあいだにある「カーテン」。監督の ねがいは、そのカーテンを とりはらおうこ
とです。わたしも、そういうカーテンを なくしていきたいと おもっています。
さて、どのように。
「理解する」だとか、「ほめる」だとか、そんなことは ふざけたはなしです。必要なのは、理解されることでも、ほ
めてもらうことでもないはずです。必要なのは、つめたい まなざしを むけないこと、無視しないこと、いっしょに い
きていくこと、ささえあっていくこと。それだけです。
理解できないところは、のこるに きまっています。理解するしないで、また だれかを 分断するようなことを しては
いけないのです。よく わからないけど、なんだか すきだ。あるいは、すきになれないけど、でも なんだかんだで いっ
しょに やっている。そんな関係で いいではないですか。
なによりも、理解し、評価するのは「こちら側」であり、わたしは「こちら側」にいるんだという発想そのものを、
すてさることが必要です。コミュニケーションは、やりとりです。一方通行にばかり かんがえていると、「こちら側」
だと おもっている「わたしたち」という集団が 「ようしゃない」「こわい ひとたち」だと感じられているということ
が、わからなくなってしまいます。
「わたしたち」というのは、そのときそのとき、ある意図を もって つくられるものです。その目的というものが、
「あのひとたち」を わたしたちから分別し、排除するかたちで つくられる「わたしたち」であるならば、そんな「わた
したち」が すばらしいわけがないのです。
人間は だれも おなじではありません。ちがいます。そして、そんなに ちがうものでもありません。おおげさなことは
いわずに、がははと わらって、いっしょに やりくりしていこう。それだけで いいじゃないですか。
スジがきのない、観察映画というかたちのドキュメンタリーの『精神』は、まさに「おおげさ」になることもなく、
ただ、みるひとを ひきつける。おすすめです。
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