Comments
Description
Transcript
資料はこちら
第 4 回 7 月 16 日(土) 水産科学におけるバイオテクノロジー —特に借腹養殖について— 北方生物圏フィールド科学センター七飯淡水実験所 山羽悦郎 はじめに 現在、地球の人口は 60 億人を超え、さらに増えようとしている。この人口を養うために は効率のよい食糧生産が不可欠である。農林業、水畜産業などの生物生産の分野では、そ のための技術開発を行なっている。生物生産の技術には、生産フィールドを整えることや 生産を支える機械技術を改良することも含まれるが、生産される生物そのものを変えてい く「育種」が大きな割合を占める。例えば豆類は、その種子を生息環境にばらまくという ことで繁殖してゆくが、人間が育種した豆は種子を飛散させないように変えられた。食肉 用のブタは、猪を起源とする。肉を生産する頭より後ろの部分は、猪では 30%しかないの に対し、肉豚では 70%にもなっている。これは長年の育種の結果である。さらに脊椎骨が 一つ増えることでトンカツ用の肉が六枚増えるといわれている。もし、育種ということが 行なわれなかったら、それぞれの生物種原始の採集生活で得られる以上の食糧を得ること ができず、人類はこれだけの数まで増えなかったに違いない。これらの育種の過程は、19 世紀までは緩やかに進んできたが、形質を規定しているのは遺伝子であり、その遺伝子の 本体は DNA であることが明らかにされた 20 世紀からは、この育種の過程が科学的、計画的 に行なわれ、新しい品種が生まれるまでに驚異的な時間の短縮が図られてきている。この ような発展をもたらしたのはバイオテクノロジーという技術体系である。本講演では、生 物生産における対象生物の改良を概括するとともに、水産生物の種苗生産のために新しい 技術である「借腹生産」について説明する。 バイオテクノロジーによる生物の改良 産業生物は、歴史的に、様々な形質を集積させて作られてきたものである。形質は遺伝 子によって規定されているので、遺伝的な変異を集積させてきたと換言することができる。 遺伝的な変異の集積のためには交配と選択が必要で、それには長い年月が必要であった。 遺伝子を様々な手法で取り扱えるようになってきた現代では、遺伝的な変異を、交配を経 ずに導入することが可能になっている。そのため、比較的短時間で産業生物を改良するこ とができる。また一方で、改良の為の材料となる様々な変異を持つ種子や配偶子の収集や 保存が世界的規模で行なわれている。集められた変異は、種子や配偶子などの形で凍結保 存され、あるいは変異を支配する遺伝子の解析が行なわれている。 現代における生物改変の手法は、1)遺伝的変異の導入、2)ゲノムの変異の導入、3) 核と細胞質の組み合せの変更、4)細胞の組み合せの変更、に分けられる。 遺伝的変異の導入は、その生物が持つ特定の遺伝子機能の消失や、外部のから新しい遺 伝子の付加によって形質に変化を与える方法である。物質としての遺伝子には、 (多少はあ るものの)生物の間では差がないと考えられるので、様々な生物間において、遺伝的変異 の導入は可能である。 遺伝子のセット(ゲノム)を様々に組み合わせることで、生物個体に変異を与えること ができる。例えば、異なる系統間で交配した雑種は、病害虫耐性が強く、生長の促進され る。またゲノムのセット数を人為的に増やした倍数体を利用することで、果実の巨大化や 不稔化が可能である。 遺伝子は主に細胞の核の中にあるが、細胞質のミトコンドリアや色素体の中にも含まれ る。二種類の細胞あるいは卵間で核を入れ換えると、構成の異なる核細胞質の雑種(サイ ブリッド)が作られ新しい変異が生み出される。 遺伝的に異なる背景をもつ複数の細胞が集まって一個体を形成している場合、この個体 を「キメラ」と呼ぶ。果樹栽培における「接木」の場合、台木と穂木して使われている品 種はそれぞれ異なるので、この個体はキメラと呼べる。接木では、台木を選択することで 様々な特性を穂木に与えることが可能である。例えば穂木の生長を抑制したり、果実の糖 度を上昇させることができる。このような方法でも生物の改良は行なわれている。 水産生物においても、これらの手法を用いた生物生産の向上が可能と考えられ、実用化 には至っていないものの実際に研究が行なわれている。細胞の組み合せを変更する「借腹 生産」について次に説明する。 借腹養殖 近年、クロマグロでは完全養殖が達成され、ウナギにおいても生殖制御による種苗生産 が開かれつつある。しかしながら、食糧として利用している全ての養殖対象魚種で親魚を 養成し、種苗生産技術を確立することは合理的ではない。親魚の養成方法が既に確立され た魚種を代理の親 魚(代理親種)と して、種苗生産を 目指す魚種(目的 種)の配偶子を作 り出せれば、多く の手間を省くこと が可能となる。こ の手法を「借腹生 産」と呼んでいる。 もし、代理親のもつ配偶子形成上の特性が目的種の種苗生産に反映できるのであれば、世 代交代の早い魚種を代理親として、成熟までに時間のかかる目的種の卵・精子を作らせる ことが可能になるかもしれない。また、クロマグロのように親が大型で飼育しにくい目的 種の配偶子を、小型で飼育しやすい代理親種に生産させることが可能になるかもしれない。 生殖巣内の配偶子は、発生の過程で分化した始原生殖細胞(Primordial Germ Cells: PGCs)が生殖腺形成部位(生殖腺原基)に到達し、さらに体細胞との相互作用で分化した 細胞である。従って借腹生産には、まず代理親と目的種の PGCs が発生過程のどこで分化す るのか、どのような経路を経て生殖腺原基へ移動するのか、代理親の生殖巣内で目的種の 生殖細胞が分化するためにどのような条件が必要なのかを解明しなければならない。生殖 腺へ移動した後の生殖細胞や体細胞の分化過程については、多くの魚類で研究が蓄積され ているものの、生殖細胞となる PGCs の起源や発生過程については特定のモデル魚種以外で は十分に解析されているわけではない。借腹生産技術の開発は、PGCs の分化や移動過程の 機構解析なしには進展し得ないと考えられる。 同種への移植により PGCs 由来の配 偶子を得ることは一般に可能である。 したがって、移植する PGCs に改変を 行なうことで、改変を持った配偶子を 作り出すことも可能と考えられる。例 えば、PGCs に遺伝子を導入して組み 換えを行なう、二種の PGCs を融合す ることでゲノム構成を変える、体細胞核と PGCs 核を交換し核細胞質の構成を変える、等の 手法が PGCs を介して行える可能性がある。これまで、 受精卵を通して行なわれてきた様々な生物改変が PGCs を材料として展開できるかもしれない。 分離した PGC を凍結保存する技術開発も必要である。 魚を飼って保存しておくと、世代を経るにしたがって 遺伝子が少しずつ失われていく。様々な系統が持った PGC をとっておければ、将来その種が減ってきた時増や すことも可能である。また、品種を作り上げる時に必 要となる様々な遺伝子の供給源ともなる。 海の魚は、膨大な数の卵を産むが、そのうち親になるのは二尾前後である。他の個体は、 成長に至る過程で死亡してしまう。親になった個体を採ると資源が減少する。失われてし まう膨大な数の子孫の一部から PGC を採り、これを借腹養殖で増やすことができれば、天 然の資源に大きな影響を与えず人間が利用できると考えられる。さらに天然の稚魚の集団 には、親よりも多くの遺伝子の多様性が含まれている。 「人に慣れやすい」という遺伝子は 自然界では失われる可能性が高いが、人間には有用である。子孫がもつ様々な多様性を利 用できる可能性がある。 おわりに 胚の操作を含む生物と聞くと、社会のアレルギー反応は強い。一方で、様々なバイオテ クノロジーが先進国における豊かな食生活を生み出しているにも関わらず、一般にはあま り認識されていない。このような技術は、生活の上で欠くことのできないものとしてすで に生産の現場に入り込んでいるのである。使わないで人類が生存できることが望ましいが、 将来にわたって増え続ける人口を養うことは困難と考えられる。生物生産の現場で使われ ている技術を理解していくとともに、信頼できるものとして作り上げてゆく努力が不可欠 である。一方でバイオテクノロジーを支えているのは、これまでの地球の歴史が生み出し てきた生物の多様性である。多様な生物が持っている遺伝子があってこそ、様々な利用が できるのである。将来に向かって実り多い展開を望むならば、現在を大切にする視点を欠 いてはならないだろう。技術と自然の両立を目指す必要がある。