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『医療と宗教」公開講座

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『医療と宗教」公開講座
『医療と宗教」公開講座
一脳死と臓器移植一
天台宗教学部編
(ま【_>己ら0二
最近、医療と宗教の関係が問題となり、特に脳死や臓器
移植については宗教界にとっても避けては通れない重要問
題だけに今後どう取り組み、どう判断を下すか、深い関心
が寄せられております。
平成4年1月の最終答申で、臨調は脳死を「人の死」と
しての立法化提起の方向になっておりますが、立法化に反
対している少数派の反発は必至であります。
このときにあたり、本年平成3年5月22日天台宗務庁
におきまして公開講座を開き、原秀男先生(天台宗顧問弁
護士・脳死臨調委員)と山口光道先生(日本脳神経外科学
会専門医・神戸大学医技術短期大部教授医学博士・天台宗
徳源院住職)のおこ方をお招き致しまして、脳死と宗教の
かかわり、脳死と臓器移植を臨床的な視点からそれぞれご
講演を賜り、時代即応の問題を拝聴させて戴きました。
その講演記録を印刷いたしましたので、お贈り申し上げ
ます。明日からの宗教家としてのご活動にお役立て下さい
ましたら幸甚であります。
平成3年10月
天台宗務総長参二糸己宗頁イ言
脳死と宗教のかかわり
天台宗顧問弁護士・脳死臨調委員
j亭〔夛唇」美3
はじめに
ご紹介を賜りました原秀男でございます。
ただ今、ご紹介していただきましたように天台三山の顧
問弁護士を委嘱され光栄に存じております。私の事務所に
は三山から頂裁した委嘱状だけを掲げております。
お手元に脳死臨調が作成した脳死・臓器移植問題という
パンフレットをお配りしました。これにより脳死臨調の審
議経過がお解りいただけると思います。
脳死は、人工呼吸器が開発されたことによって人間の体
の上に発生した新しい自然状態です。この自然状態は人工
呼吸器ができるまでの間は、こういうこともあるのかなぁ
と医学界の中で察していた程度のものですが、今世紀の中
頃以降になって人工呼吸器というものができ、そこで初め
て発生した事態です。
-5-
それまではご存じのように、人が溺れますと、引き上げ
て水を吐かせて人の手で人工呼吸をいたしました。さらに
進んで、ポンプを手で押しながら、四日も五日も家族がや
るというふうなことが行われていたのです。
人工呼吸器が開発されて、今までに判らなかった色々な
ことが判ってまいりました。脳死という、もう救命できな
い状態があることが判ってくるに伴って、せっかく付けた
人工呼吸器を外して良いのか悪いのか、という問題が発生
してきた。外せば心臓が止まってしまいます。
もう一つは、脳死状態になっても生きている臓器即ち心
臓、肝臓腎臓、そのほか肺のような重要な臓器を他の体に
移植して利用することができる、という脳死移植が問題に
なっているのであります。
私は実務家である弁護士でございますので、脳死が人の
死であるか否かを実務上の視点で考えます。何のために脳
死が人の死であるか否かを論ずるのか、と考えます。脳死
を実務のうえで考えますと脳死状態からの人工呼吸器取外
しの可否と、心臓など重要臓器の摘出の可否という二つの
問題にしぼられると思います。
脳死は人の死か否かを論争するのは、この二つの問題解
決のためであって、この二つの問題がなければ論争する実
際的な意味はないと思います。
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また脳死論争は、どうも論争では解決しないのではない
か、ということも最近になって考えるようになりました。
何故かというと、「もっともだ」と思われる主張もよく考
えてみると、必ず反論がある。しかも、その反論も「もっ
ともだ」と思える。その基本には人それぞれの死生感があ
り、死生感論争は果てしなく続くように思えるからです。
脳死は、人の生死にかかわる重大問題であって、その人が
持っている宗教、哲学、あるいは人生観、文化的感覚によ
って決めるべきものである、医学やお医者さんの自然科学
的思考に任せてよいとは思えないのです。
脳死に関する各界の意見
大まかに言いますと、医学界では脳死は人の死である、
ということを大体8割のお医者さんが言っているようで
す。しかし、聞いてみますと脳死患者を見たことがないお
医者さんで、本当はよく判らないというお医者さんもその
8割の中に含まれております。
脳死臨調は、有識者を対象に世論調査をやったのですが
それによりますと有識者のうち63パーセントまでの人は
脳死が人の死と考えているというのです。しかし、その中
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の一番多いのはお医者さんです。だけどお医者さんの場合
だって、内容は今申し上げた通りです。それから宗教者、
法曹界、これは50パーセントをちょっと上回る程度でご
ざいます。
法曹界について私は「どういう調査をしたのですか」と
脳死臨調の事務局に聞いてみました。驚くべきことには、
弁護士1万3千の中で50人だけ無抽出に選んでの調査を
したのだそうです。
「おい、やめてくれ1価値観が多様化している弁護士1万
3千の中から無抽出に50名だけ出して、それで弁護士の
意識調査だなんて堪忍してくれよ」と申しました。
何故ならば、弁護士の「|]には刑事事件というものを一件
もしないで一生を送る弁護士がたくさんおるのです。それ
から学者として一生を送ってしまわれる弁護士もおりま
す。商社の代理人になっておる人もおりますし、アメリ
カ、イギリスを飛び回って契約ばっかりやってる渉外弁護
士もおります。脳死の“の,,の字も考えたことのない弁護
士もいるのです。その人も含めて50名だけの意見を聞い
て、それが有識者だ、では困るよと゜弁護士界の中でも脳
死とか、人権とかいうものについて徹底的に勉強している
グループ、委員会がございます。その意見を聞かないで有
識者調査とは困るじゃないか、というようなことを申しま
-8-
した。
宗教界についても同じことが言えると思います。実は私
脳死問題の勉強を始めましたのが昭和59年でございます
が、宗教家のどなたかに脳死と臓器移植について解明して
いただきたいと思って、諸先生方を大正大学そのほか捜し
たのですが、論文が見つからなかったのでございます。今
は出ております。仏教界の方が論文を書かれたのは、ここ
2,3年でございましょうか、今はそんなことで盛んに論
議されるようになりましたが、今から10年前には宗教家
の方の脳死の論文は、殆ど書いた物はございませんでし
た。藤井正雄先生が書いた物がありましたが、これも葬祭
儀礼とか、遺体の処理の方法についての民族的、風俗的な
問題からの論文でした。脳死を法華経から見たらどうなる
か、ということがあまり論ぜられていませんでした。
伝統的な死と脳死
伝統的な人の死は、心臓死・心肺死・三徴候死と呼ばれ
るものです。
三徴候死とは何かというと、まず第一に息をしなくなっ
ている、肺呼吸が無くなってしまっている。次に心臓が止
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まった。心臓が止まったということは、脈が無いというこ
と。脈が無いということは血液の循環が無くなったという
こと。第三の徴候が、臓孔の散大です。臆孔の散大という
のは、お医者さんが亡くなった患者さんの目を開けて懐中
電灯で見て、瞳孔が開き放しになっていることを確認しま
す。これが三徴候死です。
脳死状態は、人工呼吸器によって患者さんを治療してい
る間に発生する状態で、患者さんが自分の力で呼吸できな
くなる状態です。その状態を脳死説は人の死だといいま
す。ところで呼吸は肋骨を動かす肋間筋と横隔膜など、い
わゆる呼吸筋の働きによってなされます。呼吸筋は脳幹の
コントロールによって動いています。そこで人工呼吸器の
スイッチを切れば、脳死患者は呼吸ができなくなり、息が
止まってしまいます。
脳死説
脳死が人の死だと考えている人は脳が各臓器や組織の''1
枢部であって、脳が人間の全体をコントロールしているか
らであると。総司令部であるところの部分が破壊されたら
体の他の部分は生きていても、もうその人は人ではなくな
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り死体になるというのです。
それに対して、脳死は人の死とは言えないという人は、
外から見たら脳死患者は全然死んだように見えないじゃな
いか。ご覧になったことのおありのある先生方はお判りと
思いますが、静かに眠っている感じです。良い顔色をして
います。何故顔色が良いかと言いますと、輸血・輸液のせ
いでしょう。私の顔色より良いかも知れません。表情は深
昏睡といわれます言葉のとおり、ゆっくりと眠っている感
じです。それでも時々は肩を揺すります。脈もありますし
人工呼吸器に応じて胸が動いております。しかし、顔を捻
っても応対しない、耳の中に水を入れても対応しないとい
うことです。乱暴なことはしてもらいたくないと思うんで
すけど。しかし、脳死者が死体なら構いませんね。耳の中
に水を入れてもね。
また気管に何か入れて咳をするか、しないか検査をしま
す。最後には無呼吸テストをやります。無呼吸テストとい
うのは、10分間人工呼吸器を外しちゃうんだそうです。
体の中に酸素を一杯入れて10分間酸素呼吸器を外しちゃ
うんです。そして、自発呼吸があれば脳死でない訳です。
これは要するに脳死説は、人工呼吸器が脳幹の働きを代
替しているのだ、人間の中枢である脳が死んでいれば、そ
の人間はもう死んだのだ、脳の組織が死んだかどうかは解
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剖しなければ確定できないが、機能が全くなくなっておれ
ば組織が死んだと考えてよい。そこで全脳の機能が不可逆
的に永久停止すればその人は死んだのだ、死体が機械の働
きで呼吸類似の動作をしているのだ、と主張するのです。
私の疑い
私は人間は、神・仏・宇宙の力によって生かされている
ものだ、自分の力で生きているとは思えない。たとえ医療
と医療機械によって生かされていても、まだ死んだとはい
えないのではないか、と疑います。
また脳死が人の死でないと思えるのは、見たところ死ん
だ人とは思えないこともその理由です。「死んだ脳に生き
ている身体」といわれていますが、身体が生きているよう
に見えるのは、血液の循環と酸素の取り込みなどの代謝が
行われているからです。
脳死状態になれば、人工呼吸器をつけておいても数時間
乃至数日で心臓停止にいたります。医学的には脳死は「蘇
生不能」「必ず死ぬ」とはいえても、「もう死んでしまっ
た」とはいえないのではないかと思います。
さて、私と一緒に脳死臨調の委員である梅原猛先生は、
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「脳死は人の死ではない」と言い切って頑張っています。
理由は簡単です。生命というものは何なんだと、植物も昆
虫も動物も人間にも共通した生命があるはずだと。それは
何だと、それは循環と代謝じゃないかと言われるのです。
植物には脳はない。脳はないけど、生きているじゃない
か。植物は初めから脳死か、とこう言うんですね。私が少
し乱暴じゃないんですかと言うと、乱暴じゃない、それで
いいんだといわれる。考えてみるとどうもそうらしい。
私、脳死臨調で脳死は人の死か、生物学的医学的に人の
死か、というテーマで議論する時、手を挙げて質問したん
です。
「生物学的の死について本日は論議されるそうですが、植
物の死を含めますか、カブトムシの死も含まれますか、人
間の死も含まれますか」と。
そうしたら、東大の総長をなさった病理学の森先生が戸
惑われましてね。「う-ん、植物はちょっとね、カブトム
シの死は.…・…、う-ん」と。カブトムシも脳の作用で呼吸
を支配しているようなことを説明する生物学者がおられる
らしいですね、昆虫の場合も脳死がありえそうなのです
ね。そこで私は「それでは今日は人間だけですか」と言っ
たら、「人間だけにいたしましょう」というので、中間意
見書の中から生物という言葉が除かれて、医学的と書いて
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あるのです。要するに人間の脳死問題だけを論ずるという
ことになったのです。
梅原先生は、「我思うが故に我あり」というのはデカル
トの主張だ。思わなくなったら人間ではないんだという考
え方は間違っている。やはりソクラテス的に、人間全休が
生きているか、死んでいるかを考えるべきだというので
す。
私の考え
人間の生死についての私が理解していることを申し上げ
ます。生意気言うなと言わずに聞いて下さい。
細胞があります。一つの細胞が分裂し、二つになりま
す。二つになった時、この一つの細胞は死んで二つの細胞
になったんじゃないでしょうか。一つの細胞が死んで二つ
が生きたんだと、私は思ったんです。このようにして生と
死を繰り返す細胞が寄り集まり、いろいろな臓器ができま
す。皮膚も臓器です。皮膚も細胞がしょっちゅう入れ代わ
っていますが、臓器としては生きています。そうすると人
間の完全死というものは、全細胞が死滅した時、全細胞が
腐敗した時ということになると思います。人が死んだと言
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われ、お棺の中に入れちゃいましても、土の中に埋めまし
ても、皮膚は生きているし、汗線も生きているので、髭が
伸びたとか汗をかいたという現象が起こってしまいます。
これは要するに人は死んでも一部の臓器が生きているとい
うことになると思います。死んだ人の腎臓が生きているか
ら、移植ができるのでしょう。
医学界の少数説
ところで脳死は人の死ではあらずという考え、そのよう
に述べる臨床のお医者さん、脳外科・神経科・内科のお医
者さんが相当おられます。例えば広島大学の魚住先生がそ
うです。しかし、先生は脳死状態からの臓器摘出、脳死移
植に反対しないと言われます。反対はしないけど、まだ心
臓が動いているのに死んだことにしちゃって病理解剖をや
ったり、血液製造の道具にしてはいけない。RH何とかと
いう変わった型の血液があるそうですね。人工呼吸器をつ
けた患者さんがちょうど脳死になってくれた、人工呼吸器
を付けておけば、希少な血液が生産できるわけですね。そ
うすると、そのRH何とかという人達に輸血ができること
になる。そうすれば多数の人が助かるから利用しようじゃ
-15-
ないか、アメリカの医学界でもう既にそのように言ってお
るけれど、そういうことはやらんでくれ、と言っておられ
ます。
脳死がもし人の死だとしましたなら死体です。死体であ
れば解剖も良いし、標本にするのも差し支えない。したが
って動いたまま標本にするのも差し支えないでしょうね。
医学の進歩のためには、エイズの特効薬を開発し、それを
脳死者の血管に注射してですね..……もうやめましょう。そ
ういうことをするな!とおっしゃるのが広島大学病院の魚
住先生です。
しかし、死体であるということになれば理論上やれる、
そんなこと考えるだけでも嫌だといって怒っていなさるの
が女子医大の廣澤弘七郎先生です。今春、京都でおこなわ
れた医学会でたった一人パネラーとして「脳死は人の死に
あらず」、「臓器摘出反対」を主張され、会場から拍手が
起こったそうです。
外国で移植を受ける人
現在の日本では、脳死は人の死であると認められていな
い。そのために日本では心臓移植ができない。心臓移植が
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できないために外国で移植を受けるということが現に行わ
れております。私の知り合いに信頼できる心臓外科のお医
者さんがおりますが、この人は心筋拡張症の患者さんをた
くさん抱えているのです。そのままなら、だいたい三カ月
以内に亡くなるという診断だそうです。そこで色々工夫し
て、アメリカやイギリスにいる自分の友人の医師に「何と
か引き受けてくれ」と電話で連絡をとって、「じゃあ、い
いでしょう。送りなさい」といわれて成田から送っていま
す。しかし、ロンドンに行く途中で死んでしまったとか、
ロンドンで死んでしもうたとか、手術が間に合わなかった
話をします。その外科医は、私の顔を睨みつけて怒るです
よ。「あんたが慎重論を述べるから患者を殺した」と。私
は困ってしまいます。そういう難しい現実が発生しつつあ
る中で、どのように考えるかということが本日のテーマで
す。
宗教的にどう考えるかということについてのヒントを述
べよ、というのが本日のテーマです。私にとって大変難し
いテーマになってしまいました。
-17-
オーストラリアの宗教社会学者の話
三年前にオーストラリアからファーレル・ベスさんとい
う女性の学者が、私の事務所を訪問しました。彼女と初め
て会ったのは十年前、大阪の外科系連合学会の脳死シンポ
ジュウムの席でございました。大正大学の藤井正雄先生が
この人は面白い人だからといって私に紹介してくれたので
す。日本語がぺらぺらにしやくれる女性で、確か京都で宗
教社会学の勉強を二年間した国費の留学生でございまし
た。その曰は脳死と臓器移植に関するシンポジュウムを傍
聴に来ておったのです。彼女はいったんウィーンの日本学
研究所に帰ったのですが、それが突然日本に現れ、私の事
務所に来たのです。
「今度は何しに日本に来たんです?」
と聞いたら、
「日本の宗教学者をずっと回って歩くんです、三カ月の
予定で」
「何を聞くんですか」
『日本の宗教者は、人間の心は体のどこにあると思って
いますか』
『死体を解剖すると、たたりがあると思っていますか』
「この二つのテーマを宗教者に聞いて歩くために来まし
-18-
た」
色々なってを求めて神道、仏教、さらには新興宗教まで
回って帰ったはずです。ひょっとしたら先生方の所へも行
ったかもしれません。
彼女は私に
「日本では私が居た十年前と今と同じ議論を続けていま
すね」
とこう言うんです。
「そうなんです。まだ解決しません」
「オーストラリアでは、お医者さんが力を持ってるもん
だから殆ど議論なしであっさり決めました。日本では未だ
議論しているということは素晴らしいことだと思います。
オーストラリアでももっと議論した方が良かったと思いま
す」
と褒めておりました。
「日本はまだ脳死を人の死と認めていないが、それには
日本人の感情や、宗教的な何かの特別な考え方があるんじ
ゃないかと思ってそれを探って論文にしようとしているん
でしょう」
と言ったら、
「そうです」
と。
-19-
「私力《ものを決定する時にね、おなかで決めるんです
よ。それからね、悲しいとき胸が痛むんです。本当にそう
思ってるんです」
と、私は言いました。
そこへ私の顧問会社の方が、私の部屋に入って来たので
「ちょっと、ちょっと、ここに面白い方がいるから聞いて
下さい。社長さん、あなた、難しい問題を決定する時どこ
で決めますか」
と、聞いたら、
「う-ん、ここだ」
と、腹を指しました。彼女、びっくりしました。胸が痛
む。これは彼女、少し解るようです。だけども決定するの
は“頭'’です。
そこで広辞苑を出して(彼女は広辞苑ぐらいは読めます
ので)、“腹,,で決める「腹」という字をコピーして見せ
たら、「う-ん」と憶っていました。そこで、聞いたんで
す。
「日本では男の子が泣いてると、お母さんたちは、『あ
んた、男の子なのよ。泣くんじゃないの、おなかの中にぐ
っと力を入れなさい』と言います。そうすると、『あう、
あう』と言いながら泣き止みますが、オーストラリアでは
母親はどういうふうにして、子供が泣くのを止めますか」
-20-
と。彼女も二人の男の子の母親です。黙って考えてて、
「う-ん。ほったらかして泣かせときます」
と、こう言うのですよ。これは嘘です。オーストラリアに
留学した法律学者に聞きましたら
「魔女が来る」
と、脅かすんだそうです。魔女が来る。恐怖は頭ですね。
やはり頭で訓練してるから、ああいう発想になるのかと思
いました。
阿頼耶識と脳死体験
この間、脳死臨調の講師に来られた東大の玉城名誉教授
が阿頼耶識を説かれて、死は全体の死でなければならず、
脳の死であってはならないということを力説して帰られま
した。私には難しくて、余りよく解りませんでした。
中陰とか砿とか、そういうものの考え方があるそうでご
ざいますね。これは死んだ後の経過儀式なのか、それとも
完全死に至るまでの経過なのか、一体どう解決したら良い
のか、私には不可解です。
次に、脳死を人の死であると言い切れない私個人の考え
方の中にあるのが脳死体験です。
-21-
実は十何年前に脳死体験について、アメリカで研究され
ておった事実を知りました。それまでは、古い人から聞か
される霊魂の話や三途の河原から戻った人の話を不思議な
話と聞いていたのです。心臓外科の大家の榊原先生からそ
の本の所在を聞かされ、その木を入手して勉強しておりま
した。
今年のお彼岸の新聞にマンガが出てましたですね、ご覧
になりましたですか。丸いトンネルがあるんですよね。そ
して、トンネルのこちら側では人がベットの上で死にかか
っているのです。次にトンネルの中に手のひらが出ていま
す。こっちに来るなという意味でしょう。そこで死にかか
った人が、ベットから出ていったら戻れと言われたので、
この世に戻ろうとするのです。ところが、振り向きますと
今までいたベットのところに白衣を着たお医者さんが何か
手に持って出ていこうとしているのです。多分心臓を摘出
して持って行こうとしているのでしょう。その脳死体験の
患者さんは、ベットに戻れず迷っているのです。「お彼岸
に寄せて」という題目のマンガでした。私は気味が悪いな
と思いました。こんなことが、一部の人に大きな不安にな
っているのではありませんか。宗教家は、この点をどう説
明し、どのように安心させてくれるのでしょうか。
先般のNHKで立花氏が脳死体験のテレビ放送をしてい
-22-
ました。脳死との関係をわざと関係づけませんでしたけど
も、本当は深い関係がありそうです。
脳死と法的・社会的混乱
私は法律家でございますから、法律的|こものを考えま
す。
人間は、生物の中で特別な扱いを受けます。人は人権の
主体であります。人に人権があることは憲法の前文に、第
18条・第13条にその他にも高らかにうたわれておりま
す。人の死が人権の終末点であります。人は死ぬことによ
って人権を失います。人権を失ったら何になるか。物にな
ります。所有権の対象となり人から支配される物になりま
す。法律的に言えば、これははっきりしたことです。
次に、人の体は誰のものでしょうか。自分のものでしょ
う(もっとも私はあなたのもの、という人もいますが..…)。
ところで、人間でありながら他人の所有物である存在が
ありました。それは人権を持たざる人類であります。それ
は古来の奴隷であります。奴隷は人間の体と同じ体をして
おりますけれども人権がございません。奴隷の所有権は、
所有者にあります。したがって、その奴隷が子どもを生み
-23-
ますと、その子どもも主人の所有物になります。主人が殺
したければ殺しても良いことは、牛や馬と変わりありませ
ん。これが奴隷であります。その奴隷というものがあって
はならないんだと宣言されたのが奴隷解放の人権宣言であ
ります。そのことも、わが国の憲法に高らかにうたわれて
います。
例えば私はここに眼鏡を持っております。私が死にます
と、死んだ瞬間に、私は物を所有する資格なくなります。
権利能力を失うと言います。そうするとこの眼鏡は、誰か
の所有物になります。相続人のものになります。死亡と同
時に相続が発生するのです。相続が何故発生するかと言い
ますと、死体には物を所有する資格がないからです。死者
から、生きている人に財産の相続が移るのです。
ところで、寺院は相続が発生いたしません。寺院は古来
法人でございます。法人には人間ではないけれども、人間
と同じように物を所有する資格があります。その法人が消
滅しない限り、ご住職が亡くなろうと、責任役員が亡くな
ろうと、組織体として法人は残ります。したがって、法人
には相続がございません。法人の住職が代わり、代表役員
が代わっていくだけです。そこに人間と法人の違いがあり
ます。
次に、人と動物の関係を考えてみましょう。牛を考えて
-24-
下さい。牛は生きている時は、飼い主として人間の所有物
です。死にますと皮も人間の所有で、肉は牛肉になって売
られます。生きているときも死んでいるときも物です。初
めから終わりまで物でございます。ここに人間との重要な
違いがあります。
お医者さんは『死というものは経過である』と言いま
す。この説明が医学界の殆ど定説となっています。
ところが、法律的なものの考え方では生と死の境界がは
っきりしていないと困るのです。しかも誰が見ても生と死
の境であるということが見えるものでないと困るのです。
脳死は人の死であるということに決定してしまえば、脳
死者の肉体は死体ですから、臓器移植は容易にできること
になります。
しかし、脳死を法律上の死と決定し、社会制度のうえで
も人の死と確定したら、どのような混乱が起こるか、私に
は予想がつきません。
たとえば、脳死と判定されたら人工呼吸器を外して病室
から霊安室に移されるのが筋でしょう。いや、家族が希望
すれば人工呼吸器を外さないで病室に置くことにするとい
う人もいますが、死体に対する治療費が健康保険で賄われ
ることはないのですから、病院の会計は患者の家族に予納
金の納付を請求するでしょう。現金の持ち合わせがなけれ
-25-
ば、患者本人の預金をおろしに銀行に行くことになります
が、銀行は死亡者名義の預金払い戻しに、相続人全員の印
と相続したことの証明を要求します。とても間に合いませ
ん。入院費用支払いの方法がなくなって、患者は霊安室に
行かざるをえなくなります。
そのほかにどんな困難な問題が発生するか、私には想像
がつかないのです。
法的な死は時分まで確定しないと困る
生物学的な死は経過である、人の死は経過であるという
考え方が支配的なようですが、法律的に考えた場合には点
でなければ始末がつかないことは、前に申し上げました。
国会議員さんでも、町会議員さんでもそうですけど、公
職選挙法という法律によって選挙をやりまして、三カ月以
内にその議員の資格を失うことがあります。例えば、有罪
判決を受けて資格を失ったり、死亡されて資格を失うこと
があります。三カ月以内ですと次点者が繰り上げ当選、三
カ月経ってから死にますと、再選挙です。
さて、脳死と心臓死との間には短くて四日か五日、お医
者さんの操作によって、長い時には百日ももつのだそうで
-26-
すね。それもお医者さんの都合で、脳死の判定を早くやる
と次点繰り上げで、心臓死まで待つと再選挙ということに
なります。お医者さんの都合で、宣伝カーが「よろしくお
願いします」と走り回るか、走り回らない力、の差が発生す
ることになると、私は思うんです。そして、その-票が、
現在の参議院みたいなことになると、消費税が取られるか
取られない力、の差に絡んでまいります。こんな重大な政治
問題になることを、お医者さんの都合で決めてもらってよ
いとは思えません。ましてや脳死移植実現のために、そん
なことになっては困ります。
-体どこでこのような問題を決めるべきものでしょう
か。私は公職選挙法という法律をよく読んで、その立法趣
旨を考えて、公職選挙法の立場でものを判断しなければ答
えは出ないと思います。しかし公職選挙法という法律を見
たら判るかというと、それでも駄目です。国会法、さらに
は憲法的な視点で、再選挙するか、しないかを判定すべき
ものです。脳死移植を解決することにだけとらわれて、憲
法的視点において考えなければならない。多くの法律制度
に及ぼす影響も考えてもらいたいのです。
もう一つ聞いて下さい。法務省の調査によれば、死もし
くは死亡という言葉が記載されている法律は633あるそ
うです。死または死亡という言葉が記載されている条項は
-27-
4,553あるそうです。それらの多くの法律のなかで
「脳死」を頭に入れて立法された法律は、ただ一つだけで
す。お判りですか。脳死臨調の設置法だけなのです。それ
以外の法律は、死か脳死であるか否かについて何にも考え
ず、心臓死を前提に立法されたものです。
先般もあったそうですね。脳死状態の判定を受けてから
内縁の妻があわてて結婚届を出しに行った。まだ戸籍には
死亡したとは書かれていないので届は受理された。そうす
ると、その内縁の妻は相続権が発生しますね。彼女に相続
権が発生すると共に、その亡くなった方に子どもが無かっ
たら、兄弟の相続分は1/4に減ってしまいます。もし、
その内縁の妻の届出が受理されなかったら、その死んだ人
の兄弟が相続人として遺産全部をもらえます。大変な違い
です。そういうようなこともあるので、死亡時刻は極めて
重要です。だから、戸籍法は死亡の年月日時分まで書くこ
とを要求しています(89条)。したがって、死亡診断書
にも時分まで書かなければなりません。脳死を判定する医
師が学会に出ていたため脳死判定が三日遅れた、というこ
とでよいのでしょうか。
某大学の有名教授が、患者の奥さんから頼まれて「いい
よ、いいよ、俺の専権で書くものだから俺の権限だ」と言
って、十数時間死亡時刻を延ばした診断書を作成、刑事間
-28-
題になりました。そして、大学の教授を辞めさせられまし
た。お医者さんは、この辺のところはいたってルーズなの
です。またこの間は、筑波大学で火葬場の時間に合わせて
死亡時刻を変えた診断書を発行しています。死亡時刻は法
律、社会制度に大きな問題なのですが、この点について脳
死臨調は何の審議もしておりません。私は三回程意見を上
申しましたが、何の処置もとられていません。ただ医学的
に脳死は人の死か否かという討論と、法律的に人の死とし
て良いか悪いかの議論、殺人罪になるかならないか、自殺
関与罪として成立するかしないかという方向の審議に重点
がいってしまっています。
お手元に今日の読売新聞の切り抜きが配られています。
ご覧下さい。中間意見の要旨が掲載されています。読売が
どこで入手したのか知りませんが、中間意見の草案が抜か
れています。脳死を人の死としない私と梅原委員は、少数
意見を別に書いて出すことになっています。
-29-
ある小児科医の坊やの話
脳死と臓器移植の話を一つさせて下さい。これは新聞に
も報道されてることです。小児科のお医者さんがおられま
した。確か関東の方ですが、その方は人工呼吸器をどのよ
うな場合でも外さない、最後まで患者の面倒を見る。脳死
は人の死であると思うけども、最後まで努力を続けるのが
医師の任務であるという信念を持った方でした。そのお医
者さんの5歳の坊やが、トラックに頭をぶつけられまして
大怪我をしてしまいました。「痛い、痛い」と泣きながら
救急車で病院に運ばれました。病院では、救急医が必死に
なって手当をしましたけれども、坊やは遂に意識を失って
しまいました。そして、呼吸も困難になってまいりまし
た。そこで人工呼吸器をつけて呼吸を補助しているうちに
脳死の症状が出てまいりました。すなわち、外部から刺激
しても反応しなくなるという状態になり、心電図も大分怪
しくなってまいりました。二日目に救急外科のお医者さん
は、小児科・のお父さんに、
「脳死になりました」
と言いました。坊やのお父さんは、
「医学的に助からないということを自分は承知している
けれども諦め切れないから医者として非常識かもしれない
-30-
が、人工呼吸器を取らないで積極的医療を続けてくれ」
と頼みました。脳死の判定がありますと、積極医療を止め
てしまいます。つまり、輪IIIlを止めて輸液に代えるとか、
輸液の:愚を減らしたりするのです。最後まで積極的医療を
続けて下さいと頼まれたお医者さんは、
「やりましょう」
と言うので、続けていきましたけれども四日か五日目には
もう助からないと、お父さんも納得しました。
その時にお父さんは、坊やの臓器を、肝臓、腎臓、全て
を提供することを決心して、その旨申し出ました。最後に
人工呼吸器を取り外す時、お父さんは必死になって祈りま
した。
「坊や、最後のチャンスだから自発呼吸をしてくれ」
と。しかし遂に自発呼吸は起こらず、心電図が止まってし
まいました。そして同時に臓器移植の手筈に入りました。
その父親の小児科のお医者さんは、
「医学的には正しかったとして、子どもがお役に立った
ことで満足すべきだと考えているけれども、やっぱり納得
出来ない」
と言って今でも悩んでおられます。
さあ、これで脳死になった人と、親と、臓器移植を待っ
ている患者と、それをお手伝いする外科医の、それぞれの
-31-
立場を考えてみましょう。
先ず、脳死が人の死であれば、坊やは死体であります。
人工呼吸器で呼吸が続いておっても死体であのます。心臓
を取ることによって心停止が起ころうと、循環停止が起こ
ろうと、殺人にはなりません。死体をもう一度殺すことは
出来ないからであります。
しかし、本脳死を人の死と考えない場合に、どうなるの
でしょうか。脳死状態の人の心臓を切り取ったら、その時
点で人は本当に死んだことになります。たとえ本人が生き
ている時に、私が脳死状態になったら、私は死んだと思い
ますから私の心臓を取って下さい、世の中の役に立てて下
さいと言ったとしても、脳死は人の死ではないのですから
心臓を取った時に、本当に死ぬわけです。そうすると本人
は自殺を希望したことになり、本人の依頼によって心臓を
切り取った医師は、死んだと思っていても、自殺のお手伝
いをしたことになります。自殺輔助罪が成立することにな
るましよう。しかし自殺輔助罪として処罰していいのでし
ょうか、そこに疑問がございます。
さあ、その次ぎ。父親は坊やの心臓なり肝臓なり腎臓を
取ることを申し出ました。一体、子どもの心臓、肝臓を提
供する権限が父親に何故あるのですか。あるとすれば、神
から与えられたのですか。社会から与えられたのですか。
-32-
それとも親の肉体の一部であったものだから、親はその権
限を持つのですか。親権は子供を保護するためにあるもの
であって、子どもを傷つけるためにあるのではない筈です
から、親権とは言えないと思います。その権限が国から与
えられたとするならば、子どもの心臓は親が取ってもよろ
しいという法律を作らなければ駄目じゃないでしょうか。
法律を作ればよい、と言っても政府が勝手に作ってよい
ものではありません。世間の人が社会が親が、子どもの心
臓の提供をすることが許されるのだと認めた時に、始めて
法律を作ってよいことになるのではないでしょうか。
私の疑問点
臓器移植以外に救命できない人のために、「脳死状態に
なったら私の臓器を摘出してもよい」と健常なときに、意
思表示をしておく方がおられます。これは仏教においては
最高の慈悲であると私は考えてます。キリスト教において
も、愛として最高のものであると考えております。それは
法を越えて是認されるべきものではないかと考えておりま
した。
ところが最近『三輪清浄』という言葉があることを知り
-33-
ました。布施をする者も、受け取る方も清浄でなければな
らないし、布施されるもの自体が清浄でなければならな
い。布施行というものは行でなければならない、宗教的な
修行でなければならない。そうでないものは布施とは認め
がたいから、許すべきではないということだそうですね。
私は、脳死を人の死と認めることには疑問がある。だけ
れども、そういう崇高な方々の志はいかしてあげるべきで
はなかろうか。崇高な行為のお手伝いをした医療関係者を
刑罰で処分しない方法があるのではないか、と考えていま
す。そういう法律構成をするのが法律家の任務ではなかろ
うかと考えていたのですが、仏教理論によって崩れてくる
ようで、実は困りきっています。
脳は人間の中枢である。特に脳幹が人の呼吸運動をコン
トロールしている、脳、特に脳幹の働きが永久になくなっ
たら、もうその人は機械によって呼吸をしているのであっ
て、自分の力で生きているのではない。人ではない。死体
だという考え方が正しいのか。脳死というのは限りなく死
に近いけれども、まだ生が残存していると考えるのか●す
なわち脳死者は、死んでしまったと考えるのか、まだ生き
ていると考えるのか。少なくても現在の医学では助けるこ
とができないということだけは、はっきり判りますますけ
ども、助からないものは死んだんだと決めてよいのかどう
-31-
力、、私にはわからないのです。頭が悪いせいで判らないの
ではなくて、考え過ぎたから判らないのだと思っておるわ
けでございます。
このことについて宗教家の方々は、どのような答えを私
にくださるでしょうか。カトリックの神父さんたちは、私
に対してその答えをくれませんでした。仏教の先生方は、
どういう答えをくださるでしょうか。
-35-
脳死と臓器移植に関する
臨床的な観点からの考察
滋賀県坂田郡山東町・徳源院住職
神戸大学医療技術短期大学部教授
日本脳神経外科学会専門医・医学博士
【し1口うjE。追宣
初めに、このような場で話をする機会を与えて戴きまし
たことを非常に光栄に存じております。どうもありがとう
ございます。
お寺に生まれ仏飯をいただいて育った者は、そのご恩を
忘れてはならないというふうに昔から聞いておるんでござ
いますけれども、しかしながら、実は大学生の頃はそうい
う話を聞きますといささか反発を感じておりました。とこ
ろが最近、やはり宗教的な雰囲気の中で育つことが出来た
ということは本当にありがたいと思っております。私が今
ずっと医者になりましてから色々やってきたということの
中に、仏門にいたということによるメリットというのはす
ごくあると思っております。本当にありがたいことだと思
っております。
-37-
私は、祖父の山口光回がおりました関係で坂本の国民学
校に三年生までおりました。その頃は小学校と言わなかっ
たんですが。それからずっと滋賀県の東の方へまいりまし
た。そこで彦根から、大学は岐阜にまいりまして医者にな
ったんであります。医者になって最初に患者さんをたくさ
ん待っておりますと、胃癌の患者さんなんかで、もう助か
らないとすぐ判る。おなかを開いてみて、これ駄目だと言
って閉じてしまうというような。それで手術室から病室へ
連れて帰りますと、患者さんは手術が済んで治ったと思っ
ていらっしゃる。それに対して、駆け出しの若造がその患
者さんに「もう手術うまくいきましたから、桜の花の咲く
ころには退院できます」などと嘘をつく。ところが、桜の
花が咲くまでには必ず亡くなられるわけです。そういうこ
とをいきなりやらされて、こんなことでいいんだろうかと
思ったわけです。見てますと、悲嘆に暮れている奥様や家
族たちに誰も何も手を差し伸べない。檀那寺に相談に行っ
たらどうですと、私も言わなかったですけれども、もし言
ったら「いつごろ葬式がある」と思われるぐらいのことじ
ゃなかったかと思うんですが。
ところがその頃、昭和38年頃でございますが、創価学
会の折伏というのをやっている人たちは、これは必死にな
って入ってきてました。とにかく鵜されたと思って、医者
-38-
の言うことなんかどうでもいいからうちへ帰依しなさい。
必ず治してみせる。治らなくても必ず幸せになれると。あ
のすごいエネルギーを見てまして、非常に感ずるところが
ございました。何を感じたかは申し上げられないんですけ
れども。
そんなことを思いながら色々やってまいりまして、臨床
の方から一番初めにこれは困ったと思いましたのが、この
資料の第1例でございます。61歳の男性が倒れている。
いろいろ調べて、交通事故ではない。呼吸が駄目になりま
したので人工呼吸器をつけました。昭和39年頃でござい
ました。それで、あとは呼吸が止まりましてだんだん時間
が経ちます。ところが、もう危篤だというので佐渡ケ島と
か色々な所からたくさんの親類の人が来たんですけれども
それが死なないわけです。葬式をするなら彼らを置いてお
かなければいけない。「もう人工呼吸器を止めてくれ。治
るなら帰りたい。何とかしてくれ」と大分言われたんです
が、これを今人工呼吸器を止めては私がこの患者さんを殺
したことになりますので止められません、というふうに上
から言われたとおりに言っておりました。非常にその家族
の方は困られたと、私は思います。体温は28度になって
います。もう体温を上げる力もありません。そういう患者
さんで呼吸は全然無いわけですから止めたらすぐ死んでし
-39-
まうんですが、心臓は非常に正しく打っておりました。こ
のような、恐らく今の場合だったら脳死の段階で、心臓が
欲しいと思う人がきっといるだろうというような状況であ
りましたけれども、これは駄目。これは必ず駄目になるま
で放って置かなければいけないというんで、今から言えば
時間と色々な精力と色々な薬品との浪費であったかもしれ
ないし、よく判りませんん。ただ、それが浪費であったか
どうかが判らないという理由が次にあるわけですが、この
人に関しては一見浪費であるかに恩われます。家族からは
とにかく怒られました。医者は、これで金儲けしているん
じゃないか。長いこと生かしておけば、それだけお金が入
るわけですから。今、出来高払いですから医者は下手なほ
どたくさん金が儲かるようになっているという、酷い言い
方もあるわけです。盲腸で下手に化膿させて2か月かかれ
ば、その分のお金が儲かるというおかしな話もありますの
で、そんなことも含めて大分怒られた、大変困った例でご
ざいます。
2例目の方は65歳の女性で、これはあるいは先生方も
気をつけられた方がいいかもしれませんが、毎日毎日ジョ
ギングして非常に元気な方でした。首から下は30代か4
0代の方。それが、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で意
識がなくなりまして、完全に脳が破壊されました。約1年
-40-
間生きていらっしゃいましたが、これは脳死ではございま
せん。植物人間です。だから、全然意思表示もできない。
感情もない。ただ、消化機能はありますし、排泄も出来ま
すから、鼻から管を入れて毎日家族が栄養物を入れる。そ
れで便が出なければ潅腸する。おしっこの方は管ですから
これは出る。感染すれば抗生物質を使う。それで1年以上
生きられたんですが、そのときは、そこの家族誰もが無用
に思わなかったです。医者の方から「よくやられますね」
と何度も言ったわけです。私だけじゃない、看護婦たちも
言いました。はっきり言ってこのお婆あちゃんを世話をす
るのは厭じゃないかとは言わなかったけれども、そういう
感じがしませんかということを聞いた人もありました。そ
れに対して家族の中には「いや、このお婆あちゃんには色
々私たち世話になりましてありがたかったから、どこまで
も世話をさせて貰います」という方がおられました。そう
いう方がおられる限り、これはやはり出来るだけのことを
やらなければいけないんだろうなと、そういうことを教え
ていただいたと思ってます。ただし、脳外科の方は何にも
出来なかった訳です。
それからもう一つは臨床例の3例に回しましたが、これ
は変なケースでございまして、普通の〈も膜下出血で、す
ぐ動脈撮影をやりまして動脈瘤がわかって手術しました。
-41-
元気に帰ってこれらまして意識もあったんですが、後で検
査をやったとき何かトラブルが起こりまして、そのために
意識が無くなった。それで完全に植物人間になってしまっ
たケースです。完全な植物人間というのは、意思の表示が
ございません。ただ生きているだけ。植物と言いますのは
定義をご存じだと思いますが、消化吸収、排泄をいたしま
す。それから生殖が出来ます。どの植物も花を咲かせて実
を生らすということをやります。しかし、自分で嬉しいと
か悲しいとか言うことは思っているかも知れませんが、我
々は一応感知できてないので植物人間という言い方をして
いるわけです。その完全に植物になられて3年間生きてお
られました。私どもは完全に意識が無いと判っているし脳
波をとっても脳波は無いんですが、ところが家族にしてみ
たら傍に寄って「お父うちゃん、朝だから歯を磨こうね」
とか何とか言っていろいろなことやっている。その時ちょ
っと目をパチパチしたりしますが、それは単なる反射運動
であって本人に意識があるとは思えないんですけれども、
家族にとってはそれが心の救いなんです。中学生の男の子
がおりましたけれども、それもお父うちゃんが病気だから
というので高校へ行くのも断念して一生懸命やって、本当
に希望の星というか、それがあったからこそあの家族は繋
ぎ止められたなと思われる、そういう例がございました。
-42-
この場合、これは植物人間であるから役に立たないと。
よく知りませんけれども、例えばナチスなんかの考えだっ
たら恐らく抹殺したんだろうと思うんですけれども、そう
いうことは難しいだろうなという気はいたしました。
それから4例目は10歳の女の子で、小学校でとてもよ
く勉強のできる子でした。また我慢する子でして、私がた
またま当直医で注射をする役でありまして、手術の前です
が注射に行ったら、
「あっ、注射するの」って言うんで、「しますよ」。
そうしたら、「ちょっと待って」。
心の準備がいるんです。そして「何とかちやんは泣かない
よ」って言うんです。これは一つのセレモニーなんです。
彼女自身が『私は泣かない、私はいい子だから決して泣き
ません』と宣言して、それからやってもらうと本当にきち
んとやる。そういういい子でした。ところがその手術はう
まくいかなかったと言うべきか、腫瘍が大きすぎたんです
が、亡くなられたんです。このとき完全な脳死の状態が約
1週間ほど続きました。ICUという集中治療室におられ
る間、ずっと彼女は全然意識がない。普通あそこにはいろ
いろな機械があります。いろいろな管がぶらさがっていま
す。電波が飛びかっておりまして、そんな中にぬいぐるみ
の人形が-つ置いてあるんです。あんなもんが何故あるの
-43-
力、。看護婦さんは「あれは、お母さんが面会に来たときに
置いていかれたんです。あの子がもし意識が戻ったらと。
随分高いぬいぐるみで彼女にとってはちょっと分不相応だ
ったんだけれども、とってもいい子で真面目にやっていた
んでお父さんに買ってもらえた。それは本当に宝物なんで
す」と言います。涙が出てくるような話なんですが、あの
宝物があればひょっとしたら意識が戻るかもしれないとい
う家族の気持ちというのがありまして、それはすごく大切
な事だと思いました。しかし、残念ながら私どもが見てま
すと脳波はありません。いろいろなことから理論的にどう
考えても戻るとは思わなかったし、戻らなかった。そして
心臓は打ってましたけれども腎臓が駄目になりました。そ
れで尿が出なくなる。尿が出ない体というのは下水道が故
障した都市というか、ごみ集めが来ない町のようなもので
すから、これは早晩その町は崩壊するわけです。そうなっ
ていくのをずっと見ておりまして、なかなか感情的な意味
でこれは難しいものだと思った経験がございます。
そういうのがあるかと思うと、今度は28歳の男性でご
ざいましたけれども、-人大阪で就職している元気な会社
員ですが、ある日すごい頭痛で倒れたらしい。大阪の某病
院に運ばれまして、そこで私どもが手術したことがありま
す。これは間違いなく、またぐも膜下出血でした。〈も膜
-44-
下出血というのは手術すれば治るというわけではなくて、
大体半分はその発作で亡くなります。後の半分が手術をす
ることによって再発が免れる。あくまで再発が免れるんで
そのときの出血そのものによるダメージというのは非常に
激しいものですから、必ずしも助かるとは申せません。水
害のようなものでして、堤防の決壊がものすごく大きくて
そこでどこかの村が、町が崩壊してしまった場合、もうそ
れはそれまでなんです。崩壊した町は今さら治せないんで
あと急いで堤防を補強して二度と再び破れないようにする
という手術しか今は出来ないんです。小さい出血であれば
助かりますし、全く何の異常もなく治ります。大きな出血
ですと、もう即死。その中間ぐらいで、この人は脳死にな
りました。お母さんが参りまして、非常に元気な人で、ニ
コニコとしている。子供が病気でも悲しくないというよう
な顔です。どうして悲しくないかと聞くと、「私の信念で
治してみせる。私が今まで一生懸命頑張って叶わなかった
ことがない」と言われるんです。また「自分のかわいい子
供だから、どんなことがあっても拾してみせます。先生方
も努力して下さい。私も努力いたします」と。だから、お
しめを替えるとか、体のマッサージとか何でもやりまして
非常に頑張ったんですけれども、亡くなられました。ただ
私はその時に居なかったんですけれども、「お母さん、亡
-45-
くなってだめですね」と言ったらさすがに涙の一つもほろ
っと落とされたでしょうが、すぐに非常に朗らかな、さば
さばとした顔で、私はやるだけのことをやったというよう
な、そういう歩き方で帰っていかれたというふうに看護婦
が申しておりました。そういう人もあるんだなと思いまし
た。
今までのは非常に家族の対応が色々あったわけですが、
反対に家族で変わっておりましたのは最後の例にお示しし
ましたように、これは女の方で、普通の脳出血で入りまし
た。脳出血というのは一応脳外科が診ますけれども、手術
はあんまり今はやりません。はやりで昔はよく手術しまし
たけれども、今は手術してみてもあまり治らないもんです
から。脳出血、脳溢血の手術をしてそれで意識がよくなる
かどうかと言いますと、はっきり言いまして1週間以上意
識が戻らないような人は外傷であれ、出血であれ、後、ま
ずまともな精神生活はどうも統計的に言ってですけれども
期待できないと思います。そういうふうになったら意味な
いというんで手術しないということが多くなりましたが、
どっちにしてもこの方は手術しなかったんですが、だんだ
んと呼吸が止まりかかってきた。まだ呼吸はあったんです
が、それでやがて止まりまして脳死ですという事態になり
ました。
-46-
ところが、今の話で3日や4日はなかなか心臓が止まり
ません。そうしたら、家族の方から「実は、この人の腎臓
だけでも誰れかにあげてもらえませんか」と。まだお婆あ
ちゃん60幾つですから大丈夫だろうと思いまして、県立
西宮病院の方が腎臓移植を非常にやっておりますので、連
絡しましたらすぐ二つ返事で飛んできて、色々調べて、そ
の腎臓と合う人をすぐ探したらしい。もしよかったらいつ
でもほしいと。それから家族の方も是非あげて欲しいと。
なぜかと言うと、その家族の中に腎臓が悪くて透析に1週
間に2回か3回行かなければいけない方がおられ、それは
大変な苦しみだというんです。お金も大変だし、時間も惜
しいし、その移植をすれば助かるということが判っていな
がら移植してもらえない。そのまま虚しく日を過ごさなけ
ればならない、それが辛いと。だからこのお婆あちゃんの
腎臓が役に立てばと。もし同じ家族の人にあげられると一
番いいんですけれども、型が合わないんです。血液型のよ
うなものでございますが、だから駄目だと。駄目ならいい
と言うんではなくて、そんなら是非何とかあげて下さいと
いうふうに家族が言われました。もちろん移植医たちも大
変喜んでおりました。
それで話をして、私は脳外科としては仲介役だけですか
ら「よろしく」と言いましたら話ができまして、一応全部
-47-
準備はしておきました。ずっと泊まり込みみたいに外科の
先生が来ておりました。そして心臓が悪くなったんで、ど
うも今夜あたりだろうと。何時にするかというのは、原先
生が釘を刺されてはおるんですけれども。血圧が下がり出
しました。このままだと腎臓も駄目になってしまうという
ころに、人工呼吸器はそのまま動かしていたんですけれど
も、心臓が止まりかかったときには普通ですとどんどん治
療するわけです。強心剤を使ってマッサージするとか、電
気ショックするとかしてやると、もう6時間とか24時間
とか延びることもありますが、それをやらなかっただろう
と思います。そこら辺は私は任せておりますので知りませ
ん。とにかく心臓が悪くなってきてもう止まる、または一
たん止まったというところで、心臓死とみなして時間を書
きとめて、急いで腎臓を出して持って運んだらしいです。
うまくいったと聞いております。
ですけど、どういう人に移植したか、どのようになった
かということは詳しくは報告してもらえないもんですから
私ども判りません。腎臓というのは移植してもらう人の方
は、この太股のあたりを切りまして、その一人の人から2
つできますから、-つの腎臓をここに持っていく。そして
そこの動脈と静脈を繋ぎます。そうすると、腎臓から尿管
という尿の出てくる管がございますが、もう繋いだ途端に
-48-
その尿管の方へポトポトとおしっこが出てくるそうです。
きれいな尿が出てくる。そうすると、それまで2日に一通
ずつ透析を受けなければいけなかった、どす黒い顔をして
苦しみ悩んでいた人にとって自分の尿が出るという、何と
もロで言えない嬉しさだそうです。そういうふうに言って
おりますので、その意味では良かっただろうなと思いまし
た。
ここに書いておりませんけれども、実は2回アメリカに
留学する機会があり、シカゴのクックカウンティ・ホスピ
タルというところで脳外科の医者を1年やりましたんです
けれども、そこでアメリカ人というのはさばさばしている
なと思いました。日本人よりはるかにドライでして、例え
ばくも膜下出血の患者さんがいて、いろいろ調べてみて、
「駄目だよ。今、人工呼吸つけているんだけれども、これ
は助からないよ」と言うと、
「ああそうか、どうしても駄目か」と言います。
「わかった。じゃあ、あんまり何もしないでくれ、無駄な
ことだ」というようなことは、かなりの人が言いました。
という意味は、あっちの国の方が医者の言うことを信用す
るとも言えます。日本の医者は信用されていないことは事
実です。日本では何かすごく偉くなって成功する人という
のは、行為が立派なんじゃなくて、金儲けがうまいという
-49-
ことが多いみたいです。何ごともお金が儲からないことは
一生懸命やれないのかもしれません。ですから、どんどん
治療して大病院を建てて、どんどんと隆盛になっていくと
いう人は、ある意味で社会的尊敬を受けていますけれども
その場合は問題になったのかもしれませんが。
とにかく、何を言いたいかと言いますと、受容だと思う
んです。死の受容ということがアメリカでは全然違うんで
す。日本人の場合は理論的に受容しにくい。口で言ってか
くかくしかじかであったから駄目でしょうとか。それから
絶対助からんかというと絶対じゃない、100人のうち5
人は助かるでしょうとか。お宅の場合なら95人の方に入
りますと。ちょっと考えさせてくれと一日考えてきて95
の方に入るなら、もう人工呼吸器を止めてくれというよう
なことを考える人が多かったです。
でも日本人はなかなかそうはいかない。お互いに親類同
士が仲良しで助け合う。そのかわり喧嘩もしますが、口で
言わなくてもわかっているやない力、とか、義理とか人情と
か色々なことでうまくやっていきます。
そんなことで、今お話ししたことで先ず一番言いたいこ
とは、脳死なり臓器移植なりの話をするときに家族の立場
それから患者の立場です。患者の立場というのは私が診て
いる限り、特に脳死の方は絶対に自分の意志を表現するこ
-50-
とが出来ませんので、これはこの際ちょっと横に置かして
いただきます。家族の立場というのはすごくあります。家
族の立場については余り論じてないんですが、これは大切
だと思います。家族の中に、どんなことがあっても臓器を
提供してもらったら困るという人があれば、これは仕方が
ない。特にその理由が死は受容する、しかしという場合な
のか、情緒的なものなのか、それとも理論的なものなのか
そこら辺ははっきりしなけばいけないと思うんですが、理
論的にでもうちは困るという方はやっぱりしょうがないと
思います。それから、もっと看病させてくれという人があ
る。もっともっと努力をさせて欲しいと。そういう
方は仕方がないと思うんです。反対に、うちの若いもんが
腎臓で非常に苦しんでおるから、その分ちょっとでも人の
ためになるんだったらあげてくれという人があるのに、こ
れまたそんなことは出来ませんと言うのは大変おかしいと
私は思いました。
先程もちょっと山田さんに申し上げていたんですけれど
も、私は移植医ではございませんので、自分が臓器移植を
したいと思ったことはないし、決してそのような立場では
ないんですが、医者の方はみんながやらない臓器移植を私
のところが真っ先にやる。それから人が5例しかしてない
のにうちが1000例やる。そういうことに対する功名心
-51-
というのが無いかといったら、これはあると言わざるを得
ないです。私もほかの立場だったらそういうことがあるか
もしれない。それだけたくさんの、やはりいいことをした
と思ってますから、それがたくさんできるというためには
努力をしたいとみんな思うと思います。その延長線で脳死
を認めれば心臓移植がやり易くなるのであれば、脳死を認
めて欲しいということを誰も言いませんけれども、それを
言ったらまずいと思ってみんな必死に押さえているみたい
ですけれども、移植医の本音としてはその気持ちは私はあ
るだろうと思います。これはあくまで推定でありますが。
また、逆に心臓移植をやらなければ脳死を認める意味があ
んまりないとも言えます。だから、そこら辺は本音と建前
というのがはっきりしてもいいんだろうと思う。
ただし、だからと言って、移植医が「悪」かというと、
私は絶対「悪」ではないと思います。何故かと言いますと
ちょっと話が飛びますが水頭症という病気をご存じでしょ
うか。福助頭といいましたけれども、赤ちゃんで生まれた
ときから頭が特別大きくて、放っておけば死んでしまうわ
けです。脳の中に水がたまりすぎますので放っておかない
で頭に穴を開けて、管をつけて心臓なりおなかに繋ぐよう
になりました。それをやりますと初めのうちはうまくいか
なかったんです。私が医者になった頃はかなりやったんで
-52-
すが、かなり亡くなられました。だんだんうまくいって上
手に、そうしたら生き延びるんです。そうすると頭が大き
くて、足がつんつんして歩けないという、いわゆる脳性マ
ヒの方がたくさんできました。それに対して普通の開業医
の先生が非常に怒っていたことがあります。大学病院の先
生たちは自分のおもしろさで治療して、家族には大変な負
担を押しつける。周りの医者はこれで往診したりしなきゃ
いかん本当に面倒だと。あんなことをして面白いのかと言
って怒っていた人がいましたけれども、それが昭和40年
頃です。
それから昭和50年、60年になりまして、今度は正常
圧性水頭症というのがお年寄りの老年痴呆の中でかなりみ
つかりました。その場合、この同じ手術をいたしますとき
れいによくなる。これは三つの特徴があるんですが、歩き
にくい、尿を失禁する、三つ目はデメンチヤ、いわゆる痴
呆である。この三つが急に起こってきた場合にCTスキャ
ンをとって、水頭症があるとわかりますと、早めに治療す
れば治る人が確かにあります。アルツハイマー病とか脳血
管性の痴呆ではなくて、水頭症による痴呆がありますので
それなんかも今は安全に治療が出来るようになりました。
そうすると、その昔赤ん坊たちにある程度犠牲を強いてや
ったかもしれないテクニックが、今は非常に役に立ってお
-53-
ります。特に、〈も膜下出血の後の水頭症には非常によく
効きますし、もちろん今は赤ちゃんの水頭症も非常に安全
にできるようになっています。ただ、安全ですけれどもも
ともと脳が余りないというのは、これはまだ脳組織は作れ
ない。またこれ以上悪くなるのを押さえることは出来ませ
ん。
キリスト教関係の人は何でこんなに苦しむために生まれ
てきたような子供が、何故だということでかなり悩んでま
した。生まれたときからひどい奇形があって、親にも経済
的・時間的・肉体的に大変な犠牲を強いる。医者の方はど
んどん手術するが、ちっともよくならない。何とかうまく
生き延びても、まず一人前とはいかない。何故こんなこと
があるのか。キリスト教の偉い人に聞きますと、それは神
の栄光の証明のためであると言われまして、それまでなん
ですが。それはそうかもしれません。それで納得する人た
ちはいいんですが、納得しない普通の、キリスト教でも凡
夫という言葉があるかどうか知りませんが、一般の人たち
はそんな子供なら生まれてきたときに放っておいてくれ、
治療しないでくれと。そうすると死ぬじゃないか。大変家
族も助かる。産んだお母さんには黙って奇形がひどくて生
まれてすぐ死んだと言っておいたらいいから、どうか治療
しないでくれという親が今、あるのも事実です。
-54-
しかし、今のところそういうことは出来ないんですけれ
ども、産科の先生の中では余り治療を積極的にしないとか
脳外科に回さないという人がおりますので、そういう人た
ちは亡くなっているのかもしれません。
難しい問題がたくさんあるんですけれども、言いたかっ
たことはまず家族側の問題と、それから医学の進歩。進歩
なんていう生意気なこと言っていいかどうかわからないん
ですけれども、でも前よりもよくなった。水頭症の治療が
出来るようになったというのは、ある程度そういう犠牲の
上に成り立っていますし、盲腸の手術だって胃癌の手術だ
って、初めは下手だった筈です。それでたくさん死んでい
たと思う。今となると、それが許されているみたいな感じ
がいたしますので、うまく言えないんですけれども時代の
進歩というか、進歩ではなくて変遷と申しますか、かつて
はそれが悪であったものが今はそうでないというものもあ
る。その反対もあるということで十分考えなければいけな
いと思います。
次に、偉い先生方のお話をお聞きしたり、読ませていた
だきました。また勧学の先生方のご意見もたくさんござい
ました。その中に例えば、人から移植を受けてまで命をな
がらえたくないというご意見のある人があるんだというこ
とを書いていらっしゃる本があります。しかし、それは-
-55-
つの意見であります。仮定の問題ですが、もし移植を受け
ないと命が一年でなくなる。移植してもらったら10年も
つ。どうしましょうと聞きにきたときに、そういうふうに
言ってもいいと思うんですが、どうも現実の問題というの
は、赤ん坊が顔が黒く、黄色く、干からびてきて肝臓が非
常に悪い、それで肝臓の移植をすれば助かるけれども、し
なかったら絶対駄目だ、そういうようなのを私、若いころ
外科にいたときに何例か見ました。先天性胆道閉塞症の赤
ちゃんで、何にもすることが出来なくて、それに対して外
科の偉い教授が言われたことは、「不幸な星の下に生まれ
た子供だね」。それ言うだけは大変簡単なんですけれども
家族としてはやはり人事を尽くして欲しい。人事を尽くし
てそれで駄目ならという気持ちがありまして、それを我々
は尽くしてきてなかったと思っておりましたところ、最近
京都大学なり信州大学なり島根医大で生体肝移植等をやり
まして、それからオーストラリア等で死体からの肝移植も
成功してますので、これはかなりショックだったんです。
そんなことを色々考えてきておりますうちに、どうして
も言わなくちゃいけないというのは、手術をして欲しいと
いう、移植して欲しいという、移植してあげてくれという
家族、それから移植をこい願っている本人ないしはその家
族、そちらの言葉があんまり論議の中にどうも浮かび上が
-56-
ってきてないんじゃなかと思うんです。机上の議論という
のはもちろん非常に大事なんですが、それだけでなくて、
現場ではどうだろうかということでちょっと考えたわけで
す。そこで、実は中枢神経についてちょっと私は専門では
ありませんが、どうしても言っておきたいことがございま
す。これが人間の頭といたしますと、普通に脳というのは
いわゆる大脳があります。それから小脳がありまして、橋
とか延髄とか、こんなふうに脳があるわけでありますがこ
の大脳にも実を申しますと二つに分かれるところがありま
す。一つは非常に簡単に言いますと、もっと詳しく分かれ
るんでしょうけれども、大脳辺縁系limbicsystemと言う
んですが、それから大脳の新皮質、ネオコルテックス(neocortex)というのがございます。ネズミとかウサギなんか
の脳ですと、辺縁系が殆どでございます。それから人間と
かになってまいりますと、この新皮質が非常に増えてきて
おります。
これは進化の上で大違いなんですが、この辺縁系という
のは何するところかと言いますと、ちょっとここに書きま
したけれども、いわゆる嗅覚、臭いを嗅ぐ、それから記憶
と情動、それだけを主に司っています。人間の場合では特
に臭いを嗅ぐというのと、ものを覚える、それから情動、
怒ったり泣いたり喜んだりするところ、そういうことに非
-57-
常に関係のある脳があるということが判ります。
それはうんと中の方、奥の方で、古皮質とも言うんです
が、新皮質に比べまして古い脳です。古い脳というのは我
々たくさん持っているわけです。ですから、非常に立派な
高僧と言われる方でも、やはりいきなり後ろからバンと頭
をはったら何するんだと怒られるんじゃないかと思います
し、これから御馳走を差し上げますと言っておきながら待
たせて待たせて、「すみません。ちょっと実は料理屋がつ
ぶれました」なんてことを言いますと、きっと怒られると
思います。その反対に好意にあふれる贈り物でももらえば
誰だってニコニコしますから、そういう意味で、この辺縁
系の働きが無いわけはないのであります。
記憶にも関係しておりますので、これは非常に大事なん
ですが、情動はそのまま大脳だけでなくて直接視床下部に
行きまして、視床下部から自律神経系に行っております。
自律神経と申しますのは自律神経失調症って、いわゆる鞭
打症だとか更年期の時の、あの病気だと思っていらっしゃ
るけれども、あれと全然違いまして、自律神経というのは
自分のそれ自体が自律で動いているところでございます。
ご存じと思いますが、例えば心臓というのは急に怖い目に
遭わされたら速く打ちますし、眠るときにはゆっくりにな
ります。お風呂に入ってお酒の-杯も飲まれて、私は飲め
-58-
ないんですけれども、のんびりとしているときというのは
心臓がゆっくり打ちます。そのかわり血液は皮膚の方を流
れて、桜色の皮膚になって血圧は下がります。お酒を飲ん
だら-たんは必ず下がります。そういうのは自律神経の働
きです。
反対に、力、-と怒ってきたら手のひらに汗が出まして、
瞳が大きくなって心臓が速く打って血圧が上がります。そ
ういう状況というのは交感神経の方、どちらも自律神経の
働きなんですが、それと情動が密接な関係がございます。
だから人間の体というのは確かに感情というのが非常に
密接に関連していることが判ります。そうすると、いくら
なんでも腹が立つ、こんなこと許せないというようになれ
ばカッカとなって、実はあいつの言っていることは正しい
んだけれども、しかし許せないてなことがありますね。そ
ういうことはどうもここら辺と関連があるみたいなんです
が特におなかが痛いから機嫌が悪いとか、頭が痛いから機
嫌が悪い、そういう上司に当たった部下は災難ですけれど
も、よく頭が痛くなるなんていう上司もおりますので。
それから、女性の方が非常に感情的だと言いますけれど
も、女性の場合にはホルモン的なサイクルがあります。そ
ういうことによって、やはり感情が情動ですから関連する
んだということも言えるんです。もっとも、男性の方も非
-59-
常に好い加減だと女性がよく言われますけれども、それも
事実なんです。
ところで、反対にこの新皮質、ネオコルテックス(neocortex)はどんなことをやっているかと申しますと、これ
は色々なことがありますけれどもいわゆる運動、さっきか
ら見ているんですがあんな立派な字を書いたり、時計の修
理をするとか、そういうような非常に細かな運動、それか
ら生まれつきではなくて練習してうまくなる運動とか、そ
んなこともやりますし、言葉を聞き分ける、見た物を見分
ける、そんないろいろな作用がある。
そのほかに、ここの前頭葉にまいりますと、非常に大事
な人格と言いましょうか、向上心と言いましょうか、そう
いうようなものを司っているところがあります。ここがや
られたしまうとどうなるかというのは、何例かあるんです
けれども、私が持っている患者さんでこの前の方だけやら
れてしまった人がおりました。ほかは何ともないんです。
知能もありますし、計算も出来ますし、何でも出来るんで
す。ですけれども全然、何と申しましょうか、本当に酷い
めちゃくちゃな人間になっちゃうんです。例えば、電話が
かかってくると「はい、はい」と出ます。「はい、はい。
わかった、わかった」と言って電話を切ったから家族が今
どこから電話と聞くと、「知らん。わからん」。そんなこ
-60-
とではいかんじゃないかと怒ると、そもそも私がすぐ忘れ
るということを知っていながら、何で私に電話に出したな
んて怒り出したりしまして、そういうことがあって本当に
困っていると言っておりました。
それから、私の知っているある患者さんは労災事故で頭
を打ち、前の方が潰れました。それまで奥さんと二人で暮
らしていたわけですが、ある時奥さんが胃痙箪でのたうち
回っていると救急車を呼んだりいろいろ介抱してくれたわ
けです。しかし、労災事故で頭が潰れた後は、同じように
また奥さん、多分胆石があるんでしょう、すごくおなかが
痛くてころげ回っていても彼は何もしてくれないんです。
苦しい息の中から奥さんが何故救急車を呼んでくれないの
かというと、「今、ご飯食べているから、ご飯が済むまで
はそれどころではない」ということなんです。本当にそう
なんです。
それから、もう1例は19,20歳で脳腫瘍でここら辺
がやられた患者さん、もう三十幾つになってますが、元気
に治ってますけれども董恥心が全然なくなりました。だか
ら、私の顔を見たらすぐに言うことは、「先生、私まだ生
理がない」。はじめの脳腫瘍の治療のために、放射線で下
垂体まで焼きましたから、恐らくホルモンのバランスが全
部駄目になっているんで月経が無いんです。
-61-
「生理がない。これではお嫁に行けへんから困ります」
それをたくさんほかの患者さんも医者もみんないるところ
でやあやあ言うんです。親が「そんなことは後であっちの
内科の先生に言おう」と言っても、べらべら言う。そして
そのくせちゃんと家の中で親が忘れて置いたお金をちょっ
とかすめて物を買ったりするような、そういう知恵はちゃ
んとある。
そういうところがございますので、ここら辺がいわゆる
新皮質の大事なところだと思います。だから、人間と言い
ましても、全人的なとか何とか言いましても、いろいろな
関係がありまして、非常に立派な哲人と言われるようなカ
ントであれ、立派なお坊さんの中の非常に偉い方であれ、
また普通のそこらにいる人であれ、ここが非常によく働け
るような状況の場合と、おなかの方が具合い悪くてこれを
通じて悪くなっている場合とか、いろいろなことがありま
すので、どうもそこら辺ははっきりしなけばいけないので
はないかと思いました。
それが、お寺にいたことのある医者からの感じとしてど
うするかと言うと、ちょっと違うんですけれども、私とし
ましては、どうも新皮質というのは人間だけが特別進歩し
ているわけです。だから、恐らく宗教というようなもの、
道徳というようなものはこれに大いに関連していると思い
-62-
ます゜お釈迦様がこう言われたとか、色々なことを書いた
本を読んでおります限り、確かにこれは新皮質の働きなん
だなと思います。一方、普通の人間の感情というのは辺縁
系です。この間も宗務庁の方が話をしに来いと言われたと
きに、自分の子供が例えばもし脳死になった場合に臓器を
あげるというようなことは感情的にできないとおっしゃっ
ていました。その感情的にというのは辺縁系なんです。
ですけれども、本当の意味での受容ということになると
辺縁系も関係してくるかもしれない。理論的にこれはどう
にもならないし、それから長い長い地球の生命、宇宙の中
で、ある人間が、そのまた人間の子供がどうかなるという
ことはどうでもないという考え方をする人があれば、その
人にしてみれば何でもないかもしれない。しかしこれは何
とも言えませんし、新皮質と辺縁系との繋がりは個人のも
んですから、横から文句言えるもんではないんですけれど
も、普通の我々凡夫はやはり辺縁系に近いですね。しかし
どうも永遠の、久遠実成と難しいことを言うんではなくて
も、どうやらこちらで言って考えたことというのを-たん
吐き出して、紙にでも書きつければ、これはそれこそ雪111
の偶ですか、ああいうようなもの、諸行無常とか、そうい
うような言葉、それになってしまえばもうこの肉体は滅び
てしまっても、永遠かどうか知らないけれども、生きるも
-63-
のだと思うんです。ですけれど、どうも新皮質も辺縁系も
脳は心臓がやられる前に先に壊れてしまうところでありま
す。もちろん真っ先に新皮質がやられます。それから心臓
までやられていくんです。
この間、月刊住職という本に各宗派の方が書いたのがあ
り、父親の方から送ってくれましたんで読んでまいりまし
た。それによりますと、ある禅宗の方が、自分は肝性昏睡
で死にかかっておる。ICUにいた。そのときに、この患
者の肝臓がどうのこうのと言っていることが全部聞こえる
んだけれども、しかし、自分から何も言えない。非常に怖
かったというようなことが書いてありました。このままで
この心臓を取り出して向こうへ移植してしまおうなんて言
われたら、自分はどうしようということを書いてありまし
た。
しかし、そんなものなのか。その人も感じていたと言い
ながら何も心配していなかったみたいなんです。私自身も
胆石の発作みたいなことですごくおなかが痛かったことが
あります。その時に、これは死ぬだろうかと力、、何とかな
らんだろうかと余り思わなかった。何を思ったかと言うと
とにかく痛いなと思いました。痛いなというのがまた来た
な。これはあとどれぐらい続くかな。これだけ続いたらま
た痛いかな。まだ来るんだろうかな。何か苦しいときとい
-61-
うのはそればっかり考えていたように思いますが、それが
本当であって、ある程度苦しくなってくるとどうもあんま
りいろいろなことは考えられなくなります。
だから、はっきり言って本当の肝性昏睡だったと言えな
い。ただ、要するに弱っていただけなんで、それを意識が
あったから、意識があるうちに色々なことをされてはなら
ん。ましてや心臓が止まる心臓死の前に、脳死、脳死と言
われながら本当は自分で生きたいと思っているかもしれな
いじゃないかという意見がありますが、これはやはり非常
に情動的なもので理論的な考えではないと思います。理論
的な考えと情動的な考えというのは峻別はできないにして
も、区別すべきだと思っています。私たちが物を考えると
きに、その理屈は情緒的な理屈ではないか、それからそう
でないかということは別にして考えないと話が進まないん
ではないかと思いました。
そんなことをやってまいりまして、植物人間と脳死とは
違うんですけども、色々なことを考えておりました。それ
で考えておりますうちに、どうも移植ということはどうか
ということを言われましたんで、そこら辺から真面目に考
えた訳です。
まず移植に限りませんけれども、他のものから自分にも
のをいただいてそれで生命を延ばすという行為は、お米も
-65-
食べております、踊りの海老も食べます、それから刺身も
食べます。活けづくりというのは、僕はいかんと思うんで
す。個人的に言いますと、鯛の活けづくりなんていうのは
残酷そのものだと思うんです。事実美味しいのは沖じめと
言いまして、釣ったときにすぐ殺して血を抜いたやつだそ
うです。それはちょっと話が違いますけれども、いけすに
入れて非常に苦しい目に遭わせて、狭いところで徴が生え
るような目に遭わせて、いじめいじめて後はまだ生きてい
るうちに刺身にして、それを美味しい美味しいと言って食
べている人間もどうかと思うんですが、ああいうふうなこ
と自体、私どもはある意味では移植ではないかもしれない
けれども、貰っております。それが人間の場合、もうちょ
っと行きますと輪Iluです。輪1mはIリ]らかに、なかったら助
からない。非常に意味があります。ところが、輸血は全く
今は許されています。輸血を許さないのはエホバの証人だ
けだと思うんですが、あれはまた別の教義のことがあるそ
うですから仕方がない。そうすると、角膜の移植にしても
腎臓の移植にしても、そうなってくると移植そのものは私
は現時点としては肯定的に考えていいんではないかと思う
んです。もちろん、現時点の話でありますが。
そうすると最終的に心臓移植はどうするのか、肝臓移植
はどうするのか、ということになるんですが、それに対し
-66-
て宗門としてどのようなお考えになるのかということで、
多分私のつまらない話を一緒に聞いてやろうと言われたと
思うんですが。それによって助かるという人たちは助けて
くれと言っているし、もし助かるものならば、うちのもの
でもいいから役に立てて下さいという家族たちがいる。た
だし、本人に意志を述べることが出来ない場合は家族が、
遺族の意志というようなものが許されるとすればの話です
が、多分法律的にいいんだろうと思いますが。であれば、
これはすべていい、いわゆる崇高なることだろうと思うん
です。ここら辺からは専門と違いますんで非常にめちやく
ちやを言いますが、どうかお許し戴きたいと存じます。慈
悲というんでしょうか、他人のために自らを顧みないとい
う、それは最も崇高な行であるという考え方からいきます
と、それを少なくとも留めるというか、じゃまをするとい
う行為はまずいんじゃないかと現場に立っていて思いまし
た。さっき申しましたように、確かに日本人の場合はうち
のこの患者さんの臓器をあげて下さいという人は殆どあり
ませんし、あげて下さいと誘ってもやめてくれという人が
多いんです。それはしょうがない。しかし、うちからあげ
て欲しいと言われる方があるのに、それを時期尚早とだけ
言うのはまずいというか、少なくとも慈悲ということから
提供したいと言っている人たちの気持ちを全然考えていな
-67-
いんじゃないか、考えていらっしゃるのかもしれませんが
そう思いました。だから、そういう気持ちがある人たちは
事実ですので、それを考えて何かすべきじゃないか。
そうすると、脳死で心臓移植するのはどうかという最終
的なことになるんですが、ここで一番問題は脳死の判定が
正しいのかということになります。これは恐らく、実は幾
ら論じてもわからないと思うんです。ですけれども、先程
山田さんもおっしゃってましたけれども、結論が出ないと
いうのも一つの結論ではないかという意見もあるのも事実
なんですが、苦しみもだえて議論をして、議論ができ上が
らないというのはいいと思うんです。だけど、面倒だから
先に延ばすというのは似て非なるもので、とんでもない犯
罪だろうと思うんです。ですから本当に苦しみ悩むという
のは、腎臓なり心臓を欲しいと言っている人たちの気持ち
になって、そしてあげたいといっている人たちの気持ちに
なった上であればずっと話は進むんだろうと思うんです。
では、死の判定はどうかと言いますと、これは私の個人
的見解でありますが、流動的である。死の判定は流動的で
あるというのが結論的に言うべきだと思っております。死
の判定は流動的であって決まったものではない。インド仏
教関係の方々がおっしゃっておりました意見がございます
ね。その中で、例えば人間の体がまだ温かいうちは、そし
-68-
て意識があるうちはまだ死ではないという考え方がある。
おっしゃるとおりなんですが、これは古代インドでは確か
にそれでいいと思うんです。しかし、今はまたちょっと違
います。それから、心臓が止まったことをもって死とする
いうんであれば、心臓が止まってマッーサージしたら動き
出すことがあります。マッサージしないで置いておけば死
でありますが、しかし救急隊が非常に真面目にやったら助
かることだってあるわけです。しかし、恐らく江戸時代に
は心臓マッサージというのはなかったと思いますから、こ
の状態は必ず死であった訳です。それから、体があったか
いからと言いますけれども、いま低体温麻酔というのは余
りはやりませんけれども、やはりやります。体温を28度
から26,27度まで下げまして、そこでいろいろな手術
をする。そうすると頭に1mを流さなくても、しばらく止め
ておいても大丈夫で、その間に心臓の手術をいたします。
麻酔がかかっていますから意識はありません。意識は全く
ないと言っていいと思います。脳波も全く平坦です。それ
で、心臓も止まっています。心臓を開いてやってますから
冷たいわけです。これは死んでいるのかと、いやそんなこ
とはない。繋いだらまた動き出して元気に、ありがとうご
ざいましたと言って最終的には患者さんは挨拶して帰られ
ますから。
-69-
ですから、脳死の判定というのは余り心臓死ということ
にこだわるべきではないだろうと思います。そもそも仏教
指導者が-番初めに「こだわるな」とおっしゃいましたの
で、とにかくこだわってはいけないだろうと思うんです。
死んでいるのが、何をもって死んでいるのか。先程の原先
生もおっしゃってましたけれども、死というのは、本当に
死んでいるというのは何か言えば、恐らく火葬にして灰に
なったもの、これは多分死んだと思う。しかし土葬いたし
ましたら、あたりまえの話ですけれども、3日もしたら開
けてみると髭が伸びていたとか、爪が伸びていたとか言い
ますが事実です。爪とか髭というのは毛根は生きているわ
けです。だからそれはまだ生きているのは間違いないんで
す。ただ、便宜的に心臓が止まった、瞳孔が開いた、これ
をもって死としようと、そうすると非常に法律的に便利で
す。そうしないと、死亡をちょっと延ばしておいて、後か
ら急いで籍入れて遺産を欲しいなんていうのも出てくるか
もしれません。そういうこともあるから、法律の方では非
常に峻別して死という事件を考えておられます。だからこ
の間も脳死の段階で肝臓移植したいと言ったけれども、そ
れが犯罪と関連があるので移植をしてくれるなと大阪府警
が申し入れたというケースがございましたけれども、あれ
もやはりそうだと思います。
-70-
ですから流動的なんですが、私の結論としましては、死
の判定は医者に任せておいていいんじゃないかと思うんで
す。医者の功名心とか、医者のエゴとかということも言わ
れますけれども、これは医者以外にもあるんです。文句言
う人にもエゴもあれば功名心もあります。ですから、そこ
まで信用しなければ何も進まない。それでもし非常に悪い
医者にかかって、延びるはずの命が少し延びなかっても、
例えば心臓を取られてしまう人があるかもしれませんけれ
ども全部が全部そうではない。少なくとも宗教者の立場か
らすれば、ある程度お任せしておく、それで世の中のため
になると自分が信じて、布施の行だと思ってそれに近いこ
とをやっていただこうと思うんであれば、これはかまわな
いんだろうと。悪い医者は地獄へ落ちるわけではありませ
ん。死んだ人はどこへ行くかというのは、心臓移植を受け
たか、ドナーであったかなんてことは関係ないレベルの、
それこそうんと崇高なレベルの問題なんで、ここでは心配
要らないと思いました。
だから私自身の最終的な意見といたしましては、ドナー
の家族、それから心臓移植なら移植を受けたいと言ってい
る人たちの気持ちを大事に考えて、是非を論ずべきだろう
と。そしてその上で脳死の判定に関しては、その時その時
-71-
の流動的なものがあるから、一番いいと思われることをと
る。それがまだもっともっとというのは、これ言いました
らきりがないんです。一人でも反対があるうちは道を通さ
ないとか言った、東京都でしたかの知事さんがいましたけ
れども、あれやっていると道も何も出来ないんです。だか
らと言って少数意見を抹殺しろと言うわけではないんです
けれども、やはり私はかまわないという方があれば、うち
の土地は提供してもいいから道つくってもいいという人が
いればかまわないと思っています。ですから私の意見とし
ては、現場から見ている限りは是非お願いしたいという人
に関してはよろしいんじゃないかと思っております。
時期尚早であるといって置いておくこと自体は、私はそ
れによってうんと動いていれば別ですけれども、何もしな
ければ問題だろうと。ただ私、一言だけ言うのを忘れまし
たけれども、日本は金権主義が非常に強いんです。お金が
儲かることなら行きます。だからその意味で脳死であれ、
移植であれ、それから老人医療、尊厳死、あらゆることが
全て金儲けとは関係のないことにしておかなければいけな
い。そのことは一本釘を打っておくべきです。
輸血でも、売血業者というのがありまして、血を売って
金を儲けるという時代がありました。それで大変な肝炎が
蔓延して、みんな非常な苦しみを受けました。だから、今
-72-
でも全く崇高な、ただで差しあげるという人たちの輸血だ
けでやっているように、あらゆることが金銭の関係はない
ようにしたい。それは多分、理論的にできると思います。
最後に、日本では移植をしようとしても、移植したいと
いう人があっても仏教が強くて移植ができないと言ってい
る看護婦長がおりまして、大変私は腹が立ったんですけれ
ども、お経にお釈迦さんが移植してはいけないと言ってら
っしやらない。むしろお釈迦様は生まれる何代か前には、
お乳が出ないかわいそうな虎のために自分の身を投げ捨て
て乳を出してやろうとされた、そういうことが全然伝わっ
ていないのは非常に残念だと思っております。
どうも非常にとりとめのない話で、まとまりが十分なか
ったかと思いますが、このようなところでお話をさせてい
ただくことを大変光栄に思い、心から感謝しております。
どうもありがとうございました。
-73-
〔原〕
問題点を二つ、三つ簡単に。死の定義はお医者様が決め
ていいのか、医学が決めていいのか。先生のご意見は、死
の定義と判定とを一緒にお医者さんが決めてもいいような
ご説明をされました。
私どもはこう考えております。死の定義は社会が学問そ
して宗教哲学が決定すべきものではなかろうか。どういう
ものが死であるかということを社会と宗教と哲学が考え、
社会が決めた定義に従ってお医者様は判定されるべきでは
なかろうかと。
次に、死の三徴候死と呼ばれるもの、それが死であると
いうことは、誰が見てもそうだなとわかる。すぐに死相を
呈し、冷たくなり腐敗していきますから。ところが、脳死
の場合には見えない死で、お医者さんが機械の力をかりな
ければわからない、誰にでもわかるものでないという問題
点があるということが-つ。
それから、この三徴候死というものについて、腐らない
けれども、完全死ではないけれども、死んだんだというこ
とについて誰も異議を言わなかったという程度の社会的合
意があった。ところが、脳死の場合にはお医者様のうちの
80パーセントが脳死は人の死だろうと言っており、法律
家や宗教家の皆様方は半分ぐらいが人の死だと言っている
-75-
程度です。社会的合意の質が違っておるんではないかとい
う指摘。ここのところが第三番目の問題点になっておりま
す。
もう一つ。死の判定について申し上げます。お医者様が
これは脳死である、と判定することの意味が重大です。こ
れは癌だ、肺炎だという判定、これは病態の判定でありま
す。何のために判定するかというと、肺炎だったらこれは
胃病と違うんだから、こういう治療をしょうじやないかと
いうための判定です。病態の診断、治療法のため、これは
もう医療方法がないという判断です。また、限りなく死に
近づいているという判断、これはお医者さんがなさる。こ
れが脳死の判定ではなかろうかと思います。死の定義を医
学が作ってはいけないと思います。
〔山口〕
はい。非常に私ども医師の立場からしては的確なご指摘
をいただきましてありがたいと思っております。死の判定
と死の定義とは違うんではないかと、確かにおっしゃると
おりでございます。もっとも世の中はそう言いながらも、
定義がないままで、はっきりした定義はないかもしれない
けど進んできておりますので、そのことは厳しく私ども反
-76-
省はいたしたいと思います。しかし現実には普通の死とい
うのはもはや帰ってこない、もうイリバーシブルなもので
あるという意味であれば判定をしてもいいだろうし、死が
判定できるということの定義との問題というのは難しいん
ですけれども、私どもの今までやってきたやり方というの
はこういうものであるということしか言いようがないんで
す。
ところで、今まで社会的合意ということをすごくおっし
ゃいました。それはすごく大事なんです。ですから、社会
的合意というのは大事なんですけれども、社会的合意を尊
重する余りに、それだけで慈悲の行為というものがいささ
かでも障害されること、ないしは妨害されることがあるん
じゃないかなということがちょっと言いたかったというこ
となんでございます。
もう一つ、判定もなさねばならない。死のときだけすご
く言っておきながら、例えば労災で、もうこの患者さんは
治った、治療しませんという。患者さんはまだ頭が痛い、
働けないからもっと金出してくれと。どこかで切らなけれ
ばいけない。交通事故でもそうでございます。これが非常
に我々いやなんですけれども、やっぱりやらされておりま
す。それから言いますと、判定はなすべきだと思っており
ます。
-77-
〔原〕
ありがとうございました。
結論になりまして、今度は先生と一緒になるんです。判
定はしなければならない。そのとおりでございます。異議
を申しておりません。それはお医者さんがやらなければな
らない。わかっている。だからお医者さんはきちんとやっ
て下さいいというお願いでございます。ですからこれも意
見は一致しました。
もう一つ、臓器摘出、心臓移植、これはやらざるを得ま
い。やるためにはどういうふうにしたならば、どういう条
件のもとに許されるか、それを決めましょうと。急いで決
めましょう。先送りするのをよしましょうと。ここも意見
一致しました。ありがとうございました。
-78-
「医療と宗教』公開講座
平成3年11'1111発行
編集
天台宗教学部
発行者
山田能裕
発行所
大ibI1TlJ坂木四丁'三16冊2号
印刷所
天台宗務庁
ヨシダ印刷株式会社
Fly UP