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Title プルーストにおける詩的現象学 Author 桜木, 泰行(Sakuragi

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Title プルーストにおける詩的現象学 Author 桜木, 泰行(Sakuragi
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プルーストにおける詩的現象学
桜木, 泰行(Sakuragi, Yasuyuki)
慶應義塾大学藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.17, (1964. 2) ,p.61(28)- 73(16)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00170001
-0073
フ。ルーストにおける詩的現象学
木
桜
泰
行
ブルースト (1871-1922)は 1895 年の秋から数年間,彼の最初の長篇『ジャン・サントウイュ』
を十九世紀レアリスム小説の方式にしたがって三人称体で試みたのち,
とれを決定的に放棄した。
そして 1909年後半から執筆され 1910 年春に早くもその初稿が完成されたと推測される『失われた時
を求めて』においては,彼は三人称体を一人称体に転換した。
とのととの意味は重要である。一言
でいえば要するに《 Je 私》という形式の方がプノレーストの認識形式にいっそうよく適合していたと
いうととなのだが,しかしそれならば,
プルーストがこのとき,語り手を小説の舞台から隠滅して
無人称的観点を徹底させればさせるほど小説世界はより完壁な「客観性J を獲得しうると信じた自
然主義的信仰とは正に逆比例の信仰に到達したのかというと,
そうではない。そのような一見単純
と見える図式を考えるのでは十分ではない。それとは微妙に違って,
りもまず,人間は根原的に主観性の場から逃れられない,
乙の転換は根本的にはなによ
それどころか主体的真実のうちにとそ最
良の価値が存するという確信を固めながら,ついにプJレーストが彼固有の仕方で決定的全面的に彼
自身の主観へ復帰しようと決意したととを意味する。プJレーストは,
少くとも自然主義者の「客観
性J などもはや信じてはいなかったのだ。ではプJレーストの努力はどのようなものであったのか?
その一端を明らかにしようとするのが本稿の目的である。
1908年から 1909年にかけて試みた『サント=プーヴに反駁す」の結びの章の中で,プ
(1)
Jレーストは自らにたいする要請を「生命の根源、にさかのぼること J と書いた。乙れは自
(2)
己の「深奥 profondeurs への復帰」という乙とである。「深奥」とは,プノレーストがここ
でそうしているように客観主義的レアリスムの志向を対極に考えるならば,少くとも外
(3)
部からは「観察される乙とのできない生活」領域である。だがこれは,単純に意識の場と
いうだけでは足りない。彼の限定によれば,この領域は「実際に存在したものがわれわ
れに知られずに隠されている深奥」,いわば「無意識」の地平を意味する。
く 73)
- 16 ー
したがって
プJレーストの努力とは,彼が彼の時代の言語にもとづいて形成した別の書式にしたがえ
(4)
ば,「無意識的現象を意識の面へ現われさせる」努力なのだ。しかし乙のような努力を
どのように理解すればよいのか?
乙とでベソレグソニスムの代りにフロイド学説を思い
浮べることは危険な効果しかもたらさない。なぜなら「無意識的現象」を意識の明るみ
へ顕在化せしめる努力とは,プノレーストにとってもっと親しい書式でいいかえるならば,
(5)
それはむしろ「印象の根源そのものへの正直な復帰」というととであり,乙の乙とが真
に意味するのは,われわれにとって知識もしくは観念としてあるものではなく,事実と
してあるものを再把握しようというととであるからだ。と乙ろで,「透明」なものの
image を愛好したフ。jレーストのうちには同時にまた,ヴェーノレに包まれた未知もしくは
神秘なるものを透明化しようとする欲求,いいかえれば想像的意識の織物そのものを透
明化しようとする努力がみられる。ここで透明化とは,(工〉想像力が形成した織物を剥
ぎとるという一つの純化としての認識行為であるが,実をいうと同時に乙れは,プノレー
ストが見事に実現したように,( Il )夢想が織りなす動くタピスリーとしての多様なイメ
ージの織物それ自体を一つの事実として白日のもとにさらしなおすという行為ーやがて
創造(表現)となる行為ーをも意味する。したがってフ。ノレーストの努力は,つねに同時
的な二重の作業なのだ。この理解の上に立てば,「復帰」,もしくは題在化の努力とは,ま
ず,(工)の意味にける透明化のー形態だということになる。この精神作業はいいかえれ
ば反省というととだ。しかし,主知主義者や客観主義者のそれではない。すなわち,「客
観性」の名において知覚や感覚の主体を忘却するばかりでなく,実はそのことによって
世界と主体との関係をも切離してしまうような反省ではない。いつも成功するというの
ではないが,プノレーストが困難をおかして行おうとしたのは,いわばそれとは「逆の作
(6)
業」一分析的であれ綜合的であれ,いっさいの thematisation に先立って,いいかえれば
あらゆる判断の秩序の導入に先立って,感覚主体の世界内における体験をその原初の状
態でとらえなおそうとする作業,すべてを前反省的地平へ戻そうとする作業ーであっ
た。プJレーストはすでに『サント=ブーヴ』のなかで,印象の源泉へ復帰するために必
要な還元についてこう記している:「現実の上にじかに凍結して現実を見えなくする習
(7)
慣と合理性 raisonnement の氷をっき破ること」と。そしてこれは,彼が創造した画家
エ Jレスチーノレの努力と一致する。すなわち,感覚所与から,前もって「知的に知ってい
(8)
るものは剥ぎとるとと J ,「推理の集合体を解体する乙と」。彼らにとっては自分よりも
「以前に明白であったもの」は,無人称のものであり,それは真実ではない,少くとも
- 1
7-
(72)
(9)
自分のものではないからである。透明化の作業は,かくて,信託された知識や既成概念
(
1
0
)
の「仮面」を剥ぎとり,
「自尊心や情熱や模倣心」を捨て,
な「紋切型の言葉 nomenclatures」に抵抗し,
いっさいを目録化するよう
「誤って生活とよばれている実際的な目
(
1
1
)
的」や「抽象的知性や習慣」などが形成した厚い「氷j を粉砕して,ついに「真実な印
(
1
2
)
(
1
3
)
象J の波打つ「自由の海を再発見しよう」とする「personnel な努力」となる。そして
乙のゆえに小説家プJレーストは, 1922 年,
死の一二ヶ月前のある手紙のなかで,
自ら
に課してきた彼の探求と表現の努力をふりかえって次のように書くととができたのであ
る:
「文体につきましては,私は私の深い真の印象 mes
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tiques を表現するために,かつまた私の思考の自然の動き
pen
see を尊重するために,
クとか粉飾とか,
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純粋理智が語るようなものはすべて拒否し,
またレトリッ
それからとれはおよその線ですが,念の入りすぎた,
わざとらしい
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s (私がモランの序文で摘発したあの images)といったものもすべて拒否しようと
(
1
4
)
つとめました」。
今世紀の大きな潮流である「現象学」の努力が,まず,いっさいの既成的価値の秩序
をしりぞけ,主体や客体についてのあらゆる観念や意味をそれらがまさに生れようとす
(
1
5
)
る源泉において把握しなおそうとする努力であったとすれば,ブルーストが志向した初
原的地平,ならびに彼の探求の基本的態度について乙れをまず現象学的と称するととが
(
1
6
)
できょう。
主知主義的反省は,世界や意識を凝結させ,観念化する。対象は推定されて,あると
乙ろのもの(あるがままのもの〉となり,そこからして誰にとってもあるもの,つねにそう
であるととろのものになる。乙れは客観的レアリスムがしばしば夢見た危険な「あるが
まま J に呼応する。と乙ろがフ。ルーストがエルスチーノレについて,彼の作品は「自然を
あるがままに,詩的に,われわれが眺めている瞬間,そうした稀な瞬間から作りあげ
(
1
7
)
られていた」というとき,乙の「あるがまま」は,前反省的地平における「あるがまま」
である。プノレーストはしかし,「あるがままに見る」にたいしてさらに「詩的に」と補
足した。おそらく本来的に現象学的地平とは,もしそれが真実適確な表現によって形象
化する乙とができるならば,すべてなんらか詩的であると思われるが,プノレースト自身
は「詩的」という語によって原初における知覚体験のいっそう限定された特殊な瞬間を
指し示そうとした。しかしエノレスチー Jレの美学を根底としながらも,さらにいっそう広
(71)
-18-
い美学をもっ小説家フ勺レーストにとって,「詩的」とはヴァレリーが「詩的感動,本質的
(18)
感動状態J とよぶときの poetique と類似のものであり,
また話者マノレセノレがエノレスチ
ールのアトリエに入って彼の作品に固まれた瞬間に予感する「喜びにあふれた詩的認
(19)
識」の poetique とは等質のものである。したがって,プjレーストの主要な探求がめざし
(2の
た領域を,詩的現象学的領域とよぷ乙とができる。
(21)
では,「無意識的現象J とか「真の印象」とよばれるものが体験されるかかる.詩的な
生の地平とは,具体的にはどのような場であるのか?
いうまでもなくととにはフ。Jレー
ストが「無意志的記憶」と名づける自発的想起が含まれるであろう。しかしいま問題な
のは,たとえ記憶現象のばあいでも,つねに主体によって詩的価値として志向される真
(
2
2
)
(
2
3
)
の過去が現在であるときの初原的地平,ブルーストにとって「印象」の世界である。そ
乙でまず「錯覚」の現象学に注目しよう。
プノレーストは小説のあちこちでとの現象について語っている。錯覚とは,彼が illusion
d’optique (錯視) , m
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n (幻覚), e
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r (錯誤〉等の語によって指示す
るものの総体である。たとえば「太陽の光りの効果で,海のひとととろ特に暗い部分
を,はるか遠くの海岸だと思ったり,そ乙が海 l乙属するのか空に属するのかわからない
(24)
ので,何か青いものの流れている地帯」に見えるといったばあいの錯視。あるいは,マ
ノレセ Jレが手紙をそえてステルマリア夫人に迎えの馬車をやり,返事を待っているあいだ
(25)
に体験される錯視。あるいはまた,張り出しになったガラス戸を透して海辺や空がすっ
かりはいるように広いパルベックのホテノレの大食堂のなかにいると,「その空の青が窓
そのものの色に見え,空の白い雲はガラスのきずかと思われる。」だからマノレセノレは「自
分が,ボードレールの語っているように〈防波堤に座って〉いるようにも,また〈闇房〉
(26)
の奥にいるようにも思え」るのだ。乙乙では錯視と感覚的な幻覚が入り混っている。
さらに,別の錯覚がある。たとえば「いまでは過去になった時間」が,「それをふりか
えって話trospectivement 一瞬将来のように思えj てしまうばあいである。マノレセノレは
書いている,「アノレベノレチーヌがその夜行くと知らしてきたむかしの手紙を読み,一瞬,
(27)
私は待つようなうれしい気持になった」と。
しかし「錯覚J とは.判断の秩序に立って初めて錯誤たりうる。だから,小説家は,
よしんば「部屋のなかに雨の音をひびかせたり,沸騰する煎薬の大雨を中庭に降らせた
(28)
り」しようとも,少しも恐れる必要はないのだ。初原的主体的生の地平にあっては,い
っさいはつねに〈私の〉世界との関係から出発して世界において生きられる。そ乙では
-19-
(70)
世界は私の内にあるのではないし,外にあるのでもない。メノレロー=ポンティがいうよ
うに「世界とは,私が考えるそれではなく,私が生きるものである,私は世界へ聞かれ
(
2
9
)
ており,疑いもなく世界と通じ合っている」。
ブルーストの現象学的プリズムが示すものも乙の通りである:
「或る晴れ渡った日など,誰かが家の壁を二つに引き裂いたかと思うほどひどく寒く,街の通りと
すっかり一つになっいた on
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(30)
電車が通るたびごとに,電車の鈴が銀の小万でガラスの家を叩くように鳴りひびいた」
「冷たい空気にみなぎる粗菜の匂いは過去のーと切れ,かつての冬から離れ漂う自に見えぬ流氷
のように私の部屋に進んでくる,(……〉。
陽の光りは私のベッドまでとどき,痩せ細った私の肉体
(
3
1
)
の透きとおるような壁を横切って私をあたため,私を水品のように燃えあがらせた」。
さらにこのような場から,
プノレーストに特徴的な communication の詩的現象学が生
ずる。なぜならこのような場で対象が眺められるときには,表現は,〈私の〉物との親
密 intime な関係を暗示するものでなければならないからだ。乙うしてプノレーストの小
説にあっては,ちょうど poesie i
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e におけるように,対象はひんぱんに主体化さ
れ,人格化される。ボードレールの太陽が「好奇心にみちた空のなかで,大きく眼を見
(
3
2
)
ひらいて」いたように,プノレーストの「土曜日」の太陽は,大空で「一時間余計に道草
をくい」,サン・チレーノレの鐘のひび、きは「二三片ののらくら雲 nuages paresseux だけ
(33)
が残っているがらんとした空 ciel vacant を,ただひとり solitaires 過ぎてゆく」。教会
のわきにあるロワゾ一夫人の家の窓のそばの「フクシヤの花」は,大きくなってくると
「そのすみれ色の充血した頬をいちはやく教会堂のくすんだ正面に押しつけて冷やそう
(34)
とする」。同じようにして,マノレセ Jレたちの馬車のあとを追う「ためらいがちな矢車草
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sMsitants」や「大胆にも,道のほとりまでやってきて,
澄まし乙んでいる」別
(
3
5
)
(
3
6
)
の矢車草がある。「閉ざされた窓から雪の降るのを眺めている花々」もある。とりわけ
「コンブレ』の世界では,少年の夢想、や欲望に飼いならされて,太陽も空も,月も,川
や草花や料理やお菓子も,すべてが色彩豊かに一体となり,ひどく親しげである。
ところで,すでに暗示されていたように,主体的現在時は,プルーストの書式によれ
(37)
ば「香りや,音や,目論見や,風土でみたされ」ているだけではない。「われわれが現
実と称するものは,われわれを同時にとりまいているこうした感覚と追憶とのあいだの
(
3
8
)
ある関係ー単純な映画的視覚では逸し去られる関係ーである」。すでに見てきたように
「感覚」は原初 l乙私の世界との関係を秘めている。「追憶 souvenir」は,私の過去との
く 69 )ー 20
-
(
3
9
)
関係であり,後望 retrospection あるいは過去志向尚tention である。「目論見 projetsJ
は, pro-jet という乙とであり,前望 prospection あるいは未来志向 protention に還元
しうる。かくて,初原的状態におけるプノレースト的現在時は,「私」の世界との関係と
(
4
0
)
私の私との関係が同時的に生きられるような場と解されねばならない。そうだとすれ
ば,プノレーストが使用する多くのメタフォールは,事象の情緒的彩色をめざすものではな
(
4
1
)
く,正確な印象像を獲得しようとする「模索 tatonnement」の現われであり,
この「関係」もしくは,
とりわけ
communication を暗示しようとする努力である。だからたとえ
ばサン・チレーノレの鐘塔が,「一日の終りを迎えて非常にやさしくなり,夕暮れていく空
の上に褐色のびろうどのクッションを置いたように柔かく埋まって見え,その空は鐘塔
(42)
におさえられて軽くくぼんでからふたたび鐘塔のまわりにふくれあがっていた」として
(
4
3
)
も,乙の「クッション」は散歩から帰った少年マ Jレセノレが夢見る休息の image なのだ。
また,暑さのために水浴のことしか考えられないときには,涼を渇望する眼に「サン・
マーノレ教会のサーモンピンク色の塔」は「魚J と化して「透明な,青い水のなかに躍り
(
4
4
)
あがっているように見え」るであろう。同じようにして,夏の夕食後アノレベルチーヌと
散歩しながら「爽やかな涼気を夢見る」マノレセ Jレの「熱っぽい眼」には,「ほっそりと
した月のかけら」が,「初めは,ーひらのうすい果物の皮のように,
次には,
自に見え
(
4
5
)
ないナイフが空のなかにむきはじめた果物のみずみずしい一片のように」見えるのだ。
あるいは,彼がスワン夫人の「ランチJ の定刻を待ちながら大通りを行きつ戻りつする
とき,彼の期待の眼には太陽を浴びたスワン家の前庭の裸の木々が「氷花のように」き
らめくのだ。そして同時に乙の image はコンプレの春の「氷花」の記憶と暗黙に結び
(
4
6
)
ついていないであろうか?
すでに暗示されたように,ここで注目しなければならないのは,プノレーストの感覚的
・心理的光学としての詩的現象学である。 C.-E. マニーが注目させたように,自然主義
の画法が提示する光景以上に「世界が普段われわれに差し出す実際の光景から遠いもの
は何もない。対象は決して同時にすべての方向から眺められはしないし,情念のない眼
(
4
7
)
で眺められる乙ともないからだ」。「心情の間歌性」の論者であり,あらゆる存在を時間
の観点からとらえる印象主義者フ。ノレーストは,だからとのととをよく知っていた。彼の
小説にあっては,対象は,たえず新たな知覚や願望をとおしてとらえなおされる。対象
は,世界へ通じているく私〉の志向や価値体系にしたがって不断に振動し,変貌し,あ
るいは突然クローズ・アップされ,意味をかえる。「晴朗の確信のもとでは物がごく小
- 21 ー(鎚〉
さく見えるのに,一片の危険な雲がそれを乱すと,一瞬にして,物はとてつもなく大きく
なる。J 「感受性の圧力の変動につれて精神の空の光り」が変るのだ。「同じーっの顔に,
その顔を見る眼により,その眼がそとに読みとる顔だちの意味に応じて,また同じ眼に
(48)
しても希望なり恐怖なり,愛なり習慣J によって「同じ顔にあてがう百のかお」がある。
とくにブルーストの愛の時間にあっては,「私」が生きる世界は,私の悲しみや哀惜や,
(49)
「逢引を待つ心」や「私の希望の躍動」によって変容したり,意味を変えたりする。そ
れゆえフ。jレーストは,彼の時間と空間を不断に精神の鏡の晴雲に照らされる世界とし
量て,いいかえれば,想像力と追憶と感覚のプリズムによってたえず分光され屈折される
世界として提示しようとするのだ。そして,ブルーストの小説のいたるところにみられ
る意味と価値の現象学も,まさに乙のような光学のうちにとそその源泉をもつのであ
る。それはもし「詩的」ということを考慮しないならば,ジャンソンが記述する次のよ
うな例によってその基本的な姿を明確にするととができる:「対象の具体的な意味と実
際的価値は,われわれにとっては常に,気遣い preoccupationーそれにしたがってわれ
われは対象に接近するーから生じる。私のテーフールにのっている ζ の箱は,私の眼に
は,時と場合に応じて,一個の文鎮,あるいは,万年筆用のインキを私に隠していたこ
の視覚上の障害,あるいは,私が用紙をひろげようとするのを妨げるとの邪魔な〈物〉,
あるいは,私の喫煙の欲望の可感的客体化……である。しかし,それはまた,そしてと
(
5
0
)
くに,煙草の箱ではないか?」
同じようにして,たとえばジノレベノレト・スワンに恋をしている少年マルセノレがいつも
手元から離さないでいる「パリの地図」は,「スワン夫妻の住んでいる通り」がはっき
(
5
1
)
り見分けられるので,そのなかに「宝物」がはいっているように思えるのだ。また,か
つて「風」は「私にとってコンプレに特有の精霊」であったが,スワン嬢がしばしば数
日を過ごすためにランへ行く乙とを思うと,「暑い午後,はるかかなたの地平線からや
(
5
2
)
ってくる同じひとつの風」も,吹きすぎるときに私が「くちづけをする」風になる。わ
れわれは, Gilberte とか Albertine とか Odette という名前そのものについても類似の現
象学を指摘する乙とができる。しかしとれは主要人物の登場のさせかたにみられる極め
てブルースト的な美学と関連する問題なので,ととでは「スワン氏」の例をあげるだけ
ひま
にとどめる。すなわち「コンブレのスワン J ,「いつも限で,大きなマロニエやえぞ蒔の
(53)
寵ゃ筈よもぎの若芽などの匂いのするスワン」,「ジョッキー・クラブのスワン」, マ Jレ
セノレからそのくせをまねられたり,同じような頭になりたいと思われるあの禿頭のスワ
(67)
-
22 ー
ン,彼にとっては「ほとんど神話となったスワンというとの名前」,「今は何といっても
く54)
まずジノレベルトの父であるスワン」等々。さらに別の形象化の例についていえば,愛 l乙
(5め
よる「雪」の現象学がある。さらにまた,愛による時間と空間の現象学がある。シャン
・ゼリゼに初めて雪が降った日は,「悲しみというものをジルベソレトが私とともに分け
合った最初の日」という意味をもっと同時に,それは彼女から離れて暮らさねばならぬ
悲しく「永い別離の日」でもあるのだ。そして乙の日以来「雪は私をジノレベソレトに会え
(
5
6
)
なくする力の image」となるであろう。女中のフランソワーズが学校へ「私」を迎えに
くる「三時」は,三人称的時刻ではなく,私の志向の求心軸であり,ジノレベソレトにまた
会えるだろうという私の「期待」の象徴であるが,「ジノレベルトの姿はシャン・ゼリゼ
の何処からも,また午後のどんな時刻にも現われるので」,私の「切ない期待」の眼 l乙
「シャン・ゼリゼの全区域と午後の全時間J は,「詰漠たる一大時空 une i
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etempsJ とうつる。あるいはまた, jレグランダンがマノレセルたち
に紹介するパJレベ、ツクの夕空は,赤や青や紫の雲の花が咲く「大気のなかの植物界」で
あり,しっとりとした大気のなかに,夕方,しばらくのあいだ「青と蓄積色の天上の花
束J がほころぴる。そして,それはたぐいもなく美しいもので色のあせるのに時として
(58)
数時間もかかり,「また別の花束は,
すぐにも花弁を散らせる」のだ。比聡によるさら
に別のメタモノレフォーズの例をあげるならば,マノレセノレたちが,従兄弟たちがお昼の食
事にくるというのでテオドールのところに立ち寄って,いつもより大きいプリオッシュ
をもってくるよう注文していると,マノレセノレの眼前にひかえているサン・チレールの鐘
塔-夕刻には「クッション」に見えるであろう鐘塔ーが,「ひとりでに金色に焼けてい
(59)
て,まるで大きな祝別プリオッシュといったかっこうで」青空にそびえるのである。あ
るいは,マ Jレセノレが元日に,大叔母の家へはいるまえに母からフランソワーズに手渡すよ
う五フラン金貨を握らされたばあいであると,まるでお菓子を買いたい欲望が透けて見
えるかのように,フランソワーズの白い布帽子はマノレセノレの眼に「綿菓子」とうつる。
そしてそのまるいひだの下ではフランソワーズが「すでにお礼をいっているような徴
(60)
笑」を浮べるであろう。
われわれはプノレーストの努力の輪郭を詩的現象学の名によって明らかにしようと試み
てきた。そしてこのようにみてくると,彼の努力というものが,ボードレール以来象徴
主義や印象主義が試みてきた努力とどれほど深く結ばれ,
そしてさらに,
シュルレア
リスムや現象学の試みの,一つの大きな潮流とどれほど深く混り合っていくかに思いを
- 23 ー( 66)
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で
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.140-1. )「不可避」の意味はあとで理解されるであ
ろう。
(
1
5
) その際の最初の手続きである「本質的還元」について,
メ Jレロー=ポンティは,
たとえば
「それは反省を未反省の意識生活と同列にお乙うとする野望である」とのべている。
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(
1
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) Cf. 「現実をまえにして自れの理智のあらゆる概念から脱却するために」エルスチー Jレが払う
努力は「描くまえに自分を何も知らない状態におく」乙とであった Ct
画家ターナーがいうでもあろう言葉:「 mon
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少なかれ強くかっ純粋に感じるととろのもの。落日,月光,森,海は,われわれを感動させる。
重大事件,感情生活の臨界点,恋の慎悩,死の喚起などは,多少とも強烈な,多少とも意識的
な,内的反響の機会あるいは直接の原因となる。(……〉。本質的詩的動揺には,つねに情愛あ
るいは悲哀,撒怒あるいは恐れ,あるいは希望が混っているのが見られる,・…・・》
(
1
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) t I (JF) p
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3
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.
(
2
0
) Madeleine Remade は, Feuillerat の説を引きながら,
《失われし》の制作時におけるプノレ
ーストの最初の計画が,とりわけ poetique な意図の作品を書く乙とにあったととを述べ,そし
て,小説の初稿以後には新たな詩的頁はただのー頁も附加されなかった乙とを強調している
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)
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(
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1
) 実をいうとプJレーストは, 「すっかり忘れられており,時には過去の非常に遠いととろに位置
する無意識的現象J
と書いているが,
乙の限定の部分は時間的距離(プJレーストがしばしば,
自分は顕微鏡で見るのではなく,「望遠鏡」で見るのだと主張するのはとの距離のためである〉
の指示と解するだけでよい。
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3
) ヒュームの表現にしたがえば,「印象」とは魂のうちへ最初に現われる瞬間の感覚,情熱およ
び感動であるが,プJレーストに特徴的なのは,聴覚,触覚,視覚,
あるいは嘆覚,
味覚 i乙係わ
る感覚的印象である。
(
2
4
) t I (JF) p
.835.
そして「私の印象にはなかったところの区切りを,それぞれの要素聞に取
り戻す J のは「私の理智」なのだ。
(
2
5
) tI
I (Gu) p
. 391 :「私は最後にもう一度手を洗いなおした。そわそわした気持で家のなか
を歩きまわり,
暗い食堂で手を拭った。食堂は灯のついた次の聞にむかつて扉が聞いているよ
うな気がしたが,そ乙は閉ざされて,扉の隙聞から見える光と私の思ったのは,母さんが帰っ
たら取りつけるつもりで壁にそってたて掛けられである鏡のなかに私の手拭が白く反射してい
るのだった。」(とのあとには聴覚的な錯覚が語られている。〉同じようにして,マ Jレセ Jレは,夏
の夕暮れ近く,青い空のかなたに浮んだ「褐色の小さな斑点J をみて,
さいしょ「羽虫か小鳥
の群J と思うのだが,それは「パリを警備する人たちの乗った飛行機」であることを知る Ctm
(TR) p
p
.734-5)。
く26)
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.
(
2
7
)
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m (Fu) p.558.
と乙ろでプJレーストの努力は,表現技法においても,特に錯視における詩
- 25 -
(64)
的光学の面で,
エルスチー Jレの努力と密接に結びっく。それは「乙うであると知るままに物を
表現しないで,われわれの最初の vision の作られる乙うした視覚の錯誤どおり lζ表現しようと
する」努力である Ct I(
JF)p. 邸8.) C
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よってそれを創造したのにたいして,物からその名を取り去る,もしくは物に別の名を与えるこ
とによってそれを再創造しようとする J 努力である( tI(
JF) p
.835.)そとからしてプJレース
トによれば,エ Jレスチー Jレの技法は,「メタモ Jレフォーズ」の技法と呼ぶとともできるもので,
詩における隠喰 metaphore の技法に類似する。そしてとれはまさしくプJレーストの主要な技法
である。錯覚とメタフォールについては,プJレーストが「l’impressionnisme litteraireJ の例
としてノアイユ夫人の詩句:《 Dans
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.>「印象」についていえば,プJレーストは,それは「知的価値を欠いた
ある特殊な対象,抽象的真理とは無縁なある対象につねに結びついていた」と記している Ct
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息をつまらせて,鯉が水のそとにはね上がった。 J
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いる。また,「climats 気候風土」という語は,
( 63)
とくに空気,風,光の意味で解される必要があ
- 26 -
る。もちろんとれは土地一世界を含むのであるが,そのぼあいの「風土でみたされた」時間と
いういささか奇妙なイメージも,
プJレーストが過去化ないし措定化したままで放置したいっさ
いを現象学的地平へ戻すことによって理解される。 Cf. M
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「香りと色と音が応えあう」。また「 La
temple··· 」にたいして,プJレーストは「 Une
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) メルロー=ポンティがうまくいったように,「時間は私の物との関係から生れる」,「時間は志
向性の網なのだ。」(Op. c
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.4
77-1.)
ブルーストにおける「私」の根原的な時間構造も
ζ れと同じである。ただ彼の小説では,新しい現在や将来への志向よりも,古い現在への,
あ
るいは古い将来への志向が優位を占めるばあいが多いという特徴はある。以上の理解 iζ 立つな
らば,ブルーストが,現実を描くと自負するレアリスム文学の方法を,実はそれは「現在の自
己と過去および将来とのいっさいの communication を乱暴に断ち切る」もの,すなわち,時
間性の破壊を招来するものであって,「現実」からもっとも遠去かる方法でしかないと断じたと
とには深い意味のあるととが納得されるくt i
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T
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)p
.885.)。また別の機会にプルースト
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は,「私は事物を内部から見ようとつとめ,想像力を研究しようとつとめました J (
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.85.)と書いているが,
との communication のうちで物を見る,あるいは,
乙れはつまり,
私は私の物
活動する想像力のなかで物を見るという
意味に解しうるだろう。「事物を描く」と称するレアリスム文学は,彼によれば「事物の線と面
の貧弱なリストを示すだけで満足している J のだ。それゆえプJレーストの小説の最良の部分は,
G.Bachelard
の語法でいうならば,「la
m
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価値をおいたあの「詩的雰囲気 une
るものである。事実,
atmosphere de poesie」(t i
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.898)を喚起す
プJレーストの小説には象徴詩におけるパラレリスムのように,
ダブル・
イメージとメタフォー Jレによる暗黙の将来や過去と現在の二重映しの状態の喚起が無数に見出
される。
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. 133 :窓ガラスと森のかなたに残る夕陽の残照の赤い色は,マ Jレセ Jレの「心の
なかで,雛をあぶっている火の赤さ一散歩から受けた詩的な喜びにつづいてごちそうと暖かさ
と休息との喜びを与えてくれる火の赤さーに結びつく」。
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.386. ととろで,プノレーストのメタフォールは,とりわけ彼に
固有な価値と親密性をもつものから成っているが,そうしたきわめて主体的なメタフォー Jレに
よって communication や時間性を暗示する方法のほかに,たとえば次の例にみるような「過
去〈記憶〉の反復」から同じ効果を生むという手法もある:《 Je
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もかわったととろのない通り,ほかに十もある通り J にすぎない。 Cf.
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.Cf.
アラゴンの「プロンド」の詩的現象学。「ヒステリーのようなプ
ロンド,大空ようなプロンド,疲労のようなブロンド,接吻のようなプロンド,……ブロンド
の屋根,
ブロンドの風,
ブロンドのテープ Jレと椋欄。 H ・ H ・ J
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(
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.ibid吋 p. 6
〈印) I
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.53.
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〔1963年, 10月〕
- 28 ー
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