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Title ネルヴァル的世界の成り立ち : 時間・自己・物語(1)

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Title ネルヴァル的世界の成り立ち : 時間・自己・物語(1)
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ネルヴァル的世界の成り立ち : 時間・自己・物語(1)
水野, 尚(Mizuno, Hisashi)
慶應義塾大学藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.45, (1983. 12) ,p.182(161)- 200(143)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00450001
-0200
ネルヴ、ァル的世界の成リ立ち
一時間・自己・物語− (1)
水野
尚
時間は直線によって表象されるにせよ円環によって表象されるにせよ人
間の生と緊情な関宗にあり,|吐界内存在としての人聞の在り方を規定して
いる。またそれは物語の構成的契機でもあり,そこで展開される世界は必’;
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然、的にある時関様態を帯びている。従って私たちは G
白己と作品の存在構造を時間の存在論的・物語論的研究を通して明識しう
るのではないだろうか。
(1) 存在論的時間
多くの f
f在論的時間論は冒頭から|時間を二つに l
峻別し−それらは客観的
l
時間と主観的時間手様々な名称が付与されるのだがーそのどちらか一方に
優位が与えられた後に論考が進められる傾向がある。しかし’空間化され数
量:化され非人間的と看倣されるような時計に表示される時間も,内的・主
観的・質的と呼ばれるような時間も実際には同ーの現像についての異なる
意識形体に由来するのであって,それらは錯綜しあいながら自己の存在様
態と対応しているのではないだろうか。一方が他方を排除するのではなく
むしろ顕在と潜在を繰り返す不規則な反復運動が二種類の時間の在り方で
あると考えられる。一般にそれらの聞には厳然たる質的差異が認められる
と諜想されているが,実際には時間ということを対象化した場合の自己の
存立様態の相異の反映であり,従ってその異なった時間意識の考究を通し
て人間の白己性が明識されるとも言える。ここでは最初に各瞬間の聞のつ
ながりが白 l
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]性を持たずに継起してゆく時間,次いで因果律が網の口を至
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通常時間は継起的に一方向に経過し過ぎ去った時間は決して戻っては
来ないものと考えられている。それは人間を否応なく死の淵に導く流れで
寺間の非↑Nを欺く戸が発せられる。と同時にま
ありそこから人生の惨さ, H
たその修さゆえに尚一層この現在の時を享受しようという快楽主義も生ま
れて来る。従って快楽主義的時間観と絶えず、死に直前i
している人間存在の
不安を吐露する時間観の下には同ーの時間意識が横たわっているのであ
る。そしてこの時間意識に於いては〈くし、まの瞬間》は前後する瞬間とは何
の関係も持たずに次々と連続してゆく継起的時間で、あると言え,それ故に
白己の存在も瞬間毎に消滅の危機に瀕していると考えられる。私は以下の
論考のなかでこの時間をグロノス的時間あるいは継起的時間と呼ぶことに
したい。それは|犬!県律の規制を交けず,
寺聞の謂であ
連続的に継起する H
る
。
きて N
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造以来不変であると忠われてきた生物の秩序・宇宙的
るが,それは同lの有j
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実という同時代の沼 識
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身近に感じる H ’.1~· の l時間だけでなく,! II;界全体を包摂している宇宙的時間
も不動ではありえないという認識が C
uvier以降一般に受け入 jLられ,こ
の時代に至って人間の時間だけでなく宇宙的時間も流れるのだと諒解され
るようになる。そして時間は変化を産み変化は史退と崩壊を粛す。従って
何一つ現在に留まることは出来ず, l
時間は未来から現在を通って過去へと
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i逆的に流れてゆく。その一|:件|瞬間の間には必然、的な相互関係,例えば
現在は過よ・の集結であり結果であるとい~)た凶果関係は見出されず,時間
は非人間的に流れ去ってしまう。そこで S
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恋人の美しい金髪を前にして ≪
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6)のように空虚で実在を欠いている。く時間はすべてを消滅さ
せ〉〈人生は短く惨い。〉そしてく有限な存在(人生)は空しい。〉このよう
な時間の破壊作用を前にしている人間の耳に「し、ま将に到来する一瞬を享
受しろ。」と命ずる悪魔の声が響く。
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児縛されること,それが人間を絶えず脅かす死の恐怖
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から逃れる子段としての快楽主義である。とミろでこの忠魔の言葉のなか
で
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≫ という表現で、現わされ
クロノス的時間の本質が ≪
ている。継起する瞬間は,一つが到来すればそれ以前の瞬間は忘却されて
しまう( I
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e)といったように,相互間に必然的な関係はなく
ただ順序通りに進行するのであり,そこには連続的な同一性が欠如してい
る
。
このような時間意識に支えられた自己はその同一性を確伝−しえず,存在
の基盤が問題にされることになる。いまの自己といままでの自己との有機
的な関係を見出しえない白己は,恰も一瞬毎に現前する自己が別々の存在
であるかの如き印象を覚え,その存在の不安定性に怯え自己の存立機制を
(H5)
-198ー
問わずにはいられなし、。 N
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)と自問するのは,継
起する自己存在の連続性についての不安に由来する。彼はある瞬間には
Amourであり別の時には Ph
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sである。また Lusignanであった一瞬
後には B
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nでありもする。このように各瞬間毎に自己は別の自己に取っ
て換わられ,しかもそれらの自己の間に同一性を見出すことが出来ない。
各瞬間が未知的相貌のもとに次々と連続する時間とは逆に,それらの連
鎖が既知性・既存性を帯び札、まの瞬間》がし、ままでの結果でしかないよ
うな,換言すればいまにいままでが蓄積されているような時聞がある。そ
こでは万物が対応し因果律の錯綜した網目に絡み取られており,クロノス
的時間の最も簡明な表現がくくl
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≫ であったのに対して,こ
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の時間はく仇n主c
《カイロス的時間》という名称を与えたし、と思う。それは因果律の緊密に
張り巡らされた時間で、あり,その肉果関係を f~lj り出すのが人間自身である
が故に,カイロス的時間は人間的で内的な時間であると見倣されることが
多い。
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l 的世界で、この時間系に属する事象は列挙の暇が無し、。なぜ、なら
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l の自己の存立様態は多くの場合既存性に基づいて現前しており,
彼は諸事象を発見するのではなく再認してゆくからである。実際彼は旅先
で見る街並や風物のなかに必ず既にどこか別の所で、見たものを見出すし,
またある建築物の下に幾陛代もの建築物が埋まっているのを覚識したりす
る。彼の世界では過去は消え去るのではなく深まってゆくのであり,ある
いは人生の中葉にして幼年時代の追憶が回帰し,
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にしたりする。彼にとって文学作品の系譜は模倣の連続である。このよう
な既存的世界では森羅万象が一つの有機体を構成し各々が密接に対応し合
っている。
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万物は例外なく因果の連鎖で結ばれ,過去・現在・未来は確定的完了的な
様態のもとで経験される。そこに於いては最早何も消滅しないのであるか
ら,クロノス的時間に於いてあれ程恐れられた死さえもが絶対的なもので
はなくなる。
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この因果律世界の中心に位置するのは自己である。ここでは指輪に手を
触れると教会の蝋燭が灯ったり,指輪を大水のなかに飛げ込むと大洪水が
治まったりするのだが,それは心的な怨念が直接物理的な事象と繋がって
いるからであり,物質と精神,客観と主観の垣根が取り外されているよう
でさえある。白己は世界との境を失い自然と一体化し,因果律の連鎖が白
己を中心として!吐界の隅々にまで払散してゆく。
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またここではグロノス的時間に於いて分裂し同一性を見出しえないでいた
白己がその統ーを|司復したと確信する。
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しかしこのような白己の拡張は二つの重大な結果をもたらすことにな
る。まずこの起因果律的世界の内部では必然、的に個別性が失なわれ全てが
普遍的な様相を帯びることになり,また自他の区別が為されなくなるため
に,自己は他者との接触が不可能となり自らを刷新することが出来ないと
いう事態に陥る。もし人間が時間内存在であることを止めうるならば彼は
f~ 己の狭障な輸のなかで充足感を味わうことも出来ょう。しかし彼が世界
内存在である限り時間の継起から逃れ引、まの瞬間》に留まることは出来
(
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-196-
ない。従って N
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役割に対して遅れを取らないように過剰の義務を遂行しなければならない
のであるが,時間内存在である人間にとってそれは不可能なことであり,
そこから自責感・罪責妄想が生ずるということである。既存的世界の時間
の経過は「所有の喪失」を引き起こす誘因となり,もし喪失が実際に起っ
たと感知された場合それは全ての秩序を崩壊し,自己を支えていた基礎を
根底から覆えすように感じられる。それ故 N
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という意識は具体的な状況によって惹起されるのではなくむしろその意識
が状況に先立つことに注意しなければならなし、。実際彼は旅行中に時間に
遅れることに驚くべき無関心を示し時計との競争は彼の内部にいかなる苫
悩もかき立てはしない。むしろ彼にと
る時間なのであり,
−
−
)
て遅れる時間が書く対象を発見す
それは彼の創造性に結びついている。 ≪
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≫ と発する時には従って時計の表示する時間に遅れることではなく,
自分自身に対して遅れを取ることについての焦燥であり,その昨悩が自責
の念を導き彼の作品世界を陰替なものにしている。
私はこれまで、瞬間の連鎖が未知性を帯び−単に継起的にのみ進行する場合
とそれが既知的な様相を呈し札、ま》がし、ままでの因果関係の結果として
到来する場合を考察して来た。そこでは一方は前後関係が他方は因果関係
e
r
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l はその時間意識の交代に従って仔在の不安に
がその要件をなし, N
怯えるか罪責妄想に苦しんだ。しかし悪魔の快楽主義的誘惑のうちにもプ
ロメテウス的欲望のうちにも永遠の瞬間が垣間見られたに違いない。なぜ
ならグロノス的時間にせよカイロス的時間にせよそれらはくくし、まの瞬間》
を前提としており,逆に言えば札、ま》が時間の源流としていままでとい
まからを分泌して時間の流れを産出しその流れの存在様態がクロノス的
-195ー
(
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1
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)
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時間の解体ひいては!時間内存在の時間からの解放を意味し,そこで永遠の
現在が感知されうるのである。例えば祝祭の熱狂のさなかで忘我の状態に
いる時,あるいは夢現の状態で白己が別の姿でその存在を続けようとする
一瞬にある時,そのような時 t
'
1己と森羅万象が融合し喪失の痕跡のない原
初の調和が出現し,〈〈永遠の現在〉〉が恒間見られる。
しかし人聞が時間内
存在である限り〈代、まの瞬間》に停まり永遠の瞬間を持続的に享受するこ
e
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lは必然、的に時間の流れる[!上界に戻り,継起
とは出来ない。従って N
する時間と閃果律的時間の聞を後者に傾きながら揺れ動くのである。
注
(1) 例えば「時計時間」と「自然時間」(ロイ・ポーター)コリン・ウィルソン編
苦『時間の発見』三笠書房。「自然的時間」と「経験的時間」マイヤーホフ
『現代文学と時間』研究社,ベルクリンの「空間化した時間」と「純粋持続」
の区別等。
(2) 木村敏氏は優れた自己・時論論『時間と自己』(中公新書)に於いてこと的時
間ともの的時間の共生関係を確説している。しかし他方それらを峻別する観
点が里守され,ことがもの化する場合の機j
!
J
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Jが分明にされていないためにこ
と=主観,もの二客観の伝統的な二分法から脱却していないのつまりもの的
な捉え方をされた時間も物象化される以前には自己の存立様態の一反映であ
ることに留目しなければならないと考えられる。
(
'
.
n 私がここでくく I,、まの瞬間〉〉と名付けることは空間的に定位を持つ点ではな
く,有名なアウグスチヌスの時間論から千・J皮されるように運動であると同時
にその痕跡なのであり,またブヅサールの時間論に於いて「源意識」と呼ば
れている事態と同義で−ある。さらにそれはサルトルの言う ≪presencea
s
o
i》
の時間的側面であるとも考えられ, 木村敏氏は自己の自己性と関係づけて
Iを明確にしている。時間意識の基礎となるこの札、まの
くくし、ま》の存立機市J
|瞬間》については別の機会に詳しく論じたし、と考えている。
(4) G
.Poulet"Etudessur l
etempshumain”P
lon は各瞬間の間の不連続
な継続を持続に変質させる意識の変遷を時代的に論考している。しかし(そ
の)瞬間の構成機制についての視点は全く欠けている。
(5) 川端柳太郎氏ほ『小説と時間』(朝日選書)に於いて, F ・カーモードの定義
に従いながら,時間の継起を基礎とし,各瞬間の聞に「何の意味も人間的な
興味もなしただ空虚に二つの現象が継起し,過ぎ去って L、くだけの時間」
(
1
4
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)
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(
p2
4)をクロノスと名付けている。
(6) C ・ウィルソン前掲書。 p
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≫ を把捉するかという二つの方法によって永遠
の喪失に反逆を試みる。 P
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t前掲書。 p
.3
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(8) P
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eの 1巻. 2巻を指す。
(9) I
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(
1
0
) 真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店 p
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1
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) じV,CEuvrescomplementairesdeGerarddeNervaltomeV を指す。
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界の名著 8アリストテレス・中央公論社) p3
0
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(
1
3
) 川端氏はクロノス的時聞を「チック・タックの合間に意味が充填され,チッ
クの生き生きとした期待と継起する事件をすべてタックに結びつけようとす
る感覚を持続している時間」( p2
7)と看倣す。
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(
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) 木村敏:前掲書 p9
9
1
3
2
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(
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5
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)
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2
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) ピンスワンガー『うつ病と繰病』みすず書房 p3
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) 特に“ A
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(
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) 木村敏前掲書
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(2) 物語論的時間
上述した二重の時間様態は自己の在り方であると同時に物語の構成的契
機でもある。語り手の役割は構成すべき出来事を潜在的な無数の出来事の
うちから選択しそれらを一定の秩序に従って配列することである。一方組
み立てられた物語は単に出来事が一連の順序に並べられているだけでなく
一貫性を持った統一体として構築されている必要があり,そこでは出来事
が互いに明確な因果関係で、結びつけられていなければならないと考えられ
てきた。ところで、私たちは一般に継起的に連続してゆく出来事の流れであ
るクロノス的時間を物象化し自己とは無関係に流れてゆく客体的なものと
看倣す傾向にあるのだが,
出来事もその時間内で次々に生起消滅してゆ
く。そして伝統的な物語ではそれらを必然不可避な秩序に従って全体が統
一性を有するように組み立てなければならないとされてきた。そこではク
ロノス的世界から幾つかの事象を選択してカイロス的秩序に配列すること
が問題であった。他方時代が下るに従って作品世界にもグロノス的世界を
再構成しようとする技法も見られるようになり, 現実をくありのままに〉
写し取ることが課題とされた。この二種の物語構成上の時間に応じて形成
された世界は存在論的時間のところで論考した二重の世界現相と対応す
る。そして N
e
r
v
a
l の場合奇妙なことに存在論的時間の様態は大部分既存
的であったのに対して,物語の時間構成ではグロノス的時間も伝統に反し
て大きな役割を果たす。
伝統的な物語は記述されている出来事が一つのまとまった全体性を示
し,かつそれらすべてが確固たる因果関係で結び合わされていることを要
求する。ここでいう「全体」とは「始めと真中と終りを持つもののこと」
(
1
5
1
)
-192-
である。モしてこれらの契機によっ℃構成される全体は統一性を持たなけ
ればならない。物語は「行為の描写である以上,描写される行為は統一性
を持ったひとつの全体でなければならない。そして出来事の諸部分を組み
立てるにあたっては,そのどれひとつを他の場所に移したり取り去ったり
しても,たちまち全体が動かされてばらばらに解体してしまうような,そ
のような緊密な構成を物語にあたえなければならない。」従って伝統的な
物語が構成する世界は,存在論的時間に於いてカイロス的時間内に在る人
聞を取り巻−く世界と同様な,超因果律的構造を内包しているといえる。そ
して出来事を悶果関係で緊密に結びつけ統一性のある全体を構成するた
めには,語り手は語るべき対象から一歩身をひいてクロノス的時間に於い
て継起する諸事象をそれらの生滅とともにではなく事後的に選択し,そ
らを再構成( r
ecomposer)しなければならない。再構成とは一連の出来事
に
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≫ を与えることである。従って Nervalが
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≫ (
I2
4
8)と口にする時,その言葉は彼が語
る対象から距離を置いていることを示すと同時に物語全体の統一的構成を
も意図していることを銘記する必要がある。彼は無限にある潜在的な思い
出から幾っかを選び出しそれらを物 l請の時間的継起と因果律に従って配列
するのであるが,再構成するとはその意味で全体的統一性を志向している
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un主c
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と考えられる。そして再構成された物語はその全ての要素がくくi
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≫ という風に連続しながら最終の点へと飛来する。ところでカ
erval によれば常に結婚か死で終わ
イロス的時間構成を有する物語は N
る
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8
)
では Nerval の散文作 ~jri のうちで結婚か死で結未を迎えるものが希である
とし、う事実は何を意味しているのか。そのことは彼が演劇よりも伝統に縛
られていない散文に於いて因果律的循環世界とは別種の世界を構築しよう
と意図していたことの現れではないだろうか。存在論的地平において彼は
既存性に拘泥する傾向が強かったが,散文作品構築にあたってはむしろ伝
凸び
(
1
5
2
)
統から逸脱してグロノス的時闘を作品の構造的契機に据えようとする。そ
1しば伝統的なジャンルに分類することが出来ないと言
こで、彼の作品はし£
われることになる。
紀行文や“ l
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e”等のなかで N
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l は継起する出来
事に因果関係を与えず次々に順序通りに記述してゆこうとする。そしてそ
のような物語では「始め」も「終り」も行きあたりばったりであり,また
「真中」も脱線の連続で統ーなど望むべくもないような印象を与える。伝
統的な物語では語られる出来事は選択され因果関係に従って配列されるの
だが,ここでは選択も為されず起こったことは何もかもが作品に詰め込ま
れているように看散される。アリストテレスはこのような物語に激しい批
難をあびせる。「単純な物語と行為のなかでは,
も悪い。「挿話的た性格の物語」というのは,
挿話的な性格のものが最
その物語の中でいくつかの
エベイソデイオン(劇を構成する主要な出来事)どうしの続きあいが,いか
にももっともだと思わせる関係にもないし,必然的な関係もないような,
そういう物語のことである。」しかしこのようなまとまりのない出来事の
継起は私たちが日常生活で感知している時間継起と相即的なものであり,
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≫ (
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0)を表現するためには
伝統的な物語よりもむしろ「挿話的な性格の物語」の方が相応しいとも
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l はこの効果を実現するために継起的事象を
考えられる。従って N
≪
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≫ すると主張し,目に写ったままを忠実に描写しそのまま
の順序で並べてゆこうとする。
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r》とは対照的な創作態度であり, 描
写する対象に対して批判的距離を置かず,出来事をその生起する時点で次
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白 l
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e)記述していく技法である。語り手はここでは物
々に (
語の全体が把めぬまま書き進んでゆくのだから緊密な統一性を持った全体
など構成できるすべもないことになる。そして物語全体を見渡してその混
乱した出来事の集積のなかから因果関係を見出すのは読者の役目であり,
(
1
5
3
)
-190ー
読者は日常生活のなかでグロノス的時間をカイロス的に変質させるのと同
様に,物語の継起的時間に区切りをつけ各々の部分に異なった重要性を与
え,因果関係の織物を織り,物語の意味を作り出してゆかなければならない。
ところでアリストテレスは物語の対象に対しても「自j
l
作家(詩人)の仕事
は実際に起こった出来事を語ることではなく,もっともな成行きまたは必
然不可避の仕方で、起こりうる可能事を語ることだ。」と規定している。そ
して実際に起こった出来事を語るのは歴史家であり,創作家は起こりうる
l
作
可能事を語るのだとしている。しかしここで重要なことは,実際には倉j
家が可能事を語るのではなく,彼が出来事を因果律的な関係にあるように
配列するからこそ物語が必然、不可避の仕方で起こりうる可能事になるので
あって,その逆ではないということである。つまりノエシス的契機とノエ
マ的契機は相互規定的であり,何かを語るとし、う場合,語られる対象は二
重であって語る行為を規定すると同時にそれによって規定される。また歴
史家は実際に起こった出来事を扱うと論定されているが,その出来事の存
立機制を問えばその基盤は一般に考えられているような堅固なものではな
い。ある事象の様相が観察者の位置する系に従って変化することはアイン
シュタイン以来の通論であり,事物は確固たる実在を持って在るのではな
く
,
oir-comme)あるいは何物かとして(a
l
s
それがそう見えるように(v
etwasAnderes)在るのである。例えば“ A
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a”一部 9章のなかで自分
の分身を見た語り手はこう咳く。
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.(
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1
)
彼は分身をはっきりと見,その実在を疑うことは出来ないけれど,いわゆ
る現実世界にはそれが実在したとし、ぅ痕跡を確認しえない。あるいはそれ
は通常の認識からは異常とされる事態である。しかし個人的認識と一般的
認識とのずれは実は各人が絶えず逢着している。そしてそのずれが分明に
なった時には個人的認識を一般的認識に従わせることによって私たちは社
-189-
(
1
5
4
)
会生活を j
去ってし、るのだが,もし個人的認識をあくまで優先させれば狂気
のレッテルが貼られかねない。物語の次元でこの認識論上のずれは現実と
虚構という形で顕在化する。伺人の認識が一般的認識と食い違う場合には
そこで語られるぜI来事は虚構と看倣され,逆の場合には現実に起こった出
来事として認知される。しかし実際には物語られた時点でその二つの区別
ば消滅し,出来事が現実に起こったかどうかではなく,むしろそれが起こり
うる本当らしさを持っているかどうかが問題となる。従って物語る行為の
対象をその実在性によって区別するのは無意味であり,アリストテレスの
言う意味で、の物語と庵史の対象の差は存在しないことになる。物語られた
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出来事が本当か作り話かの確認は意味をなさず,“l
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1章に出てくる批評家はメリノの髪の娘の実在を確かめるために Meaux
に行こうとはしない。
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従って認識論的足地からすれば ≪
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≫ とくくd
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の対象の差異は存在しないことになる。そしてこ
れは特に強調しなければならないことなのだが,この二つの記述係式の違
いは偏にカイロス的かクロノス的かに依っているのであり,その時聞が描
imesis)された対象の存在様態を規定するのである。
写( m
1
+
i
j然、と分離して扱って来たが,個々
これまで、私は二.つの物語論的時間を 1
の作品はそれらの聞を振動しながら展開し,カイロス的時間が優位になれ
ば伝統的物語の極に近づくし,グロノス的時聞が物語の多くの部分を占め
e
s
た場合には「挿話的な性格の物語」の極に近づいてし、く。ここでは“ l
Nui
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e”を分析的に討究してゆくことで二つの時間の振動を考
(
1
5
5
)
-188-
察してゆきたい。
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eという概念を中心に展開する。物
語の官頭で D
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e”という題名の記事を読んだ
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(I7
9)に満足するけれどフランス人はそれが
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≫ (
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0)で飾られることを要求すると歎き,
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eの鍵をな
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≫ (
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0)と付け加える。つまり彼のいう r
すのは観察であり,その対象を忠実に記録してゆくことである。ところで
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sは観察の〈〈材を l
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sにとった〉〉が, N
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l も彼に倣っ
て夜のパリの裏街の怪しげな情景を記録してゆく。しかしここで彼の視点
から記述の時間的契機が抜け落ちていることに注目しなければならない。
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eに則って目に写るがままを描写し ≪
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≫ (
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5)することはその対象を c
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eに次々と記述す
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ることでもあり,そのようにして構築される世界にはクロノス的時聞が流
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lは対象の奇矯性に目を奪われ作品構成上の
れることになる。作者 N
時聞を意識していないが,脱線と道草の連続で統一性を欠いた挿話的な性
格の物語と看倣されがちなこの作品も,時間論的観点から考察すればー箇
所を除いて継起的時間に忠実に従っている。その上物語は十月の三夜の忠
実な記録であると言われるがその三夜という限定に必然、性はなく,物語の
「始め」と「終り」あるいは「真中」が必然不可避な方法で結びつけられ
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e”の支配的な時間は
ているとは言い難い。従って“ l
グロノス的であると確説しうる。
6
章あ
さて《表面的な現在》である三夜を具体的に考究すると,全体で 2
5章,第二夜1
6章から 2
1章,第三夜2
2
章から
るこの物語は第一夜 1章から 1
2
6章までと分割され,
さらに第一夜は 7章と 8章で前後に下位区分され
る。物語は Meaux行きの小旅行を思いたった主人公が汽車に乗り遅れる
-187-
(
1
5
6
)
ことから始まり,{品々友人と出会って話をしているうちに次の汽卓も逃し
てしまう。彼は翠朝の 7時まで暇を潰さなければならなくなり友人と二人
夜通しパリの場末を初但しそこに生息する奇怪な人間達の生態を具に観察
することになる。第一夜はこのようにして翌朝 Meauxに旅立つまでが描
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eに倣っているともいえ,
かれるのだがここでは D
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t風 r
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eの反映であるとも
た前半の幾つかの d
考えられ,汽車に乗り遅れて暇潰しをしている二人の友人の会話といった
雰囲気のなかで全く関係のないように見える挿話が次々と語られてし、く。
後半は夜の裏街の描写であり語り手の目に写るがままの現実をその順序に
従って記述してゆく。彼はまず L’
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nAthen
白( 8章)に入り次にフリ
0
章)中央市場( 1
1章)イ
ーメーソンの集会( 9章)に潜り込みその後焼肉屋( 1
ンノサン市場( 1
2
章)へと進み,そこの回廊( 1
3章)を通って B
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e(
1
4
章
)
に達し最後に P
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lN
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tの店( 1
5章)に出かけ,明け方警察の手入れか
ら逃れて停車場に向かう。描写された情景の奇異な様相のために忘れられ
がちであるが上述の記述は c
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eに進行し,かつ各々の場面の間
に必然的な関係は見出せない。しかし第一夜の後半にはこのク巴ノス的時
間にある意味を与えカイロス的にしようとする試みもみられる。つまり語
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n に潜入する直前にくくP
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≫ (
I8
8)と公言するが,これは夜の杖j径を地獄下りに聡え
ることで、継起する場面に一連のつながりを与え,純粋な観察を地獄下りの
物語に変質させようとする試みであると考えられる。
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e から完全に離反する。その夜はメリ
第二夜に至って語り手は r
ノの髪の娘の出る見世物の場面とその印象によって惹起される夢から成り
立っているのだが,ここで特に注目に値するのは物語を通してこの部分
でのみ語りの順序の逆転が見られることである。何故<<
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≫ (
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4)の方が夜会
の描写に先行して語られるのだろうか。まず現実と夢の関係に留目する
と,語り手はくくMone
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4)と明言しているように,それら
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.
.
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が単に継起的に連続しているだけではなく因果関係にある。また語り手の
頭痛は前夜ビールとパンチを飲み過ぎたからかもしれず,その印象が地精
たちによって頭を金鎚で叩かれるという表現になっていると推測される。
故にそこでは出来事の前後関係よりも因果関係の方が重要な役割を果た
し,カイロス的時間がクロノス的時間に代って顕在化している。そのこと
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≫ (
I1
0
9)とか口にしていることからも彰ら
かであり,第二夜の物語は伝統的な物語の範障に近づいている。そしてそ
こでは語りの!|頃序の逆転が重要な意味を持つことになる。夢の中で、地精た
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≫ (
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5)と歌う。一方現実にメリノの髪の娘を前に
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afemme aux cheveux d
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している語り手はく:< E
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s cheveux d
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.
≫ (
I110)と記し,それが人種の混血によって作られたのだろうと
臆度したりする。しかしたとえ彼女が出る夜会のポスターが実在したとし
てもメリノの髪をした人間などというものは実在しそうもなく,夢の視点
が本当らしければそれだけ,語り手の現実認知が疑わしいものに思われて
くる。従って夢を現実に先立つて語ることは,夢それ自体の問題よりも現
実認識の問題を強調する機能を果たし,この逆転が怠味あるものとなって
いることが理解される。
respyの監獄のなかで、見た夢も含めて全てが c
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第三夜では物語は C
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e に語られていく上,各々の場面の聞に必然的な関係も見られな
い。しかし他方では物語全体を統合しようとするカイロス的意識もみら
れ,例えば主人公がく.< F
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≫
.
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I116)と批
難される夢のなかで三夜の行動が簡潔に要約される。
。
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)
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r Crespypourc
.
.(
I1
1
6
)
exagere!.
このように第三夜は前の二夜を踏まえた上でクロノス的時間とカイロス的
時間を融合しようとしている。ところで Nervalがこの作品を 5問に分け
I
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n 紙に発表した時,
て L’
最初はこの第三夜は彼の構想に入っ
ていなかったのではないだろうか。それは,
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-Pant
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n
・ Meaux とい
う副題,地獄(煉獄)についての言及が第三夜には見られない,
r
e
i
l であると言われる,
なって唐突に旅行の本当の目的地が C
22章に
等のこと
からも明らかであろう。彼は夜のノ 4 リの場末のおどろおどろしい光景を
<くdaguereotyper>>することで一一種の地獄下りの物語を r\1~ ろうとしたのであ
って, r
e
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e は lowerclass を J苗くための~]実であったのかもしれな
い。しかし物語を書き進むにつれて彼の興味は描乃:すべき対象よりも描干
の方法とその結果に移行していき, ≪
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≫ と
く
くl
ev
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≫ の錯綜した関
係が彼の関心を最も引きつける問題となったのである。そしてその方法論
的問題意識が彼の筆を先に進ませたと考えられる。従って第三夜は二つの
時間意識の調和の試みであり, ,;[~ り F は物語の最後に至ってくくVaifa l
'
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≫ (
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1
8)
と
付け加えるので去る。
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Octobre”は二つの物語論的時間の聞を振れ
以上の如く“ l
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≫
動きながら《c
(
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0
7)を織りなしてし、く。そしてその二つの時間の交代が物語から構成
される N
erval酌白己を貝ーなった様式で、脅かすのである。つまり第一夜は
クロノス的時聞が.流れているために彼の白己の不安定性は d
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e のそ
れであり,次々と継起する場面i の間に連続的同一'I"~:が感じられなし、。ある
いは第一夜を一種の地獄下りと見るならばそれはくくQuis
u
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j
e?≫という
間に対する答を採求する物語であるとも言える。それに対して第二夜に流
れるのはカイロス的時間であり, 4 こでの白己性の危機は対象の不安定性
(
1
5
9
)
-1s,1-
に由来し,メリノの髪の娘の関する認識論的な間趣が N
e
r
v
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l的自己の小
安を惹起し,彼は自己の自己性よりもむしろ狂気の問題に係わることにな
る。そして第三夜に於いては自己の不安定性は身分証明書を忘れたために
逮捕されるという形で表現される。このように“ l
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l 的世界を
なかで時間−自己・物語は相互に密接に関連しながら, N
成り立たせているのである。
以上時間と自己−時間と物語という二つの軸にそって N
e
r
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l的世界の
存立様態を慨括的に考察してきたのであるが,今後この論考で扱うことの
e
r
v
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l的世界の不安定性を浮き
出来なかった認識論的問題を中心にして N
彫りにしてゆきたし、と考えている。
注
(1) “ l
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e”向上 p
.1
0
2
(3) 川端氏はクロノス的時間がその前後関係を保持しながら因果律的な必然性を
帯びてし、く過程を文学史的に考察している。
(4)
ここで言うありのままとは,描かれた対象がそのように見えるように記述す
る文学的な技法のことである。
(5) アリストテレス
前掲書 p
.2
9
9
(6) 向上 p
.2
9
9
3
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0
(7) “ l
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.”Ri田 ur前掲書 p
(8) M.Jeanneret:
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.3
2
4
7
(9) アリストテレス
前掲書 p
.3
0
2
J
円
00
(
1
6
0
)
(
1
0
) 川島l
c
i氏は前払l
書のなかで,モーバッサンとヴァージニア・ウルフの論を引用
1
3
2
1
5
)
しながら,小説の時間処理の方法の変化を簡明に記している。(p 2
(
1
1
) R
.Chambers“GerarddeNervale
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0
7
3
1
2 また I89
(
1
2
) w
. イーザー『行為としての読書』岩波現代選書 p. 45-66
(
1
3
) 前掲書 p
.3
0
0
(
1
4
) このことから,歴史家は一回的・個別的な出来事を扱い,創作家は一般的・
普遍的な事象を対象とするとし、う区別もなされ,創作はこのゆえに歴史より
哲学的であり,価値多いものであるとし、う判断が下される。そしてこの区別
はエリアーデの聖なる時間と俗的時間,神話と歴史のそれに対応している。
(
1
5
) Ric
田町前掲書 p
.1
2
0
1
2
2
.2
1
4
5
(
1
6
) 慶松渉『世界の共同主観的存在構造』勤草書房特に p
(
1
7
) アリストテレスの用語。
(
1
8
) 斉藤勇『イギリス文学史』研究社 p
.4
4
1
(
1
9
) Nerval 自身は彼の読者である LudovicPicard 宛の手紙のなかで《une
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4)と語っている。しかし
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eの時間契機に従ってパリの裏街を記述
彼の意図がどうあれ,彼が r
していることにかわりはない。
(
2
0
) Jeanneret“l
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eperdue” Flammarionp
.4
2
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. Chambers前掲書
p
.3
2
2大 浜 甫 ネ ル ヴ ァ ル 論 考 2
4 『十月の夜』形成昭和5
4
年 7月 p
.5
2
(
2
1
) マイヤーホフ
前掲書 p
.5
1
5
2
. Richerはこの部分についてく<
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と批判する。
(
2
3
) ここで《r
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≫ のテーマ (
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t)ゃく< changement≫ のテーマ
(Chambers)を付与するのは読者の役目であり,読者がグロノス的時間をカ
イロス的に変質する。
(
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4
) Jeanneret“Cerenversementdel
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1
1
)
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.”
(
2
8
) アリストテレス前掲書 p
.2
9
8
(
2
9) “ c
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.Richer 前掲書 p
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) I1
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1
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