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2013 しずくいし少年少女歴史教室 【雫石の歴史のはじまり

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2013 しずくいし少年少女歴史教室 【雫石の歴史のはじまり
2013 しずくいし少年少女歴史教室
第3回
【雫石の歴史のはじまりの地に立つ】
☆日
☆場
時
所
平成25年8月24日(土)
(午前)岩手山神社
ほか
(午後)雫石城跡(八幡宮) ほか
9:30――中央公民館発
9:50
10:40
①岩手山神社(長山極楽野)
②大宮神社(西根大宮)
<雫石神社の月夜見の大杉>
11:10
③雫石神社(西根北妻)
11:50
④「剣舞供養塔(けんばいくようとう)」などの石碑群(上西根)
12:15
15:00
昼
食 (中央公民館)
13:00
⑤雫石八幡宮(町内下町)
13:50
⑥沼田神社(町内西安庭・戸沢)
14:20
⑦旧 金毘羅神社境内の「ブナ」の大木(西安庭)
中央公民館に帰着
1
今回(第3回)見学する場所
1
4
3
2
5
7
6
①
岩手山神社
②
⑤
雫石八幡宮(雫石城跡)
⑥
沼田神社
⑦
大宮神社
③
雫石神社
旧金毘羅(こんぴら)神社跡
2
④
上西根の石碑群
い わ て さ ん じんじゃ
① 岩手山神社
(長山・行政区は「極楽野」) ※遥拝所(ようはいじょ)
雫石町長山(51地割)頭無野(かしらなしの)60番地に所在する。
正式には「岩手山神社遥拝所」である。通称は「新山(しんざん)」という。
807(大同2)年、坂上田村麻呂が創建したと
「南部叢書(なんぶそうしょ)」にある。
時代がくだって 1189 年、工藤小次郎行光が頼朝
から岩手山神社の別当を拝命したとされる。また、
藩政時代に南部藩はこの神社を岩手山信仰の拠点
となる「地方総鎮守社」として庇護した。岩手山を
巌(岩)鷲山(がんじゅさん)と呼び、山頂付近を
聖地として崇め、女人禁制の岩鷲大権現として祀っ
たのである。慶長 8(1603)年、木村円蔵院は南部利直公より、滴石口(御神坂口)の別当
を拝命した。
【雫石町史より】
その後、延宝 2(1624)年、
「重信公新山堂再興す。」
(雫石歳代日記)。宝暦年間(1751~1763)
頃は三間四方の御宮であった。文政 5(1822)年地元民(氏子)が新山堂を再興する。
昭和 60 年全面改築。平成 16 年改築。
ゆい
しょ
由
緒
<雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」より>
大同二(807)年、田村麻呂創建と南部叢書に記されてある。坂上田村麻呂将軍が、岩手
山にたてこもる赤頭の「高丸」を討つため御陣屋を設けた所と伝えられている。岩手山は
年間を通して霧に閉ざされることが多かったため別名「霧山嶽(きりやまだけ)」とも呼ばれ
た。
慶長八(1603)年、木村円蔵院(在雫石)は、南部利直公より岩手山西口の別当を命ぜ
られ四十四石五斗一升を賜った。
歳代日記に「延宝二年南部重直公、新山堂を再興す。」とある。
「文政五年雫石御中惣勧化にて新山堂再興す。世話人長山村肝入嘉右ヱ門ほか重作、弥
兵ヱ、九兵ヱ、篠川原久右ヱ門、御社領肝入八兵ヱ」の記事がある。
昭和六十(1985)年本殿拝殿休憩所の全面改築を行った。
岩手山神社の祭典には円蔵院様が藩公名代として行列をそろえ、新山堂に参詣した。行列道
具の一部が林崎の高田家にある。神代文字の額が神社に奉納されている。
☆
岩手山信仰
有史以来、たびたび噴火してきた岩手山。その荒らぶる姿ゆえ
に人々は霊力を感じ、神の山として岩手山を信仰するようになり
ました。
かつて信仰登山のために開かれた東の柳沢口は柳沢ルートとして、南の雫石口は御神坂ルー
3
トとして現在も使われています。ほかに北口として旧西根町・平舘口に上坊登山口があります。
坂上田村麻呂が地域の鎮(しず)めとして社を創建
大同 2(807)年、坂上田村麻呂がみちのくの総鎮守として祀ったのが岩手山信仰の始まりと
されています。しかし、それ以前のはるか昔から、山麓の人々は霊山として礼拝していたよう
です。源頼朝の挙兵(1180 年)から 87 年間の武家記録である史書「吾妻鏡」によれば、厨川
城主であった工藤氏は岩手山の祭典に奉仕してきた家柄と伝えられています。
時代は下って寛永 10(1633)年、南部藩主となった重直公は岩鷲山大権現の別当寺となった
大勝寺を創建。修験者によって盛岡総領鎮守の「岩鷲山大権現」として祀られるようになりま
した。
江戸時代の岩手山の参拝登山の正式な登山口は、東の柳沢口(柳沢ルート)、南の雫石口(御
神坂ルート)、北の平館口(上坊ルート)の三つ。各口には岩鷲山を山号とする新山堂があり
ました。その祭日にはだれでも参詣でき、奥宮である頂上は女人禁制でした。頂上参拝は山伏
によって山開きがあってから、男子だけが許されていたのです。
参拝登山は「おやまがけ」と呼ばれました。白衣に金剛杖
を持ち、六根清浄を唱えながら暗いうちから登り、日の出を
礼拝するなどのしきたりがありました。
遠くから拝む「遥拝所(ようはいじょ)」である新山堂か
らは<御守り札>、御山(おやま)の奥宮からは<這い松の
枝>、<薬草(当帰・とうき)>、<硫黄(いおう)>を頂
戴して帰った。御札は家庭の神棚に供え、這い松の枝を田の
水口(みなくち)や苗代(なわしろ)、また、畑や麻畑の入
り口に立てておくと、巖鷲山大権現様の守護で五穀豊穣(ご
こくほうじょう)がもたらされると信じていた。これらは「お
山参詣」の出来なかった隣家や親戚にも配った。
まさに農民生活に密着した信仰だった。
未婚男子は概ね15歳になって、岩手山に登れば一人前の男になったものとされることから、
“お山参詣(おやまがけ)”をした。江戸時代以降は登拝者も増え、岩手山登拝や代参(代理
人をたのんで拝んでもらう)を記念して、参詣者あるい
は集落の人々による“講中(こうちゅう)
”によって“岩
手山”や“巖鷲山”と刻んだ石碑が、それぞれの地に建
てられた。町内にも何基かある。
岩手山の頂上には、本宮(ほんぐう)としての奥宮の
御室(「おむろ」とも、また「みむろ」ともいう)があり、
その手前には三十三観音の石像が盛岡講中(城下の商人
などの奇特な人びと)によって建てられている。
<右は昭和初期富士登山講中の写真>
山頂奥宮の参拝後は守札、ハイマツ、硫黄、薬草を持ち帰り、五穀豊穣と無病息災を祈願し
ました。
このおやまがけは、南部藩では藩主の名のもとに行う「三十三騎詣り」として藩随一の祭礼
行事となり、幕末まで大々的に執り行われました。
4
明治になって名称が「巌鷲山大権現」から「岩手山神社」に
明治 2 年、岩鷲山大権現は「岩手山神社」と改められて、各登山口に神社が造られました。
岩手山頂(妙高岳)の東に岩手山神社奥宮があり、いまでも頂上にたどりついた登山客の多く
はこの奥宮への礼拝を忘れません。
「正一位巖鷲山権現」
貞享三(1686)年の大噴火により、巖鷲山へ神位を与えること
になり、京都吉田家より「正一位巌鷲山権現」との宣旨(せんじ)
があり、同年10月3日に盛岡に達せられた。
それで、盛岡の大勝寺を当山の別当として、寺領二百石を賜り、
柳沢付近を新田に願い上げ、その百姓を当山の用とした。
また、巖鷲山の本宮を「本山」と号し、新たに遥拝所を建立し
て「新山堂(しんざんどう)
」と称した。
【「滝沢村の歴史」から引用】
✿
この岩手山神社には深夜や早朝に登山する人のための長床(ながとこ)もあった。現在は再
建されている。参詣者はここの湧水で口をすすいで身を清め、
杖をつき、祈祷詞を唱えながら登った。
長床(ながとこ)
神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物で,拝殿と明確に
区別されていない例もあるが,長床は熊野系の神社に多くみられ,
単なる拝殿ではなく,修験者,行人(ぎようにん)ら長床衆に一時
の宿泊・参籠の場を提供する。また山形県庄内地方では部屋に区切
られ,いろりがあり,宮座や氏子の集合場所にあてられて,膳,椀,
鍋釜などの格納設備をもつものが多い。長床の名称で重要文化財に
指定されている建物に,福島県喜多方市の熊野神社長床(鎌倉時代),宮城県仙台市の大崎八幡神社
長床(江戸時代)などがある。
御山参詣をする者は山に登り始めれば往時は一同揃って祈祷の詞を述べたものである。中に
は南無阿弥佗仏を唱えるものもあり、登山中所々拝礼をして唱える祈祷の詞もある。雫石口か
らの参詣者の祈祷詞に次のようなものがある。
懺
悔
…
「
さ
ん
げ
」
と
唱
え
る
唱
え
た
り
し
て
い
る
。
「
姫
神
権
現
」
と
読
み
替
え
て
ま
た
、
傍
線
の
と
こ
ろ
を
六
一金根
時剛罪
礼童消
拝子
のお
早注
池連
峰は
権八
現大
(
南帰
無路
帰)
命
頂
礼
、
懺
悔
懺
悔
ワ
ラ
ハ
バ
キ
一
時
礼
拝
5
一
時
に
御
本
尊
田
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明
神
能
気
之
皇
子
御
宮
本
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三
社
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三
十
六
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(
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社
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)
六
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大
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命
頂
礼
、
懺
悔
懺
悔
(
途
中
で
)
南
方
・
雫
石
口
の
祈
祷
詞
六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である
眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)
※ お山参詣(おやまがけ)
とお天気
かつて、岩手山南口(雫石・御神坂口)からお山がけする人々は「岩手山の中腹に雲
が横に棚引けば『お山、帯した雨が降る』と言い、頂上近くにかかれば『お山、鉢巻
きした天気になる。
』と言い、岩手山がはっきり近くに見えると『お山近く見える、
荒れ日が来るぞ』と言っていた。また岩手山に三度積雪があれば、次は里まで来る、と信じて
いた。」そうである。
(田中喜多美著・山村民俗誌より)
昔の人々はこのように山や雲の状態や動きから天気を予想し、日々の暮らしや山仕事、農作
業に対応してきました。これを「観天望気(かんてんぼうき)」と言い、格言やことわざの形
で全国いたるところに伝えられてきました。
※湧水……境内には「神山秘水」と呼ばれる湧水がある。年中水量が豊富であるうえ、雑
菌がほぼ皆無ということで、水汲みに訪れる人が跡を絶たない、人気スポットになっている。
※神山秘水… しずくいし物産振興会でペットボトル販売
麓の太子食品(もやし栽培、洗浄用)、宮田醤油の工場でも活用。
おおみやじんじゃ
②大宮神社
(西根・行政区は「西根谷地」)
雫石町西根(18地割)大宮65番地に所在する。
祭神は大山祇神と「坂上田村麻呂公」である。
由
緒
<雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」76pより>
延暦(782~805)の昔、霧隠山(岩手山)に籠る大猛丸討伐のため軍を進めた田村麻呂
将軍は滴石の地に入り大宮の地まで来たが、岩手山方面は霧が
かかって見えず、やむなくこの地に大休止をした。
将軍は 岩清水の観音様 に戦勝を祈願し、やがて霧が晴れた
ので軍を進め大猛丸を討伐することができた。帰陣後大宮の地
に滴石総鎮守として大きな社を建立した。
左の絵は「田村麻呂」の想像図。
坂上田村麻呂(758~811)は平安時代の武人で2代目の征
6
夷大将軍。801 年東北の蝦夷征討のため遠征して成功を収め
る。蝦夷の族長胆沢の阿弖流為(あてるい)らの降伏を容れ
る。延暦 22(803)年志波城を造営した。
<この囲み記事は「雫石の寺社」の記事ではありません。>
(「雫石の寺社」記事の続き)
元禄二(1689)年三月二四日野火のため、大宮の堂が焼失したが代官望月文平の指揮により、
郷中の人夫566人を動員して再建した。
享保十五(1730)年西根村宅地調べにも山伏浄法院180坪の宅地があった、とある。
お宮の近くには寛延二(1749)年十二月従因至常明院、文化二(1805)年九月従因至常学院、
の2基の墓石が残っている。
明治四(1871)年の神社統合の際、別当円蔵院がこの社を焼き払ったとも伝えられる。
田村麻呂「大宮」伝説
…
雫石町史より
大 宮
大字西根字大宮に岩手山大権現を祀る大宮神社と呼ぶ社があり、葛根田・駒木野・西根谷地
の集落の産土神となっています。大昔岩手山の賊大猛丸を討伐するべく生保内院内の観音堂か
ら軍を進められた田村麻呂将軍は、国見峠を越えて滴石の地に入りました。大宮の地まで来ま
したが岩手山方面は霧がかかって見えません。止むなくこの地に大休止しました。
将軍は岩清水の観音様に戦勝を祈願し、戦勝後この地に滴石の総鎮守として大きな社を建立
しようと決心しました。数日後、霧が晴れたので軍を進め、賊を退治することができました。
其の後田村麻呂将軍はこの地に大きな社を建立しました。
山伏・円蔵院が別当をしていた大宮社(雫石町史より)
巌鷲山本宮・西根大宮御堂(みどう・大宮神社のこと)…この地は坂上田村麻呂将軍が東夷
征伐の際に、ご本陣がおかれた場所と伝えられており、円蔵院も初代宥重より六代宋獄まで居
住していたところである。
本殿は九尺四方で板葺、御籠堂は二間半四方で茅葺きの建物であって、御神体は鉄製で直径
四寸(約12㎝)余りの円形のものが二体あって、一体は田村将軍の像、一体は野木之王子の
像と伝えられているが、この時にはすでに見分けがつかないほどになっていたと伝えられる。
建立年代は不明であるが、享保三(1530)年、大僧都平政久により再建され、その後元禄
二(1689)年野火によって焼失。藩主二十九代重信公の代に人夫576人、日数48日を費
やして再建されている。享保十(1725)年藩主三十二代利幹公の時に、更に建て替えが行わ
れた。
このように四十年に至らずして新たに建て替えられていることは、信仰が盛んであったこと
を表わすと同時に、修験・山伏としての円蔵院の勢力の強さを表わすものであろう。
◆
修験・山伏としての円蔵院の格式をみるに、十二代権大僧都法印美慶の代、安永三(1774)
7
年五月に先例により巌鷲山本社大宮に代参する時の供揃いは次のようである。
金剛杖・鞍馬乗・若童二人・螺吹二人・草履取・挟箱・立笠・長刀・跡来南学院
代参であるから、このような供揃いになったものであろうが、これは藩の重役に次ぐ格式で
はなかっただろうか。このようにして支配の社堂に御幣を上げ、大宮社に詣で、新山に到着、
それより同行の一人円蔵坊を登山させて山上の拝所に代参させ、祈祷した御守札を持ち帰り、
藩主、御家門御一同に配るという仕組みであった。弟子として同行するのは南学院や和光院の
修験・山伏達であった。
また、宝暦五(1755)年頃より明治に至るまで、繋に住む羽黒派の正福院を配下として
いることなどから、本山派でありながら、羽黒派も許されていたものと推定される。
※ 修験者とは
修験(しゅげん)とは修験道を修めた人をいい、修行のため山野を遍歴してそこに起臥
したことから山伏ともいわれている。修験道は日本古来の山岳信仰や神祇道から始まり、
平安期に至って天台、真言の密教と合体し、陰陽道や道教なども包摂して神仏両者に仕え
る者であった。
修験の社会的役割は
①呪術者として、別当をしている神社に藩(あるいは当主)
の安泰祈願をはじめとし、凶作にあえぐ百姓のため五穀
豊穣の祈祷を行う。受け持ち区域を「霞(かすみ)」とか
「袈裟下(けさした)」と呼んだ。
②求道者(ぐどうしゃ)として、帰心(信)者を羽黒、大
峯等の霊山に先達をして詣でたり、または代参して護符
を請けて帰り、配布している。
③芸能保存者として、古式豊かな神楽などの伝承と指導普
及を行う。
④医者として和漢薬などの療法を教える。
⑤民間信仰の指導者として、庚申(こうしん)などいわゆ
る石仏信仰の指導をする。
⑥教育者として、寺小屋を開き、村人の子弟に読み、書き、
算盤等を指導する。
修験・山伏の系統
修験・山伏には二系統がある。一つは天台宗で聖護院を本山とする熊野系で、この中に
本山派と羽黒派とがある。他の一つは、真言宗で醍醐寺を本山とする大峯系で、この中に
当山派がある。<雫石の円蔵院は本山派に属しているが、支配下には羽黒派もある。>
円蔵院の系図
かつて雫石に居住した修験・山伏は円蔵院を筆頭に、南学院、和光院がある。明治にな
8
ってから円蔵院は姓を「木村」と改めた。円蔵院の木村萬(きむら・よろず)は雫石小学
校で長く教員を勤めたことから、木村 萬先生の名で知られた。
円蔵院は初代を、木村相模守宥重としている。宥重は享禄年中(1527 年頃)から天文年
中(1528~1554)まで、二代宥次はそれより天正年中(~1591)まで、滴石城主であった
戸沢氏に仕えて、城内にある氏神をはじめ、守護神とする巌鷲山に関わる各神社の神主と
して、戸沢氏の安泰と隆盛を祈る祭典を司っていた。戸沢氏が亡び、南部氏に代わった時
に身を引いて、三代宥明にその職を譲った。したがって、三代宥明は戸沢氏から南部氏に
代わった政変の中で、神に仕える人なるが故に無事家系を保ち得た人ということになる。
四代宥元の代に、南部家 27 代利直公に田村麻呂将軍の戦勝にまつわる巖鷲山の由来を話
し、南部氏の繁栄祈念のためとして慶長 8(1603)年 10 月 20 日、西根村に田地 44 石 5 斗1
升の土地を寄進され、寛文 11 年 (1671)に 45 石となった。こうして岩鷲山信仰に関わる
社堂の神主としてその地位を確立した。
しずくいしじんじゃ
③
雫 石 神社
(西根・行政区は「上西根」)
雫石町西根(12 地割)北妻52番地に所在する神社。
“しずくいし”の地名発祥の地といわれる。通称「滴石たんたん」と呼ぶ。
大字西根北妻の雫石神社の境内に杉の巨木がありました。巨木の根の奥から湧いてきた清水
が、お銚子の口のような岩からたんたんと落ちていました。部落の人たちがここに社を建て水
神様として拝んでいました。地域の人たちはこのお宮を「滴
石たんたん」と呼んでいました。
康平(1050 年頃)の昔のことだと伝えています。これが雫
石の地名の起こりとなりました。
【雫石町史・伝説と昔話】から
(今回の表紙写真の木の説明)
名称 雫石神社の杉 (しずくいしじんじゃのすぎ)
別名<月夜見の大杉>
所在地の地名
樹種
【月夜見の大杉の根元にある
タンタン祠】
ゆい
しょ
由 緒
スギ
目通り幹囲
岩手県岩手郡雫石町西根字北妻
樹高 40m
5.4m(注 2)
推定樹齢 1340年
雫石町指定天然記念物(1994年7月1日指定)
<雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」より>
昔、西根の山奥に不思議な清水の湧く音がしていた。柴を刈る翁が「シズクイシ」との奇音
に近づいてみると、老杉の根元の岩の中の銚子に似た口先から清水が「シズクイシタンタン」
9
と奇声を発し岩石を打っていた。それ以来この地を滴石と呼ぶようになった。
康平年間(1058~1064)凡そ900年前、萩平の八代家で神祠を建て、滴に光る十三夜の
月を拝して、月夜見命、岩清水に豊秋津彦命を祀り、「タンタン様」と崇敬した。
明治三(1870)年正月、西根村社となり、翌年7月に西根村と長山村の(第 12 番区)の御
社に列している。
雫石神社(滴石たんたん)の伝説…
陸中の伝説(小形信夫編著)から
雫石の西根の山中に滴石神社と称する小祠がある。その背後の林から、谷水が点滴となっ
て流れ落ち、石に当たる音がタンタンと山間に響いて一種の妙音を奏でていた。これを雫石タ
ンタンと称して、
「雫石」の名の起こりとして土地に伝えている。
また、別な話では昔西根の山中に一岩石があって、この岩石から清水が湧きでていた。岩に
は銚子状の湧き口がついていて「シズクイシ」と鳴って湧き、下の石に「タンタン」と滴って
いた。
日夜この妙音を発する岩石を、物珍しさに近在の人たちが見物に大勢押しかけて来た。別当
のかかあは見物人が押しかけるのを嫌って、ある夜、この銚子状の湧き口を叩きこわしたため、
その後は「シズクイシ」とは鳴らず、
「タンタン」とのみ鳴るようになった。そのたたりで、
その家は滅び、子孫も絶えた。砕かれた銚子状の石は、唸りを生じて他所に飛び、下閉伊の宮
古に行って銚子口大明神として祀られてあるという。
※町の地名の由来…
別な説
たま
「藤波の影なす海の底清み
沈く石をも珠とぞ我が見る」
大伴家持
万葉集より
天平勝宝2年(750年)、国司として赴任していた越の国(越中・富山・高岡市)の布勢
の海に遊んで、4人で歌を詠んだ際の家持33歳の歌。
<藤の花が影を映している海。その海はそこまで透き通り、底に沈んでいる石にまで
藤の花房が影を宿している。底の石まで藤色の珠に見えるよ、我は>
けんばい く よ う と う
④ 「剣舞供養塔」などの石碑群
現
(西根・行政区は「上西根」
)
況
剣舞供養塔(けんばいくようとう)
百万遍
(ひゃくまんべん)
月山、湯殿山、鳥海山 (がっさん、ゆどのさん、ちょうかいさん)
金毘羅山、西国三十三カ所巡礼(こんぴらさん、さいごくじゅんれい)
南無阿弥陀仏
(なむあみだぶつ)
有無両縁塔
(うむりょうえん)
10
青面金剛
(せいめんこんごう)
二十三夜 (にじゅうさんや)
念仏供養(ねんぶつくよう)
庚 申 (こうしん)
疫病退散(えきびょうたいさん)
剣舞供養(けんばい くよう)塔
剣舞は後三年の役(ごさんねんのえき・1083~1087>
と義経の高舘(たかだち・たかだて)の戦いの死者の霊
をまつる行事として始まり、その後先祖の霊をまつる行
事となったものです。
雫石の剣舞は滝沢村から伝わったものらしく、西山と
御明神両地区だけで、9~10 組ほどあったようです。お
盆を中心として2~3人の部落の旧家が太夫(たゆう)
となり、部落の人たちを引き連れ、町内はもちろん滝沢、
太田、盛岡、都南方面まで巡業したという。雫石の剣舞
は「とううちわ(唐団扇か?)」と称する軍配の柄の長い
ものを持って踊る。
雫石城攻略に苦心した南部勢はちょうどお盆の時だっ
たので剣の道に優れた武士たちを、剣舞踊りの連中に扮
装させ、城門の番人のすきを見て城内に切り込んで落城させたという伝承もある。
剣舞供養塔は、西山29基、御明神2基、雫石4基の計35基ある。
百万遍供養塔(百万返とも書く・ひゃくまんべん
くようとう)
百万遍(辺)は浄土教に由来している。阿弥陀経(あみだきょう)にもとづき、七日間にわ
たって百万辺の念仏を唱え、それによって罪滅往生(ざいめつおうじょう)を遂げたいという
行法(ぎょうほう)が、百万辺である。
浄土教は、わが国では鎌倉時代に法念(ほうねん)、親鸞(しんらん)の教化布教(きょう
かふきょう)によって広くひろめられた。浄土宗本山である京都知恩院の八代公円が元弘元年
に後醍醐天皇の命によって厄病流行を止めるため、七日間百万辺念仏を行った。その結果、厄
病の流行もやんだので「百万辺」の称号を賜ったという。その後各地に普及したものと推測さ
れる。
✿
雫石では正月16日、盆の16日、春秋の彼岸の中日に決められた家に集まって、念仏
を行っていたが、昭和30年頃から部落公民館が建設されると正月と盆は中止し、春秋の
彼岸の中日だけ公民館で実施するようになった。年々参加者が減少するようだが、百万辺の行
事だけは続けられている。
行事は、回向(えこう)を上げ「数珠(じゅず)」を回して念仏を唱え終わって、精進料理
(しょうじんりょうり)で酒宴し、解散している。
回向文(えこうぶん)も部落によって差がある。最も簡素なのが横欠、切留の部落だ
が、これが古い形かもしれない。最も本格的なのは晴山である。まず回向に入る前文は、
「今所春(秋)の日に当たり志弔う精霊は施主当家をはじめ講中一同各家先祖代々六親
九族先亡後滅一切精霊仏果円満の為、香偈燈燭茶菓珍膳を供え、謹んで回向申す。」その
後回向と念仏となる。
順序は、南無阿弥陀仏、お釈迦念仏、道元念仏、十王十体、無縁法界、一心成仏、最
後に舎利法文を唱えて終わる。葛根田部落では一心成仏、舎利法文はしない。御明神方
面では道元念仏、一心成仏、舎利法文はしない。
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✿
現在、町内に「百万辺供養塔」は上西根を含めて8カ所(下川原、上西根、小松、篠崎、篠
ヶ川原、横欠、中島、谷地)ある。
二十三夜塔(にじゅうさんや
とう)
昔からの習俗(しゅうぞく)として「月待(つきまち)」といって、夜どおし眠らずに話を
したり、物を食べたりして夜を明かす習わしがあった。
「待ち(マチ)
」とは、日本の古語(こご)で、最初の意味は「お側(そば)にいること」
すなわち神とともに夜を明かすことだったと、柳田国男先生が言っておられる。二十三夜はこ
うした月待行事(つきまちぎょうじ)で、二十三夜様という神様がこの晩は村々を巡回なされ、
信心深(しんじんぶか)い人には徳を施(ほどこ)し、
恵みをたれたもうものと信じられてきた。ある村では、
二十三夜の晩の祭りを良く勤めるものは無病、健康で一
生を送れると信じているという。
●○
二十三夜信仰は、平安時代から「庚申待(こうしんま
ち)」とともに、宮中での年中行事(ねんちゅうぎょうじ)
となっていた。それが一般に普及したものだといわれる。
最初は毎月の行事であったが、その後、1月、5月、
9月、11 月、の年4回行われるようになった。11 月の二
十三夜は山陰地方では「霜月三夜(しもつきさんや)」と
いって、太子講(たいしこう)と言っている。
雫石では明治以降始まった行事と考えられ、年 4 回講
中(こうちゅう)持ち回りで宿(やど)を決め、夕刻よ
り集まり、月を背に蓮花(れんげ)に座し、仏様の掛け軸を床の間に掛(か)け、お供えを上
げ、精進料理で酒宴しながら月の出を待ち、月が出ると一同で拝み解散した。昭和の初期まで
は多くの部落にあったが今はない。
11 月 23 日はお大師様(おでえしさま)といって多くの家で、あずき団子を作り、桃の箸(は
し)を添えて神棚(かみだな)にお供えする行事があったが今はない。
☆
信仰対象(しんこうたいしょう)は、神道(しんとう)では月読命(つくよみのみこと)
とし、仏教では勢至菩薩だといっている。
二十三夜塔は町内には7基だけで最も古いのは上西根にある明治14年建立のものである。
しずくいしはちまんぐう
⑤
雫 石 八幡宮(雫石城跡)
(下町・行政区は「下町東」
)
雫石町下町にある「雫石八幡宮」の一帯は、中世からの
舘跡とされる。
南北朝時代の興国元(1340)年にこの城が築城されたこ
とが、同年 12 月に書かれた古文書・清顕状(せいけんじょ
う。北畠顕信卿の祐筆である清顕が書いたとされる文書。
手紙類)に出てくる。この文書によって「滴石」の地名と
「滴石氏」の名前が歴史上はじめて登場する。
12
鎮守府将軍北畠顕信卿は、1342 年宮城・三迫において奥州探題石塔義房と戦って敗れた際
に滴石氏を頼って滴石城に入った。以降、正平元年から 5 年間(1346~1351 年)ここを居城
に国府多賀城をめぐり北朝方の足利尊氏らと対峙した。(鬼柳家文書)
その後、南北朝両軍の攻防は一進一退を続けたが、やがてこう着状態となり、さらに 1392
年に南北朝が合体し 60 年間の対立が解消した。
その後滴石城は滴石(戸沢)氏が居城して滴石郷を治め、
およそ 150 年間13代にわたり平穏な時代を過ごしている。
〈この記述は雫石町史から。なおこの間の滴石郷の記録は
ほとんどないが、一方出羽(秋田)には、この間の戸沢氏
の記録が残っている。〉
三戸南部氏の勢力拡大で圧迫され、攻められて落城…
天文年間(1532~)に入って、それまでの八戸南部氏から代わって三戸南部氏が台頭。戸
沢氏はその勢力拡大の矛先を向けられ、臣従を断ったことから侵攻された。南部勢は舘のみな
らず城柵や城下屋敷にも火を掛けられ、ついに天文 9(1540)年に滴石城は南部氏の手に落ち
た。その後、足利氏の流れをくむ斯波(しば)氏の勢力が拡大。南の太田・猪去方面から滴石
郷に進入。一度目は南部勢に押し戻されたが、二度目の攻略で占拠。1545 年頃から斯波氏二
男詮貞(あきさだ)から三代約 40 年間にわたって居城した。
≪滴石≫
から
≪雫石≫へ名称を変更!?
詮貞の時代に、綾織越前広信なる者を取立て、新城(大規模な形状、機能変更のことか?)
を築かせたとされる。越前はその技量で、さまざまな土木工事を手掛けた。
詮貞は、領地の名称と自らの姓を斯波から「雫石」に改めた。しかし、この時以降もしばし
ば「滴石」が使われている。
南部氏が奪還に成功!
しかし6年後には破却
天正 12(1584)年ごろから南部信直が雫石氏を攻撃し始める。雫石氏は講和を求めたが、南
部氏は応ぜず。ついに天正 14(1586)年 9 月、雫石城は信直の総攻撃に遭い、再び南部氏の
手に落ちた。
その後、天下を掌握した豊臣秀吉の「一領主一城」政策により各地の城の破却が命ぜられ、
天正 20(1592)年、信直の手によって雫石城も破却され、「城」としての 250 年間の歴史を
閉じた。
当時、戦乱の間、土地の農民たちは、若い者は徴兵に、一方の女子供や年寄りたちは農
作業や城造りに強制的に駆りだされ、収穫した食糧は軍の糧秣として供出を強要される、
まことに理不尽な時代であった。
南部氏との戦いにおいて、南部方の軍勢は城の北側「晴山方面」に陣取っていたとされる。
因みに、16 世紀には秋田街道に相当する大きな道路は、滝沢村の篠木坂峠から沼返しを通り、
さらに笹森から下町の「舘坂」を通って雫石の下町(下寺さんの向かい)に入ったとされる。
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(1)よしゃれ伝説はこの頃のことか?
信直が城攻略の手段として「水攻め(飲料水を断つ)」を謀り、城の飲料水の取水
口を探し当てようと探索した様子が「よしゃれ茶屋」物語と伝えられる。
(2)白米伝説
雫石方は、
「枯水戦術」に対抗して、城中に水が豊富にあるように見せかけるため、
堀に白米を撒き、馬にも白米を掛けて行水と見せかけたが、雀の大群が来襲して南部
に見破られた、という伝説がある。
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ぬ ま た じんじゃ
⑥ 沼田神社(戸沢舘跡)
(西安庭戸沢・行政区は「天戸」)
旧御所村西安庭の字戸沢にある沼田神社は、滴石
(戸沢)氏の祖先を祀った神社である。
現在の場所は、町立安庭小学校のやや北東の方向
で、県道盛岡鶯宿線を挟んで向かい側にある。
この土地は、戸沢舘跡として知られ、往古戸沢上
総介の拠った所として古文書に“御城、地名松之木
といい、本丸高三間位、廻二百五十尺 川出水無し”
と、居城の規模を伝えている。
沼田神社は戸沢五郎の創建といわれ、八幡観世音
弁財天を祀っている。弁財天は戸沢氏奥方のことで、南部氏に攻められ落城の際に稲籾童子を
抱いて沼ノ平という処に身を沈めた。それより弁財天と崇め祀ったと伝えられている。
境内に地蔵様を刻んだ石碑があり戸沢公の姫君の墓と伝えられている。
「沼田神社は古図には戸沢明神と記されており、戸沢五郎の創建、八幡観世音弁財天を祭神として
祀り、この弁財天は戸沢氏奥方のことで落城の際、稲籾童子を抱いて沼の平に入
水したと伝わる。」
稲籾童子(とうちゅう
どうじ)
またの名を大神童子といい、本地は文珠菩薩。左肩に稲束を担いで、
右手に宝珠を持ちます。
弁財天と稲荷神が習合しましたので、稲荷神の功徳を稲籾童子に表現し
たものでしょう
拝殿の屋根の家紋は、戸沢家の紋である「九曜紋」である。
この沼田神社の神霊札銅板が、いかなる経路によってか、現在東京都に住む人の所持する所
となっている。初代戸沢衡盛(ひらもり)以前の系譜については信ずるところが少ないにして
も、これら系譜並びに諸資料から言えることは、安倍氏の奥六郡支配以前から、滴石庄には数
個所の舘に支族を配する豪族が住み、清原氏や藤原氏の支配に属し、土地所有を認められ、貢
賦を納めて相当独立性を持っていた。これが中央政権から離脱した者と一体となって時代の波
に乗る政治力を持つようになり、頼朝の征討にも敵対することなく、その所領を安堵されたも
のと考えられる。
これが滴石氏を称する衡盛で、以来、家盛までの約350年滴石に居住し、その間南北朝争
乱に南朝に味方して、正史にその名を残し天文9(1540)年、南部氏に追われて出羽に移った
ことが頷かれる。(以上、雫石町史第1巻)
※
戸沢氏 とは…文治 5(1189)年、藤原泰衡追討に勝利した源頼朝は勲功のあった葛西清重を
総奉行として平泉付近に配置し、その他の関東武士に藤原氏の旧領を与え「地頭職(じとうし
き)」に任命した。岩手郡に 工藤小次郎行光、 岩手・志和東部には 河村秀清が入った。
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後の戸沢家関係の史料には、この時「滴石衡盛(しずくいし ひらもり)が滴石庄と羽州
山本郡合わせて 4600 町歩を与えられた。
」とする記述がある。
戸沢氏の系譜の一つ「新庄古老覚書」に、
平通正の男子、尾輪の平新衡盛が、寿永 3(1184)年に奥州に下り、一族の樋山弾正良
正の許に身を寄せた。良正は衡盛を樋山を去る一里の戸沢に居住させ娘を娶したが、良正
に嗣子がなく、衡盛はその跡を受け、その地を領有したと伝えている。
とある。ここがその「戸沢」と伝えられている。
仮に、戸沢家の史料のとおりであったとしても、下図のようにその周囲は、奥州も羽州も頼
朝直轄の関東武士に囲まれており、まさに、前途多難な出発であった。
南部光行
こうしたことを背景に、建久年間(1200~1220 年ごろ)に戸沢氏2代の兼盛が、領地を接す
る南部氏に追われて羽州鳳仙岱(ほうせんたい)に落ち延びたという説も出ている。しかし、実
際にはこの頃には南部氏はまだ奥州北部の糠部郡に居り、戸沢氏に圧力をかけることは不可能
であった。
こ ん ぴ ら じんじゃ
⑦ 旧 金毘羅神社跡の「ブナ」の大木
(西安庭天沼・行政区は「天戸」
)
御所湖広域公園の「乗り物広場」の入り口の右手に小高い丘があり、その頂上部に2本の大木が
そびえ立っています。
一本は、
「ブナ(椈、橅)
」の木、もう一本は「キタゴヨウ(北五葉)」です。いずれも樹齢(じ
ゅれい)は、150年を優に超えていると思われます。
これらの木は、自然にはこの場所ではあまり見ることができない種類で、普通はもっと標高の高
い、山奥で自生しています。ここには、40年ほど前まで金毘羅神社というお社がありました。御
所ダムの水没移転で昭和47年に神社は安庭小学校の近くに移されています。別当さんは、天沼(あ
まぬま)という地域の「長五郎(ちょうごろう)」と言われた大百姓で、通称“天長(あまちょう)”
さんと呼ばれる方です。
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金毘羅神社の由緒は「雫石の寺社」
(雫石町教育委員
会刊)によれば、次のとおりである。
✿
天長(屋号・高橋長五郎)家の氏神である。
年代は不詳であるが、昔六部が宿泊した時に「お預か
りください」と笈の中から御厨子を出して置いて行った。
その後来ないので御厨子を開けてみると金毘羅像が入
っていたので氏神として祀ったものである。弘化二年
(1845)7月大工沢内川舟村貞吉の棟札があり、同年絵
師亀吉の署名もある。
✿
事務局・注 …「六部(ろくぶ)」とは「六十六部」の
略。「六十六部」とは廻国
巡礼の一つ。書写した法華
経を全国六十六カ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍
歴する行脚僧(あんぎゃそう)
。室町時代に始まる。江戸時代には俗人
も行い、男女とも鼠木綿の着物に、手甲、甲掛、股引、脚絆も同色の
ものを用い、死後の冥福を祈るため鉦(かね)を叩き鈴を振り、ある
いは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。
(広辞苑)
神社跡の二本の大木について
二本の大木の前には、この木について次のようなメモを書いた立て
札が立てられています。
ブナ
(ブナ科)
古名
花期;5月下旬~6月下旬
ソバノキ<曾波乃岐>
花言葉; 繁栄
これはブナの大木で、樹高25m、幹周 3.5mもあり、離れてみるとケヤキのよう
です。ブナの実は数年おきに結実し、食べられます。形はソバの実に似ており栄養
価が高いので山の動物たちの大切な食料です。
【施設管理者 小岩井農牧・文】
キタゴヨウ(北五葉) (マツ科)
花言葉; 不老長寿、勇敢
この木の自生木は、網張の奥に行かないと見ることはできませんが、この場所には
昔、神社があり誰かが植えたものと思われます。葉が5本ずつ束生しているのが特徴
です。ここの木は高さ20mぐらいあると思われますが、最大では30mにもなるそ
うです。
【施設管理者 小岩井農牧・文】
※松は、日本の目出度い植物の代表格。松は二葉で、枯れても離れないことから睦まじい
夫婦の象徴として大切にされてきた。まして三葉、五葉ともなればなお、非常に稀で、
栽培も難しいことから重用されている。「五葉の松」は御祝の歌によく出てきます。
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