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「理由はたくさんある」 ヴァイスフェ ルトが答えた。 「ひとつは、 ラーキン氏

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「理由はたくさんある」 ヴァイスフェ ルトが答えた。 「ひとつは、 ラーキン氏
、
。 と
ひ つは ラーキ ン氏が心配してる
﹁
理由はたくさんある﹂ブ ァイ スフ ェルトが答えた ﹁
ってことだ﹂
あ の人はぼく のことなんかな にも知らな いじゃな いか﹂
﹁
、
。
。
きみが思 っている以上 に知 って いる 彼は いい人だし 立派な人だ きみのことを真剣 に
﹁
。
考えてくれている それは間違 いな い﹂
。
、
ク ロードはう つむき ナイ フとフォークしかの っていな い皿をじ っとみ つめた
、
それから ほかの子供たちと付き合うことも大切だし⋮⋮﹂
﹁
、
、
。
ク ロードは思わず舌打 ちした そんな話 はこれ以上き いていられな い やめてくれ と い
。
う訴え のこも った音だ った
、
ブ ァイ スフ ェルトは驚 いて上体をひき しばらく のあ いだ︱︱そこまで感情をあらわにし
、
ようと思 っては いなか ったク ロード にと っては いたたまれな いひとときだ った︱︱ものも
、
。
。
それは反対だ ってことかな?﹂
いわなか った やがて 彼は口を開 いた ﹁
すみません﹂
﹁
、
。
、
。
﹁いや いいんだ わかるよ な にか理由があ って 学校 に行く ってこと自体が恐 いんだろ
う。だから行きたくな いんだな﹂
、
、
。
ほかの子たちが⋮⋮ ただ の子供なんだけど ただ なんていう か︱︱ ﹂
﹁
。
ヴ ァイスフ ェルトは つづく言葉を待 った 少年が自分 の考えを満足 にあらわせな いのがど
うしてな のか、じ っと待 っていればわかるとでも いうよう に。やがて彼 はため息を ついた。
、
ク ロード 幼 いうちにここまでにな っ ピア ニストは、きみがはじめてじ ゃな いんだよ﹂
﹁
た
さ っきと違 って、少年 は耳を傾け ていた。﹁
これは昔 から いわれ てきた ことで、多 く の人が
。
議論をかさねてきたことだ わたしたちも前 に話したことがあるだろう? きみにはバラン
スのとれた良 い教育が必要だ。大学 にも行 って、 できるだけたくさんのことを学 ぶ必要があ
。
る 芸術、哲学、科学、道徳︱︱あらゆることだ。人類がなにをどう考えてきたかを学ぶん
、
。
だよ ク ロード そうすれば強くなれる﹂言葉を切 ってキルシ ュをあお った。目がぎら つい
。
ていた ﹁
必要 になるときが来 るんだ﹂
え っ?﹂ こんなブ ァイ スフ エルトをみるのははじめてだ。遠回しながら、有益小
﹁
を いわさぬ
し ゃべりかた︱︱それをきく のもはじめてだ った。﹁
なにが? どう いう こと?﹂
、
﹁
誰 にと っても 強くなることが必要なんだ﹂彼 は自分 の意見 に同意するかのよう にこくり
と領 いた。﹁ は い けな いこと
ら
人
生
思
が
の
だ
か
ね
連
続
﹂
ク ロードはヴ ァイ スフ エルトの態度 が軟化したよう に感じ、強気 に出 てみた。﹁
ぼくはも
う強くな ったよ﹂ これは嘘だ った。﹁
なにがあ った って恐くな い﹂
そうだろうとも﹂ヴ ァイ スフ ェルトが い った。そしてふ いに身体 の角度を変え、窓 の外を
﹁
。
自分 でも意外だ︱︱昔 のことを考えるとね。 こうし てドイ ツ
みた ﹁
の
ん
で
だくれ
料
理
店
飲
、
てるなんて 本当 に思 っても みな いことだ った﹂はじけるような笑 い声をあげ た。 ﹁
ドイツ
ンハ ッタン物語 (上)
マ
201
のビー ルを飲んでるとは﹂
、
﹁
飲んだくれてるうちに入らな いよ 母さんとくら べれば﹂
。
そう か それほどでもな いかな﹂彼は いく つも のグ ラスやジ ョッキをテーブ ルの真 ん中 に
﹁
。
押しや った フ﹂の へんでやめにするか﹂
ジ ャケ ットを着 て、ネクタイをしめて行くんだぞ﹂ヴ アイ スフ ェルトから の指示だ。﹁
﹁
礼
、
。
儀正しくして でしゃばらな いこと あ の 一家がきみにピアノの伴奏を頼 むのは、車 の運転
とかキ ャヴ イアの給仕を頼 むのと同じ感覚なんだから﹂
、
キ ャブ イア って な に?﹂
﹁
。
。 、
﹁
魚 の卵だ 旦
塁局のごちそうだと いわれてる ま きみに出されることはな いだろうが﹂
かまわな いよ﹂
﹁
、
そんなわけで 年齢十五歳、身長百六十五センチ、体重五十 二キ ロのク ロード ・ローリ ン
、
グズは ブ ルーミングデイ ル ・デパートの地下売り場 で買 いそろえたウー ルのジ ャケ ットと
、
灰色 のズボ ン ワイシヤツに青 いネクタイを身 に つけて、五番街と八十 八丁目 の交差点 のわ
きに立 っていた。時刻は午後 四時。 フィクス家 の屋敷はすぐそこにあ った。
まわりが高層 のアパートば かりな ので、その屋敷だけが浮 いている感じだ。灰色 の石造り
マンハ ッタ ン物語 (上)
、
、
。
の三階建 てで 通りからは少し引 っ込んだところにある 屋根はスレートでふ いてあり 窓
、
は縦長 に区切られていて 玄関 の両脇 にはドーリ ス様式 の柱が立 っていた”玄関先 からは短
、
い私道が弓なりに伸び ていて 五番街 と八十 八丁目 のどちらの通りにも出られるよう にな っ
。
。
ている ク ロードは小石を敷き つめた私道を歩 いていった 途中 に駐められていた黒 いリム
、
。
ジ ンのナ ンバープ レートに目を引 かれた 57と いう数字 の上 に 分厚 い金属 のバ ッジや エ
り け ある。 い にも
と いう じ 。ヴ ァイ スフ ェ トにき いた話 で
ンブ レ
ム
つ
て
か
だ
が
用
ル
取
公
車
感
、
。
は デ ュー マン ・フィスクは ニュー ヨーク市 の偉 い役人だということだ った 一
屑書 は いく つ
、
。
かあるが そ の中 には市 の助役 と いう のもあるそうだ ク ロードは玄関 の前 の二段 の石段を
。
あが って呼び鈴を押した
。 ど ら ま
。
ち さ ですか?﹂とても若 い女性だ った たぶんプ エ
制服姿 のメイドが出 てきた ﹁
。
ルトリ コ人だろう
四時 のお約束 でま いりました﹂
﹁
どうで、 お入りくださ い﹂ メイドが先 に立 った。
﹁
。
白 いエプ ロンのひもをうしろで蝶結び にしている 垂れさが った二本 のリボ ンを細 い腰 の
、
。
動き にあわせて揺らしながら メイドは玄関 ホー ルを進 んで い った 奥 の部 屋は天丼 が高
く、上品なアンテイークも のの家具を いく つかず つ組 み合 わせてあちこちに置 いてあ った。
、
。
。
真ん中 にはよく磨 いたテーブ ルが並んでいる どこをみても花だらけだ った 花瓶 は 大き
さも色あ いもさまざまだ。花 の色 はひと つの花瓶 につき 一色 にまとめてある。赤、ピ ンク、
、 、
、
サー モン ・ピ ンク 白 そして 部屋 の奥 にし つらえられた暖炉 の脇 にはさまざまな色あ い
の青 い花がクリ スタ ルや磁器 の花瓶 に生けてあ った。花 の生 けかたも多種多様 で、上向きに
、
、
突きたてたり 花瓶 の回から垂れさがるよう にしたり ある いは周囲 にシダ の葉をあしら っ
。
、
たりしてある ヨ 日おきに 朝 一番 に花を替えるんですよ﹂メイドが い った。コ 一
時間 かか
ります﹂
メイドは暖炉 の反対側 に進 んでいき、突 き当たりにあ った木 の踏 み段を三段 のぼ って、縁
。
が曲線状 にな った低 い壇上 に立 った 壁全体を覆 っているカーテンのうしろに彼女が消えた
、
かと思うと まもなくカーテンが開きはじめた。 ここはステージだ ったのだ︱︱それも完璧
。
な ク ロードは手前 に張りだした ステージ に向 か って足を踏 みだした。 フツトライトがみえ
。
る カーテンが端まで開くと、グ ランドピアノがあらわれた。補子や譜面台も いく つか置か
。
、
れている メイドが舞台 のそでから出 てきて ピアノの椅 子を指 さした。亨サこでお待 ちく
。
ださ い そのうち皆さんが いら っしゃいます﹂
ク ロードは薄暗 いステージ の上 で椅 子 に腰をおろし、 メイドが下 り て いく のを みまも っ
。
、
た
女は と のあ いだを うよう にし
を ぬけ いく つもあるドアのひと つから出
彼
花
て
花
間
縫
広
。
、
てい った ピアノの陰 からみていると 広間 の向 ア
﹂
う にもう ひと つ広 い部屋があるのがわか
った。部屋 の 一部がみえる。本棚、雑誌を何冊も広げた細長 いテーブ ル、黒 い革張り の椅子
マ ンハ ッタ ン物 語 ( 上)
、
。
が二脚 シ ェード の部分が緑色 のガラスでできた真鍮製 の電気 スタンド 話し声がきこえる
、
。
が 人 の姿 はみえな い
ピアノの譜面台 にの っている楽譜 に目をや った。短 い抜粋 の寄せ集 めらし い。オリジナル
を書きかえて短くまとめたものば かりだ。ほとんどは モーツァルトの作品だが、 メンデ ルス
、
ゾ ーンや シ ューベルトのも のもある。オリジナ ルのまま のと
万全なものがな いかと探したが
。
、
ひと つも み つからなか った 最初 に置 いてあ ったとき のまま 譜面 の順 序を崩 さな いように
。
、
。
気を つけた ク ロードは頭を傾け 右 の耳を鍵盤 に近づけて小さく和音を弾 いてみた あま
り慎重 にしすぎた ので、音 はほとんどきこえなか った。 こんどは弱音 ペグ ルを踏んで、何種
。
、
。
類 かの音階をそ っと弾 いた それから両手を膝 に置き 家人が来 るのを待 った
。
、
、
長 い時間がた った 会話や里 向い笑 い声 ときにはささやき声が 広間 の向 こう の部屋か
らとぎ れとぎれに漏れてくる。 メイドは自分が来たことを誰 かに知らせてくれたのだろうか
。
︱︱ ク ロードが不安 に思 いはじめたとき、 フィスク
夫人がや ってきた 七歳 か八歳 の男 の子
。
。
があとを ついてくる どこか普通と違う感じ の男 の子だ ブ ロンド の巻き毛 に覆 われた頭が
、
。
身体 のわり に大きすぎ るうえに 一歩あるくごとにその頭が揺れている 細 い首 ではその重
。
みに耐えきれな いと いうようだ 分厚 い眼鏡 のせ いで目が異様 に大きくみえるし、その動き
も のろ い。まるで大きな青 い熱帯魚だ。腕が短く、腰 の位置がず いぶん高 か った。白 いレー
、
スの襟が ついた 茶色 のベルベット のスーツを着 ている。手 には小さなヴ ァイオリ ンのケー
。
スを っていた
持
こんにちは﹂ ステージ ヘの踏 み段をゆ っくりと昇りながら、 フィスク夫人が い った。﹁
も
﹁
うピアノをみ つけてくださ ったようね﹂彼女が壁 のスイ ッチを入れると、あたりは急 に明る
くな った。﹁
息 子のピーター ・フィスクですわ﹂
、
。
。
男 の子はま っすぐク ロードに近寄り 手を差し出した ク ロードはそ の手を軽く握 った
。
。
冷たくて弱 々し い手だ った 骨がゼリーでできているみた いな感じだ 男 の子はぎ こちな い
、
。
動作 でク ロードから離 れ 譜面台 のところに行 った 通常 の四分 の三ほど の大きさのヴ ァイ
、
。
、
オリ ンを取り出 し あご の下 にはさむ ﹁
A の音を﹂そ の声 は意外なほど太く メゾ ・ソプ
。
ラノを思わせた
。
ク ロードがAの音を出した
フィスク夫人が折りたたみ式 の椅 子 のひと つに腰をおろした。﹁
ピーターは四 つのときか
らヴ ァイオリ ンを弾 いてるんです のよ﹂ピーターは弓 で弦を軽く こすり、素早くチ ュー ニン
。
グを終 えた キ ャサリ ンと い っし ょに演奏 できたらと いう願 いはかなえられな か ったも の
、
。
、
の ク ロードはが っかりするのも忘 れていた た った いま顔を上げ たば かり の 風変 わりな
。
相手 に気をとられていたからだ ﹁モーツァルトのBフラ ットから﹂
﹁いちばん上 にの ってるや つですね﹂
。
。
、
、
ピーターは自分 の譜面を開 いた。﹁
そうだよ 四分 の四拍子 行くよ ︱︱ ワン ツー ス
マ ンハ ッタ ン物 語 (上)
リー、 フォー﹂
ク ロード の両手がすばやく鍵盤を叩 いた。最初 の和音が響く。曲はブ ィ エネーゼ oソナテ
ィナをシンプ ルに書きかえた、易し いも のだ った。指がほとんど無意識 に動 いていく のにま
、
。
かせながら ク ロードはピアノの音 よりもヴ ァイオリンの音 のほう に注意を向けて いた ど
うしてこんな に違和感があるのだろう。少年がヴ ァイオリ ンを弾けるのはたしかだ。楽譜ど
、
。
。
おりに ほとんどビブ ラートをかけず細 い音色 で弾 いている まるで機械 の演奏 みた いだ
、
。
、
音 の長さは正確だが 音と音 とのつながりが感じられな い の っべりした音がひと つず つ
。
順番 にきこえてくる
、
。
﹁
素敵ね﹂演奏が終わると フィスク夫人が い った
。
ク ロードは当惑していた 少年 のブ ァイオリ ン演奏 にはひと つとしてミスがなか ったし、
。
大雑把ながらダイナミ ックスも譜面 に忠実 に従 っていた ヴ ァイオリ ンの稽古 に何百時間も
、
。
かけているであろうことは疑 いな い だが 感情がかけらほどもこも っていな いのはどうし
、
、
たわけだろう? ク ロードがじ っとみ つめているあ いだも 少年 はぴくりとも動 かず スイ
ッチを入れてもらう のを待 っている機械 のよう に立ち つくしている。 アィスク夫人 の上品な
、
。
拍手がきこえた瞬間 ク ロード の身体を冷た いも のが走りぬけた そうだ った のか︱︱ この
、
。
子は ヴ ァイオリ ンを弾くよう にと いわれたから弾 いているだけな のだ それでよくこれだ
。
、
け上達したも のだ 耳 の不自由な人間が幾多 の障害をのりこえ 目と指 の感覚だけでヴ ァイ
どうして? そんなふう に書 いてな いよ﹂少年 は譜面を のぞきこみながら い っ 。 ここ
﹁
た ﹁
は音を揃えるんじゃな いの?﹂
ふたりの視線がク ロードに突きささ った︱︱ピーターはひたすら戸惑 った顔 に、 フイスク
、
夫人は無表情な しかし険し い顔 にな っている。ク ロードは本当 のことを話そうとしたが、
オリンを習得したようなものではな いか。
あわれな話だ。嫌悪とも尊敬とも つかな い感情がわ いてくる。そして、自 でも意外なこ
分
とに、 ク ロードは目 の前 の少年を ってやりた いと いう気 ちにから た。
守
持
れ
ベルベットのス
ーツを着 て蘭 の花 のよう に 白 い をし 、
青
た 母親 の ロボ ット。家 の外 に出たことはあるのだ
顔
ろう か。人前 に出れば、き っと好奇 の目でみられるに違 いな い。
﹁
次はどんな曲 かしら?﹂ フイスク夫人がき いた。
ふたりは つぎ つぎ に演奏してい った。ク ロードは、相手 の少年が少しでも弾きやすくなる
ような演奏を心がけた。ところどころでピアノのソ ロが数小節 つづくような
箇所をみ つけて
、
は いくぶん感情をこめて演奏した。ピーターがそれに合わせてくれな いかと思 ったが、
彼
はク ロードが弾きかたを変えたことにさえ気づ いていな いようだ った。最後 の曲はシ ュー
ベ
ルトの作品 にかなり手を加えたも ので、ピアノとヴ ァイオリ ンが ユニゾ ンで弾く部分があ っ
。
た ク ロードがリズムに変化を つけてメ ロデ ィーを強調させると、ピーターが顔をしかめて
、
弦 から弓を離し 曲を中断させた。
マンハ ッタン物語 (上)
。
。
息 を吸 った瞬間 に思 いとどま った この少年 にはわか ってもらえな いだ ろう 母親 のほう
。 く
。
ぼ の失
も、 べつのピア ニストを一
すみません﹂ク ロードは謝 った ﹁
歴う にきま っている ﹁
。
敗 です ページ の頭 からやりなおしまし ょう﹂
。
、
出 の途中 で話し声がきこえ つづ いて正面 のドアをばたんと閉める音がした ク ロード の
。
、
目 の端 に 広間 に入 ってくるキャサリ ンの姿がちらりと映 った 彼女は 一瞬 ステージ のほう
、
。
、
を みたが そ のまま図書室 のほう に進 んでい った まもなく長身 の男がや ってきて 椅子に
、
。
。
ィ
腰をおろした 脚を組んでフィスク夫人 にむか って軽く手を振 る 曲が終 わると 男はフ
。
スク夫人ととも に短 い拍手を送 ってきた
。
、
よか ったぞ ピーター﹂椅 子に座 ったままそう い った デ ュー マン ・フィスクは血色 のい
﹁
。
、
。
い顔をしていた 髪は薄くて黒く こめかみのあたりに白髪が混じ っている 大きな耳たぶ
。
。
が下 に垂れさが っている 薄 い色 の瞳がせわしなく動く 膝 の上 で組 み合わせた手がやけに
。
大き い
。
、
ありがとうござ います﹂ピーターが答え 弓をゆるめた
﹁
。
、
フィスク夫人が立ちあがり 慎重な足取りでステージ からおりて夫 に近づ いた
リ ハーサ ルは いかがでしたの?﹂
﹁
、
。
バラ ンチ ャイ ンのほうも もう いつでもやれ
﹁
大成功だよ﹂ フィスク氏が立 ちあが った ﹁
る状態だと いう ことだ﹂
。
ぶたりは並んで図書室 に入 ってい った
ピーターが自 の
をケースにしま っ 。
分
楽
た
器
き みの先生 は ︰⋮﹂ ク ロードは少年 に声を かけた。﹁
﹁
きみは初 見練習がうまく できたか
い?止
。 う 。 く、ど
こか間違 ってた?﹂
少年が顔をあげ た ﹁
ん ぼ
、
﹁いや 気が つかなか ったけど﹂
。
間違えなか ったもん 気づくはず な いよ﹂少年 はそう い ってケー スを閉じた。﹁
﹁
どんな曲
、
でも 二回か三回弾けば間違 えることはな いんだ﹂
とても上手だ ったよ﹂
﹁
ありがとう﹂
﹁
、
気 まず い沈黙 のあと ふたりはステージ からおりた。ピーターが図書室 のほう に向 か って
。
いく ク ロードはどうしていいかわからなか ったので、あとを ついてい った。 おそるおそる
、
部屋 に足を踏 みいれると さ っきのメイドがお茶を出しているところだ った。 フイスク夫人
、
は肘掛け椅子 に フィスク氏とキ ャサリンはソフアに座り、ピーターは低 いテーブ ルのそば
に置 いた小さな縞模様 のク ッシ ョンに膝を ついていた。
、
﹁
次 の出をやるときには スタジオに入 って見学しても いいんです って﹂キ ャサリ ンが熱 っ
。
。
ぱくしゃべ っている ﹁
あ のデ ュエットよ 女 の人は逃げ出した いんだけど男 の人が い っし
ンハ ッタン物語 (上)
マ
211
ょに行きたがるところ﹂
。
よか ったわね﹂ フィスク夫人は両手 でティーカ ップをと った
﹁
、
、
キ ヤサリ ンがふいに顔をあげ ドアの内側 で突 っ立 っているク ロードをみると 小さな笑
。
あ のネクタイをみて﹂
い声をあげ た ﹁
、
ク ロード にはきこえな いくら いの小声 でフィスク夫人がな にか囁くと キ ャサリ ンは皿に
、
。
の った小さなサンドイ ッチ に目を向 けた 手を伸ばしてしばらく迷 ったあげ く そ のうちの
。
、
。
ー
・ ィ
ひと つを取 った 真 っ白な歯 でひと口かじり あごを軽く持ちあげ る デ ュ マン フ ス
。
、
クは夕刊を読んでいるらしく 整 った顔 にはなんの表情もみえなか った フィスク夫人がカ
、
ップをおろし、椅子の上 でわず かに身体をよじ った。ク ロードとは目を合わさな いまま 斜
。
。
に向 かい合 つた身体をかす かに震 わせながら い った ﹁いい演奏だ ったわ 来週も同じ時間
でいいかしら?﹂
。
は い﹂ ク ロードはキャサリ ンにいわれたことのせ いで赤くな っていた な にかき つい言葉
﹁
。
、
を いいかえして彼女を へこましてやりたか ったが 怒りを感じたのは表面だけだ った こん
、
︱︱心 の奥底 ではそんなふう に思 っていた。
なにきれ いな娘なら な にを い っても許 される
。
、
どんな こと にせよ自分 に関心を向け てくれただけでもありがた い とまで感じて いた おか
。
しな
ちだ った
気
持
。 ピー ー、 ローリ ングズ さんを 関 までお送りし
玄
タ
よか ったわ﹂ フィスク夫人が い った ﹁
﹁
映画は現実 の世界とは違う。映画は つくりも のであ って、人々を楽しませるために都合よ
く組 み立 てた物語なのだ。しかし現実 の世界 では、 こちら の
都合などおかま いなしに物事が
てくれるかしら?﹂
。
少年がさ っと立ちあが った
、
玄関 ホー ルまで来ると ク ロードは立ちどま った。﹁
な にがおかしか った のかな?﹂
なんのこと?﹂
﹁
きみのお姉さんは、 このネクタイが気 に入らなか ったようだけど﹂
﹁
、
ああ お姉さまは いつだ ってあんなことば っかり い つてるんだ。
﹁
っちゃ ってさ。 で
大
ぶ
人
もぼくたち、血 の つながりは半分なんだ。 お姉 さま の父親 はだ いぶ に んじゃ っ
前 死
たから﹂
どう答えていいも のか、ク ロードは迷 っていた。 キ ャサリ ンのことをも っと り
知 た いのは
、
やまやまだが いまはやめておこう。 いつも い つし よにいるピーターにと って彼女はごく当
たり前 の存在 に違 いな い。それに、自分が彼女 に夢中 にな ってしま ったことを悟られたくな
。
い 彼女 にそんなことを知られたらからかわれるに決ま っている。
ク ロードが玄関 から出ようとしたとき、ピーターが問題 のネクタイに目をや った。 い目
青
。
がゆ っくり上を向く
てかてかしてるせ いかな。 お父さま のネクタイはそんな に光 ってな いから﹂
﹁
ンハ ッタ ン物語 (上)
ヤ
213
。
4
っ
︲
2 勝手 に進 んで いってしまう 目 にみえな いところで起 こ ているさまざまな物事を比喩的 に
、
。
書きかえたも の それが映画だ 自分 のち っぽけな世界 から抜けだすと いう快感を味わわせ
、
。
てくれる 学校 には行 かなか ったが ハリウ ッドが与えてくれる教訓 は否応なし に骨 の髄ま
。
でしみこんでいる
。
、
西部劇︱︱キ ャンプ ファイアに近づくときは その前 に必ず遠くから声をかけること ほ
。
。
らを吹 いては いけな い。弱 い者 いじめや嘘は許 されな い 丸腰 の相手を撃 っては いけな い
。
、
相手 の背後 から襲 っても いけな いし 馬を盗むのも いけな い どんなときでも女性 には敬意
。
を払う こと
、
。
。
戦争映画︱︱命 にかけても民主主義 は守ること ドイッ人は知的 で微慢 冷酷 で残酷だ
。
、
日本人は いつ寝返るかわからな いし 臆病 か つ狂信的 で独立心に欠ける ロシア人は勇敢だ
。
、
。
、
が 感情的 で礼儀を知らな い 中国人は単純 で内向的 か つ穏やかな民族だ 昔 から受け継
、
。
がれた知恵をかたくなに守 っている ィタリア人は無邪気 でフランス人は軟弱 イギリ ス人
。
。
は自信家 で誇りが高 い 紳士的なやりかたで戦争をすすめることも可能だ 兵士としても っ
、
とも優れて いるのはアメリカ人だ。権力 には素直 に従うし だからと い って自主性や勇気を
。
うしなう ことがな いからだ
、
。
ギ ャング映画︱︱犯罪は報われな い ちゃちな悪事をはたらく のは 乱暴な愚 か者ときま
っている。凝 った悪事をはたらく のは貧欲な人間︱︱社会組織 に息づく正義を敵 にまわそう
とする向 こう見ずな人間だ。警察 は正義 の味方だが、ときに堕落していることがある。
金や
、
政治的権力が欲し いば かり に 下からも上からも汚職 にまみれることがある。女は弱 い。打
、
算的 で 外見を飾 ることだけで頭が いっぱ いだ。銃を持 ち、大きな車を乗りまわし、人前 で
、
金を湯水 のよう につかい 手荒な手段 に出ることも日常茶飯事︱︱そんな生活 こそが、本物
の権力 の象徴と いえる。
、
恐怖映画︱︱死は忌まわしく 未知 のものには危険が つきまとう。目 にみえる世界 は恐ろ
し い力 に取り囲まれている。自ら の身を護 るには、あ つい信仰を持 ち、核 れのな い
生活を送
り、暗闇を避 けて仲間とかたま っていることだ。運 のよしあしも きく関わ ってくる。
大
勇気
と無鉄砲 は紙 一重だ。
、
探偵 も の︱︱敵意 にみちたこの世界 の中 で 人はみな孤立している。 いつなんどき、誰が
。
誰 に背後 から襲 いかかるかわからな い 人は誰もが嘘 つき で、欲望 は満 たされることがな
。
い どんなときでも細心 の注意を払 っていることだ。
ア ニメーシ ョンーーうまく知恵を働 かせれば、弱者 は強者 に勝 つことが できる。人 の失敗
をあざけることが笑 いの本質 である。
ク ロードは二本立 ての映画を週 に三回はみに い った。映画館 は丸 天丼 のあ る大 きな建物
、
で 座府 は三階まであ った。 スクリーンがとても大き い。暗 い座席を何百人も の人々が埋め
。
ていた 夜 になると︱︱ とく に金曜や土曜 の夜 は︱︱千人を超える観客がや ってきて、 いい
マンハ ッタ ン物語 (上)
自動販売 のカフ ェテリアの前 まで来 ると、ク ロードは身体 の向きを変えて回転ドアを押し
。
、
た 片手 に小銭を にぎりしめ ク ロームのパイプを並 べて つく った台 の上 でト レイを滑らせ
、
ながら中 に進 み いく つも の販売機を置 いた売り場をながめた。豆をそえた温か いフランク
フルトが橋円形 の皿にの っている。 二十五セント貨を入れて ハンド ルを回すと、取り出し田
。
、
が勢 いよく開 いた 奥 の座席 にむかう途中 で ク ロードは小型 のフランスパンを 一個とミル
、
クを 一杯 それにカ ップケーキを ひと つ買 いもとめた。空 いたテーブ ルの上 に誰かが置 いて
い った ︿ニュー ヨーク ・ポ ス■﹀がぁることに気づくと、彼は急 いでそこに行き、テーブ ル
。
の真 ん中 にト レイを置 いた テーブ ルが自分 のも のになれば、新聞も自分 のも のになる。ク
ク ロードは ロウズ oオーフィーウムを出 て、暗くなりはじめたば かり の騒がし い八十六丁
、
目を歩 きだした。たくさんの人 々が早足で歩 いていた。一
肩を いからせながら 互 いのあ いだ
を縫うよう にしてさまざまな方向 にむか っていく。ク ロードは人 の流れ の片隅 にくわわり、
レキシント ン街 へとむか った。ドイツ料理の店 の前を通りかかると、ビールとザ ワークラウ
ト、それと保温容 にいれた肉 の い
っ き 。 レコード
器
が
て
た
匂
アーケードからは ローズ
漂
の
店
マリー ・ク ルー ニーの歌声がきこえる。東洋ふう にアレンジした ﹁
カ モナ ・マイ ・ハウス﹂
。
だ ファニー ・ファー マー ・キ ャンデ イーズ の店内 から明るい光があふれ、歩道を照らして
。
、
いる 強 い風が吹 いて 男たちが帽子を手 でおさえた。側溝 の申 で紙層 がくるくると踊 って
。
いた
6
. 席がなかなかみ つからな いこともある。ク ロードは夕方 みにいく のが好 きだ った。日 のある
2
。
、
、
うちに映画館 に入り 暗くな ってから外 に出 ると なんとも いえな い興奮が味わえる 自分
、
がた った いま経験してきたば かり のめくるめくような感情 の変化 に共鳴して 外 の世界が姿
。
。
を変えたかのような気がするのだ ありふれた ストーリーの映画が好きだ った みるまえか
、
ら予測が つくような内容 の作品だ。しかし本当 に好 きだ ったのは それ独自 の世界を持 った
。
。
映画だ った 週 に 一本 か二本 はそう いう作品 に出会う ことがあ った
、
、
三階 か三階 の座席 で シートの上 に両足をあげ て膝を かかえながら 両 の膝 のあ いだから
。
。
スクリーンをみおろす そこには目をみはるような世界が展開している 多くは善が悪 に勝
、
。
つと いうも のだ った そして愛がll熱烈 で 神聖さと俗悪さとを併 せも った愛が︱︱何物
。
。
にも打 ち勝 つのだ 感傷的なラブ ・ストーリーには強く心をひかれた 恋をすれば寂しさも
、
、
いつかは癒 されると いう確信を与 えてくれるし 気持 ちが高ま って す べてを超越している
。 、
、
。
ような気がするからだ キスシーンもときどきあ つたが これと いう感慨 はなか った が
、
俳優 とストーリーと音楽 のどれもが満足 のいくも のであれば 胸がはりさけそうな感動をお
、
。
ほえることもあ った 遠く離れた子供席 から雑音がきこえてこようと うしろの列 で居眠り
、
して いる太 った男 のいびきがきこえてこようと ク ロード の魂は身体 から抜けだして高く舞
。
、
い上がり せ つな いまでに美し い映像 にみいるのだ った キスシーンが終わ ったあとは手 で
。
、
顔を おお い 少しでも長くその感動を味わおうとした
ンハ ッタン物語 (上)
マ
217
﹁
怒 ってなんかいな い﹂
。 う
ら
ヴ ィ ーはしばらく え
ニ
え
て
そ
か
た
な
考
だ
答
﹁
﹂
。 こ も
相手 の男がもう 一杯 の コーヒーを差し出した ﹁
れ 飲 め﹂
まだ 一杯目も飲 みおわ ってな いんだぜ。そうせかすなよ﹂
﹁
。
ふたりはそれからじ っと黙りこんだ 年配 の男がヴ ィ エーをみ つめ、腕時計 で時刻をたし
。
、
かめる どちら の男も 向 か いに座 った少年 には視線をむけようともしなか った﹁ ク ロード
はカ ップケーキのパラフィン紙を丁寧 にむきはじめたところだ った。
﹁
大丈夫な のか?﹂
。
ああ とびきりの演奏をしてやるよ﹂
﹁
、
年配 の男はしばらく考えごとをし ていたらしか ったが やがて心を決 めたよう にい った。
のに﹂
﹁
怒 るなよ﹂
。
。
﹁コーヒーを飲 め こ いつは大事な仕事だぞ 頭が冴えてる ってと ころを みせなき ゃなら
。
ん オーナーはば かじやな いからな﹂
、
。
﹁
冴えて冴え て冴えまくれ か﹂ヴ ィ ニーはカ ップをと って コーヒーを飲 んだ ﹁
そ いつは
いいや
﹂
なんてこ った﹂年配 の男 はう つむ いて床をみ つめた。﹁
﹁
あ の頃 はあんな にうまくや ってた
なんだ? ステージで居眠りする つもりか?﹂
。
。
ポ ルカ
﹁
大丈夫だよ﹂ブ ィ エーと呼ば れた男が答えた 楽器 のケースを膝 に置 いて いる ﹁
。
、
、
。
ポ ルカ
をやろう ウ ン ・パ ・パ ウ ン ・パ ・パ いいだ ろ?﹂弱 々し い笑 い声 をあげ た ﹁
ならできる﹂
8
︲ 口︲ドはゆ っくり食事をしながら、左手 で新聞をめく っていった。
2
、
。
フォークで豆をすく って口に入れようとしたとき 痩せた若者が入 ってくるのがみえた
、
黒 いト ップ コートのボタ ンを襟元までし っかりとめた恰好 で ク ロード のテーブ ルに近づ い
、
。
てくる サキソフォンのケースを持ち いまにも倒れそうなくら い前 のめり にな って歩 いて
。
、
。
いる 男は椅子を引 いて腰をおろし 焦点 の定まらな い日でどこかをぼう っとみ つめた 細
、
。
、
。
長 い顔 は青白く 険がはれば った い 髪 の色 は黒 前髪を上になであげ サイドには整髪料
。
。
を つけて後 ろ向 きにとかし つけてある いわゆるDAと いう スタイ ルだ 男は深 いため息を
、
。
ついて振 りかえ った やはり黒 のト ップ コートを着た年配 の男性が コーヒーのカ ップをふ
。
た つ持 ってうしろに立 って いた あとから来た男 は隣 のテーブ ルから椅 子を引 っ張 ってき
。
た
とにかく これを飲んでくれ﹂年配 の男が いった。
﹁
。
ふたりはク ロード の真向 かいに っていた
座
。 どう る もり
、
す つ
﹁い った いどうな ってるんだ ヴ ィ エー﹂年配 の男が悲痛な声 で い った ﹁
ンハ ッタン物語 (上)
マ
219
/ ヘ
。
。
。
。
わか った ここにいろ コーヒーを飲 んでてくれ すぐ にもど ってくる いいか? わか
﹁
っ な?
た
﹂
。
あんたは いい人だな﹂ヴ ィ エーが答えた ﹁
本当 にいい人だ﹂
﹁
。
男は立ち去 った
、
ク ロードはカ ップケーキを食 べてミルクを飲 んだが 身体をできるだけ動 かさな いよう に
、
していた。しばらくするとヴ ィ エーは コーヒーを飲んで身体を震わせ 椅子 の背もたれに身
。
体をあず けた
。
、
こう いう店は いいな﹂連 れがまだそこにいるかのよう に 男が い った ﹁
食 べるも のが い
﹁
。
、
ろ いろあるし ひと つひと つが小さな箱 にきちんと入れてある 小さなクリーム ・コーンひ
、
。
と つと っても、専用 の小箱 にき っちり収めてあ って 誰かに買われるのを待 ってる それが
。
、
買われると 次 のクリーム ・コーンの箱が出 てくる ってわけだ た いしたもんだよ﹂男はの
。
、
ろのろとしたしぐさで顎をかき な にかの出を小さく ハミングしはじめた ク ロードは食事
。
、
を終えたが そこに座 ったまま動 かな か った ﹁
金属はぴ かぴかに磨 いてあ るしな﹂ヴ ィ エ
、
。
ーが つづける。﹁
あ ったかくて活気がある 客 はみんな満足そう に食事をして 他 人 の邪魔
、
。
をしたりもしな い な にからな にまで快適そ のも のじ ゃな いか﹂身体がかすかに座攣して
、
。
同時 にぴくりとまぶたが上が った う つむ いて コーヒーを飲 み ト ップ コートのボタ ンをは
。
。
ず す タキ シード姿だ った 身体 をよじりながらポ ケ ットを ひと つひと つまさぐりはじめ
。
、
た 緩慢な しかし慎重な動作だ った。や っとのことで小銭を いく つか探 しあ てると、 ての
ひら に載 せたまましばらくみ つめていた。そ の中 から ニッケル貨をふた つ選びだし、 ク ロー
ドのト レイの近く に置 いた。
。
、
なあ 悪 いが コーヒー のおかわりを頼 めな いか? レ
﹁
サ﹂じ やあ まり目立 ちたくな いん
。
だ﹂ブ ィ ニーが い った 日 の焦点 があう のに少し時間が かか った。穏 や かな表情 をし て い
。
る 唇 の片方 の端をもちあげ て、ゆがんだ笑顔をク ロードにむけた。
ク ロードは硬賀と空 にな ったカ ツプを取り、 コーヒーの販売機 にむか った。 レバーを引く
と、熱く て黒 い液体が真鍮 のイ ルカ の日から てきた。 テーブ ルにもど ってカ ップをヴィ エ
出
ーの前 に置くと、ク ロードはふたたび をおろし 。
た
腰
きみのことをきかせてくれよ。イタリア人かい? なんとなくイタリア入 っぱ いが﹂ヴイ
﹁
。
エーが い った
﹁いえ﹂
おれはそれが理由 で連中 の仲間 にな った。イタリア人だからだ。まだ子供だ った頃、成績
﹁
。
、
がめちゃくちやでな だが あ の男が助けてくれた。本当 にいいや つだよ﹂男 はふたたびポ
ケ ットをまさぐりはじめた。さ っきと同じしぐさを繰りかえししている。やがて胸ポケ ット
に手をや ったとき、探していたも のをみ つけたらしか った︱︱なにかの吸入器だ。すばやく
、
。
二度吸 いこむと うめき声をあげ た 男は朦朧とした感覚を追 いはらう かのよう に頭を左右
ンハ ッタ ン物語 (上)
マ
221
、
。 こ
に振 り プ ラスティックの吸入器をテーブ ルに置 いた ﹁
の近く に住 んでるのか?﹂
。
ク ロードは領 いた
。
、
。
おれはブ ルックリ ンだ すぐそこの ドイツふう のダ ンスクラブ で演奏してる 仲間 にし
﹁
。
てや っても いいぞ 音楽 は好きか?﹂
、
うん。好きだよ。 でも もう家 に帰らなきゃ﹂
﹁
な にか楽器をやるのか?﹂
﹁
ピアノを﹂
﹁
。
。
。
クラシックか き っとクラシックをやるんだろうな うらやまし いよ クラシックにはい
﹁
。
い曲がたくさんある サ ックスじ ゃどうしようもな い﹂
。
﹁F
、
B フラ ット
、
F
、
C
、
、
、
。
って 具 合 か
F
B フラ ット
そ う だ ろ ?﹂ 彼 は はず れ
ブギウギも好きだよ﹂
﹁
。
そうかい? つまリブ ルースが好き ってことか ブ ルースはす べての基本だ﹂ブ ィ エーは
﹁
、
、
、
吸入器を取りあげ 片手 で本体を 片手 でチ ューブを持 ち 顔をしかめながら左右 に引 っぱ
った
。
。
たチ ューブをみ つめた 中 に黄色 い綿が つま っているのがみえる
。
ぼくはた いていCのキーでやるけど﹂ ク ロードが答えた
﹁
。
、
、
、
だが
ああ Cは いいな﹂ブ ィ エーは二本 の指を つかい 黄色 い綿を慎 重に引きだした ﹁
﹁
、
ブ ルースはFでやるもんだぞ﹂取りだした綿を コーヒーの中 に落 とし スプーンでかきまぜ
。
た
、
︱︱ ク ロード はそう 断 した。
おかしな ことをし て いるが 黙 って いたほうが いいだ ろう′
判
、
ふたりとも な にご とも起 こらな か った か のよう に振 る舞 って いた。ヴ ィ エーが コー ヒーを
、
。
す すり 砂 糖 を 入 れ てふたたび かきまぜ た 綿 を カ ップ の内 にあ て て スプ ー ンで し
側
押 つ
︲
ヵが
け、離し、また押しつけて離した。さらにコーヒーをすする。﹁
レ悌
ビ
バード︵
ガ
烈ゃ
封
二
︶
、
ブ ルースを変えた って 知 ってるか?﹂
ク ロードにはなんの話 かさ っぱりわからなか った。 バード ってなんだろう? ﹁
知らな い﹂
ビーバップ のことだよ﹂
﹁
ビーバップ? ク ロードはかぶりを振 った。
ヴ ィ ニーは前 にある ︿ニューヨーク ・ポ スト﹀を引き寄せた。﹁
鉛筆 はあるか?﹂
ク ロードはポケ ットを叩 いて答えた。﹁
ううん﹂
﹁
借りてこいよ﹂
ク ロードは店 の真ん中 にある両替所 に行 って、そこにいた女性 に鉛筆を貸してくれるよう
。
、
頼んだ 女性 は頼 みをき いてくれたが 必ず返してねと念を押された。
おかしなことば かりしやべ つていたブ イ エーも、ク ロードがもど ってきたときには いくら
。
か正常 にな ったよう にみえた 眠そうな目ではなくな っているし、動きも前よりはきびきび
としている。彼は鉛筆を手 にとり、新聞 の端 の余白 にな にか書き込んだ。それを破 って折り
マンハ ッタン物語 (上)
。
、
たたみ ク ロードに渡した フ﹂いつをポケットに入れておけ﹂
。
ク ロードは いわれたとおりにした
、
ッ
ー
﹁つぎ に弾くときはそ いつをみるんだぞ﹂彼は コーヒ の残りを飲 みほし 空 にな ったカ
、 。
。 え
。
冴 て冴えて冴えまくれ だ いいぞ﹁﹂
プをば かに丁寧な手 つきでソーサーにもどした ﹁
。
もう帰らなきゃ﹂ク ロードが いった
﹁
。
、
。
、
ああ そうだな ちょ っと待 て ほんのちょ っとで いい ト ニーが帰 ってくるから﹂ブィ
﹁
。 ー ・
。
エーの顔が前 より蒼白 にな っていた ﹁いいことを教え てやる ア ト テイタムをきくん
。
。
、
。
だ 耳をよくすませて よくきくんだぞ あ のスイ ング は絶品だ 手が蛇 にな っちま ったみ
、
。
た いな弾きかただ 蛇 の口が大きく開 いていく どんどん限りなく大きく開 いていく﹂彼は
。
っ
ト
膝 の上 に置 いたサキソフォンのケー スを指 で叩 いてリズ ムをと った でヽン ンの店 に行
。
。
て⋮⋮﹂ ぶいに声が途切れた 男 の日はあ いたままだ
、
。
ク ロードは視界がどんどん狭ま っていくような気がした やがて 日 にみえるのは男 のこ
。
わば った顔だけ にな った
。
う⋮⋮う⋮⋮う⋮⋮﹂ブ ィ エーが画 手を胸 にあ てた
﹁
︱︱ ク ロードにはわけがわからなか った。それでも首 のうしろ
い った いどうしたんだろう″
。
。
。
の毛が逆立 っていく ブ ィ エーの視線 は 一点 に止ま っている 瞳が虚 ろだ さ っきまでの瞳
。
とは違う。生気が失 せている 男が つっぷした拍 子 にテーブ ルの上 のスプ ー ンが床 に転が
。
り、
っ
ー
に
オ
の
て
あ
ソ
膝
せ
フ
た
キ
ン
り
サ
ケ
の
ス
が
ち
お
滑
た
糞便 のにおいがかすかに漂 いは
。
じめる。しかしク ロードはそ の前 に、男が死んだ こと に
気 づ いて いた 信じら れな か った
、
が 疑 いよう のな い事実だ った。
。
カウンターに鉛筆を置 いた。
キた
ードはブイエーの手のわきに黄色 鉛筆があるのに き、
気づ それを取って両替所にむかっ
い
あたりがしんと静まりかえ ったような気がした。しかし、まわりの世 は いまま ど り
界
で お
、
に動 いていた。
。
り
内
は
ト
の
を
り
店
々
し
人
料
べ
た
を
理
食
レ
両
た
を
替
イ
持 って歩 いている パ
イ の皿を持 った女性がや ってきて、素知らぬ で を り ぎ
っ 。
す
顔
横
て
い
通
た
とにかく大変な出来事を目撃してしま った。 いままでにみききし ことと
た
は比 べ物 になら
、
。
、
な いくら い 途方もな い出来事だ それはわか っているのだが そ
れ
のことはな にも考
以
上
えられな い。音 のな い世界 の中 で、自
も くぐ ぐ
っているような気が
の
あ
分
が
て
な
る
意
識
る
回
した。立ち上がろうとしても身体がふら つく。椅子に つかま ってヴ イ ー
エ のほうをちらりと
、
みると 肌がセメントのような灰色 にな っていた。ぴくりとも動 かな い。 ク ロードは 、
二 三
。
歩あとず さ った
、
そのとき スイ ッチがぶ いに入 ったかのよう に、広 い 内 の
店
が 一斉 に耳 に飛び こんで
物
音
きた︱︱無数 の低 いざわめき、皿のぶ つかる音、両替所 の窓 口に
。
硬貨が滑りおちる音 ク ロ
マンハ ッタン物語 (上)
。
死んじ
あ の男 の人が死んじゃ った﹂ク ロードは中 の女性 にい ってテーブ ルを指 さした ﹁
﹁
ゃ ったんだ﹂
。
、
酔 いつぶれちゃ った
女性 はク ロードをみてテーブ ルに目を移し またク ロードをみた ﹁
。
んでしょ 入 ってきたときから酔 ってたも の﹂
。
﹁
違う 本当 に死んでるんだ﹂
、
女性は十 セント貨を棒状 にまとめたも のをカウ ンターの縁 で叩きくずし 両替機 に流しこ
。
あたしが面倒 みるわよ﹂
んだ ﹁
。
、
︱︱彼
一
宮丸な 口ぶりなんだろう″
ク ロードはそこに立ち つくし 次 の言葉を待 った なんて一
。
。
はやきもきしていた 宣剣 にき いてくれていな いのだ 大人 に相手 にされなか ったり気づ い
、
︱︱子供
てさえもらえなか ったことは何度もあるし そんなことには慣れ っこにな っている
。
、
はそうされるのが当たり前だ︱︱が いまはそんな場合 ではな い いまだけは真面目 にき い
。
てもらわなければ ならな い 自分 はヴ ィ ニーの死を目 の当 たり にした重要 な証人 ではな い
、
。
、
。
か だが そんな自信は刻 一刻と薄 れていく のだ った 適当 にあしらわれている そんな感
じがした。
もう いいわよ。あたしが面倒 みるから﹂
﹁
。
。
ク ロードは回転ドアのほう に歩 いてい った ひとり の警官が入 ってきて帽子をと った ク
。
ロードはテーブ ルを指さしていった
大
詢獲郷駒蟻φ韓雁設焼洩弟耽塩い向践ぽ厳初鹸映卸難鱒 げ地脚わ随助﹂ 除 焼 蜂 り
炉 勝 ぱ 輔
目 の前 に黒 いト ップ コートがあ つた。大きな黒 い影がどんどん ってくる。あり な いこ
迫
得
。
ととわか っていても、あ の死人が自分を暗闇 に引きこんでいくような
気がする ク ロードは
、
。
さ っと き
を
っ
え
っ
向
た
が
に
し
ま
変
の
男
ぶ
つ
か
て
腰
た
お い! 落ち つけよ。なにを急 いでるんだ? ト ー
﹁
っ 。
ニ
い
﹂
が
た
ク ロードは通行人をかきわけるよう にして走り つづけた。歩道 にいる人間が マネキン
人形
あ の男 の人が︱︱ ぼくもあそこに座 ってて、そしたらあ の人が死んじ ゃ ったんだ。ほら、
﹁
つっぷしてるでし ょう。両替所 の女 の人 にい ったんだけど、信じてくれなくて﹂
警官はしばらくなにも いわなか った。立派な体格 に、日焼けした四角 い顔をしている。白
いも ののまじ った眉を上下させながら、警官 は店内をみまわした。﹁
よし。 ここで待 ってて
くれ﹂
。
警官がブ イ エーに近づく のをみて、ク ロードははじめて
に
お
そ
恐
わ
た そのときには
怖
れ
もう、真面目 にき いてもらえようがもらえま いが、どう でもよくな ってい 。 一
た 警官 はテーブ
、
ルのわきで中腰 になり ヴイ エーの脈を みてから顔をそ っと上 に向 かせた。 い まま 虚
開
た
の
ろな目がク ロードにもみえた。警官がそ の目を ひと つず つ、親指を つか って閉じていく。
警
、
官が立ちあが って振りむくと ク ロードの胸 の中 に温かな安堵感がひろが った。耳 の奥 のほ
ンハ ッタン物語 (上)
マ
227
、
、
。
ク ロード こ っち にお いで こ っち にお いで﹂
みた いにみえ る 黒 いト ップ コート の男 に ﹁
とドわれたような気がする。親しげな声がどこまでもついてくるみたいだ。
、
レキシントン街 との交差点 の北東がわまで来 ると 自分と追手とのあ いだを入込 みが隔 て
、
。
ー ー
てくれたと いう気がした ク ロードは落 ち つきを取りもどし 地下鉄駅 のア ケ ド に入 っ
、
。
た 借り手 のな い店舗 の戸 口に腰をおろし 身体 じ ゅうを駆けめぐ って いた恐怖が静まるの
。
、
。
を待 つ 本物 の声だ ったよう にも思えるし 空耳 のよう にも思える 名前を呼ばれるはずが
、
。
。
をい
な いのだ ブィ エーの声 ではなか った どこかべつの世界 から発せられたような 有益小
、
。
わせぬ響きがあ った それをき いたときにおぼえた恐ろしげな感覚も いまでは消えてしま
、
った。巨大な黒 い真空 の世界がすぐそこに迫 っていて その中 から名前を呼ばれているよう
。
、
な感じがしたのもほんの 一瞬 のことで それもすぐ に薄れていった
。
、
ー
ー
風が強くなり 虚ろな音をたててアーケ ドの中を通りぬけてい った ク ロ ドが着 てい
。
る軍余剰品 のジ ャンパーの袖が風を受けてふくらんだ レキシント ン ・アヴ ェニュー ・エク
、
。
スプ レスが金属音をたてて停止する音が真下 からきこえる 乗客が階段を のぼ ってくると
、
。
ク ロードもその群れにくわわ って外 に出た バスや乗用車 やタクシーや 騒 々し い音をたて
、
ながら スピードをあげ て いく新聞屋 のトラ ックをたくみにかわしながら 彼は通りを渡 って
、 ょ
。
交差点 の南東がわに出た か つて靴磨 きをして いた場所 の近く に ち っとした人だかりが
。
できていた
。
母親だ 壁を背 にして演壇がわりの箱 の上 に立 っている。群衆 にむか って えているとこ
訴
ろだ。小わきにビラの束を かかえて、しやべりながら 々に っ
。
人
配 ている ご つい顎が動くの
と、唇 のあ いだから白 い歯がのぞく のはみえるが、
強 い風 にかき消されてク ロード の位置か
らは声がきこえな い。人込 みをかきわけて近づ いてみ 。
た
、
⋮⋮汚 にまみ
、
﹁
ま 。
職
て
い
う
れ
そ
す
も
も
建
物
鑑
定
士
も
火
災
監
視
も
人
警
官
公
衆
衛
生
士
例外
ではありません。誰もが気づ いているはず です。目
、
日
を
や
さ
耳
や
い
る
ふ
い
で
の
け
で
な
れば
気づかな いわけがな いのです﹂顔 に赤 いしみが浮きだし、眼球が飛びださんば りに っ
か
な て
。 し
、
。
、
いる
い
回
し
激
で
を
ゃ
ら
つ
調
ば
し
唾
な
飛
が
し
て
い
し
べ
た
﹁
か
市当局 は人を殺した っ
。
て罪 に問われることはありません。市長は成り上がりのイカサ マ な
師 のです ここには最近
起 こ ったとんでもな い事件 に ついて、実名、日付、場所を含 めて書 いてあります。し も、
か
それらはごく 一部 にすぎな いのです﹂彼女はそう い つてビラを し し 。
差 だ た ふたり の通行人
、
が受け取 ったが そのうちのひとりは彼女 のほうをみようともしなか っ 。ほと ど
た
ん の人は
。
、
ビ を
と
け
う
も
ろ
し
っ
受
取
な
ラ
か
ビ
た
と
か
ラ
何
の
枚
に
が
ば
さ
風
れ 通り の上 に高く舞 いあが
ってい った。﹁
、
アスフアルト業者 から のリ ベート、特定 の公益事業会社が う
行 違法な入札
賭博や売春 であげた利益 の市長室 への流入、す べてこれに書 いてありま
す
雨
﹂
が落 ちはじ
粒
めたかと思うとまたたくま に激し い土砂降り になり、野次 が っ
。
馬 散 てい った ﹁
四 つの選挙
、
区 で 票数計算機 に改造 のあとがみ つかりました ︿合フルド ・トリビ ュー ン
﹀ にも載 って
﹁
マ ンハ ッタ ン物 語 (上)
。
。
ー ー
判事はみな買収 されています この ニュ ヨ ク市
いた事実 です﹂叫び声 にな って いた ﹁
。
にいるのはそんな判事ば かりです 落札者は政治家たちのあ いだで前も って決 められていま
。
、
。
す これを読んでくださ い﹂ビラを高 々とかかげ るが 見物人はもう いなくな っている コ
ートの襟を立 てて、走 るよう に通りすぎ てしまう のだ。 エマはびし ょ濡れだ った。髪 の毛が
。
、
ー
頭 にべ ったりとはり つき 雨が顔面を流れおちている ふやけたビラがク ロ ド の前 に差し
。
。
だされた フ﹂れに書 いてあります 読んでくださ い﹂
。
ぼくだよ﹂
ク ロードは前 に進 みでた ﹁
。
、
ー
彼女はク ロードに目をむけたが なにをみているのかもわからな いようだ った タクシ
。
市民が立 ちあがらなければ ⋮⋮﹂
協会 の男性 につかみかかる直前 にみせたのと同じ目だ ﹁
。
ぼくだ ってば!﹂
ぼくだよ︱﹂ ク ロードは声を張りあげ た ﹁
﹁
、
。
、
エマはク ロード に気が つくと 素早く左右をみまわした 地面 におりると それまでの っ
。 を っ
ていた箱を拾 いあげ た ﹁
旗 持 ておくれ﹂
。
、
かたわら の壁 に 小さくて安 っぱ いアメリカの国旗が立 てかけてあ った 棒 の上端を矢じ
。
、
り のよう に ら て
に塗 ってあるが その塗料がはげ かけている ク ロードは旗を手 に
金
色
せ
尖
、
﹂んなも のどうした の?﹂
と った。﹁
な に これ? ン
。
﹁ のきまりさ 国旗を立 てとかな いと いけな いんだ﹂
市
。
ー
母親はぶ つぶ つと独り言を いいながら雨 の中を歩 いて いった ク ロ ドがビラの束を持 っ
、
てやると い ったが 彼女はそれをぎ ゅ っと抱きしめた。 ここ数 力月、母親 のおかしな振 る舞
いに拍車 がかか ってきたことにク ロードは気づ いていたが、 このときだけはそんな不安が消
えていた。日の前 にいるのは、異常な使命感 に身を委ねた大柄な女丈夫だ。失敗するのが目
にみえていることに心血を注 いでいる。 この人なら、どんなことがあ っても引きさがること
はな いだろう。
った。﹁
﹁ベンゼドリ ンらし い ヴ ァ
フェ ト
イ
ス
﹂
い
ル
が
カミ ンスキーさん にき いてきた。ウ
ィーランの店 の楽剤師だよ。吸入器 の中 にはその
。
成分が含まれているも のもあるそうだ そ
れを全部 コーヒーに入れて飲 みほしたら、心臓が止まることもあると い ってた。きみがみた
のと同じよう にね。あれは事故だよ﹂
、
でも あ の人はどうしてそんなことをしたの? どうし て飲 んだりした の?﹂
﹁
目が覚 めると思 ったんだろう。 ベンゼドリ ンは 一種 の覚醒剤なんだ。心臓が弱か ったんじ
﹁
ゃな いかな﹂
ク ロードはここ何日も、あ の現場 から逃げ てきたことを気 に病んでいた。しばらくは の
奥
。
部屋 に隠 れていた き っと警察が追 っているだろうし、ひよ っとしたらFBIの手も借りて
。
いるかもしれな い ︵
バーデ ィック にはす っかり身元を知られている︶
罪悪感 とふくれあが
る恐怖 にさ いなまれて、練習どころではなか った。夜も寝 つかれず食 べ物も喉をとおらな い
ンハ ッタ ン物 語 ( 上)
マ
231
、
。
ほどだ った そしてとうとう 少年 はヴ ァイスフ ェルトのところに行 ってす べてを話したの
。
だ
、
ク ロード﹂カウンターの前 でギターの弦が入 ったセ ロファンの袋を整理しながら ヴ ァイ
﹁
。
スフ ェルトが いった ﹁
電話 で話しておいたよ﹂
﹁
誰 に?﹂
、
。
。
っ 。
﹁
八十三分署だ 警察だよ ボイ ル巡査部長と いう のは親切 でね 話 のわかる人だ た き
。
。
みに話をきく必要はな いと いって いた きみを捜したりはしてな いそうだ きみは恐くな っ
。
、
て逃げ た そう説明したんだ あ っちがなんてい ったと思う? きみの立場だ ったら自分も
。
、
同じことをしただろう そう い ってたよ 死体 ってのは恐 いものだからね﹂
。
っ
安堵感がおしよせてきた 身体 の奥 のほうでき つく ひね ってお いたバルブを い せ いに開
。
。
死体が恐か ったわけじ ゃな いよ﹂
けたみた いな感じだ いっも の元気が戻 ってきた ﹁
﹁
麻薬中毒だ ったらし い﹂
。
、
。
あ の人が恐か ったんじゃな いんだ 死んだことはたしかだけど どう ってことなか った
﹁
、
。
︱︱ただ身体が止ま っただけ って感
映画じゃみんな怖がるけどね あ の人は なんていうか
、
。 り
操 人形 の糸が全部切 れて 下 に落 ちたみ
じだ った﹂ ク ロードは考 え考 え話 し つづけた ﹁
、
。
っ
た いだ った そのあと出 口まで行 ってから振りかえ ったとき な にからな にまで恐くな て
。
きたんだ どうしてなんだろう﹂
ヴ ァイスフ ェルトが頷 いた。﹁シ ョックを受けたんだ ろう。あまり突然すぎ て、すぐ には
。
、
理解 できなか ったんだろうな わたし にもわかるよ﹂彼は言葉を切り 頭をそらして目を閉
。
、
じた。﹁
誰 かが死ぬとする われわれは そ の死がな にかを意味 して いると思 いたがるも の
。
、
だ なん の意味も なく死んだはずじ ゃな いとね。だが し ょせん意味なんかな いんだ。なん
、
の意味もな い ただ の不思議な現象 にすぎな い。きみはうま いことを い ったね。操り人形 の
、
。
糸が切れた そう いうことだ 終わりが来た ってことだ﹂
、
あ の人 しゃべ ってる途中だ ったんだ。最後までいいおわらな いうちに⋮⋮﹂
﹁
。
。
﹁
臨終 の言葉 か 小説 によくあるや つだな ソプラノ歌手があり ったけの思 いをこめて歌を
うた いながらソファに倒れるとかね。市民ケーンと ﹃
ばら のつぼみ﹄ の話もそうだ。残され
る人間がそう いうものを求 めているだけなんだと思うよ。最期 の瞬間 に、な にか重要な意味
を持 つメッセージがあ ってほし いと思 っているんだ。臨終 に発せられた言葉ほど重 みを感じ
るも のはな いだろう? だが、実際 はた いした重 みなんてな いも のだ﹂ヴ ァイ スフ ェルトは
。
、
閉じていた目を開 けた
だから って そ ま とな ら
るわけじ やな い。特別な
﹁
臨
れ
で
ん
終
わ
変
。
知恵をさず かるわけでもな いんだよ﹂かすかな微笑 みがう かんだ ﹁
あ の店 できみが みた の
も、そんな程度 のものだ﹂
﹁いまにな って考えると︱︱あ のときはなんだかあたりが真 っ暗 にな っちゃ ったような気が
したけど︱︱ ぼく の気 のせ いだ ったんだと思う。ぼくがそう感じただけなんだ。変な気分 に
マ ンタヽッタ ン物 語 ( 上)
な ってたんだろうね﹂
そうだな﹂
﹁
、
、
﹁つまり あ の男 の人が死んだ ってことは それ以下 のことでもそれ以上 のことでもな いん
だね﹂
そのとおりだ﹂
﹁
、
﹁コーヒーにあんなも のを入れちゃいけなか ったんだ﹂少しためら った のち ク ロードは思
。
い切 ってき いた ﹁
人が死 ぬのを みたことがあるの?﹂
、
。
、
ああ 何度もみた だが その話 はまたにしよう。 お母さんはなんて い ってた?﹂
﹁
、
。
﹁いおうと思 ったんだけど な にかほかのことで頭が い っぱ いみた いだ ったから とにかく
。
、
。
様子が おかし いんだよ 話しかけようとしても きこえてな いみた いだし 誰 かほかの人 の
声をき いてるみた いな感じなんだ﹂
。 もう し しく し く
﹁
妙だな﹂ヴ ァイスフ ェルトは回髭をなでた ﹁
少 詳
話 て れな いか﹂
、
っ
フレデリクスのところに う のを めてから ヵ
ク ロードは 一通 の招待状
や
月
た
た
通
数
が
頃
。
を受け取 った ︵
ヴ ァイ スフ ェルト楽器店 に気付 で送 られたも のだ った︶
十五歳 の誕生日を
。
。
祝 ってもらえるらし い 一
手紙を受け取るのはこれがはじめてだ った クリーム色をした分厚
くて大きな四角 い封筒 の中 に、紙が 一枚ふた つ折 りにして入 っている。太 いペン先を つか っ
どこか いいところに連れて ってもらえるらしくて﹂
﹁
、
。
老人は苦しそうな息をしながら 楽器店 の二階 の窓をみあげた そこにはヴ ァイ スフ エル
トが住んでいるのだが、ク ロードは 一度も入 ったことがなか った。﹁
アー ロンと行く のか?﹂
、
﹁いえ ほかの先生とです﹂
。
、
た フレデリクス直筆 の手紙だ いちばん いいスーツを着 て 七時 に店 の前 で待 っているよう
。
にと のこと そこ へ車 で迎えにきて、コ 夜 の大冒険﹂ に連れてい ってくれると いう のだ。
ク ロードは約束 の時間 の十五分前 に店 の前 に立 った。両手をポケ ットに入れ、わくわくし
ながら左右 の足をせわしなく踏 みかえていた。高架鉄道 の柱 のせ いで、通 りがよく みえな
。
い 車やタクシーは柱 の陰 から突然あらわれてライトをきらめかせたかと思うと、
一瞬 のう
。
ちに走りさ ってしまう 隣 で質屋を経営しているバーグ マン氏が店を閉めて出 てきた。外 か
ら入 口に鍵をかけ、 ノブをがたがたとや って、きちんと閉ま ったかどう か確 かめる。 いつも
、
。
、
背を丸 めた 帽康もちの老人だ ときとぎヴ ァイ スフ エルトのところにや ってきては 世間
。
話をしたり楽器 の品定めを頼 んだりしている
これはこれは﹂老人はク ロード の姿をみて い った。﹁
こんな時間 から葬式 ってわけじゃな
﹁
、
さそうだし ストーク ・クラブ にでも行く のかな?﹂
どこに行く のか、ぼくも知らな いんですよ﹂
﹁
、
なん にせよ ず いぶんめかしこんでるじゃな いか﹂
﹁
マ ンハ ッタ ン物語 (上)
。
、
アー ロンもも っと外出 したほうが いいんだがな そう歳 でもな いのに 家 にこもりきりじ
﹁
ゃ身体 に悪 い﹂老人はそう いって立ちさ った。
。
局梨鉄道 の下 の暗がりから白 い猫が歩道 にとびだしてきた 猫 はダ ガ ステイーノ青果店 の
一
。
剛に積んであ った本箱 の山 の陰 にかくれてみえなくな った
一
、
、
。
そ のとき突然 車が路肩 にあらわれた 大きな車だ った︱︱幅も高 さもあるし ヘッドラ
、
、
イトも大きく 広 いボ ンネ ットの前 には勝利 の女神像まで ついている︱︱ にもかかわらず
、
。
。
剛をまわり 指先 で帽 子の へりに触れた
音がま ったくしなか った 運転手が下りて車 の一
こんば んは、 ローリ ングズ歴
﹁
﹁
執事さんじゃありませんか﹂
、
。
ええ 普段 は運転手も兼ねてましてね﹂彼 は手を伸ばしてうしろのドアを開けた ク ロー
﹁
ドが乗りこむと、ドアは小さな金属音をたてて閉ま った。車 の中 は静 まりかえり、革と煙草
と香水 のかおりがした。 ひと つの部屋と い っていいほど広 い。 フレデリクスが、 いつかバル
。
コニーに立 っていた女性 と 一緒 にうしろのシートに深々と座 っていた ふたりとも同じよう
、
。
な服を着 ている あ のカフ ェテリアで男たちが着 ていたタキシード に似 て いるが あれより
。
、
はシンプ ルな服だ フレデリクスが領く のをみて ク ロードはふたりの向 か いの布貼りのシ
ート
っ 。
に
た
座
、
。 こ ら
ク ロード﹂ フレデリクスが い った ﹁
ち はわたし の大切な友人 ア ンソン ・ロツグ さ
﹁
。
。
んだ 作家だよ﹂ シートの背 の上 に仲ばしていた腕を曲げ て女性 の一
肩にふれる こちらはク
、
ロード ・ローリングズ いままで教えた中 でいちばん優秀な生徒だ︱︱彼 はそう い って、さ
ら にフランス語 で同じことを繰りかえした。
フレデリクスのほめ言葉をき いて、ク ロードは顔を赤 らめた。女性が身を のりだした。面
。
。
長 で色白 の顔が明かりに照らされている︱︱上品 で美し い顔だ そして手を差しだした ク
ロードは握手を求められたものと思 い、身をのりだして手を出したが、彼女 は手首を曲げ て
。
、
てのひらをこちら に向けた ク ロードは反射的 に彼女 の真似をし 彼女 の手 に自分 の手をぴ
ったりと合わせた。
、
。
、
同じ大きさね﹂彼女はそう い って手を離し ふたたび シートに沈 みこんだ そのとき 車
﹁
。
、
が動きだす のがわか った 彼女 の手 の柔らかさと 思 いがけな い親しげ な行為 にク ロードは
。
驚 いていた
。 き
﹁
みが レッスンに来 なくな ってから寂
来 てくれてうれし いよ﹂ フレデリクスが い った ﹁
しくてね。 いまの八時 の生徒 はミスター ・デ ュポ ンと いうんだが、タイピ ストみた いな演奏
。 日
をするんだ
じゃ、 まら よ
の まり あんな
が
ん
一
始
た
調
子
﹂
。
﹁
例 のジ ャンプ の練習はとても役 に立 ってます﹂ ク ロードが い った ﹁
お礼を いいた いと思
ってました﹂
、
それ どんな練習なの?﹂アンソンがき いた。
﹁
ヤ ンハ ッタ ン物 語 (上)
。
﹁
バッ ハの二声対位法 の曲を つか って﹂ク ロードが説明する ﹁
左右 それぞれ のパートをオ
ク ー
る
ブ
タ
ん
で
で
す
す
演
奏
﹂
。
テンポを遅くしな いでね﹂ フレデリクスが つけくわえた ﹁
﹁
音楽理論 と和声 に ついてはヴ
ァイ スフ ェルトさんについて勉強し ているんだね? 彼 によろしく伝えてくれ﹂
﹁
作曲もや っています﹂
。
﹁
作出 か もちろんそれも大切だ﹂
。
、
外 の光が いく筋も差し込んでくる ときどき光 の角度が変わり うしろのシートに座 った
。
、
ふたり の顔 のどちらかを瞬間的 に照らしだす 窓 の外をみて ク ロードは車が五番街 に向 か
っているのに気づ いた。﹁
どこに行くんですか?﹂
。
カーネギ ー ・ホールだよ﹂ フレデリクスが答えた
﹁
、
。
五十七丁目 にはリムジ ンやタクシーの列ができて いた 二人 の車 はのろのろと前 に進 み
ようやくホー ルの車寄せにたどり ついた。運転手が車をおりた。
。
ヴ ォルフは評判が いいけど﹂ ア ンソ ン ・ロウグ が い った ﹁
﹁
演秦 そ のも のはどうな の?
ちゃんときかせてくれるのかしら?﹂
。
﹁ハンマークラブ ィアをやる﹂ フレデリクスが答えた
、
。
。
ふ いにドアが開き まば ゆ い光 と騒音がとび こんできた ク ロードは歩道 に跳び おりた
、
。
人 々が夜 の街 から続 々とあらわれ 広 々とした エントランスに向 か ってくる ダ フ屋が声を
。
、
はりあげ る エレガ ントな服装をした男や女が柱 の陰 にいく つも のグ ループを つくり 照明
にてらされた中を集ま ってくる人 の群れの中 に知 った顔をさがそうと目を凝らしている。ア
ンソ ン ・ロツグが車 から おり、 フレデリクスがあ と に つづ いた。彼 は運転 手 にな にか いう
と、小走 りで入 口にむか った。人 々が フレデリクスに気づ いたのがク ロード にもすぐ にわか
った。 みな の顔が彼 のほうを向 いて いる。ケープをはお ってティアラを つけた大柄 な女性
、
。
。
、
が 連 れの男性を肘 で つついている 手を振る者も いた 彼 に近づ こうとしている者も二
、
。
二人 いる しかし フレデリクスはすば や い身 のこなしで中央 のド ア にま っすぐ進 ん で い
く。 ロウグがすぐあとに つづく。 ク ロードは驚 いて駆けだし、ドアを入 ったところでようや
くふたりに追 いついた。切符係は彼が通るのをみて頷 いただけだ った。
。
。
中 はも のすご い騒ぎだ った 人 々が笑 ったり名前 を呼びあ って いる 興奮 し て いるらし
く、悲鳴 かと思うほど の金切り声 でし ゃべっている女性も いる。む っとするような熱気がこ
もり、混雑も ひど い。人々がわきにど いても、 フレデリクスがや っと通れるほどの道しかで
きな い。彼 はあ いかわらず早 い足取りで階段 にむか っていた。軽く手を振 って案内人をやり
。
、
すごす ク ロードは差しだされたプ ログラムを ひ ったくるようにして受け取 ると ふたりの
。
あとに ついて薄暗く静 かなボ ックス席 に入 った
ドアを閉めてくれ﹂ フレデリクスは小声 でいうと、袖 日から ハンカチを出 して額を軽くな
﹁
。
。
でた ク ロードは いわれたとおり にした
マンハ ッタ ン物語 (上)
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