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第 301 回企画展示
三田文学ライブラリー
探偵小説、推理小説の系譜
会期:平成 25 年 5 月 10 日(金)~ 6 月 1 日(土)
会場:慶應義塾図書館1階展示室
主催:慶應義塾大学三田メディアセンター展示委員会
展示にあたって
三田文学ライブラリーは、昭和 41(1966)年に当時の図書館長であった佐藤朔文学部教授
の提唱で発足しました。慶應義塾にかかわりが深い三田の文人 106 名に関する初版本や自
筆原稿、書簡などを集めたコレクションです。このコレクションにある単行本は、通常の
図書館の蔵書と異なり、請求記号ラベル等の貼付や修理・再製本を一切行わず、当時の原
装のまま保存しています。このため、図書館の蔵書にする際に処分されてしまう外箱やブ
ックカバー等もそのまま残され、刊行当時の凝った外箱や美しいカバーデザインを見るこ
とができます。このように三田文学ライブラリーは原装保存を旨とした特殊文庫のため、
通常の閲覧には供していませんが、学内外の展示を通じて広く公開しています。
今回は「三田文学ライブラリー 探偵小説、推理小説の系譜」と題し展示します。三田
文学ライブラリーの文人の多くは「三田文学」をはじめその他の雑誌、新聞や同人誌に作
品を発表して執筆活動が始まり、多くの作品を残してきました。
文人の中には「探偵小説」と言われていた作品のジャンルに新たな「推理小説」という呼
称を命名した木々高太郎、推理小説で直木賞を受賞した戸板康二など探偵小説、推理小説
で名高い人がいます。彼らは、現在、映画やドラマで有名な江戸川乱歩や横溝正史らと並
んで当時流行の探偵小説雑誌に数々の短篇や小説を載せていました。
また、外国の探偵小説の翻訳を手掛けた黒岩涙香、詩人ながら推理小説も書いた佐藤春夫
のように幅広く活躍した文人もいます。
慶應ゆかりの文人による探偵小説、推理小説の作品を初版本や雑誌とともに、その時代
背景や人物像もあわせて紹介します。
<展示ケース1>
木々高太郎・戸板康二
[ケース左]
木々高太郎
木々 高太郎
(きぎ たかたろう 1897-1969)
推理作家、生理学者。本名は林髞(はやし たかし)。ペンネームは本名の字画を分解し
たものである。明治 30 年(1897)山梨県西山梨郡山城村(現・甲府市)に六代続く医師の家
に生まれる。慶應義塾大学医学部を卒業。医学博士となり、昭和 4 年(1929)レニングラー
ド(当時ソ連)に留学、イワン・パブロフのもとで条件反射学を専攻した。
推理作家・海野十三らの勧めもあって、精神分析を主題にした『網膜脈視症』で探偵小
説家としてデビューした。その後、探偵小説芸術論を提唱、探偵小説非芸術論に立つ甲賀
三郎と論争を展開した。探偵小説芸術論の趣旨を生かして長編『人生の阿呆』(1936)を
発表し、推理小説としては初めて直木賞を受賞した。次々と清新な作品を発表し、第二次
探偵小説ブームの担い手の一人となった。木々高太郎の事績として忘れてはならないのは、
「推理小説」という呼称を初めて使用したことである。木々は推理と思索を基調とした文
学を「推理小説」と呼び、それまで探偵小説と呼ばれていた作品もそのなかに含めるもの
とした。現在広く用いられている「推理小説」という用語は「探偵小説」の代用語であり、
本来木々が意図したものとは異なってしまったが、
「推理小説」という名前の名づけ親は
木々高太郎ということができるだろう。
1946 年には母校慶應義塾大学医学部の教授となり、大脳生理学者としても多忙な日々を
送る傍ら、推理小説も精力的に執筆した。その他の作品としては、女性心理を追求した『文
学少女』
、長編『わが女学生時代の犯罪』
、第 1 回の探偵作家クラブ賞短編賞を受賞した『新
月』などがある。
生理学者としても欧米で講演を行うなど、世界的に著名であった。主著に『条件反射学
方法論』
(1940)
、
『大脳生理学』
(1944)があり、
『頭のよくなる本』
(1960)では「頭脳
パン」を提唱した。
『人生の阿呆』 木々高太郎著 東京 : 版画荘, 1936.7.
[MBL@T@K5@17]
初の長編探偵小説。雑誌『新青年』に連載され、完結後、探
偵小説芸術論を主張する大部の序文が加筆されて刊行された。
同書および探偵小説の発展に尽力した功績が認められて、第 4
回直木賞(1936 年下半期)を受賞。直木賞受賞により、本作品
が木々の代表作として各種探偵小説全集に採録されてきたが、
内容的には凡作であり、受賞によって他の傑作が紹介されなく
なってしまったことが木々にとっての不幸であったとする意見
もある。
ストーリーは比良カシウ(小菓子)に入っていたと思われる
ストリキニーネのために死者が出たところから始まる。比良家
は家宅捜査を受けるが、同時に物置小屋から無産政党の弁護士の射殺体が発見される。犯
行が行われたとされる日、社長の息子がモスクワへ向けて旅立っていたのだ。
『網膜脈視症 探偵小説篇』
木々高太郎著 東京 : 春陽堂書店, 1936 ( 日本小説文庫 ;
409)
[MBL@T@K5@18]
雑誌『新青年』に掲載された探偵小説家としてのデビュー作。
「新月」 木々高太郎 (
「宝石」1 巻 2 号 1946)
水死事件の慰謝料を担当した弁護士の回想によって物語は進む。10 年前、22 歳の斐子
は家への援助のため、55 歳の実業家・細田の後妻となった。二人は箱根の湖で深夜ボート
をこぎ出し、翌日斐子は水死体で発見される。斐子の嫁入り前からの恋人に嫉妬した細田
の仕業ではないかと疑われたが、斐子が自ら泳ぎたいと言って湖に入ったのだという。し
かし、その後弁護士は細田から意外にも「私が斐子を殺したのか
もしれない」という言葉を聞く。この発言の真意がわかったのは
細田の死後「新月」という原稿を読んだ時であった。第 1 回探偵
作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)短編賞受賞作品。
『新月 : 心理探偵小説集』
1946
木々高太郎著 東京 : 新太陽社 ,
[MBL@T@K5@12]
『夜の翼 : 探偵小説』 木々高太郎著 東京 : 春秋社 , 1937
[MBL@T@K5@9]
自筆原稿「よき成長を」
(
「推理小説同好会機関誌」1 1988 年)
[MBL@G@K9@1]
『文學少女 : 其の他』 木々高太郎著 東京 : 雄鶏社 , 1946
( 推理小説叢書 ; 5)
[MBL@T@K5@3]
『就眠儀式』 木々高太郎著 東京 : 改造社 , 1935
[MBL@T@K5@6]
『決鬪の相手』 木々高太郎著 東京 : 春秋社 , 1936
[MBL@T@K5@8]
『折蘆』 木々高太郎著 東京 : 春秋社 , 1937
[MBL@T@K5@10]
長編探偵小説。傑作の一つとされ、
『日本探偵小説全集 7/木々高
太郎集』
(創元推理文庫、1985 年)に収められている。
(決闘の相手)
『海馬』 木々高太郎著 東京 : 博文館 , 1941.2
『東方光』 木々高太郎著
[MBL@T@K5@15]
東京 : 日本文林社 , 1942.7
[MBL@T@K5@11]
『櫻草』 木々高太郎著 東京 : 弘文社 , 1947.1
[ケース右]
戸板康二
[MBL@T@K5@13]
戸板康二
(といた
やすじ
1915 -1993)
演劇・歌舞伎評論家、推理作家、随筆家。東京芝に生まれる。母方の祖母は戸板学園の
創始者の戸板関子。父の山口三郎は久保田万太郎と三田で同窓の間柄。芝居好きの父によ
り、幼少期から歌舞伎に親しむ。青年期になると、歌舞伎と合わせて、宝塚や新劇も熱心
に見物した。暁星中学を経て、慶應義塾大学文学部国文学科卒。暁星では串田孫一、七代
目尾上梅幸と同級。慶應国文科での師は折口信夫で、折口門下の一級上の池田弥三郎とは
終生友人だった。大学在学中の昭和 10 年(1935)より「三田文学」に劇評を書く。
「三田文
学」誌上の座談会の席で久保田万太郎と対面、以来終生、親炙した。
大学卒業後、明治製菓の宣伝部で PR 誌「スヰート」の編集に携わる。PR 誌の編集に
従事することで、若くして多くの画家、文人と交流する機会を得た。第二次世界大戦中は、
折口信夫の紹介で1年間女学校の国語教師となったあと、昭和 19 年に久保田万太郎が社
長をつとめる日本演劇社に入社、
「日本演劇」
「演劇界」の編集の現場に入ることで、職業
として演劇の現場に携わることとなった。敗戦後の雑誌創刊ラッシュのなかで、多くの演
劇雑誌に執筆の機会を得、劇評家として着実に地位を築く。昭和 25 年に日本演劇社の倒
産に伴い、筆一本の生活となり、以来、生涯にわたって、健筆をふるった。
44 歳のときに江戸川乱歩の熱心な勧めによって執筆した『車引殺人事件』で推理作家と
してデビュー。
『団十郎切腹事件』によって直木賞を受賞する。玄人はだしの名探偵、歌舞
伎俳優・中村雅楽を主人公にした「雅楽シリーズ」が推理作家としての代表作。
さらりとした達意の文章が身上の随筆の書き手として、また、
「銀座百点」誌上の座談会
「銀座サロン」をはじめとする座談の名手としても活躍。様々なエピソードやこぼれ話を
書いた『ちょっといい話』シリーズはベストセラーとなった。東京山の手育ちならではの
都会的エスプリが身上、と評される。1993 年に脳血栓で急逝。
『車引殺人事件』 戸板康二著
東京:河出書房新社, 1959
[MBL@T@T7@13]
老歌舞伎役者中村雅楽を探偵にすえた戸板康二の推理小説の第
一作。江戸川乱歩の推挙で、雑誌「宝石」昭和 33 年 7 月号に掲
載され、好評をもって迎えられ、以降とんとん拍子に新作が「宝
石」に掲載されてゆき、34 年 5 月号に掲載の『松王丸変死事件』
までの 5 編を収めて刊行された。
『団十郎切腹事件』 戸板康二著
東京:河出書房新社, 1960
[MBL@T@T7@14]
中村雅楽という名探偵を生み出したシリーズのうち、八代目
市川団十郎自刃の謎を読み解く本作品で直木賞を受賞。
『才女の喪服』 戸板康二著
東京:中央公論社, 1961
[MBL@T@T7@17]
詩人として華々しくデビューした、若く美しい女教師に隠さ
れた秘密。遠い過去にさかのぼる複雑に絡み合った人間心理へ
の深い洞察から生み出された初の長編推理小説。
『歌手の視力:戸板康二推理小説集』 戸板康二著
東京:桃源社, 1961
[MBL@T@T7@16]
『淀君の謎:中村雅楽推理手帖』 戸板康二著
東京:講談社,
1983
[MBL@T@T7@35]
『慶應ボーイ』 戸板康二著
東京:河出書房新社, 1989
[MBL@T@T7@45]
若き血に燃ゆる青春の日々に、
いつしか忍び寄る戦争の影・・・。
古き良き三田の丘や銀座の風俗を、愛情をこめて描く表題作の
ほかに人間性の意外な謎を推理する7篇を収める。
『ラッキー・シート:推理小説集』 戸板康二著
東京:河
出書房新社, 1962
[MBL@T@T7@19]
自筆原稿「木々高太郎氏の人と芸術」
(「三田評論」695 1970
年 7 月)
[MBL@G@T22@17]
木々高太郎は慶應義塾大学医学部を卒業した大脳生理学者で
ある。戸板が個人的に木々を知るのは戦後に木々が「三田文
学」を主催したとき以降であるが、以前から作品は愛読して
いて医学者が書いた特色のある作風、名探偵として度々登場する大心地(おおころち)先
生という学者を木々の人柄に重ねて好んだことなどが綴られている。
<展示ケース2>
探偵小説雑誌
「ぷろふいる」 5 巻 1 号 大正 12 年 目次 <復刻版>
昭和 8 年(1933)5 月、京都のぷろふいる社より創刊された探偵小説雑誌で昭和 12 年 4
月、全 48 冊をもって廃刊となる。戦前の探偵小説雑誌としては「新青年」に続いて刊行
期間が長く、探偵小説界の動向に関心を示さなかった「新青年」よりも専門性が高く、探
偵文壇の中心的な存在というべき雑誌であった。
「明日の探偵小説を語る座談会」の出席者
のなかに江戸川乱歩、木々高太郎の名がある。
「新青年」
大正 9 年(1920)に博文館から創刊され、1950 年まで続いた推理小説雑誌。国内外の探
偵小説を紹介し、江戸川乱歩、横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場とな
った。1920 年代から 1930 年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つでもあり、
「都
会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。
「夜の翼」 木々高太郎 (
「新青年」18 巻 1 号 1937 年)<復刻版>
(
「新青年」昭和 12 年(第 18 巻)合本 1 博文館〔編〕 復刻版 東京 : 本の友社,1993.
より。以下「新青年」の復刻版はこの版を使用。
)
「詐欺師」
松本泰 (
「新青年」4 巻 5 号 1923 年)<復刻版>
松本泰は、江戸川乱歩に先駆けた探偵作家であったが、
「新青年」に『詐欺師』を発表し
たに止まっている。同号に江戸川乱歩が「二銭銅貨」を発表している。
水木京太(みずき きょうた 1894-1948)
秋田県出身、慶應義塾大学文科卒の劇作家、演劇評論家。大正 8 年慶大卒業後、母校の
教壇に立ったり「三田文学」を編集しながら、戯曲を書き小山内薫に指導された。昭和 3
年(1928)に亡くなった小山内薫の全集が出版されるときは、その編集に当たった。やがて
丸善に入社、雑誌「学燈」の編集を担当。第2次大戦後は京屋印刷が雑誌「劇場」をはじ
めたときに招かれて編集長となり多くの戯曲を発表。戯曲集に『福澤諭吉』などがある。
「探偵猫 その他」 水木京太 (
「新青年」8 巻 3 号 1927 年)<復刻版>
<展示ケース3>
夢野久作
夢野久作 (ゆめの きゅうさく 1889 -1936)
小説家、詩人。本名は杉山泰道(すぎやま やすみち)
。玄洋社系の国家主義者の政治家
杉山茂丸の子として福岡で生まれ、幼少期は祖父のもとで育てられ、謡曲、能などを学ん
だ。福岡にある中学、修猷館を経て、近衛師団に入隊、後に陸軍歩兵少尉となる。除隊後、
文学や美術への興味から明治 44 年(1911)慶應義塾大学予科文学科に進んだが、父親の命令
により退学し、農園経営、僧侶、喜多流謡曲教授、九州日報社の新聞記者などを経て、大
正 11 年に杉山萌円の筆名で童話『白髪小僧』を刊行。ポーやモーリス・ルヴェルの怪奇
文学に心酔し、15 年「新青年」の創作探偵小説に応募した『あやかしの鼓』が 2 等に当選、
この時から夢野久作の筆名を用いる。昭和 10 年代表作『ドグラ・マグラ』を刊行したが、
その翌年、来客との対談中に死去。他の作品に『瓶詰地獄』
『押絵の奇蹟』
『犬神博士』
『氷
の涯』
『暗黒公使』など。
『夢野久作全集』(全 7 巻,三一書房)がある。夢野の作品は、
書簡の形をとって物語を語る「書簡体形式」と、1 人の人物が延々と話し言葉で事件を語
る「独白体形式」の二つの文体が多く用いて書かれている。
『ドグラ・マグラ : 幻魔怪奇探偵小説』 夢野久作著 東
京:松柏館書店, 1935
[MBL@T@Y50@2]
日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる、夢野久作の代
表作。構想・執筆に 10 年以上の歳月がかけられ、1200 枚に
も及ぶ大作で初版発行部数は約 2500 弱の書き下ろし作品。
昭和 38 年(1963)には桂枝雀の主演で映画化された。
またフラ
ンス語訳、台湾で中国語訳なども出版されている。
物語の原型は以前夢野が執筆していた精神病者に関する小
説『狂人の解放治療』とされている。記憶喪失中の若き精神
病者の「独白体形式」の手法で話がすすめられ、途中に主人
公が読む複数の論文が文中に挟まれている。
『山羊鬚編輯長 : 探偵小説』
夢野久作著
1937
東京:春秋社,
[MBL@T@Y50@3]
福岡にある小さな新聞社に、東京からやってきた青年新聞記
者が主人公となって事件を解決していく。
『押繪の奇蹟』 夢野久作著 東京:春陽堂, 1932
[MBL@T@Y50@1]
雑誌「新青年」の昭和 4 年(1929)1 月号に掲載された作品
で、肺病を病んだ主人公の美貌の女流ピアニストが、母親に瓜
二つに似た歌舞伎役者に長い手紙をしたためるというストーリーで、
「書簡体形式」で書か
れている。夢野の作品の大半が猟奇的世界観の強い作品の中で、この作品は清楚な美しさ
がただよっていて、江戸川乱歩は「新青年」昭和 4 年 2 月号において「2,3 頁読むとグッ
と惹きつけられてしまった」
「探偵小説壇においては珍しい名文と云うことができる」と、
この作品を高く評価している。
<展示ケース4>
黒岩涙香
黒岩涙香 (くろいわ るいこう
1862 -1920)
翻訳家、探偵小説家、新聞経営者。本名は黒岩周六(くろいわ しゅうろく)。高知県に
生まれ、村塾の師匠である父のもと漢学を学んでいたが、16 歳で大阪英語学校(のちの第
三高校)に学び英語を習得した。その後、成立学舎や慶應義塾に入学するも、ほとんど通
学せず中退。外国の政治、法律書や探偵小説などを読破する日々を過ごし、自由民権運動
にかかわり、黒岩大の名前で政談演説に耽った。
「同盟改進新聞」を創刊後、
「日本たいむ
す」
「今日新聞」
(後の「都新聞」
)
、
「絵入自由新聞」等の数々の新聞の主筆となり活躍し、
矢野龍渓の勧めで翻案小説に取組み、探偵から伝記、家庭まで広範囲に渡り取り上げた。
探偵小説作家としては、明治 19 年(1886)「今日新聞」の連載『二葉草』から始まり、涙香
の初めての翻訳作品である『法廷の美人』を発表。それ以降は「絵入自由新聞」
「都新聞」
に交互に翻訳作品を発表することになった。主にフランスの作家の Fortuné du Boisgobey
(1821-1891)や Etienne Émile Gaboriau (1832-1873)の作品を多く翻訳した。これらはフ
ランス語からではなく英訳から重訳したものだったが、涙香の翻訳は自由な訳で一般大衆
向けの平易さがあり、多くの人々に受け入れられた。
明治 25 年、朝報社を設立し、タブロイド版の日刊新聞「萬朝報」を創刊。
『鉄仮面』
『白
髪鬼』
『幽霊塔』
『巌窟王』
『噫無情(あゝ無情)』などの代表作を次々に発表するとともに、
相馬事件などスキャンダル性の高い事件を長期に渡り報道したことで、東京一の発行部数
を誇った。生涯で 100 以上もの外国小説を翻案している。また、同紙では作曲家・滝廉太
郎の後援、小説公募による国木田独歩・広津和郎らの発掘、科学的な野球報道の開始など
常に紙面の充実を図り、大衆廉価新聞の祖といわれる。
『無惨 : 新案の小説』涙香小史著 東京:上田屋本店,1890
[MBL@T@K15@48]
日本で初めての創作探偵小説と言われる。明治 22 年(1889)
に小説館『小説叢』第 1 巻に掲載されたのが初出。無惨な男性
の死体から、ベテランと新入り探偵がそれぞれ推理を働かせ犯
人に迫る。当時、裁判や探偵に従事する者のための資料として
存在していた、高橋健三訳『情供証拠誤判録』が、涙香他、明
治期に活躍した作家の創作探偵小説の種本として広く利用され
ていたが、ここに掲載された第一判例をもとにして『無惨』も
創作された。疑団、忖度、氷解の三部で構成される。涙香にと
っても初めての創作作品となったが、当時の人々にはこのよう
な本格的な内容の探偵小説は不向きだったようで、以後は再び
翻訳翻案の仕事に戻り、創作はこの作品のみに終わった。
『魔術の賊 : 銀行奇談』黒岩涙香訳 東京:小説館,1889
[MBL@T@K15@2]
「絵入自由新聞」
に明治 22 年 1 月から 2 月まで掲載された。
後に『銀行の賊』に改題。アメリカの作家、ハリー・ロックウ
ッドの『ドナルド・ダイキ』の翻訳作品。
『劇場の犯罪』黒岩涙香訳
東京:小学館,1889
[MBL@T@K15@3]
「今日新聞」(後の「都新聞」)に明治 22 年 6 月から 11 月まで
掲 載 さ れ た 。 フ ラ ン ス の 作 家 、 Fortuné du Boisgobey
(1821-1891)の ” Le crime de l'Opéra“ の翻訳作品。
『法庭の美人』涙香小史訳述 東京:弘文館,1902
[MBL@T@K15@19]
涙香の初めての翻訳作品。原作は英国の作家、Hugh Conway
(本名 Fargus, Frederick John) (1847-1885)の”Dark days”
。
明治 21 年「今日新聞」
(後の「都新聞」
)の 1 面の下段に発表
された。発表後、好評のため半月後には、講釈師からの要望で
寄席でも演じられ大入り満員となった。
『有罪無罪 : 仏蘭西小説』涙香小史訳 東京:三友社,1889
[MBL@T@K15@4]
「絵入自由新聞」
に明治 21 年 9 月から 11 月まで掲載された。
フランスの作家、Etienne Èmile Gaboriau (1832-1873)の”
La Corde au cou “の翻訳作品。
『塔上の犯罪』涙香小史訳述 東京:薫志堂,1891
[MBL@T@K15@9]
「江戸新聞」に明治 22 年に掲載された、フランスの作家、
Fortuné du Boisgobey (1821-1891)の”L’ange du bourdon”
の翻訳作品。当初は『此曲者』だったが、後に改題された。
『黒岩涙香集』黒岩涙香[訳] ; 川戸道昭, 中林良雄, 榊原貴教編集 東京:大空社,2003
[A@908@Ka1@2-7]
<展示ケース5>
松本泰、正木不如丘、堀田善衛
松本泰(まつもと たい)
(1887-1939)
明治 20 年(1887)2 月 22 日、東京の裕福な家に生まれる。本名松本泰三。慶應義塾大
学文学科卒。学生時代に少年を主人公にした自伝的小説「樹陰」を「三田文学」に発表し、
純文学の作家として認められた。「スバル」や「雄弁」などにも同傾向の作品を執筆した。
これらはのちに最初の作品集『天鵞絨』
(籾山書店大正 2 年(1913)3 月)にまとめられ
た。同書刊行の大正 2 年に英国へ遊学、大正 8 年に帰国した。帰国後は、高島屋に勤務し
ながら、
「三田文学」などを中心に、英国での生活経験を素材にした作品の発表をした。
自ら奎運社を興して「秘密探偵雑誌」
(のち「探偵文藝」と改題)を発刊し、探偵小説の
創作や翻訳に活躍した。とくに、
「犯罪小説」と呼ばれる分野での先駆者として知られてい
る。探偵作家の牙城であった雑誌「新青年」には 1 篇しか作品を発表していない。そのた
め、作風や探偵小説に対する考え方に関しても、
「新青年」系統の作家たちとは一線を画す
る存在であった。また中野圭介の筆名で多数のミステリを発表している。
『不滅の船 : 探偵戯曲』コーソル著 ; 松本泰訳
Nepobjediva Ladja)
東京 : 聚英閣 , 1926.
(原書名
[MBL@T@M7@5]
『松本泰探偵小説選. Ⅰ Ⅱ』松本泰著 東京 : 論創社, 2004.(論創ミステリ叢書 ; 4, 5)
[[email protected]@Ma8@1-1~2]
犯罪ミステリの先駆者である松本泰の集大成。
「P 丘の殺人事件」など 16 篇を収録。犯
罪小説の伝説的作家が描く英国流犯罪迷宮と人間心理の暗黒の世界が広がる。
正木不如丘(まさき ふじょきゅう)(1887-1962)
明治 20 年(1887)2 月 26 日、長野県上田市に生まれる。本名正木俊二。小説家、俳人、
医学博士。大正 2 年(1913)東京帝国大学医学部を卒業し、成績優秀で恩腸の銀時計を受
けた。福島市の病院副院長を経てパリのパスツール研究所に学ぶ。帰国後、慶應義塾大学
医学部助教授。内科を担当。大正 14 年慶應義塾大学医学博士。大正 16 年(昭和元年)東
京帝国大学医学博士の学位を取得した。医師としての生活の傍ら「朝日新聞」に『診療簿
余白』を連載し好評を博した。大正 13 年宮田重雄、椿八郎らと同人誌「脈」を発行し、
力作を寄せたが三年目で休刊となった。時勢を察して探偵小説も手掛け、
「県立病院の幽霊」
(大正 15 年「新青年」
)は、東北某市の病院が舞台となっている。大正 15 年より富士見
高原療養所初代所長となり、専念する。昭和 21 年(1946)医師を引退し、昭和 23 年創作
の筆を絶つ。
「脈」 慶應義塾大學醫學部三四會文藝部, 東京 : 東京堂,
1924-1926 1巻
北里柴三郎によって大正 6 年(1917)に創設された、慶應
義塾大学医学部同窓会「三四会」文芸部の機関誌。
「脈」は心
臓の鼓動の意。
『法醫學敎室』 正木不如丘著 東京 : 春陽堂, 1923
[MBL@T@M5@18]
『正木不如丘探偵小説選. Ⅰ Ⅱ』正木不如丘著
東京 : 論創社, 2012. (論創ミステリ叢書 ; 56, 57)
[[email protected]@Ma9@1-1~2]
堀田善衞(ほった よしえ
1918-1998)
富山県出身の作家、文芸評論家。父は富山県会議長の堀田勝文。経済学者で前・慶應義
塾大学商学部教授堀田一善は甥にあたる。旧制金沢中から慶應義塾大学政治科予科に進学
するも次第に文学が好きになり、文学部仏文科に移る。詩の同人誌「荒地」
「山の樹」
「詩
集」の同人となり、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌといったフランス象徴派詩人
の作品を愛読する。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍し、その方面で知られるよ
うになる。昭和 19 年(1944)に召集されるが、肋骨を折り胸部疾患となり入院、召集解除さ
れる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで敗戦を迎える。昭和 22
年に引揚げ、世界日報社に勤めるが会社は 23 年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を
多く手がけていた。昭和 26 年、
『広場の孤独』『漢奸』その他
により第 26 回芥川賞受賞。1998 年日本芸術院賞。
『白晝の悪魔』原作 アガサ・クリスティ著 ; 堀田善衛訳
東
京 : 早川書房, 1951
Evil Under the Sun 原著 1941 年刊の翻訳
[MBL@T@H6@15]
イギリスの小説家 アガサ・クリスティによって 1941 年に発
表された長編推理小説。初訳は堀田善衛訳『白晝の悪魔』が早
川書房の傑作探偵小説シリーズから刊行された。
<展示ケース6>
佐藤春夫
佐藤春夫(さとう はるお
1892-1964)
和歌山県出身の詩人、小説家、評論家。明治 43 年(1910)に中学卒業と同時に上京して
生田長江に師事、また与謝野夫妻の東京新詩社に入り、ここで堀口大学を知り終生の親交
を結ぶ。
慶應義塾大学予科文学部に入学し、
当時教授だった永井荷風に学ぶものちに中退。
久保田万太郎は兄弟子に当たる。雑誌「スバル」
「三田文学」などに詩歌を発表し、識者の
注目を集めるが、大正 7 年(1918)谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場。以来、
『田園の憂鬱』
『美しき町』などの作品を次々と発表し忽ち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時
代を担う 2 大作家と目される。また、「新青年」誌などで多くの推理小説も発表。門弟に
は井伏鱒二、太宰治、壇一雄、吉行淳之介、柴田錬三郎、遠藤周作、安岡章太郎など一流
の作家になった者が多かった。晩年には随筆が多く、昭和 35 年吉川英治らとともに第 20
回文化勲章を受章。昭和 39 年 5 月 6 日、ラジオ録音中に心筋梗塞のため 72 歳で逝去。慶
應義塾図書館旧館脇に詩碑あり。
『病める薔薇 : 短篇集』 佐藤春夫著 東京 : 天佑社 , 1918
[MBL@T@S3@2]
都会生活に疲れた文学志望の青年が、妻と犬と猫を連れて武蔵野の田園に移り住む。日
陰に見いだしたバラの株に、ゲーテの詩句を託して手を入れ、自身の芸術的開花を占おう
とするが、夏から秋にかけての田園の無聊に苦しみ、やがてふくらんだバラの蕾はすべて
虫食いだった…
『維納の殺人容疑者』 佐藤春夫纂述 東京 : 小山書店 ,
1933
[MBL@T@S3@42]
異色の「法廷ミステリ」
。1927 年 7 月、ウィーン郊外で起
こった女性殺害事件「グスタフ・バウアー事件」の裁判を、
犯罪実話風に描いた作品。纂述の形を借りながらも、人間心
理の深奥に迫るドラマへと昇華した冒険作。
『女誡扇綺譚 : 小説』 佐藤春夫著 東京 : 第一書房 ,1926
[MBL@T@S3@23]
大正 14 年 5 月「女性」に発表した作。
日本統治下の台湾が舞台。世をすねた新聞記者の「私」が、友人と共に安平の廃港を訪
れ港だった頃に栄えた富豪の屋敷が、廃屋となっているのを見つける。家の広間に入って
行くと、二階からふいに透きとおるような女の声がする。
「どうしたの? なぜもっと早く
いらっしゃらない。
」
。このことを聞いた近所の老婦人は、それは死霊の声にちがいないと
いって、屋敷にまつわる因縁話を語りはじめる。
「発見」佐藤春夫 (
「新青年」8 巻 1 号 1927 年)< 復刻版>
江戸川乱歩を生み、横溝正史、夢野久作、小栗虫太郎、久生十蘭、木々高太郎、海野十
三、獅子文六などを続々と輩出し、昭和文化に計り知れない役割を果たした名物雑誌。
<展示ケース7>泉鏡花、遠藤周作、柴田錬三郎
泉鏡花 (いずみ きょうか
1873 -1939)
金沢出身の小説家。本名鏡太郎(きょうたろう)
。伝統芸能や工芸を重んじる環境で母と
草双紙をみて過ごした幼少期が、後の鏡花の作風の土壌を育んだという。9 歳で母と死別。
上京後、尾崎紅葉の門下となり『夜行巡査』
『外科室』などの作品で観念小説作家として文
壇に認められた。生涯で 300 編あまりの作品を発表。
『照葉狂言』
『草迷宮』など、亡母へ
の憧憬に満ちた唯美的・ロマンティックな作品で耽美派の先駆となった。その一方、怪異
への志向も強く『高野聖』
『天守物語』をはじめ、鏡花作品の八割は異界を舞台とする幻想
譚である。また江戸文芸に影響を受けた『日本橋』
『婦系図』など世話物もあり、鏡花の作
品は舞台や映画にも多く取り上げられている。
鏡花の名は「共に美しいが手中にできない」の意を持つ「鏡花水月」に由来する。若く
美しい女=母を聖なる存在ととらえた鏡花は、美と女性を描き続けた。幼き日に母からお
守りとして貰った小さな水晶の兎を生涯大切にし、自分でも様々な兎のオブジェを蒐集し
た。慶應義塾図書館には鏡花が遺した兎コレクションが静かに眠っている。
『鏡花全集』 泉鏡太郞著
東京 : 岩波書店, 1940.3-1942.11
卷之 1 「活人形」
[MBL@T@I8@66-1]
財産横取りを企む赤城得三らに拉致・監禁された美人姉妹下枝(しずえ)と藤を探偵倉
瀬泰助が救出するという筋立ての探偵小説。姉妹が監禁された古屋敷には人形に仕掛けら
れた隠し部屋や廊下があり、それが謎を解く鍵になっている。明治 25 年(1892) 鏡花
20 歳頃のデビュー当時に手がけた探偵小説。
遠藤周作 (えんどう しゅうさく 1923 -1996)
小説家。幼少期を満洲で過ごし、帰国後 10 歳でカトリックを受洗。慶應義塾大学仏文
科では「カトリック作家の問題」を「三田文学」に発表し、後に同人となった。フランス
留学を経て帰国後、
『白い人』で第 33 回芥川賞(昭和 30 年)、『沈黙』で第 2 回谷崎潤一郎
賞(昭和 41 年)を受賞。
『海と毒薬』
『イエスの生涯』
『侍』
『深い河』などキリスト教を主題
にした純文学作品を多く執筆した。その一方で狐狸庵山人(こりあんさんじん)と雅号を名
乗り『狐狸庵閑話』
『ぐうたら人間学』
『おバカさん』
『大変だァ』など、ぐうたらを軸とす
るユーモアに富む作品も多く、重厚な純文学との作風の違いを鮮やかに書き分ける。芸術
院会員、日本ペンクラブ会長(昭和 60 年~平成元年)、文化勲章受章(平成 7 年)。また素人
劇団「樹座」や音痴で楽譜が読めない中年合唱団コール・パパス座長など、文学の枠にお
さまらず幅広い活動をした。
『沈黙』をはじめ遠藤周作作品への海外での評価は高く、グレアム・グリーンが強く支持
した事も有名。
『沈黙』はノーベル文学賞候補とも目されたが、カトリック教会に敵視され
るなどの障害に遭い、実現せず終わった。
『闇のよぶ声』 遠藤周作著 東京 : 講談社, 1971
[MBL@T@E1@32]
従兄三人が幸福な家庭を捨て謎の失踪。
「四人目になるか
もしれない」
と不安にさいなまれる婚約者・樹生のために、
神経科医・会沢を訪ねた圭子。その失踪の異様さに興味を
持った会沢は、解決のために動き出す。昭和 38 年(1963)
から 39 年にかけて連載された、遠藤周作の手がけた本格
長編推理小説。1983 年にはテレビドラマ化されている。
柴田錬三郎(しばた れんざぶろう
1917-1978)
小説家。岡山県出身。本名は斎藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。
「少年のころから、
友達をつかまえて、たちまち一編の冒険小説を物語ってみせる空想力をそなえていた」と
いう。昭和 9 年(1934)慶應義塾大学医学部予科に入り、昭和 13 年「三田文学」に処女作
『十円紙幣』を発表した。昭和 15 年に同大文学部支那文学科を卒業、内国貯金銀行に入
行したが、間もなく退職して泰東書道院で雑誌「書道」の編集に従事、その後、日本出版
文化協会、日本出版会で杉浦明平や田所太郎の下で編集業務に従事した。昭和 17 年に衛
生兵として応召、昭和 19 年には再び召集され輸送船で南方に送られる途中、バシー海峡
で敵潜水艦に撃沈され、7 時間ほど漂流した後、奇跡的に救助された。昭和 20 年、福山市
郊外の練兵場で敗戦を迎える。戦後、日本出版協会で「日本読書新聞」の復刊に奔走、書
評誌「書評」が創刊されると編集長を務める傍ら、副業としてカストリ雑誌に通俗小説を
多数執筆した。昭和 24 年より執筆に専念し、昭和 26 年「三田文学」に発表した『デスマ
スク』が第 25 回芥川賞候補となり、27 年『イエスの裔」で第 26 回直木賞を受賞した。
『柴
田錬三郎時代小説全集』
(全 26 巻,新潮社)がある。昭和 31 年より「週刊新潮」に連載
した『眠狂四郎無頼控』で作家としての地位を確立、以後『赤い影法師』
『孤剣は折れず』
などの人気小説で五味康祐と並んで“剣豪小説ブーム”を牽引、
“シバレン”の名で知られ
た。
『怪人黒マント』 柴田錬三郎著 東京 : 偕成社,1950
[MBL@T@S17@4]
恐怖におののく魔の屋敷に突如姿をあらわした東京紳士。
神出鬼没、黒マントの謎を解く一大冒険小説。戦後、
『日本
読書新聞』の編集長を務めながら、カストリ雑誌に少女小
説、大衆小説を乱作したころの作品。
*カストリ雑誌:戦後、出版自由化を機に発行された大衆向け娯
楽雑誌。粗悪な紙に印刷され、内容は安直で興味本位なものが
多く、たいてい 3 号で休廃刊されたことからカストリ酒(粗悪
な酒)にかけた名称。
次回展示予告
第 302 回企画展示
「絵入り本の東西」
2013 年 6 月 5 日(水)~6 月 29 日(土)
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