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種の成長と収穫

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種の成長と収穫
種の成長と収穫
マルコによる福音 16
種の成長と収穫
4:21-34
マルコの福音書から、今朝は、今朗読していただいた「成長する種」のた
とえを中心に、34 節まで、四つの段落を読むことにします。今の箇所のすぐ
後に来る「からし種」のたとえは、蒔かれた種の「成長」というテーマで朗
読箇所とつながっています。その前の「ともし火」の所はどうつながるかと
言いますと、これは、前回の「種を蒔く人」のたとえから、「成長する種」
へのつなぎになっています。そのつながりは多分、二つ前の「たとえを用い
て話す理由」という所で、イザヤ書を引用してかなり強烈な主張をなさった
ので、ウッカリ、人がそれを取り違えて、イエスのたとえは神の秘密をわざ
と隠して分からなくするものだと思い込まないように、この「ともし火」の
たとえで念を押しておられるのだと思います。
イエスが語られた譬え話はどれも、霊的洞察眼のない群衆にとっては、
「見
ても見えず、聞いても聞こえない」(:12)かも知れないけれども、イエス
の本当の目的はやはり、そこに込められた福音の意味は、燭台の上のランプ
のように、いつか必ず見える……いや、見させずには置かないものだ、とい
う意味をこめてあります。新共同訳の見出しが便利ですから、このまま使う
ことにします。
1.「ともし火」と「秤」のたとえ。 :21-25.
21.また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台
の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。 22.隠れている
もので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないも
のはない。 23.聞く耳のある者は聞きなさい。」 24.また、彼らに言われた。
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「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与え
られ、更にたくさん与えられる。 25.持っている人は更に与えられ、持って
いない人は持っているものまでも取り上げられる。」
最初の言葉、「ともし火を『持って来る』のは」という所、原文では「と
もし火が『やって来る』
のは」と書いてあります。ともし火が自分
で「やって来る」訳はありませんから、だれかがともし火を「持って来る」
が、何のために持って来るのか……その目的は、という意味に理解してよろ
しいのでしょうが、ともし火自体が「来る」というこの言い方は、「世の光」
であるイエスが来られたことへの暗示が含まれているのだと思います。高橋
三郎訳では、「光が到来するのは」(NTD)と訳しています。イエスが来ら
れた意味と目的が「ともし火」の目的と二重写しになっている訳です。
でも、先程も申しましたように、ここのつながりは、「イエスが譬えを使
って群衆に語っているのは」という、前の頁からの続きですから、この「と
もし火」はやはり、イエスが使われた譬え話のこと、「到来」はイエスが来
てそんな話し方をなさったことです。とすると、「ともし火を持って来るの
は」という訳し方も自然だと言えます。
「見ても見えず、聞いても通じないようにプログラムされている」と訳せ
るくらい、イザヤの言葉(:12)はきびしいし、語られた譬えは現に、聞き
手を五里霧中の状態に置いています。でも、イエスの目的、父の御意図はや
はり、この譬えに込められた福音が、いつか人の心に届くことです。譬えは
そのために語られているのですし、聞き手がどんなに煙に巻かれているよう
に見えても、きっと「ともし火」の光が分かって喜ぶ時が来るのです。だか
らこそ、今イエスの口から語られていることを真剣に、自分の生き死にに拘
わるメッセージとして聞かねばならない! それが 24 節以下の「秤」の譬え
につながります。
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「自分の量る秤で、どれたけ余分に豊かに量り入れるか」というのは、ど
れだけイエスのお言葉を重く捕えるか―神の前に立つ人間としての自分の
深い悲しみと結び付けて、イエスの福音を受け止めるかということになりま
す。ここまでが、言わば「前置き」になっています。次の 7 行をこのくだり
の中心として、眺めてみましょう。
2.「成長する種」のたとえ。 :26-29.
26.また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に
種を蒔いて、 27.夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28.土はひとりでに実を結ばせ
るのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29.実
が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
このあたりは大体マタイ 13 章、ルカ 8 章と平行しているのですが、ここの
部分だけは、面白いことに、マルコにだけしか記録されません。しかも、こ
の話は重点がかなり偏っています。農夫がどれだけ汗を流して労力を投入し
たかは、全く無視したように、すべてを種の生命力と土地の産出力のせいに
しているのです。この譬えは多分、聞いて喜ばなかった人も多かったと思い
ます。これは、何か重大な真実を強調するために、たとえて言うなら、スポ
ットの当たっている一点を除いて暗黒になっている舞台と似ている、と考え
てください。
この話の重点になっているのは、4 行目(:28)の「ひとりでに」と訳し
てある言葉です。「土はひとりでに実を結ばせるものである。」この「ひと
りでに」
は automatic という英語になった言葉
が使ってあります。
土は、放っておいても、「オートマチックに」種を育てて、実を結ばせるも
のだと。《
》
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これはまた、乱暴なくらいの単純化です。こんなことをおっしゃるからに
は、余程の理由があって、聞き手の先入観を覆そうとしておられるのです。
もちろんイエスは、農作業の中から人手の要素を否定なさるのではありませ
ん。イエスがここで言おうとされるのは、1 行目にあるように、「神の国の
実現の仕方」です。「国」と訳した“kingdom”は、むしろ“king’s rule”
―王の支配です。
もっと具体的に言うと、
“the way how God rules as king”
と言いますか……「王としての神が、あなたを支配なさる時のなさり方」で
す。これは普通の農業で言う人間の汗とか労力とはおよそ違う、驚くような
形で起こる。
種が蒔かれると、人のパートは終わる。あと彼がすることは、夜になれば
寝る。朝が来れば起きる。していることと言えば、それだけだ。種の成長に
も結実にも、この人は何のパートも果さない。(こんなことは実際の農業の
話ならあり得ない、無茶な状況設定です)彼の果すパートは寝ては起きるだ
け。俗な言葉で「食っちゃ寝…… 食っちゃ寝」です。その間に種は芽を出す。
穂が出る。豊かな実ができる。ついには収穫の時が来て、実は刈り取られる。
どうしてそんな風にどんどん進むのか、種を蒔いた本人も呆れる(:27)と
言うんですが……。まあ、農業の描写としては無茶で、デフォルメもいいと
ころです。
人間が麦を作るとか、葡萄を栽培するという場合は、こんなベラボウなこ
とはありません。ただ、王なる神が人の魂を捕えて、これを支配する時だけ
は違います。神が人を作り替える奇跡をなさる時はこうだと。イエスの趣旨
はそこにあります。それが、「神の国は次のようなものである」という切り
出し(:26)の意味です。王なる神が支配なさる時は、農業の常識はもう当
てはまらない。一体これは、人間が主張しがちな何を否定し、どんな実績を
覆そうとしているのでしょうか。
「私がこの人に伝道して、一生懸命世話をして、苦労して育てたからこの
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人は信者になった。」大いに結構。人間向けなら、大向こうを唸らせるに足
ろうが、神は、「それは無いぞ!」とおっしゃるのです。神が支配して「神
の義」の奇跡をなさる時は、人間の世話人が偉そうに、「私の息がかかって
いるぞ」などは言えない。「私の弟子だ」とか、「私の先生だ」とか、およ
そ人間が口にしがちな言葉は、すべて無意味。すべては神の支配の御業であ
る。そういうことでしょうか。
あるいは、神の支配を受けて実を結んだその人自身が、誇ったり、逆に卑
下したりすることを許さない。すべては恵みの御業であることを謙遜に知れ、
ということでしょうか。「私は他のいい加減な信者とは違う。一緒にしてく
れるな」という、ファリサイ的な誇りも滑稽。反対に、私は立派な信仰を持
つ自信はないし、入信しても、受洗しても、御栄えにならないから遠慮して
おく」と言うか。それもまた、人間の純粋さとか実力を全能と思い込んでい
るだけではないか。
実を結ばせるのは命の種を与えた神御自身である。立派なのも立派でない
のも、純粋なのも中途半端なのも引っくるめて、神は面倒を見られることを
忘れたか! もし、そのことに目が開けたら、安心して、今あるがままの自分
を神の手に委ねて治めていただけるのではないか! これは、そういう福音の
譬えです。このくだりの中心がここにある、と申し上げた所以です。
3.「からし種」の譬えと、その後のまとめ。 :30-35.
「まとめ」と言いましたのは、「たとえを用いて語る」という見出しの付
いた 4 行です。二つの段落を続けて読みます。
30.更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなた
とえで示そうか。 31.それは、からし種のようなものである。土に蒔くとき
には、地上のどんな種よりも小さいが、 32.蒔くと、成長してどんな野菜よ
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りも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33.イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を
語られた。 34.たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たち
にはひそかにすべてを説明された。
ここも、「王なる神が支配なさるなさり方は」という同じ切り出しなので
すが、今度は「どんな譬えが適切なのか、たとえようが見つからない」とい
う言い方で、この「からし種」の譬えもまた、常識の枠をはみ出しているこ
とを暗示します。もちろん、ユダヤの“黒からし”は日本の芥子菜とは比べ
られない位に“巨大成長”すると言われます。平均の高さは 1.5 m、ガリラ
ヤ湖の沿岸では 3 m に達するものもある(教文館:「聖書大事典」)と言い
ます。でも、杉の木みたいな「大木」を考えるのはオーバーですが、ここは、
多分それ位のイエスのユーモアも含まれているのではないかと思います。最
後の「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(:32)は、エゼ
キエル書(17:23)やダニエル書(4:18)のよく知られた言葉だからです。
芥子の種のサイズが、我々の「餡パン」に付いているケシ粒くらい小さい
のに、芥子菜の丈が 2 m にも 3 m にもなるということが、もちろんこの譬え
の基礎になっていますが、エゼキエル書の杉の木のように「あらゆる鳥が集
まって巣を作る」という絵がこれにダブっているとすれば、イエスのユーモ
アは多分、芥子種と大きな芥子菜の対比を通り越して、レバノンの巨木のイ
メージにつながる、かなりオーバーなものだったのではないかと、最近では
思えてきました。ところで、イエスが言おうとされた譬えのポイントは何か
……です。
段落の 1 行目の切り出しは、「神の国を何にたとえようか……」つまり、
「王なる神が人を義で支配するとき、そのなさり方は、たとえようにもたと
えようがない。強いて言えば……」という感じになっています。ここでもま
たイエスは、途方もないオーバーなものと平行させて、聞き手の度肝を抜き
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ます。
小さな、無きに等しいものが、似ても似つかぬ力強い巨木に変貌する。考
えられない位の急激な成長です。初めの貧弱さと完成の偉大さ……それでイ
エスは何を言い表したのか? 多くの注解書は、「十二人のガリラヤ人からな
る無力な一団が、やがて復活者の福音で世界を変えてしまう」というヴィジ
ョンを、ここにダブらせて見ます。それも否定できないのですが……。
第二段のあの「種の成長」の譬えの後に、この「からし種の巨大成長」が
置かれていることを考えるなら、それはやはり、あなたを支配して治める神
の業を保証するもう一つの絵として見たほうが、趣旨は一貫するのと思いま
す。弱いあなたに復活の命を注いで、強い輝く者にお変えになる。罪と不義
以外の何者でもないこの私を素材に、神は義を創造される(パウロの言う「神
の義」です)。それはケシ粒がレバノン杉に変身する位の大変化です。あな
たは、それを信じて委ねられるか……それが問われています。
私を収める王として神の支配を受けるということは、その奇跡の御手を信
じて委ねることです。神がそうなさるというお言葉を額面通りにお受けする
ことです。今は芥子種のように小さくて、無に等しい自分の姿を絶対視して
はいけません。「いかに神様でも、こんなお粗末な貧弱なものはお変えにな
れまい」とタカをくくってはなりません。それは輝く、力強いレバノンの香
柏にもなるのです。
《 結 び 》
最後に 28 節と 29 節に注目して、「収穫」と言う語の意味を考えます。
28.土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂
には豊かな実ができる。 29.実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来
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たからである。
「収穫」という言葉から、あなたは何を連想なさいますか。たとえのテー
マは「神の国」つまり、あなたの王であられる神があなたを治めるとき―あ
なたという素材を「神の義」を実現する聖事業にお用いになるとき、神のな
さり方はどんなか……ということでした。あなたにとってその収穫の時とは
何かを考えてみるのも意味があるでしょうが、ここでは多分、そのことは直
接語られなくて、譬えのポイントはあの「オートマチックに成長させられる
ことを知って、委ねよ」という思想とつながるのだと思います。29 節の意味
はこうなるでしょう。
王の支配は神の定めた時に必ず成就する。それをまるで自分の熱心と自分
の手回しで完成するかのように焦るな! それは、本当は神の時に完成するの
だから、神の手に委ねて安心して時を待て。「収穫の時」は 2 行前の中心主
題、「土はひとりでに実を結ばせる」の念押しの言葉です。あなたは、自分
の力とか、自分がものになりそうな確率とかを計算してからイエスに従うの
ではない。神が成長させ、神が収穫なさる確実さを信じて服することができ
るか……それが問われています。
(1994/07/31)
《研究者のための注》
1. 「ともし火が来るのは……のためではない筈」
の「来る」に
ついては Williamson(p.163 邦訳)もイエスの到来への暗示を見ますが、Schweizer高橋は訳語も「到来することがあろうか……」としています。
2. 「升の下に」は「消してしまうため」、「寝台の下に」は「隠されるため」の意味と
思われます。
3. 「何を聞いているかに注意しなさい」
(直訳)の意味は、「正し
いことがらを選んで聞きなさい」か、「聞くことがらに注意を向けなさい」のいずれ
にも理解することができます。
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4. 種を「蒔いて」
はアオリスト接続法、「寝起きし」
は
現在接続法で、前者が種を蒔くという一回的行為(:26)を表すのに対し、後者は眠
りそして目覚めるという「継続的無活動」(Schweizer)を対立させて見せます。な
お、「夜昼」
と「寝起き」の語順について Schweizer は、「夜が
先に出ているのは受け身の睡眠をまず述べるという趣旨だが、あるいはまた、ユダヤ
教の暦においては、一日が夜から始まるという理由によるのかもしれない」と説明し
ています。
5. からし種が「成長してどんな野菜
よりも大きくなり」と記すマルコはから
しの植物を「野菜」として扱い、木になるという表現はしません。これに対しマタイ
とルカはそれぞれ、巣を作るほどの「木になる」
り」
成長して「木にな
と書くことにより、ダニエル 4:18
(20)の
エゼキエル 17:23 の
詩 104(103):12
の映像をこの譬えに投影しているものと考えられます。イエスが語られた
形において、既にこれらの預言への言及があって、巨大成長した「野菜」としてのか
らし菜と預言中のレバノンの杉のイメージが二重映しになっていたと(Williamson を
ヒントに)理解しました。
6. 本講では、教文館の「聖書大事典」に基づき、「からし」の成長限度を、「平均の高
さは 1.5 m であるが、
ガリラヤ湖沿岸地域では 3 m に達するものがある」
と見ました。
これに対し 1971 年版のキリスト新聞社「新聖書大辞典」(343 頁)には「潅漑すれば
茎高 5 m になり」とあるので、「マタイによる福音」書籍版 410 頁では、このデータ
に依拠しました。Williamson から示唆を得て、「木になる」を預言書のイメージを誇
張的に二重映しした言葉の絵とみれば、からしの「木」をそれほど真正面から散文的
に捕える必要はなくなります。5 m の芥子菜の存在可能性を否定するつもりはありま
せんが、「5 m の巨大芥子樹?」のデータを上記辞典に提供した記者は、イエスのユ
ーモアと連想、それに福音書記者の文学的なセンスを理解することなしに、「木」と
いう一語を裏付けるためのオバケ資料だけにこだわったのではないかと、私は推測し
ています。
7. 「空の鳥」は、「木」がそれほど大きくなることを表す役目をし、ここでは特に寓意
を読み取る必要はないでしょう。参照:前講(:15)註 1,「マタイによる福音」41
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講・注 3.
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