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天から降った命のパン

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天から降った命のパン
天から降った命のパン
ヨハネによる福音 25
天から降った命のパン
6:22-40
「天使のパン」という題の歌曲があります。セザール・フランクの作品で、
“Panis angelicus”で始まる美しい歌は、実は詩篇の 78:25 にある言葉「人
は天使のパンを食べた」(口語訳)に基づいています。その前にある言葉は
(新共同訳)「神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降ら
せ、食べさせてくださった」です。
この「天使のパン」ないし「御使いのパン」(新改訳)がフランクの歌に
入っていますし、イエスのお言葉では、「あなたたちの先祖は荒野でマンナ
を食べたが」に含まれています。“Panis angelicus”の歌詞は、畑中良輔さ
んの訳文では、「天使のパンは人のパンとなれり。天よりのパンは旧約のし
るしを全うせり」ですが、詩篇にあるこのパンが、私たちが今読んでいるヨ
ハネ福音書 6:50 の内容と対応します。
昔エジプトを出た流浪の民が荒野で飢えたとき、神は不思議な食料を天か
ら降らせて、早朝の地面を覆わせたという故事です。その白い粒々の不思議
な食料は、彼らがエジプトでも見たことがなかったもので、驚いた人たちが、
「マーヌ・フー」aWh
!m'「何だ、これは?」と言ったのが、「マーヌ」!m'
の
起源になりました。邦訳の習慣では「マナ」、新共同訳は新約のみ「マンナ」
(ヨハネ 6:31 他)と表記します。
荒野で生きるか死ぬかの瀬戸際に、奇跡で支えられたのですから、それは
民族の原体験のように、人々の魂の深い所に根付いていました。その代わり、
この場面に出て来る人たちの考え方まで縛って、そこから一歩も出られなく
したのも事実です。イエスが「天から降ったパン」、「命のパン」、「生き
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天から降った命のパン
たパン」と言葉を重ねて、ご自身の意味を示そうとされても、人々はイエス
が「マンナ」のことを言われたとしか考えられなかったのです。ここの一頁
にわたるやりとりは、そんな彼らとイエスの悲劇的にチグハグの問答で、サ
マリアの女との問答を思い出させます。
最初の 10 行は、問答が始まった時のいきさつと状況描写になっています。
五千人もの群集がイエスの手からパンを頂いたその翌日に、イエスを王にし
て革命を起こす夢を捨て切れない人たちや、もう一度イエスの奇跡を見たい
人たちが、このとき湖畔に集まっていました。
前日には、湖畔には舟は一艘しかなくて、弟子たちが舟を出した時にイエ
スがお乗りにならなかったことは、分かっていました。肝心のイエスが行方
不明で、現場に帰られた様子もなかったのに、驚いたことにはイエスはすで
に、弟子たちのいる所へ戻って来ておられたのです。
22.その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうし
かなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子
たちだけが出かけたことに気づいた。 23.ところが、ほかの小舟が数そうテ
ィベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所
へ近づいて来た。 24.群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、
自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
25.そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおい
でになったのですか」と言った。
「ラビ、いつ、ここに……」という切り出しの問いは、「いつの間に?」、
「どうやって?」という、驚きの声なのです。こうして、25 節の問いをきっ
かけに、弟子たちとイエスとの問答が始まります。
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天から降った命のパン
1.関心と労力の目標を切り替えよ :26-29.
労力の目標を切り替えよというのは、27 節の「朽ちる食べ物のためではな
く……永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」にこめられた意図です。
「働きなさい」(労力を払いなさい、今からは)の意味は、「あな
たがたは、見当外れのもののために、必死になっている。勿体無い。頭もエ
ネルギーも別のところに切り替えねば!」という警告です。その言葉をいき
なり、ポンと突き放すように言われました。
26.イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたし
を捜しているのは、しるしを見たからではなく(あの奇跡が指し示す重大な
意味を読み取ったからではなく)、パンを食べて満腹したからだ。 27.朽ち
る食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ
物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物であ
る。父である神が、人の子を認証されたからである。」
「認証された」を英訳で“has sealed”(封印した)としているのは、こ
の時代の言い方では、所有、承認、全委任の事業に使われた「封印した書類」
に比喩を借りたものです。父はこの私に「封印による全委任」をしておられ
る。そのことが、あなたがたには見えないのか! 結局、「昨日のあのパンが、
しるしとして何を指し示していたか、分かった者は一人もいなかったか!」
と、嘆息されたのですが……。
聞き手の方は、エネルギーの注ぎ違い、労力の見当違いというお言葉かと
受け取って、「それなら、私たちにどうせよとおっしゃるのか―どんな実
績と功徳を神はお求めになるのです?」というところへ、話を持ってゆきま
す。典型的な、ファリサイ派の発想です。
28.そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
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と言うと、 29.イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じ
ること、それが神の業である。」
質問者が“the works of God”と複数で尋ねたのに対し、イエスは単数で
“the work of God”と言われます。「神がお求めになる業は一つしかない。
そのたった一つの業は、この私に全信頼を投入して私にすがること。それだ
けを神はお求めになる。神の業はそれだ」とお答えになったわけで、これに
は、相手は開いた口が塞がらなかったのです。
質問者が期待したのは、例えば、神殿に何万シェケル献金せよとか、何日
間断食して祈れとか、過激な連中は、決死のコマンドかゲリラを組織して、
カイサリアの司令部を攻撃せよとか……それなら、膝を乗り出して反応した
でしょうが、イエスは「人の子を信頼して全部をかけて来い」と言われます。
これは狂気の沙汰と見えたのです。昔のモーセでも、そこまでは言わなかっ
た! 何を根拠に血迷った言葉を吐くか……?
2.資格証明の押し問答、「モーセの真似ができるか……」 :30-34.
30.そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じる
ことができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなこ
とをしてくださいますか。 31.わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べ
ました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりで
す。」
最初に紹介した詩篇 78 の言葉を引用しています。これで何を言おうとした
のか……多分、メシアが来るとき、彼はモーセの奇跡を再現するという俗信
を述べたものでしょう。ユダヤ人の文献中では、第二バルク書や、ミドラー
シュの出エジプト記注釈などに現われる思想から考えると、「あなたがモー
セ・クラスの芸当を見せて、納得させない限り、『人の子に全信頼をかけよ』
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は調子良過ぎるぞ」ということです。
32.すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からの
パンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパン
をお与えになる。 33.神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるもの
である。」
イエスの言われるパンは、荒野のマンナとは次元的に異なるということが、
はっきりして来ます。しかし彼らはまだ、モーセとマンナにこだわり続けま
す。34.そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」
と言うと、……つまり、昨日のように一食だけ、五千人が一回腹を満たすだ
けではなく、また、普通の大麦のパン、地上のパンではなく、天から降って
くる特別のパンを……というわけです。
人々は、前日の驚くべき御業のショックから、何ら深い洞察を持つでもな
く、まだあれでは食べ足りなくて、もっと続けて、もっと多くの人が飢えか
ら救われるように、そんな、肉の救済ばかりを考えています。ちょうどサマ
リア人の女が、「その水を下されば、もうここへ汲みに来なくて済みます」
と言ったのと好一対です。
しかし、もしこの時の聴衆の中に、聞く耳を持つ人がいたら、この主のお
言葉の中に、いくつかのヒントを読み取ったかも知れないのです。モーセが
与えたものは、本当の「天からのパン」どころか、あれは、ただの「地のパ
ン」であった。神のパンはそんなものではない。このパンは今、天からくだ
って来て、あなたがたの目の前にいる。そして、人に命を与えようとしてい
る。それを見た者はいないのか!
3.命のパンはイエスご自身。このパンを受けそこなうな! :35-40.
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35.イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者
は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36.
しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じな
い。
以上と次の 37 節の間の繋がりが、お分かりでしょうか。イエスは言われる
のです。この不信の中にも、信じてイエスの許に来る人たちが現にいる。こ
の違いはどこから来るのか……それは、父が来させるのであって、父がイエ
スに与えるのだ……という意味です。読み方によっては、運命的に定められ
ているように聞えますが、そうではありません。
「父が来させる」「父がイエスに与える」の意味は、父の思いに気づいて
応える人が必ず出る。このときイエスと向き合った人たちのような、不信の
人ばかりではない。天からの神のパン、命のパンに目が開けて父のお気持を
知る人が出る。父の意思に服する信仰の人が輩出する。それは父の声に服し
た従順な人、鋭い洞察を持った人だと言っても良いが、私はそうは言わない。
これは、父の愛が動かした人、父が来させた人、父が人の子である私に与え
た人だ。罪と死の中に満足して居座っている人を動かすのは、父の原動力、
神の愛しかないのだから、これは人が来るのではない。父が魂を捉えて来さ
せるのだ……と。
37.父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのも
とに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38.わたしが天から降って来
たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御
心を行うためである。 39.わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたし
に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることで
ある。 40.わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること
であり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
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その人は今、この瞬間に、その死を突き抜ける命を確かに受け止めること
ができて、復活の日には、その命を完成していただける。地上でどんな悲し
い姿の人も、その時は、イエス様と同じような、輝く美しいものになる。そ
れが父の思い、父の執念である。私が、そのために来てそのために命を与え
るのが分かるか! イエスはそう言われたのです。
《 結 び 》
最後に 37 節の「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」
というお言葉について、私自身の感想を述べて結びます。
私がなぜ、イエス・キリストを信じるようになったのか、その理由といき
さつを聞きたいと言われる方たちから、ご質問を受けたことがあります。私
がもし、十分に人を納得させられるようなお話ができたら……。相手に「そ
うか、なるほど、よく分かった。私も信じよう!」と言わせるような話がで
きたら、これは、ずいぶん人に役立つのでしょうが、そんな、決定的に人を
納得させる話は、無いのです。
その前後にどんな事件があったか……だれが死んだか……自分がどんな病
気になったか……失恋したのか……幼い時にどんな環境に育ったか……そこ
で人間の何に失望したか……どんな汚いイヤなものを見たか……とか、どこ
で自分自身に嫌悪を感じたか(大体ひとが聞きたがる入信の体験談はそんな
ことのようです)―そんな話をすれば、最も具体的で、生活と結びついた
信仰の話になるだろうと考えて、そういう、いわゆる「入信談」を、こと細
かに話す方たちもおられます。日本中、その同じネタで打って廻る講師は珍
しくありません。
私もそんな話を、時たまはしない訳ではありません。でも、一回やると嫌
な気分になって、当分は同じ手の話をする気がなくなります。何かこう、雨
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が降って桶屋が儲かったから、あなたも雨が降り始めたら、急いで桶屋を開
業してごらん……という勧めのようで、だれにも妥当しないばかりか、事柄
の本質から離れてしまうことの方が多いのです。たまに、私と全く同じ経験
をしている方がいて、大いに親しみと同感を覚えてくださる場合もあります
が、人間というものは、同じ悲しみや同じ喜びを経験したからといって、み
な同じ方向を向くものではありません。
私と同じものを見て、同じ壁にぶつかって、同じ悲しみを自分の中に見て
も、ナザレのイエスを神の子と仰ぐ同じ信仰へ行くかというと、決してそう
ではありません。かえって、「信仰や永遠の命など無いのだ」と結論される
方もあれば、ますます自分の中に閉じこもる人や、絶望的になる人も多いの
です。私が自分の「入信談」を避ける理由です。
イエスが言われたあの言葉―「父が私に与えてくださった魂は、結局は
私のところへ来るし、本気で来る以上は、私は絶対その人を守って行くべき
所まで連れて行く」という、あのお言葉以外には、確かなものは無いのです。
私が正味確信を持って言えることは、私の人生を通して、天の父が私をイエ
スへ行かせた、という一事だけなのです。
そのことはいつ起こるかと言えば、一人ひとりに神の時が満ちた瞬間に起
こるとしか、言いようがないのです。それを起こす原因は何と何かと言えば、
それは、この本の中に描かれたイエスの姿と、イエスのお言葉に正面からぶ
つかる経験である……としか言いようがない。そのお言葉の趣旨―それが
私に正味どう聞えたということしかありません。ですから私自身は、イエス
のことを伝えるのにエネルギーの大半を注いでいる訳で、ご愛嬌の“桶屋の
話”は、ほどほどに済ませています。
ただ、私の小さな経験から分かることは、本当に、主がおっしゃった通り、
「父がイエスにお与えになる魂は、間違いなくイエスの許へ行く」という事
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天から降った命のパン
実です。それはただ、神の時に起こるのですが、一旦それが起こると、罪あ
る我と主イエス・キリストの死という一点に絞って何かが見え始めるし、現
に死んでいる自分と、主イエス・キリストの復活の命とが繋がって、そこに
新しいことが起こり始めるのです。
(1986/04/27)
《研究者のための注》
1.詩 78:25 の新共同訳は「力ある方のパンを」と訳したため「力ある方」は神御自身で
あるような印象を受けます。しかし「アビリーム」は複数形なので、この「力ある者
たち」は天使と見るのが正しいでしょう。「力ある者たちのパン」~yrIyBia;
~x,l,
をギ
リシャ語訳(LXX)はと訳しました。口語訳と新改訳はこの解
釈に従っています。フランクの曲名もそこからです。
2.「パン」と「食べ物」の比喩は、ここでは「いのちを支えるもの」「生
かすエネルギーの源」という意味で使われており、前に出た 4:32,34 のや
とは意味合いが異なります。
3.荒れ野のマンナ(マナ)については、引用した詩篇 78 のほかに、出エジプト 16 章を
参照。マンナが具体的にどんなものであったかは、1981 年 9 月大阪聖書学院での申命
記 8:1-3 によるスピーチ「主の口から出るものすべてに」で説明しました。
4.この「天よりのパン」を主の晩餐と結びつけて理解するか否かについて、大きく分け
て三つの解釈があります。① これを主の晩餐のことと受け止める解釈。② これをイ
エス・キリストの十字架の出来事と、これを信じる者の信仰という霊的な現実を指す
と見て、主の晩餐と全く関係がないものと受け止める解釈。③は②と大体同じで、命
のパン、そのパンを食べるという事柄のすべてを、キリストの贖罪とキリストへの信
仰と結びつけるのですが、二義的には主の晩餐をも指し示すものとつながっており、
本当はこの二つのしるしが代表する霊的真実として受け止める解釈です。私自身は、
この第三の解釈を取ります。
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