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隋唐・イスラームの統合から国風文化の時代へ

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隋唐・イスラームの統合から国風文化の時代へ
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第2回
隋唐・イスラームの統合から国風文化の時代へ
大阪大学教授 桃 木 至 朗
広域的な交流・統合−その解体−再統合という
一方で南朝は、さまざまな南方民族を巻き込み
サイクルで世界史をとらえるこころみの第2回は、
ながら、積極的な江南開発や南海貿易という別の
3、4世紀から解体に向かった世界帝国・地域世
実験を進めており、そこに華北と違った文化が花
界とそれらの間の交流が、隋唐帝国やイスラーム
開いた。後代に多くの影響を残した隋唐世界帝国
世界を中心として大規模に復興し、それがまた分
の整った制度と華やかな文明は、漢民族だけのも
裂・再編されてゆくプロセスを、12世紀ごろまで
のでは決してなく、多くの民族が協力し、中央ユ
追いかけてゆく。
『タペストリー』12〜23ページ
ーラシア系の軍事力と商業ネットワーク、整った
の大きな地図を広げながらお読みいただきたい。
国家体制、そして南方の文化と農業生産力など多
様な要素を総合して作り上げたものだった。
中央ユーラシアと隋唐帝国
これらの点で隋唐帝国は、秦漢帝国と「同じ中
第1回で述べたように、古代に世界各地で成立
国」ではない。
「国外」での突厥や吐蕃とのゆる
した帝国や文明はどれも、高度な普遍性をもつ一
やかだが多面的な結びつきも、漢と匈奴の関係以
方で粗雑・未熟なものだった。3、4世紀以後の
上に深いものだった。隋唐でできた、中央ユーラ
世界史は、古代の栄光が失われた「暗黒の中世」
シアを不可分の構成要素とする多元的な連合帝国
などではなく、より緻密で各地の実情に合った統
としての「大きな中華」の流れは、遼・金をはさ
合を求める、前向きの模索の過程(しばしば辺境
んで元さらに清へと続く。漢民族だけの「小さな
の新勢力が新時代を開く「辺境革命」のかたちを
中華」は中国史の本流ではない。だから、力の落
とった)と見ることができる。たとえば、この時
ちた唐宮廷がウイグルや沙陀の助けを仰ぐような
代の破壊の元凶のように見られがちな中央ユーラ
ことは、別に恥辱ではない。
「大きな中華」にお
シア世界では、柔然が可汗号を用い、突厥が独自
ける遊牧民やオアシス民を、文化的に劣った侵入
の文字を創始するような革新があいついだ。
者であったために長期的には漢化されてゆくなど
遊牧国家の強化とはちがった、中央ユーラシア
と理解するのは、漢民族中心の国民国家が一貫し
発のもうひとつの実験は、
「侵入」
「帰順」のいず
て存在したという立場からの偏見にすぎない。
れにせよ、中華帝国に「参入」することであった。
北魏〜隋唐の支配集団が鮮卑系であったことはよ
イスラーム世界とムスリム=ネットワーク
く知られているが、そこに突厥、ソグド、唐末以
隋唐帝国が成立に向かう6世紀、ユーラシア西
後の沙陀などさまざまな中央ユーラシア系の集団
方では、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国がそれ
が参入してきた具体的な様子が、近年発見された
ぞれ、交易・交流のネットワークを東方に伸張さ
大量の墓誌などからつぎつぎと明らかにされてい
せていた(タペストリー 12〜13ページ)
。ユーラ
る。左右のシンメトリーを重んじる都城プランや
シアの東西どちらも、形のうえでは1、2世紀ま
官制(最初のアイディアの多くはインド起源かも
での世界帝国の継承者によって再統合され、それ
しれない)だけでなく、律令制を核とする整った
らが一時的には活発な東西交渉を再開した。しか
制度への美意識は、中央ユーラシア系など外部の
し、アラビア半島発の「辺境革命」ととらえられ
影響抜きには理解しにくいだろう。
るイスラームの成立、またそれに先行したゲルマ
−−
最新世界史図説タペストリー 四訂版 p.14 〜 15
ン人の移動は、旧帝国への参入・再編ではすまな
参入し、イスラームとイスラーム世界を豊かにし
い根本的な構図の変化を、ユーラシア西方にもた
てきたということでもある。
らした。7世紀にユーラシアの東西に並び立った
イスラームには都市的・商業的性格が濃厚であ
イスラーム世界と中華世界のあいだでは、8世紀
ること、そのためオリエントにもとから見られた
になると、タラス河畔の戦いのような衝突をとも
多くの民族や宗教の共存、交通・商業ネットワー
ないながらも、海陸のムスリム商人を主役とする、
クの発達などの特徴が、イスラーム世界でも非常
かつてない大規模な東西交流が実現した(タペス
に整ったかたちで発揮されたことは、現在ではよ
トリー 16ページの「イドリーシーの地図」
「ネッ
く知られている。しかしそれゆえに、地域世界と
トワーク・ナビゲーター」なども参考になる)
。
して「イスラーム世界」を理解することは簡単で
イスラーム世界というと「常人には理解しがた
ない。
「イスラーム国家」はユダヤ教徒やキリス
い厳格な規範」のイメージがつきまとう。これは、
ト教徒をほとんど不可欠な存在とし(単に「存在
隋唐の律令制に均田制のような「整いすぎて維持
を許した」のではない)
、近世までの中東では、
できない」部分があるのと似ている。
「地域の現
ムスリムが圧倒的多数でもなかった。見方によっ
実に合わない古代文明」を克服する努力の末にこ
ては、
「イスラーム世界」は近代以前には存在し
うした現実離れが生じる点では、
「歴史は繰り返
なかったことになる。いっぽうインドやアフリカ、
す」のだ。が、イスラームをムハンマドの時代か
東南アジアの「イスラーム王朝」や、支配者はム
ら現代まで同じものと考えるのはとんでもない誤
スリムではないがムスリム商人ネットワークが経
りである。現実に合わせる努力の結果、ゆるやか
済を動かしているインド洋・東南アジア海域・南
な大枠としての律令制が長期に(日本では16世紀
中国の港市社会を含めれば、
「イスラーム世界」
まで)生きつづけたのと同様、イスラームが今日
は限りなく広がる。第1回でも述べたように、
「文
でも生命力をもっているのは、地域や時代の現実
化圏」とちがって「地域世界」はそもそも複眼的・
に合わせた改変を重ねてきたからである。それは、
流動的な概念だが、
「南アジア」
「東南アジア」な
ペルシア人、トルコ人、ベルベル人、モンゴル人、
ど地理的な区切りがほぼ明白な地域世界とくらべ
インド人などさまざまな人々が(多くの非ムスリ
ると、
「イスラーム世界」
は悩ましい区分である
(と
ムを含めて)
、自発的にせよ強制的にせよそこに
いって「中東世界」では特徴がわかりにくい)
。
−−
これらの諸国にとって幸運だったのは、9世紀
国風文化の時代
以降、
「大きい中華」や「イスラーム帝国」が解
隋唐帝国やイスラームに代表される国家や文明
体に向かい、
「中心」からの政治的・軍事的圧力
システムの発達、交易・交流ネットワークの拡大
が大幅に減少したことだ(タペストリー 18〜23
などは、3、4世紀以前の古代文明・古代帝国と
ページ)
。解体の原因は、上でも述べたように隋
くらべてはるかに広い範囲に影響をおよぼした。
唐帝国やイスラームがもっていた「整いすぎた」
ユーラシア東方では、現在の中国東北部から朝
部分が機能しなくなり、整ってはいなくても現実
鮮半島、日本列島、雲南省などに、それぞれ小中
的な仕組みが、地域ごとに模索されるようになっ
華型の国家が成立する。これらは、高度の普遍性
たことにあった。またバグダードや長安周辺での
をもつが膨張主義的で押しつけがましい隋唐帝国
環境破壊の深刻化、エジプトや江南など他の地域
に対抗して、
「上からの近代化」を強行する「開
での農業開発や貿易の発展による経済的中心の移
発独裁」型の国家と理解できる。同時代の東南ア
動といった要因も、考慮せねばならない。いずれ
ジアでは、林邑(チャンパー)や真臘、ドヴァー
にせよ「周辺諸国」は、必要不可欠な「中心」と
ラヴァティー、ピューやシュリーヴィジャヤ、シ
の貿易や文化交流を維持しながら、
「上からの近
ャイレーンドラなど、インド文明の導入による国
代化」によって強行導入した政治・文化などの諸
家建設がさかんだった。隋の林邑出兵のような政
システムを、自分に合うようにじっくり再編・改
治圧力と、対中朝貢関係の拡大に対抗するために
造する余裕をえた。
「国風文化の時代」は、日本
「インド化」が急がれたように見える。いっぽう
だけの現象ではない。この時代がなければ、これ
アルプス以北のヨーロッパでは、キリスト教と結
らの「周辺諸国」が世界史の主役におどりでる近
びつきながらフランク族やノルマン人の諸国家が
世以降の事態がおこりえたかどうか、きわめて疑
発展してゆく。
わしい。
十字軍のような例外はあるものの、大文明の周
10〜12世紀の北半球でつづいた温暖な気候も、
辺で成立したこれらの国々には、遊牧国家のよう
三圃制農法を中心とする西ヨーロッパの農業発展
に「中心」に対して大規模な進出を行う力はなか
や、平安末〜鎌倉期日本の開発ブームのように、
った。しかし「中心」の文明と帝国から発する、
これら「周辺諸国」の基盤固めを助けた。いくら
抗しがたい魅力と圧力を感じずにはいられない。
律令で飾り立てても天皇位が一族以外に奪われる
そこから、これらの国々に共通する、
「中心」に
心配があった奈良時代とちがい、摂関政治と国風
対するコンプレックスと対抗意識、あこがれと反
文化、日本化した「顕密仏教」に守られた平安中
発がごっちゃになった意識が生まれる。地中海世
期以降の天皇家は、もはやだれにも(利用はでき
界ともイスラーム世界ともちがった西ヨーロッパ
るが)破壊できないものだった。独自帝国路線を
世界は、明らかに自分より進んでいるイスラーム
捨て、中国にきちんと朝貢して「忠実な小中華」
世界(およびビザンツ)に対する、コンプレック
の道を歩む朝鮮半島の王朝、10世紀に独立すると、
スとの格闘のなかから生まれたといえるだろう。
中国に朝貢しながら国内や東南アジア諸国向けに
近現代の欧米におけるイスラームへの偏見(オリ
は皇帝を自称するベトナム(大越)など、それぞ
エンタリズム)の執念深さは、こうしたヨーロッ
れに近代までつづく「国のかたち」が姿をあらわ
パの「出生の秘密」抜きには理解できない。
「中
す。フランク王国解体後の西欧など、ヨーロッパ
国よりも中国らしい」律令社会建設に狂奔しなが
の情勢も同様であった。東南アジアの9〜14世紀
ら、遣唐使が朝貢使節であることを隠そうとする
を「古典期」と呼ぶ場合があるが、それも現代東
日本人を突き動かしていたのも、同様の中国コン
南アジア諸国のもとになった民族文化が成立した
プレックスだった。
点をさす用語である。
−−
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで
第2回
イスラーム帝国はグローバル化の始まりか?
京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
という宗教の本質に起因することになる。しかし、
イスラームの「大征服」
この見方は前近代のヨーロッパのキリスト教的な
偏見を反映したものとして、現代の歴史研究では
イスラームは7世紀のアラビア半島で誕生した
否定されている。史実に照らしても、イスラーム
あと、半島からあふれ出るように東西に広がった。
王朝が宗教を強制した痕跡はないし、征服軍は征
わずか1世紀ほどの間に、東は中央アジア、西は
服地の住民にイスラームへの改宗を勧めるより、
ヨーロッパのイベリア半島にまで達した。
この
「大
宗教的な自治と引き換えに人頭税の貢納を求めた。
征服」は版図の広がりと征服の速度において、世
実際、ウマイヤ朝はイスラーム王朝とされるもの
界史的な大事件である。ローマ帝国をも上回る版
の、その住民の大半はキリスト教徒とゾロアスタ
図は空前の規模であり、その後もこれを上回る征
ー教徒であった。
服事業は、13世紀のモンゴルの大征服までなかっ
どのようにして大征服が始まったかを検証する
た。
と、政治的・軍事的な要素が強い。イスラーム軍
7〜8世紀における大征服の担い手はアラブ人
が自分たちの宗教を広めようとして信仰心に燃え
たちであったから、それに着目すれば「アラブの
て「ジハード」に赴いた、というイメージは的外
大征服」であろうし、イスラームによってこそこ
れである。ちなみに、
「ジハード」は「聖戦」と
の事業が成立したと考えれば「イスラームの大征
訳されることが多いが、これも誤解の元である。
服」と呼ぶべきであろう。実際、これによってイ
ジハードの語義は「奮闘努力」であり、宗教的に
スラーム帝国の基礎が作られ、またイスラーム帝
言えば「自己犠牲を伴う奮闘努力」となる。マッ
国の成立によって、イスラーム世界も確立された。
カ(メッカ)時代はムハンマドたちは迫害される
大征服の時代とは、正統カリフ時代からウマイ
マイノリティであり、当時のジハードには戦闘の
ヤ朝を経て、アッバース朝初期までの時期にあた
意味は全くなかった。心の中の悪と戦うことや、
る。結果論から言えば、大征服によってイスラー
社会的公正のために努力する、ということが意味
ム世界の「中核地域」ができあがり、世界宗教と
されていた。
してのイスラームが確立した。しかし、イスラー
マディーナにイスラーム国家が作られてからは、
ムは征服をめざして誕生したわけではないし、な
その防衛や軍事的な側面もジハードに加わった。
ぜ、大征服にいたったのかは、実はそれほど簡単
これを「剣のジハード」という。しかし、ウマイ
には答えられない。
ヤ朝を初めとして、後の諸王朝はこの「剣のジハ
ード」を国家の戦争の意味で用いるようになった。
どのようにして「大征服」が始まったのか
十字軍が「聖戦」であるというような意味で、イ
スラームのジハードを聖戦と訳するのは語弊が大
ヨーロッパでは、
「イスラームが剣によって広
きすぎると思う。
がった」と長らく信じられていた。イスラームは
実のところ、ムハンマドが没した直後のマディ
「右手に剣、左手にコーラン」の宗教であり、そ
ーナ政府には、それほど領土的野心を持っていな
うであるならば、大征服が生じたのもイスラーム
かった。というよりも、内部からの危機があり、
−−
それどころではなかった。ムハンマドの生前は服
としてイスラーム軍が勝利を続けたために、大き
属していたアラビア半島の諸部族がイスラームか
な版図がころがりこんだ、と言えそうである。ビ
ら離反したり、あるいは形式的に服属していただ
ザンツ帝国の当時の政治状況やビザンツ軍の戦
けの部族が反乱するなど、マディーナ政権はただ
略・戦術を詳細に検討した研究者の一人は「ビザ
ちに崩壊の危機に直面したのである。第1代正統
ンツ側の敗北は必然的なものではなかった」と結
カリフとなったアブー・バクルは、2年を費やし
論づけている。当然と言えば当然であろう。いか
て半島内の再統一に成功した。それによって、よ
なる戦いにも、あらかじめ決まった必然的な結末
うやく、アラビア半島の新生国家は生き延びたの
はない。イスラーム軍にしても、常勝だったわけ
である。
ではない。ただ、敗戦もあったが、イスラーム軍
ところが、第1回でも触れたように、当時の西
はよく組織され、注意深く戦略を練り、優れた戦
アジア・地中海地域は東のササン朝ペルシア、西
術を駆使していた。
のビザンツ帝国という2大帝国によって支配され
そこには新興国家として、生存を賭けた注意深
ており、アラビア半島に誕生した新生国家は帝国
さという側面もあろう。また、2大帝国は長年互
にとって脅威と考えられた。脅威は「小さい芽の
いに争い、疲弊していた面もあったし、アラビア
うちに摘むべし」というのは、大帝国の側の反応
半島から来た「装備もみすぼらしい軍隊」に対し
としては当然であろう。イスラーム国家の側でも
て帝国軍としての慢心もあったかもしれない。結
独立の覇気はあったから、属国として生き残る方
果として、イスラーム軍はササン朝ペルシアを滅
途はなかった。そもそも、属国になりたくても、
ぼし、ビザンツ帝国の版図の半分を奪うことにな
2大帝国が対立する状況ではどちらの属国になっ
った。その領域は現在に至るまでイスラーム地域
ても反対側から攻撃される運命にあった。
アブー=
となった。中東から北アフリカにかけてはイスラ
バクルが悲壮な決意をして北方の戦線に兵を送っ
ーム化のみならずアラブ化も進み、今日のアラブ
たのは、そのような状況下であった。
諸国に至っている。このように、正統カリフ時代
ところが、大帝国に対して、イスラーム軍は善
からウマイヤ朝時代の大征服によって、今日のイ
戦した。となると、帝国の側では、本腰を入れて
ラン、アラブ諸国、トルコから中央アジアにかけ
これを迎え撃つことになる。アブー=バクルの治
ての地域がイスラーム時代を迎えたのであった。
世は短く、第2代カリフ・ウマルが彼を継いだ。
ここで大きな政策転換があった。
アブー=バクルは、
イスラームという新しい統治原理
ムハンマドの没後に反乱した部族たちを恭順後も
信頼せず、彼らの参戦を認めなかった。それに対
しかし、ウマイヤ朝は、急速に発展した大きな
して、ウマルはこれらの諸部族も戦闘に加わるこ
版図を支配するために、支配者層のアラブ的紐帯
とを許した。先頃まであった内部対立を外部の敵
を重んじた。たとえイスラームに改宗しても、非
に向ける優れた政策というべきであろう。この政
アラブ人は「二級市民」の扱いを受けていた。つ
策転換は、新参の諸部族にも(勝利の際に)戦利
まり、実態を見れば「アラブ王朝」であった。ま
品の分与にあずからせ、征服者としての地位をも
だ、イスラーム帝国になっていない過渡期と言え
与えるものとなった。戦いは連鎖的に続くものと
る。それに対して、749年に成立したアッバース
なり、大きな兵力の動員が必要となったが、彼ら
朝は、民族・言語を超えたイスラームを原理とす
の動員によって、2大帝国との戦いに必要な兵員
る体制を確立し、厳密な意味での「イスラーム帝
が確保されることになった。
国」となった。
このあたりを見ると、大征服とは、当時の国際
理屈から言えば、
「民族を超える世界宗教」と
関係に起因する軍事的な対立の連鎖であり、結果
しての原理は、すでにムハンマド時代に成立して
−−
いたであろう。しかし、当時は、アラビア半島に
トワークの結節点として、繁栄を極めたという。
住むアラブ人ばかりが信徒であったから、まだ現
アッバース朝の最盛期は10世紀半ば頃までである
実レベルで真に多民族的なイスラームが成立して
が、残念ながら、史料から読み取れる往時の栄華
いたわけではない。その一方、大征服後のウマイ
は、1258年にモンゴル軍によってアッバース朝も
ヤ朝はアラブ人優先策を取ったから、多民族的な
ろともバグダードが灰燼に帰したたため、史跡と
現実は存在したが、イスラーム的な原理は後退し
してはほとんど残っていない。とはいえ、アッバ
ていた。両者を合体させ、イスラームという新し
ース朝が残した歴史的な影響はさまざまな形で確
い統治原理を貫徹したのが、アッバース朝だった
認することができる。
のである。
最初のグローバル化−イスラーム法
それは単に宗教的な原理というにとどまらなか
った。アッバース朝は、ウマイヤ朝の版図を継承
すると同時に、東西貿易ネットワークを大きく発
今日、グローバル化をめぐる議論がさかんであ
展させた。アッバース朝によって、初めて東アジ
るが、グローバル化を人類が一体化する過程とす
アから地中海に至るまでの広大な地域が恒常的な
るならば、その最初の段階はアッバース朝による
交易ネットワークで結ばれたことを系統的に研究
世界貿易ネットワークの確立であった。この王朝
したのは家島彦一氏である。氏の2冊の労作
(
『イ
は東西貿易の量と質を飛躍的に増加させ、恒常的
スラム世界の成立と国際商業——国際商業ネット
なものとした。イスラーム時代を扱う考古学では、
ワークの変動を中心に』1991年、
『海域から見た
たとえばエジプトの遺跡から、巨大な中国製の皿
歴史——インド洋と地中海を結ぶ交流史』
2006年)
が発掘されている。中国にはない大きさの皿は、
は、緻密な史料研究と広範な現地調査によって大
羊の丸焼きなどをのせて多人数で共食するための
きな「海域世界」の成立を実証している。
もので、明らかに特注品だという。つまり、イス
アッバース朝は、ササン朝ペルシアの交易圏で
ラーム世界の食習慣に合わせた製品をはるばる中
あったインド洋の海域と、ビザンツ帝国の交易圏
国で作らせ、中東へ取り寄せるような国際的な仕
であった地中海の海域を統合し、東西を結びつけ
組みがすでにできあがっていたのである。
る大きな交易ネットワークを成立せしめたのであ
確かに、後のモンゴル帝国がユーラシアを「面」
った。遠くの物産を大量に効率的に運ぶ方法は船
として統合した。しかし、グローバル化が「国際
による海上ルートであり、正確な季節風の知識と
標準」によって異なる地域を結び合わせていくも
航海術によって、新しい交易ネットワークが繁栄
のとするならば、
アッバース朝が貿易における
「国
することになった。
際標準」を推し進める働きをしたことに注目すべ
アッバース朝第2代カリフとなったマンスール
きであろう。つまり、モンゴルに先行するアッバ
は、この王朝の基礎を築いた人物であるが、その
ース朝は、交易と人的交流を基盤とするネットワ
最大の功績は首都バグダードの建設であろう。チ
ーク化によって世界の一体化を進めたといえる。
グリス川河畔に立てられた新都は「平安の都」と
その貿易ネットワークを支えていたのが、天文学
呼ばれ、766年に完成した。当初は直径2 . 35kmの
や数学、海域における航海術などのテクノロジー
円形都城で、三重の城壁に守られ、内円は直径
と、商業や契約システムを制御するイスラーム法
1 . 8kmの広場で、
その中心に「黄金門宮」と呼ば
という「ソフト」であった。アッバース朝は広大
れる王宮および中央モスクがあったという。都城
な版図の獲得、それを基盤とする海域世界の成立
の周辺には街区が発展し、やがて人口150万人と
と交易ネットワークの展開、それらを統合し運営
推計される世界最大の都市となった。
するイスラームという原理などによって、世界に
東西の要衝に位置するこの都は、世界貿易ネッ
大きな変化をもたらした。
−−
タ
ペ
を使って
ー
リ
ト
ス
イスラームの拡大
群馬県立館林女子高等学校 大 塚 貴 弘
ペストリー』は、あえて記載する情報量を削って
1.はじめに
でも、生徒に『考えることができる』工夫がして
1989年の冷戦終結、1991年の湾岸戦争、同年12
あるのが魅力である。
月のソ連崩壊など、国際情勢は大きく変化した。
私自身がプリントを使用しての授業を行おうと
また、2001年9月には 9 .11同時多発テロが発生し、
思ったときに、それが語句だけの記入にならない
アメリカは対テロ戦争を主張、アフガニスタンの
ように注意したのは、歴史を学ぶとは何なのだろ
タリバーン政権打倒、対イラク戦争や北朝鮮問題
うと常々思っていたからである。
「歴史は暗記科
など、平和とはほど遠い出来事が起こっている。
目ではない、歴史の流れを学んでいくことだ」と
こうしたなかでとくにイスラーム世界、イスラ
よくいわれる。確かにそうだと思うが、一方にお
ーム教への関心が高まっているが、果たして高校
いて、暗記科目という特徴は消せない。今まで私
生たちがどれほどイスラームのことを理解してい
が生徒のときに受けてきた歴史の授業を振り返り、
るのだろうかと問うと、いささか心許なく思って
どんな授業のときが楽しかったか想起すると、や
しまう。未来の社会を担う子どもたちにとっては、
はり語句を暗記しているときではなかった。私の
現在の状況を理解するために、現代の国際社会の
場合、暗記だけに終始する授業や語句の説明だけ
キーワードとしてのイスラームに興味関心を抱き、
で終わる授業、
「なぜそうなったか?」や歴史の
正確な知識を持って現代の状況や出来事の意味を
大きな流れが全く見えない授業のときには、退屈
考えられる力が重要となるだろう。
でつまらないと感じてきた。
さて、私の世界史の授業は基本的に授業プリン
私自身、あれこれ考えたうえで、
「なるほどそ
ト(手書き)と『最新世界史図説タペストリー』
うなのか」と思った授業が楽しかったし、それは
で進めている。プリント学習といっても単に空欄
現在の生徒だって同じだろうと思う。受験に向け
に重要語句を記入するのではなく、概念図や地図
ての授業や限られた単位数で進度を遅らせること
を取り入れ、整理して学習できるように工夫して
が許されない状況で、いつでもゆっくりと考えさ
いる。場合によっては色鉛筆等で地図に色塗りを
せる授業を行うことは難しい。しかし、少なくと
させたり、概念図や地図そのものを書かせたりす
も教師自身が生徒に考える場面を設定しようとし
る活動を取り入れている。また、適宜大型の写真
ない限り、生徒は歴史を学ぶ楽しさを味わうこと
図版(山川出版社)を生徒に示している。大型写
ができないのではないかと思う。限られた時間の
真図版は、歴史の一コマを生徒に印象づけるため
中で考えさせる資料を提供している点が『タペス
に適しており、ときには大型の写真を生徒に回し
トリー』の魅力であると私は考えている。
見をさせて興味関心を高められるし、あるいは、
次に、
『タペストリー』
を活用して、
イスラームの
単純に生徒の顔を教師の方に向けさせる効果もあ
拡大についての授業案を提示してみたいと思う。
るので、重宝している。
『タペストリー』
は「ヒス
2.イスラームへの興味関心を持たせるために
トリーシアター」が効果的と考えている。基本的
に、資料集は写真や説明、地図や年表の多さを売
本校は女子校であり、
とくに世界史への関心が
りにしている。もちろん、これは高校生の学習を
高い…ということはなく、
実際に世界史を受験科
援助するためには必要なことである。しかし、
『タ
目として3年生まで選択する生徒は非常に少ない。
−−
世界への興味関心・知識理解という点においては、
トが活用され、アラブ人商人が活躍したことに気
男子より女子の方が苦手にしているのではないだ
づくことができるようにする。次に、ムハンマド
ろうか。
そうしたなかで、
全員が必修する2年生に
という人物に焦点を当てる。
彼の出生や人柄、
結婚
おいて、
世界史への興味関心を持てる授業とはど
などを端的に説明し、
そのなかで預言者として自
ういうものなのかを模索している日々である。
覚していくストーリーを話していく。
そして、
『タ
イスラームを学ぶにあたって、
まず『タペスト
ペストリー』
p.109を活用して、
イスラーム教の信
リー』
p.108 のヒストリーシアターの〈よみとき〉
仰のあり方や戒律などを解説したりすると生徒は
に着目させる。
興味関心を持って学習できるようだ。
黒 海
ファシス
コンスタンティノープル
ス
ピ
海
説明する。
『タペストリー』
p108 ③と④を手がかり
ビザンツ帝国
サマルカンド
テ
メルヴ
ィ
グ
リ
ス
ササン朝ペルシア
川
地中海
ダマスクス
ユー
フ クテシフォン
イェルサレム
ラ
テ
ス
アレクサンドリア
川 ペ シーラーフ
シーラーズ
ヒ
ル
ナ
ジ
シ
ホルムズ
ャ
イ
ネジド
ア
ー
湾
ル
ズ メディナ
スミルナ
アンティオキア
川
紅
(ヤスリブ)
メッカ
アクスム王国
アクスム王
p.123
おもな交易路
次に、
正統カリフ時代からウマイヤ朝の成立を
カ ササン朝とビザンツ帝国の紛争地域
海
に、
とくにスンナ派とシーア派の成立とその対立
バクトラ
について、
現在のイラク情勢などのニュースにつ
エ
フ
タ
ル
の
支
配
領
域
いて発問し、
両派の対立が現代の大きな問題とし
て続いていることに気づかせるようにしている。
マスカット
アラビア
アラビア海
ト
ヒムヤル ラマウ
ハド
王国
アデン
ササン朝ペルシア
ビザンツ帝国
「タペストリー」p.108 よみときの地図
私はこの地図を授業プリントにも記載しておき、
導入として、生徒には地図に着色させることから
始める。<よみとき>の内容を発問し、生徒に考
えさせる。ヒント等を示し、生徒がビザンツ帝国
とササン朝の対立によって交易路が遮断されてい
「タペストリー」p.108 ③ ④
ること、交易の迂回路としてアラビア半島のルー
『タペストリー』p.16〜17 の世界全図を活用
しつつ、アッバース朝の成立や拡大、その特徴に
ついて説明する。また、バグダード・長安・平安
京を比較して、同時代にこの三つの都が繁栄して
いたことを理解させ、p.16 のネットワークナビ
ゲーターから、当時の世界の地域的な結びつきを
グローバルな視点から捉えられるように解説する。
さらに、イスラーム世界の生活様式やその文化
をp.111 を参照させて説明していく。イスラーム
イタリア
エーゲ海・
ギリシア
マグリブ
ネットワーク ナビゲーター
ライン川流域・
北フランス
イベリア
アルタイ山麓
トラキア
メソポタミア
ペルシア
西域 甘粛
アラビア
ムスリム商人
ユダヤ商人
空海
関内
ガンダーラ・
アフガニスタン
ベンガル
インド代数学
西アフリカ
日本
最澄
ギリシア哲学・科学
エジプト
鑑真
朝鮮
河北
ソグディアナ
シリア
紙
ソグド文字→
ウイグル文字、
マニ教
モンゴル高原
陰山・
オルドス
黒海沿岸 ヴォルガ河畔
ヒンドゥスタン
シンド・ 平原
グジャラート
雲南
中原
江南
広東
北ヴェトナム
阿倍仲麻呂
インドシナ
イエメン
インド・
東南アジア系商人
南インド
唐・ウイグル保護下
のソグド商人
中国商人・
遣唐使
ローマ教会
「タペストリー」p.109
東アフリカ
マラッカ海峡周辺
ジャワ
「タペストリー」p.16 ネットワークナビゲーター
−−
教がなぜ4人まで妻を持つことが認められている
徒が頭のなかで整理
のか、契約結婚という特質やチャドルを身に纏う
しにくいところであ
理由などには、生徒たちは非常に興味を示した。
ると思う。イベリア
こうした資料は、現在彼女たちが持っているイス
半島やエジプトにお
ラームの断片的な知識を整理して、興味関心を高
けるイスラーム国家
められる題材であると思う。そのうえでp.112〜
の変遷を説明すると
113の資料や大型写真図版などを用いてイスラー
きは、煩わしくはあ
ムの文化を歴史的に捉えさせると、興味関心を持
っても、その地域に
って学ぶことができるようである。
ついての簡単な地図
で説明することにし
グラナダ
後ウマイヤ朝・ベル
リントにまとめさせるが、授業のねらいとしては、
ベル人のムラービト
語句を覚えさせるというよりは、イスラーム文明
朝とムワッヒド朝、
にふれ、その水準の高さに驚きながらも「へぇ」
そしてナスル朝とア
と感心することができればよいと考えている。
ルハンブラ宮殿など
けいがい か
く。教科書にはたい
カリフ制形骸化し,
イスラーム帝国分裂
チャド湖
ニジェ
ー
ガーナ王国 ル川
ナ
イ
ル
川
カネム王国
紅
デリー
932∼1055
メディナ
メッカ
ヒンドゥー
諸国
海
アデン
0
アラビア海
2000km
10世紀
A
エチオピア
10世紀中頃のイスラーム世界
神聖ローマ
帝国
レコンキスタ
(国土回復運動)
ローマ
第1回十字軍 セルジューク朝
の興起地
ムラービト朝
マラケシュ
サマルカンド
カラ=ハン朝
セルジューク朝
バグダード
カイロ
イェルサレム
ファーティマ朝
1077 ムラービト
朝の攻撃で崩壊
紅
ナ
イ
ル
川
ニ
ジ
カネム王国
ガーナ王国 ェ
ール
エチオピア
川 チャド湖
アラビア海
0
カイロ
1169∼1250
紅
マリ王国
ニ
ジェ
ー
カーブル
バグダード
ゴール朝
アッバース朝
1148∼1215
メディナ
メッカ
アラビア海
0
C
カ
コンスタンティノープル ス
ピ
海
タブリーズ
ビザンツ
帝国 アッコン バグダード
カイロ
カネム王国
チャド湖
ル
川
アラル海
チャガタイ=
ハン国
イル=ハン国
アインジャールート 1258∼1353
マムルーク朝
メディナ
紅 メッカ
ナ
海
イ
ル
川
エチオピア
2000km
12世紀中ごろ
第4回十字軍
グラナダ
ナスル朝
ザイヤーン朝
ハフス朝
マリーン朝
11世紀
アラル海
カ
ス
海
カネム王国
ニ
ジェ
11世紀末イスラーム化
マリ王国 ール
エチオピア
1240∼1473 川
ローマ
2000km
B
ウルゲンチ カラ=キタイ
ピ
セル
海 ホラズム朝 (西遼)
ジューク朝
1077∼1231
アイユーブ朝
フランス
ガズナ朝
ホルムズ
メッカ
海
コンスタンティノープル
ビ
ザ
帝 ンツ
国
カーブル
ガズナ
メディナ
第3回十字軍
フランス
ローマ
コルドバ
フェズ ムワッヒド朝
1130∼1269
マラケシュ
ジェンド
コンスタンティノープル
ビザンツ
帝国
コルドバ
デリー=
スルタン朝
1258
アッバース朝滅亡
0
アラビア海 2000km
D 13 世紀
「タペストリー」p.114
イスラーム世界の変遷①
について解説してい
3.イスラーム世界の展開
カイロ アッバース朝 ブワイフ朝
909∼1171
トを整理させながら、
文化を学習させるときは人名や作品群を授業プ
756∼1031
ファーティマ朝
ている。授業プリン
「タペストリー」p.111 ①結婚と離婚 ②服装
アラル海
カ
カラ=ハン
ス
ピ サーマーン朝 840ころ朝
875∼999
海
∼1132ころ
ビザンツ帝国
ブハラ
アレッポ
地 中
イスファハーン
海 バグダード
黒 海
コンスタンティノープル
後ウマイヤ朝 ローマ
を板書して地理的状
況を把握させたうえ
神聖ローマ帝国
フランス王国
コルドバ
■トルコ人の西進
後ウマイヤ朝とファーティマ朝、アッバース朝
ていアルハンブラ宮
が並立し、アッバース朝が衰退してイラン系のシ
殿の「獅子の中庭」
ーア派王朝であるブワイフ朝がバグダードを占領
が出ているが、この
したということから始まる、イスラーム諸王朝の
写真と『タペストリ
興亡は、この分野で生徒が混乱するところである。
ー』p.135に あ る 宮
女子生徒の場合、政治の動きや国家の興亡は、
殿の全景を参照させ、
男子生徒よりもあまり興味を引かないところであ
アルハンブラという
p.114∼117
∼モンゴル高原からコンスタンティノープルまで∼
コンスタンティノープル
モンゴル高原
アナトリア
西トルキスタン
東トルキスタン
トルコ人の原住地
ガズナ朝(10∼11C)
(8C)
ウイグル(回 )
セルジューク朝(11C)
ハザール王国(8C)
オスマン帝国(16C)
カラ=ハン朝(9C)
現在のトルコ系国家(中国領内は「自治区」)
るようだ。あまり煩雑にならないように注意し、
のが<赤いもの>を
ブワイフ朝やサーマーン朝などイラン系民族が活
意味し、宮殿が赤く
躍した時代とカラ=ハン朝やセルジューク朝を代
見えるから命名され
表とするトルコ系民族が活躍した時代に分けて捉
たという説があることや、当該地域が現在のスペ
えられるようにしている。イスラーム世界の変遷
インであることなどを答えさせ、スペインには今
については、
『タペストリー』p.114 のイスラー
もイスラームの特色が残っていること、p.135 の
ム世界の変遷①を活用する。また、あわせてp.18
レコンキスタの地図を確認することでスペインが
の世界全図も参照させて、世界的視野から見たイ
どのように成立したのかについて少しだけでも説
スラームの動きと、とくにトルコ人の西進につい
明を加え、のちに行うレコンキスタの学習につな
て注目できるように解説する。内陸アジアで学習
がるように心掛けている。
した「トルコ化とイスラーム化の進展」の箇所を
エジプトのイスラームに関しては、カイロに目
振って、既習内容との整理・統合ができるように
を向け、8世紀以降にイスラームが作った都市が
心掛けている。
現在でも地域の中心となっていることが理解でき
イスラーム世界の発展に関しては、とにかく生
るようにする。また、サラディンに焦点を当てた
−−
「タペストリー」p.18
トルコの西進
授業を展開してみる。現在でもムスリムの英雄と
入としていく。コンスタンティノープル攻略とそ
して名を馳せているサラディンと、彼の好敵手で
の後のオスマンの発展については、
『タペストリ
ある獅子心王リチャード1世を比較し、彼らの対
ー』p.116〜117 を活用して説明し、授業プリン
立を描き出してみることで、生徒たちがイスラー
トを整理させることで理解できるようにする。こ
ム教とキリスト教の対立(十字軍)におけるイス
の場面に関しては、ビザンツ帝国の滅亡がどのよ
ラーム側の状況を、興味を持って学習できるので
うな意味を持つのかを、オスマン帝国の発展の始
はないかと考えたからである。十字軍側の状況に
まりという視点だけでなく、ヨーロッパ人はどの
関しては、のちにヨーロッパ史を学ぶときに提示
ように受け止めたのか、ヨーロッパにどのような
し、その際、イスラーム側の状況を復習すること
影響を与えたのかという視点からも捉えられるよ
で、学習内容の整理・統合と定着をはかる。この
うにすることで、
「ヨコ」の世界史を認識し、ル
ときの授業では、キリスト教とイスラーム教の対
ネサンス成立の要因としてのちに学習するときに
立が近代を経て現代においても、薄れていないこ
思い出せるように印象づけておきたい。
とをまとめとして設定した。
また、p.117 のオスマン帝国のしくみについて
基本的に、年表を逐次説明するような授業展開
整理させ、イスラーム教の異教徒への寛容な姿勢
よりも、人物や象徴的な出来事などをクローズア
を説明し、キリスト教の異教徒への姿勢との違い
ップして授業を行った方が、生徒の興味関心を引
を比較できるようにしている。また、時間があれ
くことができる。もちろん、進度や授業時数の問
ばモーツァルトやベートーヴェンの「トルコ行進
題で、毎回このような授業ができるわけではない
曲」などを聞かせたりしている。興味関心を持た
ので、どこにそうした授業を設定するのか、授業
せる手段として、私は音楽の教材を意識して使お
者は思案のしどころだろう。
うと心掛けている。精選を行いつつ、たとえば、
バロックやロココ時代以降の文化の学習や、アメ
4.オスマン帝国を教える
リカ国家やラ=マルセイエーズ、民族意識の高ま
モンゴルによるイスラーム世界への侵略とその
りに関して、ショパンやワーグナーなどは必ず聞
後に成立するティムール朝を整理し、トルコ=イ
かせるようにしており、生徒からの反応もよい。
スラーム文化の形成を理解させる。モンゴルの侵
近年出版されている『さわりで覚えるクラシック
攻を逃れたトルコ系遊牧民族たちがかつてのセル
の名曲50選』
(中経出版)などのシリーズが教材
ジューク朝の対ビザンツ帝国最前線の地域に移住
として使いやすい。
し、アナトリアに小規模な諸国家を建設、それぞ
5.近代のイスラームに興味関心を持たせるには
れがビザンツ帝国との戦争を行っていた。そのな
かで、頭角を現してきたのがオスマン帝国である。
ヨーロッパの近代化とアジアへの進出に対して、
オスマン帝国の成立と初期におけるティムール帝
イスラームの側がどのよう対応していったのか、
国に対する敗北→滅亡の危機→オスマン帝国の再
まず、衰退するオスマン帝国の状況を学習してい
建・拡大などについては、生徒も興味を持って聞
く。第二次ウィーン包囲の失敗と1699年のカルロ
いている。
ティムールについては、
『タペストリー』
ヴィッツ条約によってオーストリアに領土を割譲
p.115 のヒストリーシアターを活用した。
して以来、オスマン帝国はそれまでの攻勢から防
オスマン帝国を教える場合、コンスタンティノ
御に回ることになる。18世紀からのロシアの進出
ープル陥落・ビザンツ帝国を滅ぼす事柄はクロー
として、ヨーロッパ資本主義勢力の西アジア進出
ズアップして教えたいところである。既習したこ
を受けて、イスラームでは内部からの改革運動が
との復習として、ビザンツ帝国がどのような来歴
発生した。
を持った国家であるのか、その都コンスタンティ
この時代への興味関心を持たせるためにムハン
ノープルの歴史やアジアとヨーロッパ、東西の文
マド=アリーを取り上げてみた。彼の生い立ちと
明の交差点と呼ばれる景観などを生徒に示し、導
オスマン帝国内でどのように頭角を現してきたの
− 10 −
かを解説したあと、
『タペストリー』p.202 のヒ
や共和制の優越性を教える一方で、オスマン帝国
ストリーシアターを活用し、生徒によみときを発
を否定的、後進的に描くことが歴史授業の主軸の
問してみる。
ようであるが、近年、こうした動きを批判してオ
スマン帝国の寛容性や西欧化の原点としての側面
を強調する動きも歴史教育の現場で出されてきて
いるという。こうしたことは、日本の事例以外に
も、歴史教育が国や時代によって変わりうると生
徒に示す材料にもなるのではないだろうか。
「タペストリー」p.202 ヒストリーシアター
6.おわりに
さらに、このムハンマド=アリーとイギリス総
授業改善が叫ばれている今日、歴史の授業をど
領事キャンベルが何を話し合っているのか説明し
のように改善できるのだろうか。生徒に接してい
(この図は、事実上エジプトをオスマン帝国から
ると、学力は確実に低下しているように思えるが、
離れた独立国とし、オスマン帝国のスルタンの地
しかし、だからこそ日々の授業を改善していこう
位の転覆すら考えたムハンマド=アリーに対して、
という志向なしに生徒を伸ばすことはできないの
そうした行動に出ないように説得しているイギリ
だと思う。大学入試を突破するための学習は当然
ス使節団の図である)
、ヨーロッパ諸国のアジア
重要であるだろうが、私としては、生徒が世界史
進出とオスマン帝国の状況を広い視野で理解でき
への興味関心を少しでも高めたり、視野を世界へ
るように試みた。国家間の駆け引きやお互いに何
と広げて生きようと思ったりするだけでもよいと
を国益として行動しているのかなどは、女子高生
考えている。詰め込み的に語句を『暗記』させた
は苦手なのかもしれないが、それぞれの行動原理
あげくに、進学して社会人となって、世界史や世
を理解させることで整理して学ぶことができたよ
界の出来事や文化についてもう何も覚えたくない、
うだった。
何の興味も湧かないと思わせるような授業をして
オスマン帝国については、トルコ革命が大きな
はいけないと考えている。
山となるかと思う。ここでは、ムスタファ=ケマル
そのために、どのようにしたら興味関心を持た
を取り上げる。タペストリーのp.222を活用して、
せられるのか、
「へぇ」
と驚いたり、
「何故かなぁ」
現在のトルコ共和国の基礎を築いた人物であるこ
と考えられるようにするにはどのようなアプロー
とを示したい。また、私は課外の時間を利用して、
チが適切なのかと考えてきた。前述したが、
『タ
同時代に近代化をめざしたアジア国家ということ
ペストリー』のヒストリーシアターはよく吟味さ
で、日本とトルコを比較し、現在に至るその友好
れていて、活用しだいでよい効果が出る。また、
関係の歴史なども解説した。教科書から少し抜け
世界全図とともに掲載されている『ネットワーク
出たような授業は、生徒もよく反応しており、興
ナビゲーター』や『日本と東アジア海域』の図は、
味関心を高められたようである。ちなみに、現在
前者はゲームの地図のようで生徒は親近感が湧く
のトルコでは『トルコの父』への崇拝、世俗主義
であろうし、後者は生徒にとっては新鮮な切り口
で日本とアジアの関わりについて提示されており、
うまく活用してみたい図である。
我々教師は日常的に多くの業務を抱え、ゆとり
がない生活を送っているが、目の前にいる生徒た
ちにとってよりよい授業を展開するために、しっ
かりとした教材研究・授業研究をしていきたいと、
自戒を込めて、強く思っている。
「タペストリー」p.222 ヒストリーシアター
− 11 −
世界史 A 授業研究
異文化を理解するための世界史授業案〜イスラームの授業を通して〜
群馬県高等学校教諭
徒の興味・関心から考えて、
「イスラーム世界」
1. はじめに
の学習が一番適しており、かつ、必要であると考
文化的背景が異なる人々と接する機会が不可避
えている。近年、同時多発テロやイラク戦争、そ
である国際化社会の今、異文化理解は必要不可欠
してパレスチナ問題、またサッカーのドイツW杯
な資質である。民族的対立、宗教的対立も収まる
決勝の舞台で、ムスリムであるフランス代表ジダ
どころか深刻化する現代で、異文化を理解するこ
ン選手が頭突きで退場となる発端となった差別発
とのできる生徒を育てていくことが求められてい
言などイスラームに関することが現代社会の問題
る。そのためには自民族中心主義から文化相対主
となっている。そして、われわれ日本人は西洋側
義へということが一つのポイントになると考えて
の観点から知らず知らず物事を見たり、判断して
いる。しかし、今の生徒たちも含め人間は無意識
いるということが多いということにも気づかせた
に自分たちの文化を基準に物事を考えてしまった
い。このようなことから、私の場合「イスラーム
り、偏見を持ってしまっている。この構造に気づ
世界」を異文化理解の導入として位置づけている。
くことが重要である。
以下に紹介する授業は「導入−展開−まとめ」と
異文化を理解するということは、異なった文化
なっているが、世界史の授業における異文化理解
に対して正しい知識を持ち、正しい知識を知るこ
教育の「導入」として位置づいていることにも注
とである。そうであるならば、教える側は正しい
目してほしい。
知識を与えてあげればよいだけである。しかしそ
2. 導入
(15 分)
れでは不十分である。つまり、知識を系統的に与
えても、生徒が異文化を理解する資質が身につく
まず、生徒自身、無意識に偏見を持ってしまう
わけではないとほとんどの教師が感じているであ
こと、ステレオタイプに物事を見てしまうこと、
ろう。それでは何が足らないのであろうか。それ
そしてイスラームに対してもそのような見方をし
は学ぶ段階で生徒自身が自分自身の問題としてし
てしまっていることを意識化させるために、以下
て考えていない、自分が偏見を持っている(偏っ
のような発問をする。
た見方を知らず知らずのうちにしてしまってい
〔質問項目〕
る)ということに気づかないという点である。こ
1 あなたのイメージを答えなさい。
の状態でどんなに知識を与えても、間違った知識
眼鏡をかけている人は だ。
や考え方を変えようと生徒は思わない。だから、
2 イスラームに対するイメージを答えなさい。
まず初めに自分が偏見を持っている(無意識に持
①やさしいかこわいか ②合理的か非合理的か
たされている)ということに気づかせてあげるこ
③穏和か過激か
と、自分たちが当たり前だと思っていることが世
あくまで自分の直感、イメージで答えさせるた
界や他の文化ではそうではないということに気づ
め、考える時間は与えずにすぐ記入させた後、発
かせてあげること、現代の問題が自分自身にとっ
表させる。1の予想される答えは、眼鏡をかけて
て切実な問題であると気づかせてあげることが最
いる人は「まじめ」
「頭がいい」などが多いと考え
も重要であると考えている。
られる。答えが出た後、
「眼鏡をかけている人すべ
世界史では、学習内容の最初から異文化を学ぶ
てが『頭がよい』
『まじめ』だろうか?」と投げか
ことになるわけであるが、
「異文化理解という資質
け、そうではないことを生徒に認識させる。そし
を身につけさせる」という視点から考えた時、生
て、2の予想される答えは、イスラーム過激派に
− 12 −
よるテロ、また「西洋=合理的」というイメージ
るのはなぜか、発問する。そして、それらの言葉
から、①は「こわい」②「非合理的」③「過激」
がヨーロッパ経由で伝えられた、つまりヨーロッ
の割合が多いと考えられる。2の答えが出た後、
パでの呼び方が日本に伝わったためであると説明
1の時のように、
「イスラームはすべて『こわい』
する。
『非合理的』
『過激』だろうか?」と投げかけ、1
次に、世界でイスラームの信者の数、割合はど
と同様そうではないことを生徒に認識させる。こ
れくらいか発問する。数は約12億700万であるこ
のように生徒に自分の考えやイメージを意識化さ
とを説明(板書)
、割合はタペストリー四訂版
せた後、なぜわれわれはこのような偏った見方を
(p.59)で約19%、世界人口の5分の1であり、世
してしまっているのだろうかと投げかけ、下の2
界第2位の信者数を持つ宗教であることを確認さ
枚の絵を見せ、何に見えるかを考えさせる。
せる。
このように、知識
に関することでもで
きるだけ現在の学習
者とつながる現在の
ことを踏まえながら
授業を進めていきた
絵1 ルビンの杯 1)
タペストリー p.59
い。
絵2 妻とその母 2)
続いて、イスラームが生まれた背景について説
この2枚の絵は、見方によって2つの物が見え
明する。6世紀にビザンツ帝国とササン朝ペルシ
る(絵1は杯と向き合っている2つの顔、絵2は
アの対立で地中海東岸地帯の商業活動に支障が出
若い女性と老婆)というものであるが、どちらか
て、アラビア半島経由のキャラバンラインが繁栄
が見えるとそれしか見えずもう1つは見えなくな
する。とくに紅海沿岸のメッカを代表とするオア
ってしまうというものである。心理学的にいうと、
シス都市が中継貿易により繁栄することを教科書
人間は経験に基づいた(裏づけられた)知識(信
p.35の図を見ながら確認する。そして、その結果
念)で知覚判断をするということである。このよ
コンスタンティ
ノープル
うに2つの絵を使うことによって、人間は無意識
にある一方向から物事を見てしまうこと、つまり
中
アンティオキア
海
アレクサンドリア
いうこと、そして意識をして見ようとしないと2
つ見えないことを認識させる。生徒に「この偏見
ナ
イ
ル
川
の構造と、イスラームに対する自分の最初のイメ
ージを意識しながら、イスラームについて学習し
ペ
ル
シ
ア
湾
メディナ
紅
メッカ
ましょう」と伝えてイスラームの歴史に入る。
500km
アクスム
アラビア半島
ホルムズ
イ
ン
ダ
ス
川
アラビア海
アデン
ササン朝とビザンツ帝国
の紛争地域(6世紀)
おもな交易路
3. 展開
(30 分)
メルブ
ササン朝
ペルシア
イェルサレム
クテシフォン
海
0
642年 ニハーヴァンドの戦い
イスラーム軍,
ペルシア軍を破る
ササン朝ペルシア滅亡へ
カ
ス
ピ
海
海
ビザンツ帝国
地
生徒が自分も知らず知らず偏見を持ってしまうと
黒
622年ヒジュラ ムハンマドら,
迫害を避けメディナに逃れる
「明解世界史A 最新版」p.35
まず、イスラームの創始者は誰かと発問する。
アラビア半島の
教科書「明解世界史A 最新版」
を見れば、
「 ムハ
社会構造が変化
ンマド」
と答えるが、
「マホメット」と答える生徒
し、貿易で豊か
も予想される。
板書でムハンマドの隣に括弧で
「マ
になる商人とそ
ホメット」と書く。次に、イスラームの聖典は何
うでない者との
かと発問する。答えさせた後、これも同様に「ク
貧富の差が拡大
社会改革の必要性・新しい秩序や宗教の希求
ルアーン」の隣に括弧で「コーラン」と書く。そ
し、富をめぐる
タペストリー p.108
して、
「マホメット」
「コーラン」という呼び方があ
抗争や人々の助け合いの精神が希薄になってしま
− 13 −
ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争い
(メソポタミア付近の東西交通路遮断)
紅海側の陸海路の交易が盛んになる
ユダヤ教・
キリスト教の
流入
メッカ・ヤスリブの繁栄
(オアシス都市)
両国の衰退
(権力の空洞化)
貧富の差の拡大
部族の伝統の崩壊
った。それまでの背景をタペストリー p.108の図
ーム内部で対立しているのか、と生徒に問いかけ
で確認する。そんななかメッカに生まれたムハン
る。そして、その原因や問題解決の手がかりが過
マドは商人として隊商の旅に出ていたが、40歳頃
去、つまり歴史にあるのではないかと伝え、次回
神アッラーの啓示を聞きイスラームを創始した。
からさらに詳しくイスラーム世界を見ていこうと
そして、神の前では皆平等であるという考えが大
話をして授業をおわりにする。
商人などの利害を脅かすものとして迫害され、622
5. おわりに
年にメッカからメディナに移住した。これを聖遷
(ヒジュラ)といい、622年をイスラーム暦元年と
時間の関係もあり、今回の授業案では使わなか
する。こういった一連の歴史的事実を説明した後、
ったが、インドネシアで味の素が豚の成分を使用
教科書p.34の絵を見せ、
「なぜムハンマドの顔が
し問題になった事例や、数年前に九州で開かれた
けずられているのか」と発
アジア諸国によるスポーツ大会で主催者である市
問する。そして、イスラー
が歓迎の意を込めて各国の選手たちに振る舞った
ムでは偶像崇拝が禁止であ
土地の名物である豚骨ラーメンをムスリムの選手
ることを説明する。また、
が知らずに食べてしまい問題になった事例を導入
イスラーム圏の新聞を見せ、
部分で使い、生徒の興味・関心を高めさせ、正し
西暦とヒジュラ暦両方が載
い知識を知らないと今の国際化社会ではこういっ
せてあることを確認させる。
た問題がおこると実感させる入り方もある。
「明解世界史A 最新版」
p.34
そして「預言者」
「コーラン」
「断食」について
生徒に偏見を持っている(知らず知らずのうち
説明する。イスラームの特色である豚肉を食べな
に偏見を持たされてしまっている)ことを認識さ
いことや一夫多妻制、利子を取らない、結婚時に
せ、その原因を突き止めるために、そしてそれを
は契約を結ぶ点などにふれ、自分たちの価値基準
修正させる手段として過去(歴史)に手がかりを
とは違う点、勘違いしている知識を獲得させる。
求め、現在の自分の偏見や考えを変容させていく。
授業の導入時に生徒は自分自身が偏見を持って物
現代の問題を自分自身の問題として切実にとらえ、
事を見てしまう可能性があることに気づいている
その原因や解決策を探るために過去(歴史)に手
ので、これらの知識を説明するときも、これまで
がかりを求める。まさに「現在と過去との対話」
の自分の持っている知識と比較しながら説明を聞
である。異文化理解はいかに生徒に自分自身の問
いている様子がありありとわかる。
題として考えさせられるかどうかが鍵となってく
ると考えている。
4. まとめ
(5 分)
1時間の授業では、異文化を理解させるための
最後に、タペストリー p.252の「⑦炎上する世
仕込みがやや多いため、歴史そのものにあまり深
界貿易センタービルの写真」を見せて、どのよう
くふれることができない。また、歴史の内容を扱
な事件であったか発問する。答えさせた後、イス
った展開部分ではとくに目新しいことをしている
ラーム原理主義組織アルカイダがアメリカに対し
わけではない。しかし、1年間かけて異文化理解
て行った犯行であること、
教育をしていくという長いスパンで考えた時、そ
そしてその後アメリカはそ
の導入の授業であると位置づけるならば、そして、
の報復としてイラク戦争を
いかに生徒自身の問題として考えさせるというこ
起こし、日本もイラクに自
とを考えるならば、最初にこれくらいの時間をか
衛隊を派遣したことを確認
けて生徒の意識づけ、教授側からいえば生徒の意
する。そして、なぜイスラ
識が変容する「しかけ」をしっかり行いたい。
ームの過激派がアメリカを
攻撃したのか、イスラエル
と争いを起こしているのか、
また、イラク内ではイスラ
タペストリー p.252
参考文献
1)
齊藤勇編
『図説心理学入門 第2版』
誠信書房、
1988、p.14
2)
同上、p.15
− 14 −
世界史 A 授業研究
トルコ近代化の挫折 —ミドハト = パシャが挑んだものとは?−
神戸市立六甲アイランド高等学校 鵜 飼 昌 男
5章では植民地化されてゆく旧大国の一つ目にあ
1. 19 世紀の世界を概観して
たるトルコで、日本史とのつながりをもしっかり
アジアの専制君主国が次々と西欧諸国の植民地
と提示してゆきたい。
化にさらされてゆくなかで、オスマン帝国や清、
ムガル帝国を個別に見ていっても、2単位ものの
世界史Aでは、時間的な制約ばかりでなく、各地
域独特の地名・人名や事項に生徒の頭が翻弄され
てしまう。そのため、私は「明解世界史A 最新
版」2部5章では植民地化されてゆく国々の歴史
を先に略年表で比較対照し、共通する一つのポイ
ントを提示している。それは、近代化に取り組む
各国が「いつ自国の遅れを認識したか」である。
その国が自らの遅れを認識しなければ、生き残り
のための改革という動きは起こらないと。中国・
インド・トルコと各国を取り巻く状況は異なり、
遅れを認識する程度や質にも差異はあるが、基本
的なパターンとは「事件(遅れの認識)→改革(国
内問題)→挫折(内圧・外圧)→崩壊」といえよ
う。
「明解世界史A 最新版」p.113 ⑤ロシアの領土拡張
3. 展開①(遅れの認識)
オスマン帝国は多民族国家であった。少数のト
ルコ族が多数のアラブ族をはじめ、領土拡張とと
2. 導入(親日的なトルコ)
もに少数民族を次々と抱え込んでゆき、その分裂
新課程で学んだ中学校の地理歴史では、トルコ
要素を宗教別生活共同体とでも呼ぶようなミッレ
についても他と同様にほとんどふれられていない
ト制を導入して、緩やかな結合を維持していた。
ため、生徒にはなじみがない。その親日的な側面
このような国に仏革命の思想(自由と平等)が波
の要因となっている1904年の日露戦争を用いて、
及してくると、
「民族自立」運動と結びついて帝
ロシア帝国の南下政策に侵食されるトルコと、ア
国分裂の危険性が高まる。このような状況にロシ
ジアでの満州から朝鮮半島へと進出するロシアに
アの南下政策という外圧が重なるとき、オスマン
おおいなる脅威を感じていた明治政府との共通す
帝国の中枢部に危機感が高まってゆく。
る立場について、教科書の地図を用いて比較し、日
中国との比較で考えれば、西欧列強との戦いに
露戦争のもつ世界的なインパクトを理解させたい。
よって完敗する経験では相手国の強さは痛感でき
ともすれば、生徒は日本史の事項と世界史の事
ても、自国と何がどう異なるのか、自国の遅れを
項とを別の分野のものと考え、世界史Aで学ぶ近
認識することはあまりできないようである。清朝
現代史では、中学校までの基礎知識が十分生徒の
では最初の改革を推進するメンバーは、太平天国
なかで生かされていない傾向があると思われる。
の乱を鎮圧したゴードン指揮の常勝軍(外国人部
− 15 −
隊)とともに戦った郷勇の領袖たちであった。ト
点を理解させたい。
ルコの場合は、ロシアとの戦いよりは領土内のム
ハンマド=アリーが率いるエジプトの反乱によっ
西暦
て目を見開かされたといえる。敗戦経験が外側か
1822
ギリシア独立
らのインパクトとするならば、西欧社会を内側か
1831
2度の
ら見ることによって自国の遅れが認識されたとき、
〜 39
エジプト = トルコ戦争
改革の必要性とその方向性までもが具体的に見え
1839
ギュルハネ勅令
17 歳
※タンジマート開始
→翌年、官界入り
てくるのであろう。
「なぜ、エジプトを抑えられ
なかったのか?」と。
本格的な改革「タンジマート」のスタートが
1839年である点に注目させ、ナポレオンのエジプ
ト遠征(1798年)
、ギリシアの独立(1829年)
、2
1853
クリミア戦争
1856
改革の勅令
ミドハト = パシャの事績
法官の子として出生
1858
36 歳)欧州視察
1860
38 歳)パシャの称号授与
1861
度にわたるエジプト=トルコ戦争(1830年代)に
トルコ史の主要事項
スルタン(アブドゥル=
アジズ)即位
見られる「西欧との接触→影響」の違いを調べさ
せても良質の課題になると思われる。
1864
42 歳)難治で有名なドナ
〜 70
ウ州知事に就任。
その後、
バグダード州知事も経
験。任地では手腕発揮。
→一時左遷
1871
49 歳)首都に召還
1872
50 歳)大宰相に抜擢
→数か月で罷免
1874
52 歳)法相就任
→サロニカ州知事
→3か月で退職
「タペストリー」p.202 ②ムハンマド=アリー
1876
新スルタン擁立
(アブドゥル = ハミト 2
4. 展開②(ミドハト = パシャの生涯)
世)
タンジマートは1839〜76年までの約40年間も続
54 歳)スルタンの廃位擁
立に関係 →再び大宰相に就任
ミドハト憲法の制定
く西欧化改革であった。当時のスルタン、アブド
1877
ゥル=メジト1世はギュルハネ勅令を発して、政
治と宗教の分離をはじめ、近代的軍隊の創設など、
1878
イスラム教による緩い結合というオスマン帝国の
大前提をも揺るがしかねない方針を打ち出した。
56年にはクリミア戦争後の外圧によって、改革の
露土戦争→憲法停止
55 歳)スルタンによって
※タンジマート挫折
罷免→国外追放
アブドゥル = ハミト2世 欧州諸国を歴訪(改革
が議会停止=専制
運動を継続)。
→ベルリン会議
→ 81 年逮捕 1883
勅令も発布され、イスラムの原則である異教徒に
61 歳)流刑
→メッカの近郊で殺害
対する差別さえも覆されていった。この改革期間
1908
に有能な官僚として成長・活躍した人物が、タン
青年トルコの反乱
※ミドハトの死から25年
→ミドハト憲法復活
ジマートの成果として有名なアジア初の憲法「ミ
ドハト憲法」の起草者ミドハト=パシャである。
本校では2年次の社会科学系選択科目(学校設
彼の波乱の人生をたどりながら、帝国改革の要
定科目)として、
「世界史B」に連動した「人物史」
− 16 −
がある。そこでの実践例を応用するならば、人物
らみを持たせ、各単元にそれぞれ山場を作り出す
の一生と教科書の事項との対照年表を基本資料と
ことによって、生徒の興味関心を刺激してゆくこ
し、生徒に親近感を持たせるために人物の年齢を
とをめざす授業では、ミドハト=パシャの突然の
付記して何歳のときにどういう状況に置かれてい
失脚にからむ憲法制定前後の3か月間の動きを追
たか、どのような判断をしたか等をイメージさせ
ってみた。
ている。
ミドハト憲法は君主権の制限を嫌うアブデュル=
ミドハト=パシャの場合は、30歳代での半年に
ハミト2世によって、露土戦争を理由にすぐさま
及ぶ欧州視察が内側から西欧社会を見る経験とな
停止され、ミドハト=パシャも憲法の最後に盛り
り、40歳代での地方行政に携わった経験によって
込まれた「スルタンは安全を脅かされると認めた
帝国衰退の実情を認識したのではないだろうか。
場合、何人にもあれこれを国外に追放する権限を
さらには、中央官界での目まぐるしい人事異動に
保有する」という付則によって、憲法発布2か月
遭遇したことで、スルタンによる恣意的な政治に
後に王室専用ヨットで国外追放されたのである。
運命は翻弄されている。その結果、西欧諸国に見
スルタンの権力を制限すべくミドハト=パシャに
られるように、君主といえどもその権力には一定
よって起草されたこの憲法に、このような付則を
の制限が必要であると考えた。国民の声を政治に
入れることの無意味さに彼は気づかなかったので
反映するための「議会」によって君主権力を合理
あろうか? 彼は憲法を白紙に戻されるか、付則
的に制限し、トルコの近代化政策に安定性を持た
をつけて発布の認可を得るかという二者択一を迫
せようとするこの考え方は、1830年代後半の改革
られていたのであった。
派官僚の中ですでに現れており、タンジマート初
人物の歴史に視点を戻すならば、アブデュル=
期の40年に若手の官僚としてデビューしたミドハ
ハミト2世は2人のスルタンの廃立に関わったミ
ト=パシャにも影響があったと思われる。
ドハト=パシャを非常に警戒していたという。ス
それでは、君主は議会の決定に対してどの程度
ルタンの権力を制限する憲法を起草し、トルコを
従わなければならないのか? 議会にはどういう
再建しようとした彼は、合理的な敏腕実務家であ
基準で代表を選ぶのか? これらの新しい問題に
ったが、それ故スルタンの持つ感情的な陰影を見
答えるものが「憲法(国家の骨組みを記すもの)
」
抜けなかったのかも知れない。青年トルコによっ
である。
てミドハト憲法の復活がなされた25年後には、も
うオスマン帝国の再建が許される国際情勢にはな
5. おわりに(政治的なかけひきに敗れて)
かったのである。
世界史Aの内容を中学までの日本史と関連させ
て導入としたが、
「憲法」と近代化改革との関係
にまで話が進むと、さすがに中学の内容から敷衍
してくることは難しい。そこで日本史Aから明治
の自由民権運動の流れを引っ張ってきたい。1881
年に約束された10年後の国会開設に向けて、すぐ
さま政府側の伊藤博文が憲法調査に渡欧した事実
「タペストリー」p.203
⑤アブデュル=ハミト2世 ③ミドハト=パシャ
と照らし合わせれば、議会開設とその前段階に位
置する憲法制定という「順序」の意味が、トルコ
に見られる議会とミドハト憲法の関係を理解する
一助になるのではなかろうか。
世界史Aの簡略な記述のなかにも、教師側が膨
参考文献
バーナード = ルイス著
『イスラーム世界の二千年』 草思社
2001 年
新井政美著
『トルコ近現代史』
みすず書房 2001 年 第 4・5 章
− 17 −
中国史の奥の細道
はあるが、漢訳された仏典が圧倒的な影響力を持
ったといってよい。
これに対して、チベットは、ヒマラヤを越えて
直接インドから仏典を導入して翻訳を行い、大量
中国の西北角をゆく
のチベット語経典を生みだした。そして、インド
で展開した密教思想を導入したり、またチベット
古来の文化要素を取り入れたりすることで、個性
東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎
あふれるチベット仏教文化が誕生したのである。
これが、モンゴル人にも伝播し、また清朝皇帝の
庇護を受けることで、ますます大きな役割を果た
西寧の風景
すことになる。北京にいくつもチベット仏教の寺
省都といっても、西寧の街はやはり小ぢんまり
があるのは、そのためである。
している。ここは、青海省の政府がおかれている
黄河上流地域では、チベット仏教を信じる人々
し、最近は中国政府の内陸開発政策のため、変化
の多数はチベット族である。チベット族といって
は早まっているかもしれないが、それでも、一昔
も、チベット自治区だけではなく、四川省から青
前の少しのんびりした中国の街の雰囲気がまだ残
海省・甘粛省の広い地域に散在している。
っている気がする。
モスクを訪ねる
西寧は、黄河の一支流に沿ったところにある。
この西寧をふくむ青海省から甘粛省にかけての地
中国語でモスクのことを、清真寺という。たと
域には、チベット仏教やイスラームを信じる人々
えば、西寧の街の東のはしにあるモスクは、東関
が多く住んでいる。巨視的にいえば、現在の中央
清真大寺といい、その規模と歴史を誇る。
ユーラシアは、東西トルキスタンを中心とするイ
名前は「寺」であっても、モスクとしての役割
スラーム圏と、チベット高原・モンゴル高原を中
にかわりはない。つまり、集団で礼拝を行う空間
心とするチベット仏教圏とから成る。
この黄河
(支
を提供し、しばしばアラビア語(端的には『クル
流を含む)の上流地域は、その二つの文化圏がま
アーン』
)を学ぶための学校が附設されている。
さに交錯する場所といえる。
その建物時代の外観は、ほぼ中国の寺院建築に
ならって建てられたといえるものもあれば、全く
チベット仏教圏
西寧から少し離れたところには、チベット仏教
ゲルク派の名刹クンブム(塔爾寺)がある。寺域
には多くの僧が住んで修行に励んでいる。
チベット仏教と中国の仏教とはいずれも大乗仏
教であるが、その相違はまずは経典にあるという
べきだろう。仏教が中央アジア経由で中国に伝わ
ると、大量の漢訳仏典が作られた。とくに唐代の
玄奘が経典を持ち帰り翻訳活動を進めたことは有
名である。百済・新羅・高麗や日本に伝わった仏
典も、そのように漢訳された仏典にほかならない。
確かに、たとえばサンスクリット語の
『般若心経』
写本が日本の法隆寺に伝わっているといった事例
青海省西寧市の東関清真大寺
入るとまず立派なドームが建ち(次ページ)、さらになか
に入ると独特な寺院建築の礼拝場所がある(筆者撮影)。
− 18 −
アラビア式と
らいの人口があるとされるが、サラール族は10万
いう感じの丸
人程度、保安族は数万にも満たない。中国の少数
いドームに三
民族について考える場合、ついつい大規模な人口
日月をつけた
をもつ集団に注目しがちだが、このような小さな
ものもある。
民族集団がどのように成り立っているかにも関心
最近は、アラ
をもってゆきたい。
ビア風に建て
相互依存する人々
ることが多い
ようである。
甘粛から青海にかけての地域は、様々な民族、
モスクには、
とくにイスラームやチベット仏教を信じる人々が
アホンなどと
まさにパッチワークのように交錯して住んでいる。
称する指導者
青海省の西寧や甘粛省の臨夏(中国の小メッカと
が駐在してい
呼ばれる)は、ムスリムが多く住んでおり町じゅ
る。アホンか
うにモスクが建っているが、実は買い物に来たチ
ら話を聞いていると、だいたいイスラーム教学を
ベット族の人々も多く歩いている。
修めたあと、招かれてそのモスクに来たという経
チベット人とムスリムの経済的相互依存は、相
歴がわかる。
当以前から見られたと想像できるが、とくに19世
紀後半以降に新展開をみせた。天津で欧米との貿
様々な民族
易が始まると、中国西北地域のチベット族の人々
この黄河上流地域でムスリムの多い民族として
の飼う羊の毛が注目されることになった。良質な
は、まずは回族がいる。回族は、西域より渡来し
羊毛が西寧や臨夏に集められたが、それを商った
た人々の子孫という伝承はあるが、現在では、中
のはムスリム商人が多かったのである。チベット
国語を話している。もし漢族と区別されるアイデ
の牧民はこの商売で、麦などの穀物や綿布を得た。
ンティティがあるとすれば、それはまさにイスラ
異なった宗教が対立するというような図式は必ず
ームに求められる(新疆のウイグル族のように言
しも当てはまらず、むしろムスリムの集団どうし
語そのものが独自であるのと異なる)
。このよう
が抗争した事例も少なくない。
に回族にとってイスラームはとても大切なもので
西北角の未来
あり、私の目から見ても非常に信心深くまじめな
信徒に出会って感動したことは少なくない。
1930年代、中国では「西北建設」ということが
また、西寧から自動車で2〜3時間のところの
しばしば主張された。これは、日本の侵略に備え
循化を郷里とするサラール族の人々がいる。サラ
て、内陸部をしっかり経済的・軍事的に統合しよ
ール族は、かつてサマルカンドからやってきたと
うとする政策的意図に基づくものといえる。ジャ
され、チュルク系の言葉を持つ。伝説によれば、
ーナリスト范長江は、そのころ話題の中国の西北
西からきて住み良い土地に来たところで、駱駝が
部を旅して『中国の西北角』を著した。
止まってよだれを垂らしたという。そのよだれの
今日の中国の「西部大開発」は、むろん1930年
名残として、駱駝泉という清冽な泉があり、とな
代とは背景を異にする。しかし、依然として、複
りに立派なモスクがある。
雑な民族構成、沿海と内陸との経済的格差といっ
そのほか甘粛省の一部の地域に住む保安族や東
た課題が残っているとも考えられる。
郷族といった人々にも、ムスリムが多く、それぞ
多様な民族文化の協調と経済的発展とをどのよ
れの伝承と言語を持っている。東郷族は50万人ぐ
うに調和させるか。人々の智慧が試されている。
− 19 −
当地観光名所のひとつである。教会内に入ってすぐそ
南海寄帰内聞伝
の足下に縦約2m、横1m強の黒い墓石が祭壇正面に
ベンガル湾のアルメニア人商人たち
向かって埋め込まれている。これまでマラッカを訪れ
その4−マラッカに眠るヤコブさん
るたびにこの教会に入っている。しかし、知人から知
らされるまでこんな身近にアルメニア人が眠っていよ
追手門学院大学教授 重松伸司
うとは気づかなかった。
墓石はアルメニア語とオランダ語で併記されている。
それを抄訳すると次のような内容となる。
「わが墓石の銘板、目にふれし方よ! われ今この下
に眠る者なり/
わが同胞の良き便りと平安を知らしめよ、われ涙流し
て喜ばん/
この世を治めん良き守護者一人現われんことを/
離散せり子羊たちを守らん良き羊飼いを、この世に待
ち望みしが果たせず/
我ヤコブ、名を継ぎし誇るべき一人のアルメニア人、
アルメニア人が眠る黒い墓石
シャミールの孫/
ベンガル湾のアルメニア社会 2001年までの調査で、
わが両親永遠の眠りにつきし、ペルシアのInefa(Julfa
マドラス・カルカッタのアルメニア教会やシンガポー
近傍の異郷に生を受けし者なり/
か。
筆者注)
ルの国立図書館などの史料からいくつかの点が明らか
運命の導きによりて、この遥けきマラッカの地に至れ
になった。アルメニア人の活動は、オランダやイギリ
り/
スの交易範囲と重なり、アルメニア人の定住地がベン
わがことばのよしなしをしかとここにとどめん/」
ガル湾沿いのおもな商港都市に点在したことである。
ヤコブとはだれか 通史に照らせば、オランダ東イン
そのおもな居住地については、本誌の2004年10月号に
ド会社によるマラッカの領有は1641年に始まり、その
ふれた。ところが、マラッカにはアルメニア人がいた
後1795年まで続く。ナポレオン戦争の結果、旧オラン
のか、その居留地や教会跡がどうも見つからないので
ダ領は新たにイギリス領となり、マラッカもイギリス
ある。
東インド会社の支配下に入るのである。
マラッカ海峡沿いのシンガポール、ペナン、ジャワ
さて、このヤコブなるアルメニア人とは一体誰なの
島のスマラン、スラバヤ、バタヴィア(ジャカルタ)
か、いつからマラッカに居住し活動を行っていたのか。
にはアルメニア人居住地と教会があったことは明らか
祖父のシャミール、あるいは彼の両親がすでにマラッ
である。古来、東西交易の要であり、オランダが17世
カで活躍していたのか。クライスト・チャーチの創建
紀半ばから支配していたマラッカに、アルメニア人が
は、教会正面に明記してあるように、1753年である。
来なかったはずはない。推測はできるが、マラッカの
1774年7月7日になくなったヤコブ氏が、この教会に
州立図書館には史料がなく、周辺史跡を調査したが不
埋葬されたのはいつか。彼らは商人であったのか、あ
明。
るいは他の職業についていたのか…。これまでの調査
2002年2月、シンガポール在住の旧知の研究者か
では、マラッカに「アルメニア通り」の地名やアルメ
ら、マラッカの中心部スタダイスにあるクライスト・
ニア人居留地の痕跡、あるいはアルメニア教会跡は見
チャーチ内の敷石にアルメニア人の墓碑があると知ら
当たらない。現地での調査がまだ不十分なのか、ある
された。私はシンガポールからすぐにマラッカへ向
いは、痕跡を残さなかったのか、そもそもアルメニア
かった。
人が集団として居留・定住しなかったのか…すべてが
マラッカ、クライスト・チャーチの墓石 ピンク色の
不明である。
概観と正面上部に大きな十字架が描かれた教会は、ご
− 20 −
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