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タペストリーを使って 15 世紀ころの世界

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タペストリーを使って 15 世紀ころの世界
タペストリーを使って─ 15 世紀ころの世界
東京都立小松川高等学校 小 豆 畑 和 之
【発問:どちらが繁栄しているのか?】 副題から
1.はじめに
ヨーロッパに対するアジアの優位をおさえる。
タペストリーの特色である世界全図を生かし、
まず13世紀と14世紀の世界全図をみる(p.24∼
入試傾向にも対応した授業例を、タペストリー
27)。【発問:特徴は何か?】 するとユーラシア大
p.28「15世紀ころの世界」を題材に考えてみたい。
陸がモンゴルの勢力圏であり、さらに15世紀もタ
近年、本当の意味での「世界史」を追究しよう
タル・ティムール帝国という【発問:共通点は?】
という傾向が入試問題に見られる。つまり、細か
モンゴルの伝統を継承した国家がいまだ強大であ
い事項や年号にこだわった出題や、各国史(とく
ることもわかる。これらに対し【発問:両者に対
にヨーロッパや中国に偏った)より、グローバル
抗している勢力は?】 明が対抗している状況を把
な動きをテーマにしたリード文・出題という傾向
握する。
である。そこで今回のテーマである「15世紀ころ
明にとって最大の脅威は何か。当然北方の遊牧
の世界」と関連して、近年重視されるようになっ
勢力である。とすれば南方の兵力は薄くならざる
た「海域世界」という概念を留意点とする。なお
を得ない。その観点で全図をみると、【発問:東
今回は、すでに近代まで説明が終わり、そのまと
南アジアで前世紀との相違点は?】目立つのは黎朝
めとして、
「15世紀ころの世界」という授業を行
大越とアユタヤ朝の拡大(板書②に図示)である。
ったと仮定させていただきたい。また文中の【発
11世紀の全図(p.20∼21)をみるとアンコール朝
問】というのは、一つの例である。
カンボジアが強大である。次に13世紀の全図をみ
ると、モンゴルが雲南に侵入すると【発問:どの
2.15 世紀の概念把握
ような影響があったか?】 タイ人の南下がおこり、
ある時代を短いフレーズで表現することは、歴
スコータイ朝や次のアユタヤ朝によってカンボジ
史の流れを意識するうえで有効である。まず生徒
アが圧迫されている状況が分かる。同様に大越も
にp.28の世界全図を開かせ、
この時代のキャッチ・
チャンパーを圧迫し南下している。東南アジアの
フレーズを考えさせる。【発問:生徒に自由質問】
国家形態を、中継貿易で栄える港市国家と、平原
その後副題の「アジアの海に向けてヨーロッパが
を支配する農業国家に2分し、さらに14世紀の全
“船出”
」を板書し、以下のような図を書く。
①
ジャパヒト王国の拡大をあわせると、港市国家が
②
アジアの海に向けてヨーロッパが“船出”
ジェノヴァ
ヴェネツィア
ポ
ル
ト
ガ
ル
オ
ス
マ
ン
帝
国
ヨーロッパ
オスマン
イスラーム
明
図から、【発問:東南アジアで強大な勢力は?】 マ
タイ
明
農業国家に飲み込まれつつある流れが判明する。
大越
港市国家の生き残り策は何か。【発問:生徒に自由
質問】それがマラッカ王国と明のつながりである。
4.狭間で栄えるマラッカと琉球
交易路
マラッカ海峡はほぼ無風で、両側に暗礁が多い
VS
マラッカ
マムルーク朝
3.繁栄するアジア
海の難所である。当時の帆船では櫓のついた小船
に引かせ40∼50日かかるのが普通であったとイブ
ン=バットゥータが書いている。宝を積んだ大船
− 11 −
がゆっくり行くので、【発問:どんな事態が想像さ
問:いくつかあげさせる】 と、年表からコンスタ
れるか?】海賊の襲撃にはもってこいであった。
ンツ公会議が行われ教会大分裂が終了したこと、
そこでマレー半島を陸越えすることもあり、ある
百年戦争が終結したことで、英仏が複雑な領土問
地峡などでは船に荷物を積んだまま象に引かせて
題を解決し、国民国家としての姿をあらわしつつ
横断したという。この後触れるオスマン艦隊の山
あることがわかる。しかし年表からぜひとも答え
越えとの関連が推定される。アユタヤ朝の圧迫に
させたいのは、スペイン王国の成立である。
苦しんだマラッカ王は【発問:王が考えた手段は?】
6.イタリア都市とポルトガル・スペイン
明の鄭和と結び支配を拡大した。その後明が海上
消極策に転換したためマラッカは一時苦境に陥る
14世紀ヨーロッパ商業をリードしていたのはイ
が、アユタヤ朝との抗争に勝利した後、王はスル
タリア海港都市で、イスラム圏のディナール金貨
タンを名乗り、中国産品と東南アジアの香辛料の
に対抗して13世紀には金貨を鋳造し、海上保険も
中継拠点として繁栄した。同様に明の海上消極策
14世紀に始めている。【発問:p1333-Aを参照して、
により中継交易で繁栄したのが琉球である。
最も繁栄したのは?】 なかでもヴェネツィアは、
明は冊封関係を持たない国の船舶の入港を認め
シャンパーニュの大市を通じてドイツと結びつき、
ず、入港場も回数も国ごとに決めていた。たとえ
繁栄する紅海ルートにつながるマムルーク商人と
ば安南・ジャワは3年1貢、日本は10年1貢であ
の香辛料交易を【発問:誰の許可で?】、教皇から
ったが、琉球は当初1年1貢とされ、圧倒的に多
許可を得て独占している。
かった。琉球の交易に関連して、日本の対明勘合
当時のイタリア経済の好調を物語るもので、余
そ ぼく
貿易品目のうち興味深いのは、蘇木である。
裕があれば触れたいものが、麻とオリーブである。
蘇木は東インド産の植物で、日本の国産品では
14世紀以降麻織物産業がイタリアで勃興するが、
ないのに日本からの重要な輸出品となっていた。
麻は帆布(大航海時代)や油絵・版画の画材(ル
蘇木は古くから赤色染料または薬剤として用いら
ネサンス)にもなった。オリーブは魚との関連で
れていたが、鎌倉時代には宋からの輸入品であっ
ある。14世紀北欧ではニシンの塩漬けが、南欧で
た。しかし室町時代、明が成立すると貿易は一変、
はイワシのオイル漬けが流行していた。当時、加
明の海禁策によって琉球商人の台頭を招いた。琉
工した海産物は畜肉の端境期には貴重な蛋白質で
球は室町幕府へも遣使を盛んに行うが、この献上
あったためである。 品の中に日本が消費する以上の蘇木があり、これ
この繁栄を脅かしたのがオスマン帝国である。
が明や朝鮮に再輸出されたのである。
オスマン帝国はティムールに敗北したが徐々に西
方に進出し、コンスタンティノープル攻略で地中
5.ヨーロッパの状況
海東半と黒海を勢力下においた(板書例に記号
一方のヨーロッパはどうか。15世紀以前のアジ
を書き加える。おもな交易ルートをあらわす)。
ア勢力を代表する一つがモンゴルで、他がイスラ
これによりイタリア商人は大打撃を受けるが、彼
ム勢力であるわけだが、まずモンゴルから15世紀
らは西方に活路を見出そうとした。(板書例①に
にモスクワ大公国が独立、優位であったアジア勢
ヴェネツィア、ジェノヴァを図示する)14世紀に
力の一角は崩れている。しかしティムール朝はい
ジェノヴァはポルトガルとの関係を強め、イベリ
まだ強力で、さらにその後を継いだオスマン帝国
ア半島や北アフリカでの活動にシフトしていった。
は16世紀の全図(p.30∼31)をみるとマムルーク
【参考:2003年一橋大の問題】 しかし繁栄を誇った
朝も滅ぼし、15世紀はヨーロッパに対するアジア
イタリアも15世紀末【発問:p.280の年表参照】 フ
の優位がうかがえる。
ランスのシャルル8世の侵入に始まるイタリア戦
さらに細かくヨーロッパの状況をみてみる【発
争以降衰退していく。
− 12 −
大洋は結びつき、ヨーロッパ勢力による「世界の
7.ポルトガルの発展
一体化」が本格化する。14世紀イタリア海港都市
ポルトガルは13世紀にレコンキスタを完了させ
は地中海とアジアを結びつけ、15世紀ポルトガル
ていた【参考:2004年早大・政経の問題】が、常に
はイベリアとアジアを結びつけたわけだが、両者
隣国カスティリャとの関係に注意を払っていた。
の違いは何か。【発問:生徒に自由質問】イタリア
内陸部は荒地で農業に適さず、【発問:国名に含ま
海港都市がイスラム商人との平和共存を考えてい
れる英単語は?】 ラテン語のポルタス(港)+カ
たのに対し、ポルトガルは武力でイスラム教徒の
ラ(温暖な)にちなんだ国名の通り、人々は海岸
撲滅を考えていた点があげられる。これはポルト
地方に集まり、さらに14世紀以降はジェノヴァ商
ガルがレコンキスタの結果成立した国家であるこ
人に特権を与え結びつきを深めていた。ポルトガ
とに由来するが、そのような方針がポルトガルに
ルの海外進出【発問:海外進出の契機となったの
とって有利に働いた事項として、ヴィジャヤナガ
は?】は1415年のセウタ攻略に始まる。
ル王国の場合がある。この王国は【発問:どのよ
イタリア商人は北アフリカ商人との交易から、
うな王朝か?】 南インドのヒンドゥー王国であっ
【発問:p.119からアフリカの代表的交易品とは?】サ
たため、北のイスラム王朝との対抗上、来航した
ハラの奥地で金が産することを知っていた。その
ガマに友好的態度をとった。また明の海上消極策
ためヨーロッパ人は金の産地を発見しようとし、
が有利に働いて、ポルトガルは中国や日本に進出
徐々にその金はアフリカ西岸のギニアに集まるこ
していくことになる。
とがわかってきた。そこでモロッコをまわり、海
またヨーロッパ艦隊の優勢の理由として、陸に
路アフリカ西海岸に向かう動きが始まる。
おけるモンゴル軍優勢の理由を思い出すとわかり
ポルトガルはコンスタンツ公会議において、十
やすい。モンゴルは優れた機動力とそれを生かし
字軍(セウタ攻略)を提唱することで、自らの地
た戦術によってヨーロッパを圧倒したが、同じこ
位を高め、カスティリャとの交渉を有利に進めよ
とをポルトガルはイスラム艦隊に行った。また船
うと考えた。その実、セウタに集結する金、モロ
体の強度にも違いがあった。【発問:p.113ジャンク
ッコの穀物(ポルトガルは当時食糧不足に苦しん
とダウ船の説明を参照】 ヨーロッパと中国の船は
でいた)も狙いであった。
船体に釘を使うが、アラビアとインドの船は船体
その後ポルトガルは【発問:p.138の年表を参照
に釘を使わないため強度に差があった。ただし暖
して代表的人物は?】 エンリケ航海王子のもとで
かい海では鉄釘は腐りやすいという欠点もあった。
アフリカ大陸南下を推進する。
この後いわゆる
「コ
一方ヨーロッパ船は虫に侵されやすい樫を船材に
ロンブス・ショック」を経て、ガマによるインド
使い、インド船は虫に強いチーク材を使っていた。
航路開拓に至る。しかし、ポルトガルがアフリカ
中国人はこれらの事実を知っていて、東南アジア
西海岸を下って喜望峰に達するのに70年かかった
で利用する船を現地で作っていた。
のに、ガマが喜望峰をまわってカリカットに達す
8.まとめ
るのには10年しかかかっていない。これはなぜか。
【発問:生徒に自由質問】その理由は当時アフリカ
授業のまとめとして帝国書院『高等世界史B』
東岸は、イスラム商人にとっては既知の海域で
p.149がわかりやすいので、ぜひ参照させたい。
あったからである。ちなみにガマはこのとき、プ
最後に板書に戻り、交易ルートの変化(記号 )
レスター =ジョン【発問:p.138の年表を参照して、
を書き加え、イスラム世界が完全に主ルートから
どのような人物か?】 とカリカット王宛の親書を
外れてしまったことで、衰退が始まることを説明
携えて航海に旅立っている。
し、16世紀の説明につなげる。
こうして鄭和・コロンブス・ガマによって、3
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