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HIKONE RONSO_231_107

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HIKONE RONSO_231_107
107
〈研究ノート〉
カール・ヒルティにおけるGottesnahe
の思想と体験
明
水
地
宗
カール・ヒルティ(1833.2.28−1909.10.12)の愛読者には, ‘ゴッテスネーエ’
(神のぞぱ)は聞き慣れたことばであるが,その意味内容は,彼の著作を一読あるいは再
読して直ちに理解されうるほどに明瞭なものではないように,私には思える。この研究ノ
ートは,ヒルティの全思想の核心とも言えなくはないこの‘ゴッテスネーゴなるものに
ついての彼の陳述を,私の現在の能力と資源(文献など)に可能なかぎりで 批判を加
えることも,賛意を表明することもなしに 整理し解明しようと試みたものである。
なお,以下で引用されるヒルティの著書の題名とその略語,主として参照された邦訳書
などを,一括してあらかじめここに示しておこう。
略語
出版年
年令
題 名
G. I
189!
58歳
Gltick, Erster Teil(「幸福論」第一部,岩波文庫)
G. II
1895
6.?.
L
ユ896
63
Neur.
1897
64
G魏。々,Zweiter Teil(同上,第二部)
Lesen und Reden(「読書と演説」,角川交庫)
Uber Neurasthenie(「神経衰弱について」,白水社「ヒルティ著作
集」8所収)
G. III 1899 66
Glz∼盈, Dritter Tei1(「幸福論」第三部,岩波文庫)
SN.1 1901 68
Fur schlaflOSe!>漉漉, Erster Teil(「眼られぬ夜のために」第一
B,
1903 70
Briefe(「手紙」,(「ヒルティ著作集」6,但し「愛と希望」という題
NB.
1906 73
部,岩波文庫)
名で)
Neue Briefe(「新しい手紙」,「ヒルテ/著作集」7,但し「同情と
KA
信仰.1という題名で)
1907 74
1908 75
Kranke SeeIen(「病める魂」,「ヒルティ著作集」8所収)
Sub SPecie Aeternitatis(「永遠の相下に」,「著作集」8所収,但
し「永遠の生命」と訳されているQ)
108
彦根論叢 第231号
Geh.
1909 76 Das Geheimnis der Kraft(「力の秘密」,「著作集」8所収)
E.
1910 (残後)エ)as Evangelium Christ∫(「キリストの福音」,「著作集」9)
SN. II
1919 Ftir schlaflose Ntichte, Zweiter Teil(「眠られぬ夜のためセこ」第
二部,岩波文庫)
1 訳語 ‘GotteSnllhe’は従来‘神のそば近くあること’,‘神の近み’, t神の接近’
あるいは‘神の近接’などと訳されている。訳語を定めるためには,神が人間に近づくの
か,それとも人間が神に近づくのかという疑問をまず解決しなければならないようにも思
えるが,ヒルティは人間(あるいは魂)が神に近づくという言い方をすることも,その逆の
表現を用いることもあるので,どちらから近づくかということは重要でなく,Gottesnahe
という語自体は,この問題に対しては中立的な意味に理解されるべきだと思われる。しか
し‘神のそば近くあるこど という訳語は少し長すぎるし, ‘神の近み’は少々分かりに
くい表現であるので,やむをえず,ここでは場合に応じて‘神のそば’もしくは‘神の近
づき’という訳語をあてることとした。
2 反意語 ‘神の近づぎ’の反意語は‘神の遠のき’(Gottesferne)である。だが,
こちらの方は用いられる度数がはるかに少ない。なお‘神からの遠ざかり’(Entfernung
1)
von Gott)などの表現も用いられることがある。
2)
神の遠のきこそが,われわれをおそい得る唯一の大きな不幸である。
3)
〈恐怖の王〉は死ではなくて,許されることのない負目と,慰めのない暗澹たるGottesferne
4)
へ沈み行くこととである。
神の近づきと神の遠のきこそが人生における唯一の重要問題だということを十分に洞察するの
5)
が,すべての人生智の到達し得る最後の段階である。
3 同義語 ‘神のそば’あるいは‘神の近づぎとほぼ同義のことばとして,ヒルテ
ィによって用いられた表現が幾つかある。その一つが,「神の霊が人間の魂に宿る(住む)」
1)G.1,p,(訳書のページ)269, S.(筆者が利用した原書のページ)235.本ノートp.120を参照。
2)SN,1,7月26日。なお以下で引用される訳:文は,必ずしも邦訳書の訳文のまxではなく,か
なり多くの場合に,私自身の手が加えられている。
3) 「ヨブ記」18,14のことぽ。
4) A. p. 299, S. 23.
5) G.皿,p.355, S.353.
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 109
ということばである。
‘神のそば’(Nh’he Gottes)あるいは神の霊の或る人間の魂の内への‘宿り’(Wohnen),これ
こそ真にその魂の幸福を成すものである。この宿りは,まだ非常に不完全な魂の内に起きることが
できる。その魂がこの宿りを他のすべての善いもの以上に尊重する場合には,である。またそうで
6)
ない場合には,相対的に見て非常に完成した魂の内にも起きない。
人間的,自然的な霊(精神,Geist)とは全く異なった霊の人間の魂(Seele)へのこの独特の宿
り(内乱,Innewohnen)は,極めて個人的な或るものであり,伝達(文献)によって伝えること
のできない,いやそれどころか(いかなる方法でも)他人に十分目理解させることのできないもの
7)
です。
8)
いにしえのかの「神の友」には神が「住み」(wohnen)給うたのであり,神はそのような友と個
9)
入的に「つきあい」(verkehren)さえなされた。
正しい喜びの内的根拠は一これなくしてはそのような喜びも永続きできないのだが一人間の
もとに神が住むこと(das Wohnen Gottes bei den Menschen)である。これはつまり,神が彼
の神聖さにもかかわらず,われわれのぞぽにおられることができるための可能性なのであるが,神
はこの可能i生を探し求められる(sucht)ぽかりか,‘乞い求め’られ(erbittet)さえして,われ
われを深く恥じ入らせ給うのである。神的なるものとのあらゆる対立が消え去るところに,人生の
10)
真の喜びがあり,地上での大きな慰めがある。この「神との平和」を,これはやがてしだいに,不
断の誠実な友情のごときものとすらなりうるのだが,人間の魂は経験しなけれぽならない。さもな
il)
けれぽ魂は,内的な幸福とは何であるかを知らないわけである。
「神が住む」という表現はもちろん旧約聖書でしばしば用いられているのだが,その多
くは,人びとの間に住むとか,宿営に住むとか,シオンの山に住む.などと言われていて
個人の魂の内に住むという用例はなさそうである。とはいえ「申二二」33,12において.
モ八白はベニヤミンについて,こう語っている。
主に愛される者,彼は安らかに主のぞぽにおり,主は終日,彼を守り,その肩の間にすまいを営
まれるであろう。
6) SN. 1,1, 23.
7) NB, p. 396, S. 307.
8) アブラハムやモーセなど。B. p.272, S.220.
9) NB. p. 396, S. 307.
10) 「ロマ書」5,1にある表現。なお「コPサイ書」1,20を参照。
11) G.皿,p.71. S.60f.
110 彦根論叢第231号
「神の宿り」のほかに,「神との友情」(Freundschaft mit Gott),「神の友情」(Gotte−
sfreundschaft),「神との交際」(Verkehr mit Cott),「神との平和」(Friede mit Gott),
’12)
「’
_との結びつき」(Verbindung)なども,「神の近づき」とほぼ類義の表現である。
4 初出 ‘神のぞば という表現は,『幸福論』第一部の初めの方にはまだ出て来
ないようである(その思想が見られるか否かは別問題であるが)。私の気づいたかぎりで
は,第一部の第六論文「時間をもつ技術」において,初めてこのことぽが現われる。すな
わち,まずそこの本文に,
何らかの信仰をもつ人たちにとっては,その人生において彼らを見推てず,どのような苦難に際
しても,いつも彼らを慰めてくれるものが,二つだけある。すなわち仕事と愛が。
とあり,そしてその「仕事と愛」への,もしくは「愛」のみへの注とし,て,次のように
述べられている。
これは純粋に実践的に理解された場合である。より精神的に把握されるならぽ,生存のあらゆる
13)
悪をいやすこの万能薬は,神のそばと呼ばれる。
5 出所 ‘GotteSnhhe’という用語はヒルティ自身の造語であるのか,どこかから借
用したものなのか,私にはまだ分からない。ヒルティが引用している著老たちのうちでは,
ユダヤ人でラビであったSamson Raphael Hirsch(1808−1888)の『イスラエルの祈り』
(1895)の中に,かなりこれに近い表現が用いられ.ている。すなわち,
神がこの上なく崇高な存在だという思想は,罪深い人間にとって(魂を)揺り動かすものを何ら
含まないが,彼(神)がすぐそぼにおられるという思想(der Gedanke seiner unmittelbaren
14)
Nahe)はおそらく(罪人の魂を震憾させるであろう)。
しかしヒルティは「神のそば」ということばを,ヒルシュの『イスラエルの祈り』が出
版される以前から用いている。(但しヒルシュのモーセ五書への注解書を,ヒルティは早
くから利用している。)
12) しかし,「神との友だちづきあい(友情)」や「神との交際」は,神の近づきの最高の段階を意
味する場合があるようである。
13) G. 1, p. 203, S. 173.
14) G. ll,p. 349, S. 324 Anm.
カール・ヒルティにおけるGottesntiheの思想と体験 11!
なお旧約聖書にはGotteSnaheということぽそのものは見当たらないようだが,神が人
のそばにいるという言い方は.多くの個所に見いだされる。そのうちで,ヒルティ自身も
言及しているのは, 「申叢記」4,7である。
15)
われわれの神,主は,われわれが呼び求めるとき,常にわれわれに近くおられる。いずれの大い
なる国民に,このように近くおる神があるであろうか。
またこのほかにも,ヒルティは挙げていないようだが,旧約の次の個所などに,神が人
のそば近くにいるという思想が見られる。「イザヤ書」50,8,55,61「詩篇」34,!9;
l19,151;145,18;「エレミや書」23,23。
6 神のそばの思想と聖書 旧約聖書の次の個所には,「近い」とか「そば」という
ことばに用いられていないけれども,「神のそば近くあること」の可能性がとりわけよく
表現されている,とヒルティは言う。
人がその友と語るように,主は(会見の幕屋で)モーセと,顔と顔を向き合わせて語られた。
(「壌エジプト記」33,11)
わたし(神)は幕屋をあなたがたのうちに建て,心にあなたがたを忌み嫌わないであろう。わた
しはあなたがたのうちに歩み,あなたがたの神となり,あなたがたはわたしの民となるであろう。
(「レビ言己」 26, 11−12)
彼(モーセ)とはわたし(神)は口ずから語り,明らかに言って,謎(幻や夢など)を使わない。
彼はまた主の形を見るのである。(「民数記」12,8)
主がわたしたちと共におられますから,彼らを恐れてはなりません。(「民数記」14,9)
わたし(神)はイスラエルの人びとのうちに住み,わたしの民イスラエルを捨てることはない。
(「列王紀」上,6,13)
また新約聖書にもGottesnaheという語は見当たらないが,それにかかわる思想を含む
個所としてヒルティがしぼしば言及するのは,次め二つである。
15) 「近くおる」の原語(ヘブライ語)はqar6v(ドイツ語のnaheに相当する形容詞)である。
Septuagintaのギリシア語訳ではengiz6n(‘近づく’の意の動詞engizeinの現在分詞)が用
いられている。
112 彦根論叢第231号
(a)しあわせだ,心の清い入たちは。彼らは神を見るだろうから(ton theon opsontai)。「マ
タイ」5,8。
なお,この個所に注してヒルティはこう述べている。
これが本当に神を見る唯一の許された道であって,他の方法で人間が神に近づくことは許されな
16)
い。 (ダンテr神曲』天国篇,7,58を見よ)
別の所で彼はこうも言っている。
地上において神を見,万物の関連を本当に認識するためには,ただ一つの道しかないが,すべて
の哲学者がこの道を歩んだとはとても言えない。それは「マタイ福音書」5,8に示されている道
である。もしあなたが神についての単なる報告以上のものを望むのであれぽ,この道を試みなさ
い。この道によって,ただこれによってのみ,例外なく,神はそのとき幾分神に似て来た人間の魂
に,一切の疑いの余地がないほどに近くまで寄ることができるのであるQもしある哲学者が,自分
は自己の認識能力の中に神のどのような痕跡も見いだすことができぬと言うならば,彼は自分自身
17)
に対してある宣告を下したのである。
彼はまたこうも言っている。
日清(Gesinnun9)が清らかになるにつれて,超感覚的なものを見る視野も広くなってゆく。そ
れはちょうど,心(Herz)が堕落してゆくにつれて,単に自然的日常的でないすべてのことを理解
18)
する力が閉ざされてゆくのと同様である。
極めて優れた人間の最高の精神的(知的)活動といえども,人生のすべての謎を解くには不十分
であり,時にはそれは邪道と破滅の渕のすぐ近くまで人を連れて行くのである,もしも人間の精神
19)
が十分に浄化された結果,神の精神と不断に近くで接触できるのでないかぎりは。
なんらの危険も損害も伴なうことなしに,実際に(いわゆる神秘的体験によるよりも)もっと多
く神のそばに,つまりそれ(神のそば)の本当に明瞭な感覚と,彼の永遠なる本体(Wesen)への
より明晰な洞察とに到達するためには,ただ一つの手段がある。それは「マタイ福音書」5,8で
言われたものである。しかもこの〈見神〉によって,単に来世におけるそのようなもの(見神)が
ではなくて,疑いもなく地上で可能な何かが意味されているのである。だからあなたが内的生活に
16) E. p. 87. Cf. G. ll,p. 250, S. 235f. Anm.
17) G. 1, p. 260, S. 227 Anm.
18) L. p. 106, S. 65f.
19) L. p, 108, S. 67.
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 113
おいて(そしてまたしぼしば外的生活においても)何か特別なもの,普通でないものを経験するこ
20)
とを欲するのであれば,安んじてこれを試みなさい。
次に,「マタイ」5,8のほかに,「神の近づき」との関連でヒルティがしばしば言及
する『新約』の個所は,「ルカ福音書」11,36である。この章旬は,多くの注解者が理解
することが困難であると告白しJヒルティ自身も,これはまだだれも正しく解釈したこと
のない個所であると付言しているほどのめんどうなものであるが,とにかくヒルティはこ
の個所を通常の訳とは少し論ったふうに訳しているようである。
(b)あなたのからだ全体が,もはや暗い部分を少しも残さないほどに明るいならぽ,そのからだ
自身が輝くばかりか,あなた(の精神)をも照明するであろ)i‘、一閃の輝く電光のよ鑓こ。
そしてこの個所に関して,ヒルティは次のように述べている。
われわれの最良最深の思想には,つねに電光に似たところがあり,そしてこれらの思想は,人間
存在のふだんは固く閉ざされている一領域の全体をしぼしば突如として見渡すことを許してくれる
が,しかしその領域は同様にまた急速に暗黒ないし薄明(半暗黒)の.内へ沈み去るのだが,この電
光性が,それ自体いくらか暗くて謎めいたこのことば(すなわち「ルカ」11,36)のうちに,非常
によく表現されている。このことぽはわれわれに一つの道をさし示す。だがただ一閃の電光のよう
にである。 (中世の最大の神学的著作家トマス・アクィナスについて,次のようなことが伝えられ
ている。彼は死の直前,真理の啓示を神から受け,自分の全著作がこの啓示の前では無内容(in−
haltlos)であるように感じたと。全く似たようなことが,ロラン夫人(Madame Roland,1754−
21)
1793)の伝記にも出て来る。)
真の聰明がなんであるかを述べた福音書の最も著しい個所の一つがこれであることは,疑いな
い。それは人間自身の内にそれに抵抗するものが何もなくなるやいなや,たいてい突然,いなずま
(電光)のようにむこうからやって来るものである。われわれの真に良い思想はことごとく天与の
ものであって,求めて得られるものでも,学んで得られるものでもない。われわれはただ「聞く耳
22)
をもち」,このような告知を受け得るように,またわれわれの耳をふさぐ障碍を取り去るように,
たえず心がけていさえすれぽよい。なぜなら神の霊はいつも細い声で語るから。これに反して,わ
れわれが自分自身のなかで育てたり,人から貰ったりするようなものは,すべて貧弱なまがいもの
23)
である。
20) G.皿,p.36, S.31,
21) L. p. 107, S. 66 Anm.
22) 「マタイ」11,ユ5;13,15一一・16.
L23) E. p. 212.
114 彦根論叢 第231号
人間のからだ全体が明るくなれぽ,すなわち純動物的なものをもはやもたなくなるならぽ,それ
は精神(Geist)をも明るくし強めるであろうということぽは,かって身体について語られた最も
24)
意味深いことばであって,将来の医学にとってその基本的な信仰箇条となるであろう。
7 神とは何か 神学であれ哲学であれ,その他の何であれ,人間の営む学問が神を
定義することはできない,とヒルティは言う。
キリストですらこれについては「ヨハネ福音書」4,24に見られる以上に自分の見解を詳しく述
べたことは決してない。……同様に全旧約聖書も,
「出エジプト記」34,6−7の実に美しい個所
25)
以上に立ち入った説明を収めていない。
ところで「ヨハネ福音書」4,24には「神は霊である」(ギリシア語原文では,Pneuma
ho Theos,またVulgataのラテン語訳では, Spiritus est Deus)と述べられているが,
ヒルティはこの個所に注して,こう書いている。
これは「出エジプi・記」34,6−7とともに,神のく本性〉について語った一そう言ってよけ
ればだが一軍書中唯一の句である。キリスト自身は決して……神を〈定義〉しょうとはしなかっ
Z6)
た。
ちなみに「出エジプト記」のその個所にはこうある。
主は彼(モ・一一セ)の前を過ぎて宣べられた。「主,主,あわれみあり,恵みあり,怒ること遅く,
いつくしみと,まこととの豊かなる神,いつくしみを千代までも施し,悪と,とがと,罪とをゆる
す者,しかし罰すべき者をぽ決してゆるさず,父の罪を子に報い,子の子に報いて,三,四代にお
27)
よぼす者」
なお神の定義不能性,不可捉性について,ヒルティはさらに次のように述べている。
神というものが存在すること,そして完全さと善良さ(Gttte)が彼の本質であるという事実だけ
で,われわれt/こは,この地上の生活に関するかぎり,十分でなけれぽならない。われわれは神を把
握する(begreifen)ことも,定義したり公式的に表現する(formuIieren)こともできない。だが
24) SN. 1, 5, 13.
25) SN. 1, 1, 27.
26) E. p. 82.
27) とりわけ性的な事柄に関して。
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 115
28)
神を愛す.ることはできる。
しかし人は,神についての思考(Denken)によって彼(神)に近づくことはできませんし,そ
もそもいかなる表象をも全然もつことができません。そのようなもの(それらの表象や思考)は余
りにも漠然としたものです。唯一の近似的な記述は,「出ニジプト記」34,6−7に一もしかし
たら「民数記」ユ2,8にも一および「ヨハネ福音書」4,24にあります。神はひとつの「霊」で
すが,しかし汎神論的なひとつの「全」(ein All)ではありませんし,ましてや単なる概念ではな
くて,ひとが共に生き,交際の相手とすることのできる,ひとつの霊であるのです。これ以上のす
べて(の規定)をあなたはお止めなさい。そして(神への)近づきを,それについての研究によっ
29)
てではなくて,行為と愛によって試みなさい。
8 ‘神の近づき’は見神でない 神秘主義ということばはあいまいである。ヒルテ
ィは一一つの意味ではそれを肯定し,他の意味ではそれを否定しているようである。いずれ
にせよ,彼の説く「神の近づき」は,少なくともその最も重要な意味においては,神秘主
義的な見神(Visio Dei)を意味するのではない。「マタイ」5,8の「心の清らかな人は
神を見るだろう」ということばも,いわゆる見神を意味するわけではない。
人は神を見る(sehen)ことはできません。それはすでに「旧約」の注目すべきことぽ(「出エジ
プト記」33,18−20)の語っているところであり,キリトスですらも,彼の生存噌こは,われわれ
に許されているのとは本質的に違った別の仕方で神を認識する(erkennen)ことができたわけで
30)
はありません。
「出エジプト記」33,20では,ヤ・・ウェばモーセにこう告げている。「君は私の顔を見
る(ヘブライ語でra’ah.ギリシア語訳ではidein)ことはできぬ。私を見て生きている
人はいないからである。」また「ヨハネ福音書」1,!8でもこう言われている。「いまだか
つて神を見た(he6raken)人はいない。父のもとにいる独り子である神(イエス),この
かたが神を示したのである」(共同訳)。
なおヒルティは「神を見る」ということばに,感覚的に見ることだけでなく,科学的な
意味,あるいは法律上の意味で証明することをも含ませていたようである(B,P.149参照)。
説明できないということが神の本質に属する・さもなければ神は神でなく,神を説明しうる人間
28) SN. 1, 1, 27.
29) NB. p. 3e4, S. 236.
30) B. pp. 149f. S. 119.
116 彦根論叢第231号
は人間でない。神を見る(schauen)ことでなく,むしろ地上のもの,人間のことを正しい仕方で,
31)
いわば神の目をもって見て理解することが,明らかにわれわれの人生目標である。
なお,神秘主義的体験における忘我もしくは,胱惚の状態(Ekstase)については,ヒル
ティは,それは発熱あるいは神経錯乱の状態であり,身体的にも有害であると言ってい
る。彼の言う「神の近づき」は,そのようなものとは異なった,全く独特な,静かで平和
32)
に満ちた感情であると。
9 神の近づきの種類 神の近づぎには三通りのものがある,とヒルティは(あるい
はむしろ,ヒルティの引用する著作家たちは)言う。したがって「神の近づき」という語
は多義的であるが.通例彼がこの語によって意味するのは,このうちの第一のものだけで
ある。
これ(ある種の神秘的体験)に関して神秘主義的な著作家たちは次のように述べている。すなわ
ち,神とのより近しい結びつき(nahere Verbindung)に々ま三通りのものがある。(1)すでに旧約
聖書が挙げているような,(神への)服従と誠実な愛による全く正常な結びつき。常に(それへの
道が)開かれており,神の意志に反対する自己自身の意志以外の何ものも中断しえない合一(eine
Vereinigun9)。しかも(中断した場合)同意する(自己の)意志が再び成立するや否や,直ちに
回復する合一。(2)祈り(Andacht)による異常な結びつき。……(3)さらにもっと感覚的な,たいて
いの場合に全く予期されずに到来する神の近づき(GotteSnahe)。これはしかし,以上三つのうち
33)
で,内面的進歩のためには,最も少なく必要かつ重要なものである。
キリストといえども一一そうした(神秘主義的な)著作家のひとりが言っている一この第三種
(の神の近づき)を常セこはもたなかった(彼の臨終の日にすら,もっていなかった)。また第二種
のものをば,しばしば,静かな夜にただひとり山上にいて求め(suchen)ねばならなかった。しか
34)
し彼は第一種のものをば常にもっていた。だから,われわれもこれを最も多く求めるべきである。
10程度の差 神の近づき(第一種のそれ)には程度の差がある。しかも.ある段階
の‘近づぎに達し得た人が,その後もずっとその水準を維持できるとはかぎらない。ま
た内容的にも,神の近づきは万人に対して一律のものではない。
31) G. 1, pp. 259f., S. 227.
32) G.1,p.141, S.115;G.皿, p.36, S.31, p.331, S.330;SN.
K. p. 350; L. p. 98, S. 60 Anm.
33) G. ll,p. 301, S. 283.
34) G, g, p, 302, S. 283 Anm.
1, 5, 11; SN. ff,4, 13;
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 117
‘神の近づき’には非常に多くの段階(sehr viele Stufen)があり一それらのうちのどの段
階も,先行する段階にとっては十分に理解できるものではありません一しかも,共通的なもの
35)
(要素)と並んで個人的なもの(各人それぞれで異なる要素)を多分にもっています。
あなたがより大きい神の近づき(gr6ssere Gottesnahe)に到達するのを妨げる一切のものか
ら,あなたを,それをなし得るだれか(つまり神)によって解放させるだけの覚悟があなたにでき
36)
ているかどうか……。
ところで,神の近づきの程度が大きいか否かは,われわれの側の事情で決まるのであ
る。その意味では,神がわれわれに近づくというよりも,むしろわれわれが神に近づくの
である。
神の近づきは,ここ地上でのわれわれにとっては,いつでも同じふうに不断に継続する状態では
なくて,雲が,あるいは少なくとも霧が間を妨げるのに応じて,時にはより明るく,時にはより暗
くなるような一つの陽光である。…・・この精神的太陽(それ自身)は不断に輝いているのである。
37)
何かがそれとわれわれとの問に入り込むことはあっても。
そしてこの神の近づき,言い換えると神の霊の人間への宿りは,キリス旨こおいて最高
度に実現されたのだという。
一・彼(キリスト)の内にこの宿り(Wohnen)が,およそ考えられうるかぎりの最高の程度に
38)
まで起きた。
39)
11神の近づきを実現させる方法 まず,神がわれわれに近づくのに妨げとなるもの
を取り除かねばならない,とヒルティは言う。
ここ(魂の完全な平安)にまで達するのに必要であるかぎりの全ての宗教の,その本質的な部分
はしごく単純なものであり,今ではもう理解されなくなったこの(宗教という)語そのものの内に
40)
本来は含まれているのである。それは,われわれが神との結びつき(die Verblndung mit Gott)
35) B. p. 223, S. 179.
36) G.皿,p.42, S.37.
37)G.皿,P.355, S.353.なおこの点は,例えばプロティノス哲学における〈一通〉のわれわれ
への臨在も,同様である。
38) G.fi 」p.72注, S.61, Anm.
39) この方法については,上の第6節(pp.112−4)の記述をも参照。
40)一説によると,ラテン語のreligioの語源的な意味は,〈縛る〉,〈結ぶ〉であるQ
118 彦根論叢第231号
のために,常に注意深く(道を,障害物のないように)広々と明けておくという点に存する。これ
は,われわれの側からすると,それに対して障害となるすべてのものを断念しながら,それに対し
て絶えず(積極的な)善き意志をも.ち続けることによって,行なわれる。これは聖書が「神を求め
る」 (ヘブライ書」ll,6)と呼んでいることにほかならない。ぞうすれば神もまた「思いがけな
く」やって来て,「われわれに多くの善きことをして下さる」のである。彼を極めて不完全にしか
知らない人びと(実はすべての人がそうなのだが)のもとにすら,彼は来て下さるのである。もし
彼に対する心(Herz)の誠実な希求がありさえずれば。
’ 41)
だから,あなたと神の力との間に横たわるもろもろの障害(Hindernisse)が,まず取除かれね
ばならない。それらがそこにあるかぎり,神はあなたのすぐそばまで近寄ることができない。そし
てこれこそあなたが自分の意志に従ってみずから行なわねばならぬことである。このことには,代
理はきかないのである。
で,まさにあなたの場合に,特にどのような障害があるのかは,あなた自身が全く正確に知るこ
42)
とができる。もしもあなたがそれをさとろうと望みさえずれば,である。
この或るもの(神とわれわれとの間を隔てるもの)とは,神の意志に対立するわれわれ自身の意
43)
志にほかならない。それは従来の神学が‘罪’と呼んで来たものである。
より具体的には,障害は例えば次のようなものである。それは要するに我意あるいは我
欲(Eigenwille, Eigenliebe, Selbstsucht, Egoismus)である。
最も普通に見られる障害は次のものである。心配,貧欲,虚栄,名誉心,享楽欲,入間に対する
恐怖,憎しみ,あるいは不当な愛,そしてさまざまな形での盲目的な我欲(Selbstsucht)である。
44)
これ(我欲)こそ,以上すべてのものの共通の基盤なのである。
では,その‘エゴイズム’
はいかにして克服されるべきであろうか。これこそ実践的に
は最重要の問題であろう。
だから,それ(我欲)が除かれねばならない。自分はそれを欲するのだが,しかし自分tlこはでき
ないのだ,と言ってはならない。後半(できないということ)は,それ自体としては正しいであろ
う。さもなくて,以上のすべて(の障害)から自力で自己を解放できるのであれば,おれわれは或
る一一・・つの理性的な哲学を必要とするだけで,どのような宗教もいらないことになるだろう。これは
すべての‘倫理家’(Ethlker)の見解であり,重大な実践的誤謬である。
41) G ll,pp. 352−3, S. 326f.
42) G.皿,p.41, S,36.
43) G. M, p. 355, S. 353.
44) G.皿,p.41, S,36,
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 119
しかし問題は実は‘できる’(K6nnen)にあるのではなくて,‘欲する’(Wollen)にあるのだ。
45)
16世紀のある有名な聖女がこう言っているのは,まことに正しい。「神がご自身ですべてのことを
して下さいます。もしわたしたちがすべてのことへの私たちの意志を彼に捧げてしまったならば」
46)
と。
我意の放棄,つまり自己否定は,むろん極度に困難な仕事である。これに関してヒルテ
ィは,ベルニエール・ルヴィー二の次のことばを何度か引用している。
あるひとりの人間の自己を自己自身からもぎ離すための努力は,あらゆる偉大な行為のうちでも
47)
最大のものである。
自己否定を達成する道は,ヒルティによれば二つある。一つは,理性的洞察(利己心は
結局のところわれわれに害をもたらすだけで,真の幸福からわれわれを遠ざけるものであ
るという洞察)による道であり,もう一一つは,次のような方法による絶えざる努力によっ
て,長い人生の終局に至ってようやくそれに到達するという道である。
くみ
君が君自身を征服しようと欲するならば,君はいつでも神の側に与して,君自身に敵対せねばな
48)
らない。
ヒルティの見るところでは,エピクテトスとマルクス・アウレリウスはこの境地に到達
することができた。またトルストイその他の幾人かの近代人も,それに近づいたのだとい
49)
う。
なお自己否定ということについは,トマス・ア・ケンピスも次のように述べており,ヒ
ルティもこの:文章を引用している。(以下の引用はしかし,ヒルティの独文に従わず,ラ
テン語原文によって訳出した。)
45) ジェノバのカテリーナ(1447−1510)である。Cf・G・LP・344彼女の著作と一般に言われ
ている1)弼ogoを,ヒルティはNB.において抄訳し解説している。
46) G.皿,pp.41f., S.36f.
47) NB. p, 431, S. 336; K p, 342f. Jean de Bernibres de Leuvigny (1602−1659), (G. Ter−
steegenによる独訳),1)as verborgene Leben mit Ohristo切Gott,28 Aufl.1976, S
169 (NB. p 457, S. 357).
48)ベルニエ・一ルのことぽ(独訳S.171),NB. p.459, S.358;K. p 343.
49) K. p. 343.
120 彦根論叢 第231号
わが子よ,君は君自身をすっかり否定するのでなければ(nisi totaliter abneges temet iPsum),
完全な自由を手に入れることはできない(「マタイ福音書」16,24;19,21参照)。すべて利己的な
人(proprietarii),自己を愛する人(sui ipsius amatores)は足枷をはめられた奴隷であり,欲
望に充たされ,きょろきょろと(何かを)求め,落ち着きがなく……。
次の短いが完全な(一一切を含んだ)ことぽを銘記せよ。「すべてを捨てよ(Dimitte omnia)。
しからば汝はすべてを掃いださむ。」このことぽ(の意味)をよく考えよ。そして君がそれを実行
50)
したら,君e# 一切を理解するに至るであろう(intelleges omnia)。」
12体験と感情としての「神の近づき」 神の近づきは,単に知的に認識されるだけ
のものでも,幻想でもなくて,一種の体験であり,しかもまた一種独特の感情をそれの一
回分として含むもの,あるいは極言するならば,その感情そのものですらある。
人生の幸福は,神的な(神により定められた)世界秩序との内面的な(心の底からの)一・Skであ
り,またそれに伴なう神の近づきの感情(das Geflihl der Gottesnahe)である。不幸は神からの
51)
遠ざかり(die Entfernung von Gott),絶えざる内面的不安,全生涯の最終的な無収獲である。
では,それはどのような感情であろうか。それは,幸福感とか,喜びとか,平和な安ら
ぎの感情などとも表現されているが,しかし他に比類のない,全く独特な感情であるとい
う。むろん,神の近づきに程度の差があるように,この感情にも程度の差がみられるはず
であろう。
神の恵みを,たとえ当初の段階での僅少のものでも,受けている人t/こは,そのこと(恵みを受け
ていること)が分かるのです。なぜなら,それは他のどのような幸福感にも似ていない或る感情だ
からです。しかし人は,それを他入に対して記述することはできません。そのための言語表現が欠
52)
けているからです。
この霊(つまり神)が,彼の存在と彼の近づき(seine Ntihe)を,一度でもそれを体験した人
びとにとっては否みがたい仕方で,明示するための手段は,全く比類を絶した幸福感(das ganz
unvergleichliche Gli’cksgeflihl)である。それはこの近づきと(不可分的に)結びついており,
53)
そしてそれゆえ1・ll……神の存在のまさに最上の証明として不可欠のものである。
50)G.ll,pp.29ユf., S,274;ThQmas a Kempis, De lmitatione Christ∫,皿32(i邦訳,岩波
文庫版, pp,163f.). 一
51) G. 1, p. 269, S. 235.
52) NB. p, 248, S. 194.
53) G.皿,pp.23f. S 18f.むろん,このくi明〉は?本来の意味でのそれではないg
カール・ヒルテ/におけるGottesnllheの思想と体験 12ユ
(われわれにとって)結局のところ唯一の重要事である幸福感は,苦しみにもかかわらず,また
さなか
苦しみの最:中においてすら,現前することができる。そしてそれは,ひとえに神の近づきに存する
54)
のである。
神の近づきは,それら(宗教的熱狂や感覚的興奮など)とは大いに異なり,全く独特なふうに静
かで,平和に満ちた感情(eエnganz eigentilmlich stilles, friedsames Gefdh1)である。それ
でいてまた,それは,あらゆる人間的感情のうちで,ずばぬけて最も強烈な(das bei weitem
intensivste)感清である。それが心情(Herz)を完全に満足せしめる働きにおいてだけでなく,
あらゆる制約から精神(Geist)を解放し高揚する働きにおいて,それは友情や恋愛やその他のい
かなるものとも到底比べることのできないものである。しぼしぼ引用される聖アウグスティヌスの
55) 56)
ことばは,それが全く真実であるためには,この点でなお相当多くの補足を必要とするであろう。
人は不平を言う習慣をやめることもでぎます。それどころか,積極的に或る落ち着いた喜びの気
分(eine gewisse ruhig−freudige Stimmung)にひたる習慣をもつことができます。この気分
こそが,人間の幸福と不幸に対して,ずばぬけて多くの場合に,結局は重要事であるのです。但し,
神の近づきなしにそれに到達するのが容易でないことは,否定できません。他方これ(神の近づ
57)
き)tlこは,ある喜ばしい気分が,直接的にそして間違いなく常に,結び付いているのです。
さらに,緩やかで持続する神の近づきでなくて,短時間で強烈な神の近づきの体験につ
いても,ヒルティは次のように語っている。
しかし人は,自分自身の生において神を感知する(spUren)こと,彼からわれわれの内へ伝わっ
て来る力を感じ取る(empfinden)ことはできます。これは,入が知性をもってしても理解しう
る,本来は唯一つしかない本当の(神の存在の)証明というものです。なぜなら,一つの力である
ものは,存在しています。そして力は無から出て来ることはできません。……それどころか,どん
な人の一一生にも,その生が早くからそれ(神の近づき)を受け付けなくなったのでないかぎり,
少なくとも幾瞬間かがあるのです。たしかに目には見えず,思い測ることもできない神的なもの
(gδttliches Wesen,つまり神)にそれ(生)が自身を非常に間近く感じて,その(神の)実在性
58)
をもはや疑うことのできない瞬間が。このシェキナ(Schechinah)は持続的ではありません。・・…
54)G.皿,p.151, S.145.なお,神の近づきrは苦しみなしには起きないのだという。G互,p350,
S.325,G.皿, p.152, S.146.
55)多分r告白』1,1の次のことぽをさすのであろう。「あなたは私たちをあなたに向けてお造
りになりました(fecisti nos ad te)。ですから私たちの心(cor)は,あなたの内に憩うまでは
落ち着かないのです(inquietum est)。」なおNB. p 247参照。
56) SN 1,5, 11.
57) NB. p. 60, S 42.
58)ヘブライ語で,原意は‘住むこと’(dwellin9)だが,{神が住むこと’,‘神の臨在’の意味に用
いられた。ただし旧約聖書においてではなく,喝つと後にラビたちによって用いられた語である
という。
122 彦根論叢 第23!号
それはいかなる幻影(Vis三〇n)でもありません。……決して病的な状態ではなくて,全く逆に,こ
59)
の双なく完全な肉体的健康と精神的明晰さに基いた踊る感情(ein Gefllhl)なのです。
60)
13地上の楽園 ダンテの『神曲』の或る個所には,地上の楽園(Paradiso Terrestre)
というものが描かれている。ダンテの構想においては,煉獄(Purgatorio)は南半球の中
央部(エルサレムの対極の地域)にあって,大洋上にそびえ立つ島山であるが,この山の
頂上付近が地上の楽園を成している。この人生で罪を犯して,しかし死後地獄へ落ちるに
は至らず,煉獄で浄化された魂たちが,天国へ昇って永遠:の至福を享受する以前に,地上
において最後に登りつめた場所が.この地上の楽園である。それはアダムが僅かに6時間
61)
ばかり住み,イヴと共に追放されて以来,人類にとって失われたエデンの園である。だか
ら,そこへ到達できた魂たちは,原罪以前の清らかな状態となっており,失なわれた楽園
は彼らにとって回復されたわけである。ダンテの詩的描写によれば,当然のことだが,楽
園には深い神々しい森があり,清流があり,花が咲き,鳥が歌う。
さてダンテのこの構想は,「創世記」および中世の神学者たちの思想に基きつつ,詩人
62)
としての彼自身の工夫を若干付加したもののようであるが,ヒルティはこの地上の楽園
(あるいは地上の天国)を,われわれひとりびとりがこの人生において,自己否定の道を
努力して歩んで,最後に到達すべき,そして短期間しかそこで生きておれない状態つま
りGottesnaheの最高の段階であると解釈するのである。
(死と死後の生tlこ心を煩わすよりも)ダンテが地上の楽園と呼び,煉獄篇の最後の数歌で描いて
いるような,魂の理想的な状態に,少なくともこの人生の最後の数年において到達するように,真
63)
剣に取組むべきでしょう。
それから人生の最終段階がやって来ます。地上の時間単位で測るならば,通例は短かい期間です
が,本来はそれはすでに時間の外にあり,永遠なる生の一部分です。・…なにびとたりとも,私の
意見では,永遠の生へのこの前段階(地上の楽園)をこの世において経験しなかったならば,墓の
64)
向こうへ行ってから,何もしないで直ちに永遠の命を得ることはできないでしょう。
59) B.pp.150f,S,ユ20f.
60) Dante Alighieri, La Divina Commedia, Purgatorio XXVIII−XXXIII.
61) Dante, DC. Paradiso, XXVI, 141.
62) Thomas Aquinas, Summa Theologica. 1, 102; Pietro Lombardo, Sententiae, ff, 17;
EncicloPedia Dantesca, vol 4, pp 285−291.
63) NB, p. 392, S. 305.
64) NB. p, 444, S. 350.
カール・ヒルティにおけるGottesntiheの思想と体験 123
この(「イザヤ書」32,17−18に述べられている)永続的な快活さ,いやむしろ歓びの状態こそ,
地上における唯一の願わしい状態であり,天国への道理にかなった唯一の通路でもある。人間が年
をとって病気で死ぬときに通例いだくような感情をもったままで,(死後)直ちに至福の状態へ移
65)
行ずることは不可能である。
人はまずし自分自身が,キリストを介して神と正しい関係に入ることによって,「地上の天国」
(der Himmel auf Erden)へ到達しなけれぽならない。しかし,それが実現したならば,その後
は,他人をもそこに到達するように助けなけれぽならない。それがすなわち生きるということであ
66)
るQ
地上の楽園をヒルティはまた,ベウラ(Beulah).すなわち「夫を得た(女性のごと
き)地」とも呼んでいる。この名称は「イザヤ書」62,4によるものである。
No more shall men call you Forsaken,
no more shall your land be called Desolate
but you shall be named Hepzi−bah (My delight is in her)
67)
and your land Beulah (wedded).
但し「イザヤ書」では,ベウラの地は直接にはエルサレムを指しているのだが,ヒルテ
ィはそれを,個人の魂の或る状態と解するわけである。パニアンの『天路歴程』でも,
「ベゥラの国」(the country of Beulah, the land of Beulah)が描かれていて,こちらの
68)
方は明白に,魂の状態の比喩的表現である。
……魂は長いあいだ荒野をさすらった後に,ついに,永続的にそこへ入って行くのである。それ
は,段階的に自己を純化(精練)しつつある人間が,彼の地上的生存の最後の段階において到達し
うる魂の状態であり,もっと先の,より高次的に組織されている人生(来世)への,全く自然な過
渡期を成す状態である。魂のこの状態においては,善と真に対する反抗は,その人自身の内にはも
はや存在せず,あらゆる反抗的なものはただ外部(彼の自然性や官能など)からのみ来る。しかし
(魂の)内部では,すでに完全な平和が神との間に,したがってまた自分自身との間にも,成立し
69)
ているのである。……人がこの地に到達するのは,不幸と誘惑の「燃ゆる炉」のなかで最後の大口
65) SN. 1,12, 12.
66) SN. 1,12, 19.
67) The IVew English Bible, lsaiah, 62, 4.
68)The P∫lgrim’s P70gress,第一部の終りの方,第二部の終りの方(岩波交庫「天路歴程1,
第一部p.308以下,第二部,p.269)。
6g) 「イザヤ書」48,10g
124 彦根論叢 第231号
融が行なわれた後のことである。つまり,それはこの誘惑(試練)が神への信仰の内で克服され,
人間的な「自己主張性」(Eigenheit)のあらゆる要素が,およそこの世で可能なかぎり,完全に離
70)
脱し消失した場合に,なのである。
14仕事と‘神のそば’ 仕事(労働)と‘神のぞば とを,ヒルティはしばしば結
び付けている。人は仕事のみでは幸福になれないのだが, ‘神のぞぱのみでも,人生が
7D
観想的になりやすくて,それでは真の幸福は得られないというわけである。
この世界で可能な幸福の公式(Forme1)は,「神のそばと仕事」(Gottesntihe und Arbeit)で
72)
ある。一方なしの他方のみであってはならず,両方が常に結びつけられていなければならない。
仕事を伴わない神の近づきは持続しません。……また反対に,神の近づきを伴わない仕事は,ほ
とんど耐えがたい苦役です。……いわゆる「労働する階級」とわれわれのブルジョアジーの非常に
73)
大きい部分とは,今日そのために破滅するのです。
人間の幸福は……神のそばと仕事とから成り立ちます。これを有する者はそれ(幸福)を有し,
これを有しない者はそれをも有しません。たとえ彼がゲーテのような天才,あるいはナポレオンの
74)
ような世界征服者であろうともです。それは,2の2倍が4であるごとくに,数学的に確実です。
しかし,仕事は単に神の近づきと並んで幸福の一要素であるだけでなくて,神の近づき
75)
を招来せしめるための要件でもある。神は「絶えず祈る」ことによってわれわれに近づく
のではなくて,逆に,祈りが実を結ぶためには,まず神の近づきが必要なのである。
70) G.皿,p.336f., S.334f.
71)観照的な生活と行為的な生活との対比については,「ルカ」10,38−42におけるマリアとマル
タとの対比(E.pp.207f.),ダンテ「煉獄篇」27,100−8におけるラケルとレアの対比(G.皿,
p224)を参照。観照的生活の一例としてヒルティがしぼしば言及するのは, R. Kipling, The
Second fungle Book,1895のなかの, The Miracle of Purun Bhagatと題される物語に描
かれた,主人公プルソ・バガットの遁世的生活である(G.皿,p.224, E pp.207−8, NB. p,
247,S.192f.)。とはいえ,この人も最後には,危険に瀕した人びとを救助する仕事に身を献げて
死ぬのであるが。
72) B. p, 227, S, 182.
73) NB. pp.342−3, S.267.なおBpp.63−72参照。
74)NB. p.274, S. 214Jなおこのほかに,神の近づきと仕事の相互補完的関係については, G. ll,
p 228 (S. 215 Anm,), G. M, p, 31 (S. 69), pp. 223−5 (S. 218−21), SN. 1, 3, 7, B. p 223
(S.179),NB. pp 53£K. p.360などを参照。
75) 「テサロニケ前書」5,17。
カール・ヒルティにおけるGottesnaheの思想と体験 125
祈りが実を結ぼうとしないと判こは,常にあなたは良い行為を試みなさい。そのような行為が何
か,いつでもあなたの周囲にあることでしょう。ぞうすれば,神の近づきが起きるのを,あなたは
見るでしょう。その行為の内面的価値に従って,より強いことも,より弱いこともありますが。…
サれは偉大な行為であることも,いわゆる〈善行〉であることすらも必要でありません。ただ,
76)
=一
それは愛の行為でなければならないのです。
15雑記 性に関することでは,トルストイは夫婦間においてすら禁欲を理想とした
ようだが,ヒルティの意見は次のようである。
感覚的要素が正しい結婚において果す役割は常に二義的なものです。しかしまたこれ(感覚的要
素)は,本当の愛がそこにあるかぎりは,より高きものに対して,特に神の近づきに対して,何の
きょ 77)
妨げにもなりません。夫婦間の禁欲は,決してより高い聖さではないのです。
地上の楽園の境地を伝える文学作品としては,Clemens Brentanoの詩や,キプリング
の「プルン・バガット」がある(G.皿,p.338)。 Annette von Drosthe−Htilshoffの宗教
詩(Geistliche Gedichte)も,そこへ加えてよいかも知れない(L. p.105)。地上の楽園
に到達した最初のく歴史的実例〉は,「創世記」5,22−24に書かれているエノクであると
いう(G.皿,p.338)。絵画としては,ミレー(」. F. Mlllet)の晩鐘(L’Ang61us,1859)
に描かれた二人の農夫には.神の近づきが見られるという(NB, p.342, S.266)。
死後における,神のそばでの生活がどのようなものであるかは不可知だが,それに関し
て人間の見た幻のうちで,伝えられたもののうち最も信頼に値いするのは,Jung−Stilling,
78)
Lebensgeschichteに描かれている,老Eberhard Stillingの見た幻であるという(G.皿,
p.228,B. p.355, S.286)。彼は壮大な御殿の群を見た。そして息子の亡くなった嫁が現
れて,「お父さん,あそこに見えるのが私たちの永遠の住まいです。あなたも.もうじき
私たちのところへいらっしゃいます」と言ったのである。
一ve 一x一 ee
筆者がこの著名な(とはいえブリタニカなどには載せられていない)スイス人の著作に
76) NB. pp. 355f,, S. 277.
77) 「ヒルティ著作集」10,p.87.
78)第一部llenrich St∫llings/itgend,1777の終りの方(1968年出版のWinkler社版のもの
では,S,57)。
126 彦根論叢ce 231号
初めて接したのは,41歳の頃(およそ15年前)であった。当時筆者は松山市に住んでいた
が,K大学の文学部からストア哲学についての集中講義の依頼を受け,そのためのノート
を準備中であって,多少ともストア哲学に関連するすべてのものに関心を向けており,そ
のことが,ヒルティの『幸福論』第一巻の邦訳書を手にとる機縁となった。以来,人生論
的ないし宗教論的方面での彼の著作の主要なものには,一応目を通したように思う。
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