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上田貞次郎の伝記 - HERMES-IR
﹁ ー斗⋮ーミーーーー﹂ 代 時 流 潮 代 時 章 序 の つ 三 の 序章 時代の潮流 c父、章の時代 一、 三つの時代 私が父、上田貞次郎の伝記をつづるにあたって見のがすことのできない時代的背景がある。日本近 代化の曙は明治維新であり、これによって日本は開国し、急速に西欧文化がとり入れられた。 明治維新は貞次郎からみれぽ父の時代であり、私から見れば祖父の時代である。維新以後の日本に 生きた貞次郎の伝記を綴る場合もこの明治維新にふれることなしに通り過ぎることは時代を無視する のそしりをまぬかれない。 幸なことに貞次郎自身、明治維新について概略を書いているので、それを引用すれば次の如くであ る。 ﹁明治維新の意義は一方に徳川幕府︵封建制度︶を打破して中央集権の官僚政府を設けるとともに、 他の一方でこの官僚政府が先鋒となって十九世紀の西洋文明を輸入したことである。嘉永六年米国の 使節ペリーが浦賀に来てから十五年、安政六年五国条約︵米、英、仏、蘭、露︶が結ばれてから十年 にして維新の大改革となったのであるが、この十年ないし十五年は尚ほ鎖国擾夷の論が盛んに行われ ており、文久三年五月︵一八六三︶には長州下関で米艦砲撃事件があり、ついで七月には薩州鹿児島 15 ﹂ の 三 に英艦の来冠があり、討幕派の本拠たるこの二大藩の世論は平和の外交さえも否認しそうな形勢であ った。 を参照しながら、考察してみることとする。 紀州藩は徳川幕府の親藩でしかも御三家の一つだから、幕府方についていなくてはならなかったの だが、勤王倒幕の論がおきるにおよんで藩内でも論議が分れ、向背に苦しんだ。そして維新前二、三 年はどっちつかずで過した。慶応四年︵明治元年︶慶喜将軍が大阪から京都へ上洛するときに会津桑 政︵御国政改革専任︶の下に旧家老の三人の執政を置き、政治庁を設けて五局︵公用、軍務、会計、 革の実施にふみ切ったのである。南紀徳川史第四冊によると従来の奉行などの役職を廃して、津田執 ような訳で茂承公は紀州へ帰って斎藤政右工門の推せんで蘭学者津田出︵又太郎︶を抜擢して藩制改 ない。そこで何処か大藩が率先して藩制改革をする必要があり、そのモデルを紀州藩に求めた。この 諸藩の士族から禄を取り上げて、全国的な財政を立てなけれぽならないのだが、その着手が容易では 新政府は茂承公に対して、忠勤をはげむという確証を求めた。新政府としては国家を統一するには て、当時二十三歳だった藩主茂承公は京都へ喚ばれて一年足らずの間軟禁された。 は親藩だから逃げて来た敗兵を匿しはしないか、また今後謀叛を起しはしないかと朝廷側から疑われ 慶喜は朝敵となって一旦大阪城へ逃げ込んで江戸へ汽船で帰り、っついて大政奉還となった。紀州藩 名の兵が伏見街道で薩摩の兵と衝突した。これが鳥羽伏見の戦、すなわち戌申戦争である。このとき つ の 内信︶、頼貞随想︵徳川頼貞、昭和二十九年︶、鎌田栄吉自伝、近世和歌山の構造︵金沢精一編︶など 祖父上田章は紀州藩に属して維新に遭遇したのだが、当時の紀州藩の動向について、南紀徳川史︵堀 必要性をさとり、それを推進する主役者となった。 に対抗して国の発展をはかるためには幕府を倒して中央集権政府をうち立てて近代化をはかることの らびに四ヶ国艦隊の下関砲撃事件によって西欧武力の強大なことを身をもって知った。彼等は先進国 体制の下で地域的関係から比較的早くから西欧の文化に接しており、とくに薩英戦争︵一八六三︶な 維新の原動力になった人々は薩長土肥などわが国西南雄藩の下層武士の出身者だった。彼等は幕藩 継早の改革によって多くの国民を驚かした。﹂︵﹁新自由主義﹂所収﹁日本の産業革命﹂︶ また早くも東京横浜間の鉄道の開業式を挙げ、六年には小学校を設け、徴兵令を布くというように矢 を架し、三年には馬車を用い、四年には郵便局を設け、断髪廃刀を令し、五年には太陽暦を採用し. を宣言した。ただ宣言しただけではなく、直ちにその実行にとりかかった。すなわち、二年には電信 政府はその成立のはじめ、明治元年三月に五ヶ条の御誓文を発表して、知識を世界に求むるの大方針 った開国論者となったのみならず、我から進んで熱心に西洋の文物制度を模倣することとなった。新 しかしながら幕府が倒れて新政府が出来た時にはかつて幕府の開国政策に反対した人々も打って変 16 時 代 流 潮 時 代 章 序 刑法、民政︶および学習館、家知事を置いた。そして門閥にかかわらず人材を登用し、各郡の地士の ほか江戸常府で昨年和歌山へ移住したものが多く選ばれた。このとき上田章︵専太郎︶は公用局副知 17 .﹂ 代 時 流 潮 代 時 事となったのだが、もともと﹁御出入商人の男にて近来漢学を以て学問所勤に被召出追々と抜擢を蒙 りたる也﹂とある。 18 た。まつ、士族の禄を五百五十石以上取っているものは十分の一、それ以下二十石以上は五十俵とす 改革の柱となったものは禄制と兵制にあったが、朝廷の圧力によって全国にさきがける改革となっ るなど等差をつけて大禄を削ってしまった。禄制の改革と同時に兵制改革も行った。紀州の兵制は長 州征伐などで改革がはじまっていたが、このとき、元プロシヤの歩兵小隊長カツピンを雇ってプロシ ヤ式にのっとった諸般の軍政を攻究し、戌兵十二大隊︵一大隊四百二十名︶を中心とする七千二百余 名の諸部隊を完成させた。この藩政改革にあたって津田を陰で援けたのが陸奥宗光だったと云われる。 この紀州藩の大改革も明治四年になって廃藩置県となるに及んで終りをつげ、紀州藩はもとより諸 藩の兵は解除された。藩知事を免ぜられた茂承公は和歌山に別れをつげて東京に移住することとなっ た。 が、ここには主として南紀徳川史の著者堀内信が残した南紀徳川史文学伝付記という文書によって、 祖父章については井上従吾が葬儀にあたって墳誌を草し、また三浦安が青山墓地の墓碑銘を撰した その生涯をかえりみることとする。 上田章は天保四年︵一八三三︶江戸赤坂で松屋という米屋の長男として生れた。早く家を出て安井 息軒、塩谷宕陰の門に入って漢学を修めた。嘉永六年︵一八五三︶昌平校に入ったが、父が死んで学 費が続かないために中途退学して生活にも困る状態になった。このとき、紀州藩の井上従吾が藩の儒 者として召かかえるように参政の斎藤政右工門に推せんした。安政四年︵一八五七︶、章は紀州藩の 江戸藩学、明教館の授読︵教授︶として登用され、文久二年︵一八六二︶には寮長となった。元治、 慶応の時代となって、尊王撰夷の説が盛んとなったときに、京都、摂津等に出向いて薩長などの動向 を学友達を通じてキャッチした。これを藩の家老に上申して藩議の参考資料としたようである。 慶応三年和歌山に移り、藩学学習館の授読となったが、この時代に自分の家を寮として書生を養っ たとのことである。この寮生の中には後に軍人、政界、実業界で名を成した人もあり、章はこれらの 人々の信望を得たと聞いている。 一人だった津田三郎大佐の言として﹁和歌山にて為政の官に昇りては盛に西洋の兵法を講ぜしめて遂 の 明治二年先に述べた津田出の藩政改革にあたって公用局副知事となった。﹁日記﹂によると寮生の つ 三 に歩騎砲の聯隊を編成せしむ。以て紀州藩青壮老の気風を一変せしめたり。﹂とある。だから、藩の兵 の制改革にあたってプロイセンの兵法をとり入れるために必要な諸学を講じさせて、側面的な寄与をし たものと推察される。 章 明治四年廃藩置県となって前記のように殿様が藩知事をやめて上京したので、章もこれに従った。 序 多分この時、祖父にも新政府に仕えるようにとの誘いがあったと思われるが、専ら旧藩主に従ったの 19で同藩では上田は忠義の士と云われたとのことである。上京後は斎藤家令の下に家扶として藩公に仕 へ、明治十四年四十九歳で癌のため死んだ。 慶応出身者だった。これらの事情をみると、貞次郎が早くから福沢先生を尊敬し、自らも自由主義者 ちに徳川家理事として接触した多くの先輩同僚は鎌田をはじめとして、岸幹太郎、巽孝之丞ら初期の かの寄与をしたことと推察される。祖父の死後、貞次郎の兄敬太郎も慶応に学ぶのだが、貞次郎がの 章自身は儒者として漢学をもって生涯を貫いたが、紀州藩の動向からみると藩の英学推進になにがし 章は小泉信吉や鎌田とは相知る仲だったが、直接に福沢と交渉があったかどうかは明らかでない。 沢の後継者となった。 ︵東京海上社長︶とともに上京して慶応に入塾し、卒業後は一旦和歌山へ帰るが、塾の教授となり福 生の主流だったということである。鎌田は県学を出て学校の洋学手伝いをした後、県の貸費で谷井保 いと書いている。当時の慶応義塾では福沢の属した中津藩出身者、越後藩出身者、紀州藩出身者が学 泉信吉︵正金銀行の創立者︶らが福沢門下となっていたが、﹁福翁自伝﹂にも塾には紀州の学生が多 経済書などをすべて慶応流で教えられたとのことである。前記のように旧藩時代から小泉信三の父小 吉はここで理学初歩、地理初歩にはじまって、ギゾーの文明史、テーラーの英国史、ウエーランドの 藩学は県学となって吉田政之丞が慶応から帰って来て、数人の助手をかかえて英学を教えた。鎌田栄 学校を作った。その助教がやはり慶応出身の吉川泰次郎︵後の郵船社長︶だった。明治五年になって ので不可能だった。そして紀州の人で福沢門下の松山棟庵が和歌山に帰って藩立の共立学舎という英 によると廃藩前に紀州で福沢諭吉を破格の待遇で招こうとしたのだが、すでに慶応義塾を開いていた 阪を通じて反幕勢力の状態も知り、彼らにならって早くから英学をとり入れたのである。鎌田の自伝 紀州藩は親藩だったために、幕末には長州征伐に出陣したりするのだが、地理的環境から京都、大 った。 薩摩藩の重野安輝︵一八二七ー一九一〇︶は帝大教授となって国史科を創設し、のち貴族院議員とな もあった。例えぽ三浦安︵一八二八ー一九一〇︶は明治十五年元老院議員、後東京府知事となった。 祖父章は旧藩につとめて五十歳に達しないで死んだが、祖父の友人達の中には長命で名をなした人 20 の つ 三 代 の 間収三郎の進化論など、西欧的な新しい人生観、世界観に強く心をひかれ、セルフ.メードマンたる 歳のときに父をなくしたのでその面影すら知らなかった。正則予備門に入って元良勇次郎の修身や猪 二年︵一八七九︶に生れ、新しい教育制度の下で小学校、予備門︵中学校︶を卒業した。貞次郎は二 流 祖父の時代を明治の第一世代とするならば、貞次郎の時代はその第二世代である。貞次郎は明治十 潮 二、父、貞次郎の時代 代 時 をもって任じ、終生福沢に傾倒した理由がわかるように思えるのである。 “ 時 章 序 べく修身則をもうけて自己修養につとめた。他方で旧藩の多くの人が学び、兄敬太郎も学んだ慶応義 塾の福沢諭吉を尊敬し、独立自尊と経済の近代化に志すこととなった。そして日清戦争の勝利のあと 21 明治二十九年に高等商業学校に入学した。 のつもりで正金銀行あるいは貿易業に就職したいと考えていた。ところが、卒業論文﹁外国貿易論﹂ が当時新帰朝の福田徳三教授の目にとまり、はからずも、母校に残って教職につき、学者としてそζ に生涯を托することとなったのである。 明治三十三年高商を卒業した貞次郎の仲間達は大部分が実業界に入り、貿易、海運などの分野で、 それぞれの企業の中心人物として活躍した。同級生ぼかりでなく、貞次郎の前後約二十年間の一ッ橋 は資本主義の上潮にさおさしてキャプテン・オブ・インダストリーを輩出した時代だった。たんに一 ッ橋だけにとどまらず、中学時代の友人、紀州関係の友人達は官界、医学界、技術その他の専門分野 で近代化の中心人物として活躍したのである。 これらの明治二世代に属する人々は立憲制度の下で働くことを誇りとし、富国強兵をモットーとす る帝国建設に疑問をさしはさまなかった。というよりは欧米に追いつき追いこせの使命感があったの で目前に開ける発展的な諸問題に取組むことだけで他を顧みるいとまもなかったと云える。そして日 時 貞次郎は明治三十八年日露戦争終了後、 ﹁商事経理学﹂研究のため英、独に留学し、アメリカを視. の 本帝国の建設は日露戦争によってさらに発展した。 流 三 つ の 時 代 貞次郎が高等商業に入学した目的は実業家を志したためで、明治三十五年専攻部卒業のときまでそ 英国正統派の経済学を学んだ。 とめたようである。貞次郎はさらに二年間専攻部貿易科に進学して、主としてミル、マーシャルなど から商権を回復し、自ら産業、貿易、海運などを建設するのだと云う意気に燃えて四年間の勉学につ インダストリーの養成機関と変りつつあった。貞次郎らはこのような気風の中で、われらこそ外国人 の養成所と見られたが、明治二十六年矢野辞任後、次第に産業、貿易の担い手、キャプテン・オブ・ 習所として創立された高等商業は矢野二郎校長の下に前垂主義、っまり簿記、ソロバンの達者な手代 貞次郎が在学したころの一ッ橋もこの時代の国民的な背景の前に変動期にあった。明治八年商法講 策を中心に着々と遂行されたが、その担い手こそ第二世代の人々である。 日本人の手にとりもどすことこそ朝野を挙げての願望だった。そしてこの願望は維新以来の富国強兵 いて、日本人はその下請人に過ぎず、彼等にうまい汁を吸われていた。したがって、これらの権利を 人に対する裁判権もなく.関税自主権も持たず、商権︵外国貿易︶の大部分も彼等外国人に握られて 政条約︵一八五八︶にしばられて独立国家としての内容を持たなかった。すなわち、法権とくに外国 れて、ようやく近代国家としての形を整えはじめた時期だった。憲法は出来ても、国際的にはなお安 当時のわが国の状態を見ると、帝国憲法︵明治二十二年︶が発布され、翌年第一回帝国議会が開か 22 潮 代 然としているのを見聞して富の程度においても国民生活においても格段のちがいがあることをさとっ 章 察して四十二年一月帰国した。留学するときは我が国を一等国と考えていたが、欧州の文物制度の整 序 た。しかしこれは決して悲観すべきことではない。大和魂をもって﹁従来の島国根性を打破して堂々 23 ﹂ たる人道を勇往適進せんことを欲す﹂と述べている。 ッ橋の講義陣は福田徳三、三浦新七、左右田宣三郎ら著名の学者を揃え、貞次郎も加.兄て黄金時代と 評価された。 貞次郎は大学昇格後は、学者として講義を担当するかたわら、学外での活動が併行することになり、 この面でより多くその時代の政治経済関係の諸事情に接することとなった。そのはじめが、大正八年 米国ワシントンで開催された第一回国際労働会議に政府代表顧問として参加したことである。貞次郎 は労働問題の専門家ではないのだが、政府代表鎌田栄吉は郷党の先輩として貞次郎の国際感覚と語学 力を買ったようである。この会議の最大眼目は欧米ですでに一般化されていた八時間労働制だった。 日本については九時間半︵週五十七時間︶案が採用されたが、この華府条約案は政府はじめ、財界、 国会の無理解によって容易に批准されず、長時間労働と悪労働条件は第二次大戦前の期間を通じて、 の た。 流 欧米諸国の日本攻撃の対象となったのである。貞次郎はこの後数回にわたってこの条約の批准を訴.尾 三 つ の 革命史論﹂︵大正十二年︶として刊行され、経済書としては珍らしく十数版を重ねた。この時代の一 貞次郎は東京商科大学教授として英国産業革命史の講義に力をそそいだ。これはのちに﹁英国産業 次郎もまた三浦新七、堀光亀とともに佐野校長をたすけて学制、学課編成の確立に蓋したのである。 学となった。明治三十年以来二十数年にわたり幾多の曲折を経た昇格運動の決着だった。この間、貞 原内閣は四大政綱の一つとして高等教育の拡大をうたい、東京高商は大正九年に至って東京商科大 おこった。これによって寺内内閣は倒れ、原敬首相が政友会を率いてはじめての政党内閣を組織した。 実態が備わるに至った。他方国民大衆は物価高騰による生活苦に悩み、大正七年にはついに米騒動が 景気に乗じて産業革命を完成させるとともに財閥を中心とする独占が進展し、名実ともに帝国主義の 洲の権益保護のため軍事的進出を強めた。一方、経済面では海運、造船、紡績などを中心とする戦争 勢力にかわってアジア地域に進出し、とくに中国に対して対華二十一ヶ条要求︵大正四年︶をして満 七年まで続いたが、この間、わが国は対独宣戦︵大正三年︶をなし、戦乱によって手薄になった欧米 三年英国において、はからずも第一次欧州大戦の勃発に遭遇して校命によって帰国した。大戦は大正 明治は終り、大正二年貞次郎は旧藩主徳川侯嗣子頼貞氏の指導役を兼ねて英国に留学した。翌大正 ﹁商工経営﹂の基礎がかたまり、﹁株式会社経済論﹂︵大正二年︶が刊行された。 ちに﹁経営経済学総論﹂︵昭和十二年︶として集大成された。これから大正二年まで四年余りの間に 貞次郎は帰国後、母校で﹁商工経営﹂を講義するが、これこそわが国経営経済学のはじまりで、の 24 代 時 潮 和三年三月に至る二ヵ年間、同誌に巻頭論文を書いてその主張を世に問うた。その論策は経済問題を 代 時 貞次郎は大正十五年四月になって雑誌﹁企業と社会﹂を発刊して新自由主義を提唱した。そして昭 章 序 中心に政治、文化、教育に及んだが、のちに﹁新自由主義﹂︵昭和二年︶として刊行された。新自由 25主義は多数知識階級の人々の賛同を得ると同時に当時加速的に流行しつつあった左翼社会主義者側か らは非難とざんぽうを浴せられた。そして貞次郎の真意が充分に社会的に浸透しないまま二年間で自 ら終刊としたのである。 26 昭和二年、貞次郎は国際経済会議に日本代表として出席した。この会議は国際連盟が主催し、第一 次大戦後の欧州を中心とした世界的な経済不況の原因を探求して、商業、工業、農業の三部門にわた ってその救済策を立てることであった。貞次郎は志立鉄次郎首席代表とともに商業部会に参加し、関 税の撤廃ないしは軽減を主張する会議案が、自分の従来の主張と一致したことに大きな自信を得たの である。 貞次郎はこの会議から帰国後、志立らとはかつて自由通商協会を設立した。この協会は平生鋭三郎、 村田省蔵ら関西方が主力として活動したが、軍部の大陸進出とともに国際的圧力を受けてひっそく状 態に陥って行った。 この時代から日本の世論は緊迫する世界の政治経済の動向を背景として貞次郎の見解とは逆行する 傾向を強めるのである。昭和二年の金融恐慌、それに続く農業恐慌と昭和四年アメリカに端を発した 世界恐慌の波はわが国をも未曽有の不況の中に陥れた。国民が失業と貧困に苦しむ暗い時代のはじま りである。他方日本軍の中国侵略は昭和二年の日貨排斥運動、同三年張作森爆死事件と進み、昭和六 年には満洲事変が起り、翌七年には上海事件、満洲国建国宣言となった。そして八年にはわが国は、 国際連盟から脱退して国際的に全く孤立することとなった。 らない。この要職業人口の扶養のためには輸出産業によるか、中国大陸へ進出するかしかないのだが、 会議に臨み、わが国は八千万人口をかかえ、しかも若手労働人口が多く、これに職を与えなければな 論文と評価された﹄貞次郎はこの論文をひっさげて同年八月カナダのバンフで開かれた第五回太平洋 昭和八年五月発表された﹁近き将来における日本人口の予測﹂はわが国人ロ問題における画期的な なって研究目的を日本人口問題にしぼることによって新しい研究分野が開拓されたのである。 にあった。この間にも門下生達と研究会を開いたりして研究課題を模索していた。そして昭和七年に や徳川家顧問辞任など面白くないことが重なった。その上に学問的にも行悩んで一種のスランプ状態 貞次郎は昭和四年はじめ、外遊から帰国して以来、私が放学されたことや学内にうっせきした情弊 T iオ﹂ーーー の 代 時 諸国間に強い関心をよび起し、日本の立場に賛同しないまでも理解を深めた。もとより各国の新聞等 つ われわれは前者の道を選びたいのだと訴えた。この日本国民の生存の基礎を訴えた現実的論議は関係 三 この時期、国内では言論抑圧は益々猛威をふるい昭和十年には天皇機関説問題がとりあげられて美 準、輸出中小工業の存立理由等を説明してこれに答えたのである。 日本商品の進出に対する欧米諸国の非難、いわゆるソシアル・ダンピング論に対して、日本の生活水 の 昭和十一年の第六回太平洋会議でも、貞次郎は人口問題および通商問題を論じた。後者については 流 にも報道されて日本人口問題は国際的反響をよんだのである。 潮 代 時 章 序 濃部達吉は公職を追われ、国体明徴などわけのわからない独断論が横行した。翌十一年には二・二六 27 事件が起って現役将校が叛乱した。そして十二年には遂に日中戦争がはじまったのである。 商大では昭和十年、いわゆる白票事件で佐野学長が辞任して三浦新七が学長に就任した。十一年に 28 はさらに粛学事件があり、貞次郎は太平洋会議から帰国して、三浦のあとをついで第三代商大学長に 就任した。そして昭和十五年五月八日、その在職中に死去したのである。 三、私の育った時代 私の時代すなわち明治第三世代は貞次郎の晩年、昭和初期からはじまる。この時代はさきにも述べ たように恐慌、不況から中国侵略十五年戦争への暗黒時代だった。日本帝国は天皇制の下で関東軍を 中心として泥沼のような中国への侵略を拡大して行ったのだが、日本政府、軍首脳はこれを抑える手 段を持たなかった。国内では打続く不況の中で治安維持法その他によって言論、結社の自由は全く奪 ったが、私達はその没落、崩壊期に青春の第一歩を印したのである。したがって、﹁人は青春の思い われて学園内の研究の自由もなく大学の願落が叫ばれていた。貞次郎は日本帝国の隆盛期に青春を送 出に生きる﹂と云うが、私達はこの時代をよき時代とは思わず、いたづらに挫折を重ねて苦い思い出 のみが残ったのである。 貞次郎は太平洋戦争の直前に死んだので、戦争の悲惨さ、戦死傷者、銃後の食糧欠乏、空襲による 都市の壊滅などを知らないで終った。私達は父はむしろいい時に死んだと思ったりもした。やがて、 戦争に負けて無条件降伏が宣言された。占領軍は陸海軍を解体し、軍需工業の停止を指令した。そし て日本政府に対して婦人解放、労働者の団結権、教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済の民主化 の五大改革を指示した。明治維新は欧米勢力の圧迫の下で開国と幕藩体制の解体を実施した。その担 い手は薩長を主軸とする下層武士であり、もとより日本人自身の手になるものだったが、戦後改革の 主役は占領軍だったのである。 戦後改革は男女同権、農地改革など国民の民主的要求を厳格に実施した。やがて飢えとインフレの 混乱期が終り、講和条約が結ぼれた。そしてわが国は技術革新と貿易立国によって世界の驚異と云わ れる経済成長を果して米・ソに次ぐ経済大国となった。この日本の新路線は貞次郎の同時代者吉田茂 田会は毎年継続して父の命日、五月八日に催されてきた。私の家の宗旨は神式なので五年毎に祭事が 現代的に理解することはむつかしいと思われるが、戦中戦後の混乱期を除いて父の門下生の会、上 得ないことと思われる。 の 者よりも書く者により多く影響されると云われている。私の書く父の伝記もこの時代的な視角を離れ 私は貞次郎の伝記を書くために、何も私の時代を語る必要はないとも思うのだが、伝記は書かれる 実なのでここではこれ以上語らないこととする。 つ首相によって敷かれ、われわれの同時代者がこれを推進したのである。この戦後史はなまなましい現 三 の ︽] ぐ ー ー ’ 代 時 流 潮 代 時 章 序 29あることになっている。上田会では祭事は省略して、その都度記念行事を催して来た。 昭和三十五年五月八日は貞次郎の残後二十周年にあたったので、上田会は記念行事として宮本三郎 画伯筆の肖像画を作成して一橋大学に寄贈し、その除幕式が行われた。 30 二十周年記念事業で上田会で集めた募金は肖像画製作費を支払ってなお余ったので、翌三十六年さ らに貞次郎の残した﹁日記﹂を整理刊行することとなった。私は当時経団連関西事務所々長だったの で西宮の自宅で学生アルバイトを頼んで原稿筆写作業をはじめた。原稿は五人の編輯委員︵猪谷善一、 山中篤太郎、中川孫一、小田橋貞寿、それに私︶の校閲を経て三十八年四月、上田貞次郎日記晩年編 ︵大正八年ー昭和十五年︶が刊行された。さらに同日記は年代を遡って壮年編︵明治三十八年−大正 七年︶が同三十九年四月、青年編︵明治二十五年ー三十七年︶が四十年五月に刊行されて完結をみた のである。 上田会はその後も毎年開催された。昭和五十年は残後三十五周年にあたるのだが、門下生達も次第 に死亡のため減少して約二百名となっていた。このとき、門下生のうちから、すでにわれわれも老齢 に達したのでこの最後の機会にもう一度記念事業を計画しようとの発議があった。そして幾多の論議 の末、残後一度計画されたが戦争のため中絶してしまった上田貞次郎全集の刊行にふみ切ったのであ る。そして全集全七巻は昭和五十年四月ー五十一年五月の間に完成を見たのである。 私は昭和四十八年、長年勤めた経団連を退職したが、幸にして全集を完成することが出来た。父の 私はこの伝記をつづりながら、時代の流れとともにその中での人の出会いと別れの不思議さを感じ た。 は故人だが、これについても門下生はじめ多くの知友の後援を受けながらようやく完成の運びとなっ 国際会議、団体、事業など、それぞれの資料をもとめてまとめることにつとめた。登場人物の大部分 をしぼり、項目毎に年を追って経過をつづり、日記だけでは理解出来ないものは人物をはじめ、大学、 とにして、前もって詳細な年譜など若干の準備を行っていた。そこで目次のような章と項目にテーマ はこのとき伝記を私自身の手で書くことを上田会の席上で宣言した。この伝記は三冊の﹁日記﹂をも 残後事業として残るのは伝記の作成だけとなった。昭和五十四年は父の生誕百年にあたっていた。私 の 三 つ の たってこの伝記を綴ったことにせめてもの慰めを感じるのである。 とだけを書いたつもりはないが、その解釈は読む人々の判断に任すほかはない。私は生涯の終りにあ つながりを追及したかったが、これを充分に果したとは思えない。また、私はきれいなこと、いいこ にあらわし得ない因縁をさとった。私はそれを出来るだけ生きた伝記として表現し、かっ、現代との 代 時 た。祖父、貞次郎、私はもちろんのこと貞次郎と学校、旧紀州藩の人々などとのつながりの持つ言葉 流 潮 代 時 章 序 31 、ーーー﹂ § 32 第一章生い立ち ソ川邸内に生る 一、 私の父、上田貞次郎は明治十二年︵一八七九︶三月十九日、東京府麻布区飯倉町六丁目十四番地、 徳川邸内︵現在貯金局ビルのあるところ︶に生れた。戸籍面では五月三日となっているが、父即ち私 の祖父が和歌山へ出張中で名をつけるものがなかったために届出がおくれたということである。 祖父は上田章、通称専太郎といい、紀州徳川家の家扶を勤めていたが、当時西南役直後で、和歌山 へ行く用事が多かったようである。 家扶といえぽ殿様の御用掛で三太夫とも呼ばれ、つまらない仕事と思われるが、当時の旧大藩の家 職にはなお相当の人物が残っていた。祖父は紀州藩では有数の人物であり、貞次郎も﹁当時の日本で は何処へ出しても恥しくない人物であったと思う﹂と書いている。貞次郎がその伯母から聞いた話で は、祖父は廃藩の後に明治政府へ出仕することも出来たのに、自ら望んで主家の家扶となったので、 同藩の人々から忠義の人として尊敬されたということである。 しかし祖父は貞次郎が僅かに二歳の時、明治十四年八月に死去したから、貞次郎は父の悌を全く知 と貞次郎は述べている。 ったのは、気の毒なことと云わねぽならない。後に祖母が精神病に罹ったのも無理のないことと思う 祖父の死によって二十八歳の若後家が、八歳と二歳の子供を一手に育てなけれぽならない運命に遭 郎の二人が母の手で育てられることとなった。 ︵ふじ︶を生み、それから貞次郎を生んだ。ただしふじは生後間もなく死亡したので、敬太郎と貞次 祖母は多分廃藩置県の後、十九歳位で祖父に嫁し、明治六年長男敬太郎を生み.次で一人の女児 じめは修学のため、後には国事に奔走したため婚期をおくらせたのであろう。 とき、祖父は四十六歳、祖母は二十六歳で両人の年齢は相当に隔っているが、これは祖父が幕末には は明治二十九年、貞次郎の十七歳の時まで生存したから、勿論よくおぼえている。貞次郎の生まれた 祖母は良子︵戸籍ではリュウ一八五三ー一八九六︶といい、同藩士松尾三代太郎の妹である。祖母 ある。 らなかった。祖父の写真や肖像があればいくらかちがったかも知れないが、それも全くなかったので ち 泣 当時祖父の親類はほとんど死に絶えて、ただ一人残ったものも経済的に全く没落して行方が知れな くなっていた。祖母方では祖母の母が寡婦だったので、同居して孫達の世話をした。この曽祖母は明 也 祖母の兄弟は兄の三代太郎と姉のかねとあったので、この二人は祖母の相談相手になったのである 章 一治二十年六十歳で死ぬまで宅にいたので、貞次郎のためには好いおぽあ様だった。 第 33 が、又反対に祖母に心配をかけることも少くなかった。 とに角、貞次郎が幼少の時から壮年時代まで親類として親しんだのは、この伯父、伯母だけだった。 彼等は祖母とともに﹂﹁お前のお父様はえらい人だったから、お前もえらくなるのだね。﹂と云って父を 34 励ましたと云うことである。 二、祖父の家系と人物 祖父も祖母の兄も紀州藩士だったけれども、この二人の生まれたのは江戸であったのみならず、家 系も紀州には縁のないものであった。 祖父の家は江戸の町人だった。祖母の家は同じく江戸の医者だった。 祖父の生立については祖父の親友三浦安氏︵元老院議員、東京府知事になった人︶の撰んだ墓碑 応元年まであるから、その間約二百年間家業がつづいたことがわかる。﹂薬王寺は日蓮宗の寺だった 町人の戒名で院号をつけるのは特別の取扱であろう。日付は延宝六年ー四代将軍の時代1から慶 具師上田源兵衛としてある。正面に刻まれた戒名は男女併せて十七あり、何れも院号がついている。 石に㊤の紋を刻み、上田氏、松屋の文字がある。裏面に文政八年五月、上田氏七代目、松屋元祖、建 るから、相当財産のある町家であったことは疑ない。この墓石は二個同じ大きさのものがあって、台 を覚えている。貞次郎は自伝の一節に﹁芝伊皿子の薬王寺に現存する上田家の墓石は立派なものであ すでに寺では解らなくなっていたと話していたのを、私自身父に連れられて墓参した後で聞いたこと も敬太郎も先祖の墓と云うことで気になったらしぐ、墓参して寺に現在の檀家を聞いたのだが、当時 に別にあるので、貞次郎はもちろん、伯父敬太郎も寺の檀家にはなっていなかったのである。貞次郎 皿子の薬王寺にある上田家の墓に参っていることを﹁日記﹂に書いているが、祖父章の墓は青山墓地 祖父の生家のことは貞次郎の時代にすでによくわからなかった。貞次郎は少年時代から何度か芝伊 士族になったのである。 没頭して安井息軒先生の塾で頭角を現わし、又昌平校にも入った。そして儒学を以って紀州家に仕え たらしく、自分の息子は学者にするつもりで幼時︵満五歳︶から漢学の大家に托した。祖父も学問に に生れた。その曽祖父が天保の改革前後にあたる当時の時世を慨嘆して町人の将来に不安の念をもっ ルのある一帯︶にある浄土寺︵現存︶門前で米屋︵江戸時代の春米屋︶を営んでいた直吉の一人息子 と若干重複するが、貞次郎の﹁自伝﹂を中心に書くこととする。祖父は赤坂一ッ木︵現在のTBSビ −現在も青山墓地に建っているーに記されているが、家系については明細でない。以下序章の一 ち 泣が、祖父の時代に檀家を離れて神式となったので、貞次郎の葬式は神式によった。神式と云うと神を 一式でするのに過ぎない。菩提寺がないと云うとわれわれの時代でも﹁そんな筈はない﹂と云われたも 信じた宗教のように聞えるが事実上は無宗教でわが国の都会で極くあたりまえのように葬式だけは神 皇 章 第 のだが、以上のような次第で上田家は私の祖父の時代に菩提寺を離れたのである。それでは何故神式 になったのかだが、多分祖父が維新後廃仏段釈の流れに乗って仏教を離れてしまったのだろう。この 35 薬王寺も戦災でなくなってしまったので上田家の墓も無縁仏となったと思われる。 た。 預って、その利子で生活する道を立てられ、且兄敬太郎のために修学の費用を支出されることになっ に遺族たる我々は特に邸内の長屋に引つづき住居することを許され、若干の下賜金をそのまx屋敷に ﹁藩主徳川茂承侯も父を非常に信頼され、父のいふことはよく聴かれたさうである。父の死んだのち でなくして、それ以外にも多数あったのである。﹂ ﹁だから余が幼年時代に﹃お父様のやうにえらくなれ﹄といって激励してくれたのは伯父や母ばかり 呼んでゐたらしい。﹂ を激賞してゐた。その他紀州出身の名士にして父を尊敬した人は非常に多く、何れも彼を上田先生と 竹橋騒動の発頭人で明治の怪傑といはれた岡本柳之助氏、政友会の知嚢となった岡崎邦輔氏等も父 の人物に傾倒してゐた。 使館付武官で当時海軍に名声のあった津田三郎大佐は自分の子に父の名を取って章一と名付けた程父 うになつても、父の墓碑の石刷の一幅だけは身を離さずに有つてゐた。⋮⋮⋮又日露戦争前に独逸大 は父を非常に尊敬してゐたが、色々の事業に失敗して全く零落し、老年になって余の家に寄食するや 家であって、そのために多くの青年に善き感化を与えたことは確実である。母の兄なる松尾三代太郎 た。父の自伝には﹁廉恥を重んじ節義を貴ぶといふことを躬行実践して諸生を導いた漢学者風の教育 祖父は紀州藩の儒者として明教館︵江戸藩学︶の長となり、また和歌山の学習館︵藩校︶でも教え に至る二百七十年の紀州徳川家の歴史を綴ったのである。 おれて完結に至らず、これを引継いだ堀内信が明治二十一年から十年かかって慶長七年から明治四年 史﹂にも祖父の著書が漢文のまま載っている。即ち祖父は紀州徳川家の正史を書いたのだが、病にた には南竜公年譜、同遺事、歴世年譜、香厳公遣事、名臣伝略八巻を撰述したとあり、前記﹁南紀徳川 さて祖父の人物であるが、儒学者風の至誠廉直の人として信頼され、敬愛されたようである。著書 譲渡したと記されている。 なお、家業の米屋は直吉の生前栄吉という手代に相続させたのだが、その手代は松屋の株を他人に と同様である。 て町人の子が士族になったのか、とに角上田という旧姓のまま士族になったことは渋沢子爵等の場合 さて祖父は裕福な町家に生れながら、家を出て士族になってしまったのだが、如何なる手続によっ 36 ち 泣 兄はその金で慶応義塾を卒業し、それから徳川家の家職に採用されたのであるが、余も無事に高等 一 から出たのである。﹂ .下賜の預金は母の病気などで元金まで使ったけれども、余が高商専攻部を終るまでの学資はその内 教育を受けることが出来た。 良 章 第 37 ラで死んだりした。その頃伯母は陸軍御用の雑巾を縫ふ仕事を引受けn貧乏人のかみさん達に仕事を てしまった。明治十八年頃伯母の一家が飯倉五丁目の裏店住いをなし、その何番目かの男の子がコレ あり、且酒のために身を誤まり、一旦は新政府の軍隊に勤めたけれども結局免官となり非常に零落し 代表する意味で同銀行取締役となり、明治四十三年頃まで存命したのであるが、弟の可孝氏は無能で 氏は傑物で藩政時代には民政局の大官となり、東京へ来てから第十五銀行の創立に参与し、紀州家を 府で草野政信、通称錠之助の弟であって、伯父と同じく藩政改革の際騎兵士官になった。兄の錠之助 母は気丈な人で山気も多分にあった。伯母はやはり同藩の草野可孝といふ人に嫁いだが、この人も常 発ではあったがおとなしい人で、王品なお嬢様から上品な奥様になったやうである。これに反して伯 母の姉はかねといひ、母より十二歳年長であったが、この姉妹の性質が余程ちがってゐた。母は利 嫁したのは東京へ帰ってから後のことではないかと思ふ。 母は嘉永六年︵一八五三︶の生れで当時十九歳であり、余の兄が生れたのは明治六年だから、父に ら聞いたことがある。 それから僅か三年足らずで廃藩置県となり、再び東京へ帰って来たので、その道中の話は時々母か である。 も母も和歌山へ行ったが、伯父は医者などは嫌ひで、藩政改革の際に二十四歳で騎兵士官になったの 慶応四年彰義隊の乱の後に常府のものは家族もろとも国元へ引取ることになったので、伯父も伯母 くはわからない。恐らく医者が江戸藩邸に抱へられ、やがて常府の士分になったのであろう。 三代太郎は和歌山藩士であったが、何うして江戸の医者の子が和歌山藩士になったのか、これも詳し にずっと小さい墓石が立ってゐるが、これが二代目とその妻、即ち余の祖父母の墓である.伯父松尾 といったところから考えれば検校が松尾家を号した先祖であったのだろう。それから検校の墓石の側 検校の没した年は天保二年だから、これは母や伯父、伯母の祖父と推定される。伯父の名を三代太郎 ぼしき人の戒名が並び刻まれてある。検校とあるから盲人であった筈だがそのことは聞いてゐない。 表面には竹に雀の家紋の下に、冬林院殿松尾・前検校隆誉・宗竹秀翁大居士の戒名とこの人の配とお て.墓石は上田家のものほど大きくないけれども、その周囲にある他家のと比較すれば立派な方で、 ﹁ 黷フ生まれた家は医者であったが、詳しいことはわからない。菩提所は四谷見付内の心法寺にあっ @8 三、祖母、伯父、伯母 3 ち 章 一 ただけで、その他の家族を世話しようとせず、伯母も世話になることを好まず交際もしなかった。し 政信氏は市兵衛町に堂々たる邸宅を構へてゐるのに何うしたものか、弟の子供を一人か二人引取っ 泣出して稼いでゐた。 魁 第 かし伯母は終に子供達を置いて可孝氏と離別することになり、それから政信氏は弟の一家を引取る+﹄ 39とになった。 伯母が草野家を去ったのは明治二十二年頃かと思ふが、その頃母が病気であったので、伯母は余等 長屋は東西に長く建てられ、南北二列になって向い合っていた。一戸毎に表に門があり、裏に庭と その後に落ちたのを子供等が拾ったものである。 って、銀杏には沢山実がなったから、秋になると商人が来て、その実をたたき落して買っていった。 の切株にぶつかって出来た傷跡だった。南竜神社の内には数百年を経た銀杏と柾ときはだの大木があ 貞次郎の身体には左の腰に切傷の跡が残っていたが、これは胡桃の木へ登って、亡り落ちた時、竹藪 所だった。 以外の場所は邸内のものが自由に歩きまわることを許されたので、これは特に子供には格好の遊び場 ︵奉公人︶の住居たる二十戸程の長屋で占められていた。その他に竹藪や杉林や梅林もあって、御殿 御殿と呼んでいた。東側の半分に藩祖南竜公を祭った神社があり、又厩舎があったが、大部分は家職 ということである。一万五千坪の屋敷の西側半分は侯爵一家の住居に用いられており、邸内のものは は紀州家がその本邸たる赤坂離宮︵現在の迎賓館︶の地を朝廷に献上した後に上杉家から買ったのだ 徳川邸は飯倉の高台にあって、一万五千坪の広い土地を土塀、石垣で囲込んだものだった。この邸 囲気のうちに小学校、中学校時代を過すこととなった。 祖父の死後、遺族は徳川邸内の長屋に居住することを許されたので、貞次郎はここで一種特別の雰 四、徳川邸内の生活 意に感謝してゐた。﹂ 結婚した時、和歌山へ帰って平松家へ縁付いたので、余との交際は疎遠になったが、余はこの人の好 余の母が明治二十六年再び発病したとき、菊枝氏が来て家の世話をしてくれた。菊枝氏は余の兄が たる石版印刷を引受けて京橋桶町に店を開いてゐた。 他種々の事業に関係し、又妹の菊枝といふ人の嫁してゐた松田玄々堂の主人が没したので、その営業 内田氏は多年十五銀行に勤め蓄財が出来たので、やがて銀行を退き、麻布銀行を創立したり、その た。 その内に和歌山藩の旧知である内田匡輔氏の妻が四人の子女を遺して死んだので、その後妻になっ とをしてゐた。 の家に来て世話をしてくれた。母の病気が直ると近所に家を借りて、昔覚えた内職の元締のようなこ 40 ち 小さい畑がついていた。 泣 章 一が、四、五間から三間位の間で定められていたが、長屋そのものは同じだった。 当時家職には、家令、家扶、家従、家丁、小使、馬丁の階級があったので、その階級によって間口 皇 第 ただ家令の斎藤政右工門氏ー紀州藩に声望のあった人で、祖父が召抱えられたのもこの人の推挽が あったからだというーは邸外に自分の屋敷をもっていた。 41 このようにして邸内のものは恰かも一村のように交際し、外部に対して一城廓のようになっていた。 年中行事として正月元旦は子供等も礼服をつけて家々へ年賀に廻り、家毎に何か菓子を与へられる習 42 慣があった。十二、三歳からのものは、元日には御殿へ出て年賀客の接待に当るので、菓子を貰い歩 きはしないが、家々でかるた会を催して互いに招きあうので、その時は寿司などの御馳走にあつかっ た。正月の二日から十日頃まで毎夜かるた会で賑はった。 春秋には南竜神社の大祭があって、その日は侯爵一家の方々が盛装して参詣される。それを邸内の 女達は喜んで拝観した。 御主人は茂承侯、その奥方は伏見宮家から来られたと云うことである。嗣子に頼倫侯、この方は田 安家から幼少の時養子に来られたので、明治二十三年頃丁年に達した時に家付のお姫様久子様と結婚 された。ほかに茂承侯の息女は二人おられ、一人は宇和島の伊達侯爵に嫁し、一人は西条の松平子爵 に嫁された。 貞次郎の幼時の記億によると三人の美しいお姫様が相前後して南竜社に参詣されたことをはっきり 覚えていた。南竜祭の日には旧藩士達が多数参拝に来て、所謂御殿で赤飯の供応を受けるのだが、旧 だから御殿に働く女中の数は恐らく三十人位もあったろう。老女は何れも品のいいしっかりした人で、 殿様やお姫様の部屋にもそれぞれお付の老女があって、その下に幾人かの女中がいたようである。 んはその下に二、三人の女中を使っていた。 書生が交代で勤めたほかに、田安家から付いて来たお保さんという老女が世話をしていたが、お保さ 境となっていた。結婚前の若様︵頼倫侯︶の御室は奥の入口に近いところにあって、そこには二人の 御殿は表手と奥とに区別され、長い畳廊下のはずれに花鳥の画を描いた杉戸があってそれが両者の 上田章の遺子であるために特に単独で頼倫侯に召されたこともあった。 は出なかったが、打球を催されたとき他の子供と一緒に拝見に行ったことはあった。また、貞次郎は きに陪席したり、また頼倫侯の乗馬の稽古の御相手に出たりした。貞次郎は年が少かったので乗馬に 邸内の子供や青年が打揃って御殿へ行く機会は正月と南竜祭のほかに、時々奥で講談を聴かれると 館であるが、その建築は和洋折衷の変ったものだった。 たので、貞次郎も出て祖父の友人等から名前を聞かれたりした。旧藩主の供応される場所は表の西洋 のはいいとして、終りに乱暴するような人もいた。邸内の子供達で十歳以上の男子は接待に呼出され 藩士の陸軍士官が正装して乗馬で来るのはなかなかの盛観だった。しかし中には酒に酔って議論する ち 泣男の家職と対等の地位をもっていた。 貞次郎にとって邸内の少年、青年は皆遊び相手だったが、或時代に十人位のものが交学会という団 熱 章 一体を作って毎月各自の作った文章を集めて一綴りとして回覧し、また時々わらじばきで遠足をしたこ 第 とがあった。しかしその連中の内成年後まで親交を続けたものは一人もなく、ある者は天折したり、 43 後まで生存したものも境遇のちがいのために疎遠になったのである。 ∠ 貞次郎が正則中学の上級になった頃には邸内のものよりも学校の友人と親しくなり、終生付合った 貞次郎の散歩癖はこの永沼先生や邸内の交学会によって養成されたかと思われる。それに祖母も自 楽しかったと書いている。 堀切の菖蒲園、亀戸天神など、広重描くところの江戸名所そのままの名所めぐりが出来たので、実に が時に遠足に子供をつれて行くからであった。貞次郎はこの先生につれられて目黒不動、蒲田梅園、 に行くので、貞次郎も祖母に請うて行かせてもらった。これは手習がしたかったのではなくて、先生 高等科になってからは、同級のものが永沼富英という体操教師で書をよくする人の自宅へ書の稽古 のために塾通いをするのとは全くちがって教養を身につけるに役立ったかも知れない。 ろん素読だけで講義を聴かなかったから、何の用をなしたかはわからない。これは現代の子供が受験 たので、貞次郎も学校から帰るとさらに森と云う老人の家へ通って大学、論語、中庸を読んだ。もち 徳川邸内の子供は公立学校に通うかたわら、漢学の先生について四書の素読を学ぶことになってい こをすれぽ自分が大将になることが出来た。 身体は小さくて腕力も弱かったが、学校で腕白なものにいぢめられるようなことはなく、学校ごっ た。学校は好きだったから、学校のことで祖母に世話をやかせたことはあまりなかった。 て士族の子は少なかった。小学校で貞次郎は優等生だったが、時には怠けて叱られたことも憶えてい 飯倉小学校へは双方の子供が通学していたが、何れかと云えば商家の子、すなわち平民の子が多く ころにある。 も江戸地図に載っている︶は分譲されてしまったが、やはり坂の上は高級住宅地で、商店街は低いと 前にこの付近に散歩したときには既に徳川邸をはじめ、稲葉邸、秋田邸、松平邸、島津邸等︵いずれ 当時の麻布は高台に華族や官吏の屋敷があり、低いところに商店街があった。貞次郎が亡くなる直 高等科四年となり、一度飛び級をしたが七年間この学校に通った。 で、麻布森元町にあった。初めは初等科六級︵一年生︶に入ったが、途中制度が変って尋常科三年、 貞次郎は明治十七年、満五歳で公立飯倉小学校に入った。この学校は家から歩いて十五分位の距離 五、飯倉小学校のころ から自然話が合わなくなったようである。 人もいた。邸内のものは大抵中学まで行ったが、上級学校に入ったものは一、二を数えるだけだった 44 ち 一 貞次郎が小学校時代に学校以外、徳川邸以外のことで記憶しているのは氏神様のお祭と毎月一定の ことを覚えていた。 泣 然に対して少からぬ興味を持っていたので、幼少の時には祖母につれられて芝浦や上野などへ行った 塾 章 第 日に行われる神社仏閣の縁日だった。これは江戸時代の年中行事が明治の中頃にも相当盛んに行われ ていたことを示している。貞次郎の氏神は西久保の八幡宮だったが、飯倉小学校は飯倉の熊野神社の 45 氏子の地域内にあったので、この二社の年一回の大祭の日は学校は休みとなって朝から遊ぶことが出 大教授、後高商教授︶、元良勇次郎︵当時東京帝大教授︶の三氏が麻布、芝両区に住居する有力老と 年前に創立された私立学校で、外山正一︵当時東京帝大教授、後文部大臣︶、神田乃武︵当時東京帝 正則予備校ー後に正則尋常中学校となり、さらに正則中学校となったーは貞次郎の入学する一、二 かに一人で、他は和服に袴である。下町の町家の子供が多かったためだろう。 校を卒業したときの同級生は十人位で卒業記念写真が残っているが、洋服を着ているのは貞次郎とほ 明治二十四年三月に貞次郎は飯倉小学校高等科を卒業して、芝公園の正則予備校に入学した。小学 六、正則中学校に学ぶ 憶えていて、かかさず出かけたのである。 子供等は毎月三日は熊野様w十日は金比羅様、二十一日は大師様、二十四日は愛宕様と縁日をよく て、洗いたての浴衣を着て露店を見ながら散歩するのは当時のリクリエーションだった。 える。子供等は小遣銭をもらって買物すれぽ尚いいが、何も買わないとしても夏の夕方行水をすませ の時代も同じだったし、現代の子供がデパートでカブト虫やカニなどを買っているのも同じ志向と云 縁日の興味はもちろん露店にあるので、特に植木や金魚や虫などが子供の注意を惹いた。これは私 の興味がなくなったためである。この祭礼のうち幾つかのものは戦後復活されている。 祭礼が何時から衰えて行ったものか、貞次郎の記憶は確かでないが、中学時代になって傍観者として 神輿は氏子中の若い者がかつぐのだが、それは町家の人ぽかりで士族は全く傍観していた。江戸の 二、三時間も徳川邸の前に群集と共に立ちつくしたこともあった。 では道路が雑沓するようなことはなかったが、八月十五日の暑い日に八幡宮の神輿の来るのを待って、 貞次郎も祖母につれられて、赤坂の呉服屋か何かの二階で一日暮したことがあった。麻布辺の祭礼 商店の二階を借りてそこの窓から見物することにしていた。 するし、しぼしば喧嘩などもあるから子供つれで見に行くのは危険だった。その日には特に何れかの 貞次郎の小学校時代には数十本のだしが市中を練り歩いた。それは実に壮観だが、道路は群衆で雑沓 や踊り屋台の来るのを待っていて見るのが面白かった。山王と氷川は江戸時代から有名な盛んな祭で 日には見せ物や露店が数多く出るので、それを見て歩くのも楽しみだったが、特に神輿の行列、だし 来た。そのほか近所にある神社の芝の大神宮、赤坂の氷川、麹町の山王の祭には大抵出かけた。祭の 46 ち 謀って設立したものであり、生徒は中流以上の家庭のものが多かった。 泣 飯倉小学校の生徒は家庭の裕でないものが多かったから、それと比較して学校の空気は全くちがっ 墨 章 があり、金杉に私立攻玉舎︵現在攻玉舎高校︶があり、三田に慶応義塾があった。この中で慶応義塾 一 ていた。その頃麻布、芝方面の中学としては築地に府立中学、その後府立一中︵現在の日比谷高校︶ 第 47は紀州藩と縁故深く、兄敬太郎も幼稚舎時代から入学していたし.徳川邸内の友人たる鵜沢兄弟も行 っていたから、貞次郎もそこへ入れられそうなものであるが、何故か兄は弟のために正則を選んだ。 を読んでも、はじめから文章は簡潔でわかり易く書いていることは衆人の認めるところだと思う。 の文章を見てもその自信の程がうかがわれ、明治二十六年からの﹁日記﹂︵上田貞次郎日記、全三冊︶ なかったが相当やったのである。﹂と書いているが、中学二年︵明治二十五年︶に書いた﹁遠足日記﹂ 技等は甚だ不得手であったが、頭はわるくない方で文章や語学には特に自信があり、数学は好きでは 貞次郎は﹁身体が小さく、腕力が劣っているばかりでなく、運動神経が発達していなかったので競 のちまでも語っていた。 た。又博物の猪間収三郎先生が進化論を講ぜられたことは貞次郎の生涯に大きな影響を与えたとのち それから数学の岡幸祐先生は梢ξ神経質で厳格な人だったが、同氏から論理的な考え方を教えられ 教えを乞うたことが﹁日記﹂に載っている。 結果後述の修身十一一則を実践することともなった。貞次郎は正則を出て高商入学後も先生を訪問して は中学生に適するような色々の話の中で旧来の論語主義を脱した学術的の道徳を吹き込まれた。その たことがあった。先生はアメリカの大学で勉学され、帝大では心理学を担当しておられたが、正則で 身の講義を熱心に聞いて修養に心がけるようになった。元良先生には度々お宅へうかがって教を受け 貞次郎は正則予備校在学中、三先生の教化を受けたことはもちろんだが、その中でも元良先生の修 物が多かった。 通信社創立者、現在の共同通信の前身︶等が後に有名人となったが、そのほかにも素質のすぐれた人 友会代議士、鉄道大臣等歴任︶、佐藤尚武氏︵駐ソ大使、外務大臣︶、神鞭常孝氏、岩永裕吉氏︵同盟 士等である。当時の生徒では長与又郎医学博士︵東京帝大総長︶、本野亨工学博士、内田信也氏︵政 例えぽ岸上鎌吉理学博士、田丸卓郎理学博士、塩沢昌貞法学博士、原随園文学博士、狩野亨吉文学博 も優秀な人が多く集って協力されたようである。その頃の教員で後に学界に名をなした人も多かった。 自尊心に訴えて校内の秩序を立てるのだ。﹂という意味の演説をされた。創立者たる三先生以外の教員 ある時卒業式に校長の神田先生が﹁この学校には何々すべからずという立札は一つもない。生徒の な学級に分れていた。 たものを校舎として用いた。生徒は貞次郎の入学したとき百人位だったが、それが二十人内外の小さ かつ熱心に経営された。所在地は老樹うっそうたる公園の中で、元海軍省の御雇外国人の住宅であっ しかし当時の正則は非常によい学校だったことは疑ない。創立者たる三先生が出て来て教えられ、 恐らく通学の距離が近いことが主なる理由だったかと思われる。 48 ち 泣 大造船科卒、逓信省技師︶とは生涯を通じての親友となった。 一 の頃、高橋鎗四郎、加藤成一、河野広一の三氏と最も親しくした。とくに加藤成一氏︵二局、東京帝 人生というものに対する研究心も四年位の時から起って、友人達と日々討論するようになった。そ 熱 章 第 貞次郎の中学時代は、母の病気のために決して恵まれたものではなかった。貞次郎は看病の話は私 49 ったようだが正確にはわからない。母は、明治二十六年にこの精神病が再発し、その後腎臓病を併発 達にもしたが、母の病気については何も云わなかった。後になって伯父に聞いたところでは、欝病だ 50 して二十九年三月死亡する迄臥床していた。当時伯父はすでに徳川家に勤めていたので看病は貞次郎 の役目となった。松尾伯父が同宿したり、伯母や菊枝叔母︵伯母の義妹︶が手伝ってくれたことはあ ったが、約三年に及ぶ看病は十六歳から十八歳の少年にとって大きな負担だった。貞次郎はそのため にスポーツなどは人並にやれなかったと書いているが、学業の方も二十七年には約四ヶ月全休してお り、二十八年には学年試験を受けられず、四月に再試験で五年生になっている。また、二十九年卒業 のときには母の死亡で試験の一部を残したために追試験で卒業したような次第である。 母の看病をしながら石油ランプの下で、動物や地理に関する書物を読んだ。南洋探険家になりたい などと空想したこともあった。それから高橋鎗四郎氏等と交友を結んでから、倫理道徳論に興味をも ち、実践修養に志し、明治二十八年にフランクリン自叙伝を読んでからその十二則にならって自分で ﹁修身則﹂なるものを作った。それは謹言、慎重、厳密、経済、摂生、勉強、大胆、寛大、決断、礼 儀、高潔、仁愛の十二ヶ条を挙げ、日々反省して反則を自ら採点したのである。このいわぽ自律の精 神は個人主義、自由主義の基本をなすものであり、貞次郎の人格形成の上で大きな柱となったようで ある。 貞次郎のことを加藤成一は﹁当時︵中学時代︶の上田君は福沢翁崇拝家で独立自尊、自由、平民主 義を通して居ました。夫から几帳面で秩序を重視し、容貌、態度を端正沈着に持せんとし、自分の経 済は皆予算を立て之を律し、将来着実なる紳士的実業家たるを期した様です。﹂と一橋新聞にのせた追 悼文に書いている。 貞次郎は私どもに﹁オレは中学校時分は生意気だったよ。﹂と云っていた。また、 ﹁その時分は母の 看病をしていた。﹂とも語った。早く父に死別して母一人、兄一人だったから、肉体的にはとも角、精 神的には早熟になったのだろう。中学五年の﹁処世余録﹂第三冊によると ﹁余が一生涯の大目的は合晦。昆宮夢Φ目§にあり。故に商業家になると難も自利の為にせず、金 銭を得ると難も社会の為に散ぜんとす。﹂﹁貞が最も貴重するものは、第一善の道、第二日本帝国、第 三上田の家﹂などとある。 また﹁二十八年十月、余が家兄の問に応じて認めたる覚書下の如し。 一、 謾y、友人及び自身の考を参酌して、貞の性質を見るときは支配力、経営力あれども臨機の才に ち 今後の修学に付覚書 泣 乏しきの大欠点ありとするもの其綱領なり。 墨 Eの如くなるが故に活漫頻繁なる商業事務には不適当なり。然れども銀行、会社員等には最適す 一、 一、 ネ上の事により家の事情を斜酌して考ふるときは、今後取る可き修学の方針は銀行会社員に適す 可きが如し。⋮⋮⋮ 章 一 第 51 一、 Rるときは其修学の場所は左の三に帰すべし。但し其順序は貞の志願の多少に従ふものとす。 可きものならざるべからず。 52 第一、高等商業学校 第二、慶応義塾 第三、正則学校卒業後直に商家に奉公。︵銀行書記助手等︶以下略﹂ ﹁二週間の後商業学校に入らしむ可き由家兄の許を得たり。﹂そして受験料︵一円五〇銭︶授業料︵半 年分一〇円︶制服、靴︵一五円︶の購入予算を立てている。 かくて、七月に高等商業の試験を受けて合格し、九月から神田一ッ橋の同校に通学することになっ た。 第二章高商学生の時代 @一ツ橋の前史 一、 貞次郎は実業家となる目的で高等商業に入学したのだが、予科一年、本科三年の学業ののち、さ亡 に専攻部に二年勉学した。そして卒業のときまで実業界に入ることを望んでいたが、図らずも母校に 残って教授となり、その全生涯を一ッ橋にさふげることふなった。したがってこSにまつ一ッ橋の成 立から、この年に至る略史を述べて、その伝統をさぐることとする。 東京商科大学︵現一橋大学︶は明治八年八月﹁商法講習所﹂の開設にはじまった。開設を企画し創 立したのは森有礼︵当時外務少輔︶で講師として招かれたのがW・C・ホイットニー︵司白寅白○。, わが国は幕末︵安政五年︶に開港して、明治維新後に急激に海外貿易の発展を見たが、外人貿易商 わが国の現状に照らしてこの計画を実行したのである。 生 険。。弍Φ已弍匡ヨΦぺ︶だった。明治もはじめの頃だから、先覚者たる外交官が自己の海外における経験と 学 の 代 時 商 高 章 二 との交渉に慣れない日本の商人は、生糸、茶その他の日本商品を外国商人の思うがままに買いたたか 第 れ、かれらが海外で途方もない値段で売りさぽいて巨利を得ているのを指をくわえて見ているしかな 53 かった。 この不合理に対して当時の先覚者達は大いに憂いたのだが、その代表的な人物は福沢諭吉、勝海舟、 三月には最初の卒業生成瀬正忠、森島修太郎の二名が出た。なお、この年はさらに四月一名、七月四 名計七名の卒業生が出た。成瀬、森島は直ちに商法講習所助教心得に任ぜられた。この両人は講習所 の設立に際して慶応義塾から移って来たものである。福沢諭吉は早くより、新たに開けた外国貿易に おいて外国商人に対抗出来る有能な商業人を育成することが時勢の急務であることを痛感していたの で、森と富田の要請によって﹁商法講習所設立趣意書﹂を書いたぼかりでなく、塾から学生を移籍し て設立に協力したのである。 ホイットニーはわが国にアメリカ流の商業教育を伝えたが、矢野二郎と合わなかったためか、明治 十一年六月に講習所を解職された。しかし彼の足跡は決して小さいものではなく、とくに簿記及び商 業算術は森島修太郎の著訳書﹁三菱商業学校簿記学階梯﹂︵明一一︶﹁商業算術学﹂︵明一九︶を通し て後世に伝えられることになった。 商法講習所の管理ははじめ、東京会議所が担当していたが、明治十二年東京府会が成立するに及ん で講習所などの事業も府会に移管され、予算の審議・議決権は府会がもち、経費は地方税の支弁とな った。この年は講習所費四千九百余円の要求にたいし、二千五百円しか認められず、渋沢栄一等十二 松田府知事は七月三十一日付で商法講習所の廃止を布達するが、渋沢らの要請もあって農商務卿に補 二 名が千二百余円を酸出して補充した。同十四年には府会は講習所予算を否決してその廃止を決議した。 生 学 の が一円、他府県の者は一円五十銭で在学生は明治八年が二六名、翌九年は四二名だった。そして十年 講習所の修業年限ははじめ一年半だったが、同十年から二年になった。最初の授業料は府下在籍者 矢野二郎が講習所長に任命された。 ねられた。そして翌九年五月、京橋区木挽町に校舎が落成したので移り、また外務書記官を辞任した 森は設立の直後、清国駐在公使に任ぜられたため、校事は東京会議所︵会頭渋沢栄一︶の管理に委 千円を引き出した。この間、勝海舟は講習所の準備のために千円の寄付をして創立を助けた。 業学校の設立に着手したが、その経営については渋沢、大倉喜八郎を動かして東京会議所から年額三 中に立てられたが、ここにあった鯛味噌屋の二階が商法講習所のぞもくの発祥の地である。森は商 昭和五十二年、一橋大学百年記念行事の一つとして商法講習所開設の碑が銀座松屋前の人道植込の 七月一時帰国したときに彼︵ホイットニー︶を招聴することにきまったようである。 ー商業学校に学んだ。その校長がホイットニーであり、森は富田を通じて彼を知り、富田が明治七年 として渡米し、ニュージャージー州ニューアークにあったブライアント・ストラットン・ホイットニ 義の実態を見聞して明治六年六月に帰朝したのだった。これよりさき、富田鉄之助は仙台藩の留学生 森有礼は明治三年十月米国駐在代理公使に任じられ、当時隆盛期に向いつつあったアメリカ資本主 渋沢栄一等だった。 54 代 時 商 高 章 第 助金︵九六八四円︶を上申し、これが認められて講習所は継続することになった。 55 かくて明治十七年からは農商務省の直轄に移って東京商業学校となり、さらに翌十八年からは文部 省の所管となった。この年九月、東京商業学校、東京外国語学校および同校所属高等商業学校を併せ 56 て東京商業学校と称し、神田区一橋通町一番地の東京外国語学校校舎に移った。このとき、創立十年 にして生徒数二三八名、内外教員数一三名、予算は約一万円となった。東京商業学校は十九年、教科 を尋常科︵三年︶、高等科︵二年︶、の二科に分けたが、二十年にはこれを廃止して、予科︵一年︶、本 科︵四年︶となった。二十年には江口定條.水島鋳也が卒業した。なお、二十年十月には高等商業学 校と改称した。 明治十九年一月には商工徒弟講習所を木挽町の旧校舎に開いて、二十三年一月東京職工学校に移す まで本校の付属とした。職工学校は東京高等工業学校︵現東京工業大学︶の前身である。また同年五 月には大蔵省所轄銀行事務講習所を文部省に移管して、本校付属とし、銀行専修科と称した。同科は 二十二年三月主計学校となり、二十六年三月まで存続した。この結果、明治二十年末の学生数は徒弟 講習所、主計専修科を含めて三五九名、教員数は三七名となった。 この間、創立者森有礼は明治十七年五月、駐英特命全権公使から参事院議官に任ぜられて帰国し、 やがて文部省御用掛として高等商業学校の校務を監督することとなった。同十八年十二日内閣制度実 施による第一次伊藤博文内閣で、森は初代文部大臣となり、急進的な欧化主義者として知られるが、 商法講習所の第一回卒業生で高商教授となった成瀬隆蔵︵正忠︶は二十五年三月大阪商業学校長に 積し、ついに二十六年四月免職となった。 て身をもって商業教育の発展に尽力したが、時勢の推移に若干のずれが出来てそれが学生の不満を累 期して文部省に意見を陳述してその貫徹を期した。矢野は明治九年商法講習所以来十七年間にわたっ 騒動となり、本科二年生四五名が退学を命ぜられた。学生はなお、教育制度および学制の向上発展を ち、辞職勧告を行うに至った。学校側は大改革を図るが、学生はなお心服せず、翌年一月開校式にも ︵校舎改築費︶二万円計六万五千余円となった。この年末に学生は矢野校長の前垂型教育に不満を持 明治二十四年には学生数は主計学校を含めて六〇六名に達し、予算も経常部四万五千余円、臨時部 年帝国大学令により、帝国大学となった。 憲法発布の日︵明二二・二・一一︶刺客に暗殺された。なお、明治十年創立された東京大学は同十九 の 代 時 転出し、同教授森島修太郎も同年四月転職を命じられた。成瀬は後に実業界に入って日本生命保険の このような事情もあったためか、矢野校長の辞任後、高商の校長は文部官僚などの指定席となり、 生 創立者となり、長命で昭和十五年貞次郎が亡くなった時もまだかくしやくとしていた。森島はのちに 学 商 日本海陸保険株式会社支配人となるが明治四十三年八月逝去した。 高 章 なった。そして貞次郎が入学した明治二十九年は矢野の後二代目の小山健三校長の時代だった。 二 続く二十二年間に六人の校長が交替し、その中継ぎとして文部当局者七人が短期間ながら事務取扱と 第 57 毒 二、高商学生の生活 貞次郎が入学した明治二十九年の入学者は百二十九名で、予科一年、本科三年の全在学者数は約五 百人だった。そして同三十三年卒業したのは八十一名だから、歩留りは六割に過ぎない。中途で学業 を放棄せざるを得なかった理由はいろくあると考えられるが、当時の社会的、経済的な変動が大き な要因だったことは争えないことと思われる。 貞次郎の入学した明治二十九年に高商では学科課程の大改正が行われた。予科では博物、図画の二 科が廃止されて新たに第二外国語が加わった。本科では単一科目だった法律を民法、商法、国際法の 三科に分けた。経済および統計は経済学、統計学、財政学の三科になり、商業要項および実践を商業 学、商業実践の二科に、また機械工学が新設され、商業地理および商業歴史が商工地理および商工歴 史に改められた。 その結果、予科は十課目週三十三時間であるが、このうち英語九時間、第二外国語三時間で商業課 目は商業道徳︵一時間︶と簿記︵三時間︶である。本科は三年間に十八科目、九十六時間あって、商 業課目は八科目︵合計四十一時間︶、経済科目三科目︵七時間︶法律科目三科目︵十時間︶、語学は英 語︵各年六時間︶、第二外国語︵同三時間︶などで商業科目と語学が中心となって編成されている。 貞次郎はこの新しい学科課程の下で予科一年、本科三年の学業を修了したのだが、この期間を通じ てその成績順位は決して優れたものではなかった。例えば三十二年七月、本科二年の学期試験の結果 は﹁全級中四分の一以上にでも居る事能わず。是実に平生の不勉強に由る者に非ずして何ぞ。顧みて 自ら漸塊に堪へざる者なり。﹂と書いている。そして三十三年卒業順位は八十一名中二十番だったので ある。貞次郎が在学中に刻明にとったノート︵全三十六冊︶が私の手元に残されていた。このノート は昭和四十八年五月、日記、講義ノートなどとともに一橋大学図書館に寄贈した。 、 貞次郎は高商の学生ではあったが先覚者としての福沢諭吉に傾倒して福沢に関することは.日記の随 所に書いている。例えば二十九年十一月には松村介石の﹃福沢先生の気品論﹄を書いて大いに感銘し ているし、三十一年二月には﹁総て経済上の議論はの汀書苔ωを元とすべし。之に由らざる者は全く 取るに足らず。又商売のみならず、一切万事実学勺匡。・ば巴乙Q⇔討昌8を以℃考ふ可し。熟練は取るに足 らず。無学者十年の経験は学者一日にて得可き者也。︵福沢先生︶﹂と書いている。 さらに三十三年の懐旧録には﹁余が英国流の紳士を理想としたのは﹁セルフヘルプ﹂を読だ時分か 二 はあの流儀がやはり善い と 思 ふ 。 ﹂ 修身要領といふものが出来た。独立自尊ということを根本の主義として徹頭徹尾押し通してある。僕 本分なれとは福沢先生の至言にして我等の已に同化せる思想なり。﹂同三十三年五月には﹁福沢先生の 生 また、三十二年七月には﹁世の中は児戯なり。されど、其児戯を直面に受けて世に交るこそ人間の 学 の 代 58 時 商 高 章 第 59ら萌して来たので、その後著しい感化を受けたのは福沢先生の百話で在た。﹂と書いているが、翌三十 四年二月五日には﹁昨夜十時五十分福沢先生逝く。余は曽て先生より直接の教訓を受けし者に非ざれ としての大切な条件だと思う。幸にして自分は勉強して行く中に次々と新しい問題にぶつかってこれ を研究して行くことが出来た。多分これが自分が学者として学界の末席をけがすことの出来た理由だ と思うと云う意味のことを答えたのである。さらに、後年私達が貞次郎から聞いたところでは﹁学校 の成績なんか余りあてにならない。自分の級の一番の人は大したことはなかった。一年上級では三浦 ︵新七︶さんと五十嵐︵直三︶さんが一、二番だったから、社会へ出てからも成績通りの活躍をした がね。﹂ ということだった。あるいは母の看護で学業のみに専心出来なかった中学時代からの生活の惰性が影 響していたのかも知れない。 この時代には市内の交通機関として市電はまだなかったから、貞次郎は麻布飯倉から神田一ッ橋迄 徒歩通学をした。いまこの巨離を直線ではかっても五粁はあるから、若い男の足でも一時間以上かか ったのではないかと思う。もっとも地方では毎日二里とか三里の道を中学校へ通ったなどと云う話が 稀でない時代だったから、この程度の通学はとりたてて云う程でもなかっただろう。二十九年十月に は﹁此頃、日々雨天の為、道路ぬかり、靴を没す。神田、一ツ橋、西ノ窪特に甚し。毎日通学に困難 二 す。﹂とある。 生 学 の 代 出来ない。だからわからない点を一つ一つ研究して、問題を解明して行くのだ。この努力こそが学者 話したことがある。これに対して貞次郎は、自分は君達のように頭がきれないので物事が充分に理解 なかった。従って親友前田卯之助なども後になってお前が学者としてえらくなるとは思わなかったと の点数をとったとかの話を聞くのだが、貞次郎の場合は全くこれらの話とは異って平凡な成績に過ぎ ずば抜けた成績をとることが当然で、とくに優れた学者の中には学校創設以来の成績とか、歴代何位 普通の学校常識から云えぽ、学者として母校教授の職につくほどの者は級中では一番とか二番とか 没頭して.一般の学業については必ずしもガリ勉によって点数がせぎをしなかったように見える。 従って貞次郎はこの当時から、経済学とくにミルやマーシャルを中心とする正統派経済学の研究に にしたきものなり。﹂と書いている。 済学の大成なり。之は如何様の誘引、妨害ありても一通りの書物は読み上げて一通りの意見は立つ様 をそそられ、研究の度を深めていった。三十三年二月には﹁尚一の大試金石は昨年来思い立ちたる経 他方、貞次郎は三十二年から、、・・ルの経済原理やマーシャルの経済原理を読み始めこれに深く興味 る。 かりしと自ら信ずる者なり。﹂として深く哀悼の意を表し、同八日の福沢先生の葬儀に参列したのであ ども、先生の人物を慕ひ、先生の主義を好みたる事は、直接先生の教訓を受けたる人の多数より甚し 60 時 商 高 章 第 当時の学生生活をふり返ってみると、月謝は年間二十五円で服装は制服、制帽に靴が規則だったが、 制服はともかくとして中には靴を持たない者もあった。貞次郎は制服、靴で十五円の予算を作ってい 61 \ る。毎月の生活費は下宿代が十円前後︵二食付︶だったようである。米価が一升十五銭位だから、飯 これを現代と比較することは難しいが、戦中、戦後のイソフレ期を経て物価が三千倍、それに下宿 代.交通費、娯楽費等の追加分があるので、学生の生活費は月額九⋮]○万円程度︵昭和五十五年現 在︶と見ていいのではなかろうか。いずれにしても世代毎に物価は倍増し、学費もそれにつれて高騰 したのである。 身体が小さくて、運動神経も鈍かったので、貞次郎は当時盛んだったボートやテニスに青春をかけ ることなく、スポーツはせいぐ気晴らし程度に楽しむに過ぎなかった。また、柔剣道については殆 んど関心はなかった。趣味と云えぽ遠足と休暇中の旅行だった。この四年間に貞次郎がとくに心血を そそいだことと云えぽ和歌山学生会と九鼎社だった。 三、和歌山学生会のこと 和歌山学生会には入学した年の十一月十日に入会し、同十四日には﹁午後神田連雀町、金清楼に於 る和歌山学生会秋季大会に出席し、夜九時帰宅す。﹂とある。 たと云える。とくに幕府時代御三家の一つなる徳川家を戴く紀州人にはまた独特のプライドがあった 二 およそ日本人の郷土意識は現在でもなおさかんだと思われるが、当時はさらに地域的紐帯は強かっ 生 学 の 付蓄音機ががなっていたものである。それに休日には映画を見る位が普通の楽しみだったのである。 って、コーヒー、紅茶が十銭だったと覚えている。あくの抜けない女の子が居て、ガタ︿のラッパ 特別の場合を除いては和服に袴を着けた姿は見かけなくなった。また、石神井あたりでも喫茶店があ 価指数は明治三十年代の二倍とみていいようである。明治時代と比較すると服装は制服に一体化され、 時代で、そぼのもり、かけが十銭、市電が片道七銭、煙草︵バット︶が七銭の時代である。大体の物 時の月謝は年六十五円、一ヵ月下宿代、本代、小遣を含めて三十円程度だった。米一升が三十銭台の それから三十年後昭和初めのわれくの学生時代は震災で移った石神井のバラック教室だった。当 したがって一ヵ月の学生生活費は十五円程度とみていいようである。 もちろんたまのクラス会ともなって牛屋に行って酒を飲んでタラ腹食えぽ五十銭位の散財となった。 知恵だったのである。 くらだと聞いたら、ただだと云うのでそば湯を飲んで空腹をしのいだ。このようなことが貧乏書生の 屋へ入った。もり、かけが二銭だったが三人の持金を合せても足りなかった。仕方なしにそば湯はい かまどにあたって暖をとったとのことである。また、旅行の帰りに腹がへって来たので同行者とそぽ える。貞次郎から聞いた話では神田で下宿していた頃、夜になって寒さがこたえると焼芋屋へ行って 遣と云ってもおやつに焼芋程度だった。その焼芋が一個一銭で足りたと云うから至って安かったと云 と味噌汁は食い放題としても結構下宿屋は成立っていたのだろう。交通費は要らず、本代を除けば小 62 代 時 商 高 章 第 だろう。俗に和歌山と岡山はお国ぶりが強くて徒党を組んで行動すから油断がならないなどと云われ 63 たものだが、この時代にはもとより薩長土肥には及ばざること遠いし、またそれ故に独自の反骨が湧 には次の通り書いている。 ﹁先頃の事、余は偶然家兄の宅に帰りしに、家兄余に語りて曰く﹃先頃川瀬善太郎氏を訪ひしに、学 生会の話出て、氏は一度学生会の幹事に面会して篤と御話したき事あり。即ち同会の事業の事なり云− 々と云われたり﹄と。余は前々より同会評議員会の事は川口会長の賛成なければ決し難し。而も此度 の事業の事に関しては川口氏の反対するは評議員中有力者の賛成なき為なりと、確かに信じて居たり しかぽ是れ実に乗ずべきの機会なりとし、早速川瀬氏の閑暇の日を問い合せ、即ち二十五日に学校を 休み、滝本、植木、野田三氏と共に川瀬氏を訪ひたり。時恰かも三日の一金会議に付すべき事業案を 各評議員に送りたるときなりけれぽ、直ちに之に基きて此度の主義を明かにし、方法を説明したるに、 川瀬氏は寄宿舎に就ては困難多からんも、貸費に就ては考ふる処あり、 二眉入れて見んとの事にて、 吾人は大に力を得、其翌々日には早速幹事会を開き、従来寄宿舎説に傾きたる幹事の意見を回して、 二 事の時代には之が為に非常なる困難を評議員会席上に生じたる事業問題は決せられたるなり。﹂ 尾能く貸費実行を決したり。斯くして和歌山学生会が其成立の日よりの希望なる事業問題、而も前幹 為には余は二三回学校を休むをも辞さざりしが、吾人の尽力は空しからず、三月三日の一金会にて首 生 貸費説に一決し、夫より各手分をなして総ての評議員を訪問し、其意見を仰ぎ、其賛成を求め、之が 学 の と貸費制度創設の二事業が学生会の新たな要望となっていた。これについて﹁日記﹂︵三十二年二月︶ ただ集って名士の話を聞いたり、相互に懇談するだけでは実質的な利益がない。そこで寄宿舎の建設 こに通うことになった。学生会の行事としては先述の春秋の総会その他の会合がおもなものだったが、 当時、学生会は事務所を持っていて、貞次郎は幹事として週一回、あるいはそれ以上しげしげとこ なるとベストを尽して学生会のために奔走することになった。 についても東京育ちで郷土和歌山を知らないということで辞退の気持が強かったのだが、一旦幹事に 本科二年になって幹事に選挙されたので、学生会の活動の中心に立つことになった。幹事に就任する はじめ貞次郎は学生会で高商の上級生の滝本や根岸との交友に啓発されたようだが、三十一年九月 いた。彼等はいずれもすぐれた人物で貞次郎の生涯の友となった。 は同輩に島薗順次郎、野田孝一、豊田鉄三郎がおり、先輩には下村宏、田申忠次郎、明渡泰次郎らが 高商の同輩には野田一、岡本創ら、先輩には滝本美夫、津村秀松、根岸倍らがいた。一高、帝大で 士の話を聞くとか、官立大学だけの新年宴会などもあり、もちろん各学校単位の会合もあった。 催し、東京在住の官公私立大学、高等学校の学生、百名前後が参加した。このほか、郷里出身の代議 当時の和歌山学生会は会長が川口主計総監で川瀬善太郎農科大学教授らが幹部で、春秋には大会を いたのかも知れないのである。 64 代 時 商 高 第 章 もう一つの寄宿舎については鎌田氏を訪問せしとき氏曰く﹁寄宿舎も我が国の者許り一つ所に居て、 65 国の語を使て、、国の話ぼかりして居ると兎角世間の事が見えなくて困る。全体東京へ来た目的は,一 には多種の人に接して種々の事情を明かにするにあり云々。﹂とあってまだ機が熟さなかったと云えた 面々が中心となり、このときはまだ同社に入っていなかった貞次郎ももちろん参加した。 いうことで排斥運動に立上ったのである。学生らは各学年から委員をあげ、本科一年からは九鼎社の れた。学生らはこのような人物を校長にいただくのは一橋二十数年の光輝ある歴史をけがすものだと 清水校長についてはその人格についてもいろいろの噂があり、一種の学校ブローカーなどとも云わ 立学校でも矢野校長以来、官僚の圧迫に抗しながら発展してきたのである。 務官の校長就任が気にくわないことはむしろあたりまえだった。先にも述べたように一ツ橋は同じ官 将来は日本の実業界を背負って立つ意気込の学生達であるから、官立大学の元締めである東大の一事 の後任として東京帝国大学の学生監だった清水彦五郎が就任することになった。何しろ、覇気満々、 時の校長小山健三が、第三次伊藤内閣の成立とともに外山文相のもとに文部次官として転出して、そ このように校風刷新運動を続けている中に本科一年になって校長排斥運動が起った。というのは当 水だったので、傲文の撤回を命ぜられたが、もちろん承服しなかった。 同志を糾合するとともに同人雑誌を発行する計画をたてた。これらのことは学校当局には全く寝耳に 宿に集ってあれがいい、いやこうすべきだなどど議論しながら出来上った宣言文を学生食堂に掲げて、 与七、守屋収吉の九名だった。運動の手初めとして九鼎社宣言と云う激文を書いた。九人が渡辺の下 間の飯田一馬、村田省蔵、南郷三郎、高島菊次郎、大谷英一とほかに前田卯之助、鈴木権三郎、渡辺 をはかろうとして九鼎社という会をつくった。九鼎とは古語にある九鼎大呂によったので、ボート仲 で学生たるものは質実剛健、破帽弊衣が当然だと思っていた同級生は入学後間もなくこの校風の刷新 貞次郎が入学した当時の高商の雰囲気はどちらかと云えば上品で柔弱に見えたようである。新入生 四、九鼎社の仲間 こととなったのである。 他に建設されて多くの郷土出身学生の根拠となった。そして貞次郎は生涯を通じて育英会に関与する 和歌山学生会は後述のように明治四十四年に南葵育英会に改組され、寄宿舎も東京をはじめ京都その 貞次郎は学生会幹事を三十一年九月から三十四年九月、専攻部卒業の前年までつとめたのである。 66 ようである。 の ったためか、聴衆の笑声を惹きおこした。しぼらくは壇上で立ち往生したが笑声の静まるのをまって 生 貞次郎は新校長排斥運動が起ったので、同級会の席上で演説をしたのだが、その主張が分りにくか 学 代 時 商 高 再び話したが結局は余り要領を得なかった。この演説は明かに失敗だったが、笑声に妨げられてもな 学生委員は文部当局に排斥の理由を具申し、先輩を歴訪して応援を求めるとともに、渋沢栄一︵本 章 二 おためらわずに続けられたのはまず人\だったと自らなぐさめている。 第 校商議員︶にも了解を求めた。このとき渋沢は、さて各々方という冒頭語で親が子に諭すような温容 67 の でじゅんぐと学生達が過激な行動をとらないように説いたということである。やがて渋沢は調停に ﹁前田、園田両氏と低酌閑談す。⋮⋮ 三十二年十月貞次郎は次のように書いている。 渡辺与七君 日向の人。或見識を有す。真面目にして、純潔なる人なり。校長問題当時初めて知る。﹂ 日初めて知る。 村田省三君 東京の人。才子なり。勉強家なり。欠点は野心多く、名利に拘泥する事深きにあり。本 めて知る。 南郷三郎君 石川の人。大胆にして深沈なる男なり。欠点は余り愛想なきにあり。校長問題の当時初 り初めは前田君に同じ。 園田権三郎君︵のち鈴木姓︶丹波の人。質朴親切にして勉強家なり。欠点は余り剛直なるにあり。知 点は動き易きにあり︶ 前田卯之助君 丹波の人。実着にして精密なる人なり。六月神田下宿に同居してより知り初む。︵欠 ﹁余は嘗て高商四百の学生中誰が我が益友なりと信じたる。今や即ち左の如し。 ある。 貞次郎は三十一年十月、友人の人物評を書いているが、九鼎社に関する人々については次の如くで また、ときには遠足会を催して一日の行楽をともにした。 を議論した。いずれも意気軒昂の青年だったから、口角泡を飛ぽした激しさが察せられるのである。 に親しくなり、九鼎社の一員となった。同社では毎月会合して経済問題、たとえば紡績業の発達など なったのもこのころのことである。また校長排斥を通じて貞次郎は南郷、渡辺、村田、飯田らととく する協定をむすび、違反者は罰金を出すことにしたと書いている。貞次郎が英語で日記を書くように ずれも英語を得意としていたが、さらに会話の上達をはかるために朝起きてから寝るまで英語で話を していた。三人は同宿のよしみもあって学校へ行っても行動をともにすることが多かった。彼等はい この事件当時貞次郎は兄が結婚したこともあって麻布の家を出て神田で前田や園田と同じ家に下宿 で夏期休暇中に退職を余儀なくされた。 、 生も渋沢の言を信用して排斥運動のほこをおさめたのだが、その言葉の通り、清水校長は就任二ヵ月 乗りだして、暑中休暇が終ったならばなんとか適当な処置をとるからといって学生達をなだめた。学 68 代 時 生 前田、園田両兄同じく丹波篠山に出でて其性は即ち相反す。一は才華絢欄の人、他は深沈寡黙の人, ﹁南郷三郎 冷頭、忍耐、剛毅、深沈、大度、 ︵其動くや水の如く、其止るや山の如し︶村田省蔵 二 更に、九鼎社の人物として ・ 以て倣う所ある可きの士 な り 。 ﹂ 学 商 前者の長所は諮達自在にあり、後者の長所は着実堅固にあり。而して与に余が為には絶好の益友なり, 高 章 第 69 活気満々、堅忍不抜︵眼底涙あり、皮下血あり、熱誠の逆る所天下敵なし︶大谷英一 温厚篤実、恭 時 敬自遜。 ﹂ 一70 九鼎社については﹁村田省蔵追想録﹂︵昭和三十四年︶の自伝の部分、また﹁高島菊次郎伝﹂︵昭, 和三十七年︶に若き日の思い出として同様の叙述があり、前者には当時健在だった高島、南郷両氏が 回想を書いている。いずれも六十年前のことなので、時期などに若干のずれはあるが、彼等の記憶は 大体一致している。 なお、これより前.貞次郎が笈した昭和十五年五月、貞次郎の親友前田卯之助が一橋新聞に書いた ﹁共に一橋に学びて﹂と云う追悼文がある。少し長いが、彼等の生きた時代をさらによく説明してい ると思われるのでここに引用することとする。 ﹁上田君と共に我々が一橋に入学したのは明治二九年。日清戦争前の中学教育を田舎で受けて、靖献 遺言とか弘道館述義などで憂国慨世風に叩き込まれ、当時我が朝野を挙げての論議の中心であった法 権税権の回復と並んで高論せられていた我が商権回復戦の陣頭に立つべき準備とのみ意気込んで遙々 上京して入学した自分の眼に誠に泰平に見ゆる学風が気に入らず、同気の友を級中に求めて先づ村田 君︵現商船社長︶と交わり、追々高島君︵現王子社長︶南郷君︵現日綿社長︶其他数名と相知り、屡 々相合して談論している中に、一橋の学風を国士化すべく率先尽力する必要ありと一決し、結社同志 の人数に因で九鼎社の名を以て激文的宣言を学内食堂に掲出した所が、図らずも学校当局の忌諜に触 れ、時の小山校長から⋮撤回を命ぜられたのが本科一年の中頃、間もなく起った清水事件には本一から 選挙せられた委員の大半は此九名の社中から出て日夜を分たず奮闘するという様な事もあったが、上 田君外一、二が此社に入ったのは本科二年以後のことであった。 そうしてこの社中の相互間の親交が爾来久しきに亙って級友という関係以外に特に深かったのは勿 論であるが・中にも故人と私との間は在学中の交遊期間は僅かに二年に過ぎなか。たが、相互の居所 其他の事情に拘らず卒業後特に深いものとなら所謂兄弟呈と云う実情であ。たから過日来も 看護中其病勢革まり最早回復の見込なき枕頭に侍しつつ時に眼を窓外に放てぽ覚えず﹃散る花の後を ぽ追ひて我友は逝くか我友またとなき友﹄という歌のようなものが胸を衝いて出たのも当然で且つ自 然であった。﹂ きは友情を示したつもりだったが、あとで考えて悪いことをしたと思った。若しこれがぼれたら、自 二 在学中は検査を受けないでよかった。学校の方は入学したが、月謝未納で自然退学となった。そのと これによって徴兵延期の手続をして外国へ行ったと云うのである。その頃は一旦延期の手続をすれば でも貞次郎が親友に頼まれて、徴兵延期のために専門学校の入学試験を受けて合格した。その親友は 生 ある。その一つが﹁お父さんはむかし徴兵忌避をやったんだ。もう時効だがね。﹂と云うのである。何 学 の 代 貞次郎は自分の過去を子供達に聞かせるようなことは少かったが、今も私の記憶に残る話が幾つか 商 高 章 第 71 分も親友も兵役義務違反で懲役に行かなけれぽならない。こんなことは二度としてはならないとつく つく反省したと云うのである。 私なんかは徴兵忌避などそれ程悪いこととは思っていなかった。ただ、私の時代には若干法律が改 72 正されて、そんなに簡単には逃れられなかったので諦めて徴兵に応じたまでである。兵隊のない現代 ﹁日記﹂を見るとこれは明治三十四年九月のことである。 青年からみれば国民皆兵などは理解出来ない世界と思われる。 神戸村田から電報が来て、徴兵猶予のために東京の法律学校に入りたいのだが、自分は忙しくて受 験出来ないから代理試験を頼むと云って来て、そして翌日上京した。同君は近く清国上海に赴くこと になった。そこで専修学校の試験を受けた。問題が易しかったのか、堀光亀︵講師︶の尽力があった ためか、首尾よく合格した。そしてこの在学証明をもって徴兵猶予の手続をしたと云うのである。 村田の自伝にはこのことは書いていないが同年譜によると﹁明治三四年二四才一〇・一一漢口支店 書記一二・一上海出張所書記﹂となっていて、丁度このときにあたっている。 九鼎社同人を中心として明治三十三年卒業の人々は三々会と云う同級会をつくって、生涯を通じて 交友を続けるのである。この伝記にもこれらの人々との関係が随処に見られるであろう。 五、専攻部に進む 貞次郎は明治三十三年七月、高等商業を卒業して同専攻部に入学した。大部分の同級生はそれぞれ 就職して社会へ巣立った。貞次郎のとくに親しかった人々の就職先は次の通りである。 前田卯之助、石丸素一︵兼松商店︶、飯田一馬︵東京鉛管㈱︶、村田省蔵、高島菊次郎︵大阪商船㈱︶、 南郷三郎、山内恕︵二山商会︶、多久尭純︵堀越商会︶、大谷英一︵朝鮮銀行︶、斎藤良精︵高島屋、横 浜︶、守屋収吉︵三井物産︶ このとき貞次郎は専攻部在学中の学資をかせぐために、石丸素一が従事していた東京倶楽部の会計 事務を引継ぐことになつた。さらに翌年十月からは国民英学会の夜学校で英語を教えることになった。 この両者からの収入が貞次郎のこの後の勉学を支えることとなった。 専攻部では貿易科を選び、専ら勉学につとめるのだが、本科卒業に先立って当時同文館から発行さ れていた雑誌﹁商業世界﹂の編輯に携ることとなった。日記によると三十三年一月、当時商業世界の によって編輯され、三十一年以後は津村、内池廉吉、根岸倍らが委員をしていたが、津村が四月に留 学するために引つがれたものである。編輯者は学生だが、執筆者は彼等のほか、教授達が多く、水島 錬也、村瀬春雄、奈佐忠行、祖山鐘三などが主たる者として名をつらね、福田徳三︵在独︶、関一︵在 二 ベルギー︶も遠く海外から寄稿していた。三十二年には改正条約の実施が大きく取上げられており、 生 学 の 代 時 編輯主任洋村秀松に会って同誌の編輯委員となったと記されている。商業世界は高等商業専攻部学生 商 高 章 第 三十三年には三浦新七が商業学に関する研究論文を連続して載せている。この三浦の連載論文は商業 73 通論としてまとめられ、三十六年三月、貞次郎が校正をして出版されたものである。 貞次郎は同年二月号から三回に分けて ﹁欧米諸国の政府奨励金を論ず﹂︵署名なし︶を掲戴した。 新着のルート著﹁関税と貿易﹂の翻訳であるが、これが貞次郎のはじめての寄稿だった。ついでGペ 74 ソの製作者﹁サー.ジョシア・メーソン﹂︵貞城生︶をのせ、八月号からは﹁商業雑話﹂︵貞城生︶が 毎号掲載され、三十四年七月に及んでいる。学生のためもあってか、いずれも貞城生の筆名によって いる。この筆名は後々まで色紙その他の揮毫をたのまれた時に用いたものである。 専攻部で貞次郎の同級生は出淵勝次、堀光亀、渡辺与七、切田太郎等十四名だった。堀は本科では 一年先輩だったが、専攻部卒業は同年であり、卒業後ともに母校教師となった。出淵は外交官︵駐米 大使など︶となり、渡辺は九鼎社同人でのち宮崎県油津市長︵現在の日南市︶となった。切田は貿易 商に勤めた後、台湾高商校長となった。いずれも貞次郎とは生涯を通じてかわらぬ交友を続けた人々 である。 貞次郎の母校教師就任の事情は次章に譲るが、その経緯は日記に詳細に書かれている。 第三章学者への門出 沒c徳三との出逢いと破門 一、 貞次郎は明治三十五年専攻部卒業の直前まで実業家志望だった。これよりさき本科卒業の際、亡父 の塾生だった津田三郎海軍大佐が貞次郎を正金銀行に入れようとして斡旋したのだが、この話がまと まらないまま貞次郎は専攻部に入学した。そして津田は翌三十四年十月他界したが、正金入りの話は 同じ塾生だった岸幹太郎︵正金銀行︶に引継がれていた。しかし貞次郎は専攻部貿易科にあったため・ もあって、銀行よりも貿易関係に志望がかわり、三井物産入りの希望をもっていた。ところが、三十 五年六月になって福田徳三から学校に教師として残ることをすすめられ、そうすることに決意した。 担当は商業政策だったが、貞次郎にょるとその講義目録をもらっただけで講義は新版のシユモラーの 企業発展論を教わったというのである。この講義は三、四ヶ月しか聞かなかったが、若い貞次郎を心 三 服させるに充分な内容だった。そして貞次郎は卒業論文として外国貿易論を書いた。この論文は福田 学 へ 咄 研 福田は三十四年九月留学から帰って.三十五年になって専攻部で最新知識による講義をはじめた。 者 章 第 の審査を受け、﹁独り卒業論文中の白眉たるのみならず亦我邦幾百の経済論中稀に見る所﹂と激賞さ 75れたのである。この論文は翌三十六年福田徳三校閲上田貞二郎著﹁外国貿易原論﹂として普及舎から ノ 出版された。この本は何故か貞次郎の書架にはなくて、私も書名だけで実物を知らなかったものだが、 貞次郎の残後はじめて実物に接した。この全文は全集第五巻に収録されている。 76 それはさておいて貞次郎は同年九月には母校高商の講師に嘱託され、最初の給料として三十円を支 給された。そしてこれより福田との師弟の関係が結ぼれ、福田の住居に近い駒込千駄木町へ引越して その教えを受けることとなった。福田は貞次郎に独逸語をすすめたので、語学校独語科一年の授業に 出席する一方当時欧州の大学で広く読まれたブイリポヴイッチの経済学原理をテキストとして福田の 指導の下で読みはじめた。同年十一月には滝本美夫教授が留学から帰国したので、早速滝本の下で同 書の輪講会がはじまり当時専攻部学生だった左右田宣三郎、坂西由蔵を加えた四人で翌年三月迄続け られた。なお、貞次郎はこの間福田の経済史の講義にも出席して主としてビュヒヤーの発展段階説を たたき込まれたのである。 r さらに、この三月に福田は同文館の依頼でクラインヴエヒターの国民経済学を翻訳出版することと なって貞次郎にその訳述を求めた。この訳は七月下旬に脱稿してこれに福田が朱筆を加えて訂正した, この﹁国民経済学﹂福田徳三校閲上田貞二郎訳述の原稿は出版の運びとなる直前になって、翌三十七 年中止されることに決った。同じ本が金井延東大教授によって翻訳出版されたためといわれている。 かくて、この訳述原稿は貞次郎の手元でちりをかぶったまま日の目を見ずに、現在なお私の手元に残 っている。 さて貞次郎は福田先生の亡くなられた昭和五年六月の如水会々報に﹁二十八年前の福田先生﹂とい う追悼文を書いている。その中にこの時代のごとを次のように述べている。 ﹁私は専攻部卒業︵明治三十五年︶の後実業界に入る予定であったが、福田先生から勧められて学校 へ残ることに決心しました。それから一年あまり、先生から手を取らぬぼかりにして教えて頂きまし た。此間に私はシュモラー、ビユヘルを熟読するようになりました。又、其頃友人の滝本美夫が帰朝 して学校の教授になられたので、時々同氏と福田先生と三人で会談した其間に非常な刺戟を受けまし た・私は元来学者などになる気は少しもなく、況や教師などは馬鹿のする職業位に考えていたので、 福田先生から勧められて学校へ残った当座は中々一生教師で暮すつもりはなかったのですが、先生の 学を好むこと熱烈であるのに引かされて、自分も多少勉強する気になりました。実に先生の功績の一 半は其天稟の語学の才能を用いて盛んに西洋最新の学説を絶えず紹介された所にあるが、其他の一半 三 商業地理を受持ち、さらに九月になると商業教員養成所で経済原論と商業学を講義することになった 商業地理を譲られて講義をはじめ、六月の学期末に及んだ。ついで同年五月には東亜商業学校で東洋 へ 者 貞次郎は三十六年三月、田崎慎治が英国へ留学するため、外国商業演習を受持ち、ヘーヤ講師から 学 咄 碑 は先生自ら率先して研究に熱中すると共に後進をして同じく研究せしめた所にあると思います。﹂ 章 第 ので教師生活もようやく多忙となった。また同年十月には堀光亀がドイツへ留学するため、同氏らが 借りていた小日向水道端の家を関根要という婆やともども引継いでそこに転居した。 77 教師としての多忙と転居のために貞次郎と福田との学問的交流は頻繁の度を薄めて行ったのだが、 依然として貞次郎は福田を師として尊敬していた。 78 他方、高商では三十五年八月、校長寺田勇吉が休職となって、東京帝国大学法学部教授松崎蔵之助 が校長に任ぜられた。したがって貞次郎ははじめから松崎校長の下で同校講師となったのである。と ころが、三十七年八月、学校の休暇中に福田徳三教授は突如として休職を命ぜられた。夏休みになっ て学生はそれぞれ帰省し、しかも一橋出身の関、佐野両教授の旅行中を見すましてこの休職辞令が出 されたのである。このときのことを貞次郎は次のように述べている。 ﹁福田徳三氏は、八月二日突然休職を命ぜられた。其原因は松崎対福田の喧嘩の結果である。之に就 て余の見る所は、曲両方にありという外はない。喧嘩の性質は松崎対商業学校にあらずして、松崎対 福田であると思う。併し福田は兎も角も一橋の名物であって、又其要素である。それを私怨のために 松崎が取除けるというのは不都合である。特に一橋出身教授に一言の相談もなく之を取除けたのは、 一橋の権威を無視したやり方である。故に一橋の人として吾人は松崎を退かしめ、福田を復職せしむ るに勉めねばならぬのはきまった事だ。余は斯の如く考えたが、其当時は無論余に於て取るべき方法 はない。之は松崎氏の細工で、佐野氏も関氏も旅行して居る所へ突然と休職の命を出したので、此両 氏が居なけれぽ学校の事は出来ない事に成って居る。村瀬氏は、勿論此等の事に関係すべき人である が、一人では致し方ない。余は当時一夜同氏を訪ねて見た所が、やはり関、佐野両氏の帰京を待って 相談をするという話であった。﹂ この事件について当時の学生菅礼之助は昭和五年如水会々報の福田先生追悼号に﹁先生のこと二、 三﹂として次のように書いている。 ﹁先生の講義を承って居たのは本科二年のことだから明治三十六年である。教室以外では一橋会の用 事をホンの二、三分立ち話をした位のことが二、三回あるに過ぎぬ。そして直ぐに三十七年の八月に 於ける先生の休職一件となったのである。この時松崎校長は夏休みになって学生が各郷里へ帰った時 を見すまして、突如この休職命令を発したのであると我等は且つ疑い且つ怨んだ。その日か翌日か我 等の兄事した小坂順造に伴れられて品川に間借り住いをして居られた先生を訪うたのが、私の先生に 膝突き合わして、しみじみした言葉を頂いた抑もの初めである。暑さの早い年で処狭しと書物を積ん 三 ねばならぬという意味のことを繰返された。我等はこの時愛校者たる先生の悌を何時よりも明らかに りも冷静で落着いた態度で物語られた。同時に先生は我輩は断じて母校へ帰る、帰って見せる、帰ら へ 者 のに何うした事かと語りつっ封を開くと、意外にも休職の辞令であったと沈痛な様子で、而も平生よ 学 咄だ広い部屋へ、森の西日が一杯に差し込んで居たことだけは覚えて居る。 ぴ 先生は曰く、文部省から書留郵便が来たので不思議に感じた。官等の上るのならば来年の筈である 章 第 まざまざと見得たのである。我等青年の血潮は一瞬もためらうことなく湧き立った。私は先生に殉じ ますと心の中に誓って御殿山の下の夕闇をフラフラと興奮しながら帰った。 79 復職運動ーストライキーこの仕事は同級の鹿村と田島とでやる。松葉谷等のクラスは第二軍に残す など、こういう時には胸に浮かぶことがどれも皆名案であるように思えて悲痛の中に一種の愉悦を感 80 じた。﹂ 貞次郎は夏休みの終った九月十五日、鎌倉に閑居していた福田を慰労するつもりで訪ねた。ところ が福田は神経がいら立っていたのか、貞次郎を面罵して撲りつけた。それに加えてお前は松探︵松崎 校長の探偵︶として自分の動静をさぐりに来たのだろうとどなりちらした。’貞次郎は福田の気持の静 まるのを待って前述したような経過を話して了解を求めた。福田も貞次郎の話はだまって聞いたのだ が、それから彼独得の長広舌がはじまってお前を母校に残して学問指導したのは自分なのにお前はそ の恩を忘れて今頃やって来るとは何事だ。お前は自分だけではなくて村瀬、関、佐野らからもずぼら な厄介物扱いをされているぞとまくし立てたようである。貞次郎は身に覚えのないことではあるが、 福田に言われてみればかすかに思いあたることもあったので、帰京後これらの諸先輩に会って己れに 対する評価を聞いたのである。これに対して諸先輩はいずれも福田の言ったような考えを持っていな いことが解った。貞次郎は若し福田の言う通りであれぽ学校の職なんかなげうってしまえとまで思っ たようだが、その必要がないことがわかった。ただ、この経験によって﹁一、先輩諸君の人物を知る 機会を得た事。二、ずぼらも大抵にすべき事を悟りたる事。而してそれよりも大なる悟りは、何時で も位置を捨て棒に振り、素裸で世に立つ決心をなすは容易なる事を自信したるにあり。﹂と書いている。 この福田教授休職事件を貞次郎は前述の通り松崎対福田の喧嘩が原因で主として個人的なものだと 書いているが、その背景をみると文部省、松崎校長対一橋の問題がからんでいることは明らかである。 それ故に敏感な学生に反映して福田復職運動となり、その主謀者と見られた編さん部幹事菅礼之助、 四條七十郎は除名処分を受けた。もっとも二人は三ヵ月後復校を許されて無事卒業することが出来た。 他方、貞次郎は福田に撲られて破門されたと思ってしまった。これ以後、貞次郎は福田門下第一号 であるにも拘らず、福田門下からは逸脱してしまった。福田は先生が弟子を撲るぐらいはあたり前と 心得ていたのか、その後も貞次郎に対してあまり変った様子はなかったようである。翌三十八年九月 末、貞次郎の留学がきまって同窓会の送別会があったとき、福田は突然あらわれて﹁余の為に送別の 演説を試みたるは蓋し奇観なりき。﹂と日記に書いている。ここにも天才肌の福田と常識家の貞次郎と のはっきりしたちがいがあるように思われるのだが。 る。そして十四年間の教員時代に小泉信三、高橋誠一郎ら後年の大学者を育てることとなった。 貞次郎は明治三十八年四月、高等商業学校教授に任ぜられた。現在の学校教育法第五十八条第四項 いノートを講義してもいいし、科目によっては目前の時事問題を扱ってもよく、要するに教授すれぽ は当時も現在も大体似たような簡単な法律しかない。したがって十年一日、否三十年一日の如く、古 三 に﹁教授は学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する﹂とあるが、教授の職責について へ 拙 帥 福田は休職の翌年慶応義塾教員に拾われたが、これは鎌田栄吉塾長の﹁雅量の賜﹂と自筆年譜にあ 者 学 章 第 81 いいのである。貞次郎は教師など馬鹿のすることだと思っていたと語っているが、いつの時代でもこ のような形だけで職責を果していた教授もあったのである。しかし福田によって学問的に啓発された 82 貞次郎は学問の建設につとめるとともに、また教育者として自信と誇りを持つようになった。この教 育者としての立場は恐らく父章からの血統を引くもののようである。福田は貞次郎が持っていた﹁上 田章先生碑﹂の石刷を見て、﹁これだけは俺の持っていない羨ましいものだ。﹂と語っていたと伝え聞 いている。 貞次郎の福田とのふれ合いはもとよりこの破門では終らず、この伝記でもいく度かの出番がある。 貞次郎は福田の死後︵昭和五年︶書斎の机の上に福田の肖像画︵コピー︶をかざっていた。そして私 どもに対して﹁福田とはほんとうにいろんなことがあった。しかし、いまこうして肖像をかざること が出来る。﹂と語ったのである。 二、第一回英、独留学 O アシュレー教授 明治三十八年夏休明けの九月初め、貞次郎は松崎校長から呼ぽれて留学が決定したから準備するよ うに言われた。続いて文部省から﹁商事経理学研究のため満三ヶ年間英、独国へ留学を命ず﹂という 辞令を受取った。貞次郎はこの年三月に﹁商事経営学に関する意見﹂を書いて松崎校長に提出してい たから、留学の研究題目は商事経営学だったのだが、当時専攻部には銀行科、貿易科、商事経理科が あったので、それが文部省の辞令となったようである。経営学と言う言葉はお上にはまだなかったの である。 貞次郎は文部省から留学費として年額千八百円︵月百五十円︶を支給され、そのほか往旅費八百円、 支度金二百円を受取った。英国で生活するには月百五十円では少し窮屈と思われたので早速徳川頼倫 して理解があったのではないかと察せられる。鎌田はそのときの洋行の見聞を﹁欧米漫遊記﹂として目 十九年鎌田栄吉らを随行として洋行していたので、欧州の事情なども承知しており貞次郎の申出に対 三年間分である。これには無期限、無抵当なので大きな恩恵だった。これよりさき、頼倫侯は明治二 八百円の融通を認め、三百円は贈与、千五百円は貸与となった。千八百円の根拠は月額五十円として 侯を訪ねて留学拝命を報告するとともに二千円の借金を申込んだ。頼倫侯は貞次郎の要求を容れて千 へ 咄 所刊行し、貞次郎も愛読したのである。 三 は﹃事業の方針﹄︵切已ω甘9ω㊦o︼ば司︶と称する一科目あり。有名なる経済史家アシユレー、其講義を担 ﹁英国にては商事経営の研究をなすに此の如き態度を取るもの少けれども、バーミンガム大学商科に 者 貞次郎は前記﹁商事経営学に関する意見﹂の中に次の如く述べている。 学 章 第 任す。其要目は工場及商店の位置、資本の投下、大経営及小経営、工業の集中及分業、コンビネーシ 83 ョン、会社、工場制、機械、工場管理、雇人と雇主の関係、労銀及労働時間、市場、取引、原価及市 価、営業費、売買の方法、信用等なり。﹂ これによってみると貞次郎はこのバーミソガム大学商科の﹁商工経営﹂をもとに商事経営学講義要 84 項を組立てたように考えられる。したがってバー、ミンガム大学が留学の第一の目的だったことがうな ずけるのである。このことを貞次郎はのちになって﹁アシユレー先生の思い出﹂︵昭和五年一月︶に 書いている。 ﹁司巨す目S︾m江Φ冒教授は経済史家として有名であり且つ偉大なる業績を残した人であるが、経営 経済学者として少くも最も夙く著れた。先生は若くしてカナダの大学教授となり、アメリカに転じて ハーバート大学の経済史講座を受持たれたが、一九〇三年頃英国に帰ってバーミンガム大学に於ける 商学部の創設に与り、切5甘$m㊦。﹂ざ笥即ち商工経営の講義を始めた。当時.バーミンガム大学がその 新学部を設けたことは保守的なる英国諸大学の伝統を破ったのみならず、欧州に於ける高等商業教育 発展の魁をなすものとして、各方面から異常なる注目を受けたのである。そして現在の神戸商業大学 学長田崎慎治氏及び私はその英名を慕い寄って先生の講莚に列した少数の青年の一人であった。﹂ ところが貞次郎がアシユレー教授のセミナーに参加を許されて教えを受けたのは明治三十九年一月 から六月までであって意外に短かかった。その理由であるが、第一に当時の英国では日本人留学生を ﹁バーミンガム大学にては決して日本人を尊重せず。余の当地へ来るやまつ思へらく、余は既に経済学 必ずしも優遇しなかったことである。 の大体に通ずるものなり。日本にては高等商業学校に教鞭を取るの資格あるものなり。大学の教授も 之を認めて普通学生以上の取扱を与えるべし。然るに事実は全く反対にして彼等の余を遇する態度は 普通学生以下なり。余は之を不平とせざるを得ず。最初は余の言語不充分なるを以て度外視せるもの と思い居りしも、今に到りて深く考ふるに彼等は寧ろ余に見識なしと前提したるものなる事を悟れ り。Lとある。 貞次郎がアシユレー教授の講義を聞き、自分の講義を作るために読書自習を心がけたのに対して、 教授は圧迫的な態度をとったように貞次郎には感じられた。というのは同教授は﹁英米で学問をなし、 又その事情を研究するにはおまえの英語は不充分である。⋮⋮それで英語の力を養おうと思えば読書 自習は甚だ面白くない。それよりは沢山の講義を聞き、教会へ行き、芝居に行き、スポーツに加わり、 種々の人と話をすることが必要である。⋮⋮英語の修養に時を費すことは決して損ではない。英語は へ したことはない。おまえは聞くよりも話す方が出来る。暫く奮発したら必ずよくなる。﹂と言った。 咄 司 イギリスのみではない。アメリカでも役に立つ。英米独は見なけれぽならないが、英米が主で独は大 者 そして貞次郎はこの学期の試験三課目中、二課目はパスしなかった。これについても貞次郎は不服 三 だったのだが、同教授はお前の論文が不出来だったのではなくて、講義を聞いてないことが明らかだ 学 第 章 からパスさせなかったのだ、試験の結果など問題ではないと言った。 85 このようなことが重なって貞次郎は夏期休み中の旅行を終えて九月にバーミンガムに一旦帰った後、 乱 ︰ アシユレー教授に別れを告げて、マンチエスターに移り、同地の大学に籍を置いてさらに勉学するζ 86 とになった。 さきの﹁思い出﹂は続く。 ﹁爾来二十二年を経て一九二七年︵昭和二年︶私はジュネーブに於ける国際経済会議に日本代表たる 任務を了った直後、英国へ渡って昔の先生に会おうとしたが、この時先生はカンタベリーの田舎に病 躯を養って居られ、しかもその病状思わしからざるものがあったらしく、私の手紙に対して非常に喜 んでは居るが、今会うことが出来ぬという趣を代筆で答えられた。其の後、数ヶ月をへて英国経済学 雑誌にアシュレー教授の計音が伝えられたのである。﹂また﹁先生は一九二六年.バーミンガムの講義を 引退されてから、デンマークの高等商業でなされた講演の草稿を切伝芦Φ綴自8昌。邑畠と 一口う小さい 書物にまとめられた。この講演旅行に出られる以前に、私は先生が日本へ来て講演されることを希望 し、先生も大分乗り気になっていたが、結局健康の勝れざること等の為に実現されなかったのであ る。﹂ これが貞次郎のバーミンガム遊学およびアシュレー教授との師弟関係というには誠に淡い実際上の 交渉の経緯である。 ⇔ 第一次夏期旅行 貞次郎は学生時代から旅行好きで、休暇には必ず旅行に出た。貞次郎は旅行は見聞を広め、新しい 知識を得る機会であり、学校にもまさる教育と考えていた。たとえぽ留学日記にも﹁学校は教育の唯 一の方法にあらずして、唯沢山ある中の一つの方法たる事を知らぬ父兄はあはれならずや。旅行の為、 実習の為には学校の月謝と同じ費用をかけて損はなし。学校を休ませて見物をさせるのが本当の教育 なり。﹂などと書いている。 だから留学第一回の夏休は貞次郎にとってまさに絶好の旅行のチャンスだった。したがって相当綿 密な計画をしたようである。若い時代とはいえ、七月十八日から九月十四日まで約二ヵ月︵五十八日︶ の間に十八の都市を見、工場見学三十一ヶ所、商業的施設二ヶ所、経済問題についての会見が四回 学校三ヶ所というのは相当なハードスケジュールと思われる。工場見学には紹介が必要だしそのため、 三井物産正金銀行下宿の同宿者その他の援助を得た。同行者はアシ。¥教授の下三緒に勉強 した秋元春朝子爵だった。 感心し・ついでドック、倉庫などを見学した。ついでマンチェスターに行って卸売協会の本部に立寄 り・英国の軽工業の中心地だったラソカシャー地方の紡績、製粉、石けん、軽電気等の諸工場を見学 それから・イソグラソドの湖沼地方へ行ってウインダーメヤを中心に観光を楽しんだ後、スコット 三 した。この間二週間である。 学 へ 拙 研 旅行の道筋はまずリヴアプールに行って、同地の中央ステーションでその前の建築物等を見てまず 者 章 第 ランドに入ってグラスゴーの重工業地帯の見学をした。鉄工場、車輔工場、造船、造兵等で一工場一 87 日で五日間かかった。 88 三四三米︶に登った。さらにカレドニア運河を通ってインヴアネスまで行った。わが国でトンビと呼 それからまたスコットランドの観光地へ行き、その荒野を歩き、快晴の日にベン・ネービス山二 ばれたマントを着る風俗の土地である。そしてエディンバラにもどった。ここは今も昔も英国で最も 美しい古都と言われている。 ードに行き、車輔、伸銅、製鉄、薬品、製縫等の工場、さらにブラッドブオード、シエフイールドで ニューカッスルではアームストロングの造兵工場を見て、ヨーク、ハルなどを観光した。ついでリ 製鋼、エンジン等の工場を見学した。終りにドンカスター,バックストンの観光をして九月十四日バ ーミンガムにもどった。 この間の見聞は当時の世界の工場としての英国産業そのものだったから、のちに商工経営、産業革命 このように貞次郎はイングランド中北部、スコットランドの見学観光旅行を行ったのだが、恐らく 史の研究に役だった。とくに工場制度や流通機構などの原点として貴重な体験だったことは間違いな いところと推察されるのである。 なお、この旅行費用は五十五膀︵一確‖十円︶かかったとある。留学生手当の二ヵ月分の約二倍に あたるのだが、これは徳川家からの借金が役に立ったと見ていいと思われる。 ⇔ ヒューズ女史 貞次郎は三十九年四月の春休みに田崎に伴れられてヒューズ女史︵]U°㊥゜出已σqぱOの︶のバリーの家に 十日間滞在した。ヒューズ女史はケンブリッヂの第一回女性卒業者で当時はバリーで女子中等学校の 校長をしており、かつて日本へ来て婦人のために運動をしたことがあると貞次郎は書いている。田崎 がヒューズ女史を知っていたのは同氏の親戚に当る安井哲子女史︵東京女子大学創立者︶の紹介と言 われている。ヒューズ女史は恐らくお茶の水女子師範の講師をして、安井女史を教えたものと推察さ れる。 貞次郎はアシュレー教授のセミナーに参加したものの、語学力の不足と自分の意志にそぐわない雰 囲気の中でいささかくさり気味だったので、田崎とのバリー行きは一つの救いだった。バリーはウエ ールス南部の海岸にある保養地で夏は海水浴客で賑わう所であり、牧場の丘を越えると海岸に出られ 所、女学校などのほか、ドックや鉄工場、製粉工場、炭坑などを紹介して見学の便をはかって呉れた。 これには女史の弟﹄﹃夢氏国已oqげ窪も手伝ってくれた。アーサーは退役大佐で弁護士をしていたとの さらにカーデイフではマッケンジー教授の民主々義の理念に関する講演会もあり、地方新聞記者と 三 ことである。 学 へ 咄 る景色に恵まれた所だった。ヒューズ女史は日本および日本人を知っていることもあり、加えて若干 碑 おせっかいのおばさんでもあったのか、田崎と貞次郎を隣の小都市カーデイフへ案内して市庁や裁判 者 章 第 のインタビューもあって、貞次郎は日本の文明に関する意見を述べたとある。 89 、 ト 、 それやこれやで、貞次郎にとってバリー訪問は留学生の憂うつを吹とばし、英国および英国人を理 さ \ 貞次郎は旅行から帰って、バーミンガムを去ってマンチェスターに移った。マンチェスター大学に ㈲ マンチェスター大学 取ったのである。 の後渡英して同女史に面会を申込んだところ、弟のアーサーから﹁姉は昨年死んだ﹂と云う手紙を受 の手紙が数通残っている。しかしながら多忙にまみれている中に文通は絶え、昭和二年国際経済会議 貞次郎とヒューズ女史との交友はその後も続き、現に私の手元に同女史の男のような癖のある英文 を書いている。 同女史の傷病兵に対する自主的な看護活動を目のあたり見て帰国後、﹁英国の赤十字﹂という感想文 訪問してケソブリッヂの入学についてアドヴアイスを受けている。また、第一次大戦の勃発に際して しいがそれでも若干のやきもちをこめていた。貞次郎は第二回留学のときもヒューズ女史をバリーに 私の母は女史のことを﹁お父様の御親友﹂と呼んでいた。今のガール・フレンドというには少し堅苦 感情などはなかったものの、同じ教育者としてまた英国の理解者として話のうまが合ったようである。 来女史は貞次郎の尊敬する日本女性の一人となった。安井女史は貞次郎より七歳の年長であり、恋愛 ズ女史宅を訪問して三日間滞在した。このとき、安井女史も第二回の留学で同女史宅にあり、これ以 解する上で大いに役立ったようである。翌四十年六月に貞次郎はドイツに去るにあたって再びヒュー 90 / チヤップマン教授︵oQ°q°○げ辞b]βP口︶を訪ねて、同大学での研究項目について相談した結果、オーウエ ンス・カレッジに入学して次の六科目を選んで勉強することになった。 一、経済原論 二、経済分析 三、倫理 四、政治哲学 五、産業と流通 六、経済史 経済原論はチヤップマン教授で、英国流の形式にこだわらない議論をした。例えぽ、富も生産も資 本も定義しないで講義をした。定義そのものが貴いのではなく.物の観念を明かにすることに値打ち がある。特に近年日本の学風の弱点は何でも欧米の本に書いてあることを引用して、何氏曰くの定義 や異説を並べることが多い。唯並べただけで議論の体裁をなしていると考えているのはいかにも馬鹿 々々しく見える。これに反してチヤップマンは実質中の実質を捕えていると云うことが出来る。と述 べている。 る。 二月にはチャップマン教授は貞次郎に﹁日本の将来﹂について質問をして答えを求めたりしたのであ 咄 チヤップマン教授にはランカシヤのコットン・インダストリーの著書もあって、貞次郎はこれを熟 碑読するのだが、十一月になると﹁英、米綿工業比較﹂と題する論文を書いて同教授に提出した。翌年 へ 学 章 三 経済史は若いメレデイス講師︵H開゜ひV°呂o﹃Φ含帥↑げ︶が担当したが、同氏もまた講義のはじめから、貿易、 者 第 統計の方法を持出した。このやり方は頭のいい先生が用いれば簡明でいいが、頭の悪い人、又は頭の 熟さない人が用いれぽ支離滅裂になる恐れがある。しかしながら、形式の整然たるをのみ心がけて内 91 容の要点を忘れている日本の学界には、英国風を学ぽせたいものだとも書いている。 メレデイスはその後、経済史家として有名になり、ベルフアスト大学教授などを歴任し、09ピ甘Φ 92 ﹂ 一 一 へ ] 一 一 oh夢ooo80目﹂o巨゜・↑o﹃﹃oパ国⇒成冒目合pc慶盲q∨甘㏄oo一巴含Φ<o﹂ob目oロゴ﹂○○。。°などの著書もあるが、 貞次郎とは余程うまが合ったらしく生涯を通じて交友が続いた。第二回留学のときはもちろんだが、 昭和二年国際経済会議終了後はメレデイスの家を訪ねて泊めてもらったりした。そのとき、﹁メレデ イス氏に僕は長唄をやって妻が楽器を伴奏するといったら、グラモホーンレコードにとって送れとい ふからさうしようと約束した。﹂と妻への手紙に書いている。メレデイスとの交友については私もたび たび話を聞いたし、同氏からの手紙も数通、私の手元に残っている。 貞次郎は英国の大学の慣例にも慣れたためか、マンチエスター大学ではさきの六課目について十二 月および翌年三月の試験も無事にパスしたようである。 ㈲ ドイツ転住・スイス旅行 明治四十年七月、貞次郎は予定通り英国を去って、ドイッに渡った。ドイッではまずボンに行き、 旧友小泉新兵衛をたよって同氏方に落着いたあと下宿を捜して移った。一ヵ月余り、ドイツ人教師 切巨9についてドイツ語の個人教授を受け.この間ドイツ語で日記を書いて同氏に訂正してもらった。 そして八月二十五日から九月十八日まで二十五日間ドイツ南部とスイス旅行に費した。ボンを立っ てコブレンツ、マイソツ︵十万人︶、フランクフルト、ダルムシュタット、ハイデルベルグを経てマン ハイム︵十六万人︶に着いた。この間、自転車を多く用い、汽船と汽車で乗りついだ。マインツまで ライン河の両岸は葡萄園が多く、いわゆるラインワインの本場である。山の上には古城跡があり、そ れぞれの歴史を秘めているが、これらは十八世紀にフランス軍によって破壊されたものだと云う。名 勝ローレライを中心に葡萄園と古城と絶壁がこの地方の特色であることは当時も現在も変っていない。 ンに寄り、十八日には再びストラスブルグに戻り、直行列車でボンへ帰ったのである。 貞次郎らはルツエルンに戻り、ここで豊住らと別れて、数日滞在して、チューリヒ・ミュールハウゼ て、九月十二日登山鉄道でユングフラウの途中アイズメアーまで行った。当時鉄道はこれまでだった。 に出た。バーゼル、ベルン、ゲンフ、ローザンヌ、インターラーケン、ルツエルンなどの都市を通っ らに会って数日を観光と飲み歩きに費す。ここから貞次郎は他の人と別れて豆住と一緒にスイス旅行 九月三日ストラスブルグに行き、ここで医学留学生の布川興策、南部孝一、長与又郎、平山、豊住 へ 全体の所感は中世と二十世紀と相隣せることなり。何れの町にも大名の城あり。又狭き道と古風の その後の進歩が速かなりしかを想像せしむ。﹂とある。 三 家あるその一方に新式の電車や施設や橋梁あり。ドイッが十九世紀の初めまで如何に中世的なりしか、 学 を残したるはフランクフルト、マンハイム、ストラスブルグ、ミュールハウゼンなり。 咄 岬 ﹁ライン旅行にて余は葡萄園、ドック、運河、古城、大学、寺院等を沢山見たり。都会にて最も感想 者 章 第 内 ボン大学聴講生 93 貞次郎はボンへ移った。ここは美しい町だが、如何にも田舎っぼくて町を行く婦人の衣服など安物 だと感じた。下宿は朝食付だが、昼夜とも外食とした。食堂では回数券を売っていてイギリスよりは 94 よく、とくにビールは本場だけあってうまい。煙草は葉巻は安いが、紙巻は高いと書いている。 しかなかった。その代り高等工業学校は四十年以上も経っていて、多くの技師、工業家を出していた。 当時のドイツはヨーロッパの新興国として発展していたのだが、高等商業学校は創立二十年の歴史 ライン河下流、ルール地方の鉱山や製鉄所では役員など重要な地位の者はいずれも高等教育を受けた 人々だった。 授の講義をきく。思ったよりはよくわかるなり。﹂また十一月には﹁シューマッハーの講義の内に婦人 貞次郎はボン大学の聴講生となり、講義およびゼミナールへ参加した。﹁初めてシェーマッハー教 労働制限案あり。感心し た り 。 ﹂ と あ る 。 十月には水島鍍也︵神戸高商校長︶が来独して、フライブルグ大学留学中の坂西由蔵教授を同行し てボンに来た。水島はクルップ工場視察の紹介状を携えており、貞次郎も同行してエッセンの同工場 および社宅を見学した。ただし、﹁工場は唯大砲製造所のみ案内されたり。敷地は聞きしに違わぬ広 大なるものなり。﹂とある。 ボンでは語学の勉強に多くの時間をとられたが、その間にあって、十一月にはボンの農学校を見た り、シューマッハー教授のゼミナールの見学旅行に参加してラインランドの皮革工場を見たりしてい る。そして商工経営については次のように書いている。 ﹁余が西洋へ来てから得た所は学問そのものの外に学問の研究法である。日本にゐた時は経済組織の 発達といふ事のみに重きを置いて他は多く顧なかった。バーミンガムでアシユレーの講義を聴いて居 る内に経済組織と技術と密接なる関係ある事を悟って、技術に深く注意しだした。マンチエスターに 居る時にプアイナソシヤルの問題に興味を持って来た。 万事は経済組織、技術、財政の三方面から観察すべき事を悟った。それから今は数学を用ひて此等 を精密に研究するべしといふ事に成ってきた。洋行はつまらぬ等と思って居たが、かう考えてみれば 中々得る所があったのだ。﹂また、﹁余は商事経営の営業組織、労働に関する方面については一通り話 も出来るが、金融の方はまだ手が着て居らぬ。幸このドイッのカルテルを問題に取りて企業の金融方 面を研究すべし。﹂ ﹁三浦君と四年振りで会ひ、非常に愉快なりし。同君は四年の間に歴史、倫理、哲学等をしこみ、色 々新説を聞かされたり。而して談論の際、同君の説が理論的且書物的なるに対し、余の考が実行的且 三 旅行的なるを悟れり。同君の洋行は真の留学也。余のは見物的なり。故に両方から意見をつき合せて 学 へ 咄 碑 かくて、十二月に学期が終ると貞次郎はライ。フチッヒに三浦新七を訪ねた。 者 章 第 みれば利益も多き様なり。 95 三浦君はドイツの新学派と称する極端な進化論、経験論に興味をもち、新カント派に反対なり。余 は別に書物に就て研究したるにあらざれども、今迄考へたる結果として所謂新カント派に近づいて居 る。そこで色々水掛論をなしたり。水掛となれぽ余にも中々意見があり、先方も一寸は説きふせかぬ 96 るなり。 三浦君は語の概念に非常に重きを置き、之を精密に定めんとす。 余は概念論は大抵にして、事実の異同を論ぜんとす。﹂ この後、一月から三月初めまで、貞次郎はボンに止ってシューマッハー教授の下で勉強した。 ㊤ ベルリン大学・ベルリン高商 三月はじめ貞次郎はベルリンに移った。ベルリン大使館には出淵勝次︵高商同級生で、のちのアメ リカ大使︶がいてしぼしぼ会談し、また公私にわたって便宜を与えられた。四月になって、ベルリン 大学で主としてゾンバルト教授︵㊦パOパ゜ ぐく° mOb⇔ゲP吋●︶の講義を聴いた。﹁先生は長身粗服、髪黒く顔 長く一見して深遠なる思想家、しかも現代社会に満足せざる人なるを知るゆ﹂.とある。また、ベルリン 高等商業学校でシエーヤ教授︵勺﹃Oh° のO古似吋︶のゼミナールに参加した。同教授の﹁従来の著作其他の 事より見れぽ、同氏の得意とする所は寧ろ簿記、計算、実務の方面にあるものの如し。⋮⋮⋮同氏は 銀行及貿易業に従事したる事あり。ベルリンへ来る前にはチューリッヒ大学にて商業学の講座を開き 居たり。多年の研究に依りて前人未到の一学科を立てたりと自任し頗る得意なり。﹂とある。 貞次郎はこれらの講義を聞き、ゼミナールに参加して両教授の著書に接するかたわら、次の書物を 読みながら帰国後になすべき商工経営の講義の準備をした。 ρ乙力合目邑。竺臼自晋富。・画零≧斤①目Φぎ①<。民ω註︹詰。冨時芭。冒p qΦ民Φピ O㍍oロ <gピρ#巳器画9含Φ已けo・oげo口口30。辺出p昌ズO昌N已﹃H5合已.日や民9 閲゜↑陣Φ古目㍍目︰国P詳Φ已Φ已口含弓尺已oロ言゜ ㊦器蟹司︰﹀犀註8σq①m①目ωoけ江げ゜ Nα βO告固駐o巳⇒含自馨ユΦ已問臼の冨己弍2ズ阻ぐgげpβ白 ︾6巴目Φm︰均襲ぴ民吋ぴ①汀戸Φぴ゜ ㈹ うたかたの道楽 貞次郎はベルリンに移ったとき、徳川家からの借金はまだ残金があると思っていたのだが、すべて 受取済であることが兄からの手紙でわかった。恐らく、スイス旅行や、ボン滞在中の飲み代に費した 三月二十六歳のときはじめて女を知ったと日記にあり、その後も何回か遊んだことが書いてある。し 章 三 貞次郎は貧乏学生だったころはもちろん遊里に足をはこぶことはなかった。卒業して明治三十八年 あたり前だと云われて、憤慨したりしている。 へ 者 中の講義をすっぽかすこともしばしぽあった。ある朝など下宿の婆さんに自分が仕舞かと聞いたら、 学 咄 研 のだろう。ベルリンでは悪友達と毎夜のように飲み歩いてはいつも午前様で、翌日は朝寝をして午前 第 かし、学問に志して多忙なためか、この道に耽溺することはなかった。はじめの留学地英国でも下宿 97 の娘との話などが書いてあるが、その行動は極めて淡白であった。むしろ私の如き凡人にはその真偽 を判断し兼ねるものがある。もちろん、父からこの方面の話を聞いたことはなかった。 98 ベルリンの繁華街ウンターデンリンデンには税関とよぼれた娼婦のたまり場があった。日本人旅行 者は必ずここで引かかったようだが、留学生仲間、とくに医学生とここを訪れた貞次郎も当然にその とりことなった。一方で﹁日本の紳士には茶屋遊びを以て主なる慰とする事が沢山あるが之は不健全 である。ドイツ人が夜通しのカフエへ出入するのと撰ぶ所はない。﹂などと書いておのれの反省としな がらも結構、ブンメリングを楽しんだのである。 税関で貞次郎は幾人かの女を相手としていたが、六月半頃グレテなる女性を知った。この女がどん な女だったかは不明だが、恐らく小柄で日本人向だったことと推察出来る。貞次郎は休日には必ず、 彼女を訪ねて飲み歩き.彼女の部屋に泊っている。しかしながら,このオンリーさん︵?︶との恋も 多くの留学生のそれと同様長続きはしなかった。二ヵ月足らずして別れの時がやってきたのである。 ω アメリカ視察 貞次郎の留学先ははじめ英、独両国だったのだが、アシェレー教授のすすめもあったので、アメリ カにも行きたいと思った。五月に文部省および松崎校長に書面でアメリカ行の命令を催促したが、六 月二十六日付を以て米国へ転学を許された。 八月はじめ、貞次郎は再びロンドンに赴いて、約二ヵ月滞在した。その間、講演会に出席したり、 五十嵐直三︵正金︶ら在留邦人との交際に明け暮れた。 それからパリに行って十一日間滞在した。ベルリン・ロンドソ・パリを通じてヨーロッパの印象を まとめたかったと書いている。貞次郎はどこの都会を訪れても美術館は一通り見物するのだが,この たびは珍しく毎日ルーブルに通ってフランス絵画に魅せられたようである。 そして十月三十日ニューヨークに渡ったのである。ニューヨークでは高商の鹿野清次郎教授、三井 物産の高木舜三らに迎えられた。アメリカの風物、活気のある街、多くの人種が入りまじるところな どヨーロッパには見られない新鮮味を感じた。もとより二ヵ月しかない短期間の視察観光旅行だが、 出来るだけ多くの大学と産業施設を訪問した。まず、ニューヨーク︵四百万人︶ではコロンビア大学 にデューイ教授、セリグマン教授を訪問し、ニューヨーク高商、ニューヨーク大学等を視察した。ま た、オレゴンのエヂソンの工場︵三千人︶、パターソンの機屋などを見学した。 、 その現実的な教育に感銘している。 、 処であるが、徳義の乱れた、趣味の浅い所と思われる﹂と書いている。 三 を通ってピッツバーグへ行って、炭坑地帯を背後にした鉄の町を見た。ここは﹁アメリカの富を作る ブイラデルフイァではペンシルバニア大学、ワートン・スクールなどを見た。それからワシントン へ 拙 碑 ついでボストンに行って、ハーバード大学でエリオット総長が新設したビジネス・スクールを視察. 者 学 章 第 これから、一旦ニューヨークへ戻って、世話になった正金、大倉、堀越、生糸合名、三井等の諸氏 99 に別れを告げた。このあと、ナイヤガラを観光してシカゴへ行き、 同地の大学を視察して西部へ移り、 人の委員を推薦した。他方、翌三十四年留学中の教授八名︵石川巌、石川文吾、神田乃武、滝本美夫、 した渋沢栄一は明治三十三年同窓会で商業大学設立を提唱した。これを受けて商業大学設置のため六 の商業教育制度を調査報告して日本にも商業大学を設立すべきであると論じた。これらの機運を察知 れた時代である。その頃から相次いで留学した教授︵福田徳三、佐野善作ら︶は何れも英米独等各国 格を得ることとなった。何しろ学士︵大学卒業生︶がまだ少数で、﹁学士様なら娘をやろか﹂と云わ 一ッ橋は明治三十一年、本科の上に専攻部を設置して、その卒業生は商業学士︵のち商学士︶の資 一、申酉事件の前後 第四章 商科大学への昇格 皿十二月二十五日にシヤトルを発って帰国の途についたのである。 格 昇 の 津村秀松、福田徳三、志田錦太郎、関一︶がベルリンに会合して﹁商業大学設立の必要﹂という意見 へ 学 吠 献書を同窓会々誌に寄せた。 その後、本校、同窓会が調査、提案を重ねて、この宿願は遂に教育関係者の世論となって日露戦後 の明治四十年、国会に﹁商科大学設立に関する建議案﹂が提出されて両院を通過した。本校同窓会は 噂 第 商業大学の設立は過去三十数年積重ねられた高等商業教育の実績に照して、本校を改造するのが最も 皿適切であることを文部大臣に陳述した。しかし、当時の政府、官僚は帝大に非んぽ大学に非ずという 認識が主流をなしていたので翌四十一年政府は帝国大学法科大学を改組して経済科を設置することと 皿して議会にこたえ、その直後西園寺内閣は辞職した。この形式のみにとらわれた政府の独善的な措置 は一ッ橋の学校、学生、同窓会の期待を裏切ったものであり、全一橋に大きなショックを与えたこと は云うまでもない。 四十二年二月に入って大学設置問題について動揺した学生は三回にわたって学生大会を開き、全校 一三〇〇名の賛成を得て、桂内閣の小松原文相ならびに両院議長に大学問題につき請願書を提出しよ うとして松崎校長にその伝達を要求した。松崎校長はこれを拒否したぼかりか.専攻部学生五名退学、 一名無期停学を命じたので、学生は当然校長排斥運動を起した。学生大会はさらに第四回、第五回と 続く。 三月、衆議院に再度商科大学設置案が提出され、委員長報告通り可決された。 一方、同窓会は三月から四月にかけて商科大学問題特別委員会を三回開催し、﹁商科大学問題の実 行方法として、現時の東京高等商業学校を改造し、商業大学とし、之に高等商業学校と同一程度のも のを併置せしむることを期す﹂と云う決議を行い、この意見書を公表するとともに小松原文相に送っ た。 本校では関、佐野、滝本、下野の四教授が辞表を提出し、依願免官となるが、彼等は同時に講師を 嘱託されて講義は続けたのである。 伊 、 他方、四月帝大教授会は法科大学内に商科設置を決定し、同評議会が商科併置を可決する。この結⋮ 果、商科大学は帝国大学のものとなり、文部省は省令をもって本校専攻部を廃止した。 五月、同窓会は商大問題に関する建白書を桂首相、小松原文相に送った。この事態に至ってかねて から全一橋の宿願にもかかわらず、独善的に文部省、帝大側に偏した立場をとって来た松崎校長は辞 職した。 五月九日、本校は五日間の臨時休校を行い、われわれは政府文部当局の強行策にあくまで反対との 意思を表明した。五月十一日学生大会が開かれ、学生総退学を決議し、﹁去校の辞﹂を朗読して校門 を去の、た。これに対して東京ほか五つの商業会議所、学校商議員、父兄保証人委員会は学生の主張貫 格 徹につとめるから総退学の決議を取消すよう勧告し、やがて学生側もその好意に免じてこれを承諾す 四 月十一日を申酉記念日として毎年全校をあげて記念行事が催されることとなったのである。 いた全校的事件は明治戊申、己酉にわたったので申酉事件と呼ぼれ、東京高商、商大を通じて以後五⋮ 出され、さらに四十五年に至って専攻部廃止の省令は撤回された。この一橋の伝統ある実績を守り抜 の るに至った。 へ 学 六月に入って前記三団体の文部当局との交渉が効を奏して専攻部は四年間存続という期限付省令が 大 科 昇 商 章 第 貞次郎が三年間の留学を終えて帰国したのは四十二年一月丁度一ッ橋がこの申酉事件のあらしに巻 皿込まれる直前だった。貞次郎は私どもに日記は忙しいときには書けないもので、自分の日記が欠けて ’ ⋮ [ 一 ︸ ⋮ ﹁四十二年五月二十七日 いるのはこの時期であると語っていた。それでも申酉事件については次のように書いている。 ぬと思たのに違ひない。故に一時たりとも疑を招たことの結果として、余は充分に尽力することが出 れてしまった。関氏等は悪意を以て除外したのではなからうと信ずる。此際、余を用ふることが出来 之に反して余は辞職をしなかった為めに、学生等の疑を招き、従て最後の鎮撫策の実行には除外さ 件に際して辞職して免官に成て金に困るといえば、拾い手は必ず出てくる。 辞表が仮りに聞届けられたとした処で金のこと位心配して呉れる者は出てくるだろう。今回の如き事 併し後から考えて見れば、学生総退学の時は余が辞表を出すべき時であったと思う。何となれぽ、 した。津村氏も之に同意して呉れた。 は辞表をだした処で聞届けられぬことは分て居る。八百長的辞職は余の良心が許さぬからそれを謝絶 たのだ。夫故、津村氏に余の考を話して此上辞表を出すということは断るというた。特に今となって その金のことについて相談したこともあったが、それも思ふ様でなかったから、致方がないと思てい ト ぞ 併し余は前の決心が不人情なものでないと思った。勿論余は辞表をだそうかと思て、草野武雄氏と からん、と云うて来た。 配して呉れて、かくては将来上田の名誉を傷つけることにならぬともいえぬから、辞表をだすが宜し ぬというのは同情が乏しいという風に考えたものも多数あるというので、津村、佐野両氏の如きは心 そこで学生の中には、学生が一身の利害を顧ずに退学まで決した時に、教師たる余等が辞表を出さ 学をやった。問題が益々大きくなった。 速欠席届を出した。其後診断書を作らして長期の欠席届をだした。然るに学校の生徒は憤激して総退 余は三月二十九日.法科の教授会が一橋卒業生を新設の商科に入学せしむることを決した後で、早 依て堀と相談した上で、無期欠席をして自然に免職になることに決した。 職を失う丈のことは何とも思はぬが、留学費七千円を背負込むことは出来ぬ。 と思った。併し関、佐野、滝本三氏の如く辞職するということは出来ぬ。 文部省の処置は、 一橋派をふみつけたやり方であると思た。余は到底この侮辱を忍ぶことは出来ぬ 度は左の如くであった。 O商大問題に対する今回の文部省の処置は、非常の波瀾を惹起したが、此波瀾に際して余の執た態 皿 格 昇 へ の 学 来なかったのである。 吠 かったことを遺憾 に 思 ふ の で あ る 。 ﹂ 解 余は辞職しなかったことに付て、更に疾ましいことはないが、最後の活動に参加することの出来な 申酉事件も終って四十二年九月の新学期から、貞次郎は本科三年の商工経営と商業史、本科二年の 畦 第 貨幣論、それに専攻部商工経営科の演習を担当して、多忙な教授生活が始った。商工経営は貞次郎が 踊名付けた科目で、これまでは商事経理とよんでいた講座を改称したもので、現代の経営学がわが国の 学校で講義されたそもくのはじまりだった。専攻部でも商事経理科と称して下野教授が担当してい 二、第二回の留学 格 のことに決定したのである。 大臣に上申し、さらに校長は教授会を開いて経過の説明を行い、三月文部省令によって専攻部は存続 官、真野局長、渋沢男と打合せてこれを推進することとし、渋沢男は商議員会を開いてこの旨を文部 存続させ、商大昇格問題は追て着手すべしとの提議をして一同これに賛成した。ここで校長は文部次 四十五年二月に坪野校長は村瀬、関、堀、上田の四人を招いて、専攻部は商大昇格問題と切離して 意見の交換を行うが、この頃文部当局の意向も大体存続に固りつつあったようである。 貞次郎は専攻部の存続について関、佐野、福田、堀らと度々会合したり、あるいは個別に訪問して 校長事務取扱が東北大学総長に任ぜられたため、山口高商校長の坪野平太郎が校長に任ぜられた。 四十四年一月、申酉事件で辞職して講師となっていた佐野、関は教授に再任された。三月には沢柳 する。 経済論﹂が第一回留学から帰朝後五年間の研究の成果だが、その内容については第七章に譲ることと、 二年八月であり、出版されたのは同年九月第二回留学に旅立った後の十一月だった。この﹁株式会社 の雑誌に小論文を発表した。そして﹁株式会社経済論﹂︵富山房︶がまとめられたのは二年後の大正 が、翌四十四年には高商専攻部で株式会社論の講義を開き、また﹁国民経済雑誌﹂﹁企業及経営﹂等 また一方、この年から貞次郎は隆文館から出版する目的で株式会社論を書き始めた、と日記にある 就任を希望された時も滝本は側面から勧誘の手紙を寄せている。 辞職後は大阪の三十四銀行に勤務して、大正四年、貞次郎が当時の関大阪市助役から大阪高商校長に はないので辞職するのだと云う意味のもので、恐らく貞次郎の慰留に対する返事だったと思われる。 手紙が残っている。自分は関の鉄道や佐野の取引所のように高商にとって必須の学問を持った人間で って教授としてぼかりでなく、紀州人の先輩としても親しい間柄だった。当時滝本が貞次郎に宛てた 翌四十三年一月には滝本美夫講師が辞職し、福田徳三が再び講師を嘱託された。滝本は貞次郎にと のである。この講義内容については﹁経営経済学総論﹂に略述するのでここではふれないことにする, 就任して、翌十二年四月に講義をやめるまで、留学、海外旅行の期間を除いて二十六年間継続されたも 価 たのを貞次郎が商工経営科と改めて担当することとなった。貞次郎の商工経営は昭和十一年末学長に 昇 の へ 学 扶 田栄吉から相談を受け、翌年十月、頼倫侯に招かれて正式に徳川家の教育取締を依頼されて、これを 蹄 貞次郎は四+四年三月に徳川侯爵嗣子頼貞君︵学習院中等科︶の通学および住居のことについて鎌 第 噂引受けた。徳川侯には頼貞のほか次男治がいた。同君は大正二年二月、学習院で乗馬演習中、飛行機 の爆音に馬が驚いて暴れたため落馬した。その際、頭部打撲を受け、それが原因で早逝した。 皿 徳川頼貞君は同年九月、英国へ留学することとなって、貞次郎は彼に随行を命じられた。当時は海 格 昇 外留学には多大の費用を要したので、高商では官費留学は当然として私費留学も許されることになっ を受けた。 芸 行の時は何分商事経営といふ新しいものを引受けて来た為めに終に其方に引付けられてしまった。日 ﹁余は兼ねて学問の為めの学問、即ち職業の為のではない学問をして見たいと思ていたが、前回の洋 また、﹁学問の為の学問﹂の題目で次のように述べている。 が見たいのだ。﹂ ︵﹁日記H﹂三月︶ 亘る筈だ。制度の細いことは余の研究の目的でない。大方針の立て方と政治思想、倫理思想との関係 社会政策は貧民法、教育法、健康法、工場法、職工組合法、老年年金制度、土地問題、国民保険に 主義発達は十七世紀まで遡らなければ本当でないと思う。 に力を注いだが、追ては英国の個人主義の発達を究め夫から社会政策上の施設を見ようと思う。個人 9目ば罵Φ。h書Φ駕。茗Φという問題で研究生の許可を得た。此学期は政治思想史の大体を見ること ﹁Op日汀試頓①では回ロσqば筈夢oo蕊Φ辺o時夢Φ昌ロoげざロωohΩo<Φ日目o昌●臼夢o一周碧bばo辞江oロげo国8‘ 後 一月にケソブリッヂに行ってリサーチ・スチューデソトとなり、次の題目でカニンガム教授の指導 アルな連中で話が面白かった。﹂ ︵十一月二十三日、妻への手紙︶ 男女のお客が来て居た。是は毎月三回つつ極めてやるのだそうだ。其の客も中々揃たインテレクチュ はウエッブよりも奥さんの方がウイットがあって面白い。先達而茶に呼ぼれて行て見たら二十人位の シドニー.ウエッブの奥さんはやはり学者だ。本も夫婦で共著にする。講義も交代にやる。演説杯 々其主義を推広めようというのだ。 部分を租税として取て貧者の為めに用いようという丈のことだ。是は何処の国でもやって居るが、益 暴とか革命的とかいふ意味はない。唯、私有財産を段々に少くして公有財産に移し、富者の所得の一 た事もあり、僕も多少知ってるが、有名な社会主義者だ。英国でソシアリストというた所が少しも乱 ﹁夫から一週二度つつ、シドニー・ウエッブという人の講義を聴きに行く、此人は昨年一度日本へ来 に案内したが、十月末から十二月にかけて貞次郎はウエッブ夫妻の講義を聴いた。 九月はじめに日本を発って、シベリヤ経由で九月末ロンドンに着いた。ロンドンでは頼貞君を諸所 旅立つことになった。 皿ていた。かくて、貞次郎は文部省辞令により﹁商業学および財政学研究﹂のため二ヵ年第二回留学に の 四 なって出た訳だ。此方面の研究はやってみればつまらなくはないが、併しまた外にもっと面白いもの の講義位今でも何うかかうか出来るから大して研究の必要もあるまい。夫よりも職業を離れて自分の 章 のあることは常に忘れることが出来なかった。今度も学校の命令通り財政をやろうかと思たが、財政 科 へ 学 大 本へ帰ってからも講義の必要上商事経営の研究に最も多くの力を用ひた。其結果が株式会社経済論と 商 第 やり度と思ふことをやって見ようということに成た。夫が政治学だ。 余は中学時代に倫理上の問題として国家主義対個人主義の研究をしたことがある。商業学校に入て 皿 ● から学校の課業に追われて此方の問題に遠かったが、併し本科卒業間際には寓巨の経済学に没頭し ﹁勺。犀帥。巴臣巴。讐Φ考案 順序 貴族政治と平民政治 自由放任と保護干渉 家族と国家 宗教及教育 外交及軍備 ムブリッジで同じ下宿に滞在した時以来である。 ﹁上田博士と親しく交はるやうになったのは凡そ二十七年前、一九一四年の秋、暫らくイギリスのヶ 小泉信三は貞次郎が死んで一年後の昭和十六年、国立での追悼講演会で次のように述べている。 で終っている。︵ ﹁ 日 記 ﹂ H ︶ 第二章 政治問題 第一章 新旧思想の混流 たが、結局 後に父の机上に残されたノートではこの﹁対話﹂には﹁ケンブリッヂの夢﹂の副題がつけられてい 社会組織と個人の徳性﹂︵﹁日記﹂n︶ 婦人と社会 農業及工業 の 鳴= ︶ この政治学への興味は対話の形でとりまとめようと計画された。その項目は次の通りである。 から文科大学へ行く の だ っ た 。 ﹂ ︵ ﹁ 日 記 H ﹂ 三 月 ︶ 学校へ入るときは商業学者になる気はない。商業家になるつもりだった。学者になるつもりなら初め 全体余には倫理学、政治学、歴史の如きものが適当なので商業学に志したのが間違であった。之も に拘泥せずして思考力を自由に走らして見たいという気に成た。 如き狭き所へ頭を衝込だ。今度は思い切て職業離れして見たい。自分の趣味の向ふままに学問の領域 て居た。専攻部に入てからも経済学で持切りであった。学校教授になってから仕方なしに商事経営の m 格 昇 当時故人は、その旧藩主たる紀州徳川侯の世子頼貞君即ち現侯爵の教育指導者として前年来同侯と へ 学 四 から、後を引き受けてくれないかとの依頼であり、私も塾の許しを得て之を承諾した。さうしてロン 偶々欧州大戦破裂の為め、ドイッからイギリスへ退去して来た私が同じく紀州藩士の伜であるところ 季扶 商 共にケムブリッジに来ていたのであったが、にわかに校命によって帰朝することになったところへ、 章 第 ドンからケムブリッジへ引越して、出発前の上田博士と暫らくの間同宿したのである。 m 幾日位同じ屋根の下に住んだのであったか、今、日記をくり返して見てもはっきりしないが、よく の 一緒に、ケムブリッジの町を続って流れるケム川でカヌウを漕いだり、自転車を田野の間に乗り廻し 湯 都合が出来まい、と云うた。夫で承諾を得た。其後侯爵夫人から成るべくなら頼貞君帰朝までやって S くれといわれた。其時には出来たらばやりましょうと答へた。 この堀の手紙は七月三十一日付で、その内容は第一が関の辞任で、教授や学生は勿論、同窓会、渋 九月二十三日に学校から電報で帰朝を促して来た。そこで愈十二月に帰るときめた。﹂ とになるだろうということ。 僕自身にも三年は長すぎて退屈するだろうと思たのだ。八月末に堀君から手紙が来て僕を呼返すこ いう返事が来た。頼貞君の入学希望は中止になったが、僕の方はきめて置た。 其後頼貞君の大学正科入学問題が起たので序に余の意志を東京へ書送たら、鎌田氏から差支ないと て、小泉君に後を頼むかも知れぬと云うて承諾を得た。 いて校長問題、関君問題が起た。︶此では到底永くは居られぬと思たから二年で帰ることに考をきめ 英国へ来てから考へて見ると、学校の方にも中々問題が起りそうだ。︵果して大学問題から引つづ 2メ丁.悟∨﹁: ﹁昨年九月東京を立つ前に徳川侯から頼貞君の洋行中引続き後見せぬかと頼まれたが、三年は学校の ついで日記には﹁余の帰朝を早めたること﹂として次の通り書いている。 いつれも学説上の云わば間接的なケインズとのかかわりである。 ウエッブ﹂を書いた。また昭和六年には﹁ケインズ氏の﹃収入関税﹄論﹂を書いているが、これらは 氏の社会改造論﹂︵﹁自由放任の終焉﹂の紹介︶、これに対するウエッブの批評を紹介した﹁ケインズ対 ズを数回訪問している。そして、のちに﹁企業と社会﹂︵大正十五年︶を主宰したときに﹁ケインズ 貞次郎は小泉の追想にあるように当時ケンブリッジのキングス・カレッヂで講師をしていたヶイン 年輩の上田氏は、時々訪問して話して来たようであった。﹂︵﹁師・友.書籍﹂第二輯︶ ﹁エコノミック・ジャアナル﹂の編輯をやってゐた。私は学生としてその講義を聴きに行ったが、同 キンソンを一緒に訪問したこともある。今有名な経済学者ケインズは、当時はまだ白面の少壮学者で 談をいいながら炉のぞぽへ寄って来た。校庭の美しいキングスカレッジに、政治学者ロウス・デイッ パイプとヰスキイソナダのグラスとを両手に持ち、宿の主婦を顧みて、﹁これが僕の良き友だ﹂と笑 秋はまだ左ほど深くはなかった筈であるが、媛炉に火を入れて話した記憶もある。上田氏はタバコの たり、夜はまた食後安楽椅子に筒って戦争問題や社会問題を談論したのは忘れ難い記憶になっている。 m 格 昇 る。第二が関辞任のあと坪野校長が病気辞任するが、その後任は教授、同窓会、渋沢男も結局佐野を へ 学 沢男まで動かして留任をはかったが結局高商教授を辞任して大阪市助役になることが決ったことであ 大 科 商 早く帰朝して欲しいと云うことである。三浦は自分が九年間留学したので貞次郎に一年で帰朝命令を 推すことになったことの報告である。ついで、関の後任としては三浦らと相談したが、結局貞次郎に 四 章 第 出すのは酷だと云うが、堀は学校のためにはやむを得ないから是非この命令をのんでくれと云うもの 田 である。 坪野校長の辞任、佐野の校長兼教授就任は八月十五日である。そして佐野は八月二十日付で貞次郎 血宛に懇篤な帰朝依頼の手紙を出した。自分はこのたび校長に就任した。不適任と云うことで再三辞退 したが、結局引受けた。いま関の後任が問題で、幾人かの候補者にあたったが、当方の望む通りには ならない。ついては貴君には留学中途で残念ではあろうが早々に帰ってくれと云うもので、要望と説 得を兼ね、情理をつくした文章である。 貞次郎は英国の留学先で第一次欧州大戦に遭遇したのだが、その感想を妻への手紙で次のように語 つている。 ⊆ ﹁︵八月二日付︶ “ パ ヨーロッパは今非常な騒ぎだ。二十世紀になってはヨーロッパの戦争は起り得ないと思て居たが実 に意外なこと。英、仏、露、独、換、伊の六強の内二強が相争へば、同盟条約の結果ヨーロッパ中の 、戦争になるので、其結果が何処まで行くか分らないからそんなことはなかろう、為し得まいと思て居 たが案外やり出した。 七月の初にオーストリア・ハンガリーの皇太子がセルヴィアで殺された。其後両政府の間に何か交 渉して居ると思ふ間に突然戦端を開た。セルヴィアがやられxばロシアは決して黙て居られないから、 つまり露填の戦争になる。其場合に露の同盟国たる仏と、填の同盟国たる独とが巻き込まれる。そこ 茎 で独仏戦争が起ると英国も無関係でない。独が和蘭、白耳義を占領すれぽ英国に取て一大事だから、 ぷ そー 仏に加勢して独に当る。英国は今日まで何もして居らないが.独露、独仏の戦は既に始た。今後形勢 が何う発展するか予言は出来ないが、既に火蓋を切た以上は何うしても二、三ヶ月は片がっくまい。 実にナポレオン以来の大戦争だ。 平生は独仏戦争又は英独戦争が始まったら面白かろう杯と思て居たが、実際始て見るとあまり好い 気持はしない。 ︵八月九日付︶ 愈々二十世紀の大戦争が起た。今日は英国の開戦後第一の日曜だ。前便は前の日曜に書たんだが、 其後一週間に色々の事件が起たので恰かも一月位経た心持がする。 が、其土曜にとうとう独が露に対して宣戦し、同時に独仏の国境に両方から兵を集めた。夫から月曜 格 昇 填がセルヴィアに戦を宣告したのは前の日曜で其後の一週間は大戦争になるかならぬかと思て居た へ の 学 日はバンクホリデーであったが、英国が仏の海軍を助けるといふことに成た。次で独逸軍がベルギー を通て仏国へ攻め入らうとした為めにベルギーと独逸の戦になり、更に英国が独逸に向て宣戦した。 大 科 商 むまい。 ・ ・. 是で愈々独填と英仏露と相対戦することになった。伊太利はまだ中立して居るが、何れ其まふには済 四 章 第 英国ではアイルランド問題の為めに内輪もめして居たが、此事件が起ると共に是をパッタリ止めて 鵬挙国一致する様に成た。議会でも事柄が簡単になって重要の議案をドンドン片付けて行く。恰かも日 清戦争当時の日本の様だ。唯一つ違てるのは此国には中々優勢な世界平和論者がある。社会党は無論 田非戦論だが、其他に自由党政事家の一小部分、大学教授の一部、宗教家、婦人団体杯が熱心に中立を 主張した。併し、愈宣戦と成てからは最早仕方がない。平和論者は一転して戦争の為めに出来る貧乏 人や寡婦、孤児の救済に尽力することふ成た。 戦争に成てから第一に打撃を受けたのは取引所と銀行だ。議会では借金の期限延長法といふものを 出して破産者の出るのを防だ。銀行はバンクホリデーの後、更に三日間休業して其間に急場の用意を した。鎌田氏の息子は正金に勤めて居るが、此休みを利用してケンブリヂへ遊びに来た。 次に困るのは食物問題だ。英国は工業国であるから、自国人民を養ふだけの穀物が出来ない。常に 外国から沢山の輸入をして居る。戦争が起れば其輸入が六かしくなる。そこで人が心配して食物を買 込むから、尚更相場をせり上げる。家のかみさん杯も何か買込んで置かうかといふから、そんなにあ はてない方がよかろうと忠告してやった。 其内に政府で海上保険の率を安くする方法を調えた。夫から全国の食料品商人組合を会してパンや、 バタや、砂糖杯の相場を人為的に定めて好商の暴利を防ぎ、得意先の買込みを拒絶させることにした。 金貨の供給が足りなく成たから、是に対しては政府が更に一ポンド紙幣、十シリング紙幣を出した。 英国では五ポンド以下の見換券を使たことがないから、世間で多少不思議に思た様だが、是もまづま →.叉 はドイツ政府が嫌だから、敗けれぽいxと思てる。併しドイッが敗けて、ロシアが勝つのもいやだ。 ことふ思ふ。仏、露、英三国を相手に戦ふのは中々六かしかろうと思ふが、此からが、見ものだ。僕 独逸が主動者らしい。独逸の皇帝と貴族軍人杯が国威拡張の野心に駆られて填をけしかけたから起た 争に仏国から割譲した州︶でも独逸軍は仏軍にまけたといふ電報が来た。元来、今度の戦争は何うも 入込んで大戦争があったが、案外独逸人が弱かったと見えて大敗北した。アルサス︵一八七一年の戦 まだ新聞には出ないが、二三日前に数万の英国軍がベルギーへ渡たさうだ。ベルギーでは独逸軍が だのに今は予備兵や義勇兵が呼び出されたから、ラッパの声が時々聞える。 こんな有様で英国の内地は案外何事もなく至極平穏にやって居る、唯平生は軍人の影も見えない国 ると決議した。 といふ計画が発表された。労働者の組合杯も初は非戦論だったが、今ではストライキを起さぬ様にす ew象ざ つ無難に通用する。貧民救助の為めには皇太子殿下の名を以て寄付金を募り、是を市町村へ分配する の 四 であるまい。尤も日本の大使館があるから、まさか食物に困りもしないだろう。日本ではどうして居 うとうベルリンで立往生だろう。此方から金を送ることが出来なく成た。夫にベルリンは英国程平穏 英国は目下驚く程平穏で今後も海軍全滅しない限り安全だから僕等は心配ないけれども、橘井はと へ 学 ロシア政府はドイツ政府よりももっと悪いと思ふ。仏、英は勝たしてやりたい。 大 格 昇 科 商 章 第 ︵八月二十六日付︶ るか、早く新聞が見たい。 m 1 前暑独逸在留の日系人がロンドンへ引揚げたといふ新聞を見たから、取敢えず上京して見たら橘井 の ΣV ∨﹁〆鴫 およびマンチェスター大学、独でボン大学、ベルリン大学およびベルリン高商の五校に留学した。ま ストリァ一、英三、米三で計二〇校におよんでいる、貞次郎はこれらのうち、英でバー、・・ンガム大学 校数はベルギー二、仏二、独は七つの高商、単科大学があるが学制、学科目は共通、スイスニ、オー 学科編成などについて直接報告を求めて集まった資料の主要部分を翻訳したものである。七ヵ国の学 同報告はベルギー、仏、独、スイス、オーストリア、英、米七ヵ国の大学商学部、高等商業の学制. 調査部によって﹁欧米高等商業教育之現況﹂︵大正二年七月︶が、貞次郎の監査の下にまとめられた。 のは翌年五月になって学科編成委員会が成立したことによってであった。この委員会の委任を受けて の推進のために三浦と貞次郎はたびぐ校長を訪問して実行を促した。しかし正式にとりあげられた とある。同年十一月貞次郎は三浦とともに学科編成改良案を作成して校長に提出した。この改良案 容よりも寧ろ思考力の養成に重きを置くことなり。此意見は校長にも話たり。﹂ 8 ﹁其趣意は勿論普通学の部分を多くして専門学の基礎を与えること。専門学の授業時間を少くして内 明治四十五年の夏、貞次郎は三浦とはかつて学科編成の改良にとりかかった。 三、学制・学科編成の改革 のシベリヤ旅行は退屈どころか生涯の思い出となる愉快な旅だったと云うことであった。 く語った得意話で、洋行してロンドンにいた喜劇役者曽我廼家五郎と同行したこともあって、二週間 えて十二月十一日満州里、京城を経て同月二十四日新築の東京駅に着いた。この旅行談は貞次郎のよ 汽車でペトログラード︵二十六日︶に着き、零下二〇度のシベリヤを横断するため厳寒用の旅装を整 貞次郎は十一月︵十四日︶ロンドンを出発して、海路ベルゲン、ストックホルム︵十九日︶を経て、 が見物だ。﹂ 行く時は戦が永くなるだろう。さうすると我々の大陸旅行も出来なくなるが、まあ何うなるか是から も困りさうもない。併し陸軍の方はドイッが優勢でフランスが敗けている。今の勢でドイッが進んで 出て居る。英国の海軍が北海を封じて居るから、独逸海軍は出る事が出来ない。此分なら戦争が続て 騒ぎだが、英国は至極平穏で、芝居や、クリケットさへ平生の通りやってる。避暑旅行の特別列車も 君も小泉君も其他学校の友人等も無事に来て居た。独逸では挙国皆兵で電車の車掌が女になるといふ 18 格 昇 へ 学 た、帰国の際、米ではペンシルバニア大学、丁ハーバード大学、ニューヨーク大学をそれぞれ訪問して 四 この報告によると欧米の商業教育の学科編成は商業、経済、法律の基礎科目は各国とも大差はない われる。 番沃 学制などについて話をきいていたので、この報告作成を監督する予備的な知識を持っていたものと思 商 章 第 が、選択課目が多彩で学域をこえているものがあり、かつ特別講義が各年度行われて各国の経済社会 mの要求に対して学生の適応を容易にしていることが解る。これは各国それぐのちがいはあるとして 格 昇 も教授の自由と修学の自由すなわち学園の自由を基本としているものと考えられる。貞次郎が九年間 拗 の留学で西欧の大学を知りつくしていた三浦とともに専門学よりは普通学を多くすると主張したのは 従来の詰め込教育に対して教授の自由研究と修学の自由を推進することが、学校教育を向上し、卒業 生の実社会での活動に役立つことを信じていたからと思われる。 なお、本調査に先行するものとして﹁欧米商業教育の概況﹂︵明治三十二年文部省印刷非売品︶が あるが、この執筆者は当時ベルギー留学中だった関一高商教授である。したがって高等商業教育に関 する限り、本校はつねに文部当局に先立ってすでに十数年間調査研究を積重ねて来たことがわかる。 このような高商側の調査、主張に対して文部当局は監督者の立場から、本校に対応する措置を講じた と考.兄られるが、この後の大学昇格への過程を見ると、本校側の実質的な主張を法令の許す範囲で認 めざるを得なかったことが以下で述べるように実証されている。 貞次郎は大正二年九月、ヒ英国へ再留学するので学科編成からは一時離れるのだが、同三年末帰国し て、翌四年に再び学科課程調査委員となるのである。委員は九名あったが貞次郎は三浦、堀とともに 原案起草委員となった。五月中は毎水曜日に委員会が開かれ、本科の分は審議を終了した。その結果 各学年に対する学科割当を適当にすることは出来たが、学科種類の過多なものを整理するには至らず 大改正とはならなかったと書いている。 1惑了 専攻部については従来の八科︵貿易、銀行、取引所、交通、保険、商工経営、計理、領事︶に対し ‖が て取引所科が廃されて、殖民科、経済科が加ったので九科となり、各科別に必修科目が指定された。 ゼ、、・ナール制は従来通りである。以上が文部省令によって同年九月から実施された学科課程の改正で ある。 大正七年十一月には大学昇格に備えて学則の立案がはじまった。学則の審議は佐野、三浦、堀と貞 次郎の四人によって研究、討論が重ねられた。審議は広般に論議され、例えば商大私立化論なども行 われたと聞いている。しかし、成案の大要は 一、大学予科を専属せしめて普通高等学科の外に書法、算術、簿記、商業通論、経済通論、法学通 論等を学ばしむること。 二、大学本科には貿易、銀行、交通、保険計理、商工経営等に分っこと。研究指導を行ふこと。 の 三、別に専門部を付属せしむること。 翌八年四月には佐野校長の依頼で新設商科大学の学科および諸規則起草のために三浦、堀とともに へ 学 とある。 大 科 商 科目の調整を提議した。七月に入って佐野校長以下この三人が学校で商科大学規則案を最終的に議し 主として駿河台の三浦宅で会合を重ねた。五月には成案を作って校長に提案したが、校長はさらに学 四 章 第 また、翌大正九年二月、学科課程は学生との議論の対象ともなった。学生はさらに急進論を主張し て、﹁永い間の仕事が終了した﹂ど書いている。 m 格 昇 商 章 第 て佐野校長と対決姿勢を示した。当時は一橋会雑誌の投書家懇談会が学校行政に対する討論の場で、 これを東京帝大経済学部商業学科と比較すると後老は各学年とも大部分必修科目によってしめられ、 時間以上、指導を受けないものは二六時間以上を学習することになっている。 以上の学科目に対して学生は第一学年二六時間以上、第二、三学年は研究指導を受けるものはニニ 五、その他一〇科目 四、語学に属するもの八科目 三、法学に属するもの一〇科目 二、経済学に属するもの一二科目 一、商学に属するもの一八科目 選択科目は学域が広く 四、語学は各学年毎週二時間 週三時間︶ 三、法学に属するものは第一学年から第三学年まで七科目︵第一学年毎週七時間、第二、三学年毎 二、経済学に属するもの五科目︵四科目毎週二時間、一科目同一時間︶ 一、商学に属するもの七科目︵各毎週二時間︶ 必修科目は 目を必修と選択にわけて、とくに選択課目が多く、学生の自由選択が認められていることである。 四年︶に詳述されている。いまその特色をあげると第一が研究指導制︵ゼミナール︶で、第二が学科 このようにして成立した東京商大学科課程については佐野善作﹁日本商業教育五十年史﹂︵大正十 ︵戦前の消費組 合 運 動 家 ︶ だ っ た 。 多数学生に受入れられたのは初めての経験だと書いている。このときの学生代表の一人は笠原千鶴 してその場を去った。学生側は討議を重ねた末、貞次郎の案を支持することとなった。自分の議論が 結果この学則が出来た。若し、これ以上の改正を望むなら、大学成立の後に建言すべきであると提案 つけて、学生を前に校長を支持し、校長は諸君と文部省の間にはさまって割りに合わない努力をした たが、これに対して佐野校長は現状では最も進歩した学則であると弁明した。貞次郎はこの席にかけ ㎜多数の学生は上野韻松亭に集っていた。福田は学科編成に与らないこともあって学生の急進論を煽っ の に大学教育の予備知識が得られたためである。 このような自由選択の道が出来たのはさきに述べたように大学予科で高等学校文科の法制経済以上 てあるに過ぎない。 へ 学 選択科目は数えるほどしかない。またゼミナール制をとらず、教授指導の演習は選択科目の一つとし 大 科 四 この学則、とくに学科編成は若干の手直しは行われたが、私達の学んだ昭和初期も引つがれていた, 皿 この頃は特殊講義、臨時講義が二〇科目あったので学生の選択範囲はさらに拡大されたのである。 ﹀ 格 昇 章 1 ゼミナール制と自由選択の多い科目制は戦後の新制一橋大学にも引つがれて現在に至っている。こ れらの制度は大学教育の理想モデルとして現在も他の大学が同化を希望していると云われている。し 24 かしながらこのような伝統が生かされるか否かは、学校当局ならびに学生の態度如何によるといへる。 われくの時代も同じだったが、中学、高校を通じて詰込教育を受けた学生側にこの制度を消化して 受入れられているか否かはその時代の風潮ともからんで理解されるべき問題と思われるのである。 四、東京商科大学の発足 貞次郎は大正三年末帰国して学校に戻り、従来の商工経営と新たに商業政策を講義することになっ た。商業政策は後になって昭和五年経済学全集︵日本評論社︶の一冊として出版されることになるが、 その内容は世界の関税政策であり、世界貿易の上に立つ諸国家の政策と云う意味では貞次郎の卒業論 文﹁外国貿易原論﹂の延長であるとも云えよう。もとより貞次郎の政策学の中心課題として断続的に ではあるが、二十余年間講義されたものである。このほか、専攻部貿易科および商工経営科の研究指 導︵ゼミナール︶を担当し、さらに九月からは財政学が加ったのだから、まだ三十代の若さとは云え 相当に忙しかったようである。三浦、堀らも同様であるが、貞次郎はこれに加えて別記のように学科 編成を中心とする学則の作成にも関与したのである。こ、の頃貞次郎は次のように書いている。 三タニ ︷ ﹁ ∀x ﹁一橋の指導的人物は前に関、福田.佐野の三人があり、次で堀、三浦、上田の三人であった。前の 編 三人は何れも学才、世才の秀れた人物ではあったが、相互に相和せざるが為めに無用の混乱を起した。 後の三人を之と比較するに三浦の学問は外面的では福田に及ぼず、堀の事務も佐野に及ぼず、上田は 関の如き辛辣さを欠いているが、併し私心を去って共同の事業の為めに尽すといふ誠意に於いて、三 人とも前の三人を凌いで居たと思ふ。L 大正七年原内閣の四大政策の一つとしての高等教育拡張の政府案が公にされた。云うまでもなく大 戦中の経済発展によって大量の知識人が実業界などから要請されたため高等教育の拡張が必要となっ たのである。この増設案では高等学校十校、高等商業七校、高等工業六校、その他六校の計二十九校 で、これまでの高等程度の学校数を倍増したのをはじめ、総合大学の学部増設、専門学校の単科大学 への昇格などがふくまれていた。すなわち、東京高商の大学昇格も此計画の一部である。 の この高等教育機関増設の経費は三年間に四千四百万円だったが、そのうち一千万円は皇室からの御 四 ﹁一月三十日朝三浦君より電話あり、文部省方面より佐野校長に達した情報に依れば、高商の大学昇 なかった。貞次郎は大正八年に次のように書いている。 へ 学 下賜金によっていた。 大 科 この大学昇格についても、なお政府、文部当局には種々の異論があって、すんなりした道とは云え 商 第 格に対し政友会内に故障が生じたから学校へ来い、といふて来た。 随 校長室に校長、三浦、自分が集て相談した、そこへ渋沢男が偶然来合せた。中島久万吉男も召集に 応じて来た。政友会方面の消息は中島男に探ってもらうことに成た。 大学設立の必要﹂を草して同窓会々誌に寄稿してからでも二十年の歳月を要したのである。 東京高商の大学昇格は商法講習所から数えて四十五年、在外教授八名がベルリンに会合して﹁商業 を学問に用ひたい。﹂ ぱ随分学校の行政上の相談の為めに時間をつぶしたが、之からは出来る丈け其方を他人に譲って全力 ﹁四月一日から東京高商が東京商科大学になり、余は三浦、堀等と共に勅任教授に挙げられた。今迄 ’ いた。従って養成所を加えて学生総数は二千人弱だった。 は予科、専門部、学部とも各二百人で、学部は専門部、各高商などからの入学者が若干数認められて 教授一八人、予科助教授四人、専門部教授一五人、専門部助教授七人で計七六人である。学生の定員 職員定数は大学長の下に大学教授一五人、同助教授五人、事務官一人、助手一人、書記九人、予科 商業教員養成所主事星野太郎である。 東京商科大学長には東京高商校長佐野善作が任ぜられ、予科主事石川文吾、専門部主事奈佐忠行、 に編入し旧規定により修業させることとした。 の相当級に編入し、希望しない者に対しては商学専門部に専攻科および高等商業科を特設して、それ 置が定められた。東京高等商業学校学生生徒で大学または予科に編入を希望する者は、これを新大学 大正九年四月一日、東京商科大学が開設され、予科、付属商学専門部および付属商業教員養成所設 まれあるなり。﹂ 二月二十六日衆議院本会議にて追加予算案、即ち学校拡張案が可決せられ、此内に高商昇格案も含 二月三日中島男より例の件御心配無用との報が来た。是で一同安心した。 明話をしてくれた。同氏の意見は余と同様であった。夫人に面会し、昼食を饗応されて帰った。 二月二日早朝大森の岡崎邦輔氏を訪ひ政友会内の消息を問ふた。同氏は可なり詳しく知って居て打 を相談した。 二月一日今日も学校へ行て同窓会、如水会幹事と会見し、且文部省方面に向て示すべき議論の骨子 まいと信じて居た。 併し余自身はまさか原首相が天下に公言したことを、政党内部の故障の為めに取消す様なことは為す 螂 一月三十一日今朝校長は南次官、杉浦局長に面会したが、其情報は形勢悪化といふことであった。 格 昇 の とき、商工経営講義の内容は英国産業革命史だった。貞次郎はもともと弁舌は得意でなく、講義も学 へ 学 貞次郎は﹁日記﹂にも書いたように、新学期から商工経営および商業政策の講義を担当した。この 大 科 商 ﹁商工経営の講義には思い出があるのです。大正九年に入って五月ころでしたか、いかにも眠いんで 生から眠くてかなわないと云われたものである。茂木啓三郎は次のように述べている。 四 章 第 すよ。学生が眠るのです。そうすると先生、君たち眠いだろうねと云うんですよ。そこまではいい。 惚ぼくも眠いよと。︵笑︶変った先生だと思いましたね。﹂ ︵﹁全集の栞﹂1号︶ 産業革命史の講義もはじめの頃は﹁エー、ウー﹂が多かったと聞いたことがあるが、次第に猪谷善 一が﹁暗夜に燈火を点ずる様な明快な講義﹂となったようである。この講義は九年、十年、十一年の 三年間繰返され、また、協調会、北海道その他でも講演され、十一年九月に﹁英国産業革命史論﹂と れたのである。 五、大震災に続く国立移転 てはいかぬと信じて人々に注意しておいた。その時内藤君の室はまだ安全であったので学生が中へ入 ンプがないから如何とも仕方がなく、唯心配しながら見て居るだけであった。唯あの建物の戸をあけ ボツぐもえて居た。一時はその火が三井館のメンガー文庫の室へ移りはしまいかと気をもんだがポ しなかった。余は先づ研究室の方へ足をはこんだが、自分の室は既に燃えつくして何もなく、二階が 着いて見ると被害は思ったより甚だしくて如水会も講堂も本館も焼けて居たが、是はさほどに驚きも 橋を渡ってから一面の焼野原の遙か向うに図書館の高い屋根が見えた時は実にうれしかった。学校へ 翌二日の朝学校へ行った。﹁そのとき余の頭の中にあった心配は学校の図書館のことであった。飯田 貞次郎は大震災の起ったとき自宅にいたので、そのありさまは第九章に譲ることとする。そして 妄ぺ︸ ミ早 \トヨ﹄〆6 > 五年五月に盲腸炎で急逝して、大正デモクラシーを背景とした一ッ橋の最もよき時代は終止符をうた た。三浦は別記のように郷里山形に帰って常時講壇に立つことが出来なくなった。さらに福田は昭和 田銀行の破綻にあって本学講師をはじめ一切の公職を退き、ついで同年八月四十七才をもって逝去し このよき時代は昭和初期まで続いた。しかしながら、昭和二年四月、左右田は金融恐慌による左右 産業革命史もこれらの中にあって一きわ光るものだったことは前記の通りである。 でなく東大の学生や背広の社会人、また時には軍服姿の聴講生もまじっていたと云われた。貞次郎の あって、予科、専門部、本科の区別なしに学生はこれらの講義に殺到した。ただに一橋の学生ばかり を迎えた。なかでも、福田の経済原論、左右田の経済哲学、三浦の文明史は時代の先端を行くもので 大学昇格から昭和初めまでの約十年は、一橋は教授陣のまれにみる充実によっていわゆる黄金時代 ﹁全集﹂第三巻産業革命に収録するところである。 してまとめられ、十二年一月に同文館から刊行された。これが貞次郎の云う学問の第二の高潮期で 皿 格 昇 の へ 学 って書物を出して居たから少し手伝った。研究室は夜明に火がついたのだからその時自分が居たら今 四 て話す所によると、同君と藤本君は地震の時に室に居て神保町の出火も見たけれども、学校の方は安 科吠 商 少し手廻しも出来たろうと思った。村瀬文庫を焼いてしまったのが残念だ。併し此時堀君が現場に来 章 第 全と思って帰宅したさうだ。実に此大火は誰も予想しなかったらしい。 皿 十一日 佐野学長を訪ねて学校の事に付意見を交換した。不充分の準備で早く開校するの不可なる 彰 ことに一致した。直轄学校は十三日文部省に集り論議すべく、学校では十六日に教授会を催すべしと き乙亨 それとして佐野学長は来年の創立五十年を機会に引退したいという意見を貞次郎らに洩した。その理 大正十三年に入って、助教授の待遇問題とか、英語教授法についての改革論などが起った。それは に述べるように私が青春のにがい思い出を残した故地である。 業生たちによって﹁東京商科大学予科石神井校舎旧跡﹂の記念碑が建立され、除幕式が行われた。後 の面影はなくなったが、その一角にある稲荷神社の敷地に昭和五十三年十一月、ここで学んだ予科卒 校舎は昭和八年小平校舎に移転するまで十年間存在した。戦後、ここには都営住宅が建築されて往時 十三年四月からは石神井運動場に建築中の仮校舎が竣工して大学予科全部が此処に移転した。この の講義は青山の農業大学、予科は幡ヶ谷の東京高等学校の教室を借用した。 学校は三ヵ月休校してその間一ッ橋に仮建築を急設し、十二月一日より再開された。また、専門部 罹災学生中、学資欠乏者に貸費することなどをはかった。 ×タΨ念 一週間、大阪、神戸、京都の如水会で大学の被害状況を説明した。また関西学生本部の大会に臨んで 十月に入って大阪の如水会支部から見舞が来て、教授会から、星野、木村、貞次郎が派遣されて約 難した市民の便宜を図ること。罹災学生の消息を確めることだった。 ︵本三︶金田近二、中川孫一︵本一︶らが率先して開催したものである。彼等の仕事は大学構内に避 学校当局の活動に先立って学生は一橋震災善後委員会を設けて京浜学生大会を開いた。宇田稲夫 に着手した。 となった。十月に入って三日間、残骸となった練瓦建校舎を工兵隊に依頼して爆破し、仮校舎の建設 結局、校舎は三井館を除いて焼失し、焼け残った図書館も震災による破損が甚だしく、使用不可能 築の設計で、度々夜にかけて議論したり相談したりした。 年内だけで数十回の委員会が開かれた。最も多く時間を費したのは敷地移転問題、仮建築および本建 十六日の教授会では学校の復興について委員会が設けられ、堀、貞次郎ら九人の委員が指名され、 したり、新聞広告などで無事避難したことがわかって、それぞれ現地へ電報を打って知らせた。 った。増地庸治郎、徳増栄太郎、大塚金之助、木村元治らの家族はいずれも家を焼け出されたが訪問 震災直後、貞次郎が気のついたのは大学などからの海外留学生にその家族の安全を知らせることだ 即 の事。⋮⋮﹂ の 四 前記の問題などでごとごとに貞次郎と対立したのだが、その動機も学長志向にあるのではないかと疑 章 頻りに自ら学長になろうとして小策を弄ぶのに不快を感じているためと思われた。福田は教授会でも しかし、三浦、堀、貞次郎の見るところでは健康は問題になるほどではない。第二の理由は福田が へ 学 由は健康と既に在任十年に及んだということだった。 大 科 格 昇 商 第 うと貞次郎は﹁日記﹂に書いている。 皿 しかし、佐野が引退した場合、堀か貞次郎が学長になることはあまり好結果が期待出来ない。福田 が如何な態度に出るかわからないからである。それのみならず、復興計画の遂行には諸般の事情から 四 き 松講堂が完成した。兼松商店︵現在の兼松江商㈱の前身︶は濠州との羊毛貿易のパイオニアとして業 界に知られているが、この講堂はその創立者兼松房次郎の十三回忌を記念した五十万円の寄付を伊東 忠太工学博士が設計監督して出来あがったものである。前田卯之助は当時はすでに兼松の取締役総務 ︵社長︶を引退していたが、この講堂の寄贈は彼の発案であり、引退の花道をかざるものだったと聞い ている。 学部本館および図書館・研究室は同五年九月に一部をのぞいて完成し、ついで十二月にはすべて完 工した。これが現在の一橋大学の主建築でここに移って授業が開始されたのである。現在中央線で国 立へ行って見ると学園都市として周辺は住宅地化して、すでに武蔵野の面影はないが、一橋大学は松 の緑の濃い中に本館、図書館、兼松講堂のほか戦後増設された経済研究所、磯野研究館、産業経営研 の 究所などがあって、総合的な学園としての偉容を誇っている。 へ 学 大 科 昭和二年四月、国立に専門部の仮校舎が落成して移転した。ついで、同年十一月兼松商店寄贈の兼 一橋大学の敷地約十万坪は十一月に登記済となった。 所有の土地と神田一ッ橋の大学敷地の一部との交換の件が文部大臣から認可された。そして、現在の 大正十四年九月、大学は東京府下谷保村国立に移転することとなり、箱根土地会社︵社長堤康次郎︶ を辞職したのは昭和二年三月だった。 について養父に負担をかけたことなどに大きな責任を感じていたとのことである。三浦が実際に教授 なかったようである。聞くところによると三浦は先代権四郎の養子でありながら、九年間の独逸留学 らは事の意外に驚いたのであるが、三浦家および三浦新七の山形における立場はそう簡単なものでは 三浦程の大学者であれぽ、家業は誰か後継者に譲って教授として大学に残るものと信じていた貞次郎 については講師として残り、年一回上京して集中講義をすることになったのがせめてもの救いだった。 教授陣の主柱として一橋の名講義の一つだった文明史などは常時出講出来なくなった。ただ、文明史 とにきまっていた。教授の地位を惜し気もなく捨てたので、学校行政からはもちろん手を引き、また このときすでに、三浦は厳父が病気で倒れて、山形へ帰り、家業である両羽銀行の経営にあたるこ を要請したのである 。 皿佐野が最も適任とされた。それで、三浦、堀、貞次郎は相携えて学長を訪問して此事情を述べて留任 格 昇 商 章 第 皿 脳 第五章揺れ動く商大 モニ子 一、 θ私の商大予科入学 父は官立大学とはいえ、前章でも書いたように高商から大学昇格にあたって自分達で学制や学科編 成を作って来た。また、教授としても英国産業革命史や労働問題を論じていた最も油ののり切った時 代でもあった。したがって東京商科大学に充分の自信と高い誇りを持っていたことは間ちがいない。 しかも、当時すでに五十年の伝統ある大学として実業界、学界などに多くの人材を送っていたのだか ら、全国の中学、商業学校から優秀な学生が集り、受験者側からみてもマーキュリの記章はあこがれ の度も高く、それだけに試験も難しい学校どされていた。父は自分達でつくった大学で、そこに集っ た優秀な学生の中に自分の息子を交友させたいと云う考えを強く持ったようである。そして、私に対 して商大予科を受験するようにすすめたのである。私は自分の志望がかたまらないこともあって高等 学校受験を志望した。しかし、父は高校に入った場合はまた大学入試があるが、予科に入れぽその三 年間、さらに大学三年間自分の志望にしたがって好きなことが出来ると云うのだ。自分は大学の先生 ξを f⇒昏. き﹄ 華 として、また高等試験委員としても試験をやっているのだが、もともと試験はきらいでお前達に試験 → ﹂ ﹀奄 ぐシツ ζ.ガ又 とくに入試の苦労をわざわざさせたくないのだと云う。その前提として大学は人間をつくるところで 試験のためのガリ勉をするところではないと云うのが父の持論でもあった。 もう一つ私が大いにこだわったのは父が先生をしている学校へ入ることに対する抵抗だった。父が 有力教授である学校へ入れば、父の周辺からはチヤホヤされるし、他方先輩や仲間からはあいつは不 肖の伜だとさげすまれるにきまっているからだ。このことはもちろん父に話したのだが、自分はお前 に対して絶対に干渉しない、このことは固く約束する。自分の周囲の人達だって立派な人達だから特 にお前だけを甘やかしはしないと云うのだ。このような次第で私は簡単に説得されてしまった。思え ぽ、大学教授と中学生では当然の結果で、世間的に見れぽ正一ははじめから親の言に従って一橋を志 望したと見られて不思議はないと云える。 があたり前だが、どうせ受験するなら四年終了でもやってみようということで受験したのだが、あっ 大 このようなことで商大予科受験がきまったのは四年生の十一月頃で、もう一年勉強して受験するの 商 ど多忙な日々を送っていた。﹁日記﹂によると﹁余は今商大教授である外に徳川家の顧問であり、南 章 父は大正十五年四月から﹁企業と社会﹂を創刊して、新自由主義を提唱し、毎月巻頭論文を書くな 五 動 れ さり落第して相当のショックを受けた。 揺 く 第 葵育英会の理事であり、如水会の常務理事であり、企業と社会の主幹である。中々まとまった読書研 皿究は出来ない。今後尚何か学問上の仕事を為さんとすれぽ相当のふんばりが必要である。﹂と書いてい 1 る。ずい分欲張った話だが、後にこの時期を父は学問的に情熱をかたむけた四つの時期のうち第三の 時期にあたったと云つているので新自由主義そのものが父にとっては学問だったと云えるとともに生 36 涯の中で最も意気があがり、かつ充実した時期でもあった。 私は五年生になってからガリ勉をしたおかげで昭和二年三月、六人半に一人の難関を突破して商大 予科に入学することが出来た。受験地獄から解放されてほっとしたものの、慣れないガリ勉がたたっ てか、軽い肺尖カタルにかかっていることがわかって、五月早々から休学のやむなきに至った。父は 私の入学と入れ代りに四月に東京を立ってジュネーヴの国際経済会議に政府代表の一人として参加し た。 私は微熱があるので、何かけだるくて寝たり、起きたりして小説を読んだり、哲学の入門書を読ん でいた。この当時はいわゆる円本時代で、世界文学全集、日本文学全集などが順次、発行されていた めで乱読の材料には事欠かなかった。とくにユーゴーの﹁レ・ミゼラブル﹂やツルゲーネフの﹁父と 子・処女地﹂、トルストイの﹁復活﹂などは私の青春に強い刺戟を与えたものである。 父は八月半に国際経済会議から帰国して軽井沢の山荘へ来た。私は病気のためもあって何か内攻し、 ウッ積した感情をもって父を迎えた。折角、予科入学を果したが、学校は中学校の延長のようで一向 に面白くないから、一そのこと退学してもう一度高等学校へ入りなおそうかと考えた。もとより夢の ト,チ ー ゴ芸こ る、’ク S.を ような話なのだが、父にこのことを話すとはじめは面白くないかも知れないがきっと面白くなる。商 ﹀蒸 ﹁ cV−孔 、 ﹀ 大と云う学校は商人になるためだけの学校ではない、何でも好きなことをやればいいではないかと云 う。例えば農業は出来ないではないかと云ったら、お前は一体農業を本当にやる気なのか。それなら 北海道へでも行って牛の糞をつかんでみうと云われた。農業の研究にもいろいろあって、例えば農業 政策とか、実際に鍬を持たない農業理論や調査なら商大にもそういう課目があって勉強出来る、と云 った。親子と云ってもプロフエッサーの親爺に対して議論をふっかけても全く相撲にならない。私は 父を尊敬するよりもいたずらにコンプレックスを持たされただけだったようである。 そして九月からまた通学することになったのだが、この学年は入学早々に病気と不勉強で散々な成 績だった。自分では落第覚悟だったのだが、上田の息子と云うことでお情で進級することが出来た。 父は私の不成績については一言もふれなかった。 があって、前学年の中学校の延長のような雰囲気から、一転して西欧近代の社会科学が講ぜられた。 大 昭和三年四月になって予科二年になると孫田秀春教授の法学通論、大塚金之助教授の経済通論など 商 く 襲的に社会的地位を維持するのに対して歩はどこまでも歩で階級差別があった。フランス革命で人間 った。﹂と云うことだった。封建時代には人は身分制にしばられて将棋の駒のように王、金、銀など世 を呼ぶ新しい世界だった。孫田先生の言葉で覚えているのは﹁フランス革命で人間は将棋から碁にな 動 れ 詰込教育で中学校まで過し、さらに無味乾燥な一学年を送った私達にとってこれらの講義は青春の夢 揺 章 五 第 1 は法の前にすべて平等になった。つまり全人民が碁石になって、ここに近代的な平等思想が法的に形 37 杉営、、・ φ 成された、というものだった。大塚先生の講義は経済学の方法として唯物史観と労働価値説を解説し 貞次郎をはじめ上田辰之助.猪谷善一ら若い教授が講義を引受けて芝浦あたりの労働者の啓蒙教育を によって設立された研究会で、実際面では芝公園の友愛住宅内の講堂を借りて、労働学校を開設した。 S。P.S︵の8︷①8勺①gΦΦのo°﹂巴Φm︶は大正十三年、当時大学三年だった加藤敬三、山中篤太郎ら 併し学校当局から無謀な弾圧が来ないやうに注意してゐる。﹂ 来なかった。S.P・Sは研究会をつづけてゐる。余は部長として極力学生の軽挙を戒めてゐるが、 併し幸にして学生中真に不穏なものは一人もなかったから、大学に対して文部省方面からの弾圧は なった。 止めたいといひ出した。兎に角場所を貸さぬといはるれぽ是非なしといふので労働学校は一時中止と ふので、今まで室を借りて居た千住交憐園の主事内方氏に対し警察から苦情を持込まれ室を貸す事を 然るに時も時、S.P.S労働学校の生徒募集の為めに配ったビラの中に不穏の文句があったとい 質 大の大森助教授も辞職をよぎなくされた。 られた。︵三・一五事件︶現内閣は所謂危険思想に対して極力弾圧政策を取り、京大の河上教授、東 ﹁去る二月の総選挙の際、日本共産党なるものがビラ撒きをやった後大検挙が行はれ、数百名が捕へ になってその経緯を話すのにはむしろ驚かされた。﹁日記﹂には ったのだが、地方出身者は自分の出身の町村が、政友系とか民政系とか具体的によく知っていて得意 トーブを囲んで無産党の話に花を咲かせたりした。私のような都会出身者は選挙に対して関心が薄か ただけで、政友、民政両党の大勢力に対抗するには程遠いものだった。われわれも石神井の教室でス だった。はじめてのことで新聞などはさかんに書きたてたが、選挙の結果は三党で七人の当選者が出 の舞台に登場した。社会民衆党︵安部磯雄︶、日本労農党︵麻生久︶、労働農民党︵大山郁夫︶の三つ この年の二月に普選法によるはじめての総選挙があった。この選挙ではじめて無産政党が実際政治 ⇔ 普通選挙と左翼運動 義を一言ものがさず聞きとろうとしたのである。 と云うのがその冒頭の言葉だった。私はこれらの時間だけはいつも教室の前列にすわって、先生の講 習った世界観、歴史観、人生観はすべて間違っていた。これらはすべて変革されなければならない。﹂ 皿たもので、何も知らなかった私の眼を社会経済に対して広く開くことになった。﹁諸君のこれまでに 大 法が公布されて学生社会科学連盟︵学連︶の検挙があり、その影響もあって商大でも昭和二年頃から れ 会はもともと無色で、幾分社会主義的傾向がある程度だった。しかしながら、大正十四年に治安維持 揺 商 く 動 した。﹁学生等は献身的によく働くから資金がなくても中々仕事が出来る。﹂と書いている。この研究 章 五 第 次第にマルキシズム化が浸透して行った。 て死刑を追加されることとなった。これと同時に社会科学研究は全国の大学、高校では一般的に禁止 さらに、昭和三年には三・一五事件︵共産党大検挙︶があり、続いて治安維持法は緊急勅令にょっ m ㌻ され、昭和三年十月従来の学生監にかわって思想取締を主とする学生主事が新たに設けられた。商大 予科でも同年七月に社会科学禁止の書状が学生の保証人宛に通達された。 4 0 1 当時予科ではS・P・S読書会とともに予科生活批判会があって授業時間の短縮など学制の改革を 論じて予科総会に持込んだ。また現実的には食堂をボイコットして学生による経営をはかったりした。 このようななかで、私が予科S・P・Sの読書会に出るようになったのは多分この年︵昭和三年︶ の秋からだったと思う。当時本科S・P・Sの部長はまだ父だったが、予科は別だった。学生の主流 はすでにマルクス主義に近づいていたが、私自身はと云えぽまだそれに疑問を持ちながらも次第に革 命理論のもつ魔力に引かれて行った。 両親は昭和四年のはじめに印度に渡り、ジャバを経て三月に神戸に帰着した。﹁日記﹂にも﹁三月 十一日神戸人港、正一及上田会員の出迎を受く。同夜神戸発車。﹂とある。 私は予科三年になって、もっぱら数人の仲間達とS・P・S読書会を中心としてマルクス主義の勉 強に熱中して行った。この四月には四・一六事件とよぼれた共産党に対する大検挙の行われた直後だ ったので無産者新聞︵党機関紙︶なども定期には出ていなかったようである。私はもともと理論とし てのマルクス主義に引かれたので、もっぱら研究に専心しようと思った。前年に大塚先生の講義で手 ほどきを受けたマルクスの経済理論はその労働価値説を核心として明確に現代社会の支配機構をあば ミ き、革命によって新しい共産社会を実現するという意味でまことに理路整然としたものと思った。し 皆 かもこの学説はマルクスの性格もあってか、非常に排他的、攻撃的であたるを幸切りまくると云った 痛快性をもっていた。私は次第にこの理論に深入りして、ついには心酔してしまって、このためなら 青春のすべてを賭けてかまわないと思うようになった。 まず、学問的に河上肇博士の﹁資本論入門﹂や﹁経済学大綱﹂︵改造社経済学全集︶に傾倒するこ とからはじまって、この年の夏休みには高畠素之訳の資本論を読み、第一巻を読了する頃から眼に異 状を覚えるに至った。これは細い文字を読んだことから来る眼の疲れで眼科医に診断してもらった結 果軽い近視が認められた。この夏休み中資本論は第二巻の途中まで進んで、ストップした。 マルクス主義は現在でも同じことと思うが、理論と実践との統一と云う若者にとっては魔術的な牽 引力を持っている。もともと西欧の労働運動と結びついて発達した理論なのだからそれは当然なのだ 大 が、私の如き行動的に自信のない人間までそこに引込まなければやまぬ勢があった。逆に云えぽ私の ような坊ちゃんで、多少オッチョコチョイの人間だったからこそ案外易々とこの道にはまりこんだと 動 れ も云えるようである。 揺 かに尖鋭かつ実践的だったようである。共産党は四・一六後壊滅的状態の中から、田中清玄らの武装 章 当時のS・P・Sは左翼学生運動の中ではむしろおくれていて、=局、東大、早稲田等の方がはる 五 商 く 第 化時代となっていて、指導理論はコミンテルンで作成された﹁一九二七年テーゼ﹂だった。ここに規 皿定されたものは以前に共産党の主流となっていた福本イズムの批判の上に成立ったもので、日本帝国 ぷ聾牛 商 く 動 揺 章 第 主義を天皇制の支配する軍事警察国家とみなして、労働者農民に権利を与えるブルジョア民主主義的 迎な要求こそが当面の戦略目標とされた。その要求は十二のスローガンにまとめられていた。 国際関係からはじまって、一、支那から手を引け 二、朝鮮、台湾など植民地の解放 三、対ソ侵 略反対 四、帝国主義戦争反対である。国内問題としては五、言論、集会、出版、結社の自由、治安 維持法等悪法の撤廃 六、団結権および罷業権の確立 七、帝室、社寺、大地主の土地没収︵土地を 農民へ︶八、人頭税等悪税の廃止、累進所得税の確立 九、君主制の廃止 一〇、男女十八歳以上普 通選挙権、一一、七時間労働制の確立、失業、疾病、災害、老後保険の実施、一二、労働者農民弾圧 の議会を解散せよ、である。 わが国の戦後改革によって民主主義が少くも表面的には実現した現代の日本からみるならぽこの共 産党のスローガンは危険思想どころかすべて日常的に実施されていることなのだが、戦前は共産党員 およびその同調者は治安維持法違反として特高警察から、検挙と拷問をもっておびやかされていたの である。私は学生運動に入って主義のためなら学校なんかやめてもいいし、生涯を社会主義に託して いいと頭の中で思いこんでいた。 ⇔ 私の放学とその波紋 夏休みが終って九月の学期がはじまったが、私は毎日学校へ行くとS・P・Sの部室へ行って読書 会の準備や宣伝文書のガリ版すりなどに時間を費して、講義などはサボることがますます多くなった。 ,−pパ告 ミ 私達は大学の顛落をうたい、社会科学研究の自由を要求した。これらのS・P・Sの活動は当然学則 に違反することばかりだったので当時の阿久津学生主事に呼ぼれて説諭されたり、軍事教練をサボっ て体操教師から大目玉を食ったりした。そしてこれらのことは当然父にも報告された。﹁日記﹂には、 正一のマルキシズムと題して次の如く述べている。 ﹁今春帰朝後、正一がマルキシズムの書物を読んでゐる事を発見したが、研究だけは当然の事と思て ゐた。然るに九月二十六日の朝予科の学生主事阿久津氏の話に正一がS・P・Sの掲示を許可なしに 張出し、制止をきかないで困るといふ事を聞いた。正一に質して見ると学校当局と戦ふといひ、又こ れが権力者に対する反抗運動の試みだから止められぬといふ。つまり権力に対し闘ひさへすれぽよい といふ不合法運動熱にかふってゐるのだ。余と貞子と二人で諭して学校を卒業するまでは学校の規則 る鐘の音は今も私の記憶に残っている。 と、これをとりまいて立っていた十数本の樫の木と、樫の木の間に立って授業の開始、終了を知らせ た命令によって、米内栄一、加藤四海と共に放学となった。石神井のバラック校舎の前のこの掲示板 とある。この両親の説得にも応じないで学内運動を続けていた私は十月一日、予科の掲示板に張られ 大 に従へといったが中々きふさうもない。一寸困ったものだ。﹂ れ 五 私の放学は私自身はもちろん父にとっても母にとっても大ショックだった。母の如きは当時の女と 皿して半狂乱の状態に陥ったとしても不思議はなく、事実そのような状態になった。私の周囲にはS・ 商 く P・Sの仲間がいたのではじめは放校反対だ何だと騒いだが、時が経つにつれて学校に行かないで何 幽をするかに悩まなけれぽならないようになった。はじめ私は父に廃嫡してくれと云ったが、父はそん なことは出来る筈がないと云った。親子はどこまでも親子だと云うのだ。 放学された同志のうち、米内は左翼文芸雑誌﹁戦旗﹂社の関係で働くことになった。加藤は二年上 級で水戸出身の川上義男︵のち放学される︶の手引きがあって茨城県の農民組合に行くことになり、 私にも同行を求めた。農民組合で書記をするにしても、当時の農村では農家から米や野菜を寄付して もらうことは出来ても給料をもらうことは不可能だったから、学資相当の三十円程度の生活費が必要 だった。加藤は自分は職業的な運動家になると云ったが、これをどうやら親から学資がわりにもらう ことになったようである。私はこのことを父に云うと言下にそんなことはだめだとはねつけられた。 父の言うには労働運動でも農民運動でもやることはかまわないが、何をするにしても身についた技 術を持たなけれぽ生活を立てて運動を続けることは難しい。日本農民組合の組合長杉山元治郎ははじ めから農民運動をするつもりだったが歯科医の資格を持ってやっていると云った。若し、身についた 技術がなくて運動をすればやめたときに困る。食えなくなれぽ人間はいやしいこと︵ゆすりやたかり を指す︶をしても食わなければならなくなる。はじめは社会主義だ何だと立派なことを言っていても、 道に迷っていやしいことをして食っている人間は沢山いるのだ。 こうたたみかけられてみると私が運動をして治維法にかかって監獄に入って出獄したとする。誰も 1 戸遭 面倒を見てくれるものはないから、直ちに食えなくなるのは当然だった。救援会とか、出獄老に対す るカンパ募金はやっているが.それは精神的支援であって生活費にはならない。飢えを待つわけには いかないから悪行に走る外はないかも知れない。だが他方職を身につけるために学校に再入学したり すれぽその方が一生の仕事となってしまって運動は出来なくなる。私は大いに迷ったが、結局、生活 が先だと考えた。翻訳の仕事をしようと思ってまだ志望者の少いロシヤ語の勉強をしたりしたがそれ を完成させるには矢張り学校へ入るのが早道だった。この間、S・P・Sの先輩や、父の門下生達は いろいろと心配をしてくれ、相談にのってくれたのである。 私の放学のために父の大学における地位も安泰とは言えなかったようである。法的には何でもない としても、佐野学長をはじめ当局側はいろいろ画策もし、圧迫を加えたことは当然である。父は門下 大 の太田哲三、金子鷹之助、増地庸治郎、山中篤太郎らと相談して、一時は一蓮托生して辞職しようか と思ったこともあったようである。だが、落着いて考えた結果、やめることはいつでも出来るのだか 動 れ ら、現状維持でさらになりゆきを見るより仕方がないと云うことになったようである。 揺 章 四 私の復校と再退学 五 第 私自身は職を身につけたいとは思ったが、学校に行かないで中ぶらりんではただ憂うつなだけで、 どうにも仕様がなかった。当時はまだヤケ酒の味もよくは知らなかったので、ただ憂うつに取つかれ 螂 てしまった。翌五年の三月だったかと思うが、太田哲三先生を通じて学校へもどらないかと云う話が 大 商 く 動 った。このときも父は﹁太田さんは苦労人だから、よく話を聞いて見ろ﹂と云った。太田先生は﹁自 起った。一旦放学になったものをそんなことが出来るのかと驚きもしたが、規則上出来るとのことだ 鰯 分も先生のゼミナールに居た時分には原理原論が好きでマルクスもやった。資本論は稀代の名文だね。 君なんかそれに魅せられて禁断の果実を食ってしまったのさ。﹂と云った。まだマルクス一辺倒の私は かわった意見もあるものだ位に思った。 それにしても復学については予科主事に﹁あやまり状﹂を出して改俊の情を示し、今後このような ことは一切しないと誓約しなければならないので、若い私にとって甚だ屈辱的に感じるものだった。 太田先生は﹁こんなものはホゴみたいなものさ﹂と云った。私は仕方なしに手続と割り切ってこのあ やまり状に署名捺印した。太田先生が保証人として副署された。この﹁あやまり状﹂は太田先生が学 校に提出されたが、私は大久保の阿久津謙三学生主事宅と市ヵ谷の木村恵吉郎予科主事宅へ挨拶に行 って深々と頭を下げたのを覚えている。 四月末、私は復学して予科三年三組に編入された。この級の友達とはすぐに仲良くなり、皆私の前 歴は知っていたので、何のこだわることもなく早速に読書会をはじめたのである。また﹁無産者新 聞﹂も発行されて、非合法の配布網が学内に出来ていた。父は私の行動には不干渉であり、私はこれ をいいことにしてこのような行動をとり、家庭では自分のことは一切口にしなかった。父は社会問題、 \ パォ ㍗ 労働問題の研究は必要欠くべからざるものであることはもちろん、マルクス主義や共産主義運動も国 さき、:ゴこ・:︽± 菱筆き 蒜シ 、 家が存在する限りその対極として必然的であると云う認識に立っていた。自分は云うまでもなく自由 主義者で、広義の社会主義とは相容れないが、当時の政府当局の弾圧政策には疑問を持ち、治安維持 法は悪法と考えて撤廃が当然と思っていた。父がこのことを刑法の権威である牧野英一博士に話した ところ、牧野はたしかに治維法は悪法だと思うが、世界各国ともこの種の法律があると答えたと話し ていた。 おそらくこの頃のことと思われるが、父は日本の天皇制は独特なもので、これは超理論的、宗教的 なものだから、うっかりふれてはならないと語っていた。吉野作造君は政治的にこの問題にふれたた めに大学をやめざるを得なくなった、とも云った。父と吉野との交遊は日記でもはっきりわからない が、多分新自由主義を提唱した頃からではないかと思われる。その大学を追われた﹁吉野君がよく話 していたよ。君、恩給って有難いものだよ﹂と云って笑った。 もう一っこれに関連して思い出されるのが石川千代松博士についての話である。何でも博士が天皇 人間ではないと思っていた。﹂ととぼけたと云うのである。どこで聞いてきたのか知らないが・この話 章 うだと答えた、あとで侍従があんなことを云われては困ると詰問した。そのとき博士は﹁俺は天皇は 五 れ 揺 に進化論の御進講をして、人間は皆猿から進化したと話した。天皇が誰でもそうかと聞かれたのでそ 第 はたびたび聞かされたのでいまもはっきり覚えている。 昭和六年三月になって、私は兎も角も予科を卒業して学部に入った・学部に入ったからには資本論 醐 ※之 φ を原文で読むとともに日本資本主義を研究して日本の将来の進路を見出したいなどと大真面目に考え 囎 たものである。ずい分大それた考えだが、当時の左翼的な思想活動は岩波書店の﹁日本資本主義発達 史講座﹂などが発行されて学生の間でも具体的な経済研究は一般的だったと云えよう。それはそれと して私はこの年の初め頃から左翼労働組合の機関紙﹁労働新聞﹂配布網の商大の責任者となっていた。 っているところをたまたま戸籍調査か何かに来た制服巡査に見つかって逮捕されてしまった。西神田 この﹁労新﹂も非合法出版物で、四月二十三日神田のしるこ屋で早大の責任者から﹁労新﹂を受け取 署に引かれて行ってブタ箱に一週間拘置された。 五月一日拘留満期の日に父は同署に迎えに来た。帰りの車の中でも、家に帰ってからも父は特に叱 るとか、訓示するとか言うことはしなかった。母も弟達も極くあたり前に私を迎えて夕食をともにし たのである。 五月二十日には第三次共産党事件が新聞に発表され、佐野学長の二男秀彦もこれに連座して、佐野 は学長の辞表を総理大臣に提出した。六月に入って私は井浦学生主事に呼ばれて、お前の検挙は困っ たことになったと云われた。と云うのは私は昨年四月に改俊の情を示して復学を許されたのだが、事 実はこれに反して運動を続けたのだから保証人の太田先生にも責任があり、予科主事木村氏及び学生 主事阿久津氏にも責任がある。文部省でもこの事件を知っているから責任者は辞表を出さなけれぽな う。ただ、私の場合、父が商大教授で私がそこの学生であり、たまく当時の佐野学長が長年の間学 経済不況と当局の左翼運動弾圧を背景に全国の大学、高等学校学生の間で演じられた問題だったと思 以上が私の青春時代、一橋における父との関係の概略である。この父と子の問題は昭和のはじめに だ。﹂と書いている。 やめねばなるまい。佐野学長と衝突するのは止むを得ないけれども、正一の問題で衝突するのはいや 記いには正一が退学届を出さないで教授会で放学に決れぽ、太田先生の地位にも累を及ぼし、﹁余も れぽ全く馬鹿気たことながら、余り抵抗を感じることなく退学届を書いて提出した。このときの﹁日 父は致し方なく太田先生と相談した結果、私に退学届を書けと云った。私は裏の事情がわかってみ 授会に出されることが必至となった。 CトWぷ らないとのことだった。その後、木村予科主事、阿久津学生主事は辞表を提出し、私の処分問題は教 章 五 揺 動 れ 二、いわゆる籠城事件 あとも続くのである 。 れる結果となったのである。この父と佐野を中心とする大学教授社会の内紛暗闘は私が商大を去った 大 長の地位を保持したため貞次郎との間に予期できなかった確執が生じたので、ややこしい渦に巻込ま 商 く 第 昭和六年十月一日、政府の緊縮政策の一つとして東京日々新聞に行財政整理準備委員会の整理原案 珊なるものが発表された。それによると北海道帝大の予科および土木専門部、水産専門部は将来廃止す、 〆ドづ︶ 商 く 東京商科大学の予科および専門部は将来廃止す、と言うことになっていた。いつも同じことだが、文 をくんでこれに反対し、解散問題を如水会に預けては如何との案を出してこれが採用された。貞次郎 伝えられたためである。貞次郎は相京らと連絡をとって、学生の事情を知っていたので、学生の意向 籠城団に対して解散勧告をする案が持出された。警察が強制解散をさせるかも知れないと言う意向が くて手間がかかった。それでも教授陣が手分けして各方面への陳情は手広く行った。教授団では学生 大学側は佐野学長は病気のため欠席勝ちで堀が議長をつとめたが、多人数のためもあって議論が多 文相、井上準之助蔵相、政友、民政両党本部を訪問し、とくに文相と懇談した。 貞次郎は六日如水会の決議をもって藤村理事長、窪田常務理事︵日魯漁業社長︶とともに田中隆三 伝えたがもとより誤報であった。 モで警官隊と大衝突を生じて、検挙者百余名に上った。このとき、貞次郎が負傷したとラジオ報道が 生は統制委員長相京光雄︵のち三菱金属社長︶の下に秩序ある行動をとったのだが、六日には校外デ た。五日学生は反対運動貫徹のために籠城を決議し、一ツ橋の仮校舎に布団を持込んで籠城した。学 街頭デモを行って警官隊と衝突したために事件は拡大し、新聞はさらに大々的に取上げることになっ 一方、学生側も当然の如く反対に立上り、三日蔵相官邸︵井上蔵相︶、四日文相官邸に押しかけ、 事情を説明した。 開いて反対運動に乗り出すことになった。貞次郎は如水会常務理事としてもこれに参加し、大学側の 止反対の決議がなされた。さらに如水会︵藤村義苗理事長︶もこの報道にもとついて、常務理事会を 商大では本科、予科、専門部の連合教授会が開かれ、前記報道の事実が説明され、予科、専門部廃 培われた伝統があった。 このような独善こそ官僚社会の最大欠陥と言うことが出来よう。ところが商大の場合は明治以来長年 静の如く見えて、内に陰険な策謀を弄するのである。これを見のがす国会、民間側にも甘さはあるが、 れの身にいたくない部門を切るというのが、文部官僚のみならず、官僚の常套手段と言える。一見冷 課や、全体として不要になった機構を整理統合するのが当然であるにも拘らず、机上論に出発して己 いるのだから、これを廃止するのは土台無理な話である。およそ.行政整理にあたっては盲腸的な部 われる。東京商大の予科および専門部は長い歴史の中で出来た制度で、現にそれ相応の機能を果して 皿部官僚は画一的な見解から、北海道帝大および東京商大の特殊な機構を廃止しようと目論だのだと思 大 は如水会常務理事会がこれを受入れるかどうか疑問だったが、自ら全責任を負ってこの案を提議した 動 れ 揺 のである。そして、如水会理事会は結局学生の解散問題を引受けた。 章 七日にも貞次郎は藤村、窪田と井上蔵相を訪問したが、面会謝絶され、大蔵省方面は予専廃止案を 五 通す意向のようだった。一方学生側は益々硬化して籠城者は千八百余名︵殆んど全員︶となった。貞 第 次郎は窪田らとともに相京委員長と相談し、学生中の積極派を抑えて今後校外デモを中止するように 田依頼した。相京は学生中の猛老達の反対を予知しつつ、死を決してやると誓った。 五 八日になって貞次郎に対し相京は統制部は校外デモ中止を決定したが、今日一日若し解決しなけれ うである。 リップサービスか否かは分らないが、貞次郎は従来の経緯から見て、少くとも嘘とは思わなかったよ 動 れ き佐野は貞次郎を将来の後継者の一人と言うことで引きとめている。このときの佐野の言が、単なる 揺 関西在住の先輩、知友から希望されたが、今後も学者として勉強を続けたいと言って断った。このと 大 学を留守にした。昭和二年はじめ、貞次郎は新設の市立大阪商科大学学長就任を関大阪市長はじめ、 れる。翌十四年福田は万国経済学会に日本学界代表として出席するなど約一年余りを欧州旅行して大 をはかるためにいつも学長の立場を援護したので、福田はたびたび舌鋒鋭く貞次郎を痛罵したと言わ 加えていたと言われる。これに対して貞次郎は三浦らと佐野を慰留したためもあって復興計画の推進 田が学長の地位に色気を出していたとも言われており、教授会では佐野の行政に対してつねに攻撃を が、留任して震災後の復興計画とくに学園の移転建設をするように勧奨したのである。このときは福 正十四年開校五十周年を機に引退をほのめかしたこともあったが、先述のように三浦、堀、貞次郎ら はじめて東京高商校長に就任してから、昭和十年まですでに二十二年の間在職していた。その間、大 で、組織の硬直化とともに積弊が表面化するものである。佐野学長は大正三年、母校出身者としては どこの国でも、社会でも一人の人間が長く首長の地位にあるときは、長年のちりが積るようなもの θ 内紛のはじまり 三、白票事件から粛学へ 大事件を通して、上田君の人物が一層明瞭にわかった﹂と書いている。︵一橋新聞昭一五・六・二五︶ は並大抵ではなかった。正に﹃事あれぽ斬然﹄の主張通りであった。﹂と語り、﹁籠城事件と言ふ様な 当時の如水会常務理事窪田四郎はこのときを回顧して以上に述べた経過を語って、﹁上田君の奔走 ではさらに内田信也が蔵相、文相に電話して真相を確め、一同運動の成功に安堵したのである。 次郎の言葉の通り事態の好転を伝えた。これによって学生側は自発的に籠城解散を断行した。如水会 なお納得しなかった。彼らはさらに委員を文相に派して事実を確めたところ、文相は注意深い言で貞 に臨んで形勢の好転を伝えた。このとき、相京委員長は貞次郎の言を信じたが、藤本恒雄ら強硬派は 貞次郎は如水会に帰って形勢の好転を伝えたが幹事連は半信半疑だった。貞次郎はさらに学生大会 れては困るから口外しないでくれと付言した。 学制関係を取除くことは確実であることを明言した。ただし、これを山道がいま洩したことを公表さ 相は前言以上に出ず、最後に民政党本部へ行って山道裏一幹事長に会ったところ、行財政整理案から 皿ば学生側はエスカレートするのは必然でまさに危機だと言って来た。貞次郎は文相を訪問したが、文 商 く 章 第 その後、先の﹁父と子﹂で述べたような私を巻込んだ派閥含みの争いが起った。この昭和六年の辞 鵬意表明後、佐野は教授陣や学生の不評を買いながらも学長の任務を続けたが昭和九年二月には三度目 の辞意表明をして教授会に信任を問うたのである。このときは明らかに辞任の意志はなく、いわゆる 5 4芝居だったと見てよいようである。佐野が学長の地位にれんれんとして執着した理由はいろいろあっ 1 たと思われる。その主な理由は辞職した場合に佐野をいれる適当な地位がなかったためと言われてい た。彼は既に二十年以上学長の地位にあったために、学問からは全く離れて学界においては全く忘れ られた存在だった。たしかに、大学昇格、国立移転など大学行政の上では誰もが認める立派な業績を 残したと言えるが、それが社会的に評価され、時の政府によって次の名誉職、例えば貴族院議員に勅. 選されるかとなると明らかに否だった。佐野はこの地位を望んでなにがしかの工作をしたとも言われ た。と言うのは古い時代に矢野二郎は高商校長辞任後、貴族院議員となって終りを完うした。また当 時、かつての同僚である関前大阪市長︵勅選︶、三浦新七︵多額議員︶も同様に貴族院議員になって いたのである。 もう一つ佐野にとって不幸だったことは、高商が大学に昇格したとき、それ迄あった商議委員の制 度がなくなったことであろう。前述のように一橋は政府に大学昇格を要望するにあたって渋沢栄一以 下東京商業会議所を中心とする実業家の後押しを受けた。また、如水会の有力実業家とも一体となっ てそれぞれ運動することによって学校の発展をはかってきたことは前述の通りである。佐野は大学内 で地位が確立したためか、如水会役員との関係もとくに密接とは言えなかった。このようなことが佐 野を学内にのみ閉ちこもらせ、学内派閥によって己れの地位を守ることに汲々とするに至ったと言え るようである。その他家庭の事情など当時噂されたことはいろいろあったがここではこれ以上の詮索 は避けることとす る 。 ⇔ 白票事件起る 商大の内紛は昭和十年学位問題によって、爆発した。この年七月、教授会に井藤半弥、加藤由作、 杉村広蔵三名の学位論文審査報告があって投票の結果、井藤、加藤両人の論文は通過したが、杉村の 分は不通過となった。論文通過には票数の四分の三︵十六票︶を要する規定だったが、票数二十一の 中、可十三、否一、白が七あった。この投票には明らかに悪意の工作があった。審査委員高垣寅次郎 が審査中、本人に対し何らの質問もせずに不満足な報告をなし、一部の教授を語らって白票を投じさ せて杉村論文の不通過をはかったと云うのである。このような陰険な手段は白票にはじまったことで 大 はなく、商大内部長年の積弊として学長はじめそのグループが多年にわたって行って来たことである, これに対して、当事者の杉村はもとより、山口茂助教授、常盤敏太講師が中心となって学長はじめ 七月末には助教授、助手、講師十五人︵杉村、山口は加わらず、増地、猪谷も参加せず︶が連名で、 章 報道したので、騒ぎは拡大の一途をたどることになった。 五 動 れ 高垣ら白票グループを糾弾する運動が起った。新聞はこの白票事件を商大のお家騒動として大々的に 揺 商 く 第 白票の意味を賛否何れにするかと云うことは枝葉の法律問題であって事態は学内の積弊にあるのだか 皿らこれにょっては収拾されないと声明した。常盤、上原両専門部教授は学長を訪問してこの際多年の 積弊を作った元兇として引退すべしと要請した。このあと杉村は山ロらを伴って山形へ三浦新七を訪 鰯問して忠告を求めた。これに対して三浦はその論文を公刊せよとすすめ、この著書﹁経済哲学の基本 問題﹂︵岩波書店︶は九月初めに発行された。 九月に入って貞次郎は千ヶ滝の別荘から帰京した。白票組︵高垣、高瀬、本間、岩田、田中、内藤 章、井浦の七名に内藤濯、木村、渡辺大輔の諸教授︶と助教授組の対立は続き六長老教授︵堀、石川、 内池、吉田、藤本に貞次郎、この年停年のため根岸は除外︶の調停はもちろん効果をあらわさなかっ た。この間田中都吉如水会理事長、江口定條前理事長が調停者として両者の意向を聞く一方で、九月 半には学生が動き出し、白票教授反対、学長辞任を要求して校内デモを行うに至った。 貞次郎はこの月二十日に白票組対助教授組の調停が失敗し、学長に面会してもいつも言を左右にし て進退を明らかにしないのにごうをにやして六長老の連挟辞職を考えたのだが、長老にはそれぞれの 立場があってこれも不可能となった。如水会理事長田中都吉と前理事長江口定條は石井健吾︵第一銀 行頭取で佐野の同級生︶に依頼して佐野に辞職を忠告させた。このとき、佐野は堀を後任とするよう 白票組と相はかったようだが、石井は佐野に三浦を呼んで事態を収拾するように説いたので、ついに 佐野もこれに同意せざるを得なくなった。 三浦は二十四日に上京して佐野を訪問して事件収拾に当り、六長老もまた、同氏を学長後任として き ご× 己ぶ求− 出馬を懇請した。文部省に対しては田中、江口両長老と内田信也が大臣以下当局と折衝した結果三浦 ム ﹂ノF皐 、﹀ プピ凡ヤ の就任に一致した。そしてこれから約十日間三浦は白票組を三浦の下で残留するよう説得するのだが、 井浦、井藤がこれに応じたほかは効果をあげられなかった。しかし、十月三日になってようやく残る 五人も三浦に白紙委任を言明するに至り、さしもの難問も一応の解決をみて、三浦は教授会で満場一 致後任学長に選挙され、十六日文部省より学長任命の発表があった。 貞次郎は九月はじめから、﹁殆んど一月に近い間、夜は遅くまで自宅に訪問者あり。朝は帝大講義、 外交科及行政科の口述試験等にて折々早起をなすため閉口した。﹂と日記にしるしている。また、六長 老連挟辞職を決意したとき書いた岡田総理大臣宛の辞表が現在も残っている。 ⇔ 十四教授辞表提出 三浦学長就任によって白票事件は表面おさまったかに見えたが、内紛の泥試合はなお続いていた。 三浦学長は役付の更迭と杉村の辞任でかたがつくと思っていた途端に二月十三日の諸新聞に十四教 対し、白票組の処分を要求した。 なり、同時に杉村の辞任もやむなしと考えるに至った。助教授、助手、および学生は杉村の辞任に反 予科主事、同学生主事、専門部主事、本科学生主事、図書館長の役付更迭を強行しなければならなく 大 白票組と堀は杉村、さらに常盤、山口の三助教授の辞任を要求していた。これに対して、三浦学長は 五 動 れ 商 く 揺 章 第 除いた六名︵高垣、高瀬、内藤章、本間、岩田、井藤︶に阿久津︵予科主事︶、金子弘︵同学生主事︶、 授辞職が商大内紛の再燃としてまたも大々的に報道された。十四教授とは白票組の七名から、井浦を m 堀光亀︵専門部主事︶、山田九朗︵専門部学生主事︶、木村恵吉郎、内藤濯、渡辺大輔、渡辺孫一郎の 皿 八名計十四名である。三浦学長は白票組の高垣、本間、岩田と杉村を同時に免官とする決意をして三 辺文部次官、赤間局長の同意を得て旅行中の川崎文相︵松田文相は二月一日逝去︶の帰京を待った。 同二十六日三浦が文部省の返事を促す手順になっていたところ、未曽有の叛乱事件︵二・二六事件︶ が起って、商大事件の解決はさらに延引されるのやむなきに至った。 二・二六事件で、岡田内閣は崩壊し、広田内閣が難産の末誕生して文相には一橋の先輩平生叙三郎 が就任した。五月になって商大事件は先の三浦案通り、高垣、本間、杉村の免官で解決することにな った。岩田はその前に弁護士登録のため、早期に辞表を出して発令されていた。残る十一教授は結局 慰留された。この事件の四ヶ月間、貞次郎は根岸とともに専ら三浦学長と一体となってわづらわしい 交渉にあたった。その間、十四教授と対立することはもとよりであるが、助教授組が急進的な要求を 出して三浦に迫り、三浦は彼等をきらって相反目するに至り、貞次郎も遂には助教授組︵杉村、常盤、 杉本、上原、米谷、高島、太田ら︶と挟を分つのやむなきに至ったのである。しかしながら、学生は 杉村、常盤を離れて、三浦を支持し、一橋会役員グループも助教授に反対して学長を支持した。 学外にあっては十四教授は三浦、上田を追落して彼等の勢力を挽回するために長年交渉のあった文 部省事務当局︵次官、局長を頂点とする︶に食い入って運動し、如水会の五十嵐直三を中心とする一 部役員を後援者として旧勢力の回復をはかった。五十嵐︵東電副社長︶は佐野の親戚にあたるためも あってか、三浦の同期生にもかかわらず、自ら学長となる決意を郷誠之助︵東電社長、経済連盟会 長︶にはかったりした。 それにもかかわらず江口、久我、小坂、三浦学長を結ぶ現勢力が全く悪戦苦闘の末平生文相を動か して粛学の緒をつくったのである。このとき、文相が先輩平生釧三郎でなかったら、逆に三浦学長が やめなけれぽならないかもしれなかったと当時毎日新聞で担当記者として名をはせた佐倉潤吾は﹁風 雪七十五年﹂に書いている。 四、学長として 商大の内紛が片付くと貞次郎には八月アメリカのヨセミテで開催される太平洋会議の仕事が待って 験、商大、帝大の講義、毎週火曜日の研究会等で多忙な二か月を過した。 大 いて六月から準備にとりかかった。ヨセミテ会議のことは別記の通りだが、九月末帰国後も計理士試 れ 商 く 動 就任を要請された。そしてこのことは平生文相も承認済とのことといわれた。貞次郎は内紛は一応片 揺 十月十七日江口定條から電話で呼び出され翌日訪問したところ、三浦学長の辞任と後任に貞次郎の 章 五 第 付いたとは云うものの、なお自分に反対の多いことを懸念して若干ちゅうちょせざるを得なかったよ うである。この間、親友の前田、村田とも相談したが、彼等はこのような状態ではなお紛争の危険が 皿あるし、やるなら不愉快なことを覚悟してかかれと云った。 しかし、学内外の状況を一ヵ月にわたって打診した結果十一月二十八日になって、平生文相に就任 皿を承諾した.十二月に入って学長選挙の結果は多数の十数票が貞次郎に投ぜられた。新聞は三浦の談 として全会一致選挙されたと報じた。そして十二月二十三日文部大臣により学長就任が発令された。 貞次郎は翌年一月学士院会員を仰付られた。三浦はこれを喜んで、わざわざ中野の宅までお祝いに 来てくれた。学長と学士院会員双方の祝賀会は数多かったが、貞次郎が最も感激したのは三三会の級 友達の後援だった。前田は貞次郎が学長になって小遣に困るだろうと言って、この三月、高島、村田、 鈴木︵謙三郎︶、鈴木︵精次︶、南郷、松本︵真平︶および前田の七人で七千円を作って銀行預金とし て印形をつけて貞次郎に贈ってくれたのである。﹁前田君の親切には感謝の辞がない位だ。﹂と日記に も書いている。 また、貞次郎は一月に江口、小坂順造、三浦、久我貞三郎、緒方竹虎、田中都吉、根岸と春岱寮で 会談して、学長就任について、先輩、後援者の労を謝したのだが、この如水会員中の﹁母校を憂ふる もの﹂の会は淘々会と名づけられて、貞次郎の存命中、年に二、三回開催された。この会には上記の ほか、村田、前田をはじめ、信貴英蔵、岡田完二郎、白石喜太郎、坪上貞二らも顔を見せたと書かれ ている。この会で貞次郎は母校の実情を報告し、かつ談笑の間に大学運営について人間関係、資金問 題など先輩達の知恵を汲みとったようである。 貞次郎は学長になってはじめて学校行政の現場に臨むことになった。当時すでに五十七歳だから、 慣れない学内の人事、会計、文部当局との交渉など日常の俗務にとまどうこともあったようだが・覚 悟をきめて就任したことでもあり、自分の任務を専ら学内の融和においた。学長の仕事が多忙なため に長年続けた商工経営、商業政策の講義は十一年度をもって休講とした。ただ、予科三年の修身だけ は続けて講義した。三浦前学長が予科を重視して自ら修身を担当し、文明史をやさしくして講義した が、貞次郎もまたい歴史、思想などを中心にその時代に応じた広い意味での道義について講義したと 聞いている。 学内は内紛はおさまったものの、長年の積弊に由来したしこりを一時に消すことは出来ない・貞次 郎自身は従来教授としても学者としても学内の責務を果しっっ、なお、外に向って政府関係、あるい は執筆など多方面の仕事をして来た。とくに昭和六年以後は紛争中も含めて別項の通り人ロ問題の研 たがって、いつの時代にもさざえの殻に閉じこもるようなことはなかった。他方、学内の教授陣を見 大 究を中心として、国の内外に広く日本の現実認識を訴えていたことはよく知られたところである・し 五 論叢﹂と命名して十二月第一号が発刊された。第一号は戦争経済を主題として貞次郎も巻頭論文﹁戦 に機関誌創立委員として山口、増地、中山、井藤、猪谷の五名を指名して、準備活動に入り、﹁一橋 れ 渡すと、内向型が多いから、まず計画したのが大学機関誌として月刊雑誌をつくることだった。五月 揺 商 く 動 章 第 争経済の輪廓﹂を書いた。一橋論叢は貞次郎の在任中はもちろん戦争で紙がなくなって発行不能に陥 皿るまで継続された。さらに戦後復活して現在に至っているのである。 貞次郎は学長に就任したときから、大学関係者は文部省予算にだけたよっていては研究資金はもと 旨大学に知らせ、首席教授に勅語の奉読を依頼した。医師からは重態を宣告されて 病室の入口には 発しており、傷痕はなかなか癒着しなかった。二十九日の天長節には式典に出席出来ないため、その よって二週間程度で完治するものとされていた。しかし、貞次郎の場合手術のときすでに腹膜炎を併 診断で盲﹄炎とわかり、その手術のために慶応病院に入院した。当時でも老年とは云え盲腸は手術に 貞次郎は昭和十五年四月二十五日、盲腸がいたんで家から一キロ離れた路上で倒れた。黒川医師の となって今日に至っているのである。 の経済に関する総合研究﹂となった。さらに昭和二十四年国立学校設置法により一橋大学経済研究所 後、昭和十七年正式に国の機関となり、昭和二十一年経済研究所と改称され、研究目的も﹁世界各国 亜経済研究所が設立され、貞次郎はその初代所長を兼任することになった。この研究所は貞次郎の死 翌十五年二月、この寄付金は財団法人各務奨学金として管理運用され、この寄付金をもとにして東 ることとなった。 業新聞に報ぜられた。﹁そして十一月になってこの東亜経済研究所の資金五十万円が各務より遺贈され 各務氏は五月逝去したが、遺産の中から商大へ、東亜経済研究所設立のため遺贈することが中外商 中支の急行視察﹂︵文芸春秋現地報告・同年六月︶に書いている。 成を頭においての視察で、教育、研究の両面でなすべきことが多いことを痛感したと﹁満洲・北支・ 那旅行の第一陣として貞次郎は四月から約一ヵ月満洲、北支、中支を視察した。中国で働く人聞の養 翌十四年一月、各務は病中だったが、商大に対して支那旅行費として一万円の寄付をした。この支 役員︶に会ってこの話を進めた。 云う。村田は早速これを貞次郎に知らせ、貞次郎は十一月に入って各務の代理、堀内泰吉︵東京海上 は東亜の再建時代に処すべき人物養成のためなら、自分も母校へ寄付してもよいとの意見を述べたと を受ける下心があったかどうかは解らない。十三年十月になって村田省蔵が各務に会ったとき、各務 御所の一人、各務鎌吉︵東京海上社長︶に相談したことがある。このとき、すでに各務自身から寄付 困難となった。旅費、研究費を作るためには寄付を求めるほかないが、このことを貞次郎は財界の大 には海外留学の制度があったが、この頃にはその機会が少くなり、日華事変以来為替管理のため益々 費用でも充分にあれぽ世間が広くなり、講義はもとより、学問研究に活気がでてくると考えた。以前 皿より、生活的にも恵まれず、これが内紛の遠因になっていることを認識していた。せめて旅行見学の 大 く 商 動 面会謝絶の札がかけられていた。この頃、母は看病疲れしたので、私と良二が交代で病院に泊ること れ 揺 冷した。三日頃から、一時間位眠っては眼がさめて、昼夜の別がわからなくなり、何日何時かとたず にした。五月に入っても容態は停滞していたが、足部に血栓が起って足が痛いと云って、湿布をして 五 章 第 ねてはまた眠るようになった。その後二回にわたって急激な心臓発作が起って耐え難い苦痛に大声を 鵬あげて苦しんだ。六日にはさらに容態が悪化して危篤状態に陥った。すでに昏睡状態が続き、たまた 話為、 ま眼がさめたときも意識は混乱したり回復したりしていた。七日になって、何も思い残すことのない 蹴 ように門下の商大教授達、金子鷹之助、増地庸治郎、山中篤太郎、小田橋貞寿、それに美濃口時次郎、 井口東輔、池野勇治の諸氏が別れをつげに来た。貞次郎は﹁やあ﹂と云ってニコニコ笑った。そして 疲れてねむいと云ってすぐに眼を閉じた。 さらに貞次郎は学校の長老教授を枕頭に呼んだ。はじめ、藤本教授に﹁あとをよろしく願います。 出来るだけ頑張りましたがもうだめです。﹂と云った。しばらくして高瀬、上田︵辰︶両教授に対し ても﹁あとをよろしくお願いします。皆んな仲よくして世間の物笑いにならないように協力してやっ て下さい。これが私の最後のお願いです。﹂ まことに腹からふりしぼるような声でしかもはっきりした悲痛で、真情のこもった言葉だった。こ れだけ云い終ると疲れを感じたのか、そのまま眠りについた。 このあと貞次郎はさらに長与又郎東大総長を呼んだ。長与とは中学時代の友人で、両者はドイッ留 学時代に飲んで歩いたこともあった。長与は貞次郎の顔を見るなり﹁上田君、君はえらいよ。君の考 えていること僕はにはすっかり解っているからな。﹂と云った。貞次郎はもつれる舌で、手まねをまじ えて﹁もう云うことは全部云った。﹂と答えた。﹁それはよかったな。﹂と長与はなぐさめるように語っ た。私はこの二つの場面に長男として付添って居合せた。長老教授との別れの言葉は理解出来たが、 五、上田会の門下生達 庭に建てられて除幕式を行い、現在もその場所に立っている。 感激して製作を引受けた。彼はその経緯を文芸春秋に書いた。その胸像は同年十一月三日、国立の校 を悼んだ学生達は胸像の製作を志し、縁故をたよって朝倉文夫に話を持込んだ。朝倉は学生の熱意に 貞次郎は八日ついに永眠し葬儀は十三日東京商科大学葬として一橋講堂で執行された。貞次郎の死 すればはじめて長与との別れの言葉が今になってわかるように思えるのである。 で長与総長と双方の内紛の話など話し合ってともに意気が通じていたとも思えるのである。そうだと 士、医学博士山崎佐氏の徳川時代医学史に関する話を聞く。﹂とある。してみると貞次郎は学長の立場 長与とはたびたび会う機会があったようである。この年三月には﹁長与又郎氏方にて、法学士、弁護 時に学士院会員となり、このとき正則の同級会は両人の祝賀を兼ねて二十年振りで開かれた。その後 長与総長との会話はのちのちまでもわからなかった。日記によると貞次郎は長与とは昭和十二年、同 五 したがって福田から学校へ残って教師になることをすすめられたときには自分では学者になると己れ には抵抗を感じたようである。若い時には教師などは馬鹿のする仕事と思っていたとも書いている。 動 れ 揺 貞次郎は前にも述べたように学校を卒業するまで実業家になるつもりでいたので、教師となること 大 商 く 章 第 にきかせて学校に残った。明治三十六年留学前に講義をしたのは本科で商業地理、外国商業演習、教 員養成所で経済通論、商業学などだったが、この経験で考え方が変ったのか教師の使命に目ざめて留 皿 学中には教育者の功徳の大なるを悟り﹁甲種商業の教師も高等商業の教師も格段なる相異あるを思は 螂ず﹂と教職の重大性を認めるに至った。例えぽ金子鷹之助は貞次郎の追悼の席で﹁教育者としての上 田先生﹂︵一如会々報、昭和十五年五月︶にそのユニークな姿を書いている。 明治四十二年帰朝後、専攻部で商工経営を講義するに至ってはむしろ学者としてよりも人材の養成 に大きな使命と興味を感じるに至ったようである。それ以後、大正二年九月第二回留学までは商工経 営、商業史、貨幣論、養成所で経済原論を講じたほか、専攻部の演習︵ゼミナール︶を担当した。 大正三年末第二回留学から帰国して、同四年からは商工経営、商業政策、財政学、それに養成所で 経済大意を講じ、専攻部のゼミナールを担当して大正八年に至っている。 大正九年大学昇格にともなって、商工経営、商業政策は従来通りで、十一年から工業政策が新たに 加わり、専門部で経済通論を講じ、研究指導︵ゼミナール︶を担当した。とくに商工経営、商業政策 は昭和十一年学長に就任するまで継続した。 この約三十年間に東京高商、東京商大を卒業した者は約九千二百名、専門部卒業者を加えると一万 数千名の学生が貞次郎の講義を聞いた。貞次郎の講義は淡々とした口調で教壇の上を歩きながら話す もので、いずれの課目にしても内容は別として決してぱっとしたものではなかった。別のところでも 誌の編さんについて学生諸君と親密な関係を結んだ。貞次郎が編さん部長をしたのは明治四十五年九 講義の内容の概略は第七章に述べたので省略するが、貞次郎は学友会の編さん部長として一橋会雑 ある。このような点が貞次郎の教育者としての自覚と云うか、使命感だったのではないかと思われる。、 次郎は学生の不意の質問や、時にはひやかしと思われる事項についても即座にかつ適切に答えたので れでは上田経営学を学んでは金持にはなれないなと笑ったことである。これは全く一例であって、貞 矢張り自己と相手方、さらに社会大衆の利益をバランスをもって考えろと云う意味だと思われる。ζ うのである。経営の根本は自分の利益、会社の目先の利益だけを考えればいいと云う考え方に対して いた。あとで社会人となって会社経営にあたったとき、この言葉の意味をつくづくと思い出したと云 はただソロバンを合せてもうけれぽいいのかと聞いたところ、即座に知足︵たるを知れ︶と黒板に書 中には特別の感銘を受けて熱心に聞き、また質疑をした者も多かった。私の同級生の話によると経営 なかった。この講義を聞いた学生の大部分は試験でいい成績をとれればいいと思って勉強したのだが、 ようである。貞次郎もこのことは自覚して若干の工夫は考えたようだが、持って生れた生地は致し方 書いたように、とくに梅雨から夏にかけての午後の講義などは学生の眠気をもよおすことが多かった 五 大喪期の反省︵第八一号明治四十五年︶ 随想は次の通りである。 れ 月から大正二年九月までと、大正四年一月から大正五年までだった。当時の一橋会雑誌にのった論文。 揺 く 大 商 動 章 第 一橋会員に対する希望数則︵第八二号︶ 皿 修学の方針︵第八四号︶ 私会社及有限責任会社︵第八八号 大正二年︶ 皿 再西遊記︵第九五、九六、一〇二、一〇三、一〇七号大正三年︶ 英国の政治思潮︵第一〇九号 大正四年︶ 戦争終結の夜︵第一一一号︶ 新旧思想の混流︵第一二四号 大正五年︶ 紐育だより︵第一五一号 大正九年︶ 貞次郎が高商専攻部、商大学部でゼミナールを担当したのは明治四十二年から昭和十三年までの三 十年間である。専攻部時代は商工経営科を主として、ある時代には貿易科も担当した。専攻部ではす でに本科で貞次郎の商工経営の講義を聞いた学生が参加するのだから、主として洋書の回読を行った。 テキストはス、ミスの国富論、シュモラーの企業論、アシュレーの英国経済史などが用いられた。専攻 部は二年制だったので第一年には回読を主とするが、第二年にはさらに各の学生に主題を撰ぽせて卒 業論文を提出させるのである。この場合にも貞次郎は学生の自主的判断を重んじて、教師の側から何 をやれとは云わなかった。学生が主題をきめれば、それならこの本を読めとか、この資料にあたって まとめたらいいとか、あるいは何処へ行ってよく話を聞いて来いとか、アドヴァイスをするのが常だ った。この指導方法は大学昇格後もかわることなく継続された。 このようにして貞次郎のゼ、・・ナールで直接指導を受けた学生は三十年間に四〇一名に及んでいる。 商工経営学は﹁実学﹂である関係もあって、学生は大部分が実業家志望だった。例えぽ福田ゼミと か三浦ゼ、・・は学年の成績席次でも最優秀の学者志望者が少数集ったと聞いているが、貞次郎のゼミナ ールは人数も多かったし、志望も雑多だったのである。 これら、門下生は大正十五年二月、ゼミナールの同門会、上田会をつくった。金田近二ら同年の卒 業生が中心となって結成したと聞いている。 一橋のゼミナール制度は全国の大学にさきがけたものだ ったが、卒業後も同門相集ることは珍しくなく、同門会もそれぞれの教授の下に出来ていた。上田会 もその一つとしてその後も随時開かれたのである。 昭和六年十二月に上田会有志は貞次郎のために四年前から集めていた書斎建築費として一万五千五 百円を贈った。これは貞次郎の在職二十五年を記念してはじめられたものでもあった。貞次郎はこれ の効果が生れた。その上に諸君から莫大な贈物を受けるのは勿体ない限りである。この金は書斎だけ 大 に対して自分は在職二十五年特別の働きは出来なかったが、幸にして優秀の学生が集まったので意外 五 は徳川家の理事手当︵年二回各三百円︶や原稿料収入があったので、学者としては金に困らない部類 る。と感謝状を寄贈者に送った。周知のように学者の貧乏は当然のことだった。父の場合ははじめに れ には立派過ぎるから、住宅を作らしてもらった。今後はこれを根拠として研究と育英に励む所存であ 揺 商 く 動 章 第 に属したが、当時の実業界に比較したらケタ違いの収入に過ぎなかった。したがって、旧師に対する 陶謝恩のために実業界にある門下生が書斎を寄贈することは一ツ橋関係でもまま行われたことだったが、 いところである。 それにしても百三十名の門下生が一万数千円の大金を四年間に集めたことは今もって説明しつくせな m 上田会は貞次郎の存命中はその後もたびたび開かれた。例えぽ昭和九年四月には貞次郎、貞子の銀 婚を記念して帝国ホテルに招待され、前田青邨の画を贈られた。昭和十二年四月には学長就任を記念 して開かれた。また昭和十四年十二月には還暦祝が催され、結城素明の野馬、神馬の対幅が贈られた。 貞次郎の残後は五月八日の命日に集ることが慣例となり、現在に及んでいることは序章私の時代に 述べた通りである。 貞次郎の門下生中学者として商大に残って教授として貞次郎を継いだ人達は太田哲三︵大2・会計 学︶、上田辰之助︵大5・中世経済史、語学︶、金子鷹之助︵大6・経済史︶、増地庸治郎︵大8・経 営経済学︶、緒方清︵大8・消費組合論︶、猪谷善一︵大12・経済政策︶、山中篤太郎︵大14・工業政 策、学長︶、美濃口時次郎︵昭2・人口労働政策︶、小田橋貞寿︵昭5.東亜経済研究所︶である。こ れらの人達はそれぞれ一橋で学問と教育に足跡を残した。 また、他の大学、高商等で学者として活躍した人々は次の通りである. 二宮丁三︵大3・山旦局商教授︶、徳増栄太郎︵大8・横浜国大教授︶、佐原貴臣︵大9.高岡高商 教授︶、木村元治︵大9・横浜市大教授︶、平井泰太郎︵大9・神戸大学教授︶、斎藤茂夫︵大11.明 治学院大教授︶、北野大吉︵大12・東亜同文書院教授︶、井上亀三︵大13・横浜高商教授︶、川崎三郎 ︵大14。松山商大教授︶、大泉行雄︵大14・香川大学学長︶、金田近二︵大15・神戸商大教授︶、水谷一 雄︵大15。神戸大学教授︶、中村清一︵大15・成妥大学教授︶、竹中龍雄︵昭2・神戸大学教授︶、市川 泰治郎︵昭5。拓植大学教授︶、太田英一︵昭8・横浜市大教授︶、宇田米夫︵昭8・関西大学教授︶、 松尾弘︵昭10。明治大学教授︶、末松玄六︵昭12・名古屋大学教授︶ このほか、学生時代から将来の学者として嘱望されながら不幸天折した人も幾人かあった。中島権 ︵昭4︶、小倉正平︵昭4︶がそれであり、貞次郎はその死を痛む追悼文を書いている。小宮山琢二 ︵昭10︶、賀井善智︵昭13︶もすぐれた学才を持ち言論の抑圧と戦いながら戦時中に天折した。彼等も 学生時代から貞次郎が夙くに学才を認めて将来を嘱望した人々だった。 実業界に投じた者は多いが、その一部、私が上田会を通じて知ったのは次の人々である。井上潔 ︵明42.鐘淵紡績専務︶、田村文吉︵明42・北越製紙社長︶、間四郎︵大2・三菱電機専務︶、増田昇二 ︵大6.三菱商事常務︶、大幡久一︵大6・帝国人絹常務︶、友田鍾三郎︵大8・友田製薬社長︶、槙原 一井保造︵大12.三井船舶社長︶、金子嘉徳︵大13・東海銀行頭取︶、福永貞次郎︵大14・武田薬品常 動 れ 覚︵大8.三菱商事常務︶、坂口二郎︵大9・日本レイヨン社長︶、安藤清太郎︵大9・安藤組社長︶、 揺 大 商 く 章 ︵昭5.山陽パルプ専務︶、下村正次︵昭6・日本信託銀行社長︶、丁瑞鉄︵昭6・台湾プラスチック ︵昭3.森ビル社長︶、清水克︵隆昭3・東京銀行常務︶、青葉翰於︵昭4・富士銀行常務︶、久保領一 五 第 務︶、茂木啓三郎︵大15・キッコーマン醤油社長︶、正田英三郎︵昭2・日清製粉社長︶、森泰吉郎 m 副経理︶、相京光雄︵昭7・三菱金属社長︶、長谷川徳次︵昭7・三菱アルミ会長︶、磯部明︵昭7・山 一証券副社長︶、石井滋︵昭8・理研ビニール社長︶、宮坂義一︵昭9・野崎産業副社長︶、足利繁男 ︵昭10三井物産副社長︶、今井道雄︵昭13・今井社長︶、小林政夫︵昭13・日本製網社長︶ われるのでここには割愛することとする。 六、如水会の常務理事 会が出来た。貞次郎は正田貞一郎︵日清製粉社長︶、南条金雄︵三井銀行社長︶、瀬下清︵三菱銀行社 以来常務理事を務めて来たが大正十四年同会の組織を一層改善したいと希望し、そのための特別委員 残するまで十六年間同職にあって活動した。如水会の実際の創立者、江口定條、藤村義苗両氏は創立 貞次郎が如水会に関係するに至ったのは、大正十四年常務理事に就任してからで、爾来昭和十五年 大 ち、卒業者団体は名実ともに一本化された。 如水会は大正九年には同窓会と合同して、 一ッ橋卒業者および中退者はすべて如水会員の資格を持 会館が建設されることになった。 は残存し、大正十五年に再建された。この会館も昭和五十四年九月をもって閉鎖され、二年後には新 に如水会館が建設された。この会館は関東大震災によって焼失するが、このコンクリートの骨格だけ にょって命名された。如水会は同五年社団法人として認可され、同八年東京高商に隣接する一ッ橋際 この名称の由来は礼記にある﹁君子之交淡如水﹂によっており、一ッ橋育ての親と云うべき渋沢栄一 如水会は大正三年江口定条、藤村義苗らを中心に従来の同窓会を強化拡充する目的で、創立された。 、^W があるし、私が直接聞いた話はその数倍にのぼる。これらはむしろこれらの人々が語りつぐものと思 思われる。例えば日本経済新聞の﹁私の履歴書﹂に出たものなど、有名人のものでも十指に余るもの が貞次郎についてそれぞれの思い出を持っているのだから\これらを集めれぽ数巻の書をなすものと ルで二年または三年毎週顔を合せて教えを受けたのだからそれは当然でもある。恐らく門下生の全部 なお、貞次郎と門下生との交流には多くの語るべきことがある。青春の最も多感な時代にゼミナー 参議院議員、また木島義夫︵大4︶は参議院議員となっている。 た。このほか、北条秀一︵昭5︶は社会党で参議院議員、民社党で衆議院議員、小林政夫︵昭13︶が 政治家となった田村文吉︵明43︶は運輸大臣、小坂善太郎︵昭10︶は労働大臣、外務大臣を歴任し 岸国義︵昭9・エチオピア大使︶、粕谷孝夫︵昭9・タイ国大使︶、武野義治︵昭11・ブルガリヤ大使︶ ︵大12・アメリカ大使︶、久保田貫一郎︵大14・ベトナム大使︶、小沢武夫︵昭7・ドミニカ大使︶、根 貞次郎は高文外交科の試験委員をしていた関係もあってか、外交官となった者もいた。井口貞夫 m 商 五 れ く 動 揺 章 第 組織改善のためには定款の変更は加えずに、年長者と青年組、本部と地方、会と学校との意思疎通 長︶、最上国蔵︵正金銀行重役︶、山岸慶之助︵三菱商事常務︶、渥美育郎とともに委員に指名された。 m 1 を計ることを主な目標とした。江口、藤村両長老は辞任しないで理事長、副理事長となり、理事中か ら常務理事を選出する事となった。この特別委員会の案は正田と貞次郎が中心となって作ったものだ 74 った。この頃正田はたびたび雑司ヶ谷の上田宅を訪ねて来た。正田は日清製粉社長で多忙の身だった が、自動車でおもに早朝訪ねて来て相談したようである。貞次郎も正田の熱意を多とし、彼の帰りが けには自分で外套をかけたりしてとくに敬意を払ったとのことである。 貞次郎の常務理事としての仕事はクラブ委員、編さん委員として若い委員のまとめ役だった。正田. 伊藤︵多兵衛︶両氏は建築及資金関係、最上は会計を受持った。貞次郎はクラブ委員の仕事は時間を つぶすことが多いが、若い卒業生のために働くのは自分の使命かも知れないと書いている。 昭和六年四月になって役員の改選があり、江口は満鉄副総裁に就任したために理事長を辞任し、藤 村が代って理事長となった。それと同時に窪田四郎、鹿村美久が常務理事に加わった。貞次郎も常務 理事に留任したのだが、同年十月に起った東京商大予科専門部廃止問題、いわゆる籠城事件にあたっ て如水会を本拠として藤村、窪田らと大活動したことは別項籠城事件の通りである。 昭和十年の商大白票事件に際して貞次郎は商大側の当事者として田中都吉理事長にその真相を報告 した。江口前理事長と田中理事長は調停老として事件の解決に尽力した。貞次郎はこのときは如水会 常務理事ではなく、大学側の当事者として行動した。商大の内紛は翌十一年十四教授辞表提出に発展 するが、如水会長老︵江口、田中︶はもちろん引続き調停につとめた。田中は外交官︵ロシヤ大使︶ 出身だが、江口は如水会の創立者でもあり、また高商卒業後一時ではあるが母校の教職にあった関係 もあってとくに尽力を惜しまなかったことと思われる。十四教授事件は広田内閣の平生文相によって 解決されたが、平生もまた母校の教職にあったことがあり.文相辞任後、田中に次いで如水会理事長 となったのである。 昭和十二年十月、一如会が成立して、貞次郎は会長となった。一橋出身︵主として教員養成所︶の 教育者︵商業学校教師︶の団体を設けることは多年の懸案だったが、貞次郎が学長に就任してから、 如水会書記長足立丑六、商大事務官大庭一郎、金井府立一商校長、梶原京橋商業校長らの周旋によっ て京浜一如会が成立したのである。この会の設立には貞次郎の学長としての立場も寄与したことはも ちろんだが、如水会常務理事としての交友が大きく働いたと思われる。足立、大庭もともに教師経験 大 老だった。その後、一如会は発展して全国的組織となったのである。 れ 五 揺 商 く 動 章 第 備 第六章 学外に於ける活動 w会、研究会、政府委員 一、 O享’ っていた。また、大正三年には同会論叢第四冊市営事業に株式会社の倫理、大正五年には第十冊に租 格にかつぎあげられ て ゐ る 。 ﹂ と あ る 。 商科を加盟せしむることにした。⋮⋮常務は増地庸治郎、中西寅雄両君が見るのである。余は理事長 谷氏等は商科大学及一口同商に限る考であったらしかったが、余の案で帝大、早大、慶応其他の私立大学 業学校の滝谷善一氏等が熱心に主張して全国の商業学及経営学研究団体を設ける事になった。最初滝 本会は大正十五年七月創立総会を開き、十一月に第一回大会を開いた。日記によると﹁神戸高等商 ⇔ 日本経営学会 税と社会政策、大正六年には同第十一冊に小工業問題を発表した。 ︵3 貞次郎はこの学会で、河上肇︵京都大学助教授就任早々︶と一緒に幹事をつとめたことがあると語 研究の刺戟を与える点において頗る効果があったのである。﹂ のであるが、この本来の目的以外に従来別々に孤立してゐた諸学校の学者達に相知る機会を与へ学問 て啓蒙的の働きを為した。それでこの会合は我国で社会政策と云ふ思想の普及するに大功績を留めた 学その他の経済学、政治学、法律学の教授等が数十人会合して時の問題を討論し、又公開講演を催し 校の授業が終った頃総会を開く例であったが、その時は東京の官私立諸大学はもとより全国各地の大 学会の中心人物として会員多数の尊敬の的となって居られた。:⋮・社会政策学会は毎年十二月に諸学 ﹁金井先生に私が面識を得たのは明治四十二年海外留学から帰った時のことで、当時先生は社会政策 いる。 織としてこの学会しかなかったと聞いている。貞次郎は﹁東京商大と金井先生﹂で次のように述べて 貞次郎がはじめて参加した学会は社会政策学会だった。当時は政治、経済関係の学会は全国的な組 円 社会政策学会 珊 六 村本福松︶で、貞次郎は総務担当、中西︵会計︶、増地︵庶務︶となっている。 の工場など産業視察を行うことも慣例となったようである。 告すること、会の場所は関東、関西と交替にすることなど理事会の方針を説明した。また、その地域 外 学 とすることなどを報告した後、毎年開く大会はその時期の重要問題にしぼって予め研究した結果を報 に 貞次郎は第一回大会で開会の辞を述べたが、その中で会名の選定、学者および実業家の全国的組織 け 於 る 動 活 同会の記録によると創立時の理事は十五名でうち常務理事が五名︵上田、中西、平井泰太郎、増地、 章 第 られるが、貞次郎の報告は次の通りである。 m 貞次郎はもとより大会には進んで参加し、報告もたびく行った。報告は翌年の経営学論集に載せ へ る 動 活 描 第九回 第八回 第七回 第五回 第四回 第二回 ︵昭和九年七月関東部大会小樽︶﹁我国中小工業の研究に就いて﹂︵同第九輯︶ ︵昭和八年︶﹁米国の新経済政策﹂︵同第八輯︶ ︵昭和七年十月京都︶﹁日満経済雑感﹂︵同第七輯、全集第七巻︶ ︵昭和五年︶﹁ダンピング﹂︵同第五輯、全集第五巻︶ ︵昭和四年︶﹁我国に於ける商業学及経営学の発達について﹂︵同第四輯、全集第一巻︶ ︵昭和三年三月長崎︶﹁国際経済会議に就て﹂︵経営学論集第二輯︶ 第十二回 ︵昭和十二年十月東京︶﹁経営学の過去、現在、未来﹂︵同第十二輯、全集第一巻︶ は 昭 和 十 四 年 十 月 第十四回 大会 、 国立の東京商科大学で開催された。貞次郎は経営学会と大学々長 辞 を 述 べ た の一人二役 で 開 会の 。 その中で本学会の創立の経過を語った後、本会は学者、実業家を含 は 多 数 の 参 加 者 の 下 に 円 滑 に 実 施 さ れ む全国的な 包 括 組 織 で 毎 年 の 大会 た 。 セクショナリズムの多い 見 る 成 功 で は な い か と 喜 ん で い る 。 ︵経営学論集第十四輯、全集第一巻︶ 学会では稀に が 最 後 に 参 加 し た これは貞 次郎 大 会 だ っ た 。 本学会は戦後、経営学の発展とともに益々拡大の一途 う で あ る 。 昭和五十一年十月には神戸大学で五十周年記念大会が開催された。この大会 をたどったよ 次 郎 の 写 真 も 飾 ら 々場には他 の 先 駆 者 達 と と も に貞 れ た 。 この写真は大会終了後私に贈られ、今も私 の部屋にかSっている。 ⇔日本経済研究会 この会は貞次郎の私的研究会で、昭和五年頃から随時如水会館で日本経済問題を中心に開いていた。 メンバーは猪谷善一、山中篤太郎、美濃口時次郎、森泰吉郎、小田橋貞寿、小倉正平らで、セビロゼ 、、、ナールと称していた。昭和七年五月になって貞次郎がクロッカーの日本人口問題を報告してから問 題を人口問題に集中して、毎週一回︵火︶定期に開くことになった。 巻頭として六月に﹁日本人口問題研究﹂︵第一輯︶を協調会から刊行した。執筆者は前記のほか左右田 昭和八年五月貞次郎は社会政策時報に﹁近き将来における日本人口の予測﹂を発表し、この論文を 武夫、猪間戯一、井口東輔、池野勇治︵山中は前年留学のため不参︶で、研究会で報告した外国人の 人口問題研究、とくに日本人口問題の紹介が十数編載っている。また、五月には貿易会館二階︵西銀 座七丁目︶に研究所を開設して、毎週火、金、土の三日間こふで勉強し、小田橋を事務長として統計 など資料の収集と事務連絡にあたった。火曜夜の研究会も如水会からこ瓦に会場を移して、さらに多 於 くの協力者が参加して着実に開催された。この年八月にはカナダのバンプで開かれた太平洋会議で貞 け 章 六 った。 た人口研究は一段と発展した。執筆者は第一輯の諸氏のほか、杉本栄一、森田優三、阿部源一が加わ に関する研究、第二部出生及死亡に関する研究、第三部人口と職業に関する研究で統計資料を分析し 翌九年十月には﹁日本人口問題研究﹂︵第二輯︶が刊行された。その内容は第一部将来人口の予測 次郎はさきの日本人口の予測を発表して国際的反響をよんだことは別項の通りである。 に W 第 四 良 昭和十二年四月には﹁日本人口問題研究﹂︵第三輯︶が刊行された。内容は第一部人口理論に関す 捌る研究、第二部職業及産業に関する研究、第三部生活程度に関する研究、第四部人口の地方別研究で ある。執筆者には前記のほか、南亮三郎、佐久間幸夫、賀井善智が参加した。 また.昭和十二年には稲葉秀三の国勢調査を基礎とした府県別工業人口、小椋広勝の工業立地論、 小宮山琢二の機業地の研究なども報告された。なお、当時の研究会には東畑精一、渡辺信一、神義之 介らをはじめ、大学、学閥に関係なく、多くの研究者が参加した。 貞次郎が人口問題研究に志して、共同研究を継続出来たのは日本人口問題研究第一輯および第二輯 の序文にあるように二人の旧友が匿名で研究費を提供してくれたからである。その二人とは前田卯之 助、高島菊次郎両氏と日記に書かれている。このほか研究費は内務省の人口問題研究会︵会長柳沢保 恵伯で昭和九年財団法人に改組︶、日本学術振興会、太平洋問題調査会からの援助があった。この研究 会には私も傍聴者として参加させてもらったので、その雰囲気はいまも覚えている。 本研究会は昭和十一年末、貞次郎が商大学長就任後は山中篤太郎教授を中心に継続されたが、昭和 十四年五月、商大調査部に合併された。 ㊥ 学術振興会中小工業小委員会 貞次郎は昭和八年三月、日本学術振興会が成立したとき経済学部︵第三常置委員会︶の委員に指名 され、人口問題研究について毎年援助を受けていた。昭和十三年一月、この委員会は中小工業小委員 会︵第二三小委員会︶を設けることになり、貞次郎は十一月の第一回会議で委員長に推された。この 委員会は山中篤太郎を幹事として十三名の委員を指名し、十二項目の研究事項をきめて活発な研究活 動を行った。日記によると同年十月には﹁名古屋にて会す。大隈工場及び瀬戸を見学﹂とあり、十四 年九月には﹁京都にて学振中小工業委員会開催、二十九日は西陣及清水焼見学。⋮⋮三十日は帝大に て研究報告﹂とある。十五年一月十六日には﹁第二十三中小工業委員会、学士会に開く。︵自分は今 年第三常置委員を退いたが、この小委員会の委員長は継続してゐる。︶﹂と書いている。 この委員会は貞次郎の死後も山中篤太郎を中心に数多くの研究発表を行って、戦後、現在までわが 国中小企業研究に大きく貢献している。 ﹁国立人口問題研究所生る﹂の一文を草して祝福するとともに国策の基本としての人口問題研究の本 動 貞次郎は国立人口問題研究所の設立に尽力し、昭和十三年その予算が認められたとき、朝日新聞に 活 る 六 ㈲ 政府委員として 山中篤太郎らを中心として発展して現在に至っていると聞いている。 外 学 なお、貞次郎は昭和十四年二月、日本経済政策学会の設立にも参画した。この学会も貞次郎の死後、 に 於 旨について助言を与えた。 け 章 第 ω 高等試験委員 貞次郎は大正八年はじめて高等試験臨時委員に任ぜられ、外交科の商業学を担当 皿 した。この委員は昭和十四年まで外遊︵昭和二年、昭和八年、昭和十一年︶の年を除いて続けられた, った。貞次郎は日頃経済問題の解る外交官の養成が必要だと語っていたが、果してその存命中にどれ 担当課目も商業学︵大八ー昭九︶のほか、商業史︵大二二ー一五︶、商業政策︵昭四ー昭一四︶を受持 醜 だけ達成されたか 。 外交科は受験者が少数なので、答案審査も簡単なのだが、昭和四年から行政科の商業政策および工 業政策を担当するに至ってこれが一週間とかそれ以上を要する大仕事となった。毎年筆記試験が終る と答案を持って軽井沢の山荘に籠ることが年中行事となった。工業政策は京大の山本美越乃博士、の ちに東大の山田文雄教授、商業政策は東大の河津遅博士、のち田辺忠男博士と共管だった。この行政 科委員も昭和十四年に及んだ。 このほか、大正十二年から十五年まで司法科の経済学を京大の神戸正雄博士とともに担当した。 θ その他の政府委員 計理士試験委員︵商工省︶は昭和七年から昭和十一年まで担当した。また、 昭和九年には簡易生命保険積立金運用委員会委員、石油業委員会委員︵内閣︶に任命され、同十年に は失業対策委員会委員、同十二年には教育審議会委員に任ぜられた。 二、第一回国際労働会議 第一回国際労働会議は大正八年十月二十九日から十一月二十九日迄、ワシントンで開催された。こ の会議の性質、目的、組織、運用に関しては大正七年六月に締結されたヴエルサイユ平和条約中、第 ぢン 十三編労働に関する国際連盟規約の付属書中に規定されていた。これはその後引続いて開催されるこ とになった。現在の国際労働機構︵ILO︶の第一回会議である。この会議の参加国は四十一ヶ国で 各国の政府、資本、労働三部門の代表者が集る当時としての大会議であった。 日本からは政府代表鎌田栄吉および岡実、資本代表武藤山治、労働代表桝本卯平と顧問各五名、農 商務、内務、外務、文部の官吏側十数名で、新聞記者の随行を含めて四十余名が参加した。貞次郎が この世界の桧舞台に政府顧問として出たのは、紀州の先輩、鎌田栄吉︵慶応義塾々長、貴族院議員︶ の推せんによるものである。 十月十日貞次郎はこの代表団の顧問として伏見丸︵郵船︶で横浜を出帆した。私も母や弟、それに 年令は十三才とする事、日曜休日は行ひ難き事等が示してあった。何れも相当の猶予期間といふ事が 間を原則とし、十六才以下のもの及坑内労働者は八時間とする事、夜業は廃止の事、少年雇用の最低 ﹁船中に入て初めて鎌田氏から政府の訓令なるものを見せられた。其訓令には労働時間に付ては十時 当時の国際労働会議代表は今からみるとのん気なもので、﹁日記﹂によれぽ 動 横浜在住の徳増栄太郎ら学校関係者と一緒に見送りに行ったことを覚えている。 活 る 学 に 於 け 外 章 窪田君及余は之に付て屡々相談したが大体に於て此案は不当でない。併し猶予期間をやかましく云 六 第 うるさい様に付記してあった。 鵬うべからず。夜業は寧ろ即時︵即ち条約施行期日なれぽ今より少くも一年半以上の猶予あり︶実行を 主張せんといふことに一致した。労働時間の十時間も相当だと思った。﹂とある。 ぷ この案でシアトルへ向う船中でまつ政府側の意見を統一し、ついで資本、労働を含めた三部合同の 質問会も開かれたが、三部会の意見を統一することはもとより不可能だった。 シアトル上陸が二十四日朝、特別列車でワシントンに着いたのが二十八日朝である。 ﹁ワシントン・ホテルに投ず。其日窪田氏と同行大使館へ行き広田書記官と語る。 此夜旨ΦNN碧甘Φ田。電に設けられたる日本委員一行の事務室に於て、初めて岡︵実︶委員︵農商務 省商工局長︶以下先発の官吏諸氏に会す。﹂ ﹁ワシントンに着てから鎌田氏が岡氏に対し、窪田、上田案を以て自分の意見として話した処、岡氏 は貴下が左程進歩的意見を有するならぽ自分としては大にやり易し。実は一層保守的ならざるかを心 配していたと返答した由。是にて余等も一先ず安心した。﹂ 会議の顛末および由来について貞次郎は﹁第一回国際労働会議の顛末﹂および﹁国際労働会議の由 来﹂︵﹁社会改造と企業﹂所載。全集第四巻︶に書いているので詳細はそれに譲るが、議題よび結論だ けを摘記すれば次の通りである。 一、 一日八時間又は一週四十八時間の原則適用に関する件 委員会は一日八時間を原則とし、時間外労働については労働組合と雇主との協定に任すこと玉なっ た。 日本印度其の他については特殊委員会で論議し、日本に付ては一週五十七時間とし、生糸業に付て は特に六十時間とすること、十五才以下のものおよび鉱山の地下労働に付ては四十八時間とすること、 時間外労働は一般の規定に従ふこと、一週一回二十四時間の休日を与ふること入決定した。 二、婦人雇用の件 θ夜業禁止 婦人夜業の禁止は日本だけの問題で、欧州諸国ではすでにベルン条約に加盟し、国内法で禁止され ていた。日本も資本家側を除いて異議はなく、勧告に従って新しくベルン条約に加盟するときは一九 二二年七月一日より実施することsなった。 して労働者自身の意思により仕事を休むことが出来、此の期間に対しては産後の六週間と同じく相当 委員会は産後の雇用禁止期間を六週間とし、産前六週間は雇用を禁止しないが医師の証明を条件と 動 ⇔ 産前産後の取扱い 活 る に 三、幼年雇用の件 外 の扶助料を支給さるべきことに決定した。 学 け 於 章 六 第 O 委員会は一般規定としては例外なしに十四才を最低年齢とすることに決定した。 日本、印度等にっいては特殊委員会を設けて研究したが、結局日本に関しては義務教育終了者を例 鰯外とする条件付で十四才制限を採用すべしとの日本政府案を採用した。貞次郎は日本政府を代表して 1 もっぱらこの委員会に出席した。はじめ日本政府案は前記のように十三才だったが、貞次郎は十四才 を原則として、十四才以下でも義務教育を終ったものは雇用を許すと云う例外を認めて日本政府案と 86 することを主張して、結局これが通ったのである。 この日本政府案は婦人の夜業禁止とともに欧米人の注意をひき、ロンドンタイムスは特に社説を掲 げ、此一点だけは東西の労働条件が一致したと云って大いに賞讃したとのことである。 ⇔夜業禁止 一般規定として少年夜業禁止の年齢は十八才以下とする。 日本に関しては十六才以下とし印度に関しては十四才とした。 四、その他の事項 会議では右の条約草案の外に失業に関する条約草案、同上勧告、外国労働者の取扱を互恵的にする 勧告、炭毒及び鉛毒予防に関する勧告、国立保健制度に関する勧告、黄燐マッチに関する一九〇六年 ベルン条約に関する勧告があった。 なお、日記には次のことが書いてある。 ﹁併し委員会で余の力を入れた所は、主として日本の産業組織の現状を説明して、今回の会議に日本 のなした提案は一大飛躍である。会議の本決議とは劣って居ても日本から見れば重要な進歩であると いふ事を明かにし、欧州の識者を納得せしめんとするにあった。﹂ ﹁労働時間問題討議に付本会議で鎌田氏が演説する場合にも、最初同氏の作った草稿は言訳が主とな って居たから余は極力反対して、もっと合$民己なものにせよと主張した。而して窪田氏が賛成し た。夫から窪田氏が日本文で起草したものに余が加筆して、夫を高城仙次郎氏が英訳して出来上った 草稿が鎌田氏の演説となったのであった。﹂ ﹁自分は幼少年雇用問題委員会に日本を代表する事となった。今度の顧問の内で英語の演説を曲りな りにも了解し、又自ら英語演説の草稿を作ることの出来るものは恐らく自分の外にはなかった。窪田 氏は或は出来るかも知れぬが、其他の人々は此点に於て全く無能であった。﹂ 働日に帰朝し陀 ﹁会議は此の如くして終り、余は一ヶ月間を紐育及西ヴアジニアのく甘六Φ冨宅にて送り、一月二十六 脳帰朝後数旦竃氏に聞けば今度の使節農功と認められて居る。原首相も西園寺侯も鎌毘の成 財、 績 を 賞 し た と い 曇 で あ ・ 芸 学外 また、貞次郎は前記﹁第一回国際労働会議の顛末﹂の結論として﹁我日本の如き民衆輿論の幼稚に 第 ざるべからず。﹂と書いている。 緯して微力なる場A。には寧ろ国際会馨利用して労働状態の改差。を促進する.、そ国家の利蒙りといわ 卿 このワシントン国際労働会議で決定した国際労働条約案は其の後わが国では批准されず、政府は工 場法改正によって対処しようとしたが、これすら容易には議会を通過しなかった。これに対して、貞 次郎は大正十年五月﹁華府労働条約と我邦の立法﹂、同じく大正十一年四月﹁国際労働条約案の批准 皿 に就て︵再び︶﹂をそれ人\外交時報に執筆して、この条約案の実施の必要性を朝野に警告した。 その後、大正十五年七月に漸く、工場法施行規則改正と工場労働者最低年齢法ならびに労働争議調 停法が実施されることNなった。これによって、ともかく年来の主張であった紡績女工の徹夜業と義 務教育を終らない幼年者の使用は禁止され︵従来は十二才が制限の原則で例外的には十才の幼年工が 認められた︶、女工及び幼年工の労働時間は︵従来は正味十一時間が原則で例外的には十三時間が認め られた︶制限されることとなった。 〆 これに対して貞次郎は﹁労働法規の実施と国際労働会議﹂を、﹁企業と社会﹂に発表して、さらに 労働条約案の実施を促進すべく朝野に対して警告した。 さらに大正十五年九月、同年六月ジュネーヴの国際労働会議で英国及印度の代表が、日本の労働状 態の劣悪なことを攻撃したのに対して﹁労働立法に関する国際的圧迫﹂を同誌に発表した。﹁そこで 我日本は何うかといふに工場法の改正が遅れた上に其実施を延期してゐる。尚ほ其上に新工場法の規 定はワシントン条約の九時間半よりも半時間多き十時間であって、しかも日曜休日を励行しようとし ないから、之を一週間にすれぽ六十時間を超過することになってゐる。故に此問題についても我国は 各国の攻撃を受けるであらう。﹂と云っている。もって当時の日本の労働事情が国際的に劣悪であり、 ぐ 先進諸国との格差が甚だしく、これの改善には貞次郎もなにがしかの努力を惜しまなかったことが知 られるのである。 三、国際経済会議 国際経済会議について、貞次郎は﹁国際経済会議の大要﹂﹁国際経済会議における関税問題﹂﹁国際 経済会議の効果﹂︵﹁新自由主義と自由通商﹂に収録。全集第七巻︶を執筆しており、このときの旅行 記は﹁西遊通信﹂︵﹁企業と社会﹂に発表、﹁白雲去来﹂収録︶として発表された。また、貞次郎編著﹁国 際会議と其問題﹂が刊行され、貞次郎の前記の二論文のほか、志立鉄次郎、成瀬義春、高島誠一、佐 藤寛次、倉橋藤治郎の諸氏がそれ人\の分担において執筆して、わが国の政財界などに広く訴えたの 本外交史14﹂︵鹿島平和研究所昭47︶に﹁国際連盟における日本﹂を監修し、とくに﹁世界経済会議﹂ 動 である。この著書には政府代表で会議準備にも参加した佐藤尚武の名が見えないが同氏は戦後、﹁日 活 る 学 に の回顧が述べられている。いま、これらの資料にもとついて国際経済会議とこれに日本政府代表の一 於 としてこの会議の記録を整理発表した。また同氏の自伝﹁回顧八十年﹂︵昭和三八年︶にもこの会議 け 外 会議で、世界の五十ヶ国が参加し、各国代表一九日名、随員、専門委員一五七名合計三五一名が集っ 章 人として参加した貞次郎の活動のあとを拾ってみることとする。 六 第 国際経済会議は昭和二年︵一九二七︶五月四日から二十三日迄、国際連盟がジュネーヴで開催した ㈱た大会議だった。問題は世界の不景気とくに欧州の経済的不況の原因を探求して、その救済策の大方 1 針を立てることで、商業、工業、農業の三部門にわたっていた。国際連盟はこの会議の召集について 果、曽て有利に行はれつ入あった国際分業の機能が阻害せられ、全体の不景気を益々甚だしくしたか 欧州諸国が大戦後種々の原因で関税政策の困乱を来たし、各国相互に対抗的に関税の引上を行った結 口も手も出さない間にかねて思ったやうな方向にどん人\進んで行ったのである。蓋し今回の会議は まずよくも分りきらない外国語の演説を聞くといふよりも見てゐた父けのことだ。しかし会議は私の ﹁この三週間に何をしたかと問はるれば私としては何もしなかったといふのが最も正直な答であらう。 貞次郎は﹁西遊通信﹂に次の通り述べている。 至った。﹂と花を持 た せ て 書 い て い る 。 意見を吐露せられ、同君の此の意見を基礎として後に一の原案が起草せられて一般に配布せられるに は志立、佐藤尚武とともに商業委員会で意見を述べ、﹁関税障碍及び輸出税の禁止について重要なる 九日から各国代表は商業、工業、農業の三つの委員会に分れて討議を行った。志立によると貞次郎 いる。 起草したものを乾精末が英訳したものだったと後に志立は﹁自由通商﹂︵昭和十五年七月︶に書いて ことを明言した。日本からは志立代表が英語演説をしたが、これは貞次郎と成瀬義春の意見によって 総会の開会にあたって議長テウニスは、本会議の議題の焦点が関税政策および国際カルテルにある 語が国際用語なので、英語演説は仏語に、仏語演説は英語に訳され、独語は英仏両国語に訳される。 五月四日から国際経済会議がはじまり、七日までは総会だった。これは各国代表の演説会で、英仏 コウ着。モスコウに二泊して二十六日発、二十八日ベルリンに一泊して三十日にジュネーヴに着いた。 貞次郎は四月十二日志立代表の一行に加って大阪を立ち、途中十四日奉天に一泊して二十四日モス 誠一︵日本経済連盟専務理事︶、倉橋藤次郎︵工政会︶、書記長伊藤述史らだった。 ︵東大教授・農学博士︶、佐藤尚武公使、専門委員松山晋二郎︵商務官︶、成瀬義春︵慶大教授︶、高島 銀行総裁︶、代表斯波忠三郎︵東大教授・工学博士︶、上田貞次郎︵商大教授・法学博士︶、佐藤寛次 連盟に非加盟のアメリカ、ソ連もそれぐ代表を参加させた。わが国は主席代表志立鉄次郎︵前興業 ー.ソルター、各国代表としては前大臣、著名な実業家、大学教授、新聞人等があった。また、国際 この会議の運営には議長としてベルギー前首相テウニス.書記長として連盟経済部長サー・アーサ 連盟経済部を中心に約一年間周到なる準備を行った。 90 る 動 活 に が私の最初から予想した所であり、又実際に見聞した所である。私はかねての主張をごうも曲げるこ 学 たのである。故に関税引下、貿易自由の方針を宣言しなければこの会議の目的は達せられない。これ 於 ら、そこへ気のついた各国の識者が方向転換の策を立て入、一種の経済的軍縮会議をやることになっ け 外 章 った。固より会議の途中には各国間に意見の相異があり、きはどい論議もあったが、しかし今はその 六 第 となしに今後益々確信を以って会議の総論を支持し、之を我国の与論に訴へさへすれぽよいことにな 皿行道を説くよりも、直ちに会議の総論たる最終の決議の要点を指摘したいと思ふ。﹂ ﹁所謂決議なるものは大体現在の時弊を述べ其救済策の大綱を挙げた宣言書のやうなものであって、 製糖社長︶、石井徹︵日本郵船副社長︶に貞次郎が加わった準備会、さらに十二月七日、十九日、二十 力実業家を説いて賛成を求め、十一月十七目、志立、安川雄之助︵三井物産社長︶、藤山雷太︵大日本 していたので東京側もこれに刺戟されて同団体の設立は促進されることになった。東京では志立が有 を起したいと語ったのだが、帰朝後大阪で村田省蔵、田ロ八郎︵岸本商店常務︶両氏が同様の計画を 貞次郎は前記の通り昭和二年五月国際経済会議に行った時に、志立鉄次郎と日本に自由貿易の団体 四、自由通商協会 決議はこのほか工、農の部があるが、こsには省略する。 しめるといふのである。﹂ 々の責任である。尚其他に具体的の方法を発見するためには、国際連盟が其経済委員会をして調査せ しからぽ各国をこ瓦に導く方法如何。それは輿論を動かすことである。それがこの会議に集った人 を必要とする。﹄ そこでどうしたら此弊害を取除くことが出来るかといふに、それは﹃各国の平行的又は協調的行為 結果は何時の間にか既存利益を発生せしめて予定の引下を不可能ならしめる。﹄ ﹃此弊害は所謂タリフ・ド・コンパ ︵対抗関税︶の実行によって近年殊に著しくなって来たが、その は成立せずして高い関税のみそのまふ残ってゐる。﹄ ﹃多くの場合には高き関税は外国との交渉の目的を以って設けられたが、実際には相互引下げの交渉 多くの外国に異るものではない。金利の高い点において最も著しきものがある。 を具へた国は極めて稀である。⋮⋮﹄1日本は国産自給をなすに不適当な国情を有すること決して 資源や経済上の便宜や地理的関係が良好でなければ到達し得らる人ものでない。世界中に此等の条件 成せんとの企てを起さしめた。しかしながらかくして自給自足を実現するの希望は其国の面積や天然 この過大なる生産設備を如何に処理するかの問題はやがて関税障壁の下に独立したる国民経済を創 ものであって、之を平時に維持することは極めて困難といはなければならぬ。 に其欠乏を充たす目的で無理に起された工業がある。日本でも製鉄や染料の如きは此第二種に属する で方外に膨脹した工業といへば第一には軍需品工業があり、第二には当時外国品の輸入㊨止ったため 第二の理由は現在の産業を維持する目的を以って保護政策を行ふことである⋮⋮。1戦時の要求 この状態は大部分戦争から生じたアブノルマルの事情に基く。⋮⋮ ﹃現在の関税は戦争以前よりも高くなってゐて、そのために通商は妨げられてゐる。⋮⋮ 皿直ちに実行を求める条約文の形を有つ所は全くない。⋮⋮関税については次の文句がある。 る 動 活 に 六 学 け 於 外 章 第 六日には前記諸氏の外、各務鎌吉︵東京海上社長︶、池田成彬︵三井銀行社長︶、串田万蔵︵三菱銀行社 呪長︶、矢野恒太︵第一生命社長︶、児玉謙次︵横浜正金銀行頭取︶、宮島清次郎︵日清紡績社長︶井坂孝 ︵東京瓦斯社長︶の協議があり、貞次郎も参会した。 漸次減税することと、コレクチブコンベンションの成立を推進する事を主張した。また、国連協会連 たが、実際提出されたものは強硬意見で、現在の各関税率を最高限としてこれ以上に増さないこと、 時には、前年ジュネーヴの会議と同様にフランスから関税について微温的な文案が出ていると噂され 同会が自由貿易主義を国際連盟協会の内部に浸込ませる目的があったと云われる。この決議文作成の で開催された国際連盟協会連合会の会議に出席した。同会議を提案したのは英国のコブデンクラブで、 貞次郎は昭和三年八月から、外遊したが、その目的の一つとして同年十月四、五、六日、プラーグ は一般的に云って受けがいいが、積極的なのは時事新聞と中外商業新聞に過ぎなかった。 界との関係が乏しく、わつかに木材輸入協会、革類商の組合から入会者があった程度だった。新聞で われていたが、それだけ実際の利害関係を感ずる人が多いと云えた。これに反して東京では直接に業 大阪では此運動は鉄︵の輸入業者および平炉業者︶くさいと云われ、神戸では船会社の手先だとい 会はあまり盛んではなかった。とくに、東京は顔触は立派だが、実際にはあまり活動的ではなかった。 大阪朝日の和田日出吉、大阪毎日の下田将美両経済部長が熱心なため大いに活気があったが、他の協 大阪では平生91三郎︵東京海上専務︶、村田省蔵︵大阪商船社長︶、岸本彦衛︵岸本商店社長︶の外、 ととなった。当時の東京の会員は百十名だった。 京橋宗十郎町の日本貿易協会内に一室を借りて、志立の経済攻究会と同居して共同の事務員を雇うこ には大橋新太郎︵大日本印刷社長︶、大川平三郎らの保護論者もいて、都合のわるい点があったので、 東京の協会ははじめ工業クラブ内、日本経済連盟の事務所に託して事務を行っていたが、経済連盟 五月には日本連盟の名で東京、横浜、名古屋、神戸、京都、大阪で講演会を催した。 た。さらに関門、青森、大連にも協会が出来て日本連盟に加盟した。 其後神戸、京都、名古屋に同名の協会が出来て三月十日は大阪で自由通商協会日本連盟が結成され 意書は現在の保護政策的傾向を阻止して自由通商を主張したもので貞次郎が起草したものである。 する案もあったが、それには賛成しない人もあって自由通商協会Pま零膏o時弓﹃銭芦鴫となった。趣 蹴 昭和三年一月十四日、東京と大阪と同時に自由通商協会は発会式を挙げた。会名は自由貿易協会と 六 学 援することを決議した。 昭和四年八月には大阪で発行していた機関誌﹁自由通商﹂の責任者田口八郎が外遊したために貞次 たとのことである。 この演説はコブデンクラブの人々はもちろん、ベルギーその他の代表からも好感をもってむかえられ に 貞次郎はこの会議で日本代表として演説したのだが、その中で日本自由通商協会の成立を報告した。 於 け 動 合会に経済委員会を設けて各国の連盟協会にも国内経済委員会を設け、ジュネーヴの経済委員会を後 活 る 外 章 第 郎が編輯を引受けたが、これも一年後には大阪に返した。 皿 昭和六年十月満洲事変が起ったが、貞次郎は陸軍の露骨な条約無視は外交上危険だと考えて反対だ ぺ・ ぺ った。昭和六年十一月には大阪方の平生凱三郎に会って満蒙進出論に反対を唱えて見たいと云ったら、 ﹁日本の軍事的進出が軍人により計画せられ一般民衆により支持されるのは、人口の圧力が根本の原 皿平生は﹁それは危険だからやめろ、君の生命位では食止められぬ﹂といって引止めた。 因をなす。人口増殖し、資源豊かならざるが故に近年の日本は海外進出を求める。吾々はそのために 自由通商を唱へたが、外国では移民を入れず、商品にも関税をかけるから日本は遂に領土拡張に出た。 意識的又は無意識的に人口の圧力を感じてゐるのだ。 併ながら満洲を取てこの問題が解決されはしない。⋮⋮満蒙の利権を得て南支の販路を失ふ如き事 あらぽ差引非常の損失といはねぽならぬ。﹂ 自由通商協会は開店休業の状態となり、八年六月には日本連盟を大阪に移すことになった。 ただ、この年九月には三井の安川雄之助から、わが国自由通商運動の海外宣伝費用を貿易奨励会を 通じて支出するとの申出があり、いま9身oパ印豊甘αq切巳﹂Φ江ロを出すことになった。この英文パン フレットは次の通り発行された。これらのパンフレットは貞次郎の論文を若干修正して小倉正平が英 訳したものであり、その標題は次の通りである。 2ρ一 釦冨g器勺ob己p江oロ但昌巳弍o己臼弓§牛o㊨お廷 2°°口 計冨昌、°・津豊①急夢>g庁轟﹂宣pロ命Z2N$﹂昌鮎§臼#、ロ古g斥ρお巽 にて雑談。﹂とある。これが貞次郎の協会への最後の出席だった。 昭和十五年二月、﹁東京自由通商協会理事会。幹事は田口氏、出席者、平生、村田、志立、山室等 ﹁自由通商は最早実際政策ではなくなったので、役員会も雑談会に外ならぬ。﹂と書いている。 所を閉じ、岸本商店に看板だけを移すことになった。そして同十四年一月に役員会が開かれたが、 その後、東京協会はさらに事業が縮少され、事務も少くなったため、昭和十三年十二月銀座の事務 岩o昌昌Φ早江①信﹃8旨gげ゜・ゲ。§$5“碧§碧臼m§Φ。汗零○。目庄Φ砿二〇巽 岩o°自 出89蓉ざOo<巴8目o巳o桔計b§窃Φ田゜・匡昌餌ぎ臼伝汀﹃、P⑩ωべ Zρ田 O碧p巨、m弓蜜臼o司#げ芽Φの09げooΦ知Oo已巳匡Φ潮戸⑩ωO 2ρ< “碧§㎡吋o冨﹂σ9ロ弓﹃毘Φ巾o声声oSH⑩ωO Zp之︾ヒd﹃艮卜g冒書。パ智b騨ロ、聰周。置管頃江pおω0 ﹁ ,辱 岩ρ日 Oo呂冨江呂巴○庁知冒険Φω甘量9目お巽 動 る 活 に 章 六 外 学 昭和三年 国際経済会議と自由通商 自由通商協会講演集第一回 婦人と自由通商 〃 第六号 東京通信 〃 第二号 プラーグ便り第二巻第一号 、 最近の関税問題 〃 第八号 、 昭和四年 於 なお、貞次郎は機関紙﹁自由通商﹂に次のような論文を寄せている。 け 第 凹 皿 自由通商運動に就て 横浜貿易倶楽部刊 製鉄合同と関税 第四巻第一号 東亜の自由通商 第一〇巻第一〇号 ’ 鉄関税引上問題 〃 第三号 合理化を妨げる産業統制法 第四巻第四号 最近の内外政局と自由通商 第五巻第二号 巻頭言 第五巻第九号 自由通商の立場より見たる統制経済 第七巻第三号 日本に於ける人口と職業 第七巻第一一、二一号 国民的子孫繁昌は自由通商にあり 第九巻第一号 昭和十二年 外人の見たる日本の近状 第一一巻第=一号 太平洋を続る列国の立場 第九巻第一一号 昭和十三年 人物養成の問題 第二一巻第七号 高木八尺、同高柳賢三、同横田喜三郎、鶴見祐輔、前田多門、松本重治、牛場友彦らいつれも国際的 動 渡戸稲造博士が代表団長となった。同博士は一高校長時代に育てた東大教授那須皓、同蝋山政道、同 的、国際的に信望を高めたのである。第三回会議からは日本の中国侵略に対する非難の高まる中で新 年第四回会議︵上海︶にそれぐ代表団を送って討議を重ね現実的、客観的な調査研究によって国内 され、着実に発展して来た。昭和二年第二回会議︵ホノルル︶、昭和四年第三回会議︵京都︶、昭和六 わが国では第一回太平洋会議後、大正十五年四月、太平洋問題調査会︵理事長井上準之助︶が設立 よって成立ち、各国の財政は会費、民間の寄付等によっている。 になっている。調査会全体の財政は各国団体の分担金および寄付金︵例えばロックフェラー財団︶に もって常時調査研究を行い、これにもとついて二年毎に太平洋会議を開いて国際間の討議を行うこと 体で、太平洋諸国間の基本問題を研究討議することを目的としている。関係諸国はそれぐ事務局を 太平洋問題調査会︵Hb﹁ロロ●声やd﹁やΦ O賄 H︾襲O︷口O ]パΦ一聾汁戸OHピの︶は太平洋沿岸の諸国の民間団体を会員とする団 五、太平洋会議 昭和十四年 昭和十一年 昭和九年 昭和七年 昭和六年 活 六 学 に 貞次郎は昭和六年から、この調査会の活動に参加したが、上海会議には出席を断った。昭和七年に カ側からは新渡戸グループとよばれたと聞いている。 強かった国際世論の緩和につとめた。これらの人達は日本の良識を代表するものと評価され、アメリ 於 感覚に秀ぐれた会員を率いてそれぞれの専門的観点から日本の立場を説明し、日本に対して風当りの け る 外 章 第 なって貞次郎は当会に人口問題調査を提議しこれら若い学者達の賛成をえてその中心となった。日本 ⑨ の人口問題は第二回会議から、那須皓の人口食糧問題としてとりあげられていたが、貞次郎はさきに 発表した﹁人口予測﹂の研究をたつさえて参加することになったのである。 ㎜ ○第五回太平洋会議︵.ハンフ会議︶ 太平洋問題調査会の第五回会議は昭和八年︵一九三三︶八月十五日から二十四日迄、カナダのバン フで開催された。参加国はアメリカ、ヵナダ、イギリス、オーストラリア、支那、日本など十数ヶ国 で、日本からは首席代表新渡戸稲造、信夫淳平、佐藤安之助少将、岩永裕吉、副島千八、姉崎正治、 高橋亀吉、茂木惣兵衛、那須皓、高柳賢三、浦松佐美太郎、松方三郎らの諸氏が参加した。 このたびの会議は﹁太平洋における経済的衝突とその統制﹂であって、したがってナッタワ協定の 英国および諸自治領に及ぼす影響、アメリカのNRAとその国際的意義、あるいはインドにおける日 英綿製品の競争など当面の問題を論ずるとともに、日本の人口問題に対して格段の注意が払われた。 貞次郎はこの会議に﹁日本の将来人ロ﹂︵昭和八年五月﹁社会政策時報﹂掲載の論文を英訳︶をも って参加した。研究については﹁日本人口政策﹂で説明したので省略するが、この統計を基礎として 日本の過密な人口と乏しい資源のために就業機会を持たない生産年齢人口の存在を示した立論は参加 諸国の代表達に対して充分の説得力をもち、日本の太平洋諸国における立場を是認させないまでも理 解させるには役立った。会議において日本は外国貿易の方法によって人口の圧力を充分緩和し得ると も、然らずとも評論した人はなかった。しかし問題だけは世界の論壇に提出された。そして人口問題 の国際的意義の重大なことも明らかにされた。諸大国が極端な自衛的経済政策を採るならぽ日本の如 き国は何らかの方法によりその政権を国外に及ぼして、そこに経済ブロックを樹立する外に存立発展 の途なしとの心理状態を生ずるであろう。しかもかかる心理状態が平和を求むる意志を喪失させるな らぽ世界は戦争時代の到来を予期せねぽなるまい。このような問題の確実たる認識は問題解決の第一 歩である。 この会議での貞次郎の報告は、世界各国に打電され、アメリカではニューヨーク・タイムスなどで とりあげられ日本人口問題の重要性を認識させた。また、例えぽ、ロソドン・タイムス︵一九三三・ =二八︶は貞次郎の説を紹介した後、日本で年々増加する要職業人口は過去においては外国貿易と 工業によって吸収され、現在は各国が経済的国民主義によって日本の此の如き発展を拒否する傾向に 発するか、その何れかは必至である。日本人は訓練ある国民だが御し易き国民ではない。⋮⋮貧乏に 動 あるため、若し此の方途が鎖されたとき、﹁日本は内において社会組織を破壊するか、外に向って爆 活 る に 六 学 インディアソの競馬に招待してくれた。そのときの御馳走が野牛の丸焼だった。地面へ広さ二坪、深 なお、この会議にあたって、カナダの会員は外国からのお客を接待するというので、アメリカン. 述べた。 於 して高慢なる、而して高度に武装せるこの国民は、退いて餓死に甘んずるとは断じて思はれない﹂と け 外 章 第 さ三米位の穴を掘って、その中に丸太を薪に使って大きな火を燃やす。野牛の頭や脚をとってしまっ 別たものに太い鉄の棒を通し、穴の中へ吊して十何時間グルグル回転させる。こうして焼上った丸焼を 大きな庖丁で切って出す。一寸ロースト・ビーフに野趣をただよわせた味がしてうまかったと云うの て日本の通商問題を議するにもかやうな空想でなく、東西共通の常識に基いた取扱をなさしめるやう 代の日本精神について正しき理解を得しめ、この種の誤解を一掃することに努めたのであった。而し となるので、かくては日本の為すところ悉く疑惑の目標とならざるを得ない。それ故日本側委員は現 くものもあった。:::もし外国人の日本観がかような推定に基くやうになればこれ即ち一種の黄禍論 ・。 ャらしむることを日本帝国の使命としているので、そのために兵馬を動かすを辞せざる勢であると説 西洋の勢力を自国から逐出すだけでなく他の東洋諸国からも逐出して、諸国をして東洋本来の伝統に 排撃し、専ら東洋固有の王道に還らんとする運動が全国民を風靡しているとなし、又この運動は単に 排外思想が充満し、西洋風の民主主義、議会主義、自由主義、社会主義等を一括して外来思想として ノ 問題のみならず思想問題でも日本に対する種々の誤解が起っていた。特に日本国内には今や極端なる ﹁ヨセ、ミテ会議は日本がすべての国際関係において孤立の状態になった時期に開催されたので、経済 うに述べている。 貞次郎は﹁ヨセミテ会議における通商問題﹂︵﹁太平洋問題﹂第六回会議報告昭和十二年︶に次のよ だった。 族政策、︵四︶支那の国家再建、︵五︶太平洋における勢力均衡の変化と平和的調整の可能性の五項目 会議の議題は︵一︶米国のニューディール、︵二︶日本の通商発展、︵三︶ソ連の経済開発および民 事務局員が参加した。 所帯だった。日本からは山川端夫団長、芳沢謙吉元外相ほか十五名の代表と牛場友彦幹事ほか七名の 員はアメリカの三十八名を筆頭に各国代表団が百三十六名、そのほか事務関係老を加えて二百名の大 の初参加を加へて十一ヶ国︵米、英、加、豪、新西蘭、蘭印、仏印、支、目、ソ、ハワイ︶で参加人 立公園で開催された。宿舎は森の中の小屋だが、会議はアワニー・ホテルで行われた。参加国はソ連 第六回太平洋会議は昭和十一年︵一九三六︶八月十五日から二十九日まで、アメリカのヨセミテ国 ○ 第六回太平洋会議︵ヨセミテ会議︶ ㎜が家族や学生に語った土産話だった。 る 一には日本が今日世界貿易上に進出することは日本の国勢上人口の激増、資源の不足から見て当然の ﹁特に通商問題についていへば、吾々の主張は二つの点に重きを置いたといふことが出来る。即ち第 つとめたが、この会議について次のように述べている。 貞次郎が参加した日本の通商発展の会議は八月十八目から二十日まで開かれ、貞次郎はその議長を 動 誘導したのであった。﹂ 活 け 於 に 外 学 障 場に進出し外国の競争者から嫉視を受け、又高率関税や輸入割当等の方法によって妨害されてゐるが、 雛 ことであり、国民生活上絶対の必要条件であること。第二は現在日本品は種々の好運に乗じて外国市 郷日本側は必ずしも外国の市場を荒さうとするのではなく、夫々の場合の必要に応じて自ら調節するを 2 辞せないものであること、この二点を正式の会議の席上においても、又個人的議論の際にも力説した 者の少くとも一部のものが意外とするほど有利な条件を提供した。日本の貿易はごうも悲観するに及 免れしめたものである。後者は米国当業者の賞讃すべき遠大な思慮に発したものであって、日本綿業 綿業協定が成立した。前者は決して日本輸出産業に取って有利ではないけれども、関税戦争の継続を 散会したと思はれる。翻って其後の通商関係を見るに年末には日豪協定が成立し、新年に入って日米 を深めその産業の進歩を讃嘆しつふ一面にはその大陸政策に対して大なる疑念を拭ふこと能はずして ﹁一九三六年の太平洋会議はかくの如くにして終った。諸外国の委員は日本の国情について新に理解 へられたのである。﹂ 政策が東亜の安定勢力としての日本の権威を維持する所以でないといふ意見は日本の同情老からも唱 委員もこのスマグリングに関しては支那に同情してゐたことは明かである。かくの如き常軌を逸した 貨改革に日本が協力を拒んだことと並べて日本の支那に対する強圧政策の証左なりとした。他の外国 関税収入は過去一年間に三千万円を減じ、政府の改革事業を非常に阻害したと称し、これは支那の通 一に引下げて日本品を北支に乱入せしめたために北支市場は一大混乱に陥ったばかりでなく、南京の ングに関してである。支那委員は日本軍の後援の下に成立した翼東政権が南京政府所定の関税を四分 陥ったことは覆ふべからざるところであった。それは申すまでもなく北支特殊貿易即ち所謂スマグリ ﹁最後に日支の通商関係については経済問題として頗る活澄なる討議が展開せられ日本委員が窮地に このほか、濠州、和蘭、米国との間にそれぐの事情に応じたやりとりが具体的に行われた。 かやうな問答の末、英国委員は日本当業者の自発的統制に望を嘱﹂することとなった。 の協定によって日本の組合が自ら統制料を徴収し、又輸出量を制限した実例もある。⋮⋮ 制のために輸出組合、工業組合を結成することは近年の風潮となってゐる。外国の政府又は当業者と これに対して﹁日本の政府及当業者は既に濫売の不得策なることをよく承知してゐるので、輸出統 惹起することを恐れるのである。⋮⋮﹂ 展はあまりに急激なるため、又あまりに無統制なるために他国の産業にデスロケイション︵混乱︶を 彼等のいふところを綜合すれば自分共は日本の輸出貿易の発展は当然と思ふけれども、その近年の発 ﹁日本の通商発展の競争者となるものは主として英国であるから英国委員との交渉が特に多くあった。 のである。﹂ 04 る 動 活 け に 於 ぽない。世界の景気が恢復するにつれて各国の競争者は必ずしも排外的政策を用ひずとも自国品の販 六 貞次郎は日本人が外国語で話すことが不得意なことを補う意味でこの会議に十冊の資料を提出した。 貿易を発展せしめる こ と で あ る 。 ﹂ 学 路を保つことは出来るはずである。而して日本の国民生活安定の根本はこの世界の好潮に乗じて外国 外 章 第 ゲ○。巴。パeく甘゜q§臼國8一弍轟Φの甘智冨ロお忘己○ωΦ゜ 鍋 N° 弓9臼o司夢o時㊦8巳9一§襲昌08暮9戸8巴○冒冒σqg甘討冨ロ 己 ω゜昌Φ園Φ89bΦぐΦ]8日Φ暮。͡量冨g器呵。蚕σQロ早江p葦夢馨8芭周豊g巴8↑。國g9。江く 06 2 ㊦oま﹂①ωo吟o昆200已昌民Φ㏄聾昆9冨目宮。・9弓§合﹄σq器Φ目Φ9弊 玲 oロ日巴㌃。巴Φ︻昆g貫︷Φロo古智§巨弓冨Oo窪§甘命伝貫S 9 ω日巴﹄あ。巴Φ甘合゜。叶民oωoパ量O昌︰弓冨宅8印§]昌合゜・障S ①゜ oロ日巴﹂あop﹂Φ甘口毒茸一①ωo惰“目p巨弓プΦ国知司§甘臼旨汀ぺ゜ S oo日p﹂ピ密巴Φ]a5障一窪o古e冨ロ︰弓冨固9ゲ2Ωoo昔H昆伝肯S 鉾 の目巴Hあo巴①ぼ鮎伝けユo°・oパ量冨艮弓冨切︷昌巳ΦH昌命巨時S 仲o。目巴−。・。巴ΦH昆巨日①ω。時音§巨昌Φ国冨日巴。臼岸呂司gΦH昆毒ひq° ↑ρo。目巴−m⇔巴ΦH昆房言一Φω。h汀冨巳昌。国①。9。冨日b]昆伝貫s 右のうち、2及び3は貞次郎自身のものだが、1及び5・10は井口東輔、4は美濃口時次郎、6は 左右田武夫、7は小田橋貞寿、8及び9は子安浩との共同研究である。そしてこのうち小工業関係は のちにオックスフォード出版局から 士 W 弓9cQ匿や ]昆g葺合ωo市輪碧碧“弓9綜Ωぎ司夢p邑OΦく巴8日窪ダぴ司弓巴貸o⇔勺Φ合騨昆巨器8宣8°・’ おωo。 として公刊され.欧米諸国で高く評価された。 六、世界教育会議 昭和十二年八月二日から六日間東京帝大を会場として世界教育会議が帝国教育会︵事務総長大島正 徳︶の主催によって開⋮催された。世界教育会議弍o巳臼弓①臼Φ蚕註o昌oh固臼已o辞江oロ︾器oo■江o昌︵会長コ ロンビア大学教授勺聾巳旨。巳8︶はアメリカに本部があって従来六回開かれており、今回が第七回で ある。この年二月、貞次郎は商業教育部会の委員長に推され、その後たび人\委員会が開かれた。 校から大学に至る教育者約二千名が出席した。 会議に参加した外人教育者は英、米、独、印、フィリピン、カナダなど千人余り、日本からは小学 に 於 け る ﹁商業教育の専門化に就いて﹂︵彦根高商校長矢野貫城︶、﹁中等商業教育の現況﹂︵名古屋女子商業校 このほか日本側の論題および報告者は次の通りである。 貞次郎の﹁我国に於ける商業教育の展望﹂、上田︵辰︶教授の﹁日本商業教育史﹂の講演が行われた。 バース博士、オレゴン大学商業行政部教授ダニエル・ヂーヂらが講演した。第二日は日本代表として と題する講演があり、つ父いてカナダ商業視察官L・S・ベアテイ、ハーバード大学教授アントン゜ 動 活 商業部会第一日は貞次郎の開会の辞にはじまり.田尻常雄横浜高商校長の﹁商業教育と国際親善﹂ 外 学 章 六 第 長市邨芳樹︶、﹁中等商業教育による人格陶冶﹂︵京橋商業校長梶原寿一︶、﹁中等商業教育の実践﹂︵金井 加浩︶、﹁我国女子商業教育に就いて﹂︵嘉悦孝子︶、﹁商業美術﹂︵小林愛雄︶ ﹁世界平和は教育による外ないといふので、各国の教員の会合の機会を作るためにこの会議が創めら 貞次郎によると 脇 れたので、本部はアメリカにある。まとまりの悪い会で具体的には利益もなささうだが、日本として は多数の外国人に国情を紹介するの用をなしたことは確かだ。会議中、日支事変は拡大しつつあった けれども上海戦はまだ始まらなかった。日々戦地へ行く兵士を見送る光景が街頭に現われてゐた。ハ ーバード大学教授OΦ国p器が﹃ナイスボーイを戦争にやるのは惜しい。﹄といった。﹂ この会議で副委員長をつとめた田尻常雄は貞次郎についてその追悼記﹁世界教育会議における上田 君﹂に次のように述べている。 ﹁世界教育会議に付ては、私は一番上田君と関係が深いのであります。⋮⋮無論上田君が座長であり まして会議の言葉は英語であります。あのゆったりした態度でぽつりぽつりの英語で会議を司会され たのであります。悠容迫らない、淀みなく、然もぽつりぽつり司会されて、円満に会を終ったことは、. 私の眼前に彷彿たるものがあるのであります。色んな会議がありますからして色んな事項も会議にか けなけれぽならぬ。却々忙しい。それであるのにあの落着いた態度で一般を抱擁してしまふ。それは 上田君の非常な徳 性 で あ る 。 ﹂ これは追悼会の言葉だから、いさふかほめ過ぎのきらいはあるが.その雰囲気を伺うことが出来る ようにも思われる 。 第七章 学問的成果の集成 纉c貞次郎全集の刊行 一、 とっても一つの懸案だったが、その実現には困難が多かった。第一に商業のベースにのらないこのよ 上田全集の刊行はその編輯代表猪谷善一、山中篤太郎、小田橋貞寿ら門下生にとっても、また私に うな全集を自費出版するとしても、その経費をどうするかが最大の問題だった。第二に記念事業とし て出版するのなら、何も全集とせずに選集とすればいいではないかと云う議論も実際家側から出され ような論議は父の残後三十五年記念事業として昭和四十九年二月からはじめられた。その後八回の全 成 集刊行委員会の論議を経て同年十月に上田会を開いて全集刊行にふみきったのである。委員会はさら の 成 集 た。これによれぽ募金をしてそれに見合う経費で出版計画をつくれぽいいと云う現実案だった・この 果 的 に常任、編輯両委員会に分けてそれぞれの担当を実行した。 問 学 行された。そして他の五巻についても当時収集された原稿が私の手元に保存されていた。この原稿を 幸せなことに昭和十七年に計画された全集七巻のうち、株式会社論、人口問題が日本評論社から刊 七 章 第 基礎として若干の補充をすれぽ前回計画されたままの全集構想が整うのである。あとは現代的立場か ⑳らの解説をつけれぽいいし、その適任者は門下生中に揃っているのである。 ‡ かくて全集七巻は五十年四月に第一冊株式会社経済論を刊行したのにはじまって五十一年四月新自 第六巻 第五巻 第四巻 第三巻 第二巻 第一巻 新自由主義︿解説 山中篤太郎﹀ 日本人口論︿解説 小田橋貞寿﹀ 貿易関税問題︿解説 大泉行雄﹀ 社会改造と企業︿解説 太田英一・松尾弘﹀ 産業革命︿解説 猪谷善一﹀ 株式会社経済論︿解説 青葉翰於﹀ 経営経済学︿解説 末松玄六﹀ ㎜由主義をもって全巻の刊行を終った。全巻の表題および解説は次の如くである。 第七巻 この全集七巻に貞次郎の学問的生涯は集約されている。これらの各巻について解説者の説明を祖述 する前に、貞次郎の学問の概観について諸学者の考えを照介することとする。 二、上田経済学の評価 私はもとより学者ではないので、貞次郎の学問について云々することは出来ない。しかしながら、 貞次郎は学者であり、学問を離れた貞次郎は考えられない。そこで貞次郎の残後、その学問について 語った数人の学者の説を借用して、貞次郎の学問について語ることとする。 三浦新七は貞次郎が兄事した一橋の先輩教授であり前学長だが、主として大学問題を通じての長い 交友の経過を語った後にその学問について次のように述べている。 ﹁以上は大体自分の見た上田君で要は理論的にあらずして実践的であったといふに帰着する。是れ彼 が日本人には理解し難い英国文化の真の理解者であり、一生を通じて新自由主義の主張を捨てなかっ た所以であらう。実に彼の学問は彼の人格の発露であり、所謂身に付いた学問で理智の力に依て人格 から離れて学問の為の学問として独立したものでない。 自分は嘗って、たわむれに﹃上田君、君の学問は思索のない学問だね。﹄と云ったことがある。⋮⋮ 元来思索すると云ふ事は普通の意味に於ては、個々のものの存在から離れて個々のものを、いは父理 の 中に入った部分丈を其固器。暮宣︵理論︶となすものである。かう云う学問をする為には上田君は余り 成 集 性の平面に投影せしめて其写った限りに於いて、其平面に於て。Q竃9白︵体系︶を作り、其OQ竃審日の 学 る。 果 成 にも個々のものに対する喜びが強い。自己が不可分の独立主体であると云ふ体験が余りにも明白であ 的 問 章 兎に角、此主体を中心とし、其行動を偽りなからしむる為に事物の真相を知る。固器゜暮寅︵理論︶ 七 第 に非ずして、物の国邑啓。塁皆︵存在︶を知る。題8︼富日9︵理念︶にあらずして閲。p﹂富日伝︵実践︶ の学をする。の笥ざ日︵体系︶を作る為にあらずして、それが実際の民8°・↑巨宮ざp︵構造︶に於て、 阻何処から動力が出て、どういふ経過で実際が動くかといふ見地から学問をしたのであらう。﹂︵﹁故上田 学長の学風i学問と実際の融合﹂一橋新聞、昭和十五年六月︶ 成 猪谷善一は全集第三巻産業革命の解説において、﹁一流経済学者たるの要件は一身にして理論・政策 てた一人であったと思う。﹂︵﹁上田貞次郎﹂﹃師・友・書籍第二輯﹄昭和十七年︶ ら段々実行が困難になって行くことであるが、上田博士は少くも経済学の範囲内で常にそれを心がけ 柄について何物かを知り、或事柄に就いて凡ての事を知るということは、誰れも其必要を承知しなが ある。この事が上田博士をして、専門学者の屡々陥る判断の偏向ということを免れしめた。凡ての事 であり、弦に境遇と本来の興味とが相伴って段々博士の学問的眼界を広くして行くことになったので 義を担当したことは、一には学校の都合もあったろうがまた明らかに博士がこれを辞さなかったから 商業史、貨幣論、経済原論、商業政策、財政学、近世商業史等の多きに亙っている。斯く多方面の講 持っていた。今、年譜の記すところを見ると、商科大学その他で博士の講義した主題は、商工経営、 は普通にいふ国民経済学と私経済学との両部門に亙る研究に従ひ、非常に多くの主題に就いて意見を えた。⋮⋮最近二三十年の我が経済学者で上田氏ほどに多方面の素養のあった人は少いだらう。博士 ち、知識を知識の為めに求めるのでなくて、経世の用をなすものとして之を探求するといふ態度が見 ないが、上田氏にあっては、常に経世老の立場から物を見、また考へるといふところが窺はれた。即 といふやうな言葉が当てはまると思ふ。勿論研究は常に真実を掴むといふことが目的でなければなら 最後に博士の学風ともいふべきものについて三言すると、学風はプラグマチック、リヤリスチック 政策殊に社会問題であった。、 付けられることが多か・た・私膣営学は不案内であ・たから、専ら故人と談論したのは、一般経済 が、自分でも書いてゐる通り︵﹁経営経済学総論﹂序︶却って経済政策及び社会問題の方に興味を惹 ﹁経済学者としての上田氏の最初に力を入れたのは経営学で、本邦に於ける此学問の建設老になった 出来た。 大学講堂で行った講演の一節である。私も幸にしてこの講演会に参加して小泉博士の話を聞くことが 間柄で何度か貞次郎に関して論評をしている。次に述べるものは貞次郎の一年祭のとき、国立の商科 小泉信三は貞次郎よりは十歳の年少であるが、前述の通り紀州徳川家を通じて親しく交友を持った 犯 これと同趣旨の講演を私も聞く機会を持ったので、今もその印象は残っている。 集 の ・歴史に関する綜合的独創的知識を所有することである。上田貞次郎先生はこの要件を備えた明治・ 七 学 臭味の多い学者の中にあって数少ない独創的知識の所有者であった。﹂と書いている。 昭和五十四年八月︶の解説では﹁上田先生は明治・大正・昭和を通じて日本経済学者に見られる翻訳 果 成 的 大正・昭和を通じての数少い経済学者の一人であった。﹂また、英国産業革命史論︵講談社学術文庫、 問 章 第 ﹁最後に特記しなけれぽならないのは、先生が﹁考える﹂学者であったことである。そしてこのこと. 山中篤太郎は貞次郎の二十五年祭にあたって評伝を書いたが、その中で次のように述べている。 13 2 こそ、先生を日本の経済学の指導者の中で際だって特色づけるものであると私は考える。大正中期以 降の先生の学問に明白に現われだしたように、﹁現実﹂の日本経済の中に立って社会経済的な﹁問題﹂ 狙をとり出し、これを﹁考える﹂ところに先生の研究が方向づけられている。この﹁現実的﹂﹁問題音心 識的﹂﹁考え方﹂は、日本資本主義の成長そのものが提出する問題を前にして、人間のための経済、 人間からみて人間に帰る経済という社会観の動きの表現であり、その動きは、さきの自由人の社会へ の愛着、尊重をその底にひそめている。⋮⋮三浦新七博士は先生も是認した獲難き学問上の論友であ り、遇えぽ学問を論じあって尽きなかった。三浦博士が概念を厳密にし、理論的であるのに対し、先 生は実行的具体的であることを誇っていた。先生残後三浦博士は、わたしに﹁上田はデンケンしな い﹂と語られている。しかし、日本の問題と共に歩み、﹁考え﹂の独創の中に進んでやめなかった上 田経済学の特質はまさに独歩のものたることに変りはないから、他のやふ年若き一友︵小泉信三博士︶ は、思想的、学問的に年をとらず、老人らしく心の硬化しなかった学者だとしている。﹁考える﹂学 老であってこそ、かくあり得たのであり、ここにもまたとらわれざる自由人としての先生の真面目が 貫かれていたのであった。﹂︵﹁上田貞次郎先生﹂﹃一橋論叢﹄昭和四十年四月︶ 大正九年︵一九二〇︶三宅雪嶺が主宰する雑誌﹁日本及び日本人﹂が﹁百年後の日本﹂という特集 で、当時の代表的知識人三百数十名にアンケートをもとめた。これに対して貞次郎は﹁平均年齢百二 十五才﹂をもって次の如く答えた。 ﹁産婦は皆国家の保護に依り、充分の手当を受くるに依り、生れた子供は健康にて、幼児死亡率零に 近く、義務教育は幼稚園より始めて、十六才まで継続せらる。而して優秀のものは、男女共国家の費 用にて、中学、大学に入り、卒業の後、社会の指導者となる。優秀ならざるものも、二十才まで補習 教育を受け、完全なる市民となる。労働時間は四時間に止り、其余暇は文学芸術運動遊技に費さる。 男女普通選挙はいふに及ぼず、産業も皆国有公有となり、従業者の自治に依りて経営せらる。衛生の 進歩に依り、伝染病は絶無となり、人々皆健康長寿にして、平均年齢は百二十五才に上る。﹂ 増田四郎は五十五年後にこの短文を再発見して﹁それは決していま流行の思いつき的のビジョンで もなけれぽ、単に統計的・機械的な分析でもなく、先生の哲学、先生の身につけた学問からの責任を もっての発言である。三百数十名の返答の中で最も光っているのが先生の予想であることがわかる。 の 確な事実認識をふまえての識見であり、内に社会哲学を蔵したたくましい知恵のことなのである。つ 成 真の実学とはこういうものなのであろう。それは理論とものの考え方とをしっかりと身につけ、的 集 学 を、先生は如実に私たちに示されたように思えてならない︵﹁全集の栞﹂昭和五十一年一月︶ 果 成 的 ぎつぎにあらわれる新学説を紹介するだけでは、いつまでたっても身についた学問にはならないこと 問 章 以上の諸氏はいつれも大学者であり、その論評には一部重複するところもあるが、上田経済学の本 七 第 質と特性、またその現代的意義について充分論証しているように思える。 ﹁顧れぽ、余が学究生活に入ってから三十年の間に研究に身の入った時期は三回あった。第一は、留 貞次郎は自分の学問には四つの時期があったと次のように述べている。 鵬 学から帰って商工経営︵の講義︶を始めた時である。その結果、株式会社経済論が出来た。次は、英 魏国産業革命史の時代。次は﹁企業と社会﹂を出し新自由主義を唱へた時だ。 今回は四回目になる。余は国際経済会議に行った前から自由通商を日本の国策にせねばならぬと考 へていたが、その理由は、日本の如き人口多く資源乏しき国で自足自給は出来ない。宜しく島国たる 地位を利用して商工業国になるべしというのである。 けれども今まで日本の人口について精しい研究をしていなかった。工業貿易の可能性も具体的には 研究していなかった。その事が満州事件の為めに益々重要問題と考へらるるに至ったのである。 何時までも若い元気はない。今回が最後の高潮時代となるだろう。﹂︵﹁日記﹂田、昭和七年五月︶ 貞次郎の学問的生涯はこの回顧と展望に示されているが、その基礎をなすものは東京高商、東京商 大で行った講義だろう。貞次郎は明治四十二年以来第二回留学︵大正ニー三年︶、海外出張︵昭和三ー 四年︶の二年間を除いて二十六年間商工経営を講じた。また大正三年末に第二回留学から帰朝して、 商業政策の講義を始めてから、昭和十一年まで断続的にではあるが十数年同講義を継続した。そのラ イフワークとも云うべき成果が、前者は商工経営︵昭和五年︶となり、さらに改訂されて経営経済学 総論︵昭和十二年︶となった。また、後者は商業政策︵昭和五年︶、最近商業政策︵昭和八年︶として 刊行された。この二本の大木から貞次郎の云う学問上の高潮第一期に株式会社経済論、第二期に英国 産業革命史論及び社会改造と企業、第三期に新自由主義、第四期に日本人口政策が刊行され、これら の著書が全集全七巻の主軸をなしているのである。 私は全集各巻の解説者が述べるところをさらに要点だけかいつまんで紹介する・各巻には主要著書 のほか関係論文が収録されているが、紙面の都合もあって、ここに挙げるのはその柱となっている主 要著書に限らざるを得なかった。 三、経営経済学︵第一巻︶ 昭和五年の夏、貞次郎は軽井沢の山荘で商学全集の一巻として発刊される商工経営を小田橋貞寿に 口述した。商工経営は東京高商、東京商大を通じて貞次郎がすでに二十数年にわたって講義していた した。 一ヶ月余の間午前と午后と二時間宛口述して商工経営は完成した。この項目だけのノートは私 を貞次郎に提出して参考に供したのだが、貞次郎はそれにもこだわらずに講義口調でゆっくりと口述 ろどころ簡単な説明が鉛筆で書かれているに過ぎなかった。小田橋は自分が学生時代にとったノート の 貞次郎の持っていた商工経営のノートは項目だけは書いてあったが、各項目とも殆んど白紙で、とこ 成 のだから、その構成も内容も細部まで出来あがっていた筈である。ところが、小田橋が驚いたことに 集 学 果 成 的 問 章 七 第 の手元にあったが、昭和四十八年一橋大学図書館に日記その他のノートと共に一括して寄贈した。 ﹁顧れば著者が始めて経営学の建設に志したのは今から三十五年前東京高等商業学校に在学した頃で 商工経営は若干改訂して昭和十二年に経営経済学総論として刊行された。その序に曰く。 脚 あった。最初の欧州留学から帰って同校に﹁商工経営﹂の講座を開いてからでも既に二十八年になる. 魏当時は欧州においても二三の国に商科大学が始めて設けられ、少数の学者が経営学の旗揚げをなした 時代であって、その研究は形式内容ともに頗る不備であった。バーミンガム大学のアシュレイ教授の 学風は著者の比較的最も多く共鳴したところであったが、或時独逸の経営学につき色々話し合った際 に、経営学は何れの国でもまだ少しも一定の形態をなしてゐないのだから、君も他人の真似をせずに 独創的に考へたらよからう、といはれたことを今日も記憶してゐる。かような次第で、経営経済学の 研究及教授が、日本でも外国でも非常に盛んになった今日に至って昔を顧れば、実に隔世の感がある。﹂ 経営経済学総論の内容を解説者末松玄六にしたがって紹介すれぽ、次の通りである。第一章は経営﹁ 経済学とは何かで、主として価格を研究する社会経済学にたいして事業の経営を研究するのが経営経 済学であるとする。企業ではなくて事業とするのは営利事業としての企業に限らず、国や地方自治体 の事業はもとより、社会主義社会でも物資および勤労を獲得するために最少の費用で最大の効果をう るための経済的工夫が必要である。経営は人類永遠の問題であって営利、非営利を超越している。 さらに経営とは経営することであり、事物を組織的計画的に処理することを意味する。経営経済と は一っの統一した意思の下に体系的に行われる経済上の組織である。 第二章は企業、経営、経営経済などの概念をさらに明確に整理している。ついで企業の発達を論じ、 商業資本主義、工業資本主義、金融資本主義の三段階に分けて、資本主義的大企業の成立を明らかに する。 第三章は工業経営で、手工業.家内工業から、分業と合成の利益を利用する工場工業への発展とと もになおとくに我国に残存する中小工業のあり方、工業組合などに論及する。 ついで工業経営の規模及構造さらに工場管理の問題で産業合理化、科学的管理法、賃銀制度、標準 化の問題に言及する。 第四章は商業経営で生産者と消費者を結びつける商業の経営問題を取扱う。この場合商業の配給機 能と現代流通社会に必要な市場危険の負担、金融、貸倒れの危険負担等に分けて考察する。 また商業の経済性を追及して中間商業である卸商や問屋の機能が工業の発達とともに縮少してゆく とを説明する。 ンピングのような価格政策は固定費が生産の多少に拘らず、一定しているために企業として引合うこ 正しく計算して利潤の獲得を図ることが最高方針であるとする。原価の分析では固定費を重視し、ダ 第五章は企業の財政を取扱う。ここでは資本ならびに資産の構成、損益計算を重視して企業収支を 成 ことに注目する。さらに小売業の問題として連鎖店や小売店対百貨店問題、消費組合にも言及する。 集 の 学 果 成 的 問 章 七 第 また企業の存続にとっては市場価格変動のリスクをコントロールすることが重要であるとして、市 価変動の影響を分析する。 犯 第六章は会社制度で、すでに株式会社経済論で明らかにした財産の流動化、証券化、重役制度の成 成 集 果 成 的 問 学 立、家計と企業の分離をこの制度の三要素とする。そして大衆資本の動員と専門経営者を可能にした 工経営﹂の講義をはじめたときの原点である。このときすでに経済学を次の如く分類した。 ﹁日記﹂nに収録した。この草稿に盛られた考え方が、明治四十二年帰国して東京高商専攻部で﹁商 月に﹁商事経営学に関する意見﹂を松崎校長に提出している。この草稿が私の手元に残っていて、 貞次郎は明治三十八年、政府から留学を命ぜられて経営学を勉強するため英国へ渡った。その年の三 貞次郎が経営経済学総論序文で云っている学生時代の構想をいま詳らかにすることは出来ないが、 用を重視する営利事業になお広い領域が残されなけれぽ円滑な物資の生産配給は出来ないと考える。 社会主義、共産主義でも実際には千編一律の計画のみで経済運営を行うことは困難で市場と価格の作 織の改造を求めるものはイデオロギーの如何を問わず必ずこの問題を解決しなけれぽならなくなる。 度の能率を用意する必要がある。合理的経営は如何なる時代においても社会の必要事だから、社会組 いるのだから、社会主義など新しい生産機構をもって営利企業に換えたいならぽ、現在の企業と同程 現代の資本主義的企業は漫然と利潤を収めているのではなくて、経営経済の計画指揮を職能として なけれぽならぬとの考へ方を主張している。 の研究のみならず、非営利事業としての協同組合、公共事業の経営問題を研究し、合理的運営を考へ 営は体制の如何に拘らず、経済生活に必要な根本的事実であるから、経営経済学は営利事業たる企業 第八章は企業の社会化で、﹁社会改造と企業﹂﹁新自由主義﹂などの著書にみられるように、産業経 る方向に向っていることを指摘している。 害を取締るが、他方で独占企業間で公正競争が維持されて甚しい弊害が起らない限りその存在を認め また、各国の反独占政策においてみられるように企業の独占価格の形成や不当競争の強制などの弊 いる。 トは過度競争を排して販売費を節約し.不良工場を整理するなど経営合理化の手段たりうると論じて 関としてのトラストに比べると、産業合理化の手段としては薄弱であるとする。これに対してトラス 不良企業を存続し、陳腐な生産方法を維持することとなるので、価格機関としてのカルテルは生産機 売のコストを節減するようになる。カルテルは市場を独占して価格を不当につりあげるし、その結果 大規模経営が発達してその数が少くなれば、企業連合としてのカルテルが発生して生産ならびに販 第七章は独占すなわちカルテル・トラスト・コンツエルンを問題としている。 ㎜株式会社が企業形態の本流をなして発展したことが現代社会の大きな特徴であると指摘するのである。 の 七 ﹁余は此の商事経営学が独り商業のみならず工業の経営をも併せて研究すべきに付て、;口云わざる ∴鷲竃靖[諜ぱ繋ジ[⊇ 章 第 宏 鋲 ’ べからず。⋮⋮余の意見によれぽ経営の点より見れば、商業と工業とは之を区分するの必要なくして、 ﹁余は又商事経営学と計理学︵アカゥンテイング︶との区分を説かざるべからず。計理学は簿記より 鋤之を併せ研究するに於て大なる便宜を得るものなり。﹂ 出でたるものにして、金銭上の計算を離れては存在せざるものなり。 経営学は個体の経済学なり。計算を離れて存在するものなり。主として人の経済を研究するものな り。﹂ また、﹁商事経営学の内容﹂として﹁前に掲げたる米国大学に研究せる﹃トラスト・フイナンス﹄ の要因は其解答の一ならん。英国バーミンガム大学の﹃ビジネス・ポリシー﹄の要目は適当ならん。﹂ ﹁商事経営学講義要領 曙セ︵商事経営の研究を必要とするに至りたる事情Y 一、 二、企業の発達︵主として商事経営者の着眼点より論ず。歴史派経済学者の研究を直ちに転用するに 非ずして、日本の現状と先進国のそれとの比較︶ 三、資本の放下及整理 ◆ 資本金の調達、株金、新株、社債、積立金、自家保険、固定資本及運転資金、信用 第一 大企業の発達︵章の細目は略す、以下同じ︶ 第二 商事経営 一、資本の放下及整理 二、事業遂行の組織 第三、大経営と社会問題﹂ この意見に盛られた講義案は、留学中にも内容を充実して四十二年に帰国後、はじめて行った商工 経営の講義に引きつがれた。そして最後の著述となった経営経済学総論を見てもわかる通り、その項 目はほぶ同様であって、若干のちがいはあっても三十年近く引つづき反覆講義されたのである。 さきに小田橋は講義ノートの白紙同然なのに驚いたと云うが、明治四十二年の﹁商事経営学とは何 の 年から大正二年までの株式会社に関する諸論文とその集成である﹁株式会社経済論﹂などはそのまま 成 集 ぞや﹂、四十三年の﹁企業及経営の意義に関する疑問﹂、同年の﹁工業の規模及組織﹂、ついで四十四 七 学 さて昭和四年の秋、貞次郎は金子鷹之助との会話の中で﹁私は学問をはじめてから、大学で商工経 さらにごふから出発した諸問題について幾多の論文が発表された。 時代とともに発展したものと見てよかろうと思われる。したがって商工経営の講義自体はもちろん、 果 成 的 商工経営の講義内容をなすものだから、講義ノートにこだわらなくても講義内容は早くより構成され、 問 章 第 営を講義して来た。そしてこれを生涯の仕事として完成したいと思って大切にしてきた。しかし自分 脇 の力では商工経営の学問としての完成は出来ないことがわかった。だから、今度商学全集の一巻とし . 2 て発表することにした。Lと語っていたのを私は今でも覚えている。 貞次郎が亡くなってから数年経っていたから、多分昭和十七年頃と思う。貞次郎のゼミナール出身 24 で﹁日本中小工業研究﹂︵昭和十六年︶の著者小宮山琢二は﹁上貞のライフワークと云えぽ何と云っ ても経営経済学だ。商業政策は資料の収集だし、人口政策は数字の集約だし、新自由主義は時事論文 だ。そこへ行くと経営経済学は理論と現実とがマッチしてすきがない。とくに独占とか、企業の社会 化などは現代経済学中の圧巻と云っていいのではないか。﹂ 私は小宮山の評価に同感して、当時王子製紙の会社員だったが貞次郎のこの著書を読みなおしたり した。その後戦後の経営学ブームに際会してこの著書などは一部の研究者を除いては忘れ去られたも のと思っていた。た父、ときたま旧友など意外な人から貞次郎の著述について聞かれたり、質問され たりすることがあった。もとより学者でない私がこれについて兎や角云うべきでないのでその内容に 触れることはなかった。全集の刊行にあたっては解説老はもちろん編輯委員会でいろいろの論議がな された。このときにも私は貞次郎が金子に語った言葉と小宮山が私に語った言葉を思い出した。この 二つの言葉は私にとっては今でも貴重な評価として脳裡にやきついていてかわらないのである。 上田全集の﹁経営経済学﹂︵第一巻︶の解説者末松玄六は﹁経営経済学総論﹂について次の如く述 べている。 ﹁経営経済学総論はたしかに古典的名著であるが、これは今日のわが国の企業が当面する経営の問題 ● の解決に重要な道標を提供している意味においても現代になお生きているといえる。 国鉄、公団、事業団、専売事業、農業団体の経営問題はもとより、俄かに深刻化してきた地方自治 体の財政危機の打開を欲するものは、上田経営学の主張する合理的経営のエッセンスを吸収すべきで ある。解説者もまたソ連、チェコ、ハンガリー、ルーマニア等を視察して社会主義国の方がむしろ経 営学を熱心に研究していることを知った。 独占の弊害だけを糾弾して、それがかえって競争的市場機構の安定に役立つとともに中小企業との 共存を可能にしていることを見落している世論も、本書から一つの反省材料を汲みとるべきではない か。他面において寡占的企業も国の統制を招く前に社会一般にたいする責任を果してマーケット・メ 四、株式会社経済論︵第二巻︶ 集滅 カニズムを守り抜くだけの気合に徹すべきであろう。﹂と指摘している。 の 的 果 成 ﹁上編 株式会社の歴史 哲三の協力があったと聞いている。この内容は 論文が多いが、さらにその成果をまとめたものが﹁株式会社経済論﹂である。この書の作成には太田 ︵大正二年︶に至る約五年間が貞次郎の云う学問研究の第一期である。この間、商工経営に関する諸 学 貞次郎は第一回留学から帰国して、母校で商工経営の講義をはじめたのだが、これから第二回留学 七 問 章 第 2 25 中編 株式会社の本質及び組織 序文で次の如く述べている。 貞次郎は大正十三年、東京銀行集会所で﹁株式会社の現代経済生活に及ぼす影響﹂と題して数回の 改訂増補には増地庸治郎が協力した。 寧ろ本文の改訂を断念して今後の研究の結果は之を付録論文中に収むるを可とせんか。﹂とある。この 立場に帰って唯時勢の変遷に応ずるだけの改訂を行わんとするも亦一層の難事なり。止むを得ずんぽ したりし当時の旧著を此の新しき見解の下に改訂せんことは非常の難事たるのみならず、暫く旧時の するは、一般経済学の広汎なる立場より企業を見んとするものなり。故に専ら企業内部の関係に没頭 したりしも、ついにその事の不可能且つ不必要なるを感ずるに至りたり。今日著者の商工経営論と称 ﹁本書第一版執筆の頃までは、商業経営学を一般経済学より引き離しで独立の一学科となすべく努力 ネ コ その後、改訂のためしぽらく絶版となっていたが、大正十年に改訂増補第六版が刊行された。その る。 が認められて頁次郎は学者としての地位を確立し、のちに博士会から法学博士に推せんされたのであ についての特色ある研究として発行の年に四版を重ね、大正五年には第五版を出した。そしてこの書 り、その形式と実質について福田徳三、関一両博士との問の論争ともなった。またこの本は株式会社 この経済学的立場からみた株式会社論は当時の法律学的な株式会社論からすれば目新しいものであ 第三、有限責任ということ、すなわち企業の個人からの独立が特色である。﹂ ち資本と経営の分離が第二の特色である。 第二、重役制度で、出資者が自ら会社営業の実際に関係せずして之を重役に一任すること、すなわ なわち資本の動員は株式会社の最も著しい特色である。 第一、証券制度で、出資の証として株式を発行し、之を売買譲渡の自由なものとしてあること、す 大正二年﹁国民経済雑誌﹂に発表された論文をもととしている。その要点をあげれば、 の三編から成っており、その骨格をなすものは中編である。そしてこの﹁株式会社の形式と実質﹂は 祝 下編 株式会社の財政 七 成 中に数頁にわたって貞次郎の文章を引用している。 この著書は左翼的な経済学研究者からも注目を受け、例えば河上肇は﹁経済学大綱﹂︵昭和三年︶の 大な問題となろうと結んでいる。この書は昭和三年に﹁株式会社論﹂として単行本となった。 マン︶の発達を述べて、これらの新しい中産階級の精神が如何なる方向に動いて行くかが、文明に重 の う章を設けた。ここでは資本主義と株式会社の関係を説明し、不労所得の増加や民吏階級︵サラリー 成 集 連続講演を行った。これには﹁株式会社経済論﹂の要旨説明から発展して、株式会社と社会問題と云 果 的 問 学 章 第 なお、全集第二巻﹁株式会社経済論﹂の解説者青葉翰於は﹁今や株式会社は現代経済社会における 脚巨人である。昭和五十年一月経済同友会が発表した年頭の見解﹃試練に立つ五十年代経済と企業の対 応﹄は自由経済下の社会と企業の調和をテーマとしている。最近わが国で特に問題となっている﹃経 祝済社会の発展における企業の役割と社会的責任﹄の検討について、上田先生の多年の研究に基く識見 は多大の参考となる で あ ろ う 。 ﹂ と 書 い て い る 。 械、動力の発明にありとし、これのもたらした人間関係の発展のあとをたどったものである。なお、 この著書は英国における約百五十年の近代経済史を論じたもので、まつ、産業革命のはじまりを機 .........﹂ を以って見れぽ英国の産業革命史は今の日本の為めに必ず何かの暗示を与へ得ることを確信して居る。 で、寧ろ読めば読む程、考へれば考へる程、国民性の相異の大なることを感ずるものである。唯史眼 ⋮⋮尚ほ余は決して英国の歴史的な発達が必ず日本に於いて繰返さるべしと考へて居るのではないの 口高等商業学校並に文部省や協調会の講習会に於いても試みたがそれを補綴したのが本書である。⋮ を且研究し、且講義することを始めた。其講義は東京商科大学で繰返した外に小樽高等商業学校、山 眼前に見て深く考慮したが、終に英国の産業革命及之に次いで起れる新実業階級及新労働階級の歴史 一九二〇年の春、余は華府に於ける第一回国際労働会議から帰って以来、右の如き思想界の紛糾を る現今から見れぽ実に夢の如くである。⋮:⋮:: に驚き、又如何に危険思想の急速なる伝播を怖れたか。一度不景気の大波に洗はれて人心の沈静した 主義者が如何に得意になって新しき﹁イズム﹂を振廻したか。而して世人は労働運動の突如たる出現 謳歌した人々が、露独換三帝国の瓦解を見て如何に狼狽したか。又前には非国民の如く罵られた民主 とは如何に健忘症な人でもよもや忘れはしまい。戦争中独逸の必勝を信じて公然又は隠然軍国主義を 二九一八年十一月欧州大戦争の終了してから数ヶ月の間に我日本の思想界が非常の変動を為したこ 貞次郎の産業革命史研究の主著、﹁英国産業革命史論﹂の序文は次の如く述べている。 五、産業革命︵第三巻︶ する。 この現代的な課題については、経営経済学の項でも言及しているので、ここには重複を避けて省略 の び講談社学術文庫版︶によって内容を紹介する。 成 この著書の作成には猪谷善一が浄書、校正、索引を引受けた。以下主として、同氏の解説︵全集およ 集 機械に必要な製鉄法の発明、さらに製鉄に必要な石炭を掘る際に用いるポンプ、これら総てに用いる 働問題の発生原因と見なしたことの紹介からはじまっている。この変動は紡績及び織物機械の発明と 三〇年に亘る六、七十年間において英国に起った産業上の変動が、現代文明世界の最大の難問たる労、 果 成 第一章産業革命はトインビーが名著﹁英国における第十八世紀の産業革命﹂で一七七〇年から一八 七 学 的 問 章 第 動力としての蒸汽機関の発明改善が発展して産業の大革命が起り、新実業家階級と労働者階級が発生 ㎜した。他方鉄道および汽船が発明されてとくに一八四〇年代には英国で鉄道が盛に建設され汽船が大 西洋を横断した。すなわち交通および商業の革命が起った。これらの革命は実業家階級には富を、労 法を通過させたのである。 地主を有力メンバーとする下院は新興実業家階級に反撃して一八四七年十時間労働を基調とする工場 由貿易論者は一八四六年地主擁護法である穀法を撤廃して労働者階級に安価な穀物を提供した。また 守主義の信念から温情をもってその解決をはかろうとした経過を説明している。マンチエスターの自 第五章温情と自主は労資の対立が激化した中でも新実業家階級は自由主義の立場で、また貴族は保 が、一八五〇年代から地道な職業別クラフト・ユニオンに転化して行くのである。 経済面の階級闘争は労働組合運動として展開し、はじめロバート・オーウエンによって率いられる た。 三九︶、第二回︵一八四二︶、第三回︵一八四八︶にわたって大運動を展開するが、それ以降は衰退し 級闘争は政治面では普通選挙権の獲得を目的とするチャーテイズムだった。この運動は第一回︵一八 第四章階級闘争で産業革命の結果発生した新実業家階級と労働者階級の間の闘争を書いている。階 たことがあってもそれは過渡時代の一時的現象であった。﹂とするのである。 て、労働者の生活は産業革命のためけっして低下せずかえって向上しているのである。かりに低下し いうごとく、富老ますます富んで貧者はますます貧になるということは歴史の否認するところであっ 第三章労働生活は産業革命の労働者に及ぼした新影響を分析する。その結論は﹁かの社会主義者の 場するのである。 年の選挙法改正によって旧来の貴族に対して新興実業家階級が拾頭し、さらに社会主義者が議会に登 また政治上ではベンサムが最大多数の最大幸福を称えて貴族富豪の特権に反対し、とくに一八三二 貿易の育成をはかった。一七七六年、アダム・スミスの﹁国富論﹂はこれらの特権会社を攻撃した。 また救貧法によって農村で農民一撰の防止をはかった。他方、対外的には東印度会社を設立して特権 からはじめる。この議会主義は貴族的議会制度で、国内的には徒弟法によって産業の秩序化を計り、 第二章自由主義は英国における自由主義思想の発達を名誉革命︵一六八八︶による議会制度の確立 即働者階級には貧困をもたらし、是が現代の諸問題を生じた所以である。 の 八世紀北部地方の国立教会にあきたりない分離派の教会組織から出た。これが基礎となって十九世紀 成 第六章組合精神は十九世紀後半に労働者運動の根本となった組合精神を語っている。この精神は十 集 調を続けた。一八七三年以降の三〇年間世界経済は不況となり、これを背景として新労働運動がおζ 第七章は社会主義について述べている。 一八四〇ー七〇年にわたり英国経済は世界の工場として好. 全盛時代で、一般経済生活の向上とともにこれら自助的組合が多数発達した。 果 成 後半には消費組合、友愛組合、建築組合、労働組合が発達した。一八五〇ー八〇年は英国自由主義の 七 学 的 問 章 第 り、一般労働大衆の組合化が活澄となった。英国では一九〇六年の総選挙で二十九名の労働者出身代 劉議士が国会に送られた。彼等は労働党を組織して、従来の二大政党、保守党、自由党についで第三党 となった。労働党の理論的背景はマルキシズムではなくて一八八四年設立のフエビアン協会であり、 乏∀ ﹁社会改造と企業﹂ははじめ大正十年に下出書店から出版されたが、これに数篇の論文を追加収録し 六、社会改造と企業︵第四巻︶ ある。 二十世紀初頭の英国労働組合立法で、前記史論の各章で簡単に扱われた史料をさらに詳論したもので ト・オーウエン、第五章カーライル及ミルの産業論、第六章第十九世紀中葉の英国労働組合、第七章 のチヤーテイスム、第二章フランシス・プレース伝、第三章シヤフツベリー伯の生涯、第四章ロバー もにのちに改造社経済学全集に﹁産業革命史﹂として再版された。その内容は第一章階級闘争として 英国産業革命史論の姉妹篇として産業革命史研究︵大正十三年︶が出版された。この本は史論とと これにほかならぬ。﹂のである。 者も自治協同の途を歩んできたのである。﹁英国における百五十年の歴史から学びうるところもまた ど・‖ もその理想は達成されなかった。資本主義の道は険しいが、企業家はその随路を開拓してきた。労働 ョン・スチュアート・ミルは労働者生産組合による産業民主制の必然性を信じた。しかしながら何れ カーライルはキヤプテン・オブ・イソダストリーに夢を托し、いわぽ実業的封建時代を信じた。ジ で発言権をもつに至った。 また、労働組合も発展して、労働時間、賃金に対する団体交渉権から、さらに進んで産業管理にま 化を実現した。 都市公益事業など私企業に対する公益事業が出来て,水道、瓦斯、電気、都市交通などについて社会 範囲は消費物資に限られ、生産財には及ぼず、また海外貿易に手をのぽすには至らなかった。他方、 出てきた。一つは消費組合運動で一八四四年以来発展して組合国家の理想をもつのだが、その成功の 的経営が資本主義社会を形成し、またその弊害をもたらした。これを打破するために二つの改革案が 第九章企業と労働は以上述べた諸章の総括とも云える。すなわち、産業革命の原動力となった合理 りとする説が出て、社会主義にギルドソシアリズムとして新しい色彩を添えることとなった。 理の要求が現れた。第一次大戦によってこの論議は中断されたが、戦後労働者代表の経営参加を可な 第八章は産業管理で、政治上のデモクラシーに対して産業上のデモクラシーとして労働者の産業管 祝議会主義による漸進的社会立法をもって社会主義社会の平和的実現をはかったのである。 の 成 集 果 成 晒 った幾多の社会主義論が見落していた企業者の職分を設定した独創的論文として今に至るまで評価さ 都 て大正十五年同文館から新装再版された。この巻頭論文﹁社会主義と企業者の職分﹂は当時賑やかだ 樟 ﹁自分は今の企業者の才幹が社会主義の来ると共に無用にならぬのみならず却って益々重要になるこ 第 れている。 聯とを固く信じている。是が本篇を草する所以である。﹂現代の資本主義においては実業家は営利のため に働いているとしてもその生産組織の運営に秀でた才幹をもつ企業者及びその高級使用人、俗に云う 蹴実業家は社会主義社会でも必要である。彼等の才能は社会主義の社会にあってもその生産能率を維持 するために活かされなけれぽならない。また、公営に適しない企業もあるはずである。と主張する。 ﹁実業家が営利以外の動機によって動きうること、特に﹃創造の動機﹄又は社会奉仕の動機によって 動きうることが社会主義を可能ならしむるのである。﹂そしてこのような人材はすでに株式会社によっ て用意されつつある。けだし﹃株式会社制度が現代の経済組織に与える所の一特色は企業者職分の分 担であるから﹄であり、将来の社会では個人株主が消滅して、重役は株主の代理でなくして、公共団 体の代理として経営に当ることになる。 次いで社会改造の速度については漸進的であろうと述べ、官公事業の非能率とその改良策にふれた のち、民間事業のまま社会化する方途、すなわち公益事業の特許と監督を提案する。最後に社会化の 困難な分野の存在することを明らかにし、かかる分野の企業に対する政策に言及したのち、大型化し た私企業の成敗は数万人の生活に大きく関係することになったとしてその社会的責任を説き、今や実 業家の地位もまた﹁一介の町人にあらずして天下の公人とならねぽならぬ。﹂と結んでいる。 以上の通り、企業家の職分が﹁体制﹂を超えて必要とされるという認識は長年にわたって商工経営 を研究して経営幹部たるべき青年を教育してきた貞次郎にとっては当然のことだったと云える。 この論文とほぼ時を同じくして英国ではトーネーの﹁獲得の社会﹂︵巨ρ巳㏄巳くΦoQ8声Φ盲︶が企業者 の職分を重視した見解をもとに出版されて版を重ねた。トーネーが企業者の職分を認めている点では 一致しているが、産業管理を労働者の団体に任そうとしている点についてはウエッブと共に﹁民主制 は今尚政治的にも産業的にも幼稚の時代を脱していない﹂ことを理由にギルド社会主義者トーネーを 批判している。 労働者による産業自治については﹁労働者生産組合﹂︵一九二一年︶でギルド社会主義を﹁一種大 規模の生産組合﹂であるとみて、生産組合百年の失敗をただ大規模に産業間の利害対立という形で繰 返す危険が大きいとみるウエッブの見解に与する。消費者については﹁ジード及ウエッブ両氏の消費 組合論﹂で、両氏は消費者の団体こそが適切な産業管理者であると主張するが、両者ともに現実性に の さらに社会主義的改造に対する批判者としてマーシャルとウヰザースを取上げ﹁社会主義的産業組 成 かける点を指摘している。 集 七 回国際労働会議の顛末﹂︵大正九年︶、﹁国際労働会議の由来﹂︵大正十一年︶の諸論文が収録されてい 会政策﹂︵大正五年︶、﹁官業会計法一新の急務﹂︵大正六年︶、﹁小工業問題研究﹂︵大正七年︶、﹁第一 問 以上の第一部の論文に加えて第二部では﹁英国に於ける最近の社会政策﹂︵大正三年︶、﹁租税と社 学 果 成 的 織に対するマーシャル博士の批評﹂と﹁ウヰザース﹃資本主義擁護論﹄を読む﹂を載せている。 章 第 る。 猫 右のうち、﹁小工業問題研究﹂は、小工業小農は決して一部論者の主張するように消滅することな く存続すること、ただし存続の理由を失う小工業や家内工業も少くないが、これらに中産階級又は家 鰯庭生活の確保という名目から保護を加えることは時代錯誤の政策であること、存続の理由をもつ小工 業、家内工業にたいして最低賃金や徒弟取扱いの取締りによって労働者にたいする圧迫を防ぎ、教育 機関、試験所を備え、金融の便を図り、共同化を促進して能率の増進を図るこそ妥当な政策であるこ とを具体的事例を紹介しながら説いている。ここでは貞次郎の場合社会改造の視野の中に中小企業が 見落されなかった点が特筆されるのである。なお、国際労働会議の二編の論文については国際労働会 議の項に譲る。 この書の紹介ののちに、本巻の解説者太田英一は﹁経済をあくまで社会としてみて、この社会の運 営に生産者と消費者が参加し、生産者はさらに企業老と労働者に分れ、これらの間の協力なくしては 生産は発展せず、生活水準も向上しえない。しかもこれらのあいだに利害は対立し、その調整は決し て容易ではない。生産手段の社会化のみによっては解決できない問題があることが指摘されているわ けである。生産手段の社会化された国々においても企業者の職分の存続することを指摘した先生は、 そのような国では官僚独善が強くなり、企業者職分が圧殺され易い危険を、ソ連経済のその後の推移 ︶ ‖‘ によって強く感じ、官僚勢力の特に強い日本ではその危険が殊に大きいことを憂慮されて、やがて新 \ 噛 タアツヴイルトシヤフト福田徳三閲、商業学士上田貞二郎著として普及舎から出版された。この最初 推せんされた。この論文は若干の改訂をして翌三十六年﹁外国貿易原論﹂としてドクトル・デル・ス の白眉たるのみならず亦我邦幾百の経済論中稀に見る所﹂と評価され、教師として学校に残るように とある。この論文は前年九月にドイツ留学から帰った福田徳三教授の審査を受けて﹁独り卒業論文中 ﹁日記﹂によると﹁余の卒業論文は四月廿日頃より書き初め六月四日脱稿したり。此の間四十五日許﹂ 貞次郎は明治三十五年専攻部の課程を終るにあたって、卒業論文として﹁外国貿易論﹂を書いた. 七、貿易関税問題︵第五巻︶ 自由主義へと移っていったと思われる。﹂と書いている。 の とがなかった。私の如き、父の死後、昭和十七年頃第一次全集の編輯のとき一橋大学図書館にあった 成 の著書は私の記憶では父の書斎にはなかったし、また門下に学んで学者となった人達も殆んど見たこ 集 って立つ学問的基調はイギリス古典学派の経済学説であり、自由貿易思想への強い傾倒であることは 学 全集第五巻の貿易関税問題の大泉行雄の解説によれぽ、﹁この書における上田先生の貿易理論が拠 果 成 的 ものをコピーしたのを見てはじめてその存在を知ったのである. 問 章 七 第 明らかである。貿易政策のための基本原理として、先生が確信されるところは、国際分業の必然性に 対する認識であり、これに立脚しての自由なる貿易の実現であると見られよう。しかしながら先生の 卿理論体系においては、いわゆるマンチェスター派流の単純素朴な自由放任政策を無批判に容認するも のではなく、そこには厳正周到な省察の用意されていることを看過されてはならない。﹂とある。 蹴 貞次郎は二度目の留学から帰国して、大正四年から高商で商業政策の講義をはじめた。この講義が 十数年続けられて、その成果は昭和五年に現代経済学全集の第十七巻﹁商業政策﹂として公刊された。 講義はその後も続けられ、学長に就任した昭和十一年に及んだのだから生涯をかけての研究と云える。 ﹁商業政策﹂の序文によると﹁関税問題は私が三十年前学生であった時から興味を感じた所の問題で あり、卒業論文の問題でもあった。爾来これに関して断続的に講義したこともあり、多少研究したこ ともあった。最近には雑誌﹁企業と社会﹂の執筆、ジュネーヴの国際経済会議、自由通商協会の関係 などで関税の実際問題にも幾分触れることふなった。併しながら考へて見れば自分で理論上進歩した と思ふことは何もない。唯一般的に人間社会の現象を観る眼が聯か出来て来たかと思ふだけである。 是はいは父年の功に外ならぬ。併しながら日本は此三十年間に非常に変化した。世界も大いに変化し た。今からの三十年間に又非常に変化するだろう。特に欧州大戦後の日本は確かに一転機を経過しっ ふある。従って同じ一つの理論でもその実際の現はれ方は変って行かねぽならぬ。﹂なお、本書の作成 には山中篤太郎、小田橋貞寿の助力があったと序文に述べている。 本書の内容は七章からなり、はじめの二章で対外商業政策の意義、外国貿易と国際貸借の問題が解 明される。第三章以下はもっぱら関税問題に焦点がしぼられ、第三章関税制度、第四章関税理論、第 ︸ 五章保護関税の論拠、第六章自由貿易の論拠、第七章関税政策及び其学説の歴史となっている。とく に第七章では各国の関税政策の概観が述べられている。 ついで昭和八年﹁最近商業政策﹂が公刊された。前著から約二年半の間に﹁世界各国及び我国の関 税政策上には種々の大問題が続発し、同書の関税史に関する部分は大増補を必要とすることになった。 しかもこれ等の事実は空前の世界恐慌の影響であり、殊にこの恐慌に伴ふ貨幣制度混乱の影響である から、前著の関税理論の部においても為替相場の変動と関税との関係について大増補をなさねばなら ない。﹂この著書は小田橋貞寿、井口東輔の協力を得て刊行された。 この書には一九三一年︵昭和六年︶から三二年にかけての世界経済の極度な混乱がとりあげられ、 その原因の最大のものとして関税障壁の増大が指摘される。ついで関税の目的と方法を追究して現実 の 具体的に問題を研究して、その反省と批判を行っており、それが含む危険への警告とともに将来政策 成 分析へ入り、ブロック組織、日本の国勢と外国貿易の諸問題、日本の関税政策の業種別分析によって 集 七 関税政策を中心とする先生の見解と提案は、昭和の初頭、すなわち第一次大戦後の、世界的不況と国 ﹁まつ第一に、こふに見られる上田先生の外国貿易理論と、その政策に関する研究と主張、わけても 学 大泉は解説において総括的な印象として次のように述べている。 果 成 に対する要求が述べられている。 的 間 章 第 一歩をすすめて論ずれぽ、上田先生が親しく眺められた現実は、いわば第二次世界大戦の前夜であっ 際経済関係の不安定な情況を背景としたものであるということの、歴史的与件の認識である。⋮⋮⋮ 魏 2 たともいわれよう。先生の自由通商にたいする確信は、、この世界的な将来の不安を予感しての遠い配 易機構の目的を実現するために、専門機関として﹃関税および貿易に関する一般協定﹄︵ガット︶が 成立し、貿易における差別の撤廃と自由通商の達成にその役割を担当することになった。これは先生 が世界経済の将来にたいして夙にその在るべき方向を意図したところであり、現実は正しくそれを証 明したものであった。いま一九七〇年代の現在において、国連の国際貿易機構にうたわれているよう な自由にして無差別な状態が、世界経済の現実に見られるとは到底いわれない。::・⋮:− 思うに世界の現状が、古典的な自由貿易をそのままに再現しうるものでないことは、現実の諸与件 に徴しても明らかである。かつての金本位制度の基盤はすでになく、諸国の通貨と為替は管理制度に ー よって規制され、さらに国家の積極的な支配力も強く作用する。国際的にはヨーロッパ共同市場やヨ ーロッパ自由連合、アメリカやソ連を中心とする経済圏、一言にして世界を通してのブロック化の形 勢も見られる。 ⋮⋮⋮⋮そして以前は国際分業を盛ならしめるために自由放任が必要とされたが、今日はそのため に国際的計画経済を必要とするところに相違があると論じられ、計画経済は、むしろ国際的にならな けれぽならないと強調されている。そこには高められた次元においての自由通商の理念が志向されて いるのではなかろうか。国際計画経済を通じて、世界の通商をいかに実現してゆくかが、七〇年代以 降の世界各国にあたえられた課題といわれよう。﹂ 八、日本人口論︵第六巻︶ なった。﹁日本の如き人口多く資源の乏しき国では自給自足は出来ない。宜しく島国たる地位を利用 して商工業国になるべしというのである。けれども今まで日本の人口について精しい研究をしていな かった。﹂だから、人口問題にとり組み、若い研究者とともに人口統計の基礎からはじめて、その成 ]ーjr⋮ー、﹁1’ 第二次大戦終結直後、世界の貿易を回復再建せしめようとの要請は⋮⋮⋮⋮一九四七年には国際貿 現実の地歩を定めつつ、それにたいして理論の照明をあたえることにつとめられたのであった。 先生の信条である理論と現実、学問と実際との関連について、その一方に偏傾することなく、つねに 的動向に即して、これを現実政治の課題として考察することをゆるがせにされなかった。つまり上田 理論的に分析究明されることを志向された。同時に他面では問題を国際経済の現実と世界情勢の歴史 第二は上田先生の学問的態度である。貿易とその政策論を課題とされた先生は一面においてこれを の冷徹な洞察が覗われるのである。 慮であったとも見られるのではなかろうか。そこにはまさしく世界歴史の動向に対する科学者として 40 の 成 集 七 学 果 成 的 日本人口問題研究は貞次郎の学問研究に﹁身の入った﹂第四回目にあたり、かつ最後の研究課題と 問 章 第 果は﹁日本人口政策﹂︵昭和十二年︶に集約されたのである。この研究の経緯については日本経済研 拠究会、太平洋会議などの項に書いたので重複はさけるが、この著書の作成には小田橋のほか、井口東 輔、賀井善智があたった。 第一、我国人口の妊孕率は大戦後に著しく弱められた。人口総数は今後二十年間は尚増加を継続す る。 右の如き仮説の下に計算された将来人口の結論は何うかというに、第三章の要約に次の如く述べてい ︵二︶ 今後生れる人口は毎年二百十万と仮定する。:⋮⋮:: する。⋮⋮⋮⋮ 年に一段階上の五歳別人口となる率、即ち五歳階級別を残率を以って将来も生残して行くものと仮定 ︵一︶ 現在の人口がどれだけ生残するかに就ては、大正十四年の五歳別年齢人口が五年後の昭和五 来予測はあまりにも有名であるが、その要点を示せぽ ﹃日本人口政策﹄の第三章近き将来における日本人口の予測である。先生の推算された日本人口の将 ﹁ 纉c先生の人口研究は、まつ日本人口は将来如何になるか、というところから出発する。これが あり、⋮⋮⋮⋮過剰人口解決策としては多くを期待し得なかった。﹂ しつつある。⋮⋮⋮⋮海外への移住は幾多の意味において重要ではあるが過去の実績は余りに貧弱で 農業は過去においても当時においても我国最大の産業たるに違いないけれどもその重要性は頓に減退 明治以来の増加人口が如何なる産業に吸収されて来たかといえぽ、申すまでもなく商工業であった。 この論議に関し日記にもあった如く、先生は既に自由通商、工業立国という結論をもって居られた。 これが最初に発表されたのは昭和七年十一月であった。 究が重要なことを示唆されたのが、﹃日本人口政策﹄の第二章で我国現下の失業と人口問題であり、 か、それとも又社会組織の改変か、という論議が盛に闘はされたのである。その点で、人口問題の研 ﹁満州事変の始まった当時、過剰人口問題はすでに人口に膳灸し、工業化か、移民か、内地農業開拓 はなくして、これを通じて日本人口問題の理論的意義に到達することにありとされる。﹂ し如何なる寄与をなし得るかを概観しているのである。但し目的は諸学説の紹介又は評論そのもので 衛生学、民族学その他各般の人口問題に関する諸論説を紹介批判し、それが日本人ロ問題の解釈に対 ﹁﹃日本人口政策﹄の第一章は日本人口問題の理論的意義を説いている。ここでは経済学、社会学、 ることとする。 把 主として小田橋貞寿の全集第六巻﹁日本人ロ論﹂︵昭和五十一年︶解説によってその摘要を紹介す 成 集 の 果 成 るけれども、その増加率は急に下降するであろう。 七 年の間に来り、その時の総人口は推算困難であるが、八千万を多く超えることはあるまい。 学 第二、妊孕低減の傾向が継続するものと仮定すれぽ、我が人口増加の極点は恐らく一九六〇ー七〇 的 問 章 第 ろう。今後の児童人口は実数において停止し、比率において低減することが予期される。 第三、年齢構成についていえば、二十世紀の初めから児童の激増を見たが、現今が増加の極点であ 脇 第四、生産年齢の人口は今後二十年間激増を見るだろう。これ等のものに対し職業を与えることが ﹁近き将来における生産年齢人口の激増という事実から、先生の研究は人口増加と職業増加との関係 痛切なる問題である。産児制限は彼等の負担を軽くするに役立つのみである。﹂ 拠 に進んだ。⋮⋮⋮⋮それが第四章国勢調査に現れたる日本人口の職業構成と第五章我国における都市 及び農村人口である。明治以降の我国の増加を吸収して来たものは職業的には商工業であり、地方的 には都市であった。これは先生が従来から持していた日本経済の発展傾向と一致するもので、結局は 将来もわが国は貿易立国に向わねぽならぬという政策の実証的背景を解明するものであった。. 併しながら商工業化、都市化を通じて日本の増加人口は吸収されて来たにしても、それが増加人口 を完全に吸収し得たかといえば当時尚多くの顕在的、潜在的失業者を抱えていたのであった。その上 近き将来に増加する生産年齢人口にも職業を与えなければならぬ。日本の経済政策は如何にあるべき か。この間題に答えたのは本巻第一部の第六章人口問題と貿易政策第二部に収録した﹁経済国策の基 調﹂である。結論的にいえぽ貿易立国の必要性を認めて強調されるのであって、前者では今世紀初頭 にドイツで闘わされたワグナー、ブレソタノの関税論争を紹介して当時のドイツ事情と相似たる日本 事情から見て日本が必然的に解決しなけれぽならない工業化の問題は広く世界を相手にした自由貿易 に向わなけれぽならぬが、昭和初期の当時の国際情勢からして協定貿易の推進を提唱し、協定貿易は 本来平和政策であるから、平和外交なくしてその発展を望むことはできないと結論したのである。後 者では満州事変後の世論の動向を憂いつつ我国の国策の基調が国際貿易にあるべきを説き、戦争の危 険を極力回避せねばならぬと主張されたのである。﹂ ﹁第一部第七章総括ー我国の人口と職業の問題は先生が昭和十一年八月ヨセミテに開かれた第六回太 平洋会議に提出した英文データペーパーの翻訳で、⋮⋮⋮⋮人口政策各章の研究はここに極めて簡潔 に要約されている と い え よ う 。 ﹂ 貞次郎の人口問題は国の内外で広く読まれ、多くの共感と批判をよんだ。とくに海外での評価はそ の第一が昭和八年八月本書第三章近き将来における日本人口の予測を第五回太平洋会議で発表したと きと、第二が昭和十一年八月第七章総括、我国の人口と職業の問題を第六回太平洋会議で発表したと きである。これらの国際的な反響は太平洋会議の項に譲ることとする。 が又日本の人口を養うための方策であり、国民生活を向上させる途でもあることが現在では何人にも 成 集 戦後の現在では﹁先生が提唱せられた工業の発展、貿易の拡大は戦前に比し急速に進展した。それ の 学 幾多の欠陥を露呈することになった。だが先生は単純に我が国民経済の工業化、都市化を謳歌された 投げ始めている。日本の工業化、都市化についてもそれが急速且つ無計画に進められたことによって、 果 成 的 容認されている。しかし、極めて最近になって、世界の情勢は貿易の自由を認めることに再び暗雲を 問 章 人の郷土は農村にあり、日本社会組織は農村を基礎としてゐる。農村の社会組織とその中に流れる伝 七 第 のではない。自然に親しみ、伝統を愛した先生は巨大都市の出現は必ずしも文明を意味せず、﹃日本 2 統的精神を破壊することなしに堅実に工業化の途を進行することこそ現代日本の問題である。そこに 45 は矛盾もあるがその矛盾は克服されなけれぽならぬ。﹄︵﹃日本人口政策﹄序文︶ということを述べて 脇居られる。吾々は日本の人口と経済のあり方につき先生の卓見に服すると共に、その所論に聴くべき 所多いことを痛感す る の で あ る 。 ﹂ 九、新自由主義︵第七巻︶ ﹁学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会に背く。是実に産業 革命の波濤に漂える現代日本の悩みではないか。吾人は此混沌裡にあって、企業より社会を望み、社 会より企業を覗ひ、眼前の細事に捉はれず、又空想の影を逐はず、大所高所より溜々たる時勢の潮流 を凝視して、世界に於ける新日本の原理を探らんとする。吾人の悪む所は虚偽と雷同とであり、吾人 の戒むる所は煩項と冗長とである。吾人が訴ふる所の読者は純真にして、且聡明なる満天下の青年識 者である。﹂ 雑誌﹁企業と社会﹂はこの宣言を掲げて、大正十五年四月ー昭和三年三月の間、二年間二十四号ま で刊行して終刊した。この二年間貞次郎は毎号巻頭論文を載せたほか、時事問題など多数の記事を書 いた。これらをまとめたものが、﹁新自由主義﹂︵昭和二年︶および﹁新自由主義と自由通商﹂である。 なお﹁企業と社会﹂の編輯には猪谷善一が実際面を担当した。 この宣言を読むと殆んどそのまま現代にあてはまると思うのはあながち手前味噌ばかりとは云えな い節がある。貞次郎は日本の当面する現実に対して日頃から抱いていた持論を展開するのだが、こシ﹂ に専門的な経済論を基礎にして、社会、教育、政治など広般な問題にとり組んでいる。 山中篤太郎の解説によると貞次郎は自分が生きた時代、すなわち﹁日清戦争から第一次大戦までの 経済展開を日本産業革命期という史的概念で規定する。そして、この産業革命が英国産業革命と違っ て政府による上からの指導干渉にあった事実に注目し、この日本の産業革命は重商主義と併存したと いう史的本質をもつという注目すべき断言を示されるのである。西欧の産業革命が資本的自由を弾条 として起ったのに対し、この自由主義精神が排撃した産業革命前の重商主義的政府指導と産業革命が 同居しつS、日本産業革命が成就されたという日本近代経済形成上の重要な特質がこNに示される。 の 済化であり、また動因としたものが対外独立の必要の認識という外部からの圧力であったという日本 成 集 そして先生は更にこの日本産業革命が変革の動力としたものは明治維新に基いて発生した旧士族の経 七 学 ﹁まず、第一には日本産業革命で摘出された明治以来の日本の国権的保護干渉をとりあげ、これこそ 貞次郎はこれに対決するいくつかの思潮をあげている。山中の解説によると 以上の日本産業革命すなわち資本主義の形成の認識の下に﹁新自由主義﹂を主張するのであるが、 果 成 的 的条件にまで史的分析を深められるのである。﹂︵主として﹁日本の産業革命﹂参照︶ 問 章 第 が改めらるべきだとする主張である。その主張の理由は、この国権的保護が本来不経済であるととも 閣 に、国民の負担で一部の利益を助長し、更に模倣の段階を脱した産業革命後の日本の明日に必要な創 ︸ 意や自立の風を妨げる等の諸点にあった。このことは後にもふれる保護関税批判を中心に反覆指摘さ 拠れる。第二には、産業の国有、国営を主張する社会主義論を挙げる。その資本主義批判には聴くべき ものがあるにせよ、民主的運営の能率についての可能性の裏打ちがない国権主義であって、従ってと るを得ないとする。更に第三には、いわゆる社会政策論をとりあげ、これも西欧のような自由主義の 経験のない日本では社会主義と選ぶところのない国権主義となってしまうとされる。これらを通じて 示される主張は、個人自由、自主独立に基盤のない国権主義は、これを容れえないとすることを貫か れる。 一方、従来の自由主義思潮に対しても、亦、これに嫌らない所以が指摘される。すなわち、自由放 任、自由競争の制度の下で自然調和が齋らされると信ぜられているけれども、実際上はそれと異り、 たとえば、景気変動のような矛盾を生むし、自由契約の制度も経済上の不平等を存続させるものであ る等の事実を見るべきだとされるのである。 然らば、この間にあって、尚、新自由主義と名づけて自説を主張する根処如何というと、これに対 する先生の教示は二つ用意されているといえる。その一つは﹃個人自由と個人責任に重心をおく思 想﹄、﹃自主独立と自発的協同﹄とが当面する社会構成の基本とならねばならぬとする主張である。こ の主張こそが新自由主義理念の中核であって、そのことは、多くの論文︵﹃社会主義と自由主義﹄、 ﹃新自由主義の理論﹄等々︶の処々からこれを感得することができる。L ーiー÷xー︷iー乏ドー迩ーξもTk|⋮xト﹀ベト︷f﹃∋ 乏︷上ぺぺλ∨1︸ー∼FIT︸’ーζ享 新自由主義は形式化された理論と云うよりは日本的現実の具体的分析を主眼として、こ入にその批 判と建設的な警告を与えている。 ﹁その第一の面を代表し且最も多くの力が注がれた結果になっているのが、関税、自由通商の論稿で ある。自らもまた新自由主義が旧自由主義より継承する重要政策は保護関税反対だと言明されている。 この反対の理論︵第五巻﹃貿易関税問題﹄参照︶を基礎にもちつ入、実際論として明治三十年代の条 約改正の背後におきさられた上、その後も輿論も議会も無関心でいる関税賦課の問題について、新自 由主義提唱の二著の時より先生の晩年にかけて反覆警世の論稿を書かれるのである。︵本巻所収論文 部門昭和七年以降の諸論文︶。先生晩年の活動の山となった人口研究︵本全集第六巻︶の中でこれ亦 外米移入政策の示唆はする。しかし、尚、先生は、日本経済にとって農産供給の必要性とそのための だから、日本の農業或は人口・食糧の問題を論ずるに当って、自由通商の立場からする工業化或は ったといえる。 た先生の平和的自由通商の主張は、国際的説服力を潜めた日本の進路の指標として譲らない気迫をも の 認されたところであるが、この問題認識の上に立って時流の日満ブロック経済論等に対して展開され 成 先駆的業績となった﹃要職業人口一千万﹄の予測が満州事変後の国際社会を動かしたことは先生も自 集 七 学 果 成 的 問 章 第 農業経営の能率化の必要とのあることを指摘することを忘れない。先生の新自由主義は、かつて穀物. 脚関税反対から英国農業を衰退に導いた旧マンチェスター派自由主義政策とは一線を画しているのであ る︵﹃新自由主義と農村問題﹄、﹃我国の人口及食糧問題﹄︶。 性に信頼を寄せる態度が示されているのである。 ﹁また先生の新自由主義論は協同組合を重要視する視点もとくに展開している︵﹃新自由主義と協同 指摘する新中産階級論である︵﹃新中産階級の社会的意義﹄︶﹂ ﹁このような第三の面を示すものとしてまず挙げられるのは、俸給生活者の社会的機能と重要性とを 焉﹄の書評もとりあげられるのである︵﹃ケインズの社会改造論﹄︶﹂ なっているのである。そして、この現実認識との共鳴を見出したが故に、ケインズ﹃自由放任の終 動等の競争制限等による経済安定への模索が具体化されつsあるとする現実認識がその立論の根拠に るにせよ、基本的には、現実の資本主義体制そのものふ中に、信用制度、特にトラスト、カルテル運 ちつx、政策的な景気対策の樹立を指示する。この問題に関しては先生の思考に多少の揺れが窺われ 又、昭和初期の恐慌を前にした先生は、前にふれた自由主義的景気自動調節観を批判する立場に立 丁︸条﹁詮㌢ξ藝ー ト皇Σ い且将来まで永続性のある社会構成要因を認めるとともに、その方向にむけての労働者層の持つ可能 立場に立っている。すなわち、こふには、保護も束縛もせず、下からの労働者の自己組織の成長に広 働組合観は、恐らく先生に少からぬ影響を与えた筈のウエッブ夫妻の古典的労働組合観を一歩抜いた 気政策に関する理論である︵﹃新自由主義と我国労働組合、景気安定の必要と其方法﹄︶。:::先生の労 容れられなかった反自由主義とも称しうる論点をもつ主張がある。それを示す適例は、労働組合、景 ﹁しかし第二に、以上の第一の面に現われる諸論と違って、かなり強力に嘗つての自由主義には長く いる。﹂ 大戦前後英国を中心にみられた社会的政策乃至﹃修正﹄自由主義政策の線を想起させるものを含んで 租税体制を批判するとともに不労所得課税を提唱する。これは、自由主義政策というよりは、第一次 りは、租税制度の方が﹃安全且実利的﹄な社会手段だと認め、間接税より直接税の少い当時の日本の ﹁更に租税制度については︵﹃新自由主義と租税制度﹄︶、経済政策の手段としては、保護関税や官業よ っていることも、新自由主義の立場から指摘する。﹂ その低能率の指摘を通じて、一部を除く民営化を勧めるとともに、国営即社会化論のもつ単純さの誤 却 と同時に日本産業に一割以上の重さを占める官業も批判の対象にとりあげ︵﹃新自由主義と官業﹄︶、 成 在り方にもふれざるを得ない。新自由主義は政策をたてないで日本の政治を動かしている政党、驚く 由通商運動の組織に参加されている。又、実際問題であることの故に当面の経済の枠をこえて政治の た自然であろう。国際経済会議︵一九二七年︶参加等の機会があったにせよ、先生は同志とともに自 ﹁実際論として構成展開されるのが新自由主義である以上、この主張が実践の場に帰着することもま の 組合﹄︶﹂ 集 七 学 果 成 的 問 章 第 べき多額の費用を使う選挙、鉄道建設等に例示される不当な党勢拡張運動、政党の走狗となった官僚 田等、日本での政治機関の弊害を鋭く批判し、その将来を開く道を公民教育の発展に見出している︵﹃現 在日本の政治機関﹄︶。更にまた、政治についで、教育問題全体も新自由主義はとりあげざるをえない 蹴 でいる︵﹃新自由主義と教育﹄︶。この教育論の中では、明治式の国外模倣の態度の継続ではなくて. ﹃自由、創造の気力を振起する﹄ことが当面の必要であるとすることが大きな前提となり、普通教育 については、年限の延長、未就学児童の解消とともに、教育の中心を公民教育化に再編すべきを主張 する。つまりここでも再び、政治論と同じく、公民教育への注意が強調されるのである。﹂ ﹁企業と社会﹂終刊の辞は次の如く述べている。﹁無用の言をなさず、無用の文を嘱せず、知らざれ ぽいはず、いへぽ必ず信ずる所あり。怖れず、又驕らず。卓然として立つ。満二年の努力はよく報ゐ られ、今や新自由主義は日本の政界財界学界における幾多の指導者の同意を博し、自由通商論は既に ]※ーー ‘ー怜 結晶して一の具体的運動となる。此に終刊号を出すに当り感謝の情胸臆に充つ﹂ 矛﹄﹂ー 第八章 紀州徳川家と南葵育英会 ソ川家理事・顧問として 一、 すでに述べた通り、貞次郎は侯爵嗣子頼貞氏の教育取締として自身徳川家とかふわり、同氏の英国 留学に随行したのだが、校命によって同氏より先に帰国していた。頼貞氏は大正四年十二月に約三年 間のケンブリッヂ留学︵主として音楽︶を終って帰国した。この間の事情は﹁頼貞随想﹂にくわしい。 まで日疋家令︵元陸軍主計監︶の下に家政部、財務部の二本立で運営されていたのだが、家政改革問 英太郎男爵、木下友三郎、日疋信亮、斎藤勇見彦、江川良純の六氏だった。徳川家の常務はこのとき 会 英 貞次郎は翌五年七月には徳川侯爵家の理事を委嘱された。同時に理事になったのは鎌田栄吉、三浦 育 葵 南 と 題が起ったためにこのような制度が出来たことS思われる。理事というのは侯爵の相談役のようなも 隊 ハ 紀州徳川家は旧藩主の中でも、加賀の前田家、薩摩の島津家とならぶ有数の大財産家と云われてい 章 たためにその責任は必ずしも明確ではなかったようである。 八 ㎜ 紗 ので、直接常務に携るものではなく、また指導権はあるが、侯爵を通じて常務に反映させる役柄だっ 第 た。当時の麻布の本邸は先に述べた一万数千坪の土地に西側半分は御殿と呼ばれた侯爵の住居で東側 脇半分は二十戸の家職の長屋があったことは旧の通りだったが、さらに南葵文庫︵私立図書館︶が御殿 の西側に、また進修学舎が東側の入口に建っていた。そして家政、財務両部長以下の幹部職員と家丁、 捌小使、運転手、女中頭をはじめ三十人の女中などを含めて、約百人の使用人が居た。 頼貞氏の帰朝にあたって白金三光町の旧福沢大四郎邸がその住居として買ってあった。頼貞氏はこ の年島津為子姫と結婚してこふに住っていた。貞次郎は理事として飯倉の侯爵邸に行くとともに頼貞 氏の相談役として三光町へも週一回は通っていた。家の者はこれを飯倉、三光町と地名で呼んでいた。 飯倉と三光町とは新旧慣習のちがいもあって意見の対立があった。この対立は庶民の親子喧嘩とちが って財産の運用、取巻達の利害をも含むためになかくむつかしい問題だったようである。貞次郎は 頼貞氏の教育掛の立場上この両者の間に立って調停の労をとったようである。同五年九月七日には ﹁明日の理事会を十五日に延期せしむ。飯倉と三光町との衝突を避くる為めなり。﹂とある。 当時、徳川家の財務部︵部長日疋信亮︶は麻布箪笥町に別に事務所を持っていた。前記本邸のほか、 和歌山別邸、大磯の別荘、その他市街地、山林等を所有し、さらに債券や株式等の財産を管理運用す るためである。 円売却の件。右売地の代りに朝鮮に農地を買入るふ件。財務部成立以来の有価証券売買報告の件。此 同年十一月には徳川家理事会として﹁和歌浦両社合併後の祭典費に関する件。神田猿楽町地所八万 日郵船売却を提議す。﹂とある。 大正八年一月、和歌山に高等商業学校を設立しようという計画があった。原内閣の商業教育機関拡 ー藪ビ︾’、 大計画の中に高等商業七校増設案がありその一つである。高商の建設には文部省の予算だけでは足り ないので各地とも地元の寄付など協力が求められた。徳川家理事会では三浦男が和歌山の徳義社を解 散して基金を徳川家に戻し、さらに高商に寄付すべしと提案した。徳義社の資産は大部分田地だった。 侯爵、鎌田、貞次郎ははじめ和歌山に高商を設立する必要なしとの意見だったが、和歌山出身者二十 名の会合で池松知事の経過説明を聞いた結果、大勢は文部省の計画に賛成で、設立のために約八十万 円の寄付金を集める方向に傾いた。貞次郎は前記の主旨で反対論を述べたが、知事の主張と前田米蔵 代議士、下村宏らの賛成説が出て結局知事を支持することになった。その結果ついで開かれた理事会 会 英 で、三浦案通り徳川家から三十万円が寄付され、これが有力な手がかりとなって和歌山高商設立は実 育 大正十年二月、頼貞氏夫妻は半年余の予定で洋行した。﹁自分は此洋行を機会として大に生活を一 葵 現のはこびとなったのである。 南 と 新せよと勧めたけれど、実はあまり望みを嘱しては居ない。 隊 ハ 八 川家が買った松汀里の農場を視察した。﹁徳川家の農場は普通の朝鮮の両班のやり方と同じなり。此 この年の夏休みに貞次郎は朝鮮中央経済会の招きで京城の夏季大学で講演するが、そのとき先に徳 聴 紗 徳川家の事には年と共に感興を減殺される様だ。﹂と書いている。 章 第 の如き態度にて唯地代を収め元利の計算をして居るならぽ、名家の財産運用として面白からずと思 鰯 ふ。﹂と書いている。 頼貞氏夫妻は十一月に洋行から帰国して、かねてから新築中だった森ヶ崎の新邸に移った。 開催した。財務部の常勤は山東同部長がやっているのだが、同十五年九月頼貞侯が南洋旅行に鎌田、 郎の外に小泉信三が加わった。頼貞侯も顧問会に依頼して財政整理を行おうとして毎月一回顧問会を 頼倫侯が逝去して、頼貞侯の時代となり、従来の理事は顧問となり.鎌田、木下、三浦、巽、貞次 :⋮莞去当時の侯は華冑界の第一人者として世間から惜しまれた。﹂ ぎたので間もなく宗秩寮総裁に親任された。 大正八年余が米国へ行た頃の侯爵は貴族院研究会の領袖であった。併しこれは侯には仕事がありす 会頭として貴族社会に薪然頭角を現はして居た。 大正二年余が頼貞氏を英国へ同伴した時代の侯は図書館協会や史蹟名勝天然記念物保存協会などの なものであった。 に結婚し、間もなく鎌田先生が御供して外遊された。帰朝後南葵文庫を経営されたがおもちゃのやう 多く、侯自身も陰気になってゐたといふことである。併し侯爵家の養子の事であるから二十才位の時 の成績の面白くなかった為めであった。鎌田先生の話ではその頃旧臣中に侯の不成績には不平なる者 めて平凡なる学習院中学生であった。其後学習院をやめて山井幹六先生の養生塾に入られたのは学校 ﹁余は亡父の関係に因り、頼倫侯には幼年の時から近づいて居たが、余の物心つきたる時代の侯は極 次のように書いている。 大正十四年五月、頼倫侯︵一八七ニー一九二五︶が逝去された。このとき貞次郎は同侯を追悼して 楽堂が大破して使用出来なくなったので、このパイプ・オルガンは上野の東京音楽学校に寄贈された。 国からパイプ.オルガンを輸入してこの楽堂に取りつけた。もちろん、日本で唯一つのものだった。 南葵楽堂は頼貞氏の発意で大正七年建築され、三百五十名を収容する音楽堂だった。同九年には英 で士昔んで受入れた。 立図書館だった。この所蔵図書は帝国大学に寄付を申入れたところ、震災で図書館を全焼していたの 南葵楽堂は大破して使用に耐えなくなった。南葵文庫の建物は明治三十二年の建築でわが国最初の私 翌十二年には震災のため、蛎穀町、浜町が焼けて地代家賃収入が大減収となった。南葵文庫および 買い代えた。 鰯 翌大正十一年には麻布の本邸を売って代々木富ヶ谷に久米民之助の旧邸約二万坪︵百六十万円︶に 会 英 育 葵 南 と 島薗両氏を随行として出た間に貞次郎は木下とともに山東を交えて財政整理案を作った。当時、同家 隊 入 由は十五銀行の破綻のために毎年七万円の収入減となったこと、森ヶ崎邸が予算超過で年間二十万円 万円︵手取百二十四万円︶に達したが、なお借金は昭和二年末二百十万円残った。借金が減らない理 隔 紐 の借金二百八十万円に対して家宝什器の売立および土地売却を行うことである。什宝の売上は百六十 章 第 以上使っていることなどが重ったものと書いている。 姻 昭和四年になって同家の借金はまだ二百五十万円あった。支出超過が毎年二、三十万円あったため に借金が増加したのである。頼貞侯夫妻はこの年五月欧洲旅行に出発したのだが、それが文字通りの 脇大名旅行だった。毎月一万円の旅費予算でも豪華なのに事実はその倍額で九月までに八万円使った。 さすがの顧問達もこれには驚いて連名の勧告状を頼貞侯に送った。この頃顧問会は毎月二回開いて整 理案を改訂した。 昭和六年二月頼貞侯夫妻は帰朝したが、その派手な生活態度は変らず、貞次郎らの立てた経費節減 案は全く顧られなかった。三月末貞次郎はついに顧問を辞職した。﹁余の考では、このまS侯爵家の 没落まで顧問の名を冒すことは堪へがたい。併し、侯爵が余の辞職を見て反省するならば辞職を思ひ 止てもよいといふ腹もあった。併し、その後、侯爵からこの問題に付て何の沙汰もない。﹂と書いてい る。 貞次郎の辞職に先立って小泉信三も顧問を辞職した。貞次郎はこの後徳川家達公爵に呼ぽれて紀州 徳川家の事情を述べたが何の反応もなかったとも書いている。 貞次郎は顧問を辞職して徳川家との直接の関係はなくなったが、その後も後述のように南葵育英会 や紀州名士の会などを通じて同家の事情は伝聞していた。五年後の昭和十一年十月、杉山金太郎︵豊 年製油社長︶、寺島健︵海軍中将、浦賀船渠社長︶両氏が徳川家の財政問題について県人少数の会合を 開き、有馬良橘︵海軍大将︶、野村吉三郎︵海軍大将、駐米大使︶、浜口儀兵衛︵ヤマサ醤油社長︶、浜口 担、島薗順次郎︵東大医学部教授︶らとともに貞次郎も出席した。徳川家の関係者は別会社南葵産業 株式会社をつくって同家の財政再建を図ると称した。社長山東誠三郎、専務草野繁で朝鮮の金山を買 って再興をはかったと云われる。別会社だから理事者の目を離れていて当時いわゆる山師など利権屋 がこれに食いついたようである。ところがこの金山は廃坑だったと云われ、南葵産業のやりくりの策 は尽きていたのである。 翌十二年一月、貞次郎は原田熊雄男爵邸︵西園寺公の秘書、﹁原田日記﹂の著者︶へ行き、徳川義 親侯はじめ松平︵康︶、黒田、太田の諸氏︵いつれも頼貞侯の友人︶と紀州徳川家のことについて懇談 し、さらに徳川義親侯邸で友人側、旧藩側︵有馬、野村、寺島、杉山、浜口、上田︶と会談して半田 会 英 育 氏に整理立案を依頼した。結局、昭和十三年になって中松真郷、土岐嘉平、林桂の三氏が心配した結 成されたとき、近衛文麿会長の下で副会長︵他の一人は郷誠之助男爵︶となった。音楽の殿様として 徳川家は財政的に破綻したのだが、頼貞侯は貴族院議員であり、また昭和九年国際文化振興会が結 葵 南 果、代々木邸を分譲地として売ることになって財産整理はようやく軌道に乗った。 と 隊 ハ 聴 紐 の国際的な声名や数度の外遊で欧米諸国の貴族その他広汎な交遊関係などの実績がものを云ったと思 々は皆頼貞侯に招待され、なにがしかの恩恵にあつかっている。これらの事情は頼貞侯の著書﹁蒼庭 章 われる。事実、戦前に来日した世界的な有名音楽家、ヂンバリスト、ハイフエッツ、シァリアピン等 八 第 楽話﹂︵昭和十六年︶に詳しい。また、欧米での大名旅行の一端が文芸春秋に掲載されたこともあっ 兜 た。 貞次郎は昭和十五年三月、侯爵嗣子頼部氏が学習院を卒業して神戸商業大学に入学したときに頼貞 捌侯に学習院教授諸氏とともに招待された。そしてこれが頼貞侯との会合の最後となったのである。 戦後、私が上田辰之助から伝聞した話では、頼貞侯は﹁私は日本の二大経済学者︵貞次郎と小泉信 三︶の教えを受けました。た黛し、私自身の経済︵財産管理︶はお恥しい次第です。﹂と云われた。そ のとき、辰之助は国際文化振興会理事で頼貞侯としば人\会合したと語っていた。 なお、頼貞侯は戦後、郷里和歌山から参議院議員として選出され、同院外務委員長、ユネスコ国会 議員連盟会長など国際関係の役職に就任、活躍したが、昭和二十九年他界された。 二、南葵育英会とのかかわリ 明治四十四年一月、和歌山学生会は解散して、伏虎会︵武学生の会︶を合併して南葵育英会となっ た。このとき貞次郎は創立委員の一人として頼倫侯の相談に与った。会の成立とともに、侯爵は会の 総裁となり、貞次郎らは幹事として生涯を通じて育英事業に関与することふなった。 翌四十五年十二月には麻布の侯爵邸内に育英会の寄宿舎、進修学舎が落成して開舎式が行われた。 同学舎には常時貸費生、自費学生を併せて二十数名の和歌山県および三重県の旧紀州領出身の学生が 起居をともにしていた。 大正五年十二月、同会の幹事会は従来の主任幹事、常置幹事の制度を廃止して、五人の常務幹事に よって会務を運用することになった。貞次郎は川瀬善太郎、斎藤勇見彦、日疋信亮、植野徳太郎とと もに常任幹事に指名された。 大正七年八月には栗本鉄工所の創立者栗本勇之助が育英会に七千五百円の学術研究補助金を寄付し た。大正八年の同会予算は一万八千余円で、うち貸費額は一万余円だった。大正十年十月には創立十 周年大会が催され、徳川家から会の基金として五万円が寄付された。そして同十一年九月には財団法 人南葵育英会としてさらに事業の発展を図ることとなった。 昭和三年四月、育英会常務理事中の主役だった川瀬善太郎博士が退任したので、貞次郎は島薗順次 蝕郎とともに事実上の常務理事として会務の中心に立つこととなった。﹁昔の和歌山学生会の幹事が二 難人揃って育英会の世話をするわけだ﹂が実際は常務の山本敏一主事に任されていた。 捕 昭和六年には貞次郎は徳川家の顧問は辞職したが、育英会は引続いて常務理事の職にあった。この 勘 頃貸費生は九十名程度いた。寄宿舎は東京と京都と札幌にあっていつれも進修学舎と称した。京都の 嫁 不況と卒業者の就職難などから、その必要度が減少したと考えられるようになったので、大学、専門 藩酬寄宿舎は借家だったが、この年土地を買入れた。しかし、高等専門教育の奨励ということは数年来の 章 出て、三年前から農村青年を茨城県友部の国民高等学校︵加藤完治主宰︶へ入学させて、学資を会が 八 第 学校の貸費生は増員しなかった。他方で、農村の実務教育をやってみたいという主張が浜口担氏から 胞 昭和十二年四月、学生時代からの紀州の盟友島薗順次郎博士が逝去した。他方この年になって徳川 把家の財政状態が破綻に瀕して、同家から育英会への寄付は収入激減することになったが、貸費生の若 干の縮少などで会の事業は立行く見込だと書いている。 南葵育英会が創立された明治四十四年から貞次郎が死んだ昭和十五年まで二十九年間に会から貸費 を受けた学生数は七百三名に及んだ。そのうち陸海軍の学生が百二十三名、残りの五百八十名は大学 生だった。卒業後の職業も官公吏、銀行会社員、教育関係、医師、その他自由職業等雑多だった。 この年の予算が約三万四千円、うち貸費が一万六千円、学舎費六千円その他である。収入面は基本 財産収入一万一千円、貸費返還分一万二千円その他有志の賛助金等である。かくて徳川家の財政破綻 にもかふわらず、財団法人として独立した南葵育英会はその後戦争中を通じて運営されたのである。 貞次郎が亡くなったとき、同会常務理事の一人として多年貞次郎と接触し、また商大予科の健康相 談係も勤めた河北真太郎博士はその追悼文の中で﹁先生は育英会の事業を通じて見ても、学生に対し 非常に親切な方であったことがよく分るのである。貸費生の錠衡の場合の如きも先生は財政の許す限 り一人でも多くの人に便宜を与へ、立派に育てようとの精神を発揮せられたものである。﹂と書いてい る。 ぴ、ξ 第九章家庭の内と外 黷トいと向笠家のこと 一、 貞次郎は明治四十二年一月十四日、アメリカから帰国した。出迎えたのは兄敬太郎、親友加藤成一 とそれに向笠てい子だった。 ﹁向笠テイ子が宿へ来てくれた。テイ子は旧から余の好んだ婦人、洋行中にも手紙を往復して居た。 テイ子も余を愛して居たらうが、別に深い考もなかったらうと思ふ。併しそんな訳で嬉しいと思た。 それが余のテイ子を要る一つの動機となったらしい。 そのうちに余はテイ子と結婚しようと云ふ気に成た。・⋮⋮:⋮此時テイ子に対する余の愛は普通の を持て来て、関根要といふ婆さんもつれて来て先づ自分の家をかまへた。 外 飯倉の兄の宅に一月ばかり居て、それから麻布仲ノ町へ小さな家を借り、旧の水道端の家の古道具 と 内 の 家 申込んだ。直に承諾を得た。尤も結婚は延びて五月二十八日に成た。媒酌も森島夫人に頼んで内々で 章 友人としての情以上の或者と成た。そこで之を兄夫婦や松尾伯父に話して、それから先づ向笠の父に 九 庭 第 式を挙げた。﹂ 脇 と﹁日記﹂にある。このとき父貞次郎は三十歳、母てい子は二十七歳︵明治十五年生︶で当時とし 2 ては晩婚だった。洋行中に往復した手紙のうち、てい子のものが四通残っている。別に熱烈な恋文な さは千住の橋本家の娘で弟に又次郎がいた。 くなったこともあって長続きしなかった。恐らくこの頃、てい子も森島伯母からはじめて三味線の手 だ。専攻部を卒業した貞次郎は同三十六年暮から、森島夫人について三味線を習ったが、学校が忙し の病気もあってか、修太郎を大阪に残し、わか、直造の二子を伴って上京し、向笠の近くに移り住ん もって大阪の自宅で死去した。父は追悼の文を日記に書いている。その一、二年後、森島夫人は自身 同年輩の父とはよく話が合ったふめと思われる。しかし、正造は三十三年一月病気のため二十三歳を 多かったようである。それと云うのも森島の長男正造は当時三高在学中で造船技師を希望しており、 父はその後、森島、向笠両家をたびたび訪れるのだが、どちらかと云えぽ森島家へ足を運ぶことが 森島も向笠も上田章をよく知っていたことは間違いないところである。 学の教授を受けたと思われるが、学習館の資料が消失していて確認することは出来ない。とにかく、 習館に学び、同窓には岡崎邦輔、関直彦らがあった。彼等は貞次郎の父章︵専太郎︶から学習館で漢 大先輩森島によろしく頼むと云うことで引合せたのだと思われる。森島と向笠は多分ともに旧藩校学 っていた。松尾伯父はもちろん同郷人として両家と親しかったのだが、恐らく甥の貞次郎を一ッ橋の 造に紹介され、その席にいた岩之丞にも会ったのである。森島と向笠は義兄弟でもありすぐ近所に住 商に入学した翌三十年に伯父松尾三代太郎に連れられて小石川の森島家を訪問し、夫人いそ、長男正 岩之丞にはていを長女として、次女静、三女たま、四女冨があった。それはそれとして貞次郎は高 べr、 これより先、岩之丞は森島の妻いその妹まさをめとったので彼とは義兄弟の間柄となった。いそ、ま うに明治十七年には三菱為替会社を辞めて再び高等商業教授となり、同二十六年まで勤めた。そして 矢張り同郷の日疋信亮がいたので彼との交渉が多かったようである。森島は一ッ橋の項でも書いたよ 任給ではこの一家けん属を養えなかったので陸軍の御用商人となった。陸軍には後に主計監となった の前身︶に勤めていた森島修太郎だった。岩之丞も三菱に入るようにすふめられたのだが、当時の初 弟、妹を伴って上京した。たよりにしたのは先に上京して商法講習所を卒業して三菱為替会社︵銀行 ち武士の商法で粉屋を開業したが、たちまち財産をすってしまった。明治初年、岩之丞は母と兄一家、 えたが容れられなかったためと云うことである。そして維新になってその長子孝太郎は版籍奉w埠遍のの 征伐のとき、紀州から出征の途次岸和田で自害した。何でも長伐の不可能なことを殿様︵茂承︶に訴 之丞は紀州藩の出身で代々藩に仕えた士族の末えいだった。岩之丞の父三之助は維新前、幕府の長州 父はすでに兄弟二人の身だったので、私どもにとって祖父母は母方しかなかった。この祖父向笠岩 ら手紙が来て返事を書いたことは﹁日記﹂に書かれている。 ともに激石の﹁猫﹂を送って来て一夜で面白く読んだとある。父の手紙は残っていないが、てい子か どと云えるものではなくて、家人の動静や東京の時事風俗を書き送ったものに過ぎない。その一通と 64 外 の 九 と 内 庭 家 章 第 2 ほどきを受けたと云っていたから、あるいは両人が顔を合せる機会もあったかと思われる。したがっ 65 ︾ぶデ て父と母とは父の学生時代からの知り合いであって、そもなれそめなどと云うには長過ぎた春だった 66 2 のかもしれない。 母はお茶の水女学校を卒業して、日本女子大学に入学したと聞いているが、後者については明らか でない。その後、料理を習ったり、横浜で幼稚園の保母をしたこともあって、その写真が残っている。 また、内村鑑三のバイブルクラスに参加したこともあり、友達の手引きで社会主義者の演説会に出席 した少数の女性の一人だったと聞いているから当時の進歩的婦人だったのだろう。私は母から幸徳秋 水、西川光次郎、木下尚江などの印象を聞かされたものである。とくに堺利彦はがらのわるい、いや らしい男だと語っていたから、あるいは若い利彦にからかわれたことがあったのかも知れない。もち ろん、母はこの運動に入ったのではなく、やがて祖父にたしなめられて引込んでしまったようである。 二、小石川小日向台町 その年の夏になって母が妊娠したので、向笠の宅に近い小石川区小日向台町一−六二に転居した。 翌年二月十四日私、正一が大学病院で生れた。 ﹁正一は段々可愛く成てくる。併し余とテイ子との愛は子供にも奪はれない。家庭生活は愉快にして 満足だ。﹂と書いている。なお、この年八月森島修太郎が逝去した。 したので女中二人を加へて九人の大家族となった。翌大正二年七月十八日三男信三がこの家で生れた。 相当広かった。貞次郎夫婦と二児に河野宗人、宗次兄弟︵渡辺与七の義弟︶を預り、森島直造も同居 便宜を考えたためである。この家は私もかすかに覚えているが、新網町の崖下で庭に池があり、家も この年十一月、一家は麻布新網町一ー一五へ引越した。父の親友加藤成一の家で、頼貞氏と往復の を士族のなれの果てだが、とも角も面白味のある人物だったと語っていた。 翌四十五年四月、同居していた伯父松尾三代太郎が六十六歳で死去した。父は私にこの伯父のこと くなかった。唯かたわでないと云ふから悲しくは感じなかった位のこと。﹂と書いている。 ﹁余が帰た時、産婆や下女がお目出度う御座居ますといふた。余は正一の生れた時と同じく別に嬉し 小日向台町一ー三五へ引越した。そして十月一日次男良二が生れた。 r陪ぢ 、 翌四十四年夏、父は徳川頼貞氏の教育掛として軽井沢で四十日間ホテル生活をした。この間に家は の つうちに父は汽車の発車間際になってあたふたとかけつけて家族との挨拶もそこそこにその汽車に飛 って帰宅せず、宿泊先もわからなかった。困ったことになったと思ったが、見送りのため新橋駅で待 は母と叔母らに連れられて新橋駅に見送りに行った。あとで母から聞いた話では父は前夜送別会があ 外 そして父は九月には頼貞氏の指導役を兼ねて再度、英国留学に出発したのである。この出発のとき私 と 内 庭 家 障 父が留守になったので母は子供三人と加地吉彦︵沼津商業校長︶の世話で、冬暖くて子供の健康に 豹乗ったと云ふことである。 蜥 いsと云うことで沼津へ手頃な家を借りて引移った。母は三人の子供をかかえて心細かったようだが、 ’﹀ぐ、 iソ ハ 妹の静、玉らに同居してもらったので寂しさはまぎれた。父は母への手紙で ﹁西洋へ行って死んだら何ふだろう。正一が四つだから丁度僕の父を失た年だなどと考へたんだ。併 翌五年八月九日チブスのため、大学病院に入院 の家を構えることは夢のようだが、当時は第一次大戦の影響で東京の郊外が発展途上にあったために 借りて、同六年四月六十坪の家を新築してこふに移った。今から考えるといくら安普請でもこれだけ そこで父は成践に近い目白方面に土地をさがし、高田村雑司ヶ谷上り屋敷一一二二に三百坪の土地を 石川から池袋へは高等師範前で市電に乗り、大塚で省線に乗りつぐために子供にとっては不便だった。 五年四月に私は池袋の成蹟小学校に入学した。両親がどうして成践を選んだのか明かでないが、小 三、目白のころ して死んだ。 生れた。はじめての女の子で父も母も喜んだのだが、 で、子供達は階段をあがってはいけないと教えられていた。この家で同四年十一月一日長女タッ子が 父の帰った家は小日向台町二ー三五で二階建で部屋数も六室あったと覚えている。二階は父の書斎 ュ﹂に行っていると云ったと母が笑って話していた。 東京駅に着いた。良二は幼かったので父の顔を忘れていて、父に向って﹁ボクのお父様はイニリチ 大正三年末には帰国した。このとき、私は母に連れられて、良二と一緒に国府津まで出迎へ、新築の 父のこの留学は別項のように学校からの帰朝命令と第一次欧州大戦の勃発で、約一年で終りをとげ、 いる。 りこれを貯金して父の帰国後家を建てることにした。父はその家の図面はこんなものだなどと書いて 本は好評でよく売れたが、それでも費用の半分にもならなかった。これで洋行をあきらめて、その代 から借金をするほどのこともないので、洋行中に出版された﹁株式会社経済論﹂の印税をあてにした。 費は五十円あれば足りたが、洋行するには往復の船賃と二ヵ月の滞在費が二千円程度か瓦った。他人 父もお前が来てロンドンの駅で出迎えたいと書いている。当時学校の月給は百円で母と子供の生活 このときの往復書簡が残っているが、はじめ母は夫のいる英国へ行きたいと思った。 し幸にしてまだ生きてゐる。中々撲ても死にそうもないから安心して下さい。﹂と書き送っている。 % の 二千円借金したと云うことである。前田は神戸の兼松商店で大戦景気に潤っていたこともあって父の 外 この程度の家は処々に見られたのである。もっとも両親はこの家を建てるために親友前田卯之助から と 内 庭 家 借金に応じたのだと思われるが、それにしても大らかな時代だったと云えよう。 正面に受けて二階のひさしは全部飛んでしまい、雨戸は飛ぶし、ガラス戸は割れ、屋根瓦も飛び落ち 章 この年の大事件は十月一日の台風だった。家が二階建で前にさえぎるものがないのだから暴風を真 九 第 た。二階の畳は全部濡れて使いものにならなくなった。幸に階下は雨漏り程度でなんとかしのげたが、 捌風の音と物のぶつかる音で子供ながら眠ることも出来ず、恐ろしい一夜を明かしたのである。明けれ 2 ぽ快晴無風、家の者も隣近所でもあらしのつめあとを片づけるために忙しかった。この家の被害がと に行ったこともあるし、電車の中に忘れてそのまふなくしてしまったこともあった。とくに雨の日に あった。それに物をなくすことも多かった。書類入れの皮カバンをよく忘れ、あとから料理屋へとり れるので手帳に書きとめるのだが、それでもなお忘れて、あとで仕まったと頭をかくことがしばしぼ のことなどは忘れる筈もなかったのだが、家庭のこととか、友人との約束などはよく忘れた。よく忘 はないかと思われる。楽天性と云えぽ父の場合、健忘症とも云うべき性質があった。学問とか、学校 ようである。これが重症にならず、スランプが続かないで済んだのは多分生来の楽天性にあったので われるが、本を読み、文を書く人間の常として若いときから神経衰弱にも悩まされることが多かった 父は祖父章が胃病で死んだこともあって胃腸病にはかなり神経質だった。それと裏はらのこと玉思 たsめに甘い物が欲しくなり、その余慶が子供達にも及んだのである。 i は少かった。夕方帰宅するようになって、父はよく目白駅前の菓子屋で餅菓子を買って来た。禁酒し もちろん、目白に移ってからも夕食までに帰宅することは稀で、私どもは父と食卓をともにすること 父は胃病の養生のために夜の宴会等を断ったので、夕方には帰宅するようになった。小石川時代は 少妨げられる不便あるべし。其利害は今後一年位たてぽ判る。﹂ ことになれば、当分諸会合等は大抵謝絶の外なく、従て生活は規則的になる代りに外部との接触は多 ﹁余の胃病治療は生活上に大なる変化を来らしむるならんと思はる。酒を飲まず、食物をも制限する てはいけない。そして禁酒禁肉をすsめられたのである。禁肉と云うのは肉食の禁止である。 受けた。その結果、とくに疾患はないが、胃腸が弱っているから、このまふ従来のような飲食を続け 大正七年八月、父は講演を頼まれて和歌山へ行き、その帰途京都帝大医学部で島薗順次郎の診断を に入学して、兄弟三人は徒歩十五分程度で同校に通学したのである。 翌七年四月十七日には四男勇五が生れた。そして、七年に良二、九年に信三がそれぞれ成蹟小学校 こともあった。建具類も雑だったふめに一寸した風でも雨戸やガラス戸がガタガタと音を立てた。 は柱も細かったSめか、五十米離れた線路を貨車が走ると家全体が震動し、二階では地震と間違える 実は安ぶしんで、木組もわるかったし、ひさしなど相当手が抜いてあったふめかと思われる。この家 くに大きかったのは五月に建ったぽかりで、まだ釘がしまっていなかったのだなどとも聞かされたが、 70 家 の この年は米価が暴騰して平年の三倍に達し、八月に米騒動が起った。わが家は郊外に住んでいたの まわないのだと放言することさえあった。 ったが、その場所すら記憶にないことが多かった。忘れ物は自分の損害で人に迷惑はかけないからか 外 傘を持って行けぽ必ずと云っていふ程忘れた。置忘れた場所が解っていてあとでとりに行くこともあ と 内 庭 章 九 第 で大した影響はなかったが、市内では暴徒が商店を弘ったり、蔵に放火したりした。小学校でも市内 から通って来る商家の子女はその恐ろしさを作文に書いたりした。 十月二十九日にはながらく患っていた岳父向笠岩之丞が木更津の転地先で死んだ。私も父に連れら m れて木更津の漁家の離家に見舞に行ったが、祖父は孫の顔をちっと見てうなついた黛けだった。この 勿葬儀そのほかはもちろん、父が中心になってとりしきったのである。 向笠では三女玉子は大正六年六月高谷実太郎と結婚したので、私の祖母にあたるまさと二女静子、 四女冨子が残った。二女静子はその後、林加茂平と結婚したのだが、このとき向笠家の相続問題が起 った。静子があととりだから林を養子として迎えたいというのである。これには祖母が反対して静子 は林に入籍した。祖母まさと冨子は大正十年四月目白の家の裏にさらに八十坪の土地を追加して借り て、そこに十坪余の隠居所を建てs移り住んだ。ところが冨子は同十二年結核にかxって祖母はその 療養看護に専心することになった。年とってからのことで痛ましかったが、側で見ていて驚く程医者 の言を守って忠実に看護した。そのためか、冨子は生命を長らえることが出来たのである。 私、良二、信三の三人は一年おきのクラスで成践小学校に通学していたが、大正十年私が六年生に なったとき、どこの中学へ進学するかぶ問題となった。成蹟小学校は一学年三〇人の少数教育で、当 時まだ創立者中村春二氏が校長で理想教育を実践していた。中学校も併立されていて池袋の同じ敷地 内にあった。父は私に対して成践中学校へ行けと云った。その理由は幼い小学生が試験のために余計 な勉強をするのはよくないことだと云う父の持論だった。 ﹁余は試験で子供をいぢめるのは甚だ不可と思ふ。⋮⋮⋮特に同中学は試験準備に力を用ひたくない ︸トτ旨﹂ ﹂タ Wγ といふ方針を取ることだけは確かだから、此点に於て余の意見に一致してゐる。試験準備を等閑にし、 己O汀 従てよき高等学校へ入れなかった場合には困るであらう。寧ろ節を屈して準備をなすべきではないか といふものがある。併し実力が養成されて居れば高等学校の入学試験にも及第出来ると思ふ。 仮によき高等学校からよき大学に行きて学閥を背負うて社会に出ることが出来ないとしても、やは り実力は最後の力である。自力に訴へるといふ信念を子供に与えてやりたい。﹂ そう云えぽ父は私達に対して勉強しろとは云わず、学期末の成績表や席次についても殆んど関心を もたなかった。とくに受験地獄に対して批判的だったことは間違いないが、それは子供達がまだ中学 に入る段階にあったからであろう。 ﹁⋮⋮正一の日常生活を観察して見るに、彼が呑込みが早く記憶もよく、理解力も相当にあるけれど 子供の特質については 推理をしないから、技師には不向きで普通の文官か裁判官等がよささうに思ふ。 良二は正一よりも観察力、推理力に於て優り、学校の理科の教師は褒めているさうだ。又彼は機械 先ず工科でもやらしたらと思ふ。 章 等に趣味を有して居る。併し実行力に於ては正一に及ばない。彼は温良で如才ないが勇気には乏しい。 九 家 の 外 も、研究心と創意に乏しいから学者にはなれまい。⋮⋮⋮故に官吏杯が適当かも知れぬ。併し精密な と 内 庭 第 信三はまだ全く分らない⋮⋮﹂ 鵬 ・ 2 ﹁五日は北海道から来て居た為替金百円を取りに郵便局へ行た。此際現金が入用と思たのだ。⋮⋮⋮ わがせたが事実もたしかにあったらしい。﹂ ことにしたが、この夜警は六日まで続けた。鮮人来襲の噂は事実以上に大げさに伝へられて人々をさ で警戒することになり、余は若林氏と共に門前に番をすることになった。夜半以後は川合に代らせる た。さうすると上り屋敷の交番から不逞鮮人が放火をするからとの注意が来て夜は上り屋敷会員総出 ﹁二日には学校から飯倉へ廻らうかと思ったが、又宅の方が気になるので学校の自転車をかりて帰っ られなかった。夜中にも度々外へ出て火事を見た。多くの人が野宿して居たので外は賑かだった。﹂ ﹁宅は破損も少かったから]通り掃除をして室内へ寝ることにしたが、屡々余震が来るので殆んど寝 と感じた。﹂ てから火の手は鬼子母神の森の端から端までにひろがって真紅に見えた。愈々是は有史以来の大事件 中から帰る人が諸方に大火事が起り、しかも水道がこわれて消防の足りないことを伝へた。夜に入っ きな入道雲に火がうつってものすごい光景になったので、是は容易ならずと考へだした。その内に市 うとは想像しなかった。⋮⋮⋮併し、追々市中に火災が起って煙があがる。その時東方に現はれた大 近所の家の屋根は大抵瓦をふるいおとした。それ故大地震と思ったが、市中につぶれやが出来たら ふすまが二三枚はつれたりした。 ﹁地震は水平四寸の震動で宅の池水がパチャパチャ溢れ出た。箪笥の上にあった置時計がおちたり、 記﹂はこのときのことをかなり詳しく書いている。 叔母の八人に川合淳太郎と女中が一人いた。この地震は震度七以上で一週間位は余震が続いた。 ﹁日 の指揮に従って庭のブドウ棚の下にゴザを敷いて休んだ。当時は父、母、子供四人、向笠祖母、冨子 長唄の稽古をしていたが、驚いて師匠の小鶴さんを引つって庭に出たと云う。それから家族一同は父 こんでしまった。一町先の地主鏑木家の大谷石の塀がどっとくつれ落ちた。父はこの年からはじめた ことなど話をしていた。そのとき、いきなりグラグラっときて、立っていられないで思わずしゃがみ 大正十二年九月一日は快晴だった。丁度、昼頃、私と良二は目白の家の裏門で近所の友達と学校の @4 四、大震災のあと 7 九 の た。それから行て見ると署長の代理といふ人が色々自誓団が武器を用ひたり、制服の巡査を誰何した 屋敷会の常務たる阪本、松岡両氏が警察へ拘引されたので取戻しに行くから同行してくれと云って来 七日の朝早く婦人の友の羽仁氏が来訪して、昨夜た言戒中二人の学生と巡査と衝突して其学生と上り も同じことをした。七日には汽車が動くやうになって通行人も減じたからやめた。 を出し、水を与へて休ませるやうにした。貞子はかゆを煮て出したが、かなり繁昌した。それで六日 外 此日も好天気で非常に暑かった。それから思付いて宅の前の鉄道線路を歩く人のために木蔭へ椅子 と 内 庭 家 章 第 2 りして手数をかけることに就いて苦情を述べた。至極尤のこともあり、尤でないこともあったが、兎 75 祝 に角あやまって阪本、松岡両氏だけは早速返してもらふことに成た。﹂ ﹁八日⋮⋮⋮㍗今 夜 か ら 夜 警 は や め た 。 ﹂ ﹁十日、雨の為めに外出を見合せ、二階を掃除し、ふすま等をなおした。昨夜から電燈は来て居るが、 早寝の癖がついて寝 て し ま っ た 。 ﹂ 翌十三年、東京は焼跡が片づけられてバラック建築の槌音が高くひびいた復興の年だった。この頃 父は頭にハゲが出来て次第に拡大し、禿頭病とわかってその治療をしていた。これ位がわが家の病気 で家族一同は健在だった・この年四月成暖学園が吉祥寺の現在の場所に移転したので、私ども兄弟三 人は約一時間かかって目白から新宿乗かえで通学した。私はあまり成績がよくなかったが、両親は不 思議と思われる程勉強しろとは云わず、放任していた。私は西洋史の試験で落第点をと?先生から ﹁君のお父さんは歴史家としても有名なのに何と云うざまだ已と叱責された。前年、英国産業革命史 論が出版されて好評を博していた時でもあった。家に帰ってこのことを話すと父は教科書を見せうと 云ってその頁をめくって、﹁あふこんなのか。﹂と云った。そして﹁お父さんの歴史は同じ歴史でもず っと面白いよ。﹂と云った。その商業史教科書︵日本および外国︶は商業学校の四、五年用として相当 広く使われていて、今読んでも一通りの常識に合ったものと思うが、当時の私にはまだ難しくてこれ を読む意欲は持たなかった。面白いことに良二もまた三年になったとき歴史で落第点をとった。信三 大正十四年、私は成躍中学四年になった。この年に成渓は七年制高校に昇格したので、二年上級の て軽侮の目をもって見られることふなったように思われる。 り善人として友人知友からは心を許されたが、世人からはむしろその方面の行動力に欠ける人間とし ん社会に出てからも心の奥で支配力を持ち、生涯を通じて身についたものとなったようである。つま て却って肩身のせまい思いをしたこともあった。私達兄弟にとってこの父の教えは学生時代はもちろ ってしまった。のちになってカンニングで友達の苦境を助けなけれぽならないときもそれが出来なく 父さんの子ではないとも云った。このように厳重にごまかしを管理されたためか、私はかたくなにな り、ましてや人に教わったりしていふ点をとろうなどと考えてはいけない。そんなことをする子はお っても仕方がない。それは次の機会に勉強してとり返せぽい入。だが、カンニングペーパーを使った ならないとさとした。何ごとについてもごまかしてはいけない。学課の試験が出来なくて落第点をと 父は子供達に対して学校の成績についてはやかましく云わなかったが、カンニソグは絶対にしては かったようである 。 だけはくそ真面目で歴史地理などが好きでよく勉強をしたので好成績で落第点をとるようなことはな の 家 と 外 内 庭 の態度をきめなけれぽならなくなった。私は成践には小中学を通じて十年在学しており、若い時代の 章 組が高校第一回入学者となり、 一年上級の四年終了者のうち成績のいふ者はこの第一回生に編入され 九 第 た。われわれの級も来年は四年終了で高校進学が出来るので、進学か否か、進学の場合文科か理科か 2 何かを求める心からこのま瓦成蹟高校への進学を希望しなかった。従来、成践中学でも特に優秀なも 77 のは二高をはじめ、官立高校へ進学していたので、私もそうしたいと思ったのだが、 一高受験には学 跳力が足りないことを自覚していた。 高校進学と云っても、私はまだ何になりたいと云う目標はあまりはっきりしていなかった。学者か、 法律家か、実業家か、いつれにしても高等学校の文科へ入学してから目標をきめれぽいsと思ってい た。兎に角、白線帽をかぶって朴歯の下駄をはいて街を闊歩したいと云った単純なあこがれしか持っ ていなかった。すでに外交官とか、銀行家とか、裁判官とかはっきりした目標を持っている人を見る といかにもまぶしく見えた。恐らくその人達だって、特別の天才とか、家業のある人は別として淡い 希望を持っているに過ぎなかったのだと思うが。これに続く私の商大予科進学の経緯は第五章に書い た通りである。 父は昭和四年八月末母を伴って外遊した。大学教授として講義を休んで外遊する順番になっていて、 これは自分のような忙しい学者にとって有難い制度だと喜んでいた。 ﹁外遊計画は最初支那、南洋、印度へ行かうと考へてゐたが、恰かも国際連盟協会の連合会が十月初 にプラーグで開かれ、経済問題を議する事になったから、是非其方へ出たらよからうと志立鉄次郎、 山川端夫両氏からすsめられたので、結局再度渡欧と決した。﹂ 留守宅は向笠の祖母が預ってくれた。当時すでに六十七歳だったから、女中がいても家事を切盛り たので、同氏に随行して明治四十四年の夏約四十日間、四十五年の夏二十日間、それぞれ軽井沢でホ 父は大正十四年沓掛︵現中軽井沢︶千ヶ滝に茅葺の別荘を作った。父は頼貞侯の教育指導掛となっ 五、軽井沢千ヶ滝夜雨荘 よび学費などに金がさっと出て行ってしまうと云って驚いていた。 三百六十円︶で家計を賄ったのだが、これだけあれぽ充分と思っていたのに四人の食費など生活費お 泊ってくれることがわれわれに安心を与えたと云うことだった。祖母は留守を預って父の月給︵当時 々木棟太郎氏がオーストラリアから帰朝して留守宅の監督をしてくれたが、同氏も昼間は出勤して夜 が同中学三年、勇五がまだ小学校だった。その後しばらくして、学生時代家に居られた三井物産の佐 して四人の孫の世話をするのは大仕事だったと思われる。私が予科二年、良二が成渓高校一年、信三 の れられて軽井沢へ四泊五日の旅行をした。たべ当時軽井沢と云えば、貴族、富豪の別荘地とされてい 外 テル生活をしたので、当地の夏が快適なことをよく知っていた。大正七年八月には私と良二も父に連 と 内 庭 たので、大学教授で別荘を持つことなど思いもよらぬことだった。ところが、大正の末箱根土地株式 家 大の国立移転について交渉のあった佐野学長が、自分も別荘を作るからお前もどうかと云われて父は 章 会社︵社長堤康次郎︶が沓掛千ヶ滝に三百万坪の別荘地を開発して売り出した。たまたま堤社長と商 九 第 坪、家屋三十坪で当時土地が坪当三円五十銭、家が坪当四十円程度で合計二千数百円だった。父はこ 早速現地へ出かけて佐野の隣地を選定し、建築も同社に依頼して別荘が出来上った。はじめ土地三百 m 2 れを夜雨荘と称して、佐野学長に扁額を書いてもらった。 この夏以来、父は毎夏をこふで過すこととなった。毎年七月の高等試験が終るとその答案を持って 80 こふで検査採点した。それを済すと雑誌論文を書いたり、講義案を作ったりした。昭和五年の夏には 小田橋貞寿を助手として﹁商工経営﹂を口述筆記して商学全集の一巻として刊行した。昭和六年には ﹁公民科教科書﹂を書いた。昭和七年には再び小田橋を助手として経済学全集︵日本評論社︶第二十 八巻中の﹁最近世界及日本の関税政策﹂を書いた。同十年は﹁商工経営﹂の修正をした。 千ヶ滝には内池廉吉、下野直太郎、米田実らの別荘もあった。また万平ホテルで軽井沢如水会も夏 に一回は開かれた。父はたびたび浅間登山もしたし、こ入を基地として燕岳へ行ったり、八ヶ岳登山 をしたりした。別荘滞在中は仕事が終ると一人で草苅りをしていた。夜になると母を相手にザル碁を 打って、よく口争いをしていたのを覚えている。 子供達はもっぱらテニスを楽しみ、テニス仲間と浅間牧場や神津牧場ヘピクニックをしたこともあ った。 この年、商大を退学した私は山中篤太郎氏の紹介で、蠣山政道氏の主宰する東京政治経済研究所に 多い年だったが、この中で門下生達の好意は身に余るものだと感激をもって書いている。 昭和六年は貞次郎にとって、私の退学にからむ学内問題とか、徳川家顧問辞任など不愉快なことの 寝室を与へられることになった。建築は十二月に完成して引越すことが出来た。 十坪余で全部洋室として、父の書斎、寝室、応接室、食堂のほか私達兄弟も二階に二人宛勉強部屋と 四年前から積んでいた。それが一万数千円あったので、若干の手元金を加へて新宅を建てた。建坪六 たので買うことにした。別項で書いたように門下生の集りである上田会で父のために書斎建築資金を 要するので中央線沿線に土地をさがした。昭和六年少し狭いが、中野区桃園町九に百坪の土地があっ 子供達に適しなかったので建直したいと考えていた。また、商大が国立に移って父の出勤にも時間を 目白の家は大正六年、まだ私達が小さかった時建てたので、広さはあっても間取りなどが成長した 六、中野桃園町 父は筆まめだったから、別荘に夜雨荘日記︵﹁上田貞次郎日記﹂晩年編︶を残した。 家 の 社に入社した。父の親友高島菊次郎の好意によったものである。 私は弁護士を志したのであるが、昭和九年高文司法科試験に失敗して、翌十年卒業後共同洋紙株式会 に入学した。父は私に対してしきりに法律を勉強しろとす入め、私もついにその気になったのである。 外 助手として勤めさせてもらった。仕事は﹁政治経済年鑑﹂の編輯だった。翌七年私は中央大学法学部 と 内 庭 章 九 第 父の言葉の通り、私をのぞくと良二、信三は平穏な青年時代を送った。 良二は昭和六年成膜高校を卒業して、東京帝大理学部物理学科に入学し、昭和九年卒業して.同科 捌 の助手に採用されていた。 信三は昭和八年成渓高校を卒業して、東京帝大理学部地理学科に入学し、昭和十一年卒業して大学 ときはまだ公報が入っていなかったのだが、母の不吉な予想が奇しくも適中したのである。 海から現地応召して、昭和二十年敗戦を前にビルマ戦線でマラリヤのため戦病死しており、母の死の た。自分が死ぬとき、ほかの子供はいたのだが、信三だけはいなかったと。その言葉通り、信三は上 最もひどかった敗戦の翌二十一年六十五歳で死去した。母は亡くなる前に夢を見たと云って私に話し 平洋戦争がはじまり、国民生活は食料、衣料ともに不足して次第に窮迫して行った。母はこの窮乏の 私達はまだ独身だったので、私と良二は母と共に中野の家に同居していた。翌十六年十二月には太 なかったが、ようやく葬儀には参列することが出来た。 勇五だけは第二高等学校三年に在学中だった。信三は上海勤務だったので、父の死に目には間に合わ 二は東京帝大理学部物理学科の助手をつとめ、信三は昭和十三年に就職した東亜同文書院講師だった。 父が亡くなったとき私は昭和十二年共同洋紙から王子製紙に移って販売部第三係の社員だった。良 のである。 その後、、一時目覚めたとき、母が子供達に何か云うことはないかと聞いたが、父は何もないと答えた 昭和十五年五月、父が病院で死ぬ前に大学関係者を集めて遺言をした後、父はまた静かに眠った。 しかし、この程度の財産はたよりにならないから各自、親に頼らないで自活しろと云うものだった。 死んでも母は扶助料として毎月百円あるから一人の生活には不自由はない。 自分が退官しても退職手当七千円と恩給が毎月二百円位あるから夫婦の生活には困らない。自分が 費を与える必要がある。貸家収入で残った金は病気などの場合に備えて母が保管する。 ることになるが、現状では母に一切任せうと云った。母は勇五の学資を払い、、冨子︵母の妹︶に生活 地、目白の貸家五軒についてその処分の説明をした。自分が死ねぽ法律上は長男正一が財産を相続す 昭和十二年十一月、父は私ども兄弟三人を集めて自分の財産、中野の家、千ヶ滝の別荘、国立の土 勇五は府立六中から、北大と高校を目標に受験勉強をしていた。 82 2 院生となった。 外 の 九 家 と 内 庭 章 第 鰯