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開発秘話:LDD発明物語

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開発秘話:LDD発明物語
Innovation stories
開発秘話:LDD発明物語
エ サキ ヒデ ヤ
元 松下電器産業株式会社 中央研究所
(現パナソニック) 江崎 豪彌
■ はじめに
LDDとは Lightly-Doped Drainのことで、
MOSFETの構成要素であるソース・ドレイン拡
散層の構造に関する言葉である。微細化ととも
に強まる接合近傍での電界強度を低下させるた
めに、ソース・ドレイン拡散層の不純物分布を緩
やかにする事を目的としたものである。
(製法
は右図1参照)
■ 当時の半導体技術の課題
研究していた1976-77年ごろ、業界としては、
設計寸法は4-5µmで、16K-DRAMが生産され
図1 LDDの製造工程概略図
ていて、64K-DRAMの開発が進んでいた時期
であった。さらに将来を見た場合、デバイスが1µm近傍まで微細
しかし、ちょうど新しい期が始まっていて、研究計画とその予
化した時に、外部印加電圧を下げるにしても、局所的な電界強度
算が確定した直後だったために、既存のプロジェクトに編入さ
が高まり、信頼性が劣ることは基礎的な研究から予測された。
れず、研究テーマ設定とその進め方が完全に筆者個人の自由に
そこで、拡散層の不純物分布を緩やかにする必要が生じたが、
任された。
当時利用できたのは、マスク合せにより、薄い不純物拡散と濃い
この自由な研究環境を許してくださった当時の課長、石原健
不純物拡散を少しだけずらして作り込む方法であった。国際学
氏の寛大な措置がLDDの製法発明へ至る大きな契機となった。
会では、1970年のIEDMで、米IBMからその方法によるMOSFET
ただし、緊急事態が発生した場合は、課の仕事を手伝うこと、ま
の試作が発表されていた。
しかし、
マスク合せ精度は、
0.3µm程度
た、予算は課全体予算の中でやりくりできる範囲で、つまり、在
もあったので、たとえば、0.3µm幅の低濃度層を作ろうとしても、
庫に余裕のあるウェーハと少々の化学材料が使える、という条
できてくるデバイスでは、0-0.6µmものばらつきが生じてしまう。
件付だった。当然、部下ナシ、一人だけの自主プロジェクトであ
これでは、寸法の大きな高耐圧デバイスは作れても、1µm近傍
の微細な超LSIデバイスは作れない。
った。
に参加
そのころ、松下は国家プロジェクトの
「超LSI研究組合」
できなかったために、独自に中央研究所で3-4µmの微細プロセ
■ 研究着手時の状況
スの研究開発を開始していた。
筆者は昭和38年に松下電器に入社して、中央研究所で
MOSFETの研究に従事していた。
この発明を生み出す研究の数年前に、主に自動車電話用の
■ 発明の経緯と展開
“技術の実用
テーマ設定では、それまでの経験で痛感していた
CMOS-ICのロジック回路設計、プロセス開発、試作、信頼性試
にこだわり、今後の微細化へ向けて大きな障害になりそうで、
性”
験とサンプル出荷などをしていた。この仕事を通じて、技術の実用
しかも、上記プロジェクトで取り上げられていないテーマ、
「信
化における信頼性と生産性(特に製造ばらつき)
の重要性を実
を目標に設定した。そして、
頼性の高い微細MOSFETの開発」
感していた。
そのこだわりから、生産性、つまり製造ばらつき低減も必要条件
35歳になる直前、全社技術企画部門へ企画スタッフと
その後、
とした。
して移籍させられ、現場で研究開発に従事できなくなった。とこ
そのためには、どうしても、マスク合せではなく自己整合的な
ろが、偶然にも、約10ヵ月後にその組織が解散になった。これを
プロセスであるべきだ、という方針が、取組み開始のはじめのこ
もう一度現場で働ける良い機会と捉え、現場復帰を決心して、元
ろに、はっきり固まって行った。文献や特許調査をし、その方針
居た職場に戻してもらった。
に沿って、いろいろなアイデアを出して、それらを虱潰しに実験
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SEMI News • 2008, 11-12
Innovation stories
した。中には学会発表や特許出願へこぎつけたものもあったが、
不純物濃度を変えてイオン注入すれば、ゲート端部に対して、高
生産性の問題は依然残っていて、実用性という観点からは満足
精度に位置が制御され互いにわずかにずれた低濃度と高濃度の
の行く結果ではなかった。
二つの拡散層が形成されるのである。
このころには、すでに着手から1年半が経過して、図が書き込
1年経ったころから、展示会向けのサンプル作りのための設計
や試作、および製造現場への技術引継ぎも急ぐ必要が出てきて、
まれた実験ノートの頁の日付は1977年6月13日であった。歳も
37歳になっていた。
課としての重要テーマが繁忙をきわめ始め、それらの支援に狩
り出される頻度が増えきた。自主テーマ研究はもう終りかな、と
焦りを感じ始めていた。
かくして、
“自己整合法”
を使った実用的な微細なMOSFETの
製造技術の着想を得た。すぐ、本社知財部門に相談して、福本徹
そのころ、当時の配線材料であるアルミニウムのエッチング
氏を中心とする知財専門家の助言を受け、
特許明細書を7件書い
において“ウエット・エッチング”から“ドライ・エッチング”への
た。日曜日に、子供をスイミング・スクールへ連れて行き、待って
切替えが模索され始めていた時期であった。そして、松下でも、
いる間に車の中で書いたものもあった。
業界動向に敏感な石原健氏がその装置を導入し、若手技術者
の石河大典氏がその実験を担当することになり、その実験が筆者
の研究と同時進行していた。
1)
特許庁に届けられたのは1977年9月14日 であった。取り組
み始めてから、2年近くが経過していた。
当時としては、知財部門が着想時点から明細書作成に参画す
石河氏は平坦面上のパターン形成に成功し、段差のある下地
るのはきわめて異例であったが、そのお蔭で立派な明細書がで
の上のアルミのエッチングへと移行したが、それから、アルミが
きて、後に、他社からの異議申し立てに対して迅速かつ有効に対
うまく切れない問題にぶつかっていた。自分の研究が壁に突き
処できた。
当たってしまって、進退窮まったので、実験の待ち時間に困って
発明は
【生みの親】
だけでは駄目で、知財専門家という
【育て
いる人の相談にでも乗ってあげようかと思い、
ドライ・エッチン
の親】
がいないと大きくは育たないと痛感した。本発明は、後に、
グ実験の詳しい話を石河氏に聞いた。
この時、
直接関係ない人の
欧米先進企業からの知財攻勢に有効に戦える特許となった。
お節介な干渉に石河氏が率直に対応してくれたことが、次の展
開への大きな契機となった。
■ おわりに
転勤先から元の職場への思いがけない帰還、自由な研究環境
問題は、段差を越えて平行に走るアルミ・パターン間がショー
を与えてくれた上司のお蔭による自由な目標設定、ドライエッ
トすることであった。筆者はドライ・エッチングは素人であった
チング技術の黎明期との遭遇、行き詰った時に他人の問題解決
ので、その基礎を勉強して、素朴にそのメカニズムを考えた。そ
へのお節介な介入、それに率直に対応してくれた人の存在、その
して、夜自宅で、課題を図解している時に、ある条件の下では段
問題から偶然気づいたヒントを生かした発想、明細書作成に着
差部でアルミが残ることに気づいた。それは、段差部でのアルミ
想時点から参画して相談に乗っていただいた知財専門家などな
の膜の被覆度合いとエッチングの異方性の度合いとが関わって
ど、自分の経験と決断と周りの支援の上に、幸運な偶然が折り重
いるはずだった。
なり合って、発明者の資質を超えた有用性の高い発明が生み出
そこで、異方性を軽減する条件を入れて実験してもらったら、
された。
アルミのショートは解消された。石河氏は、残された問題、パタ
ーン精度と異方性軽減という矛盾する要因の妥協点を見出す実
験を始めた。
LDDという言葉とその技術内容が国際学会に出てきたのは、
注)
そして、この段差部での膜残り問題は、微細な幅の膜形成がで
1980年に、IBMのS.Ogura氏が発表した論文2)が始めてであ
きることを示唆していて、いくつかの条件が整えば、自己整合的
る。S.Ogura氏が特許出願したのは1980年12月17日である。
で精度のよい微細パターン形成の製法になりうるのではないか、
<参考文献>
と考えた。そこで、石河氏に、アルミに代えて、段差のあるパター
1)
江崎豪彌 石河大典、特公昭62-31506(出願番号 昭和52-
ン上に堆積させた絶縁膜の全面にドライ・エッチングをしても
110724、出願1977年9月14日)
らったところ、予想通り、段差部に沿って自己整合的に側壁を覆
2)
S.Ogura et al. “Design and characteristics of the lightly doped
う微細な幅の絶縁膜が形成できることが実証された。側壁の幅
drain-source(LDD)
insulated gate field-effect transistor”, IEEE
この絶縁膜側壁の形成前後に、
は0.3µmでも高精度に作られた。
Trans. Electron Devices, Vol.ED-27, pp.1359-1367, 1980.
11-12, 2008 • SEMI News
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