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アメリカ合衆国アーカンザス川流域 の甜菜糖産業

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アメリカ合衆国アーカンザス川流域 の甜菜糖産業
歴史地理学
4
2
4 (
2
0
0
) 1
~22
2
0
0
0
.
9
アメリカ合衆国アーカンザス川流域
の甜菜糖産業
矢ケ崎典隆
1.はじめに
I
I
. 甜菜糖産業の展開
はアーカンザス川流域のナショナル製糖会社
C
N
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i
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n
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i
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g Company) に
I
I
I
. アーカンザス川流域の濯概化
関するモノグラフを書いた 2)
N. 製糖工場の建設と甜菜栽培
H
i
s
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o
r
y
l
l誌でなされたアリントンの問題提
V. 製糖時代の終駕
起 3)は,アメリカ西部の製糖業に関する議論
V
I
.まとめ
を促進した。ラズムセンは甜菜糖産業におけ
0
~A
g
r
i
c
u
l
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r
a
l
る技術変化を論じたし 4) 西部労働史の権威
1.はじめに
1
9世紀末から 20世紀前半のアメリカ西部の
であるテイラーは甜菜栽培における移民労働
の役割を強調した 5)。また,西部史家のナッ
シュは,アメリカ西部の都市の経済・政治・
開発を検討する際に,甜菜糖産業は大きな意
社会構造を形成するうえで実業家が重要な役
義をもっていたと考えられる。甜菜栽培や製
割を演じたが,ヨーロッパ人実業家が投資,
糖技術はヨーロッパから導入されたが,甜菜
製造業,卸売業に果たした役割については研
の栽培と処理のために政府の研究開発活動が
究が進んでいないと指摘している 6)。事実,
重要な役割を演じた。甜菜栽培を促進するた
甜菜糖産業では,
めに濯概施設の整備が進んだし,甜菜や砂糖
ギリス人がヨーロッパの甜菜糖産業を導入す
ドイツ人,フランス人,イ
の運搬のために鉄道建設は不可欠で、あった。
る上で主導的役割を演じた。一方,乾燥した
甜菜糖工場の建設には大きな資本の蓄積や流
アメリカ西部では 1
9世紀末から濯瓶化が進展
入が必要であった。大規模な土地が分割され
し,甜菜栽培には濯瓶が不可欠であったが7)
て小規模家族農場が増加し,農場経営や季節
西部の潅瓶・開発史を論じたピサニは法律と
的農業労働の担い手として移民が流入した。
政治に注目し,甜菜や製糖業については触れ
以上のような地域現象に着目しながら,アメ
なかった 8)。
リカ西部の開発と甜菜糖産業の進展を地域的
枠組みで検討する必要がある。
以上のように,アメリカ西部の甜菜糖産業
に関しては研究の蓄積が不十分であると同時
甜菜糖産業の歴史は砂糖関税との関係にお
に,甜菜栽培と製糖業を地域的枠組みで検討
いて論じられる場合が多いが,ユタアイダホ
することに関心が払われてこなかった。設定
砂糖会社 CUtah-Idaho Sugar Company) に焦
した研究対象地域において,技術の導入,政
点をあてながら甜菜糖産業を論じたアリント
府の関与,濯瓶事業,鉄道建設,資本の流入,
ンの研究1)は画期的であった。倒産した製糖
土地の分割,農業経営,労働力の形態,移民
工場の歴史については資料の散逸のため詳細
の流入など、について検討し,地域変化のプロ
を理解することが容易ではないが,マーコフ
セスをダイナミックに描きだすこと,すなわ
ち甜菜糖産業を地域的枠組みで論ずることは,
着目することによって, 1
9世紀後半から第二
地理学研究者にとって魅力的な研究フロンテ
次世界大戦後までの甜菜糖産業を便宜的に 5
イアである。それぞれの甜菜糖生産地域に関
期に区分した。
する事例研究を蓄積することによって,アメ
(1)ヨーロッパ甜菜糖産業の導入 (
1
8
3
0
"
'
リカ西部の開発を理解することができると筆
1
8
8
7年)
者は考えている。
ヨーロッパで、甜菜産業が発展する過程で,
本稿では,既往の文献に依拠し,また新
聞・統計等の資料を利用することにより,ア
1
9世紀前半にはアメリカ合衆国でも甜菜糖に
メリカ合衆国における 1
9世紀末以降の甜菜糖
対する関心が徐々に高まった。最初の甜菜糖
産業の展開を検討し,さらにコロラド州南東
生産は 1
8
3
0年にフィラデルフィア近郊で行わ
部からカンザス州南西部にかけてのアーカン
れ
, さらに 1
8
3
8年にはマサチューセッツチト卜ノ
ザス川上流域を対象として甜菜糖産業の展開
ーザンプトンで試みられたが,これらの事業
を明らかにすることを目的とする o アーカン
はいずれも失敗した。 1850年代初頭には,ユ
ザス川流域はアメリカ西部における重要な甜
タのモルモン教徒がフランス人生産者から技
菜糖生産地域の一つであった。こうした作業
術を学び,製糖会社を組織し,種子や機械を
を通じて,甜菜糖産業の展開を西部開発の中
輸入し,ソルトレークシティの南のシュガー
で検討することの重要性と考察の枠組みを提
ハウスに工場が建設されたが,アルカリ土壌
示してみたい。
で栽培された甜菜を処理できずに失敗に終わ
った 10) 1
8
6
3年にはドイツ人兄弟がイリノイ
l
l
. 甜菜糖産業の展開
州チャツワースに製糖工場を建設したが,成
功しなかった l九
メーン,マサチューセッツ,デラウエア,
甜菜糖産業はヨーロッパで、誕生し, 1
9世紀
に入るとナポレオンの産業振興政策によって
ニュージャージー,ペンシルベニア,イリノ
)0 1
9世紀
発展したことはよく知られている 9
イ
, ウィスコンシン,カリフオノレニアなどの
末にはヨーロッパの甜菜糖生産が急激に増大
諸州でも甜菜栽培が始まったが,農民は甜菜
し
, 1880年代に入ると甜菜糖は甘煎糖の生産
栽培に熱心ではなかったし,甜菜の品質は悪
量を上回り, 1890年までにはヨーロツパは砂
く,工場の製糖施設は不十分であった ω。農
糖の輸出地域となった。アメリカ合衆国の砂
民が熟練を要する甜菜栽培法を身につけるま
糖産業は,ラテンアメリカから輸入された甘
でには少なくとも数年かかった。しかも
蕉原料糖の精製に基づいていたが,ヨーロツ
年に 1
0
0
"
'1
5
0日しか操業しない製糖工場の建
パの甜菜糖産業の技術や人材が導入されるこ
設に20万ド、ル以上を投資する必要がある甜菜
とによって甜菜糖産業が誕生した。しかし,
糖製造には危険が伴った問。
1
ヨーロッパとは異なる自然環境と社会経済環
南北戦争の勃発によって南部からのサトウ
境のもとで甜菜栽培と製糖業が発展するため
キピ糖と糖蜜の流入が減少すると,合衆国農
にはさまざまな修正が必要であった。
務省は 1
8
6
3年に甜菜の試験を開始した。イギ
そこで,アメリカ合衆国における甜菜糖産
リスやフランスから甜菜種子や甜菜栽培用の
業の展開を検討してみたい。このために,ヨ
農具が輸入され,試験栽培のためにアメリカ
ーロッパの技術や人材の導入,地域レベルに
各地で種子が配布され,甜菜の分析が行われ
おける資本,人材,技術,濯概,農業労働力,
た
。 1
8
8
7年ハッチ法に基づいて州や準州に農
そして国家レベルでの関税政策や農業政策に
業試験場が設立されると,甜菜に関する試験
2-
は農業試験場の業務のーっとなった川。
甜菜の栽培適地は,アメリカ合衆国の北部
8
6
6年にウィ
初期の成功した製糖工場は, 1
から西部にかけて広域に広がるが,コーンベ
スコンシン州フォンデュラクにドイツ人移民
ルトではトウモロコシ栽培と家畜飼育を組み
技師と地元資本によって建設された小規模工
合わせた生産性の高い混合農業が確立してお
場であった。その成功に刺激されて,ニュー
り
,
イングランド出身のダイヤー (
E
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e
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e
z
e
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.
るため,甜菜栽培の発展は難しかった。す
D
y
e
r
) とサンフランシスコ湾岸地域の農業
なわち,甜菜栽培の発展の可能性はトウモ
トウモロコシと甜菜の栽培期間が競合す
8
6
9年にカリフオルニア甜菜
投資家によって 1
ロコシを栽培できない西部の乾燥地域に存
糖会社 (
C
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g
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m
p
a
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y
) が組
在した 17)。しかし,乾燥地域が甜菜栽培に不
織され,イリノイやウィスコンシンで失敗し
向きなことも広く認識されていた。当時,イ
た製糖工場の機械を導入して,アルヴァラド
タリアやスペインで甜菜の濯概栽培が失敗し
に製糖工場が建設された。
1 日の甜菜処理能
ており,濯瓶耕地では主根の成長が妨げられ
力は 5
0トンで, 1
8
7
0年の最初の製糖期に 5
0万
糖度が上がらないと考えられていた ω。
ポンドの砂糖が生産された。初期の甜菜糖工
合衆国農務省の試験栽培として,アーカン
場がいずれも失敗したなかで,アルヴ、アラド
ザス川流域で最初に甜菜が収穫されたのは
工場は継続的に操業した最初の製糖工場であ
った 15)。
1
8
9
0年で,その結果は良好であった。ユタ州
ではモルモン教徒によって甜菜の濃瓶栽培が
行われ,収量は一般農民も満足のできる水準
(2) 研究開発の進展(1 888~1897年)
まで増加していた。こうして, 1
8
9
0年代中頃
ヨーロッパの甜菜栽培法と製糖技術をアメ
までには濯瓶耕地での甜菜栽培の可能性が認
識されるようになっていた i九
リカに導入し発展させるためには,さまざま
な技術的改良が必要であった。ヨーロッパで
ダイヤーはアメリカ合衆国における甜菜糖
は製糖工場は小規模で,甜菜栽培のために濯
産業の父と呼ばれ, 1
8
9
0年代に甜菜糖工場の
慨は不要であり,農業労働力は十分に存在し
建 設 を 促 進 す る た め に 各 地 を 遊 説 し た 20)
た。ヨーロッパ人移民やヨーロツパで学んだ
1
8
9
0年代中頃までには西部諸州で甜菜糖工場
アメリカ人が中心となってヨーロッパの製糖
の誘致に向けての地元の運動が高まっていた。
関連技術が導入され,人材の養成が行われた。
砂糖産業の有望性を論じたマイリックは,甜
1
8
8
8年から 1
8
9
7年頃にかけては,アメリカ型
菜糖産業のマニュアル本の中で,製糖工場の
甜菜糖産業の発展のための模索が行われた研
誘致に積極的な 449都市を掲載した。それら
究開発・調整期であった。
の多くは中西部と北東部の諸外│に集中してい
アメリカ合衆国では耕作規模が大きく労働
たが,オレゴン (
1
凶9
都市)入,カンザス (
1
心
4
),
力が慢性的に不足したため,園場の準備,播
カ リ フ オ ル ニ ア (8)
入,ワシントン(6)
入,コ
種,間引き,除草,収穫,運搬などの作業の
), ユ 夕 (5λ
),ニユ一メキシコ
ロ ラ ド (5λ
ために,多量の季節農業労働者,農機具の改
(4)
入,アイダダ、ホ(2), モ ン 夕 ナ (2,
)
入 ワイ
良,そして機械化が必要であった。 1
9世紀末
オミング(1) アリゾナ(什1)の諸都市も
のアメリカ合衆国の製糖工場は,ヨーロッパ
叫l
け
)
誘致に積極的でで、あつた 2
の工場よりもはるかに大規模であり,多量の
1
印9
世紀末の甜菜糖産業を考える場合に,政
甜菜を処理するためのアッセンブリーライン
府による関税政策は重要な要因であった。砂
方式をはじめとして,製糖工程のさまざまな
糖に対する関税は税収入の増加を目的として
段階に機械化が要求された 16)。
1
8
7
9年に導入された。 1
8
7
0年代と 1
8
8
0年代に
- 3ー
は砂糖関税は 1ポンド当たり 2セントであっ
(
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rC
o
m
p
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n
y
) を組織し,
た
。 1
8
9
0年には政府の歳入の約半分が税収入
中部沿岸のワトソンピルに広大な土地を取得
であり,砂糖関税はその 5分の 1を占めてい
し
,
ドイツから甜菜生産者,建設技師,監督
た
。 1
8
9
0年マッキンレ一関税法によって園内
者,機械を導入して, 1
8
8
8年に 4
0万ド、ルの製
産業の保護を目的として多くの物品の関税が
糖工場を建設した。この工場の操業は順調で,
引き上げられたのに対して,連邦政府の余剰
生産された粗糖はサンフランシスコの精糖工
歳入を削減するために原料糖は無関税品目に
場で精製された 25)。
指定された。そして,国内のサトウキビ糖や
オックスナード兄弟(ロパート,ベンジャ
甜菜糖の生産者に対して,砂糖 1ポンドあた
ミン,へンリー,ジェームズ)は,ブルック
り 2セント(18
9
3年からは 2
.
2
5セント)の補
リンとノレイジアナ州のサトウキビ糖精製工場
助金が支払われるようになった。ただし,製
の経営者であり, 1
8
8
7年 に フ ル ト ン 精 糖 所
糖会社は記録管理と補助金申請などの煩雑な
(
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f
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n巴r
y
) によって,後述する砂糖
仕事を余儀なくされた問。
トラストに加わった。へンリーはアルヴァラ
1
8
9
4年ウィルソン・ゴーマン関税法によっ
ドにあったダイヤーの製糖工場を観察し,母
て補助金は廃止され,すべての輸入砂糖に対
国のフランスの製糖工場を思い出して,ヨー
して 40%の従価税が課せられるようになり,
ロッパに赴いて甜菜糖産業を学んだ。ヨーロ
これは砂糖 1ポンドあたり 1セントの関税に
ッパ滞在中に機械や人材を調達し, 1
8
8
8年に
相当した。さらに, 1
8
9
7年デイングレー関税
アメリカに帰国すると,兄弟やニューヨーク
法は,並等級の砂糖に対して 1ポンドあたり
の資本家の支援を得てオックスナード甜菜糖
l
.6
8
5セ ン ト の 関 税 を 課 し た 23)。 一 方 , 州 政
会社 (
O
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dBe巴tS
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y
) が設立
8
9
5年から 1
8
9
8年に
府による補助金政策は, 1
された 26)。
かけて,アメリカの甜菜糖産業の展開に貢献
オックスナード・グループ。は,ネプラスカ
した。これは生産された砂糖 1ポンド当たり
州グランドアイランドとノーフォーク,カリ
通 常 1セントを州政府が支払う事業で、あった。
フォルニア州チノに製糖工場の建設を計画し
ネプラスカ州が外│補助金支給の先駆をなし,
た。ダイヤーやスプレックルズが広い土地を
各州が同様の奨励政策を実施した 24)。
取得して甜菜の大規模自社経営を行ったのに
1
8
8
8年から 1
8
9
1年にかけて,大規模糖業資
対して,へンリー・オックスナードは地元の
本のスプレックルズとオックスナードやモル
投資家や農民を動員して製糖工場を建設する
モン教会によって 5カ所の甜菜糖工場が操業
という方法を確立した。 1
8
8
9年にグランドア
され,甜菜糖産業の基盤が形成された。
イランドの地元社会が工場用地と資金を寄贈
ハワイの砂糖王として知られることになる
し,州議会は生産される砂糖 1ポンドあたり
スプレックルズ (
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l
s
) は1
8歳 で
1セントの州補助金を提供することによって,
ドイツからアメリカ合衆国に移住し, 1
8
8
3年
製糖工場を誘致した。オックスナードは熟練
にサンフランシスコに西海岸最大の精糖工場
栽培者,建築技師,経営陣,機械器具一式を
を建設した。彼はハワイ産の粗糖を購入した
建設予定地に送り込んだ 27)。オックスナード
が,さらにプランテーションを買収して製糖
は,甜菜糖産業の成功のためには保護関税が
工場を建設するとともに海運業にも進出し,
重要であると考え,製糖工場を広域に立地さ
東海岸の精糖資本と競合できる産業を確立し
せることによって甜菜糖産業に対する保護政
た。彼はカリフオルニア州の甜菜産業の有望
策に広い支持を獲得しようと試みた 28)。
8
8
0年代と 1
8
9
0年代においても
ユタ州では 1
性を判断してウエスタン甜菜糖会社
4
モルモン教会が主な事業者であった。 1
8
5
0年
エーカーであった。このうち,サトウキピは
代に製糖工場を建設する試みは失敗したが,
4
5
2,
6
7
3エーカー (52.9%),砂糖モロコシは
砂糖の供給が少なかったので,モルモン教会
2
9
3,
1
5
2エーカー (34.2%),甜菜は 1
1
0,
1
7
0エ
は製糖業への関心を維持した。 1
8
8
9年にモル
ーカー(12.9%) であった 32)。
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モン教会の出資によってユタ砂糖会社 (
1
9
0
0年頃には甜菜糖産業の発展のための諸
S
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r Company) が設立され,研究調査をへ
条件が整ったため,各地で甜菜栽培が盛んに
8
9
1年にソルトレークシティの南 30マイル
て1
なり,甜菜糖工場の建設が進み,甜菜糖産業
のリーハイに製糖工場が完成した。ダイヤー
はブーム期を迎えた。甜菜栽培面積は 1
8
9
9年
がこの建設を請け負ったが,これはアメリカ
から 1909年にかけて 3
.
3倍に増加して 364,
0
9
3
製の製糖機械で、つくられた最初の工場であっ
エーカーにおよび,甜菜生産量は 7
9
3,
3
5
3ト
た。ネプラスカ州の場合と同様に, 1
8
9
1年と
9
3
2,
8
5
7トンへと 5倍に増加した。
ンから 3,
1
8
9
2年にはポンドあたり 1セントの州補助金
こ れ ら の 甜 菜 は 飼 料 用 (3,
6
6
0エーカー,
がユタ砂糖会社に支払われた 29)。
30,
786トン)を除いて製糖用であった 33)。
アルヴァラド工場と以上の 5工場の成功に
9
0
9年のサトウキピ,砂糖モロコシ
図 1は 1
よって, 1
8
9
1年から 1
8
9
8年の聞に新たに 5カ
甜菜の栽培面積を州別に示したものである o
所の製糖工場(ヴァージニア州スト一トン,
砂 糖 原 料 の 総 作 付 け 面 積 は 1,
285,
031エーカ
ニューメキシコ州エデ、イ,ニューヨーク州ロ
ーで,そのうちサトウキピが 3
7
.
1%,砂糖モ
メ,ウィスコンシン州メノミニーフォールズ,
ロコシが 34.6%,甜菜が 28.3%を占めた。ル
カリフオルニア州ロスアラミトス)が建設さ
イジアナ州を中心としてメキシコ湾岸にサト
れた。しかし,これらのうちで成功したのは
ウキビ糖地域が存在し,その北に砂糖モロコ
ダイヤーが経営したロスアラミトスの工場だ
シ糖地域が広がり,さらに北と西に甜菜糖地
9
2
6年まで操業を続けた 30)。こ
けで,これは 1
域が広域に存在した。主要な甜菜栽培州は,
のような試行錯誤の段階では甜菜糖の生産量
1
0
8,
0
8
2エーカー),カリフォルニ
コロラド (
8
9
5年 7月からの 1年間に
は限られていた。 1
ア (
7
8,
9
5
7エーカー),ミシガン (
7
8,
7
7
9エー
ア メ リ カ 合 衆 国 の 総 砂 糖 供 給 量 は 2,
0
9
3,
8
1
9
カー),ユタ (
2
7,
4
7
2エーカー)の順であっ
トンであったが,そのうち輸入が 83.1%,国
た
。
内産が 16.9%であった。園内産のうちサトウ
1
8
9
7年から第一次世界大戦にかけて,甜菜
.5%,古甘菜糖が 8.5%を占めた 3。
)
1
キビ糖が 91
産業の振興が合衆国農務省の重要な業務とな
甜菜糖産業が確立するのは 2
0世紀に入ってか
8
9
8年から 1
9
1
3年までに 8
6工場が新
った 34) 1
らのことであった。
9
0
3年までに建設さ
設され,その半数以上が 1
れたお)。前述のオックスナード兄弟,スプレ
(3) アメリカ型甜菜糖産業の確立(1 898~
ックルズ,モルモン教会が多数の工場を経営
1
9
1
3年)
した。スプレックルズは 1
8
9
8年にカリフォル
1
9世紀末から 2
0世紀初頭にかけて,アメリ
ニア州中部沿岸のサリナスに大規模製糖工場
カ合衆国の砂糖類は,サトウキピ,甜菜,砂
を建設した。オックスナードの事業は, 1
8
9
9
糖モロコシを原料として生産された。甜菜に
年にアメリカ甜菜糖会社 (
A
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ついての統計が最初に掲載された第 1
2回セン
S
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r Company) に統合された(なお, 1
9
3
4
サス(19
0
0年)によると, 1
8
9
9年には,メー
年にはアメリカンクリスタル砂糖会社
プル砂糖・シロップ用の林地面積を除いて,
(
A
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lS
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rCompany) に社名変
砂糖・シロップ用作物の栽培面積は 8
55,
9
9
5
- 5ー
更した )
01
8
9
8年にカリフォルニア州オック
/戸♂ー--.:..,:.一一
+
、
¥
¥
/~\ \
f
、
一一
一
,
∞
3 α
J
O
1
曲,脱却
1
メ
ー
50,
醐
ー
ー 10,凹抽
甜菜-
a
・・=亘弘サトウキビ
19世紀末に認識された
甜菜地帯の南限
~司
\~~
エーカー
砂糖モロコシ
図 1 アメリカ合衆国における砂糖原料(サトウキビ,砂糖モロコシ,甜
0
9年)と甜菜地帯
菜)の作付面積(19
1
0
0エーカー未満の州は省略した.
U
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1
3,および M
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eandJ
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b
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r
,O
r
a
n
g
eJ
u
d
dC
o
.,1897 により作成
スナードに, 1900年にはコロラド州ロッキー
ら種子や機械を導入してコロラド州に製糖工
フォードに, 1907年には同州ラスアニマスに
場を建設した。 1901年から 1903年にかけて,
工場を建設した。モノレモン教会の関係者はユ
ラブランド,グリーリー,イ一トン,フオー
タアイダホ砂糖会社として製糖事業を拡大し,
トコリンズ,ロングモント,ウィンザーに製
ユタ州ガーランド(1903年),アイダホ州ア
糖工場が建設され,これらはグレートウエス
イダホフォールズ (1903年),シュガーシテ
タン砂糖会社
ィ(1904年),ナンパ(1906年) ,さらにユ
Company) の基盤となった。このグソレープに
タ州エルジノア(1911年)とパイソン(1913
は,コロラド州のスターリング (1905年),
年)に製糖工場を建設した 36)。
ブラシュ
小規模地元資本としては,オレゴン外!とユ
(Great Western Sugar
(1905年), フ オ ー ト モ ー ガ ン
(1906年),モンタナ州ビリングズ(1906年),
タ州で事業を展開したグ、ループがあり, 1898
ネプラスカ州スコッツブラフ(1910年)の製
年にユタ州オグデンとオレゴン州ノレグ、ランデ
糖工場が加わった 38)。
に
, 1901年にユタ州、同一ガンに, 1905年にユ
ミシガンチ1
'のサギノーバレーは 1
880年代に
タ州ルイストンに製糖工場が建設された。こ
林業ブームで繁栄したが, 1890年代後半には
れらと他の工場は 1915年にアマルガメイテッ
切り株だらけとなって製材所は衰退した。林
ド砂糖会社 (Amalgamated Sugar Company)
業で蓄積された資本が製糖業に投資され,
として統合された 3九また,
1898年に最初の製糖工場がベイシティに建設
ドイツ人移民の
ブッチャー (
C
h
a
r
l
e
sE
.B
o
e
t
t
c
h
e
r
)は
, 1870
された。この地域の農民の多くはヨーロッパ
年代と 1880年代のコロラド州の鉱山ブーム時
で甜菜栽培を経験していたし,砂糖 1ポンド
に金物商として莫大な富を蓄積し,
当たり 1セントの州補助金にも恵まれた。予
ドイツか
6
うしてミシガン州の各地で製糖工場を誘致す
して,春にはくわや指先で間引きや除草の作
る運動が展開し,地元資本グ、ループによって
業を,秋には収穫作業を行う必要があった。
1
9カ所の製糖工場が建設された叱
季節的甜菜労働は重労働・低賃金で生活環
一方,アメリカ合衆国の砂糖生産は,サト
境は劣悪であったため,白人労働力に依存す
ウキピを原料とした粗糖の精製によるもので
ることはできなかった。このような季節農業
あったが,その事業を支配していたのは砂糖
労働力の不足を解決するために,製糖工場が
トラスト (
S
u
g
a
rT
r
u
s
t
) として知られたアメ
積極的に関与し移民労働力に依存する方式
リ カ 精 糖 会 社 (American S
u
g
a
rR
e
f
i
n
i
n
g
が採用された 43)。しかも,多様な移民労働力
Company) であった 40)。アメリカ精糖会社は
集団を雇用することによって労働コストを低
当初は甜菜糖産業に関心を示さなかったが,
いままに維持することが可能となった。
1890年代末から甜菜糖事業への投資を始めた。
高い砂糖関税が課せられた場合には国内の甜
カリフォルニア州で、甜菜糖産業が始まった
時期には,農業労働者の大多数は中国人であ
菜糖生産から利益をあげ,関税率が引き下げ
ったが,彼らは 1882年中国人排斥法の影響を
られるか関税が廃止された場合にはサトウキ
受けて減少した。 1
8
9
7年から日本人が甜菜畑
ピ粗糖の精製から利益をあげることが期待で
に流入した。メキシコ人は日本人と競争させ
きた。 1
9
0
1年までに甜菜糖の精製にあたって
るためにカリフオルニア州北部で、雇用されて
いたのは 3
1企業であり,これらは国内の砂糖
いたが, 1
9
0
8年にメキシコ人の間引き労働者
供給の 7%を占めていた。アメリカ精糖会社
のストライキを破るためにロシア系ドイツ人
は甜菜糖企業の生産コスト以下の価格で大量
移民が雇用された州。
の砂糖を市場に供給することにより,主要な
ユタ州で、は農場は小規模で、地元の農業労働
甜菜糖会社の貿収を展開した 4九
力にかなり恵まれていたため,他の地域に比
1
9
1
1年までにアメリカ精糖会社は甜菜糖会
べると移民労働力への依存度は低かった。そ
500万ド、ルを投資し,国内の甜菜糖工
社へ 3,
れでも, 1909年には日本人が 1,
000人を数え
場のほぼ半数を支配下においていた。アメリ
たい若干の韓国人やインディアンが働いた
カ精糖会社は既存の甜菜糖会社の株式を購入
ほか,メキシコ人も重要な労働力であった 45)。
し,製糖工場の規模拡大や新設に投資し,化
コロラドではロシア系ドイツ人が重要な労働
学者,工学技師,農業専門家のチームを甜菜
力であり,日本人とメキシコ人はロシア系ド
糖会社に送って技術支援を行った。 1902年か
イツ人に対する抑制機能として雇用された。
らアメリカ西部で新設された甜菜糖工場の多
9
0
9年
連邦移民調査委員会の報告によると, 1
くは同社の進出の結果であった 42)。
までにはカリフォルニア州,アイダホ州,ワ
以上のように, 20世紀初頭に甜菜糖産業の
シントン州,オレゴン州,モンタナ州、│の多く
発展のための諸条件が整ったが,農業労働力
の地区では,甜菜農業労働の中心は日本人と
の確保は西部の甜菜糖産業にとって大きな問
5,
000人の
なっており,甜菜農場労働者総数 2
題であった。農業の機械化は闘場の準備,作
うち 10 , 000~11 , 000 人が日本人であったと推
付け,耕作において進行していたが,間引き,
計された制。
除草,収穫のための機械化は遅れていた。種
子の改良が進んでおらず,一つの種子からい
(4) 甜菜糖産業の不安定化(l 914~1933
くつも発芽したため,農作業には多量の手作
年)
業が必要であった。甜菜栽培の発展を促すた
独占禁止を求める世論の動きが砂糖産業に
めには,地域外から多数の農業労働者を導入
向けられた結果, 1913年アンダーウッド・シ
- 7-
のヒスパニック系を含めて
モンズ関税法が成立した。これは砂糖に対す
1
,
0
0
0人から
る関税を 3年間に徐々に撤廃するというもの
1
4,
3
0
0人に増加し,比率では 9 %から 59%へ
であったため,砂糖産業の経営戦略は拡大か
の増加であった 49)。
甜菜労働者のなかには農業階梯を上昇した
ら生き残りへと移行し,生産効率を向上させ
者もいた。多くの地区の日本人やコロラドの
るために合併強化が試みられた 4九
ロシア系ドイツ人は,労働者から契約農民へ,
9
1
8年における甜菜糖工場の分布を
図 2は 1
6の
設立年代別に示したものである。全体で 9
さらに農場所有者に上昇した。メキシコ人に
甜菜糖工場が操業していた。カリフォルニア
は大きな変化がみられなかった。コロラド州
8
9
0年代の工場に加えて 1
9
0
0年代と
州には 1
9
0
9年から 1
9
2
7年の聞に,ロシ
北東部では, 1
1
9
1
0年代に工場が増加した状況が理解できる。
6
5から 2,
5
9
0人
ア系ドイツ人の甜菜栽培者は 6
9
0
0年代に
ミシガン州の甜菜糖工場はおもに 1
3
3から 1
9
1
に増加し,日本人の甜菜栽培者は 1
9
1
0年代に設立
設立された。コロラド州では 1
人に増加した 50)。アメリカ西部の甜菜糖産業
が相次いだ。一方,ユタ州では 1
8
9
0年代の工
は,港瓶を促進するとともに,移民労働力を
9
1
0年代に急激な増加がみられ
場に加えて, 1
基盤として,大規模で工業化した農業の伝統
た
。
を確立することになった。
農業労働力は依然として甜菜栽培において
重要であり,多様な集団が雇用された。第一
(5) 保護安定政策(l 934~1974年)
次世界大戦中からメキシコ人の甜菜労働者が
1
9
2
0年代の農業不況と早魅に引き続いて,
9
2
0年代にはフィリピン人が多数
増加した。 1
1
9
3
0年代には恐慌とダストボールによって甜
流入してカリフォルニア州の甜菜畑の労働力
菜糖産業も崩壊の危機に瀕した。コロラド州
9
3
3年にフィリピンが独立する
となったが, 1
9
3
4年砂
選出の上院議員によって起草された 1
と,ハワイからの流入を除いてフィリピン人
糖法は,割当制,関税,価格保証金を組み合
の流入は停止した 48)。
わせることによって,砂糖の破壊的な低価格
コロラドチト│ではカリフォルニア州やユタ州
をおさえることを意図した。一人の農民が栽
9
1
0年代
よりも甜菜栽培の開始は遅れたが, 1
培できる甜菜面積と,一つの工場が生産でき
末までには甜菜面積と甜菜労働者が最大とな
る砂糖の量が規定された 5九 こ う し た 統 制 政
っていた。最初は白人移民が中心で,その多
策のもとで砂糖産業は安定性を取り戻したが,
くはロシア系ドイツ人であった。しかし,甜
連邦政府の規制は砂糖生産のあらゆる側面に
菜面積が急増するなかで,さまざまな労働者
及ぶようになり,こうした状況は砂糖法の廃
9
0
9年か
集団の数と比率は急速に変化した。 1
0年間にわたって存続することにな
止までの 4
9
2
7年には,主要な甜菜栽培地域であった
ら1
った。
サウスプラット川流域では農場労働者は
甜菜は利益率の高い農作物で、はなかったが,
1
1,
000人から 2
4,
0
0
0人に増加した。ロシア系
政府の統制が存続する限り,将来も栽培を継
ドイツ人は 5,
9
0
0人から 7,
600人に増加したが,
続できるとし、う選択肢を確保するために農民
比率でみれば 55%から 31%に減少した。その
9
6
7年に生産割り当て
は甜菜栽培を続けた。 1
0人から 2,
200人へと増加した
他の白人は1,70
制度が廃止されると,甜菜から収益率の高い
が,比率では 16%から 9 %に減少した。日本
作物への転換が進んだ 52)。
人は 2,
2
0
0人から 1
7
5人 に 激 減 し , 比 率 で は
政府の保護政策と併行して,甜菜栽培技術
20%から 1 %未満となった。一方,メキシコ
の改善が進んだ。甜菜の収穫にあたって,ハ
人は,ニューメキシコ州やテキサス州生まれ
ンドフォークで甜菜の周囲を掘り,手で引き
- 8-
• 1
8
7
0
• 1
8
9
0
1
8
9
9
• 1900-1909
• 1910-1918
1
0
0
0区制
図 2 アメリカ合衆国における甜菜糖工場の分布(1918年)と設立年代
H
a
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TheM
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l
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o
.,1
9
1
9,
3
1
2
3
1
9頁により作成
抜くのが従来の方法であったが, 1923年まで
m
. アー力ンザス川流域の湛灘化
には馬で牽引する甜菜リフターが使用されて
いた。甜菜の掘り起こし・葉の切断・積載を
以上のような甜菜糖産業の展開をアーカン
一度に行うコンパイン収穫機が 1940年代に考
ザス川流域を事例に検討してみたい。アーカ
案され,改良が続けられた。 1944年には収穫
ンザス川はコロラド州内のロッキー山脈を水
機で収穫された甜菜は全体の 7 %であったが,
源とし,カンザス,オクラホマ,アーカンソ
翌年には 12%に増加し, 1958年までには収穫
ーの州域を東流してミシシッピ川下流部に注
はすべて機械化されていたベ
ぐ。コロラド州は 20世紀に入るとアメリカ最
一つの甜菜種子から多数発芽することが農
大の甜菜栽培地域となった(図 1参照)。同
作業の効率を落としていたが, 1940年代には
州で最初の製糖工場は州西部のグランドジヤ
種子を分割する方法が開発されて発芽数をお
ンクション(1899年)に建設されたが 55) 製
さえることが可能になったため,間引き労働
糖工場が集積し甜菜栽培が盛んになったのは
が軽減された。 1950年代後半には単一発芽の
東斜面であった。アーカンザス川流域にはカ
種子が改良され, 1960年代中頃までには甜菜
ンザス州南西部の 1工場を含めて 7カ所の製
のほとんどがこの改良種であった 54)。
糖工場が建設された(図 3)。
甜菜糖生産地域が形成される基盤として,
以上のような機械化の進展と品種改良によ
19世紀末に展開した水路濯瓶事業と鉄道建設
って甜菜栽培は改善されたが,甜菜糖産業を
取り巻く環境は厳しいままであった。 1974年
があり,そのためにはプロモーターの存在,
に連邦政府が砂糖法を更新しなかったため,
資本の流入,実業家の楽観主義が必要であっ
政府の保護政策時代に幕が下ろされ,競争力
た。この草原地域の年間平均降水量は 500mm
の弱し、甜菜糖産業は崩壊への道を歩むことに
以下であるが,年による変動が大きかった。
なった。
アーカンザス川は山岳地帯の雪解け水で増水
- 9ー
コロラド州
i
カンザス州│
企
製糖工場
一濯滅水路
5
0MILE
5
0匝
醐
図3
アーカンザス川流域の製糖工場と濯瓶水路
番号は表 1に対応する。
と減水を季節的に繰り返したし,集中豪雨の
貢献した。彼が改良・普及したキャンタロー
影響で洪水も発生した。ここでは濯瓶耕地の
プメロンは,地元農民にとって重要な換金作
8
7
0年代から民間資本に
創出を目的として, 1
物となったし,アーカンザス川流域に重要な
よる濯瓶事業が展開した。潅蹴開発会社が組
潅概作物のアルフアルファを導入したのはス
織され,水路建設と水利権の獲得が行われた
ウインクであった。さらに,後述するように,
が,それらは地元受益者の出資による E助濯
彼は甜菜の試験栽培に成功してオックスナー
ドの製糖工場を誘致することになった 5九
瓶会社と,地域外の大資本による営利濯融会
この地域で最初に建設された濯概水路は,
社に大きく分類できる。
ロッキーフォード、の実業家で、濯瓶事業のプ
8
6
4年に先住民の
合衆国陸軍の技師によって 1
ロモーターとして知られたのはスウインク
使用のために建設された小規模濯概水路であ
(
G
e
o
r
g
eS
w
i
n
k
) であった。彼は牧畜を目的
8
8
0
った。牧場経営者がこの施設を購入し, 1
8
7
1年にアーカンザス河谷に来たが,
として 1
年代初頭まで維持された。 1
8
8
3年から 1
8
8
7年
まもなく渡河点として知られたロッキーフォ
にかけて,アーカンザス川開発会社
(
A
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k
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d Town a
n
d C
a
n
a
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ードで商売を始めた。 1872~73年頃に地元の
有志とともに小規模な濯瓶事業を始め, 1
8
7
5
C
o
m
p
a
n
y
) が組織され,古い水路の拡張工事
年 ま で に は 上 流 か ら 取 水 し た 水 路 (L
i
t
t
l
e
7マイルの水路が建設された。この
によって 1
8
7
6
R
o
c
k
yF
o
r
dD
i
t
c
h
) が利用されていた。 1
8
8
6年に名称を変更して再編され事業
会社は 1
年にアッチソン・トピカ・アンド・サンタフ
8
8
7年に経営破綻によって
が拡大されたが, 1
ェ鉄道(以下,サンタフェ鉄道と略記)が到
売却され,新会社ラフンタ・ラマー水路会社
来したのを契機として,彼は現在のロッキー
(
L
a]
u
n
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dL
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n
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lC
o
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p
a
n
y
) が瀧瓶
フォードの場所に移転して商売を続けた。濯
8
9
7年には,この水路を
事業を引き継し、だ。 1
瓶水路は延長・拡幅され,ロッキーフォード
使用していた地元農民による互助株式会社で
R
o
c
k
yF
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hC
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n
y
)が
,
水路会社 (
F
o
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tL
y
o
n
あるフオートライオン水路会社 (
地元農民所有の株式会社として公式に州政府
C
a
n
a
lC
o
m
p
a
n
y
) がラフンタ・ラマー水路会
8
8
0年代末までには水路は
の認可を受けた。 1
社を買収した。投資家の一人であった濯瓶プ
1
6マイルにおよび
ロモーターのへンリー
1万エーカーを濯慨する
能力があった 56)。
(
T
h
e
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d
o
r
eC
.
H
e
n
r
y
) は,協同組合としての濯概会社によ
スウインクはこの地域の濯概農業の発展に
る濯概農業の振興が地元農民の利益につなが
ハU
ると主張し,濯瀬水路をカンザス州、│境まで延
をあげることができなかったので,この会社
2の濯概水路建
長するという理想、を掲げて, 1
の投資家たちはツインレーク土地水会社
設事業に携わった。彼の夢は実現されなかっ
(
T
w
i
n LakeLandandWaterCompany) とツ
1
0マイルにおよび,
たが,水路の総延長は 1
T
w
i
n Lake R
e
s
e
r
v
o
i
r
インレーク貯水池会社 (
0万エーカーにおよんだ 58)。
濯瓶可能面積は 1
Company) を設立して濯瓶事業の展開をはか
社会改革の手段として地元民による互助会
8
9
6年に後者はコロラド土地水会社の
った。 1
I
li
am ]
.
社 設 立 を 提 唱 し た パ ー マ ー (Wi
すべての権利を獲得した。この貯水池会社は
P
a
l
m
e
r
) が関与したベセマー濯瓶水路会社
非営利互助会社で,コロラド水路の受益者で
(BessemerI
r
r
i
g
a
t
i
n
gD
i
t
c
hCompany) は,協
ある土地所有者によって所有された。ツイン
同組合的な互助濯融会社として展開した。
レーク貯水池は十分な濯瓶用水の供給を確保
1
8
7
1年に土地開発会社が設立され,プエブ、ロ
できると認識された 62)。
に近いアーカンザス川の南のノーラングラン
ト地区の開発に着手した。当初は,カンザス
1
8
8
7年 4月末に設立されたフ。エブロ州境鉄
道会社
(Pueblo and S
t
a
t
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ine R
a
i
l
w
a
y
州境まで濯淑水路を建設する計画をたてたが,
Company) は,プエブ、ロとカンザス州ホレス
これは実現には至らなかった 59)。
のミズーリパシフィック鉄道を結ぶことを目
1
8
7
0年代の経済危機によって事業は停滞し,
5
2マイルの線路が 7カ月間で完
的とした。 1
濯瓶協同組合としてベセマー水路会社に再編
8
8
7年 1
2月にプエブ、ロまで汽車が到来
成し, 1
8
9
1年に水路が完成したが, 1
8
9
0
成された。 1
した。プエブロ州境鉄道会社は,その子会社
年代の不況の影響を受けて新会社は倒産した。
の プ ヱ ブ ロ 州 境 都 市 土 地 会 社 (Pueblo and
1
8
9
4年には従来の投資家と新しい投資家によ
S
t
a
t
eL
ine Town and Land Company,1
8
8
7年
って新しい共同組織ができ,ベセマー濯瓶水
設立)を通じて沿線の開発・植民を促進しよ
路会社となった。これは地元農民の出資によ
うと試みた。しかし,小規模農民は自力では
る互助株式会社であった。この地域の農民は,
濯蹴水路を建設できなかったし,乾燥地農業
第一次世界大戦中にかなりの面積に甜菜を栽
は非常に危険を伴うものとして認識されてい
9
4
0年代末まで
培し,甜菜糖産業が衰退した 1
たため,土地の販売は難航した 6九
甜菜栽培を続けた 60)。
水路建設と鉄道会社の土地販売への関心の
コロラド・カンザス州境の東のガーデンシ
ティ地域においても
5つの濃蹴水路会社が
結果として建設されたのがコロラド水路であ
水路建設にあたった。カンザス州南西部のガ
った。濯概プロモーターのへンリ一等の誘い
8
7
0年代後半に開拓民
ーデンシティ地域には 1
によって,ニューヨーク州バツ司フアローの資
8
7
9年の皐魁を契機として濯瓶事
が流入し, 1
本家集団が濯瓶事業に投資した。コロラド土
8
7
9年 1
1月にガーデンシティ
業が始まった。 1
地水会社
濃瓶会社 (GardenC
i
t
yI
r
r
i
g
a
t
i
o
n Company)
(Colorado Land and Water
Company) が 1
8
9
0年 1月に設立され,この会
が設立され, 1
8
8
0年に入って濯瓶水路の建設
5,
556エーカーの土地を購入し,水路の
社は 3
が始まったほか,濯概会社の設立が相次いだ。
完成に際して 8
0エーカーの土地と水利権を分
.
バ ッ フ ア ロ ー ・ ジ ョ ー ン ズ (Charles ]
譲する計画をたてた。へンリーが中心とな
]
o
n
e
s
) は,この地域の濯瓶事業の進展に大
5万ド、ルを投じてブーン
って,この会社は 3
8
8
0年
きな貢献をしたことで知られており, 1
4マイルにわたって東に水路を建
から東に 7
秋に彼とその仲間はグレートイースタン濯概
)
1
設した 6。
G
r
e
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tE
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s
t巴r
nI
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g
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i
o
n,Water Power
会社 (
しかし,コロラド土地水会社は十分な成果
a
n
dM
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n
u
f
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c
t
u
r
i
n
gCompany) を設立し,グレ
どの雇用の創出に貢献した。
ートイースタン水路を建設した。 1
8
8
0年には
8
8
0年
ファーマーズ水路の建設が始まった。 1
ニューヨーク州バッフアローの投資家グル
にはサウスサイド水路の建設がジョーンズに
ープが,最初の製糖工場であるナショナル甜
よって始められたが,間もなくサンタフェ鉄
N
a
t
i
o
n
a
lB
e
e
tS
u
g
a
r Company) を
菜糖会社 (
道会社に売却され,水路の建設が進んだ。
開始した。これは大砂糖資本や砂糖トラスト
1
8
8
5年にはジョーンズはアマゾン水路の建設
とは関係をもたなし、小規模投資家グ、ループに
へ
5
0万ドルの株式会
よって出資された資本金 1
を始めた 6
これらの濯瓶水路会社はいずれも経営が破
8
9
9年 7月に設立申請が州政府に提出
社で, 1
綻し,地域外の資本が流入して経営に当たる
された。彼らはすでにコロラド水路とツイン
結果になった。コロラド東部に比べれば降水
0
0万ド、ルを投資して
レーク貯水池の建設に 2
量に恵まれたこの地域では,多雨の年が続け
9
0
1
いたが,自ら製糖業に進出した。なお, 1
ば非濯概で小麦やソルガムを栽培することが
年にボルチモアで設立されたナショナル製糖
できたので,濯翫への地元農民の依存度は低
N
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n
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f
a
c
t
u
r
i
n
g Company)
会社 (
かった。濯瓶の必要性が地元農民によって認
がこの工場を賃貸し, 1
9
0
1年 1
0月には製糖工
識されるのは,製糖工場が建設され,甜菜栽
場の経営権を完全に取得したことにより,
培が始まってからのことであった。
1
9
0
2年 1月に社名がナショナル製糖会社に正
針
式にかわった 6。
9
以上のように,アーカンザス川流域では 1
1
8
9
9年に濯概幹線水路が完成するとともに,
世紀末に展開した濃瓶開発会社はいずれも破
綻し,濯瓶事業は順調には進展しなかったが,
新しい町シュガーシティと製糖工場の建設が
そうした試行錯誤は甜菜栽培が進展する基盤
2,
000エーカーの土
計画された。製糖会社は 1
となった。濯瓶事業の進展と開拓民の流入を
地を所有し,水利権を獲得していた。貯水池
促進するためには経済的刺激が必要であり,
のへンリー湖はアーカンザス川の水で満水に
製糖工場の建設は投資家にとっても農民にと
された。シュガーシティの工場と町の建設事
っても高い収益が見込まれる有望な事業であ
9
0
0年春に始まった。工場の場所はメレ
業は 1
った。濯瓶水路と製糖工場が建設されれば,
デ、イス湖とへンリー湖に近接した水の便に恵
0
0ドルに
地価はエーカー当たり 7 ド、ルから 1
まれた場所が選ばれ,鉄道の支線が建設され
まで高騰するだろうと推測された 65)。こうし
た67)。
8
9
0年代には,アメリカの他の地域と同様
て1
新しい町の建設も始まった。 1
8
9
9年 1
2月に
に,アーカンザス川流域においても甜菜糖工
はシュガーシティ都市開発会社が設立されて
場の誘致に向けての気運が高まった。
おり,町の建設のために確保されていた 320
エーカーの土地開発を始めた。土地区画の販
売とともに,水道,下水,電気,学校,鉄道
N. 製糖工場の建設と甜菜栽培
駅の建設にあたった。新しい町はフロンティ
(1)製糖工場
アのブームタウンの様相を呈しており
2車
干
のホテル,新聞社
5軒の雑貨庖
2車干の葬
7
儀屋
5車干の酒場
2車干の売春宿
1車干の賭
カ所の製糖工場が建設された(表 1)。甜菜
博場
1車干の玉突き場,競馬場があった。住
はこの地域の経済にとってもっとも重要な農
宅建設が間に合わないため,最初の数年間は
作物となり,製糖業は農業生産者,農業労働
住宅用建物よりもテントの方が多かったが,
者,製糖工場の従業者,関連施設の雇用者な
町は徐々に整備されて行った。荒野に町と製
9
0
0年に操業を
アーカンザス川流域には, 1
開始した 2つの製糖工場をはじめとして
η/臼
表 1 アーカンザス川流域の甜菜糖工場
番号
会社名
場所
A
m
e
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c
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nB
e
e
tS
u
g
a
r
Company
2 N
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n
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r
M
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n
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c
t
u
r
i
n
gCompany
3 A
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i
c
a
nB
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r
Company
4 H
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u
g
a
rCompany
5 H
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g
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rCompany
6 U
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ra
n
d
LandCompany(
G
a
r
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e
n
C
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yCompany)
7 A
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r
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c
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nB
e
e
tS
u
g
a
r
Company
設立
閉鎖
RockyF
o
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d(CO)
1
9
0
0
S
u
g
a
rC
i
t
y(CO)
1
9
0
0
1
9
7
8 オックスナード兄弟
m
e
r
i
c
a
nC
r
y
s
t
a
lS
u
g
a
rCompany
1
9
3
4年より A
1
9
6
7 バッフアロー/ボ、ルチモア資本
備考
濯瓶水路事業
Lamar(CO)
1
9
0
5
N
a
t
i
o
n
a
lB
e
e
tS
u
g
a
rCompany(1900ー1
9
0
2年)
1
9
1
3 第2工場
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y(CO)
S
w
i
n
k(CO)
G
a
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nC
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y(
K
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)
1
9
0
5
1
9
0
6
1
9
0
6
1
9
1
3 W ウィリー,コロラド資本
1
9
5
8 第 2工場
1
9
5
5 コロフド資本
農業会社として存続
L
a
sA
n
i
m
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s(CO)
1
9
0
7
1
9
2
1 第 3工場
番号は図 3に対応する
H
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r
r
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s,
F
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u
g
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b
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nAmerica,
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nCompany,1
9
1
9
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1
9
0
0
1
9
7
9,C
o
J
o
r
a
d
oMagazine
,
5
6, 1
6
1
1
7
8頁等により作成.
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sv
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l
l
e
yb
e
e
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g
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n
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s
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r
y,
糖工場が出現したわけである 68)。
ドの経営によるアメリカ甜菜糖会社
工場と町の建設と並行して濯瓶支水路の建
(AmericanBeetSugarCompany) がコロラド
設と甜菜の種蒔きが同時に行われた。工場の
州で法人化され,ロッキーフォードで製糖事
1 日の甜菜処理能力は 500トンで,
業を始めることになった 70)。
100日間操
製糖工場を操業のために,会社側は安定し
業するとして処理できる甜菜面積は 5,
000エ
ーカーで、あったが,開墾やその他の事業に必
た甜菜供給を要求したし,地元の農民や実業
要な労働力や熟練栽培者が不足したため,初
家は積極的に協力した。農家の甜菜栽培は 20
年度の総菜作付面積は 3,
000エーカーに限ら
エーカーが限度であり, 5 , OOO~7 , 000 エーカ
れていた。
ーの供給面積を確保するためには広域にわた
1年目には 300万ポンドの砂糖が
生産された。甜菜の収量はエーカー当たり 15
る生産者の協力が必要であった。 1901年春の
トンで,これは当初の見込みの 20トンよりも
地元新聞には,カンザス州シラキュースの農
少なかったが,高い糖度 (18%) によって少
民もロッキーフォードの製糖工場に出荷する
ない収穫量が相殺された 69)。この会社は 1967
ために 200エーカーの甜菜を栽培することに
なり,製糖工場と結ぼれた契約面積は 15,
000
年まで操業することになる。
シュガーシティに近接したロッキーフォー
エーカー程度で,計画処理量 15万トンでの操
ドにも,地元プロモーターのスウインクの尽
業を予定していると報道された 71)0 1903年 か
力により,同じ年に製糖工場が建設された。
ら1947年にかけて,ロッキーフォードの農民
彼はロッキーフォードで濯瓶事業を展開する
の作付け面積のうち,甜菜は 20%あまり(約
とともに,
2,
000エーカー)を占めた 72)。
ドイツから甜菜種子を輸入して試
験栽培を行った結果が良好だったので,製糖
オックスナードは共同出資で 1901年にアー
工場の誘致にとりかかった。ニューヨークの
カ ン ザ ス バ レ ー 甜 菜 濯 瓶 地 会 社 (Arkansas
へンリー・オックスナードに甜菜のサンプル
Valley
を見せてアーカンザス川流域の可能性を説得
Company) を設立して甜菜栽培の振興をはか
し,地元では 6年間をかけて農民に甜菜の可
った。 12万エーカーの土地を 40エーカーの区
能性を示すことによって 1,
300人の農民が甜
画に分割して入植者に販売する計画をたて,
菜栽培を引き受けた。こうしてオックスナー
10エーカーの甜菜を継続して栽培することに
Sugar
Beet
and
I
r
r
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g
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e
d
Land
υ
内ぺ
同意した入植者には低価格で土地が販売され
両者間の激しい感情的対立によって,鉄道建
ることになった。こうした生産者が栽培した
設を実力で阻止したり,鉄道線路を夜間に破
甜菜をアメリカ甜菜糖会社が購入して加工す
壊しあったり,発砲事件も起きたという。結
る計画であった。この事業のために,ウィリ
局,両社の鉄道路線は 1
9
0
6年秋にサンタフェ
ー (W
i
I
li
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mM. W
i
l
e
y
) の監督のもとで, 1
5
0
鉄道会社に売却された 76)。ホーリー砂糖会社
マイルの幹線水路, 7
50マイルの支線水路,
9
1
3年に閉鎖されたが,ス
のホーリー工場は 1
1
4,
000エーカーの面積をもっ貯水池が建設さ
ウインク工場は 1
9
5
8年まで操業を続けた。
カンザス州のガーデンシティ地域では,プ
れた。 1
9
0
5年までにはこうした事業が 300万
ドソレを費やして完成した。 しかし,入植者は
ロモーターのスウインクの働きかけと地元の
なかなかやってこなかったというゆ。
製糖工場誘致運動に対応して,コロラド州コ
アメリカ甜菜糖会社のこの整備事業の担当
ロラドスプリングズの資本と経営陣によって,
者ウィリーは,第 2工場の候補地としてカン
1
9
0
6年 秋 に 合 衆 国 砂 糖 土 地 会 社 (United
ザス州境に近いホーリーを主張したが,地元
S
t
a
t
e
s Sugarand Land Company,後にガーデ
農民との作付協力が得られたことやミシガン
ンシティ会社 Garden C
i
t
y Company1こ社名変
州の他社が進出を検討していることなどを考
更)が製糖工場を経営するようになった。こ
慮して,会社側はラマーに第 2工場を建設し
の会社は 5
2,
000エーカーの土地を所有し,ア
た。一方,ラスアニマスの住民は製糖工場の
ーカンザス川の水を貯水するマッキニー湖を
誘致を繰り広げた結果, 1
9
0
7年にはアメリカ
建設し,グレートイースタン水路等の瀧翫水
甜菜糖会社の第 3工場が建設された。甜菜は
路を所有・経営した。自社農場で甜菜栽培を
常に不足傾向にあり,その供給量によって製
行って原料の確保につとめるとともに,甜菜
糖期に稼働できる工場数が規定された。ラス
運搬用の鉄道や発電所を建設して,カンザス
アニマスかラマーの製糖工場が休止状態にな
η。
州、│南西部の経済発展に大きな役割を演じた 7
れば地元民のプライドに傷がつき,翌年には
以上のような 7工場に加えて,ロッキーフ
甜菜供給量が減少するとし、う悪循環が繰り返
ォードの西のマンザノラでは 1
9
0
8年にアーカ
された刊。主力のロッキーフォード工場は
ンザスバレー甜菜糖会社が設立されて製糖事
1
9
7
8年まで操業したが,ラマー工場とラスア
業に乗り出したが,深刻な早魁,労働力不足,
ニマス工場は短命であった(表 1参照)。
甜菜価格をめぐる製糖会社と農民の対立など
アメリカ甜菜糖会社の整備事業を担当した
の問題によって,この事業は失敗した。しか
ウィリーは,第 2工場がラマーに建設される
も,このころまでにはアーカンザス川流域に
と,カンザス州境に近いホーリーに独自に製
は甜菜供給能力を上回る数の製糖工場が立地
糖工場を建設することを計画した。デ、ンパー
していた。
ナショナル銀行の創設者から経済的支援を受
け
, 1
9
0
5年にホーリー砂糖会社 (Ho!
l
yS
u
g
a
r
(
2
) 甜菜の供給と労働力
9
0
6年には,ロ
Company) が設立された。翌 1
収穫機械の発明・普及と種子の改良が行わ
ッキーフォードに近いスウインクにホーリー
れる以前の時代には,甜菜栽培は労働集約的
砂糖会社の第 2工場が建設された 7九
な農業であり,甜菜栽培の労働力需要には春
ホーリー砂糖会社とアメリカ甜菜糖会社は
と秋にピークとなる顕著な季節性がみられた。
激しい競争を展開した。甜菜を運搬するため
播穫の後,それぞれの種子から 4つ以上が発
の鉄道をそれぞれが平行して建設し地元農
芽したため,間隔をおいた集団に間引く作業
民との栽培契約を獲得するために競合した。
がまず必要であった。さらに,それぞれの集
'EA
A 斗A
団での間引きが必要で、あった。
2~3 回の除
9
0
9年までには,同社が所
者になっていた。 1
草も不可欠であった。こうした作業は 5月か
2,
0
0
0エーカーの 4分の 1がロシ
有していた 1
ら 7月にかけてすべて手作業で行われた。秋
ア系ドイツ人によって購入されていた。同社
の収穫期には,コンパイン収穫機の普及以前
は製糖工場の操業を継続するためには地元生
には手作業で甜菜を引き抜き,フックのつい
産者が重要であると認識していたので,土地
た専用ナイフで葉の部分を切り落とし,山状
9
0
8年と 1
9
1
0
購入と定住化に便宜をはかり, 1
に積み上げた。これらの作業は短期間に行う
年に早魅が起きたときは地代の支払期限を延
ことが要求された。ブロッキング・間引き作
期したり特別融資を行った。ロシア系ドイツ
業は甜菜が大きくならないうちに迅速に行う
人はシュガーシティ地域の甜菜栽培者の大部
必要があったし,収穫期には糖度を高めるた
分を占め,彼らは 25~50エーカーを経営した。
めにできるだけ収穫作業を遅らせ,短期間に
なお,ナショナル製糖会社も 500~1 , 800 エー
集中して収穫する必要があった。
カーを自社で栽培した 81)。
甜菜は多量の労働力をピーク時に必要とす
1
9
1
0年センサスによると
3つの製糖工場
るため,また腰をかがめた作業が重労働であ
があったコロラド州オテロ郡には,ロシア生
るため,アメリカ人の農民は甜菜栽培を行う
5
9人,アメリカ生まれで両親がロシ
まれが 7
ことに積極的ではなかった。原料を確保する
5
4人いた。ロシア系ドイツ人の
ア生まれが 3
ため,製糖工場は移民労働者の導入に努力し
アメリカへの流入は第一次世界大戦の勃発ま
た。アメリカ西部ではロシア系ドイツ人 78)
で続いた。彼らが労働者から自営農民に農業
日本人,メキシコ系が主な労働力となったが,
階梯を上昇したあとの空隙は新しい移民の流
アーカンザス川流域ではロシア系ドイツ人が
入によって埋められ,甜菜栽培の進展が可能
とくに重要であった。
となった。第一次世界大戦はアメリカの甜菜
コロラドでは最初のロシア系ドイツ人はカ
糖産業に大きな影響を及ぼしたが,ロシア系
8
8
0年頃に来て鉄道
ンザス州ラッセル郡から 1
ドイツ人農民が中心であった地域では,家族
労働に従事したが,砂糖産業の発展にともな
労働力によって甜菜労働のかなりの部分を行
9
0
0年から 1
9
1
0年にかけてアーカンザス
って 1
うことができたため,戦争の影響は少なかっ
川とサウスプラット)1流域で増加した 79)。ナ
9
2
4年移民法によって国別の
た82)。しかし, 1
ショナル製糖会社は,最初の 3年間はロシア
移民割当制が実施されたため,ロシア系ドイ
系ドイツ人移民を専門的に雇用し,彼らはネ
ツ人移民の流入時代は終わった。
プラスカ,コロラド,カンザス州から流入し
ナショナル製糖会社はメキシコ人の契約労
た。労働者用住宅を提供し,甜菜 1 トン当た
9
0
3年に初めて使用し,ニューメキシ
働者を 1
り4 ドルを保証し,会社の恵まれた貸し付け
0
0人の集団が導入された。その後
コ州から 1
制度を利用して土地を購入することが可能で、
も,ニューメキシコ,コロラド,テキサス州
あることが約束された 80)。
からメキシコ系労働者が継続的に雇用された。
ロシア系ドイツ人が導入された理由として,
1
9
0
0年には同社の契約労働者はすべてロシア
彼らが勤勉な農民で甜菜栽培の技術に習熟し
9
2
0年には甜菜農場
系ドイツ人であったが, 1
ていたことと,一般に大家族で家族内の豊富
労働者の 3分の 2はメキシコ系であった 83)。
な入手によって広い土地を契約栽培すること
他の製糖会社もメキシコ系労働者に主に依存
ができたためであった。
2~3 年後にはロシ
した。オックスナードのアメリカ甜菜糖会社
ア系ドイツ人はナショナル製糖会社の土地を
は,メキシコ国境まで人を派遣してメキシコ
購入し始め,到着して 5年以内には土地所有
人労働者の確保にあたったり,ニューメキシ
Fhd
l
コ州でメキシコ系労働者を調達した。こうし
あった。ホーリー砂糖会社も同様な戦略を採
た労働者を確保するために,アメリカ甜菜糖
用した。
ガーデンシティ会社の場合には,会社が広
会社は労働者に往復の鉄道運賃を支給した。
また,メキシコから労働者を導入するために
大な土地と濯瓶施設を所有して,当初は自社
連邦政府は規制を緩和した 84)。
栽培を行ったが,小作農民に甜菜栽培を委託
日本人ボスのもとでギャングと呼ばれた集
する小作農型に転換した。ここではナショナ
団で行動した日本人労働者は,コロラド州、│の
ル製糖会社の場合と同様にロシア系ドイツ人
甜菜地域にはカリフォルニア州、│から導入され,
が甜菜生産の担い手となったが,彼らは土地
しばしば往復の鉄道運賃が支給された。コロ
を所有することはなかった。同社は製糖事業
ラド州北部では日本人労働者は重要で、あった
をやめた後も土地を保有し続け,農業会社と
が,南部ではロシア系ドイツ人とメキシコ人
して今日でも経営を続けている。製糖工場が
が多数を占めた。アーカンザス川流域では日
閉鎖された後も製糖時代の会社が存続してい
本人労働者は限られていた 85)。
るのは,アーカンザス川流域ではガーデンシ
ティ会社のみである 87)。
(
3
) 原料調達の 4類型
甜菜糖工場が持続的に経営を続けるために
V. 甜菜糖時代の終駕
は原料の安定した確保が前提となる。カリフ
オルニア州では甜菜の 4分の lは製糖工場に
1
9
0
0年に始まったアーカンザス川流域の製
よって自社生産されたが,コロラド州では
糖業は 1
9
7
0年代末に幕を閉じた。この過程で,
95%の甜菜は地元生産者によって栽培された 86)。
9
1
3年に
ホーリー砂糖会社はホーリー工場を 1
甜菜を確保するために,製糖工場は農民と栽
9
5
8年に閉
閉鎖し,主力のスウインク工場も 1
培契約を結び,労働力を篠保し,最低価格を
9
5
5年に操
鎖された。ガーデンシティ会社は 1
保証した。しかし,詳細にみると,原料調達
9
6
7年
業を停止した。ナショナル製糖会社は 1
法は会社によって異なっており,次のような
に倒産した。アメリカ甜菜糖会社はラマー工
4類型を認めることができる。
9
1
3年に,ラスアニマス工場を 1
9
2
1年に
場を 1
製糖会社が農地を所有し,労働者を雇用し
閉鎖し,主力工場であるロッキーフォード工
て甜菜を自給する直営農場型は前述のように
場に生産を集中する方法を選んだ。この工場
カリフォルニア州では主流であり,アーカン
はアーカンザス川流域で最後の製糖工場とな
ザス川流域においてもみられた。ナショナル
9
7
8年に操業を停止した。このよう
ったが, 1
製糖会社はその例である。しかし,同社は直
な甜菜糖時代の終鷲は,アメリカ合衆国の甜
営農場によって甜菜を確保する方法にかわっ
菜糖産業の全体的動向とアーカンザス川流域
て,地元農民から大部分の甜菜を購入する方
の地域的条件を反映していた。
法に転換し,自社の所有地を分譲してロシア
1
9
2
0年代から継続して製糖会社と甜菜生産
系ドイツ人の小規模農場経営者の創出につと
9
3
0年代に
者にとって厳しい時代が続いた。 1
めた。ナショナル製糖会社は甜菜農場分譲型
は砂糖法による政府の統制下においても,砂
の事例である。
齢、られた。農民に
糖会社は,厳しい経営を 5
とっては労働集約的な甜菜を栽培するための
一方,既存の地元農民に甜菜栽培を依頼す
る契約栽培型は,アメリカ甜菜糖会社が採用
経済的刺激がほとんど存在しなかった。
した方法であった。このためには,スウイン
甜菜の絶対量の不足は深刻であり,それは
クのような地元プロモーターの存在が重要で
さまざまな要因によってもたらされた。第一
ハ
hu
次世界大戦後から 1
9
6
0年代にかけて砂糖価格
9
7
4年に砂糖法を更新しなかっ
連邦議会は 1
は一般に低迷を続け,甜菜生産者の意欲が低
たので,政府による統制時代は終わりをつげ
9
2
0年代に入ってオオヨコバイ科の
下した。 1
た。もっとも,政府の統制時代末期には,サ
昆虫によって引き起こされたカーリートップ
トウキビが世界的に不作の時期と重なって砂
と呼ばれた甜菜病問)が流行した結果,単位面
糖価格は高騰したため,甜菜生産者はトン当
積当たりの収量が著しく低下した。さらに皐
5ド、ルで、売ることでき,甜菜糖業界は一
たり 4
9
5
0年代に
越と水不足は深刻であり,とくに 1
時的に潤った 90)。しかし,サトウキビ産地の
は早魅が長引いたため,甜菜栽培面積は縮小
回復にともなって砂糖価格は低下した。
を余儀なくされた。機械化の進展にともなっ
このような状況のもとで甜菜糖会社が株主
て甜菜栽培用の新しい農業機械が開発されて
にとって魅力がなくなるなかで,甜菜生産者
いたが,小規模生産者にとっては高価すぎて
が製糖工場を購入あるいは賃貸して操業を続
購入することは困難であった。
ける傾向がみられた 91)。アーカンザス川流域
C
o
l
o
K
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nS
u
g
a
r
ではコロカン砂糖会社 (
製糖工場では処理施設が改良されて処理能
力が増大した結果,多量の甜菜を必要とする
I
n
c
.
) がロッキーフォード工場を賃貸して操
ようになっていた。甜菜を確保するために
業を継続した。これはカンザス州 5カ所とコ
製糖工場は広域な産地から甜菜を集荷するこ
ロラドチト1
4カ所の甜葉集荷揚利用者の生産者
とを余儀なくされたため輸送コストは増大し
9
7
6年
組合であった 92)。コロカン砂糖会社は 1
たし,生産能力をはるかに下回る水準で操業
9
7
8年にロッキーフォ
に赤字経営に転落し, 1
を続ければ生産コストは上昇した。
ード製糖工場の借用を停止した。この製糖工
8,
0
0
0エーカーの甜
場で採算をとるためには 1
もっとも,製糖工場の閉鎖は存続する製糖
工場への原料供給を容易にした。たとえば,
9
7
8年に集荷
菜作付面積が必要であったが, 1
9
5
5年の製糖期を最後
ガーデンシティ会社が 1
できたのは 1
4,
3
0
0エーカーのみであった。
に操業を停止すると,ホーリー砂糖会社はガ
ーデンシティ会社の甜菜割当面積を獲得して
1
9
7
5年に 1
2
0人を数えた組合員は 1
9
7
8年には
5
8人に減少していた 93)。
スウインク工場への供給量を確保した。しか
9年間操業を続けたロッキーフ
こうして, 7
9
5
8年にはホーリー砂糖会社はスウイン
し
, 1
0人の常勤従
ォードの製糖工場は閉鎖され, 8
ク工場を閉鎖し,すべての甜菜面積をアメリ
4
0人の一時雇用者が失業した。 1
,
0
0
0
業者と 2
カンクリスタル砂糖会社のロッキーフォード
人の季節移動労働者と彼らの家族にも影響が
工場で処理することと引き換えに,カリフォ
及んだ。カンザス州北西部のグッドランドに
ルニア州インベリアルバレーのアメリカンク
グレートウエスタン砂糖会社の工場が操業し
リスタル砂糖会社の甜菜面積を獲得し,これ
ていたが,カンザス州南西部からは鉄道輸送
をカールトン工場で処理するようになった。
は困難で、あった。最後の製糖工場の閉鎖にと
カンザス州北西部のグッドランドに新設され
もなってアーカンザス川流域の農業地域は経
たグレートウエスタン砂糖会社が生産者と高
済の軸を失い,農作物は甜菜からトウモロコ
い価格で契約したため,シュガーシティのナ
シ,ソルガム,小麦に転換されることになっ
9
6
7年春に数百エーカー
ショナル砂糖会社は 1
た94)。なお,甜菜糖時代の終震後のカンザス
しか甜菜面積を確保できずに操業停止に追い
南西部には,オガララ帯水層からの揚水とセ
込まれた。同社はグレートウエスタン砂糖会
ンターピボット濯瓶装置の普及とフィードロ
社に対して独占禁止法違反の訴訟を起こした
ット産業の発展,そして大規模食肉工場の進
9
6
8年 8月に倒産した 89)。
が失敗し, 1
出にともなって,アメリカ合衆国を代表する
ni
牛肉産地が形成されることになる 95)。
は製糖工場を単位とした甜菜産地の展開を詳
細に考察する必要がある。アーカンザス川流
域の最下流部に位置したガーデンシティ会社
V
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.ま と め
の製糖事業については,別稿で詳細な検討を
本稿では,アメリカ西部の開発を研究する
行う予定である。また,アメリカ西部の他の
際に,甜菜栽培と製糖業の展開を検討するこ
甜菜糖地域についても,調査を進めて行きた
との意義を提示した。西部の甜菜糖産業を分
し
、
。
析する際には,ヨーロッパの伝統の導入,国
家的な関税・農業政策,地域レベルでの資本,
〔付記〕
人材,技術,濯瓶,農業労働力に着目する必
本稿の要旨は平成 1
1年度歴史地理学会大会で発表
要がある。甜菜糖産業の展開は,ヨーロッパ
した。資料収集にあたっては,科学研究費補助金
甜菜糖産業の導入期,研究開発の進展期,ア
メリカ型甜菜糖産業の確立期,甜菜糖産業の
r
アメリカ大平原オガララ帯水
(基盤研究 (A)(2))
層地域における進概化の進展と持続的環境利用」
(代表者.矢ケ崎典隆)を利用した。
不安定期,保護安定政策期に分けて把握する
ことができる。
[
注
〕
アーカンザス川流域では 1900年から 1907年
1
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にかけて 7カ所の製糖工場が建設され,一つ
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の甜菜糖産地が形成された。これらの製糖工
場は,オックスナードによる 3工場,独立系
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3
4頁
。
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のナショナル製糖会社とガーデンシティ会社,
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.,
そしてホーリー砂糖会社の 2工場であった。
1
9
8
6,3
6
3頁
。
濯瓶事業の進展は甜菜栽培の基盤となった。
3
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しかし,甜菜糖産業の不振が続く中で甜菜の
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確保は容易ではなく,甜菜調達の方法として,
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製糖会社による直営農場方式,製糖会社によ
る農場分譲方式,地元農民との契約栽培方式,
1
1
7頁
。
4
) Rasmussen,W. D
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そして製糖会社所有地における小作農方式が
認められた。アメリカ西部の甜菜栽培は移民
4
1,1
9
6
7,3
1
3
5頁
。
5
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労働力に大きく依存したが,アーカンザス川
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7,1
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流域ではロシア系ドイツ人が農業労働者とし
2
6頁
。
て,また農場経営者として甜菜栽培に重要な
6
) Nash, G
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,
役割を演じた。
甜菜糖工場は 1913年から相次いで閉鎖され,
4
,
11
9
6
7
.2
7
3
0頁
。
7
) 矢ケ崎典隆「合衆国センサスに描かれた 1
9世紀
最後まで存続したアメリカンクリスタル砂糖
末の港紙フロンティア J,横浜国立大学人文紀要
会社のロッキーフォード工場も経営不振に陥
った。地元生産者組合による製糖工場の賃貸
第一類, 4
3,1
9
9
7,3
7
5
2頁
。
8
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経営の試みも 1978年には破綻し,アーカンザ
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ス川流域の製糖業は幕を閉じた。
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本稿ではアメリカ西部の甜菜糖産業を検討
するための考察の枠組みを提示したが,今後
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8-
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頁
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9
9
2,487頁
。
性があり,クリップルクリークがゴールドラッシ
9
) フランス人科学者によって甜菜糖精製技術が開
ュで世界中に知られたように,糖度の高い甜菜が
発されると,ナポレオンは有名な 1
8
1
1年 3月 2
5日
栽 培 で き る ア ー カ ン ザ ス 川 流 域 は 白 い 金 Jの
の法令を発布した。これに基づいて政府は広大な
産地として有名になると論じられた。前掲 1
9
),
土地を甜菜栽培用地に指定し,甜菜学校を設立し
Marko仔~
71-72頁
。
て優秀な学生には奨学金を給付し,製糖工場の建
20 前掲 1
1
),M
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k,1
4
0ー 1
4
3真
。
設を管理し,甜菜栽培を促進するために補助金を
2
2
) 前掲 3
),
Arr
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n
g
t
o
n,8頁
。
提供した。 1812年までにはフランスでは 1
6,
758エ
2
3
) 前掲 3
),Ar
r
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n,8,1
6頁
。
ーカーの甜菜作付け面積から 98,
813トンが収穫さ
2
4
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0ポンド袋が
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, 40カ 所 の 小 規 模 製 糖 工 場 で 1
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6,
33,
000袋生産された。前掲3
),Ar
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n,1
2頁
。
1
9
1
2,381-386頁
。
1
0
) 製糖機械はイギリスのリバプール港からニュー
2
5
) スプレックルズはチヤールストン,ニューヨー
オリンズを経由してカンザス州フオートレーベン
ク,サンフランシスコで青果物商として成功した
ウォースまで水上輸送され,そこから 52頭の雄牛
が
, 1
8
6
3年に兄弟のピーターとともに BayS
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を使って平原を横断してソルトレークバレーまで
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g Companyを設立した。 2年後に会社を売
),Ar
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g
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o
n,2-3頁
。
陸上輸送された。前掲 3
却してヨーロッパに渡り,秘密主義のドイツの製
1
1
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技術を密かに取得した。 2年後にアメリカに戻り,
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8
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7,3
1頁
。
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トが組織されると,スプレックルズは敵地の東海
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nCompany,1
9
1,16-18頁
。
岸に乗り込んで戦いを挑み,フィラデルフィアに
1
3
) 前掲 1
,
)
1 Myrick,8頁
。
300万ドルの精糖工場を建設して経営した(1888
1
4
) 前掲 3
),
Ar
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g
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o
n,3-4頁
。
~1889 年)。結局,スプレックルズはこの工場を
1
5
) 前掲 3
),
Ar
r
i
n
g
t
o
n,4頁
。
彼の言い値で砂糖トラストに売却した。前掲 3
),
1
6
) 前掲 3
),
Ar
r
i
n
g
t
o
n,9頁
。
Ar
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o
n,5-6頁
。
1
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2
6
) 前掲 3
),
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。
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27)ネプラスカ州の 2工場は 1890年と 1
8
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1年に完成
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,
したが,これらはフランス人によって建設・経営
22,1903,179-187頁
。
され,フランス製機会が装備された。カリフオル
1
8
) 前掲 3
),Ar
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n,1
0頁
。
1
8
9
1年)は,
ニア州のチノ工場 (
1
9
) 前掲3
),Ar
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用いドイツ人によって建設・経営された。また,
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オックスナードの事業は,オックスナード学校と
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,55-1,
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も呼べる人材養成所となった。また,オックスナ
1
9
7
8,69-92頁
。
ード兄弟は,マッキンレ一関税法の補助金への指
2
0
) ダイヤーの議論によれば,
1日300トンの処理
示を連邦議会に積極的に働きかけたことでも重要
能力をもっ製糖工場の建設費は 30万ド、ルで、あり,
な貢献をした。 1890年から 1892年にかけて甜菜種
lシーズンに 1
5
0日の操業期間(キャンベーンと
子と精糖機械が無関税で輸入されたが,その背景
000エーカ一分の甜菜を処理でき
呼ばれた)に 3,
にはへンリー・オックスナードと合衆国農務省の
るため,糖度 10%とすると 900万ポンドの精製糖
),Ar
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g
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o
n,6-7頁
強し、働きかけがあった。前掲3
を生産することができる。 1ポンド当たりの砂糖
また,彼は 1
8
9
1年にアメリカ甜菜糖生産者組合を
価格が 6セント,生産コストが 3
.
5セントとする
設立し,その会長として私財を投じて組合の運営
2
.
5万ドルとなり,これは工場の建設
と,利益は 2
1
),M
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k,3
4頁
。
に尽力した。前掲 1
費に近い。農民にとっては,
1エーカー当たり 20
2
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トンの甜菜を収穫するとして,エーカー当たりの
2
.
7
5ドルとなる。コロラド州では,鉱物
利益は 3
資源は有限で、あるが,甜菜糖産業には無限の可能
,56,1979,161-178頁
。
MagazIne
2
9
) Ar
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前掲 3
),
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n,1
4頁
。
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,34,95-120頁
。
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41)前掲 3
),
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o
n,1
5頁
。
3
0
) 前掲 3
),
Ar
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n,7頁
。
4
2
) 前掲 3
),
Ar
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o
n,1
5頁
31)前掲11), M
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i
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k,6頁
。
4
3
) 前掲 5
),
T
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2
1頁
。
3
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4
4
) 前掲 5
),
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r,22-23頁
。
4
5
) 前掲 5
),
T
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r,2
3頁
。
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6
) 前掲 5
),
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。
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7
) 前掲2
8
),M
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,1
7
1頁
。
1
9
0
2,447貰
。
4
8
) 前掲 5
),
T
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r,2
2頁
。
4
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3
) 前掲 3
2
),
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この理由として,第 1 に,製糖工場は 200~400
人の労働者を雇用するため,地域経済の発展に貢
C
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si
nEconomics,6,1930,1
0
7頁
9
献する。第 2に,甜菜栽培には農学的な利点が認
5
0
) 前掲 4
9
),T
a
y
l
o
r,1
8
7頁
。
められた。甜菜の葉,パルプ,糖蜜は家畜の飼料
51)前掲2
8
),M
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r
k
o
f
f
,1
7
2ー 1
7
3,1
7
6頁
。
になるし,地中に残った根は土壌の肥沃度を増す。
5
2
) 前掲2
8
),M
a
r
k
o
f
f
,176頁
。
7フィートにおよぶ主根や毛細根は土壌に深く入
5
3
) 前掲4
),
Rasmusseno
り込むため,土壌の保水力を高める効果がある。
5
4
) 前掲4
),
Rasmusseno
また,甜菜栽培のためには深耕と土壌管理が必要
5
5
) May, W. J
. J
,
.
r
なので,穀物,野菜などを甜菜と輪作することに
よって収量の増加が期待された。アメリカ西部で
は,甜菜は濯瓶農民の現金収入源であり,小麦や
トウモロコシと競合することはなかった。さらに,
製糖工場は専門家を雇用して農業指導にあたらせ
"The C
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7
8,15-45頁
。
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sofKansas,1
9
9
0,12-13頁
。
たので,甜菜栽培はアメリカ農業を改善するため
5
7
) 前掲 5
6
),Sherow,1
4頁
。
),
の優れた方法であると認識された。前掲3
5
8
) 前掲 5
6
),Sherow,1
8頁
。
Ar
r
i
n
g
t
o
n,10-12頁
。
5
9
) 前掲 5
6
),Sherow,
2
1頁
。
3
5
) 前掲 3
),
Ar
r
i
n
g
t
o
n,1
0頁
。
6
0
) 前掲 5
6
),Sherow,44頁
。
3
6
) 前掲 3
),Ar
r
i
n
g
t
o
n,1
3頁。前掲1), Ar
r
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n
g
t
o
no 前
61)前掲 1
9
), Marko
正 76頁。
2
),H
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s,319頁
掲1
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3
3
7
) 前掲 3
),
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n,1
3頁。前掲 1
2
),H
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s,312頁
。
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3
8
) 前掲 3
),
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n
g
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o
n,1
3頁。前掲 1
2
),H
a
r
r
i
s,314頁
。
Committee,1
9
8
2,1
1
4頁
。
3
9
) 前掲 3
),Ar
r
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n
g
t
o
n,1
3頁。デトロイトに本拠をお
いたミシガン砂糖会社
(Michigan S
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8
9
9年に 3工場, 1
9
0
2年に
Company) が最大で, 1
3工場を建設した。前掲 1
2
),H
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r
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s,315頁
。
4
0
)S
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6
2
) 前掲 1
9
),
M
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k
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f
f
,77頁
。
6
3
) 前掲 1
9
),M
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r
k
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f
f
,7
4頁
。
6
4
)M
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7年に組織されたが,ニューヨ
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f Kansas,
1
9
1
0,
1986,50-70頁
。
ーク州最高裁判所によって違法の判決を受けた。
6
5
) 前掲2
8
),
M
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r
k
o
f
f
,163頁
。
1
8
9
1年にニュージャージー州で資本金 5,
000万ド
6
6
) 前掲 1
9
),Marko汀~ 7
1,7
9,9
,
11
6
4頁
。
ルのアメリカ精糖会社が持株会社として設立され,
6
7
) 前掲 1
9
),M
a
r
k
o
f
f
,80頁
。
砂糖トラストの資産を引き継いだ。この会社は 4
6
8
) 前掲 1
9
),M
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k
o
f
f
,82,84 前掲 6,
)
1 Sugar C
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カ所のサトウキビ糖精製工場を経営し
6カ所の
0
BookCommittee
。
精糖工場の経営権を所有し,この国の精糖能力の
6
9
) 前掲 1
9
),M
a
r
k
o
f
f
,80,84頁
。
75%を独占した。設立後まもなくしてアメリカ精
7
0
) 前掲 5
6
),Sherow,1
5頁
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,
糖会社は競争相手を買収し, 1892年までにはアメ
1
9
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0年4月 5目
。
リカの精糖能力の 98%を有するようになっていた。
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1年 4月 24日
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7
2
) 前 掲5
6
),S
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r
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w,40頁
。
8
6
) 前 掲8
5
),I
w
a
t
a,1
7
2頁
。
7
3
) 前 掲2
8
),M
a
r
k
o
f
f
,166-168頁
。
8
7
) 以上のような甜菜確保のための戦略がとられた
7
4
) 前掲 2
8
),Marko
,
汀1
6
8
1
7
0頁
。
が,安定した甜菜の確保は工場の持続性を左右す
7
5
) 前掲 2
8
),M
a
r
k
o
f
f
,1
6
8頁
。
る重要な要因となった。この点は甜菜でもサトウ
7
6
) 前掲 2
8
),M
a
r
k
o
f
f
,1
6
8頁
。
キピでも同様であり,より詳細に検討する必要が
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9
3
1,復刻版
ては別稿で論じた。矢ケ崎典隆・斎藤功「ブラ
1
9
8
9,410貰
。
ジル北東部ゴイアナ川流域における製糖工場の展
7
8
) カンザス州とネブラスカ州のロシア系ドイツ人
開とサトウキビ集荷圏の空間組織」地理学評論
65A,1
9
9
2,1
7
3
9頁
。
はボルガジャーマン V
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aGermansと呼ばれる。
7年戦争によって故郷を追われたドイツ人はロシ
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) Maxson,A
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0年代に少数派
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9
) 前 掲2
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,175-176頁
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2年にミネソタ州の農業者は RedR
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2頁
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5州に
存在するアメリカンクリスタル砂糖会社の製糖工
場を質収した。前掲2
8
),M
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,1
7
6頁
。
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1月30日。カンザ
スの生産者はロッキーフォード工場まで 2
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であった。この生産者組合が生産者に支払ったの
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0ドルで,これは当初の契約額
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8,8
4頁
。
(22.00~22.50 ド、ル)をはるかに下回る価格であ
った。 H
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1月6日
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5頁
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0頁
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) 前掲 8
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) 前掲8
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1
1
0頁
。
るフィードロットの展開と牛肉加工業の垂直的統
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8,674-694頁。矢ケ崎典隆・斎藤功
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9
2,1
7
3
1
7
4頁。ロッキーフ
「アメリカ合衆国ハイプレーンズにおける潅液化
ォード地域には, 1
9
0
5年に鉱山から移住した 4人
と農業地域の変化ーカンザス州南西部の事例
J,
の日本人によってキヤンタロープメロン栽培が成
新地理 46-4,1
9
9
9,1
4
3
1頁。斎藤功・矢ケ崎典
功し,日本人が増加した。 1
9
1
0年センサスでは,
隆・二村太郎「カンザス州サンドヒルズにおける
3つの製糖工場があったオテロ郡に 100人の日本
土地所有と土地利用の変イヒ J ,人文地理 51-5,
人の存在が記録されている。
1
9
9
9,2
5
4
4頁
。
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