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重い荷物を背負って歩いた人生

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重い荷物を背負って歩いた人生
重い荷物を背負って歩いた人生
中村 トク さん(長岡市楡原
在住)
私は大正 8(1919)年 11 月 20 日、古志郡下塩
に、見送りにきてくれた。汽車の中で一泊して尻
谷村岩野で生まれた。家は自作の農家だった。兄
が痛かったのは覚えているが、どんな話をしたか
姉は、男 5 人女 2 人の 7 人。私は二女で、やんち
は忘れてしまった。
注1
ゃで活発な子どもだった。近くの蔵王社で、縄跳
びやお手玉などをして遊んでいた。
尼崎では二軒長屋の社宅に住んだ。食糧難だっ
かわたに
大正 14 年、川谷尋常小学校に入学。昭和 6 年
や
たけれど、海が近いので新鮮な魚や蛸などを刺身
ち
に卒業した後、谷内の駄菓子屋へ住込みのおんな
で食べられたことが嬉しかった。夫は会社までの
ご(女中)に出た。そこの奥さんは親戚が機屋だ
遠い道のりを歩いて通い、仕事は 2 交代制で夜勤
ったので、家業の他に機織りの内職をしていた。
もあった。知らない土地なので、私一人ではどこ
私は店番や反物の仕上げの手伝いをした。その後
にも行けなかったが、行商が来るので暮らしは成
も、結婚するまで幾つかの仕事をして来た。
り立っていた。夫は給料を神棚に上げた後、全て
親は、私を食べる心配のない農家へ嫁にやろう
私に任せてくれた。
と思っていたようだが、農作業は嫌いなので行く
気はなかった。「親の言うことを聞かない子は家
昭和 17 年に息子が生まれた。夫は本当に喜ん
に置いておけない」と、両親からは常々言われて
でくれて、我が子を懐に抱き入れ“ことこと”
(喜
いた。
びや嬉しさなどの感情を表した方言)していた。
ある日、夫から「B29 の監視の仕事に就いた。
私の姉が上樫出で農家をしている従兄の所に
位は上ったが、いつ危険な目に会うか分らない、
嫁いでいたので、その弟である正二の嫁に欲しい
覚悟しておいてくれ」と言われた。会社は軍需工
という話が出た。正二さんは、大阪の住友金属工
場だったので、爆撃に備えて監視をする仕事もあ
注 1
業で軍需に関わる仕事をしていた。従兄妹同士だ
ったのだ。
ったのに、今まで会ったこともなかった。写真を
見たら、あんまりいい男だったので、「こりゃ大
昭和 20 年の春、身重だった私は 3 歳の息子を
変だ」と思った。でも嫌な時は、
「逃げてこよう」 連れて実家に疎開した。
とも思った。両方の親たちからも勧められ、結婚
を決めた。
同じ年の 6 月 1 日、大阪大空襲があった。その
日、夫は当番ではなかったのに代わりを頼まれて
監視塔に上ったという。そして、爆死した。
昭和 15 年の秋、21 歳で結婚した。戦時中で結
夫が亡くなった知らせは、大きなショックで何
婚式どころではなかったが、正二さんが迎えにき
とも言えない胸の苦しみだった。お腹に子どもは
てくれたので、秋の刈り入れ祝い「秋餅よばり」
いるし、目の前が真っ暗になって、この先どうす
を兼ねて嫁披露をしてもらった。
ればいいのか分らなくなった。
翌朝には、正二さんの社宅がある兵庫県尼崎に
向かった。出発前、母は帯枕の代わりに沢山の米
夫は義兄が迎えに行ってくれた。その日、臨月
を詰めて、大きなお太鼓結びにして送り出してく
の私は行けないことを承知で「おれも行く」と、
れた。兄は、見附駅まで歩いて何時間もかかるの
恥も外聞もなく楡原の駅で泣いた。
2 週間後、娘が生まれた。私たち 3 人は、夫の
これからは夫の実家に頼るだけではなく私も
実家で暮らすことになった。12 人の大所帯だった
働こうと思い、卵を売ることにした。最初は腰に
が、みんなが良くしてくれた。夫は焼かれて骨に
卵をつけて売り歩いたのだが、背負った子どもの
なってしまったけれど、夫の持ち物は全て会社が
足で卵が壊れてしまい商売にはならなかった。
卵売りは辞め、子どもたちの世話を姑に頼んで
疎開させてくれた。
行商をすることにした。見附今町から来た行商人
終戦の秋、夫の会社の人が大阪からはるばる来
から品物を買って、遠くの農家まで売り歩いた。
てくれた。「亡くなった社員の合同慰霊祭をした
毎日、遅くまで商いをした。姑に、「もっと早く
いので尼崎に来て欲しい、宿も用意するから 4、5
帰って来らんねかったか」と言われたこともあっ
日泊まって欲しい」と言われた。姑は「終戦後で
たが、農家の人は日暮れまで働いているから遅く
アメリカ兵に会ったら何されるか分からん、お前
なる。それに、少しでも多く売りたいので遠くま
1 人ではやらんねぇ」と心配して、義兄にも行く
で足をのばしていた。
ように言ってくれた。私は娘を負ぶって義兄と尼
息子が 5 歳になった頃、ようやく夫の実家を出
崎に向かった。
会社の人は 10 人ほど亡くなっていた。夫の位
て 2 階一間を借りることができた。そこは栃尾鉄
が一番上だったので、慰霊祭では私が代表でお参
道の楡原駅のすぐそばで、私の実家にも近い所だ
りをした。
った。この頃には見附今町まで行き、自分で仕入
法事は、私たちが泊まらせてもらっている一等
注3
れて商売が出来るようになっていた。
旅館に用意されていた。ところが、台風による水
それでも生活は苦しく、自分の着物や夫が残し
害に遭い 2 階近くまで水がきた。
「ここで命を落
てくれた物を売って生活の足しにしていた。夫の
とさんばならんか」と、思うほどだった。
作業着を 500 円で買ってもらえたことは、今でも
水が引いた後、ぐしゃぐしゃになった座布団に
覚えている。あるとき、神主さんから、「夫の袴
座りながら法事をした。用意されたご馳走は全て
が欲しい」という話が来た。この袴は、姑が蚕を
流されてしまったが、みかんの缶詰だけは無事だ
育て繭から紡いだ正絹で、針仕事の上手な義妹が
ったので、皆に 5 個ずつ土産として渡された。
縫ってくれた大切なものだった。姑のところに行
何も食べるものがなかったが、私たちには姑が
ほ
いい
缶に入れて持たせてくれた干し飯(残りご飯を洗
って干したもの)があった。義兄は乳が出るよう
にと、私に全て食べさせてくれた。姑と義兄の気
き事情を話すと、好きなようにしたらいいと言っ
てくれた。袴は高く売れた。
夫の残してくれた物が、私達の命を繋いでくれ
たのだとつくづく思った。
持ちが有り難かった。姑はいつも、「何事も無い
なんてことは無いもんだ」というが、その言葉が
昭和 23 年、息子が小学校 1 年の 2 学期に、あ
身に染みた。間もなくして炊き出しのおにぎりを
る人が同情して小屋を譲ってくれたので楡原に
2 つもらった。塩で握っただけのおにぎりだった
家を持つことが出来た。駅にも近く、行商するに
が、おいしかった。本当に有り難かった。
はとても便利だった。お客さんの欲しい物を聞い
ているうちに、自分で問屋から仕入れた方が儲か
その後、悲しみも癒えない私に再婚の話があち
ると思った。だが、手元には現金がない。実家の
こちからきた。3 日 3 晩、いろいろ考え尽くした。 兄に相談すると保証人になってくれたので、お金
そして、
「この子たちが可愛い、子どもが一番だ。 を借りることが出来た。仕入れ先は長岡の大竹商
子どもたちと 3 人で生きていこう」と、気持ちの
店だった。衣類や手ぬぐい、さらしなど農家の人
整理がついた。
が日常で使う物を、山ほど背負って帰ってきた。
汽車賃が勿体ないので、少しでも多く持って来
当時、女の子にはそこまでの学問はいらないと
たかったからだ。商いから帰って夕飯を作るのが
思っていたので諦めさせ、娘も就職した。二人の
やっとの毎日だった。
子どもたちが働いてくれるようになり生活もだ
んだん楽になってきた。
ある年の冬、行商から帰る途中、道が分らない
ほどの猛吹雪になった。何度も何度も転びながら
昭和 42 年に息子が結婚し、やがて孫が生まれ
歩いていると、上塩の方から来た背の高い男の人
た。孫の世話をするため行商を辞め、代わりに家
が一緒に歩いてくれて、助けられながらやっと家
に品物を置いて売るようにした。家は他人様から
に辿りついた。子どもたちが駆け寄り、雪で真っ
頂いた建具などを利用しながら何度も修繕して
白になった私の身体を箒で払ってくれた。「どん
住んできた。本当に多くの人に助けてもらって有
なにか腹をすかして待っていただろうに」と、こ
り難かった。
の子たちの気持ちを思うと涙がでた。
すぐに実家に行き、茶碗一杯の残りご飯をもら
振り返れば、私がこうして頑張れたのは 2 人の
ってお粥にして食べさせ、ご飯が炊けるまで腹の
子どもがいたからだ。どんなに辛くとも、死のう
足しにしてやった。夕飯を食べ終えたときは夜 9
と思ったことはなかった。親は子どものために強
時を過ぎていた。ようやく一息ついてから、助け
くならなければと生きてきた。だが、子どもたち
てくれた人の名を聞くことも、お礼すら言いそび
には辛い思いをさせてしまい可哀想だった。
れたことに気づき、申し訳ない気持ちになった。
このことを知り合いに話すと、一緒に歩いてく
おかずが塩や味噌だけの時も、文句ひとつ言っ
たことはなかった。本当に、自慢の子どもたちだ。
れた人は上塩小学校の校長先生だと分かった。
平成 21 年に、今の家を新築した。息子夫婦、
後日、校長先生が亡くなられたと聞いた。お香
孫夫婦とひ孫が 2 人の 4 世代 7 人家族でワイワイ
典を届けて、助けてもらったことへの感謝の気持
楽しく暮らしている。週 2 回のデイサービスに通
ちを伝えた。直接会って伝えることは出来なかっ
うのも楽しみだ。こんなに長生きさせてもらえる
たが、少しだけ気持ちが楽になった。
とは思わなかった。歩いて、歩いての行商だった
から丈夫なのかもしれない。
息子は小学 5 年生の頃から、食事の支度をして
くれるようになった。私の代わりに村の葬式に行
今が、最高の幸せである。
かせたこともあった。学校の先生から「あまり子
どもをこき使うな」と言われたが、私は働かなけ
ればならないから仕方がなかった。中学を卒業
後、息子は見附の染屋に就職した。
娘は、「高校に行きたい」と泣いたが、うちに
はそんな余裕はなかった。
聞き書き 風間よき子 水澤典子 樋熊憲子
取材開始 平成 25 年 6 月
注 1 蔵王社 長岡市栃尾岩野外新田に鎮座する。伝承では、和銅元年(708)大和国吉野山の蔵王権現が岩野原に
勧請された。
注 2 軍需
軍隊や戦争のために必要なこと。物資や工場など。
注 3 台風
阿久根台風。1945 年 10 月 10 日、鹿児島県阿久根付近に台風が上陸。九州、中国地方を北東に進んだ。
兵庫県での被害が大きかった。
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