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ジャン=マリー・チバウの人 生からみるニューカレドニア

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ジャン=マリー・チバウの人 生からみるニューカレドニア
ジャン=マリー・チバウの人
生からみるニューカレドニア
〜ニューカレドニアは何もしてこなかったのか?〜
まず初めに聞いて欲しいチバウの言葉
「フランスは軍隊によってわれわれを押しつ
ぶすことはできる。だが、カレドニア問題を
押しつぶすことは決してできない。われわれ
の要求は永久に存在し続けるだろう。この国
の腹から生まれた人々は絶対に沈黙しな
い。」
ニューカレドニアの基本情報
• 人口:230,789人(2004年)
• 面積:1万8575.5平方キロメートル
• 公用語:フランス語
• 政庁所在地:ヌーメア
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ニューカレドニア)
• 通貨:CFPフラン
• オーストラリア東方の島
• リゾート地&ニッケルの産地
• 1774年、ジェームズ・クックが発見、命名
植民地化されるまでの流れ
• 1853年9月4日 ナポレオン三世が派遣した提督オーギュスト・
フェウリエ=デポワントによって現在のヌメアに総督府が配置
され、フランス領と宣言
…イギリスのオーストラリア、ニュージーランド領有に対抗する
ため
• 1854~1922
流刑地として重罪犯約22,000人が流される
→原住民のカナクは不毛地帯へと追いやられ、強制労働が続く
チバウ登場前の独立運動
• 1953年 キリスト教が、島内のリベラル派白人とともに民主自治を目的とした政党カレドニア同盟
(UC)を結成
→白人穏健派やカナク人から広範な支持を得る
60年代
周りが次々独立を果たすが…
世界有数のニッケルの産地であるためフランスの重要な戦時資源となり、逆に支配が強まる
→同化政策→独立運動への抵抗
• 1969年 エドワッシュ・ネスリンが分離独立を目指すグループを結成
→次第にカナク人の支持増加
→民族主義の高揚
• 1972年 反自治派が領土議会選挙で初の勝利
→大半の白人メンバーの脱退を経て、UCは分離独立を要求するカナク人の運動に変貌
ジャン=マリー・チバウの登場
この頃、ニューカレドニア経済の転換期(ニッケルの需要低下)
+
1974年 ジスカールデスタン新政権の政策
①カナク人の地位向上と社会的統合(ex.メラネシア2000の開催)
②カナク人の分離独立を助長しない形でのニューカレドニアの
自治の拡大(制度改正)
→②に伴う領土議会選挙でUCの幹部入れ替え
ここで主導権を握るのがジャン=マリー・チバウら若手
ジャン=マリー・チバウとは?
ジャン=マリー・チバウ(1936-1984)
• カナクの酋長の家生まれ
• 元カトリックの司祭
• 60年代後半、フランスで反逆の空気を吸
い、大学で社会学、人類学を学んだこと
がきっかけで独立運動へ傾倒
• カナクの文化の価値に気づき、メラネシア
2000を成功させたことによりカナク人の
リーダーとして認められる
(出典:http://alchetron.com/JeanMarie-Tjibaou-779036-W#-)
チバウの行った独立運動
• チバウは選挙戦で他の分離独立派グループと共闘し、「独立戦線」(FI)を結成→高い得票数
を得る
• 1981年 ミッテラン社会主義政権の誕生…追い風!
しかし…
ニューカレドニアのフランス軍基地化(ニューカレドニアの新たな利用方法)
→ミッテラン政権の反植民地主義の限界
• ミッテランの政策案発表(カナク独立派にとって単に要求を満たしていない不十分なもの)
←ボイコット
←独立臨時政府FLINKSの結成…領土議会選で多くの議席獲得!!
• 政策の完全な失敗+カナク独立派の過激化+民族派対立の暴力化(非常事態宣言)
→87年末までにレファレンダムを行うと約束して収束させる
…独立派にとっては再び進歩!
しかし…
シラク保守政府に交代…力の政治
→ FLINKSは少数過激派として交渉の埒外に置かれる
→反発も警察・軍隊の大量動員で押さえ込む
↓
そんな状況の中のレファレンダム(1987)
←チバウらFLINKSはボイコットを行うが…
結果:有効票の93.8%が政府の望んだフランス残留を選択
(棄権率は41%)…振り出しに戻る
チバウの行った独立運動②、そして死
• 1980年代後半はますますカナク人の暴動が激化
…1988年の監禁事件が最大の危機
→フランスは海軍特殊部隊、GIGN(国家憲兵隊治安介入部隊)、
EPIGN(国家憲兵隊空挺介入中隊)などによる突入で過激派を
殺害(特殊部隊側にも死者あり)
• 1988年
マティニョン合意を結ぶことで争いを収束
…独立派チバウと体制派ラクルール間→自治拡大、10年後に再び住民投票
独立へ大きな進歩
しかし…
1989年5月4日、チバウは独立過激派によって暗殺される→再び混乱
チバウの死後
• チバウの死後も自治への運動や協議が行われる
• 1998年(マティニョン合意の10年後) ヌーメア協定
→・「ニューカレドニア市民権」の導入
・ニューカレドニア「国旗」の制定
・ニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡
(最終的には外交、国防、司法権、通貨発行以外の権限は全面的に譲渡)
・2014~2018年に独立かフランス残留かを問う住民投票
ついに独立が間近に!
チバウの人生を通してみるニューカレドニア
• ニューカレドニアが他の太平洋の島国のようにすぐに独立でき
なかったのはフランスから重要視されていたから
→何もしてこなかった訳ではない。独立運動と暴力による抑圧の
繰り返し
• しかし、抑圧されながらも何度も運動を起こして掴んだ2018年
までの住民投票
→チバウの人生そのまま
…暴力で抑圧されても立ち向かい続け、たとえ指導者が
死んだとしてもその精神は受け継がれる
最後にもう一度…
「フランスは軍隊によってわれわれを押しつ
ぶすことはできる。だが、カレドニア問題を
押しつぶすことは決してできない。われわれ
の要求は永久に存在し続けるだろう。この国
の腹から生まれた人々は絶対に沈黙しな
い。」
〜ご静聴ありがとうございました〜
参考文献
• 「ニューカレドニア見聞録」松浦雄介
(http://d.hatena.ne.jp/Yumat/20060816)
• 「変容する地域を捉える」井ノ元宣嗣
• 「フランスののどに刺さった小骨(ニューカレドニア)」真下
俊樹
• 「独立運動のうねり増す南太平洋」小林泉
ニューカレドニアの歴史
5万年前 西太平洋に人が住み始める
紀元前1500年 ラピタ人たちが現在のニューカレドニアおよびロワイヨテ諸島に到達
11世紀頃 オーストロネシア語族のポリネシア人がニューカレドニアに到達
1774年 イギリスの探検家ジェームズ・クックがニューカレドニアを発見、命名
1849年 カッター号の船員がポウマ族に殺され、食べられる事件が起きる
19世紀 カトリックやプロテスタントの宣教師の到着
1853年9月24日 ナポレオン3世の派遣した提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワントがフランス領と宣言
1853年9月29日 パン島の領有宣言
1863年 ニッケル鉱の発見
1864年 ロイヤルティ諸島のフランス植民地化
1854年〜1922年 流刑地として重罪犯約22,000人が送り込まれる
1953年 ユニオン・カレドニエン(UC、社会主義政党)が結成される
1960年代以降 先住民が政党を組み権利主張ち独立運動、先住民文化復興運動などを始める
1962年 UCの事務所爆破事件
1971年 ニッケルの生産量世界第2位
1979年 UCの幹部一新 ジャン=マリー・チバウが主導権
(http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/w
orld/map/q064_map_newcaledonia.htm)
1981年 ミッテラン政権の誕生
1985年 ジャン=マリー・チバウ率いる社会主義カナック民族解放戦線(FLINKS)が独立への扇動
1988年4月22日 独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊員と1人の裁判官を人質にとりロワイヨテ諸島の洞窟に監禁、4人を殺害
1987年 住民投票
1988年 マティニョン合意
1989年 ジャン=マリー・チバウの暗殺
1998年 ヌーメア協定
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