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カン ト前批判期における方法の形成と自然認識の問題

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カン ト前批判期における方法の形成と自然認識の問題
論
文
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題(1)
田
戸
賢
(昭和45年9月30日受理)
Die Bildung der Methode und die Probleme der Naturerkenntnis
in der vorkritischen Periode Kants (1)
Masaru ToDA
(am 30. September 1970 angenommen)
Diese Abhandlung hat die Absicht, den Entwicklungsprozess des Kantischen Denkens, bes. von der
Naturerkenntnis, in seinem vorkritisehen Periode zu behandeln. Nach dem methodischen Gesichtspunkt
k6nnen wir zwei Angelpunkte in der vorkritischen Periode Kants finden: den ersten, in ”Principiorum
prioruin cognitionis ’ 高?狽≠垂?凾唐奄モ≠?@nova dilucidatio”, und den zweiten, in ”Der einzige rnbgliche Beweis−
grund zu einer Demonstration des Gottes”. Dieses erste Halbe der Abhandlung untersucht das Ursprungs−
gebiet der Kantischen Philosophie von seinem Erstlingswerk bis den ersten Angelpunkt. ln dieser Periode
versuchte Kant, durch die Vermittelung der Leibnizischen und der Newtonschen Philosophie, seinen eignen
Standpunkt des endlichen Verstandes festzustellen, aber, als er durch die Vermittelung in einer Art der
Kosmologie erfolgreicl war, stand Kant vielmehr einer Apo!ie der W2hrheit des menschlichen Verstandes
gegenuber. ”Nova dilucidatio” prufte die Wahrheit des endlichen Verstandes; den Gedanken des Satzes des
bestimmenden Grundes und der allgemeinen Harmonie, worauf sein Erstlingswerk schon beruht hatte. Und
durch die prufung der physischen Monaden zeigte ”Mo: adologia Physica” eine Art Antinomie vor und ver−
suchte es aufzulosen, aber auf die metaphysische Weise. Die Untersuchung der Periode vor und an und
rtach derr,]t zwei’ten Angelpunkt vv’ird durch das ki nft’ige zweite H’albe veroff’entlicht werden.
t
てくる。そういう時である。カントはこういう要請に応ず
カントが哲学者として、まさに世に出ようとする時携え
た「活力の真の測定についての考想」 (1747年)序言の次
のような言葉は、その論文自身と共に、この哲学者の歩む
ることが、また自らの道を切り開くことになるということ
を知っていたのであるが、その際唯一の手掛りにすること
を表明した自らの悟性を、そもそもどのように位置づけす
方向を占う手立てを与えてくれる。「いくらニュートンや
るか、すでにそれが大きな問題なのである。めくるめくラ
ライプニッツの名声でも、それが却って真理の発見の妨げ
イプニッツの「神の悟性ゴと、控え目ながら着実に偉力を
になるというのであれば、そういうものはものともせず、
発揮するニュートンの悟性、この両者がすでにカントの悟
ただ悟性の赴くところ以外いかなる説得にも耳を貸さない
性の前にあったのである。ともあれその出発点について言
というようなことをもう大胆にやってのけてもよい時代が
えることは、カントが「神の悟性」ではなく、「人間の悟
きている。」
(1)
性」、 「有限的悟性」の立場をとったということである。
カントを育んだライプニッツの鯵蒼:とした森から、カン
(2)
ところでライプニッツの神的悟性の体系を支える三本の
トはまだ完全に出きってはいないが、ニュートンの新たな
大きな柱は、「単子論」、「予定調和説」、「充足根拠律」
光がかなり明るくその足元を照らし出しておt、あたりか
であるとすると、有限的悟性の立場からカントは、これら
らはこの二人の巨人の綜合を要請する声が、しきりに聞え
にいかに対処することができたであろうか。すでにカント
一79一
津山高専紀要 第3巻 第1号(1970)
の師、クヌッツェンは、当時ケ一八ッヒスベルクに盛んで
方法の特異な序曲」と言われるくらいである。「新論」の
あった、ニュートンによるライプニッツ批判の中心として
(3)
「物理的影響」説を唱えて、ライプニッツの特に「予定調
翌年に出た、いわゆる「物理的単子論」がすでにそうした
(s)
傾向を示しているが、それ以降/765年頃まで、哲学的著作
が殆ど発表されていないということは、この内面化と関わ
和説」を打破しようとしたが、その際の難点を取り除くた
(4)
めに、ライプニッツとニュートンの対立をより根底から調
りがないとは言えないであろう。「唯一可能な証明根拠」
(9)
の序文で、カントは次のように言っている、「私が提出す
停しなおそうとしたのが、処女作「活力考」であり、そこ
で一先ず達しえた調停の段階を示すものが、いわゆる「普
る諸考察は、長い省察の結果なのである。しかし論文の書
遍的調和die allgemeine Harmonie」という考え方で
き方には、省察の仕上げそのものがまだ未完成なことが表
(5)
あったと言える。深化された物理的影響説は、この普遍的
われている。いろいろな仕事のために、それに必要な時間
調和説と共に、「天界の一般自然史と理論」 (1755年)を
経、同じ年の「形而上学的認識の第一原理の新論」 (1755
が割けなかったからである」。長い年月の沈黙と省察を要求
(10)
した問題が、果して何であったかはともかくとして、ここ
年)において原理的検討を得て、いわゆる「物理的単子論」
で一先ず獲得された沈黙の成果を凌ぐ程に、それは大きな
(1756年)に至り、ここにおいてライプニッツの単子は「物
問題であったかに見える。
理的単子」としては、ニュートンの数学的自然科学と相容
2
れるものであることが明かにされる。
一方ロックの経験論の影響を受けたと言われるリューデ
ィゲルの系統を受け継ぎ、特に意志主義の立場から、ライ
カントの卒業論文でもあった「活力考」が、「予定調和
プニッツの「充足根拠律」の無制限な支配に反対し、意志
説」を「物理的影響説」によって打破しようとした、師クヌ
の自由を確保しようとしたクルジウスは、すでに「充足根
(6)
拠律」を「決定根拠律」として解釈しようと試みていた。
とであるが、実際それは師の試みの基礎づけを核心に含ん
1755年のいわゆる「新論」において、カントがこのクルジ
でいる。もしそうだとすると後に見るように、この論文の
ッツェンの刺戟によって書かれたということは頷けるこ
(11)
表面上の主題がライプニッツとデカルトの調停であるにも
ウスと共に、同じような試みを開始する時、根拠の問題を
(7)
めぐって、神に対する人問の悟性の有限性の原理的解明が
拘らず、その本来の意図は、最初に引用したカントの冒頭
着手されることになる。もっとも、クルジウスの強い意志
の言葉も示しているように、ライプニッツとニュートンの
主義への共感と、悟性の有限性への自覚にも拘らず、そう
調停にあったということも理解できる。「活力考」のかな
したものがカントのうちにおいて、 「普遍的調和説」と結
り終り近くで、カントは「これまで行なってきた考察が、
びつかねばならない限り、カシトはクルジウスと同じ道を
何か根拠のあるものだとすれば、ライプニッツの法則〔力
歩くことはできない。同じくライプニッツの神的主知主義
の恒存律〕は、通常受けとられているような意味では、成
に対抗して獲得されたものでありはしても、ニュートンか
立しえなくなる」、と言って直ちに次のように自問する。
らの光に照らされた、「物理的影響説」と「普遍的調和説」
「しかしこの論文における我々の測定法は、それに何を
という、有限的悟性の立場は、真理と知性の問題を何とし
導入するのであろうか。そしてライプニッツの法則は調和
ても無視することはできないからである。そして、こうし
と秩序のために非常な賞讃を受けたのであるが、我々の測
た有限的悟性の真理の問題が、悟性の有限性の原理的問題
定法は普遍的調和と秩序の規則を、いかにすれば満たしう
とぶつかり合っているのが、「新論」なのであり、そこに
るであろうか」。
(IZ)
しかしカントは、「これらの問題について若干の輪廓く
またこの論文の特異さがあると言うことができよう。
ライプニッツ哲学の三つの柱は、それぞれ「物理的単子
らい述べる準備はあるけれども」としながら、結局この問
論」、 「普遍的調和論」、 「決定根拠律」として、有限的
題は論文の計画の本筋を離れるという理由で、解答を避け
悟性の立場で捕えなおされるのであるが、しかしまさにそ
ている。「いかにして我々の測定法は普遍的調和と秩序の
の「決定根拠律」の研究を通じて、有限的悟性の立場その
規則を満たしうるか」、というこの問題は形を変えて、や
ものが真理の問題と共に、原理的に検討しなおされるに及
がて1755年の二つの著作「天界自然史」と「新論」の中に
んで、それ以降、ライプニッツとニュートンの調停は、更
全く別の仕方で受け継がれていくことになると言うことが
に内面化された形で行なわれざるをえなくなる。「活力考」
できよう。ともあれ「活力考」の実際の計画は、より大きな
における両者の調停が、すでに多分に方法論的なものであ
計画をめざす基礎作業にあったことは間違いない。そもそ
ったが、 「新論」以後その方法論は著しく内面化し、1763
も「根拠」を重要視するということは、ライプニッツのよ
年周辺の著作群の中心をなす「神の現存の証明の唯一可能
うな神的悟性の体系に立ち向おうとする哲学の必須の条件
な証明根拠」は、カッシラーによって、「将来の超越論的
であろう。それ故カントは次のように言わざるをえない、
一一 80 一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
「人間の認識の拡張を求める人々に支配的な領向ほど、こ
着眼したのは言うまでもないが、問題なのはその「測定法」
の場合罪なものはない。この人達は偉大な哲学を持ちたい
すなわち「認識方法」であった。ライプニッツは、自らの
と思っているのであるが、しかし、それがまた根本的な哲
内在力の測定法として、本来デカルトが自分の運動力の測
学eine grUnd!iche Weltweisheitであることこそ、望
定に限るべきであった数学的方法以外に、何ら独自の方法
まれるべきであろう」。カントは、第一章の形而上学的考察
を持っていないのである。 「抽象的考察においてであろう
(13)
を終えて、第二章に移る直前において、「真に根本的な認
と、自然においてであろうと、物体の力は、ライプニッツ
識の入口」を予感しながら、 「私は単に形而上学的でしか
派がなすような仕方では、つまり数学的考量によるのでは
ないような考察において、何か決定的で抗い難いことが得
二乗による測定を与えはしないであろう。しかしそれだか
られるかのように期待すべきではないが、これから入ろう
らと言って、私は活力を全く拒否しているわけではない」
(24)
とカントは言うσ
としている次章については、数学を応用するから、恐らく
もっと確信を持ってもらうよう要求してもいいと思う」と
(14)
カントがかなり明確な方法論的な意識に基づいて、調停
言う。
を行なっていることは、次の言葉に端的に表われている。
ライプニッツ哲学においては、周知のように、無数の単
「我々がここで否定しているのは、元来、事象それ自身で
純実体である単子の「窓のない」対応が、神の「予定調和」
(15)
に帰せられており、また他方、神の創造計画にあって観念
はなく、認識方法modus cognoscendiなのである」。力
(25)
的には可能な、無数の世界のうち、他のでなくこの世界だ
MV2の対立に対するカントの調停が、例えばダランベー
けが実存するのは、「神の選択の充分な根拠」によるとさ
(L6)
れる。これに対してカントは、「いつも哲学の講義室で、
ルが「力学論Trait6 de dynamique」 (/743年)におい
形而上学的に考えて、唯一つ以上多数の世界が実存するこ
帰したはるかにすっきりした調停法に比して、いかに誤解
とはありえぬと、教えられているのは正しくない」と言う。
.(ユ7)
を含むか、或いはカントによる二種の運動概念の区分など
とは言っても、カントはなにも多数の世界の実存を直ちに
が、いかにニュートン自然科学の見解と相違しているか
主張するのではもちろんなく、 「多数の世:界が現実に実存
というようなことは、「活力考」を単に自然科学の論文と
に関するデカルトの測定法MVと、ライプニッツの測定法
て、MVと1/2MV2の対立を単なる測度の採り方の違いに
するかしないかは未決定のままである」と言うだけである。
してみる場合、致命的と言えるかもしれないし、そうみな
(26)
「世界が一つより以上に、多数実存しうるということは、
いとしても、「根本的認識」をめざしてこれを書いたカン
正しく形而上学的に理解されるならば真である」と言われ
(]8)
るのも、そういう意味においてである。「諸実体が実存し
トが、「数学の応用による確信」を自負し、期待するとこ
ろ大であればある程、やはり完全に無視し去ることはでき
ていて、しかも他の実体との外的関係は持たないというこ
ないであろう。しかし、カントの動機がやはり予定調和説
とも、或いはそれらと現実の結合関係にあるということも
批判という形而上学的問題に発しており、しかもニュート
ありうる」と言われる場合も同様である。カントはそこか
(i9)
ら、「諸物が現実に実存しているというのに、しかも世界
のどこにも存しないということがありうる」という結論を
(2e)
ンその人とライプニッツの調停ということが、より大きな
ねらいであったとすれば、デカルトとライプニッツの調停
に際してのカントの見解が、ニュN一一一トン的見解と食い違う
引き出す。
のはむしろ当然であり、数学の応用による根本的認識とは
ところで、こうした諸実体間の関係という問題が、心身
将来の方法論の成熟によって、独特の形で解決される課題
間の相互作用、物理的影響という問題になると、明瞭にな
であると考えることができるであろう。
ってくる難点として、次のような誤解が挙げられる。すな
それでは、力の測定法に関するデカルトとライプニッツ
わち「運動」を、「力がちゃんと放たれる時に力が行なう
の対立の、「認識方法」による調停はどのように行なわれ
こと」、つまり「力の唯一の帰結」と考える誤解である。
(21)
力の見方の問題が、上のいろいろな問題と深い関連を持っ
たであろうか。カントの着眼点は、一言で言えば、ライプ
ていることが解る。そこでカントは当面、「現在ヨーロッ
いう着想とその見解であり、カントの作業はこの概念に始
パの幾何学者達の問に支配的な最大の分裂の一つ」である
(22)
デカルトー派とライプニツツー派の、特に力の測定方式を
実運動という言葉こそ、デカルト学派からの離反の原因と
ニッツ学派の「現実運動die wirkliche Bewegung」と
まり、この概念に終ると言ってもよいくらいであるQ「現
めぐる論争の調停を企てることになる。物体の本性を延長
なったものであるが、しかし恐らく、現実運動というもの
とみなし、運動を空間上の外的な位置の変化と考えるデカ
が再び両者を統合する原因となりうるのである」とカント
ルトー派に対して、ライプニッツは「物体には本質的な力
(27)
は言っている。要するにカントは、ライプニッツ学派の
が内在しbeiwohnenしかもこの力が延長よりも先立って
物体に帰属している」と考える。カントがかかる内在力に
(23)
「現実運動」という着想を買って、彼らの見解については
これを批判し、かくして着想を真に生かすことによって、
一81一
津山高専紀要第3巻第1号(1970)
両者を再統合しようとするのである。しかしこれは単にそ
る。一つは、作用力が無限大つまり活力であるような運動
れだけに留まらない。調停の媒介ともなる「現実運動」の
他の一つは、作用力が無限小すなわち死力であるような運
概念は、また直ちに「力の恒存」の問題、 「予定調和」と
動である。前者は「自由運動」ともよばれ、「物体に伝え
神の問題などと繋がりを有しているのである。
られ、保持されると、障害に出会わぬ限り、無限に持続す
る運動」であるとされる。これに反して後者は、外的な
カントは、ライプニッツが採用している、誤った原則で
(37)
あるとして、「自分も現実運動のうちにあるような物質に
「駆動力die antreibende kraftの永続的作用」によら
よるのでなければ、自然の中にはいかなる運動も生じない」
(28)
という命題を取り上げる。そして、これによる限りは、「世
ざるをえない「不自由運動」であるから、「かかる作用の廃
棄には、抵抗は不必要」で、ただその外的駆動力が「保持を
界の一部で失われていく運動が回復されるのは、もう一つ
停止」するだけでよいという性質のものである。ところが
の現実的運動によるか、或いは、神の直接の手によるしか
(38)
デカルトは、「現実運動にある物体までも含めて物体一こ口
なくなる」わけであるから、ともかく消滅による「世界構
その力の測度として、速度の一乗を認めた」のに対して、
(39)
一方ライプニッツはこれを、「絶対的かつ無制限に否認」
(29)
造の減損」が危惧され、「神の直接の手」を考えざるをえ
(30)
なくなる。ところが、これに対して、「もしも運動が、そ
して、次のような法則を立てる。「或る物体が現実運動の
れ自体は死んだ、不動の物質の力によって、この世界に先
ず第一に持ち込まれたとする場合は、運動はかかる物質に
中にある時は、その物体の力は速度の二乗に比例する」。
(40)
カントはこのライプニッツ派の法則に、問題点を二つ指
よって保持されるであろうし、またもし失われた際は回復
摘する。一つは、こういう風にただ現実運動と言うだけで
されるであろう」と断言する時、カントは「自然は一種の
は、いわゆる不自由運動も含むことになるという点である。
(31)
浪費によって、その豊饒さを実証する」と言う、「天界自
例えば、平面上の球を静かに手で押す場合のように、現実
(32)
然史」の考えの近くに立っていると言える。
運動がありながら、その力は瞬間瞬間、外的駆動力より大
ところでカントは、現実運動の新たな概念への示唆をイ
きくはならずに消えてしまい、またその速度はその都度静
エナのハンベルガー教授から受けたらしく、上のライプニ
止状態から始まる初速度の繰り返しに過ぎないから、その
ッツ学派の原:則に対して、.「物体はそれ自身静止している
力は速度の一乗にしか比例しない場合が含まれるのであ
に過ぎない物質によって、現実運動を受けることがありう
る。従って力が速度の二乗に比例するとすれば、それは「現
る」という教授の見解を、根拠は不完全であるがと断わり
実的にして、かつ自由な運動」の場合であるということに
(33)
ながら、支持する。そしてライプニッツ派の主張がもとも
なる。もう一つの問題点というのは、かかる法則の根拠に
と、 「死圧は、それが加えられた物体中に保持されていて
関わるものである。運動が現実運動とよばれる根拠は、「運
打ち勝ちえない障害がそれを廃棄することさえなければ、
動の志まりと、物体が作用する瞬間との問に介在する時間」
(42)
(41)
現実運動となる」というのである限り、彼らこそハンベル
であるとすると、運動が現実的ということは、「運動が続
(34)
ガーの見解を採択すべきであったと言う。ライプニッツ学
く間に時間が経過している」ということであるが、ライプ
派のこうした誤解の源は、ライプニッツが延長に先立って
ニッツの連続律の考え方からすると、この時間は一定の量
物体に内在する力を「作用力vis activa, die wirkende
のものでなければならぬということはない。しかしかかる
vと呼び、かっ理解しているのに、その後継者達は
時間を無規定のままにしておこうとも、一定の量とみなそ
かかる作用力を、「運動が現実的になって初めて働く」力
うとも、いずれにしても、それは「活力の充分な根拠、そ
kraft.
(35)
すなわち「運動力vis motrix, die bewegende K:raft」
と同一視してしまった点にある。これに対してカントは、
してまた活力を速度の二乗によって測定することの、充分
な根拠とはならない」とカントは言うのである。先ず時間
作用の概念を運動の概念から区別し、同時に運動概念を力
(43)
を無規定とみなすとすると、 「たとえどれだけでも回る時
の概念から引き離すことによって、実体の力というものを
間の長さ運動した」という点では、その物体が「現実に運
作用の概念によってのみ定義しようとする。「運動」とは
動した」ということに他ならないから、無差別に活力を認
「作用を行なっていないが、作用を行なおうと努めている
めねばならないことになるが、他方、時間が限りなく短か
物体の状態の外的現象」とされる。すると、最も多く運動
くなるということは、物体の力はその場合、殆ど死力と
している物体は、 「作用を殆ど行なっていない」、つま
同じでとても活力を得るわけにはいかないということであ
り「無限小の抵抗にしか出会っていない」ことになる。作
る。従って活力を得るには、「時間は一一定量のものでなく
(36)
用力は物体が抵抗に会っている(静止している)時、抵抗
てはならない」ことになる。それでは時間を一定の量とみ
(44)
に出会った(運動を失った)時に他の物体に対して働く。
なすとすれば、時間が活力の根拠と言いうるであろうか。
しかしカントは、ライプニッツ派とデカルト派の対立点
しかし、そう言いうるには、「始動時以来の一定の時間が
をなす、「現実運動」の両極端に二つの運動概念を区別す
活力の全条件を一切、うちに含んでいることを要求」しな
一82一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題(1)戸田
ければならないが、それでは「二倍長い時間には、その条
あってはならず、何らか自然科学的と言われるべき方法で
件も二倍多く存している」ことになり、以下三倍、四倍と
あろうとするようであるが、もしそうだとすると、カント
その度毎に物体の力に一次元ずつ余計付加しなければなら
はデカルトとライプニッツの認識方法の調停の途次におい
なくなるQ何故なら、「時間はその量以外に他の規定は何
て、実はライプニッツとニュートンのより大きな綜合を試
ら有していない」からである。
(45)
みているということになる。
以しのように、現実性の根拠とみなされた時聞が、決し
ところで活力について我々に知らせてくれるのは、こう
て「活力の根拠」とは考えられないとすると、数学が物体
した独特の形而上学的方法と、そして「一種独特の経験」
の運動において考慮する「速度」と「質量」の二つは、ま
であるとされた。そうした経験としては、 「速度の二乗に
して活力の根拠ではありえない。これら運動の要素に対し
よって測定されるべき力の、自然内における現実性と現存
て進められるところの「数学的考量においては、運動に内
在する活力を示すようなものは一つもない」と言われると
(46)
すれば、物体が運動中なすことについての総体的推論も、
とを、否認できないように実証してみせる実験と経験」と
(52) ,
言われているようなものが考えられる。例えば、大きさの
同じ球の落下の高さや質量をさまざまに変えて、柔かい獣
これら三要素の考察の中に含まれる概念から導出されねば
脂の上に自由落下さす時、獣脂にできる穴の大きさを測定
ならない限り、活力を確定するような結論が生ずる筈がな
して、活力の測定が速度の二乗であることを明示する実験
いと言うごとができる。かくして「数学は活力に利するよ
うな証明は決して与えない」から、活力は数学的考察から
(47)
排除されるべきであるということになる。「数学による運
動体の力の測定は、その運動の間に経過した時間がいかに
を、カントは紹介している。こうした実験を導いているの
(53)
は、「力は、それをくじいて物体の中で廃棄してしまうよ
うな障害によって、正しく測定される」という見解である。
(54/
こうした見解の更に奥には、「障害によって廃棄されるべ
短かくとも、すべての運動一般に及び」、その点では数学
き状態を、自分のうちに保持しておこうという動向Be−
は「無制限」であり、開始時の物体の運動とその際の死力
strebung」が物体の中にあるかないかが、物体内の力の
にももちろん及ぶ。その測度は速度の一乗なのである。か
(48)
くして数学的考察には、活力ではなく運動一般と死力こそ
(55)
ふさわしいことが明かになってきた。しかしここで否定さ
を見直そうとする。
有無を示すという見解がある。カントはこの動向を「内張
カIntension」と呼び、かかる内在力から改めて運動と力
れているのは、活力という事象そのものではなく、それの
前に見たのと同じ意味で、運動とは殆ど「物体がその
数学的な「認識方法」なのである。「自然のうちには、そ
所有する力を使用しない状態」のことであるが、かかる運
の測度が速度の二乗であるような力が、現実に見出される」
(49)
とカントは言う。しかしそれと同時に、それには独特な認
動の規定である速度は、「物体が静止している時、すなわ
ち無限小の速度の時有する力の数」、換言すれば、そうい
識方法が要求されねばならないことが、次のように示唆さ
う際の物体の内在力を単位とする倍数である。これに対し
れる。このようなカは、「数学的考察に対しては、永久に
て、使用の有無に拘らずともかく内在する「力の外的現象」
隠されている」のであって、「或る何らかの形而上学的研
である運動の全部の力は、「内張力の速度倍」によって得
究とか、一種独特の経験そのものによる以外、我々に知ら
しめられることはありえない」と言われるのである。
(50)
さて「数学においては誤謬と認められたような法則」、
(5工)
つまり「速度の二乗をもって力の測度とすること」が、自
られる。すると、このような内張力の概念の導入によって
(56)
前に数学的に考察された死力の場合が先ず、力学的・形而
上学的に改めて説明しなおされる。すなわちかかる場合、
速度がたとえ無限小であろうとまたどうであろうと、とも
然において行なわれていることを示す「認識方法」、つま
かく一瞬間だけ運動の状態を保持するものが内張力である
り「止る何らかの形而上学的研究」と言われているものは
から、これは「あらゆる速度に対して同じである」と見て
もはやライプニッツ学派の数学的・形而上学的方法による
よいとすれば、物体の力はその速度に比例するということ
ものではありえず、ニュートン寄りの自然科学的・形而上
になる。質量の差は捨象しておくとすれば、かくして内張
(57)
学的方法によるものが、意味されていると言えるであろう。
力の概念によってMVが基礎づけられることになる。但し
これまで見てきたところでは、ライプニッツ学派が採用し
現実運動としては、かかる運動の持続は「不断の外的駆動
た数学的・形而上学的方法は、デカルトの機械論的形而上
力の結果」であり、物体内でその都度消滅する力の補給を
学においてこそ有効な方法であったが、ライプニッツ自身
の目的論的形而上学には不適当なものであった。しかも後
外部に頼らねばならないとされるのは前と同様である。
(5S)
これに対して、前に活力と呼ばれた場合、すなわち、「
者の形而上学が、カントにとって重大な意義をもつものを
与えられた速度をもつ運動を一様かつ不断に、そして外的
含んでいるとすると、その認識方法はいかにあるべきかが
大きな問題となる。それは少なくとも、単に数学的方法で
な助力なしに独力で保持する」充分な内張力を物体の力が
(59)
含んでいる場合は、その力は別の性質をもつ、はるかに完
一83一
津山高専紀要第3巻第1号(1970)
全なものになってくる。しかしこの場合、測度は前の速度
しかし質的に異なるものの問の移行、すなわち内張力が
の一乗の場合と当然異なってこなければならぬとしても、
無限小である死力から、完全な内張力を有する活力への移
新たな根拠に基づくその認識方法は、前の場合と同様であ
行は、無限の時閲を要することであろうか。少なくとも言
る。内張力は有限な速度にあっては、あらゆる単位速度に
えることは、無限小の時間経過でもし活力が生ずるとすれ
おいて「無限小」であるという点で相等しいが、というこ
ば、死力がすなわち活力であるという矛盾に陥ることにな
とは、単位速度の数によって二乗すれば測定されるという
るということである。従って「活力は運動開始後、有限時
ことである。すなわち「内張力は常に速度に比例」するの
間たってのみ生ずる」と考えなければならない。ところが
C66)
である。ところで、ζう.した内張力が無限小の時の単位速
ライプニッツの見解では、「いかに短かくとも、またいか
度が指標となるような「或る力」とは、すでに見たような
に長くとも、ともかく或る時間運動した」ということが、
速度が無限小の場合に、まさにこうした内張力が構成する
「現実に運動した」ということに等しく、またかかる無限
力を単位とするような「全く新しい力」である。こうした
小、或いは無限大の時間運動をした物体に、「無差別に活
新たな力は従って、速度に比例する力を、同じく速度に比
例する内張力で倍話したもの、すなわち「速度の二乗」を
力を認める」二二に立っている。しかしこのようなライブ
(67)
ニッツの数学的活力論の無限的立場は、死力から活力への
測度とするものであると言うことができる。そこでカント
真の現実運動には、もはや通用しえないのは明らかである。
は次のように言う、 「物体は速度や力を、自分のうちに充
「有限時間」ということを言う場合、ライプニッツのよう
(6e)
分基礎づけgrUnden、完全な内張力をもってそれらを永続
に、そう言いながら中に「無限小の時間」も入れてしまう
的に、自分のうちに保持しなければならない」。
のではなく、 「その意味も限定され、その量も規定されて
(61)
このようにして「数学的物体」すなわち、「その概念そ
のものが公理によって決定される」ような物体に対して立
(62)
てられた、「物理的物体」の意味が明らかになってくる。
いなければならないことを二挺とする」必要があると、カ
(68)
ントは考える。
そこでカントは、「物体の力がまだなお活力ではないが
活力へと進行している状態」を考え、これを「活性化Vi一
「数学の物体が、その運動の外的原因をなす他の物体から
全面的に引き起されたのではないような力を有するという
ことは、数学では認められない」のに対して、「自然の物
(63)
(69)
vification」とよぶ。 「一物体がその運動の原因を、充
分かつ完全にhinlanglich und vollstandi9自分のうち
体には全く別の性質が存している」と言われる。「自然の
に基礎づけている」完全な活力の場合から、「いかなる力
物体は、外部からその運動の原因によって、自分のうちに
も全然物体内に基礎づけられていなくて、外部に依存して
引き起された力を、自分のうちでみずから増大させ、力を
いる」完全な死力の場合まで、両極の間の中問段階を考え
その内部で、運動の外部的原因によっては起らなかった度
てみると、みな「力と速度を自分のうちに基礎づけるのが
合にまで達せしめうる能力をうちに有している」。
(64)
このような「自然の物体」の概念にとって、連続律に基
不充分な」時点ばかりで、それらを自分では保持できない
づく死力と活力の統合が重要な意味をもってくる。外部的
かつ一様に保持し継続する」。それは何故かという根拠の
原因によって初めて、物体のうちに発生した力は、かかる
問題を、カントは次のように問い直し、そして答えるので
筈なのに、事実「その物体が自分に与えられた速度を自由
外部的原因の「現前Gegenwart」に基づくから、それが
ある。「力の内張力が、運動を減衰させず停止させずに保
現前しなくなれば同一瞬間にその力も消滅してしまうが、
持するところまで、増大していないとしても、少くとも完
他方この瞬間にその物体の力の内張力は無限小であると見
全な活性化に達するまでに必要な時間中は、運動を保持し
られうる。外部的駆動力に基づく力、つまり死力の測度が
速度の一乗とされるのもそれ故である.が、測度を速度の二
乗とするような活力は、かかる規定を外部的原因からでは
うるかどうか」。こうした問に対してカントは、内張力の
(7e)
そうした保持が、「単に可能である」だけでなく、「事実も
そうなっている」と答え、そしてそのような事実の根拠と
なく、全く「物体の自然力の内部的源泉」から得るとされ
して、次のような説明を与える。「こうした中間の時間中
る。すなわち、物体は外部から「自分に与えられた速度を
門瞬間、内張力の新たな要素が物体内に発生し、この要素
自分の内部的な力に基礎づける」ことにより、今度は自分
が与えられた速度を無限小の時聞の間保持し、かくして全
(65)
の内張力によって、運動を不断かつ自由に保持するように
なるのであるから、かかる内張力を持つ力は、それが無限
要素がその半時間中、同一の速度を保持しているのであ
る」。
(71)
小の力とは全く異なった規定をもつようになるのである。
このようにカントにとって今や問題なのは、「物体の中
かくして自然の物体は、 「外部の機械的原因」から受けと
での力の、不変的でかつ常に自由な保持」という、完全な
った力を自分のうちで無限に増大せしめ、全く別種のもの
活力への無限時間とその現実ではなく、外部から与えられ
に高めてしまうことになる。
た速度の自由かっ一様な保持という、「完全な活性化」へ
一84一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
の「有限時間」とその現実なのである。そしてかかる「完
て、「ニュートンが想期したように、神が自らの業に与え
全な活性化」の事実を説明する根拠として、「内張力の要
た運動を問断なく、再び更新するよう余儀なくされるとい
素の積み重ね」による時間中の保持の思想が提出される。
いま個々の問題を離れて、「活力考」におけるカントの
うことは、神の全知全能にとって冒漬的である」と考える。
(76)
しかしだからと言って、ライプニッツの「予定調和説」が
「かかる難点を除去する」効用をもつとしても、カントが
ライプニッツに対する根本的姿勢に目を向けるならば、
「充足根拠律」への有限的立場からの一貫した批判が覗え
有限的悟性の立場からこれを認めるわけにいかないのは、
るが、次に見るように、 「単子無窓論」、「予定調和説」、
すでに見た通りである。「絶対に不可能であり、いかにし
ても成立しえないことを我々が知っているような法則を、
「力の恒存律」などに対する見解がすべて、同じような姿
神の全知全能が世界に導入したなどとその全知全能を曲解
勢で貫かれていることが解るであろう。
することは、断じてできない」とカントは言う。そしてこ
(77)
の問題について、カント自身は次のように考える、「我々
5
が主張した運動の法則に従えば、世界構造がその力の徐々
の消耗によって、結局は全くの無秩序に陥るのは必然的で
ライプニッツに対するカントのこうした有限的悟性の立
あるとしても、こうしたことで神の全知全能が打撃を蒙る
場は、やがて「薪論」の諸問題に繋がっていって、そこで
原理的検討を受けることになるのであるが、それを見る前
に、力の恒存律と予定調和説の問題をめぐって、 「天界自
ことはありえない」。
(7g)
しかしこのようにして、ライブこッツの弁神論が拒否さ
然史」に繋がっていく極めて形而上学的な自然論と、その
れるとすれば、カントにおいて同時に、ライプニッツの指
問題点を見ておく必要がある。
摘する神の冒濱の問題も、解決されていなければならない
力の測度を一乗と見るか二乗と見るかという、これまで
であろう。ところでニュートンは、神を宇宙の秩序の神と
検討してきたような、デカルトとライプニッツの対立的立
して、その秩序の原因に「神の直接の手」を考えた。一旦
場が、「世界においてカの量は常に一様に保存される」と
このように考えれば、その手は最初だけでなく、「世界が
完全な静止に到達する」度毎に、再び必要となってくる。
いうカの恒存律の命題に、関わりをもっていることは言う
までもない。力の認識方法という一面からする、この問題
L79)
かかる立場は、カントが後に「自然神学的」と名づけ、主
の対立調停は、 「完全な活力における保持」と「完全な活
として道徳的には好意的批判を加えることになるものに他
性化における保持」の区別によって、一応の解決が与えら
ならないが、その場合理論的には、かかる「秩序の神」の
れたと言える。従ってこれから検討されるのは、「活力考」
立場は、「実質の神」の立場に修正されなければならない
では一部にしか現われず、「天界自然史」において全面的
に現われてくる、この問題の形而上学的側面である。とこ
とされるのである。言うまでもなく、これは後に確立する
(80)
見解であるが、しかしその方向づけだけは、「活力考」に
ろでライプニッツの浩力論の見地から、デカルトの見解を
すでに与えられていると言うことができよう。カントが言
批判すれば次のようになるのはむしろ当然であろう。「デ
うような、「世界構造の消耗」、「秩序の崩壊」によって
カルトの測度を承認するならば、諸物体相互の位置が変わ
も何ら打撃を蒙らない神とは、単なる「秩序の神」ではす
るにつれて、自然の中の力が不断に減衰したり増大したり
でにありえないのである。
することになる」。この数学的機械論に対するライプニツ
宇宙の秩序の原因としての神の直接の手なしに、いかに
C72)
ツの批判は、しかしニュートンがその力学的機械論の結果
して宇宙の自己形成と自己消滅の思想を展開しうるかとい
抱く見解に較べれば、未だ穏やかなものである。「天界自
う問題、そしてこの思想がいかにして力の恒存律と矛盾せ
然史」においてカントが紹介する二=一トンの見解はこう
ずに普遍的調和を保持するかという問題は、それぞれ、ニ
である。「ニュートンは、諸運動の機構が衰亡に向って有
ュー
している、自然の趨勢によって、自然に対してその衰亡を
gンの力学的機械論の形而上学的領域に及ぶ徹底の問
題であり、ライプニッツの予定調和説の批判を含む一種独
特の弁神論の問題である。この二つが「天界自然史」の問
予告せざるをえないことを知っていた」。
(73)
ところがそのニュートンが、その機械論の終点において
題であるとすると、この論文もまた、ライプニッツとニュ
例えば「太陽、惑星、彗星などの最美の体系は知慧あり力
ートン両者の特に形而上学の調停を基調とするものだと言
ある神の意図と支配からのみ生じることができたのであ
いうる。「活力考」ではまだ重要視されていた「幾何学の
る」と言い、「神の直接の手」を引き合いに出さねばなら
厳密さ」が、この論文では意識的に捨て去られているのは
なかったとすると、その限りでは、自然的の力の増減は神
(74) (75)
(81)
その形而上学的な主題のせいである。
の業にふさわしくないという見解は理に適っている。そこ
ところで、こうした機械論の徹底と最高の弁神論という
でライプニッツも、デカルトの測定法の当然の帰結に対し
一見奇妙な主題の取り合わせば、かのエピクVスをキリス
一85一
津山高専紀要第3巻第1号(1970)
ト教のただ中に幸えらせる冒漬的哲学ではないかという非
いう考え方を出発点として、これにデモクリストの渦動説
難が、すでに予想された。これに対してカントは予め、「し
を取り入れたものを、思考の原型としていることをカント
かし私が私の体系と宗教の問に見出す一致こそ、あらゆる
困難を前にして、私の確信を大胆な沈着さへと高めてくれ
るものなのである」と言う。「活力考」の中にすでに見ら
(82)
は認めるのである。
(91)
しかしカントは、その「落下する重さ」をニュートンの引
力によって、そして偏僑を「粒子の斥力から導出される直
れた「自然神学」の修正の方向は、「私の体系と宗教の一
線的傾斜Senkungの変化、」によって考えることになる。
致」という形で、「天界自然史」において遂行されること
そして引力も斥力も一応「両者共ニュートンの哲学から借
になる。「秩序の神」の見地がもつ難点は、「一切の合法
(83)
二二から見放された物質」を、神の計画のもとに強いると
りてこられた」としながら、引力は「今や疑いなく決定さ
れた自然法則」であるのに対して、斥力の方は「恐らくニ
(84)
ころの、神とは違った手が必要になるという点である。そ
こでカントは次のように考えようとする、「もし物質の普
ュー
gンの自然科学が前者程の判明性を、与えることがで
きていない」と言う。ところがこれに反して、ライプニツ
(92)
遍的な作用法則die allgemeinen Wirkungsgesetze de「
Materieが、同時に最高の企画からの帰結eine Folge
ツの場合は、斥力のみしか考えられていないのである。翌
年の小論文「物理的単子論」においては、物体の境界も接
aus dem h6chsten Entwurfeであるとすれば、その法則
触も、運動における斥力と引力の作用、反作用によって考え
は恐らく、最高の知恵が企てた計画を自分から実現しよう
られているように、目下の巨視的な場合も、全宇宙が運動
と努力するほか、その使命はありえないことになる」。こ
における引力と斥力によって考えられようとする。しかし
K8s)
のように考えるとすれば、「物質はこの完全性の計画から
同じように運動における引力と斥力を考えるニュートンと
偏向する自由を全く有しない」ことになる。従って「物質
異なる大きな点は、ニュートンが「空虚な空間」を介する
(g6)
は最:高に賢明な意図のもとに服せしめられたものとして、
遠隔作用として引力を考えるのに対して、カントはかかる
見出されるのであるから、物質に対して支配的な第一原因
空間を見かけ上は認めながら、やはりそこに物理的単子と
によって、物質は必然的にこうした一致的関係に置かれね
しての物質から発する斥力を考えている点である。
ばならない。そして自然は潭沌のうちにあってさえも、規
ここで我々は、ライプニッツの活力論とニュートンの機
則的かつ秩序正しく運ぶ他ないのであるから、まさにそれ
械論、そして両者の目的論的弁神論と自然神学的弁神論の
故に神は存在する」。このような修正された自然神学の神
批判的調停をめざすカントが、いかにしてニュートンの機
(87)
に較べれば、「秩序の神」は「偉大ではあるが無限ではな
械論を宇宙生成論にまで拡張し、いわゆる「カント・ラプラ
く、強力ではあるが完全充足的ではない」と言わざるをえ
ス説」を成功させるかを見てみる段階にきた。カントは一
(88)
ない。
方において、 「我々の天体系の諸惑星が公転している空間
カントのこのような「実質の神」の思想の根底には、
を考量してみると、その空間は完全に空虚であり、これら
「活力考」の言葉で言えば、完全な活力や内張力の要素の
の天体に共通の影響をひき起し、それら天体の運動問の一一
考え方がひそんでいると見られるが、デモクリトスやエピ
致をひき起しうるような物質は、すべてそこから取り去ら
クロスの原子論が、カントの見解と酷似していて、しかも
決定的な点で異なってくる理由もそこにある。「彼らの原
れている」ということを、はっきり認めながら、他方、
(93)
「何らかの原因が天体系の全空間に一貫した影響を及ぼし
たこと」や、「惑星軌道の方向や位置に調和がとれてい
子論においては、運動は永遠であり、創始者なしである。
そして衝突は非常に多くの秩序の豊かな源泉ではあるが、
ることは、惑星がすべて、運動のうちに置かれた時と同じ
何らその根拠が見出されないところの、全くの偶然である」
(89)
とされるのに対して、カント自身の場合は、「認識された
物質的原因に対して有していたに違いない一致の結果であ
真なる自然法則が、或る極めて明白な仮説に従って、必然
るということ」も信じざるをえないと言う。ところでこの
(94)
二つの見解に対して、カントがいかなる態度をとっている
的に秩序にもたらされ、合法測性における偏僑Aus−
かという点は、方法論上非常に重・要である。カントは、後
schlagの決定的根拠や、自然を調和と美のうちに保つ何か
者の見解よりは、空間が空虚だとする前者の見解の方が、
がそこでは見出されるから、完全性への移行の必然性を理
「完全に確実に構成されるmit vellkommener Gewiss−
解せしめうる根拠が推定されることになる」。裏から言う
heit au§gemacht」と言い、また後者の「真実らしさWahr−
(gの
ならば、エピクロスでは、「原子が相互に出会うために、
scheinlichkeitを超える」とも言う。ニュートンは、そ
原子が直線運動から逸れる」ということが、「何の原因もな
しに」行なわれるよう要求されているが、その一点を除け
ば、カントの「天界自然史」は、エビ)クロスの原子を「落
下さす重さ」、及びその「落下の直線運動からの偏筒」と
(95)
れ故にこそ、かかる物質的原因を承認できず、そこで「自
然の力を利用することなしに、こうした秩序を整備する
神の直接の手」を主張したわけである。もちろんカント
(96)
は、こうした「完全に確実な構成」の可能を認めながら、
一86一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
なおかつ「全く本来的な理解が行きつくところでも、こう
ことができる、「落下によって速度を得、他の粒子の抵抗
した空間が空虚だと言われうるかどうか」という疑義に忠
(97)
実に、これを保留するのである。というのは、問題の天体
によって方向を獲得したような粒子だけが、空間の拡がり
レベルの質量に何らか作用を及ぼすには、あまりにも無力
な物質が、この空間中に見出されないとは限らないからで
の中を浮遊し続け、またそのことによって、それらの粒子
は一つの自由な円運動を継続できるのである」。
(le3)
ところでこのような自己形成的自然観は、我々の太陽系
をモデルにして考えられているが、カントは更に、「同じ
ある。
かくしてカントは、充実した小臣と空虚な空間という相
ようなやり方で、もっと高次の宇宙秩序の起源に進み、無限
という観点から調停し、 「自己形成的自然die sich bil−
な全創造を一個の学説に総括することができるであろう」
(104)
と言う。自己形成的自然観は、いよいよ無限な神の全創造
dende Natur」という思想を獲得することによって、二
を露わにするが、自然の自己形成は当然また、自然の自己
対立する見解を、確実性においては劣るが、自然の生成史
(98)
ユー gンのかの「神の直接の手」を不必要ならしめようとす
る。「我々の太陽系に属している球天体、あらゆる惑星や
彗星を成立せしめている一切の物質は、万物の始まりの時
消滅と相表裏するものでなければならない。「偉大な神の業
のうちにすら、有為転変を許すということを我々は認るに
は当らない」とカントは言う。「初めと起源を有するもの」
(105)
には、その要素的な根本素材に解体して、現在これら形成
はまた、「終りを持たねばならず」、それが「有限的なも
された天体が運行中の宇宙体の全空間を充たしていた」と
(99)
カントは仮定する。こうした「直接に創造されたばかりの
本性の特徴」を有している。地球も、太陽系の天体も皆、
自然」は、最も混沌とした状態をなしているが、「混沌を
かかる「有限的な本性」を有する自然拗なのであるから、カ
構成している諸要素の本質的な性質のうちにも、諸要素の
ントはニュートンと共にその衰弱と崩壊を予告する。「有
の」なのである。かかるものはすべて、「その制限された
(10G)
本質が神的悟性の永遠の理念から生じたものであるのだか
限な諸性質に付着している空無性Eitelkeitが不断に、永
ら、諸要素が起源以来もっている完全性の微標がうかがわ
続性unendliche Dauerの破壊に従事するから、徐々に
れうる」。創造されたかかる根本要素は、それぞれ無限の
進む衰微によってやはり結局は、永続性の崩壊の時点を招
(lijO)
種類の相違を有している。「物理的単子論」の表現を借り
き入れるあらゆる可能的期間というものを、永遠性Ewig−
れば、みな異なった惰力つまり密度を有している。
keitは自分のうちに含んでいる」。我々が偉大な神の
(107)
各要素がもし皆同一一一であれば、当然「静止状態」に支配
業のうちに、有為印璽を許して認からぬわけは、かかる永
される筈であるが、カントによれば、創造の最初に一瞬間、
遠性の秘密にある。「我々は一つの宇宙体の崩壊を、自然
普遍的静止状態を通過するだけで、「他よりも強い引力を
の真の喪失であるとして悲しむには及ばない」と、我々に
(]e8)
もつ諸粒子の諸点にある混沌が、自己形成を開始する」。
(101)
各要素或いはその集合体の密度の差に基づき、引力によっ
言わしめるところのものこそ、神の業の偉大さの核心であ
る。
て、各要素の直線運動が起る。こうして次々により大きい
しかしこの場合もカントは、ニュートンと違って、「神の
密度のところへ集っていって、塊となったものが、全空間あ
直接の手」によるその回復を意味して言っているのではな
ちこちに出来て、もし形成作用がいっか完成する時がある
いことは言うまでもない。「自然は若干の部分は有為転変
とすれば、「引力の平衡」によって、すべてが静止したき
の犠牲に供しても、無数の新たな産出があるから、自然の
りになるのは見易いところである。しかし一方において物
完全性の全範囲においては、自然は損害なしに保持されて
質の微粒子に「斥力」が考えられ、これによって微粒子は
いる」と言われる。もともとカントは、自然を巨視的に見る
反擾し合い、こうした「引力との抗争」によって、「自然
場合、無限の宇宙を、地球の属する太陽系のみならず、かか
(109)
の生命」は永続させられることになる。
る太陽系の属する銀河系、更にその鋲河系が他の銀河系と
そして「それぞれの引力点に落下していく諸要素は、こ
属する天体系というように拡がっていって、しかも「相互に
うした斥力によって入り乱れて、直線運動から脇へ外らさ
関連なしには存在しえず、またこうした相互関係によって
れ、垂直の落下が沈下の中心点を漏る円運動にそれること
になる」こうして密度の大きい中心物質を周る巨大なデモ
(102)
クリトスのいわゆる「渦巻運動」が生ずることになる。ま
より一層測り知れなくなる」ものと考えていたのである。
(110)
「カント・ラプラス説」として有名なこの宇宙生成論に
は、確かに学派の論争において到達する承認の範囲を超え
ぼらながら、相互に交叉し合い、さまざまに抗争し合うこ
うした運動は、妨げ合うことのない、相互に平衡のとれた
る程に深い「経験的なものと合理的なものの統一」があ
(111)
り、更に方法論的には機械論と目的論の統一一があり、そして
向を得、しかも太陽を中心にその周囲を並行して円をなし
その根底にはカントの言う「私の体系と宗教の一致」があ
(llZ)
る。自然科学はみずからの自然法則より先に進めぬという
て運行するようになる。かくしてカントは次のように言う
限界を有し、目的論や神学によらない限り、みずからの法則
状態に入ろうと努め、これによってすべての粒子が同一方
一87一
津山高専紀要第8巻第1号(1970)
の説明は不可能である。かくしてニュートンが採用した自
を与えたのであるが、この場合も同様重大な意味をもって
然神学を、ライプニッツの目的論的神学と統合することに
くる。すなわち、宇宙の広大無辺さは、それにかかる実存可
よって、カントはこの「体系と宗教の…致」を得たと言える。
能性が付加されて始めて、宇宙の徹底的に機械的な生成、
しかし上述の自然科学の限界は、その確実性と表裏してい
消滅にも拘らず、神の創造の偉大さを証しすることができ
るQカントはみずからの宇宙論がいかに成功しても、ニュ
る。それ故カントは次のように言うことになる、「神の創
ートンの「完全に確実な構成」の道ではなく、「真実らし
造の啓示される空間なら、これを銀河を半径にして描かれ
さ」の域を脱しえない道を歩んでいることを、すでに当初
る球体で囲んだからといって、直径一インチの球にこれを
から自覚している。「私は仮説を作らない」と言うニュー
限った場合より、それだけ一層神の創造の無限性に近づく
(113)
トンの意味を充分知りながら、なおかつカントは敢てその
ことにはならない」。
「仮説」を提出するのである。カントは「完全に確実な構
(]14)
(119)
いまやカントはライプニッツ同様、 「神はいわば到ると
ころ中心である、しかしその円周はどこにもない」という
(120)
成」という、有限的悟性にとって見過せぬ真理への道と、
言葉を採用しなければならないが、その場合の神は、みず
体系と宗教の一致に現われる「神の真理の無謬性の確信」
(115)
の道の間に立っている。
からの意志によって選択された唯一の世界のではなく、無
「天界自然史」と同じ年カントは、そこにおける思弁的
差別な多数世界の実存可能の根拠でなくてはならない。機
な「普遍的調和論」の展開とは別に、「新論」においてその
械的な生成消滅を繰り返す自然の進行と、その素材の創造
原理的な検討を簡単に試みることになる。 「新論」は「決
を通じて、無差別に無辺の世界の実存可能性の根拠となる
定根拠律」の問題をめぐって、根拠に「存在根拠」と「認
神の業について、カントは次のように言う。 「自然が有為
識根拠」、また「真理の根拠」と「現存の根拠」の区別を
転変の現われ方をして、永遠性を飾る間にも、神は更に大
導入し、有限的悟性の真理の意味を検討するのであるが、
きな世界の形成のための素材を形造ろうと、不断の創造に
そこではまだカントが直面している真理の根本問題の解決
従事してやまない」Q
は不可能であり、従って普遍的調和論も物理的影響説或い
(121)
自然の自己形成と、神の創造力によるその素材の形成の
は困果律などとの関連で、不明確なところを残している。
両立の問題は、結局神の意志の導入による「予定調和説」
充足根拠律の問題と共に、次にこの問題を検討してみなけ
を排して、無差別な「普遍的調和説」の確立をめざす問題
ということになるが、先に見たように「天界自然史」では
ればならない。
それが、独特の宇宙生成史ないし自然神学の形で追求され
4
た。しかし神の創造力の偉大さは、必ずしも宇宙の広大無
辺のうちでなくとも、自然のいかなる小範囲にも見出され
「天界自然史」において言われる意味での、宇宙の広大
るものであり、要するに世界の実存可能の根拠という点に
無辺さについては、「活力考」第一章の中で、カントの態
あるとすると、問題はもっと原理的なところにあることに
度はすでに決っていたと言える。「神が、真に形而上学的
なる。
な意味で考えてみても、幾百万という多数の世界を創造し
「新論」においてカントは先ず、有限的悟性の立場から
たということは、現実に可能なのである」とカントは言
「充足根拠律」の検討を行う。その中でカントが「先ず第
う。そして「形而上学的意味で.は、唯一つ以上の世界が実
一に私は、真理の根拠と現存の根拠を注意深く区別しなけ
(ユユ6)
存することはありえない」とする断定を退けて、「幾百万
という多数の世界も、現実に実存するか、しないか」は未
(117)
ればならなかった」と言っているように、「真理の根拠」
(122)
と「現存の根拠」のこの区別こそ、「充足根拠律」に対す
決のままに保留しているということは、前にも触れた通り
る「決定根拠律」の立場の表明であると言える。「充足根
である。多数の世界の実存不可能という断定は、恐らくライ
拠」という表現は、「充足」という言葉があいまいで、「ど
プニッツの次の言葉の中に充分表わされていると言えよ
う。「さて神の有する諸観念は無限数の可能的世界を含ん
の程度充足的かが確定的に明白にならない」という理由
(123)
で、カントはクルジウスと共にむしろ「決定根拠」という
でいるが、.実存しうるのは唯一つの世界だけであるから、1
表現を採用する。「決定する」ということは、定義によれ
神の選択が他の世界ではなく、むしろこの世界に決定する
ば、「反対を排除して述語を措定すること」であるから、
(124)
ための充分な根拠が存しなければならない」。現実に実存
(118)
するかどうかはともかくとして、ライプニッツにおいて
それは「事態がこうであって別のようではないことを把握
は、単に観念的に可能とみなされた、つまり矛盾を含まず
するのに、確実に充分なだけのものを示す」からである。
(125)
すなわちカントは「充足根拠」を主語・述語からなる「平
共可能的とみなされた多数世界を、カントが実存可能とみ
なる命題」において考え、主語を述語との関係において、
なしたということは、すでにカント哲学に大きく方向づけ
つまり他の述語を排除して決定するものとみなそうと試み
一88一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
る。そして真理はすべてこのように、述語による主語の決
定から生じるとすると、「決定根拠は真理の基準であるの
の原因によってひき起されたものの概念より本性上戸であ
り、また後者は前者より本性上後である」ということにな
(133)
る。従ってかかる原因の概念こそ先行的決定根拠たりうる
みならず、その源泉である」と言われなければならない。
(126)
決定根拠は、「可能的なもの」の真理基準という意味での
「認識根拠」と、「真なるもの」を生ぜしめる源泉という
とカントは考えたのである。
そして他方神の現存は、単に或るもののではなく、一切
意味での「存在根拠」の両面から検討されることになる。
のものの現存の根拠として、みずから一切の根拠を拒否し
かくして後者は「先行的決定根拠」ともよばれ、「その概
ながら、辛うじて我々の否定的な認識根拠を介して証明さ
念が決定されるべきものに先行する根拠」或いは「その概
れる。「絶対必然的に現存するものは、何らかの根拠のた
念を前提することなしには、決定されるべきものが理解さ
めに現存しているのではなく、その反対が全く思考不可能
れえないような根拠」と定義され、前者は「後続的決定根
であるから現存する。ところが反対の不可能性はそのもの
拠」ともよばれ、「それが決定しようとする概念が、すで
の現存の認識根拠にすぎない。そのものはいかなる先行的
に他から措定されているのでなければ措定されえないよう
決定根拠ももたない。そのものは現存する」。これは否定
な根拠」と定義されるのである。
的認識根拠を介しての神の存在論的証明と言うことができ
(127)
よう。もっとも「新論」では’r反対の不可能性」という
(134)
このように我々に接近可能となった充足根拠、すなわち
「絶対必然的なものの名目的定義」が「反対の思考不可能
決定根拠は、矛盾律や同一律とは異なった「実質的定義」
が与えられることになる。「真なる命題」においてはすべ
性」という実質を得る際の意味がまだ充分明確でない。後
て、その命題の述語の反対が排除されていなければならな
の「唯一可能の証明根拠」になると、反対では「内部的可能
いのであるが、矛盾律によるのでは、 「排除されるべき反
性一般が廃棄される」という意味で思考が不可能になると
対に矛盾する概念が現存していない場合、いかなる排除も
(135)
いうことが明示されることになる。反対の不可能性という
生じようがなくなる」からである。そして「反対の述語の
のも、反対はそのような意味で確かに万物の可能性に、つま
排除によって命題の真理を決定する何ものかが、すべての
り万物の廃絶に関わるから、現存の反対すなわち「非存在
真理にはある」ということになる。かかる認識根拠の不可
(12S)
欠な有限的悟性の立場は次のように表明されている。「真
の絶対的不可能性」が証明され、絶対必然的なものの現存
(136)
が証明されるのである。これに対して「新論」では、同じよう
理の認識が常に根拠の洞察に基づくということは、すべて
な言葉が使用され、形式的、実質的の区別の観点が導入さ
死すべきものなら誰でも有する思慮にとって動かぬところ
れながら、この区別そのものが論理的であり実質的になっ
である」。こうした後続的決定根拠は、確かに「確実性」
ていない。「その現存が自分自身の可能性および万物の可
(129)
のためには是非必要とされるが、しかし「真理を説明する
だけで真理を生み出しはしない」。そこで真理を可能的な
ものにとどめずに生ぜしめるところの「発生根拠」或いは
能性に先立っており、従って絶対必然的に現存すると言わ
れる存在者が存在する、それは神と呼ばれる」という命題
(137)
に対するカントの証明を見ればそれが解る。カントは先
少なくとも「同一根拠」、すなわち上述の先行的決定根拠
ず、「可能性は、互に結合された二つの概念が矛盾し合わ
がなければならないことになる。カントはかかる根拠を、
ない時にのみ成立する、従って可能性の概念は比較調停か
(130)
ら生ずる」と言う。後の「唯・一可能の証明根拠」の中で、ク
「現存を決定する根拠」として追求する。
しZl)しかかる「現存を決定する根拠」の存在をもし考え
ルジウスのいわゆる「内部的矛盾」が存在する場合は「内部
るとすれば、かかる存在は「自分の現存の根拠を自分の中
的に不可能」という意味に過ぎず、内部的可能性そのもの
の消滅」とは異なるということが明らかにされるが、「薪
に有する」ということになり、近世の哲学者達のいわゆる
「神は自分の根拠を自分自身のうちにもつ」という命題と
同じことになる。神的根拠を採用すればともかく、決定根
(138)
論」でいま言われた「可能性」の概念が、すでに単に無矛
盾の形式的可能性でないことは確かであり、実質的な、む
拠律の立場からするならば、かかる存在の認識根拠が問題
しろ内部的な可能性を意味していると考えられる。いずれ
とならざるをえず、「神の概念」を利用するより他ないの
にしてもカントの証明は、かかる可能牲の概念は比較調停
であるが、その際「神の概念が自分の現存をもうちに含み
の素材なしには成立しないから、「あらゆる可能的な概念に
うるように決定」しておくというような誤りを犯すことに
おいて実質的であるようなものが現存しないと、しかも絶
(131)
対必然的に現存しないと、いかなるものも可能的と考える
なる。そこでカントは積極的には、かかる神の概念の代り
に「原因の概念」を採用し、 「現存を決定する根拠」を時
間の継起のうちで考え、「或る物の現存の根拠を含むもの
はすべて、その物の原因である」と言う。その際時間は原
(132)
因の概念と密着して考えられており、「原因の概念は、そ
ことができない」というように運ばれる。後は言うまでも
(ユ39)
なく、こうして多くのものの間に分散した実質的なものが、
偶然的でなく絶対必然的に現存するには、それは局限さ
れない無限者でなくてはならず、従って絶対必然的に現存
一89一
津山高専紀要第3巻第1号(1970)
するものはかかる無限者として唯一でなくてはならないと
て措定されているわけであるが、何か別の決定が継起する
いうことになる。しかし、こうして「万物の可能性」を根
ことが望まれるとすれば、また別の根拠が措定されなけれ
拠にする証明が、実は「万物の現存のみならず、内部的可
ばならない。しかしこの別の根拠に対する反対はすでに内
能性そのものの完全な消滅」という事態を楯にとる証明で
部的根拠のうちにあるわけであるから、外部的根拠が付け
(14e)
あることが、「補遺」の中で付加されるのであるが、それで
加わらない限り、その実体に他の決定が生じることはあり
もなお、かかる証明があらゆる証明の中で本質的な証明で
えない。ところが前提によると、外部的連関が欠如している
はあっても、本来的に「発出論的genetisch」とは言えな
のであるから、他の決定は継起しえない。それ故もし内部
いことが表明される。ところがこうした内部的可能性の全
的状態の変化がもし生ずるとすれば、実体間に外部的連関
面的消滅という絶対的不可能性を、絶対的必然性の確かな
とその変化がなければならないことになる。
実質に取り入れた後の証明が、「正に発出論的である」と
カントは師クヌッツェンの「物理的影響説」ないし心身
(141)
の相互影響説の問題を引き継ぎながら、その「ちょっとし
根拠の否定性の不充分さ、絶対的必然性の把握の論理的形
(146)
されている。従ってこの相異は「新論」における神の認識
式的傾向を示唆するものと理解されえよう。
た概念の紛糾」の意義の重大さを見抜いて、これを解決し
ようとして「活力考」を執筆したとも言えるのであるが、い
まや紛糾のない物理的影響説の確実な根拠が求められるこ
ところでカントは以上のような「廻り道」を通ってようや
とになる。これは確かにライプニッツの意味での「単子無
く「決定根拠律」に到達する。「偶然的に現存するものは
窓論」と「予定調和説」の破壊である。「実体は他の実体
いかなるものも、その現存を先行的に決定する根拠を欠く
との連関をもつ限りにおいてのみ、変化することができ
ことはできない」。神の場合とは異なって、先にも示され
る。そしてそれらの実体の相互的依存関係は、それら実体
たように、「原因の概念」という積極的な認識根拠を有す
の状態の相互的変化を決定する」と言われる。こうした諸
(142)
るこうした先行的決定根拠の必要性は次のように証明され
(147)
実体の連関の変化が「運動」とよばれるのであるが、かか
る。偶然的に現存するものとは、絶対必然的現存の逆で、後
る外部的変化がなければ実体の内部的状態も変らないので
には「その反対が内部的可能性を廃棄しないような現存」
(143)
と言われる場合であるが、ここでは名目的に「その反対が
あるから、もし世界がいかなる運動ももたなければ、実体
の内部的状態にいかなる「継起」も起らず、従って「時
可能なもの」とされる。カントは背理法によって、かかる
間」も消滅してしまうことになる。これがカントによって
偶然的なものが先行的決定根拠を有していない場合を想定
「継起の原理」と言われているものである。「活力考」で
し、そのような場合結局、絶対必然的な現存でなければな
は「我々が運動と名づけるものの根源を、作用力という一
般的概念から導くことほど容易なことはない」と言われ、
らなくなることを示して、決定根拠律を証明する。かくし
てカントは、「充足根拠律」の中に「真理の根拠」と「現
(148)
すでに次のような作用力による運動の説明が行なわれてい
存の根拠」の区別を導入することにより、決定根拠律を獲
る。実体Aがその力を「.世界の同時存在的な状態」のうち
得したのである。もちろん「真理の確立」そのことのため
に、つまり「一時に」発揮するとすれば、運動が認められ
には、前に先行的決定根拠の特殊の場合とされた「同一根
ないことになるが、「事物の一時的系列」のうちに、つま
拠」があれば、必ずしも先行的決定根拠を要しないが、特
り「次々に」発揮するとすれば運動が成立する。その場合
に偶然的に現存するものにおいては、先行的決定根拠が絶
Aの力は自分以外に作用するよう、すなわち他の実体の内
対不可欠とされるのである。
部的状態を変化せしめるよう決定されていなければならな
このようにして「充足根拠律」が「決定根拠律」とし
い。かかるAがその力を次々に発揮する場合、次々に力の
て、我々に確実に接近可能となった今、ライプニッツの
一回分だけ受けとる故にAに対する位置を異にするところ
の別々の実体B、C……に継時的に作用を及ぼしながら、実
「予定調和説」が改めて原理的に論破されなければならな
くなるのは言うまでもない。ところでカントによれば、か
かる予定調和説が根底から覆えされるのは、それが基づく
体Aはその場所を変えていくと考えられている。
(149)
カントにとって、力はこうした運動すなわち外的連関の
目的因のような不安定なものより、もっと完全なものが神
変化の根拠ではなく、他の実体の内部的状態の継時的決
にふさわしいからという理由からなどではなく、「予定調
定、すなわち内部的変化の根拠なのである。カントはそれ
和そのものの内部的不可能による」のである。「繋る単純
故力は「変化の根拠」ではなく、「決定の根拠」を含むと
な実体が、他の実体との連関を離れて孤立的に現存すると
言う。ところで「活力考」で、「物理的影響説」が陥って
すれば、その実体には内部的状態のいかなる変化も起りえ
いる「概念の紛糾」と言われたのは、「運動は力が正しく
ない」とカントは言う。何故ならその実体にすでに帰属し
発揮されろ馬力が行なうことであり、また力の唯一の帰結
(144)
(150)
(145)
ている内部的諸決定は、内部的根拠によって反対を排除し
であるとみなされている」ということであったQ心身響影
(151)
一90一
カント前批判期における:方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
遍的原理としての神に依存している」ことを認めざるをえ
説に譲歩したヴォルフも、カントによると「決定の根拠」
を含むに過ぎない力を、「変化の根拠」を含むと考えるこ
とにより、 「単純実体は作用の内部的原理により、不断の
(159)
ないからである。それも単に万物に現存を与えるためだ
けでなく、同時に万物の現存を相関的ないし相互依存的た
変化を続ける」と主張する。しかし「実体は自分とは異な
らしめようと図るための、同一の「神の悟性の図式inte1一
る他のものを、自分自身に内部的に帰属するものによって
正ectus divini schema」を認めざるをえないからである。
(152)
決定する能力をもっていない」とカントは言う。というの
(工60)
かかる「図式」とはカントによれば「永続的作用」ないし
(153)
「保持作用」のこととされるが、万物を無関係的、不調和
は変化とは決定の継起であるから、そこに以前にはなかっ
(161)
た新たな決定が生じてくるが、これは「存在者が自分自身
のもつ決定とは反対に決定づけられる」ことに他ならない
(154)
から、そうした変化が実体に内部的に存しているものによ
的にも取計られた筈の、かかる「神の悟性の図式」に基づ
く原因の相互交渉や「調和的依存性」が「普遍的調和説」
の骨子である。従ってこれは、諸実体に「相互依存性」で
って生ずることはありえないのである。従って変化が生ず
なく単なる「一致」を導入する「予定調和説」でもなく、
るとすれば、外部的連関に由来しなければならないのであ
また諸実体の相互交渉は認めるが、場合によって異なる神
るが、これについてカントは更に一歩を進めて次のように
の特殊的影響によるとする、マールブランシュの「機会原
言う。実体が自分とは別のものを決定するのは、「それら
因論」とも異なる。また問題の誤れる「物理的影響説」に対
が無限者の観念のうちで結合される際の連関によって」な
(155)
しては、「事物の相互的連関の起源」を直接諸実体の申に
ではなく、「孤立的に考えられた諸実体の原理の外部に求
のである。
かくして「外部的連関」をめぐって「他の実体の原因とな
るにふさわしくない有限者」と、かかる「無限者の観念
められねばならないものとして明かにしている」点で普遍
(162)
的調和説が優っていると言われるQ
(156)
idea entis infiniti」の関係が問題になってくる。 「同
誤れる「物理的影響説」はまた、「かの陳腐な作用因の
時存在の原理」は次のように表現されている「有限な諸実
体系」とも言われているが、かかる体系が特に真理からか
体substantiae finitae lま自分自身の現存によるだけで
け離れてしまうのは、このように相互的連関の起源を単純
は、いかなる相互関係にも立ちえない。それらは各自の現
な実体の外部にではなく、内部に求めたからである。今や
存の共通の根拠すなわち神の悟性intellectus divinus
その作用因の体系が真に生かされるのが「普遍的調和説」
によって相互関係に立つよう形成保持されている限りにお
においてであることが明らかになる。「諸実体間の実在的
いてのみ相互関係に立つ」。カントがかかる原理におい
な相互作用すなわち相互交渉は、真の作用因によって存在
て、ヴォルフ・クヌッツェンの心身影響愚ないし物理的影
する」。その理由は、「諸物の現存を確立する同じ原理が、
響説が基づく概念の紛糾を解決し、それによって「活力考」
それら諸物をこの相互作用に束縛するからであり、従って
の底流をなしていた、ライプニッツの形而上学とニュート
事物の現存の起源に伴っていた諸決定によって、相互交渉
ンの自然学の調停の一応の仕上げを試みていると見ること
も確立されていなければならないから.」とされる。かかる
(157)
(T63)
ができようQライプニッツ的な単純実体を「単純に措定さ
「新論」における原理的究明によって、 「活力考」以来の
れた現存」と理解する場合、かかる実体には他の実体の現
運動と作用力を区別しようとする見解が、普遍的調和論の
存を明示するようなものは決して内在していない。つまり
中に根拠づけられることになる。「実体の内部的出来事が
単純実体は他の実体の原因となるにふさわしくない「有限
実体の内部的な力に帰せられるのと同様の正当さでもっ
的な実体」であるというのがカントの見地である。前に述
て、実体の外部的変化はかかる作用因によって生み出され
べたように、カントはすでに神の自己根拠説を原因の概念
る。もっとも内部力の自然的作用と同様に、こうした外部
に基づいて拒否し、この概念を認識根拠とする決定根拠律
的関係の基礎も神の保持作用に支えられているのである
を証明した。関係とは「相関的決定」に他ならず、「絶対
が」。
(164)
的に見られた存在者においては決して理解されえない」も
5
の故、「決定根拠の場合と同様、実体の独立に措定された
現存によっては理解不可能である」とカントは言う。
(158)
ところが「それにも拘らず、宇宙における万物は現に見
「活力考」ag一一節でカントは、「延長にさえも先立って
出されるように、相互的連関によって結合されている」。
物体に帰属するような本質力」が物体に内在するというラ
前に神の自己原因説を拒否したカントは、ここで再び神に
(165)
イプニッツの基本的見解を採用した。しかしカントはこれ
戻ることになる。というのはそうした連関の確立には、有
を「作用力」として徹底的に理解してまた「活力」と呼
限な諸実体の共存では全く不充分なのであり、こうした関
び、更に「活性化」というより現実的な見地を開いた。そ
係はどうしても「原因の相互交渉に、すなわち現存者の普
してかかる活性化の完成のための「有限時間」の間、事実
一91一
津山高専紀要 第3巻 第1号(1970)
「運動を保持し℃いる内張力」に活力の現われを見ようと
である、すなわち「物体が空間を充たすのはその原初的部
したことは前に見たところである。それを「普遍的調和論」
(166)
の中に原理的に位置づけることはまた「新論」の仕事であ
分の単なる共存によってなのか、.或いは力の相互的軋礫に
った。ところで「活力考」でカントは上のような分析の
後、二三の条件付きで次のような新しい力の測定法を提出・
していた。 「一一・・L物体がその自由運動において、その速度を
よってなのか」ということが問題であると言う。ところが
(170)
「新論」でも言われているように、「諸実体の共存com−
praesentiaだけから生ずるJと見られているのは、ニュー
トンの意味での「引力」である。しかしそれでは、物体延
無限かつ不減衰に保持するなら、かかる物体は活力、すな
(171)
長や空間の占有の問題が説明つかない。他方、ライプニ.ッ
わち速度の二乗を測度とする力を有する」。
(167)
「活力考」におけるデカルト的数学とライプニッツ的形而
向って」働きかける「斥力」に他ならないが、これでは物
上学の調停は、数学と形而上学にそれぞれその領分を守ら
体構成のための諸要素の結合ではなく、散乱しかありえな
せるという形をとりながら、カント自身一つの数学的形而
いことになる。そこでもしこの二つの原理を、「要素の本性」
上学の積極的試みを行なっているということは、上の新測
とその「原初的属性」とから導出することに成功すれば、
定法に関して次のような自負を行なっている点からも明ら
かである。「私はこの測定法をデカルトとライプニッツの
「物体の内部的本性」の解明に貢献したことになる。
Q72)
この予告に見られる「要素の本性」とその「原初的属性」
測定法の代りとして、真の動力学の基礎たらしめるつもり
.という、新たな観点からする調停に至るまでに予想される
である」。しかし、もしカントのかかる数学的形而上学の
対立とは、空間の無限分割不可能を唱え、空虚な空間を否
試みが、同時にニュートンの数学的自然科学とライプニッ
定し、引力説を退ける「形而上学」と、空間の無限分割を
ツの形而上学の充分な調停に立っていないとすると、それ
可能であるとし、空虚な空間を肯定し、引力の遠隔作用説を
はライプニッツとデカルトの積極的調停であり、ニュート
とる「幾何学」との対立である。従ってすでに対立点が一様
(IG8)
ツ・ヴォルフの「諸要素に内在する運動力」は、「外部へ
でないのは明らかであり、またそれと関連して例えば第一
ンの数学的自然科学の一・一一種の模倣に終ることになる。
ところで「新論」の翌年公開討論に付された、「形而上学
(ユ73)
章の表題、「物理的単子の現存が幾何学と相容れることを
と幾何学との結合の自然哲学への応用、その第一例として
証示する」の中の「幾何学」も勘案すれば、デカルトのそれ
の物理的単子論」という長い表題の論文は、「活力考」と
であるか、ニュートンのそれであるかも一様には決らない
同様な形而上学と数学の綜合を示唆しているよケに見え
ということが解る。またそこで言われている「物理的単子」
る。しかし「新論」において、真理の観点から根拠律と調
とは、それ自体として見られた場合はともかくとして、単
和説の原理的検討を経たこの論文の序文を「活力考」のそ
にライプニッツ的単子ではなく、カント的単子である。す
れに較べてみれば極めて控え目であり、むしろ苦渋の影も
るとこの論文は、「活力考」におけるライプニッツ的形而
みえるくらいである。「自然の現象を追跡すればする程、第
上学と、デカルト的数学の調停によって産出された独自の
一原因の深い理解から遠ざかり、物体の本性そのものの認
数学的形而上学に含まれる、 「物理的単子論」の何らかの
識には到達し難くなる」という言葉は、おのずからまた両
再検討であるということはできよう。
(169)
著の性格の相違も物語っている。同じ序文でカントはま
ところでその意味では「新論」においてすでに、かかる
た、 「自然科学」のうちに「臆測による捏造物」を入れる
数学的形而上学が含む、主として「決定根拠律」と「普遍
ことは慎むべきであるし、「経験の支持と幾何学の媒介」
的調和説」の原理的再検討が試みられており、しかもその
なしには何の企ても空しいということに充分同意しなが
検討は主としてライプニッツとニュートンの調停をはかる
ら、いつも経験の岸辺伝いに進んでいては、たかだか「自
線で行なわれたG従って今の論文の場合も「物理的単子
然法則の説明」はできても、「自然法則の起源と原因の説
論」に関して、ほぼ同様のことが言えるのであるが、更にこ
明」はできないとして、敢て「真理の探求」のために「大
こは「新論」における種々の検討の成果が、吟味に参加し
きな冒険」を試みることを表明する。しかしそれは、カン
てこれる位置にある。先に触れた「要素の本性」とその
トみずから「グリフィンと馬の結合」よりもむずかしいこ
「原初的属性」という新たな観点は、恐らくその一つであ
とを認める、形而上学すなわち「超越哲学」Philosophia
ろう。従ってこの論文における「物理的単子論」の検討
transscendentalisと幾何学の調停の試みなのである。
は、単子の「現存」と、空間というその「関係」との対立
形而上学と幾何学の調停がいかにして「物体の本性の認
が、いかにして「基体」と「偶有性」という調停に転換し
識」に繋るかは、カントが哲学の出発点において選んだ物
うるかという、「物体の本性」の認識に関わる問題を含ん
体の内在力と延長の聞題に対する解決法がおのずから示し
でいるのである。
ているが、ここでカントは次のように言う。「物体は部分
この論文自身はこの後の方の問題の方法論的吟味は殆ど
から成る」としても、その部分による組立てられ方が問題
行なっていないから、我々は前の問題の実際の検討を見る
一92二
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
以前に、「新論」によって先ずその問題の方の吟味を極め
体とは「単純に措定された現存」、すなわち他の実体を明
て不充分ながら試みてみることにする。「新論」では認識
示するようなものが内在せず、それだけで理解可能な現存
と真理を重要視する観点から、充足根拠ないし決定根拠の
として単純実体であった。しかしそれ故にこそ単純実体は
中に「存在根拠」と「認識根拠」が区別され、更に「先行
自分の現存によるのみでは外的関係をもちえぬという意味
的決定根拠」とも称ばれる「存在根拠」の中に、「決定さ
で、有限的実体でもあった。「物理的単子論」における単
れるべきものに先行する根拠」と「決定されるべきものの
子の定i義は、「個々別々に他のものなしに現存しうるよう
理解の前提となる根拠」の二義が含められた。そして同じ
観点から、思考不可能性を否定的な認識根拠として、「絶対
必然的現存」としての神の現存が証明され、一方「原因の概
念」を認識根拠として、神の自己原因説が拒否されると共
に、偶然的なものの現存のための「先行的決定根拠」の必
然性が証明されたQところで「外部的連関の変化の原理」と
して「継起の原理」に他ならない、かかる因果的決定根拠律
な多数の部分から成立っていないもの」ということであ
(176)
る。次に一見相矛盾するような命題が並置される。「物体
は単子から成り立つ」という命題と、「物体が占める空間
(177)
は無限に分割可能である。従って原初的で単純な部分から
成り立つものではない」という命題である。
(17S)
前の命題の証明は、充足根拠律を避けてすべての哲学者
に近づき易い形で行なわれると言われるように、明らかに
と、他方「絶対必然的現存」としての神との間は、「同時存在
「新論」の成果すなわち「現存」と「関係」の分離の考え
の原理」によって関係づけられるようになる。これが「普遍
方に基づいて遂行される。つまり「複合」は関係に過ぎ
的調和論」に他ならない。すなわち、孤立的に措定された実
ず、「部分の現存を損なうことなく廃棄されうる、それ自
体の現存は、単独ではかかる外部的関係にあずかれぬとい
体偶然的な規定である」。従ってすべての複合を廃棄すれ
う意味で有限的であると解されるから、それにも拘らず事
(179)
ば、部分は「多数の実体を含むことなく」つまり「単純に」
実見出される外的関係を成立せしめる「神の悟性の保持作
現存する。そしてこれと相反する空間の無限分割可能の命
用」が考えられざるをえない。かかる「関係」の保持作用
題の証明は、当時の自然科学者がよく用いたと言われる証
はまた「神の悟性の図式」ともよぼれた。従ってかかる図
開法により、単子を含む物理的空間を想定しても、空間と
式はまた、もし現存しなければ外部的関係の機械的因果的
しては無限に分割可能であり、結局幾何学的空問と何ら変
認識を不可能ならしめる「前提」でもある。このようにし
わりないことを証明することによって行なわれる。
て現存と関係の対立は基体と偶有性の関係に転換されうる
次にカントは、「無限に分割できる複合体は原初的部分、
ようになると言えよう。
すなわち単純部分から成り立つことはない」という命題
もっとも、かかる「絶対必然的現存」としての神の証
(ISO)
と、「いかなる物体も一定数の単純要素から成り立つ」と
明、「外的関係を保持する悟性」としての神の証明は、そ
いう命題とを、後者を系として並べる。この一見対立する
れぞれカント的な存在論的証明、自然神学的証明をなすの
両命題は、むしろ補い合うものとして提出されているので
(174)
ある。「空間は完全に実体性substantialitasを免れてお
であるが、両者の更に詳しい方法論的検討は、「内部可能
性」の問題の検討と共に、後の「唯一一th可能の証明根拠」
り、結び合う諸単子の外的関係の現象phaenomenonで
G765年)を待たねばならない。従って目下の転換の方法
ある」と言われる。ここでは「新論」の場合より「現象」
(ISI)
論的検討が不充分なことは言うまでもない。また「物理的
という概念が一つ増えているが、それは前に指摘した「現
単子論」に当然含まれてくる空間論は、すでに「活力考」
象」と「実体性」ないし「偶有性accidens」と「実体的
において形而上学的な仕方でライプニッツの主観的空間論
基体substantialia subiecta」の観点が既に加わってい
とは異なる客観的空間論として提出され、「天界自然史」
ることを示している。かかる「現象」としての空間が無限
ではこれをめぐって、ニュートン的絶対空間論とライプニ
に分割できる複合体として、分割によってなくしてしまえ
ッツ的主観的空間論の綜合が試みられたが、しかしこの綜
ない複合をなくしてしまうには、複合体の現存全体を否定
合はニュートンの「完全に確実な構成」を無視して企てら
するほかないが、第一命題より複合体から複合をなくして
れた思弁的なものであることは、カント自身認めるところ
も後に残るのは.単純部分であった。従って無限に分割可能
であった。そして「新論」では、獲得された「同時存在の
な複合体が複合をなくすことはなく、単純部分から成り立
原理」の上に、「活力考」以来の「別世界現存説」や客観
ちえない。これが前の命題の証明である。これに対して系
的空間論が基礎づけられようとしていた。
の命題の証明は次のようになされる。複合は偶有性に他な
ところでその「新論」では空間は「諸実体問の関係」す
らないが、複合の基体があるはずであるから、複合体が無
なわち「それによって実体が、自分と実質的に異なった他
限の分割に服することは不合理である。というのは無限分
の実体と相互決定の関係に入り、かくして外部的連関に包
割が可能なら、原初的部分はいか程多くの他の部分と結合
括されるようになるところの関係」とされた。その際の実
されようと物質の断片一一つも構成しえず、従って複合体の
(175)
一93一
津山高専紀要 第3巻 第1号(1970)
実体性が廃棄されてしまうからである。
量を分割する」けれども、かかる「外的現前」は「関係的
こうした対立は、幾何学と形而上学の対立の形はとって
規定」であるから他に「内部的規定」を有していなければ
いても、結局「活力学」以来のカントの数学的形而上学の
ならない。カントはここで同じように、「偶有性」と「基
申での対立に還元されて調停されると言ってよい。尤も現
体」の区別を導入して次のように言う。 「もし内部的規定
存と空間の観点が、実体性と偶有性の観点に転換されては
がないとすると、関係的規定はその帰属する基体を有しな
いるが、まだ「新論」で示唆されるようなその転換の効果を
いことになってしまう。しかし内部的規定は、まさに内部
充分挙げてはいない。そしてかかる数学と形而上学の綜合
的であるが故に、空間内には存しない」。従って外部的規
から「物体の単純要素、すなわち単子はすべて単に空間に
定の分割は決して単子の単純性を侵さないということにな
あると言うだけでなく、みずからの単純性を少しも損なわ
る。
れずに、空間を充たしている」という命題が得ら.れる。先
(IS2)
ところでこのようにして「物体が自分の占めている空間
の系より、「物体はすべて一定数の単純要素から成り立つ」
に他の隣接物を寄せつけまいとしている属性」こそ、「不
から、その要素はそこから更に(即ち無限に)分割可能な
可雨性」ないし「斥力」であるとすると、これに対立する
空間部分を占めることになる。しかし空間の分割とは「外
力として「引力」が考察されねばならない。
的関係における多数性ないし或る種の量」を示すのみであ
「物理的単子の一般的諸属性の解明」とされている第二
って、「分離した一一一一・つが他から離れて、独自のそれ自体に
章において、「斥力」、「引力」そして「惰力」が取扱われ、
おいて充分な現存を有するようなものの分離」ではない。
先に序言の中で「二つの原理を要素の本性そのものと、そ
略言すれば、空間の分割は「実体的部分の多数性」を帰結
の原初的属性から導出する」と言われた「物体の内的本性
するわけではないから、それは「実体的単純性」と両立し
の二一」に近づくことになるので、それを極く簡単に見て
うるというのである。従って要素の研究に際して、「幾何
みることにする。「天界自然史」の場合と異なって、この
学と形而上学の結合」の妨げになっているのは、「要素が
二二は先ず「接触」の現象を通じて作用、反作用として確
占有する空間が分割可能であるということは、更に要素そ
かめられる。「接触とは直接の現前である」というバウムガ
のものが実体的部分に分割されることを示す」とする意見
とされるが、これも要するに転換された実体性と偶有性の
ルテンの定義は、「空虚な空間を介して」直接に引き合う
(185) (186)
とする、ニュートンー派の「引力」の場合を考えてみれば
区別の不徹底ということになろう。それ故カントは再び繰
非常に疑わしくなるので、カントはこれを「多くの要素の
り返して、「空間は実体ではなく、諸実体の外的関係の一
不可入性が相互に作用し合っている関係」と定義する。つ
種の現象である」と言う。単子論をとる形而上学者と空間
(183)
分割論をとる幾何学者の対立があるが、カントは幾何学が
(187)
まり接近していって斥力が感じられた時、「多くの要素が
相互に及ぼし合う作用と反作用」と考えるのである。とこ
誤っていたのでも、形而上学が真理にもとっていたのでも
ろでカントは物体の不可入性の概念から更に進んで、この
なく、むしろ「この両者に反して」単子論者も空間分割論
両力によって「物体の容積」の概念を次のように考える。
者も、転換された実体性と偶有性の区別を知らずに、「単
「物体はもし引力という同じように内在する別の力が不可
純要素は単純性を損なうことなしに空間を干すことはでき
入性の力と共同して、その延長の限界を限定するのでない
ない」と考えたのであると言う。
とすると、単に不可入性の力だけでは一定の容積を保有し
ところでこのような単子の空間の占有の仕方の問題とし
えなくなる」。どんな単子にも内在する斥力の性質からす
て、「不可入性」ないし「斥力」の問題がある。「孤立的に
措定されたものとしては単子はいずれも空間を占める」
(188)
れば、「かかる作用の強さが力の広がる距離の増大に応じ
て減少するのは何故か」は理解されても、「かかる力が任
(184)
が、我々はその「根拠」を単なる「実体の位置」にではなく、
意の与えられた距離にくると明らかに作用しなくなる」と
(189)
「その実体の外の実体への関係」につまりその「現象」に
いうことはそれだけからは明白に理解されない。ところが
求めるべきである。単子は.自分の四方に隣り合う単子が自
「一定の容積」は「物体の本性」であるから、「この不可入
分へ「それ以上近接することを防止し」、近接可能距離を
目の力にもう一一一つ別の相対立する力、回る与えられた距離
制限することによって、それぞれの位置を決定する。この
においてそれと均衡を保ち、占有する空間に限界を定める
ようにして単子は「実体的部分の多数性」によってでなく、
ような力を対立させる必要がある」と言われる。これが「引
(玉90)
「作用圏」によって「小空間」を限定し、また「単純性を
力と斥力の法則の現存」の確実な証明である。
損うことなしに空間を占有する」のである。かくして空間
次に「空虚な空間」の問題をめぐる、形而上学と幾何学の
現象は「要素の外的現前の場」ということになる。すると
対立が問題になる。分割問題の際、結局空間の偶有性に対す
またかかる占有の仕方に対して「単純性の確保」の問題が
る単子の実体性、更に斥力を介して前者の外面性に対する
生じてくる。「空間を分割するものは、要素の現前の延長
後者の内面性という区別によって調停が試みられたが、今
一94一
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題(1)戸田
度も、もともと要素の有無に関わる問題であるから、単子を
めぐって調停されることになる。しかし単子の存在が空間
においてであることは言うまでもない。
(5) cf. Herman 一一J.de Vleeschauwer,V Evolution
の空虚性と相容れないものであるとすれば、ここでも単子
de la pensee Kantienne , 1959, Translation by
の内面性に解決を求めざるをえない。単子の内部的本質が、
A. R. G. Duncan, /962, P. /4
斥力と引力という相反する作用にあるという見地をとれ
ば、斥力説をとる形而上学の空間充実説と、引力説をとる
空間空虚説との調停が可能になる。すなわちいずれにおい
(4) g6, KGS. 1, S. 21
(5) g /50, KGS. 1, S. 171. cf.Nova Dilu−
cidatio, K G S. 1, S. 4/5
てもそれがそうであるのは、全く「見かけ上」の事である
(6) 山崎正一L,カントの哲学,1957,45頁以下参照.
ということが明らかになる。以上のような「引力と斥力.」、
(19D
(7) クルジウスは1ア42年にDe usu let imitibus prin−
「物体の容積」、「空虚な空間」などの問題に続いて、
cipii rationis determinantis,vulgo sufficientis
「活力考」以来の本質力である「惰力」について次のよう
(決定根拠律、いわゆる充足根拠律の効用と限
に言われている。 「他の物体に衝突する運動体は、もしそ
界について)という論文を出しているが、カントの
れを運動状態に持続しようと努める惰力を持っていなかっ
「新論」第2章の表題は、De PrinciPio rationis
たら、その運動体は何らの作用も発揮しないし、どんな無
determinantis,vulgo sufficientisとされてい
限小の障害によっても静止してしまうであろう。或る物体
る。
の惰力とは、その物体を構成するすべての要素の惰力の和
(8) E.Cassirer,Kants Leben und Lehre, /925,
(これが質量とよばれる)である。従って或る一定速度で
S. 66
動いている要素はすべて、この速度が惰力によって乗ぜら
(9) ヴレーショウァーは、カントが「新論」によって
れない限りは、他のものを動かす作用を発揮することはな
大学講師資格をとった1755年から/765年までをとつ
い」。そしてこの掛け算を手掛りにカントは、惰力が「量」
て、「八年ないし九年間続く第一回の沈黙期がやつ
(192)
それもすべての要素において様々に異なる一定量を有する
てくることになるが、それについて我々は殆ど何も
と考え、そこから更に物体の「密度」の相異も説明しよう
知らない」と言いながら、「宇宙論から認識論へ」
とする。「活力考」で内張力とも呼ばれていたものもかか
の転換、更に「形而上学の可能性というはるかに決
る惰力の概念に由来すべきものであった。
定的な問題」の先取りを、この沈黙期の成果だとみ
なす。 (cf.Vleeschauwer,ibid. P.26∼7)。
註
また、高橋昭二氏の最近の好望「カントの弁証論」
(1) Kants Gesammelte Schriften, hrsg. von der
(1 969年)中の「カント批判期前の哲学」からは学
k6niglich Preussischen Akademie der WisseB−
ぶことが多く、また「活力考」から1750年代を「合
schaften, Band工,S.7 (以下略号、 K G S.
理論的形而上学」の時期、!760年代を「経験論的形
なお他にInse1版、理想社版訳参照)
而上学」の時期とする新しい区分法を提唱されるの
(2) 「ユークリッド幾何学の客観的妥当性は、ライブ
も傾聴に価するが、転換のポイントとなる「新論」
ニッツと同様、カントによっても主張されている。
の位置づけの問題、或いは転換をめぐるその単に弁
ライプニッツにとっては、ユークリッド幾何学の客
証論的でなく、方法論的な評価によっては、むしろ
観的妥当性は神の思惟に基づいているが、カントに
旧い解釈に戻らざるをえないように思われる(同書
とっては人間の思惟に基づいている」 (Gottfried
43頁以下参照)。
Martin,lmmanuel Kant,1960, S.49)。この場
(10) KGS.皿. S.66
合マルチンが成熟したカント哲学を見ているのは言
(11)
cf.Vleeschauwer,ibid. P. 19
うまでもないが、.幾何学の基礎づけというような問
(12)
§150,KGS.工, S.171.なおライブ=ッ
題は抜きにして、幾何学を「有限な悟性の企てる」
ツ自身「充足根拠律」の代りに、 「決定根拠律1a
(§10,KGS,』工, S.24)学問とする態度は、
principe de la raison determinantell (Th60di−
すでに出発点から確定している。三次元の空間以外
cee, g 4zl, Die philosophischen Schriften.von
の空間、この宇宙以外の宇宙などに対するカントの
G.W.Leibniz,hrsg,von Gerhardt〈略G P.〉,
態度が、この時点ではっきりライプニッツのそれと
vr, S.127.なおPh.B版、岩波版翻訳参照)
異なっているのも、そのことと対応している。もつ
という表現を使うのと同様、「予定調和」の代りに
とも、そうした有限的悟性が真に有限的として明ら
「普遍的調和1’harmonie universelle」 (Mona−
かになるのは、感性論が確立する1770年の論文以降
一95一
dologie,§59, G P. VI, S.616,なお初期の「叙
説」では1’har皿onie gen6raleも見られる)とい
う表現を使う場合もあるが、カントの「普遍的調和」
§28,KGS.工, S.40
︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶
Q5
︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵嘯︵
上で区別して真意が伝わるようにした。
928, KGS. 1, S. 40
g19, KGS. 1, S. 51
cf. g28, KGS. 1, S. 40
§19,KGS.工, S.50
P5
Monadologie,§7, G P. S.60ア
P6
Monadologie, g 55, G P. S. 616
P7
98, KGS. 1, S. 22
P8
98, KGS. 1, S. 22
P9
Q0
cf. g5, KGS. 1, S. 20
Q2
KGS。工, S.16
§1.KGS.工, S.17
Q3
§50,KGS.工, S.59∼60
cf. gso, KGs. 1, s. 60
g 114, KGS. 1, S. i59
g 157, KGS. 1, S. 176
cf.§f57, KGS.工, S. 176
§7,KGS.工, S.22
§7,KGS.工, S.21∼2
Q1
S 117, KGS. 1, S. 141
cf. g 117, KGS. 1, S. /41
cf. S 116一一7, KGS. 1, S. ’140一一・1
cf. g 118, KGS . 1, S. 142
cf. 9 119, KGS . 工, S. 142
§50,KGS.工, S.59
§50,KGS.1, S.60.なお cf.Cassirer,
g l19, KGS. I S . 145
cf. g 119, KGS . 1, S. 145
ibid. s. 25, Vleeschauwer, ibid. p. 18・一一9
§119,KGS.工, S.143
(26) cf.Cassirer,ibid. S.28.また「カントは世間
S 114, KGS. 1, S. 159
を教えようとして困難な仕事を手がけた。彼は活力
を測るのであるが、自分の力は測っていない」 (K
GS. X肛,S.1)というレッシングのエピグラム
S “5, KGS. 1, S. 140
9 115, KGS. 1, S. 140
g 121, KGS. 1, S. /44
は有名であるが、彼がそれを読んでエピグラムを作
g /22, KGS. 1, S. 145
つたと言われる、1750年の「ゲッチンゲン学報」上
cf.§25, KGS.工, S.36
の門門のカント書評は手厳しいものであったに違い
ない。新.しいところ.ではアディケスが、カントをこ
cf. S 115, KGS. 1, S. 127
g 123, KGS. 1, S. 146
うした自然研究家の線で検討しているが、やはり手
厳しい(Erich Adickes, Kant als Naturforscher
Bd.1,1924)。なお、浜田義文、若きカントの
S 125, KGS. 1, S. 147
g 125, KGS. 1, S. 147
§48,KGS.工, S.58
ラ
5
/
3
ラ2
弱
5
4
3
ラ5
砧3738
? Q
9
5
︵
︵
︵
0
︵ ︵
︵
︵
︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵︵
思想形成、1967.86頁以下参照。
27
cf.§25, KGS.工, S.55∼6
cf.§27, KGS.工, S.58∼9
トの原文は両者の混同が起る恐れもあるので、訳の
P4
g24, KGS. 1, S. 55
§27,KGS.工, S.39
の意味を含んでいないことは言うまでもない。カン
15
︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶
鵬︶髭
彫鵬癬驚隠漆器綾細蟹罐纒瀦綴額
津山高専紀要 第3巻 第1号(197G)
KG,S. 1, S. 5/7一一8
g24, KGS. 1, S. 54
「惑星や彗星はたしかに単なる引力の諸法則によ
§51,KGS.工, S.60
951, KGS. 1, S. 60
ってその軌道上に存続するのではあるが、しかしそ
95k KGS. 1, S. 62
れらは決して最初に軌道の規則正しい位置をこれら
951, KGS. 1, S. 62
の法則からえることはできなかった。……単なる力
KGS, 1, S. 5/8
学的原因が〔惑星や彗星の〕かくも多くの規則正し
951, KGS. 1, S. 60
い運動を生みだしたとは考えられない。……太陽、
951, KGS. 1, S. 61
惑星、彗星などの最美の体系は知恵あり力ある神の
92, KGS. 1, S. 18
意図と支配からのみ生じることができたのである」
§2.KGS.工, S.18
(Newton, Philosophiae naturalis principia
§15,KGS.工, S一一28
mathematica, motte’s Translation, revised by
cf. 915, KGS. 1, S. 28
Cajori, P・545∼4,浜田義文、上掲書148頁参照)
922, KGS. 1, Sv55
as)
§23,KGS。工, S.55
(76)
948. KGS. 1, S. 58
(m
§49,KGS.工, S.59
cf.§25, KGS.工, S.53∼4
一96一
KGS. 1, S. 262, S. 556
カント前批判期における方法の形成と自然認識の問題 (1)戸 田
(78) g49, KGS. 1, S. 59
によって生き、かつ生長するその機構は、その生長
(79) KGS. ll, s. 110, Anm.
が成就すると結局、それらに死をもたらす」のと同
(8〔〕) KGS.亘, S.95 ff.:[, S.222 ff.なお
じ様に、「初めに自然物の完成に従事したまさにそ
私の小論「カント初期における神の問題と方法の形
の機構が、その完成点が達成された後は、………気
成」 (津申工業高等専門学校紀要、第2巻第2号、
づかれぬような速度で、.結局その物を滅亡に導く」。
277頁∼291頁)は、自然の認識の問題を捨象して
これは全自然物の従うべき法鰯なのである。 (cf.
神と方法の問題だけを追求し左。実質の神について
KGS.工, S. 198)。
KGS. 1, S. 517
は288頁参照。
(107)
(81) 「最大の幾何学的精確さや、数学的無謬性は決し
(a os)
KGS. 1, S.
てこの種の論文について望みえない」というζとが
(109)
KGS. 1, S.
518
繰り返され(KGS.1, S.235,S.256)、
(M G)
KGS. 1, S.
255
「信ずる価値があるとか、正当な思考法と言われる
(111)
Cassirer. ibid
場合の諸規則に従った類推や一致に基づいた体系」
(112)
KGS. 1, S.
であると言われる(KGS.1, S.255)。
(M 5)
Newton, ibid.
(82) KGS.工, S.222
(114)
K G S. ’1 , S.
(83) そして「天界自然史」の要約は、後に「神の現存
(4/5)
の唯一可能な証明根拠」(/765年)の、第七考察
(/16)
(11ア)
「宇宙生成論」 (KGS.11, S./57ff.)の中
(118)
に再び取り上げられ、その自然神学的証明が他の証
︶︶
︶ ︶ ︶︶
︶9
︶︶
︶
︶2
︶︶
︶
︶5
︶ 6780/
0
/
3
4
8
9
9
9Q/999
︵︵
︵ ︵!
丸 ︵︵
︵9
︵︵
︵9
︵︵
︵9
︵︵
KGS. 1, S.
225
W6
KGS. 1, S.
228
W7
F
KGS.王, S.
S. 48
222
P. 547, cf, Cajori’s note 55
265
222
g8, KGS.
1, S. 22
g8, KG S.
1, S. 22
Leibniz
,
tsg 55, G P. Xif, S.
Monadologie,
615一一 6
明と比較されることになる。
84
KGS. 1, S. 225
W5
} 一 一一一
518
(//9)
KGS. 1, S.
509
(/2D)
Leibniz, Principes de la nature et de la gra一一
ce, fondes en raison, g 15, G P. VI, S. 604
KGS. 1, S.
228
(121)
KGS. 1, S.
225
(ln) Prop. 8
KGS. 1, S.
596
148
(125) Prop. 4
KGS. 1, S.
595
(124) Prop. 4
KGS. 1. S.
592
(125) Prop. 4
KGS. 1, S.
595
254
(126) Prop. 4
KGS. L S.
592
262
(127) Prop. 4
KGS一. 1, S.
592
(128) Prop. 5
KGS.工, S.
595
(129) ・Prop. 5
KGS. 1, S.
594
KGS.皿, S.
KGS.皿, S.
cf. KGS. 1,
KGS. 1, S.
KGS. 1, S.
cf. KGS. 1,
148一一 9
S .. 226t一 7
S. 261一一2
cf. KGS.工,
S. 262
KGS. 1, S. 262
KGS. 1, S. 518
(150)
「三角形は三辺を
形式的とみなされる同一律も、
KGS.工, S.
262, Anm.
有する」というような実質的な意味においては、
KGS. 1, S.
540, S. 264
「同一根拠上として先行的でも後続的でもないが、
「先行的決定根拠」の特殊な場合とされている(cf.
KGS.工, S.
265
(100)
KGS.工, S.
265
Prop. 4, Anm. K G S.’1, S. 592) o
(101)
KGS. 1, S.
264
(151) Prop.・ 6, K G S. 1, S. 594一一5
(ao2)
KGS. 1, S.
265
(152) PrOP.6, KGS.工, S..594
(1 05)
KGS. 1, S.
266
(155) Prop. 6, KGS. 1, S. 394
(104)
KGS. 1, S.
265
(154) Prop. 6, KGS.. 1, S. 594
(105)
KGS. 1, S.
517
(155) KGS’. g, S. 85
(1 06)
「地球は老衰するという問題の物理的考究」 (17
(156) KGS. E, S. 81
馴年)の中で、カントは、かかる制限された本性が
(457) Prop. 7, K G S. 1, S. 595
動植物や人間の場合も、地球の場合も結局は同様に
(158) cf. K G S. ll, S.一77, Crusius, Entwurf
はたらくことを指摘している。「動物や人間がそれ
der nothwendigen Vernunft−Wahrheiten, wie一
一 97 ・一
津山高専紀要第3巻第1号(1970)
fern sie den zufal!igen entgegen gesetzt wer−
(174) 「自然神学的証明」がすでに「天界自然史」の中
den(必然的な理性的真理を偶然的真理と対抗さ
で行なわれていることは前にも指摘したが、「新論」
せて措定する試み) §58,Die philosophischen
においてはその「普遍的調和論」、つまり「同時存
Hauptwerke,皿, S.9gff.
在の原理」の応用として、「共通の原因」としての
(159) Prop. ・7, K G S. 1, S. 595
唯一神の現存の証明は容易であり、そして「偶然性
(140) Prop. 7, K G S. 1, S. 595
の概念を用いた前述の証明よりもはるかに明白であ
(141) KGS. ff, S. 91
る」 (KGS.1, S.414) とさえ言われる。
(142) PrOP. 8, 工, S. 596
後の「唯一可能の証明根拠」が自然神学的証明を更
(143) KGS.皿, S.85
に大きく取り上げ、そしてこれに賛意を示す際の意
(144) Prop. 12, K G S. 1, S. 412
味とは、「新論」の場合と異なりむしろ道徳的なも
(145) Prop. 12, K G s. 1, S. 410
のなってくる。
(146) g6, KGS. 1, S. 21
(175) Prop. 15, K G S. 1, S. 414
(147) ProP.12, K G S.工, S.410
(176) Prop. 1, KGs. r, s. 477
(148) g4, KGS. 1, S. 19
(177) Prop. 2, KGS. 1, S. 477
(149) cf. g4, KGS. 1, S. 19
(178)・Prop. 5, KGs. 1, S. 478
(150) cf. Prop. 12, K G S. 1, S. 411
(189) ProP.2, K G S.工, S.477
(151) §5,KGS.工, S.20
(180) Prop. 4, KGS. 1, S. 479
(152) Prop. 12, K G S. 1, S. 411
(181) Prop. 4, K G s. 1, S. 479
(155) Prop. 15, K G S. 1, S. 415
(a82) Prop. s, KGs. 1, S. 480
(154) Prop. 12, KGS. 1, S. 411
(185) Prop. 5, K G S. 1, s. 480, cf. Prop.
(155) ProP.15, KGS.工, S.415
4, KGS. 1, S. 479
(156) ProP..15, K G S.工, S.415
(194) ProP.6, KGS,工, S.481
(157) ProP.13, K G S.工, S.412∼3
(185) Baumgarten, Metaphysica, g 225, K G S.
(158) Prop. 15, K G S. 1, S. 415
XV皿, S.76
(159) Prop. 15, K G S. 1, S. 4a5
(186) KGS. ll, S. 288
(160) Prop. 15, K G S. 1, S. 415
(187) Prop. 9, KGS. 1, S. 485
(161) cf. Prop. 15, K G S. 1, S. 414
(188) ProP。10, K G S.工, S.483
(t62) Prop. 15, K G S. 1, S. 416
(189) Prop. 10, K G S. 1, S. 484
(165) ProP.15, K G S.工, S.415
(190) ProP.10, KGS.工, S.484
(164) Prop. 15, K G S. 1, S. 415
(191) 高橋昭二,上掲書 62頁 参照
(165) S1, KGS. li S. 17
(192) ProP.11, KGS.工, S.485
(166)cf.§125, KGS.1, S.147.なお本論文
2参照。
(167) ga24, KGS. 1, S. 148
(168) §125,KGS.工, S.148
(169) KGS. 1, S. 475
.(170) KGS.工, S. 475
(171) Prop. 15, K G S. 1, S. 415
(172) cf. KGS. 1, S. 476
(17ろ)例えば高橋氏は第一の無限分割の問題に、「第一
批判」における第二の「数学的二律背反」の問題を
見、第二の空虚な空間の問題に、第一の「数学的二
律背反」の問題を見、それぞれ「批判期」とは異な
っ.た解決法にひそむ矛盾点を指摘している(高橋昭
二、上掲書59∼63頁)。しかし我々は今一一一挙にそれ
を問題にする積りはもちろんない。
一98一
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