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GKH021902 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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GKH021902 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
109
言語の性差と社会言語学的知見
―オーストラリアにおける日本人留学生の英語活動を事例として―
櫟
本
崇
恵
〔ABSTRACT〕 This study looks at Third Wave feminist linguistics, a manner of
anti-essentialist analysis which confronts Second Wave feminist linguistics’
analysis of the language of women and men as homogenous groups. Rather than
assuming that men and women necessarily speak in different ways, men being
direct and assertive, women being Passive and polite and playing up to others, a
Third Wave feminist linguistics looks at the complex negotiations undertaken by
women and men with gendered spheres. Third Wave feminist analysis makes it
possible to analyse the language use of women and men, without assuming that all
females are powerless, all males are powerful, or that gender always makes a
difference.
Rather than just focusing on the individual, this study also investigates the role
of context and social forces on the individual, in that these ways of speaking may
be evaluated by others as Prefficient, forceful, unprofessional and masculine. Third
Wave feminist linguistics is therefore concerned with moving the analysis of
gender and language away from the individual alone towards an analysis of the
individual in relation to social groups who determine their linguistic behaviour.
The notion of the community of practice has been significant for many Third
Wave feminist linguists, in terms of trying to articulate the way that group values
influence the individual and their conceptions of what is linguistically appropriate.
In other words, rather than focusing on the role of an oppressive social system,
ideology or patriarchy in relation to individual linguistic production and reception,
Third Wave feminists concentrate on the interaction at the level of the community
of practice.
Based on some of these ideas about Third and Second Wave feminism, this study
analyses sexism in language and language use of men and women and their
speech styles among Japanese students studying in ESL classroom at Australian
universities. It attempts to avoid overextending analysis about the nature of
systematic language patterns such as sexism. Rather, we should consider the
notion of particular community of practice in the wider context.
〔Key Words〕 英語,オーストラリア,性差,第3波フェミニズム,日本人留学生
は
じ
め
に
どんな社会においても,またどのような時代においても,女性と男性を何らかの方法で区別
110
天 理 大 学 学 報
しない社会はない。つまり,何らかの方法で,女性と男性は分業を営んできたのである。狩猟
採集の段階にあっては,男性は通常狩りに出かけ,女性は木の実などの採集と子供の世話をお
こなってきたのであり,軍事は大抵男性が担い,家事は大抵は女性がおこなってきた。その結
果,女性特有の語や話し方,男性特有の語や話し方が形成されてきたのは容易に理解できる。
私たちがある言語を認識し使いこなしているということは,その差をも認識していることと同
じである。よって,たとえば,男性が Lovely! といえばおかしく聞こえるし,女性が,fuck
などの悪態表現(swear words)を使うと,気品がないとか,あるいは女性らしくないと思わ
れる所以はそこにある。もっとも,女性語と男性語の違いが目立つ言語もあれば,そうでない
言語もあって,日本語は少なくとも最近までは前者であったが,英語は後者であろう。いずれ
にしても,平等意識が高まるにつれて,差別意識も急進的に研ぎ澄まされ,言語もその面から
精査されることがあり,言語上の性差別について議論されることが多い。それは主として,女
性(あるいは,その他のジェンダー標識のあるモノやコト)を表す言葉に向けられる場合と,
女性の話し方に向けられる場合がある。
本稿の目的は,限定されたコミュニティにもとづいて,談話レベルにおけるジェンダーと,
女性を表す言葉と女性の話し方,もしくは両者の関係について検証していくことにある。これ
は,ひとえに女性のみに注目して行われてきた女性を表す言葉と女性の話し方をめぐるほとん
どの分析結果とは,一線を画すものである。ジェンダーや女性を表す言葉および女性の話し方
がいかに機能しているのかということを検討しながら,これらの事柄が安定的でかつ固定的で
あるとする前提に一石を投じていくのも本稿の目的である。つまり,筆者は,これらの事柄を,
人が会話の際におこなっている評価のプロセス,または行為(パフォーマンス)とみなす。と
は言いながら,このプロセスでは,ジェンダーや女性(あるいは,その他のジェンダー標識の
あるモノやコト)を表す言葉や女性の話し方がその場限りのものであるとか,あまり重要な影
響を与えていないと捉えるのではない。それよりむしろ,女性を表す言葉や女性の話し方とい
ったものが,固定していて,予測可能なものとする固定観念を払拭したいのである。
言語における女性を表す言葉および女性の話し方は,これまでジェンダーと言語研究の中心
部分に位置づけられている。Lakoff(1
9
7
5)にはじまるような,女性は男性よりも丁寧である
といった固定観念は,付加疑問文から命令文に至るまでの言語的な特徴の分析が背骨となって
いる。本稿では,ジェンダーをめぐるこのようなステレオタイプにはまった前提をあぶりだし,
問い直し,ジェンダーと女性を表す言葉および女性の話し方の両方の複雑な関係を反映しうる
ような,新しく,より文脈に配慮した分析を提案する。Mills(2
0
0
3)が論じているように,
女性が男性より積極的な丁寧さがあると主張する Holmes(1
9
9
5)のような研究者は,従来か
ら機能的な分析方法を採用してきた。つまり,ある言語的な項目や手段が,丁寧なものである
と簡単に分類できると断定してしまっている。彼女らのような言語学者は量的調査をおこなっ
た結果,女性が男性よりも丁寧かどうかを判断している。しかし,丁寧さをそれほど容易にま
とめられるとする,まさにその態度を,筆者は問い直したいのである。言語上の項目や句が丁
寧かどうかを判断できるのは,まさに,それぞれの「実践コミュニティ」
(Wenger,1
9
9
8)
で会話をおこなっている当事者なのである(ミルズ,2
0
0
6)
。ゆえに,本研究では,実際に会
話をおこなっている当事者たちの言語活動上の経験を拾い上げることにより質的調査をおこな
った。
言語の性差と社会言語学的知見
111
1.フェミニズム言語研究理論
言語と性差の研究が,学際的な研究領域に加わってから,すでに四半世紀が過ぎた。
「言語
は思考内容を伝えるための無色透明な道具ではない。思考内容を形作り,変形し,理解し,表
現する過程それ自体に参加するのである。言語が性差別的であれば,人はその言語に導かれて
性差別的なものの考え方をし,性差別的な判断をするものである」という秋葉(2
0
0
4)の説明
にもあるように,最近ではこのような言語に対する見方が定着してしまっている。「Mrs.
Miss の廃止と Ms.への統一」とか,「policeman の police
officer への置換」といった表面的
でたいした問題でないように見える言語上の変革運動を起こしながら,第一波フェミニズム運
動に携わった女性たちは,言語と性差別の計り知れない深い関係について認識をしていたので
あった。だからこそ,第二波フェミニズム運動は,レトリカル・ムーヴメントと呼ばれるほど
言葉がらみの運動であった。言語と性差の研究は,そういう社会的意識のなかで必然的に生ま
れた研究領域であり,運動であり,実践である。故に秋葉(2
0
0
4)は,言語変革がフェミニズ
ム運動の大きなアジェンダであったように,言語と性差の研究はフェミニズム研究の主幹的役
割を担っていたと述べている。
今回は,発話レベルの分析にとどまり,話し手の言語の産出に注目する現在のジェンダーと
言語研究を,フェミニスト言語学が取り組んできた,大まかに言えば第三波フェミニスト言語
(1)
9
9
6;Cameron,1
9
9
8;Christie,
学といわれる批判的な分析(Bergvall,Bing & Freed,1
2
0
0
0;Mills,2
0
0
3)をよりどころにして,問い直したい。第三波フェミニスト言語学は,第
二波フェミニスト言語学を批判し,反本質主義的分析および解釈をおこなっている。Spender
(1
9
8
0)
,Lakoff(1
9
7
5)
,Tannen(1
9
9
1,1
9
9
3)の第二波フェミニスト言語学者は,男は自
己主張的,競合的に会話に参加し,女は相互扶助的,協調的に会話に参加するものだというこ
とを,一般的な事実としてすでに確立している。本稿では,言語の産出と解釈におけるジェン
ダーの役割を中心に分析していくが,その際に,男女の話し方には差があると想定するよりも,
筆者は,ミルズ(2
0
0
6)がおこなったように,Wenger(1
9
9
8)が用いた用語「実践コミュニ
ティ」を若干修正して用いたい。この用語は,特定の目的を遂行するために集められた人々の
集団を分析することにある。この概念は,フェミニスト言語学に特に影響を与えてきたもので
あ り,「実 践 コ ミ ュ ニ テ ィ」と ジ ェ ン ダ ー を 扱 っ た Eckert と McConnell-Ginet(1
9
9
8,
1
9
9
9)の研究は,文脈を考慮したジェンダー・モデルを作ることを目的とし,ジェンダーが,
適切さとステレオタイプに対するコミュニティでの決まり事をめぐる交渉に制約を受けて構築
されていると考えている(ミルズ,2
0
0
6)
。
ステレオタイプの概念は,適切さの評価をおこなうために話し手にとっては必然的なもので
あるが,一方では,それらは個人により異なって構築されたステレオタイプでもある。たとえ
ば,文化的ステレオタイプは,社会的差別を引き起こし,様々な形で言語システムにその刻印
を残しながら,言語上の不平等という結果を招いてしまう。そこには,具体的な意味生産の場
に性別による差別化があり,それによって言説の不平等が作り出されているという問題点が浮
9
8
5)
。それ
上してくる(McConnel-Ginet,Borker & Furman,1
9
8
0;McConnell-Ginet,1
は,たとえば,白人中産階級アメリカ人の会話が実証的に研究され,性別階層化が言説に影響
を与えていることがすでに証明されていることからも容易に分かる。
言語過程についてこれまでの研究で明らかになったことは,それほど意外なものではない。
基本的には,異性間会話では次のような方法で,男は女の上位に立つ傾向があるということで
112
天 理 大 学 学 報
ある。
(1)男は実際には女より多くしゃべる。
(2)発話権を取ってしまうという意味での割り込みは,男が女に割り込む方が,女が男に
割り込む場合よりも頻度が高い。
(3)男は,女よりも巧みに自分が導入したトピックに会話の焦点を合わせてしまう。
(Fishman,1
9
8
3;Kramarae,1
9
8
1)
こうした全ての点で,会話における女と男の関係は,子どもとおとな,被雇用者と雇用者な
ど,力が上下の関係になっているグループのそれと類似している。
このようにステレオタイプは,言語の解釈や産出に影響を与えている。しかし,実状は上述
した手短なスケッチから感じられる以上に複雑である。なぜならば,研究者はおうおうにして,
自身が想定するジェンダー・ステレオタイプが,一般的に受け入れられ,他の人と共有してい
ると思い込んでしまっているからである(ミルズ,2
0
0
6)
。ジェンダーを分析するときに,た
とえば,全ての女性は全ての男性より強調的かつ丁寧であると想定するようなステレオタイプ
を,分析や解釈のよりどころとしてしまうかもしれない。しかし,話し手は,ある場面におい
て,会話のやりとりの際,このようなステレオタイプをよりどころとするかもしれないが,だ
からといって,彼(女)らの言語上の態度全般における分析として正確であるかというと決し
てそうではない。
以上をふまえた上で,Eckert と McConnell-Ginet が修正を加えた「実践コミュニティ」と
いう概念では,話し手個々人とそれらの多様な言語コミュニティで繰り広げられる,複雑なや
りとりを記述するには不十分であることを論じたい。このモデルでも,相互のやりとりが主に
社会における制約と文化的ステレオタイプによって決定づけられていると考えているからであ
る(Eckert & McConnell-Ginet,1
9
9
8,1
9
9
9)
。
そこで,本稿では特定の「場」としての「実践コミュニティ」における談話レベル(発話よ
り大きなレベル)に着目した,話し手とその話し手が属しているコミュニティの関係性につい
て検証する。談話レベルでの分析は,多くの談話分析者に共通する関心事であるが,ミルズ
(2
0
0
6)が指摘するように,談話が研究者によってあいまいに扱われることが多い。ここでは,
談話レベルによって筆者が言おうとしているものをはっきりさせたい。筆者の考える談話モデ
ルは,Mills(2
0
0
3b)と同様に,Foucault(1
9
8
0a,1
9
8
0b)の研究を拠り所としている。つ
まり,言語の産出と解釈は規則に支配されたものとみなすが,それは,話し手個人や組織上の
力関係のレベルのことを意味しているのではない(Mills,1
9
9
7;2
0
0
3a)
。このモデルは,話
し手個人を単に談話上の力の交差点,もしくは結果としてしかみていないのである。
そこで,Bourdieu(1
9
9
9)が述べるところの「ハビトゥス」がとらえようとした,個々の
話し手と彼(女)らが属している直接的会話環境である「実践コミュニティ」
,さらにより広
い社会との間に展開される交渉に筆者の関心がある。「実践コミュニティ」には生産的な対立
があり,Eckert と McConnell-Ginet(1
9
9
9)が指摘しているような閉ざされたものであると
は考えていない。つまり,ある一つのコミュニティの規範が,意図せずに他のコミュニティに
浸透していくことがよくある。それは,その集団のメンバーが他に別の様々な言語コミュニテ
ィや下位集団に属しており,個々の「実践コミュニティ」を必ずしも快く思っていない場合も
あるからである(Bucholtz,1
9
9
9)
。「実践コミュニティ」は,集団と関わるメンバーひとり
ひとりの行動や評価によって決定されているので,常に流動的で変化するものであると捉える
べきである(ミルズ,2
0
0
6)
。集団における規範との関わりで,集団のメンバーによってもた
言語の性差と社会言語学的知見
113
らされる変化は,個人や集団が,女性を表す言葉と女性の話し方を,どのように評価している
のかについて考える上で重要である。
以上のような議論をふまえた上で,本稿で特定の「場」としての「実践コミュニティ」にお
ける談話レベル(発話より大きなレベル)に目を向けた,話し手とその共同体の関係性につい
て検証するにあたり,Bhabha の論じるところの “Third Space”(第三スペース)―エスニシ
ティ,人種,ジェンダー,社会的ステイタスや階級のような直接的要因が,際限なく混ざり合
いハイブリッドされる「場」
(櫟本,2
0
0
3;Ichimoto,2
0
0
7;Kelsky,1
9
9
6)―の概念的モデ
ルを使うこととする。この “Third Space” の概念のもとでは,特定の目的を遂行するために
集まった,出身地,性別,人種,民族,階級などを異にする集団が日々実践(ここでは英語の
学習)を通して1つの共同体を作り上げていると考えられる。つまり,本研究の中で,文脈を
考慮した特定の「場」とは,オーストラリアにおける大学の ESL に所属する日本人留学生が,
日々学び生活を営んでいる「場」のことを指す。したがって,伝統的な言語教育の枠組みのも
とでクラスルームが学習言語の社会規範を学び,それに限りなく順応することが目標とされる
「場」であると考えられるのに対して,“Third Space” の概念枠組みのもとでは,学習者の参
加により学習言語の社会規範のあり方そのものが,新たに再構築される可能性がある。この
“Third Space” のメンバーが学習言語の社会へ参加することにより,その「場」はまた新たな
実践のスペースとなり,規範は再構築されていくことになる。
2.ジェンダー
ジェンダー化された主体が担う,複雑な言語的交渉を分析していく作業にふさわしいジェン
ダーモデルを考えていくために,Butler(1
9
9
3,1
9
9
9)のパフォーマティブなモデルを,
Freed(1
9
9
6)や McElhinny(1
9
9
8)のジェンダー化された領域モデルに融合させる。つまり,
ジェンダーモデルを行為として,もしくは動詞として考えることであり,それ自体が関わりあ
うことで,ジェンダー化されている特定の環境や文脈の中で演じられるものとしている
(Crawford,1
9
9
5;Ichimoto,2
0
0
7)
。これらの二つの理論的立場をつなぎあわせることで,
言語において構築されたジェンダー・アイデンティティの流動性や不安定さを可視化させるこ
とができるだけでなく,さらにジェンダーが個人のレベルに配置されているのではなく,むし
ろ,文脈や場面の中にどうちりばめられているかを分析することができるのである(ミル
ズ,2
0
0
6)
。
この融合により,ジェンダーを個人や発話レベルのみならず,談話レベルでも記述すること
ができる。談話レベルではさらにその背景や方策,談話上の展開などが,「実践コミュニテ
ィ」において規範的にジェンダー化され,また,それらはコミュニティのメンバーによって交
渉され,異議申し立てされ,支持され,決定的に変更させられている。したがって,Butler
(1
9
9
0,1
9
9
3)が示唆したような,個人の望むように遂行できるものとしてジェンダーをユー
トピア的にとらえるよりも,ここでは,ジェンダーは “Third Space”(第三スペース)でつく
られた制約内で,および “Third Space” で適切であるとする私たちの認識の範囲内で遂行さ
れるものととらえる。さらに,ジェンダー化された実践を分析するためには,自身の,もしく
は他者に対するジェンダー・アイデンティティがすでに人種や民族によって色づけされている
ことについて本稿において検証をおこなう。
また,学歴,年齢,階級,社会的立場,性指向,共有知識の範囲をめぐる認識など他の要因
からの影響を検証したり,権力論を問い直す最近の理論的研究を参照しながら,女性が権力の
114
天 理 大 学 学 報
ない者,男性が権力者であるといった前提を問い直すこと(Thornborrow,2
0
0
2)も必要で
あると考える。私の主眼は,ジェンダーと言語に関する多くの研究に対する問い直しと,言語
の産出と解釈,そしてジェンダー要因との関係をめぐる新しい理論的モデルを組み立てること
にある。しかしながら,紙面の関係上,これらをすべて本稿で取り扱うことは出来ないため,
別稿にその議論を譲ることとする。本稿では,あくまでも限られたコミュニティ,いわゆる
“Third Space” にもとづいて,談話レベルにおけるジェンダーと,女性を表す言葉および女性
の話し方,もしくは両者の関係について検証をおこなうこととする。
3.方法論と調査方法
本研究は,他者を理解しようとし,他の話者との関わりで自らの居場所を作り出そうとする,
言語の話し手としての直感を分析することであり,個々の文脈の中で豊かに経験される言語と
はなんの関わりももたない壮大な普遍理論を作り上げようというつもりはない。
しかしながら,データ収集と解釈全般にわたって,多くの深刻な問題が横たわっているよう
に思われる。「現実」のデータ(録音された会話)を言語をめぐる他の情報を合わせながら参
照するのは必要であると感じるが,一方で言語学者はデータの分析方法について特に慎重にみ
ていく必要がある。なぜならば,形式的なテキスト要素のみに注目し,解釈や文脈などは考慮
しない,テキストの厳密な読みに徹するという,いささか時代おくれの方法を用いていること
があるからである。これは,会話分析においては,特に問題である。というのは,会話参加者
は,やりとりの中で,進行中の事柄についてそれぞれ微妙に参加の仕方が異なっている。会話
の長さ,助動詞の数,参加者の質問の数などを数えることもある程度言語的分析でも有効であ
ろうが,ジェンダーと女性を表す言葉や女性の話し方の両方の複雑な関係の分析においては,
それらはほとんどなにも語ってくれない。言語学におけるこのような分析のしかたは,形式上
の特徴のみに注目するだけで,発話の効果,たとえば聞き手の自己認識や形式上女性的な言葉
と称されるものを話している話し手の動機づけなどはみていない。このような形式主義的分析
は,女性を表す言葉の用法や話し方の解釈の複雑さの記述さえまだ着手してもいないため,あ
きらかに適切なものといえない。会話は,他者に対する感情的な反応である。私たちはある人
たちに対して,その人たちの言い方や言った内容などを通して,好感をもつのか,信頼するの
か決めていく。言語における一つのプロセスとしての女性を表す言葉や女性の話し方の特徴は,
他者への感情的な反応や関係を作り上げるプロセスと密接に結びついている。しかし,このよ
うな行動のレベルは,言語学的な説明の中ではほとんど考慮されていないのが現状である(ミ
ルズ,2
0
0
6)
。
本研究では,アンケート,インタヴュー,エピソード,ジャーナルなど,様々なタイプのデ
ータを扱っていく。多くの分析者は,一様に会話でおこなわれているものをみていくと述べて
いるが,それは不可能だと思う。なぜならば,録音された会話データを分析するだけでは,形
式上の特徴のみに注目するだけで,発話の効果,たとえば聞き手の自己認識や,形式上女性を
表す言葉や女性の話し方と称されるものを話している話し手の動機づけなどが可視化されてこ
ないからである。このため,筆者とのインタヴューで語られたナレーションを分析していくた
めに,他の人たちと語り合ったものや,参加者たちの多くのエピソードにそってそのデータ分
析を進めていくこととする。そして,ごくささやかなデータからの大げさな一般化を避けるた
めに,「実践コミュニティ」に注目し,詳細にわたった慎重な分析を必要とするため,データ
の大半は質的な分析がなされる。
言語の性差と社会言語学的知見
115
(2)
本研究では,社会学的 Multiple-Case アプローチというメソッドをもとに,2
0
0
6年5月から
2
0
0
7年3月の間に,オーストラリアの大学付属の ESL に在籍していた(インタヴュー開始時
に帰国済の学生)
,某大学からの交換および私費留学生,男女合わせて1
6人の学生を対象に,
女性に対する言葉と女性らしい話し方に関する調査をおこなった。スノウボール・サンプリン
(3)
グ方法を使い,筆者自身のネットワークを通して参加者のリクルートをおこなった。筆者自身
も以前オーストラリアで留学生であった経験を生かし,彼女自身を “Complete-research
member” ―「調査者」と「参加者」の両方として位置づけることとする。これら双方の立場
から,参加者への “Reflective Conversation” という形態のプライベート・インタヴューをお
こない,オーストラリアにおいて,個人や集団(参加者自身を含む)が,女性を表す言葉と女
性の話し方について,どのように評価しているのかについて検証しながら,言語とジェンダー
をめぐるステレオタイプにはまった前提を問い直し,より文脈に配慮した分析を提案する。こ
のプライベート・インタヴューは,参加者に対する簡単なアンケート,そして筆者自身の作成
するジャーナルという補完的調査方法と平行して用いるが,それは,参加者たちのコメントの
真意とコンテクストをより多角的に分析し,筆者自身の解釈の信憑性を裏付けることを狙いと
する。インタヴューは参加者自身の申し出がない限り,全て録音・テキスト化し,アンケート
は簡単なマトリックスに整理する。文字化されたインタヴュー・スクリプトは,Glaser &
Straus(1
9
6
7)によって理論化されたメソドロジー― “Grounded Theory” ―の概念を用いて
コード化し,既成の理論的枠組にデータを入れ込むのではなく,データから浮上してきたテー
マを筆者自身が拾い上げることにより,データと根拠に基づいた分析をおこなうものとする。
4.考
察
(1)女性に対する言葉
参加者たちへのインタヴュー結果をテーマ別にまとめてみると,女性を表現する言葉として
は,いくつかのパターンがあるということが分かった。ここでは,その代表的なものを取り上
げる。
!Steward vs. stewardess 型
この型は,男性名詞に接(尾)辞を付加して女性形を作るものである。この他には,actor
vs. actress,poet vs. poetess,hero vs. heroin,man vs. woman などがこのカテゴリーに入
る。
アダムからイブが作られたように,初めに男性形があり,それに接辞をつけることによって
女性を表すのである。これは固有名詞にも適用され,その例としては Paul vs. Pauline など
が挙げられる。この変形としては,doctor vs. woman doctor,athlete vs. woman athlete,
student vs. girl student などが最たる例である。これらは後述するように,言語差別撤廃の
運動により最近では用いられなくなって男性形に統一されてきている。例えば,doctor は男
性でも女性でも doctor である。
全ての参加者たちは,このタイプの単語の男性形と女性形の両方を日本における英語教育の
中で学んでいる。したがって,何人かの参加者は,日常会話の中で未だに男性形と女性形の使
い分けを,無意識的におこなっていると語っている。ただ,ESL の授業の中で教員によって,
言語差別撤廃運動により,女性形の単語が最近では用いられなくなっている現状を説明されて
いるケースもあり,特にそのような説明を受けた参加者は,日常の会話においてこれらの女性
形を使うことを意識的に避けていることがインタヴューから分かった。
116
天 理 大 学 学 報
!Mr. vs. Miss/Mrs. 型
これは,なぜ,未婚と既婚を男性では区別しないのに,女性は区別するのかというわけであ
る。つまり,女性の場合,既婚であると示すことによって,誰かの所有物であると認識される
ため,他の男性は彼女に近寄ることを避けるということになる。後で見るように,こういう場
合は解決策としては二通りある。一つは,男性のほうを未婚/既婚で呼び方を区別することで
あり,もう一つは,男性のように,区別をしない名称を用いることである。現実には第二の方
法が取られているが,第一の方法が取られる場合もある。例えば,日本語で,学生と女子学生
という二分法が伝統的におこなわれてきて,学生というと男子の学生を指していたが,最近に
おいては,男子学生,女子学生という言い方が新聞などでは多い。しかし,
「女社長」や「女
司令官」のようにいまだに希少的存在に対しては,区別がある。
"bachelor vs. spinster 型
上記の二つのタイプと違って,これは語が持つ意味合いの変化の問題である。男性を指す語
は意味が向上することはあっても,堕落することはまれなのに対して,女性を指す語は意味の
堕落を招きやすいという現象である。例えば,Bachelor という語は,日本人留学男性が自ら
望んで独身でいるという意味合いを出すときに好んで使うが,spinster の場合は,適齢期を過
ぎて仕方なく独身でいる干からびた女という意味合いになってしまうため,女性に対してはま
ず使うことはないと語っている。Eligible bachelor という表現はあっても,eligible spinster
という語はないのは,こういった理由からである。Spinster という語の意味合いがあまりに
も悪くなったので,最近では独身女性を表す表現として,bachelor girl という表現すら使用
されるようになってきている。
しかしながら,皮肉なことに,その girl という語も boy に比べるとどうしても差別されて
いると考えざるをえない側面がある。なぜかというと,girl と呼ばれる年齢層は boy と呼ばれ
る年齢層よりはるかに広く,2
0代の男性が boy と呼ばれることは先ずないのに,girl は3
0代で
も場合によっては4
0代の女性に対しても使われることがある。それは一つはやはり,man に
対する woman という語がどうしても性的意味合いを持っているのでそれに代える girl という
語を使わざるをえないからである。He is now a man と She is now a woman という二つの
文を比べてみればそのことは明らかである(これはこの二つの文を日本語に置き換えてみても
同じである)
。実際にインタヴューの中で,2
0代の日本人留学男性が,オーストラリア社会の
中で boy と呼ばれたことに対して,不愉快な思いをした経験について語ってくれた。しかし
ながら同時に,2
0代の日本人留学女性が,girl と呼ばれたことに対しては,何の違和感も覚え
なかったという声もインタヴューで聞こえてきた。
上のことの必然的な結果として,日本人留学生たちは,gentleman と lady という語の使用
頻度が全く違うことを挙げている。Girl とも woman ともいいにくければ必然的にそれに代わ
る語が必要になり,その結果,lady という語が多用されるのである。
この範疇に入る例として master vs. mistress,governor vs. governess などが挙げられる。
Master は「主人」という意味でいまだに使われるし,「達人」
「名人」の意味でも使われるが,
mistress は「女主人」というもともとの意味よりも,「愛人」というような意味になってしま
っているのである。そのほかにも,fellowship,masterpiece のように良い意味を表す語は男
性形が使われるのに対して,nymphomania のような語は主として女性に使われるのである。
#総称的な言葉としての man
しかし,参加者たちが最も問題視していたのは,何といっても man という語である。色々
言語の性差と社会言語学的知見
117
な職業,役職名には man が付くものが多い。Chairman,mailman,fireman,policeman 等
がその類である。特に現在のように,これらの職業に女性も進出してきた状況では,なぜ,
man といわなければならないかということが問題にされることが多くなった。このような議
論に対して,参加者の中には,man には「男」という意味の他に「人間」という意味もある
のだから,そういう意味に取ればよいではないかと反論した日本人留学生もいた。ところが実
際にはそう簡単な問題ではないのである。Man という語を聞くと英語のネイティヴ・スピー
カーは「人間」という意味ではなく,「男」という意味を思い浮かべるのである。したがって,
一見すると同じような構造を持っている cat の場合と異なるのである。Cat の場合も「ネコ」
という意味と「オスネコ」という意味があるが,cat という語を聞くと人は「オスネコ」では
なく「ネコ」を思い浮かべるからである。
さて,このような状況に対して,英語のネイティヴ・スピーカーは積極的に言語を変えてい
く方策を採ったのである。言語は一般に神話や,民話などと同じように「単純形式」と呼ばれ
ることがある(唐須,2
0
0
7)
。それは,特定の個人やグループが作ったものではなく,民族が
長い年月をかけて徐々に作り上げてきたものだからである。したがって,どんな独裁者も言語
を勝手に変えることはできなかったのである。ところが,今日の人たちの「差別」に対する強
い 反 応 は,言 葉 を 変 え る と い う こ と ま で や っ て し ま っ た の で あ る。Policeman は police
officer に,chairman は chairperson あるいは,chair に,mailman は mail deliverer/carrier
に,woman doctor は doctor にという具合である。これらの変化は,もう完全に定着したと
みなしても良いと思われるが,何といっても一番影響があるのが,Miss/Mrs.→Ms への変化
であろう。この用法はオーストラリアにおいて,極短期間に広まり,今では普通の用法になっ
ていると言っても過言ではない。その証拠に,日本人留学男性たちがオーストラリアに滞在中
に,現地の女性に対して Miss/Mrs.を使ったことはほとんどないし,また逆に日本人留学女性
たちが,英語のネイティヴ・スピーカーから Miss/Mrs.を付けて呼ばれた経験は皆無に等しい
と語っている。
これらの変化のもつ一般的な意味を論ずる前に,オーストラリアにおける日本人留学生が指
摘した,言語における女性差別とされるもうひとつの側面を考察する。
(2)女性らしい話し方
冒頭でも述べたように,Lovely! Oh dear! Dear me! などの間投詞は女性特有のものである
ことはよく知られている。そのほかにも,女性がよく使うと考えられている形容詞,たとえば,
charming,divine,adorable 等もある。確かに男性がこれらの表現を使用することはまれだ
ろうし,その意味では「女性らしさ」を表現しているといえるだろう。しかし,最も興味深い
現象は,次の三つであろう。一つは,付加疑問文の多用,二番目は,上昇イントネーションの
多用,最後はいわゆるつなぎ語(fillers)の多用である(唐須,2
0
0
7)
。
最初の付加疑問文は,The Howard administration’s policy about immigration was wrong,
wasn’t it? これは You’re Mike, aren’t you? の類である。このような付加疑問文を用いること
は,自らの考えに自信がなく,常に相手の同意を求めている態度であるとされる。
二番目の上昇イントネーションの使用も同様である。たとえば,電話で This is Kathy
speaking?(!)と上昇イントネーションで話すのをよく耳にする。これは疑問文ではないの
に,なぜ疑問文のように語尾を上げるのだろうか。これも,一番目と同様断定を避けるための
方策が身に付いてしまっているために起こるのではないかといわれることがある。ここで,上
118
天 理 大 学 学 報
述した付加疑問文の語尾においても同じように,上昇イントネーションを多用する傾向が強い
ことも付記しておく。
三番目の,sort of,kind of,well,let’s see などの会話中の沈黙を埋めるために使われるつ
なぎ語(fillers)も同様に,自分の言っていることに自信がないので,断定を避けるためだと
いわれる。また,あいづちを打ったり相手の発話に反応する時に,オーストラリア英語独特の
uh hum,wow,when,lovely,oh dear,oh my gosh などといった表現を頻繁に発話に取り
入れていることも大きな特徴である。
こういう,断定を避けたり,相手に迎合する話し方は,いかにも女性特有であるとするのが
第二波フェミニスト言語学者の主張であるが,果たしてその主張は本当に正しいのだろうか。
これに関しては,最近の研究によって,興味深いことが分かってきた(唐須,2
0
0
7)
。一つは,
これは何も女性特有な表現ではなく,帰属社会における「弱者」に多い表現であって,たまた
ま,最近までは男性中心の社会であったため,女性が男性に比べて弱い立場にあったために,
女性が多く使っていたのに過ぎないのであって,男性でも弱い立場のものはそうでないものに
比べると,この種の表現が多いというわけである。つまり,性差による差異ではないという主
張である。
本研究における参加者たちについても同じことが言える。すなわち,日本人留学女性のみな
らず,日本人留学男性のおこなう会話においても,上述した三つの表現―付加疑問文,上昇イ
ントネーション,つなぎ語(fillers)―が多用されている現象が,インタヴューにおいても明
らかであった。これは,オーストラリアで留学生という立場上,特定の「場」における日本人
留学生は,性別にかかわらず,日常生活のなかで人種的および民族的にマイノリティ・グルー
プに属するケースが多いからであろう。
さらに,会話中にあいづちを打ったり相手の発話に反応する時に,オーストラリア英語特有
の uh hum,lovely,oh dear,oh my gosh などといった表現を頻繁に発話に取り入れている
ことも,参加者とのインタヴューの中で分かってきた。しかし,ここで気をつけなければなら
ないことは,つなぎ語の中には女性特有とされる表現があり(櫟本,2
0
0
7)
,それらに関して
は参加者である日本人留学男性も,女性がそれらを使うことはあっても,男性が使うことはま
ずないと認識している点である。
断定を避けて,相手に迎合する話し方は,いかにも女性特有であるという考えに反対するも
う一つの理由は,そもそも,男性と女性は言語の使用目的が異なるのであり,女性は仲間との
調和,相手に対する思いやりを重視する会話の場にいることが多く,そのために対立を避ける
上記のような表現を多用するのに対して,男性は従来,公的な場で自分の主張を述べなければ
ならない立場にあったため,断定するような話し方を強いられたと考えるからである。したが
って,上に述べた三つの特徴は,特に女性の自信のなさを現しているのではなく,女性の会話
の場による特徴であるとみなすわけである(タネン,2
0
0
1)
。
いずれにしても,女性らしい言葉を嫌う女性は,上のような特徴を避ける傾向にあることも
事実である。特に女性拡張論者たちは,そのために自己主張クラスに通ったり,積極的に公の
場で発言したりする努力を重ねている。この点に関して,日本人女性留学生は,英語のネイテ
ィヴ・スピーカーであるオーストラリア人女性を自分たちと比較し,自己主張が強く,断定的
で自信に満ちた話し方をすると感じていることがすでに先行研究で明らかになっており(櫟
本,2
0
0
7)
,本研究においても三人の日本人留学女性は,オーストラリア人女性のようにアサ
ーティヴになりたいと話し方を模倣する努力を重ねていた。つまり,自身の,もしくは他者に
言語の性差と社会言語学的知見
119
対するジェンダー・アイデンティティがすでに人種や民族によって色づけされていることがこ
こで実証されたのである。
(3)言語の変化と性差別
では,これらの言語の変化がもたらす真の意味とはいったい何であろうか。前述したように,
女性に対する言語的差別を撤廃しようとする考えは,被差別者の差別者に対する反抗であると
みなすことができる。そうなると,事は女性の問題だけではなくなり,被差別者に対する問題
に一般化される。オーストラリアは,アメリカやカナダなどの多文化主義国家と同様に,少な
くともあらゆる差別に敏感であり,性差別もその一つに過ぎない。性差別に関する用語も極力
使用されなくなりつつあるが,その結果は差別のない社会に向かっているのだろうか。
人間は「分類して止まない動物」であるといわれるが,何も分類自体が悪いわけではない。
しかし,分類,すなわち差異化は容易に差別化に向かうのも事実である。女と男を「差異化」
しない民族はない。それと同じように,女と男が全く差別されていない社会もないのが現実で
ある。このような現実にあって,言葉を変えることによって現実を変えることができるかとい
う質問に対して否定的になる人もいることは十分理解できる。それにもかかわらず,筆者は
「それでも社会は変わる」と主張したいが,それは次のような理由による。
人間が住んでいる現実社会は言語に支配されている側面が強くあるので,言語を変えること
によって,徐々にではあるが現実社会も変わらざるをえないからである。たとえば,方言を話
すことでやさしい気持ちになったり,元来の自分に戻れたりすると,使用言語が人間の気分を
大きく左右する要因になっているといえるだろう。もちろん,現実社会が言語に影響を与える
ことも多々ある。現実社会が変われば,言語も時間差はあっても変わらざるをえないからであ
る。言語と現実社会は相互作用しているといってよい。いずれにしても,差別用語に敏感にな
るということ自体が,差別という事実を認識させてくれるのだから,言語の変化は徐々にでは
あるが,確実に現実社会を変えると思われる。
ただし,ここで見逃してはならない,重要な点がある。仮に,女性が話す言葉と男性が話す
言葉が全く同一になったらどうだろう。それは確かに差別がなくなったことを意味するかもし
れないが,女性が男性と姿のうえで全く見分けがつかなくなったのと同じように,味気ない世
の中になり,それを望む人はいないであろう。重要なことは,本研究の調査結果からも明らか
なように,女性語の差別をなくそうとする人たちが,男性の話し方を模倣していることである。
それでは,男性が基準であることを自ら認めたことになる。そうではなくて,女性独自の話し
方でも差別のない,話し方を見つけていかなければならないだろう。つまり,この「男性の規
範」を唯一の規範とみなさないということが,全ての改革の基盤にならなければならないので
ある。
お
わ
り
に
これまでの様々な事例で分かったように,どんな言語をとってもそれは均質的な,一枚岩的
なものではなく,その中に数々の変種を持っているのが普通である。というより,そのような
変種があること自体が言語の本質であるとさえいえる。そのような,変種が誕生すると,その
時点ではそれはその地域だけの特徴とみなされるかもしれないが,やがてそれがその言語を話
す地域全体に広がれば,それは,その言語の変化とみなされるのである。つまり,変化が一挙
に全地域に起こることはありえないのである。
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天 理 大 学 学 報
しかし,筆者の観点から考えてもっとも重要なことは,言語が決してその使用者を離れて存
在するのではなく,言語の意味も使用者の視点を持って,初めて理解されるものであるという
ことである。さらには,使用者の言語を通じて社会を変革しようという試みと,一旦成立する
とそれ自体が規範になって,使用者を規定するという言語の作用が,相互作用を及ぼして,言
語を生きたものにするという認識であろう。言語の変異こそ,言語を生き生きと生かし続ける
ものであり,それと人間は主体的に関わることができるのである。
〔付記〕
本稿は,天理大学学術研究助成費による研究成果の一部である。よって,ここに深甚の謝意
を表したい。
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註
(1) ジェンダーと言語研究において,第三波フェミニズム言語学は,統一した名称ではない。こ
こでは,ジェンダーと言語をめぐる初期のフェミニストの前提を覆しながら,同時にフェミニ
ズムの中に位置づけられるため,この用語を用いた。よって,ポストフェミニズムはこの限り
ではない。
(2) 日本人留学生たちの社会的,経済的,文化的,教育的背景が最大限に異なる女性たちをリク
ルートする手法を採用することにより,オーストラリアにおける日本人留学生の多種多様な経
験をインタヴューの中で収集し,彼(女)らが実際に使用していた女性を表す言葉や女性に対
する言葉についての意識と実態について,浮き彫りにしようと努めた。
(3) 研究者自身のネットワークを通して被験者のリクルートおこなうという,社会学分野におけ
る質的研究方法の一つである。
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