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古代日本(旧石器~古墳時代)の墓文化 第1章 はじめに 第2章 研究の

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古代日本(旧石器~古墳時代)の墓文化 第1章 はじめに 第2章 研究の
古代日本(旧石器~古墳時代)の墓文化
所属:人文・語学・国際系ゼミ
2年3組3番 岩丸 起也
第1章
第1節
はじめに
テーマ設定の理由
群馬県は古墳時代の遺物が多いことで有名だ。太田市飯塚町出土の国宝「挂甲武人埴輪」や東
日本最大の前方後円墳「太田天神山古墳」が例に挙げられる。古墳時代以外にも、打製石器の発
見で日本に旧石器時代が存在していたことを明らかにした「岩宿遺跡」もある。
さて、文字が日本にまったく定着していない古代の様子を現代に伝えるもの、それは「遺物」
しかない。前述した埴輪、石器などはもちろん、古墳という「墓」も立派な人類の遺物である。
また、遺物とは当時の文化を形成するものでもある。墓とはどのように変化し、古代の人々はど
のような思いで墓をつくったのか。私はそのことに興味を持ったので、このテーマを調べること
にした。
第2節
研究の内容と方法
1 研究の内容
日本における旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代の墓文化を調べる。
2 研究の方法
関係する文献を使う。
第2章
研究の展開
第1節「墓」とは何か
墓は様々な形で存在し続けている。では墓とはどういったものなのだろうか。
『広辞苑 第六版』
では、
「
『墓』①死者の遺骸や遺骨を葬った所。つか。おくつき。墳墓。②墓碑。墓石。」とある。
仲間を悼み埋葬した所、それが墓だ。こういった墓をつくる人間以外の動物は今のところ存在し
ない。
さて、現代の日本では、亡くなったほぼ全ての人々が様々な形でお寺や共同墓地に埋葬される
だろう。だが遠い昔の日本では、たったの一人のために多大な労力をかけて巨大な墓を造り埋葬
した例もあれば、飢饉のためにまともな処置をされないで路肩に放置される例もあった。墓とは、
時代や地域、身分、経済力、そして宗教観にも影響される。墓とは、その当時の時代の背景を物
語っているものなのである。
第2節
墓の推移
1 旧石器時代
現在から 46 億年前に地球が誕生し、650 万年前の鮮新世にアフリカで人類の祖先である猿人が
誕生したとされている。その後の 260 万年前、氷河時代の更新世に入ると、原人・旧人・新人が
出現した。日本では、新人である山下町洞人・港川人・浜北人が化石で確認されている。この流
れが起きた時代は、遺跡から発掘された石器(打製石器)の様子から、旧石器時代と呼ばれてい
る。
(1)土壙墓
1
土壙墓とは、土を掘って穴をつくり、そこに遺体を直接埋葬する墓である。穴を掘るだけであ
るので非常に簡単につくることができる。土壙墓は旧石器時代だけでなく後の時代においても、
広く使われた墓の形式だ。
(2)北海道知内町湯の里四遺跡
湯の里四遺跡では、長軸 1.1m、短軸 0.9m、深さ 0.3m の楕円形の土壙墓が確認されている。
墓の底部に赤色顔料が塗られた痕跡があり、カンラン岩製の首飾りと平玉、コハク製の首飾りが
見つかっている。他には細石器、石核、剥片、原石が見つかっており、これら装飾品と石器類は
被葬者の副葬品と考えられている。
(3)大阪府藤井寺市はさみ山遺跡
はさみ山遺跡では、住居跡と幅 10m ほどの沢を隔てた場所に、長軸 2.7m、短軸 1.6m、深さ
0.3m の土壙墓が確認された。底部に二つの石核が設置されており、住居跡からも離れていたこと
から、居住域と墓域を空間的に隔てた事例とみることもできる。しかし、湯の里四遺跡のような
赤色顔料は見られず、石器のみの出土ということで必ずしも、墓であると断定できるわけではな
い。
(4)副葬品
細 石 器・・・狩猟用の槍の先などにつける細かい石のことで、石核・剥片・原石とは石を打
ち欠いてつくる打製石器をつくる際に必要なものである。
赤色顔料・・・当時はあかねの根からとった塗料で、人の顔に塗ったり絵を描いたりするとき
に使ったものだ。
首 飾 り・・・当時の日本でも様々な鉱石が採れていた。その鉱石を加工し、装飾品として作
り上げていた。だが、日本には存在しない鉱石も日本で確認されている。
(5)以上のことから考えられる旧石器時代の墓
まず、湯の里四遺跡とはさみ山遺跡の両方に共通しているものとして、土壙墓と石器が
挙げられる。土壙墓は、前述したとおりいたって簡単に造れる土葬の墓だ。これは現在と
は違って、火葬という考え方が当時存在していなかったことがうかがえる。次に石器で、
石器とは旧石器時代においては生活必需品そのものである。その石器を被葬者の副葬品と
して納めるということは、被葬者に対して特別な感情があったのだろう。
そして湯の里四遺跡だけではあるが、赤色顔料と首飾りが発見されたことから、当時か
ら宗教的思想があったことを匂わせる。これはただの憶測に過ぎないが、石器は現世での生活を
表し、装飾品は死後の世界について考えているのではないのだろうか。生物の死を自覚するとい
うことは、必然的にその後生命はどのようになるのかは考えることになる。旧石器時代の人々が、
一体どのような死後の世界を考えていたかは今となってはわからないが、確かに旧石器時代には
何かしらの宗教的思想が混じった墓が存在していたのである。
2 縄文時代
今から約 1 万年前の完新世のはじめには、気候は現在と似たようなものになり、氷河は溶けて
海面が上昇し、日本列島が形成された。こうしたなか、土器や磨製石斧が使用され始め、弓矢、
漁業も発達し、生活の質の向上が見られた。また、人々の定住がすすむと、貝殻やごみなどが集
落の外側の決まった場所に繰り返し捨てられたことで、貝塚が出来上がった。他にも、縄文時代
の習俗には呪術的なものが多く見られ、収穫が豊かになるよう祈ったり、災難から逃れようとし
た。自然物や自然現象に精霊や死霊が存在すると考え、それを恐れ、崇め、信仰したことをアニ
ミズムと呼んでいる。
この時代の土器から、ねじった紐や棒を回転させてつけた模様が確認されたことから、この時
2
代は縄文時代と名付けられた。また、前時代を旧石器時代と呼ぶのに対し、縄文時代・弥生時代
を新石器時代と呼ぶ。
(1)屈葬
縄文時代における墓も、基本的に旧石器時代と同じ土壙墓が使用された。しかし、同じ土壙墓
でも、被葬者の埋葬方法が現在と比べると異様なものとなっていた。それが屈葬である。屈葬と
は、縄文時代に多く見られた、手足の関節を折り曲げ埋葬するものである。この屈葬の目的・理
由ははっきりとはわかっていない。屈葬は、例えば、手足を縛って埋葬することにより死霊によ
る災いを防ぐ。手足を曲げることで胎児の姿勢を真似て再生を祈る。手足を曲げることで土壙墓
の面積を小さくする、労力を節約するため、などさまざまな諸説が存在している。
(2)共同墓地
縄文時代の墓で確認されているもののうち、墓1基だけが単独につくられているものは少なく、
墓が一つの群れをなしていることが多い。また、生活が定住のものとなると、居住域とは別に、
墓専用の場所ができるようになった(これは旧石器時代のはさみ山遺跡でも確認された)。そこで
は何基もの墓がいくつも発見されており、共同墓地をなしていた。
(3)新たな遺体の処理方法
縄文時代、遺体の処理に関しては土葬が主体であったが、火葬した、もしくは何らかの形で遺
体を火にあてたと思われる人骨の出土事例が意外に多い。確実な事例は確認されていないが、出
土した人骨の状態が極めてよいものも発見されており、もしかしたら水葬・風葬の文化が縄文時
代にもあったのではないかとされている。
また、被葬者に興味深いことをさせたものもあった。それは、被葬者の頭部に土器が被せられ
た甕被葬や、被葬者が石を胸で抱きながら埋葬される抱石葬である。甕被葬は関東地方で中期に、
抱石葬は近畿・北陸地方で前期頃の遺跡に多く確認されている。甕被葬と抱石葬の目的は、死者
が蘇らないようにするため、被葬者と親しかったものが一種の贈り物としたため、といった説も
ある。
(4)以上のことから考えられる縄文時代の墓
縄文時代は、旧石器時代に比べ、定住生活が安定するようになり、アニミズムなどの呪術的な
文化がはっきりと表れるようになった。そうしたことから、本格的な墓が形成されるようになり、
共同墓地や多種多様な埋葬方法が編み出された。墓を一種の神聖なものと考えるようになった縄
文時代の人々は、死者へ敬意を払うとともに、恐れももつようになったのだ。
また、墓地に死者を埋葬していく「祭儀」を集団で継続的にすることは、集団のアイデンティ
ティーを形成する一因になったとも考えられる。縄文時代における、社会的まとまりを持った集
団の出現は、後の時代に大きく関係することになる。
3 弥生時代
今から約 2400 年前、大陸から多くの技術が伝わり、水稲農業が発達して水田が本格的に設備
され始め、金属器が使用され始めた。この時代は、当時代の土器が発見された地名が由来で、弥
生時代と呼ばれている。
弥生時代では、前述したとおり水稲農業が発達し、ものを切るときには石包丁、田を耕すとき
には鍬・鋤・田下駄などが、食べ物をすりつぶすときは臼と竪杵などが使用された。土器類では、
貯蔵用の壺、煮炊き用の甕、食物を盛りつける高坏や鉢、壺や甕を乗せる器台など、目的に応じ
たものがつくられた。紡錘車による織物も弥生時代に出現した。
また、弥生時代も依然として磨製石器が使用されていたが、後期になると鉄製工具が普及した。
鉄器の他にも青銅器やガラスなど、新しい素材をつかった器物がつくられた。
3
こういった大陸の技術を取りいれた弥生時代には、多くの種類の墓がつくられた。
(1)共同墓地における一般的な墓
ア 伸展葬の土壙墓
土壙墓は弥生時代でも全期を通して一般的に使用された墓である。しかし、被葬者の体勢が縄
文時代の屈葬とは異なり、伸展葬が広く用いられるようになった(縄文時代晩期からも使用はさ
れ始めていた)
。縄文時代においては、死者への畏怖・労力節約・死者の再生などの「合理的な」
理由であったと考えられる屈葬に対し、なぜ弥生時代では伸展葬になったのかは、判明していな
い。後述するが、弥生時代の墓の一種である甕棺墓は屈葬であり、謎は深まるばかりである。
イ 木棺墓
木棺墓とは、長方形の土壙の中に木製の棺で埋葬する墓である。縄文時代晩期ごろから使用さ
れ始め、弥生時代に一般化された。木棺墓は古墳時代後期まで続き、黒漆で装飾されたものもあ
った。
ウ 箱式石棺墓(図1)
箱式石棺墓とは、板状もしくは塊状の石で四方を囲み、遺体を入れる
箱の形の空間をつくり、上をまた石で覆ったものである。西日本で多く
確認されている。縄文時代の遺跡からも使用が認められる。後述する甕
棺墓などの他の埋葬施設と群集して共同墓地を構成した。古墳時代では、
古墳の埋葬施設(遺体を安置する場所)として使用された。
図1:箱式石棺墓
(2)九州北部特有の墓
ア 支石墓(図2)
支石墓とは、弥生時代前期・中期にみられた、大型の石を数個の小さい
石で支え、その下に土壙や箱式石棺、甕棺などがあるものだ。初期の支石
墓は 10 基前後から数十基が群集していたが、後には甕棺墓の特定の墓に
採用されることが多くなった。副葬品は数少ないが、福岡県須玖支石墓の
ように、銅鏡・銅剣・銅矛・玉類を出土するものもあり、当時の有力者の
墓と考えられている。
イ 甕棺墓(図3)
図2:支石墓
甕棺墓とは、弥生時代中期・後期に多く、土器である甕の大型のものに
遺体を入れ、埋葬する墓である。甕の形もあって、甕棺墓では被葬者の屈
葬が用いられている。甕棺墓は、縄文時代後期では幼児の骨を納められる
のに使われていたが、弥生時代では広く使われるようになり、多くは密集
し共同墓地を構成していた。中には副葬品で青銅器や玉類を伴ったものも
あり、支石墓と並んで、副葬品をふくんだ甕棺墓は有力者の墓とみられて
いる。
図3:甕棺墓
(3)墳丘をもつ墓
ア 方形周溝墓
方形周溝墓とは、弥生時代前期から後期にかけて西日本から東日本に広がり、幅 1~2m、深さ
約 1m の溝を埋葬部分の周囲に、方形(四角)にめぐらした墓で、低い墳丘(ふくらみ)がある。
大きさは1辺が 20m から 5m ぐらいのものまであるが、普通は 10m 前後である。中央部に土壙
を掘り、埋葬した。周囲の溝からは土器がみられ、埋葬施設からは剣・玉類がしばしば発見され
る。方形周溝墓は単独・もしくは群集して確認されており、後の古墳との関連性も考えられる。
尚、溝を円形にした円形周溝墓も存在している。
4
イ 墳丘墓
墳丘墓とは、弥生時代後期に西日本でつくられた墳丘をもつ墓をいう。古墳も墳丘墓の一種で
あるが、古墳時代以前のもの区別して墳丘墓という。墳丘墓にはさまざまな種類があり、地域・
時代ごとにその特色が異なる。埋葬施設は土壙・木棺・甕棺などが用いられる。副葬品は少ない
が単独の墓で、首長の出現を表しており、後の古墳につながったと考えられている。山陰地方を
中心に分布した、斜面に石を並べて四隅を突出させた形をした四隅突出型墳丘墓も必見。
(4)再葬墓
再葬墓とは、遺体が白骨化した後、その骨を壺に入れて再び埋葬する墓である。弥生時代の中
期の関東地方や東北地方南部で見られる。縄文晩期にはじまった墓制
である。遺体の白骨化は、土葬や風葬を行ったものと考えられ、遺骨
を納めた複数の壺が一つの土壙にまとめて埋葬される。副葬品はほと
んどない。
(5)吉野ヶ里遺跡(図4)
弥生時代最大規模の遺跡とされる吉野ヶ里遺跡では、墳丘墓が外濠
の中に 2 カ所、墓地が外濠の外に 2 カ所確認された。このことから
墳丘墓に埋葬されている人物は、一般の墓地に埋葬されている人物よ
りも身分が高かったことがうかがえる。また、戦によって首から上が
ないとされている「頭蓋骨のない人骨」はこの遺跡から甕棺墓で発掘
された。
図4:吉野ヶ里遺跡
(6)以上のことから考えられる弥生時代の墓
大陸からの技術・文化の流入があった弥生時代、支石墓・甕棺墓を挙げた九州北部は、大陸に
近いこともあってその影響を強く受け、目を疑うような墓の形態ができたのだろう。また、定住
生活や水稲農業、金属器の使用が広まったことで社会的まとまりが発達し、共同墓地の意識が大
きくなった。そして、身分の格差が出来はじめ、有力者・首長の誕生もはっきりとわかるように
なってきた。この弥生時代の墓が、次の古墳時代へとつながるのだ。
4 古墳時代
3 世紀後半の西日本各地に、前方後円墳が出現した。古墳は畿内地方に現れたヤマト政権の連
合に参加した首長や有力者の墳墓であり、古墳が多くつくられた 3 世紀後半から 7 世紀の間を古
墳時代と呼ぶ。古墳時代は、前期・出現期(3 世紀後半~4 世紀後半)、中期(4 世紀後半~5 世
紀)
、後期(6~7 世紀)の 3 つの時期に区分できる。
巨大な政権が誕生し、大王と呼ばれる超有力者が君臨した時代の古墳とは、いったいどのよう
なものだったのだろうか。
(1)古墳時代前期
主な出来事としては、247 年に邪馬台国卑弥呼の没落、ヤマト政権の誕生。
ア 前方後円墳の出現
弥生時代の墳丘墓が発達し、古墳時代の古墳になったと考えられている。その古墳は、前部が
方(四角)
、後部が円の―まるで鍵穴をひっくり返したような―前方後円墳で出現した。古墳の斜
面は葺石で覆われており、不思議な雰囲気を醸し出す。まだ出現期であり、目を見張るほど大き
な古墳はないが、古墳時代前期で最も興味深い古墳時代前期の古墳というと「箸墓古墳(奈良)」
が挙げられる。箸墓古墳は、墳長 276m、後円部の直径 156m、前方部幅 126m の大型古墳で、被
葬者は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とする説や、邪馬台国の卑弥呼と
する説がある。
5
イ 前期古墳の内部構造(竪穴式石室・粘土槨)
前方後円墳の内部構造には二通りあり、それが竪穴式石室と粘土槨である。
まず、竪穴式石室(図5)は古墳時代前期・中期にみ
られ、墳丘の頂部に壙を掘り、四壁に石を積み、内部に
遺体の入った木棺・石棺を置いて天井石で蓋をする、石
室の一種である。一度蓋をして土を被せたら外からは干
渉ができない。竪穴式石室は、長さ 6~8m、幅 1m、高
さ 1m のものから、長さ 2~3m、幅・高さ 0.6~0.9m く
らいである。
次に、粘土槨は古墳時代前期・中期にみられ、墳丘の
頂部に石室をつくらず、木棺・石棺の周りを粘土で覆っ
図5:竪穴式石室
たもので、竪穴式石室の代わりに使用されていたとされる。
ウ 前期古墳の副葬品
古墳時代前期の古墳の副葬品には呪術的なものが多く、被葬者は司祭者的性格であった。以下
のようなものが挙げられる。
三角縁神獣鏡・・・縁の断面が三角形で、直径が 20cm を超える大型品が多い。背面には神仙像
や霊獣像(龍・雷など)が描かれている。銅鏡。
玉
類・・・C 字形の勾玉や、首飾りや腕飾りにした管玉など。
鉄 製 道 具・・・鉄製の農具や武器。
エ 円筒埴輪
円筒埴輪とは、弥生時代の土製の台である器台が変化・発展したもの。土管の形をしていて、
古墳の墳丘を取り巻き、墓域を明示するために用いられた。
(2)古墳時代中期
主な出来事としては、5 世紀初めから 6 世紀までの間、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が中
国の南朝に朝貢。
ア 前方後円墳の最盛期
中期は、近畿地方で最大規模の前方後円墳が数多く出現した。それらの古墳の周囲には濠が巡
らされたり、大きな古墳に近接する小さな古墳(陪塚)がつくられるようになった。陪塚は、近
親者や従者を埋葬したと考えられているが、副葬品のみを納めたものもある。古墳時代を通して
日本一の規模を誇る「大仙陵古墳(大阪)」も、中期につくられた前方後円墳だ。墳長が約 486m
で、世界の巨大墳墓でも第二位に位置するほどである。大仙陵古墳の被葬者は仁徳天皇と伝えら
れ、倭の五王のうちの「讃」であるとされている。
イ 中期古墳の内部構造
前期と変わらず竪穴式石室が中心。4 世紀末頃、朝鮮半島から九州に横穴式石室(後述)が伝
わり、5 世紀に近畿地方に伝わった。
ウ 中期古墳の副葬品
古墳時代中期の副葬品は、前期とはことなり軍事的なものが多い。このことから被葬者は武人
的性格であったとされている。以下はその副葬品。
鉄製武器・武具・・・刀剣・弓矢・甲冑など。
馬
装
具・・・朝鮮半島からよく似た馬冑(戦闘時に馬の頭部を保護するもの)。
飾
品・・・冠・金銅製装身具など。
エ 形象埴輪
6
形象埴輪とは、当時の生活を表した埴輪のことで、家形・舟形・器財・人物・動物埴輪がある。
形象埴輪は葬式の儀礼、あるいは祭祀で古墳に配置されたと思われる。
(3)古墳時代後期
主な出来事としては、527 年に筑紫国造磐井の乱、538(552)年に仏教伝来、592 年に推古天皇
即位(聖徳太子の時代)
。
ア 小型古墳(横穴墓・群集墳)の増加
近畿地方では前方後円墳が続けてつくられていたが、各地では規模が小さく地域的特色もみら
れる小型古墳が増加した。横穴墓と群集墳がそれにあたる。
横穴墓とは、丘陵斜面や崖面を水平方向に掘って羨道と玄室をつくったもの。横穴式石室(後
述)と同様に、多葬を基本とした家族墓の性質がある。群集墳(後述)と同様、群をなす。埼玉
県の「吉見百穴」は 200 余の横穴墓からなる。副葬品は武器・装身具をもつものがほとんど。絵
画・彫刻の装飾をされたものもある。
群集墳とは、小型の古墳が密集して存在しているもので、数百基を超えるものもある。群集墳
が増加した背景には、家父・家長の支配権が絶対という家父長制家族が拡大したことがある。そ
れゆえ、小型古墳が無秩序に配置されているわけではなく、いくつかの群にわけられてあった。
副葬品は土器・耳飾り・刀・鉄鏃(矢じり)
・玉類など。
イ 古墳時代の終末
古墳時代も終末期になると、大規模な前方後円墳は多くはつくられなくなり、豪族は大型の方
墳や円墳、大王(ヤマト政権の権力者)家は八角墳をつくるようになった。前方後円墳のような
大規模な古墳をつくるのには多大な労力・費用がかかり、それを避けるために小規模な古墳をつ
くるようになったのだ。
ウ 後期古墳の内部構造(横穴式石室)
横穴式石室(図6)は、玄室(棺を納める墓室)と、
外部と玄室とをつなげる羨道をもつ構造のことで、追葬
(棺を外から追加埋葬すること)が可能である。
また、九州の横穴式石室や横穴の壁面・入口・棺には、
絵具や線刻で絵画や文様の装飾を施したものがあった。
それらを装飾古墳という。装飾の目的については、
荘厳さの強調・魔よけ・被葬者の生前の業績をたた
図6:横穴式石室
えるため、などさまざまな諸説がある。奈良県の「高松塚古墳壁画」が有名。
エ 後期古墳の副葬品
後期の副葬品には、中期と同様の軍事的なものもあったが、日常生活の用具も多く発見された。
以下はその副葬品。
武具・馬具・・・中期から引き継がれた。
土 師 器・・・弥生時代の土器の系統。赤褐色で軟質の土器。
須 恵 器・・・朝鮮半島から伝わった技術でつくった、灰色で硬質の土器。
オ 形象埴輪
中期と変わらず形象埴輪が主に用いられた。近畿地方ではしだいに減少した。
(4)以上のことからわかる古墳時代の墓
ヤマト政権の誕生で日本の統一がはじまり、大陸や朝鮮半島の渡来人の受け入れによって、新
しい技術・文化が盛んに取り入れらた古墳時代。前方後円墳の出現ではじまり、終末期は多種多
様な小型古墳が中心であった。その経過の中で、当時の有力者の性格は司祭者から武人に変化し
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た。同時に、一般の人々にも古墳の文化が広がり、群集墳や横穴墓が多くつくられるようになっ
た。
このように、古墳は当時の様子を細かく物語るものであった。しかしこの後の時代には、古墳
のような大規模な墓はつくられなくなった。手間と費用の節約のためだ。だが古墳は日本という
国の誕生を象徴するものであり、現在もその姿を多く残している。
第3節
まとめ
旧石器時代:思想については不明であるが、墓というものは確かに存在。
縄 文 時 代:屈葬が普及。死者に対する畏怖または敬意の存在が確認。集団意識の芽生え。
弥 生 時 代:伸展葬の普及。大陸からの技術・文化の流入の開始され、特に九州・近畿地方で多
種多様な墓が誕生。呪術的思想の広まり。共同墓地が盛んになるとともに身分の格
差の誕生。
古 墳 時 代:ヤマト政権の出現とともに、その権威を表す古墳が誕生。渡来人の積極的受け入れ
で文化の発達。権力者は司祭者的性格から武人的性格に変化。ヤマト政権の勢力圏
の拡大で、日本各地に群集墳や横穴墓が誕生。
第3章
おわりに
人類の歴史と切っても切れない縁である「墓」は、当時の人々の様子を伝える貴重なものであ
る。今から約 260 万年前の旧石器時代から始まる日本の墓は、先人たちの何らかの考え・思いを
もってつくられ大切にされてきた。しかし、現在の墓に対する扱いは、果たして古代の墓のもの
と比べてどうだろうか。墓の継承者の不在、維持費の不足などで撤去がやむを得ない墓が問題と
なっている。いかなる形でも、墓は大昔から受け継がれてきた大切な文化である。私たちは先祖
を敬い、墓という文化を守っていかなければならない。
<主な参考文献>
・『事典 墓の考古学』(吉川弘文館) 編者 土生田 純之
・『日本考古学事典<小型版>』(三省堂) 編集代表 田中 琢・佐原 真
・『日本史 B』(実教出版) 著作者 脇田 修・大山 喬平 ほか14名
・『新詳日本史』(浜島書店) 編著者 浜島書店編集部
・『広辞苑 第六版』
(岩波書店) 著者 新村 出
・『ブリタニカ 国際大百科事典』(ロゴヴィスタ株式会社)
・『山川 日本史小辞典』(山川出版) 著者日本史広辞典編集委員会
・『日本史事典』(旺文社) 著者 旺文社
※本文中の(図)は、上記の『新詳日本史』
(浜島書店)より
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