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-1- 台湾で最も愛される日本人−八田與一 八田與一といっても日本では
台湾で最も愛される日本人−八田與一 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建 設の恩人として人々の心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれ の日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登 場し、学校教育の場でも語られ始めている。 ●アジア最大のダム・用水路建設 八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾 総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために 尽くした。 初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前が後世 に残るのは、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路 の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。 1920年に着工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械 がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地である。 烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。 渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。 セミ・ハイドロリックフィルという、 石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。 嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、 その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、 平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなか った。 このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この 嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路の おかげで台湾最大の穀倉地に変わった。 彼は、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと灌漑用水路の建設(1920 年着工 10 年を要 した大規模土木事業)にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われた。 「烏山頭は大きな工事であり困難も伴い時間もかかる。働く人たちが安心していい仕事 ができるために家族が一緒じゃないといけない。」と八田與一は主張した。 -1- そして工事が始まり、家族を含め 2000 人にもなるひとつの街ができた。工事関係の施 設はもちろんのこと、家族も住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広 場)、さらに学校もできたのだ。中華民国新聞局が発行する「中華週報」の最新号による と、烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水は、嘉南平原に張り巡らされた水路に 流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に 「神の恵みだ、天の与え賜うた水だ」と歓喜の声を上げたそうだ。 ●夫と一緒に妻もまた台湾の土に帰った 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とと もに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピン に向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。(その 遺骸は、操業中だった山口県の漁船によって、偶然網にかかり引き上げられた 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭 に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口 の身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。 嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とと もにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行 われている。 明治の日本人のスケールの大きさについてはもはや語りつくされているのかもしれない が、司馬遼太郎が書く明治の土木技師たちの姿には圧倒される。 八田與一の東大の恩師の広井勇教授がいった言葉である。 「技術者は、技術を通じての文明の基礎づくりだけを考えよ」 。 札幌農学校で同窓生だった内村鑑三は66歳で亡くなった広井に対して「明治大正の日 本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだそうである。八田與一もまたそんな明 治人だったはずである。 與一には有名な癖がある。 考え事をするときに地面に腰を下ろし、左足を投げ出して、右足は立てて、右ひじを右 のひざにおき、右耳の上の髪の毛を指でいじるのだ。 この髪の毛のいじり方で與一の機 嫌が分かったという。 頭の前の部分の髪を右手の人差し指でぐるぐるひねり回す癖があり、 大きくゆっくり回している時は機嫌のよいときで、小さく早くひねり回している時は機嫌 悪い時で、髪の毛を引き抜く時は最悪、ということだったそうだ。 したがって、與一に 相談事があるときには、この髪の毛のいじり方を見てから行ったというエピソードが残っ ている。 台湾の李登輝前総統は、「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造 り上げた八田技師が一番に挙げられるでしょう」と語っている。 嘉南農田水利会の徐金錫会長は金沢市で、八田與一の遺した嘉南大用水路について 「約70年の歳月を経たいまも、平野に飲料水や農・工業用水を供給し続けている」と感 謝の念を表明した。 -2- 台湾の近代化に尽くした日本人 台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督 第7代台湾総督 明石元二郎 大正7(1918)年に台湾に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争において機密工作 によりロシア革命を支援し、日本の勝利に大きく貢献した蔭の立役者であった。 明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。 台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十 四、五歳に多いという説明を受けると 「それはまことに、相済まぬことである」と言った。 二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石 は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、 さらなる善政への決意を新たにした。 明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。 しかしその間に日月潭水力発電事業の推 進、台湾新教育令の公布施行(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学 への道が開かれた。ちなみに前総統の李登輝氏は京都帝国大学出身である)、司法制度(今 までの二級審から三級審へ)の改革、嘉南銀行の設立、台北高等商業学校の設立、道路や 鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。 台湾統治に並々 ならぬ力を注いだ明石総督は、将来の総理大臣という呼び声も高かった。 しかし、大正8年、病にあった明石総督は公のため本土へ渡航、その洋上で再発し、郷 の福岡で没した。 「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」との遺言によって、 遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され 北の日本人墓地に埋葬されたのである。 しかし、大東亜戦争後、日本人墓地には中共に追われた国民党軍の敗残兵や難民が住み み、墓石を住居の土台にしたり、ベンチ代 わりに使うなど、墓地はスラム街と化し目を う惨状となった。台湾を支配した国民党政権は、この惨状を放置したが、これを救ったの が、1994 年に国民党以外から初めて台北市に当選した陳水扁氏(現・総統)だった。 陳市長は立退き料を払って居住者を退去させ、同地を公園とする事業を進めた。 これによっ て明石総督の墓は80年ぶりに掘り起こされ、その後、明石総督の孫にあ たる明石元紹(もとつぐ)氏の「祖父を台湾に眠らせてやりたい」との意向を知った多く の台湾の人々の熱 意によって、平成11年(1999)、台湾海峡を臨む三芝郷(さんしごう) 店子村の「福音山キリスト教墓園」に新たに明石総督の墓が建てられたのである。 -3- 明石・第7代台湾総督の新しい墓所が完成 台北市の公園整備に伴って3年前に墓が掘り起こされ、移転先を探していた日本統治時 代の明石元二郎・第7代台湾総督の新しい墓 所が台湾北部の台北県三芝郷(さんしきょ う)に完成し、26日、日本から訪れた遺族らも参加して式典が行われた。 明石元総督は福岡県出身の軍人で、レーニンの革命運動を支援して帝政ロシアを揺さぶ り、日露戦争の戦局を有利に導いたことで知られる。 1918年に台湾総督に就任し、水力発電所の建設や教育改革など台湾の近代化に尽く したが翌年、55歳で病死。遺志により、台北市中心部の日本人墓地に埋葬された。 この墓地は97年7月、公園整備のため取り壊され、明石元総督の遺体はだびに付された うえ、台北市が遺骨を管理していた。 明石元総督の孫の明石元紹(も とつぐ)さん(66)=東京都世田谷区=が、戦前に 台湾総督府に勤務した経験もある元銀行会長、楊基銓(ようきせん)さん(82)ら台湾 側の支援者の協力を得て、三芝郷の福音山キリスト教墓園に約20平方メートルの墓を購 入し、こ のほど遺骨が安置された。26日には元紹さんら遺族のほか日台双方の関係者 100人以上が集まって、 台北市内の教会と墓地で完成式典を行い、改めて明石元総督 の冥福を祈った。 元紹さんは「多くの台湾の人たちの協力で、永眠の地を確保することができた。台湾海 峡を望む見晴らしのいい場所で、祖父も心から喜んでいることでしょう」と話していた。 -4- 台湾の近代化に尽くした日本人 殉職した6人の日本人教師 六氏先生 六氏先生とは、明治28年(1895)、日本の台湾統治後にはじめて開校した学校である「芝 山巌学堂(しざんがんがくどう)」に赴任し、暴徒に襲われて殉職した 6 人の日本人教師 のことをいう。 楫取(かとり)道明 関口長太郎 中島長吉 桂 金太郎 井原順之助 平井数馬 日本が台湾で学校教育をはじめたのは明治28年7月。 台湾総督府開設から1か月も 経たないという早さだった。 当時、文部省 学務部長心得であった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育 を最優先すべきと具申し、7人の志ある人材を連れて台湾にわたった。 彼らは、台北市内、士林(しりん)の芝山巌(現在は芝山岩・芝山公園) に学校を開設 し教育をはじめたが、悲劇は、翌年1月1日、伊沢の一時 帰国中(山田耕造を伴い台湾で の教育従事者募集のため)に起こった。 新年祝賀のため総督府に向かった6人の教師に、日本統治に反対する勢力が襲撃したの である。 当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続けており、 台北奪回を目 指す勢力が不穏な動きを続けていたことは以前から察知されていた。 それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで 「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。 もし我々が国難に殉ずること があれば、台湾子弟に日本国民としての 精神を具体的に宣示できる」と、 死をも覚悟して芝山巌での授業を続けていたのだ った。 叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残っていた6人の教員に このことを告げて、避難することを勧めた。 しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たち意に介 さなかった。6人は約 100 名からなる勢力の襲撃を受けた。6人の教師はひるむことな く教育の重要さを必死に説いた。しかし、それに納得しない暴徒は教師達に襲いかかり、 全員を惨殺してしまったのである。 -5- このような彼らの教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は芝山 巌精神と称され人々の間に語り継がれるようになった。 昭和5年には芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々 が、昭和8年までに330人祀られた。 そのうち、台湾人教育者は24人を数えた。 また、「六氏先生の歌」がつくられ、時の首相伊藤博文揮毫による 「学務官僚遭難之碑」も建てられるなど、六氏先生の精神は台湾の学校教育の原点となっ ていったのである。 ところが、大東亜戦争後、台湾に乗り込んできた国民党は、神社、石 碑、日本人の墓 を次々と破壊、「学務官僚遭難之碑」も倒され、そのまま野ざらしにされてしまった。 しかし、李登輝政権の誕生、陳水扁台北市長の誕生と、一連の台湾民 主化の動きが 進む中で、六氏先生の精神を復権する動きも高まり、芝山 巌学堂が開かれて満百年にあ たる平成7年(1995)には、芝山巌学堂の 後身である士林国民小学校で、日本からも多 くの卒業生、遺族、教育関 係者を迎え、開校百年記念祝賀式典が盛大に開かれた。 また、同年1月1日には、同小学校卒業生有志によって、「六氏先生の墓」が新たに建 て直され、その後さらに「学務官僚遭難之碑」も再び建 て直された。 新しい墓は日本式の簡素な墓である。墓標には六氏先生之墓とあり、氏名も業績を示す 墓誌もない。 墓標の右側に「一八九六年卒」と没年を、左側には建立者の名前として 「一九九五年一月一日壱百周年紀念 士林 国小校友会重修」と記されている。 芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古 跡・芝山巌」を次のよう に結んでいる。 「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台 湾に根づくことが出来ま すよう、地下の六氏先生にお頼み申し 上げます。合掌。 いまから百余年前の明治 29 年元旦、台北北郊の芝山巌で日本人教師 6 人と小使 1 人が 土匪に惨殺された「芝山巌事件」を何人の日本人がご存じだろうか。 日清講和条約で台湾の割譲を受けた日本は事件前年の 6 月に総督府を、7 月には芝山巌 恵済宮に国語塾「芝山巌学堂」を開校した。 この事件を機に芝山巌は 教育聖地 下では 六氏先生 と讃えられたが、戦後台湾を支配した国民党政権 を悼む石碑すら長く野ざらしにされてきた。 それが李登輝前総統による台湾の自由化と民主化で日本統治時代を再評価、件の石碑も台 湾人の手によって再建された。 本書は歴史的に風化しつつある芝山巌事件の真相と日台教育の絆を克明な調査で明らかに した貴重な 1 冊といえる。 発行=和鳴会(03-3674-0681) 価格= 2500 円(本体) -6-