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印刷用pdf - 特定非営利活動法人 アジア近代化研究所
Ⅲ アジアと私(1):アジア研究と初めてのアジア 長谷川 啓之 アジア近代化研究所代表 1)アジア研究のきっかけ 私がアジアに関心を持ち、生涯の研究対象に選んでから、早いものでもうすぐ 50 年が経 過する。初めてアジアを訪問したときのことがおぼろげながら、昨日のことのように思い 出される。人から、 「あなたが何十年も前にアジアに関心を持った理由とかきっかけは何で すか」とよく聞かれる。私にとっては、こうした質問なり疑問をもたれるたびに、なぜだ ろうかと考えてしまう。質問する側からすると、やはり明治維新以来、「脱亜入欧」的発想 が身についてしまった日本人としては、確かに早期にアジアにのめりこんだことが不思議 に思えて当然であろう。 そこで、私自身にも決定的な理由ははっきりしないが、こういうことかなと言える理由 を考えてみたいと思う。私がアジアに関心を持ち始めた、直接的なきっかけの1つは何と 言っても 1960 年代に大学院の修士課程と博士課程で経済成長論を学んだことではないかと 思う。当時、日本の経済学界は数理経済学とか新古典派経済成長論が全盛だった。いずれ も数学を駆使してモデルを構築するというもので、数学ができなければ、経済学を学ぶ資 格は無い、かのような雰囲気だった。この伝統がいまなの多くの人に経済学=数学の応用、 であるかの印象を与えてしまったのではないかと思う。これは大きな間違いです。数学よ り重要なのはむしろ第 1 にアイデアや概念の創出とか事実を知ることだと考えるからだ。 現場を知らず、アイデアや概念が無いのに既成の理論に数学を当てはめるだけでは、独創 的な理論も見方も生まれないからだ。アジアを何度か回って、大事なことは、アジアの人 に会って話し、政治、経済、社会を自分の目で見ることだった。アジアの現場から文献に は無い、多くのことを学ぶことができた。日本について考えるきっかけも得た。 当時は、アメリカのロバート・ソローやイギリスの J.E.ミードを代表とする欧米の経済 学者や、宇沢弘文、稲田献一などの日本の経済学者が中心となって、アメリカのいくつか の専門の経済誌に毎回のように新たな新古典派成長モデルが登場していた。宇沢弘文氏や 稲田献一氏はいずれも従来は数学が専門の学者で、特に宇沢氏は東大で数学を学んだ後、 アメリカに渡った人だから、経済学は数学の応用問題のようなものだったろう。数理経済 学は日本人に任せておけ、と当時アメリカでは公然といわれていたとの噂を聞いたことが ある。そのくらい、日本の理論経済学=数理経済学、といった雰囲気だった。 その宇沢氏がその後、新古典派批判をするのだから、面白い。大学院では、私の指導教 授もアメリカの学者が書いた、若干数学を使った経済成長論の本を使って講義をしていた し、他の理論経済学者も新古典派の成長論を使って講義をしていた。 当時、多くの大学院生や若手の経済学者がそうした動きに関心を持ち、学会でも活発に 議論され、日本の学会誌や専門雑誌をにぎわせていた。それもそのはずで、当時の日本は 高度成長期の真最中であった。下村治、金森久雄といった官庁エコノミストが日本経済の 高度成長を唱え、強気の議論を展開していた。ケインズ経済学派のハロッド=ドーマー・ モデルと呼ばれる経済成長論を単に適用したにすぎない下村理論がノーベル賞をもらうの ではないか、などと噂される時代だった。今から考えると、ノーベル賞の意味を専門家で さえ、ほとんど理解していなかったのではないかと思える。 こうした雰囲気の中で大学院時代を送ったため、私も最初はすっかり新古典派やケイン ズ派の成長論の魅力に取り付かれてしまい、新古典派成長論を中心とした修士論文を書い た。しかし、博士課程に進む段階で、新古典派の成長論を勉強すればするほど、私が研究 生活を続けるとすれば、生涯をかけて研究する意味は何なのかに重大な疑問を感じるよう になった。第 1 に、宇沢氏や稲田氏のように数学が強いわけではなく、また単なる理論を 理解し、覚えるだけでは物足りず、次第に欧米理論を受容するという、単なる受身のやり かたへの関心も急速に薄れていき、代わって現実から出発したいとの気持ちが芽生えてき た。つまり、新古典派の理論はアジアにも当てはまるのだろうか、もし当てはまるのであ ればなぜアジアは発展しないのであろうか、さらには数学で表現できない現実があるので はないか、自分には理論はわかっていても現実については何も知らないのではないか、経 済を含む社会科学の問題を数学や統計を当てはめるだけで簡単に解けるものだろうか、な どなど、次々と疑問が湧いてきた。ところが、こうした疑問にきちんと答えてくれる人は 当時誰もいなかったため、一人で悶々と悩む日々が続いた。 2)アジア研究への疑問と関心 そこで、まず自分が置かれた現実である日本とかアジアについて知る必要があるのでは ないか、と漠然と考え始めた。そのきっかけにはこれまた漠然としているが、沢山の要因 が絡んでいたように思う。たとえば、日本がなぜアジアを侵略したのだろうか、アジアの 人たちは日本をどう思っているのだろうか、また当時はベトナム戦争が始まったばかりで、 ベトナム戦争反対の運動も盛り上がっていたため、ゼミでも何度か話題になり、そのこと もアジアを考えるきっかけになったように思う。 もっといえば、日本の経済成長は果たして例外なのだろうか、アジアに経済発展は無理 なのだろうか、もしそうならその理由はなんだろうか、などという気持ちもあった。この ようにある意味で、アジアが比較的身近に考えられる状況があった。しかし、大きく分け て、私には 2 つの重要な疑問があった。1つはアジアを研究することで、学問は成り立つ であろうか、との疑問だった。この疑問は長く私の心を支配した。これには 2 つのことが 関わっていると思う。1つは欧米の理論を勉強する意味は、日本では発達しなかった経済 理論が欧米では欧米の現実に基づいてほぼ完璧なまでに発展し、非欧米のわれわれは明治 維新以来、それを学ぶことこそ研究であるという伝統が存在すること。もう1つは、アジ アの現実を知ることは欧米の理論を学ぶこととはまったく異なる意味があることだ。 「アジ アやアフリカの研究など研究ではない」と先輩に言われた、という話をある友人から聞い たことがある。恐るべき独善だと思う。アジアやアフリカの研究は、欧米の理論と同様に 現実から理論を作る上で決定的に重要であり、逆に欧米の理論だけを学ぶのはその理論を 使って現実を見るだけで新たな理論は生まれない。その意味で、両者はまったく異なる問 題意識に関わっていると考えた。このことに気づいて以来、私はアジア研究に没頭するこ とになった。ロンドン大学である講座に出席したこともそのきっかけの1つだった。そこ ではイギリスの博士課程の学生、学者や国連職員など、発展途上国、特にアジアやアフリ カの研究者たちが中心になって、毎週開かれる研究報告会や講演会で、時にロンドンを訪 れる発展途上国の政治家、役人、それに研究者を呼んで徹底的な討論をするものだった。 アジアの研究の中で生じたもう1つの疑問は「日本だけがアジアで成長したとすれば、 それはなぜか」ということだった。これには諸説あるが、いずれも私には納得できなかっ た。あるとき、友人に「君はイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を読んだか」と 聞かれた。当時ベストセラーになっていた、今は無き山本七平氏が書いたと本だが、まだ 読んでいなかった。面白いよ、ということだったので、早速買って読み、大変関心を持っ た。それ以後、沢山の日本人論を読んだが、中でも中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』 など、内外の研究者が書いた数冊が私の関心を刺激してくれた。これらの本を読んでいる 間は、私のアジア研究や経済学研究とは結びつかなかった。だが、その後ロンドン大学 (LSE)に留学している間に、徐々に両者は結びついていき、欧米社会と非欧米社会での 大きな歴史的・文化的相違が経済に影響しないはずはないと考えるようになった。 アジアの問題に戻ると、当時、大学院のゼミは経済政策論や理論経済学を対象にしてお り、そこには 8 名の修士課程のゼミ生の中に、台湾からの留学生が 2 名と香港からの留学 生 1 名がいた。彼らからある程度台湾や香港について知ることはできた。彼らに中には、 中国語を教えようか、といってくれた人もいた。 しかし、アジアをもっと広く知りたいとなると、簡単にはわからない。当時アジアにつ いての文献を探しても、適当なものは見つからなかった。欧米、特にアメリカには発展途 上国、特に南米諸国の開発を論じたさまざまな文献があることは後ほど知ったが、アメリ カにもアジアに特化した文献はほとんど存在しないようだった。日本では、わずかにオラ ンダのブーケが書いた『二重経済論』やイギリスのファーニバルが書いた「複合社会」論 などが知られている程度だった。もちろん、特定の国の経済や歴史などの文献を除けば、 アジアの社会や文化を論じた日本語の文献はほとんどなかったといえるでしょう。もっと も日本が植民地化していた台湾、韓国、それに中国に関して、歴史や民族などに関する、 特定の角度から研究した文献はあるにはあったが。 こうして文献でアジアを知りたいとの願望は充足されないまま、直接アジアに行ってこ の目で確かめたい、という願望が日に日に募っていった。ついにアジアに出かける機会が やって来た。65 年 2 月から3月にかけてのことで、私は当時大学院の学生だった。アジア についての何の知識も無く、私は無謀にも始めての海外旅行なのに、ひとりで行くことに なった。無知ゆえに、何らの不安も感じなかった。だが、実際には道中さまざまなことが あり、今それらのことが走馬灯のように頭を駆け巡っている。それらの一部をこれから書 くことにしたい。 3)シンガポールとの出会い: 「タルボット・ハウス」 私はまずマレー語とかインドネシア語を勉強したことがなかったため、アジアの研究を するとしたら多少はわかる英語である程度通じるシンガポールとマレーシアにしようと考 えていた。しかし、当時はまだ特定の国の研究をしたいとは思わず、 「アジア」を知りたい と考えていたため、できる限り多くのアジア諸国を見たいとも思っていた。そこで、上記 の国に近いタイ、インドネシア、フィリピンを訪問することにした。他にはついでという 事もあって、友人のいる香港や台湾、そして独立前の沖縄などを訪問したが、それらの国 または地域のことは別の機会に書く予定だ。このため、これから何回かにわたって最初に 訪問したシンガポール、タイ、インドネシアでの経験を中心に紹介したいと思う。 順序から言えば、タイが先だが、最も関心を持ち、最も印象深いシンガポール(それに 当時はマレーシア連邦からの独立以前)から始めようと思う。ただし、最初に訪問してか らすでに 50 年近くが経過するため、かなり記憶が薄らいでいるので、ところどころ具体性 に欠けるきらいがあるが、勘弁していただきたい。 1965 年3月当時はまだシンガポールはマラヤ連邦から独立しておらず、シンガポールに はイギリス軍が滞在していた。当時のシンガポールとマレーシアの間は自由に往来でき, 私も若干だが、マレーシアにも行った。後で知ったのだが、当時の両国は独立を巡ってさ まざまな確執があった。そのことについては、機会を見て取り上げたいと思う。 さて、私にはこれといって知り合いも無いまま、タイを経由してシンガポールに行った。 私にとって初めての熱帯の国であるタイは今後取り上げる予定だが、強烈な印象を私に与 えた。バンコクには最も暑い午後 2 時ころに着いたため、町には人の姿をほとんど見かけ ず、まるでゴースト・タウンのような感じを持った。初めて見る熱帯の国だった。そのこ とがタイから行ったシンガポールやインドネシアでも役立った。 シンガポールのホテルは旅行代理店に頼んでオーチャード通りにあるメリタス・マンダ リン・ホテル(現在マンダリン・オーチャード)を予約し、ただ一人知っている H さん夫 妻に連絡を取り、日本からは香港とタイを経由してシンガポールに行った。現在のチャン ギ国際空港は 1981 年に開港した、大きくて、立派な空港だが、当時はまだ古くて狭い空港 だった。空港の名前は記憶に無いため、調べてみると、当時はバヤ・レバー空港といい、 現在も空軍基地として利用されているそうだ。 H さん夫妻は日本で知り合ったのだが、奥さんは日本人、ご主人は日本に留学経験のあ る華人の方だった。マンダリン・ホテルは高級ホテルで、かなり高かったことを覚えてい るが、他に安いホテルがあることも知らず、仕方が無くそこに落ち着いたのだった。 ホテルに着くと、早速 H さん夫妻がやって来てくれた。ご夫妻によれば、 「このホテルは 高すぎるから、キャンセルした方がいいよ、私たちが別の安いところを探しておいたから、 そこに移るように」 、と指示された。そのため、マンダリン・ホテルには1泊しただけで、 ご夫妻の意見に従って、安い宿泊所に移ることにした。それは YMCA が経営する「タルボ ット・ハウス」 (以下、 「T ハウス」と呼ぶ)という名前の、ある種の民宿だった。民宿と言 っても、かなり立派なものだった。なぜかこの名前だけはよく覚えている。その後も、滞 在中このご夫妻には何度もご主人が運転する車であちこちに連れて行ってもらい、当時の 日本領事・春日さんを紹介してもらった。H さん夫妻は無知で未経験の私を大いに助けて くれ、シンガポールについての知識と経験を少しずつ増やすことができた。春日さんにも 大変お世話になった。 「T ハウス」の館長は 60 歳そこそこのイギリス人で、シンガポールに来る前は神戸の YMCA に勤めていたとのこと。そのせいか、日本人でただ一人の私に、館長は大変やさし く、気遣ってくれた。毎朝、宿泊客全員と館長とが大きなテーブルを囲んで、朝食をとる のだが、館長は必ず私に声をかけてくれた。よく眠れましたか、昨日はどこに行きました か、今日はどこに行きますか、今晩は 9 時からお茶の会を開きますので、ぜひ参加しませ んか、などと誘ってくれた。手紙を出したいのですが、と言うと、ここに切手があります よ、とすぐに出してくれる。館長にはなんでも相談することにした。 ある晩、館長の誘いに従って、お茶の会に出席した。 「T ハウス」の2階に会議室があり、 いつもはそこで若者たちが 1 時間でも 2 時間でも、 ジュークボックスで音楽を聴きながら、 陶酔したように歌い、ダンスをしていた。当時はビートルズが大流行しており、特にイギ リスの若者の心を捉えているようだった。始めて見る光景に、私も見とれていた。 その会議室である夜、会合が開かれた。そこには外部から 30 代から 60 代くらいまでの イギリス人男女合わせて 20 名前後が集まっていた。最初は何をするのかと思い、じっと話 を聴いていた。どうやら、特別な目的はない様子で、手作りのクッキーなどを食べ、紅茶 を飲みながら、9 時に開始し 11 時過ぎまでひたすらしゃべることが目的らしい。話の詳し い内容はほとんど忘れてしまったが、たとえば、当時はやっていた女性のミニスカートを どう思うか、などが話題になっていたことだけははっきりと覚えている。もっとも、当時 はマレーシアとインドネシアが対立(コンフロンタシ)状態でしたので、その話も出てい たと思うが、政治的な話はあまり出なかったように思う。 4)蚊の大群に悩まされ・・・ 11 時過ぎになって会合が終わり、そろそろ部屋に帰ろうかと思っていると、30 代半ばと 思われる一人のイギリス人男性が話しかけてきた。何をする人かと聞くと、ビジネスマン だという。 「これからマレーシア側にある私の家に来ませんか」という。なぜそんなことを 言うのか理解できないでいると、館長が近づいてきて, 「○○さんは今夜あなたを家にお連 れし、明日マレーシアを案内したい、といっています」と言う。とっさに答えられないで いると、館長が「大丈夫です。いい経験にもなるから行ってきなさい。」と言う。あまり気 乗りはしなかったが、それでは仕方がない、とあきらめて行くことにした。彼の家はおよ そシンガポールから 100kmほど離れた農村地帯にあった。ほとんど車が通らない、夜中の 高速道路を、彼の大型車は時速 100km以上の猛スピードで突っ走っていった。車の外には ジャングルやうっそうと茂った樹木が車のライトで見えるだけだった。1 時間ほど彼と話し ながらの、爽快な夜のドライブを楽しむうちに、彼の邸宅に到着した。 それが現在のマレーシアのどのあたりだったのか、さっぱり分からなかった。その後、 30 年ほどして、私はマラヤ大学(UM)とセランゴール産業大学(UNISEL)で教えるた めに、2000 年から 2001 年にかけてマレーシアに滞在することになり、当時を思い出しな がら車であちこち走った。しかし、そこがマレーシア半島の南端であることしかわからず、 結局どのあたりだったのかさっぱり見当もつかなかった。今回(今年 8 月)にマレーシア を訪問し、知人に話したら、当時のことはよく分からないとのことだった。 彼の家に着いても、誰も出てこないところを見ると、どうやら彼は独身らしい。他に人 は誰もいないようだった。彼に聞いてみると、今は夜中だから誰もいないが、マレー人の お手伝いさんが 2 人いるとのことだった。夜なのでよくはわからなかったが、かなり大き な木造の屋敷で、いくつもの部屋があるようだった。端っこにある部屋を指して、 「今夜は、この部屋に泊まってください。ゆっくり寝てください。明日の朝、私が起こ しに来ますから。 」と言って、彼は出て行ってしまった。 そこで、ほとんど使われていないらしい、がらんとした 10 畳ほどもある部屋に大きなベ ッドが 1 つぽつんとあり、その上に毛布が置いてあった。電気がどうなっているのか、部 屋がどういうつくりなのか、細かいことはさっぱりわからず、いざと言うときどうしたも のかと、不安を感じながら、疲れて眠かったため、電気を消して真っ暗闇の部屋に鍵をか け、早速寝ることにした。ところが、ベッドに横たわって、10 分もすると、ものすごい泣 き声をたてて何かの大群がやってきた。最初は何がなんだかわからなかったが、考えてみ たら、ここは熱帯の国であり,蚊に違いないととっさに悟った。追い払っても追い払って も、やって来て体中あちこちを次々と刺すのだ。これにはほんとうに参ってしまった。蚊 に刺されたらひょっとしてマラリアにかかるのではないか、マラリアの予防注射を打って こなかった、どうしたらいいだろうか、などと、最悪の事態を予想しながら不安で頭がい っぱいになった。必死で考えても、何もいい案が思い浮かばない。何とか○○氏に連絡し たい。ところが彼がどの部屋にいるのかさえもわからない。真っ暗やみの中で、何度か呼 んだが返事がない。仕方なく、毛布を頭からかぶって寝ることにしたが、暑くて寝られな い。ここに来たことを心から後悔しましたが、いまさらどうしようもない。 かの泣き声におびえながら、当初は体中をぼりぼりかいていたが、いつの間にか蚊にか まれながら、疲れて寝てしまった。数時間寝て、朝起きてあちこち見てみると、腕や足、 顔などいたるところ血だらけになっており、○○氏も「どうしましたか」などとのんびり したことを言う。幸いマラリアにはかからずにすんだが、今では思い出したくもない、命 がけの体験だった。 5)イギリス兵と 「T ハウス」には安く泊まれるとあって、当時 20 歳前後のイギリス軍の兵士や将校がた くさん泊まっており、欧米からの旅行者も結構たくさん泊まっていた。日本人は自分だけ だったので、珍しがられたらしく、何をしに来たのか、とか、仕事は何をしているのか、 などとあちこちで聞かれた。彼らとはすぐに親しくなった。カナダから来た学生とイギリ ス人の若者が、今からヨットに乗りに行くが、一緒に来ないかなどと誘ってくれたが、気 乗りがしなくて断ることにした。ようやく海外に出られた自分にとっては、ずいぶん優雅 な若者がいるものだと思わずにはいられなかった。 「T ハウス」には 1 週間ほど滞在していたので、滞在期間中に経験したエピソードらしき ものを2∼3紹介しておこう。毎朝5時半頃になると、チャイナ・ドレスを着た若い女性 が一人ずつのベッドを回って、 「ティ オア カフィ?」とかなり大きな声で、聞きに来る。 最初は何を言っているのか理解できなかった。こうした習慣は日本には無いため戸惑うほ かは無かったが、そんな習慣がイギリスにあることを知り、びっくりした。欧米人は、大 抵は「ティ」とか「カフィ」と答えるが、私はほとんど一度も頼まなかった。第1、ベッ ドで起き掛けに紅茶やコーヒーなどを飲む習慣がない日本人にはそうした欲望がわくはず もなかったから。特に、私は日本でも外国でも、朝起きて何かを口に入れる前には必ず何 度もうがいをしないと、なぜか口に入れることができない。わざわざ飲みたいわけでもな いコーヒーを飲むために、眠くて仕方がない中をベッドから起きてうがいをしに行く気に もなれなかったため、結局一度も頼まなかった。変な日本人と思われたかも。 滞在期間中、毎日のように夜遅く寝て、朝はできるだけゆっくり寝たいと思っていたた め、朝早くから起こされること自体、あまりうれしくなかった。毎日夜更かしをしていた のは、滞在 2 日ほどたったころ、20 歳前後の若いイギリス兵たち数人と親しくなり、将校 も含めて4∼5人と付き合い、毎晩のように遅くまで飲み歩いていたから。もっとも当時 の私自身はそれほど酒が強いわけではなく、ただなんとなく付き合っているという程度だ ったが。彼らは5∼6人が連れ立って徒歩 40∼50 分ほどのところにある馴染みのバーに毎 晩のように食事が終わってから、歩いて行く。そのバーといえば中はほとんど真っ暗で、 目の先 30 センチも見えないほど暗い部屋に男女がぎっしり座ってだべりながら、飲み続け る。黙っていると、誰が隣にいるのかさえわからないほどでした。バーの女性も暗闇の中 で、私の顔に自分の顔を近づけて来て、 「あなたはアイリッシュか」などと聞く。日本人が いるとは思えなかったのか、それともイギリス兵と一緒だったので、勘違いしたのだろう。 あるとき、イギリス人が、 「そうだ日本人女性がいるぞ」と言う。すると、他の女性が「× ×ちゃん、こっちおいでよ」とその日本女性を呼ぶ。すると、暗闇なので、どこからかは 不明だが、日本人女性がやって来て、私に「日本人ですか」と聞く。 「そうですが、いつか ら、どうしてここにいるんですか」と聞くと、「シンガポールには戦前からいて、そのまま 終戦になっても日本には帰らないで、シンガポールにいるのよ」と言う。そして仕事が他 にはないから、ここでずっと働いているの、時々、日本人のお客さんが来るので、相手を しているんです、などと言う。いろいろな話をしたが、今はほとんど憶えていない。もち ろん、暗かったせいもあって顔もほとんど記憶が無いが、40 歳前後だったように思う。 ときどき、飲んだ帰りにみんなでだべりながら歩いていると、あちこちから「カモン。 ステイ・ヒア」などと言う大きな声が聞こえる。誰かと思ってみると、頭に白いターバン を巻き、ひげを生やしたいかついインド人が鉄砲を持って、店の前に簡易ベッドを置いて 寝転んでいる。彼らは用心棒に雇われた人たちだ。近づくと、いろいろしゃべる。話し相 手になってほしいらしい。ひとしきり話しているうちに、すぐに時間が経ってしまい、「T ハウス」に帰ると夜中の 12 時を回っていた。こうした光景は香港でも見たことがある。 先ほどの女性に限らず、アジア各地で戦後になっても帰国せず、男性ならそのまま現地 の女性と結婚するなどして、滞在し続ける人にあちこちで出会ったが、彼らの心境という か、心の内を聞かせてもらう機会はついぞなかった。彼らの表情や顔色は陽に焼けて現地 の人たちとほとんど変らなかったが、それでもどこか現地の人とは違うものを感じたもの だ。彼らの心境は複雑だったろうと思う。 イギリスの若者にはときどきショッピングに付き合ったり、誘われてイギリス軍のキャ ンプにも行った。キャンプの中にはたとえば、レストラン、プール、売店、喫茶店、新聞、 雑誌、タバコなどの販売店、娯楽場などなど、ほぼ何でもそろっていた。あるとき、イギ リス兵がキャンプに行こう、と言うのでついて行き、中にあったプールでひとしきり泳い だ後、食事しコーヒーを飲み、音楽を聴いた。売店にも行った。イギリス軍がスエズまで 撤退したのは、65 年の 9 月のこと、シンガポールがマレーシア連邦から独立するのもこの 年の8月のことだから、私が滞在したのはそのわずか半年前のことだった。 6)オーチャード通りの今昔 その後、何度もシンガポールには行ったが、行くたびに変化し、あっという間にシンガ ポール最大の繁華街オーチャード通りは急速に美しく、立派なビルが建ち、華やかで豪華 になっていった。最近のオーチャードどおりは世界でも最も長く、1 年中夏が続くため、年 間を通じて人口密度が最も高いショッピング・ストリートであろう。全長2kmほどの道 を観光客がすきまなく歩く姿はニューヨークで見る風景にどこか似ているが、東京やロン ドンでもこれほど年中にぎやかなところはないだろう。世界中の都市はどこも似ていると 言う人がいるが、似ている部分もあれば、似ていない部分もある。たとえばロンドンのコ ベント・ガーデンあたりは伝統と格式が生きており、歩くだけで実に楽しく、美しい。私 が大好きな町の1つだ。歩いているだけでリラックスした気分になる。ちょっと裏通りに 入ると、コーヒー・ショップやパブがあり、骨董屋さんから古本屋さんまであり、コーヒ ー・ショップの主人と話すのも実に楽しい。何度でも訪れたい町だ。 オーチャード通りはおそらくどこの都市より豪華でにぎやかで、安全で観光客向きだが、 商売熱心な人が多く、ショッピングには向いているが、伝統や格式となると寂しい。それ でもオーチャード通りにはそれなりの魅力があって、何度でも歩いてみたいところだ。 65 年当時のオーチャード通りを思い起こすと、いかに現在のそれとの違いが大きいかが わかる。たとえば、シンガポールは雨季になると毎日雨が降る。雨があがったあとでも, オーチャード通りの並木の下を通るのは難しい。なぜなら木々の葉にたまった雨水がぽつ ぽつと絶え間なく落ちて来るので、そこを通るときには気をつけないとたちまちぬれてし まうからだ。65 年当時のオーチャード通りはまだ舗装されていなかったため、革靴で歩く とすぐに濡れて汚れてしまう。今では考えられないがシンガポールばかりか、アジアを訪 問する場合には、しばしば長靴を持参したものだ。今のきれいな舗装道路を見ると、うそ のような話だ。通りにはネオンサインもほとんどなく、暗くて、建物は低く、古く、そし て人通りも少なく、車もほとんどなくて静かだった。言葉で表現するのはちょっと難しい が、当時歩いたバンコク、ジャカルタ、香港などと比べて特に大きく変わったことはなか ったが、やや遅れていたように思う。ちょっと裏通りを歩くと、犬がけだるそうに寝転ん でおり、郊外に出ると、沢山の露店があり、そこで食事したり、ショッピングしながら歩 くのも楽しかった。いまや政府の指示ですべて撤去させられてしまったため、雰囲気はが らっと変わってしまい、かつての面影がなくなり、きれいにはなったが、残念な気もする。 いまはシンガポールのどこからでもオーチャード通りに簡単に行ける。バスやタクシー はいうまでも無いが、何と言っても便利なのは地下鉄だろう。縦横に走る地下鉄は便利だ。 車なら渋滞するが、地下鉄なら予定通り目的地に着けるから。 最近もときどきオーチャード通りを歩くが、当時はオーチャード通りを散策することは ほとんどなく、ただ所要があって歩いた記憶しかない。写真だけは沢山取った。そのとき の写真が手元に残っているが、小さくて写りが悪いため、今年8月に訪問したときとって きた写真の中から数枚を掲載しておこう。オーチャード通りの建物も名前も表面は変わっ たが、同じ場所に同じような店が残っているところもある。オーチャード通りのはずれの 方にはかつて「アンパン」を売り出して有名になった「ヤオハン」があったが、今はショ ッピング・モールに変わり、もはやその跡形もないのは寂しい限りだ。「ヤオハン」は日本 のスーパーとしてアジアで最初に成功したが、そのきっかけが当時は珍しかったアンパン を毎朝 1500 個ほど売りだし、買い物客が殺到したため、整理券を発行したと聞く。その「ヤ オハン」もいまは消えてしまった。 オーチャード通りの真中辺りで、私が最初に泊まったマンダリン・ホテルの隣は長い間 空き地だったが、今やそこには高級デパート・イメージの高島屋が建ち、周辺には有名な 高級ホテルや豪華なビルが立ち並び、かつては日本人観光客を当て込んで建設した高島屋 や伊勢丹が構えており、フェラガモ、エルメス、ルイ・ヴィトン、シャネル、プラダなど の高級ブランド店がいかにも高級なイメージを与えている。しかし、最近は日本人客もめ っきり減り、代わって大陸からの中国人や欧米人が増えたように思う。かつての安いもの を買って歩いたショッピング通りも余程のお金がない限り、楽しくなくなってしまったよ うに感じる。もっとも、いまやシンガポール人の一人当たり所得(購買力平価で)は日本 を越えたともいわれるだけに、金持ちの欧米人、最近の中国人、そしてシンガポール人に は気にはならないかもしれません。それにしても、日本人の姿が少ないのはやはり寂しい。 夜のオーチャード通り シンガポール議会 若きベンチャー・ビジネスマン夫妻と 最も古くて格式あるホテル・ラッフルズ