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連載 私と環境行動学⑴ 吉武泰水先生の思い出

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連載 私と環境行動学⑴ 吉武泰水先生の思い出
連載
私と環境行動学⑴ 吉武泰水先生 の 思 い 出
高橋 鷹志 ( 建築家・研究者・東京大学名誉教授 )
◆二人 の 恩師「 お 前 は大工になれ!」
新潟大 で 私 も 教鞭 をとることになるが 、私 は 学生 を 厳しく叱っ
ルスペースも 同じような 次元 で 研究を行っている。
この 12 月に 私 は 満 80 歳 の 傘寿 を 迎 える。 建築 の 世界 に 入
たから吉武先生 のようにはとてもなれないと思った 。
こうした 実験を行うために、当初 は 家 の 近くの 駒沢公園 の 中
ってすでに 60 年近くになるが 、 この 機会 にこれまで 私 が 取り
周知 のように 吉武先生 は 、日本 の 建築界 にいち 早く計画学
央広場 で 対象に近 づいていき、視標 の 識別実験を行っていた 。
組 んできた 環境心理学 や 建築設計 などについて 少しまとめて
を 導入し普及 に 努 められた 建築計画学 の 泰斗 である。 吉武先
だが 最長距離 でも 200m 程度しかなくなかなか 思うような 実験
話をしたいと思う。
生 の 薫陶 を 受 けた 多くの 教 え 子 たちが 、建築 の 各分野 におけ
結果を得られなかった 。
私 が 建築 の 世界に入りそしてこの 世界 で自分 が 思うように活
る研究活動 や 計画・設計活動 において 、指導的 な 立場 で 牽引
そ のとき、食糧増産 と過剰人口問題 の 解決策 として 1958
躍 することができたのは 、二人 の 恩師 の おかげだと思ってい
し続 けていることもよく知られている。 私 もまたそうした 吉武
(昭 33 )年 から 工事 が 行 われていた 秋田県八郎潟 の 干拓事業
る。 ひとりは 私 が 建築 の 世界 に 入 るきっかけをつくってくれた
先生 の 薫陶を受 けたひとりである。
が 完成し、山 の 手線 の 内側 ほどの 広大 でまったく平坦 な 土地
父 の 髙橋義孝(1913-1995 年)であり、 もうひとりは 私 が 環
ところでに 私 の 卒業論文 の 指導教官 は 鈴木成文( 1927-
が 出現した 。 この 敷地 には 排水工事 に 使 われた 南部排水桟場
境心理学 から環境行動学 へと研究領域 を 拡充 させていただい
2010 年)先生 で 先生 の 下 で、「集合住宅における近隣集団 の
が 唯一建設されており、その 先には 遠くに寒風山 が 美しい 姿を
髙橋 鷹志(たかはし・たかし)
た 、建築計画学 の 創生者 で ある 吉武泰水( 1916-2003 年)
形成」と題 する卒業論文としてまとめた 。修士課程 は 生産技術
して 立 ち 上っていた 。 そんな 折に吉武先生 から長辺 が 10 ㎞ は
1936 年東京生 まれ。1961 年東京大学工学部建築学
科卒業。1968 年同大大学院数物系研究科建築学専攻
先生 である。 父親 を 恩師と呼 ぶことには 違和感 があるかもし
研究所 の 池辺陽(1920-1979 年)先生 の 研究室 でロケット発
余裕 でとれる八郎潟 で 実験 を 行ったらと示唆してくださったの
れないが 、私 に 建築 の 世界 を 示唆したのは 紛 れもなく父 であ
射実験台装置 のためのコンクリートの 強度実験 などを 行った 。
である。 そこで 夏休 みを 利用して 現地 に 出 かけ 、後輩 の 富永
るから仕方 がない 。 まずそのときの 話 から始 めよう。
そして 博士課程 へ 進学後、 1964(昭 39 )年に吉武研究室 へ 移
譲氏らに 手伝ってもらい 、排水機場 の 屋上 に 視標 を 置 き、遠
私 の 祖父 は 神田神保町 の 交差点 の 近くにあった 古書店 を 経
籍し、博士論文研究 の 課題を模索していた 。
くから近 づく識別実験を実行した 。
営していた 。 そうした 書肆 の 環境 の 影響 もあったのか 、父 の
最終的に私 は 研究テーマに「 ものの 見 え方」を選 んだ 。例 え
ところが 初日に建物 から数百メートル 離 れた 地点 から実験を
義孝 はドイツ 文学者 の 道 を 歩 んだ 。 文学 だけでなく哲学 や 思
ば 、 10 ㎞程度離 れたところに 対象 を 置 き、 それに 段々と近 づ
始 めると、 なんとすべての 被験者 が 出発地点 からすべて 識別
想 など研究分野 は 幅広く、翻訳 から 評論、随筆 まで 広く手 が
いてその 対象 がどのような 見 え方をするかを実験 する。最初 は
してしまうという事態 が 起こったのである。 そこで 、翌日 はバ
けたので 、私 が 子どものときはとにかく忙しく厳しい 人という
「点」で 見 えていたものが 次第に「人間」だとわかるようになり、
スをチャーターして 指標 から 8 ㎞離 れた 地点 から 150m までバ
印象 だった 。 古書店経営者 の 次 がドイツ 文学者 で あるから、
さらに「両手をあげている」といったことがわかり、どこまで 近
スで 近 づいて 行 き、 2 ~ 3 カ所 でバスから降りて 識別実験 を 行
三男二女 の 長男 であった 私 も 文学 や 本 の 道 に 進 むのがごく自
づけば「顔 の 表情」がわかるといった 実験 を 行った 。 こうした
った 。 この 八郎潟 での 実験結果をもとに私 は 、「空間 の 知覚的
然 のことだったのかもしれないが 、私 は 違う道 を 歩 むことにな
研究 は「識別距離」と呼 ばれ、 アメリカの 文化人類学者 エドワ
尺度に関 する研究」をテーマに総頁数 456 頁 の 博士論文として
った 。 そのきっかけになったのは 、
ード・ホール( Edward.T.Hall;1914-2009 年)のパーソナ
無事まとめあげることができた 。
博士課程単位取得退学。
名古屋工業大学非常勤講師(~
1976 年)、東京大学工学部教授(~ 1995 年)、新
潟大学大学院教授(~ 2002 年)、日本大学教授(~
2006 年)、早稲田大学特任教授(~ 2007 年)。工学
博士、東大名誉教授。日本建築学会理事、建築設計資
料集成委員会委員長、人間・環境学会会長、日本イン
テリア学会会長などを歴任。
主な建築作品に「東京大学鹿児島宇宙空間観測所第一
次計画施設」
(1962 年、東大生産研池辺研究室)、
「成
、東京大学付属病院
蹊大学大講義室棟」
(1964 年)
棟(1970 年)
、
「三井記念病院」
(1970 年、以上東大
(1983 年)
、
「 ツインサイロ 」
吉武研究室)
、
「菅 の 家」
(1997 年)
、
「猫の広場のある家」
(2002 年)ほか。
(1975 年、実教出版社)、
『環
主な著書に『建築計画』
境心理学』
(1979 年)
、
『インテリアデザイン』
(1989
年、共 に 朝倉書店)
、
『単位空間Ⅰ』(建築設計資料集
、
『建築学便覧1 計画』(1980 年)
、
『コ
成、1980 年)
ンパクト 設計資料集成』
(1991 年、以上丸善)、『建
築・都市計画 のための 空間学辞典』(1996 年、井上
書店)
『人間-環境系のデザイン』
、
(1997 年、彰国社)、
『環境と空間』
(シリーズ<人間と建築> 1、1997 年、
朝倉書店)ほか。
「 お 前 は 大工になれ!」
という父 のひと言 だった 。 あまりできのよくなかった 長男 の 私
きたかなおか
を 心配したのであろうか 、机について 勉学 ばかりするよりも 技
吉武先生 に 指導していただいた 博士論文「空間 の 知覚的尺
もりたけ
術 を 体得 する職人 の 世界 を 勧 めたかったのかもしれない 。 そ
のひと言 を 聞 いた 私 は 奮起し、当時住 んでいた 目白 の 家 で 父
C
D
A
思うし、父 やほかの 家族 の 評判 も 上々 だった 。 そ のときの 成
この 研究 は 、人間 の 日常生活 の 場 である建築 や 都市 の 単位
としての 部屋、部屋 の 集合体としての 建物、建物 の 周囲 の あ
こいかわ
功体験 は 成長しても 消 えることはなかった 。 やがて 厳しい 父に
F
寒風山
科に入学 するができた 。
はだち
ひといち
(現八郎潟駅)
G
いいづか
てんのう
ふただ
線
川
船
◆吉武先生 のアドバイスで 八郎潟 でのフィールドワーク
もうひとりの 恩師 である吉武泰水先生 は 、父とはまったく対
でとはま
0
10
図 1 八郎潟 での 実験位置
計画したり評価したりするときに、 その 判断基準として 利用 さ
れる“尺度”を論考 するものであった 。
わきもと
ふなこし
るいは 建物相互 の 狭間 にできる外部空間、 さらに 住居 を 中心
とする小規模 な 地域 の 空間 の 構成 の 仕方 やその 規模、形態 を
E
H
叱咤激励 されながら 2 年浪人 の 後、 やっと東大工学部建築学
42
かど
奥羽本線
日本海
B
つくった 。 いま 思 い 出しても 自分 ながら器用 にうまくできたと
姿 をい ちども 見 たことがな い 。 後 に 名古屋工業大学 や 東大、
度 に 関 する研究」は 、私 の そ の 後 の 環境心理学 を 専門とする
研究活動 の 礎となり出発点となった 。
の 注文 に 応 えて 子どもながら 本棚 や 小 さな 家具 などを 次々 に
照的 に 非常 に 優しい お 人柄 であった 。 私 は 吉武先生 が 怒った
◆「空間 の 知覚的尺度に関 する研究」による考察
20 ㎞
おおくぼ
建築 や 都市 がいわば「手 づくり」でできあがっていた 時代に
は 、人間 の 身体 や 歩行 あるいは 感覚に基 づいた 尺度 が 使 われ
ていたが 、 そのような「人間的尺度」は 、工業化 の 到来によっ
て 物を計測 するための 抽象的 な 度量衡 の「単位」へと変質して
しまい 、同時 に 物的環境 の 設計・構築 は 住 み 手 から 切り離 さ
43
連載 私と環境行動学⑴ 吉武泰水先生 の 思 い 出
れるようになった 。
ことや 、人間と空間との 相互作用に関わる研究が行われていた
によって 明らかにしている。二番目 の「身体 の 知覚と尺度」で
が 大 きく反映 されている。 また 、心理的・物理的自我領域 に
このため、人 びとが 日々体験 する物理的環境 において 、意
にもかかわらず、 その 成果 が 建築 や 都市 の 空間 の 規模 や 形態
は 、個人 の 身体 を 中心とした 極座標 が 、均質 なユークリッド空
関しては 、身体 の 周囲に「主観的領域」が 存在し、少人数 の 集
識的 あるいは 無意識的 に 知覚 される 空間 を 考察 することをと
を 決定・評価 する基準として 利用しやすいように体系化 されて
間 に 異方性 を 与 えることを 解説し、建築 や 都市、地理学、人
合体における人 びとの 広 がりや 位置決 めに法則性 があることを
おして 、計量単位として 抽象化 されてきた 尺度 を、「知覚的尺
いなかったことが 動機 づけとなった。 この 私 の 提案 は、半世紀
類学における身体座標 の 異方性に関 する研究を行った 。 また 、
明らかにしている。 こうした 研究成果 は 、居間 などの 集合空間
度」に回帰 させることを 意図し、この 研究 を 推し進 めたのであ
近く経った現在でも建築や都市に対して有効であると考える。
人と人 の 間に発生 する距離について 、「識別尺度」や自己防衛
の 規模を決定 するうえで 参考となるに違 いない 。
る。 人と人、人と空間との 相互作用 を、八郎潟 など現地 での
研究 の 内容 は 、「知覚的空間 の 世界」「身体 の 知覚と尺度」
のための 物理的・心理的 な自我領域に関しても 考察している。
三番目 の「空間 の 知覚と尺度」では 、「識別尺度」の 考 え方
「識別尺度」では 、人と人 の 距離 の 変化 が 、
「人 の 見 え方」
「相
に基 づいて 、建物 や 材料 の 見 え 方 を 対象 の 物的属性 を 変数と
観察 や 実験、 あるいは 模擬実験 などによって 定性的・定量的
「空間 の 知覚と尺度」
「記憶と日常 のなかの 空間」の 4 つの 観点
に 把握し、空間構成 や 規模、形態 などの 諸属性 に 関 わる知覚
から考察を行っている。
互 のコミュニケーション」
「相互 の 行為に与 える影響」などにつ
して 調査し、対象 を 識別 できる「視覚的環境」の 広 がりを 考察
的 な 尺度を提案した 。
一番目 の「知覚的空間 の 世界」では 、知覚 の 機能 に 関 する
いて 、至近距離 から 遠距離 にわたり種々 の 現地実験 によって
し、環境 の 視覚的意味 づけを 行った 。 これにより室内 では 床、
こうした提案 は、戦後 のわが国における建築 モデュール 研究
知見 をもとに、人 がものを「見る」ことの 意味 を 分析した 。人
分析し、識別尺度・行為尺度に関 する「距離 の 分類」の 提案と
両側 の 壁、天井という三 つの 異 なる 位置と方向 によって 限定
のなかで、建築寸法 の 知覚的側面 からの 考察 が 不足していた
や 建物 の 諸要素 の 見 え方 を、短時間提示した 画像 の 視認実験
してまとめている。 この 提案 には 前述 の 八郎潟 での 実験成果
されており、各面上 の 対象 が 通常 の 正面視とどう異 なって 視
認 されるかを 研究した 結果、室内 での 視野 は 円錐形 ではなく、
章
主題
知覚的空間の世界
1
▪パターン認識
刺激を縮減する(短時間呈示)
ことにより、対象を近くする方
略(即時・並列的・維持・順序
的)、知覚の容量を分析する
知覚の特性
▪短期記憶
短時間で何が見えるか
そのときどこを注視しているか
刺激(空間)の特性
▪二次元の画像・写真
ドット・パターン
図形
人・動物写真
室内・建物・街路写真
実験の方法
尺度・法則
▪短時間呈示装置(タキスト・
スコープ)の観察と言語報告
▪理解の容量(span of
apprehenshion)
7±2(1∼4、5∼15、15∼)
▪注視点検実験(同上装置)
▪上位概念
種として名前を持っている刺激
応用
▪パターン認識の度合の確認
出会いの行為
出会いの行為
目立ちやすさ
曖昧さ
複雑さ
(図の成立、図ー地を曖昧にする
こと)
言語化できない対象の視認
紡錘形 であることを仮説として 提示している。
知人の判別
手を振って合図する
四番目 の「記憶と日常 のなかの 空間」では 、記憶されている
名前を呼んで合図する
空間 について 考察 を 行った 。 人 びとは 地域 における行動 やそ
挨拶の声を掛ける
の 過程 で 知覚した 情報をもとに空間 の 記憶をかたちづくり、地
話かける
域 の 認知的表象を保持していると考 えられる。このためイメー
会話を交わす
身体の知覚と尺度
2
﹁もの﹂の識別
3・1
距離を変数とした人間の相互作用
(コミュニケーション)の変化、
個人の近傍のなわ張り(物理的
心理的自我領域)の大きさを分
析する
▪人体の識別
最大限どの位離れて人を識別で
きるか
どの位近づくと相互の交渉が可
能となるか
▪実在の人体
知人・他人の身体
▪3 つの生活姿勢による
対面状態
▪物理的心理的自我領域
▪
「もの」の識別尺度
図形・記号や建築の部分を構成
する材料・詳細の大きさや形を
変数として、識別できる距離を
測定する
▪ものの識別
最大限どの位離れて対象が識別
できるか
材料・詳細の見えがどう変容す
るか
▪屋外・屋内での近・中・遠距
離の観察と言語報告
▪広い室内での対面実験
距離と向きを変えた対面状態で
の主観的判断
0
相手の存在を許せる至近距離は
-2
▪見合い距離の評価
▪主観的領域の大きさと形
▪室空間の規模・寸法計画
平座位<立位≦椅座位
住宅の相隣距離
広場の広さ
距離(m)
0
10
20
40
50
60
プロポーション、移動による
実験式
▪サイン計画(ランドマーク)
▪材料・部材の見え距離
周辺視機能を加味した視野概念
を提案し、室空間の見え方の実
験により、識別視野に対する物
理的環境規定性を分析する
▪外部空間感覚の尺度
▪直方体内側各面の識別
視軸に垂直な面以外の傾きを
もった面で対象をどのように識
別するか
▪識別視野の理論モデル
▪実在の室空間
▪室内の定点からの観察
展開、天井伏平面の各図に見え
る範囲を線で囲む(作図)
主に書院造の室内
出会いの識別
出会いの識別
繰り返しになるが 、以上 の 考察をとおして 、部屋 から地域に
至 る 種々 のスケー ルを 対象として 、 そ の 知覚特性 を 観察・実
▪識別視野の形
紡錘形モデル
▪木割のモデュール(6 分)の
意味
験 などによって 分析し、種々 の 建築空間 の 構成・形態・規模を
▪室空間の意匠論
手を振って合図する
名前を呼んで合図する
▪天井高による視野の変容
外部空間
外部空間のスケール感、過密感、
開放感などの心理的感覚と建物・
空・地面を立体角比で表示した
物理的量との対応を分析する
▪外部空間の知覚
建物の配置、スケールによって
空間感覚はどのように影響を受
けるか
▪実在の外部空間
主に集合住宅(低層、中層、高層)
の外部空間
▪屋外での観察と主観的判断
空間感覚に対する 7 段階評定
-3 -2 -1 0
建て込んでいる
記憶と日常のなかの空間
▪空間集合体の認知
可視・不可視を含めた小規模の
建築・地域などの日常的に馴れ
親しい空間集合をどのように認
知しているかを分析する
▪行動的・認知的空間表象
個人の周辺に広がっている空間
複合体をどのように認識してい
るか
表 1 研究 の 概要と成果 空間 の 知覚的尺度に関 する研究
44
などに基 づくことを「認知文法」として 提案している。
顔の向きがわかる
表 2 出会 いの 距離
▪距離の分類(近・中・遠)
▪実在の建物・居住地
日常的に使い、住み馴れた建物
小地域
1 2
▪三角座標による外部空間の 類型化
建物の高さの類型
外部空間のスケールと形の累計
▪配置計画
顔の向きがわかる
眼の横線
両眼が分離する
知人とわかる
眉と眼の分離
笑顔がわかる
口の動きがわかる
視線の向きがわかる
屋内
視線を合わせて
いられない
空間感覚による評価・修正
1
2
3
建て込んでいない
▪各種の描画と主観的判断
認知地図・トリップマップの 作図と遠近判断
屋外
▪認知文法(誤認の型)
▪選択経路の類型
(行動的空間表象)
実験 によって 空間把握 の 実態 を 分析 を 行った 。 その 結果、小
記憶 は 、対象 をそのまま 写 すのではなく、変形 や 強調、誤認
顔の細部がわかる
▪最大識別距離
対象(図形)の大きさ、
ジ・マップ(認知地図)やトリップ・マップ(歩行経路図)による
地域 の おける 物的 な 空間構成要素 の 位置・大 きさ・形 などの
話しかける
4
80
表情がわかる
挨拶の声を掛ける
3・3
70
視線の向きがわかる
混み合いの尺度
すぐに
離れたい
▪屋外での近・中・遠距離の観
察と言語報告および描画
30
視線を合わせていられない
-4
しばらくは
このままでよい
▪建築物の立面、図形、記号 (文字、ドットパターン)な
どの実物
▪距離の分類
0∼20m、20m∼
(20∼60、60∼180、180∼)
材料・詳細の見え方の変容
▪識別視野の理論と実測
3・2
内部空間
空間の知覚と尺度
3
▪人̶人系の知覚と主観的領域
▪建築設計における思考の型
(依頼主の空間把握の抽出)
3
4
5
10
20
30
40
50
100
200
300 400 500
2000
5000
m
眉と眼の分離
唇がみえる
表情が読める
知人がわかる
両眼が分離する
眼の横線がみえる
髪と顔が区別できる
頭部と身体が区別できる
身体の向きの前後がわかる
挙げた手がみえる
手足のあることがわかる
人であることがわかる
▪認知における空間集合の変容
1000
手足が動かせばわかる
動きが人間らしい
人が黒点となる
表 3 人 の 識別と出会 いの 距離
45
連載 私と環境行動学⑴ 吉武泰水先生 の 思 い 出
決定・評価 するための 判断基準となる「知覚的尺度」を 提案し
ミにおいて 、「 デザインと芸術工学」をテーマに 講演 されてい
たことにこの 研究 の 特色と意義 があったと考 えている。
るので 紹介しておこう。
「建築計画というのは 建築 を 設計 するときの 基本的 な 方針 の
◆「吉武 ゼミ」と「芸術工学」
ようなものを 決 めることです。例 えば 病院 をつくるときには 患
吉武泰水先生 に 博士論文 で 大変 お 世話 になったときから 5
者 のことを 考 えな け れば い け な い 。 当 たり前 のことで すが 、
年後 の 1973 (昭 48 )年、吉武先生 が 東大 から 筑波大 の 副学
実際 は 必 ずしもそうなってい な い 。 医師 が 中心 になっていて
長 に 退任・就任 されると、鈴木成文先生 が 教授 に 昇進 され、
患者 さんのことがおろそかになっているし看護師 さんのことな
そして 名古屋工業大学にいた 私 が 助教授として 着任 することに
どまったく考 えていない 。小学校 も 子どものことを考 えていな
なった 。博士課程修了以降、吉武先生 は 筑波大 から九州芸工
い 。 それではまずいということで 、実際に子どもたちの 動きは
大、神戸芸工大と歴任 されていたので 、 お 会 いする機会 がめ
どうか 、 それをどのように建築に表していかなければいけない
っきり減ってしまっていた 。 だが 、 お 目にかかれる唯一 の 貴重
か 、 そうしたことを 調 べたりまとめたりするのが 私 の 仕事 であ
な 機会 が 残されていた 。 それが「吉武 ゼミ」である。
ったわけです。 そうした 建築計画 は 芸術工科 の 重要 な 部分 で
吉武ゼミは 1995(平 7)年 8 月 23 日、長野県軽井沢の浄月庵
あり、 そ れを 考 えると私 はもう60 年近く芸術工科 に 携 わって
において、吉武先生が「方丈記」について講演されたのが最初
きたといえます」
である。 2003(平 15)年に先生が逝去された後も一時期中断
デザインの 定義については 、「政治にも 、経済にも 、科学に
を挟 んで現在も引き続き開催されているそうで、吉武先生 のご
も 、芸術 にも 、人間生活 の あらゆる領域 においてデザインを
意思が受け継がれていることはまことに喜ばしい 限りである。
言うことができる」と平凡社世界大百科事典 のなかで 述 べた 九
2007 (平 19 )年 4 月 の 第 92 回 まで は 、吉武先生 の 自邸、
州芸工大初代学長 の 小池新二先生と、「 ある 行為 を、望 まし
軽井沢 の 吉武別荘やセミナーハウス、東大 などを会場に、「生
い 目標に向 けて 計画し、整 えるということがデザインのプロセ
活に根ざしたもの 」
「歴史 の 流 れ、社会・文化 の 動き」
「土地(環
スの 本質 である。 デザインを 孤立化して 考 えると、 あるいは
境)に根ざしたもの 」
「人間 の 意識・感覚、文化とコミュニケー
物自体とみることは 、生 の 根源的 な 母体としてのデザインの
ション」などをテーマに各界 の 講師 を 招 いて 講演と討論 を 行う
本質的 な 価値を損 なうことである」
(『生きのびるためのデザイ
のが 基本 であった 。 私自身 も 2002 (平 14 )年 3 月に、「大改
ン 』)と述 べた 、インダストリアルデザインの 世界的指導者 のヴ
訂建築設計資料集成 づくりについて 」のテーマで 、当時引 き
ィクター・パパネックに共感している。
受 けていた 同書 の 編集員長としての 活動についてお 話ししたこ
また 、総合的 デザインや 総合的設計 は「全人間的 な 活動 で
とがある。
あり当然、人間 のためになり、同時 に 特別 な 知識能力 が 必要
吉武先生が私的 なゼミを始められた理由はいくつか考えられ
だから普通 の 教育 では 到達 できない 。 そのための 特別 な 教育
る。先生 が 逝去された 後 2007 年 5 月 26 日に開催された「吉武
が 必要 で ある 」とし、芸術工学教育 の 必要性 を 説 い て いる。
先生を偲 ぶ 会」で配られた資料には、建築計画学を芸術工学(総
できるだけ 自由 な 雰囲気 の 中 で 実習 に 重 きを 置 いて 講義 は 補
合 デザイン)により発展 させることで、社会科学 や 歴史・文化
足的 に 行うカリキュラムを、吉武泰水先生 は 神戸芸工大 の 開
を含めて「人間を総体的に捉えたい 」
という願望があった。また、
学に際して 実現している。 モノよりも 多様 で 根源的 なコトのデ
建築教育においても従来 の「 モノ」のデザインから「コト」のデ
ザインに対応 できる能力を養うためにはそうした 教育 が 必要 だ
ザインに中心 を 移したいという思 いもあったのでないかと記 さ
と説 いたのである。
れている。
それと同時に、「人間 が自らの 環境 を 形成し、 さらには自分
また先生は、人間を総体として捉えた研究を分野横断的に行
自身を形成 するまでに至るための 、人類 が 手に入 れたもっとも
うこと、コトのデザインを 推進 すること、地域と一体 での 教育
有力 な 道具 であり、 デザインは 自分自身 のデザインもする非
のモデルを示したいという情熱を持 ち 続けていたようである。
常 に 大 きな 力 を 持った 道具 である。 だから 有力 であるがゆえ
こうした 吉 武 先 生 の 中 心 テ ー マに つ い て 、 先 生 ご 自身 が
に 危険 な 道具にもなりかねない 」というパパネックの 言葉 を 引
1996(平 8)年 8 月に軽井沢吉武山荘で開催された第 6 回 のゼ
用し、強 い 警告を発 することも 忘 れてなかった 。(談)( つづく)
46
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