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『書香』22号

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『書香』22号
大谷大学図書館・博物館報(第22号)( 1)
大 谷 大 学
図書館・博物館報
図書館・博物館報
第22号 創刊号
2005年3月18日
大谷大学図書館・博物館 発行
4
3 京都市北区小山上総町
〒60
3―81
TEL.
075― 411―8123
目 次
機能統合………………………………………1
『坂東本・教行信証』が問いかけること …1
2
白隠の「天神経」……………………………2
『妙正寺文庫』について
―小栗栖香頂関係資料追加寄贈の報告―……1
5
貴重資料紹介(1
8)
「神田家記録」と神田寿海 ………………4
世界“知的”遺産―西谷文庫………………1
8
谷
大
学
2004年度大大谷大学短期大学部
博物館学課程 …………1
9
博物館特別展記念講演会講演録
(1)京都の町衆と神田家…………………6
(2)神田コレクションの魅力……………9
図書館・博物館日誌…………………………32
機 能 統 合
真宗総合学術センター長 沙 加 戸 弘 (教授・国文学)
大谷大学にとっては永年の夢であった開館
から一年余、関係各位の御尽力によって、よ
うやく大谷大学博物館は軌道に乗り始めた。
そもそも大谷大学の博物館は、昭和62年4
月大谷大学博物館学課程の設置に伴い、具体
的に構想され形をとったものであるが、博物
館という働きそのものは、従来から大谷大学
図書館が荷ってきたものである。
寛文5年に東本願寺の学寮とし て創立さ
れ、明治34年に近代化を遂げて百年余、数多
の先達の願いのもとに大谷大学は三百数十年
の伝統を有する。学寮である以上、当初より図
書館の働きを持っていたこと論を俣たない。
その三百数十年の歩みの中で蓄積され受け
継がれてきた資料の中には、版木・古印・古
硯・封泥・経帙等、所謂博物館資料も夥し く
存在する。
要するに、大谷大学に博物館という名称や
空間は確かに今まで存在しなかったが、博物
館という働きがなかったわけではない。
そのような状況から今回、真宗総合学術セ
こう る かん
ンター・響流館の中に、場として設置するこ
とを得たのである。
大谷大学において、図書館と博物館は一体
のものである。博物館の常識から言えば、そ
れはあり得ないかも知れない。図書館の考え
方から言っても、それは難しいあり方であろ
う。収集・保管・公開、調査・研究・保存・
展観という基本も微妙にずれる。
しかしながら、大谷大学には大谷大学とし
ての図書館・博物館のあり方が模索されてし
かるべきであると考える。まして、真宗とい
う伝統を考える責任を荷った博物館である。
真宗は生活の中に開かれてきた教えであり、
生活そのものと言っても過言ではない。博物
館、図書館という、固定された考え方と運用
は、真宗という生活を総合的に明らかにする
ことには決してならないであろう。
そのようなあり方の一つの表徴として、館
報を一体化することで意見の一致を見た。従
来、大谷大学博物館学課程には「課程年報」
があり、図書館からは「図書館報 書香」が刊
行されてきた。今回その両報を一体とし、名
称は従前の「書香」を受け継ぎ、図書館・博
物館報とし て刊行することとなったのであ
る。当然のことながら、昨年までの博物館学
課程年報の内容も受け継ぐ独特のものとなっ
た。
この館報の刊行を以て、真宗総合学術セン
ターの十全な稼動に向けての一歩としたい。
( 2) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
白隠の「天神経」
(教授・英米文化、日本仏教文化)
Nor
man.
Wadde
l
l
書誌学に専門外の私が最近事情があって、
持仏堂を掃除し、北野[天神]の御影を掛け奉
それに頭を突っ込むことになりました。私が
り、香華を擎げ、天神経数十返讀み終り、是よ
これまでずっと研究してきた白隠禅師(1686-
り毎夜鷄りの鳴くを待って…[持仏堂で]北野
1764)の伝記の中、
「天神信仰」について長年
の寳號を唱へ、例の天神経数十返に及ぶ。
や
抱いていた疑問を、去る八月に思い掛けない
え むぐら
(『八重葎』)
巡りあいによって、少し解くことができまし
た。その事を紹介しようかと思っていた丁度
先に述べた私の疑問の話は三十年程前に遡
その時、図書館の方から図書関係の記事の依
り、『壁生草』を悪戦苦闘を重ねて英訳に取
頼を受けました。一石二鳥というわけです。
り組んでいた頃、若い白隠が唱えた「天神
天神信仰と禅僧との関係は、室町時代から
経」という題名についての謎でした。大辞典
始まったといわれ、五山の絵にも漢詩にも天
や『国書総目録』を調べて、北野天満宮の研
神はよく出てくる主題であります。中国の無
究所を尋ねてみても、得るものは結局何もあ
準禅師(117812
49)のもとに天神があらわ
りませんでした。「天神経」という題名は白
れ、一晩で印可を得、梅一枝をもって帰国し
隠が作ったものなのか、あるいは、祝詞か天
と とうてんじん
たという「渡唐天神」伝説も、おそらく五山
神の名号一般を指しているのかと考えるよう
の僧によって制作されたのでありましょう。
になっておりました。
室町以降になると天神信仰は寺子屋で多くの
謎が進展のないまま二十年たちました。禅
子供たちに教え込まれることになりました。
文化研究所から『壁生草』を含む十三冊の白
いつ
白隠(幼名岩野)は、彼の自伝である『壁
までぐさ
隠法語全集が出版され、詳注の中で「天神
お さ な
生草』
(1766)の幼稚体験の中で、自分の天神
経」について、編集者芳沢勝弘氏が「天神経」
信仰の原点を次のように述べています。
は江戸初期の寺子屋で使われた教科書の巻末
に付録したものであると初めて解明され、又
老僧、若年の時、母人摩頂して親し く告げて曰
「口伝によって小異があることが多く、意も
く、機須らく北野の神を敬し奉るべし。熟つら
通じがたいところがある。室町以後の作とさ
指を屈して、機が誕日を考うるに、貞享第二丁
れる。寺子屋などで用いられた教科書である
丑の歳の臚月廿五…年月日時供に是れ丑…二十
各種の『往来もの』の巻末に付録として載せ
五日は忝くも丑天神の御縁日なりと。
られた」と説明されておりました。「天神経」
の短い漢文テキストも紹介しておりました。
その頃、日蓮宗の説教師が八熱地獄の苦しみ
を詳説していることを聞いて、岩野が大変心
如是我聞、一時仏在須菩提王、八万四千寶蔵、
配することになり、その苦しみをのがれる方
金剛般若波羅密多、第一梵天王、第二帝釈天、
法はないかと母に泣きながら尋ねたところ天
第三閻羅王、釈迦牟尼仏道、三千大千世界、広
神信仰を勧められました。若い岩野はその日
大福寿経、一切諸仏奉行礼拝供養慧命、須菩提
からそれを実行しました。
王、一切明神等、三千大千世界、供養諸説奉
大谷大学図書館・博物館報(第22号)
( 3)
巻末に禅宗の影響を示す「渡唐天神」像と
行、南無天満大自在天神。
その横に、紅梅と建物の一部の淡彩色挿し絵
「天神経」の問題がそれでほぼ解決したよ
と 詠一首が 刻 まれ てい ます。「む め あら ば うに思いましたが、今年の夏、某競売目録の
いかにはにふのこやなりと われたちよらん
あくましりぞけ」
「天神経」という書物の写真に私の目が釘づ
けになりました。形は教科書の「天神経」と
題名、呪文を付着した経文の体裁、すべて
違って、単行本の仏典のお経の折本装でし
が仏教様式で、そういう形で制作されたとい
た。十枚、高さ約8 c
m、伸した長さ(表紙の
うことに当時天神信仰の強い仏教や禅的な要
部分も入れて) 約32c
m、紙の質などから、
素がうかがわれます。
17世紀の版行と推定されました。表裏の表紙
幼い白隠の自伝に出てくる「天神経」はこ
に「天しんきや(う)
」の原題簽が付され、巻
れと同じ版かどうかは証明する確かな証拠は
首に菅原道真の象徴である松樹と紅梅の前に
ないにしても、その可能性はいくつかの事実
上畳に座している「束帯天神」、淡彩色扉絵
によって示唆されています。例えば、仮名文
とその上に詠一首が刻まれています。「いづ
体の体裁は子供に読み易くしてあるところ。
くにも むめさへあらば われとしれ ここ
それに、この「天神経」以外には知られてい
ろつくしに ほかなたつねそ」
ない扉絵と一緒に刻まれている詠は、白隠が
その後、正式な題名 「南無天満大自在天神
描いた渡唐天神図の讃として数回使われてい
経」と「天神経」の本文15行が続き、上記の
ます。それはともあれ、新しい文献が現れる
漢文テキストを仮名文体になおされた点以外
まで、これは「白隠の天神経」とみてよく、
は、ほとんど同じです。
そしてそれによって、長年、白隠の自伝にま
つわる私の抱いていた疑問のひとつはもう気
にしなくてもよくなりました。
によぜがも ん。一じ ぶ つざい。し ゆぼだいわ
う。八まん四せん。はうざうこんがう。はんに
やはらみつた。だい一ぼんてんわう。だい二た
いしやくてんわう。だい三えんらわう。しやか
むにぶつどう。三ぜん大せんせかい。くわうだ
い。ふ くじ ゆきやう。一さいし よぶ つぶぎ や
う。ら いはい くやう。えみやうし やぼだいわ
う。一さいみやうじんとう。三ぜん大せん。せ
かいくやう。しよせつぶぎやう。
をんどうしんどうしん そ わ か
即説咒曰: 堂心堂心娑婆訶
天神経
( 4) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
8)
貴重資料紹介(1
「神田家記録」と神田寿海
平 野 寿 則 (博物館学芸員・専任講師)
神田家は「蔵書の家」として著名な家柄で
年間(162
4~4
4)に分家し、室町今出川上ル
あり、現在、本学図書館・博物館には、その
築山上半町に居宅を構え、津国屋と号する両
貴重な古典籍が数多く収蔵されている。そう
替商を営んだことに始まる。二代勝正の時に
した中で、とくに「神田家記録」として分類
は、延宝2年(16
74)上京惣代として年頭拝
される一群は、江戸時代の神田家の諸相を伝
礼に江戸へ下向しており、築山上半町の町年
える良質な文書群である。ここでは神田家文
寄を務めるなど 町衆とし ての活躍が窺われ
書の一端を紹介し、合わせて神田家の歴史に
る。また同4年からは、寺院伝奏である公家
ついて概観していくことにしたい。
の勧修寺家を介して、曹洞宗本山の越前永平
「神田家記録」とは、昭和44年(1969)に神
寺・能登総持寺・京都取次の道正庵に出入り
田喜一郎氏より寄贈を受けた文書史料であ
し、官物掛屋の御用を務めた。これは、僧侶
り、神田家の家譜・事績を記した由緒書や家
が僧官の補任や昇階などを寺院伝奏を通じて
業であった両替商関係の記録をはじめ、神田
朝廷に申請する時、各役人への所定の包金の
家が帰依した真宗関係の記録、また所在した
包立を代行したものであった。四代重珍の元
町に関する記録などが主な内容である。こう
禄年間(16
88~1704)には、大坂十人両替の
した諸記録の中には、とりわけ神田信久(法
一員であった平野屋の推挙を得て伊予松山藩
名寿海・1808~62)の編述書類が多数みられ
の掛屋となったのをはじめ、備前岡山藩・播
る。寿海は 九代家寿の六男で、幼少より篤
磨明石藩などの諸大名、庭田・烏丸・東久世
学・篤信の人であり、その信仰の根幹をなす
といった公家と関係を結び、金銭の融通や両
ものは真宗の他力信仰であった。その撰述の
替を担当して家業の拡大を遂げた。また、両
内で、と くに注目されるのが『大谷嫡流実
替向きの触を写した『両替向御触留』によれ
記』である。本書は精緻な考証に基づき、東
ば、正徳5年(17
15)に「京都本仲ヶ間両替
本願寺歴代の詳細な系譜を整理したものであ
一組、向後毎月引替可二申合一銀之高右之通」
り、文久2年(1862)に東本願寺と学寮へ献
とあり、本仲間両替組の各組月行事制度や毎
本された。一方、天保11年(1840)には町年
月引替金銀高の許容量などが定められてい
寄を務め、同13年からは上京大仲十二組の惣
る。大坂における両替屋仲間の存在は寛文2
代役となるなど町政にも関与している。嘉永
年(1662)以降とされるが、京都の両替商仲
7年(1854)に撰した『親町要用亀鑑録』は、
間組織の成立については、この触が出された
町組の由来や組織、上京各町の由緒などを整
正徳年間(17
11~16)頃であったと推測され
理したものであるが、それは寿海の町役人と
る。
しての自覚に動機づけられたものであるとい
その後、五代元福から 八代正恒にかけて
えよう。なお、本書は今日、近世京都の町制
は、津国屋の経営が難局に直面した時期であ
を知る基本史料となっている。
る。これは諸大名への貸付銀の返済が、履行
さて近世の神田家は、初代喜左衛門が摂津
遅滞になり始めたことによるもので、このこ
国嶋下郡福井村(現、茨木市福井)から寛永
ろの貸借銀関係を控えた『年 々帳』によれ
大谷大学図書館・博物館報(第22号)
( 5)
ば、たとえば、享保19年(1734)の貸借高は、
らは、家伯が眼病を患ったことを機に家業全
貸出銀が795貫余に対して、返済銀は2
36貫余
般を支配し、以後十一代・十二代にわたって
となっており、差引559貫余の貸出帳尻であ
神田家当主を補佐した。先述したように「神
ることがわかる。また、先掲の松山藩の場合
田家記録」には、とりわけ寿海の編述書類が
には、延享元年(1744)に元利金1830両1歩、
数多く存在するが、おそらく、それは「当家
銀39貫333匁9分が返済されず、京都留守居
再興ノ仁」と称された父家寿の後、津国屋の
役に願い出て、結局600両だけを毎年100両ず
経営をさらに拡大し、神田家の維持・存続の
つ6年賦で済切することになったという。こ
ために奔走したことと不可分であると思われ
のように諸藩への多額の貸付金が返済され
る。そのことは、寿海が弘化3年(1846)に
ず、京都の有力両替商が没落した話は、三井
著した『家法遺誡抄』や同4年の『童誡俗通
高房の『町人考見録』(172
6~33)にも詳し
以呂波歌』など、家業出精の要領を説いた家
い。こうした津国屋の経営難を立て直したの
訓・教訓歌からも理解することができる。そ
が九代家寿であり、寿海は父の功績を称えて
して、このような寿海の家業遂行や町役人と
「大功繁而難二勝テ計一、凡当代者就レ 中当家再
しての社会的実践を、その根底で根拠付けて
興仁也」と記している。そして、十代家伯の
いたものこそが、東本願寺への帰依心であ
文政9年(182
6)には、売却した曹洞宗の官
り、真宗の他力信仰であった。
物掛屋の株を買い戻し、十一代久伯の嘉永2
嘉永4年(185
1)に撰した『真宗一流俗用
年(1849)には、東本願寺派末寺の権律師官
仮名以呂波歌』や、生涯に詠じた和歌を書き
銀包立を行うなど家業の発展に勤めたが、十
留めた『寿海愚詠集』には、真宗の教えに基
三代信醇(香巌)の明治4年(18
7
1)
、諸寺院
づく自己の信仰が凝縮して吐露されている。
が地方官管轄下となり、諸家執奏が廃止され
神田家の由緒や事績を丹念にまとめ、両替商
たことによって、神田家の掛屋業務も取り止
津国屋の歴史から教訓を学び、京都の町の来
めとなった。
歴を尋ね伝えるなど、その膨大な諸記録から
こうした神田家歴代の事績は、寿海が撰し
は、京都の有力町衆の「知」の体系と、それ
た天保7年(183
6)の『当家伝記』や同15年
に根拠付けられた社会的実践が明らかにされ
の『当家年代由緒雑記』から、その詳細を窺
ると同時に、近世の神田家、とりわけ、この
い知ることができる。文政9年(182
6)寿海
膨大な編述書類を書き残した神田寿海の真宗
は、長兄家伯の命により同業の槌屋家の六代
信仰の受容について、改めて考えてみなけれ
目を相続し官物掛屋を務めており、同13年か
ばならない。
神田家記録
( 6) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
博物館では、2004年1
0月1
2日から1
1月28日にかけて、特別展「京の文化人とその遺産―神田家の
系譜と蔵書―」を開催しました。この特別展に際して、特別展記念講演会が催されました。
以下の講演録は、講演内容に一部補訂・加筆したものです。
特別展記念講演会講演録(1)
京都の町衆と神田家
五 島 邦 治 (園田学園女子大学助教授)
東洋史の碩学で、古典籍の収集家としても
の元本ともいうべきもので、町の求めに応じ
知られる神田喜一郎博士の宅は、大谷大学と
て写し与えた状況が、朱筆で奥に追記されて
も至近の、現在の京都市上京区室町通今出川
いる。後者は、同じく上立売親九町組に残っ
上ル築山北半町にあって、代々は両替商を営
た『上古京立売親九町組年中行事要用録』の
む有力な京都の町人の家柄であった。初代の
元となった本と考えられる。その他、『古御
喜左衛門(法名宗雲、貞享元年《1684》没)
触書抜留』(嘉永6年)は下京の惣町文書を
は、摂津国島下郡(現大阪府茨木市福井)の
書き留めたもので、この原文書が残らない現
出身で、寛永年中(162
4~44)に京都に出、
在、写本として貴重な存在になっている。神
この地で家業をはじめたという。出身の国名
田家記録には、こうして京都の町の由緒に関
から屋号を津国屋といい、代々、東本願寺派
する重要な記録が多数含まれているのであ
長徳寺の有力な檀徒でもあった。
る。
その九代目家寿の六男、神田信久(寿海、
*
文久2年《1862》没)は、十一代久伯、十二
室町時代後期、もっぱら商工業に従事した
代目の実子喜久を後見した神田家にとっては
京都の都市民は、祇園祭などの祭礼を軸とし
重要な人物で、現在残された神田家記録の多
て組織化を進め、民政・警察など にわたっ
くはこの人の手になる。ところで、豊臣秀吉
て、町の運営を自治的に行うようになる。こ
が天正19年(159
1)に上京と下京の町に対し
れが「町衆」である。とくに16世紀中ごろに
て地子(地代)を免除した朱印状などの重要
は、室町幕府の将軍継承をめぐる政権の混乱
文書とともに、町外不出の秘本として上京親
や天文法華一揆による自治機運もあって、京
町筆頭の上立売親九町組に伝えられてきた
都の町の組織化が進んだ。すなわち複数の町
『親町要用亀鑑録』と『上下京町々古書上立
が集まっていくつかの組町を作り、さらにそ
売明細記』(嘉永7年《1854》)という記録が
の組町が惣町を構成するのである。これを
ある。京都の町の歴史を知るうえでの基本的
「町組」というが、京都の場合、そうした惣
な史料であるが、この筆者こそ先の神田信久
町(町組)として、上京と下京の二つがあり、
であった。上京上立売組の長老であった信久
当初はそれぞれ五つの組町で構成されてい
が、丹念に京都の各町に残された文書を調査
た。これがその後の京都の町組織の基礎にな
し、京都の町の由緒をまとめたものである。
り、江戸時代を通じて町と町組を広げていっ
大谷大学に寄贈された神田家記録の中にも、
たのである。当初から ある町組の町を「古
『上古京立売親九町組年中行事要用録』(嘉永
町」、その後市街部の発展とともにできた町
6年冬)、『上立売親町来由録』という表題の
を「新町」とよんで区別している。神田家の
冊子がある。前者こそは『親町要用亀鑑録』
あった築山町は、上京立売組に属する古町で
大谷大学図書館・博物館報(第22号)
( 7)
あった。
同じ『言継卿記』天文3年(1534)8月2
*
日条によると、山科言継は寿命院という僧か
室町時代後期、上京が惣町として、武家に
ら借用した『伊勢物語肖聞抄』という書物を
対抗したり、構成される町相互間の調整をし
「小川之筆作弥二郎」を通して返却している。
ていたようすを、当時の公家の日記から知る
この「弥二郎」は木内弥二郎といい、小川で
ことができる。
「筆作」の商売をした町人であったが、同時
権大納言山科言継の日記『言継卿記』によ
に「狂言者也」とも言われるように、ほとん
ると、天文16年(154
7)正月11日、守護大名
どプロ化し た町衆の中の狂言役者のひとり
細川の有力な家来である上野玄蕃頭元治が、
で、内裏や公家の邸宅で能の狂言を演じたら
公家の一条家敷地内にある民家の地子(地
しい。たんに演じただけではない。天文13年
代)につき、武力によって干渉しようとした
(1544)正月には、内裏で天皇御覧の猿楽能
ことがあった。一条家の急報によって、山科
(当然狂言はその中の1パートを担う)を行
言継は家来に武装させてみずから駆けつけた
うにあたって、これもまた当時もてはやされ
のであるが、その場には多くの公家や武家奉
た町衆猿楽役者の渋谷を呼ぶことになり、言
公人とともに「上京中地下之輩」が集まって
継はその斡旋をこの弥二郎に命じた。また、
おり、全面的に一条家を支援することを表明
同年の11月には、木内弥二郎が山科言継邸を
したという。この「上京中地下之輩」とは上
訪れ、豊後国へ渋谷を同道して下向するにあ
京の町連合体である惣町にほかなら なかっ
たって、かの国の戦国大名である大友への紹
た。
介状を書いてもらっている。これは、九州で
また、天文19年(1550)7月15日には、同
渋谷の能興行を行うための手づるを求めたの
じ上京内にあった一条殿門前の町と誓願寺門
であろう。木内弥二郎は、みずから狂言を演
前の町の二つの町が喧嘩を起こし、死者まで
ずるかたわら、能興行の仲介や世話をするプ
出した。翌日「上京中」百二十町として両町
ロデューサーのような役割を果たしていたの
を仲裁し たという。上京の共同体が連合し
である。
て、その構成される町同士の喧嘩を収めたの
これより前、延徳3年(149
1)4月2
3日に
であろう。
は、相国寺の万松軒に「小河手猿楽大夫」
(手
こうして室町時代以来、上京の惣町は、時
猿楽は素人猿楽の意味)が参入したこともあ
には武力を以って、強い意志力で町の自治を
る(『実隆公記』)。応仁の乱以後、京中のこ
運営してきた。神田家の属した立売組も、そ
うした町衆中に組織された猿楽集団が、内裏
の組中の築山町も、そうした自治を指導して
や公家邸に競って猿楽を演ずることが流行し
きた町としての誇りをもっていた。代々の神
たのである。木内弥二郎といい、「小河手猿
田家当主はその町の長老の後裔であり、先の
楽大夫」といい、上京の小川周辺にはそうし
信久の『親町要用亀鑑録』には、自治を運営
た経済力をもちながら教養人を標榜する都市
してきた町衆の自負が表明されている。
民が居住していた。
*
神田家の代々が漢籍や古典に関心をもち、
「町衆」は、また公家と交流をもち、文化
その古書を収集し た背景には、代 々門徒で
的な活動をし ている。それが有力町衆のス
あった東本願寺の伝奏家(朝廷に取り次ぐ特
テータスでもあった。上京小川に居住した筆
定の公家)である、勧 修 寺 家 の影響があっ
作の木内弥二郎を例にその実態をみてみよ
たといわれている。京都の町衆の家屋は、豊
う。
臣秀吉の地子免除までは、公家の所領の上に
か じゅう じ
け
( 8) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
建ち、住人である町衆は、地子を公家に納め
野元信の邸宅地という由緒によるものであっ
ていた。つまり農民と同様に、領主があっ
て、『言継卿記』の記事とも符合している。
て、本所と仰いでいたのである。それはたん
江戸時代になって、徳大寺の邸宅そのもの
に領主と領民の関係以上に、親密な関係を
は、この徳大寺殿町から内裏の側に引っ越し
もっていた。
し、さらに明治以降は東京に引き移ったので
現在の上京区新町通今出川下ルに徳大寺殿
あるが、少なくとも最近まで、町内の人たち
町という町がある。室町時代には公家の徳大
が毎年徳大寺殿の墓地のある鴨東の真如堂に
寺の邸宅があったことにちなむ町名である。
参拝するのを例としていた。江戸時代になっ
『言継卿記』にも、山科言継がここにあった
て公家が領主でなくなっても、町の由緒とし
徳大寺邸を訪ねた記事があり、絵師の狩野元
て公家との関係はつづき、町衆は公家をたい
信に引き合わされている。そのとき、元信は
せつに扱って、習慣を残してきたのである。
徳大寺邸の裏に居住していたという記述もあ
京都の町衆の文化的な活動は、こうした公
る。現在、徳大寺殿町の北寄りに、新町通の
家との交流の中で育ち、伝統を維持してきた
西側を通る小川通へと貫通する細い道があ
のである。神田家の文化的な活動も、このよ
ず し
る。京都ではこうした細い道を「図子」とよ
うな町衆の伝統的な系譜中で考えられると思
んでいるが、この図子は「狩野図子」とか
う。
「元図子」という名がついており、前者は狩
大谷大学図書館・博物館報(第22号)
( 9)
特別展記念講演会講演録(2)
神田コレクションの魅力
藤 島 建 樹 (大谷大学名誉教授)
Ⅰ 神田コレクションの成り立ち
る。香巌居士に可愛がられて育ち、そのうえ
神田コレ クションの魅力を語るには、まず
多感な青少年期に祖父とともにブームを見聞
このコレ クションの成り立ちに触れねばなら
し肌で感じた博士がその影響を受けないはず
ない。京都の室町通今出川上ルで江戸時代初
はなかった。敦煌文書の写真が公開され、一
期から両替商を営んでいた「津国屋」、これ
般の人々の間にもテン ヤワン ヤの大騒ぎ に
が神田家である。京都の老舗への道を歩むな
なったこと。祖父もトンコウ・トンコウと騒
かで、神田家は京文化の維持・発展に努める
ぎ まわっていた一人であり、中学校へ入った
町衆としての器量を蓄えた。また、代々敬虔
ばかりの博士も祖父に連れられて展観に行っ
な真宗大谷派門徒としての信仰も深めた。そ
たこと、とにかく大変な騒ぎであったことを
のような変遷の中で第13代に神田久信(1854
今でもよく覚えていると、後年博士はその時
~19
18)、号を冠して香巌居士と呼ぶ人物が
の興奮の様を記している。やがて三高から京
でた。生年は幕末の嘉永7年。香巌は幼い頃
都大学へ進んだ博士が、祖父と親交があった
から漢学を学び、詩・書にも秀でたという。
内藤湖南に師事し、終生弟子の礼を尽くして
その才能は当時の文人墨客との交流を通じて
師と仰いだことからも、祖父の存在とこの頃
醸成して、漢籍・書画・金石文などの鑑識に
の影響がいかに大きかったかが覗われる。
も及んだ。40歳で京都帝室博物館の鑑別員、
博士と大谷大学の縁は、博士が大学卒業後
50歳で同学芸委員となり、その鑑識眼は専門
すぐに本学の教壇に招かれたことに始まる。
家の域に達した。自らもそれらの採訪蒐集に
このとき本学は大学令に則り、佐々木月樵学
努めて、激しい時代変革の渦中で古文化の保
長を立てて新しい出発をした直後であった。
護・保存に意を注いだ。
若い気鋭の教員が多く招かれ、博士もそのひ
さらに、香巌居士のこの志向を助長したの
とりであった。本学の図書館充実という博士
が、1900年代初頭に到来した東洋学ブームで
が終生抱いた願いは、この5年間の在任中に
あった。その一つは、殷墟周辺から掘り出さ
始まったのであろう。その後宮内庁図書寮、
れた甲骨文字の発現とその研究成果の公表で
台北帝国大学を経て、研鑚を積んだ博士が再
あったし、もう一つは、敦煌千仏洞第17窟か
び 本 学 に 帰 任 し た の は 戦 後 の 昭 和2
1年
らの敦煌文書の出現であった。そのいずれも
(1946)であった。このとき専任在任は2ケ
が世界的規模の衝撃をもたらした。ことに当
年半であったが、これ以後本学との関係はよ
時の京都大学は、教授に内藤湖南・狩野直喜・
り親密なものとなった。昭和2
7年(1952)、
小川琢治ら、加えて富岡謙蔵・濱田耕作・羽
博士にもっともふさわしい京都国立博物館長
田亨・桑原隲蔵など東洋学京都学派を作り上
就任、その在任8ケ年余に及んだ。退任後
げた錚々たるメンバーの教員を擁し、各々が
は、それまで蓄積した数々の論文・論著の刊
論陣をはって、このブームを盛り上げた。
行、『書道全集』の完成をはじめとする諸々
香巌居士の孫として明治30年(189
7)に生
の編纂・監修の仕事に傾注した。それらの一
まれたのが神田喜一郎博士(号・鬯貴)であ
つひとつが学問的価値高く、博識と情熱に裏
(1
0) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
付けされている。加えて本学への想いは更に
設けられた「ジュリアン賞」をフランス学士
深まった。神田家伝来文書や香巌居士蒐集の
院から授けられたことも宜なるかなといえよ
日本金石拓本類の寄託、本学出版の『中国古
う。この洋書類に象徴されるように、多様な
印図録』・『宋拓墨宝二種』の監修など、常に
蒐集品の全てに、香巌・鬯貴両氏の東アジア
本学への厚い配慮は途切れたことがなかった。
文化の保存と紹介への熱情を看取することが
その博士が、自身の全集刊行を意図し、旧著
できる。
の補訂・編輯に意欲的に取組んだ。その完成
その魅力の第2は、この蒐集を通覧するこ
が待たれたが、第2回配本の直後、昭和59年
とによって、出版と書籍文化の歴史的歩みを
(1984)4月10日急逝。享年86歳であった。
学べることである。
先生の還浄のあと、ご遺族の厚意を体した
刊本以前の鈔本であり、新羅の高僧元暁の
嫡男故神田信夫先生によって、香巌・鬯貴両
撰述である『判比量論』断簡や、空海の書簡
氏の蒐集蔵書が一括して本学へ寄贈されたの
集である『高野雑筆集』2巻はいずれも現存
である。本学ではこれを「神田コレ クシ ョ
最古のものであり、資料的・学問的価値の高
ン」とし て所蔵し、その学恩に報いる為に
さもあって、寄贈後に「重要文化財」指定を
『神田鬯貴博士寄贈図書目録』と『神田鬯貴
受けた逸品中の逸品である。
博士寄贈図書善本書影』を編纂し刊行した。
刊本も、漢籍では宋・元・明・清の各版を
京を代表する「文化人」である祖父と、真
そろえ、それぞれが何らかの印刷史上を彩る
の「磧学」と称せられた孫によって、1世紀
特徴を備えて興味が尽きない。『仏果圜悟真
有余に亘って蒐められたのが「神田コレ ク
覚禅師心要』2巻は、上巻は日本五山版の一
ション」である。
つ臨川寺版であり、下巻は中国・宋代の刊本
である。中国で重刊された宋版と日本で出版
Ⅱ 神田コレクションの魅力
された覆宋本である五山版との異版の組合せ
神田コレ クシ ョンの魅力の第1は、『図書
は、日中両国の印刷文化の流れに加えて、両
目録』を一覧すれば明白だが、その多種・多
国の仏教を通しての文化伝達の実態もうかが
様 さ に あ る。総 数1,
600余 部、冊 数 に し て
わし める。題簽には「香巌居士珍蔵」とあ
10,
700冊余であるが、その分類は中国に源を
る。
発する「漢籍之部」、日本で書かれた「国書之
明代になると、書店による出版が進む。戯
部」、さらに「洋書之部」の各部に亘る。この
曲・小説・類書と出版も多面に亘る。このコ
蒐集が単なる嗜好から出た偏ったものではな
レ クションは、それらにも注意を払い、出版
く、広い視野と深い学識に支えられたもので
隆盛期の様子を伝えるとともに、ともすれば
あることを知らし める。洋書に例をとると
散逸し かねないこれら庶民文化への視点も
150部 余 を 数 え るが、そこ にはレ ミ ュザ の
失ってはいない。
『仏国記』のフラン ス語訳。ジ ュリアンによ
また『西儒耳目資』3巻は明末の出版で金
る『孟子』のラテン語訳である『西講孟子』
、
尼閣撰。金尼閣とは、イエズス会宣教師ニコ
同じく『大唐西域記』のフランス語訳などを
ラ・トリゴーの漢名である。本書は彼が作っ
はじ めとし、珍し い元曲の翻訳本などもあ
た中国語発音辞典ともいえるもので、中国語
る。
「コレージュ・ド・フランス」を中心とし
をはじめてローマ字表現したものである。出
19世紀初頭から盛んになった西欧における東
版界にとっても異色のものであり、かつ学術
アジア文化の紹介と研究の足跡を辿ることが
的価値も高い。本書は伝本稀なものである
できる。博士がジュリアンの業績を記念して
が、博 士が 大 正11年(1922)北 京 の 廠 肆 で
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 1
1)
偶々目にし購入したもので「多くは覯い易か
孤本」と称せられるものも少なくない。博士
らざるの秘笈なり」と、その喜びを記してい
は『鬯貴蔵曲志』に約30種を紹介し、さらに
る。博士の目なくしては得られなかったもの
『戯曲善本三種』として覆刻出版して、世に
であろう。のちに数名の学者がこの本を題材
公開された。
とした研究を発表している。
以上、数例を示したにすぎないが、このコ
印刷史上に一時期を企したものに、活字使
レ クションに含まれる各書籍は、学術的・文
用がある。この古活字版蒐集にも熱心であっ
化史的な重い意味を持っている。加えて、そ
た。『国朝儒先録』4巻は朝鮮半島の銅活字
れぞれに秘めた逸話・エピ ソード の類も枚挙
版であり稀少価値と資料的価値も高い。その
に暇がなく、その興味は止まることがない。
半島での技術は秀吉の朝鮮出兵に乗じて日本
博士はそれらを私蔵することなく、機会に応
に渡来し、日本の文禄・慶長・元和の各年間
じて、考究を加え紹介することにつとめた。
に多く見られる木活字版の出版となり、日本
そのもっとも顕著な例は、貴重仏書の覆刻
印刷史上の一時代を飾った。この木活字版の
出版であった。神田家の仏教への信仰の篤さ
蒐集も2
0本余に及ぶ。
は、この蒐集にも反映している。博士も晩年
第3の魅力は、何といっても、この蒐集さ
自らの信仰の深まりの中で、それらの公開を
れた各本のもつ個性的魅力であろう。
望み、しかるべき専門の学者に解題と研究を
前述したものも含むが、例えば、著名な禅
託し、自身はその出版に尽力した。自ら筆を
僧虎関師錬撰述の作詩のための音韻の書『聚
とった序文の最後の署名には必ず「白衣の弟
分韻略』5巻は3種が蒐集されている。もっ
子」との一語を冠している。この叢書は「優
とも古いものが応永19年(14
12)刊の五山版
鉢羅室叢書」と命名された。仏に関わる花、
(東福寺版)であり、大英博物館に一本蔵す
数千年に一度しか遭えない花に喩えて、千載
るのみの伝本稀な「香巌秘笈」とされる善本
一遇の仏典を公開する敬虔にして篤い信仰者
である。次は応永本の覆刻本であり、文明18
の姿が表現されていよう。
年(1486)の刊本であるが、禅僧が座右で用
各種善本には『鬯貴蔵書絶句』、『東洋文献
いたことを知らしめる細密な注記が書き込ま
叢説』など著書が執筆され、その他論考や随
れている。3本目は小型の携帯用に作られて
想による紹介は多岐多種に及ぶ。亡くなられ
おり、出版文化を進めた大内義隆の出版、い
て後になったが、『神田喜一郎全集』10巻が
わゆる大内版である。この3種を並べること
完成し、その中にその多くは収録された。そ
によって、字書的機能をも持った本書が中世
れによって博士の秀れた見識と温厚な人柄に
以降盛行・珍重されたことを知り得よう。
ふれることができるのは幸いである。それら
また、禅宗の基本的書籍として著名な『景
に導かれながら、さらに後進によってこのコ
徳伝燈録』30巻8冊の元版がある。各巻末に
レ クションの研究が継承されることを期待す
刊行のために募財した助縁者の名と金額が細
ると共に、今後もこのような展観が継続さ
かく明記されている。元末動乱期でありなが
れ、神田コレ クションの全貌が広く学の内外
ら、江南での出版状況とそれを支えた多くの
に公開されることを望みたい。
信者の存在を伝えて興味深い。
さらに、戯曲本の類がある。1900年代前半
になって見直され、研究が進んだ状況が追風
になったこともあろうが、元曲の脚本蒐集も
コレ クシ ョンの一つの特色である。「海内の
(1
2) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
『坂東本・教行信証』が問いかけること
三 木 彰 円 (専任講師・真宗学)
2
004年11月、京都国立博物館で「坂東本」
の特別展観が行われた。この展観は2
003年7
月から行われた修理の完了を記念したもので
ある。同時期、東本願寺においても修理完了
までの経緯を報告するパネル展が開催され
た。この修理に関わってきた私にとって、い
ずれの展観も非常に印象深いものであった。
『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)
は、「浄土宗」の名乗りのもとに法然が独立
した一宗の本義を「浄土真宗」として公開す
修復完了後の坂東本
るために親鸞が撰述し たものである。その
『教行信証』の現存する唯一の真筆本が真宗
坂東本は実に様々な危難をくぐってきた書
大谷派に蔵され、「坂東本」の名で知られて
物である。火災ということを取り上げてみて
いる。この称は、この一本が親鸞の高弟・性
も、報恩寺は横曽根から江戸へと寺基を移転
信を開基とする坂東報恩寺に長く伝持されて
して以降10回を超える火災に遭遇したといわ
きたことに由来するものである。
れるが、その中でも192
3年(大正12)の関東
坂東本は本文の大部分が親鸞6
0歳頃の筆で
大震災による被災は、最も大きな危難の一つ
記され、それ以降最晩年に及ぶ推敲・加筆の
であった。当時保管に万全を期すために坂東
跡を見ることができる。『教行信証』の成立
本は浅草別院の金庫に保管されていたが、別
時期について、先学によって様々な見解が立
院の堂宇は全焼したものの辛うじて坂東本は
てられているが、坂東本はそれらを検討する
焼失を免れた。この時のことについて、『浅
上で貴重であるだけでなく、法然との値遇、
草本願寺史』に次のような記述がある。
そして弾圧という出来事をくぐって、親鸞が
自らの生涯の全てを「顕浄土真実教行証」と
九月一日の日、私は当番でありました。お朝
いう一事に集約させた事実を私たちに目の当
事から詰めてゐたのです。お日中の勤行も済ん
たりにさせるものである。常に同朋を憶念し
で、本堂には五六十名の同行が居残り、昼から
つつ生きた親鸞が、いかなる課題に向き合
の説教を聴聞しようと、堂内のそちこちに屯ろ
い、いかなる思索を重ねていったのか。坂東
してゐました。そこへ突如あの大地震です。内
本は親鸞、その人の息づかいまでも私たちに
陣へ入つて見ると、須弥壇は五六寸も前方へ揺
明らかにするものなのである。
るぎ出で、宮殿は今にも倒れようとする有様で
現在にまで至る坂東本の歴史に目を向ける
す。同行からの反対がありましたが、意を決し
ならば、そこに坂東本を伝持し真宗を公開す
て御尊様(本尊)を安全な場所へとお出し申し
ることを願って生きた多くの先人たちが存在
たのでした。大事な物は成る可く一ト所にかた
することをも私たちは教えられる。
めて置くやうにし ました。其の時の輪番は長谷
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 1
3)
川得静さんです。輪番は、経蔵の中に大切な教
色など、熱に覆われた影響は大きく、緊急に
行信証がし まつてある。それを外へ出せといふ
修理を要する状態であったという。その修理
のでした。出せといつても、蔵の中の金庫の中
に着手できたのは敗戦後のことである。1952
に蔵つてゐるのですから出す事が出来ません。
年(昭和2
7)の国宝指定を経て、1954年(昭
兎に角経蔵の中に入つて見ると、壁土がひど く
和2
9)には国庫補助を得て、赤松俊秀博士を
落ちてゐて、足の踏み込むことも出来ません。
中心に坂東本の全面的な修理が行われた。坂
やうやく金庫の場所へ来ましたが、勿論出すな
東本全体の綴じを開き本紙全てに補修補強を
どといふことは出来ませんから崩れ落ちた壁土
加え、坂東本本来の形態を復元し綴じ直すと
で金庫の周囲を埋め、尚上の方へも厚く被せ、
いう作業の中で、赤松博士によって確認され
水を一杯容れた桶を運んで来て其の上に載せて
た様々な事実は、坂東本の成立を考察する上
置いたのでした。御本書(『教行信証』)が少しも
で画期的なものであった。
損じなかつたのは、素より仏祖の冥祐ですが、
さらにこの修理からおよそ50年を経た2
003
幾分さうした事も役立つてゐたかも知れませぬ。
年7月から、文化庁、京都府教育委員会、京
(佐々木大心氏談・括弧内筆者)
都国立博物館の監督指導のもとに、今後の保
持伝達に万全を期すための修理が行われ、冒
これに加えて、被災後、自然発火を危ぶん
頭に記した特別展観に至ったのである。
で金庫内の熱が冷め切るまで取り出すことを
坂東本は早くから「宗祖御真筆本」として
とどまったという的確な判断もあり、坂東本
その存在が知られており、江戸期には報恩寺
の焼失という最悪の事態は回避されたのであ
によりたびたび開帳(展観)されていたこと
る。
が『武江年表』に記録されている。また大谷
坂東本が、このような出来事を幾たびもく
派により坂東本の臨写模本が作成され、例え
ぐってきたことを思う時、今私たちが坂東本
ば香月院深励(174
9184
7)が臨写本を通し
に接することができるのは、まさに僥倖とし
て坂東本に言及しつつ『教行信証』を講義す
か言いようのないことである。そこにはまさ
ることに見られるように(『広文類会読記』)、
に「身命をかえりみずして」親鸞の教えを伝
坂東本が親鸞の思想研究において注目される
持しようとした無数の人々が存在することに
情況ともなる。
改めて気づかされる。
このような坂東本に対する意識の高まりの
震災の後、坂東本は京都で保管されること
中で特筆されるのは、深励の門下・丹山順芸
となる。しかし表紙の崩落、本紙の劣化や変
(1785184
7)による臨写本の制作である。現
在大谷大学には丹山臨写本として「真宗大学
寮所蔵本」「禿庵文庫本(丹山文庫旧蔵本)」
の2本が所蔵されるが、これらは坂東本の筆
勢や朱書の再現など、その技術の高さと精緻
さにおいて群を抜くものであり、私たちが坂
東本を研究する上で、何よりも注意しなけれ
ばならないものである。(多屋賴俊氏によれ
ば、かつて図書館長の引継ぎ の際、「若し、
火災というような時には、第一にこの本を取
り出さねばならぬ」ことが申し送られていた
坂東本・行文類
という。この点にも丹山臨写本の重要さの一
(1
4) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
端を窺えよう。―『親鸞聖人真蹟集成』第2
坂東本に直接する如 くに学ぶということ
巻解説)
は、同時にまた、坂東本の公開を願ってきた
これらは、言うならば坂東本公開への取り
先人たちとの対話が、私たちに改めて求めら
組みの一端であるが、それが大きく結実する
れるということでもある。例えば、坂東本に
のは、大谷派による1922年(大正11)の坂東
は朱書のいくつかに褪色して判読しがたい箇
本の原寸大影印本の刊行である(立教開宗
所がある。その箇所を読みとろうとする時、
700年記念)。さらに1956年(昭和3
1)には宗
先に述べた丹山の営為が新たな意味を持って
祖700回御遠忌記念として再度原寸大影印本
私たちの前に浮かび上がってくることとな
が刊行されたが、これらは坂東本の全容を公
る。
開するものであり、親鸞研究の進展に大きく
坂東本の示す事実の厳密な確認作業と、先
寄与するものであった。
学たちによる判断や見解の一々についての再
それからさらに時を経て、私たちは今改め
検証作業は、同時に坂東本を通して「愚禿釈
て大きな転機を迎えようとしている。大谷派
親鸞」と名乗る仏弟子の姿を明らかにしてい
では宗祖750回御遠忌記念事業として坂東本
く営為でもある。私たちは改めて今、その課
の精細なカラー影印本刊行を企図し、2
003年
題に取り組み直す端緒に立たなければならな
に行われた修理の間に撮影を行い、間もなく
い。
刊行されることとなっている。このカラー影
印本の刊行によって、私たちは初めて坂東本
の原本に直接する如くに親鸞を学ぶことが可
能となるであろう。
丹山本(禿庵文庫)
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 1
5)
『妙正寺文庫』について
―小栗栖香頂関係資料追加寄贈の報告―
木 場 明 志 (教授・国史学)
本学図書館には『妙正寺文庫』が設置され
ている。そこには、昭和40年(1965)に大分
市中戸次の真宗大谷派妙正寺から寄贈を受け
た書籍群が架蔵されてきた。内容は、妙正寺
13世住職で近代大谷派の傑物に数えられる小
栗栖香頂師(天保2~明治38、183
1~1905)
に関わる、『八洲日暦』(自筆日記)5
7冊を中
心とする、師の自筆書および 公刊著作50部
12
4冊である。これらの架蔵本の内からは、
故柏原祐泉本学名誉教授の選定によって、
『宗名往復録』が『真宗史料集成』第10巻「法
小栗栖香頂肖像
論と庶民教化」(同朋舎、19
78年刊)に、『天
られない措置である。後述するように、小栗
恩広大』が『明治仏教思想資料集成』第2巻
栖香頂師関係資料には計り知れない価値があ
ラ
マ
(同、1980年刊)に、
『喇嘛教沿革』
『真言宗大
ることが近年明らかになっている。
意』が同第5巻(同、198
1年刊)に重要史料
師については、従来は宗政家と扱われてき
として翻刻収載されてきた。また、本文庫架
た(『真宗人名辞典』『日本仏教人名辞典』)。
蔵本を底本としてはいないが『喇嘛教沿革』
明治6年(18
73)および 9年に上海に渡航
は影印復刻版(続群書類従完成会刊)が出さ
し、上海を拠点に中国国内の宗教事情を視
れ、『真宗教旨』は戦後においてもいわゆる
察。同時に東本願寺上海別院を開創して日本
海賊版が台湾で刊行されている。
仏教界による中国布教の端緒を開いたこと。
ついては、先年の平成16年(2
004)4月、
明治2
0年代以降は関東を中心に各地に盛んに
その『妙正寺文庫』に妙正寺および同寺檀徒
巡回法筵を行い、同38年3月の示寂と同時に
の総意に基づく約10
,
00部15
,
00冊の新たな追
学寮講師を追贈されたことが知られている。
加寄贈を戴くことができた(書籍群の仮目録
しかし、師は実は学僧としても位置づける
は平成15年度に本学大学院仏教文化専攻生有
べきである。このたび追贈の資料群の紹介と
志が作成した)。従来の文庫冊数を大幅に上
あわせながら、師の略歴を紐解いてみよう。
回る、妙正寺所蔵小栗栖香頂師関係資料のす
天保2年(183
1) 生まれの師は、豊後日田の
べてにあたる書籍群である。4月に妙正寺に
咸宜園(漢学塾)に学んで漢詩・儒学に優れ
おいて小栗栖香頂師百回忌法要が厳修された
て三才の一人と謳われた。漢籍資料の多さが
ことを記念して、蔵書を一処に置くことで散
これを示している。その後、22歳からの9年
逸を防ぎ、かつ今後の研究に資するために、
間は東本願寺学寮に在籍して倶舎・法相・華
追加寄贈が同寺および同寺役員・総代の方々
厳・天台の学問を修めて宗学(真宗教学)研
の総意によって決定されたのである。同寺お
究に及んだ。その後は『大乗起信論』
『真言十
よび関係者の高い見識に敬意を払わずにはい
巻章』『真言五教章』を中心に八宗の学問を
(1
6) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
大成し、慶応元年(1865)に 初めて学寮で
図り、遂に師の姪光子の嫁ぎ先、久留米市永
『真言十巻章』『十住心論』を講じ、明治元年
福寺に日記の残り分をはじめとする中国滞在
(1868)に学寮擬講に任じられた。こうした
中資料が現存することが判明した。中国語学
修学時代に購入し た本には、一 々購入年月
習の記録、中国仏教の実情、諸宗教の状況な
日、代価、読み始め、読み終わり日の記入
どが詳細に記された一級資料が多数発見され
と、本文に多くの朱傍線が施されており、当
たのである。資料価値は大谷派一教団として
時の宗学研究の範囲の広さが余すところなく
の範囲をはるかに越え、19世紀後半の中国語
知られる。ところが、師は明治維新に遭遇し
学習法(初級学習法)、清末仏教の様相(日本
て学寮の伝統的なあり方に疑問を抱き、学寮
仏教との余りの差異)
、中国国内事情(中国
講者は名利の対象と化していると批判して擬
庶民の生活習俗)を鮮明に映すものである。
講職辞退を申し入れた。一年の大半を京都に
日記も164冊中16
1冊が揃うことになった。
拘束される講者にはできない、広く社会で行
師は高血圧症を発症して同7年8月に中国
動することを目指すとして、同5年(18
72)
を離れ、2年後には自ら編纂した中国布教テ
に東京に移る。東京では早速、時勢の十五条
キスト『真宗教旨』を携えて谷了念らと再び
を浅草本願寺に住する法嗣現如上人に献策し
上海に渡り、東本願寺上海別院を創設して自
(連枝欧米留学、本山移東、大学東西設置、
ら中国語で説教を行い、あわせて中国語説教
三講者廃止など)
、「真宗」宗名回復のために
を行う日本人青年僧育成の学校(江蘇教校)
大隈重信を説いて、ついに宗名公許を実現し
を設置した。高血圧症の悪化で翌年3月に已
た。「宗 名は 宗 祖親 鸞 聖 人に よる名 乗 りで
むなく帰国し、以後5年間は自坊で療養生活
あって、政治の関与するところでない」(『八
を送る。病状がやや回復した同16年(1883)、
洲日暦』)とする今なお通用する優れた主張
本山は学寮講師就任を拒む師を上等教校教授
をしたのであった。翌年には公用で赴いた長
に任じた。宗学と普通学とを修する当時の宗
崎で中国語を学び、そのまま上海から中国に
門内上級学校である。しかし、これも2年で
入って天津を経て北京に至り、龍泉寺本然和
辞して社会教化に専念する道を選び、同22年
尚に師事し、寺庵に下宿して中国語習得と仏
(1889)からは関八州教学策新委員長として、
教事情視察の1年間を送る。喇嘛僧、中国僧
関東を中心に主に東日本の地方教化に邁進す
らと親交をもち、またキリスト教やイスラム
る生活に入った。このころの説教は随行者に
教の調査にも及んだ(『支那教派大意』)。
よって記録され、『蓮舶法話』60冊として残
実は先に寄贈を受けていた『妙正寺文庫』
存する。また、貴婦人法話会(師が創めた三
には2度の中国渡航時代の資料は完全に抜け
条実美夫人を筆頭とする上流女性の聞法会)
落ちていた。安政5年(1858)1月から示寂
の月例講話は多くが活字冊子化されている。
2週間前の明治38年(1895)年3月に及ぶ日
講師就任を嫌った師に対し、同2
8年(1895)
記『八洲日暦』にしても、164冊のうちの5
7冊
には終身講師待遇が与えられた。また、同2
9
であって中国滞在中の分は無かった。借り出
年(1896)に顕在化する清澤満之師ら東京留
されたものであろうとの見当はつくものの、
学経験者が先導し た教団改革運動に際し て
追跡の方法はないように思われていた。しか
は、いち早く東京を拠点に活躍した66歳の老
し、近年になって師を清朝末期の中国仏教に
教学者とし て教学重視の立場から理解を示
影響を与えた日本僧とし て評価する研究者
し、弟の小栗憲一(京都大谷中学校第5代校
(武蔵野大学陳継東専任講師)が現れ、妙正
長)からの逐次報告によって清澤満之師の僧
寺小栗栖法秀住職の協力を得て行方の調査を
籍剥奪処分を知り、「ああ、これより本山は
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 1
7)
一切止め、宗祖に倣って念仏と浄土荘厳観察
の生活に入り、同38年(1905)3月18日に示
寂、本山は同日付で講師を追贈した。師につ
いて、近代中国仏教改革の第一人者太虚法師
の高弟芝峰法師は、
193
7年の再刊『真宗教旨』
に序文を寄せ、「師は教の為、人の為に尽く
した龍象の日本僧であった」と賛辞を連ねて
いる。
八洲日暦
滅亡の域に接せん」
(『八洲日暦』)と嘆いた。
師は上述の略歴だけではとうてい評しきれ
ない人物であるが、今回の追加寄贈書群に
よって幕末期から日露戦争期までの約半世紀
当時の「教学」の用語は、
「教」は布教、
「学」
の日記が揃い、従来は点描に過ぎなかった激
は学事研鑽を指し、布教は学事に裏付けられ
動の時代の連続した真宗事情、仏教界事情、
て成果があり、学事は布教のためにこそ研鑽
政界との繋がり、中国仏教との交渉などを知
されねばならないとするもので、師は学事振
る手がかりが提供された。また、それぞれの
興が布教の実に結び つくと考えていた。ま
単冊の自筆資料は情報に溢れ、購入本や中国
た、福沢諭吉邸に真宗説教に招かれて説教後
要人との交渉によって入手した中国書、例え
に交わした問答には、功利主義者福沢に対し
ば北京雍和宮の喇嘛教活仏から贈られた『禅
て懇切に浄土の実在を説くなど、優れた教学
門仏事』などには、その事情と、入手日付な
者としての師の面目を見せている。
どが記載されていて恰好の研究素材となる。
今ひとつ、師の晩年の事績として、同32年
尽くせないことであるが、『妙正寺文庫』
(1899)からの中国仏教を代表する楊仁山と
追加寄贈を戴いた妙正寺とご関係の方々に深
の真宗教学をめぐる論争がある。師の『真宗
甚の謝意を評し、これらの文庫収納書籍群が
教旨』を読んだ楊がその念仏だけとする撰
今後の学術的研究に資する重要価値の若干を
択・廃立的立場に疑問を呈し、経典に見えな
指摘して、追加寄贈の報告にかえる。
い偏りを懸念して自著『評真宗教旨』を送っ
てきたことが発端である。初めは楊と親交深
かった南条文雄師に持ちかけられたが、当代
第一の教学者として名声のあった香頂師に委
ねられたもので、師は『陽駁陰資弁』
『念仏円
通』を執筆し て応えた。それに対し て楊は
『評陽駁陰資弁』『評小栗栖念仏円通』を著し
て反駁するなど論争は続いたが、師の病状悪
化によって論争は学寮の龍舟に引き継がれ
た。楊はこれ以上は無用と論争を打ち切った
が、双方の仏教的見識の高さと仏教研究への
熱意が生んだ論争であった。師の名声は中国
仏教界に聞こえ、『真宗教旨』は193
7年の上
海での刊行まで3回も中国で出版された書で
あった。最晩年の5年間は巡回説教・講演を
(1
8) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
世界“知的”遺産―西谷文庫
門 脇 健 (教授・宗教学、宗教哲学)
このたび本学の図書館に宗教哲学者西谷啓
いう機会を得たのであるが、「これはかなわ
治先生の残された蔵書のほぼすべてが収蔵さ
ない」、といきなり降参してし まった。宗教
れ「西谷文庫」として公開されることになっ
や宗教学そして哲学の本が揃えられているの
た。これは画期的な事件である。2
0世紀を代
はもちろんであるが、歴史、文学や政治それ
表する宗教哲学者である西谷先生の研究の跡
に自然科学に関する本さえもが揃えられ、そ
が目の当たりにできるのだから、と申し上げ
して丹念に読み込まれて、批判されているの
ても、今の学生諸君にはピンとこないかもし
である。先生は深夜に読書にふけられたと伝
れない。なにしろ、先生の宗教哲学はまった
えられるが、それは、さまざまな分野の世界
く独特のものであったから、その思索にじか
的学者との壮絶な知的格闘の時間であったの
に触れていないと、その凄さ・深さが十分に
である。そのような知的格闘から、無数のメ
理解されない性質のものだからである。それ
モが作成され、大河のようにゆったり流れる
ゆえ、私なども、西谷先生の思想を学生諸君
講義がなされ、そして英語・ド イツ語・スペ
にうまく伝えられていない。というわけで、
イン語・イタリア語に翻訳された『宗教とは
学生諸君が西谷啓治と聞いても「ピンとこな
何か』が生まれたのである。
い」のは、我々の責任であって、学生諸君の
なんだか凄そうだな、と思った人は、まず
責任ではない。
は 岩 波 現 代 文 庫『宗 教 と 非 宗 教 の 間』で
このたび『西谷文庫目録』を作成するにあ
ウォーミングアップをして、そして西谷啓治
たって、先生の蔵書の書き込みを「覗く」と
著作集に挑戦してみてください。
刊行物のご案内
『西谷文庫目録』
和書の部・洋書の部
CDROM 版
図録『大谷大学博物館 開館記念特別展
2分冊 11,
000円
5,
000円
古典籍の魅力―大谷大学の名品―』
1,
000円
図録『2
0
0
4年度特別展 京の文化人とその
遺産―神田家の系譜と蔵書―』 1,
500円
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 1
9)
谷
大
学
2
004年度大大谷大学短期大学部
博物館学課程
2004年度の活動計画
要に応じて提出させた。
2
004年度の文学部・短期大学部の博物館学
夏期休暇中、夏期フ ィールド を7月3
1日
課程は、前年度の反省を踏まえて立案され、
臥、8月3日峨・4日我の3日間で企画し、
諸課程委員会博物館学課程部会で承認された
初日に「博物館等施設見学」、2日目に「古
授業計画に基づき、博物館実習Ⅰ担当教員を
文書調査整理実習」、3日目に「博物館資料
中心に実施した。
撮影実習」という計画を立て、実施した(詳
細は「博物館実習Ⅰ(学内実習)夏期フィー
博物館実習Ⅰ(学内実習)
ルド」参照)。終了後、受講生は夏期フィー
本年度の博物館実習Ⅰ(「2
004年度博物館
ルド参加レポートを提出した。
実習Ⅰ(学内実習)授業テーマと内容」参照)
後期、④「真宗史料」、⑤「仏教文献資料Ⅰ
は、文学部第3学年と短期大学部第2学年を
~Ⅲ」では、真宗史料と東洋・日本の仏教を
中心に、大学院生・第4学年・科目等履修生
中心とした文献資料の講義と実習をおこなっ
を含む計2
5名を対象にし、まずはじめに「仏
た。いずれも専門的知識の習得と取り扱い技
教資料取扱法」(序説)と題して、「総論」か
術の習得に注意した。このほか、近年、博物
ら入り、本課程の歴史やねらい、展望などに
館でその利用が注目されている情報処理技術
ふれて、受講生に目的意識の明確化を促し
と博物館の関係を認知させるために「博物館
た。また本課程の特色である「仏教文化財」
とマルチメディア」の講義を実施した。
の内容を概説した。そして、受講生には「仏
最終授業時には、1年間の授業の総括と、
教資料取扱法」(序説)の内容をふまえて、
次年度の博物館実習Ⅱ(学外実習)にのぞむ
「仏教文化財について」「受講生にとって博物
心構えや、博物館実習Ⅰの復習など事前学習
館とは」などと題するレ ポート(400字×10
の必要性を説明した。
枚)の提出を求めた。このレポート作成は、
また、本年も受講生が主体的にテーマを
これまで観覧者の立場にあった受講生を、学
もって3館以上の博物館・資料館・美術館な
芸員を目指す者として動機付けすることを目
どを見学してレポートする課題を設けた。こ
的にしたものである。
れは受講生各自の自覚を促すとともに、学芸
次いで、前期には、①「仏教遺物資料Ⅰ・
員の「現場」での様子を認識させる意図を
Ⅱ」
(仏教考古・仏教民俗)、②「古文書」
(近
持ったものである。
世・近代史料)、③「写真撮影実習」などの講
義・実習をそれぞれの担当者がおこなった。
博物館実習Ⅰ・Ⅱ合同見学会
講義では知識の習得をめざす一方、実習で
例年、博物館実習Ⅰ・Ⅱの受講生を対象と
は、実務として拓本、掛け軸、古文書などの
し て、春秋二季の合同見学会を実施し てい
取り扱いなど を習得させた。実習に際し て
る。本年度は次のとおりである。
は、受講生2
5名を4班に分けておこなった。
春季合同見学会は、5月9日蚊午後1時30
各授業で作成した調査カード やレポートを必
分より奈良国立博物館の特別展覧会「法隆
(2
0) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
寺 日本仏教美術の黎明」展を見学した。ま
博物館実習Ⅱ(学外実習)
た秋季合同見学会は、11月2
1日蚊に午後2時
本年度の館務実習は、7月・8月を中心に
より京都国立博物館の特別展覧会「古写経 しておこなわれた。受講生は文学部・短期大
聖なる文字の世界」展を見学した。それぞれ
学部・科目等履修生を含めた2
8名(内訳は、
受講生は見学をレポートにまとめて引率教員
文学部・大学院2
0名、短期大学部5名、科目
に提出した。こうした見学会の機会は、前記
等履修生3名)であった。実習館と実習生数
の夏期フィールドでの施設見学と各自でおこ
は次のとおりである(「2
004年度博物館実習
なう年間3館以上の見学、そして春秋二季の
Ⅱ(学外実習)」参照)。
合同見学会と、少なくとも4回設けている。
実習終了後、受講生は各館で実習した内容
と反省点をレポートにまとめて提出した。こ
博物館実習Ⅱ事前ガイダンス
の内容は、次年度の「博物館実習Ⅰ」
(学内実
本年度の博物館実習Ⅱ(学外実習)の参加
習)
・
「博物館実習Ⅱ」
(学外実習)を含む本課
に先立ち、6月16日我午後4時10分より1号
程の検討にとって大切な資料となる。また受
館14
11教室で「博物館実習Ⅱ」受講生を対象
講生は別に「博物館実習Ⅱで学んだこと」と
とした「事前ガ イダンス」をおこなった。概
いうレポートも提出した。本誌に掲載してい
要は次のとおりである。
るので、参照されたい。
基調講演「博物館をとりまく状況」
最後に、本年もご多忙にもかかわらず、本
京都国立博物館学芸課
学の実習生を受け入れていただき、ご指導を
保存修理指導室長
赤尾 栄慶 氏
ガ イダンス「現在の保存科学」
賜った各館の館長および学芸員、関係職員の
皆様に厚くお礼を申し上げる。
元興寺文化財研究所 保存科学センター
企画室主任
雨森 久晃 氏
最初に本課程の「博物館概論」を担当して
博物館実習Ⅰ(学内実習)夏期フィールド
本年の博物館実習Ⅰの夏期フィールドは、
いただいている赤尾先生から、表題のテーマ
例年通り「博物館等施設見学」、「古文書調査
について、具体的な事例をふまえてさまざま
整理実習」
、
「写真撮影実習」を各1日、3日間
な問題の指摘がなされた。また学外実習参加
で実施した。その後、受講生は、夏期フィー
を目前にした受講生にとって重要な心構えを
ルド参加レポートを提出した。
具体的にご教示いただいた。
〔夏期フィールド〕
雨森先生は、勤務研究所の概要を述べられ
○7月3
1日牙午前8時30分~午後7時30分
ることを通して、保存科学の現状について話
「博物館等施設見学」
され、授業ではあまり触れることができない
見学:関宿旅籠玉屋歴史資料館
分野のお話のためか、受講生は熱心に聞き
かめやま美術館
入っていた。
鈴鹿市考古博物館
講演後、両先生から質疑応答の時間を頂戴
亀山市歴史博物館
し、講演内容のほか、学外実習の細かな点に
引率:宮﨑健司助教授
まで丁寧なお答えをいただき、有意義な事前
平野寿則専任講師
ガ イダンスであった。
○8月3日峨午前10時~午後4時
終了後、受講生には学外実習の事前説明が
「古文書調査整理実習」
あり、それを受けて学外実習への心構えを新
場所:本学響流館博物館準備室兼実習室
たにした。
指導:木場明志教授・草野顕之教授
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 2
1)
○8月4日我午前10時~午後4時
〔実習生展「仏教説話と信仰」
〕
「写真撮影実習」
会期:9月7日峨~2
5日臥
場所:本学響流館博物館準備室兼実習室
会場:大谷大学博物館
指導:稲城正己臨時講師
内容:はじめに―仏教説話とは
宮﨑健司助教授
一、寺院縁起
本年度は初日に「博物館等施設見学」
、2
『大和国長谷寺本縁起』
日 目 に「古 文 書 調 査 整 理 実 習」、3日 目 に
二、仏菩薩霊験譚
「写真撮影実習」という日程となった。
『薬師如来瑞応伝』
1日目の「博物館等施設見学」では三重県
『毘沙門天王霊験記』
下の4館を訪問し、それぞれの概要等を懇切
三、和讃
に説明いただき、展観を見学した。ことに亀
『聖人本伝縁起』
山市歴史博物館とかめやま美術館では、所蔵
資料を使った、文化財の取り扱いなど、多く
『大谷大学博物館学課程年報』の発展的解消
の時間を割いていただいた。2日目の「古文
毎年度、文学部・短期大学部の博物館学課
書調査整理実習」では、昨年度に引き続き
程を終えるにあたり、『大谷大学博物館学課
「山城国笠置村万屋家文書」の調書作成と、
程年報』
(以下『年報』と略す)が編集されて
目録作成のためのデータベース制作実習をお
きたが、諸課程委員会博物館学課程部会の検
こなった。最終日は「写真撮影実習」であ
討の結果、当初の目的を果たしたと考えられ
る。前期授業での基礎知識の復習から、写真
ることから、本年度から『年報』という形の
撮影の技術の初歩を講義したののち、一人ひ
刊行物を廃止し、必要な彙報的事項に限って
とりが、その都度、カメラ・照明などのセッ
別に何らか形で報告することとなった。そし
ティングして、仏像などのレプリカの写真撮
て、従来、図書館報とし て発刊されていた
影実習をおこなった。この実習では特にどの
『書香』が本年度より図書館・博物館の館報
受講生もライティングに苦労していた。
例年同様、本年の夏期フィールドも、多く
の関係者の方 々のご 指導とご 配慮をいただ
き、無事に2日間の実習を終了することがで
に改変されるにあたり、当該誌の博物館欄に
『年報』に掲載していた一部を収載すること
になった。
(博物館実習担当 宮﨑健司)
きた。
博物館実習Ⅱ受講生の展示実習
本年度は、はじめての試みとして、博物館
実習Ⅱ受講生による実習生展を、大谷大学博
物館の秋季企画展「仏教の歴史とアジアの文
化Ⅱ」にあわせて開催した。
実習生展のポスター
(2
2) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
4年度 博物館実習Ⅰ(学内実習)授業テーマと内容
■200
日程
4.
12
授 業 テ ー マ
担当者
授 業 内 容
博物館実習Ⅰのねらいと展望(総論)
仏教資料取扱法
(序説)
宮蒼健司
4.
2
6
仏教遺物資料Ⅰ
5.
10
(仏教考古)
17
宮蒼健司
5.
2
4
仏教遺物資料Ⅱ
3
1
(仏教民俗)
6.
7
豊 島 修
19
6.
14
古文書
2
8
(近世・近代史料)
7.
5
7.
12
仏教文化財について
仏教遺物資料(講義)
仏教遺物資料の取り扱い実習
木場明志
仏教民俗・民俗資料 (講義)
仏教民俗・民俗資料の取り扱い実習
草野顕之
近世・近代史料の種類 (講義)
近世・近代史料の取り扱い実習
史料調査法
宮蒼健司
フィルムの種類・機能及び撮影上の注意事項
写真撮影実習
稲 城 正 己 撮影実習
7.
3
1
8.
3
夏期フィールド
木
草
宮
平
稲
真宗史料
一 楽 真
8.
4
場
野
蒼
野
城
明
顕
健
寿
正
志 博物館・美術館などの施設見学
之
司 古文書調査実習
則
己 博物館資料写真撮影実習
9.
2
7
真宗史料(講義)
10.
4
101
.
8
2
5
11.
1
8
11.
22
2
9
真宗史料(聖典・絵画)の取り扱い実習
仏教文献資料Ⅰ
(東洋仏典)
仏教文献資料Ⅱ
(漢籍中心)
仏教文献資料Ⅲ
(日本仏典)
大蔵経の種類(講義)
織田顕祐
漢訳大蔵経の取り扱い実習
漢籍・中国資料の概要
浅見直一郎
漢籍取り扱い実習
日本書誌学の基本(講義)
沙加戸弘
仏教文献資料の取り扱い実習
12.
6
13
博物館とマルチメディア
松 川 節
12.
2
0
博物館関係法規
宮 蒼 健 司 博物館関係法令の概要(講義)
総括
宮 蒼 健 司 本年度の反省と博物館実習Ⅱにむけて
11
.
7
博物館における情報処理技術(講義)
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 2
3)
■2
00
4年度 博物館実習Ⅱ(学外実習)
実習館名(館長名)
実習期間
実習生名
彦根城博物館(石丸正運 館長)
5.
16、7.
14・2
7、
8.
9・11・13
東郷紀子
大阪市立美術館(蓑 豊 館長)
6.
2
8~7.
5
上村真生
藤元みな
滋賀県立琵琶湖文化館(宮本忠雄 館長)
7.
6~10
有光麻衣子
五十嵐麻依
大阪城天守閣 (中村博司 館長)
7.
2
6~2
9
大畑博嗣
奈良県立民俗博物館(西山 徹 館長)
7.
2
7~3
1
中西杏子
京都国立博物館(興膳 宏 館長)
8.
2~5
今西智久
三角萌々
岩田晃治
奈良国立博物館 (鷲塚泰光 館長)
8.
3~6
鷲山晶之
澤田知明
栗東歴史民俗博物館(佐々木進 館長)
8.
10~13
杉山慧子
若林瑞枝
池田市立歴史民俗資料館(長森育代 館長)
8.
18~22
神原利枝子
大阪歴史博物館(脇田 修 館長)
8.
2
3~2
7
藤岡聖規
京都市歴史資料館(井上満郎 館長)
8.
2
4~2
7
尾原弘樹
霊山歴史館(谷井昭雄 館長)
8.
2
4~2
7
長谷川周
加藤里美
西 川 円
大津市歴史博物館(松浦俊和 館長)
8.
2
4~2
8
大橋佑美
川口麻子
宮下育美
岩手県立博物館(海妻矩彦 館長)
8.
2
5~3
1
堀澤美佐代
日本民家集落博物館(井藤 徹 館長)
9.
22~2
5
髙 垣 樹
金谷幸枝
大谷大学博物館(木場明志 館長)
10.
2
9・30、11.
1~6
松 田 悠
松尾崇弘
学芸員資格取得者(2
005.
3.
18付、第16期生)
〔大 学 院〕 鷲山 晶之・大畑 博嗣
〔文 学 部〕 杉山 慧子・長谷川 周・澤田 知明・有光麻衣子・今西 智久・尾原 弘樹
神原利枝子・髙垣 樹・東郷 紀子・中西 杏子・藤岡 聖規・堀澤美佐代
松尾 崇弘・松田 悠・三角 萌々・若林 瑞枝・金谷 幸枝・加藤 里美
〔科目等履修生〕 五十嵐麻依・岩田 晃治・西川 円
(2
3名)
博物館学課程単位修得者(2
005.
3.
18付)
〔短 期 大 学 部〕 上村 真生・大橋 佑美・川口 麻子・藤元 みな・宮下 育美
(5名)
(2
4) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
200
4年度博物館実習Ⅱ レポートから
私は奈良国立博物館で4日間実習させて頂
勉強になった。また、自分にとって大切な体
い た。実 習 内 容は、彫 刻・工 芸・書 跡・絵
験であった。今後、文化財に触れることがあ
画・考古の調査方法と取り扱いについての講
れば、今回体験したことを生かして、文化財
義と実技である。配当実習生の数が多く、全
と接したいと思う。
員が全ての取り扱い実習をすることが時間的
大学院修士第2学年
(仏教文化専攻)
大畑博嗣
に許されなかったのは残念であった。事前に
実習内容の予習をしていたので、基本的なこ
* * *
とは把握していたつもりだったが、現場にい
私は8月10日から13日まで栗東歴史民俗博
る学芸員の先生方から、体験に基づいての心
物館で実習をさせていただいた。実習の中で
構えや、現実的な話を聞けたことは有意義で
大変印象に残った言葉は、こちらでは「地域
あった。教育室長の中島博先生が博物館の教
に開かれた博物館」を目指して活動されてい
育普及活動の講義で、文部科学省や学校教育
るのではあるが、目指すとはいえ、他地域や
との連携の難しさ、また国立博物館は国から
中央の流れとの関わりもあることをふまえ、
の影響が強く、館の方針だけでは運営できな
地域を狭い視野で見てはいけないということ
い等の問題を話されたのは特に印象的だっ
である。また、今、博物館に求められる人材
た。短い期間だったが、いかに今の自分が学
とは、マルチな人間であるということだ。専
芸員からほど遠いかを知らされ、今後、学芸
門知識だけでなく、世の中の情報、人々の流
員になるための貴重な一歩を踏み出すことが
れをキャッチし、博物館から人々に、世の中
できたように思う。
に普遍的なメッセージを伝え、訴えかけるプ
大学院修士第2学年(真宗学専攻) 鷲山晶之
ロもこれからは必要になってくるとのこと
* * *
だった。これらをふまえ、モノを魅力的に見
せ、興味をもたせるのが学芸員の仕事だと聞
大阪城天守閣において、7月2
6日から2
9日
き、改めて学芸員の仕事の責務について考え
まで4日間という短い期間であったが、博物
させられた。博物館の学芸員の仕事に触れら
館実習に参加して、「博物館学芸員」とはど
れたと同時に、学芸員の目指すべき姿を知る
のような職業であるのか、ということを学ぶ
ことができ、貴重な経験ができた。
ことができた。文化財の取り扱い方など、学
内での実習で学ぶ知識が必要であることは当
たり前だが、それ以外に個人の収蔵者や他の
文学部第4学年(真宗学分野) 杉山慧子
* * *
博物館の学芸員との関係が重要であること
8月2
4日から4日間、京都市東山にある霊
が、感じられた。学内での実習も大切である
山歴史館で実習がおこなわれた。4日間で特
が、実際に現場で働いている学芸員の方から
に印象に残っていることが、広報や会計につ
お話を聞くと、大変な仕事であると感じると
いての講義や実物を使っての取り扱い実習で
共に、学芸員の方の一言に重みがあり、大変
ある。広報や会計では、どのように広告して
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 2
5)
宣伝し、来館者を増やして経営していくかな
私は滋賀県立琵琶湖文化館で5日間、実習
ど、私立博物館ならではの話であり、とても
をさせていただいた。館での講義のほかに現
勉強になった。取り扱い実習では、刀や木刀
地実習として、園城寺勧学院所蔵の典籍類の
など触れたことのないモノで戸惑ったが、一
調査を行った。蔵から典籍類を運び出す際、
応しっかりできたのでよかった。私は休み時
特に注意されたのが、互いに声を掛け合うこ
間に歴史館の学芸員の方と個人的に話してい
とだ。破損の状況を伝え、互いに声を出し、
たのだが、博物館学芸員は何事も勉強だと
確認しながら運んでいった。この現地実習を
おっしゃっていたのを覚えている。みんなに
通じて他大学の実習生と仲良くなれ、何より
講義をして感想文を書いてもらうのも自分に
資料を扱う際のコミュニケーションの大切さ
とっての勉強になるともおっしゃっていた。
を学んだ。学芸員としてモノが扱えないと意
このようなお話を聞いて、自分自身の甘さを
味がない。だから今回の実習では、実際に重
痛感した。それだけ勉強し、内容の濃い4日
要文化財に触れる機会が多くとられた。文化
間だったと思う。学芸員の幅広い仕事を少し
館では、学芸員はもちろん、館で働く人みん
でも知ることができてよかった。
なで展示替えから運搬まで行うそうだ。館で
文学部第4学年(真宗学分野) 長谷川周
* * *
働く人みんながモノを扱えることを文化館で
は大切にしている。そういった人とモノとの
関わりの大切さを文化館の方々から学んだ。
8月3日から6日の4日間、私は奈良国立
貴重な体験、そこから学んだことを忘れず、
博物館で博物館実習をさせていただいた。実
今後に生かしていきたいと思う。
習内容は、博物館の将来、企画から展示、情
文学部第4学年
(日本仏教史学分野) 有光麻衣子
報・図書資料の整理・公開、教育普及活動、
文化財の修理―彫刻を主に―の講義、専門分
* * *
野においては、彫刻・工芸・書跡・絵画・考
8月2日から5日までの4日間、京都国立
古の各調査法・取り扱いの講義と実習という
博物館での実習に参加したが、この間「文化
内容であった。また、最終日の昼休みを利用
財の命を永らえさせる」学芸員の仕事(赤尾
して展示室見学の機会を与えてもらった。実
栄慶先生のお言葉)を通じて博物館を内側よ
習で教わった内容(学芸員の職務である調
り学ぶ機会を得たことは、博物館学課程を履
査・研究・展示・保管・収集・整理、その他
修する者として、或いはそうでなくとも、頗
の事務・雑用等)は、全て学芸員の仕事であ
る貴重な時間であった。実習内容は講義や取
り責任の重さや幅の広さに驚いたが、楽しそ
り扱い実習よりも特別展などの展示作業の見
うに話される学芸員の方を目の当たりにし、
学に重点が置かれ、私などは拱手傍観するだ
さらに学芸員という職種に魅力を感じた。ま
けであったが、展示に携わる方々の作業の一
た、他大学の学生の話を聞くことができたこ
端を見学し て、博物館が文化財を中心とし
とも良い経験と刺激になった。最後に忙しい
て、言わばそれを目的としていることを感じ
中、実習をしていただいた学芸員の方々に、
た。寔に曲突徙薪と言い得る文化財の取り扱
良い経験をさせていただけたことを御礼申し
いは、「学芸員にかわりはいても、文化財に
上げたい。
かわりはない」(赤尾先生)とする文化財に
文学部第4学年(仏教学分野) 澤田知明
* * *
携わる方々の意識を体現するものだろう。求
められるのは作品に対する飽くなき関心と追
求の姿勢である。かくある姿勢を深く心に留
(2
6) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
め、今後の学習に勉めた く思う。お世話に
そして実際に作業をしたことで、資料整理は
なった先生方に深く感謝する次第である。
地道な作業であり、多くの時間と手間がかか
文学部第4学年
(東洋仏教史学分野) 今西智久
ることを実感した。今回の実習では一人ずつ
* * *
行うということで、他大学の学生と意見を交
換し合うような機会はなかった。しかしその
私は8月2
4日から2
7日までの4日間、京都
分、学芸員等、資料館職員の方と様々な話を
市歴史資料館で実習をさせていただいた。実
したし、質問も細かくすることができたと思
習は「調査の手順を身に付ける」ことを目的
う。実習期間中、ご指導してくださった全て
に、実践に役立つようにと古文書調査を中心
の方々に心からお礼を申し上げたい。
に行われた。調査を行ったのは「千總文書」
で、整理・分類・カード 取りと作業を行っ
た。調査では法令や証文類など様々な文書に
文学部第4学年(国史学分野)
神原利枝子
* * *
触れることができた。古文書調査は一見地味
私の実習館は大阪の豊中市服部緑地にある
ではあるが、この地味な作業こそ最も基礎的
「日本民家集落博物館」という。当館最大の
な仕事であり、これが学芸員の仕事でもあ
特色は、重要文化財クラスの建造物に上がり
る。調査は時間と労力のかかる仕事であり、
こみ、直接手に触れ、匂いを嗅ぎ、座りこん
集中力と注意力のいる作業であった。最終日
だり、寝そべったり、思い思いの体験ができ
には、刀剣と鉄砲の取り扱い実習も行い、4
ることだろう。したがって、民家の手入れは
日間を通して学内ではあまり体感できない生
入念に行われているものの、財政上の問題な
の資料に触れることができ、とても貴重な経
どから不備不満が多数見受けられるとのこと
験となった。この実習でわずかではあるが学
である。博物館を維持運営する上で避けるこ
芸員の仕事の一端を知ることができた。この
とのできない財政問題を強く意識させてくれ
実習で学んだことを忘れず今後ともさらに努
た実習でもあった。あわせて4日間の日程を
力していきたいと思う。最後に指導してくだ
組んでいただいたのだが、どの実習も当館な
さった宇野先生や館の方々に心から感謝し、
らではと思われるものばかりであった。もち
御礼申し上げたい。
ろん私にとっても初体験尽くしであったこと
文学部第4学年(東洋史学分野) 尾原弘樹
* * *
はいうまでもない。それも相乗効果となっ
て、肉体労働のたいへんさを差し引いても実
習を楽しむことができたと思っている。館長
私は8月18日から22日までの5日間、池田
をはじめ多大な労力と時間を割いてくださっ
市立歴史民俗資料館で実習をさせていただい
た実習館のスタッフの方々に心より感謝申し
た。エクセルへの外国切手のデータ入力、慈
上げる次第である。
母観音関係資料の整理作業だけでなく、資料
館の催しに参加する等、様々なことを経験す
ることができた。私がした作業は資料館の業
文学部第4学年(国史学分野)
髙垣 樹
* * *
務の一部分にすぎなかったが、その中で今ま
私は、彦根城博物館で7日間実習をさせて
で考えもしなかった疑問がでてきたり、保管
いただいた。実習内容は、テーマ展「日本の
をよりよく行うにはどのようにしたほうが良
楽器・笙―井伊家伝来資料から―」のアシス
いか等、ただ知識を詰め込んでいただけでは
タント及び、展示レ イアウト、看板・パネル
気付きもしなかったであろうことを知った。
のデザ イン、チラシ・題箋など の作成であ
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 2
7)
る。実際に作業をしてみて、学芸員の仕事の
私は大阪歴史博物館において4日間の実習
多さに圧倒された。展示の企画や展示作業、
に参加し た。今回は特に理解が欠けている
チラシ・パネルの作成、マスコミへの告知に
点、博物館における普及事業などについて、
至るまで、展示に必要な準備をほとんど学芸
実際の現場や活動している学芸員の声を見聞
員が行わなければならない。学芸員は研究の
し、改めて理解することを目標として実習に
能力・知識以外にも様々な作業に柔軟に対応
臨んだ。大阪歴史博物館では「市民参加型の
できる能力が必要なのだと学んだ。また、展
博物館」をテーマに、利用者が気軽に参加で
示には細部にわたって創意工夫がなされてあ
きる普及事業が多数設けられている。し か
り、観覧者に対する思いが込められている。
し、それらを実施するにあたっては、利用者
ほんの一部ではあるが、学芸員の仕事に対す
の年齢層やそれに応じた事業内容の設定、利
る姿勢、仕事の内容を知ることができ、とて
用者側の声を聞き、積極的に反映させるな
も貴重な経験ができたと思う。ここで学んだ
ど、学芸員が試行錯誤を繰り返す中で生み出
ことを是非今後に活かしていきたいと思う。
されている様子を知ることができた。またそ
最後に、お忙しい中ご指導してくださった学
のためには、専門分野にこだわらず幅広い視
芸員の方々に深くお礼を申し上げたい。
点で考える必要があることも学んだ。博物館
文学部第4学年(国史学分野) 東郷紀子
* * *
私が実習した奈良県立民俗博物館では、奈
良県の農業・林業に関連した様々な民俗具が
展示されていた。実習は、収集してきた民俗
具の清掃・整理・登録・撮影を一通り行っ
のあり方が問われる今、普及事業の現状につ
いて学べたことは大きな収穫となった。大阪
歴史博物館と学芸員の方々には、心から御礼
を申し上げたい。
文学部第4学年(国史学分野) 藤岡聖規
* * *
た。実習生が担当することになったのは、黒
8月2
5日から3
1日の1週間、岩手県立博物
滝村から収集してきた生活民具の数々で、1
館で実習をさせて頂いた。どの分野でも、人
日半かけて清掃・整理をした。その後、収蔵
手が足りていないのが印象的だった。どこの
庫に多く収蔵されている牛耕具の内、マンガ
館でもそうであるらしいが、1館あたりの学
とカラスキの登録・撮影を行った。同じよう
芸員の数は少ないのが現状のようである。
に見えるマンガやカラスキも、数種類に分類
よって、大きさや重量のあるモノ、量の多いモ
でき、それぞれ計測した後に再び収蔵庫に戻
ノはどうしても手こずるようだ。そして、大
した。思いの外に民俗具に触れることができ
量に所蔵している近世・近代文書の調査のた
たのだが、数ある民俗具ですら細心の注意を
めの人手が足りない、専門的な化学処理がで
払わなければならなかった。また、同種のモ
きる人や施設が少な過ぎる、最近、力を入れる
ノであっても、それぞれ使用者の長きに渡る
よう指導されている教育普及業務が増え、他
歴史が込められており、全てを大切に扱い、
に手がまわりにくい、等々の専門分野の人手
深く研究するべきなのだということを学ぶこ
不足の話題も話されていた。狭き門、供給過多
とができた。どのような博物館でも、貴重な
と言われる学芸員だが、実態は必要最低限に
体験ができるのである。
も満たない人数で動かしているのだと感じた。
文学部第4学年
(日本仏教史学分野)
中西杏子
そんなお忙しい中、貴重なお時間を割いて下
* * *
さった同館の皆様に、
心から御礼申し上げたい。
文学部第4学年(国史学分野)
堀澤美佐代
(2
8) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
* * *
10月2
9日から実質4日間、大谷大学博物館
で実習をさせていただいた。実習の主な内容
あったとの後悔も残った。
文学部第4学年
(日本仏教史学分野)
松田 悠
* * *
は版木梱包、講演会準備、特別展示替補助・
8月2日から5日までの4日間、独立行政
見学、温湿度計表示紙やパナプレ ート の交
法人国立博物館・京都国立博物館で実習を受
換、収蔵庫内の掃除、谷邊橘南資料の調査
け させていただいた。展示に至るまでの流
だった。学芸員とは研究職というイメージが
れ、資料の購入・収集、修理・保存、梱包・
どうしても強かったが、資料の展示公開のた
運送、展示作業や写真撮影、問題の処理等を
めには様々な地道で根気のいる業務をこなさ
現場で見学することができた。赤尾先生は
なければならないと改めて痛感した。特にメ
「見ている側に安心感を持たせられるかが学
ジャーを手にキャプション、資料配置を精密
芸員の一番の仕事」と仰っていた。例えば、
に行っている様子を見学した時は観客の視点
運ぶ際に自分の身よりも資料を「死守」す
に立った展示がいかに大切かを思い知らされ
る。その死守している様子が他者に分かるよ
た。また、大学博物館運営の問題にも触れら
うに運ぶとのこと等々である。実際に緊張感
れ、学生にいかに興味を持ってもらうか、モ
の張りつめた現場で、学芸員の方々から教わ
ノで見せる博物館をどう充実させていけば良
り、自らが実践したことは、私の貴重な経験
いのかなど課題も多々あることを知り考える
となった。この実習で役立ったことは、授業
機会にもなった。今回の実習ではより実践的
で学んだ「知識」では な く、掛け 軸を取り
な業務を体験でき、学芸員には多様な業務と
扱った「経験」だった。今回の実習で、学芸
柔軟性が求められることを実感した。自分の
員は「知識」のみではなく、現場による「経
ミスは反省してこれからこの経験を役立てて
験」によって柔軟に問題を処理し「仕事」を
いきたい。
進めていることを知り、「経験」が如何に重
文学部第4学年
(日本仏教史学分野)
松尾崇弘
要なことなのかを痛感させられる機会とな
* * *
私は大谷大学博物館に実習に行って、これ
までの博物館実習課程とは全く違った実践的
り、大変有意義な実習となった。
文学部第4学年
(日本仏教史学分野)
三角萌々
* * *
な内容を学び取ることができた。博物館内の
8月10日から13日までの4日間、私は栗東
展示に関することや、収蔵庫など 色 々回っ
歴史民俗博物館で実習をさせていただいた。
て、いろいろな作業をすることは講義などで
短い期間でありながら、博物館内施設の見学
教えられることより、本当に色 々経験でき
と説明、古文書の解読、民具の調査、仏像の
た。実習で気づいた点といえば、博物館内の
取り扱いと調査カード の作成など充実した実
作業は地道な内容が多く、根気がいる仕事だ
習内容であった。戦時中の古文書や一木造の
ということと、大学内の博物館は教育面の問
仏像などに、生で触れられることに感動する
題から、地域博物館と同じように、観覧者の
と同時に、学芸員の方のように上手 く扱え
対象をどこに絞り展示していいのか難しい点
ず、貴重な資料を取り扱う自覚と経験が足り
など色々な問題も知ることができた。4日間
ないことを感じさせられた。民具は主に住民
という短い期間であったが、有意義な実習で
の方から譲り受ける場合が多く、学芸員が行
あった。ただもっと事前に学習をすべきで
なう収集・調査・清掃・保管そし て展示と
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 2
9)
いった過程を経て、はじ めて展示資料とな
あっても存続が危ぶまれている。その状況の
る。地域の人々との関わりが大切であるとと
中で生き残っていくための努力や工夫だけで
もに、「もの」に価値を与えるのは学芸員の
なく、知的財産を守り後世に伝えていくこと
仕事であることを知った。実地で学ぶことに
が学芸員として必要なことなのだと感じた。
より、学芸員の意識に感化され、実習の前よ
また、資料の取り扱い実習では、掛け軸の掛
りも学芸員の側に立って物事を見つめられる
け方や刀の手入れ、砲弾や銃といった様々な
ようになったと思う。ここで学んだ貴重な経
資料に触れさせていただいた。博物館実習Ⅰ
験を、今後につなげていきたい。
の授業では触れたことのない資料ばかりで、
文学部第4学年
(日本仏教史学分野)
若林瑞枝
とても貴重な体験となった。今回の実習に
* * *
よって、博物館運営の難しさと学芸員が担う
役割について考えるきっかけとなった。最後
私は9月2
2日から2
5日までの4日間、日本
に、お世話になった方々にお礼申し上げたい。
民家集落博物館で実習させていただいた。大
文学部第4学年(国際文化学分野) 加藤里美
学での博物館実習と違って、開館して入館者
を迎える博物館内での実習は良い経験になっ
* * *
た。野外博物館ということもあり、野外での
7月6日から7月10日まで、滋賀県立琵琶
作業がほとんど だった。1日目は オリエン
湖文化館で実習させていただいた。現在、琵
テーション、博物館内見学をして館内の民家
琶湖文化館が抱える多くの問題や、そういっ
について学芸員の方から説明を聞いた。次の
た現状の中での管理運営について、多くのこ
日からは民家の清掃、民具の補修、障子の張
とを学ぶことができた。博物館自体の保護や
り替え、畑作業の手伝い等の実習内容であっ
運営資金、展示品の保管、これからの博物館
た。実習中、学芸員の方や館内ボランティア
に必要なものなど、学芸員の仕事の多さと大
の方々から民家の構造、博物館の事情を丁寧
変さを改めて感じた。実習中には、園城寺で
に説明し ていただいたりと、大変お世話に
の1泊2日の現地実習が行われ、勧学院所蔵
なった。実際の博物館での仕事が、屋内で研
典籍類を調査した。調査カードを作成するこ
究しているばかりではなく、外で動きまわる
の作業では、モノを取り扱い調査をしていく
ことが多いことを身をもって実感することが
上で、細心の注意と丁寧さが必要とされるこ
でき、貴重な経験となった。博物館の皆様に
とを、身をもって知った。7月の暑い時期で
は、お忙しい中、いろいろお世話になり、心
もあったため、集中力と体力が非常に必要と
から御礼申し上げる。
された現地実習であった。琵琶湖文化館での
文学部第4学年(国文学分野) 金谷幸枝
* * *
私は8月2
4日から2
7日までの4日間、霊山
歴史館で実習させていただいた。実習内容
は、講義と梱包や遺品等の取り扱い実習で
あった。講義では広報・会計といった博物館
実習は新たな発見や経験の連続で、多くのこ
とを学ぶことができたと同時に、これから自
分が学ばなければならないことも分かり、大
変充実したものであった。
科目等履修生 五十嵐麻依
* * *
運営に関することや京都における博物館の役
8月2日から5日まで、京都国立博物館で
割などについて学んだ。現在、博物館の置か
実習させていただいた。4日間という短い期
れている状況は非常に厳し く、公共施設で
間であったが、館の概要の講義、巻物や掛け
(3
0) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
軸の取り扱い方法、常設展や特別展の展示替
6月2
8日から7月5日の期間で6日間、大
え、文化財保存修理所の見学など様々なこと
阪市立美術館で実習させていただいた。学内
をおこなった。その中で特に印象に残ったの
で行う実習とはまた違う雰囲気の中で、学芸
は博物館の「表」と「裏」の違いで、つまり
員の方と一緒に作業ができ、とても感動し、
表に展示されている文化財の静寂さと、その
すご く貴重な経験ができたと思う。私が実習
裏で息つく暇もなく働いている学芸員の姿の
にうかがったのは、ちょうど展示会の準備を
違いであり、また文化財の状況や構造を把握
している時だった。そこで実習生は、その展
し文化財を熟知し、様々に工夫を凝らし、決
示準備を手伝わせて頂くことになった。日本
して妥協を許さない態度を直に感じることが
画・洋画・工芸・彫刻・書の五つのグループ
できた。今回経験した作業の数々は学芸員の
に分かれて作業することになり、私は書のグ
仕事の一端に過ぎないが、実習で学んだこと
ループを選択した。各グループに専門の学芸
を忘れずに今後に生かしていきたいと思う。
員の方がつき、展示の仕方だけではなく、書
最後では あるが、お世話になった博物館の
の種類や、入選・落選についてや、入選にも
方々に深く感謝するとともに、心からお礼を
種類があることなど、丁寧に楽し く教えて頂
申し上げたい。
いた。実習期間をはじめて知った時に5日間
科目等履修生 岩田晃治
* * *
今回、私が実習でお世話になったのは、東
山の情緒あふれる地にある霊山歴史館であっ
た。全国唯一、幕末維新を専門に扱った博物
館で、今年は大河ド ラマ人気の影響もあっ
は長いと思ったが、実際はとても短 く感じ
た。まだまだ知らないことがたくさんあるこ
とを学んだ実習だったが、ますます学芸員と
して働きたいと思う実習となった。
短期大学部第2学年(文化学科) 上村真生
* * *
て、特に来館者が増えている、とのことで
8月2
4日から8月2
8日までの5日間、大津
あった。そんな忙し い中で、学芸員をはじ
市歴史博物館で実習させていただいた。1日
め、講師の方々が時間をつくって準備をし、
目と2日目は主に講義、3日目と4日目は実
懇切丁寧に指導してくださったことにとても
習、5日目は反省会という日程だった。講義
感謝している。講義・実習中も場の雰囲気を
では展示の説明や資料の保存環境、博物館の
明るくし、また貴重な文化財の数々に触れる
広報と普及活動などについて話をしていただ
機会を実習生一人ひとりに与えるなど、常に
いた。また実習では、高札の調書の作成、明
実習生の側に立って考えて頂いた。学芸員と
治の教科書の調査カード の記入、美術工芸資
しての知識、研究者としての学識が必要なの
料の取り扱いと展示を行った。5日間という
は勿論のことではある。しかしそれだけでは
短い期間ではあったが、この実習に参加する
なく、資料の借用にしろ、館のディスプレ イ
ことで多くのことを学ぶことができた。また
にしろ、その他様々な仕事においても、相手
実際に学芸員として仕事をしてみなければわ
の気持ちになって考えることこそが博物館学
からないようなことを、直接、学芸員の方か
芸員にとって大切であるということが、今回
ら 聞き、また自ら が行い、学芸員の仕事の
の実習を通して学べたと思う。
様々な側面や全体像、博物館そのものについ
科目等履修生 西川 円
* * *
ても考えを深めていくことができた。秋の展
覧会に向けてとてもお忙しい中、指導をして
くださった学芸員の方々には、心からお礼申
大谷大学図書館・博物館報(第22号) ( 3
1)
し上げたい。
短期大学部第2学年(文化学科) 大橋佑美
* * *
芸資料の取り扱いや展示実習、大津周辺地域
の資料調査カード作成であった。講義は学芸
員の方々が分かりやすく、そしてユニークに
教えてくださり、大変楽しみながら学習する
私は、8月2
4日から2
8日までの5日間、滋
ことができた。また、展示実習や資料調査で
賀県にある大津市歴史博物館で実習させてい
は、実際に触れることで資料の取り扱い方や
ただいた。館内全体を初日は見学させてもら
展示方法を多くの資料を扱って学び、学内実
い、他の日は歴史資料の取り扱い方や博物館
習で扱ったより多様な資料を取り扱い、貴重
収蔵資料の整理というものを経験させていた
な体験となった。その一方、自分の知識や経
だいた。中でも美術工芸資科を取り扱った展
験不足を感じた5日間となった。直接、学芸
示作業は、掛軸を展示ケース内に掛けるに
員の方々から学ぶことで、博物館運営や学芸
も、それぞれ工夫されており、学芸員という
員という職業の本当の姿を見ることができ
仕事の真の姿を見たような気がした。講義も
た。そして改めて博物館の仕事は大変なもの
とても博物館に必要な話ばかりだったので、
だと感じた。長いようで短かった5日間、当
とても興味をもって話を聞くことができ、よ
館で実習させていただけて本当に良かったと
かったと思う。5日間、とても貴重な体験さ
思う。最後に、お世話になった館の方々に深
せて頂けたと思う。
く感謝したい。
短期大学部第2学年(文化学科) 川口麻子
* * *
私は6月2
8日から7月5日までの土・日を
除く6日間、大阪市立美術館へ実習に行かせ
ていただいた。今回私たち実習生がお手伝い
したのは、7月9日から開催される全関西美
術展へ向けての準備であった。また準備の手
伝いだけではなく、学芸員の方から講義を受
けたり、寺院などからやってきた古美術品等
の修理の様子なども見学させて頂くことがで
きた。6日間の実習を経て、今までに知り得
なかった博物館・美術館での仕事内容の大変
さをよく知ることができた。いろいろなモノ
を見、体験し たことに よって、一層、博物
館・美術館で学びうる多くのことを感じ取る
ことができた。
短期大学部第2学年(文化学科) 藤元みな
* * *
私は8月2
4日から2
8日までの5日間、大津
市歴史博物館で実習に参加させていただい
た。実習は講堂や収蔵庫内での講義、美術工
短期大学部第2学年(文化学科)
宮下育美
(3
2) 大谷大学図書館・博物館報(第22号)
図 書 館 ・ 博 物 館 日 誌
■図書館活動
【2
004年度】
【2
004年度】
・春季企画展「大谷大学のあゆみ―清澤満之
・私立大学図書館協会西地区部会総会
(於 大阪国際大学)参加(6.
11)
・佛教図書館協会西地区協議会
と大谷大学」(4.
6~2
4)
・夏季企画展「仏教の歴史とアジ アの文化
Ⅰ」(5.
2
5~8.
2)
(於 佛教大学)参加(6.
2
8)
・佛教図書館協会総会
・京都市内博物館施設連絡協議会平成16年度
総会(於 本学響流館)(6.
2
9)
(於 本学博綜館)当番校(7.
2)
・私立大学図書館協会西地区部会研究会
(於 本学響流館)当番校(10.
9)
■博物館活動
・特別陳列「新指定重要文化財 湯浅景基寄
進状」(6.
2
9~8.
2)
・特別陳列講演会 竹中康彦氏(和歌山県立
博物館)「明恵と施無畏寺」(7.
10)
【2
003年度】
・秋季企画展「仏教の歴史とアジ アの文化
・博物館実習生2名受入れ(9.
2
4~2
7)
・博物館開館レセプション・内覧会(101
.
0)
・開館記念特別展「古典籍の魅力―大谷大学
の名品」(101
.
4~11.
2
9)
Ⅱ」
、実習生展「仏教説話と信仰」
(9.
7~2
5)
・特別展「京の文化人とその遺産―神田家の
系譜と蔵書」(101
.2~11.
2
8)
・特別展記念講演会
・特別講演会 礪波護氏(本学教授)
藤島建樹氏(本学名誉教授)
「古典籍の魅力」(101
.
8)
「神田コレ クションの魅力」(101
.
6)
・冬季企画展「京都を学ぶ―拓本で見る京の
五島邦治氏(園田学園女子大学)
梵鐘」(12.
9~2
0)
「京都の町衆と神田家」(11.
6)
・博物館実習生2名受入れ(102
.
9~11.
1・6)
・冬季企画展「京都を学ぶ―谷邊橘南の書の
こころ」(12.
7~2
5)
【2
004年度】
■人事異動
・図書館長交代(2
004.
4.
1付)
【2
003年度】
・就任(2
003.
4.
1付)
館長
沙加戸 弘
博物館長
木場 明志
(前館長
大内 文雄)
博物館主事
宮蒼 健司
・新入職員(2
004.
4.
1付)
・退職(2
004.
3.
3
1付)
図書・博物館課
図書・博物館課
( 専 任 )
山本 幸子
( 嘱 託 )
大浦 優子
片岡 敬子
( 嘱 託 )
浅井 恵
久保 法子
喜多 孝子
高畑 知子
小山 絵里
清水 美穂
武邑 知子
中井 晴惠
窓峯 章子
鈎 知実
永井 詞子
俣野 知子
・退職(2
0041
.23
.
1付)
図書・博物館課(嘱 託)
通事 祐子
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