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近代主義的貧困観の成立

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近代主義的貧困観の成立
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近代主義的貧困観の成立
一一−1ンー・ボ・−ム・ラクントリー∴を中心に.−一
木 村 正 身
Ⅰ.社会保障と社会福祉の基本関連。m イギリスに・おける貧困問題論
と『資本論』のインパクト。ⅠⅠⅠ小生活権の思想と機能.主義的改良思想。
ⅠⅤ…19世紀末イギリスにおける免囚観の諸分岐と論争。Ⅴ・シー・ポ」−
ム・ラクソトリー紅おける近代主義的貧困観の成立。
Ⅰ
本稿の目的は,社会保障と社会福祉(ソーシャル・ワーク)との基本的関連
および両者に.共通な思想的特徴についての基礎的考察を出発点として,貧困に.
関する理論史および思想史のうえで,とくに社会保障・社会福祉両範疇の歴史
的形成の起点が,イギリスを舞台とする19世紀80年代から20世紀初頭にかけて
の貧困問題論争の経緯と帰結に/求められることを跡づけ,また,とくに.その結
収点に立ったとみられるV−ポL−ム・ラワントリー(B.Seebohm Rowntree,
1871−1954)の貧困問題調査の構想が,貧困問題およびその対策に関する近代
主義的見地の先駆的・典型的成立を意味したと解されることを,明らかにする
ことである。1)
いま筆者曙,社会保障の前提範疇たる社会政策・経済政策の両範疇や,さら
に.その両範疇を2側面として包摂するところの資本制国家の基礎政策種疇一・般
の論定の問題や,社会福祉(ソーージャル・ワーク)の本質規定の問題といっ
た,政策論・サービス論関係の基本理論的問題に.立ちいることは差し経えると
1)本稿ほ,聾者が社会政克学会算31回大会(1965年5月15,16日)に.おいて,共通論題
「社会保障論」に.参加して行なった報告(「社会保障と社会事業の基本関連−シーポ−
ム・ヲクソトリ」−の“貧乏,’観を起点として−」),および番ノり大学経済研究所主催定
例研究会(同年6月23日)での報告(同一・論題),の草稿を,若干拡充したものである。
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して−,2)ここでは,社会保障と社会福祉の基本的関連について短刀直入に考察を
要約することから始めたい。
「社会保障」も「社会福祉」3)も,その概念規定ほ,けっして観念的またほ抽
象理論的問題ではなくて−,ともに資本主義の特定歴史段階での現実的「社会問
題」の展開に対応する具体的活動。施策の体系として形成されたものだという
理解から,筆者は出発したい。もちろん,両者は同時に.,資本主義の発足以来,
労働政策とともに幾変遷してきた労働者およびその他の勤労者の困窮ないし生
活事故に.対応する歴史的救済制度の,最後段階的・必然的な総括にはかならな
いものでもある。しかしながら,両省の実際の内容も,またそれ紅つれてその
概念規定も,厳密紅いえば不断に流動的であると解されるが,4)これほ,社会
保障・社会福祉だけでなく,両者の対象たる貧困問題ないし社会問題や,また
それを生う成している「資本主義」が,すべて歴史的現実として,具体的な外
延と内包とに.即して理解されなければならないことを,意味するだろう。歴史
的現実としての列国資本主義は,資本と賃労働との関係を核心としながらも,
剰余価値の複雑な再分配関係や諸中間層の従属的併存関係を不断に∴包摂しつつ
国家に.よって統轄されるところの動態的全体として理解すべく,そこ.に現実化
する社会問題もまた,質労働問題を核心としながらも,なお一方では階級の数,
さらに各階級の階層の種類に‥おうじ,また産業構造の歴史的態様におうじて−,
多元的で錯綜した構成と展開とをしめし,その実態も,抽象法則的諸次元を脱
した諸展開をはらむとして−も,ふしぎではない。社会問題の伝統的重心たる貧
困の実態と観念も,それへの対応施策の態様と思想も,資本主義の歴史ととも
に推転するだろう。「社会保障」や「社会福祉」の意味も,社会史的および思想
史的脈絡のなかで再検討しながら現代的実態に.即して規定するこ.とが,必要と
2)参照,拙稿「基礎政策範疇についての覚え層一経済政策論と社会政策論のため
に−」、『香川大学経済論叢』第33巻第4号,1960年11月,および「社会福祉本質論の
問題点」H・目,同誌,籍31巻第1。2号,1958年5・7月。あわせて,拙稿「現代社
会政策論の課題一一つの問題提起−」,『社会政策の基本問題』(井藤半弥博士退官
記念論文集,千倉書房,1960年)所収,もみられたい。
3)本稿では「社会福祉」をSocialWorkないしSocialServicesをざす語として用
い,「社会事業」・「社会福祉事業」との区別にはしばらくこだわらないこととする。
4)社会保障の実態および理念の流動的状況に・ついては,小山路男・佐口卓編『社会保障
論』有斐閣,1968年,所収の拙稿(第4講)「資本主義と社会保障」を参照されたい。
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近代主義的貧困観の成立
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思われるのである。
もとより以上の視点に立つとして−も,貧困問題ないし社会問題の根底をつら
ぬいている資永制蓄積の論理や,資本と賃労働との対抗関係および資本側の施
策と労働遊動との対抗関係の弁証法的展開の論理が,あくまでも基本規定とし
て考察の座標軸となるぺきことは,『資本論』を前提とするかぎりほ自明なこ
とである。しかし,歴史的現実の問題としての貧困問題ならびにこれにたいす
る公私の諸施策の領域では,基本規定に.おとらず同時に.特殊歴史的な諸規定も
重視されなければならない。この点からいえば,社会保障の本質を,たとえばし
ばしばいわれるように「賃金の再分配」と論断すること5)は,「賃金」という
範疇および「再分配」という概念を,そ・れぞれ「社会保障」が成立していると
ころの具体的現実の次元に.即してじゅうぶん弁証法的に屑二規定することなしに
ほ.,かならずしも十全の説得性をもたないであろう。すなわち,この見解では,
たしかに.,本質的に所得保障にはかならないところの社会保障の前提となって−
いる搾取関係一賃金と利潤との対抗関係−−を直戯紅伝えるという意味で
は,問題の一・半を照らすであろうが,同時に,他の−・半を喪失させる危険をも
つだろう。なぜなら,社会保障ほ,たとえ社会保険だけ紅ついてみる場合で
も,賃労働者階級とともに,国家独占資本主義時代に.特有に.増大して−くる中間
層をも,いわゆる「地域」対象として,むしろ不可欠の人的対象として,ふく
むものであるからである。6)したがって分配論の観点から社会保障をいいあて
ようとするなら,そ・れは「賃金の再分配」というよりも「勤労者所得の再分配」
という方が,理論的にも実際的に.もただしいであろう。
同様に,社会福祉の人的対象を「労働者階級の所属貞」に.限定すること7)
も,いわば階級規定を無媒介に現実に.押し当てるものであり,「労働者階級」
を具体的現実の尺度で再規定しないかぎりほ,社会福祉の現代的特質をかえっ
5)参照,近藤文ニ『一社会保険』岩波書店,1963年,娼一65ぺ一汐。
6)たとえば,わが国の医療保険の近況において,なんらかの社会保険の適用を受ける人
口総数は,1967年3月末現在で約9,飢6万人であるが,このうち国民健康保険の適用人
口は,約4,280万人にもたっし,43,6%を占める(健康保険組合連合会編『社会保障年
鑑』1968年版,巻末統計,第15表「社会保険等適用状況」紅よる)。これ軋,もちろん適
用人口の申すべてのホワイトカラ一層とその家族とを職域保険にまわしたうえでのこと
である。
7)孝橋正一・『社会事業入門』ミネルヴァ書房,1956年,17−18,31−35ページ。
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てかぐす結果となるだろう。すなわち,社会福祉の成立地盤は,もともと抽象
理論的には資本主義的人間疎外−・般,歴史的具体的に.は現代資本主義のもとで
のそうした人間疎外の特殊に.多様な諸形態の拡大と弥漫という点にあるのであ
って,現代のソフィステイケーデッドな社会福祉は,すでにけっして−特殊な少
数の落伍窮民たる労働者・孤児・身体障害者・老廃老などとはかぎらず,労働
者−・般・婦人−・般。児童−・般・精神病理一・般へと向かい,すすんではブルジョ
アジーをさえもふくめた多種多様な人的対象をもつのであって,その局面を切
り捨てることが社会福祉の資本主義的ないし階級的本質を暴露するゆえんであ
ると即断すべきでは,ないだろう。むしろまったく逆に,そうした社会福祉の
対象のいちじるしい拡大の現代資本主義的必然性こ.そが,解示されなければな
らないほずなのである。
−・般に.資本主義の全般的危機が国際的に.先進国・後進国の区別なくゆきわた
るようになれば,ブルジョアジーは,社会政策として,労働者階級を慰撫し,
産業平和をはかることに劣らず,あるいはむしろそれ以上に,安定した社会体
制維持の不可欠な要素たる中間諸階層の保全のために,手を打つことを必要と
するものであり,社会保障も社会福祉も,まさ紅この文脈のなかで現実の複雑
なブルジョア的制度として発足・前進し,保守政党もまた,採算のあう−・定の
条件のもとに,これらの制度を支持するものなのである。
さて,「社会保障」の定義の仕方にもいろいろあろうが,ごく一・般的紅は,
社会保障とほ,すべての人々の生存権の是認という基本思想に立ちながら,社
会保険・公的扶助の2側面に,種々の給付技術を粗衣あわせるこ.とにより,国
民の経済生活の最低限(ナショナル・ミニマム)を保障する国家的制度だとい
えようが,資本主義的社会保障の即現実的最大特徴は.,世界的規模での資本主
義の全般的危機がひろがった状況下で,すでに.国家独占資本主義が成立した先
進国であろうと,いまだ産業資本の形成も不十分な後進国であろうとを問わ
ず,おしなべてその国の貧困問題ないし社会問題の発生または発生可能性紅対
応する資本主義的社会政策および経済政策の一・環として,明白な資本主義的合
理性・採算性を前提とし,かつ社会諸階級間および諸階層間の所得移転の点に.
は原則として触れないことを前提としつつ(受益者負担の原則),勤労者世帯の
所得の前後的均礪■と維持とをほかる制度となっているという点に,あると思わ
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れる。すなわち社会保障ほ,その制度内容が表見的に没階級的・世帯=社会全
体的であるととによってこ.そ・,まさに.現代資本主義のために最も階級的な機能
を営むものといえるだろう。8)この点,均一・拠出・均一・給付の原則が所得比例
の原則を上積みされようが,あるいはかりに.後者が前者に.まったくとってかわ
ろうが,上記のような社会保障の根本特質に.は,かわりがないであろう。
他方,「社会福祉」の現代的定義に.も議論があるだろうが,筆者はさしあた
り,市民生活(資本制生産関係の網の目たる人間関係)の正常な軌道からなん
らかの事情で脱落した,またはするおそれのある個人や集団(労働者家族とか
ぎらない一)をその要求ごと紅特殊個別的に処遇して,通常の市民生活を回復さ
せる,またはいっそう円満ならしめるための,政策外的・自発的・専門行動的
な生きた現業サービス活動だと,いっでおこ.う。そ・して,社会福祉が,かつて
「社会事業」と称されたものと異なる特徴点は,やはりそれが,資本主義の危
機的状況下での社会不安の拡大深化に・よるいわゆる人間疎外現象が生活上の諸
事故ないしニードを促進することを前提として.,そのあらわれを体制内で可及
的紅個別処理する必要が激増するところに成立している点紅ある,といってよ
いだろう。そのかぎり社会福祉の内容ほ,きわめて広範多岐なのも当然である。
同時に/社会福祉は,市民生活の既設の軌道そのものの変革,ないしは人間疎外
現象の体制的原因そ・のものの除去,というこ.と把手を触れるものではありえな
いだろう。
社会保障・社会福祉の両者を対比すれば,ともに現代資本主義下の社会問題
への必然的なブルジョア的対応装置たる双生児として成立し,またその理念に
ほ後述のような共通の思想史的脈絡があると解されるが,ここで念のため両者
の基本的区別点紅ついて:要約を試魂ておき虎い。第1に.,社会保障は,医療保
障のように・サ−ゼスないし現物給付を中心とする場合でも,これを所得給付に
8)日本における進歩的社会保障論が,.え.てして階級的視点を強調しようとするあまり,
社会保障の内容のすぺてを労働者階級に直接関連させて強弁しようとしがちなの紅たい
し,逆に西ドイツの近時の社会保障論の大勢は,没階級的・世滞=社会全体的見地に、立
つことによって社会保障の資本制的・階級的性格を忘却しつつあるようである。この状
況の詳密な紹介として,大陽寺順一イ西ドイツ社会保障論の展開」(『−・橋論叢』第54巻
籍3号〔「社会科学の諸問題」特集二〕,1965年9月),および同氏「西ドイツ社会政策論の
岐路」(同誌,第59巻第2号,1968年2月),を参照。
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還元させて考えるのが理論的であり,また諸施設の供与も制度の周辺ないし前
提事項と解することが妥当と思われるので,けっきょく社会保障は,もっぱら
経済的制度であり,端的に.いって所得保障だとの把握もゆるされよう。こ.の点,
ペグァリッ汐報告の観点は的を射ていたと思われる。9)また,まさに.こ.のこと
が,社会保障を社会体制と不可分ならしめるのである。反面,社会保障は,経
済的給付を超えた福祉面に.は直接タッチしない。他方,社会福祉ほ,たしかに
費用問題や金銭的処遇の側面を大きくふくみ,そのゆえに.資本主義的制約に決
定的に服するのであるが,しかし,むしろ直接に.各個の人的対象の精神的・肉
体的諸要求(ニー・ド)の診断判定と市民的充足(“福祉”)をはかるものといっ
てこよく,その分析も,経済学とかぎらず心理学・医学・社会学等の諸科学の提
供する諸装置の援助をも,要するようである。
第2に.,社会保障ほ,当然国家の公的政策の一骨であり,労働問題対策とと
も紅社会政策の2大支柱をつくりあげ,現代社会政策の特質を陽示するものと
いってよいだろう。こ.れにたいして社会福祉ほ,なるはど公的扶助に.おいて一社
会保障といわば原点的に.重なりあい,また,立法や行政の規制を伴うかぎり,
その−・般的規制自体も社会政策の一部分とみられるが,しかし本来ほ,むしろ
それを枠とした独自の自発的・多岐的・特殊個別的な現業活動の生きた展開そ
のものに,その本質を見いだすべきだろう。
以上であきらかなよう紅,社会保障と社会福祉とは,資本主義の全般的危機
時代,とくに.国家独占資本主義時代の社会=生活問題の広範な拡大への対応制
度たる双生児として,すでに.産業資本主義時代に生まれて)、た労働政策のこの
段階での展開諸制度(とくに完全雇用政策および最低賃金制度を加える)に,
さらに追加並立するにいたるものといえるであろうが,さらに.いま,とくに思
想史的にみるとき,社会保障および社会福祉紅共通な2つの特徴的理念の混在
をひきだすことができそうである。すなわちその筋1は,目的的な生存権の思
9)たとえば近藤又二教授ほ,日本国憲法箆25条の表現をも援用し,社会保障を経済的な
制度として,経済外的な社会福祉や公衆衛生と区別して規定しているとされ,一歩をす
すめて,「社会保障は“経済的保障”であるというよりは,=経済保障”であるという方
が正しい。いな,それほ“所得保障’,であると割切る方が正しい。」と述べられている
(同氏編『社会保障入門』有斐閣,1g68年,13ぺ−ジ)。
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想,ないしそれを中心とする規範的理念であり,第2ほ,問題および制度に関
する即事実的・没実体的でテクノロジカルな理解と処置とを重んずる,いわゆ
る機能主義の思想である。ところで形式論理的可能性としてほ,機能主義的理
解や処方は,それ自身ほ無色透明なのだから,生存権の保障という規範を与件
として与えられれば,それはそれで,他の任意の与件の場合と同様に.,併存・
整合しうるようにみえる。しかし実際紅は,生存権の思想は.,労働者およぴそ
の他の勤労者のイデオロギーせ不可分に担っているのにたいして,機能主義の
思想は,表見的には投イデオロギL一的姿勢をしめすのにかかわらず,じつほブ
ルジョア・イデオロギーと不可分に.結びつい
たものとしてあらわれ,したがって
両思想は事実上相互に.実質的に.対抗しあう関係に.あることが,留意されよう。
第1に.,社会保障も社会福祉も,それらが主体=目的的に理解されるかぎり
は.,国民の「権利」として観念され,とりわけて一生存権の恩恵が根底をつらぬい
ているこ.とほ明白であり,国民の権利としての社会保障や社会福祉という観念
は,たとえば周知のように.日本国意蔑第25条の規定に.も明示されているが,法
社会学的見地からの社会保障・社会福祉の権利性の解明は,むしろ最近ようや
く本格的に着手されほじめたばかりのようである。10)しかしながら権利性の基
盤となっている生存権に/ついてほ,かつてアントン・メンガー・が,それを「社
会主義の終極の目的」たる「経済的基本権」(die6konomischeGrundrechte)
を構成する8っの権利の1つとして(他ほ,全労働収益権および労働権),かぞ
えたことがある。メソガ−ほ,17,18世紀における政治運動の追求目標が「政
治的基本権」(die politische Grundrechte)だったのに対し,産業革命以後に
あらわれた社会主義の経極目標が「経済的基本権」であり,後者は,(1)仝労働収
益権,(2)生存権,(3)労働権,から成るこ.と,このうちとくに.生存権は,ブルジ
ョア的でも社会主義的でもありうること,をいずれも先駆的に.指摘したが,そ・
れほ1886年のこ.とであった。11〉 これでもわかるように.,国民の権利として−の社
会保障・社会福祉という理念の形成ほ,近代的自然権の思想が,ブルジョア的
10)たとえば,小川政亮『権利としての社会保障』効草書房,1964年が,わが国での先駆
的労作であろう。
11)Vgl.Anton Menger,DasRechiauf den vollen ArbeiiseY.iY’agin geschichi・
licher Darstellung,1886;4te Aufl.,1910,SS.5−10”森戸辰男訳『全労働収益権史
論』弘文堂,1924年,8−19ぺ−ジ。
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所有や労働者の参政権および労働関係の直接的諸権利の確立というプロセスを
経由してのち,いまやとく紅生存権の理念そ・のものに.特化結集して,しかも「労
働との閑適を媒介とすることなく.」12)直接紅そ・の法的・規範的意義をようやく
画期的紅獲得して,−・般勤労者なり「国民」の経済的生存権・そのものを国家に
直接保障させるにいたったことを含意するものとして,思想史的把.重要なエポ
ックをつくりあげるものといえよう。もっとも,こうした社会保障・社会福祉
の権利性は,あくまで主体=目的的な規範理念であって−,それが日常具体的紅
現実の制度のうえで,客体的に.も実現・達成されうるかどうかは,べつの問題
であり,それほむしろ,社会保障・社会福祉および国家・社会の現実的諸条件
紅よって−−−より厳密に.ほ,そうした客体的条件と勤労者自身の権利の不断の
主張・確認という主体的条件との対抗関係に.よって−規定されるものという
ぺきであろう(例,朝日訴訟事件)。13)要するに自然権の思想は,当初はブルジ
ョア革命の思想の核心として,主として−封建的土地所有紅かわるブルジョア的
財産権の主張の恩恵として:あらわれたが,産菜革命とブルジョア的選挙制度と
の確立のあとでは,農民や労働者や婦人の参政権のかたちで再編された。社会
保障および社会福祉に.おいてはじめて,勤労者の生存権そのものが,慈意・人
道主義・博愛等々の科学以前的ロマンティレズムと手を切って,「社会主義の
終極の目的」として確認されるという脈絡が,注意される。
第2は,生存権思想はどに.はかならずしもなお明瞭ではないかにみえるにも
かかわらず,それ紅劣らず重要なもう1つの発想法が,社会保障・社会福祉の
展開史に一層■しつつあることが,推定される。それは,貧困問題ないし社会問
題を,なにか哲学的またほ.抽象理論的規定を先行させて考えるというよりも,
具体的な1つ1つのケ−スどとにまず政教義的・日常臨床的・具体的見地から
接近し,直接事実紅即して\ニL−・ドや問題性やそ・の原因を枚挙的紅分類規定し,
その1つごとの診断および処方をきめ細かく決定するという方法のうち把.看取
されるととろの,没実体的ないし機能主義的思想,これである。この思想は,
12)片岡舜「労働基本権と社会保障の権利」,日本法社会学会編『社会保障の権利』(法社
会学・第19号),有斐閣,1967年,所収,とくに17ぺ−ジ。
13)この点については,小山路男・佐口卓編『社会保障論』有斐閣,1968年,所収の拙稿
(第14講)「公的扶助」,とくに161−162,173ページを参照。
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周知のように,とりわけアメリカで専門職業的活動として発達した社会福祉の
“scientific philanthropy”の考え方に.おいて明瞭であるが,このプラグマfL
イズムは.,そのままじつほ社会保障の諸部門区分ごとの所得保障やそ・の変形
たるサービス保障の多岐な在り方においても,ますますはっきりしつつあると
みてよいだろう。これは,まさにいわゆる「近代理論」が最もよく適合しうる
領域であろうし,また事実,社会保障の現在の支配的な「理論」ほ・,こ・うした
近代主義=機能主義の方法論によって占められているとみてよい0とはいって
も,こうした近代主義=機能主義的方法の視点が没社会体制的・投歴史的であ
ればあるはど,その適用の現実の舞台は資本主義体制下の歴史的現実としての
貧困・労働苦・生活不安等々なのであるかぎり,こ.うした方法は事実上ますま
すプル汐ヨア的なものとならざるをえないし,「救済」とか「ニードの充足」
とかの「機能」を達成する価値基準も,あくまで資本主義のタームで,たとえ
ば「人間投資」の観点等々から,与えられる軋すぎないだろう。だからR・デイ
トマスも指摘するように.,「いやしくももし真の社会的サービスの役割を規定
するとすれは,それは社会主義者たちに・よって,平等の言語で規定されなけれ
ばならないであろう」し,14)まさにここに社会保障・社会福祉に‥おける2つの
思想の対抗関係をわれわれは再確認させられるわけである0
ⅠⅠ
前節においてわれわれほ,独占資本主義の世界的成立以降,わけても全般的
危機の到来以降,独自に優位「する紅いたる貧困問題ないし社会問題全般への対
応物としての社会保障および社会福祉の基本的相互関連の要点を,いわば即自
的に考察し,かつ両者をくくる根本理念を構成する2つの主要特色,すなわち
生存権保障の思想および機能主義的な問題対処の思想の存在と,両者の表面的
並存関係および実質的な相互対立の関係に.ついて,吟味したのであるが,この
点の理論的諸問題に関するいっそう詳細な考察は.べつにゆずらなければならな
い。ここで考えたいのは,こうした事項が,本来観念的紅導出されるべきもの
でほなく,社会保障・社会福祉の両範疇の歴史的実態やそれらを支える理念の
14)Richard Titmuss,“TheLimitsofthe Welfare State,’,Neu}Lqf’tReview,No
27,Sept.−Octn,1964,p.37
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形成の経緯に.即して.一兵体的に捕捉されなければならないだろうということであ
る。・そ・して筆者ほ,あらかじめいえば,この両範疇の実質的形成およびその形
成を支える理念の成立の主要な1起点を,思想史的に.ほ,19世紀末,とく紅80
年代および90年代のイギリスに.おける「■貧困」ないし「社会問題」をめぐる論
争−・般の推移に求めることができるのではないかと考える。かの勅命救貧法委
員会の報告書(1909年発表)における多数派・少数派の意見対立も,この大き
な論議の集約に.ほかならなかったとみてよいと思われる。この点の考察を,次
節以下で行ないたいのであるが,しかしそれに先だち,いわゆる貧困問題ない
し貧困化問題−・般に関して,理論史上の若干論点を本節においてあらかじめ反
省しておきたいと思う。
マルクス『資本論』の立場からすれば,資本主義的社会問題の核心としての
貧困問題ほ,なによりも資本の蓄積の対極として必然的な貧困の蓄積,すなわ
ち貧困化の問題の現象形態として,把握されるものと解される。すなわち,そ
れは,いわゆる「貧困化法則」(資本制蓄積の一・般的法則)の実現の例証として
の意味をもつであろう。したがって,現実の貧困ないしそ・の進行の問題のあれ
こ.れの局面の表見的緩和−−たとえば,しばしば指摘されるような実質賃金の
上昇−を拾いあげるととによって「実証」的に貧困化法則自体を否定しうる
というものではないし,「剰余価値生産のためのすぺて:の方法は同時に.蓄積の
方法であり,そして蓄積のあらゆる方法ほ,逆にり 剰余価値生産の諸方法を発
展させるための手段となる。したがって,資本が蓄積される程度におうじて−,労
働者の状態ほ.,かれへの支払がどうあろうとも−一高かろうと低かろうと一
志化せざるをえない,ということになる」15)わけである。ただしかし,こうし
た資本蓄積の拡大の対極としての貧困の拡大の必然性ほ,『資本論』第1巻第7
篇紅おける抽象的次元紅おいて総括的に導出されたものであって,マルクス自
身がことわっているように,「この法則は,他のあらゆる法則と同様に,その
実現に.おいては多様な諸事情によって修正されるのであるが,これらの事情の
分析ほ,ここでの問題ではない」16)のである。これを逆にみれば,この法則は,
15)Ⅹ.Mar・Ⅹ,かαぶ助〆fαJ,鋸Ⅰ,S…6軋長谷部文雄訳,青木文庫版,籍4分冊,
998ぺ一汐。
16)ム鋸−d.,Bd..Ⅰ,S,679.同上訳,算4分冊,996−997ぺ一汐。
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近代主義的真因観の成立
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資本制蓄積があるかぎり主導的紅実現の必然的傾向をもつとしても,・そ・の実現
を妨げたり促進したりする,より具体的な「多様な諸事情」にたいしては,い
わばオープン′。iノステムなのであり,したがって,これらのより具体的な阻止
的および促進的諸事情の弁証法的介在状況を扱きに.しては.,歴史的実在として.■
の資本主義的貧困の現実に関する説明は,マルクス主義理論白身としても,い
まだ完成しないことになる。
しかし,とれらの介在的・修正的諸事情は,労働運動であれ,国家的および
民間的な種々の社会改艮であれ(社会保障および社会福祉が,まさに.これにふ
くま:れる),さらに,資本主義の外延的および内包的な不均等発展紅もとづく貧
困の転嫁であれ,あるいはまた,独占価格・租税・インフレーション等による
いわゆる副次的・流通的搾取の進行であれ,最後紅,現代資本主義に.特有な大
衆社会化現象のもとでのプル汐ヨア的高度消費のデモンスト・レーション効果紅
よる勤労者生活の視乱と不満感増大であれ,叫いずれもけっして盗意的に.登
場するものではなく,その1つ1つが資本主義の特殊歴史的な条件のもとに独
自な弁証法的な登場の必然性と関連とをもって−形成展開されるものであろう
し,また,それら諸要因がいったん登場すれば,その次元で,主導的法則との
錯綜した連関の全体の弁証法的運動が,歴史的現実としての貧困の定在を規定
する紅ちがいない。その追跡ほ,理論的にじゅうぶん可能であるはずだが,し
かしそれほおそ・らくきわめて彪大な操作を必要としよう。
だからこそマルクス自身は,その経済学プランにおいては,こうした貧困化
法則の実現を規定する諸事情解明のために必要とおもわれる若干の基本的諸範
疇に.ついて示唆したようではあるが(とくに「賃労働」と「国家」をめぐって),
『資本論』でほ,むしろ慎重にそれら諸事情を捨象したのだった。17)そして−マル
クス自身は,当該■諸事情の媒介状況の理論的解明をけっきょくはとんど展開し
ないままで去り,そ・の局面をいわばリドル・ストーリ、−として,マルクス主義
者たちに.残した。この状況が,ベルンJ/コタイソ対カクッキー・の論争などを起
点として現在までつづいている「■貧困化論争」の基盤となっているといえよう。
そのあいだに,資本制蓄積の一・般法則をとく紅「貧困化法則」として明確化し,
17)拙稿「基礎政策範疇についての覚え書−−経済政策論と社会政策論のために.−」
『\香川大学経済論叢』努33巻発4号,1960年11月。とくに第4節を参照。
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香川大学経済学部 研究年報 8
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同法則の不断の実現への傾向とそ・の態様とを資本主義のあたらしい段階の諸条
件に照らして規定したレ−・ニンの仕事のメリットは否定できないが,肝腎の上
記の基本問題点把ついてほ,かれが『資本論』に密接した理論的解明の構図を
じゅうぶんに.しめしたとは,かならずしもいえないように.思われるし,レーニ
ンのオ−ツリタティグな裁断は,基本理論的規定というよりも,むしろすぐれ
て実践政治的指示としての意味をもったものと解され,そ・の意味で問題をあ
とに一現在紅いたるまで一残すことになったと思われる。まさに.この状況
の継続にたいして,貧困問題のブルジョア的理解と「理論」が,不断紅反批判
の余地を見いだしてきたものといえるであろう。18)
すなわち,プル汐ヨア的見地からすれば,貧困問題は,つねに.あくまで没階
級的・没歴史的な,もっぱら世帯や個人の生計をめぐる感性的・物的諸事実の
景的集計の動向の問題であろうし,それはもちろん貧困化法則を前提しない
し,いわんや同法則の実現の問題だとは解されるぺくもないであろう。もっと
も,この認識ほ,すでに.科学的社会主義が成立している場合に,そ・の貧困化論
にたいする反措定としてはじめて明確紅なるはずであって,それ以前の段階に.
おいてほ,盈困の正統プル汐ヨア的「理論」は,けっきょぐマルサスの人口論
そのものか,またはドイツ講壇社会主義風な倫理主義的社会改良の提唱・立案
論か,のどちらかであるに.すぎなかったといってよい。しかし,そうした素朴
な「理論」は,やがて用に.堪えなくなる。ブルジョア的な貧困問題論は,理論
史的に.は,とくに.マルクス『資本論』の導入に.よる即自的なインパクトを直接的
契機として,しかし同時に各国ごとの資本主義の段階変化とそれ紅周応した労
働者およびその他の勤労者の生活状態および運動の推転に.も規定されながら,
大きく旋回したであろうことが見当づけられる。われわれほ.,その状況をとく
紅イギリスについて−吟味したい。
ただ,ここで留意しておきたいのほ.,貧困の理論史のうえでの『資本論』出
現(貧困化法則の規定の成立)の重要な意義紅くらぺて,貧困の思想史のうえで
のその比重が,イギリスの場合,すくなくとも当初は,すこぶる軽かったらし
いということである。たとえばドイツでは,貧困問題を講壇社会主義との対決
の中心問題の1つとして受けとめた社会民主党が強力となり,かつそれをマル
18)参照,拙稿「貧困化問題の若干論点」,『一億論叢』第38巻貨6号,1957年12月。
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近代主義的貧困観の成立
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クス主義理論が強力にリードして\貧困問題を貧困化問題たらしめたし,ブルジ
ョア的貧困論ほ,講壇社会主義が理論的に・権威を失ったあとでほ,ベルン1/・コ・
タイソの修正主義理論の血環としてしばらく余ぜいを保つ程度であった。19)し
かしイギリスでほ,逆に.マルクス主義派そ・のものが,無数の急進自由主義的・
コント的・土地社会主義的・宗教的等々のセクト群とならぶ1セクトとして−の
み当初導入され,また,ひさしくそれだけの重みしかもたされなかったらしい
ことが,あらかじめ注意されるのである。20)しかしそれにもかかわらず,理論史
のうえでの,イギリスに.おける『資本論』導入のインパクトによるブルジョア経
済学の貧困理論の反応は,若干の吟味紅催いしよう。『資本論』の仏訳の導入
が,ヘンリー・ジョー汐の『進歩と貧困』の普及とともに・とりわけて「社会主
義の復興」をうながし,そ・の一層としてフェビアン協会が急速軋イ申展した経緯
や,フェビアン協会の「社会主義」理論,とくに・経済理論が,功利主義を大前
提としつつ,リカ−・ドゥのレソト=不労所得論とジュグォンズの主観価値説=
限界効用理論との折衷であったことについては,すで紅周知の事項であろう0
ただ,マルクス理論のインパクトが,じつはどのように・皮相に・受容されたかを
例示する意味で,フェビアン社会主義の理論的指導者バーナ、−ド・ショーの述
懐を,とくに.ここで引用しておく0
「‥わたくしの注意が,社会的救済の科学として−の経済学に最初に・惹かれ
たのほ,ヘンリーー・ジョ一汐の雄弁と,かれの『進歩と貧困』とによってであっ
たが,同書ほ,80年代にはめざましく普及し,問題なく他のどの本よりも以上
19)ドイツにおける近代機能主義の導入およびそれとドイツ・ナ■ショナリズムとの統一・の
課題をはじめて学問的に達成したのほマック.ス・ク.ェ−バ−であろうが,ク.ェーバーが
かつて一度も社会問題の内容について論じたことがなかったのは,おそらく,貧困問題
が倫理派(講増社会主義)や政治派(社会民主党およびマルクス主義)に独占されてい
る状況を毛嫌いしたからというよりも,「実質的不合理性」の1ケ−スたる貧困問題が
国民国家の「形式合理性」達成の悲願に当然従属すべき副次的問題にすぎないとみなさ
れたからではあるまいか。Cf。H。Marcuse,“Industrialization and Capitalism,,’
Ⅳβ抑エβ./’≠点♂か∠βぴ,Noい30,Mar・Ch・ApIil,1965…ドイツ紅おける社会改良の近代理
論の成立ほ,けっきょくネオ・リベラリスムスおよび第2次大戦後の西ドイツ社会保障
論にまたなければならなかったと,解される。
20)参照,拙稿(学界展望)「イギリス社会主義思想」,『凝済学史学会年報』第5号,
1967年11月。
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紅,イングランドのこの時期の社会主義復興にあずかって力があった。フヱ.ビ
アン協会が存在する以前に,わたくしは民主同盟(DF)のある会合に,土地
国有化把関する汐ヨ−汐の宣伝を押し売りしたが,しかしか−ル・マルクスを
読むようにいわれた。当時わたくしは,経済学には完全紅初心者であったの
で,.ル成cβ誌に−・文を送ってマルクスの推理の1難点を指摘したとき,じつは
その手紙も冗談半分のつもりだったし,誰かもっと専門の社会主義経済学者が
私を容易に論駁するものとばかり思った。そ・の駁論が到着しなかったときもな
お,19坦紀商業主義と資本主義体制とにたいするマルクスの告発の筆力と圧倒
的な文献立.託と紅ほ,すこぶる感銘を受けたので,不断にすべての相手にたい
してかれを擁護したのであった。が,ついに,有名なダンテ註解老で当時人気
のあったユニテリアン派牧師のフィリップ・クイックステイ−ドが,わたくし
の理解できないマルクス批判をして,わたくしをハタと立ちどまらせた。これ
が,1871年刊行のジェグォンズの価値論の,社会主義論争に.おける最初の登場
となったのである○エツ汐ワース教授およびクイックチタイード氏は,ジェグ
ォンズが数学者としてアピールした人々であるが,かれらはジェヴォソズ理論
の重要性を学界に信じさせようと,当時努めつつあったわけである。しかし,
わたくしは数学者じゃなかったので,かれらの証明方法には容易に近づけなか
った。オったくしは,クイックステイ−ド氏への回答を承諾したが,ただしわたく
しの回答を載せる7b−かα.γ誌の編集人が,クイックステイード氏の応答のスぺ
−スをも確保すべきこと,という特別条件を,つけておいた。わたくしの回答
は,インチキに.してほ上出来で,やがて25年後に/わたくしの呈示することにな
った所得平等を支持する経済論議の芽を,ふくんでいたわけだが,はんのみじ
かい応答しか引きだせなかった。しかしけっきょく,わたくしほクイックステ
イー・ド氏の掌中紅把.ぎられることになってしまい,筋金いりのジュグォンズ主
義者となった。ジ′ェグォンズ理論の精妙さ。マルクスをもふくめて−,これまで
の経済学着たちが,使用価値だの主観価値だの労働価値だの,供給価値紅は需
要価値だの,その他当時のややこしい有象無象の事柄をめぐる,恰好よくない
区別論議に逃げこむ紅いたらしめたところの一・切の事例にたいして,この理論
の適用ぶりの,魂ごとさ。こうした点にわたくしは魅了されたのである。/し
たがって,『フェビアン論集』の抽象経済学とほ.,価値濫ついては汐エグォ・ンズ
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近代主義的貧困観の成立
経済学であり,l/ントについてはリカー・ドゥ経済学なのである。‥…」21)
ところで,このレヨ−・の文章で言及されたフィリップ・クイックステイード
自身の『資本論』の受けとめかたは,注目に値いする。クイックステイードほ,
『資本論』の仏訳および独文阪第2坂を椅読するや,ブルジョア的貧困理論の古
典的形態たるマルサスの理論が,マルクスによって完全に粉砕されたという事
実を,ただち紅きわめて率直にみとめ,かつ,このことの重要性を指摘したの
であった○われわれほ,このことをもって,この国における貧困問題の本格的
近代経済理論の始点とみなすことができるであろう。ユニテリアソ派牧師とい
う経歴からも示唆されるとおり,クイックステイードほ社会的問題意議紅富
み,思想的に.は人道主義派(ラスキンやトインビー)の影響を受け,ジョージ
をも読み,この線から社会主義への関心をもつように.なった人であって−,経済
学老としてはけっきょく汐.ェグォンズの限界効用理論に傾倒し,この立場から,
上記のショーの文章でもわかるように.マルクス『資本論』への体系的な批判を
先駆的に行ない(1884年),労働価値説へのブルジョア的批判の原型をつくると
ともに.,フェ.ビアン社会主義の経済理論形成の契機をも与えたわけだが,賃金・
人口・貧困に関するマルサス的見解へのマルクスの批判については.,はば完全
に.理解し,これを明白に肯定したこ.とがうかがえる。22)
ちなみに.こ.の点,クイックステイードの師であり,この国の限界原理の創唱
老となった汐エ.グォンズは,じつは近代理論の先駆者たるに.ふさわしい社会改
良理念を死の直前まで持ちあわせず,貧困観についてはナッソー・シ㌧ニアとま
.
21)Edward R..Pease,The Histor.y qf’the Fabian Soctet.y,1916.AppendixI,
A,“On the History of Fabian Economics.By Bernard Shaw.”とくにpp巾2601−
261.
22)Philip Henry Wicksteed,“Das KapitaL A Criticism,.u To・肋.y(New Series),
Vol.ⅠⅠ,Noり10,Oct、1884,pp.388−409;“TheJevonian Criticism of Marx.A
Rejoinder〔to BernaId Shaw〕”,ibid”Vol.ⅠⅠⅠ,No.16,April1885,pp・177
−179い この『資本論』籍1巻への書評の末尾で,クイックステイ−ドは,「『資本論』舞
1巻の後段の部分では,マルクスほ大問題の解決常きわめて重要な諸寄与を行なったも
のと思われる。ただし,その諸寄与は,はじめの諸費の抽象的推理となんら論理的関係
をもたない」とし,とくに=抽象的労働”のかわりに,ただしくは=抽象的効用けの概
念が導出されるぺきであった,とする0なお,クイック・ステイ
月ゐ才♂7’.γq/’エα∂0〟7■,1964,pり247.
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香川大学経済学部 研究年報 8
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ったく同様だったことが留意される。ちょうどマルクスが『資本論』の基礎原
稿たるノート群を書きあげつつあった1867年に,限界効用理論の構想を盛った
最初の論文を書いたジ.ェグォ・ソズは.,以後も自由放任と自助,1834年救貧法ヤ
コブデソ思想への無条件の礼賛をつづけたし,「労働組合の敵」たることをも
って−自認し,一切の慈善を有害無益だと不断に.きめつけてはぼからなかった
が,9S)これはクイックステイ−ドとは対庶的な態度であった。それは,「シ′エ
アが手織機職人に.ついての報告書(1841年)の結論で,ただ飢えと病いと死と
のみが,貧民の列伍紅有益な苅り込みを加え.て,そ・の過剰人口を軽減しうるで
あろうという期待を隠しえな」24)かったのと同様であるし,またそれは,経済
繁栄の周期を太陽黒点の周期に帰した彼の周知の恐慌論とも不可分につながる
ものといえ.なくはない。もっともそのジュグォ・ンズも,死ぬ直前の労作『労働
に.たいする国家の関係』(1882年)への序文でほ,自由放任か国家干渉かの問題
ほ,けっきょく主観の問題であって−,「われわれはなんらしっかりした規則な
ど規定できないということ,各事例ごとにくわしくそのメリットについて取り
扱わなければならないということ,これが研究の帰結である」25)と,諦観を告白
して−,ついに機能主義への終局的譲歩をみとめざるをえなかったのであった。
ⅠⅠⅠ
さて,われわれは,貧困・貧困化問題紅関する以上の理論史を踏まえて,社
会保障・社会福祉の両範疇の現実の歴史的形成をとらえ.る認識の発端が,思想
23)WStanleyJevons,Methods qf SocialRqFormandotheY’Pd?eYS,London1904.
とくに=Trade Societies:their Objects and Policy”(pp”98−117),=TheWorkof
the〔Manchester Statistical〕Societyin connection with the Questions ofthe
Day”(pp.174−186),およぴ“BritishAssociation−Opeming Address as President
of Section F(Economic Scienceand Statistics)〃(pp1187−208),を参照。
24)Louis Cazamian,L(RoHlq〃SociG[(N.4〃g[c[crTC,1SSO−50,Paris,1904)L/
イ・カザミアン,石田意次・白田昭共訳『イギリスの社会小説(1830−1850年)』,研究
社,1958年,95ぺ一汐。
25)WS.Jevons,Preface to The Staiein Relationio Labour,1882・CfけCharles
Loch Mowat,The Charit.y Organisaiion Society1869−1913.ZtsIdeasandWoY・k,
1961,p.123
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近代主義的貧困観の成立
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史的に.みて−,19世紀のとくに80年代から世紀転換期前後紅.かけてのイギリスに
おける貧困ないし社会問題および救貧制度改革をめぐる論争紅おいてみられる
ことを跡づけたいと考えるのであるが,そ・の予備考察として,これ紅先だつ中期
ヴィクトリア期におけるイギリスの社会問題観の分布が,80年代の「社会主義
の復興」へとどうシフトしていったのかに.関して−,見当づけを試みておこう0
19世紀の30,40年代のイギリス紅おける労働者階級の彪大な貧困の悲惨と汚
槻との実憩が,.か−ライルの『過去と現在』(1843年)や,エンゲルスの『イギリ
スに.おける労働者階級の状態』(1845年)や,またディズレイリの政治小説『シ
ビル,またはふたつの国民』(1845年)など紅よって古典的敦述を与えられてお
り,1843年に.はグラッドストーンも下院で,「人民の消費力が減少し,労働階
級の困苦欠乏が増加すると同時に.,上層階級においてほ富の絶えざる蓄積と資
本の絶えざる増加とが行なわれたということは.,この国の社会状態の最も憂鬱
な特徴の1っである」と述べたことは有名であるが,96)それほ,近代開始期の動
乱的様相の軸・時的延長以上のものではないかに.みえた。ところが,チャーチイ
ズムが終息し,1851年の大博覧会が社会の鎮静を告げたあとでも,こうした貧
民の状態が一・向紅改昔されるどころか,じつはむしろ固定化し,一部では拡大
しさえしながら,「繁栄の50年代」をつらぬいて60年代以降へとリレーされて
いったらしいことは,ちょうどマルクスが『資本論』第1巻第23章第5節「資
本制蓄積の−・般法則の例証」の冒頭で巨細に.分析しているとおりである。この
点,グラッドストーンが1863年の予算案演説で,イギリスの富の著増を強調し
て,「それほ労働者人口に.とっても,間接的利益でなければならぬ。けだし,そ
れほ−・般的消費財を低廉ならしめるからである一富者はますます富裕に.なっ
たが,貧民もまた,より少なく貧乏となった…1」と述べたこ.とにたいするマ
ルクスの批判ほ,まこと紅痛烈であった。27)
26),27)参照,Ⅹ.Marx,かα∫勧よgαJ,Bd.Ⅰ,SS.687−6絡・長谷部訳,青木文庫版,
寛4分冊,1007−1008ぺ一ジ。なお,マルクスのつぎの文章も留意される。「披救姐
民統計の分析に.際しては,つぎの2っの点に重きをおかねばならぬ。一方では,被救他
的窮民数の増減運動便座業循環上の適期的転変を反映する。他方では,公けの統計ほ,資 ●●○●
本の蓄積に伴い階終闘争−したがってまた労働者たちの自己感情−が発展するのに
おうじて,被救性的窮民の現実の大きさにつきますます欺瞞的となる」(絡寝..,S.689.
邦訳,同分冊,1010ぺ一汐)。
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しかし,たとえマルクスをまたずとも,40年代末から60年代初紅かけて−のイ
ギリスの貧困の増大ぶりほ,たとえば首都の鬼大な貧困の実態を長期間,刻々
にノレポルタージ.ユ.風に報じて−当時の社会小説群の想源となったヘンリー・・メイ
ヒ.ユ.−の調査の集大成『ロンドンの労働とロンドンの貧民』(4巻,186ト2年)28)
などでも,知られる。ところで,19世紀中葉イギリスのこうした貧困状態への
ブルジョア思想界の基本的対応は,J.S.しルの「精神的危機」の克服から『社
会主義論』までのあゆみが象徴したように,一言でいえば従来の合理主義・個
人的放任主義(功利主義)の以急進的”支配にたいする「理想主義的・干渉主義
的反動」29)のおだやかな組織化,およびこの両志向−「ニつの極,二つの合
流点」80)−の相互妥協,ということを基底としての,工場立法・労働組合保
護立法・労働者教育・慈善組織化・理想的キリスト教モラル再興等々の促進の
主張であったといえよ.う。こ.の場合,ヴィクトリア朝の初期から中期への移行
とともに.,とくにたとえばキリスト教社会主義の運動や「労働派知識人」(ポジ
ティダイストたち)の活動に刺激されて,この二極図式のうち,力点が−・方の極
から他の極に.移ったということ,および両極を短絡させるような種々の妥協が
みられたということはいえても,なおこの段階では,諸産業の繁栄と楽天的社
会観の支配のもとで,両極のそれぞれの内容に基本的変化があったとは.,みと
められないだろう。なお,70年代の半ばまでの推移も,おなじ段階に包摂して
よいと思われる。
しかしながら,70年代後半に到来した砧大不況”とともに,社会不安が俄かに.
ひろがり,貧困および失業を中心紅社会問題が復位しぼ.じめた。自由放任の泰
平がぐずれ,ヴィクトリア的帝国主義が開始され,チェンバレンの提唱した「
ガス・水道の社会主義」ないし‘‘municipalsocialism”が自由党内部でLib−Lab
の一・端として有力化し,他方,ミドル・クラスのもっと左派の人々は,生き残
りのチ・ヤーディストたちともども,院外で労働者と連繋して種々の急進クラブ
28)Henry Mayhew,London Labour andihe L,Ondon PooYI,4voIs.,1861−2.メイ
ヒ.ユ−の調査ほ,1849年9月24日付朋わ吻〝g Cカγ0児童cJβに.投稿した「バーモンジ−の
コレラ地域訪問記」を手始めとする手記の彪大な集成であった。ワ−ルズ・クラシック
ス抜琴版(1965年)への.Jobn LいB工adleyの序言を参照。
29)カザミアン,前掲邦訳,序言および第3章を参府。
30)カダミアン,前掲邦訳,16ぺ−ジ。
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近代主義的真因観の成立
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群を指導した。しかし深刻な失業で各種労働組合が既得の経済的権利を防衛す
るのに汲々として一同志討ちさえ演ずる有様にかんがみ,ついに自由党からも労
働組合からも離れた「社会主義」各派が,急進クラブ群から成長する○・それと
ともに,キリス†数社金主義やポジティゲイズムも,歴史的任務を終える。こ
うした政治思潮の大きなうどきに照応して80年代とく紅83年以降の「社会主義
の復興」も理解されるのであるが,この事態を上述の二極図式にあてはめて:社
会思想全体のレフト状況を概観するとき,それほ3つの局面をふくんだと考え
られる。
欝1紅,合理主義のこれまこでの内容だった功利主義と自由放任との合体物
は,すでにJ.S.ミルによってそれがかならずしも其の意味で合理的ともかぎ
らないことを指摘されたあと,とくに経済学において限界効用理論を獲得して
のち,急速に.従来の自由放任・個人主義への無条件な支持を中止し,とりわけ
そ・の有力な−・派(フェビアンたち)は,バーナ−ド・ショー・らの操作によって,
ブルジョア社会主義紅変形した。もともと「最大多数の最大幸福」を目標とす
るなら所得の平等(各人の所得の限界効用の均等)を期せざるをえ.ないはずだ
ったのに,ペンタムが「平等よりも財産安全」の基準を優先させるこ.とに・よっ
てこの帰結をひそかに歪曲していたのを,本来の論理を貫徹させるよう回復し
たこ.とを,これは意味する。81)以後合理主義の内容ほ.,個人主義のあたらしい
解釈のもとに自由放任から離れ,むしろ平等な生存権の思想と両立しうるもの
となる。ところが第2に,全体としてのブルジョア体制保全の建て−前からすれ
ば,従来の自由放任型の旧功利主義も,社会主義化した危険な新功利主義も,
ともにブルジョア的である点でほ許容することができるとしても,いまやそれ
らほ特殊な,部分的なブルジョア・イデオロギ一にすぎず,普遍的に「合理
的」な体制原則の真に近代的な定在が,早晩ぺつに.求められざるをえなくな
る。この合理主義の真空地帯を埋めうるものは,いまやただ1っ,徹底的紅没
31)「フェビアン社会主義は,派生的功利主義である。‥そこでは,ブルジョア合理主
義は,主として,自由放任の資本主義市場の魔術的諸カのかわりに国家を置きかえるこ
とによって,社会主義的合理主義となった。両者とも,ひとしく,はとんど自動的に最
大多数の最大幸福がもたらされるものとみられた。」(Tom Nain,“TheNatureofthe
LabouIParty−1=,New LqfiRevtew,No,27,Sept。−Oct.,1964.)
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香川大学経済学部 研究年報 8
イデオロギー的で無色透明にみえる機能主義以外にほ,ないだろう。要する把
「社会主義の復興」のインパクトが,ブルジョア合理主義の意味内容に.変革を
おこ.し,フェ.ビアニズムのかたちでの功利主義の再編延命と同時紅,以上の意
味でその延命の限界をも準備することに.なったという脈絡が,留意される。
欝3に,図式の他の極,すなわち「理恩主義=干渉主義」に.ついていえは,
「社会主義の復興」とともに.はじめてイギリスに.正式に導入されたマルクス主
義が,従来の他の社会主義的・コント主義的・宗教的諸派もろとも,その内容
として押しこまれた。じつほ,マルクス主義は,科学的社会主義として,轟の
意味で最も合理的だという意味で,いずれは最終局面払おいて機能主義と合理
性の席をあらそう運命をもつだろう。しかし当面,ミドル・クラス・イデオロ
ギー・の支配−㍍プル汐ヨア・ミ‥ステイフィケーレヨン”−のもとでは,この
文脈は.押さえられ,マルクス主義もー、時挫折して,さしあたり他の従来のもろ
もろの急進自由主義的・ポジティダイスト的・人道主義的・土地社会主義的な
いし宗教的な諸セクトと十把−からげにされ,そ・の全体が最広義の「社会主
義」的志向として,合理主義紅対置されるこ.とになった。しかしともかくも,
その「■社会主義」的志向の総集約が,労働者階級の現実の要求を代弁したもの
として,けっきょくあたらしい法的生存権の思想となったものと解される0
貧困問題の考察檻必要なかぎりで,便宜カザミアンの二極図式を援用しなが
ら80年代を中心として展望して−みた場合の,イギリス19世紀思想史の相対的に.
独自な前後関係の様相は,概略以上のとおりかと思われるが,基底における社
会経済史の進行によってそれが規定されたであろうことは,いうまでもない。
ここでほわれわれは,「社会主義の復興」を契機として,−・方でほプル汐ヨア
的諸思想のなかの本命としての機能主義の思想が新芽をみせること,他方でほ
社会主義的・宗教的・倫理的諸思想が集約されて法的生存権思想を打ちだすと.
と,以上2点の思想史的必然性を確認できればたりる。こうしてわれわれは,
ふたたび社会保障・社会福祉の理念のふくむ2特質点把立ちもどる。すなわち
われわれの前には2っの考察課題点が横たわっている。第1に,イギリスの近
代から現代への思想史のなかで,とく紅貧困ないし社会問題に・関する思考や論
議のあゆ魂が,具体的にどのようにして,叫・方でブルジョア的視点からみて,
古典的な諸把握形腰−それがマルサス的であれ,オクエン的,トーリー党
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近代主義的貧困観の成立
−2J−
的,チャ、−デイズム的,人道主義的,COS的,さらにすすんではマルクス的形
態でもあれ,総じていわば理論(ないし教義)先立的・本質論的・実体論的な,
そして同時に.なんらかの意味での階級社会観(“2つの国民”)を前提とした理
解−から,転じて,経験=実証主義的・技術=機能主義的・数畠関係的,そ・
して投階級的な把握形態へと,巧妙陀.推転するに.いたったのだろうか。第2
に.,もともと近世の‘‘働く貧民”なり小生産着たちの空想的な自然権思想に.発
した革命的規範欲求ほ,ブルジョア革命の幻滅と産業革命のあらしとのあと,
近代的労働者階級とその運動とに.よって継承。組織化され,さら紅それは,独
占資本主義成立以降では,生活不安の深化と全国民(勤労者)への拡大動向,
およびそれに伴うところの,労働者階級のみのための労働立法を超えた,最広
義の勤労大衆全体の生活保障の不可欠化動向とともに.,あたらしい規範理念と
して,「国民の生存権」という思想に.まで定着するにいたるものと解されるが,
イギリスにおけるその経緯は,どうか。
このうち第2の考察課題に.ついてほ,われわれはその検討をぺつの機会紅ゆ
ずりたいと思う。ただここでは,−・般に.「巷存権」というものが,およそ・諸自
然権のうち最も基本的なものでありながら,資本主義の最終段階でようやくは
じめて「福祉国家」のもとで理想的規範として確認されるものであるこ.と,32)
しかもその場合もなお,理想的規範とそ・の現実的達成とは,まったく別問題で
あることに,留意したい。また,生存権を主として−主張するところの社会主義
思想は,それが革命的であればあるほど,また政治的事情が急迫していればい
るほど,貧困その他の社会問題を革命と短絡させやすく,いきおい,およそ現
32)アントソ・メソガ−も,私有財産制のもとでの生存権の実現が困難なことを説き,未
成年者や老令・疾病・虚弱等に.よる労働不能者についてはまだしも「多くの方向にむか
って,しかしただ非常に制限された程度でのみ」各種社会保険により実現されてきたけ
れども,「いうまでもなく最も実現の困難なものは,労働者自身,すなわち労働能力者
の生存樅」であり,「とくに近代の工場立法でほ,生存権への接近はこれを認めえない」
が,「このように生存権の実現が思うように.ゆかなかったことが,おそらくわれわれの
近代の立法で労働権の承認を穫ようとする運動の基礎となったのであろう」とした(A.
Menger,ObCit.,SS・165−167”森戸訳,308−311ぺ・−・i7)。なお,おなじころイギリス
では,バ・−クやベンタムの主張になぞらえた保守的姿勢で生存権をふくむ自然権思想を
進化論的見地かから包括的に.批判した主張もあらわれたことは,参考に低いする。Cf.
David G‖ Ritcbie,Ⅳαf〝γ〆.鵡gJiね:αC7・∠f∠七∠.ざ桝げSク∽♂P〃J∠f査cαJα〝dβfゐ∠■cαJ
C〃乃C印南0紹.ざ,1894.
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ー22−
香川大学経済学部 研究年報 8
ヱタ6g
実の資本主義のもとでの可能な社会改良を,熟した規範理念のもとに.積極的に.
構想・推進することを軽視して,不必要な譲歩紅よっでブルジョアジーの手紅
それをゆだね,あまりにもおそい時期に.ほじめて:この問題紅.気づくという−・般
史をつくりあげているということ紅も,注意サる必要があろう。イギリスで
ほ.,創設期の革命的社会主義の挺折がひどく,ブルジョア社会主義が生存権思
想をリードしたために,「福祉国家」および社会保障の建設的理念が先駆的に.確
立されたという事態は,皮肉ではあるが,社会保障の資本制的本質を典型的に
物語っている。さて,生存権の思想に.ついてはこれだけにとどめて,われわれ
は第1の考察課題に.注意を集中したい。
ⅠⅤ
イギリスの19世紀80年代,90年代は,貧困の巨大な実在紅ついての論議のム
−ドの盛りあがった画期であったが,もちろん第1に.,大きくはドイツ・アメ
リカの資本主義の拾頑と肉迫と紅よるイギ.リス帝国の経済的動揺と,国内での
恐慌の深化現象の開始に伴う社会不安の増大という事情が背景に.あり,他方,
欝2紅,国内思潮では,83年以降の「社会主義の復興」の機運,また第3に,
労働運動がLib−Lab方式からようやく“独立”しはじめるという基本事情があっ
ただろうが,直接に.は,とくにこ.のころ統計的に.刻明詳細な貧困調査とその広
汎・深刻な実在状況の挙示とがあい継いだことが,重要である。とりわけチャー
ルズ・ブースの彪大な掬査研究『ロンドンの人々の生活と労働』(第1巻,1889
年)3S)は,1887一92年に.わたる「なみの好景気」時に.おいて,首都人口の約3割
が貧乏の渕紅沈んでいることを実証し,また救世■軍のウィリアム・ブース将軍
の『ま二っくらや衣のイングランドと出口』(1890年)84)も,世論を刺激すること
が大きかったが,B.S.ヲクソトリーの著書『貧困。都市生活の−・研究』
(1901年)35)ほ,1899年の異常な好況時に,この国の代表的なしずかな古都ヨー
ク市紅も,ロンドンとまさにおなじ比重の貧困が実在しでいることを数盈的紅
33)Charies王∋00th,エ≠/∂α〝dエα∂♂〟r q/路♂A明漬り〝エβ乃♂ク〝,17voIs.,1889−
1903.調査期間ほ,1887−92年。
34)GeneralWilliam Booth,Zn Darkest England andihe WayOut,1890.
35)B.SeebohmRowntree,Povert.y.、AStudyqfToumL・草f冶,1901”調査期は,1899年。
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近代主義的貧困観の成立
−23−
明示するにおよんで,問題の実在は決定的に.社会から確認された。なお,はば
おなじころ悔の向うでもE・エンゲルが,デ、ユクぺレオの伝統を継いでとほいえ
『過去および現在のベルギー・労働者家族の生活贋』(1895年)さ6)を刊行したこと
は,貧困問題に.関する国際的かつ実証な関心のたかまりを示唆している。こ.れ
ら諸調査のそ・れぞれの論旨はすでに周知のことに属しよう。われわれの注目し
たいのは,こうした実証的調査の系譜が,−・方でほお一そらくこの国の経験主義
の伝統(たとえば,1880年代に.活動したロンドン統計協会を想起)の−・環とて
存在しながら,他方,とくにこの時期紅,あたらしい方法論的意味をこめてあ
らわれたとみられるふしがあるという点である。
さて−,こうした彪大な貧困の実在に関するあいつぐ証示把つれて−,伝統的な
救貧制度の再検討をほじめとして,宗教界や人道主義者一般をも動員しつつ貧
困問題についての根本的な論議が大規模に属開されるに.いたったが,その論議
の趨勢ほ,大きくみて3つの見解に岐れたとみられる。37)
その節1は,伝統的自由放任思想の地盤のうえでの慈善活動の組織家たち,
すなわち「慈善組織化協会」(Charity Organisation Society)〔COS〕の後期論
客たちMチャL−ルズ・ロック(Charles Loch),バーナー・ド・ポ.ズンキット
(Bernard Bosanquet),同夫人(Helen Bosanquet),チャー)Z/ズ・ポーズンキッ
ト(Charles Bosanquet)ら一によって代表された見解である。COSの母胎団
体たる「困窮・犯罪予防協会」(Associationfor thePreventionofPauperism
and Crime.1868年設立)の創始者たち−ソリp(the Rev.Henry Solly)や
ホ−クスリー・(D工.T,Hawkdey)−・ほ,貧困の社会的ないし公的昔任をほっ
きり認めていたが,き8)coSの発足(1869年)後まもなく中心指導者となったポ
ーズンキット夫妻らほ,存続中の1834年救貧法以外の一切の国家的干渉を否定
し,個人主義的立場を擁護しながら,−・切のあたらしい改革のうごき−たと
36)C.L E Ellgel、DiビL,し,bt,)1Sk()SIc〃b{T[gjschcr.4rbcif(TJa11Li[ic〃.frl抽(,rt(lZd jc(=t.
1895
37)以下の叙述については,つぎの文献に負うところが大きい。Asa B【iggs,Soc壷αJ
r加〟gゐfα〝dぶoc∠αJAc如〝・A5f〝d.γq′〃をβ勒7・虐げぶββ∂∂ゐ沼R〃紗形わ・郎∴摘7ヱー
ユタ54,1961
38)Mrs.〔Emily C.〕Townshend,The Casc Againstihe Charit.y OY・ganisaiio
Societ.y,Fabian Tract No。158,1911,p。14
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−ヱ・ノ ー
香川大学経済学部 研究年報 8
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えば救世軍のプL−ス将軍の立案,チ・アールズ・ブースの老齢年金案やひいては
1908年の老齢年金法,飢餓児童への学校給食案,学校診療制度,すべての失業
者救済制度など−−一に.断乎反対して,89)活発な論陣を長期に.わたって張った
点,旧イデオロギーの生きた代弁として活目されるし,そ・の影響力も大きかっ
た。「ヴィクトリア朝的生活の特徴的産物」といわれるCOSの歴史は,みずから
の見地からすれば,それが第2次大戦後の1946年に,イギリス社会保障制度の
発足とともに,最終的に.歴史的任務を終えて「家庭福祉協会」(FamilyWelfare
Association)へと転化解消するまで,もっぱら個人の尊厳と自助の擁護とを貫
徹したこと,およぴ,困窮下の善意の世帯や個人の自助を支援する方法とし
て,救貧法との連繋のもと紅,民間慈蕃団体紅よる専門的ケース・ワークを創
始したこと,の2点に.よって誇らかに特徴づけられたようである。40)
かれらは,貧困は−・部の特殊者以外はもっばら道徳的・個人性格的な原因か
ら生ずるもとのだいう基本的見地を堅持し,“deserving poor”と“uudeserving
poo工・”とを峻別し,後者紅ついてほ,性格を矯正する精神教育による以外のど
んな制度的施策も無益であるのみならず,いやしくも本人の依頼心を増長させ
るから有害であるとして,たんに.温情的な慈善紅も,国家に.よる干渉紅も,つ
よく反対するとともに,前者に.ついては,自助不可能の者は救貧法把よらしめ
るぺく,また貧困が臨時的・軽度・善意のものであって自助可能の者について
は,個別的な詳細な調査(ケース・ワーク)をまち,真の意味の慈蕃一氷遠
なるぺき信仰・希望・愛(ニ慈善)のうち,「混も大いなるものは,愛(=患者)」
(コリント人への籍1の手紙,算13章籍13節)であるとの原理に立脚した慈啓一叫がま
さ紅通用されるぺきものであるから,これをケL−ス・ワ−クによって自助に.ま
で扱助すべきものとし(この点チャ−ルズ・ポーズンキットは,ケL−ス・ワーク
によって貧困者が救貧法対象たるぺきか,またほ.ただしい慈善の適用対象たる
ぺきかをは.っきり区別することが可能だと先駆的に.主張した第一人者だった),
慈蕃とその組織は,まさに.との根本理念に沿うものでなければならないとし
た。したがってかれら紅よれば,人間的な法律や制度のどんな変革も無益有害
39)J∂≠d.,pり 2
40)Cf,Charles Loch Mowat,The ChaY・it.y OY.ganisation Socieiy1369−1913:Zis
JdβαSα循dl阿〝・鳥,1961
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近代主義的貧困観の成立
−25−
なのであり,貧困の基本原因は,本人の性格の堕落ないし人間性のやむをえぬ
帰結にほかならず,真の愛(=慈善)ほ,友愛と思想と自助のカとを与えるよ
うな作用だけをさすものだとされたのである。が,同時に.かれらほ,貧困に.関
する「■正確な統計的説明」なるものの価値を否定し,精神的側面がどうかこ・そ・
が重視されなければならないとした。
たとえば,最も有能な指導者の1人B.ポ−ズンキットは,その編著『社会
問題の諸局面』(1895年)の序文で,貧困問題の鍵ほ,本人の性格にあることを強
調して−,「愛=慈善こそほ,条件中の条件である」41)と強調したし,また,とく
にブース将軍の前掲畜が貧困の実態を情緒的に・強調したり種々の救済計画を立
案して1、ることを摘評して,それは慈善の根本義を誤解しでおり,COSの活動
の大前提に.無理解だと論じたのだった。また,最も理論家だったロックは,20
世紀に入ってからの最後の労作『愛=慈善と社会生宿』(1910年)のなかで,な
お頑強に.マルサス風に.貧困の不可避なことを強調して−,「貧窮ほ,なくなること
はありえない。競争する人間の集団が,つねに.それをつくりだしている」42)と
主張し,だから貧窮を廃止しようなどとくわだてるのではなくて,「社会的習
慣」を改善すること,これが博愛家の目的たるぺきものであるとし,一切の社
会改長措置を否定した。「’COSの最もおそるべき個人主義のチャンピオン」48)た
るへ.レン・ポーズンキットのほげしい主張は,いっそう有名だが,かの女の主
張は,ラクソトリーの第1回ヨ−ク市調査への批判とともに・はじまる0かの女
に.よれば,「およそまじりけのない貧困などというものは,この世に存在しな
い」44)のであり,「給養ほ,それがふじゅうぶんであることよりも,不適切であ
ることの方が,はるかに.貧民児童の飢餓の有力原因である。」45)この派の人々の
一・致した唯一・の積極的な改酋の提言は,「滑神教育が大切,他の一切は無用」と
41)BernardBosanquet(edい),AS?ecispfihcSocialProblem,1895,Preface,phViiu
Cf.MrshTownshend,OPりCit.,p.12
42)C.S.,Loch,Cha痺yandSocialLifお,1910,p・393・CfりMrs・Townshend,OP・
C査−タ.,p…12.
43)CりL..Mowat,〃♪・df..,pい125
44)HBosanquet,Richand Poor,1898,p・5”Cf・AlBriggs,0?=Cit・,pl21・
45)Zbid.,p92・Cf・ABriggs,0?Citい,pp一・21−22
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香川大学経済学部 研究年報 8
いうことであった。「自由にして経済のセンスのある人間」46〉へと貧民を魂ちび
くなら,ほ.じめて貧民はひとりで紅消滅するであろう,とポーズンキット夫妻
は考えたのである。かれらの主張の最後的総括は,勅命救貧法要貞会の「多数
派報告」に・おいて与えられることになる。
しかしながら第2に・,このころ出揃った社会主義諸派に.と
っては,以上のよ
うなCOS的見解は,グィクトリアン・プル汐ヨアジ−ないし全支配階級の点心
の慰籍の方便以外のなに.ものでもなく,到底批判にも堪ええないものにすぎ
ず,後期フーエビアンの1人タウンべ/ヱ.ンド夫人も批判したように,「その理論が
わが国の貴族およびミドル・クラスのあいだで栄え弘富っているのほ,それが
安逸・逃避の生活の無為と自己満足とに.まさにぴったりくるから一」47)だった。
同夫人は,COSの「根本的誤謬」として−,(1)事実上の分配の彪大な不平等に目を
ふさぎ,1834年救貧法に盲従したこと(ただし,創立期の人々をのぞく)。かれ
らが他方で唱えたケース・ワークの方法ほ,そのことと必然的関連がないこ
と。(2)慈静による不労所得が労働者を損うという論理は,富者の彪大な不労所
得を考えれば,矛眉もは.なはだしいこと。(3)貧困の原因を個人の性格紅帰する
見解は,貧困の明白な社会的諸原因への無知をしめすだけであること。以上3
点を挙げたが,48)これはどの社会主義派もがCOSに/たいして抱いた共通意見で
もあっただろう・。社会主義各派は,それぞれの理論的理由から,当然ながら貧
困問題を最も重視し,かつ救貧法制の害悪とその撤廃ないし抜本的改革の必要
とを主張した。同時に.社会主義着たちほ,いわばヴィジョンを伴った統計操作
によって貧困問題の実証またほ例証にも努めたことが,うかがえる。
以上のうち,マルクス主義を標模した「社会民主同盟」(SocialDemocratic
Federation〔SDF〕)の人々による統計調査の実的績については,指導者ハインド
マンみずから書き残したエビソL−ドがある。49)ハインドマン紅よれば,活動の
初期においてDF(SDFの前身)がロンドンの労働者階級諸地区について実施し
た調査こそは,「きわめて一組織的,かつきわめで惧蓋紅,ロンドンの種々の区
46)A.B工・iggs,〃タ.ぐれ,p..21..
47)MrsいTownshend,Ob・Cit.,p.19.
48)∫∂ダd.,pp.6−18.
49)HenryMayersHyndman,TheRecoYd q/anAdventurous L≠fお,1911,pp.,330−
333.
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近代主義的貧困観の成立
・−27−
域について行なったものであり,どの場合にも典型的な労働者階級の街や建物
を実験台としたもの」であり,「およそあらゆる点で誇張を避けるぺく最も留意
し,安全確実を期して,実際必需品の物価が低い時期に.,可能な生活水準で衣食
が肉体的破壊を防ぐのに.もふじゅうぶんな人々として㌧決定した人数の百分比か
ら,なお,割引きを行ないさえもした」結果,それでもロンドンの彪大な貧困の
ひどさを結論できた最初のものとなった,という,それに.よると,「首都の労働者
のすくなくとも25%が,まったく生存を維持しえず,いわんやいやしくも娯楽
の類ほ論外の,週給」紅あえいでいることが,わかった。これは世間の広い関
心を呼んだが,同時に.誇張があるなどのあらぬ疑いを受け,某日,当時まだ無
名のチャールズ・プ−ス氏が来訪して,ロンドン全体としてそんなに貧民が多
いはずはないと異議を唱え.て.納得せぬまま,けっきょく本人が自分で調査す−る
ととになったものである。そ・の結果は,首都の労働者中の生計維持不能者が80
%もいることを彼は発見したのであり,SDFの見積りがむしろあまり紅も控え
目に,低めに.失してさえいたことが判明した。しかもブース氏からは,この結
果についてなんの挨拶もないままとなった,という。−ハインドマンのこの
回想がどこまで正確か,また言及された調査の内容自体がどうであったのかほ,
SDFの機関誌力融如の掲載記事をたどれば判明するこノとでもあり,ここではこ
れ以上触れないことにするが,ハインドマンが貧困調査を,はたして−貧困化法
則の例証と明確に自覚していたか,それともブルジョア的実証の次元で考えて
いたかは,明らかでない。しかしいずれにせよ,SDFには,J.スケッチ・リーや
E.、エイダリングのような統計的事実調査紅得意の人々もいたことはたしかであ
る。50)そうしたSDFの統計に.対決すべくC・プ一女があの彪大なロンドン調査
を思いたったという事情ほ,参考に値いする。
他方,フェビアン協会の人々もまた,当初より統計的に貧困の事実を把握す
ることから,その活動を始めているが,それを最初紅まとめた資料集『社会主
50)Cf.John Sketchley,The Princi?les qf SocialDemocrac.y;an ExPositionand
t7ittdi(afio]t.1879E.Avelingについては,CowLlltO)lli・(a[誌の1885年以降拓哉シリ
l−ズ=Lessonsin Socialism,’などを参照。
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香川大学経済学部 研究年報 8
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義者のための諸事実』(フェビアン・トラクト,第5,1889年)叫が,その後4
分の1世紀の間紅たびたび阪を重ねて14万部ちかくも売りつくされたこと
も,貧困の実態に関する知識人・労働者の関心の所在を示唆するものであっ
た。そ・して,SDFの貧困観に.マルクス主義の理論が先行していたのと同様に,
フ,エビアン的貧困観にも,とくに.その初期に.は,それに.特有な分配平等の理論
がつらぬいていたことはいうまでもない。フェビアンたち以外の種々の土地社
会主義老たちもまた,ヘンリー・ジョージ風なそれぞれのヴィジョンを伴う貧
困観をもったであろうが,ここではそれにほ立ちいらないこと把.する。しか
も,いずれ紅せよ,「社会主義の復興」とともに百花斉放したかの観を−・時に.呈
したこの国の各種社会主義のそれぞれの理想が,大規模な失業問題の登場に.よ
る貧困問題の重大化に.もかかわらず,まもなく世紀転換期紅かけて帝国主義ム
ードの高まり紅促進されたブルジョア・ミスティフィケーションの汲紅呑ま
れ,62)はとんどが挫折または衰退して.Lゆき,いわばそれとすれちがいに下層労
働者の組織化および労働者のための独立政党結成のうごきが展開したことほ,
周知のとおりである。総じて革命でなく現実の貧困問題の当座の改巻のため
紅,救貧制度や苦汗制や失業問題をどうするかに.ついてほ,社会主義諸派の立
論は,後期フ.エビアンたちの主張をのぞけば,いずれもはとんど有効たりえな
かった。この点,フ.ェビアアニズムだけが,貧困・苦汗制・失業問題に.終始密
着しながら実際的改良を提案しつづけることに.成功したが,おそらくその秘密
は,フ.ェビアユズムがその発展の第2期に.おいて,勅命救貧法委員会の「少数
派報告」起草の前後から事実上の指導者となったビアトリス・クェップのイニ
シアティブで,しずかな変容をとげ,とくに貧困問題対策に関する即事実的・
機能主義的な理解を包摂しうるように・なったことに・あると,思われるのである。
しかし機能主義的見地は,すでに社会主義諸派の見地とは別個の,第3の立
場として挙示する必要があるだろう。総じて社会主義的貧困観ほ.,ブース的見
地からすれば,貧困の実態に関してヴィジョンを伴った誇張のト危険をもつだけ
51)ダα(ねノbγ5〃C‘αJ∠・Sわ,一5ん那加乃g〃iβd∠.sわ一・∠ぬ離〃紹q/≠ゐ♂Ⅳαf∠−β乃αり〝Cβ∽βα乃d丁子.s
Results,J〆omihe PoliticalEconomists and Statistici’ans.Fabian Tract No.5,
1st ed“1889日 版を重ねるどとに新資料が増補されている。
52)近代イギリス労働者階級の意識が慢性的にブルジョア的神秘化の被膜構造に包まれて
きたことを鋭意分析したものとして,Tom NaiInの前掲論文を参照。
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近代主義的真因観の成立
−29−
でなく,現実の貧困の諸形態の特殊具体的原因探究とその除去といった面紅は
弱いものなのであり,したがってそれへの反措定として,まず一切のゲィ汐ヨ
ンやア・プリオジな観念を排して没教義的収.貧困の諸実態を調査し,その実態
の各ケースごとに具体的原因をさぐりあて.,最後に.おもむろにその状況を分類
・−・般化すると同時紅,適当な処方を各個的に㌧見いだすという見地が登場する
のは,自然なことであった。細部紅問題もあるおもしれないが,大体チ・ヤール
ズ・ブース,ビアトリス・クェップ,T.H.ノ、ツクスリー,53)B.S.ラワン
トリーらの考え方をこの見地として−・指することができよう。それは,やがて
勅命救貧法要眉会の「少数派報告」に.具体化される志向でもあった。さて,こ
のうち,ブース紅よるロンドン貧民の詳密な調査が「社会政治学と経済科学双
方のランドマーク」54)たる意義をもった状況の詳細や,また,ブースの調査に.
すで紅処女時代に熱心に協力したビアトリス・クェップの思想が,他のフェビ
アンたち,とく紅フェビアニズムの第1期を代表したパ−サL−ド・シ
ョL−らの
発想紅くらぺてどのように実質上独自なものであったかという点や,さら把.,
貧困研究の近代主義的方法論を明示しつつ,「政治・経済問題に関する従来のも
ろもろのア・プリオリな教義や推理方法ほ.,根本的紅劣悪」であり,けっきょ
くそれらは,「2つのたがい紅矛盾した極端紅危険な体系,すなわち1つは無政
府的個人主義,他ほ専制的もしくほ軍隊的社会主義」55)に.帰着してしまうこと
を強調したハックスリーの思想がポジデイブイズムと近代機能主義とをリンク
させた状況など,いずれも吟味を要しようが,あえて−ここでは立ちいらないこ
と紅する。いずれに・してもこのグループの人々は,COS対社会主義諸派の応酬
を中心とした大規模な論戦の進行(これに.ほ−・般の人道主義者や教会の人々も
参加した)把.ほ.,けっして直接関与せず,そのかわりブースのロンドン貧民調査
やヲクソトリー・の最初のヨ−ク一市貧民調査で代表されるような一連の没教義
53)このグループは,T。Hい Huxleyを介してポ汐ティ グイズム(コント主義)とつな
がるはずであるが,ラクソトリ−自身ほ,ハックスリ・−以外のこの派の人々から影響を
受けた形跡ほない。
54)Beatrice Webb,MyA少?reniiceshib,1926,Ch.ⅠⅠⅠCf.A… Briggs,0少.cit.,
p.17
55)T,.H.Huxley,SocialDiseasesand Worse Remedies,1891,p.7.Cf.A.Brig
ゆ.c査f.,pり22.
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一武トー
香川大学経済学部 研究年報 8
ヱ96β
的な統計調査によるコンクリー・トな貧民実存の証示をしずかに行なうことのみ
に注意を集中したようである。
これに.たいしてCOSの論陣のしんがりをつとめたC・ロックは.,その1910年
の最終労作で,56)なおもくりかえして「貧困は消滅しえないし,人間の競争グ
ル十プのあるところ,不断に.貧困は生産されている」こと,したがって貧困を
廃止するのでなく「社会的習慣を改善することこそ・が,博愛家の任務である」
ことを主張し,「上の観点よりして.,多方面匿公的関心を呼んだ注目すべき周知
のチャ−ルズ・ブース氏およびレ−ポーム・ラクソトリー氏の調査は,われわ
れの判断では,まちがっている。両氏ほ,社会的習慣を分析しないで相対的貧
富を分析しただけである」が,これは「貧困が習慣やあらゆる種類の潜在的能
力に.まったく偏えに依存しているということ」を忘れており,したがって−,か
れらの貧困線の規定なども「社会調査ないし社会再建の満足すべき基礎として
ほ,けっして役だちえない」し,「課税その他によ.り富を−・階級から他階級に
移転したところで,社会的困難の解決とはならない」と,猛攻撃したのだっ
た。
しかしそれ紅もかかわらず,終局的には,プ−ス=ラクソトリ−的接近法だ
けが,ひとり具体的紅当面有効な体制内的貧困対策の体系的制度を画期的に望
見しうることになり(あわせて,COSの編みだしたケース・ワ−クの方法自体の
メリットも否定できない),それが,世紀転換期を紅ぎわした貧困観の諸対立を
して,当面おのずから整理されるにいたらしめること紅なったと解される0そ
してあらかじめいえば,貧困問題は.,けっきょくその意味および直接原因把握
については,とくに.ラワントリL一に終結的に・代表される統計学=社会学的な分
類と整理に,またその処方理念としてはフェビアニズムないしニ.ユ・−・リベラ
リ.ズムに・,それぞれ収赦していったといえよう。
なおここで,あわせて留意されるのほ,COSのニ.コ.−・ヨーク支部総書記E.
T.デブァインがそのころしめした見解である。デプァインは,COSの創設期
の理想を継承し,ケース・ワー・クによる民間的慈尊と公的社会改展との両立を
主張して−,イギリス後期COSの代表たちの見解を批判し,「個人の堕落などと
56)C,.S..Loch,ChaYityandSocialLi.fわ,1910,pplr386−387、Cflr Mrs・・Townshend,
0♪.c査才.,p12…
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近代主義的貧困観の成立
−βJ−
いうものは,呪術や悪魔つきとおなじよう紅,およそ近代的貧民の困窮龍.関す
るまともな理論にとって−ほ,無縁のものである。困窮とほ,経済的・社会的・
−・時的なものであり,計測可能,制御可能である。貧困は,結核と同様,調査
も治癒も防御も,可能である。それは.,不易の自然的事項のうちにでは.なく,
われわれの特殊な人間的制度,われわれの社会的施策,われわれの家屋・街路
・地下道,われわれの法律・法廷・監獄,われわれの宗教,われわれの教育,
われわれの博愛,われわれの政治,われわれの産業,そしてわれわれのど汐ネ
スのうちに.こそ,存在している」57)と述べたが,これは,社会改良に.関するイ
ギリスとアメリカとの機能主義の展開の始点をリンクした見解として,留意軋
低いしよう。
貧困問題をめぐる諸見解の以上の分岐および帰趨を踏まえながら,いまわれ
われはとく紅,論議の終着点に立ったとみられるラクソトリ−の貧困観察とそ
の意義についての吟味に,注意を集中することにしたい。なぜなら,かれによ
る貧困の周知の2区分およぴそれぞれの直接的原因に.関するかれの分析は,社
会保障および社会福祉の成立の根拠をきわめて即事実的・具体的に,かつ象徴
的紅,示唆したものと考えられるからである。ただし,思想家としてのラクソ
トリの全体像について取り扱うことも,ここでほ.控えなければならない。
Ⅴ
プ−スの実践的業績とノ、ツクスリ−の明噺な方法との双方に.ふかい示唆を得
てそれを文字どおり実行したといわれるラワントリーは,クロボトキンやフェ
ビアンたち(とくに.クェップ夫妻)ともしたしく交際しながらも,社会主義はも
ちろん,なんらかの政治運動やイズムや理論や教義に先導されて貧困を研究す
るという態度を慎重に.避けようと努めた点,また,なんらかの貧困対策の立案
をただちに.出すという意図もなかった点で,一潰していたことが注目される。
「かれの思考に.は,リアリズムが,実務ビ汐ネスマンのリアリズムが,あった。」58)
もっとも,そもそもかれをして貧困調査紅向かう紅いたらしめたものとして,
根底的紅は,クエーカL−・ヒュ−マニズムが,また直接的契機としては.,ロイ
57)E小丁小Devine,Miser.yandits causes,1909.Cf.Mrs。Townshend,0?.Cii.,p.13.
58)A。Briggs,Ob巾Cit.,p.337
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ー∂2−
香川大学経済学部 研究年報 8
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ド・ジョ一汐やフィリップ・カ−・(ロード・ロシアン)やアルフレツド・マー
レヤルの影響が,あったようである。
ラクントリーほ,ヨーク市の第1回調査(直接総当り調査)をまとめた周知
の労作(1901年)において,しずかな古都ヨーク市の事実上の仝労働者紅関し
て,「家族がたんに肉体的な能率の維持に.最低限必要な物資を得るに.たるだ
け」の生活費を“貧困線”として設定し,総所得が絶対的に.この線以下の家族を
「第1次的貧困」,総所得がこの線を若干上廻っていてもその一・部が他の支出に・
向けられたため紅.実際上この線以下のくらしである家庭を「第2次的貧困」と
名づけ,種々の規模の家族ごとの最低生活費(貧困線)をマーケット・バスケ
ット方式風紅積算計上した。その結果,第1次的貧困状態にある老はヨーク市
人口の9.91%,第2次的貧困状腰の者ほ,17.93%,計27.84%との結論を得た
が,ラクソトリ−は,この場合,慎重にも調査の当初からC.ブースに・じゅうぶ
ん相談して−,ブースのロンドン訝査とすくなくとも全貧困者人口が厳密紅比較
可能なように工夫されており,この結果,ブースの計算に.よるロンドン貧民の
比重30.7%と,上記の数字が「実際的紅同一・」という結論を得たのだった。そ
れまで人々ほ,ロンドンの,とくにイー・スト・エンドだけが貧乏なのだと考え
がらであったが,ヨー・ク市のよう紅典型的な地方都市でささえもはば同様だと
すれば,適合王国の諸都市人口の25ないし80%もが貧困生活をしているという
おどろくべき蓋然性紅人々は通商すること紅なると,ラワントリーは率直に指
摘した。なお,この比率の問題は最重要ではあるが,貧民の総合的生活状態や
その影響,とくに身体のスタミナ・へ・の影響の問題も重要だとして,ラクソトリ
ーは,詳密な吟味を行なったのち,結論として,しめされた諸事実ほ重大だ,
とかれはいう。「おそらく未曽有の繁栄期のゆたかな富にみちたこの土地で,
しかも人口のおそらく4分の1以上が貧困のうちに生活しているというこ.と
ほ,まことに胸底より問うて然るべき事実である。」59)
たしかに.こ㌧れは,国家がその人戌の福祉のため紅もっと思考を集中すべきこ.
とであり,文明も,・その基底にこうした挫折した人間生活を抱えているので
ほ,健全で安定しているとほいいがたい。ところでこの苦難は,はとんど声な
き声であり,その範囲とひどさも,知られないままにひさしく放置されたのか
59)B‖S.Rowntree,0?.cれ,p.,304.
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近代主義的貧困観の成立
−ββ・−
もしれないが,いったん判明した以上,まことに.重要な社会問題群が解決をま
つことを,われわれは知る。だが,それではこうした貧困の根本原因は,なに
か。また,どの程度まで,いっぁりの社会経済状態の姑呆なのか。もし国民性
紅も若干の責任ありとするなら,その国民性紅活を入れるため紅,なにをなす
ぺきか。−イ
しかし,」とラグントリーはいう,「筆者の目的ほ,対策を示唆
するこ.とよりもむしろ事実を述べることにあった。ただそれに.もかかわらず,
社会的進歩のみちほいかに.むつかしかろうとも,もし呉の人間的同情紅ほげま
されるなら,辛棒づよく洞察的な思考のまえに.前進の方途はひらけるであろう
との信念を,表明したいと思う。/マルサス的哲学のくらいかげは.,過ぎ去っ
たのであり,無数の男女が,その天性の高畏な部分を必然的にゆがめ破壊す
るはどに.ひどい生存競争の必然法則に.よって運命づけられている,といった窮
極状態観は,いまや受けいれられは.しないであろう。」80)こ.こ.に.ほ,いまやあら
ゆる観念的な貧困のヴィジョンやア・プリオリな貧困実体観を慎重解.排して,
なおまぎれもなく藍的かつ各個具体的紅貧困の核心を捉ええたという自信と,
したがって,その各個具体的な原因の究明と除去とがいずれほ可能だという楽
観とが,うかがわれる。そこ.にある「人間的同情」も,もほやヴィクトリア初
期および中期のローマン的な感傷とは異質な,ブルジョア近代主義のと.ユ.−マ
ニズムであることが,わかる。
とこ.ろでラクソトリーは,貧困の「直接原因」を,第1次的貧困・第2次的
貧困のそれぞれに.ついて,あくまで統計的手法紅したがいっつ追究析出した。
すなわち,まず第1次的貧困についてほ,(1)主たる賃金稼得者の死亡,(2)災害
・疾病・老令紅よる主たる稼得老の労働不能,(3)主たる賃金稼得者の失業,(4)
慢性的不規則就業,(5)家族員多数(とく紅児童が4人を超え.る場合),(6)低賃金
(主たる賃金稼得老が規則的に就業し,児童数も4人を超え.て1、ない場合),の
計6項目が列挙された。61)また第2次的貧困の直接原因としてほ,(1)飲酒・賭
博,(2)無知または放漫な家計・その他の無思慮な支出(後者はしばしば所得が
不規則なこ.とからおこる),の2項目を挙げるととも紅,82)ひいては,第2次的
60)J∂揖.,ppl304−305.
61)乃紘,pp.119−120.
62)J∂材.,pl.142.
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−−3凄 −
香川大学経済学部 研究年報 8
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貧困のこの両原因が,第1次的貧困状態にもとづく逆境の結果であるこ.とも多
いことを,かれは指摘した。68)この指摘ほ,COSの人々ならば個人の性格の弱
点に帰すべきとこ.ろを,くつがえすものであり,すで紅現代的社会福祉理念が
先取されているといって差しつかえないだろう。
ところで以上の貧困の2区分とをれぞれの直接原因の規定ほ,注目すべき象
徴的意味を蔵しているように思われる。第1次的貧困について彼が枚挙した6
つの直接原因は,考えて:みると,完全雇用および最低賃金制とともに,所得保
障=社会保障制度の具体的諸部門を,まさに・先取的紅おのずからカバーしてい
ることが,わかる。呵 これに.たいして,第2次的貧困の2つの直接原因は,む
しろ所得保障問題を超えた社会福祉の固有の対象領域を,ふじゅうぶんながら
示唆して几、るよう紅思われる。
ちな具にヲクソトリ−は,調査にもとづくなんらかの社会改良の立案を慎重
に控えながらも,みずからは思想的にほ.,けっきょくこふ−・リベラルとし
て,貧困の両区分そ・れぞれの着実な減少傾向に・関心をよせた。事実,つづくヨ
ーク市第2回調査(1936.年実施,第1回同様の直接しらみつぶし調査)をまと
めた著作(1941年)では,大きい戦争をほさんだに・もかかわらず,労働時間の
短縮をふくめて,「労働者階級の状態は,1899年よりもはるか紅,おそらく30
%かたも,よくなっている。ただし,この大改着に・ともなうわれわれの満足感
も,なおいまだ労働者の大きな部分がいまもけっして高いといえぬ盆困線以下
で生活をしているという厳粛な感じによって割引かれるであろう。」65)とし,
また,住居・健康・教育・各種のレク.リ1エー・ンヨン等も改善されたし,「貧困
63)Jみ∠dりp.144…
64)事実,サー。ウィリアム・ペグァリッ汐は,周知の『報告割起草の期間中,終始き
わめて熱心に.ラクソトリ・一に意見を求め,多大の示唆を得た模様であり,とくに社会保
険の最低給付水準としてラクソトリー・の「第1次的貧困」から直接示唆された。さら
に,ヲクソトリ−・がペグァリッジに.たいして,社会保障の本来のプラン以外の補助的諸
制度(完全雇用,最低賃金制,労動移動性促進等)の藍要性について助言し,また,と
くにプランの他に.高収入層のための任意制の所得比例給付制皮(拠出ほ.被用老・雇用者
折半)を併用すべきことをもすすめてさえ.いることは,現代の社会保障の動向を予見し
たものとして−,注目される。Cf・AsaBriggs,0♪”Citりpp・307−308”
65)B.S.Rowntree,PoveYi.yandPYIOgY・eSS,aSecondSocialSurve.yqfYoYk,1941,
pl.462.
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近代主義的貧困観の成立
−β5−
の諸原因は,ちょうど,かつては不可避と思われていたスラムがなくなりつつ
あるように,除去が可能である」66)と主張したが,これほデプァインの主張を
思わせる。
さら紅また,ヨL−ク市第3回調査(1650年,はじめてサンプリング法による)
の著述(1951年刊,G.R.レイダァーズとの共著)では,調査を経済問題だけに
限定しながらも,「1936年以降に実施紅移された種々の社会保障立法が,どこ
まで貧困を減退させるのに.成功したか」を追究して,即)1936年に比しての低所
得者層の10分の1への激減を実証し,「1936年から1950年までの間に・貧困者数
が17,185人から1,746人へと減じたことは.,明白にそれ自身大きな改善であ
る.」88)と指摘しつつ,しかし,この改善にほ社会保障の前進による(失業によ
る貧困の解消をはじめとする)質的な諸改善が並行していることを見のがすべ
きでないとして,「しかしこれらの数字も,生じた改善をじゅうぶん紅ほあら
わしていない。なぜなら,上述の事例研究のしめすとおり㌻1950年には,たと
え貧困状態下に.ある人々も,その困難は1936年のときの同様事情下の人々の困
難にくらべれば,ひどさが低いからである。この質的改善は,もらろん,なに・
よりも,福祉的諸施策に・よるもゃであり,これに・よって貧困がたとえ救拾でき
ないまでもこ.れを緩和して↓、るわけである」¢9)と,手放しの楽観的結論を与え
ているが,そこに.はラウソトリー・の貧困調査および貧困の直接原因の規定が,
イギ.リス社会保障=福祉国家の前進と不可分に連繋していたこ・とがうかがわれ
ると同時に,かれの視点の限界が浮かびあがってくるだろう0かれは,かり紅
この間に.,社会保障制度が実施されていず,国の制度が1950年現在でも1936年
のときと同じ状況であるとすれば,どのように・貧困の減じかたが微少にとどま
ったはずであるかについても,詳細な計算を与えているが,ただ,この社会保
障のアポロギア紅は,今後の問題の提起がはとんどみられない0
ここまでくると,もはやラクソトリーの見解が,第1次調査のときのような
生彩を失い,今日ではすでに陳腐化した近代経済学的貧困減少観以外のなにも
66)∫∂∠d.,p.476い
67)B.S..Rowntree and G.R.Lavers,PoveYrty and theWelfdre Staiel:rA Third
S♂CよαJS〟㌢・ぴβ.γq/■y〃γ烏d♂αJ査乃g O〝J.γ涙摘」む卯肌彿c Q鋸β∫f云〃紹・S,1951,p1い
68),69)Ibid.,p.66.Cfいppl・30−31,59・・
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香川大学経済学部 研究年報 8
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のでもなくなっているととが判明する。かれの試魂たようなマーケット=バス
ケット方式把.よる貧困調査でほ,国家独占資本主義下の高度消費現象に伴うブ
ルジョア生活水準の急上昇軋誘引される勤労者欲望水準の上昇と,これを充足
しえない勤労者生活の相対的貧困化という現代に特有の貧困問題は,到底捕捉
されがたいこと,また,それとはべつに,社会保障のゆきとどいたほずの,そ・
してラクソトリーが第3次調査を終えて楽観をもって展望したはずの1950年代
のイギリ.ス紅,多子・住宅難・有色労働者差別等を直接契機とする大畠のあた
らしい貧困だけでなくて貧困化の進行が,報道陣ばかりでなくアカデミックな
社会調査70)紅よっても証示されるこ.とになったこと,以上をわれわれは,とり
いそぎ,補足しておく必要があろう。
他方ラクソトリ−が,1901年の著書で,第2次的貧困に.関連して20世紀的社
会福祉の分野をつぎのように.予見しているのが留意される。「筆者ほ,いま述
べた諸考察の背後紅横たわる人間社会の福祉に関するいっそ・う大きな諸問題の
ことを忘れてはいない。しかし,これらの問題をじゅうぶんに述べることほ.,
本書の範囲を超えた思考の領域にはいることに.なるだろう。たぷんゆるされる
であろうが,それらの問題に.は,土地貸借の問題,国家・個人の義務とカ能
との関係の問題,富の集中または分配を左右する立法の問題,等がふくまれよ
う。第2次的貧困の直接的諸原因紅ついてほ熟慮と断行とが必要とされるであ
ろうが,こ.の貧困を窮極的になぐすととは,これらの諸原因をいっそう広い社
会問題の一・端として,かつ,それと関連させて,取り扱われるとき紅のみ,は
じめて可能となるだろう。.J71)しかし別途,同書巻末の補章でほ,これに.該当す
ると思われるような諸問題の緩和施策に∵ついて若干の展望が与えられ,社会福
祉の分野が志向されているようである。
70)Briar)AbeトSmith and Peter Townsend,The Poor andihe Poorest”A New
A兜αJ.γ.5壷−.s q/’≠ゐ♂腰扇・ざfγ.γげエα∂β〟7’’5ダα∽之J.γ且柑朗感如’βS〟γがβ.γ・ゞq/■J95β−54
and1960,1965Cf.The Ti’mes,Dec.23,1965;The Guardian,Feb.2,19661・
なお,参照,拙稿「ロンドン労働史とマルクス・ノ\クス」,『香川大学経済論濃』籍40巻
第2号,1967年6月。ついでながら,BBCの1968年度イタリア賞受賞テレビ・ドラマ
=CathyCome Homeけ(「さすらいのキャV1−・」)も,イギリスの最近の貧困化の実態
伝えているといえよう。
71)B.S。Rowntree,Poveri.y,p.145.
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近代主義的貧困観の成立
−37−
そして,この方向への彼の関心は,ブルジョア的ながらも,彼の編集した
1905年の『賭博論集』72)でもしめされたし,また,ヨーク市第2次調査の書(1941
年)の末尾でのつぎの提言も,社会福祉への彼のつよい関心をしめしている。
「われわれは,貧困下に生酒する人々の物質的水準を高めることだけに満足す
べきではない。人々のレ汐ヤー・のすごしかたに.ついての調査で判ったように,
肉体的・精神的・知的なカへの要求を起こさないようなレクリエーションに耽
溺することで生酒の充実を求めるという誘惑が,過去にくらぺて,いまやほる
かに.大きい。同時にまた,教会のカが今日はど弱くなったことも,ない。/貧
乏な人々の物質的水準を上昇させることは,なるはどむつかしい。が,全人民
の知的・情的生活を,それと目だっはどに.も上昇させることは,限りもなくい
っそうむつかしい仕事である。がしかし,この達成に.こそ,国家の永久的偉大
さも依存しているのである。」7さ)なお,第2次ヨーク市調査のさい,同市市民の
レクリエーションの不足状況に.おどろいたというラクソトリーは,レクリ,エー
ジヨンないし積極的福祉活動への関心を,北欧4カ国への旅行の体験に照らし
ながら,G.R.レイダァーズとの大きな共著『イギリスの生活とレ汐ヤー。社会
学的1研究』(1951年)74)に結実させてもいる。
もっとも,レジャ・一やレクリエーション自体が現代資本主義に特有に.拡大し
た‘‘疎外”現象にまきこまれるのではないかという問題意識は,ラクソトリ叫に
とっては死ぬまでけっきょく無関係のものだったようである。だからかれは,オ
プティミストのままで死んだ。現代資本主義社会紅特有な社会問題の複雑・広
汎な鼻的・質的拡大に.ついてほ.,かれはじゅうぶん考え.るとこるがなかった。
「ヲクソトリーの信念も,そのオプティミズムも,生涯のどの段階でも本気で
自省自問されたことほ,なかった。」75)社会の研究者として,かれは,年をとる
につれ,じつは20世紀初頭の単一・の‘‘社会問題”たる貧困問題から,多数の困難
な“社会問題群”の時代に住むにいたったはずだし,それらの問題群は「事実」
72)B.S,Rowntree(ed.),Betting and Gamblingl:’aNationalEvil,1905・
73)Rowntree,Povertyand Progress,ppl・476−447・
74)B小S小RowntreeandG…R,Lavers.English Lyband Leirsure・ASocialStudy,
1951け
75),76)A.Briggs,Oi・.Cit.,p・342‖
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香川大学経済学部 研究年報 8
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紅おとらず「態度」をめぐるものであり,「discontentというよりもM失業の
場合はぺつとし{wfrustrationやtensionを生みだす態のもの」76)となった
が,しかしかれはこの新局面把適応しようとほ,しなかったようである。それ
は,おそらくかれが老衰したからではなく,生来不可分だったミドル・クラス
・イデオロギーが,かれをこ.うしたばら色の社会福祉観紅とどまらせたものと
いえよう。ただ,それ紅もかかわらず,ラクソトリーの貧困の2区分構想ほ,
福祉国家に.おける社会保障と社会福祉の各対象領域を即自的紅先取規定したも
のとして,没しえない意義をもつものと考えられる(プ→スは,こ.の区分をして言
いない)。・そしてまた,ブースやラクソトリーの詳密な貧困の実証と,とく軋
ラクソトリー1紅よる貧困の直接的諸原因の実用的な解明とが,勅命救貧法貞委
会の少数派報告の基盤となったであろうことほ,はば明白である。
ついでながら,この少数派報告は「福祉国家の理念および政策の最初のじゅ
うぷんな呈示であり,ペグァクッジ報告よりもむしろ包括的」77)とされ,下から
の社会保障への道をしめした先駆文献として周知のものとなっているが,それ
を「社会主義理論への剖目すぺき,まったくオリ汐ナ・ルな寄与であり,ひとえ
に.フェビアン的起源のもの」78)だと,『フェビアン協会史』の著者は考えた。し
かしながら,なるはど少数派報告の中心起草者はフェビアン協会の指導者クェ
ップ夫人であり,またその起草をシドニー・ク.ェッブ自身も手伝ったかもしれ
ない紅.せよ,この報告旺盛られた見解は,創立期のフェビアン協会の発想法紅
は.なかったと思われるある重要な要素をクェップ夫人自身の創意に.よって加え
たように思われる(既述参照)。と同時に.,創立期のあのラディカルな不労所得
範疇(レンり排撃の「理論」は,以後の協会の人々の主張払おいては急速紅
影を薄くしてゆくことに.なったのではあるまいか。しかしこの間題の考察ほ,
本稿の課題を超える。同様に,勅命救貧法委員会の多数派報曽がどの程度紅へ
レ∵/・ポー1ズンキットらCOSの代表に.よって指導されたか,多数派・少数派両
報告の論点の異同状況とのちの社会保障・社会福祉諸制度との具体的意味関連
は.どうか,また,両報告のあと,「福祉国家的」制度発足までのあいだに.救貧
制度ほどう存続したか,等々の問題の吟味も,ここでの課題となしえない。た
77)G.D..fI.Coユe,A Historyqf.SocialiSt Thought,Voユ′.ⅠⅠⅠ,PartI,P‖207.
78)Edward RuPease,The Histor.y ofthe Fabian Socieiy,1916,p‖215.
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近代主義的貧困観の成立
・−39−
だ,多数派報告といえども,いまやようやく従来の救貧制度のあまりのひどさ
と抜本的改革の必要をつい紅肯定し,救貧委員局(Boardsof GuardianS)制度
を廃止してその仕事を州および州自治区評議会に.移すべきことを,少数派報告
ともども勧告したこと,しかし多数派報彗が,州または州自治区評議会に.依然
として貧窮−・般に関する一元的政令委員会を設置すべきことを構想したのに.た
いし,少数派報告はこれにつよく反対し,貧窮のみならずひろく生活上の諸困
難を生ずべき各原因領域(教育・健康・精神衛生等)ごとに.地方自治当局の専
門機閑を設置し,救貧よりも防真の本格的制度体系をつくるぺきことを主張し
た点紅,両報告の主要論点の分岐があったこと,またその後,少数派報告の意
義が急速に認められてゆきながら,なおたとえば1920年の1調査は,同年の救
急の醜悪な実態が「1909年当時とすこしもかわりがない」79)と報告して1、るこ
と,以上を付言しよう。いずれにせよここでは,少数派報告とブースやヲクソ
トリーの調査との密接不可分な関係を認定できればたりるのである。
最後に,以上を要約しよう。マルサス的救貧観のもとに,1834年救貧法の維
持を当然とし,慈善の乱発を拒否しながらも慈首の聖書的本義を固執して一切
の制度的改良を拒否するCOSの論客たちほ,−・方でケース・ワークの創始者と
なったけれども,他方,かれら紅よって自明のものとして支持されてきた伝統的
貧困観は,80年代の社会不安の増大と「社会主義の復興」とともに.,種々のあ
たらしい社会主義諸派の貧困観紅挑戦され,ほげしい応酬のうちに.世紀が転換
するが,このむしろ哲学的な論争のあいだに,ブースやラクソトリーに.よる−・
遵の授教義的な統計調査の実績があがり,これによるコンクリートな貧民実存
の証示があって−,ブルジョア・イデオロギーの支配のもとに,従来のいわばア
・プリオリな観念のタームでの貧困論義もおのずから整理される。けっきょく
貧困問題は,その意味把撞についてほとくに.ラクソトリーに代表される統計的
・非歴史的な,総じて\機能主義的=近代主義的な理解に,またその処方箋とし
ては,ニ.ユー・リベラリズムと後期フェビアニズムとをイデオ■ロギーとする諸
立案に,それぞれ収赦したといえよう。そしてこの場合,とくに.ラクソトリー
紅よる貧困の2区分は,社会保障および社会福祉の理念および制度の形成に.た
79)C.M\Lloyd,The Scandalqf’ihe Poor Law,Fabian Tract No.195,1920,
p13
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香川大学経済学部 研究年報 8
いして,素材領域を指示するうえで起点的な意味をもったかに.思われるし,そ
の構想ほ思想的に.曙,おそらく−・方で勅命救貧法委員会の少数派報告に.密接に
つながり,他方では,COSから旧自由主義を抜きさったうえで,ケース・メソ
ッドだけを機能主義的新理念に承継してゆくという時代のうごきを黙示したも
のといえるだろう。同時紅ラクソトリーの実証主義的・非歴史的接近方法の限
界は,そ・のまま現代社会保障および社会福祉のプラグマティズムの限界と照応
するだろう。そしてラクソトリ→の楽観主義は.,総じて∴社会保障および社会福
祉の資本制的諸条件と規範的権利性との歴史的対抗関係が,近代主義的施策の
範囲自体を必然的にきわめて狭い枠内紅.閉じこめているという現実を,近代主
義がみずからは認識しえないことをしめす1典例とも,なるであろう。
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