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道徳的個別主義批判(一) ― ロス、ダンシーの個別主義 ―
道徳的個別主義批判(一) ― ロス、ダンシーの個別主義 ― 安彦一恵 昨 秋 慣 行 さ れ た『 現 代 倫 理 学 事 典 』 ( 弘 文 堂 ) ― 以 下『 事 典 』と 略 記 ― 所 収 の 項 目「 普 遍 主 義 」 に お い て 、 筆 者 は 一 部 、 一 般 主 義 ( 普 遍 主 義 (generalism)) と の 対 比 に お い て 、 “ particularism” の 本 質 は 、 む し ろ 、 行 為 の 正 否 に つ い て 、( 対 象 側 の ) 行 為 に 即 し て で は な く 、そ の 行 為 を 遂 行 す る 者 、あ る い は 、そ れ を 判 定 す る 者 の 側 に 即 し て 、 「 徳 」と し てその者の判定能力を有意化するところにある、とみるべきであろう。これに対して generalism の 本 質 も 、そ れ で は 結 局 、正 否 の 判 定 を 判 定 者 の 直 観 に 委 ね る こ と に な る と し て、その直観性を批判して、道徳を論証可能な(理論=理屈的)事柄とみなそうとすると こ ろ に あ る 、と み る べ き で あ ろ う 。こ の 側 面 か ら は 、particularism は「 反 -理 論 主 義 」と い う 性 格 を も つ こ と に も な る 。 (744) と述べた。 『 事 典 』で は「 事 典 」と い う こ と で 中 立 的 に 述 べ た が 、本 稿 筆 者 は「 一 般 主 義 」の 立 場 に 立 つ 。我 々 は 、こ の 立 場 で「( 道 徳 的 )個 別 主 義 ((moral)particularism)」を 批 判 的 に 検討したいと思っている。そして、その為には、基本的次元から「知」の在り方を問題とし て 、「 暗 黙 知 」 に 関 す る 諸 議 論 に つ い て 批 判 的 に 考 察 す る 必 要 が 在 る と 考 え て い る 。「 個 別 主 義 」と は 、 「 一 般 主 義 (generalism)」に 対 し て 、正 し い 行 為 を 指 定 す る( 一 般 的 )規 則 の 存 在 を否定し、正しい行為は「暗黙知」として主体のうちに存在する、アリストテレスで言えば 「 賢 慮 (phronesis)」 の 行 使 と し て な さ れ る と 主 張 す る も の で あ る と み な せ る が 、 そ れ で は 、 規 則 と し て「 正 」の 規 準 を 語 り え な い 以 上 、 「 倫 理 」は 論 証 的 事 柄 で は な く 、 ( そ う し た「 徳 」 を 有 し た 者 = 「 賢 者 (phronimos)」 の ) 直 観 の 事 柄 と な っ て し ま う か ら で あ る 。 本稿は、前段として、当の「個別主義」について、W・D・ロスとJ・ダンシーに焦点を 合 わ せ て 、( ま ず ) そ の 主 張 点 を 明 ら か に し よ う と す る も の で あ る 。 一 ロスの個別主義 一般に「道徳的個別主義」の代表格はJ・ダンシーであると見なされている。実際、上記 『事典』の田村圭一氏執筆項目「道徳的個別主義」では、 「行為の理由はあらゆる事例で同じように機能する」という一般主義と対立し、道徳的 な 理 由 の 普 遍 化 可 能 性 を 否 定 す る 見 解 。た と え ば 、 「 私 が あ な た か ら 本 を 借 り た 」と い う 事 実は、通常、あなたに本を返す理由である。しかし、あなたが盗んだ本を貸していたとす ると、 「 本 を 借 り た 」事 実 は 、も は や 、あ な た に 本 を 返 す 理 由 と な ら な い 。道 徳 的 な 理 由 の 1 機能は個別の事例の文脈に依存するからである。したがって、個別主義者に言わせると、 私 た ち は 道 徳 原 理 の 適 用 に よ っ て で は な く 、感 受 性 (sensitivity)を 働 か せ 、ひ と つ ひ と つ の事例を正しく理解することではじめて、適切な道徳的な判断に到達することができる。 (630) として、ダンシーの主張が紹介されている。我々も、現在ではこのダンシーが個別主義の代 表格であると認めているが、しかし我々は、すでにW・D・ロスが個別主義を説いていると 見ている。 『 事 典 』所 収 の 項 目「 義 務 」で は 、こ の ロ ス に つ い て 我 々 は 、義 務 の 対 立・葛 藤 の 側面からであるが以下のように記した。 ……/そのことは同時に、特定の状況について、特に複数の義務(事項)間に非両立性 がある場合、どの義務を履行すべきかを決定する方途を提示することを伴う。これについ て W .D .ロ ス William David Ross は 、 行 為 に つ い て 、( 行 為 は 常 に 特 定 的 (particular)で あ る が 、 そ の 或 る 観 点 か ら の 記 述 と し て は ) そ れ 自 身 と し て 妥 当 (「 正 」) な も の が あ る と し て 、 そ れ を 一 般 諸 原 理 と し て 「 一 応 の (prima facie)義 務 」 と し て 措 定 し て お い て 、「 義 務の葛藤」がある(つまり、いかなる行為を遂行しても、或る側面からは「不正」として 記 述 で き て し ま う ) 場 合 、( そ れ で も ) 実 際 に 遂 行 さ れ る ( 行 為 が 基 づ く ) べ き 「 実 際 の (actual)義 務 」 を そ れ と 区 別 す る 。 そ の 際 、「 一 応 の 義 務 」 は 直 観 に よ っ て (「 数 学 の 公 理 と 正 確 に 同 じ よ う に 」)「 自 明 」 で あ る が 、「 実 際 の 義 務 」 は 「 蓋 然 的 な 意 見 (opinion)」 に 留まらざるをえないとされる。 ( 以 上 ロ ス に つ い て 、括 弧 を 多 用 し た 記 述 に な っ た が 、そ れ は 、通 常 の 不 正 確 な 理 解 を 越 え て 彼 自 身 の む し ろ“ particularism”と 言 い う る 真 意 に 近 づ く た め で あ る 。 ロ ス に と っ て 行 為 は 一 つ の 「 全 体 」 で あ り 、 無 数 の 特 徴 を も つ 。「 正 し い 」 と い う 判 断 は 、ま さ し く 各 状 況 毎 に 、こ の う ち 特 定 の 特 徴 を「 義 務 」の 原 理 に 下 属 さ せ て 、 それを理由としてなされるものである。したがって捨象される特徴が生じるのだが、それ が 別 の 義 務 原 理 に 下 属 さ せ う る と き 、「 義 務 の 葛 藤 」 が 生 じ て い る の で あ る 。) こ れ に 対 し て「 、 実 際 の 義 務 」を 一 義 的 な も の と し て 決 定 で き る 基 準 を 提 示 す べ き だ と い う 考 え 方 も( 当 然 ) 存 在 す る 。 例 え ば 、「 総 計 主 義 」 と し て の 功 利 主 義 が そ う で あ る 。 (169f.) 我々は、 「 実 際 の 義 務 」の 措 定 の 仕 方 に 即 し て ロ ス を「 個 別 主 義 」と 規 定 し た ― こ れ を 我 々 は 仮 に「 ロ ス 的 個 別 主 義 」と 呼 ん で お く ― の で あ る が 、こ れ に 対 し て 一 般 的 原 理 と し て「 一 応の義務」が措定されることに即してロスは「ロス的一般主義」と規定される場合も在る。 「 ロ ス 的 一 般 主 義 」は「 多 元 的 一 般 主 義 」と も 換 言 さ れ て い て 、 「 単 一 主 義 (monism)」に 対 し て)複数の義務(原理)の非体系的・非統一的並存 ― だから、場合によっては相互の義務 (原理)間に対立が生じることも在る ― を 認めるものであるが、しかし一般的(諸)義務 (原理)が措定されることに即して「一般主義」として規定されてもいるのである。 ロ ス が 一 般 原 理 を 引 き 出 す の は 、行 為 そ の も の と い う よ り 、そ の「 特 徴 (feature)」に 即 し てである。或る行為が「正」と判定されるのは、それがもつ「特徴」に即してであって、一 般 原 理 と は こ の 特 徴 に 即 し て 、そ れ を も つ 行 為( タ イ プ )を ま さ し く 一 般 的 に「 正 し い も の 」 2 と し て( 直 覚 的 に )措 定 し た も の で あ る 。し た が っ て 、行 為 の「 正 」 ( 性 )は 、行 為 が も つ 特 徴 に 依 存 し て い る の で あ る が 、両 者 の 関 係 を ロ ス は“ resultance” ( 上 記 田 村 訳 で は「 出 来 」) と し て 術 語 化 し て も い る 。こ う 述 べ ら れ て い る 。 ( 以 下 、ロ ス か ら の 引 用 は 、特 に 断 ら な い 限 り 『 正 と 善 』 か ら の も の で あ り 、 原 書 の ペ ー ジ 数 の み を 記 す 。) 我々が行ういかなる行為も、その故にそれが様々なカテゴリーの下に属することになる 様々な要素を含んでいる。例えば約束を破ることの故に、その行為は不正である傾向をも つ 。 人 の 義 務 と な る 傾 向 (tendency to be one's duty) は 、 部 分 的 に - 出 来 的 な (parti-resultant)属 性 (attribute)、 す な わ ち 、 そ の 本 性 (nature)に お け る な ん ら か の 一 つ の 構 成 要 素 の 故 に 行 為 に 属 す る 属 性 と 呼 び う る 。人 の 義 務 で あ る こ と ( being one's duty) は 全 体 的 に -出 来 的 な (toti-resultant)属 性 、す な わ ち 、そ の 本 性 (nature)全 体 の 故 に 、そ し て そ れ よ り も 少 な い 何 か の 故 に で は な く て 行 為 に 属 す る 属 性 で あ る 。 (28) まず「出来」ということ(だけ)に注目して欲しいが、ここで言われる「要素」とは換言 す れ ば 「 特 性 (property)」「 特 徴 (feature)」 で あ り 、 行 為 が 「 正 」 で あ る の は 例 え ば 「 約 束 を 守 る 」 と い う 特 徴 の 故 に な の で あ る 。 現 在 の 用 語 で 言 う な ら 、 こ の “ resultance ” は “ supervenience” と ― こ れ は 論 者 に よ っ て 理 解 が 異 な る の で 、 そ の 一 つ の 理 解 に お け る “ supervenience” と ― 換 言 す る こ と も 可 能 で あ る 。 1 し か し 次 に 、こ の ロ ス の 論 述 は 、 「 一 応 の 義 務 」と「 実 際 的 な い し は 絶 対 的 義 務 」を 区 別 す るコンテクストでなされたものである。ロスは「約束」を例として、この論述の直前で次の よ う に 説 い て い る 。「 約 束 を 守 る こ と 」 は 一 般 に 正 し い こ と だ と さ れ て い る が 、 嘘を付いたり、約束を破ったりすることは場合によっては正しいということに、カント を除いてほとんどすべての道徳家が一致するのであるなら……、一応の義務と実際的ある いは絶対的義務との間には区別が在ると主張されなければならない。 [ 例 え ば ]誰 か を 苦 痛 から救う為に或る約束を破る……ことに正当化されていると我々が思うとき、我々は、一 応 の 義 務 は 約 束 を 守 る こ と で あ る と 認 め る こ と を そ の 瞬 間 は 止 め て い る 。… … 我 々 は 、我 々 の 義 務 で あ る (being our duty)と い う 性 格 (characteristic)か ら 、 我 々 の 義 務 と な る 傾 向 に 在 る (tending to be our duty)と い う 性 格 を 区 別 し な け れ ば な ら な い の で あ る 。 (28) 「 約 束 を 守 る 」と い う こ と は 一 般 的 に は( つ ま り 、例 外 は 在 る が 大 体 は ) 「 正 」で あ っ て 、し た が っ て 「 一 応 の 正 」 と い う 用 語 も 用 意 さ れ て い る の で あ る が (29) 、 行 為 は 、 決 し て 一 つ だ けでなく、ほとんど無数の諸特性をもつのであって、それがもつ「約束を守る」という特性 はそのなかの一特性にすぎない。そして、そうした或る行為が「誰かの苦痛を見過ごす」と 1 但し、これはあくまで「可能だ」ということに留まる。上述の田村氏による邦訳語選択はダンシーの語 使 用 に つ い て で あ る が 、 ダ ン シ ー の 場 合 は 、“ resultance” と “ supervenience” を 区 別 し て 使 用 し て い る (cf.73)。 ( 以 下 、ダ ン シ ー か ら の 引 用 は 、特 に 断 ら な い 限 り 、全 て 主 著『 道 徳 的 理 由 』か ら の も の で あ り 、 こ の よ う に 、 原 書 の ペ ー ジ 数 の み を 記 す 。) 3 いう特性をもつ場合も在りうる。その場合、その特性がいわば有意化されて ― 行 為 記 述と し て は 、 む し ろ 「( 約 束 を 破 っ て ま で し て ) 誰 か を 苦 痛 か ら 救 う 」( と い う 、 そ れ は そ れ で ま た 別 の 義 務 を 履 行 す る )行 為 と( も )さ れ つ つ ― 、 「 約 束 を 破 る 」と い う 特 性 を も つ ― 「 約 束を守る」という特性をもたない ― こ とは正当化されるのである。しかしそれは、あくま で 、そ の 特 定 の ケ ー ス に お い て は そ う で あ る と い う こ と で あ っ て 、 ( 逆 に )一 般 的 に「 約 束 を 破 る こ と 」が 正 当 で あ る と い う の で は 決 し て な い 。む し ろ 、 「 約 束 を 守 る 」と い う こ と は 、 ― 認識的には、あくまで「蓋然的」にそうであるに留まるのだが ― 通常は、いわば他の諸特 性に優先するのであって、その特性に即して、その特性をもつ行為は ― まさ しく「約束を 守 る 」行 為 と い う 記 述 の 下 に ― 義 務 で あ る 。 「 我 々 の 義 務 と な る 傾 向 に 在 る 」と い う こ と は それを述べたものであって、敢えて換言するなら、それは「我々の義務となることが通常で ある」ということなのである。 そ う で あ る な ら 、 こ の 特 性 (「 約 束 を 守 る こ と 」) を い わ ば 抽 象 化 的 に 取 り 出 し て 、 行 為 を そ れ ( だ け ) を も つ も の と し て (「 約 束 履 行 」 行 為 と し て )、 そ こ に 「 約 束 を 守 る こ と は 一 応 正である」という「一応の義務」を措定することが可能になる。そして同時に、その「一応 の 正 」を そ の 単 一 の 特 性(「 約 束 を 守 る こ と 」)に の み 基 づ く「 部 分 的 に -出 来 的 な 属 性 」と 規 定することも可能となるのである。 ロスは同時に、 ( 物 理 的 )自 然 に つ い て も「 出 来 」の 関 係 を 指 摘 し て い る 。こ う 説 か れ て い る。 同 じ[ 部 分 的 に -出 来 的 と 全 体 的 に -出 来 的 と の ]2 区 別 の も う 一 つ の 事 例 が 、自 然 法 則 の 作 用 (operation)の う ち に も 見 出 さ れ う る 。他 の 一 定 の 物 体 に 向 か う 重 力 の 力 に 服 す る も の として、各物体は特定の速度をもって特定の方向へ運動する傾向をもつ。しかし、物体の 実際の運動は、 [ 抵 抗 力 、摩 擦 力 等 を 含 ん で ]そ れ が 服 す る 諸 力 の す べ て に 依 存 す る 。我 々 が 自 然 法 則[ こ の 場 合 は 、例 え ば「 物 体 落 下 の 法 則 」]の 絶 対 性 を 保 持 す る こ と が で き る の は 、 こ の 区 別 を 認 め る こ と に よ っ て の み で あ る 。 (28f.) だ が ロ ス は 、「 し か し 」 と し て 続 け る 。 二つのケースの間の重要な相違が指摘されなければならない。重力の故に或る物体が一 定の仕方で運動する傾向にあると我々が言うとき、我々は、他方の、あるいは別の諸物体 によってその物体に実際に行使される因果的影響に言及している。 [ こ れ に 対 し て ]意 図 的 に 虚 偽 的 で あ る こ と の 故 に 或 る 一 定 の 陳 述 (remark)は 不 正 と な る 傾 向 に あ る と 我 々 が 言 う とき、我々は、因果的関係に言及してはいない。……そうではなくて、数学的図形の様々 な 属 性 を 結 び つ け る 関 係 の よ う な 関 係 に 言 及 し て い る 。 (29) そ し て 、「 精 神 の 十 分 な 成 熟 」 と 「 十 分 な 注 意 」 を 必 要 と す る が 、 心 が 或 る 行 為 の 「 タ イ プ 」 2 引用文中の[ ]内は、本稿筆者の加筆である。以下も同様。 4 ( 例 え ば「 約 束 を 守 る こ と 」)に つ い て「 こ れ は 一 応 の 正 で あ る 」と い う 命 題 を 注 視 す る と き 、 その命題はいかなる証明もなしに自明である。……それは、数学的公理あるいは推論の 一 定 の 形 態 の 妥 当 性 が 自 明 で あ る の と ま っ た く 同 じ よ う に 自 明 で あ る 。 (29) と 続 け ら れ る 。 こ の 限 り で は 、 道 徳 的 (「 正 」) 命 題 の 真 は 、 数 学 的 命 題 の 真 と 同 様 に 「 論 理 的」真であると言いうる。 しかしながら次に、現在の言い方で言うとここで「タイプ」と「トークン」の問題となる のだが、ロスは両者の相違をも指摘する。こう説かれている。 正 し さ と 数 学 的 特 性 (properties)と の 間 に は 重 要 な 相 違 が 在 る 。 二 等 辺 で あ る 或 る 三 角 形は必然的に、角の二つを等しいものとしてもつ。それは、その三角形が[例えば大きさ といった]他のいかなる性格をもつとしてもである。……[たしかに]この二角の等しさ は 部 分 的 に -出 来 的 な 属 性 で あ る 。そ し て 、こ う 付 け 加 え て も い い と 思 う が 、一 応 の 正 し さ に つ い て も 同 じ こ と が 真 で あ る 。し か し 、い か な る[ ト ー ク ン と し て の ]行 為 も 、 [タイプ について語る]或る一般的記述に下属することの故に必然的に実際的に正であることはな い。行為の正性はその全本性に依存するのであって、そのうちの何らかの特定の要素に依 存するのではない。 [ こ の 点 で 数 学 的 言 明 の 真 は 道 徳 的 言 明 の そ れ と は 異 な る の で あ る が 、] その理由は、数学的対象(図形……)のいかなるものも、反対の出来的性格を与える傾向 をもつ二つの性格を決してもたない。それに対して、道徳的行為はしばしば、そしてさら には常に、それを同時に一応の正かつ一応の不正とする傾向をもつ様々な性格をもってい る 。 (33) 説明するならこういうことである。実際の行為は、たとえそれが「約束を守ること」として 記 述 可 能 で あ っ て も 、同 時 に 他 の 諸 特 性 を も も つ 。そ し て そ の 行 為 は 、 「 約 束 を 守 る こ と 」と し て は ( 絶 対 的 に )「 正 」 で あ る と し て も ― し た が っ て 、「 約 束 を 守 る べ き で あ る 」 と い う 一応の義務(原理)が成立する ― 、 まさ しく実際には、その他の諸特性の如何によってそ の正・不正が分かれてくる。これに対して実際の(個々の)二等辺三角形が等しい二角をも つということは、それが二等辺であるという特性以外の(例えば「大きさ」といった)他の い か な る 諸 特 性 を も っ て い て も 、そ れ に 関 わ ら ず に( そ れ に「 依 存 」せ ず に ) 「 必 然 的 に 」等 しい二角をもつのである。 すなわち、タイプとしての二等辺三角形だけでなく、トークンとしての個々の二等辺三角 形 に つ い て も 、そ れ は 等 し い 二 角 を も つ と い う こ と が「 必 然 的 」に 真 で あ る の に 対 し て 、 (抽 象的)タイプとしての「約束履行」 ― それ が在るとして ― の「 正」は「必然的」に真で あ る と し て も 、ト ー ク ン と し て の(「 約 束 履 行 」と し て( も )記 述 可 能 な )行 為 の「 正 」は 真 であるとしても「必然的」にではないのである。 であるから、 「 こ の( 約 束 履 行 と し て 記 述 可 能 な )行 為 は 正 で あ る 」と い う 言 明 は「 蓋 然 的 」 な 単 な る「 意 見 (opinion)」に 留 ま る と も 語 ら れ る の で あ る が 、し か し 、認 識 論 的 に は そ う で 5 あるとしていわば存在論的にはどういうことか。 「 正 」に つ い て も 同 様 の こ と が 言 え る と し な がら、ロスはそれとはまた別のものとしての「善」について次のように説いている。 善性あるいは価値と黄色性のような諸属性との間の相違は、後者がそれを所有する者 (their possessors)[ す な わ ち 黄 色 い 物 ]の 識 別 者 ( differentiate )( す な わ ち 、基 底 的 あ るいは構成的属性)であるのに対して、前者はそれを所有する者の特性(すなわち帰結的 (consequential)属 性 )で あ る 、と 言 う こ と が で き る 。こ の 点 で 善 性 は 、様 々 な タ イ プ の 図 形について当てはまると幾何学が証明する諸特性と対比されうる。しかし、類似性を認め る と し て も 我 々 は 、こ の 二 つ の ケ ー ス の 間 の 際 立 っ た 相 違 を も 認 め な け れ ば な ら な い 。 (1) 第一に、等辺性と等角性のいずれが、事実として両方を所有する種類の三角形の識別者と して選ばれるのかは、全く恣意的である。角度の相対的サイズが辺の相対的長さを規定す ると言うことは、逆も真であるのとまったく同様に適切である。他方、価値は、その所有 者 の 一 定 の 他 の 諸 性 質 (qualities)に 基 づ く の で あ っ て 、他 の 諸 性 質 が 価 値 に 基 づ く の で は ない、と完全に確定的に思われる。実際、識別者と特性とは、それぞれ基底的属性・帰結 的属性として存在するが、その相互の相違は、その相違が当てはまる諸ケースの大部分よ りもこの[数学的特性と価値的特性との]ケースにはるかに当てはまる。なぜなら、この ケースは、 [ 数 学 的 特 性 と し て 、そ れ は「 識 別 者 」で も あ っ て ]属 性 の 一 つ が 客 観 的 に 規 定 的であり、他方が[価値的特性として]客観的に帰結的である比較的少ないケースの一つ で あ る か ら で あ る 。我 々 は 価 値 を 、恣 意 的 に 選 択 さ れ た 出 来 者 (resultant)( あ る い は 特 性 ) に 対 す る 真 正 の (genuine)出 来 者 と 呼 ぶ こ と が で き る で あ ろ う 。 (2)価値が、一定の他の出来的諸特性からと同様、数学的諸特性から異なっているも う 一 つ の 点 は 、数 学 的 … … 諸 特 性 が そ れ ら を 所 有 す る 者 の 内 在 的 (intrinsic)本 性 の 一 部 か ら 出 て く る (follow)の に 対 し て 、 価 値 は 、 そ の 所 有 者 の 本 性 全 体 か ら 出 て く る と い う こ と である。色の斑点が形の点で二等辺三角形であるなら、それは、その大きさや色が何であ っても二等辺三角形であるであろう。その斑点が一定の色をしたものであるなら、その一 定の色であることは、その形や大きさが何であっても他の[同じ一定の色の]斑点にも適 合するであろう。……それらの所有者の本性のうちの或る単一の要素に基づくこれらの属 性 は 、部 分 的 に -出 来 的 な 特 性 と 呼 び う る 。こ れ ら に 対 し て 価 値 は 、そ の 所 有 者 の 本 性 全 体 に 基 づ く 全 体 的 に -出 来 的 な 特 性 で あ る 。 (121f.) 第 二 点 中 の「 そ の 所 有 者 の 本 性 全 体 に 基 づ く 全 体 的 に -出 来 的 な 特 性 で あ る 」と い う こ と 自 身は、 「 正 」に つ い て は す で に 上 に 確 認 し た と こ ろ で あ る 。こ こ で 問 題 と し て い る の は 、そ の 「 本 性 全 体 」= 本 性 的 特 性 の「 全 体 」と「 価 値 」、し た が っ て 、そ れ と「 類 似 的 」で あ る「 正 」 と い う 特 性 と の 関 係 で あ る 。そ れ は い か な る 関 係 で あ る の か 。我 々 は こ れ を 、 「 帰 結 的 」と は 述べられているが、 ― 上 で見 たことだがロス自身言うように ― 「 因果 的」ではなく、そ れ も ま た「 論 理 的 」関 係 で あ る と 了 解 し て い い と 解 釈 す る 。そ れ は 、 「 正 」と あ く ま で 本 性 的 特性全体との間の関係であって、その点で例えば数学の場合とは異なる。しかし、そうであ っても或る行為の特性「正」はその行為がもつ本性的特性全体とは「論理的」に関係するの 6 である。換言するなら、二つの行為がそれらのそれぞれの本性的特性全体の点で同じである なら、一方が「正」で他方が「不正」ということはありえないのである。 し か し 同 時 に 、ロ ス は「 内 在 的 本 性 の 全 体 」( 強 調 は 本 稿 筆 者 ) と も 語 っ て い る 。或 る 行 為 が 非 -内 在 的 に も つ 特 性 は「 全 体 」の う ち に 入 ら な い と さ れ て い る 。こ の 点 は 、同 じ く「 正 」と 類似的な「美」について、明確に次のように説かれている。 美 の ケ ー ス の 場 合 は 明 ら か な 異 論 が 自 然 に 生 じ て く る 。 有 色 の 二 つ の 斑 点 A 、 A ´が 正 確に同じものとして存在することは在りえるであろう。しかし、一方はB色の斑点の傍に 在って、それと調和しているが、他方はC色の斑点の傍に在って、それと調和していない の で あ る な ら 、一 方 は 美 し い が 他 方 は 醜 い と 言 う こ と は 自 然 で あ る よ う に 思 え る で あ ろ う 。 しかしながら、この異論は誤解である。というのも、それぞれ美しく・醜くあるであろう の は 、 二 つ の 同 様 の 斑 点 A 、 A ´で は な く 、 A B と い う 全 体 と A ´C と い う 全 体 と で あ る か ら で あ る 。 反 省 に よ っ て 我 々 は 、 A B は 美 し く A ´C は 醜 い の で あ る が 、 そ れ で も A が 美 し く 、 A ´が そ れ と 正 確 に 同 じ で あ る の な ら A ´も ま た 必 然 的 に 美 し い こ と を 認 め な け れ ば な ら な い 。 A ´の 美 を 把 握 す る た め に は 、 我 々 は す る の が 困 難 か も し れ な い こ と 、 す な わ ち A ´を C を 捨 象 し て 観 察 す る こ と を し な け れ ば な ら な い の で は あ る が 。 (123) すなわち、 「 C の 傍 に 在 る 」と い う 特 性 は 、A ´に と っ て は「 内 在 的 」特 性 で は な い の で あ る 。 そ し て「 全 体 」と い う こ と は 、 「 内 在 的 」諸 特 性 の「 全 体 」に 限 定 し て 考 え ら れ て い る の で あ る 。そ う し た「 内 在 的 」特 性 に( の み )基 づ く( 出 来 す る )も の と し て「 美 」、し た が っ て ま た 「 正 」 は 、 そ れ 自 身 も 「 内 在 的 」 な 特 性 と 呼 ば れ て い る (cf.123) 。 こ の「 美 」の 場 合 は 、 「 内 在 的 」は「 内 部 的 」と い っ た 意 味 合 い を も っ て い る が 、し か し 一 般には、そして特に「正」の場合は、それが基づく本性的特性の内在性はそうした空間的意 味 合 い の も の で は な い 。そ し て ロ ス に お い て は 、行 為 の 正・不 正 が 、 「 内 在 的 」な も の と し て い わ ば 一 定 の 限 定 の う ち に 在 る 特 性 に 基 づ く と し て 、そ の 内 在・非 -内 在 の 別 は 、直 覚 的 に 自 明のものとして存在するのである。実際、このいわば選別された内在的特性に即して、いく つかの(一応の)義務のリストが提示されている、とも見なしうる。カトリック神学のター ム で 言 う な ら 、 そ れ は 「 道 徳 的 絶 対 」 3で あ る 。 第 一 点 の 方 は 必 ず し も 明 瞭 で な い 。す で に[ ]を 用 い て 敷 衍 的 説 明 を 加 え て 訳 出 し た が 、 ま ず「 識 別 者 」 「 特 性 」に つ い て 、冒 頭 で は 対 立 的 に 使 用 さ れ て い る の に 対 し て 、数 学 的 特 性 と価値的特性との対比においては、いわば上位規定としての「特性」が「識別者」である場 合(数学的特性)とそうでない場合(価値的特性)とに区別される、というようにも使用さ れている、ということを指摘しなければならない。 そ の よ う に 語 使 用 の 多 義 性 を 指 摘 す る と し て 、次 に 、道 徳 的 特 性 で あ る「 正 」あ る い は「 価 値」 「 美 」と い う 特 性 の 場 合 ― こ れ ら は「 規 範 的 特 性 」と し て 総 称 で き る ― は 、そ れ を も 3 安 彦 一 恵「「 倫 理 性 」の 二 つ の か た ち( 二 ) ― 二 重 結 果 説 を め ぐ る「 道 徳 神 学 」的 諸 議 論 の メ タ 倫 理 学 的 考 察 ― 」( 本 誌 第 9 号 所 収 ) 参 照 。 7 つ 対 象 の( 他 の )本 性 的 特 性( 性 質 )と の 間 に い わ ば 階 層 が あ っ て 、 「 基 づ く 」関 係 と し て 両 者間の関係は一方向であったのに対して、数学的特性については、特性同志の双方向の「規 定」関係が語られている。特性「等角の」と「等辺の」とに関する言述からは、明らかにそ う了解できる。両者は、ロスのように互いに「規定」的関係に在るとは言っていいが、それ らは実は、 ― 「 三角形である」ということを前提としてであるが ― い わば意味的には別 であるが指示対象的には同一のものであると言うべきであろう。 「二等辺三角形=二等角三角 形 」と い う の は ト ー ト ロ ジ ー な の で あ る 。で あ る か ら 、 「 識 別 者 」と し て の 或 る 数 学 的 特 性 が 別 の 特 性 に 対 し て 「 出 来 」 の 関 係 に あ る と は 言 え る と し て も 「 真 正 」 で な い 「 の に 対 し て 」、 価値的特性の場合は、それ以外の特性に対して「真正な出来」の関係に在るとされるのであ る。 ( た だ し 、そ こ で 、前 者 を「 恣 意 的 に 選 択 さ れ た 」と 形 容 す る の は ミ ス リ ー デ ィ ン グ で あ る 。) し か し な が ら 、ポ イ ン ト は 第 二 点 に 在 る 。意 味 的 に は こ の 二 つ で あ る 特 性 は( 共 に )、ま さ し く こ の 二 特 性 を も つ 三 角 形 に 対 し て 、そ れ を( そ う い う も の と し て ) 「 構 成 す る 」特 性 で あ る。そうした特性をロスは「識別者」と呼んでいる。そしてロスは「色」特性についても、 或 る 一 定 の 色 ( 例 え ば 「 黄 色 性 」) を も っ た 対 象 ( す な わ ち 「 黄 色 い 物 」) に つ い て 、 そ の 色 特性(黄色であること)は、対象をそういうものとして「構成する」特性、すなわち「識別 者 」で あ る と 規 定 す る 。確 か に 、 ( 意 味 的 に は )二 つ 在 る 数 学 的 特 性 の う ち の い ず れ か 一 つ を 「識別者」とし、他方をそれによって「規定」されたものとするなら、その一つのものの選 別は恣意的であるのに対して、 「 色 」特 性 の 場 合 は 、 ― そ も そ も 一 つ だ け し か な い「 識 別 者 」 として ― それを「識別者」とすることは恣意的でありえない。その点で、数学的特性と色 特性とは異なるのではあるが、それは本質的なことでない。一定の色をした斑点も一定の形 の 図 形 も 、「 識 別 者 」 以 外 の 特 性 ( 例 え ば 前 者 の 「 黄 色 の 斑 点 」 の 場 合 の 「 形 」、 後 者 の 「 二 等 辺 三 角 形 」の 場 合 の「 大 き さ 」)を も つ 。そ し て「 識 別 者 」で あ る 特 性 と そ う で な い 特 性 と の間の関係はいわば偶然的である。これは、換言するなら、数学的特性・等辺性は、それを もつ対象の他の諸特性全体との間で「出来」の関係に在ることはなく、あくまで等角性との み ( し た が っ て 「 部 分 的 に 」)「 出 来 」 の 関 係 に 在 る に 留 ま る と い う こ と で あ る 。 こ れ に 対 し て 「 価 値 」 と 、 そ の 価 値 を も つ 対 象 の 他 の (「 内 在 的 」) 諸 特 性 と の 関 係 は 偶 然 的 で は な い 。 行為の「正」はその本性の諸特性の ― ただ し、内在的なものに限定されるが ― 「 全体」 に 依 存 す る( 全 体 的 に -出 来 的 な )特 性 な の で あ る 。そ う い う 意 味 で は 、次 に 見 る ダ ン シ ー と 同 様 に 「 全 体 論 (holism)」 が 採 用 さ れ て い る と も 言 い う る 。 しかし、そのダンシーと異なってロスでは、ここに言う「正」がいわば「実際の正」であ る と し て 、そ う し た 行 為 を 為 す こ と を 命 じ る「 実 際 の 義 務 」と の 区 別 に お い て「 一 応 の 義 務 」 の カ テ ゴ リ ー が 設 定 さ れ て い る 。そ し て そ れ に つ い て は 、 「行為の本性の或る一つの構成要素 の 故 に も つ 」 特 性 (cf.28) と も 規 定 さ れ つ つ 、 実 際 「 一 応 の 正 」 と い う カ テ ゴ リ ー が 設 定 さ れ て も い る (138) 。ロ ス は 、こ の「 一 応 の 義 務 」と し て 、上 の「 一 つ の 構 成 要 素 」に 即 し て 、そ れを含む行為のタイプについて、例えば「約束を守ることは(一応の)正(義務)である」 という一つの原理を措定している。この限りでは、ロスは一般主義者であると規定可能であ る。 8 二 ダンシーのロス批判 ― 個別主義のラディカル化 ― すでに確認したように、ロスも「実際の正」については個別主義を採っている。しかし、 「 一 応 の 正 」と し て は 原 理 を 措 定 し て い る 。そ れ は 一 つ の「 一 般 主 義 」で あ る と も 言 い う る 。 ダンシーはいわば個別主義を徹底するかたちで、この「一般主義」をも退ける。 ダンシーは『道徳的理由』第6章で、ロスの理論をテーマとして取り上げて、それを「道 徳 的 思 考 ・ 理 由 に 関 し て な お 一 般 主 義 的 な 理 論 で あ る 」 (93) と し て 批 判 し て い る 。 し か し な がら、先ずは、 ― こ う纏めることは深読みになるかもしれぬが ― 我 々が ロスから取り出 し た 個 別 主 義 的 側 面 に 、「 通 常 認 め ら れ て い る 以 上 の も の が ロ ス に は 在 る 」 と し て 好 意 的 に (107) 言 及 し て い る (93) 。 ロ ス の 『 正 と 善 』 33 頁 か ら 次 の 箇 所 が 引 用 さ れ て い る 。 時間的順序では最初に出てくるのは、特定のタイプの個別的行為がもつ自明な一応の義 務 の 把 握 (apprehension)で あ る 。 こ れ か ら 我 々 は 、 反 省 に よ っ て 、 一 応 の 義 務 の 自 明 な 一 般的原理を把握するに至る。我々はここからまた、同じ行為が、それが同様に何らかの他 の性格をもつことの故に自明な一応の正であると把握することにおそらく沿うであろうが、 しかし、その同じ行為は、それが第三の性格をもつ故に一応の不正であると把握すること に は お そ ら く 反 す る で あ ろ う が 、 何 か は 、 ま っ た く 自 明 で は な い が 、 蓋 然 的 な (probable) 意 見 の 、す な わ ち 、こ の 特 定 の 行 為 は([ 単 に ]一 応 に で は な く )実 際 に 正 で あ る と い う 意 見 の 対 象 で あ る と 思 う に 至 る 。 (93) この件は、ロスがそれに引き続いて説いているところを併せて読むのでなければ理解の難 しい所である。ロスは引き続いてこう説いている。 この点で、正と数学的特性との間には重要な相違が在る。二等辺である三角形は必然的 に、その二角を等しいものとしてもつ。それは、その三角形が他に[二等辺性・二等角性 に加わる第三の]いかなる性格、例えば面積……をもつとしてもである。二角の等しさは 部 分 的 に -出 来 的 な 属 性 で あ る 。同 じ こ と が 数 学 的 属 性 の す べ て に つ い て 真 で あ る 。こ う 付 け加えうるが、それは一応の正についても真である。しかし、いかなる行為も、それが何 ら か の 一 般 的 記 述 に 下 属 す る か ら と い っ て 、決 し て 必 然 的 に 実 際 に 正 で あ る わ け で は な い 。 行 為 の[ 実 際 の ]正 は 、そ の 本 性 に お け る 何 ら か の 一 要 素[ 例 え ば「 約 束 を 守 る こ と 」]に で は な く 、そ の 本 性 全 体 に[ し た が っ て 、 「 全 体 」が い わ ば 最 小 限 で あ る 場 合 、正 性 と 例 え ば「約束を守ること」との二性格に加えて、それらに対する第三の性格にも]依存する。 そ の 理 由 は 、数 学 的 対 象 … … の 場 合 、対 立 す る 出 来 的 性 格[ 上 の 例 で は 二 等 角 性 と 非 -二 等 角 性 ]を 与 え る 傾 向 を も つ 二 性 格[ 一 つ の 二 等 辺 三 角 形 の 一 性 格( 例 え ば 面 積 xcm 2 )と も う 一 つ の 二 等 辺 三 角 形 の 一 性 格( 例 え ば 面 積 ycm 2 )]を 決 し て も つ こ と が な い の に 対 し て 、 道徳的行為の場合は、しばしば……さらには常に、その[同じタイプの諸]行為に、同時 [ そ れ と は 別 の も の は ]一 応 の 不 正 と す る 傾 向 を も つ[ 同 タ イ に[ 一 つ は ]一 応 の 正 と し 、 プの諸行為の]相互に異なる[正性と例えば「約束を守ること」に加わる第三以上の]諸 9 性格[例えば一つにおける「相手を利すること」と、もう一つにおける「相手に不利益と な る こ と 」] を も つ 。 (33) 或る行為が「約束を守る」ものであるとき、そこからだけは「一応の正」が「出来する」の であるが、 「 実 際 に は 」、 ( 例 え ば )そ の 約 束 が 借 金 の 返 済 の 約 束 で あ っ た 場 合 は 同 時 に 相 手 に 利益を与えることになって(そのまま)正であるのに対して、約束が自殺願望をもつ友人か ら借りていた自殺教則本を返すといった約束であった場合、自殺を実行させて究極の不利益 を 与 え て し ま う こ と に な っ て ― そ れ で も「 約 束 履 行 」と し て は「 正 」な の で は あ る が ― 「 実 際 」 に は 不 正 と な っ て し ま う 。 し か し そ れ で も 、 あ く ま で 「 多 分 (probable)」 で は あ る が 、 「約束」がそうした特殊なものであることはそう在ることでなく、大体は「履行」すること が ( 実 際 に ) 正 と な る 。 こ れ に 対 し て 数 学 的 対 象 の 場 合 、 第 三 の 特 性 (「 性 格 」) = 面 積 の 別 に よ っ て 、二 等 辺 三 角 形 が 或 る も の は 二 等 角 に な り 、別 の も の は 非 -二 等 角 に な る 、と い っ た ことは絶対に起こりえないのである。 この件は、ダンシー理論のもっともよく知られた主張のロス的表現だともみなすことがで きる。その主張とは以下のようなものである。ダンシーは、行為の正・不正をその「理由」 (となる特性)から考えているのだが、二つの行為が共に特性 x をもつとしても、それにそ れ ぞ れ さ ら に y1 が 加 わ る の か y2 が 加 わ る の か に よ っ て 正・不 正 に 分 か れ る こ と が 在 る 。 (数 学 的 図 形 の 場 合 、或 る 二 つ の 三 角 形 が 共 に 二 等 辺 性 (x)を も つ と し て 、そ の 一 つ が 面 積 y1 を 、 も う 一 つ が y2 を も つ こ と に よ っ て 、一 方 は 二 等 角 三 角 形 で あ り 他 方 は そ う で な い 、と い っ た こ と は 在 り え な い 。)ヘ ア の「 普 遍 化 可 能 性 テ ー ゼ 」の よ う に 、一 つ の 行 為 に つ い て そ れ が 特 性 x をもつ故に正とするのであるなら、同じく特性 x をもつ、したがって「同様の」行為に つ い て も 同 じ く 正 と し な け れ ば な ら な い 、と い う こ と は 決 し て 言 え な い の で あ る 。 (上に引用 し た 田 村 氏 の 論 稿 も 参 照 せ よ 。) 4 では、行為の正・不正はどのように認識されるのか。この問いに対する回答に相当するも の を 、ダ ン シ ー は 引 き 続 き ロ ス か ら 取 り 出 す 。 「 こ の 一 節 に は 沢 山 の こ と が 詰 っ て い る 」(94) として、こう述べられている。 こ の 一 節 を 理 解 す る た め に は 、 ロ ス が 「 直 覚 的 帰 納 」 [ 5] に よ っ て 意 味 す る も の を よ く 知 4 但し、こう見るだけでは、ヘアの主張そのものに対してはアンフェアとなる。 ロス自身は、 『 倫 理 の 基 礎 』で ― ダ ン シ ー に よ る な ら W・E・ジ ョ ン ソ ン『 論 理 学 』の 用 法 に 従 っ て (107) ― 次のようにこの語を使用している。 5 このような行為において、その最初期の形態においては、義務についてのいかなる考えも存在してい なかった。我々は次のように想定しなければならない。精神の成熟の一定の程度が実現され、注意の一 定の量が、何らかの理由で、それまで正しさの考えなしに為されていた行為に焦点が当てられるとき、 行為は、最初は曖昧に状況に適合していると、そして次にはより大きな緊迫性をもって状況によって求 められていると認識されるようになったのである、と。このように、所有する特定の性格の故に特定の 行為に属するものとして、正しさが認識されたのである。行為の正しさがなんらかの一般原理から演繹 されたのではない。そうではなくて、一般原理は、すでに特定の行為について為された判断に含まれる ものとして、事後的に直覚的帰納によって認識されたのである。/……特定の行為に対する私自身の態 度を反省するとき、私がその行為を正・不正であると見るのは演繹によってではなく直接的洞察によっ て で あ る 、 と 私 は 分 か る よ う に 見 え る 。 (170) 10 らなければならない。これは、もっと馴染みのある意味における帰納とは対照的なもので あ る 。こ ち ら の 馴 染 み の 帰 納 と は 、通 常 、列 挙 的 (enumerative)帰 納 と 呼 ば れ る も の で あ る 。 列 挙 的 帰 納 に お い て は 、結 論 の 蓋 然 性 を 高 め る た め に 事 例 の 蓄 積 が 重 要 で あ る 。 [これに対 して]直覚的帰納においては、事例の蓄積はほとんど何も、あるいはそもそも何も付け加 え な い 。 論 理 原 則 ( 例 え ば modus ponens ) の 妥 当 性 を 実 例 を 示 し て も ら う こ と に よ っ て 学 ぶとき、我々はしばしば、妥当性をその[一]実例だけで理解する。この理解プロセスに とって、さらなる実例は必要でない。さらなる実例は、それが求められる場合は、列挙的 帰納においては証拠を増やすというかたちで役割を果たすのだが、その役割とは全く異な った役割を果たしている。 [ 直 覚 的 帰 納 に お い て は ]さ ら な る 実 例 は 、一 定 の 結 論 が 真 で あ ると想定することにより多くの証拠を与えるのではなく、示される現象に我々の注意を向 け る の で あ る 。 (94) ダンシーによるならロスも個別実例への「注意」によって行為の正・不正を認識している のである。これを、ダンシーは自分の言い方で次のように説明してもいる。 ロスに従うなら、 [ そ の 注 意 に お い て ]我 々 は 個 別 の 行 為 か ら 出 発 し て 、そ の う ち に 、或 る特徴はその故にこの行為が一応の正となる特徴であると認識する。我々が認識している のは、特徴がその行為をなす理由であるということである。おそらくは我々は他の特徴を も認識している。それは、或るものについては、その行為をしない理由(その故に行為が 一応の不正である特性)として、また別のあるものについては、その行為をすることに対 してより多くの理由となるものとしてである。この限りでは、我々が注視しているのは、 我々の目の前に在る[したがって個別的な]ケースへロスの認識論を適用することに限定 さ れ て い る 。 (94) し か し な が ら ダ ン シ ー は 直 ち に 次 の よ う に 続 け て 、ロ ス の う ち に「 一 般 主 義 」の 存 在( 残 存)を指摘し批判を開始する。 しかし我々は直ちに、この行為を一応の正とする特性はそれが生起するときはいつであ っても同じ効果をもつはずであるとされてしまっている、ということを[ロスのうちに] 見ることになる。ここで我々が注視しているのは、我々がもつ理由は一般的理由である、 あるいは、そうでなければならない、ということである。……我々は、或る特性が或る個 別ケースにおいて作り出す差異の知識から、一般的な道徳原理の知識へと移動してしまっ て い る 。我 々 が 知 っ て い る も の[ 道 徳 原 理 ]は 我 々 に と っ て 自 明 で あ る の だ が 、 [私に言わ せれば、しかし]それは、その道徳原理を考察しなければいけないのは、その真理性を認 識するためだけである、という意味でではなく、この原理の認識に関して、個別ケースが 含 む も の 以 上 の 何 も 必 要 で な い 、 と い う こ れ と は 異 な っ た 意 味 に お い て で あ る 。 (94) しかしダンシーは、この最後の点はロス自身でも考えられているとして、 11 我々が道徳原理を知るに至る仕方に関する彼の説明は、本質的に経験主義的である。道 徳原理の真理性は、経験において我々に明らかになるのである。それは、道徳原理の認識 に と っ て 、 個 別 ケ ー ス が 含 む も の 以 上 は 何 も 必 要 で な い か ら で あ る 。 (94) と述べられて一旦議論が締め括られる。 「 一 旦 締 め 括 ら れ る 」と 述 べ た の は 、上 の「 し か し な が ら 」を 境 と し て 、そ の 前 に 辿 っ て き た 所 が「 第 一 段 階 」、そ の 後 の 部 分 が「 第 二 段 階 」と し て 纏 め ら れ て い る か ら で あ る (cf.94) 。 し か し な が ら 、 ダ ン シ ー は こ こ で 、 しかしながら第三の段階が在って、それは、我々が第二段階を通ることなしにそこへ至 るものである。この段階は、我々が、ここで重要である諸特性の全てを考慮して、諸理由 の 優 先[ 順 位 ]が い か な る 側 面 に 在 る の か と い う こ と に つ い て の 一 見 解 に 至 る 段 階 で あ る 。 (94f.) と し て 、「 第 三 段 階 」 を フ ォ ロ ー し て い く 。 ダンシーは、 個別ケースにおいて為すべきことに関する我々の知識は、何らかの一般原理の下にその ケースを包摂することによって獲得されるのではない、というのが彼の一般的テーゼであ る 。 し た が っ て 、 ロ ス の 理 論 は 非 -包 摂 的 で あ る 。 (95) と し て 、す で に 確 認 し た と こ ろ を 再 確 認 し た 後 で 、 「道徳原理はいかなる認識論的役割も果た 「 一 応 の 義 務 」の 論 に 即 し て 一 般 主 義 的 部 分 に し て い な い 」 (95) と そ れ を 纏 め つ つ 、し か し 、 関してロスを批判していく。まさしく「道徳原理」を措定する試みの部分について批判的検 討が加えられていく。我々が上に紹介したように、ロスはいくつかの基本原理を措定してい る。このことは、諸特性から特定の(種類の)ものを有意化することを前提とする。これに ついてダンシーはこう語り始める。 ロスは「一応の義務」を、 ([ そ れ 自 身 と し て は 、]適 切 な 義 務[ = 実 際 の 義 務 ]で あ る こ 私 は「 一 応 の 義 務 … … を 、 と と は 全 く 異 な っ て い る が 、)行 為 が も っ て い る 性 格 で 、行 為 が 一 定 の 種 類( 例 え ば 約 束 を 守ること)であることの故に、道徳的に重要である別の種類が同時には不在であるなら適 切な義務となるであろう行為であるという性格であるようなものを指示する簡便な仕方と し て 語 っ て い る 。 (19) というかたちで「定義」しているが、ダンシーはこの部分を引用しつつ、 こ の[ ロ ス の ]説 明 は 、 「 道 徳 的 に 重 要 」と い う 観 念 を 前 提 と し て い る ( assume )。そ れ な し で は 、 説 明 は そ も そ も 進 ん で い か な い 。 こ の 観 念 を 取 り 去 る な ら 我 々 は 、「[ 一 応 の 義 務 12 と は 、行 為 が も っ て い る 性 格 で 、行 為 が 一 定 の 種 類 で あ る こ と の 故 に 、]行 為 が 同 時 に 、そ れを一応の正あるいは一応の不正とする別の種類のものでもあるのでなければ[、適切な 義 務 と な る で あ ろ う 行 為 で あ る と い う 性 格 で あ る ]」と い う 単 に 循 環 的 な 定 義 … … を 獲 得 す る だ け で あ る 。 (97) と す る 。し た が っ て 、 ― こ う し た「 循 環 的 な 定 義 」に 陥 ら な い た め に ― 「 道 徳 的 に 重 要 」 という観念が前提となっているのだが、ダンシーによるなら、このポイントとなるところは 単に「前提」されているだけなのである。したがって、 ロスの定義が語っているのは、 「 特 性 F の 故 に 一 応 の 義 務 で あ る 」と い う こ と が F が そ の 行為がもつ唯一の道徳的に有意的な特性であるときいかなる効果をもつのか、ということ だけである。そしてもちろん、行為がただ一つだけの道徳的に有意的な特性をもつケース は、仮にそもそも見出されるとしても、極めて稀である。ここで進行しているのは、ロス は 、せ い ぜ い 、自 分 が 関 心 を も つ 現 象 の 帰 結 を 取 り 出 し て い る と い う こ と だ け で あ る 。(97) そして、この批判はさらに「実質化さ」れていく。 それ[道徳的に有意的な特性]が唯一の特性であるとき、それが何であっても、それは 問題を解決するはずである。これは、私が技術的に正しい説明と呼んだものである。…… 同様に、一般的に道徳的に有意的な特性は、それが存在している全てのケースにおいて同 じ 在 り 方 で 有 意 的 で あ る 。再 度 と な る が 、こ こ に も 技 術 的 な 種 類 の 正 し さ が 在 る 。… …[ し か し な が ら 、]与 え ら れ た 状 況 に お い て 或 る 特 性 が 道 徳 的 に 有 意 的 で あ る と い う こ と に つ い て、満足する説明をほとんど与えない。また、或る道徳原理が非常に様々な諸状況に対し て ど の よ う に 同 じ 仕 方 で 適 用 さ れ う る の か と い う こ と に つ い て も 、 同 様 で あ る 。 (97f.) ダンシーによるなら、ロスによる道徳原理措定は単一の特性に基づくものであるが、それ が満足いくものでないのは、実際の状況は、そこにおいては行為が複数の特性をもつことに な る 状 況 で あ る か ら で あ る 。そ こ で は 、そ の 特 性 の 複 数 性 に 原 因 し て 、 (単一の特性に基礎を 置 く )道 徳 原 理 間 に「 対 立 」の 事 態 が 出 現 す る こ と も 在 る 。し か る に 、ロ ス に お い て は 、 「諸 特 性 が 共 在 す る よ う な こ の ケ ー ス に お け る 対 立 に つ い て は 、 何 も 語 ら れ て い な い 」 (98) の で ある。 さらに言うが、或る特性がそれが唯一のものであるとき勝利を収めるであろう特性であ るなら、それが諸特性と共に在る通常のケースにおいても、その特性は完全には働きを失 うことはありえない、と我々を説得するような何かが提供されているのであろうか。この 興味在る可能性が排除されているのなら、 [ 私 が 思 う に ]そ れ は 定 義 に よ っ て で あ る 。(98) す な わ ち 、問 題 な の は 、 「 通 常 の ケ ー ス 」で あ る ま さ し く「 実 際 の 」状 況 な の で あ っ て 、そ こ 13 では、ロスの「定義」の下では「一応の義務」として道徳原理であるものは、まったく用を 為さないのである。 し か し 、「 し か し な が ら 」 と し て 、「 一 応 の 義 務 」 と し て の 「 道 徳 原 理 」 の 可 能 性 が な お 検 討されていく。 一応の義務の公式の定義はロスのうちに見出される唯一の定義ではない。傾向 (tendencies)の 見 地 か ら の あ ま り 公 式 的 で な い 説 明 も 存 在 し て い る 。 こ の 方 が よ り 見 込 が あるように見える。ロスは時には、行為の特性について、それをもつならいかなる行為を も適切な義務とする傾向をもつものとして、或る行為を一応の義務とするような特性につ い て 語 っ て い る 。し た が っ て 、こ こ に は 一 応 の 義 務 に つ い て の 別 の 定 義 が 在 る の で あ る が 、 それは、或る行為が特性Fをもつことの故に一応の義務であるのは、特性Fをもつ行為が 適 切 な 義 務 と な る 傾 向 を も つ と き で あ る 、 と い う も の で あ る 。 (98f.) この「別の定義」が含意するところとして、こう述べられる。 人がここで最初に考えるのは、傾向に関するロスのこの語りは、一般的レヴェルでのみ 現金化されるということである。しかしそれは、我々が理解する限りでの[通常の]道徳 原理の役割を完全に歪めてしまう在り方においてである。 「 窃 盗 は 不 正 で あ る 」と い う[ ロ ス的]原理が我々に語るのは、或る[個別の]行為が窃盗であることがそれをより不正な ものにするということではなく、一般的に行為が窃盗であるなら、それは全般的には (overall)不 正 で あ る と い う こ と で あ る 。し か し 私 に は 、こ の 二 つ の う ち の 第 二 が 偽 で あ る と き に 第 一 が 真 で あ り う る と い う こ と が 全 く 明 ら か で あ る と 思 え る 。 (99) 「一般的レヴェルで現金化される」ということは、例えば「窃盗は不正である」という(一 般)原理が、個々の行為に即してではなく、それを「トークン」としての行為とするなら、 それと区別された「タイプ」としての行為に即して、その行為タイプ「窃盗」が当てはまる 可 能 な か ぎ り 多 く の 行 為 に つ い て 、そ れ ぞ れ の ケ ー ス に お け る そ れ ぞ れ の「 実 際 の 正・不 正 」 を 集 計 し 、ト ー タ ル と し て ど ち ら が 上 回 る か の 観 点 か ら 、 「 不 正 」が 上 回 る 場 合 、ま さ し く 一 般 的 に は 行 為 タ イ プ「 窃 盗 」は 不 正 で あ る と さ れ る と い う こ と で あ る 。 (功利主義で言うなら、 こ れ は 規 則 功 利 主 義 の 発 想 と 同 型 で あ る と 言 え よ う 。)し か し そ れ は 、た と え 例 外 的 で あ っ て も 、そ の「 窃 盗 」 ( と 記 述 可 能 な )行 為 が ― 他 の 観 点 か ら ― 「 正 」と さ れ る 場 合 を 無 視 し て し ま う こ と に な る 、と ダ ン シ ー は 批 判 す る の で あ る 。 「 実 際 」に は 、行 為 の 正・不 正 は 個 々 の個別的行為について問題にされるのであって、そこからするなら「第一」を語りうる原理 の方がいわば使えるところであるのだが、それは「第二」を語るための原理の方の偽を前提 す る と い う の で あ る 。ダ ン シ ー に よ る な ら 、 「 全 般 的 に 」は 妥 当 す る と さ れ る 一 般 的 原 理 は 使 えないものなのである。 ただしこのことは、 「 窃 盗 は 不 正 で あ る 」と い う 原 理 そ の も の が 使 え な い と い う こ と で は な く、いわば一般化的正当化によって措定されるものとしての原理が使えない、ということを 14 述べたものである。では、どのような、より正確には、どのようにして措定された原理なら い い の か 。そ れ と の 対 比 で 一 般 化 的 原 理 は ど う 問 題 で あ る の か 。 ( 我 々 流 に 言 っ て )こ の「 実 際の」場面では「使えない」ということに定位してであるが説明が次のように展開されてい る。 道徳原理は一般化の形式をなんら表現するものでない、換言するなら、列挙的帰納の適 切な所産であるものをなんら表現するものでない、という[ロスではなく通常の]考え方 は 、以 下 の 仕 方 で 支 え る こ と が で き る 。 「 特 性 F を も つ 諸 行 為 を 為 す な 」と い う 道 徳 原 理 と 、 虎は尾をもつという一般化とを我々はもっているとしてみよう。Fをもつ何らかの諸行為 は、それらのF性にもかかわらず正でありうる。そして、これらの諸ケースのいくつかに おいて(必然的に全てのケースにおいてではないとしても)正しさはそれらがFをもって い る こ と に よ っ て 低 減 さ れ る で あ ろ う 。F を も つ 行 為 は F を も つ こ と と し て は 不 正 で あ る 、 あるいは、Fをもつことの故により不正であるが、しかしそれは、それでもなお全般的に は正なのである。道徳原理は、個別のケースにおいてそれが対抗する考慮によって[帰納 的に]打ち負かされる場合であっても、なお放棄されないことが在りうる。あるいは、残 存 す る 効 果 を も ち う る 。し か る に 、 [ ロ ス の 道 徳 原 理 で あ る 列 挙 的 帰 納 の ]一 般 化 は そ れ を 不 可 能 に す る 。尾 を も た な い 虎 は 、な ん ら か の か た ち で 、虎 と し て は 尾 を も つ も の で あ る 、 のではない。あるいは、他の理由のゆえに全般的に尾をもたない場合であっても、虎であ る と い う 理 由 で は よ り 多 く が 尾 を も つ も の 、 と い っ た も の で は な い の で あ る 。 (99) と り あ え ず 、通 常 の 意 味 で の 道 徳 原 理 を 前 提 と し て 、そ れ と の 対 比 で「 一 般 化 」的 原 理 が「 列 挙 的 」帰 納 の 原 理 と し て 批 判 さ れ て い る 。こ こ で は 、 「 列 挙 的 帰 納 」の 過 程 で い わ ば 反 証 例 が 出てきた場合 ― 正確 には、反証例の数と検証例の数との比較がなされるのであって、した がってここは話が単純化されているのであるが、正確には「反証例の数が上回った場合」で あろう ― 、元の原理はいわばドライに放棄されてしまう、しかるに、通常には道徳原理は そ う 簡 単 に 放 棄 さ れ て し ま う も の で は な い 、と い う 訳 で あ る 。 ( 因 み に 、そ の 限 り で 、逆 に ダ ン シ ー に お い て 「 道 徳 原 理 」 の 絶 対 性 が 保 持 さ れ て い る と 見 る こ と が 可 能 で あ る 。) しかしながら、なぜこのような回りくどい言い方をしなければならないのであろうか。そ れは、そもそものロスにおける議論の仕方に原因が在るとダンシーは言うであろう。ダンシ ー の 見 る で あ ろ う と こ ろ で は ロ ス は 、原 理 の 措 定 は 、 「 あ ま り 公 式 的 で な い 説 明 」に お い て も 、 いわば分節化的に特定の特性を手掛りにしてなされる。仮設的にまず特定の特性(F)が取 り 上 げ ら れ て 、そ れ に 即 し て 行 為 が 特 定 の 行 為 と し て ― 「 特 性 F を も つ も の 」と し て ― 記 述・同 定 さ れ る 。し か る に 、 「 実 際 に は 」行 為 は 多 く の 他 の 特 性 を も も つ の で あ っ て 、状 況 に よっては、その他の特性によって正・不正が分かれて来ざるをえない。そこを「列挙的に帰 納的に」いずれの場合が多いかに着目しようというのがロスの試みなのである。そこでは、 当初の行為記述・同定は、いわばそれを内容として「Fをもつものは不正である」として措 定された原理が反証された場合であっても、その記述・同定としてはそのまま使用し続けら れ る こ と に な る 。で あ る か ら 回 り く ど い 言 い 方 に な る の で あ る が 、 「 虎 」云 々 の と こ ろ は 、そ 15 うした回りくどい言い方になってしまうことを当てこすったものでもあるかもしれない。 こ こ は 理 解 が 容 易 で な い と こ ろ で あ っ た が 、引 き 続 い て 、も う 少 し 分 か り 易 い か た ち で「 実 際の」状況との関係にける一般化的原理の「使えなさ」がさらに説明されている。 ……「大部分の男性は大部分の女性よりも背が高い」という一般化は4フィート6イン チ以下の全ての男性の背の高さにとって(も)有意的であると見なす理論を、有意性の一 説 明 と し て 受 け 入 れ る[ と い っ た こ と は お か し な こ と で あ る ]。同 じ 理 由 で 、一 般 的 傾 向 の 見地での説明は、一般的に有意的な特性がどのように個別ケースに関係するのかを示すの に失敗している。なぜなら、大部分の女性より背の高い或る男性は真の一般化の事例であ るのではあるが、その男性はこの一般化に該当することによって何らかの仕方でそのよう であることになるのではないからである。この一般化は、その者の背の高さにまったく影 響を与えない。……[或る男性が大部分の女性よりも背が高いという術定に、一般には或 る対象の術定に]貢献する理由の振る舞いは、確率や、傾向あるいは頻度の振る舞いとは 少しも似ていない。仮に、女性には男性よりもより多く美容院に行く傾向が在り、金持ち には貧しい者よりもより多く美容院に行く傾向が在るとしても、金持ちの女性が金持ちの 男性よりもより多く美容院に行く見込みは存在しない。しかし、或る行為が親切であると いう理由でよりよい行為であり、かつ、自己抑制的であるという理由でよりよい行為であ るとするなら、或る行為が親切かつ自己抑制的であるとき、その行為はそれらの一方だけ を[特性として]もつ行為よりもよりよい、と想定することには一定の理由が存在する。 (99f.) 「 背 の 高 さ 」云 々 の 件 は 、 「 列 挙 的 帰 納 」で 一 旦 原 理 が 一 般 化 的 に 確 立 さ れ た と し て 、そ れ を いわば機械的に「実際」に適用すると誤りに陥るのであって、そうした原理は「実際」には 使 い も の に な ら ぬ と 説 い た も の で あ る 。 ま た 、「 美 容 院 」 云 々 の 件 は 、 い わ ば 「 合 成 の 誤 謬 」 とでもいったかたちで、間違った原理を措定してしまうことになる、と批判したものであろ う。 「 親 切・自 己 抑 制 的 」の 件 は 、一 見 こ れ と 矛 盾 す る こ と を 言 っ て い る よ う に 見 え る が 、そ うではない。こういうことであろう。特性「親切」を含む行為は、 ― 「 親切は正しい」を 絶対的であるとするとしても ― 行為としては、その「親切」を一特性として含む諸特性の い わ ば 総 合 体 で あ る 。そ れ ゆ え 、行 為 と し て は 、そ の 他 の 諸 特 性 を「 理 由 」と し て 、 (総体と し て ) 不 正 と な る こ と も 在 り う る 。 し た が っ て 、「 列 挙 的 に 帰 納 的 」 に 見 て 、「 親 切 な 行 為 」 が( 行 為 総 体 と し て ) 「 正 」で あ る 確 率 は 1 未 満 で あ る( そ の 確 率 を x と す る )。 「自己抑制的」 行 為 も 同 様 で あ る ( こ の 行 為 が 「 正 」 で あ る 確 率 を y と す る )。 し か る に 、 xy < x、 xy < y で あ る 。ロ ス の「 列 挙 的 帰 納 」の 行 き 方 で は 、こ の こ と を も っ て 、 「 親 切 か つ 自 己 抑 制 的 」な 行 為 は 、「 親 切 な だ け の 」 行 為 ・「 自 己 抑 制 的 な だ け の 」 行 為 よ り も 「 よ り 正 し く な い 」 行 為 で あるとしてしまわざるをえないが ― こ う見ることは(おそらくはダンシー的発想から見て も)実は誤りなのであるが ― 、それは言うとするなら直観的常識に反するのである。 こう説明を加えてダンシーは、 「 こ の よ う に 、傾 向 の 見 地 か ら の あ ま り 公 式 的 で な い 説 明 は ( こ れ は も う フ ォ ロ ー し な い が 、100-104 で は 失 敗 を 示 し て い る の で あ る 」(100) と 断 定 す る 。 16 “ The propensity theory” と し て 、「 確 率 に 関 す る [ 以 上 紹 介 し た よ う な ] 頻 度 (frequency) 理 論 と の で は な く 傾 向 性 (propensity)理 論 と の 類 比 で 」 (100) ロ ス の「 傾 向 (tendency)」論 を 理解する可能性が在るとして、なお考察が続けられている。しかし、それが原理の措定の失 敗 に 終 わ っ て い る と い う 断 定 の 点 で は 同 じ で あ る (cf.104) 。) 三 ダンシーにおける「道徳原理」 では、 「 あ ま り 公 式 的 で な い 説 明 」の 一 般 主 義 を 退 け て 、ど の よ う に ダ ン シ ー は 個 別 主 義 を 説くのか。我々は、ポイントを「道徳原理」に絞りたいと思う。個別主義について、個別状 況 を 直 覚 的 に 正 し く 把 握 す る こ と を 説 く も の と し て 理 解 す る だ け で は 、あ ま り に も 容 易 に「 独 断主義だ」という批判を受けてしまうことになるからである。ダンシーは実際、主著の他所 に お い て 主 題 的 に 「 道 徳 原 理 」 に つ い て 議 論 し て い る 。 す な わ ち 、 pp.66-72 の 箇 所 で あ る 。 議論はこう始められる。 道 徳 原 理 は 一 般 主 義 者 が 与 え る よ う な 役 割 を 少 し も 果 た し え な い[ の で あ る が ]、し か し 、 個別主義者もこの点に関してそう攻撃的である必要はない。個別主義にとっても、……道 徳原理に何らかの役割を許すことが賢明であると思われる。我々は皆、何か別のことを行 うべきであると語るよりも、可能な限りで我々の実践に説明を与えるのが、哲学者の仕事 で あ る 。 (67) 「我々の実践」が道徳原理の使用を含む限りで、 ― 純 粋の(哲学的)直覚主義を説くなら そうなるであろうが ― 端 的に 一切の原理使用を退けるのではなく、 「 哲 学 」と し て も 、そ の 原理使用の実際を説明すべきであるというのである。では、それはどのような説明であるの か。 個々のケースにおいて適切に判断を下すために、我々は事実として「実践的推論」を行っ ている。そしてその際、同様に事実として一定の諸道徳原理の「リスト」を意識している。 し か し こ の こ と は 、ダ ン シ ー に よ る な ら 、 「 リ ス ト 」が も つ 原 理 を 個 々 の ケ ー ス に 適 用 す る こ とを意味しない。換言するなら、我々は、原理の下に個別ケースを包摂するかたちで個別判 断の正当化を行っている訳ではない。では、判断において原理はどのように使用されている のか。 こう説かれている。 道 徳 原 理 の 一 式 … … は 、こ の 目 的[「 何 ら か の 有 意 的 な 特 性 の 重 要 性 な い し は 有 意 性 を 見 失 わ な い こ と 」] の た め の 一 種 の チ ェ ッ ク リ ス ト と し て 機 能 す る 。 (67) 判断を下すということは、換言するなら、個々の行為、あるいは、そのなかで行為が一定の 行為であることになる個々の状況について、その重要な特性を有意化することである。原理 17 のリストは、この有意化の作業にいわば導きを与えるのである。 しかしながら、こう述べることは「個別主義」に反することでないのか。ダンシーは、し たがって同時にこう述べる。 「なぜあなたはこのようにするのか」という問いに答えるとき、人は、自分の行為がも つ と み な す 一 定 の 特 性 に 言 及 し て 、多 分[ 例 え ば ] 「 こ れ は 唯 一 の 正 直 な コ ー ス だ 」と 言 う で あ ろ う 。こ れ は 一 つ の 原 理 へ の 明 示 的 な 訴 え か け で は な い 。… … し か し 、 「 そ し て 、正 直 であることは重要である」と付け加えられるべきだと仮定するなら、我々は、一つの原理 に対する或る種の明示的な訴えかけをもっており、それは、原理についていま行っている 説 明 が そ う で あ ろ う と 予 測 す る と こ ろ で あ る 。 (68) これは我々としては見過ごすことのできぬ箇所なのであるが、これについてダンシーは次の ように述べるだけである。 もちろん、これが意味するところは、正直は唯一の重要な特性であるということではな い 。 正 直 は 重 要 で あ り う る 、 そ れ は こ こ で は 重 要 で あ る 、 と 言 っ て い る に す ぎ な い 。 (68) しかし次に、日常的な「実践」レヴェルでは原理(リスト)は所与であるとしていいかも しれぬが、 「 哲 学 」的 に 見 て そ も そ も「 原 理 」は ど の よ う に 知 ら れ る の で あ る の か 。引 き 続 い てダンシーはこの問いを立てて論述を進める。 道徳原理に関する我々の知識が個々のケースのうちに我々が見るものからどのように導 出されえるのか、を語る仕方を我々は見つけなければならない、と私は仮定している。私 は、倫理学におけるこのかたちの経験主義が、個別ケースが道徳原理に対する或る種のテ ストとして機能することができるのでなければならない、という我々の感じを意味在るも のにしうる唯一のものだと思う。これは、科学理論は個別ケースによってテスト可能であ るという意味で直接的である必要はないし、そもそも直接的テストである必要もない。そ うではなくて、この種の経験主義だけが、道徳原理は個々のケースの振る舞いに対して免 疫 で は な い こ と を 示 す 機 会 を 我 々 に 残 し て く れ る の で あ る 。さ て 私 に そ う 思 え る と こ ろ は 、 個々のケースは或る特性がもつことができる重要性を現示することができるということで ある。この経験主義はこのことを我々にはっきり分からせ、そのようなことの不可能性を 否定してしまう前にこの特性を認知するよう我々を促してくれるであろう。私がここで例 として考えているのは、よきマナーは偽善であると主張する子供じみた人のことである。 こうした立場は、よきマナーがいかに重要でありうるかを我々にはっきり分からせるケー ス の 生 起 に よ っ て 変 化 さ せ ら れ う る の で あ る 。 (68) しかしこれは、問いに対する答えとはなっていない。問いは、そもそもどのように原理が 措定されるかである。ダンシーはこれについても「経験」に定位して「導出」ということを 18 言っているのであるが、答えられているのは、所与の原理の「テスト」である。もちろん、 その「テスト」を介して新しい「原理」が措定されるのであり、そうしたいわば解釈学的循 環において原理が措定されてくるのであって、無から原理が措定される訳ではない、とここ で言うことが可能であろう。しかしそうであっても、その「循環」の在り様は述べられてい な い 。そ う い う か た ち で 、自 ら「 道 徳 的 認 識 論 の 主 要 な 問 い 」と 呼 ぶ も の に 関 す る 議 論 を「 こ のように、私の説明では倫理学は経験的である。道徳原理は個別ケースにおいて、またそこ か ら 学 ば れ る の で あ る 」 (68) と( こ こ で は )結 ん で い る 。「 学 ぶ 」は「 知 る 」で あ る と も 言 い うるが、そうだとして、その「学ぶ」プロセスは少しも説明されていないのである。 もっともダンシーにとって、 「 原 理 」の 問 い は い わ ば 一 般 主 義 に 譲 歩 す る( し て あ げ る )問 い で も あ っ て 、彼 か ら す れ ば 、個 別 ケ ー ス そ の も の の 直 観 的 判 定 が 最 重 要 な の で あ る 。 「原理」 を論じた部分の最終部分ではこう語られている。 それぞれの新しいケースへ詳細に注意を向けることに代わるものはない。それは、原理 に訴えるという[一般主義の]行き方であるなら我々をそこから遠ざけようとする種類の も の で あ る 。 (70) こうした個別主義の宣言で結ばれているのであるが、その前の部分では「哲学」的に重要 な 一 つ の 議 論 が 展 開 さ れ て い る 。そ れ は 、 「 道 徳 原 理 の 説 明 の 最 後 の 、か つ 最 も 技 術 的 な 美 点 は、道徳原理は、真であるとして必然的に真であるという考えに十分な意味を与えるという こ と で あ る 」 (69) と し て 始 め ら れ る「 原 理 の 必 然 性 」に 関 す る 議 論 で あ る 。「 伝 統 的 に は 、こ の 考 え は 、三 つ の も の の い ず れ か 一 つ に 等 し い 」(69) と し て 、ま ず 順 に こ の「 三 つ 」が 紹 介 ・ 批判される。 第 一 は 、或 る 行 為 が 正 で あ る な ら 、す べ て の 非 -道 徳 的 観 点 に お い て こ れ と 同 様 な 行 為 は いかなるものであれ正である、という用をなさぬ考えである。ここには、スーパーヴィー ニエンスという必然性が在る。それは、論争の対象となっているものであり、様相的ター ムで言い表されうる。しかし私が考えるに、それは誤った種類の必然性である。この考え は、必然的に真である道徳原理というよりも一つの様相的推論を提供するように思える。 (69) ここでダンシーは、おそらくヘアのことを念頭に置いていると思われる。 第二の考えは、役に立たぬかたちで真であるのではないが、グロテスクなかたちで偽で ある。これは、或る行為がその[特性]F性の故に正であるなら、Fである行為はすべて 必然的に正である、というものである。ここに在る必然性は結論というよりむしろ推論に 在るのではないのかと疑えるが、そのいずれであっても、この考えは、これまでに馴染み になっているはずの理由で偽である。ここで事態がいずれであるにせよ、どこであっても 他の特性が干渉することをうかがっているからである。 (この考えの最も弱いヴァージョン 19 で は 、 こ れ は 単 純 に 、 道 徳 原 理 は 無 効 化 可 能 で あ る と い う 考 え で あ る 。) (69) ここの真意はかなり不明であるが、 「 最 も 弱 い ヴ ァ ー ジ ョ ン 」の と こ ろ を 見 る と 、道 徳 原 理 を 経験的なものとみる考え方が念頭に置かれていると思われる。強引かもしれぬがロスと結び つけると、ダンシーが「あまり公式的でない説明」に基づくものとした限りにおけるロスが ここで批判の対象となっている、と見ることができる。 第三の考えは、或る特性が一つのケースにおいて道徳的に有意的であるなら、それは、 こ の 特 性 が 生 起 す る と こ ろ で は ど こ で も 、同 じ 有 意 性 を 必 然 的 に も つ 、と い う も の で あ る 。 この必然性が推論的なものと別であるとは、私は納得しない。その特性が道徳的に有意的 で あ る ケ ー ス が 決 し て 存 在 し な か っ た ら ど う す れ ば い い の か 。 (69) ここは、第二のとは逆に、道徳原理をアプリオリなものとする考え方を念頭に置いているよ う に 思 わ れ る 。こ こ も 強 引 か も し れ ぬ が ロ ス に 結 び つ け る と 、 「 公 式 的 」の 方 の「 説 明 」に 基 づくものとした限りにおけるロスがここで批判の対象となっている、と見ることができる。 ダンシーは、この第三の考えを否定するかたちで、自らの考えを展開して行っている。 しかし、この問いを放棄するかたちで、我々はすでに、個別主義はこの第三の考えを受 け入れることができないことを知っている。なぜなら、個別主義は、有意性はコンテクス トに基づいていると主張するからである。この主張の主要な理由は、認識論への訴えかけ である。個々のケースにおいて我々が認識するものから、或る特性は他のどこかで必然的 に再生起する種類の有意性をそこでもつ、と我々はどのように学ぶことができるのか。こ こで誰もが同じ難問に直面する。それは、道徳原理の真はどのようにして個々のケースに おいて認識されうるのか、および、我々がそこに発見しているものはどのようにして必然 的真であるのか、の二つのことを示すという難問である。私の考えでは、道徳原理に関す る私の説明が、必然性を、観察された真理のうちではなく観察されたものからの推論のう ち に 在 る と し て し ま う 落 と し 穴 に 落 ち 込 む こ と な し に 、こ の こ と を す る こ と が で き る 。我 々 は、個々のケースのうちに、或る特性が相応しい状況のなかでもつことができる種類の重 要性を見て取ることができる、というのが私が主張するところであるからである。我々が ここで観察しているものはすでに様相的である。そして、我々の観察が正しいものであれ ば、状況がふさわしいものであるとして、そこでは我々が観察した特性がこの重要性をも つことができないといった状況は存在しえない。したがって、我々が観察するものは、そ れ が 真 で あ る と し て 、 必 然 的 に 真 な の で あ る 。 (69f.) この部分から遡って見ると、 「 三 つ の も の 」に 対 す る 批 判 の 意 味 が よ く 理 解 で き る 。か な り 敷 衍 的 と は な る が 、こ う 語 ら れ て い る と 了 解 で き る 。 「 道 徳 原 理 」は 、 「 真 」で あ り 、か つ( 単 に偶然的にではなく) 「 必 然 的 」に 真 で あ っ て 初 め て「 道 徳 原 理 」と し て 機 能 す る 。し か る に 「 伝 統 的 」哲 学 は 、 「 道 徳 原 理 」の「 必 然 的 真 」の 論 証 に お い て 失 敗 に 終 わ っ て い る 。そ の 失 20 敗のタイプの一つは、いわば現実に定位し、したがって経験を重んじるが、その経験によっ て 自 ら を 偽 に 晒 し て し ま う も の で あ る (「 第 二 」)。 も う 一 つ は 、 抽 象 的 に ( い わ ば 非 -現 実 的 に ) 論 証 を 試 み て 、 そ の 抽 象 性 の 故 に 現 実 に よ っ て 批 判 さ れ て し ま う も の で あ る (「 第 三 」)。 いずれも「必然性」に定位して「原理」の必然性を証明しようとしているが、そこで論じら れ て い る の は ( 実 は )「 推 論 的 」 必 然 性 ― 複 数 の 言 明 間 の 関 係 上 の 「 必 然 性 」 ― で あ る 。 そして、この推論的必然性を、求められる「様相的」必然性 ― 言 明そのもの、したがって まさしく「道徳原理」の必然性 ― と 取り 違えているのであるが、明瞭にこの後者としては 「必然性」の論証に失敗しているのである。 これに対して「第一」は、いわば始めから「推論」の必然性にだけ定位するものである。 これは、 「 原 理 」の 必 然 性 を 求 め る 論 証 で は そ も そ も な く 、そ の 意 味 で「 真 で は あ る が 役 に 立 た ぬ 」も の で あ る 。 ( 因 み に 、ヘ ア 自 身 か ら す る な ら 、そ れ で い い と い う こ と に な ろ う 。そ も そ も( 彼 の )非 -認 知 説 か ら す る な ら 、 「道徳的原理」 ( そ の も の )の 真 と い っ た こ と は 在 り え ないのであって、ヘアは道徳をいわば判断(行為)のいわば語用論的事柄として、どのよう に判断を下すのかという側面から、そこに(ダンシー的に言うなら)推論的必然性が在るこ と を も っ て 「 道 徳 的 」 と し て い る の で あ る 。) これもまた失敗であるとして、 「 三 つ 」の も の は な ぜ 失 敗 に 終 わ る の か 。ダ ン シ ー に よ る な らそれは、 「 普 遍 性 」の 観 念 に 囚 わ れ て い る か ら で あ る 。ネ ガ テ ィ ヴ に 言 う な ら 、そ れ は「 コ ン テ ク ス ト 」を 無 視 し て い る の で あ る 。 「 真 」は 実 は 一 定 の コ ン テ ク ス ト と 相 関 的 に し か 在 り えないのだが、それを正しく踏まえるなら、そのコンテクストにおける「真」として、かつ 「 必 然 的 」 真 と し て 、「 道 徳 原 理 」 が 「 観 察 」 に よ っ て 確 保 さ れ る の で あ る 。 しかしながら、 ― これはこの箇所から読み取ることはできないが ― この 「観察」とは 単 な る「 直 覚 」の こ と で は な い 。「 道 徳 原 理 」と は 例 え ば「 x は 正 で あ る 」こ と を 言 う も の だ として、端的にその x の正しさがそのものとして直観されるのではない。その「正しさ」は ダ ン シ ー に と っ て「 出 来 的 」特 性 で あ っ て 、そ の 基 礎 に 一 定 の 自 然 的 特 徴 を も つ 。 「x は正し い」という「原理」は、その自然的特徴を「理由」として挙げるというかたちで措定される のである。 し か し 他 方 、そ の「 理 由 」が ま さ し く「 理 由 」と し て い わ ば 作 動 す る の は 、こ れ も ま た「 コ ン テ ク ス ト 」と 相 関 的 に で あ る 。 「 理 由 の 全 体 論 (holism)」と は こ の こ と を 言 っ た も の で あ る 。 これについて、 「 理 由 に 関 す る 理 論 に お け る 全 体 論 」と い う 節 の 冒 頭 で 、定 義 的 に こ う 述 べ ら れている。 個別主義の背後に在る主導的考えは、新たなケースにおける理由の(あるいは、理由と し て 働 く 考 慮 点 (consideration)の )振 る 舞 い は 、他 の ケ ー ス に お け る そ の 振 る 舞 い か ら 予 言されることができない、という考えである。ここでその考慮点が機能する在り方は、こ こに在る他の諸考慮点によって影響されることになる、あるいは少なくとも影響される可 能性をもつ。したがって、その考慮点が一般的にどのように機能するかをここで見つけ出 すことができる、という希望には何ら根拠がない。また、この考慮点が別のケースにおい てどのように機能することになるかへ、スムーズな仕方で動くことができるという希望も 21 同 様 で あ る 。 (60) ただし正確に言うなら、上の、言うとするなら「コンテクスト主義」とは、これをいわば 逆方向から述べたものである。行為の正・不正はまさしく全理由から決まってくるのである が、この全理由を取り上げて「道徳原理」を定式化することは不可能である。しかし、コン テクストが特定されてくると、諸理由それぞれにいわば重みづけが生じてきて、そこに「有 意 的 な 」(「 重 要 な 」) 理 由 が 特 化 し て い わ ば 「 浮 び 上 が っ て (salient)」 く る (cf.112,etc.) 。 したがって、特定のコンテクスト内においては、その浮び上ってきた(特定の)理由に即し て「 道 徳 原 理 」を 措 定 す る こ と が で き る の で あ る 。 ( こ の 側 面 か ら 見 る な ら 、こ こ に 在 る の は ― 普 遍 主 義 に 対 す る 意 味 で ― 「 特 殊 主 義 」( な い し は 「 コ ン テ ク ス チ ュ ア リ ズ ム 」) 6 で あ る と 言 い う る 。) い わ ば 、 そ の コ ン テ ク ス ト 内 で は 「 原 理 」 は 有 効 な の で あ る 。 し か し 逆 に 、 別のコンテクストにおいて、あるいは(諸)コンテクスト横断的には、有効性を(少なくと も そ の ま ま で は ) も た な い 。 換 言 す る な ら 、 一 定 の コ ン テ ク ス ト (「 こ こ 」) に お い て 理 由 で あるものは、他所においては、あるいは普遍的には(少なくともそのままには)理由となら ないのである。 四 直観主義としての個別主義 行 為 は 、そ の 浮 び 上 が っ て く る 理 由 に 即 し て「 … … な 行 為 」と し て 正 当 と さ れ る の で あ る 。 こ の 点 は 、ロ ス に お い て も 同 様 で あ り 、ロ ス も「 行 為 の 正 し さ の 浮 び 上 が っ て く る (salient) 要 素 」(46) を 説 い て い る 。し か し な が ら「 理 由 」は 、ど の よ う に「 浮 び 上 が っ て く る 」の か 。 「浮び上がりとかたち」と題された一節で次のように説かれている。 或る状況がもつ諸特性のうち、人が何をなすべきかという問いにとって、或るものは有 意的であり、或るものはそうでない。そしてさらに、有意的なものの間において、或るも のは他のもの以上に有意的である。これらの有意的な諸特徴は浮び上がってくる。……或 る特徴を浮び上がったものと見ることは、それを、目の前のケースにおいて為すべきこと に重要であるものとして見ることである。……このように見ることは、状況のかたち (shape)を 把 握 す る こ と で あ る 。 浮 び 上 が り か ら か た ち へ と 我 々 は 動 く の で あ る 。 (112) こ う 述 べ た 後 で ダ ン シ ー は 、「 状 況 の 記 述 」 と い う い わ ば 意 識 的 側 面 か ら 、 我 々 が 状 況 に 記 述 を 与 え る に 至 る と き 、様 々 な 浮 び 上 が り( す な わ ち 状 況 の か た ち )が 、 我 々 が そ の 状 況 に ど の よ う に 対 応 す べ き か と い う こ と に 差 異 を 与 え る 。 (112) 6 『辞典』所収の上記項目「普遍主義」のⅠ参照。 22 として、 ここに存在する多数の特性の間で我々がどこから出発するかは問題でない、ということ で は な い 。 出 発 す べ き 正 し い 場 所 と 間 違 っ た 場 所 と が 在 る 。 (112) と説いて、我々が立てた問いを立てている。 し か し 、ま ず は「 浮 び 上 が り − か た ち 」と い う こ と の( 再 )説 明 と し て 、 「建造物の美的記 述 」 を 事 例 と し て 、「 諸 特 性 の [ 単 な る ] リ ス ト 」 か ら 「 記 述 」 を 区 別 し つ つ (112) 、 我々が為しているのは、その状況のストーリーを語ることである。そして我々のナラテ ィ ヴ は 、 そ の 状 況 が も つ か た ち に 従 わ な け れ ば な ら な い 。 (112) と 説 か れ る 。そ し て 、「 そ の な か で 諸 特 性 が 言 及 さ れ る 秩 序( 記 述 の ナ ラ テ ィ ヴ 構 造 )」 (113) と し て 、「 秩 序 」 の 観 点 か ら 、 私が語っている種類の記述は、ナラティヴの一形式である。そして記述は、悪いナラテ ィヴをもつこともあれば、よいナラティヴをもつこともある。諸特徴は誤った秩序におい て 言 及 さ れ る こ と も あ り う る 。 (113) と説きつつ、 建造物の記述のケースにおいて、人が出発することができるであろうのは、その建造物 の建築学的な構造(これを私はその物理的な構造から区別する)にとって中心的だとみな す特徴である。おそらく、この建造物は、基本的に平らな長方形で、一定の他の諸特徴は それに対抗しているが、しかし補完的である、と見られるはずである。このように、これ が建造物の記述が出発するはずである仕方である。この記述にそもそも入ってこない多数 の諸特徴が在るであろう。そして、第二次的な役割しか果たさない……もっと多くの諸特 徴 が 在 る で あ ろ う 。 (113) と述べている。 分 析 化 的 に 見 る な ら 、一 種 の《 構 え 》と で も い っ た も の ― 「 建 造 物 」の 例 で は 、 《美的構 え 》 ― が 「 出 発 」 点 と し て 在 っ て 、 そ れ が 状 況 の 記 述 に 或 る 構 造 (「 ナ ラ テ ィ ヴ 構 造 」) を 与えつつ、そのなかで有意的な特徴が「浮び上がって」くるのであると考えられている。 我 々 が 問 題 と し て い る( 行 為 の 正・不 正 を 問 う )道 徳 の 場 合 、こ の《 構 え 》は 文 字 通 り《 道 徳的構え》であろう。しかしそれは何であるのか。先に「道徳原理」の議論のところで確認 し た と こ ろ か ら は 、《 道 徳 的 構 え 》と は 、状 況 に 関 し て「 チ ェ ッ ク リ ス ト と し て 」 (67)「 道 徳 原理」を「機能さ」せる用意が在ること(のみ)だと考えられるかもしれない。ダンシーは しかし、これを否定するかたちで、 ― 問題 を「道徳」の場面に戻して ― 次 のように説い 23 ていく。 少なくとも道徳のケースにおいては、何らかの仕方で合理的な支えを命じる何らかの一 般原理の下へとこのケースを包摂することからのみ正当化は成り立つ、という見解……。 [私が言う]記述は、このようなことを実現することを明らかに意図していない……。理 由 を 与 え る こ と に お い て 、人 は 状 況 を 見 る 自 分 の 仕 方 を[ そ う し た 包 摂 化 に お け る よ う に ] 論証しているのではない。人が行っているのは、自分自身が見る仕方で状況を見るように 他人に訴えることである。そしてこの訴えは、自分が状況を見ているその仕方を可能な限 り 説 得 的 に 提 示 す る (lay out)こ と か ら 成 っ て い る 。こ こ に 言 う 説 得 性 は 、ナ ラ テ ィ ヴ の 説 得 性 、換 言 す る な ら 、説 明 が も つ 同 意 を 引 き 出 す こ と に な る 内 的 な 整 合 性 (coherence)で あ る 。我 々 が 目 的 に 成 功 す る の は 、我 々 の ス ト ー リ ー が 正 し い と 聞 こ え る (sound right)と き である。道徳的正当化は、したがって、本性上、包摂化的ではなくナラティヴ的である。 (113) 「 理 由 」と は 、 「 … … の 故 に[ 例 え ば ]正 で あ る 」と し て ま さ し く 理 由 づ け に お い て 言 及 さ れ る 特 性 で あ る 。「 x が … … で あ る の は … … の 故 (in virtue of,because)で あ る 」 と い う か た ちを理由づけは採るのであるが、この二つの「……」に入ってくるものはいわば階層を異に する。そしてダンシーは後者を「自然的特性」であるとしつつ、これと前者との関係を「出 来 (resultance)」の 関 係 と し て 問 題 と し て い る 。(73) 我 々 は 、上 の「 浮 び 上 が り 」の 問 題 は 、 ここからより適切に了解できると考える。 これはよく言及される事例であるが、ダンシーは、チェス・ゲームにおける駒の布置につ いて次のように論じている。 チ ェ ス に お け る 情 勢 (position)の 弱 さ は 出 来 的 特 性 で あ る 。 [自分が相手に対していま不 利な情勢に在るのは自陣の駒の布置が相手側のそれに対してもつ関係のうちにおいてであ る 。]し か し 玄 人 は 、そ う い う か た ち で 情 勢 が 弱 い と こ ろ の 様 々 な 点[ 駒 A が こ う な っ て い る 、B は こ う な っ て い る 、… … ] ― こ れ が 、そ こ か ら 弱 さ が 出 来 す る 諸 特 性 で あ る ― を 見 つ け 出 す こ と に 向 か う 前 に 、 一 瞥 で 情 勢 の 弱 さ を 見 る こ と が で き る 。 (74) 「 浮 び 上 が り 」と は 、い わ ば 、こ の「 強 さ・弱 さ 」の 相 の 下 に 、 ( 駒 の 布 置 状 態 の )有 意 的 な 点 だ け が 、 か つ 一 つ の 関 連 性 (「 ナ ラ テ ィ ヴ 構 造 」) に お い て 認 識 さ れ る こ と で あ ろ う 。 こ の 「 玄 人 」 が も っ て い る 或 る も の の よ う な も の が ( 我 々 が 言 う )《 構 え 》 と い う こ と に な る 。 しかし次に、より基底的に問われうる。この《構え》は素人であってもなにがしかはもつ ものである。さらに、チェスについて全く知らぬ人であっても、例えば将棋は知っていると きは、そうであろう。しかし他方、チェスをそもそもゲームとして見ていない者には、この 《 構 え 》は 存 在 し て い な い 。そ し て そ れ は 、よ り 厳 密 に 言 う な ら 、当 の「 玄 人 」で あ っ て も 、 例 え ば 、駒 の ど れ か に ダ イ ヤ モ ン ド が 隠 さ れ て い る の を い ま 探 っ て い る と で も す る な ら 、 《構 え 》は い わ ば 未 発 動 の 状 態 に 在 る 。こ の こ と を ダ ン シ ー は 、 (「 基 礎 」に 在 る ) 「 特 性 」を「 項 24 目 (item)」 と 呼 び つ つ 、 次 の よ う に 説 い て も い る 。 諸項目のグループは、それに対して我々は同じ仕方で反応するのであるが、自然的なか た ち を も つ 、と そ れ[ 或 る「 通 俗 的 な 議 論 」]は 想 定 す る 。こ の 自 然 的 な か た ち と は 、こ れ らの諸項目に対して我々が為す種類の反応に対して全く意義を見ない者にとっても入手で きる語彙で表現可能なものである。通俗的議論がこう想定するのは、我々がそれに反応す る諸項目は、我々の反応とのいかなる関係からも独立に自然的類似性をもつであろう、と 推定するからである。これらの諸項目がこのように独立的であるなら、それらは、外部か ら、反応にハンディを与える独自の関心を共有しない誰かによっても認知可能であること になる。/我々がこの仮定を置かないなら、あるいはそれが無効であるなら、議論が崩壊 することは明らかであろう。そして、我々がすでに気づいているように、出来とスーパー ヴィーニエンスの事実にはこの仮定に根拠を与えるものは何もない。その上、この仮定は 実際、倫理においては非常にありえないところであると見える。各倫理的術語には多くの 様々な可能な出来的基礎が、つまり、或る行為がこの術語を満たすに至る多くの様々な仕 方が在る。道徳的思考を行う能動的な参加者としての我々の有利な地点から、我々は、そ の術語が一つのものへグループ化する様々な行為間の類似性を見る立場に在る。しかし、 この類似性は、自然的なものではない。様々な行為は、それらを媒介すべく道徳的術語の 焦 点 を 必 要 と し て い る 。 我 々 は こ こ に 、 自 然 [ そ の も の ] の か た ち の な さ ( natural shapelessness) を も つ 。 (85) す な わ ち 、《 構 え 》 の 発 動 に は 、 内 部 か ら の 「 参 加 的 」「 関 心 」 を 要 す る の で あ る 。 そ う し た関心をもたなくても状況のなんらかの表現は可能であろうが、それは「諸特性のリスト」 で は あ っ て も ( 構 造 を も っ た )「 記 述 」 で は な い (112) 。 チ ェ ス の 例 で 言 う な ら そ れ は 、 駒 の 位置に一定の座標平面上の地点(座標点)表記を与えるだけのものである。 しかし他方、この「関心」は、状況記述の必要条件に留まる。チェスの場合、やはり「玄 人 」で あ る こ と が さ ら に 必 要 で あ る 。道 徳 の 場 合 で は 、 「 玄 人 」性 に 当 た る の は「 徳 (virtue)」 である。そしてその場合は、いわば道徳的「関心」を(予め)内部化している。しかし同時 「 玄 人 」性 を も 併 せ に 、有 徳 的 と は 、逆 に 道 徳 的「 関 心 」を も っ て い る だ け の こ と で は な く 、 も つ こ と で あ る 。( こ の 「 徳 」 が も つ い わ ば 善 意 性 と 有 能 性 の 二 要 素 は 、 pp.47-55 で 「 黙 ら せ る こ と と 徳 」「 黙 ら せ る こ と と 意 志 の 弱 さ 」 の 節 で 論 じ ら れ て い る )。 結 局 ダ ン シ ー の 道 徳 論 は「 有 徳 な 人 」が 結 論 と な っ て い る 。 「 道 徳 原 理 」を 論 じ た 部 分 の 最 後は「個別主義者達のパトロンの聖人・ジョージ・エリオット」からの長い引用で結ばれて いるが、その中に次の一節が在る。 広くて強いセンスをもつ人々は全て、格律の人間に対して本能的な不快感を抱く。この ような人々は、我々の生の神秘的な複雑性が格律によっては受け入れられえないというこ とを、そうした種類の定式化のうちに自分を縛りつけてしまうことは成長する洞察と共感 から生じる聖なる促しとインスピレーションのすべてを抑圧することである、ということ 25 を 昔 か ら 分 か っ て い る か ら で あ る 。 (71) 有 能 性 と 善 意 性 と が 、 こ こ で は 「 洞 察 」「 共 感 」( の 徳 ) と し て 言 い 表 さ れ て い る 。 五 問題の核心へ ア リ ス ト テ レ ス で 言 う な ら 、こ の「 徳 の 人 」は「 賢 者 (phronimos)」で あ る 。し か し な が ら 「賢者」とは何か。その「徳」である「賢慮」とは何か。これを我々は、その「知」の側面 からなお問わなければならないと考えている。 状 況 、 あ る い は 特 定 の 状 況 の な か で な さ れ る べ き 行 為 の 特 定 は 、「 … … の 故 に … … で あ る 」 という、 「 出 来 」関 係 の 術 定 の 下 で 行 わ れ る の で あ っ た 。言 う ま で も な く「 賢 慮 」と は 、こ の 術定を適切に行いうる力である。前者の「……」には(最終的には)自然的特性が、後者の 方 に は 言 う と す る な ら 規 範 的 特 性( 端 的 に は「 正 し い 」)が 入 る の で あ る が 、 ― ま ず こ れ を 問 題 と す る が ― 厳 密 に 言 っ て 規 範 的 特 性 ( を 記 述 す る 規 範 的 言 語 ) に は 「 薄 い (thin)」 も の と 「 厚 い (thick)」 も の と が 在 る 。 前 者 の 代 表 例 は 「 善 」「 正 」 で あ る 。 後 者 に は 「 親 切 」 「誠実」等々の無数のものが考えられる。 ロ ス は 基 本 的 な (basic)「 一 応 の 義 務 」の 特 定 と し て 、後 者 に つ い て 少 数 の 特 定 の も の を 有 意化している。そして、彼もまた「出来」の関係を指摘するのであるが、その場合もっぱら 問題とされるのは、 「 厚 い 」特 性 と「 薄 い 」特 性( 特 に「 正 」)と の 関 係( 例 え ば 、 「約束を守 る こ と 」 と 「 正 」) で あ る 7 。 こ れ に 対 し て ダ ン シ ー は 、 ― こ の 方 が 、 こ の 種 の 議 論 の 初 点 であると言いうるムアに即しているのであるが ― 「出 来」関係を ― 現 在における「スー パーヴィーニエンス」の論に合わせてでもあろうが ― 基礎に在る「自然的特性」と規範的 特性(総体)との関係として論じている。この違いのうちに現れていると言うであろうがダ ンシーは、ロスにおいては自然的特性と厚い道徳的特性との関係が(もちろん一対一的関係 ではないが)一義的な対応関係として考えられてしまっている(、であるから、自然的特性 は問題とされないことになる)と見ているようである。であるから「一応の義務」の「あま り公式的でない説明」において「枚挙的帰納」が可能になってくるのでもある。枚挙的に規 範的特性を含んだ諸ケースを挙げることによって、いわば機械的にそのトータル計算として 「義務」が定まることにもなるのである。こう述べられている。 さてあなた方は、倫理に関するどの一般主義者もそうであるであろうように、特定の特 性は、それ自身は……状況によって影響されておらず、そこに在る他の諸特性の一般的な 傾向との或る種のバランスのうちに措定される一般的な道徳的傾向をもつという考えにな お余地が在る、したがって、我々の最終的な決定はどの側面が優勢であろうともそれとう 7 し た が っ て ロ ス に つ い て は“ nature”を「 本 性 」と 訳 出 し た の で あ る が 、彼 に も 、( 物 理 的 )自 然 的 特 性 を 問 題 と し て い る と こ ろ が な い わ け で は な い 。「 善 」 を 問 題 と す る と き が そ う で あ る 。 そ こ で は 、 当 然 の 事であるがムアについても議論がなされているからであろう。 26 まく適合する、と感じるかもしれない。これは例えばロスの立場である。一応の義務とい う 彼 の 観 念 は … … 明 確 に こ の 種 の バ ラ ン ス を 問 う (balancing)一 般 主 義 を 維 持 す る よ う 設 計 さ れ て い る 。 (56) ダンシーによるならロスは、或る肯定的特性F ― これ は(厚い)規範的特性である ― を も つ か ら と い っ て 直 ち に そ れ を 含 ん だ 行 為 が 「 実 際 の 義 務 ( 正 )」 と な る と す る の で は な く 、 諸(規範的)特性の共在という(実際的)事態に即して、特性Fが他のどのような諸特性と 一つになるのか、という見地から、その他の特性をも含んだいわば特性総体が肯定的なもの で あ る ケ ー ス と 否 定 的 な も の で あ る ケ ー ス と の 数 を 計 算 し て 、肯 定 的 な 方 の 数 が 上 回 る と き 、 (いつであっても)特性Fを含んだ行為をすることが「実際の義務」となる、と考えている 訳である。しかし、ダンシーによるなら、その際、各(規範的)特性そのもののいわば重み は常に同一であると考えられている。なぜなら、規範的特性の基礎に在る、その特性を出来 させる自然的特性 ― それ自身は、いわば客観的重みをもつと考えざるをえないが ― は 規 範的特性と一義的関係に在るからである。しかるに、ダンシーはこれを否定するのである。 もちろん、逆に両特性は無関係であるというのではない。規範的特性は自然的特性と独立 に対象(行為)のうちに存立するというわけではない。規範的特性は、その基礎に一定の自 然的特性が在って、そこから「出来する」ものとしてこそ存在するのである。そういう意味 で は 、 ダ ン シ ー は ( も )、 出 来 に 関 す る 或 る 種 の 「 ト ー ク ン -同 一 性 」 理 論 を 採 用 し て い る 。 (74) し か し 、 こ れ は あ く ま で 「 ト ー ク ン -同 一 性 」 で あ っ て 、 決 し て 「 タ イ プ -同 一 性 」 ― ダ ン シーによるなら、 「 ス ー パ ー ヴ ィ ー ニ エ ン ス 」は こ の 同 一 性 の 関 係 で あ る ― で は な い 。つ ま り 、 こ の 「 ト ー ク ン -同 一 性 」 理 論 に 従 う な ら 、 出来してくる特性は、ここでは、この出来的基礎[自然的特性]によって構成されてい る が 、 別 の と こ ろ で は 、 別 の 基 礎 に よ っ て 構 成 さ れ て い る 。 (74) 同一の規範的特性は、いわばケース毎に、その基礎となる自然的特性を異にする。そして、 この基礎に在る自然的特性の相違として、規範的特性は ― 別 の種類の規範的特性となるだ け で は な く 、そ の 特 性 の ま ま ― そ の 重 み を 変 え る の で あ る 。つ ま り 、 ( 厚 い )特 性 F を も つ 行為は正であると一般的には言えないのは、単に、Fは単独ではなく他の諸特性との共在の かたちで存在するのであって、そのいわば共在の相手Gが何であるかによって、そのGの不 正が上回って「Fをもつ行為もGの故に不正となる」ことが在る ― ロ スの 場合はこう考え られているが ― とい うのではない。単にそうであるのではなく、同時に、いわばF(その も の ) の 重 み が 低 下 す る の で あ る 。 し か る に ロ ス は 、「 タ イ プ -同 一 性 」 を も 、 つ ま り 、 特 性 Fとその基礎に在る自然的特性との一義的関係をも認め、これによって特性Fの有意性をい わば汎通のものとしているのであって、これが「一応の義務」として一般原理を措定させて 27 いるのである。換言するならロスは「一般主義者」であり、そういうものとして「実際の義 務」を複数の一般原理使用間のいわば調整として決定するのだが、これをダンシーは否定し て、 この個別主義の下で存在しえないのは、個々のケースにおいて何をなすべきかに関する 問いに答えを出す際に、原理のいかなる組み合わせも成功しないであろうというまさにこ の 見 解 で あ る 。 (74) と説くのである。 先 に 引 用 し た 56 頁 の 続 き の と こ ろ で は 、 ここでは古典的一般主義者として立っているロスも、このことを完全に知っており、… …ここで我々が何を為すべきかに関する個別の決定、つまり彼によれば蓋然的な意見以上 の も の で は 決 し て あ り え な い 個 々 の 決 定 を 認 め て い る 。 (56) とロスに一旦「個別主義」を認めた上で、 個別主義は、これを越えて進むべきであるなら、或る特性が新しいケースにおいてもつ 有意性はそれが他のケースにおいてもつ有意性からは予言されえない、という考えにもっ と 強 い 意 味 を 与 え な け れ ば な ら な い 。 (56f.) と説いている。そして、この「もっと強い意味」の付与が特性の「ナラティヴ構造」論とし て展開されているのであるが、それは、自然的特性と規範的特性との「出来」の関係として 再確認するなら、こういうことである。両特性間の関係は、いわば ― 因 果的関係であるな ら そ う で あ る が ― 決 し て 一 義 的 な も の で は な い 。事 態 が 、 ( 我 々 の 用 語 で 言 っ て )一 定 の《 構 え》のもとで一定の規範的相で、つまりいくつかの、それぞれの重み付けをもった諸規範的 特性のいわば集合態として現出し、そしてそれに合わせて、基礎としての自然的特性が或る 組み合わせのものとして現出するのである。 「 ナ ラ テ ィ ヴ 構 造 」と は 換 言 す る な ら 、こ の 組 み 合わせのことである。 し か し な が ら こ れ は 、決 し て 観 念 論 で は な い 。こ こ で 言 う「 現 出 す る 」と は 換 言 す れ ば「 存 在 す る 」と い う こ と で あ る 。そ し て 、そ の「 存 在 」と し て 規 範 的 な 特 性 が い わ ば 先 に 在 っ て 、 それが自然的な特性を生起させるというのでもない。我々(の自前)の比喩を使うなら、こ れは次のようにも説明できよう。いま、踏み台を使って棚の上の物を取ろうとしているとし よう。これは一つの《構え》であって、そこでは踏み台は「十分高くて手が届く」といった 「 高 い 」と い う( 規 範 的 )特 性 の も と に 現 出 す る 。 ( 逆 に 、棚 の 上 の 物 を 取 ろ う と し て い な い と き は 、 踏 み 台 は 別 に 「 高 い 」 も の と は 現 出 し な い 。) 8 そ し て 同 時 に 、 そ の 踏 み 台 が 高 さ 8 こ の 主 張 は 、 別 著 『 原 理 な し の 倫 理 』 で は 明 瞭 で あ る 。 例 え ば 、 そ の 10 頁 で は こ う 述 べ ら れ て い る 。 28 x cm と い う 自 然 的 特 性 を も つ も の と し て も 現 出 す る 。 し か し そ の 場 合 、「 高 い 」 こ と が 原 因 で x cm と な る の で は な い 。 あ く ま で 「 x cm」 だ か ら 「 高 い 」 の で あ っ て 、 特 性 「 x cm」 か ら 特性「高い」が出来するのである。 そ し て 次 に 、 ロ ス で は 、「 高 い 」( F ) 踏 み 台 は 一 応 「 よ い 」 踏 み 台 で あ る と い う こ と に な る の で あ る が 、そ れ が「 不 安 的 で あ る 」 ( G )と き は 実 際 に は「 よ く な い 」と で も い っ た こ と になりうるだけであるのに対して、ダンシーでは、一定の高さの棚に一定の高さの踏み台が 在るとして、 ― まさ しく「状況」が異なって ― 例え ば、その棚が可動式でもある場合、 その場合でも踏み台が「高い」のはそのままであるが、棚を動かして下げても物が取れるの で 、そ の 重 み が 低 下 す る こ と に も な る 。 ( ま た G に つ い て も 、そ の 人 の 身 体 バ ラ ン ス 感 覚 の 程 度 に よ っ て 、そ の 重 み が 異 な っ て く る 。)そ し て そ の 場 合 、踏 み 台 の「 高 い 」と い う 特 性 の 背 後 に は 、 ― そ こ か ら( 規 範 的 )特 性 が「 出 来 し て く る 」 「 基 礎 」が 依 然 と し て 存 在 す る と す る な ら ― 「 そ れ は x cm で あ る 」こ と に 加 え て「 棚 が 可 動 式 で あ る 」と い う こ と も 基 礎 と し て存在していることになるのである。 さ ら に 行 為 の「 薄 い 」規 範 的 特 性・「 正 」と 関 連 づ け る な ら 、次 の よ う に 言 い う る 。ロ ス に おいては、いわば決断主義的「個別主義」的にFとGとのいずれかが(より)有意化されて ( 踏 み 台 を 使 っ て 物 を 取 る と い う )行 為 の 正・不 正 が 判 定 さ れ る だ け で あ る 、あ る い は 、 「あ まり公式的でない説明」においては、FがGといわば組になる頻度が問題とされ、その頻度 が そ れ 程 で な い と き 、( い つ で あ っ て も )「 高 い 」 と い う 特 性 F か ら ( 踏 み 台 を 使 っ て 物 を 取 るという)行為の特性「正」が出来することになる。これに対して、ダンシーでは、踏み台 に つ い て 同 じ ( 種 類 の )「 高 い 」 と い う 特 性 F が 在 っ て も 、 棚 の 可 動 性 ・ 非 -可 動 性 ( 等 ) に よ っ て ― つ ま り「 状 況 」の 別 に 即 し て ― 、 ( そ の 踏 み 台 を 使 っ て 物 を 取 る と い う )行 為 の 「 正 」「 不 正 」 が 分 か れ て 来 う る の で あ る 。 こ こ か ら が 本 題 で あ る の だ が 、で は 、こ の「 ナ ラ テ ィ ヴ 構 造 」論 は「 賢 慮 」の( も つ ) 「知」 の論としてはどういうことになるのか。まず確認するが、先の「チェス」の議論は、以下の 論によって(も)支えられている。 これは、出来関係の形而上学と呼ばれうるものである。しかし、出来関係の認識論は、 この形而上学に従う必要はない。或る[規範的]特性が他の[自然的]特性から出来する の で あ る な ら 、我 々 は 、前 者 の 特 性 を 直 接 に は 感 取 (discern)で き ず 、そ こ か ら そ れ が 出 来 そ の よ う に[ S・ケ イ ガ ン に よ っ て ]、我 々 は 一 つ の 描 像 を 得 て い る 。そ の 下 で は 、定 常 的 な 重 み (weight) をもった諸特徴が、人がどのように行為すべきかに対して様々な貢献を為すのであるが、一つの特徴の 存在はケース毎に変化するのではあるがその重みは変化しない。この立場は個別主義とは異なっている。 そ し て 、そ れ が 表 現 す る 全 体 論 は あ ま り 根 源 的 (extreme)で な い 。そ れ は 、個 別 主 義 者 は 、各 特 徴 は 定 常 的な重みをもつと考える必要を見ないからである。 こ の 主 張 は ま た 、「 コ ン テ ク ス ト 」 の 側 面 か ら は 、 次 の こ と を 意 味 し て い る 。 す な わ ち 、「 コ ン テ ク ス ト 」 は あ く ま で 《 構 え 》 と 相 関 的 で あ る 。 こ の ケ ー ス の 場 合 は 、「 棚 の 上 の 物 を 取 る 」 と い う い わ ば 目 的 性 が 《 構 え 》 で あ っ て 、 そ こ か ら す る な ら 、「 棚 が 可 動 式 で あ る 」 の で は な い と い っ た と き 「 踏 み 台 が 高 い 」 ということは非常に有意的であるのに対して、可動式である場合はそれほどでもない、ということになる の で あ る 。 こ れ に 対 し て ロ ス で は 、「 高 い 」( と い う 規 範 的 事 態 ) が ― 一 定 の 主 体 の 目 的 性 と は 独 立 の も のとして ― いわば客観的に考えられている。 29 する[自然的]特性の現前を認知することを通してそれに向かって努力しなければならな い 、と 我 々 は 考 え る で あ ろ う 。し か し 、認 識 論 的 方 向 は 、事 実 、 [ こ う 考 え る ]形 而 上 学 的 方向に従う必要をもたない。……チェスにおける情勢の弱さは、出来してくる特性である が、しかし玄人は、そういうかたちで情勢が弱いところの様々な点[駒Aがこうなってい る 、B は こ う な っ て い る 、… … ] ― こ れ が 、そ こ か ら 弱 さ が 出 来 す る 諸 特 性 で あ る ― を 見 つ け 出 す こ と に 向 か う 前 に 、 一 瞥 で 情 勢 の 弱 さ を 見 る こ と が で き る 。 (74) こ れ で 言 う な ら 、「 賢 慮 」 の 「 知 」 に お い て 、「 形 而 上 学 」 と し て 語 ら れ る 出 来 関 係 は ど の よ う な 位 置 を 占 め る の か 。我 々 の 例 で 言 う な ら 、 「 こ の 踏 み 台 は 高 い が 、そ れ は あ ま り 重 要 で ない」と「一瞥で」規範的に認識されるとして、そのことにおいて、その状況の自然的特性 と し て 存 在 す る「 こ の 踏 み 台 は x cm で あ る 」 「この棚は可動式である」 ( 等 々 )と い う こ と は 、 どのような位置を占めるのか。 「 認 識 」は こ れ と は ま た 別 で あ る と 処 理 し て し ま う の で な け れ ば、この問いは十分に意味をもつはずである。一つの、しかしおそらくもっとも自然な考察 方向は、暗黙のうちには自然的特性が知られており ― そしてそれは、いわば事後的には意 識化されうるのだとしても ― 、 意識のレヴェルではあかたもそれがないかのように規範的 特性が「一瞥で」認識される、とでもするものであろう。すなわち「暗黙知」論である。し かし、そう簡単に言い切ることもできない。筆者は、稿は改めるが引き続いて、この「暗黙 知 」を 巡 る 諸 議 論 を 検 討 し た い と 思 う 。 「 個 別 主 義 」に つ い て も 、そ れ を 介 し て 初 め て 適 切 に 批判できると考えている。 引用・参考文献 Dancy,J., Moral Reasons ,Blackwell,1993. Dancy,J., Ethics Without Principles ,Clarendon Pr.,2004. Ross,W.D., The Right and the Good ,ed.by P.Stratton-Lake,Clarendon Pr.,2002. Ross,W.D., Foundations of Ethics ,Clarendon Pr.,1939. 安 彦 一 恵 、「「 倫 理 性 」 の 二 つ の か た ち ( 二 ) ― 二 重 結 果 説 を め ぐ る 「 道 徳 神 学 」 的 諸 議 論 の メ タ 倫 理 学 的 考 察 ― 」『 Dialogica』 no.9,2006. 『 現 代 倫 理 学 事 典 』 弘 文 堂 ,2006. 30