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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ

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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
1.グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
1.1 行政に頼らない「むら」おこし(鹿児島県鹿屋市)
(1)地域活動の財源は住民が稼ぐ
鹿児島県の大隅半島の中部、鹿屋市串良町の柳谷(やなぎたに)地区。地元では鹿児島弁で
「やねだん」と呼ぶ。2006年(平成18年)1月に鹿屋市とその周辺3町が合併し、新・鹿屋市にな
った。市の中心部から車で20分ほどにある「やねだん」は、約130戸、300人が住み、高齢者比率
が約33%と今や全国のどこにでもあるような過疎化・高齢化の進んだ集落で、これといった特産品、
名所もないところである。しかし、この集落の住民たちの活動は、「行政に頼らない『むら』おこし」と
して全国的にも注目され、最近では海外からも視察者が訪れ、年間の視察者は2,000人を超え
るという。
「やねだん」の活動がここまで注目されるのは、端的に言うと、集落の住民が一体となって様々な
活動により自主財源を確保しながら、行政に頼らず独自の福祉活動や青少年育成に取り組み、
子どもからお年寄りまで地域で生き生きと元気に暮らしているからである。
住民が協力し合ってカライモを生産、それを原料に焼酎製造。環境対策として畜産農家に消臭
効果があるという「土着菌」を製造販売。手打ちそばの食堂を経営・・・。これらはすべて自治会の
活動で、その売上総額が何と600万円/年、利益は150万円/年を超える。しかも2年前には全
世帯(122世帯)に1万円をボーナス支給したというのだから驚く。住民は何も1万円が欲しくてイモ
を植えているのではない。自分たちの地域の課題は自分たちで解決する、そのためには自分たち
が汗をかくという意識を持っているからだ。自治本来の姿かもしれないが他に例をあまり見ない。住
民意識のレベルがそこまで高いのは一体なぜなのか。
(2)地域への愛情、情熱を持ったリーダーの存在
「やねだん」の取組は、豊重哲郎氏という地域への深い愛情、地域づくりの理念と情熱、そして
人を惹きつける魅力をもったリーダーを抜きに語ることはできない。数々の活動は、10年ほど前に
柳谷自治公民館長に就任した豊重氏の、経験に裏付けされたアイディアと強力なリーダーシップ
によるものだからだ。
豊重氏は、地元の商業高校を卒業後、東京に出て銀行に勤務したが、その後「やねだん」にU
ターン。うなぎの養殖事業や食堂などを順調に経営していた。転機が訪れたのは1996年(平成8
年)。これまでは65歳前後の人が輪番制(1年任
期)で務めてきた自治公民館長であったが、総
会の選出選挙の時に55歳の豊重氏に大多数の
票が投じられた。高齢化が進み集落の将来に不
安を感じ始めた「やねだん」住民の切実な思いか
らだった。高齢の先輩からの「哲ちゃん、10年早
いけどこの集落を託すよ!」というかけ声と住民
からの一斉のエールと拍手、館長就任の挨拶を
柳谷自治公民館
する豊重氏に手を合わせて涙ながらに聞き入る
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
おばあさんの姿に、心が震え身体にやる気のエネルギーがみなぎったという。豊重氏はこれを機に
繁盛していた食堂を閉店、「やねだん」の地域づくりに専念したというのだから、その決意のほどが
うかがえる。小さな集落に活力を呼び起こすには
「金」ではなく「人」、「人を動かす」には「感動」、補
助金で行政に頼り切るだけでは集落の力を削ぐだ
けで集落も人も育たない、という強い信念で豊重氏
のむらおこし始まった。
(3)感動が人を動かす
まず、集落が元気になるために手がけたのは、
住民みんなの気持ちをまとめること。そのために行
豊重さんご夫妻(手打ちそば屋の前で)
ったのが、住民参加の手作りの活動拠点「わくわく
運動遊園」の建設である。町有地20アールを借り、木材の切り出しから造成、休憩所や遊具など
の建築まで建築資材と労力はすべて住民の手出し。住民がそれぞれ大工や建設作業の経験を
活かしての共同作業で、自ら率先しての作業はもちろん、住民みんなが汗を流している姿を見たら、
普段表に出てこないお年寄りまでもが現場に足を運んでくれ、差し入れしたりしてくれる。自分も地
域に頼りにされている、自分も地域に貢献しているという気持ちがやりがいになる。完成したときの
感動につながる。各戸から1円たりとも負担金を集めず、汗の結晶で完成させた感動を共有し、住
民の団結力の大きさに手ごたえを感じたという。豊重氏の感動づくりはまだ続く。
1997年(平成9年)には、県外に出て行った子どもから集落にいる親たちへのメッセージを書い
てもらい、各戸につながっている有線放送施設を
活用して、父の日、母の日、敬老の日に放送。地
元の高校生に代読してもらった。当事者の親だけ
ではなく住民みんながメッセージに感動。住民の一
体感を一層高めるとともに、子どもには親への感謝
の気持ちを育むことにもつながったという。
次に取り組んだのは農業を通じた青少年教育。
高校生に教育のためだから農作業をしろと命じても、
ただやらされているだけで何の効果もない。そこで
わくわく運動遊園全景
収益金でプロ野球観戦をすることを目標に掲げて
カライモ生産を開始。共同作業や収穫の喜びなど高校生が学んだことも大きいが、その姿を見て
いた大人たちへの影響も大きかった。高校生がやったのだから大人も動かざるを得ない。その後
は集落活動の財源確保という目標を掲げて大人も参加するようになり、現在は、毎年100人を超
える住民が共同で植え付け、収穫を行うまでになった。
(4)地域ぐるみの教育・福祉・環境対策
それからは、住民の一体感と収益金をもとに、様々なアイディアで地域活動を積極的に進めて
いく。地域ぐるみの教育活動として親子ハイキングや通学時の子どもへの声かけ運動、自治公民
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
館での「寺子屋教育」を始めたほか、一人暮らしの高齢者のために緊急警報装置を各戸に設置し、
住民による安全パトロール隊を結成するなど、住民の手による独自の教育・福祉事業を展開。さら
に、住民を悩ます畜産農家の臭い対策に取り組み、うなぎの養殖事業の経験をもとに消臭効果が
あるという「土着菌」を製造。また集落から出る生ごみを集め「土着菌」と混ぜて処理し、畑の肥料と
する「循環型農業」を展開。「土着菌」増殖センターもつくった。そのすべてが住民の共同作業であ
る。さらに、生産するイモの付加価値化を考えて焼酎の製造を画策。県内の焼酎製造会社を奔走
し、「土着菌」で育てたイモを原料とする焼酎「やねだん」の商品化に成功。視察者の増加に合わ
せて手打ちそば食堂を開業と、次から次へと湧き起こるアイディアを事業化して、その収益を子ど
もたちの教育や地域の福祉事業など、さらに地域課題の解決のための財源とする。ボーナス1万
円はその収益の一部で、住民みんなのこれまでの活動に対する感謝の意を込めて支給されたも
のである。
(5)地域の理想の姿
住民みんなが名前を知り、声をかけあい、子どもが元気に笑顔であいさつし、お年寄りが大切に
され、生き生きと暮らす地域。こうした「やねだん」の姿は、「この地域に住んでみたい」という魅力に
つながり、今年は住宅が3棟建ち12人が入居、昨年から16人も集落人口が増えた。
豊重氏によれば、「福祉も教育も地域づくりも、いずれは自分に返ってくる問題。活動を通して
そこにみんなが気づいた。だからみんなが自分のできる範囲で取り組むようになった。少しずつ自
分たちの身の回りの問題を自分たちで解決していく。すると、暮らしがよくなる。利益も生まれ、感
動を生み、次の活動へとつながる。」という。今後の活動の目標としては、若い農業者とこの地域従
来の農業とをマッチングさせたアグリビジネスの展開、未来への展望を自ら示せる後継者を育成す
ること。それが自分の最大の夢であり責任でもあるという。豊重氏が目標としている将来の「やねだ
ん」の姿が地域の理想の姿なのかもしれない。
(6)まとめとして
持続可能で活力ある地域社会をつくるためには、まず住民が主体的に地域課題の解決に向け
て取り組もうとする意識が重要であり、行政だけではなく、住民や地縁組織など多様な主体による
連携した取組が求められる。ただし、それは口で言うほど簡単なことではない。
「やねだん」の「行政に頼らないむらおこし」が成功しているのは、豊重氏のような確かな理念と
強力なリーダーシップを持ったリーダーの存在が大きいことは言うまでもないが、多くの地域住民
が主体的な参加意識をもって取り組んでいることが見逃せない。豊重氏によると、住民が主体的に
参加するためには、「感動や喜びを分かちあうこと、そして対価がきちんとあること」が必要であると
のことだったが、それに加えて、「行政に頼らない」という一貫したリーダーの姿勢が、「住民の主体
的参加意識」を引き出させたのではないだろうか。また、民間の経営感覚を持ったリーダーの経験
に裏付けられたアイディアを事業化、自主財源を確保することで、地域住民が様々な地域課題と
向き合い、知恵を出し合いながら課題解決に向けて共同して取り組むことが可能となったのだと思
う。地域が元気になると周囲からの注目が集まる、それを利用して新しい事業を展開し、人も集ま
ってくる。「やねだん」の取組は“地域再生のモデル”として今後も注目され続けることと思う。
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1.2 若者たちにUIターンを決意させた地域の魅力(宮崎県高千穂町)
(1)神々が息づくまち高千穂町
宮崎県の最北部、熊本県・大分県との県境に位置する、人口約1万5,000人の神話と伝統文
化のまち、高千穂町。天岩戸開きや天孫降臨などの神話、伝統文化の夜神楽、高千穂神社や天
岩戸神社の例祭などが有名である。特に秋の収穫が終わった11月から翌年2月にかけて行われ
る夜神楽シーズンは町外からの見物客で賑わうなど、年間の観光客が100万人を超える(しかし、
夜神楽の時期以外は日帰り客が多い)。山間部に広がる高千穂の風景は、田畑や人家が自然と
溶け合い日本の山村の原風景を思い起こさせる。町の基幹産業は農業。稲作をベースとして、き
ゅうりやトマトなどの高冷地野菜、花き栽培、肉用牛やブロイラーを中心とした畜産、茶・葉たばこ
などを組み合わせた複合経営が主体である。なかでも「高千穂牛」は今年度開催された「第9回全
国和牛能力共進会(和牛オリンピック)」7部門で首席を取るなど、肉牛ブランドとして高い評価を
得ている。また、森林が町内面積の83%を占め、スギやヒノキなどの適伐期を迎えた人工林が豊
富に存在する。
しかし、近年は農林業の低迷等により、若年層を中心とした人口流出、過疎化が進んでおり、一
次産業従事者や経営耕地面積は年々減少、高齢者比率は30%を超える。
(2)高千穂にUIターンした若者たち
そんな高千穂の町に、都会で生活していた地元出身者を中心に20∼30代前半の若者たちが
UIターンし、新しい仕事づくりに取り組んでいるという。彼らから直接話しを聴き、UIターンを決意
させたものは何なのか、その背景には何があるのかを探るため現地調査を行った。
①工藤鉄平氏の活動
3年前にUターン。高千穂にそれほど思い
入れがあった訳ではないが、ワーキングホリデ
ーでオーストラリアで1年間生活したことが転
機だった。東京での生活がおもしろいと感じな
くなり、お金がそれほどなくても田舎で楽しく生
活できるのではないかと思うようになったという。
都会の子どもだけでなく高千穂でもこの恵まれ
た自然の中で遊ぶ子どもたちがいなくなってし
まっている。都会の子も高千穂の子も体験が
足りないことに危機感を覚え、子どもたちと一
高千穂町役場で意見交換
緒に学びながら、それが仕事になればいいのではないかと思い、町の先輩たちと一緒にNPO法
人天岩戸自然学校を設立した。以来、「田んぼの一年間体験活動『米っ子クラブ』」や「夏休み子
ども山越えキャンプ」、「登山・沢登教室」などを企画、実施している。しかし、これらの活動だけで
は食べていけないのが実情で、隣町のNPO法人五ヶ瀬自然学校(カヌーなどのアウトドア体験)
のスタッフとしても働いている。今後は修学旅行生の積極的受入れや他のUターン仲間らと「食
育」などの取組も手がけていきたいと考えている。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
②児嶋尚憲氏の活動
Uターンしたのは、2005年(平成17年)の台風14号による被害(鉄橋が流されるなど町内は甚
大な被害を受け、復旧費用が莫大であることからその後高千穂鉄道は廃止となった。)がきっかけ
ではあるが、単純に高千穂が好きだからという理由である。
デザイン関係の専門学校を出て、グラフィックデザイナーとして働いていたが、町外で暮らして
みると次第にその気持ちが強くなり、仕事で独立するのであれば地元高千穂でという考え方にな
ったという。戻ってくるなら単なるデザイン事務所ではなく、まちづくりに関わりたいとの希望で、観
光協会と役場が計画していたフリーペーパー「ファイブ」の編集に参画。高千穂で頑張っている若
者にスポットを当て、その活動を町の人に発信することで町民のまちづくり意識の高まりにつながる
ことを期待している。
③飯干記章氏の活動
北海道も含めていろいろな地域で勤務してきたが、やはり台風14号がきっかけでUターン。実
家は農家。高千穂に戻ってきて感じたのが、農業、商業、観光業の繋がりが弱いことだった。その
ためにどうしてもやりたかったのが、「朝市」。農家、商工業者、飲食店に声をかけて開催。生産者
と消費者の結びつきを強め、異業種間の連携による地域の活性化につながることを期待した。ま
た、まちづくりNPO法人 spirit 高千穂を設立。今後はイベントだけでなく、地元農産物などを使っ
た商品開発にも取り組みたいと考えている。
(3)行政の支援と若者たちの考え
高千穂町では、若者のUIターンに対して特別な支援制度があったわけではない。彼らはUIタ
ーン後のそれぞれの活動を通じて知り合い、ともにまちづくり活動に携わるようになり、若者同士の
ネットワークを築いている。また、町でも、彼らが取り組もうとしているまちづくり活動に対して支援を
行っており(上限を30万円とする助成金、補助率2/3)、協働によるまちづくりを推進するという制
度の趣旨から、役場の同世代の担当者(工藤久生氏、奥田弘哉氏)も活動に対して企画段階から
参画。企画への助言や庁内関係部との調整などの協力を行っている。
彼らは、高千穂の魅力は、四季がはっきりしていて、川で泳げる、魚釣りができるなど自然が豊
かであることで、若者も自分の居場所があれば戻ってくるのではないかと言う。ただ、ふるさとに戻
ってくるためにはやはり働く場が必要で、Uターン者が起業するための支援を充実させるなど行政
は若手育成に力を入れるべきだと考えている。また、自らの体験をとおして、地域にとけ込む難しさ
も説明してくれた。「朝市」のイベントでは、イベントを契機として農家と飲食店とで直接取引が行わ
れるなどの効果が表れる一方で、町内の既存組織(JAや商工会など)の活動との調整が困難であ
ることや既存組織の青年部がすべて先輩でやりづらいこともあるようだ。
また、彼らは、現在、高千穂では、年3∼4名の新規就農者がいることを例に取り、高千穂にお
いて、農業は生業とはなり得ないが、農業もたいへんなことばかりではなく、どうやったら農業が「楽
しく」やれるか考えるべきとも言う。
今後の展望としては、NPO法人天岩戸自然学校が中心になって開発した「高千穂の“こびる”」
を活用する取組として、平成19年度食育モデル民間団体実践活動事業として採択された「伝統
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
食(こびる∼農家が昔食べていたおやつ∼)に根ざした地場産ファストフードの開発プロジェクト」
を若者の感覚で捉え直し、地域の特産品開発と結んだ食の地元学を高千穂から発信するなど、
高校生向けの農業体験や高千穂での食品加工の推進を図る予定である。
そのアイディアの一部として、すべて高千穂産の食材を使ったホットドッグを作って販売したり、
愛媛県で実践されている自然農法を体験させたり、登下校路に実のなる木を植樹して通学時間
のかかる子ども達のおやつにするなど、若者ならではのユニークな構想を熱く語ってくれた。
(4)まとめとして
長時間にわたって彼らから話を聴くことができたが、最後の一言が印象的だ。「自分たちの取組
は始まったばかり。本当の先進事例として必ず成功させるので、そのときの姿をまた見に来てほし
い」。動機はさまざまであるが、ふるさとに戻ってきた若者たち。彼らはモノやお金などの経済価値
よりも、地域の持つ豊かさ(その地域ならではの自然、仲間、ゆとり、自身の趣味趣向など)に価値
基準を置いたライフスタイルを選択した。
彼らは高千穂のどこに魅力を感じるのか。それはそのような価値基準を持つ若者たちを受け入
れることができる地域のあり様ではなかったかと思う。例えば、それは少年期の親や知人などとの
関係の深さだったり、地域の人々の寛容さや温かみだったり、地域の人々の愛郷心や地域の自然、
文化の保全・継承など、それらがすべて「地域の魅力」だったのではないか。
地域においては、UIターンした若者たちの思いを形に変えるための仕組みづくり(若者同士の
ネットワークへの支援、地域内の組織との調整、行政の関わりなど)が必要であり、また長期的な視
点に立って、住民にとっても地域を離れた人にとっても「魅力」ある地域づくりを進めることもまた必
要である。
1.3 水俣市から始まった「地元学」の考え方と実践(熊本県水俣市)
(1)「水俣の悲劇」を繰り返さないための具体的な行動
水俣市は熊本県の最南端に位置する人口約2万8,000人の市である。西は不知火海に面し
て天草諸島を望み、三方は山々に囲まれ、海の幸や山の幸に恵まれた緑多い地域であるが、世
間では未だ「水俣病」の負のイメージの方が強いのではないだろうか。
1908年(明治41年)、日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場が開設されて以来、水俣
市は同社の企業城下町として発展したが、同社の流すメチル水銀を含んだ廃液は水俣病の原因
となり町を変貌させた。1956年(昭和31年)5月1日が水俣病の公式発見の日とされている。
水俣市沿海は、もともと豊富な漁業資源に恵まれていたが、水俣病発覚後は禁漁となり、漁業
は壊滅。農業も風評被害にあって大打撃を受けた。また、水俣病への偏見から水俣の人々は結
婚や就職など様々な場面で差別を受け、苦しい時を過ごした。
水俣病の発表から30年以上経過した1990年(平成2年)、水俣市と熊本県は水俣振興推進室
を設置し、水俣病問題の解決と水俣再生にようやく正面から取り組み始め、1999年(平成11年)
2月には、ISO14001(環境マネジメントシステム)の認証を取得。また、水俣病の原因企業であっ
たチッソ株式会社も同年7月に同認証を取得した。こうした取組により、環境の改善が図られるな
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か、1997年(平成9年)には安全が確認され、汚染魚介類の流出を防ぐため水俣湾内に設置され
ていた仕切り網が全面撤去されている。
環境の改善が図られる一方で、水俣にはもう一つの大きな課題があった。水俣病被害訴訟や
偏見・差別などに起因する地域の人々の対立、反目と混乱である。「水俣の悲劇」というべき地域
社会の分裂と対立をどうするか。この対立のエネルギーを逆に何かを生み出すエネルギーに換え、
お互いの違いを認め合い、水俣病の犠牲を無駄にしない、これまでにない町をつくっていくために、
「地元学」を提唱したのが当時水俣市の農林水産課長であった吉本哲郎氏である。
(2)「地元学」とは何か
吉本氏は、「水俣への偏見は無くならない、行政が何もやってくれないことを嘆くだけでは何も
進まない。周りが変わらないのなら、まず自分たちが変わらなければ駄目だ。」そう考えたことが、ま
ず自分たちの足下から見直すという「地元学」提唱のきっかけになったという。
「地元学」は「ないものねだり」ではなく、地域にあるもの、地域の生活・生産文化を発見すること
に重きを置き、「あるもの探し」への発想の転換から始まる。地域に「あるもの」は、長い歴史と共に
そこに「あるもの」である。「当たり前」に存在するものに対しては、そこに暮らす者は「何もない」と思
いがちだが、当たり前が当たり前でない「外の目」を借りて見ると、「当たり前」が実はすごく豊かなこ
となのだと気づくのである。「地元学」は、地元の人が主体になり、よその人の視点や助言を得なが
ら、足下を一緒に調べ考える。ものや地域、日々の生活文化を創り上げる連続行為なのである。
「地元学」の目的は、①良い地域の条件を探ること、②地域の風土と暮らしの文脈を探ること、③
変化を適正に受け止めなじませること、④環境再生のポイントを探ることだという。地元のことを地
元に住む者がよく知らないのに、良い地域をつくることはできない。地元に学び、足下にあるものを
探して、磨く。ないものねだりではなく、あるもの探し。あるものを新しく組み合わせ、マチや村の元
気をつくる。それが「地元学」である。
(3)当たり前が実は豊かなこと∼水俣市の取組
水俣市では、「地元学」の事始めとして、地元の人たちが自分たちの地元を知るための「地域資
源マップづくり」、「水のゆくえ調査」活動などを積み重ね、まずは自分たちの足下を見つめ直す作
業を繰り返してきた。そして、農山漁村という地域の持つ力、人の持つ力を引き出し、さらにステッ
プアップしながら、住む人々と地域を元気にするため、2001年(平成13年)に「水俣市元気村づく
り条例」を制定した。条例では、次の三つの柱が掲げられている。
たたず
1 風格ある村の 佇 まいづくり
生きるための畑や田んぼなど生産活動が織り成す、住む人々が自信と誇りを持つ生存風景
づくり
2 まちと村との交流の促進
異なる生活文化を持つ都市と農山漁村地域が交流することで、人と地域の持つ力を再発見
し自覚する
3 豊かな村づくり
3つの経済《貨幣経済、共同する経済、自給自足経済》の調和を図る
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
また、この条例の肝が「村丸ごと生活博物館」制度である。博物館といってもいわゆるハコモノを
作るわけではない。地域の自然・産業・生活文化を守り育てる地区全体を市が「生活博物館」とし
て指定する。そこには、地区の人々の普段の暮らしがある。それは地域固有の風土や歴史、自然
とともにある貴重な生活文化や生業なのである。指定の条件は、「自分たちの住んでいる地域の自
然や生活環境を自分たちで守るために、環境に関するルールを地区に住んでいる人たちが約束
しあう」という地区環境協定を締結していること、地区の生活環境等の方針(集落景観保全など)を
定めることである。現在、市内で4地区が指定を受けており、各地区には市が認定した「生活学芸
員」と「生活職人」がいる。生活学芸員は、地区の自然や生活文化、産業などを調査、研究し、訪
れた人たちの案内・説明役をつとめる。地区の「あるもの探し」の実践者でもある。生活職人は、生
活の中で生かされる生活技術を持っている熟練者である。漬物・団子・野菜づくり、木工、石工な
ど様々な職人がいる。みんなが地区に暮らす人たちである。
村まるごと博物館では、村の普段の暮らしを楽しむ「生活の旅」を提供。地区を訪れる都市の人
たちから対価をとって、生活学芸員や生活職人たちが村めぐりの案内や家庭料理のもてなし、もの
づくりの体験指導を行っている。
(4)「村丸ごと博物館」久木野地区を訪ねて
今回のフィールドワークでは、2005年(平成17年)に「村丸ごと生活博物館」の指定を受けた久
木野地区を水俣市役所の富吉氏の案内で訪れた。久木野地区は、水俣川支流久木野川の源流
域に位置する山間地域にある。97%が森に覆われ、農林水産省の日本の棚田百選に選ばれた
寒川地区の棚田が美しい。かつては林業が盛んだったが、今は約160世帯、400人が暮らし、高
齢化率も40%を超える地区である。人々は
マチに勤めに行く傍ら、家族が食べる米の
他、多種類の畑作物、さらには柿や梅など
の果樹栽培も行い、自給的な暮らしをして
いる。
生活職人である小島トシエさんの自宅で
昼食を頂きながら話を聴いた。魚以外はす
べて自家の食材を用いて、手作りの郷土料
理を提供している。その謝礼として、一人1,
500円を頂いているとのこと。この日のメニュ
ーは地鶏の混ぜご飯や手作り豆腐の和え
水俣市久木野地区
物、梅漬け、小麦粉団子の野菜汁、ゴーヤ
やしょうがなど4種類の漬け物、天ぷら、干し柿等々、食べきれないほどの料理でもてなしてくれた。
東京の一つ星のイタリアレストランシェフが訪れ、素材の使い方や味を絶賛したことやスローフード
の島村菜津 1氏も訪れたこと、料理王国などの専門誌の取材も受け掲載されたことなど嬉しそうに
1
1963年、福岡県生まれ。東京芸術大学芸術学科を卒業。毎年数ヶ月をイタリア各地で過ごし、紀行・美術・映画な
どの記事を各誌に寄稿。著書に、イタリアの食の思想を4年間にわたり取材した『スローフードな人生!…イタリアの食
卓から始まる』(新潮社)がある。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
話してくれた。小島さんは、「食の名人」として、料理づくりの研究、料理講習会の講師を行い、地
元の食の普及のリーダーとして活躍しながら、久木野地区を訪れる人々の案内役として、一見視
察する対象がないように思われる集落を興味深く導いている。また、「村丸ごと生活博物館」の指
定により、訪問者が多くなったことで、地区住民の意識も変わり、意識的に清掃をするなど集落を
きれいにするようになったという。
なお、今回、同行していた市役所の富吉氏も、小島さんから料理の食材や作り方などを熱心に
聴き取っていた。後日、整理した上で「村丸ごと生活博物館」の4地区に配信し、地区のレベルア
ップを図るという。
(5)まとめとして
水俣の「村丸ごと生活博物館」には視察を含めて年間2,000人以上の人が訪れる。地区の人
は自分たちが当たり前と思っていたことが実は素晴らしいことだと分かり、地区の生活に誇りと自信
を持ち元気に暮らすことができるようになった。そして村も化粧をし始めた。草が刈り払われ、ごみ
が減り、花が植えられる。地区のみんなが風景に馴染むように自動販売機は四角竹で覆い、とい
もプラスチックから竹に変わったという。
水俣病によって崩壊寸前だった地域社会。吉本氏が言うように、そのような地域だからこそ逆に
何かを生み出すエネルギーに換えることによって生まれたともいえる「地元学」。しかし、水俣のよう
に深刻な問題ではないにしろ、高齢化や過疎化が進み、「ない」ことだけを嘆き停滞している地域
は少なくない。ないものねだりよりあるもの探し。地元に住む者が地元のことをよく知らないのに、良
い地域をつくることはできない。また、「地元学」は、地域の人々が当事者となる契機にもなり、さら
に地域の人々に自覚と元気を呼びおこす契機にもなる。「地元学」は自治育てでもあるともいう。そ
れぞれの地域には固有の自然、産業、歴史文化がある。地域にあるものを探し磨くことで地域に
新たな元気が生まれている。地域における将来ビジョンの策定や住民主体の地域づくりを進める
上で、水俣の取組は大いに参考になると思う。
1.4 北里柴三郎博士の理念を引き継いで(熊本県小国町)
(1)小国町のまちづくり
熊本県小国町は九州のほぼ中央、阿蘇山の裾野、熊本県の最北端に位置し、三方を大分県
久重の山々に囲まれた人口約9,000人のまち。総面積の78%は森林で、古くから地域特産の小
国杉の産地として栄えてきたが、近年は稲作・畜産・野菜の施設栽培に加えジャージー牛乳の産
地、そしてユニークなまちづくりを実践していることで知られている。
小国町では「伝統的な山村の発想の枠を超え、現代の知恵や感覚をプラスして新しいものを創
り出して未来に向かおう!」という『悠木の里づくり』が実践されている。
それを牽引してきたのが、1983年(昭和58年)から1995年(平成7年)までの24年間町長を務
めた宮崎暢俊氏(2003年観光カリスマ百選に選定)で、小国町のまちづくりは、氏の発案による小
国杉を使った木造建築を核とした「地域デザイン」から始まっている。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
宮崎氏が町長に就任した翌年、
国鉄宮原線が廃止され、その駅跡
地の再開発がまちづくりの大きな課
題となっていた。そこに交通センター
を建設する計画が持ち上がったこと
を契機に、氏は変化を好まない山村
の体質に風穴を空けようと、当時の
建築雑誌で知った葉祥栄氏にセン
ターの設計を直接依頼。それが、全
国でも初の試みとなった木造立体ト
ゆうステーション
ラス構法(小径木の杉の角材をポー
ルジョイントという鉄の継ぎ手で三角形に組み合わせた構法)による「ゆうステーション」の誕生であ
る(1987年)。現在は道の駅に指定され、1階では農産物や加工品など地域の特産品が販売され
るとともに、2階にはツーリズム協会の事務局が設置され、情報発信基地として町内外の交流の場
として機能している。この「ゆうステーション」を皮切りに、その翌年1988年(昭和63年)には、同じ
く葉氏の設計による日本最大級の木造建築と言われる「小国ドーム(町民体育館)」が完成、続い
て「木魂館(研修施設)」、「ぴらみっと(物産館)」、「西里小学校」などが次々と建設された。これら
の斬新なデザインによる木造建築物では、コンサートや講演会など多様なイベントが展開され、木
の文化と町の個性を発信する町内外との交流の場として活用されている。
小国ドームの内部
小国ドーム(戦後建てられた国内最大の木造建築物)
1986年(昭和61年)に始まった「悠木の里づくり」は、現在、第3次シナリオに基づいて進めら
れているが、まちづくりの基本的な考え方を小国ポリシーとして5項目にまとめている。
<小国ポリシー> 1 スモールイズビューティフルのまちづくり
2 個人を大切にする開かれた地域をめざす
3 広域化に備えて地域自治を強化する
4 交流ビジネスで豊かな小国をつくる
5 地域経営の要となる動的役場をめざす
- 49 -
第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
(2)「九州ツーリズム大学」の取組
小国町のまちづくりの取組の中で、もう一つ特徴的なのが「九州ツーリズム大学」。
これは、1986年(昭和61年)の冬に木魂館で開催された「九州ツーリズムシンポジウム(主催:
九州21世紀委員会・西日本新聞社)」をきっかけに誕生したものだった。
このシンポジウムのメインテーマは「農村と都市が対等に交流しながら、ライフスタイルの変更も
含む、新しい旅の文化をどう創造するか」というもので、小国町ではこのシンポジウムを契機にまち
づくりの一環としてツーリズムに着目したものの、当時では先駆的な取組であるが故に他の地域で
も取組事例がなく、ツーリズムを実践していく上で「人材育成や実践的ノウハウを学ぶ場がない」と
いう悩みがあった。そこで、ツーリズムを実践する担い手やリーダー、コーディネーターとなる人材
の育成及び各地で求められているツーリズム関連の情報発信基地をめざし、1997年(平成9年)
9月、財団法人「学びやの里」を事務
局に「九州ツーリズム大学」が開校され、
現在に至っている。
「九州ツーリズム大学」は、9月から3
月までの間、毎月1回2泊3日の日程
で開講されるが、講座は、環境教育の
専門家や国際的なツーリズム研究家、
農家民宿やレストラン実践者など多彩
な人たちを講師に、ツーリズム概論な
(財)学びやの里のある木魂館
どの基礎的な講義から、「炭焼き」、「そ
ば打ち」、阿蘇の「うさぎ追い」等といった各種体験講座やフィールドワークなど、カリキュラムそのも
のがツーリズム体験となっている。また、小国町内にとどまらず、半径約100kmまでキャンパスを広
げ、農産直売所の企画・運営の実習や湯布院でのもてなしや地場産品の料理実習など、実習内
容も豊富であり、受講生にとって魅力ある講義内容となっている。
(3)北里柴三郎博士の理念を引き継ぐ
こうしたユニークな活動を展開している「九州ツーリズム大学」。その背景には小国町固有の歴
史的経緯があった点は見逃せない。
木魂館のある小国町北里地区は、細菌学者で有名な北里柴三郎博士の生誕地であり、古くか
ら教育に力を入れてきた地区であった。1871年
(明治4年)には北里氏による私塾「北里育才舎」
が開設され、1879年(明治12年)には有志によ
り私立小国小学校が開校、1916年(大正5年)
には、北里氏が故郷の青少年育成のためにと私
財を投じた「北里文庫(図書館)」と「貴賓館(交
流館)」が寄贈された。
小国町には「人生は出会いである。地域の人
北里文庫
づくりには、学習と交流が大切」という北里博士
- 50 -
第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
の遺訓とも言える理念が、地域の風土として今も引き
継がれている。その理念を地域づくりに活かし、多く
の町民の浄財により1996年(平成8年)春、財団法人
「学びやの里」が設立され、翌1997年(平成9年)9月
に「九州ツーリズム大学」が開校されたのである。
(4)「九州ツーリズム大学」の広がり
「九州ツーリズム大学」で提供されるワークショップ
迎賓館
や農家などでの実習等の多様なプログラムの実践には、地域住民の協力が不可欠である。長年
にわたり住民を上げて地域づくりの活動を続けてきた土壌が、そのままツーリズム大学への理解と
活動支援につながっている。
開校から9年目の2006年(平成18年)、受講生は1,000名を超えた。県内だけでなく、九州各
地や関東から毎月通ってくる人もいる。こうした「九州ツーリズム大学」の取組は、従来の観光とは
違ったツーリズムというキーワードによるまちづくりを全国に広めるきっかけを作り、小国町イコール
「ツーリズムによる地域づくり」という新たな地域ブランドを創出し、九州における先進的な取組とし
て確たるステータスを築いている。
ツーリズムが、地域資源を見つめ直す地域振興方策の一つとして、全国的に着目されてきた中
で、小国町への視察者など交流人口が増加し、また、地元に商家民泊や農家レストランの開業を
はじめとするツーリズム関連のビジネスも生まれている。
また、「九州ツーリズム大学」の受講を通して、世代や地域、職業も越えた参加者同士の出会い
とネットワークの絆が育まれ、卒業生や修了生が同窓会を作るなど独自の活動も始まり、受講をき
っかけに小国町へ移住する人や町でのイベントや体験プログラムに参加する小国ファン・応援団も
年々増え、移住者や基金事業に卒業生から寄付が寄せられるなど、確実に地域づくりの実践へと
結びついている。
さらに、2000年(平成12年)には、「九州ツーリズム大学」と同じく「学びやの里」に事務局を置く
「おぐに自然学校」が開校された。「おぐに自然学校」は、子どもたちの自然体験活動や環境学習、
食と農の体験・交流活動を通して、人と自然のつながりや自然と共生できる豊かな生き方を学ぶ場
であり、「九州ツーリズム大学」と同様、小国町の地域づくりの要として、小国町と都市部の子どもた
ちとの交流の機会を創出している。
(5)日本初の「会員制商家民泊」
九州ツーリズム大学の卒業生が始めたツーリズム関連のビジネスに、日本初の「会員制商家民
泊」がある。「ササク蔵ブ」と名付けられた、百年の蔵を改装した民宿である。小国町内には明治か
ら大正時代に建てられた蔵が250個ほどあり、置屋根という独特の形式により造られている。
その宿を切り盛りする北里香代さんは、九州ツーリズム大学の第2期生。十数年前から商工会
女性部などでまちづくりに関わりはじめ、ツーリズム大学で、小さな町にいながら国内一流の講師
陣による様々な講義を受けられることが楽しく、自分が将来民泊をやるとは考えてもいなかったとい
う。そんな香代さんが、農業を主体に形成されたツーリズムの概念に次第に違和感を覚えるように
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
なる。農村でともに生きているのは農家だけではない、商店を
営む人もいれば、職人もサラリーマンもいる、そして自ら見出
した答えが「もてなしのプロである商家が伝えたい」会員制商
家民泊であった。
ご主人の純二さんは、小国ツーリズム新聞というタウン誌の
編集・発行にも携わっており、町の様々な情報にも詳しい。
香代さんが作る地元野菜をふんだんに使った季節感あふれ
る手料理と純二さんの打つうどんに舌鼓を打ちながら、初対
面であっても会話に花が咲く。
お二人の温かい人柄に惹かれて、ツーリズム大学関係者
置屋根形式の百年の蔵
等のリピーターも多いと聞く。農業の枠にとどまらない小国町
独特のグリーンツーリズムの奥行きが感じられる。
(6)次代につなぐ町のエネルギー
小国町においても「九州ツーリズム大学」の効果が出始めるまでに5年ほどを要している。「学
び」と「交流」という人づくりを大切にした小国町のまちづくりの立役者の一人である「学びやの里」
の初代事務局長、江藤訓重氏(現在は福岡県星野村副村長)は、「九州ツーリズム大学」での取
組を振り返り「交流活動は地道に努力することが大切であり、従来のコミュニティにはなかった活動
で、多様な能力が求められる。そのことにより、従来の長老支配に変わる新しい地域リーダーが生
まれ、地域が変貌することに繋がる。」という。
また、家業の農林業に従事する傍ら、地域に学校を作りたいという夢を抱き続け、「九州ツーリズ
ム大学」の設立に関わった氏は、「九州ツーリズム大学」の今後について、「『九州ツーリズム大学』
を本当の大学にしたいと考えている。フランスにあるAFRAT 2のような専門学校、ほとんどの大学
が都市に存在するが、農山漁村を基盤とする大学も必要であり、都市の発展のための学校ではな
く、農山村の発展に寄与する学びの場の創設が今後の日本を考える上で求められる。これからは、
農山漁村に住む人々の再教育の場づくりが重要であり、大学の活動からは、実践者も多く生まれ、
次代の研究者も育ってきている。彼らを中心に恒常的な新たな学びの場の創設が可能ではない
かと思っている。」と語っている。
小国町のまちづくりは、小国杉による木造建築群というハード面と、ツーリズム大学に代表される
ソフト面、その両面からの取組を通して、小国町としての魅力を積み重ね、多くの町民が小さな町
であることに対する愛着と自信を深めたのが成功の大きな要因であり、そうした個々人の思いの蓄
積が、次の時代にも輝き続ける創造のエネルギー(底力)を生むのではないだろうか。
2
グリーンツーリズム人材養成専門学校
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
1.5 信頼が奏でる「むら」おこし(大分県日田市)
(1)大山町のまちづくり
福岡県と熊本県の県境にあたる大分県西部に位置する日田市大山町は、南北に10kmの木の
葉の形をした町で、中心には筑後川の上流、大山川が流れ、無数の渓流が土地を潤しているが、
NPC運動 3という先駆的な地域づくりに取り組んだ自治体としても有名であり、大分県が提唱した
一村一品運動のモデルとなった地域である。
大山町のまちづくりにおいては、大山町農業協同組合が大きな役割を担っている。
大山町農協では、1961年(昭和36年)、独自の農業改革運動(NPC運動)を掲げ、町と連携
しながら従来の生産性の低い耕種農業と畜産業を廃止し、面積あたりの収益や省力栽培等の点
から有利な果樹農業を導入して農家の所得増を図ってきた。その際のキャッチフレーズが「ウメ、く
り植えてハワイに行こう!」であり、全国で2番目(1956年)に設置された有線放送を活用し、農業
の構造改革に取り組んだのである。
当時の農業者の年収約20万円に対しハワイ旅行は約50万円。キャッチフレーズの「ウメ、くり植
えてハワイに行こう!」は、当時のコマーシャル「トリスを飲んでハワイに行こう!」をもじったもので、
町においても、当時から人づくりを重視し、ハワイ、中国、イスラエルにおける海外研修を実施する
など「所得ばかりでなく、心も豊かな人間をつくろう!」という運動に積極的に取組でおり、農協と行
政が一体となって展開されたのである。
「ウメ、くり植えてハワイに行こう!」をキャッチフレーズにした果樹農業への転換は、100ヘクタ
ールの梅の栽培に結びつき、大山町は九州一の梅産地となった。その後、昭和40年代後半∼5
0年代から、産品の付加価値を高めるために、ジャム、ゼリー、ドリンク類、漬け物など加工品に着
手してきている。現在は、栗はイノシシの増加で減ってきているが、梅については、梅干しを作って
5,000万円を売り上げている人も現れている。
また、現在では、天候に左右されず、安定した収入が確約される茸類への取組が盛んに行われ
ており、農産物販売ではエノキタケがトップで、投資のかかる菌床づくりは農協、手間のかかるキノ
コづくりは生産者と、農協が生産者と一体となって役割を分担し、通年出荷できる農作物と、年1
回収穫の農作物の2つを組み合わせるという工夫をしながら、さらなる収入の安定を図っている。
(2)大山流グリーンツーリズム
大山町には、大山町農協直営の農家料理のレストラン、地場農産物加工品の販売、野菜の直
売所等からなる「木の花ガルテン」がある。中でも人気なのが2001年(平成13年)春にオープンし
た「オーガニック農園」という地元農家の主婦が農家料理をバイキング方式で提供するレストランで
ある。地元の人たちが食べているものを出しているだけだというが、野菜を中心とした100種類を
超すメニューストックは圧巻で、この中から、毎日70種類もの料理が並び、訪れる人を楽しませて
いる。
3
1961年、当時農業組合長であった矢幡治美氏が提唱した村おこし運動。梅と栗を基幹作物に農業所得の向上を
目標にした第1次NPC運動(New Plum and Chestnuts)、豊かな心と、知識・教養を持った人づくりを目指した第2次NP
C運動(Neo Personality Combination)、住みよい環境づくり、第3次NPC運動(New Paradise Community)と展開してい
る。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
「オーガニック農園」のバイキング
「木の花ガルテン」大きな看板が迎えてくれる
一次・二次産業を活かした「農産品バザール館」と「梅蔵物産館」、軽食喫茶「咲耶木花館」と
「オーガニック農園」を設置した「木の花ガルテン」は、大山でいつでも人の集うことのできる都市と
農村を結ぶ交流の場である。
交流をとおして、生産者は経済力を身につけ、また、商品を欠品させないなど消費者ニーズを
重視した考え方を習得した。
大山町農協が、農家とともに一次産品産業の収入の安定と二次産業の育成を図り、外商部を
設けて営業に力を入れながら、互いに信頼し合える関係を築き上げて、村おこし運動であるNPC
運動に取り組み続けたことが「木の花ガルテン」という大山流グリーンツーリズムを形づくり、多くの
人から支持を得ているのである。
1.6 ここでしかできないことに目を向けて(大分県竹田市)
(1)日本一の炭酸泉
「長湯温泉の炭酸ガス濃度は、温度が40度を超えるものとしては極めて高く、他に類を見ない
貴重な温泉であることがわかりました」。1987年(昭和62年)12月、旧直入町(現・竹田市直入
町)の長湯温泉に届いた一通の手紙が、人口3,000余りの山あいの町を突き動かした。手紙を送
ったのは、製品開発の参考にしようと全国の炭酸泉を回り、成分分析を繰り返していた入浴剤「バ
ブ」で知られる花王(東京)の浴剤事業部長。大手メーカーのお墨付きを得て、町は2年後の198
9年(平成元年)11月に「全国炭酸泉シンポジウム」を企画。このシンポジウムがきっかけとなり、温
泉療養の先進地ドイツとの交流が本格化し
た。
長湯温泉の特徴は、熱海や別府に代表
されるスケールの大きな温泉地とは一線を
画し、独特の泉質と千有余年ともいわれる
歴史にこだわりながらドイツ流の温泉保養
地をめざしている点にある。
町は、ドイツ国旗にちなんで町内の看板
を赤、黄、黒の 3 色で統一し、温泉をテーマ
長湯温泉
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
に国際フォーラムを開くなどユニークな取組の結果、1989年(平成元年)度に約7万6,000人だ
った交流人口(観光などで一時的に町を訪れた人の数)は2006年(平成18年)度、11倍の約83
万3,000人へと驚異的な伸びを示している。
「日本一の炭酸泉」を謳い全国から注目を集めていた中、2007年(平成19年)12月7日、長湯
温泉協会は、改めて県庁内記者クラブにおいて、「日本一の炭酸泉」宣言をした。
これは、2007年(平成19年)4月、公正取引委員会から県を通じて、「日本一の炭酸泉」と謳っ
ていることに対し、「根拠が不明確である」として、景品表示法に抵触するおそれがあるとの指摘を
受けたことに端を発している。長湯温泉協会では、県の指摘を受け、専門家に成分分析を依頼し、
「日本一の炭酸泉」であることを確認し再宣言に至った訳であるが、一連の騒動を振り返り、温泉
協会会長であり、国土交通省が選定する観光カリスマでもある県議会議員首藤勝次氏は、まちづ
くりを進める上での地域と行政の関わり方について、「最近、都道府県と市町村の距離が遠くなり、
接点がなくなっている。行政改革、コスト削減などと言いながら、互いに接することが少なくなり、IT
化によりお互いの顔が見えなくなっている。心の通わない、気持ちが通じ合わない関係はだめ
だ。」と言う。
(2)首藤勝次氏のまちづくりに対する思いと極意
長湯温泉の大丸旅館代表取締社長であり、「ドイツ文化を取り入れた温泉再生カリスマ」
として国土交通省の観光カリスマに選定され、各地でまちづくりに関する講演を行ってい
る首藤勝次氏は、「まちづくりへの思いと極意」について以下のとおり語った。
地域再生をテーマに各地を調査することはすばらしいことである。ただ、根は深く、ノウハウも難
しい問題である。
一つは人材の育成。農村に住む価値観を見直す必要がある。明治維新は鹿児島から始まった
が、これは西郷隆盛がいたから。彼は、最初に事を動かすオーラを持った人間だっただろう。歴史
を動かし得た人物のひとりである。地域の再生は机上論ではなく、最初の一歩を踏み出す人材が
出て行かなければ動かない。
今、地方ではこれまで築いてきたものが切り崩されてしまっていて、国は日本全体をどう立て直
すか十分な議論が必要である。大分市内には40万の人が暮らしているが、30年くらい前に流行
った郊外の団地には子どもが帰って来ず過疎化し、市の中心部に移り住む人が多くなっている。
地域再生の成功の秘訣は、地域の特性に特化し、潜在能力を上げることであるが、そこに住む人
が自らの地域に愛着があるか否かである。
姉妹都市であるドイツの温泉療養地・バードクロチンゲンは人口1万2,000人ほどの町であるが、
住居は温泉館の周辺に集まり、市役所の職員も15人くらいしかいない。非常に快適な空間づくり
をしており、そこに居て気持ちが良い町である。なにごとも、ほどよい需要と供給のバランスを見出
していくことが重要である。何でも大量生産すれば良いわけではない。
長湯は、原点のままであるところが特徴であり、仕掛けはないけど暮らしがある。長湯の家庭に
内風呂はない。「誇り」と「憧れ」が環流するところに「賑わい」が起きる。地域の生き死にはそこにい
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
る人の生き様の違いであり、何を伝えるべきか、何を残すべきか、時代の見える人がコーディネート
するところは、間違いのない暮らせる土地をつくっている。
長湯のような温泉地であっても、観光地である以前に、生活地でなければならない。地域に授け
られた財産をいかに保存しながら、活用していくかである。文化や歴史に偉大なる価値がある。
現在、「林の中の小さな図書館」を建設中で、2008年(平成20年)4月20日にオープン予定で
ある。旅行作家である野口冬人 4氏が、所有する山岳図書2万冊を寄贈してくれて、シンボルマー
クは東大名誉教授の池内紀先生 5がデザインしている。
地域は経済だけではない。地域が人脈と知的財産を有することが大切である。そうすると、気持
ちの良い物を求める人が寄ってくる。限られた小さな物だけれども、世界に通用するものがある。
北海道には、その広さに幻覚症状を起こさないで欲しい。2008年(平成20年)2月に岩手県の平
泉に講演に行くことになっているが、ある人物が東北と九州を結びつけてくれていてありがたい。チ
ェコのマリエンバート 6という土地に、中世から続くコロナーデという飲泉所があるが、地元の人たち
は、「経済が破綻した東欧諸国の中で、みんな食べるパンの量を半分にして税金を納め、このコロ
ナーデを守ってきた。だから、今なお、こういう姿で世界に誇ることができる。日本は経済大国と言
われるけれども、誇るべきものを残したか。」と投げかけられたことがある。残すべき、伝えるべきは
何かをかつての日本人は知っていたはずである。今生きる自分だけではなく、未来を見据えること
が必要である。小泉内閣時代の文化庁長官であった河合隼雄 7氏は、「いい加減に足下を学べ。」
と言っている。残すべきは何か、伝えるべきは何か、それを考えれば、今やらなければならないこと
がしっかり見えるはずである。1998年(平成10年)に長湯温泉のシンボル施設として、温泉療養
文化館「御前湯」が誕生したが、この施設は、30∼50年後に最高の物になるよう設計されている
が設計事務所の理解と多大な支援により設計されている。そういった思想を伝えていかなければ
ならない。伝える作業の中でクリエイティブなことができる。今やれること、やるべきことは何なのか。
こういう考え方のできる人材を育てることがまちづくり戦略である。行政マンのやれることは大きい。
行動することがいかに大事か、やった人でなければわからないが、そのことを伝えていければそ
れで良い。小さな手法ではなく総合力を持った人間にそうした力が授けられたらさらに良い。
長湯の先人は、昭和の初期から海の向こうを見てきている。語り部が増えることによって歴史認
識も深まる。見ていても感じることができなければ意味がなく、自分の感性に共感する人たちをどう
育てていくか、感性は自分の中で育つもの、育てるものではない。また、その感性を理解するトップ
がいなければならない。だから政治や行政は重要である。
歴史と気候風土が大切であり、よそにはまねができない、この町でしかできないことに目を向け
ることが大事である。日本の中でもここにしかないものをうまく演出していくことが鍵である。
4
1933年生まれ東京都出身。旅行作家であり、温泉評論家でもある。全国の露天風呂を評価した、露天風呂番付の
作成者としても有名で、代表的な著書に「効能別 全国温泉めぐり」がある。
5
1940年生まれ兵庫県姫路市出身のドイツ文学者、エッセイスト。
6
チェコ共和国の首都プラハの西方約130km、カルロヴィ・ヴァリの南にある温泉療養地。
7
1928年∼2007年 日本の心理学者・心理療法家。元文化庁長官、京都大学名誉教授。専門は分析心理学、臨床
心理学。兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)出身。分析心理学(ユング心理学)を日本に紹介した学者として知られて
以来、日本におけるユング心理学の第一人者。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
【コラム】「知産知消」の願い
北海道では、「生産者」と「消費者」が、緊密な連携をとりながら、地域にある資源や人材
をできるだけ地域で消費・活用することにより、域内循環を高め、地域の産業・雇用おこしに
つなげていこうという「産消協働」道民運動に取り組んでいる。
「産消協働」は、食を中心とした「地産地消」の考え方を、製造業やサービス業などあらゆ
る産業に拡大し、そのプロセス(課程)を重視しているのが特徴である。
大分県長湯温泉において地域づくりを牽引する首藤勝次氏も、
「地産地消」を一歩進めた「知
産知消」を提唱している。
知っている人が作っているから安心であり、知っている人が食べてくれるから手を抜けな
い、そんな信頼関係による経済交流が、まさに「知産知消」の妙味であり、知った人に作って
もらって買おうという運動で地域間内だけでなく世界中に広がっていく事を願っている。
1.7 この土地で生きるために(大分県宇佐市安心院町)
(1)安心院町グリーンツーリズム研究会
大分県の北部に位置する中山間地域に“あんしんいん”と書いて“あじむ”とよぶ人口約8,000
人の町がある。(2005年(平成17年)宇佐市と合併し、現在は宇佐市安心院町)
西日本有数のブドウの産地で、「安心院ひのひかり」などのお米や肉用牛、イチゴ、花など農業
が大変盛んなこの町で、あるがままの農村の生活を楽しみ、休暇を過ごしてもらおうと、1996年
(平成8年)に農家や商工会、役場の職員や学校の先生、主婦や学生など町内外に住む人々が
集まり、安心院町グリーンツーリズム研究会(会長 宮田静一氏)を設立し、グリーンツーリズムを始
めた。
現在では、農村に滞在し自然や文化、食や人々の暮らしを体験する「農村民泊」や地域の稲作
文化を保存・継承する「全国藁こずみ大会」、無尽講を組んでの「欧州グリーンツーリズム研修旅
行」など様々な活動に取り組んでいる。
安心院町グリーンツーリズム研究会にとって、2000年(平成12年)に大分商業高校の学生320
名を受け入れたことが会のあり方の方向性を決める契機となった。現在は、常時受入可能な農家
が16戸。そのほか修学旅行を専門に受け入れる農家が約30戸あり、合計50戸あまりの農家が受
け入れを行っていて、グリーンツーリズムに取り組む農家は徐々に増えてきている。
修学旅行など学校関係の受け入れはリピーターが多く、大阪は中学校、関東は高校、北九州
は体験学習が多い。現在、2年後の予約まで入る盛況ぶりである。
宮田氏は、「グリーンツーリズムは産業として確立しなければ地域に根付かない。また、決して農
家にボランティアをさせないことが推進の鍵である。」という。修学旅行の受け入れには全て旅行会
社が仲介しており、農泊者や視察者からは体験料金を徴している。お金を取ることによって、教育
効果が高くなり、子供自身の意識も変わってくるようであるが、宮田氏は、「我々は、この土地で生
きるためにやっている。」と語る。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
(2)「農家民宿」ではなく「農村民泊」
安心院でグリーンツーリズムに取り組む農家は、ほとんど兼業農家である。常時受け入れ可能な
農家16戸においても、専業農家は2戸だけで、多くは稲作に加えてグリーンツーリズムに取り組ん
でいる。酪農家も1戸いる。現在、16戸のグリーンツーリズムによる平均収入は1月8万円∼30万
円。昨年の実績では年間で3,700人の受入れを行っており、延べ10,000泊以上で、全体の収
入は、7,000万円∼1億円になる。安心院町のグリーンツーリズムは、既に農家経営の手段となっ
ている。
安心院町のグリーンツーリズムは、ドイツのフォークトブルグ市における取組を参考にしたもので
ある。そこは、100%の農家がグリーンツーリズムを行っており、グリーンツーリズムなしでは農業が
成り立たたない地域である。グリーンツーリズムによる宿泊と農産物加工品などの直売で収入を得
ているのであるが、それらの相乗効果が売り上げを押し上げていた。
直売は、何よりも農家が自分で値段を付けられることが最大のメリットであるが、安心院町におい
ても、ブドウをジャム、ジュースに加工し、ワインも生産・販売しており、売れ行きは好調である。
現在、安心院グリーンツーリズム研究会では、会員の宿泊料金を4,000円、夕食1,500円、
朝食500円、そのほか体験料金を、宿泊した場合1,000円、日帰りの場合1,500円に設定し、
宿泊料等の収入から4%を徴収し、専業の事務職員を2名雇用しながら会の運営に当たっている。
安心院のグリーンツーリズムは、「農家民宿」ではなく、「農村民泊」となっているのである。
安心院町の直売場
(3)グリーンツーリズムの行き着く先
フランスでは、全農業者の4割が20代で、グリーンツーリズムの実践者である。安心院町は人口
8,000人、世帯数2,500戸のうち1,500戸が農家であるが、今後、取組を広げるにあたっては、
農家では朝食だけを提供し、夕食は地域の農家レストランを利用してもらうなど地域還元型のグリ
ーンツーリズムをめざしている。
宮田氏は、「安心院のグリーンツーリズムは、「食育」ではなく、小規模農家を守るという思想のあ
る「スローフード」の概念に近い。行政は、農家にはできないこと、そして農家に儲けさせることを考
えてほしい。」と言う。宮田氏は、これまでの取組を振り返り、「グリーンツーリズムには広報部が必
要である。また、人が資源であり、そこにいる人間がやる気になったら必ずできる。」と言う。
農村にとってグリーンツーリズムは単なる都市との交流の場ではなく、産業であり、行き着く先は
農業である。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
1.8 「天」の恵みを受けて大切に育てたもの(高知県高知市)
(1)埋もれた産品を市場に
地域ブランド構築を支援するため、各都道府県では、縦割り行政の弊害を考慮した組織横断的
な施策に取り組んでいる。しかしながら、地域全体をブランド化する取組は、長期的な、非常に多
くの活動や投資を要するものであり、また、地域全体のブランド構築は個々の地域資源のブランド
構築の上に成り立つもので、対象を絞った地域ブランドの構築への取組がうまく行われて、はじめ
て組織横断的な支援策が効果を発揮するものである。
(株) 高知県商品計画機構は、高知県の農産物など特産品の流通体制を確立するため、1993
年(平成5年)に、高知県、市町村、JA、金融機関、商工会議所等54の出資者によって設立され
た第3セクターである。設立当初の業績は振るわなかったものの、2001年度以降は単年度黒字を
計上し、業績は順調に推移している。
機構設立は、橋本大二郎・前高知県知事の就任時の公約に基づくもので、高知県の産業活性
化のため、県産品の中で埋もれているもの、マイナーなものを地域外の市場に流通させたいという
願いから計画されたものである。このような県産品を市場にのせて地域経済を活性化させたいとい
った動きは、岩手や宮崎、熊本にもあったもので、橋本前知事が熊本県知事時代の細川護煕氏と
親交があったことからアイディアを得て実行に移されたものと考えられている。
<㈱高知県商品計画機構の概要>
◆資 本 金
188,700,000 円
◆会社の目的
①高知県産品の販売、斡旋及び仲介に関する業務
②高知県産品の展示即売会等の企画、実施に関する業務
③販売促進のための流通ルートの開発に関する業務
④高知県産品の企画、開発に関する業務
⑤高知県産品の宣伝に関する業務
⑥服飾全般の販売、斡旋、企画に関する業務
⑦食品全般の販売、斡旋、企画に関する業務
⑧住宅関連資材の販売、斡旋、企画に関する業務
⑨調味料の製造、販売に関する業務 ほか
◆役
員
○取締役会長 高知県知事
○代表取締役 藤井
○取
締
寛(社長)
役 高知県商工労働部長、高知市商工観光部長、元高知県農業協同
組合中央会会長ほか
○監
査
役 高知県商工会連合会専務理事、高知県漁業協同組合連合会参事
◆主な販売商品
文旦、フルーツトマト、かつおたたき、うどんなど農水産品及び農水産加工品
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
機構の設立には、元大丸百貨店専務の
長澤昭氏が大きな役割を果たしている。長
澤氏は、機構が、自らが商品の開発を行い
ながら、営業を行う組織という位置づけにあ
ることから、流通の専門家として招聘された
ものであり、橋本前知事からは、「注文はつ
けないが損はしないでくれ」と難しい命題が
与えられての出発であった。
現在、長澤氏の後任には、機構の発足
長澤 昭 氏
時に長澤氏とともに大丸百貨店から招かれた藤井寛氏が就き、営業部長も同じく大丸百貨店から
招聘し、百貨店のノウハウを存分に取り入れて地域ブランド化に取り組んでいる。
(2)県産品販路拡大の課題
機構では、発足と同時に、地域内に止まる地域特産品を地域外に売り出すため、地元の生産
者と百貨店等のバイヤーとを繋ぐコーディネーターとして、バイヤーに対する地元産品のプレゼン
テーションを始めた。しかし、メジャーな県産品は既に販路を確保され、販路が確保されていない
山北のみかんや天然塩、四万十のうどんなどのマイナーな産品については、販売数量の確保が
難しく地域ブランドとして市場に送り出すことは困難であった。
また、もう一つ大きな課題として、長澤氏が県内を廻って痛感したのは、各事業者の生産力が
乏しく、生産拡大の意欲もないことであった。これまでの農産物を含めた県産品は、単に生産する
だけのもの、もしくは流通業者の満足を満たすだけのもので、最終の顧客(消費者)まで目を向けら
れていなかったのである。
ブランドとは、顧客に支持されて始めてサービスの優位性を発揮できるものであり、そのために
は、的確にターゲットを絞り込むことが必要である。長澤氏は、高知県の個性をどのようにアピール
していくかを検討し、それを実行することで高知県のブランドづくりをめざしたが、手間やコストがか
かりすぎ、5∼10%の収益率では採算が合わなかった。
機構は、資本金の1億9,000万円のうち高知県が1億円を出資する第3セクターであるが、株
式会社という商業法人であり、利益を追求しない公益法人とは異なり、県産品の販売により収益を
確保し、実績を通じて県民に還元する仕組みづくりをめざしたが、県民への公平なサービスの提
供と経済的な利益を追求することは、非常に困難なことであった。
(3)県と機構の役割
高知県庁商工労働部には、県産品のブランド化と販路拡大を担う県産品ブランド室が組織され
ている。このブランド室は県庁舎から離れ、機構と同じビルに同居しながら機構と二人三脚の取組
を行い、直接商売を行うのではなく、ブランドづくりの相談の一義的な窓口として機能するとともに、
機構と県庁内組織や関係団体等との調整窓口を担っている。
県は、機構に対して設立当初に1億円を出資したものの、その後は一切補填を行わず、機構の
意思決定の場への余計な関与を排除している。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
例えば、県内の JA や漁協、さらには県の農林水産部局や議会などからは、機構に対する諸々
のコメントや指摘はあるが、県は、機構が強い意志を持って取り組めるようサポートしている。
(4)「天」の恵みを受けて大切に育てたもの
現在、機構が販売する県産品のうち、販売高に占める割合が高いのは、サンゴの販売である。
もともと高知県は、サンゴの販売が盛んで、全国シェアの過半数を占めており、県内の販売業者は
百貨店などのバイヤーと直接商談を行っていたが、流通・販売のノウハウを持つ機構が関与するこ
とでさらに売り上げが上昇している。
また、機構では、サンゴの販売のほか、事業拡大のため様々な取組を行っている。
一時期、藤井氏(現社長)のファッションに対する感覚を活かし、高知産のアパレルメーカーとし
て、「シーセーズ」というブランドファッションの販売に、取り組んだ経緯がある。しかし高知県のよう
な地方でアパレルに取り組むことは、例えば、営業等に利用する航空機代の経費が年間で1,50
0∼2,000万円かかるなど、売り上げの割に経費がかかりすぎ、撤退を余儀なくされた。
また、四万十のうどんを「天然塩使用」という謳い文句で売り込んだことがある。しかし、輸入塩の
使用が発覚し、流通の世界では偽装は致命的であるため、即座に取扱を中止している。当時、県
内の製造業者は、その認識は低く、マイナーな商品では信用・信頼度が劣っていた。
機構が、県産品のブランド化という使命を受けて誕生して以来、もっともその役割を果たしたの
が文旦の販売においてである。高知県で、柑橘の文旦を「てんたん」として全国に販売を始めて3
年が経過した。文旦の販売を開始した当初、生産者は一生懸命に栽培しているが、大都市の消
費者ニーズが解っていなかった。これまでは、生産者は単に生産する人で、収穫したものをJAに
出荷すれば良く、その先がどうなっているか関心も持っていなかった。そこで、機構では、JA職員
を説得し、JAを主体にしながら良質の文旦を生産する生産者の獲得に成功したのである。
生産者が一生懸命に生産したものが消費者に高く評価される事例を積み上げていき、周辺の
生産者に真似してもらう取組を実施している。藤井社長や湯川部長は「いかに生産地を自律させ
るかが大事」と言う。
「てんたん」は、南向きの斜面で「天」の恵を受けて「10年」以上大切に育てた極上の文旦という
ことからその名が付けられている。ネーミングについては、他にもいくつかの候補があり、なかには
「いわいまる」という案もあったが、これは、かつて高知で沈没した船名でもあり、また、イメージが漠
然としていたため、機構の社員が発案した「てんたん」に最終的に決定した。
「てんたん」は、ストーリー性を持たせたブランドづくりを行い、最初は20数戸の生産者と始め、
現在では、約50戸近くが生産している。
「てんたん」で成功を収めた機構では、現在、新高梨など他地域に比べて優位性のある産物に
ついて、バイヤーへのプロモーションを中心に展開している。
(5)さらなるブランド化をめざして
文旦は美味しいものと美味しくないもの差が非常に大きい。美味しい文旦は、果物の中でも有
数の美味しさを誇る。また、山北ミカンも篤農家のものは糖度16度にもなり(通常11度程度)、非
常に美味しい。農産物は、品質管理にかける生産者の資質と技術がものを言う世界である。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
長澤氏は、生産者は、もっとしっかりと生産に臨む姿勢が必要であり、高付加価値な生産物、例
えば、フルーツトマトやハウスで生産する山北みかんのように、品質を向上させるために肥料や水
をコントロールするなど一つのはっきりとした目的・目標を持って生産に臨むことが重要と考えてい
る。先を見据え、単に生産や流通だけを見ていれば良いという時代ではない。長澤氏は、この取
組が成功すると生産者は大きく変わるとみている。
また、藤井氏は、「一流のレストランには、全国各地から様々な食材が押し寄せてくる。その中で
いかに高知県産の食材が優れているかをアピールしてお店に選択してもらうかが商売。高知県は
北海道や沖縄と異なり、他の都府県との差別化が難しいが、そこをお店に評価してもらうことが機
構の仕事。これまでの販路開拓の取組により、徐々にではあるが取引先の拡大が見られている。」
と言う。
一方、課題として、藤井氏は、「取引先は増えたが、取引先が期待する量の確保ができないとい
う問題がある。流通の世界では常にニーズに応える量を提供していくことが大事であるが、生産地
の理解は進まない。2001年(平成13年)から単年度黒字を計上し、累積赤字も当初1億数千万
円あったものを、5,000万円まで圧縮しており、経営の基盤がしっかりとしつつあり、また、近年、
ネット販売も盛んになってきているが、コスト削減はまだまだ不十分で改善の余地がある。」と言う。
(株)高知県商品開発機構のような流通を専門とした第3セクターはあまり例を見ない。行政にと
って重要なことは、どれだけその組織に任せきれるかである。「行政は、目標を常に平均的なところ
に設定するが、平均では何の特色もなくブランド化を進めることは困難である。生産者などにダメな
ところまで踏み込んで言うべき必要がある。」と加志崎高知県ブランド室長は言う。(株)高知県商品
開発機構の役割は、例えると山登りのシェルパみたいなもので、販売の専門家としてしっかりとサ
ポートし、自らのポジションをしっかりと見据えながら高知県の農産物のブランド化に尽力してい
る。
1.9 よそもん、かわりもん、ほんまもん(大阪府大阪市)
(1)危機感が人を動かす
日本三大祭りで知られる「天神祭」(7月25日)が行われる大阪天満宮の参道に大阪天神橋筋
商店街がある。商店街はそれぞれ「てんいち」「てんに」「てんさん」・・「てんろく」などと、大阪独特
の簡略地名で親しまれ(天一は天神橋筋一丁目の略)、江戸時代からのながれを組むところもあ
れば、戦後急速に発展した商店街もあるなど、各商店街の成り立ちは様々であり、それがそのまま
特色にもなっている。また、総延長2.6km という日本一長い商店街ではあったが、大手スーパー
の進出や市街地の空洞化により、お客さんもまばらで、多くの空き店舗を抱え斜陽が進む、典型
的な衰退著しい商店街の一つであった。
そんな、商店街で、1981年(昭和56年)に日本ではじめての商店街立カルチャーセンターを設
立し、以来、毎年さまざまな文化を発信するとともに、その後も次々とアイディアをひねり出し、街お
こしに奔走している中心人物が土居年樹氏である。
土居氏を商店街の再生に奔走させたのは、このままでは間違いなく商店街が崩壊するという危
機感である。そして、日本ではじめての商店街カルチャーセンターの開講は、その危機感と「商店
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
街で若者に文化をもたらそう、伝統文化や住民と
触れ合いを大切にしよう。」という思いからである。
そして、やるからにはいろいろな苦労があっても、
続けていくことが大切と考え、今でもこのカルチャ
ーセンターを続けている。
この他にも土居氏は商店街再生のため様々な
取組を手がけてきた。空き店舗が急激に多くなり、
商店街そのものが崩壊しそうな危機の時期には、
空き店舗の前に屋台を構えて、商店街以外の人
土居 年樹 氏
に野菜直売所として貸し出したり、また、商店街
で色々なイベントを企画し、消費者に単なるお客さんとしてではなく、商店街の仲間、ファンとする
ことにより、商店街の活気を取り戻している。
これらのイベントの多くは、お金をかけないよう、イベント会社やコンサルタントなどには一切頼ら
ず、商店街や周りの人脈に頼りながら知恵とアイディアなど募り、手作りで行ったものである。
天神橋筋3丁目商店街
(2)まちづくりに欠かせない応援団
何かを提案、実行しようとするときには、必ず反対する勢力が存在する。しかし、これらをコントロ
ールして、反対されないようにして実行に移すことが大切で、さらに、小さくてもいいから成功例を
多く見せ、周囲を納得させて応援側に回すことが大切である。
また、地域の活性化のためにイベントなどを行うとき、行政に補助金などの支援を求めることが
多いが、天神橋筋商店街連合会は、補助金などの支援が受けられないものであっても、大阪府や
大阪市に対し、具体的なアイディアを提案し続け、成功例を多く見せていった。今では、行政も応
援団である。「行政は、選手とはちがう。しかし、場合によっては有力な応援団にはなる可能性があ
る。」と土居氏は考えている。
また、行政だけではなく、広域的にいろいろな人との交流を深め、幅広い人脈を作ることが、ま
ちの活性化への触媒となる場合が多い。土居氏は、「まちの活性化を進めるのは『よそもん、かわり
もん、ほんまもん』である。」と言うである。
例えば、この商店街を一躍全国に有名にした取組が、修学旅行生が商店街で行う1日丁稚体
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
験である。これは、土居氏が旅行会社の社員との交流の中で得たヒントをもとに考え出した取組で、
中学生がたこ焼き・お好み焼きの屋台を引いて商店街を1日回って大阪商人(おおさかあきんど)
を体験したり、修学旅行生が自ら地元特産品を持ってきて、それを店舗の前で販売するというもの
で、年間50校程度が体験する商店街の名物となっている。
(3)洒落たまちづくり
2006年(平成18年)9月、天神橋商店街に上方漫才の天神天満繁盛亭がオープンした。上方
落語協会の桂三枝会長の「噺家が商店街の活性化に役立つことに協力したい」という思いと、天
満宮が無償で土地を提供するという協力により実現したものである。
建設に当たっては、行政の補助金には一切頼っていない。建設費は、商店街が中心となって
募金組織を作り、「1万円1万人作戦」と銘打った総額 1 億円(最終的には2億4,000万円)を目標
にして集めた寄付のみでまかなわれたのである。開業して1年を経過した現在、繁盛亭の地域へ
の経済効果は116億円と推定される。今や大阪の新しい観光名所として、府内外からの観光客が
増加し、2年前に比べて、商店街の通行量が平日で7%、日曜・祝日で40%も増えている。
さらに、観光客の増加に対応して、商店街の歴史・地理や店の情報などを総合的に案内する、
関西大学のボランティア「町街人(まちがいど)」が、2007年(平成19年)9月より実施されている。
これも、いろいろな人との交流の中から生まれたものの一つである。
土居氏は、「商いだけで商店街の活性化は無理。周りにいろいろな文化が張り付いて、その街
の匂い(個性)があってこそ街が成り立ち、商店街が生き生きとしてくる。」と言う。そして、「『活気が
あり、いきいきしている』といった超日常的で個性があふれるような場には、自ずと人が集まってく
る。」とも言う。1985年(昭和60年)当時、この日本一長い商店街の通行人は8,000人しかいない
時期もあったが、今は3万人を超え、全国の商店街から多くの視察者が訪れる商店街となっている。
1.10 ファザードへのこだわり(兵庫県神戸市)
神戸の旧居留地 8は、大丸のある元町の側にあり、神戸で最も古い街で、1970年代までは神戸
の中心的商店街であったが、1980年代には三宮に公共交通のターミナルが集中したことと、それ
に伴って三宮に地下街ができ、繁華街が元町から三宮へと大きく移動したことにより、急激に衰退
していった。また、旧居留地は、神戸の港の歴史そのものといっても過言でないくらい古い風格の
ある歴史的な建物が多かったが、それだけに現代ビジネス向きでなく、空きビルが非常に目立って
いた。
しかし、旧居留地は、1988年(昭和63年)に起こった旧神戸商工会議所ビルの保存運動が再
生のきっかけとなり、その様相を劇的に変えていった。商工会議所ビル自体は解体されたが、居留
地の一角を占める名門百貨店大丸神戸店が自ら所有していた近代建築を Live Lab West(現旧
居留地38番館)として店舗化した。
8
条例または慣例により、一国がその領土の貿易都市の一部を限って外国人の居住・営業を許可する地域。日本では、
幕末開国当時、東京・神奈川・大阪・兵庫・長崎・新潟・函館にあり、1899年(明治32年)廃止された。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
大丸 神戸店・旧居留地 38 番館
その後、周辺の近代西洋建築に高級ブティックを積極的に出店していった。これは、当時大丸
神戸店店長の長澤昭氏が、元町旧居留地のビル所有者から、これらのビルを大丸に借りてもらえ
ないかという要請を受けたのが契機となっている。大丸としては、古いビルをファッションブティック
として使うというやり方は、すでに Live Lab West をサザビーに貸して大成功したという実績があり、
このことをきっかけに、長澤氏は、神戸の旧居留地のまちづくりに積極的にかかわるようになった。
長澤氏は、テナントしてデパートの内部に店舗を出すよりも、路面店を出したい有名海外ブラン
ド(クリスチャンディオール他)の要望を受け、旧居留地で空室になっているビルのオーナーからビ
ルを借り上げて、有名ブティック店として蘇生させた。店長時代の5年間で50店ほどの路面店を出
したが、これにより、大丸周辺のイメージアップが図られるとともに旧居留地界隈は活気を取り戻し
た。この結果、今では、元町は、「おしゃれでハイカラで異国情緒あふれる神戸」を取り戻し、神戸
近郊だけでなく全国各地から集客のできる以前の賑わいを取り戻している。
神戸居留地の再生は、市民運動と商業資本のコラボレーションの成功例として知られている。
旧居留地が古くからハイカラな異国情緒あふれる雰囲気を持っていたこと、また、この古くからある
地域の財産(古い石造りの建物、イメージ等)を活かしたり、ファザード(建物の正面)にこだわり、
石造りや異人館のイメージで統一感のあるものにしたことによる相乗効果が大きな成功の要因であ
るが、それは、プロデュースした陰の仕掛け人長澤氏の存在なくしては成り立たなかったものであ
る。
1.11 学びと生活の記憶を取り戻せ(兵庫県篠山市)
(1)あらたな文化施設
篠山市は、兵庫県、大阪府、京都府という3府県の境界に位置する。県境というのはどこも中心
部から外れたところだが、同市も典型的な田舎町。1999年(平成11年)に4町が合併して今の姿
の篠山市となった。平成の市町村合併議論の時に、最初の合併と全国的に話題になったが、もと
もとは、1889年(明治22年)に19町村あったものが、1955年(昭和30年)に一部合併し、平成に
再統合されている。
「篠山チルドレンズミュージアム」は、統合によって半年後に廃校が決まっていた、篠山町立多
紀中学校(昭和26年開校)の再利用を模索していた地域の人々が、1994年(平成6年)に日本で
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
最初にオープンした福島県霊山町のチルドレンズミュージアムをプロデュースした目黒実氏と出会
ったことに始まる。
旧篠山町と合併する他町村からは、各エリア
内でコミュニティセンターや図書館などの整備を
求める声も多かったが、当時の旧篠山町長(そ
の後の篠山市長)の尽力により、1997年(平成9
年)、地域の子どもたちに、遊びや活動を通して
地域の歴史や文化などを伝えていくものとして、
廃校を再利用して造る「篠山チルドレンズミュー
ジアム計画」がスタートし、2001年(平成13年)
篠山チルドレンズミュージアム
のオープンに至っている。
「チルドレンズミュージアム」は直訳すると「子ど
も博物館」となるが、決して私たちが普段目にしている、静かで重々しく、難しいものや珍しいもの
が並んでいる空間ではない。参加体験(ワークショップ)というスタイルを取り入れ、子どもたちは自
由に館内を動き回り、好きな展示物や装置を触ったり動かしたりすることもできるのだ。展示物のほ
とんどは、子どもの目線で作られていたり、子どもらしいユニークな発想が散りばめられたさまざま
なアイディアや工夫が施され、日本にはあまり例のない新しいスタイルの文化施設と捉えてもよい。
回転寿司からヒントを得たカウンターくるくるグラフティー
チルドレンズガーデンと水車
(2)チルドレンミュージアムの歴史
チルドレンズミュージアムの歴史は、1899年にニューヨークで作られた「ブルックリンチルドレン
ズミュージアム」から始まる。その後、米国では、「学習における個人の経験の重要性」を説いた教
育学者ジョン・デューイ 9氏と「教育とは大人が子供に厳しく教え込むものではなく、子供たちが自
発的に学びたいと思う環境作りが重要である。」と説いたイタリアの医学博士マリア・モンテッソーリ
氏の影響を受け、ボストンやデトロイト、インディアナポリスなど各都市でチルドレンズミュージアム
が誕生したのである。現在、米国では、大小合わせて300あまりのチルドレンズミュージアムがある
といわれているが、現在のような参加体験型のミュージアムは、スイスの心理学者ジャン・ピアジェ
が発表した「ものを知るということは、それに基づいて行動することである」という児童発達理論によ
9
アメリカの 20 世紀前半を代表する哲学者。(1859年−1952年)
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
るものである。その理論を最初に実践したのが、1962年に作られた「ボストンチルドレンズミュージ
アム」で、ミュージアムからは「Do not touch(触らないで)」という注意書が消え、子供たちが自由に
遊んで、触って、自発的に学べる場所となっている。また、多くの創造的なワークショップが開催さ
れ、多様な体験が得られるよう工夫されている。
このボストンチルドレンズミュージアムが実践した考えが、その後のチルドレンズミュージアムのあ
り方に多くの影響を与え、子供たちが遊びながら学ぶことができる場やチャンスを提供し、子供た
ちの中の潜在的な興味や好奇心を掘り起こし、学ぶ楽しみを喚起するスタイルを作っていった。
(3)篠山チルドレンズミュージアムの課題
年間利用者数は開園以来6年間ともに6∼7万人の間。1日平均250人が訪れる。12∼2月は
閑散期となるが、京阪神から1時間程度のところに位置し、週末や連休時のファミリーの来訪は多
い。5月の連休には、遠く北海道や九州などからも来訪し、一日に1,900人が訪れた記録もある。
しかし、篠山市内では少子化が進行し、この10年間で小学生が2,600人、中学生が1,520人
減少している。19ある複式学校には、施設の小型マイクロバスで送迎して来館を促しているが、街
中の大規模校に対してはこのような送迎が不可能で、なかなか利用してもらえない。本来はもっと
地元の子供たちが楽しめ、地元の人たちが憩える場所であるべきであるが、子供たちが自転車な
どで訪れるには遠く、その利用者数にも限りがあるが現状だ。
運営上の課題もある。「篠山チルドレンズミュージアム」は、篠山の農村の子供たちが農作業を
見てはいるものの、実体験していないことを問題視し、子どもたちに地元のことに対してもっと興味
を持たせることや体験させることを目的として作られたもので、2001年(平成13年)の当時としては
画期的な施設だったのかもしれない。しかし、現在は、“子供たちが自発的に学びたいと思う環境”
には至っていないようである。水田や豆畑などを作り実際に農作業の体験が行えるようになってい
るが、「篠山チルドレンズミュージアム」でなければならないものはそれほど多くない。
<篠山チルドレンズミュージアムのテーマ>
中核テーマ 「心とからだ」
生きる原点としての「心とからだ」へ関心を持ち、情操と体力を最大限に発
揮できる表現力を育成すること。
体験テーマ①
「食と農」
体験テーマ②
「仕事と職業」
体験テーマ③
「自然と科学」
人間が生きる基礎であり、生
活文化としての「食」と、文
明の基礎であり、篠山の文化
の源流である「農」の意義を
追求しながら、体験として取
り組んでいくことを目標と
した。この土地に生まれ育
ち、担うものとしての文化性
を育成する。
生きる術である仕事。この
土地の伝統的な仕事や職
業の技術と技能を、地元の
スペシャリストたちが提
示し、継承を促していくこ
とは、地域に根ざした社会
性を育成する上で欠かせ
ない要素となる。
自然の理を探求し、科学
技術の原理原則をふま
え、それらを原動力とし
た創造性を育てる体験・
機会を提供する。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
また、2003年(平成15年)からは、市役所職員は館長を含む2名となり、運営については民間
会社に委託し、経費削減に努めているものの、年間運営費約7,000万円に対し、入場料などの
収入は2,000万円に止まり、市から約5,000万円の支援を受けていることから、現在、市では
「篠山チルドレンズミュージアム」への指定管理者制度の導入や売却など、そのあり方について検
討している。
(4)次世代に伝えるために
ひと昔前までの日本は、それぞれの地域のコミュニティの中で、友だちと遊んだり地域の大人た
ちと交わる機会が沢山あり、大人になるための社会性や、生きるための知恵や工夫を学んだり、文
化や伝統を自然と引き継いだりできた。しかし、ここ十数年で環境が大きく変わり、普段の生活の
中からはそれらを得ることが困難になってきた。
「篠山チルドレンズミュージアム」は、前述のような課題はあるものの、開園当初、どのように魅力
あるワークショップを企画し、どのように子どもたちに地域の歴史や文化、産業(農業)を伝承する
か、真剣に議論したメンバーが「ミュージアムクラブ」(現在は62名)を発足し、運営の補助のほか
ワークショップやイベントの講師を務めたり、子どもたちとの触れ合いや技術の伝承などに協力して
いる。また、開園から6年が経過し、ここで学んだ高校生がボランティアとして活躍し、着実に取組
の効果は現れている。
チルドレンズミュージアムは、古さを感じさせない展示物や、常に子供たちを惹き付けるワークシ
ョップ、施設を訪れるためのインフラ整備など、検討すべき課題は多い。しかし、我々道民が培って
きた北海道の歴史や文化、生活の知恵、生きるための知恵などを、次世代にしっかりと伝えるため
には参考となる取組ではないだろうか。
<国内の他のチルドレンズミュージアム>
●福島県霊山町にある「霊山こどもの村」
1970年(昭和45年)開園の「霊山こどもの村」をリニューアルして、1994年(平成6年)再オー
プン。「遊びと学びのミュージアム」、「アース(地球)」をテーマに、「アート(文化・芸術)」と「サイエ
ンス(科学)」で表現されている。
●沖縄県沖縄市にある「沖縄こどもの国」
1972年(昭和47年)開園した「財団法人沖縄こ
どもの国」を2003年(平成15年)に「財団法人沖
縄こども未来ゾーン運営財団」にリニューアル。動
物園、公園、ワンダーミュージアム、チルドレンズセ
ンター等がある。
●このほか、福井県大井町においても設立準備中で
ある。
沖縄こどもの国
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
1.12 「良質の生活」をめざして(北海道下川町)
(1)下川町の概要
下川町は北緯45度に位置し、名寄市より東へ20キロにある。面積の90%を森林が占め、残る
10%に人が住み、農業を営む、農林業の町である。夏は30度以上に達し、冬はマイナス30度以
下になる大変厳しい気象条件を有する。ピークには1万5,000人を数えた人口も、森林資源枯渇
による製材業の衰退などによって2007年(平成19年)末には、3,700人台となった典型的な過
疎の町である。
下川町は国の施策に翻弄され続けてきた町であった。昭和50年代半ばから立て続けに起こっ
た、鉱山廃止、JR線廃止、営林署の統廃合によって、人口の流出が続き、1978年(昭和53年)
7,173人であった人口が1988年(昭和63年)には5,065人(国勢調査)へと10年間に約3割の
2,100人以上が減少した。
(2)循環型システムの興り
このような中、1983年(平成58年)から4期町長を担った原田四郎氏の存在が現在の下川町の
根幹の構築に大きな役割を果たしてきた。原田氏は、役場に勤務後、森林組合へ派遣、後に町
長に就任するが、一貫して、町有林事業に携わり、1953年(昭和28年)から国有林の取得を始め
た。退任するまで国有林を買い続け、今では4,500㌶以上となっている町有林を法正林思想 10に
基づいて運営してきた。原田氏は、「交通の便の悪い、道北の僻地に企業誘致を図っても、容易
に誘致に応ずる企業もない状況の中で地域振興を図るには、地場資源を活用して、企業体をつく
ることが一番大事で、資源のあるところ必ず企業が興ると思っていました。しかし、現在のように厳
しい環境におかれている山村においては、外部から企業を誘致するのではなく、既存の企業体で
ある、森林組合、農業協同組合の活発な活動を促し、農林業資源を活用し、恒常的な働く場を作
るのが必要であろう。」と保母武彦氏の著書の著書 11において述べている。「地域資源」に着目し、
既存の企業体の活動を促進して、住民の生活の基礎である働く場を確保しようと取り組んでいる
姿は、まさにリーダーとしての信念を語っているとともに、特徴的活動を生み出していく下川町にお
ける地域づくりの基本的考え方となった。
この思想は、下川の木材関連業界へ安定的な木材の供給を可能にし、林道開設、枝払い、植
林、間伐など森林施業管理に係る作業を増大させ、雇用の場を安定的に確保するとともに、森林
資源を活用する産業や商工業を活性化し、下川町の発展の礎となった。
下川町は、「持続可能な森林経営」を町の目標に、様々な取組を展開してきた。特に、「森林」を
地域資源として位置づけ、町有林を増やすとともに、伐採から植林を繰り返す循環型システム(後
述の「原田システム」図1)を実践し、森林に関連する産業の育成による地域経済への波及効果を
生み出した。
また、この地域資源を活用したまちの活性化により、次世代の地域を担うであろう「人材」がU、I、
Jターンにより集まり、「森林」をはじめとする各地域資源を有効に活用するプラスの循環が構築さ
10
森林の一定面積において、伐採期数(50年程度、樹種により様々)に区画を分割し、1 年おきに 1 区画を伐採し、植
林することを繰り返していくことにより、常に同じ伐採期の木材を永続的に供給していく森林経営のモデルである。
11
「内発的発展論と日本の農山村」岩波書店
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
れ、この循環を基盤として、木炭関連工場、集成材関連工場などを設立し、雇用の場を確保し、
地域内における経済的、人的循環を促進し、内発的発展と経済循環を基点とする思考が定着し
始め、持続する安定的な発展の可能性を高めた。
これらの取組の成果は、町の人口の変化にも現れている。1995年(平成7年)の国勢調査結果
によると、町の人口が北海道道開発局の予測した4,397人よりも350人多い4,747人で、総人
口は5年前と比べて減ってはいるが、予測ほどの減少はなかったのである。保母武彦氏は、その
著書「内発的発展論と日本の農山村」において、「原因は、多様な産業分野へのUターン、Iター
ンである。」と分析している。
人口減少率の緩和は急激な人口減少が当たり前のようになっていた下川町にとっては画期的
なことであり、1990年(平成2年)と1994年(平成6年)の産業別就業者数 12を比較すると、農業部
門における20人増加に始まり全体で270人の増加要因があるが、その効果は林業従事者部門に
おいて顕著に現れ、110人の増加を示している。北海道内の林業従事者が大幅に減少する中に
おいては驚きに値する数字であり、原田システムの効果が高いことを示している。
■下川町林業振興
森林面積87%国有林
林業無視のまちづくりはできない
資源の保続生産(森林組合全面委託)
計画的造林/保育事業/高伐事業−町上積補助
計画的造林/保育事業/間伐事業−町上積補
■雇用の場の確保・創出
効果
■生産される木材を原材料に
林産加工が安定化
安定的な発展
森林資源
(町有林)
状況
■町の基本財産造成
−1929年以降国有林等からの買受
−1953年1,211ha買受
■山づくり
−年40∼50年ha伐っては植える 40年近く
−年40∼50ha伐っては植えるを40年近く
■不足(国有林内に部分林契約植える)
■間伐材の有効活用(木炭化、円柱加工等)
■現在 町有林2,445ha(1993年度末)
原田システム
■森林経営の理想とする法正林の思想に則る
−保続生産が可能な町有林経営
−永久に繰り返す伐採と植林
年とともに価値を増し光り輝く町づくり
■国有林の買受
−820ha(1993∼98年度)
森林の公有林化起債事業
事業費75%充当
30∼55%交付税補填
町有林3,000ha確保
森林とのかかわりによって活路を開く
(1998年度見込み)
町有林面積 3,005ha
分収林(部分林) 260ha
解決
目的
図1;「原田システム」「森は光り輝く」原田四郎 29p より引用
(3)産業クラスターへの検討
U・Iターンにより多種多様な多くの人材が下川町に流入してきたことは産業の振興のみならず、
地域づくり全般の課題について、今までには考えられないような様々な角度、切り口から検討する
機会をもたらした。その基点となったのが、強い危機感を抱く課題を具体的に検討することであっ
た。人口減少によって、地域社会の継続が困難になることはもとより、資源管理に対する将来ビジ
ョン、基幹産業の農業、林業の展望、人づくりに対する取組が進んでいないことなどが洗い出され
12
保母武彦「内発的発展論と日本の農山村」岩波書店を参照。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
てきた。このようなことは、地域住民の中で感覚的に捉えられていたことではあるが、地域に住み慣
れているが故に見過ごされ、現状認識が浅く、これまで、具体的に検討されることはなかった。
新たな「人材」を交えた課題の検討を契機に、町では、課題解決のためのめざすべき姿と方向
を整理し役割分担を行い、段階的な推進を図るため、1997年(平成9年)、北海道経済団体連合
会戸田会長(当時)が提唱する「産業クラスター」に関する検討を行い、1998年(平成10年)、「下
川産業クラスター研究会」を発足させた。
下川産業クラスター研究会は、「地域の自律、内発的発展で優位性、競争力ある産業を軸に、
産学官のネットワークを利用し、新ビジネスを創造、関連させ、持続可能な地域経済を形成するこ
と 13」を目標とした、「行政担当者、企業経営者に限らない様々な職業、年代の人々が参加し、地
域における新しい運動として展開するため、「意欲」と「意識」を高める自主的・自発的な研究組
織」である。当時、下川町森林組合を中心として、木炭小径木加工施設において廃棄物を限りなく
ゼロに近づける取組が進んでおり、森林クラスターを核に進める素地があった。
同研究会では、将来ビジョンを検討するため、「地域社会の歴史と現実」、「持続可能な地域社
会」、「地域が自律し協働して主体的に推進」、という「産業」、「自然」、「社会」の 3 つの要素からな
るグランドデザインを描いている。そして、「産業」では経済の持続可能性を、「社会」では地域社
会の持続可能性を、「自然」では環境の持続可能性を、それぞれの切り口から考察し、「産業」と
「社会」の共通認識に「循環」を、「産業」と「自然」には「調和」を、「自然」と「社会」には「共生」をそ
れぞれ掲げ、また、地域に住む住民の「良質の生活」を最終的にめざすべき理念としている。
どんなに可能性があっても、どんなに経済的に豊かでも、地域が住民に「良質の生活」を提供し
うるものでなければ住み続けることは難しいし、住民が快適に暮らすことが地域コミュニティ醸成の
カギである。あくまで住民本位であることが肝要であることに着目したグランドデザインは、今後、
様々な場面で活かされていくのである。
経済の持続可能
産 業
〈人間の経済活動〉
生産様式・形式・構成
資本の再生産と労働の再編
技術、人材、市場
地域社会の
持続可能性
調和
自 然
環境の
〈森林生態系〉
物理的プロセス
生物的プロセス
社会的プロセス
循環
良質の生活
共生
持続可能性
社 会
〈人間の暮らしと歴史〉
共同体(自治)意識
社会資本
社会集団(法・制度)
文化、教育、芸術
<包括的な地域の社会経済システム>
図2;「森林共生社会のグランドデザイン」2001 下川産業クラスター研究会 8p より引用
13
「森林共生社会のグランドデザイン」下川産業クラスター研究会2001より引用し、加筆修正。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
【コラム】歴史と人物に学ぶ③
―
近江聖人と仰がれた孝の偉人
なかえとうじゅ
中江藤樹
―
内村鑑三が世界に紹介した「代表的日本人」の一人で、孝行で有名な人物が中江藤樹である。
藤樹は、江戸時代の初め、近江の小川村(滋賀県安曇川町)に生まれた。十八歳のころ、故郷
の父がなくなり、母一人になったため、親孝行の藤樹は職を辞して小川村に帰った。
その後、貧しいながらも年老いた母によく孝行するとともに、私塾・藤樹書院を開いて、門
弟の育成と著述に専念し、また、村人たちも教育した。藤樹の評判は次第に高くなり、近江聖
人と仰がれるようになった。藤樹は、酒を売って生計を立てていたが、代金は客が勝手に竹筒
に入れるようにした。今でいう無人販売である。後で、代金と酒の量を計算すると、いつもぴ
ったりと合った。村が人心的に非常に良く修まっていたのである。
現在も安曇川町には藤樹書院が保存されており、時折藤樹に関する講話が行われる。また、
藤樹記念館も設置されており、藤樹を顕彰している。近くには、青柳小学校があり、授業の中
で、藤樹物語を副読本として用いて、藤樹の業績を教えている。子供たちの親は、自主的に学
校周辺を清掃するなど、学校への感謝の気持ちを行動に移している。これも藤樹の遺徳の現れ
なのだろうか。この町には、かつて警察沙汰になった事件は1件もなく、住民の自慢になって
いる。孝行の大切さを記した経書「孝経」を今でも諳んじる婦人がいたり、藤樹の教えを自分
の人生の規範にしていると公言する主人がいるなど確かに他の地域とは異なる雰囲気を漂わせ
ている。
こんなエピソードがある。藤樹書院では藤樹物語の冊子を販売しているが、ある時、百冊程
もあろうかという冊子の一かたまりが盗まれた。管理人は、少し前にバイクに乗ってやってき
た若者が怪しいと感じたが、不問にしていた。ところが、数日経って、盗まれた冊子が全て送
られてきた。中に手紙があり、そこには、本を盗んでしまったが、中江藤樹の物語を読んで、
「何
でこんな悪いことをしてしまったんだ」と反省した。だから、全て返しますとのことだった。
藤樹の遺徳は現代にも確実に生きている。一人の人物の影響がここまで偉大であるものかと
感嘆した。
[「歴史と人物」上田三三生著
北海道師友会
1997年発行より引用]
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
2.事例から学ぶ農山漁村の文化デザインのエキス
2.1 地域づくりの主役は地域の人たち
地域づくりの主役はあくまでも地域の人たちである。地域づくりは、地域の人たちがまず自分た
ちの地域をどのようにしたいのか、また地域の課題は何なのかを考え、主体的に取り組もうとする
意識と行動が必要である。ただし、それは口で言うほど簡単なことではない。地域の中に地域愛に
満ちたリーダーがたまたまいて、そのリーダーを中心として当事者意識が高まり、地域の人たちを
牽引してくれればよいが、現実はそう都合よくいかない。
地域の人たちがそのような意識を持つきっかけは、地域の事情に応じて様々であるが、行政側
からの仕掛けの一つが、熊本県水俣市での「地元学」の提唱である。「ないものねだりではなく、あ
るもの探し。地域のことを知らずしてよい地域をつくることはできない。」という「地元学」を推進し、ま
ずは地域の人たちが地域のことをよく知ることから始めて、地域の自然や生活文化など当たり前に
あるものが実は素晴らしいということに気づき、地域づくりの当事者意識が芽生え、行動を起こし始
めたのである。
次に、鹿児島県鹿屋市柳谷の事例では、強力なリーダーシップを持った個人の力によるところ
もあるが、地域の人たちが、補助金ではなく共同作業を通じて自主財源を確保することによって、
地域ぐるみで地域課題と向き合うようになり、相互扶助やお年寄りを敬う気持ちなど、地域に本来
備わっていた精神文化が再生され、集落住民が主体性を持って行動するようになった。
また、長期的視点に立って地域づくりを担う人材を育成することも重要であり、熊本県小国町で
の「九州ツーリズム大学」の取組はまさにその先進的な事例である。町内外の人たちが農山村にお
ける新しい旅の文化価値創造の実践的ノウハウを学ぶ機会を提供し、それを積み重ねることが、
町民にもまた地域文化への気づき、小国への愛着とともに、地域づくりの当事者としての自覚を促
すことになったのである。子どもたちへの教育もまた大切である。兵庫県篠山市のチルドレンズミュ
ージアムは、現代の地域社会において大人から学ぶ機会が少なくなった地域文化や伝統、生活
の知恵などを、子供たちが展示や参加体験によって楽しみながら学ぶ施設である。展示手法や施
設運営のあり方など多少改善すべき課題はあるが、子どもたちの郷土愛を育み、将来の地域づく
りの担い手となるような教育環境づくりは地域にとって必要なことである。
2.2 地域に元気を生み出す人材
地域づくりを継続して進めていくためには、地域の人たちをまとめ牽引していくリーダーの存在
は欠かせない。地域リーダーには、広い視野と深い見識、磨かれた感性と美意識、豊かな人間性
を備え、確固たる使命感を持ち、積極的・主体的に行動できるといった高度な能力が求められる。
誰もが地域リーダーになれるわけではないが、各地から視察に訪れるような先進事例には、必ずと
言ってもいいほどこのようなリーダーがいる。
崩壊寸前の商店街を様々なアイディアによって全国有数の商店街へと再生させた大阪市天神
橋筋商店連合会の土居年樹氏、理念と哲学を持って地域に根ざした温泉地づくりに取り組んでい
る大分県長湯温泉の首藤勝次氏、全国に先駆けて農村の生活文化に着目しグリーンツーリズム
を推進した安心院グリーンツーリズム研究会の宮田静一氏、集落の住民意識を高め行政に頼らな
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
い地域づくりを進めている鹿児島県鹿屋市柳谷の豊重哲郎氏などである。
地域内にこのような人たちがいるに越したことはないが、いない場合でも地域における事業化や
地域の課題解決のノウハウやコーディネート能力を持つ人材を誘致したり活用したりすることによ
って、これを補うことも可能である。今回調査を行った、高知県産品の開発・販促を行う高知県の
第3セクターの社長として招聘された長澤昭氏は、九州の博多大丸の経営再建を手がけ、また神
戸市旧市街地を歴史的石造建物と高級ブランド店を組み合わせてファッションの発信地として再
生させた、流通業界のプロである。こうした専門的な知識と人的ネットワークを持った外部の人たち
を迎え入れ、地域の活性化を図ることも一つの方法である。
また、「九州ツーリズム大学」などの学習機会を通じて、優れた講師から地域づくりのノウハウを
学んだり、志を同じくする人たちと交流したりすることによって、リーダーとしての資質を磨いていく
方法もある。また、地域にいるUIターン者は地元が気づかないことを気づかせてくれる貴重な存在
であり、こうした人材を積極的に活用することも有効であると考えられる。
2.3 地域の個性を活かす(地域の自然、歴史、文化などを活かす)
地域づくりを進める上での基本は、地域のことをよく知るということである。また、地域づくりは地
域の自然、風土、歴史、生活文化などと連続性のあるものでなければ、地域にしっかりと根付かず、
表面的で場当たり的なものとなってしまう。今回調査を行った先進事例のリーダーらは異口同音に
そのことに触れている。
・「歴史や気候風土、文化が大切であり、よそには真似できない、この町でしかできないことに目を
向けること。地域に授けられた財産をいかに保存しながら活用していくか。伝えるべきものは何
か、それを考えれば今やらなければならないことが見えてくる。」(長湯温泉・首藤氏)
・「商いだけで商店街の活性化は無理。周りにいろいろな文化が張り付いて、その街の匂い(個
性)があってこそ街が成り立ち、商店街が生き生きしてくる。」(天神橋筋商店連合会・土居氏)
・「地元に住む者が地元のことを知らないのに、良い地域をつくることはできない。それぞれの地域
には固有の自然、産業、歴史、文化があり、地域にあるものを探し、磨くことで地域に新たな元
気が生まれる。」(水俣市・吉本哲郎氏)
・「山村においては、外部から企業を誘致するのではなく、農林業資源を活用し恒常的な働く場を
つくるのが必要であろう」(下川町・原田前町長)
地域の文化や歴史を重んじること、地域の個性はそこから生み出される。地域に長い間残って
いるものは、残っていることに理由があり、それは今後も大切なことであることが多い。また、地域の
魅力とは、有形のものだけではなく、地域の人たちの温かみや寛容さ、地域としての居心地の良さ
といった感覚的なものであったり、そこで暮らした人にとっては親子や知人との関係の深さだったり
する。そうした魅力が、高千穂町に戻った若者たちのようにUIターンを決意させる要因となることも
ある。
2.4 都市との交流のあり方
都市との交流を推進するに当たっては、はじめから都市の人を地域に呼び込もうとするのでは
なく、まず地域が元気になることが必要である。地域の人々の生き生きとした暮らしがあることに、
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
人は地域としての魅力を感じる。
長湯温泉の首藤氏は、「観光地である前に生活地でなければならない。経済だけではなく知的
財産(文化度)を有すること。そうすれば気持ちの良い物を求める人たちが自然と集まってくる。」と
語っている。
また、鹿屋市柳谷では、「住民みんなが名前を知り、声をかけあい、子どもが元気に挨拶し、お
年寄りが大切にされ、生き生きとして暮らす地域」が「この地域に住んでみたい」という魅力となって、
当該地域に移住してくる者も現れた。水俣市の「村丸ごと生活博物館」の取組でも、地区の人たち
が地区の暮らしや生活文化に誇りと自信を持ち元気に暮らすことによって、都市の人たちが村の
普段の暮らしを楽しむ「生活の旅」に数多く訪れるようになった。
また、安心院のグリーンツーリズムは、単なる都市との交流ではなく、したたかな戦略を持って、
農村の自然や文化、食や暮らしをうまく利用し、農家がきちんと収入を上げていることに注目すべ
きであろう。さらに、「九州ツーリズム大学」の卒業生で小国町の北里さんは、農村とともに生きてい
るのは農家だけではない、もてなしのプロである商家が経営してもよいという考えで、築百年の蔵を
改装して会員制の商家民宿を経営しており、グリーンツーリズムの広がりの可能性を感じさせる事
例である。
2.5 行政の役割
地域づくりに携わる人たちは、最初から行政の補助金に頼らないことが望ましい。補助メニュー
に合わせて事業を組み立てると、うまく行かないことも多い。はじめから補助金頼みではなく、地域
がまず何をやりたいのか、ビジョンは何なのかを具体的に描き、その上で補助金の活用を検討す
ることが必要である。大阪市天神橋筋商店連合会の土居氏も「大阪府や大阪市には、補助金を自
分たちの使用目的に合うようにはっきり言ってきた。具体的なアイディアや提案を出して、当初は
基準により採択が難しいと思われることも、成功例を示すことによって、行政から応援させてほしい
と申し出てくるようになった。」という。また「行政は選手ではなく応援団である」とも言っている。
あくまでも地域づくりの主役は地域の人たちであるが、行政もしっかりとした信念を持って、単な
るものづくりではなく、村をどうつくる、人をどうつくるといった長期的な視野で地域ビジョンを描き、
地域の普段の暮らしの中にある地域固有の風土や歴史、自然と共にある生活文化を地域の人た
ちと一緒に見つめ直し、再生し、洗練化していくことが必要である。
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第4章 グッド・プラクティス(優良事例)に学ぶ
【コラム】
―
積雪寒冷を活かした農産物づくり
―
北海道の気候は、年平均気温が 6∼10℃、年平均降水量が 800∼1,500mm 程度で、夏は
冷涼で、冬は積雪寒冷といった特徴があります。道内では、このような気象条件を活かし、農
薬や化学肥料の使用を必要最小限にとどめるクリーン農業や有機農業の取組が進められていま
すが、最近では、積雪寒冷といった気象条件を上手く利用した栽培方法での生産も行われてい
ます。その一つとしては、ホウレンソウや小松菜といった野菜の冬場の凍結ストレスを回避す
るための適応能力を活用した「寒締め野菜」生産があります。これは、冬の低温に曝すことで、
作物の根の吸水が抑制され、その結果、地上部(可食部)に糖分が蓄積し、糖度の高い野菜生
産が可能となるものです。また、冬の根雪期間、雪中の地表面の気温が 0℃前後で推移するこ
とから、この天然冷蔵庫の状態を利用して、キャベツを雪中保存し、真冬に掘り起こして収穫
する「越冬キャベツ」の生産も行われています。このような、雪や寒さといった北海道の気象
資源を活かした農産物づくりがこれからどんどん増えてくることが期待されます。
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