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衛星写真でみるメソポタミアの古代都市
Nara Women's University Digital Information Repository Title 衛星写真でみるメソポタミアの古代都市 Author(s) 小方, 登 Citation 高解像度の衛星画像・衛星写真を用いた環境変化の解析, pp.115-122 Issue Date 2002-03 Description URL http://hdl.handle.net/10935/959 Textversion publisher This document is downloaded at: 2017-03-30T20:07:00Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 衛星写真でみるメソポタミアの古代都市 小方 登 ここでは衛星写真を利用して,メソポタミア(現 と後方視のシーンを撮影する。従って,1地点につ 在のイラク)の都城遺跡の立地とプランを検討す いて,異なる方向から撮影したシーンが2つ得ら る。とりあげるのはホルサバード,ニネヴェ,ニム れ,立体視するために利用することができる。ここ ルド,アッシュール,バビロン,セレウキア・ティ で扱った事例についても,それぞれ立体視を行い, グリスの6遺跡である。前4者はアッシリア帝国の 遺跡の立地や状態を検討した。立体視は,メソポタ 都であった。 ミアに広く分布するテルすなわち先史時代の集落跡 ここで用いたのは,主に1960年置に米国が収集し で周囲より高くなったものを識別するのにとりわけ た偵察衛星写真(CORONA衛星写真)である。偵察 有効であった。 (CORONA)衛星には,いくつかの形式が知られて 以下では,6遺跡のそれぞれを衛星写真により検 いるが,ここで画像のリソースとして利用する衛星 討する。当該遺跡に関連する古い文献も引用して, 写真の撮影に用いられたのは,KH−4, KH−4A, KH− 古代の情景を再現するようにした。アッシリア帝国 4Bと呼ばれる形式のものである。 に関しては,襖形文字で記された王室碑文が充実し KH−4は1962年から63年, KH−4Aは1963年から ているが,それらはトロント大学を中心とするプロ 69年,KH−4Bは1967年から72年にかけて運用され ジェクトの手で編集・翻訳されて,The Royal In− た。ミッション数の最も多いKH−4Aを例として,衛 scriptions of Mesopotamiaシリーズとして刊行されて 星写真の仕様の概要を述べると,以下のようである いる。それ以外に利用した文献を以下に記す。 (いずれも公称値)。平均衛星高度は100海里 (185km),カメラレンズの焦点距離は24インチ 【参考文献〕 (610mm),これにより引き伸ばさない写真の縮尺は ・『聖書』(新共同訳),日本聖書協会,1997. 30万5000分の1となる。フィルム上の解像度は,1 ・ヘロドトス『歴史』,松平千秋訳,岩波文庫,1971 ミリメートルあたり120本の線で,つまり100分の ’v 1972・ 1ミリメートル程度の大きさの物体を識別できる。 ’ Strabo, Geography, Trans. H. L. Jones, Harvard Uni− 前述の縮尺に当てはめれば,地上で3メートル程度 versity Press (Loeb Classical Library). の大きさの物体を識別できることになる。筆者が (衛星写真関係) CORONA衛星写真を見てきた経験からも,自動車 ’ McDonald, R. A, (1997) CORONA: Between the Sun などの車体の識別は困難だが,自動車が通行できる and the Earth, The A. merican Society for Photogram− 程度の道路はほぼ識別できた。 metry and Remote Sensing. フィルム上の撮影範囲は,2,18×29.8インチ(55.4 ’ Peebles, C. (1997) The CORONA Project, Naval lnsti− ×756.9mm)で,これに上記の縮尺を当てはめれば, tute Press. 1シーンで地上のおよそ17km×231kmの範囲を撮 ’ Day, D. A. et al. (1998) Eye in the Sk.y, Smithsonian 影することになる。このように東西に細長い撮影範 Institute Press. 囲となるので,実際には二枚かのシリーズで利用す (西アジアの歴史) ることが多くなる。CORONA衛星は南下しながら ’ Van de Mieroop, M. (1997) T/ie Ancient Mesopotamicui 連続したシーンを撮影するので,東西に長いシーン を南北につなぎ合わせて利用するのである。 City, Oxford University Press. ’ Sherwin−White, S. and A. Kuhrt (1993) From さらに,KH−4AとKH−4Bは,2台のカメラを搭載 Samarkhand to Sardis, University of California Press. しており,それぞれ衛星の進行方向に対し,前方視 一115一 ホルサバードのCORONA衛星写真:1966年8月18日撮影。 CORONA satellite photo over Khorsabad, taken on August 18, 1966, Photo available from U, S. Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA. ホルサバード(ドゥル・シャルキン) 置されておらず,内部のプランは条坊制のように規 則的なものではなかったらしい。外郭は計画的な正 「有翼の牡牛発見,5×5メートル,顔は横向き,状 方形だが,内部は格子状ではないという点で,後世 態良好,5月に搬送可能か,輸送費1万ドル程度,4 のヘレニズム・ローマ都市とは対照的である。ヘレ 月26日調査隊,検討されたし」(1929年4月26日シ ニズム・ローマの計画都市においては,外郭は必ず カゴ大学調査隊長E.Chieraの電報) しも方形ではなく,地形に適合されたが,内部のプ ホルサバードはイラクのモスルから北へ25kmほ ランは多くの場合格子状とされた。ホルサバードの どにある遺跡である。アッシリア帝国のサルゴン2 遺構を衛星写真で検討すると,城壁内が耕地化され 世(在位紀元前721∼705)はここに首都を移し,人 外部とトーンの区別がつかないことも,定住が比較 面有翼の牡牛像などで飾られた壮大な宮殿を造営し 的短期間だったことを示している。城壁西辺中央に た。当時の名称はドゥル・シャルキンすなわち「サ 宮殿跡がある。 ルゴンの砦」である。しかし息子のセンナケリブ王 の時代に都はニネヴェに移され,短命な未完の都に 【参考文献】 終わった。上の電文は,シカゴ大学の調査隊が1929 ’ Oriental lnstitute, University of Chicato (1997) ‘Exca− 年から1935年にかけてこの遺跡の発掘を行ったと vations at Khorsabad’, きのものである。 http:1/www−oi.uchicato,edu/OIIPROJ/KHO/ 衛星画像では,耕地の区画の中に一辺約1.7kmの Khorsabad Ex.html ほぼ正方形をした城壁跡が見え,高度に計画性を もったプランであったことをうかがわせる。北・東・ 南の各辺に2つずつ門があったが,門は対称には配 一116一 ニネヴェのCORONA衛星写真:1966年8月18日撮影。 CORONA satellite photo over Nineveh, taken on August 18, 1966, Photo available from U. S. Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA, 衛星写真からも,ニネヴェの雄大さを読み取るこ ニネヴェ とができる。ティグリス川と右岸に沿う,細長い四 「ヤハウェはその手を北に差し伸べ,アッシリアを 辺形の城壁は,長さ12kmにもなり,さらに外側に 滅ぼし,ニネベを荒廃させ,砂漠のような乾燥地と も城壁がある。ティグリス川の支流ボスル川が,市 する。そこには家畜の群れや,あらゆる獣が群れを 内を貫いて流れている。西辺に沿って2つの遺丘が なして臥す。ペリカンも針ねずみも,その柱頭に宿 あり,北寄りのものをクユンジュク,南寄りのもの り,窓には鳴き声が響き,敷居はひからびて,杉の をネビ・ユニスと呼ぶ。それぞれに宮殿跡などがあ 羽目板はむき出しにされる。これが,住民たちが安 り,宮殿は人面有翼の牡牛像や戦いを描いたレリー らかに過ごし,歓声をあげていた,その町だ。」(『旧 フなどで飾られていた。またアッシュルバニパル王 約聖書 ゼファニア書』2・13) の膨大な粘土板文書が発見され,今日のアッシリア ニネヴェは,ティグリス川の東岸,現在のイラク 学の基礎となったことも知られている。 北部の中心都市モスルの対岸に位置している。アッ 騒騒の存在は,ニネヴェにおける居住が非常に古 シリア帝国の最後にして最大の首都であり,センナ くから長期間にわたっていたことを示している。そ ケリブ王(在位紀元前705∼681)のとき再建され して遺丘は,大都市となった後も,シタデルなど都 て以来繁栄を誇った。旧約聖書の『ヨナ書』では,人 市の核として機能したであろう。 口12万人,「非常に大きな都で,一回りするのに三 日かかった」と記述されている。上の『ゼファニア 【参考文献】 書』の記述は,紀元前612年にメディアと新バビロ . Stronach, D. and S. Lumsden (1992) ‘UC Berkeley’s ニアの攻撃を受けて滅びたときの情景を描写したも Excavations at Nineveh’, BiblicatArchaeologist 55, pp. のであろう。 227−33. 一 117 一 ニムルドのCORONA衛星写真:1966年8月18日撮影。 CORONA satellite photo over Nimrud, taken on August 18, 1966. Photo available from U. S, Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA, ニムルド(カルフ) 衛星写真によれば,ニムルドの遺跡はディグリス 川東岸にある。周囲7.5kmにおよぶ城壁は稽東西に 「以前のアッシリア王,シャルマネセルが築いた古 長い長方形だが,南辺はやや整わない。西南隅の丘 都カルフは荒廃し,遺丘となっていた。余〔アッシュ は遺丘と思われ,この地における定住が古くから長 ルナシルパル2世〕はこの都市を復興した。余は上 期間にわたってきたことをうかがわせる。この丘の ザブ川から運河を引き,r富をもたらすもの』と名づ 北端にはジッグラトのような構造物の跡も見える。 けた。余は近郊にあらゆる種類の果樹を植えた。余 ほかに東南隅にも建物跡らしい地物が見える。城壁 は葡萄酒を搾り,最上のものをわが主アッシュール 内のそれ以外の区域では,定住の痕跡は比較的希薄 とわが国土の神殿に献納した。余は城壁を再建し, であり,この都城が大都市として存続した期間が短 それを上から下まで完成させた。余はその中に永遠 かったことを示している。 の余暇を過ごせる宮殿を営み,美しい装飾を施し た。」(『メソポタミア王室碑文』A.0.101,17) 【参考文献】 ニムルドは,モスルの南方ティグリス川を下るこ ’ Grayson, A. K. (1991) The Royal lnscriptions of と約325km,上ザブ川との合流点を間近の東岸に立 Mesopotamia: Assyrian Periods Volume 2, University 地する都城遺跡である。アッシリア帝国のアッシュ of Toronto Press. ルナシルパル2世(在位紀元前883∼859年)は,こ こに新しい首都を営んだ。当時の名称はカルフであ り,旧約聖書にはカラの名で登場する。遺跡の宮殿 遺構からは人面有翼の牡牛像や浮彫が発掘されてい る。 一 118 一一 アッシュールCORONA衛星写真:1966年8月18日撮影。 CORONA satellite photo over Assur, taken on August 18, 1966, Photo available from U. S, Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA. の性格を強めた。 アッシュール 衛星写真からもわかるように,アッシュールは 「この時,アッシュール《新しい市》の城壁,アッ ティグリス川西岸,支流との合流点にあり,西側に シュール神の副官である以前の王アッシュルナディ は支流から水を引く濠をめぐらしている。濠の内側 ンアッへが築いた城壁の上に,余〔ティグラトピレ に城壁も明瞭に判読できる。大規模な構造物の遺構 セル1世〕はティグリス門の塔から…・および内市 は,市の北部に集中しており,東北端に突き出た部 の城壁まで,遺丘のように土を積み強化した。その 分は,円弧状の壕で区画されている。この辺りが 前面に堅固な城壁を新しく築いた。余は上から下ま アッシュール発展の歴史的核であったと思われる。 で完成させ,記念の銘を刻ませた。」(『メソポタミア ティグリス川沿いに,南に突き出た部分は「新市」と 王室碑文』A.0.87.3) されている。なお,衛星写真で市内に見える鱗状の アッシリアは前10世紀ごろから台頭し,ついには 古代オリエントを支配する帝国を築いたことで知ら 地物は不明。考古調査のために除去した表土を盛り 上げたものであろうか。 れる。しかし,アッシリアには帝国を形成する以前 から,アッシュールを都とする都市国家としての古 【参考文献】 い歴史があった。軍事国家としれ知られるアッシリ ’ Grayson, A. K. (1991) The Royat lnscriptions of アだが,古くは商業・交易を主な生業としていたら Mesopotamia: Assyrian Periods Volume 2, University しい。上の文書にあるティグラトピレセル1世は, of Toronto Press. 紀元前1100年頃のアッシリア王。帝国時代に入り, 首都がニムルド,ニネヴェに移った後は,アッシリ アの人々の主神アッシュールを祀る宗教都市として 一119一 バビロンのCORONA衛星写真:1968年8月16日撮影。 CORONA satellite photo over Babylon, taken on August 16, 1968. Photo available from U. S. Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA. バビロン り,方形で各辺が2スタディオンある。聖域の中央 に,縦横ともに1スタディオンある頑丈な塔が建て 「彼らは,『れんがを作り,よく焼こう』と話し合っ られている。この塔の上に第二の塔が立ち,さらに た。石に代わりれんがを,しっくいの代わりにアス その上に,というふうにして八層に及んでいる。」 ファルトを用いた。彼らは,『さあ,天まで届く塔 (ヘロドトス『歴史』1−181) のある町を建て,有名になろう。そして全地に散ら 衛星写真の中央には,周濠に囲まれた正方形の されることのないようにしよう』と言った。」(『旧 ジッグラトが見える。その北方に基壇状になった宮 約聖書 創世記』11−3) 殿の区画があり,有名なイシュタル門もこの脇に 人間の傲慢を戒める,この「バベルの塔」につい あった。現在では流路が変わったが,かつては市内 ての旧約聖書の記述はバビロンのジッグラトにつ をユーフラテス川が貫流していた。内側の城壁は いてのものとされる。バビロンのジッグラトにつ はっきりしないが,川の西側に城壁西北隅の痕跡ら いてはギリシアの歴史家ヘロドトスが,以下のよ しいものが認められる。外側のいわゆる「ネブカド うにより客観的な記述を残している。 ネザルの城壁」は明瞭に判読できる。長期間の定住 「この城壁はいわば鎧のようなものであるが,そ により地盤が高くなったとみられる領域はバビロン の内側にもう一つの壁がめぐらされている。外側 では広大であり,長きにわたり大きな人口を擁した の壁に比べて堅固さではさして劣らないが,幅は 大都市であったことをうかがわせる。 この方が狭い。町の両区域ともその中央に囲いが あり,一方は壮大堅固の壁をめぐらした王宮であ 【参考文献】 り,他方は『ゼウス・ベロス』の青銅の門構えの神 ’ Geogre, A. R. (1993) ‘Babylon revisited: archaeology 殿である。この神殿はわたしの時代まで残ってお 一 120 一 and philology in harness’, Antiquity 67, pp. 734−46, セレヴキア・ティグリスのCORONA衛星写真:1968年8月16日撮影。 CORONA satellite photo over Seleucia on the Tigris, taken on August 16, 1968, Photo available from U. S, Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD, USA, 衛星写真で見るセレウキア・ティグリスは,本稿 セレウキア・ティグリス で扱っているシリアのアンティオキアやアパメァと 「彼〔アレクサンダー大王〕の後継者の誰も,このこ 同様,典型的なヘレニズム植民都市の特徴を示して と〔バベルの塔の再建〕に興味を示さなかった。こ いる。すなわち市の中心を東南から西北に向けて大 の市はペルシア人やマケドニア人の無関心のため, 通りが貫通し,大通りを中心に格子状の街路網が構 荒れるにまかされた。とくにセレウコス〔1世〕勝’ 築されていた。大通り東南端北側には神殿もしくは 利鎌はバビロンから300スタディアの距離にある 宮殿の遺構と思われる区画も見える。全体として楕 ティグリス河畔のセレウキアを要塞化した。彼だけ 円形に見えるが,東北側の直線的な区画や西端の直 でなく彼の後継者たちもセレウキアを重視し,宮廷 角の突出を見れば,当初は正方形に近い長方形とし をそこに移した。今やセレウキアはバビロンよりも て計画され,後に大通りに沿って市街地が城壁外に 大きくなり,バビロンの大部分は荒廃している。ア 拡張したとみることもできる。 ルカディアのメガロポリスについて,『大いなる市 は大いなる荒蕪地』と冗談まじりにいわれるよう 【参考文献】 に。」(『地誌』16−1−5) ’ The Kelsey Museum of Archaeology, University of アレクサンダー大王は,東方遠征の後バビロンに Mishigan (1998) ‘Seleucia on the ligris, lraq’, 凱旋したことからもわかるように,バビロンをオリ http://www.umich.edu/一dkelseydb/Excavation/ エント支配の中心に位置づけていた。しかしストラ Seleucia.html ポンによれば,彼の帝国の東部を引き継いだセレウ コス1世とその後継者たちは,バビロニアの中心都 市をティグリス河畔のセレウキアに移したという。 一 121 一一 タ 1 s t 這 ロ 1 魂 f$ras 獣 セレウキア・ティグリスのCORONA衛星写真:1968年8月16日撮影。 coRoNA satellite photo over Seleucia on the Tigris, taken on August 16, 1968・ Photo available from U. S, Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, sD, usA, t