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リバタリアニズムにおける子供に関する一考察

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リバタリアニズムにおける子供に関する一考察
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察
Libertarianism and Children
中井良太
NAKAI Ryota
要旨 リバタリアニズムが実行可能性のある社会理論であるためにはその社会を維持し、
安定させることが必要であると考えられる。そのためには一定数のリバタリアニズムの想
定する個人が必要である。これらの個人はどのような人間か、また彼らは何処からやって
来るのかについてリバタリアニズムは答える必要がある。S. Horwitz はハイエクの業績に
依拠しつつ家族が子供を「ミクロ秩序とマクロ秩序の二つの世界で同時に生活出来る」よ
うにするミクロ㽎マクロ・ブリッジとして機能すると議論する。この議論が先の問いに答
える上で有益であると考えられる。彼の議論は家族を市場と相補的なものとして位置付け
るものであり、リバタリアニズムにも親和的である。更に、この「二つの世界で同時に生
活する」というアイディアは人間の多様性を真剣に受け止めるリバタリアンな人間象とし
て採用することが可能であるように思われる。
0.はじめに
本稿は、リバタリアニズムの家族論のための準備作業としてリバタリアニズムにおける
子供を論じるものである。リバタリアニズムが単なる福祉国家批判に留まらない実行可能
性のある社会理論であるためには、世代を超えて安定した社会をもたらすような原理であ
ることが必要である。リバタリアンがその社会の存続を望むのであれば、リバタリアニズ
ムの想定する主体としての個人が一定数存在することが必要であると考えられる。そのた
め、リバタリアンは、リバタリアニズムの想定する個人はどのような人間か、そして彼ら
は何処からやってくるのか、という問いに答えることが必要である。従来のリバタリアニ
ズム研究においてはこの点について蓄積が少なく盲点となっている1)。
リバタリアニズムは多様な思想群であり、その正当化根拠も様々である。しかしながら、
私的所有権制度を前提とする市場を信頼するという特徴は広く共有されていると云える。
よって、本稿では、リバタリアニズムの家族論のために市場との関係においても家族が重
要な機能を果たしていると述べる Steven Horwitz の議論を、リバタリアニズムの想定す
る個人はどのような人間か、そして彼らは何処からやってくるのか、という問いに答える
ために有益であると考え、検討を加える。彼の議論は、F. A. ハイエクの業績に依拠して
家族が現に果たしている機能が市場に不可欠なものであることを論ずるものである。
1)
この点に関連する議論を行っている文献は多くないが、自然権型リバタリアニズムの立場をとり子供
に関して成人とは異なる可能的な自己所有権者として論じたものに[ロスバード、2003]、子供の権利
について意思説ではなく利益説を支持する[森村、2002]、契約論を根拠とするリバタリアニズムから
子供はその契約の主体ではないとする(Narveson, 2002)、経済の帰結によってリバタリアニズムを正
当化する立場からは[フリードマン、2003]が子供について言及している。
214
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
1.大きな社会における家族の機能
ここではハイエキアン、S. Horwitz の議論の概要を取りあげる。彼は「ハイエクや他の
オーストリア学派の人々が家族の理論を提供できていないという Hodgson や他の人々に
2)
よる批判」
に対して、「ハイエクが「組織」
(organizations)或いは対面的な社会諸制度
と名付けるものと、「秩序」(orders)或いは大きな社会の匿名社会諸制度と名付けるもの
との間の懸け橋として理解され得る家族の機能によって応答される」3)と述べる。Horwitz
は大きな社会(The Great Society)において家族が果たしている役割を述べるが、これ
がリバタリアニズムにおける子供・家族の位置付けを考える際に重要な示唆を与えると思
われるので、彼の議論を紹介し、検討していくことにする。
彼は、まずハイエクにおける「組織」と「自生的秩序」の間の区別に着目する。この二
つに関して、
「組織」は単一の目的を持ち、非匿名的で、共通の特定された目的を目指す
ための命令・ヒエラルキーによるものであり、会社、消防団、軍隊等が該当する。また「自
生的秩序」は多用な目的が共存し、匿名的で、共通の目的を持たない人々が一般的ルール
に従った行動をとることによるものであり、言語、市場、民法や刑法等法の一部等が該当
する。このような区別を述べた後に、ハイエク主義の家族の機能と彼が主張するもの、す
なわち「…諸個人が各秩序の諸ルールとそれらの間の差異を学び、内面化することが出来
る保護された領域を供給することによって、ミクロとマクロ秩序の間の架け橋として役立
つその能力のこと」4)を述べる。
なお、Horwitz の使う「家族」という用語の示す範囲は、
「この論考で使用されるよう
に「家族」という言葉は、二親家族から義理の家族、片親家族、ゲイ・レズビアン諸家族
までの家族形態の大きな多様性を覆うことを意図されている」5)というものである。
1.1 ミクロ秩序とマクロ秩序
ハイエク主義の中に家族のような非市場制度の場所はないという主張に対して、Horwitz は、ハイエクが市場の限界の理論を提示しその限界の外では人々は家族のような非
市場制度への働きかけが出来る、と述べていることを挙げて反論する。この議論において
重要なのは、マクロ秩序とミクロ秩序を、或いはその代りのものとして「組織」と「自生
的秩序」を区別している点である。Horwitz はこの「組織」と「自生的秩序」との関係、
そして「組織」の特性を次のように述べる。
大きな社会(コスモス)の自生的秩序は無数の「組織」を包含し、全ての組織は、
全体としての自生的秩序の特性ではない様々な特性(諸ルールではなく階層制或いは
集合的選択の使用、目的の多様性ではなく単一性、匿名性ではなく対面関係)を共有
する。それらの特性は我々を市場の限界理論へ、或いはこの問題に対するハイエクの
2)
(Horwitz, 2005)p. 669
3)
(Horwitz, 2005)p. 669
4)
(Horwitz, 2005)p. 670
5)
(Horwitz, 2005)p. 674
215
人文社会科学研究 第 23 号
見方により整合的な云い方をするならば、組織の限界へと向かわせる6)。
人間の行為の結果ではあるが人間のデザインの結果ではない、という「自生的秩序」は
無数の「組織」からなるにもかかわらず、
「自生的秩序」の特性とそれを構成する「組織」
の特性はイコールではない。その特性の差異により、特定の目的を持ち制限された複雑さ
の課題には自生的秩序よりも「組織」の方が適切であると云える。例えば、
「火事を消す」
という単一で明確な課題には、自生的秩序よりも「組織」の方がより成功裡に対処出来る7)。
人間の設計によらない非計画的な自生的秩序よりも、
火事を効果的に消すように意図され、
階層的に命令が下される消防署のような「組織」の方がこの課題には有効である。
このようにハイエク主義は、自生的秩序である市場よりも「組織」が担うに相応しい事
柄が存在すると認めるのである。
「組織」に限界があるのと同様に市場にも限界があるの
であり、市場が全てを、家族のような非市場制度をも覆い尽くすような議論をハイエク主
義は採らない。そして Horwitz は「組織」と「自生的秩序」間の差異の一つをそれらに
含まれる複雑性の程度にあるとして以下のように解説する。
4
…彼[ハイエク]は社会における秩序の二つの源泉があると示唆する。それは、組
4
4
4
4
4
4
織(或いはギリシャにおいて「タクシス」
「作られた秩序」
)と自生的秩序(或いは「コ
スモス」、「成長した秩序」
)である。ハイエクは社会制度が両方の種類の秩序の要素
を含むことがあると認めるとはいえ、二つの秩序の間を区別するための一つの重要な
基準は、含まれる単純性或いは複雑性の程度に関係する。組織ははっきりと単純な構
造であり、秩序の製作者が見渡すことの出来る程度の複雑さである。加えて、組織は
大抵調査により直接知覚出来、組織を構築した人々の特定の(諸)目的に奉仕する。
対照的に、市場のような自生的秩序は、どんな程度の複雑性でも可能であり、それら
はルールに基礎があり、それらの構造は明らかではないかもしれないし、加えて、そ
れらは特定の目的に奉仕することはない。寧ろそれらはそれらに参加する人々の多数
の目的に奉仕する8)。
なお、Horwitz は、家族を「組織」と「自生的秩序」の両方の要素を持つものと論じて
いる9)。典型的な「組織」は目的の単一性を持つもの、例えば消防署のように火事を消す
という明白な共通の目的に奉仕するものであり、その目的のためにその構成員は上位から
の命令に服するものである。企業であれば利潤をあげることがその目的に該当するだろう
が、全ての家族がそのような単一の目的や命令構造を持っているかは疑問が持たれるとこ
ろである。ただし本稿の目的に沿って「組織」として家族を捉えるとするならば、家族の
6)
(Horwitz, 2005)p. 671.
7)
この消防署に関しては[嶋津、1996]内の「4.共同体の種類」で検討されてる M. オークショット
の挙げる例を参照。
8)
(Horwitz, 2005)p. 671
9)
(Horwitz, 2008)なお、本稿では取り扱っていないが、同論文では自生的秩序としての家族は、家族
がその形態をその時代時代において要請される機能を満たすために変化してきたことに見出されるとす
る。そのような家族形態の変化は誰かが意図的に設計したのではなく、家族の機能の変化に応じて進化
論的に起こったものである。
216
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
目的は子供を育てることや社会化すること、というものになるだろう。
次に、ミクロ秩序とマクロ秩序の区別についてであるが、これらは「組織」と「自生的
秩序」と対応するものであり、云い換えとも云えるのであるが、子供と家族の問題に関し
てはその特徴のうち中心となるのは行為者間の匿名性の程度である10)。
ミクロ秩序とマクロ秩序間の区別の中心となるのは、行為者間の匿名性である。諸
個人が意味のある程度の対面的な接触を持ち、互いに何を知っているか、何を好むか
を熟知しているところでは、企業や家族のような「意図的な」諸組織を創造すること
ははるかに容易である。しばしばそのような諸組織を特徴づける目的の単一性、命令
或いは意図的に協力し合う(ルールに基づくのと反対のような)諸構造は、諸個人が
お互いに高い程度に熟知している場合にのみ上手く働くことが出来る11)。
非匿名的な家族とは逆に、「自生的秩序」である市場においては互いに全く知らない人
間であっても人々は交換等を通じて相互に協力出来る。匿名性の下にある市場は、親密な
環境においてその構成員が互いに協力し合っている家族とは異なっている。ミクロ秩序と
マクロ秩序は異なる特徴、異なる諸ルールを持つが、この二つの秩序の関係に関して
Horwitz は次のように述べる。
…より重要なことに、ハイエクは、市場に自発的な諸組織の親密な空間の侵犯を許
すことがそれらを事実上破壊することになるだろうと認める。社会主義における彼の
業績が、自生的秩序である市場を一つの大きな故意的な諸組織にしようとすることは
それを破壊するだろう、と主張していたのと同様に12)。
「自生的秩序」と「組織」
、或いはマクロ秩序とミクロ秩序は、一方が他方を侵犯すると
破壊されるという関係にある。社会主義が自生的秩序である市場を計画的な「組織」にし
ようとしたことは市場を破壊したのと同様に、市場が家族を侵犯すれば家族もまた破壊さ
れるのである。そして、当然に親密で非匿名的な家族の諸ルールを匿名的な市場に適用す
ることは市場を壊すことになる。このようにマクロ秩序の諸ルールをミクロ秩序に、また
はその逆にミクロ秩序の諸ルールをマクロ秩序に適用することは、両秩序を破壊すること
になるだろう。非匿名的で親密な家族内にいる時の行為と匿名的な市場での行為は異なる
10)
(Horwitz, 2005)p. 673
なお、単一の目的を持つことと匿名性の低さが常に同居するとは必ずしも云えない。例えば、企業は
「組織」に含まれるが、従業員が全員顔見知りであるような小規模な非匿名的なものから、国境を越え
て活動しているような大規模な匿名的な企業まである。軍隊も単一の目的を持ち、命令によって動くも
のであるので「組織」に該当するが、軍隊全体が持つその巨大さ故にその構成員が互いによく知ってい
るという匿名性の低さはない。軍隊を構成する小さな部隊単位では匿名性は低いと考えられるが、実際
に軍隊としての目的のため活動するような単位ではそのような匿名性の低さはもはやない。軍隊も匿名
性の高い「組織」の一例に当たると考えられる。
ただし、本文でも述べたが本稿で扱う子供や家族との関係で云えば、最も重要な要素はやはり匿名性
の程度である。
11)
(Horwitz, 2005)p. 673
12)
(Horwitz, 2005)p. 672
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人文社会科学研究 第 23 号
ものになるのであり、その行為の際に従っているルールもまた異なるのである。よって、
人間は同時にミクロ秩序とマクロ秩序の二つの世界で生活しているのであり、マクロ秩序
たる市場でのみ、逆にミクロ秩序たる家族内でのみ生活しているわけではない。
ここまでで家族の「組織」としての面について議論し、それがハイエク主義の理論と矛
盾しないことを述べた。Horwitz の主張する家族独自の機能については次で論じる。
1.2 ミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族
ここでは Horwitz の述べるハイエク主義の視座が家族の機能へもたらす独自の貢献に
ついて紹介する。ここで鍵となるのは、彼が強調するハイエク主義における「同時にミク
ロ秩序とマクロ秩序の二つの世界で生活する」というアイディアである。
「同時に二つの世界で生活する」というハイエク主義のアイディアは、個人間関係
の親密さが、最大限可能な程度まで個人化される協力的な諸過程と報償=処罰システ
ムを通して成長と発展を準備する環境の中で人間、特に子供がミクロとマクロの両秩
序の諸ルールやそれらの適用の仕方を学ぶ、ことを可能にする一つの制度として家族
を理解する基礎となる。より具体的に云うと、ハイエク主義の「大きな社会」の概念
における人間行動にとって正に中心的なのはルールに従うこと(rule-following)で
あるが、家族はそのための規律を効果的に伝達することが出来るのである。子供達が
説明によって明示的に、実体験によって黙示的にという両方の仕方で、より広い社会
的な世界における行動を実際に支配しておりそして支配すべきである諸ルール、を学
ぶことが出来るのは家族の安全な基礎の中においてである。それは暗黙の社会諸規範
を学ぶための学校である。ある子供の他の人間との最初の相互作用は家族の構成員の
中で起こり、それらの相互作用や彼らの作る関係は、他の親密な関係や「大きな社会」
におけるもっと匿名性の高い関係に関するテンプレートの役割を果たす13)。
子供は家族の中で諸ルールを学習するが、その諸ルールには明示的なものと暗黙のもの
がある。明示的ルールとしては、一般的な正しいこと・悪いことの概念や様々な社会状況
における適切な行動があり、これらが家族内で学習される。すなわち、
「所有に対する一
般的尊重、強制の使用を慎むこと、個人として個人を尊重すること、礼儀作法の諸ルール、
信頼出来るかどうかを判断する能力、等は全て大きな社会における個人の日々の活動遂行
にとって中心をなす」ものであり、家族は「行動に関するそれらの諸ルールを学ぶについ
て唯一ではないが優れた場所の一つである」ということである14)。家族の他にも子供が所
属する匿名性の低い「組織」は存在し、例えば学校がそれに該当するだろう。しかし、
Horwitz はこれらが家族を補足するに留まるとし、代替することには否定的である。その
理由として彼は匿名性の程度に着目し次のように述べる。
親からの知識、諸規範、文化の伝達のためには、それをするための誘因は云うまで
13
(Horwitz, 2005)pp. 678-679
14
(Horwitz, 2005)p. 679
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リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
もなく、子供についての詳細な理解が必要である。人は家族から他の市民社会の諸制
度へ遠ざかるにつれて、より匿名的な、更に云えば次第に公的な相互交流へと到るが、
それらは様々な失敗について「許すこと」がより少ない。これは学校、保育所、或い
は「村社会」が確かに家族を補足するにもかかわらず、決して家族を代替することが
出来ない理由である。これら他の諸制度は多かれ少なかれ家族の濃密な親しさよりも
匿名的であり、それ故に決して、家族が出来る全ての物事について家族と同じ程度に
効果的であるわけでも、それをすることに同程度の強力な誘因をもっているわけでも
ない。この分析は、家族が「市場個人主義」と矛盾するという Hodgson の主張と対
照的に、家族を市場と自由主義的秩序の中心にある一つの社会制度として位置付ける
のである15)。
そして、何故家族が子供の社会化の準備において他にない地位を占めるのかに関して、
Horwitz は親の持つ子供一般ではなくその特定の子供に関する個別的な知識と誘因によっ
て説明する16)。家族の親密さはどんなものを好むのかといった特定の子供に関する知識を
その親にもたらし、これらの局地的・個別的知識は子供に対して明示的な社会ルールや社
会規範を伝達する方法を発見するに際して利用出来るのである。そして、ここでの誘因と
は、社会的関係に関する諸ルールを子供が身に付けない場合にその親が否定的な外部評判
効果を被ることから生じる。また、これら諸ルールを身に付けた子供の方が生き残り易く
親の遺伝物質を伝える確率が高いということから、ルールを子供達に伝達したいという親
の望みに関する進化論的解釈も指摘される。
次に、暗黙のルールに関して述べる。このルールは、「ハイエクが頻繁に主張したよう
に社会秩序の諸ルールの多くは、我々が意識していない諸ルールに従ってしばしば行動す
るという意味で暗黙のもの」17)というものである。この暗黙のルールは特に「大きな社会」
、
つまりマクロ秩序で機能する暗黙のルールであり、
言語によって説明出来るものではなく、
そのルールに従っている本人でさえもそれがどのように機能しているのかを理解していな
いこともあるルールである。よって、それらのルールの伝達は言語による説明ではなく、
観察と模倣によってなされることになる。このルールに関して Horwitz は次のように述
べる。
ハイエクは様々な社会状況、特に「大きな社会」という、より他人同士からなる世
界において、
我々の行動を導く数多くの諸ルールが暗黙の構成要素を持つと主張する。
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4
4
4
4
例えば、我々は所有を尊重するということは良い考えであることを知っているだろう
4
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4
4
が、所有権が何故うまく働くのかの理由を、或いは如何にしてうまく働くのかさえも、
言語化して述べることは出来ないだろう。
(中略)大人達はしばしばより親密な社会
状況においてでさえも彼らの行動を導く諸ルールをはっきり云うことが出来ないの
で、そのような諸ルールの学習は観察と模倣を通じて行われなければならない。親子
15)
(Horwitz, 2005)pp. 681-682
16)
(Horwitz, 2005)p. 679
17)
(Horwitz, 2005)p. 679
219
人文社会科学研究 第 23 号
が親密でいつも近くにいるという関係は、この観察と模倣の過程に関して他にない環
境を作り出す。殆んどの両親と子供達が共に携わる社会的諸行動の広がりは、子供達
に両親の社会的行動を観察し、模倣する多くの機会を提供する。子供達はこの方法で
の応用を通じて学習するにつれて、たとえ両親がその行動を導いている当の諸ルール
を明示的に述べることをしない、或いは出来ないとしても、観察した行動を内面化し
始めるのである。親は、見知らぬ人とやりとりしている時の彼女の行動を導く当の諸
ルールを説明出来ないかもしれないが、その子供はその行動を観察し、その後模倣す
ることが出来、そして、そうすることで現に働いている黙示の諸ルールを身に付ける
のである。このように、家族は、両親自身でさえ十分にははっきりと述べる、或いは
理解することが出来ない社会的な諸ルールの伝達ための一つの制度として働くことが
出来るのである18)。
更に、Horwitz は、このような模倣学習過程がより親密な社会的諸関係をどのように発
達させるかを学習する文脈でも働いている、と主張する。親子関係は、生涯に渡って似た
ような諸関係を作ることを学習することについての基礎なのである。どの様にして人間が
友情関係や恋愛関係を作り出すのかは容易に言語化出来ないが、それを作り出す過程は模
倣・経験を通じて学習され、子供の精神の中に深く刻まれるとされる。
子供達は、家族の親密さによって大いに促進される一つの模倣過程を通じて、マク
ロ㽎コスモスに関しての社会的なやり取りの諸ルールを学習するだけでなく、彼らは
同様のやり方で、親しさの諸ルールそれ自体をも学習することが出来るのである。家
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族は、親密なミクロ㽎コスモスと匿名的なマクロ㽎コスモスの両方において、社会的
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なやり取りの明示的、黙示的諸ルールを学習することに関しての一つの発見過程なの
である19)。
以上のように、家族はミクロ秩序とマクロ秩序の両方の明示的諸ルール・暗黙の諸ルー
ルを子供が学習する場として機能している。家族がこのように機能していると主張した上
で、家族と国家・市場との関係についても家族は意義があると Horwitz は指摘する。
家族は、少なくとも理想的には、国家と市場両方の侵入に対して一つの保護領域を
も供給する。市場の隆盛や国家によりなされる諸活動が私的領域としての家族の可能
性を生み出す手助けしたということは確かに真実である。一度家族が私的領域である
ことが確立されると、家族は今やこれらの広い経済的、政治的諸制度に対する一つの
緩衝装置としての機能を果たすことが出来るのである。この広く保護される領域の中
において、家族は我々がここまで議論してきた諸機能を果たすことが出来る20)。
18)
(Horwitz, 2005)p. 680 傍点部は原文において斜字体。
19)
(Horwitz, 2005)p. 681 傍点部は原文において斜字体。
20)
(Horwitz, 2005)p. 681
220
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
家族は、市場にも国家にも吸収されない領域として意義がある。ミクロ秩序とマクロ秩
序のどちらかが他方に侵襲すると、その侵襲された秩序が壊れてしまうからである。
そして、Horwitz はハイエク主義の視座がもたらす家族の理論を次のように述べる。
ハイエク主義のアプローチが提供出来るのは、非保守主義的でありながら一つの社
会制度としての家族を擁護するとともに、複合的な学問分野の研究成果と矛盾しない
ような家族の理論である。このアプローチは家族が果たす複数の機能の必要性を認め
るだろうが、適切に、或いは最もよくそれらの機能を果たすだろう種類の形態につい
てオープンにしておく。実際それは、ハイエク主義の自生的秩序論の、そしてより広
くはリベラルな政治理論の、自然な敷衍であるように思われる。ハイエク主義者は、
正しい諸制度によって枠付けられる場合には進化論的な経済諸過程が重要な社会利益
を生み出すだろうと予期したのとまさに同じように、常に変化している家族を生じさ
せる進化論的諸過程が同様な利益を生み出すだろうと予期する筈である21)。
Horwitz の議論する家族の機能、すなわちミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族の機
能をまとめると次のようなものである。子供は、匿名性が低いミクロ秩序たる家族の中で、
言語によって説明されたり彼の親の行動を観察・模倣したりすることでその家族の行為の
(暗黙の・明示的両)ルールを学習する。家族内で最初に学習するルールはその家族のルー
ルだろうが、そのルールを学習する家族内の関係は家族以外の「組織」のルールを学習す
る際のテンプレートとなる。そして、このテンプレートはミクロ秩序のみで働くのではな
い。ミクロ秩序とは異なる、匿名性の高いマクロ秩序のルールを学習する際にも、家族内
でルールを学習したことがテンプレートとして働くのである。この意味において家族がミ
クロ秩序とマクロ秩序を架橋するという機能を果たしているのである。
そして、
このブリッ
ジとしての機能の必要性を擁護した上で、Horwitz はこの機能を最も良く果たす形態につ
いては設計するのではなくオープンにしておき、進化論的過程に委ねるとしている。
2.Horwitz の家族論の検討
2.1 「組織」としての家族――私的所有権制度とのアナロジー
本稿の関心に従って、
「組織」としての家族の目的を子供の養育と見た場合、社会にお
ける子供に関する決定のコストを削減する機能を果たしているものとしても Horwitz の
議論を語り得る。
この点に関連するものとして、Horwitz 自身は所有との類推を指摘し、所有の集産化へ
の伝統的な反論が家族に関しても当てはまると述べる。彼の議論では、子供の成長につい
ての責任を両親の手に委ねることが、その子供に関して最も知識があり最も大きな社会的
生物学的誘因を持つ人物に子供についての決定をする権利を与えることになる、
とされる。
親に子供が成長することに対する責任、必要な個別的な知識、インセンティブがある場合
と、責任が拡散し、
世話をする人が必要な知識と誘因を欠いている場合とを比較して、
「
「村
21)
(Horwitz, 2005)p. 683
221
人文社会科学研究 第 23 号
落共同体の人々」
に子育てを許すことが成功しそうもないのは、
かつて
「村落共同体の人々」
に農業或いは工業の運営を許したことが成功しなかったのと同様である」22)と述べる。
この私的所有制度とのアナロジーを、所有物をどうするかの決定に関する社会的コスト
の点から考えてみる。私的所有制度が存在する世界では「私のものだから」という理由で
特定の所有物をどうしてそのように使用・収益・処分するのか、を他の誰かに説明する必
要無く所有物を使うことが出来、所有者以外の人間が「所有者がそう決めたのだから」と
いう理由で所有者の判断を尊重する。それに対し、共同体的所有の場合にはある財につい
て共同体の構成員の合意が得られるまで如何なる処分も許されないことになる。更に市場
との関係で云えば、私的所有制度により所有権者は彼個人の責任において自由にその当の
所有物を使用したり処分したりすることが可能になり、その結果生じる利益や損失を引き
受けることになる。市場はこのような私的所有権が確立している世界でこそ有効に機能す
る。すなわち、各人がそれぞれの持つ利用可能な資源に関する知識や情報を活用して行動
し、その結果として成功或いは失敗し、それにより知識や情報が模倣・伝達されるという、
ハイエク的な社会に分散する知識の発見過程としての市場には私的所有が不可欠なのであ
る。私的所有制度のない中央計画経済では、各個人の持つ分散した知識を利用することが
出来ず、市場の持つこのような機能を代替することは出来ないのである。以上が Horwitz
の云う「所有の集産化に対する批判として提起される議論」の概要と考えられ、これと子
供・家族が類比として考えることが出来ると彼は主張する。
所有権制度の存在は、所有者の権限で彼の所有物を自由に使用出来、他の人間はそのこ
とに関して強制的な介入が出来ないという状態をもたらし、この事は共有物の場合に比べ
てその決定に関するコストを減少させることになるのである23)。同様に「親だから」とい
う理由で自分達の子供への養育等に関する事柄を決定してもよいという社会なら、そうで
はない社会、例えば共同で子供を養育するような社会と比較すると、決定をするためにか
かるコスト(例えば共同で子供を育てている複数の人々にその決定の理由を説明し、同意
を得るための労力やそれにかかる時間等)を減少させている。
更にこのアナロジーを市場と企業家24)との関連で考えるならば次のようになる。市場
と私的所有権制度がある会社すなわち個人の資格において自己の所有物をどうするかを決
定出来る社会は企業家の活動にとって不可欠である。企業家は自己の責任で発見されてい
ない利潤と機会(と彼が考えるもの)を発見し、それを利用して成功したり失敗したりす
る。成功した場合は模倣によりその利潤機会の利用は社会に広まり、失敗した場合もその
情報があれば他の人々の行動の指針になり得る。これにより、誰にも強制することなく、
個人が分散された知識を発見・活用して成功(又は失敗)したことが社会に伝播していく
ことになる。社会全体としてトライアル・アンド・エラーを行うということをせずに、個
人単位で行われたトライアル・アンド・エラーの成果が、結果として社会に模倣を通じて
広がっていくのである。個人ではなく社会全体が集合的決定としてそれを行う場合には、
失敗した際に社会全体が望ましくない帰結を被ることになり、更に集合的決定の性質上そ
22)
(Horwitz, 2005)p. 682
23)
所有権制度がコストの削減となっている点に関しては[嶋津、1992]、[嶋津、2010]pp. 45-47. 参照。
24)
企業家に関しては[江頭、2003]参照。
222
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
れを望まなかった個人にもそのチャレンジのリスクを強制的に負わせることになる。社会
全体でのチャレンジは、個人としてそれを行う場合とは同じ土俵で論じる事が出来ない深
刻な事態になる恐れがある。
このモデルが家族(ここでは親子関係における親の子供の養育に関する決定権)におい
ても妥当であるかが検討課題となる。私的所有のモデルでは本人が自己の行動の責任を負
うが、家族に適用すると子供に関して本人でない親が決定することになる点が問題と云え
る。しかし、本人である子供に決定出来る能力がないとするならば、繰り返し述べたよう
にその子供に関する特定の知識とインセンティブが最もあると考えられる親にその子供の
養育に関する決定権を委ねることが他の人間に任せるよりも妥当と云えるだろう。
なお、当然のことであるが、所有権とのアナロジーで親の子供への養育を語ったからと
いっても、そのことは親が子供に何をしても良いということを意味しない。リバタリアン
であれば子供の(少なくとも狭義の)自己所有権、つまり身体を侵害することは許されな
いと云うであろう。
2.2 リバタリアニズムとの整合性の検討
ここではミクロ㽎マクロ・ブリッジがリバタリアニズムと何処まで整合的なアイディア
なのかに関して検討する。デイヴィッド・アスキューの分析によると25)、リバタリアン論
者の相互作用の原理には基本的に「情愛」
(利他心・博愛心)
・
「交換」
(自愛心)
・
「強制」
の三種類しかない。そして、情愛と交換にのみ基づく自由秩序の構築が可能であり、リバ
タリアニズムにおいては強制は不要であると主張する。
リバタリアン論者は、文明を維持するためには、人間は二つの領域――情愛の場及
び交換の場――に同時に住まう技を身につけなければならない、と力説する。彼らに
よれば、自由秩序の人間関係は、家族や小規模な共同体などにおける支配原理である
情愛に加えて、市場における支配原理である交換の二つに基づくものでなければなら
ない。家庭生活(domesticity)とは、市場のアンチ・テーゼでありながら、同時に
市場を補完するために不可欠なものである、と理解されている。というのも、家庭生
活は市場の没人格的関係からの避難所であり、有機的関係が実践できる場だからであ
る26)。
この議論において家族や共同体は情愛の場、市場は交換の場、国家は強制の場と位置付
けられている。アスキューによれば、リバタリアンは強制の行使を可能な限り排除しよう
とするので国家の機能を縮小しようとする。情愛と交換の原理の場は、Horwitz の採るハ
イエク主義の議論ではミクロ秩序(
「組織」
)とマクロ秩序(市場)に対応するだろう。家
族は、Horwitz も述べるように私的領域として確立してしまえば、市場と国家からの緩衝
領域となる。ミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族は強制の場である国家に対する緩衝
となり、市場を補完するものであるため、リバタリアニズムとも整合的なものであると云
25)
[アスキュー、2000]pp. 64-65
26)
[アスキュー、2000]p. 64
223
人文社会科学研究 第 23 号
えるだろう。
アスキューは強制を排除する私生活自由放任主義をリバタリアニズムが提唱していると
理解する27)が、国家との関係で云えば Horwitz の議論も家族への強制的介入を否定して
いると云え、この点でもリバタリアニズムと親和的である。家族を国家からの保護領域、
私的領域としているからである。なお、国家が私生活に強制的手段を用いて介入しないと
いうことは、各人は私生活において何をしてもよいということを意味しない。国家論とし
て私生活放任であるとしても、その社会が厳格な道徳世界を持ち、その道徳に従って非難
と賞賛がなされるような社会では国家が何らかのサンクションを用いて介入せずとも人々
が放縦な行為を繰り返すとは考え難い。Horwitz は、人間、特に子供について報償・処罰
システムを通じてミクロとマクロ秩序の諸ルールを学習すると述べる28)が、このシステ
ムを認める以上、全く他人に関心がないような個人を想定しているわけではないだろう。
更に、ミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族は自然権としての自己所有権論の中に位
置づけることも可能であるように思われる。家族は、狭義の自己所有権(自己の身体への
所有)を所持する子供が、広義の自己所有権の対象物(ここでは狭義の自己所有権の拡張
としての私的所有物・財産への権利)を獲得する能力を持つ成人へと成長していく場所と
云える。子供は狭義の自己所有権を持つので彼の身体への侵害等は許されないが、その権
利の拡張として自己所有権論で描かれる財産を獲得する能力は少ない(勿論子供に所有権
はないという意味ではない)。その子供がミクロ秩序(非匿名的な社会)の一つである家
族の中で観察・模倣を通じて諸ルールを学習し、それを通じてマクロ秩序(匿名的な社会、
市場)でのルールを学習していくテンプレートを形成し、二つの世界で生活する能力を身
に付けていくのである。自己の身体への不可侵の所有権を持つ存在からそれに加えて所有
物を獲得することが出来る存在になるために不可欠な場所として家族は位置づけることが
可能だろう。
2.3 ミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族の敷衍
所有権とのアナロジーの箇所で検討した家族像は、各家族において親が親であるという
資格で子の養育に関する決定を行い、それが尊重されるというモデルだが、その中でリバ
タリアニズムを崩壊させるような人間像(例えば私的所有を尊重しない人が多数存在する
と市場は機能せずリバタリアンな社会は成り立たないだろう)を目指した教育がなされる
ことも考えられる。特定の人間像を打ち出すことを避けようとするリバタリアニズムの論
者はそれを容認し、容認したとしても市場やそれを支える私的所有が崩壊するとは考え難
いので問題ないと云うことになるだろう。このタイプの論者はリバタリアニズムの利点の
一つとして特定の人間観を前提としないことを挙げる29)。
これに対して子供に対するリバタリアニズムへの陶冶を考えるというアプローチも考え
得る。吉永圭は自己所有権論を肯定するリバタリアニズム(これは自然権としての自己所
有権に基づくリバタリアニズムに限定されない)と陶冶について議論している30)。その議
27)
[アスキュー、1994]p. 46 及び[アスキュー、1995]pp. 90-95 参照。
28)
(Horwitz, 2005)p. 679
29)
[森村、2005]参照
224
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
論の中で、権利侵害を防止することはリバタリアニズムに必要なことであるが、国家の機
能が必要最小限にまで絞り込まれるリバタリアニズムの想定では、秩序破壊的行動をせず
また秩序が動揺した時にはそれを安定させようとするだろう、という人々の「期待」が大
きく、それの実現のためには多くの領域で個々人の自発的行動がその秩序を左右すること
になると述べられる。そして、ここでの「期待」は自己所有権の肯定に裏打ちされた規範
的意義を有しているとされる。その理由は、自ら支持する自己所有権に付随している義務
に裏打ちされているものだからというものである。
…人間が他者の権利を侵害しないようにするだけで人間生活が望ましいものにな
る、そこには如何なる積極的な哲学的人間学も不要である、という立場は果たして現
実性を有するのであろうか。
そもそも国家による人間生活への干渉を退けることを企図する際に、「人間には自
己所有権がある」という命題(α命題)と「一定の人間観を前提にする必要がない/
すべきではない」という命題(β命題)は必然的に結びつくものではない31)。
このように述べ、
「秩序維持の為には、α命題と「一定の人間観を前提とすべきである」
32)
という命題(γ命題)を組み合わせる必要がある」
と主張する。国家権力の縮減を企図
するリバタリアニズムにおいて優先されるべきなのは、特定の人間観の押し付けを避ける
β命題ではなくα命題であるとし、自己所有権を各人に認める際に負う義務としてγ命題
をとらえる。そして、それは「善」の領域ではなく「正」の領域の議論であると主張する。
この議論は自己所有権論に関するものであるが、私的所有権一般に関しても同じことが
当てはまるだろう。リバタリアニズムが市場を肯定的にみるならば、その前提となる私的
所有を尊重しない人間が多数派になることは致命的である。Horwitz のハイエク主義はミ
クロ秩序とマクロ秩序の両方で同時に生活することを支持する。マクロ秩序たる市場が機
能しなくなる事態は避けるべきである。Horwitz は、私的所有への一般的尊重が家族内で
学習される諸ルールの内の一つであると述べるが33)、これに反するようなことを子供に教
育するようなことはミクロ㽎マクロ・ブリッジの家族論において許容されないであろう。
Horwitz の家族論において許されないと思われることについて述べたが、一方で彼の家
族論は親にその子供に関する広範な教育に関する判断を任せるようなモデルと云える。
Horwitz はミクロ㽎マクロ・ブリッジとして機能する家族の形態をオープンにしておくが、
広範な決定権を親に与えることになるため、どのような教育をするかもその親の判断に含
まれていると理解出来る。このように理解すると、教育内容については一定の範囲内で独
自の教育にチャレンジする親が出てくることも許容していることになるだろう。この点に
ついて再び市場と企業家とのアナロジーを用いて考察してみる。
市場における企業家はまだ誰も気が付いていない利潤機会を発見するものであり、その
ために挑戦しその結果成功したり失敗したりする。成功した場合はそれを模倣する人が出
30)
[吉永、2007]pp. 211-214 参照
31)
[吉永、2007]p. 213
32)
[吉永、2007]p. 213
33)
(Horwitz, 2005)p. 679
225
人文社会科学研究 第 23 号
てきて、分散されている有用な知識が発見され模倣され活用されることになる。チャレン
ジの結果は本人が負うが、成功または失敗した情報が伝達されることにより本人以外にも
利益がある。彼によってまだ誰も気が付いていない新しい知識が発見され、それにより他
の人々が模倣したり逆にそれを避けたりする事が出来るからである。このような企業家が
存在することにより誰も強制することなしにトライアル・アンド・エラーの結果に関する
情報が広がり得る。
同様に「発見過程としての家族」内で独自の教育(例えば音楽に特化した教育・訓練)
を行うような親がいるだろう。これはどの程度の親がそのようなことをするかわからない
が、他の家族と異なることをするので挑戦する強い個人ならぬ「強い親」であることが必
要で、しかも周囲がその挑戦を尊重するような社会の方がその挑戦が起こり易い。それが
成功したとみなされると、模倣によりその教育が広がり他の家族にも利益になるかもしれ
ない。しかし、市場の企業家モデルとの重要な差異も存在する。それは、どんな教育を施
すかを決定するのが親で、その結果を最も受けるのは子供だという点である。市場におけ
る企業家は自己の責任において行動し、その結果の利益や損失を受け入れるものであり、
本人以外が決定したチャレンジの結果を受けるというものではない。ただし子供に関して
は親に子供に成功してほしいと考える誘因が最もあり、親がその教育の結果に全くの無関
係なわけではない。それに特に小さい子供に関してはどのような教育を受けるかを選択す
る能力はないのだから、本人以外が決定しなければならないならば矢張り親の判断に任せ
るしかないだろう。
このモデルは、トライアル・アンド・エラーを家族単位で実行するものである。家族の
教育の役割、自由度を高くすることで、ミクロ秩序たる家族内から出てくる子供にある範
囲で多様性を持たせることが可能であろう。そして、将来どのような能力への需要が増え
るかについての知識の不完全さを前提とするならば、
「発見過程としての家族」も一定の
利益が見込めるだろう。これはつまり市場において各主体が行うことを家族単位を主体と
して実行することになる。これは、子供に関しては完全な個人主義的リバタリアニズムを
適用するというよりも、小さなグループ(家族)にその論理を適用するようなリバタリア
ニズム像となる。リバタリアニズムでは各個人に他者からの強制を受けない領域を作り、
個人の自由を保障するが、リバタリアニズムが想定するような個人に成長していない子供
に関しては、彼らが属する共同体である家族単位で自由を保障されることになる。また何
処まで教育の自由を認めるかも問題となるが、義務教育を認めるならばそれ程デメリット
はないだろう。このモデルは、安定的で変化が少なく将来の予想が容易である社会ではそ
れ程利点はないが、変化の激しい社会においては様々なことが試みられ、成功又は失敗の
情報が伝達されることが起これば利点になり得るだろう。しかしながら、この議論は家族
内での教育の内容に関する情報がどれ程他の家族に伝達されるかに依存する。
3.結語
本稿では、リバタリアニズムにおける家族論のために、リバタリアニズムの想定する個
人とは何か、そして彼らは何処からやってくるか、という問いを設定し、それに対して
Horwitz の議論が応答し得ると考え、彼の議論の概要を示した上でその可能性に関して検
226
リバタリアニズムにおける子供に関する一考察(中井)
討した。彼のミクロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族論は、家族が市場と相補的なものと
して現に機能していることを示し、それによりハイエクの体系の中に家族を位置づけてみ
せた。そして、彼の議論は市場を重視するリバタリアニズムとも親和的であり、少なくと
も対立するものではないと云えるだろう。よって、本稿で掲げた問いへの応答として、リ
バタリアニズムの想定する個人は「ミクロ秩序とマクロ秩序の二つの世界で同時に生活出
来る人間」であり、彼らがそのような人間になっていくについてミクロ㽎マクロ・ブリッ
ジとしての家族が重要な機能を果たしている、つまり彼らは家族からやってくる、と述べ
ることは可能だろう。
しかしながら、本稿で検討しきれていない難点も存在する。本稿では親に子供に関する
決定を行う広範な権限を与えているが、それでは明らかに悪しき帰結を子供にもたらすよ
うな決定を親が行った場合もその決定が優先されるのだろうか。例えば、宗教上の信条を
理由に親が子供に対する輸血を拒否するといった事例が考えられる。この事例では、場合
によっては子供の生命に直結することを本人でない親が決定することになる。これは如何
に親が子供に対して知識と誘因を持つとはいえ、自己所有権論を採るリバタリアニズムか
らすれば(狭義の)自己所有権に対する取り返しのつかない決定を本人ではない他人が行
うことになる。ここまで影響が深刻な決定を本人ではない他人が行うことをリバタリアニズ
ムは許容するだろうか。このような決定は親の権限を逸脱しているように思われるが、ここ
で挙げた宗教的信条や慣習、文化等を子供に伝達するなと主張することは困難である。こ
れらは行動に関する暗黙のルールと結びついているため、これらを伝達しないことはミク
ロ㽎マクロ・ブリッジとしての家族の機能を阻害する恐れがある。また、ミクロ㽎マクロ・
ブリッジとしての家族論はあくまで事実としてそう機能しているのであり、これが規範とし
てそうしなければならないと主張出来るかも検討しなければならない問題である。本稿で
は、これらの問題を指摘するにとどめ、今後の課題としたい。
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