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海外視察 - 日本ダクタイル鉄管協会

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海外視察 - 日本ダクタイル鉄管協会
3
8
昭和 4
8
. 5 第1
4
号
鋳鉄管
臨轟轟轟
東甫アジア
開記
日本鋳鉄管協会理事長
清水清三
1. 概 況
水団連行事のーっとして「東南アジア水道
機 器 市 場 調 査J というものがあるが、今回は
に分ける。第一期は 1973~1975年で十 1 t
/
s
e
c
.
第二期は 1975~1977年で十 1 t
/
s
e
c
.、 第 三 期
第 3回 目 で あ る 口 仲 島 、 河 田 、 大 塚 、 橋 本 の
は 1977~1980年で+
年
四 氏 と 私 で 五 名 の 調 査 団 を 組 織 し 、 昭 和 47
要 す る 費 用 は 外 貨 で2,
500万ドル、およびイン
1
1月1
5日より 1
1月29日までの 1
5日間、インド
2t/sec.で あ る 。 こ れ に
4
億ルピヤ(1ルピヤは約0.7円)
ドネシヤ貨で 6
ネシヤ、シンガポール、タイ、香j
巷を回った。
である D その計画の主要部分は政府決定で、
ここにかかげるのは、その日記に相当するも
これによりジャカルタ市は 3
0
0m/
m以 下 の 配 水
のである口
管の計画を行なう。現在は口径 4庁以上のもの
調査は主としてインドネシヤとタイについ
てである。その目的を達するためには、これ
らの国の水道の現況と将来計画を調べる必要
を鋳鉄管でやっている。また既設の老朽施設
の維持、改良は市当局で行なう。
地方都市については、今のところ七つの都
がある。その詳細は水団連の報告書にもあり、
市(サマリンダ、マラン、パニワンギ、ジョ
ここには省くこととするが、その要点だけを
クジャカル夕、プロウオケット、チレボン、
あげると次のようである。
ジャムピー)について計画しており、チレボ
争インドネシャ φ
ジャカルタ市の現状は 1
970年 で 人 口 489万、
20万、そのうち 120万 は 配 水 管 に
給水人口は2
ン(人口 1
7.5
万)ジャムピー(人口1
2万 ) に
ついては日水コンで設計中である。
争タイ国争
よる給水、 1
00万人分は売水による。(売水と
タイ国については、首都圏台よびその周辺
は共同給水栓から水売り商人がドラム缶など
9地 区 に つ い て は 首 都 圏 水 道 公 社 に よ り 行 な
で各家庭に水を配る。)
1980年の予定としては総人口 610万、給水人
000年である。
う。首都圏水道の目標は紀元 2
現 在 の 総 人 口 約3
00
万人、給水人口は1
85万 で
口 470万 人 と し 、 そ の う ち 配 水 管 に よ る も の
000年には総人口 1,
000万人、給水人口
あり、 2
320万、売水によるもの 1
5
0万 人 分 で あ る 。 新
50万 と 考 え て い る 。 そ の 時 の 給 水 量 は 430
は8
増加能力は 4t
/
s
e
c
.で あ る 。 こ の 計 画 を 三 期
万t
/
dと考えている。配水本管は 1,
500切zとし
東南アジア見聞記
ている。周辺地区はこれから計画される D 首
3
9
ない。気にしていた気候も、日本の夏とあま
都圏の第一期計画としては 1973~1977年の 5
り変わりがないようである。チェンマイはタ
カ年計画で、現在の給水能力 1
20万 tを240万 t
イ国第二の都会で避暑地といわれ、パンコッ
にする。その費用は 3
8.84億 パ ー ツ (1ノてーツ
ク住民の息抜きの場所であり、正月休暇のホ
5円)である。その後の 2000年 ま で の 計
は約 1
テルの予約は 2カ月位前から必要だそうであ
0
億パーツ (
1,
200億円)とい
画はタイ側は約 8
る
。 4
8年 の 正 月 に タ イ 国 へ の 日 本 旅 行 者 が 3
っているが、日本側の見方では 1, 500~2 , 000
万人と称されているが、おそらくパンコック
億円位だといっている。今のところ 1
978年 以
もチェンマイも日本旅行者で充満したことだ
後は全然未計画である口第一期計画の財源は、
ろう口
首都圏水道の資金と園内地方起債、および外
債を各%宛と見込んでいる口
地方都市水道は地方都市水道局で、計画せら
羽 田 を た っ た の は 午 前1
0時 30
分 (9時 3
0
分
発のおくれである)。香港、シンガポールを経
9時 1
0分 ( 日 本 時
てジャカルタに着いたのは 1
973年
、 1
974年 の 計 画 と し て 新 設 合 計 1
9
れ
、 1
間2
1日
寺1
0
分)である。 2時間の時差である。
都 市 、 拡 張2
2
都 市 、 合 計4
1都市といっている
香港もシンガポールも空港待合室から飛行機
が、どの程度できるのか疑問である。
に入るたびに金属製品のチェックを行なう。
チェンマイ水道は、すでに東京設計で設計
ハイジャックの影響である。空港の迎路に並
5.5万 人
して第一期工事完了時の給水人口は 1
0
分近くもかかる。係員の諸君は極
んでから 2
給水人口は 4
2,
500人となっている。
めて努事心である。
2. 羽田よりジャカルタヘ
私 達 の 調 査 団 一 行 5名は 1
1月 1
5日東京羽田
ジャカルタの空港では兼松の猪田支唐長ほ
かトーメンからも和田氏ほか、および日水コ
ンの中島氏ら 6~7 名の出迎えを受ける。直
空港を出発、インドネシヤ(ジャカル夕、ス
ちに出迎えの乗用車でホテルに向う。最も有
ラパヤ)、シンガポール、タイ(パンコック、
難いことである。ただしホテルは、その夜は
チェンマイ)経由香港に到着、ここで一応解
「ジャカルタホテル」に回され、翌日から予
1月 29日東京着、他の三
団、私と仲島団員は 1
約の「インドネシヤホテル」である。インド
君は台湾を経て帰国した。
ネ シ ヤ ホ テ ル は 部 屋 の 使 用 効 率 96%とか、世
私の最初気にしたのは気候である。出発時
は夏服、夏肌衣にレインコートを着用した。
界第二のレコードがあるそうだ。近頃は特に
世界中よりのジャカルタ訪問客がふえ、ホテ
途 中 香 港 空 港 に て 約 1時 間 体 憩 。 こ こ は 大 し
ル満室の日が多いそうである。街の所々に新
て暑さを感 Uな い 。 シ ン ガ ポ ー ル 空 港 で の 休
築中のホテルが自につくのも当然のことであ
憩 約40
分は赤道直下であるが時刻の関係もあ
る
口
り、さほど暑くもない。この間の温度は機内
ジャカルタホテルは二流以下のようであり、
8。、シンガポール 29
、
。
アナウンスによると香港2
メインピルは近代式であるが、われわれの入
ジャカルタ 3
0。ということてもあった。ジャカ jレ
ったのは旧館の平家建て¥各部屋共広くて風
タは南緯 6
.
5度 で 1
1月 よ り 雨 期 に 入 る 玖 気 温
格はあるが、冷房、浴室なく扇風機付で、棚
としては最も高いように思うが実感は日本の
式の洋服ダンスーっというおそまっさである。
夏とあまり変わらない感ビである。パンコッ
さしずめこの辺は大正時代とでもいおうか。
3
度位であるが、 1
2月より幾分涼し
クは北緯 1
インドネシヤホテルは世界の一流である。一
い気候になるはずで、あるがやはり日光の下は
般に開発途上国の一流ホテルは欧米の一流ホ
1月下旬から 4月上旬まで
暑い。私がかつて 1
テルにも比すベく、日本の一寸したホテル等
パンコックに居住していた記憶から、 1
1月下
比 べ も の に な ら な い の が 通 例 で あ る 。 昭 和 47
旬はもっと涼しかったように思うが、それも
年1
2月には日航ホテルができるそうであり、
生活態度の相違による気持の上の差かも知れ
49年 開 屈 を 目 指 し て ジ ャ カ ル タ 第 一 の ホ テ ル
4
0
昭和4
8
.
鋳鉄管
を建築中とかいわれている口
1
6日午前 9時 30分 に イ ン ド ネ シ ヤ ホ テ ル に
移る予定。
5
第1
4
号
と思う。またも一つには、日本という国は技
術者を行政官に使いすぎる。この見方からい
えば水道技術者は一概に足りないともいえな
し
瓦
。
3. インドネシヤ
場官公庁訪問と親善パーティー争
1
6日 午 前 日 時 、 タ マ リ ン 通 り の 日 本 大 使 館
セティアプディ街の日水コン事務所を訪れ
る。午後 2時 す ぎ で あ る 。 相 変 わ ら ず 暑 い こ
とてもある。
を訪問する。まず岩本一等書記官にわ会いし
中島重樹所長にお会いする。ちょうど北村
て、インドネシヤ水道事情の概要の説明を受
氏も日本より出張中とのことで同席していた
ける。その後で田中大使に会見、大使は同時
だく。インドネシヤにおける水道事情と調査
5分 の 時 間
刻の他の会見を割愛していただき 1
計画上のご苦心談をお聞きする。
をいただいた。その日の夜のパーティーの出
この国の現在のやり方はコンサルタントで、
席のお約束も了承された。波多野参事官、ー
計画年次、給水人口、給水量を定めさせ、最
ケ谷書記官にもご挨拶する。
も経済的な風に計画するのだそうである。日
日本の水道は進みすぎているので、インド
本式にいえば、それらのことは発注する役所
ネシヤ水道の話をしても、また逆にインドネ
で予定し、これに合うよう効率的な設計を作
シヤに日本の水道の話をしてもピントが合わ
るのが習慣であるが、ここではその分までコ
ないかも知れないということだが、一応ご説
ンサルタントの領分だそうである。従って、
明をお聞きする。一言でいえば街の表情は明
各都市の実情に合うようプロポーズせねばな
治から昭和まで雑居しているが、水道につい
らない。大変な仕事である。早くこの国の技
0年頃までの雑居の感じ
ては明治から昭和の 3
術者に、この辺の所を教えないといつまでも
である口ジャカルタ水道は人口 4
8
9万 (
1
9
7
0年)
厄介なことである。コンサルタントの仕事は
で、計画としての給水人口は 220万とのこと、
この際やり甲斐があるにしても、彼らがいな
まあ昭和 20年 代 と い お う か 、 地 方 で は そ れ 以
くなれば不自由で事が進まないということに
前の感、りがあるからである口明治大正時代と
なりかねない。経済的に作るためには、各家
いっても、水が足りないという意味でなく、
庭を訪問してその意向をきき、給水率は売水
住民が必要としないのである。日本でも大正
を含めて実情に合うようにする。計画年次も
時代に大阪市に水道がありながら、市民の一
早いのみがよいのではない、ということにな
部にはなるべく家の中の井戸水を使う風習が
る
。
あった。私の少年時代もその一人である。井
日水コンの話にも出たが、「物を売る」とい
戸水は夏は冷たく、冬は温くすこぶる都合の
う考えより「方包設を作る」という考えになら
良いものである。この点、からいうと、ジャカ
ねばならぬ口このことは日本でも通用するこ
ルタでは住民の水道要求に対しではなはだし
とである D ま た 出 先 業 界 の た め に 、 日 本 政 府
く給水量が足りないのであり、地方では需給
はもう少し力を入れねばならない。例えば調
が見合っているとすると、ジャカルタの方が
査業務、コンサルタント業務にしでもなんら
おくれているということになる。明治大正が
かの形で政府のパックアップが必要。このこ
昭 和 20年代よりも進んで、いるとはいわないま
とはよい設計、よい施設を与えることに連ら
でも、平和な状態であるといえる。
大使館で、日本水道技術者のインドネシヤ
なり、東南アジアのためと共に、日本への信
束頁度を高めることになる口
派遣が思うようにならないが日本に水道技術
16 日の午後 7~9 時、インドネシヤホテル
者が足りないのかという話が出たが、私は適
で親善パーティーを開く。現地商社のご努力
当な人はいるが、要はその身分保証制度の問
で関係先の連絡もよく、主客併せて4
0名足ら
題であり、日本政府の認識のいかんにかかる
ずのパーティーだが、見晴しのよいホテルの
4
1
東南アジア見聞記
宴会室で行なわれた。少し広すぎるのでテー
れから先の旅行にも気が強くなるというもの
プル、椅子の配置にも苦心のあとが見られる口
である。現地商社の皆さん方もたびたびのこ
来客は公共事業局のスプラノ次長、ヒダヤッ
とでご苦労のことだと思うが、よくつとめて
.T.C.A.の研修生の方々、日本ヘ
ト次長以下 O
いただいた。インドネシヤにおける日本水道
0数 名 、 ご 夫 人 同 伴 も 1
0名 近
来訪された人々 1
外交の第一線という感じを深くした次第であ
くではなやかなことである。大使館の岩本書
る。午後 9時 前 に 無 事 終 了 す る 。 昨 夜 は パ ス
記官ほか日本側官庁の方々の顔も見える。こ
を使わなかったので直ちに部屋に帰り日記を
の時、ちょうど日・タイの某合弁会社設立パ
2時近くになる。
書く。就寝は 1
ーティーあり、ラハマット局長は見えず、田
インドネシヤの第 2日は、公共事業局と市
中大使もその方もあり、 30分 程 わ く れ て ご 夫
水道局を回り、午後ペジョンポンガン冷水場を
人間伴でわ見えになった。兼松の現地女子事
みせていただく。ラハマット局長は昨夜のパ
務 員 2名 に 受 付 を つ と め て い た だ き 、 来 客 の
ーティーに欠席したことをまず謝しておられ、
サインを受け、水団連調査団員の名刺をお渡
同時に局員の招待に対する礼を述べられた。
しする O われわれは入口で来客をお迎えする。
また、これからのインドネシヤ水道開発に対
わ客のそろった頃、私は日本式に挨拶した
する熱意を述べておられたが、ヨーロッパ形
が、こんな所ではやらないのが例のようであ
の貴公子という感むの人である。われわれは
る。仲島氏は、ヒダヤット次長ほか 2~3 の
この人のために、当地水道発展のための台手
人に技術的質問まで受けタジタジである。わ
イ云いをしなければならないと思、う。
かげで顔なじみになったらしいが、このこと
4
静ボゴー Jレ熱帯植物園争
が大切である。現地出張所の必要を思う。細
昼食を日本料理屈「菊]lI
J でとる口インド
かい点、については、日本での研修のみでは一
ネシヤ娘が日本のカスリの着物に赤ダスキで
方的になりがちである。先方としても商社マ
サービスに出る。日本娘と区別しにくい口日
ンに聞けない細部を直接知りたいようである。
本語で話しかけると通り難いィよく似たもの
田中大使のお話も伺った。この国は東南アジ
だと思う口その時、当地でも久しぶりという
アで最も大きく、興味のあるところであり、
スコールに会う。遅かった今年の雨期もよう
われわれとしてもよくしなければならない。
やくやってきたとのこと。兼松江商の多田君
大 使 は 、 そ の 翌 々 日 日 本 に 帰 国 、 米 の 第 2回
の話である。昼食の終わった頃小やみとなる。
λ 。大塚氏は数次の来訪
輸入の話もあるらし l
午後世界ーといわれるボゴール熱帯植物園
とかで顔なりみも多く、なかなかの人気者で
に行く。ジャカルタから南へ約 50畑 、 自 動 車
ある。特にご夫人方の接待に特別のお土産を
で 1時 間 強 で 着 く 。 オ ラ ン ダ の 植 民 地 時 代 ボ
配るなど堂に入ったものである。河田、橋本
イテンゾルグ(無憂郷の意)といわれ、歴代
両氏は英会話も達者で親善の効果をあげ、こ
総督の別荘地になっていた。また第二次大戦
ジャカルタ:ペジョンポンガン海水場
ボゴール熱帯輔鞠輔
4
2
昭和 4
8
. 5 第1
4号
鋳鉄管
中の日本軍司令官の官邸にもなっていたとい
で数曲歌う。現地歌姫の好意は好意として受
75エーカーの広さと 6,
000
種 (1
う。植物園は 2
けでもあまり図に乗らないのがよい。帰途世
万種ともいう)に及ぶ熱帯植物が集められて
界で三カ国しかないという「国技 J [""ハイアラ
いるほか、農業に関する各種の研究所、地質
イJ をみる。
検査所、標本館などがある。オニパスの池や
ジャカルタの大通りを行く争
数多くの種類のらん、巨木の林に寄生するコ
大通りを行く車中、兼松の多国君からジャ
ウモリは有名だそうである口日曜日は見物人
カルタ事情をきく。共産党を一つのふみ台と
が多いので自動車は禁止されているが、平日
していた前スカルノ大統領が明かに容共主義
00ルピヤ(約 140円)で自動車が入れる口こ
は2
を出し、また独裁の傾向になったので学生運
の地は世界有数の多雨地といわれていたが、
動はこれに反対した。スハルトに政権の移っ
幸いスコールの後で何とか圏内を走れそうで
た一つの要因でもある。
ある。日本語の達者な案内の老人があり、案
大通りのある街角にある「ジャカルターフ
内 料 は 1,
550ルピヤである口 2,
000ル ピ ヤ の 請
ェヤー」は毎年あり、 48年は 6 月 16 日 ~7 月
求であるが、誰かがちょうどポケットにあっ
1
8日 の 聞 で あ る 。 資 器 材 を 展 示 し て 、 そ れ を
550ルピヤを摘み出すと、それでよいとい
た 1,
ジャカルタに寄付しては如何という話もある。
う。こんな商売はこんなことかも知れない。
日本の技術者で、外地の水道をやる意志のある
毎日一件もあれば「御」の字らしい。なんせ、
人は何年位で養成できるかとの問もあったが
下層労制者は月 6,
000ルピヤ (
4,
500円位)、熟練
私は技術者養成より外地を大切にしようとい
労働者あるいは経験のあるサラリーマンで 4
う日本政府の意志だと思う。既成技術者もい
万ルピヤとか。とかくぜいたくを知らなけれ
るが、この人々にその気を起こさせる政府の
ば生活に金がかからないというわけである。
態度と処置が大切で、ある。
1
7日夜は兼松、トーメン両者のご好意で「オ
ボゴールを通る道はバンドン
ジャカルタ
アシス」というガーデンレストランに行く。
街道であるが、最近トラックの交通量が急増
オランダ時代の軍人食堂ということで上品な
している。インドネシヤ開発の息吹きはここ
ところである。主建物を通り抜けたガーデン
にも見られる。世界の目はここに集っている
に2
0あ る い は そ れ 以 上 の テ ー プ ル を お き 、 一
ように感じられる。風雲正に急である。イン
行1
0名はその一つに座る D 片 隅 に バ ン ド が あ
ドネシヤの第一次開発計画では、人口増加に
り現地娘が歌う。また、バイオリンをひいて
そなえ米、肥料の増産に力を入れており、第
客席の聞を回るところは、ヨーロッパのレス
二次開発計画では鉄鋼業、林業とその加工品
トランを思い出させる。日本人グループがわ
れわれのほかにも一組あり、
「さくらさくら」
r
支 那 の 夜 J [""上を向いて歩こう」など日本語
新興都市ジャカルタ大通り
も目標になっている。圏内の産業育成はよい
が、公害防止の考え方も出ているらしい。
シンガポール、フィリピンでも公害防止に
ジャカルタの離通りの住民
東南アジア見聞記
大きな関心を持っている。この閣でも近いう
4
3
大通りには、中心に幅広いグリーンベルト
ちに立法化が問題になるだろう。近く資本金
が あ り 、 車 道 は 緩 ・ 急 2筋 に 分 れ て お り 、 十
200万ドルの鋼管の合弁会社がインドネシヤ国
字路にはロータリーがあり、立派な形をなし
(間接投資 )50%、 オ ラ ン ダ 、 フ ィ リ ピ ン 各 々
ているが、 f
昔しいことにはナ斤角の口ータリー
25%共 同 出 資 で で き る ら し く 、 ま た 石 綿 管 の
も信号灯付きでは意味がない。急激な交通量
合弁会社もできるというニュースがあるらし
の増加で信号灯が追加設置されたのであろう口
い。下水道はまだまだ側溝と浸み込み式が多
ボゴール植物園からの帰途、大塚君が榔子
いが、最近ヒューム管の布設が少しされてい
の実をほしがる。とある庄の裏に数本の立派
るようである口このあたりの話はまだ大正時
な榔子があり、屈の男に実をとってほしいと
代の感じである。
いうが、彼は今日はもう鋤きたくないという。
「新興の息吹き」を見せて「伸び行く首都J
午 後 5時 頃 の こ と で あ る 。 私 達 の 考 え か ら い
ジ ャ カ ル タ 市 は 、 第 二 次 大 戦 後 人 口 が1
0
倍近
えば金になることならやるだろうということ
くになり、その中心部は過密になりつつある O
になるが、彼らにすればそれは意味のないこ
2倍 に し て も 労 働 時 間 は ふ
1
5階 建 の ホ テ ル 「 イ ン ド ネ シ ヤ 」 は 、 日 本 の
とである。給料を
00万ドルで建てたといわれ、
賠償を利用して 8
やしたくない。むしろ、金を沢山もらって何
そこからそう遠くないところにソ連の借款に
にっかうのかということらしい口よくよく考
よるアジア大会の競技場があり、そこから港
えねばならない。遂に大塚君は、榔子の実に
に向って走るすばらしい道路はアメリカの援
ありつけなかった次第である。
助によるものである。ホテル不足で今でも日
争ジャカルタよりスラバヤヘ争
航ホテルなどいくつかのホテルが建設中であ
ジャカルタの用件をーまずすませてスラパ
ヤに向う。タマヨラン空港(ジャカルタ)の入
る
。
新興都市ジャカルタには今世界の目が向け
場 税 は2
00ルピヤである。約40分 の 空 路 で あ る
られている。インドネシヤホテル前のロータ
が、ジャワ島のすぐ北側を島に並行して東に
リーには空高くそびえ立つ男女若人の像があ
とぷ。南北の幅のせまいこの島は山と海との
る。開発途上国の首都には、こんなすばらし
距離が短くて、川の水足も早いように見え、
いシンボルがよく見かけられる口街の家並み
雨期以外には水道水源にも困ると思われる。
も逐次近代化するとはいうものの、タマリン
巨大なダムが必要で、ある。ジャカルタの水源、
通りから少し横に入ると、街並みもこの国特
ジ ャ テ イ ル ブ ー ル ダ ム が 容 量 30億 ト ン (?
)
と
有の様相になり、さらに奥に入ると 2
0
世紀の
いわれるのも間違いではなさそうである。途
初 め に も ど っ た よ う な 部 分 も あ る 。 こ こ に2
0
中2
0分 位 で 右 手 の 雲 聞 に 南 国 の 下 富 士J をみ
世紀の歴史がみられる。ベチヤ、自転車の多
る。ほかに午寺に高い山はなさそうである口あ
い横通りから大通りへ出ると、オートパイ、
るいは他の山々は雲間にかくれているのかも
自動車、
知れない。右手に引くさまざまの雲の姿に、
トラック、パスが混然とならんで走
る。日:本式の横断歩道橋も多い白人口増の激
「富士」をすぎると海岸線は遠く南に去り、
しさのために住宅難も深刻だそうである。町
機は海上をとぷ。この辺りジャワ島東部の北
の中心から少しはずれると電燈も水道もない
岸近くは平野が東西に走り南に広がる。土地
ところがあるという。独立後の首都の町づく
はよく耕されているらしい。さらに東に行く
りもめざましく、ジャカルタらしさも次第に
と雲は白く、高くとぷ口その姿の刻々の変化
うすれてゆく。そして私達水団連の調査団も、
は南国の陽に映えて臼を楽しませる。思わず
その一役を買おうとしている。大通りの西側
8"
'
1
mの カ メ ラ が そ の 姿 に す い つ け ら れ る 。 少
にならんでいる「ベチヤ」の表情も住民のと
し東に行くと二つの高山が雲上に出て、その
まどいが祭せられる。何か胸につかえるもの
形は火山のようである。海岸線は急に北上し
がある。
て機首は次第に下る。さらに線雲がみえ、数
鋳鉄管
4
4
昭和4
8
. 5 第1
4
号
百 m に及ぶ白雲のかげが次々と流れて行く。
分間にはまいった。子令房がとまり暑いことで
空から目をはなすと、ようやくスラパヤの空
ある口机の上に紅茶の入っているポットとザ
港につくらしい。
-ア
ラ自の砂糖がある。冷蔵庫にはビール、 7
スラパヤはこの国第二の大都会で、人口 1
2
0
ップ、コーラなどが入っているが、停電(毎
万とも 1
5
0万ともいわれている。空i
巷よりホテ
日のようにあるらしい)のことを,思うとちょ
ルの T
angjung(タンジュン)までは 3
0分位であ
っと妙な感りである。
る。町に入る頃から交通量多く、自動車、
ト
当地にはトーメンの出張所あり、ホテルで
ラック、自転車、ベチヤが雑然として走り、
偶然(?)小西所長に会う。氏の指示である支
ときどき馬車も加わりわれわれの目を楽しま
那 料 理 屈 に 行 く 。 車 で 5分 位 、 ち ょ っ と し た
せる。狭い車道で前車を追い抜乙うとする自
庖である。大きな扇風機もあるが暑いことで
動車がある。しかし町の中心に近づくとそれ
ある。飲料水要注意の国柄でもあり、暑い紅
もならず、道幅は広くなるが交通渋滞で自動
茶をとるが汗がジワジワと出る。何ともしょ
車の走る余地が少なくなる。そして、道の両
うがない。目抜き通りも夜は暗い。車で真直
0
側にはベチヤが並んで、いる。ここにもまた 2
ぐホテルに帰る。ジャカルタの疲れが出たの
世紀の歴史をみる。自動車の数はジャカルタ
かよく眠れる。
に比しはるかに少なくベチヤに遠慮して走る。
ペチヤはジャカルタのものより上等なのが目
翌朝、ホテルを出てジャランジャギールの
スラパヤ浄水場に向う。日曜日なので、また
につく。この町の重要交通機関である。市内
ジャカルタよりの連絡もつかなかったのか、
のところどころに高級住宅地が見うけられ、
守衛だけでは話にもならず、門のくぐりから
また、オランダ時代と思われる欧州風のなつ
少し入って建物の遠望をカメラに収める。真
かしい建物もならんでおり、ヨーロッパの田
夏の浄水場はどこでも暑い。ホテル、官庁を
舎町を思い出させる。しかし、高層建築は見
出入している聞はよいが、ここは全くの夏で
当らない口
ある。上衣を持つのもおっくうになる。汗が
この町の最高級のホテルはタンジュンであ
ジンとにじみ出る。空港へ行く道路わきにい
る口水道の水質はみたところよさそうである
くらかの鉄管がおいである。車をとめてそれ
が、蛇口の漏水は止らず、しかしパスは大き
9
3
1年 頃 の 久 保
をみる。フランス製が多い o 1
くて使いよい口日本の最近のホテル浴室の狭
田鉄工の印も見つかったそうである。町を一
さと対照的である。部屋ヘ入った時、停電 5
巡りして空港に向う
インドネシア第二の都会スラパヤの浄水場
D
4
5
東南アジア見聞記
シンガポール
シンガポール空港には G
.
E
.
L
.の Cheong氏の
出迎えを受け、グッドウッドホテルに着く口
αlOn Chan,
S
i
e
w
. Keong氏その他の方々と会談する。こ
.
E
.
C
.の
金門製作所の関係のG
この水道は東南アジアで最も良いという話で
ある。その設備は英・米・西独・オランダ・
日本のものが入っており、維持管理に入ると、
漏水も多く、修理も部品不足で困っているそ
うである。維持管理の能力不足で、むやみに
/
国際入札にたよるとこうなり勝ちである。
夕食は美人ショーを見ながら中国料理をと
るという、植民地特有のレストランである口
水道産業新聞主催の調査団一行の羽田氏ほか
2~3 の人と偶然(
?)顔を会す口私達がここ
にいることを聞いて、ちょっと敬意を表しに
きたという。明日はマレーシヤへ行くとのこ
道蕗の端に並べられた鯛瞥(シンガポール)
のは現行法により罰金を徴集するという。犬
を入れたもの 5
00ドル(シンガポールドル)、
000
魚 を 釣 る も の 500ドル、小用をしたもの 1,
ドルなどとかかれている。昔の立小便 50
銭罰
金のことを思い出し、同ピようなことを考え
とであった。
翌日午前中は、ホテル推せんの指定観光タ
るものだと思う。
クシーで大急ぎで町を一巡する。シンガポー
8
0
0m
;
m位か)が延々と並べ
道路の端に鋼管 (
ル市の南方にある小高い丘のマウントフェー
であるのが見られる口メーターは金門製が入
パに登る。シンガポール港と市内が一望に入
っている。人口 240万といいながらなわ増加が
る。シンガポール港は世界三大美港のーっと
多いらしく、建築中のものも多く、交通量は
いわれているが、ここからは残念ながらその
日毎にふえ、水道も 1975年 を 目 途 と し て 拡 張
感りは出ない口
中f;しい。マレー半島縦貫鉄道の起点であり、
HOUSEに行く。ここ
東南アジアの海と空の中心である、ここシン
は中国財閥の一人、故胡文虎氏の邸宅て¥同
山 を 降 り て JADE
ガポールは東南アジア情報の中心としてこれ
000個ともいわれるヒスイのコレク
氏所有の 1,
からの発展がみられる。
ションで有名で、ある。観光料ではないが、門
その日、 20
時 25分 の タ イ 航 空 で シ ン ガ ポ ー
番 に 2シ ン ガ ポ ー ル ド ル を 支 払 う 。 ヒ ス イ 製
ル空港を立ち、一路パンコックドムアン空港
品のほかに前庭と側庭に珍しい動物類の造形
に向う。
や、奇岩怪石の造りものがある。
私はここで一行と分れ、マンダリーホテル
のロータリークラブの昼食会に行く
D
ここで
昨夜の G
.
E
.
C
.の Siew氏と会う。
午後S
iew氏の案内で団員一行と共にシンガ
ポール水道局を訪れ、チョオン技師長に会い
お話を聞く。
5. タ イ 国
争シンガポールよりドムアン空港へ争
私にとって未知の国インドネシヤの見聞を
終 え て 、 シ ン ガ ポ ー ル の 半 ば 休 養 の 2日聞を
へて今ドムアン空港への機上にある。
シンガポールはかつて数日間の生活をした
/
mであり、それ
400m
ここの降雨量は年間 2,
6
0年という
を貯水池に貯えている。水道歴史 1
動かず、カセイホテルの
がさすがにコスモポリタン都市である。後で
記憶がある。今見たシンガポールは全く別の
貯水池を見る。その一角に立札がある。その
国のようである。シンガポールのマレー鉄道
文句が奮っている。いわく、次の行為をしたも
の起点駅から列車で半島を北上し、タイ国に
ことがあり、戦時中のことでエレベーターも
6階に何度か昇った
鋳鉄管
4
6
入ったことを思い出す。今、その問。方向に
1時 間 5
0分 の 空 の 旅 を つ づ け る
昭和 4
8
. 5 第1
4号
計画 (73年 ~78年) 3,
884
億パーツの内容であ
夜のことと
る。浄水場見学後町を一巡してホテルに帰る。
て都会の灯以外に何も見えない。やがてパン
23日 夜 は 丸 紅 さ ん の 好 意 で 、 南 サ 一 ト ン 通
D
コックに近づいたのか街の灯が見える。ピヤ
りの近くの日本料理屋「大黒Jで夕食をとる。
タイ通りの勝利記念塔は見るべくもないが、
ちょうど支届長交替の時で、井川前支庖長と
街の形はその灯から想像することができる D
立花新支唐長共に同席され、種々興味あるお
ノ
「 fンコック」に帰って来たという感りであ
話を承る。井川支屈長は日本人会長をされた
る。ここにはかつて延べ 9か月の思い出があ
こともあるらしく、日貨排斥問題の実態につ
る
。
いてもご意見を承る。日本人小学校や中学校
22時 30
分を過ぎてドムアン空港に着く。丸
紅、
トーメン、久保田など現地商社の方々の
出迎えを受ける。夜遅いというのに皆様誠に
のこと、勤務交流のこと、現地日本人は日・
タイ両国のためにどんな態度をとるべきか等
興味深く承る。
ご苦労様である。われわれにとって誠に有難
24日 は 大 使 館 に 栗 野 公 使 を 訪 れ る 。 藤 崎 大
いことである。久保田の謹尾氏の自動車で仲
使は帰国中である。円借款、日貨排斥問題な
島氏と共にブルンケット通りわきのホテルア
ど、わずかな時間ではあったがお話を承る。
0時 に 首 都 圏 水 道 公 社
マリンに着く。明日は 1
27日のパーティーの約束をして、徳、問書記官
を訪れる予定。
の部屋を訪ねる。「海外経済協力基金」大橋氏
φバ ン コ ッ ク 命
も同席される。種々タイ国の事情を聞く。つ
23日午前 1
0
時首都圏水道公社を訪れる。ア
い で の こ と で あ る が 、 首 都 圏 水 道 よ り 昭 和 47
ムノイ次長、クラチョック次長、プラノ¥チ
年 4月 に 日 本 の コ ン サ ル タ ン ト の 派 遣 を 日 本
ュアンピットの公社幹部各氏と、大使館の徳
に要請したということである。
岡一等書記官のわ顔もみえる。一同会議室に
午後は地方水道局にダムロン局長を訪れる口
着席、やがてチャムラス総裁も出席される。
首都圏水道計画の概要を伺い、 「首都圏水道
局長以下サコンジット、カシャン、アナンダ
のマスタープラン J をいただく。表キ氏にわ 72
のわ話を承る。地方都市水道のためにすこぶ
の諸氏も同席される。地方都市水道について
年1
1月」とある。われわれのために特にプリ
る熱意をもってわられる。チャムラス氏とい
ントされたものらしく有難い乙とである。総
いダムロン氏といい、大事業に取りくんでい
裁は明日の昼食会を約して、他の会議の都合
く気慨を見ることができる。東南アジア唯一
で1
1時頃退席される。
の 伝 統 あ る 独 立 国 rタ イ 国 水 道 」 も 順 調 に 延
午 後 は サ ム セ ン 浄 水 場 に 行 く 口 こ こ で2
0
0
0
年計画の詳細の説明を受ける口差当り
パンコック:首都園水道公社
5カ 年
びることであろう。
24日の昼食は昨日のお約束により、チャム
バンコック:サムセン海水場
4
7
東南アジア見聞記
ラス総裁のご招待により中国料理を「ホイテ
なり、私は単身で出かけることになった)。
ンラオ J においていただく。総裁のほかにア
争力ンチャナフリーへ行く
ムノイ、クラチョック、プラハ、
スピト (
P
)、
φ
カンチャナブリーにある慰霊塔に参拝する
チュアンピット、スピット(S)氏 が 同 席 さ れ
ために、松田社長が案内しようという話であ
る。こちらは団員のほかに丸紅の金井氏が通
ったが、当日の 27日に急に社用ができたらし
訳代りである。総裁はやせ型のおだやかな紳
く、やむを得ず朝の 9時 30分頃ホテルでタク
士である。一つの言葉動作にしても、われわ
シーを頼んでもらって私は単身出かけた。後
れに対する配慮が細かい口タイ人は外交上手
で聞くと、松田社長から友人の元戦友に私の
といわれているが、同氏らはその言葉にあて
ことを頼んであったそうだが、連絡のつく前
はまる。世銀からの借款に関する苦労話をお
に私が飛び出したということらしい。ちょう
年早々には米国に行くという
伺いする。 1973
どこの 27日 の 夜 親 善 パ ー テ ィ ー を 催 す の で 時
話である口今、財源確保に最も苦心されてい
聞が気になったのである。私はカンチャナプ
るようである。
24日夜はタイートーメン社長西野順次郎氏
リーに半年程いたので地理感には自信があっ
た。もっとも街の様子が変わっていると困る
のご好意で同氏の私邸に招待を受ける。松田
と思ったが、その時はその時ということで言
アマリンホテル社長も同席される。後で西野
葉の通じないことを承知で出かけた次第であ
氏の著書「日夕イ 400年史」をいただいたが、
る
。
同氏はタイ閣タマサート大学の出身で、 1940
万にもみ
私 が い た 頃 の パ ン コ ッ ク は 人 口 50
年以来在タイ日本外交官の経験者であり、現
たない。自動車といえば官公庁と軍人位のも
在日本人会長である。日本および日本人がも
の、主要交通機関は単線の市電とサムローで
う少しタイ国およびタイ人のことを考えなけ
ある。とのなつかしい市電は、交通量増加の
れば、日貨排斥あるいはそれに準ずる行為と
ため全部とり除かれている。過密都市での運
考え方はなくならないであろう。外交の基礎
命である。サムローでのんびり走っていた面
はギプ・アンド・テイクを本当の意味で行う
影はどこにもない。道路は自動車、パス、
ことである。このことは頭で解って行為にな
ラック、サムロー、オートパイで雑然と混み
ト
り難いのが人の情というものであり、譲歩は
合っており、街の中心は車が動かない。その
常に強者の側になければならないと私は思う。
混雑ぷりはジャカルタよりひどい。一方交通
私はこう自問自答した次第である。
の道路もとごろどころある。昔なつかしい商
松田社長は元鉄道隊将校で¥私の友人藤野
屈街のニューロード、ヤワロードも一方通行
重信氏(私と同ビ鉄道部隊にいたことがある)
である。 4-S通 り と い わ れ た シ ピ ヤ 、 ス リ
の親友であり、終戦時のことに話がはずむ口
オン、シーロム、サ一トンの中心道路も下水
氏はその時からこの地に残られて今日に至っ
側溝を埋めて道路幅は広げられたそうだが、
ているが、タイ国における日本民間の最有力
とても交通量の激増には追っけない。
者である。今、同じようにタイ国に残ってい
街にはシチズン、サンヨ一、目立など日本
る元日本軍人は 350名位だろうということであ
の広告で一杯である。中国の町は日本の町に
000名とすれば 1割 弱 で
る。在タイ日本人を 4,
変わった。日貨排斥も当然で、あろう。臼本人
ある。ご両氏共タイ生活 30年 を 越 す 方 々 で あ
の中にはマナーの悪いのがいる。タイ国のた
る。私も初対面とは思えず、共通したものを
めを思っている日本人達は迷惑している。特
感りた次第である。 27日 に は 両 氏 共 お 出 を 願
に旅行客は心せねばならない。タイ国は昨年
うわけであるが、ちょうど日曜日だから、私
12月
、
の曽遊の地カンチャナプリー(半年租いたこと
れ、議会政治が復活したことになっているが、
がある)に案内するとの松田社長の言葉であ
形式だけでいまだ本物になっていない O 国民
る。(このことは同氏の社用の都合で中止と
の表情は複雑である。
l年 ぶ り に 憲 法 停 止 の 独 裁 政 治 が と か
4
8
昭和4
8
. 5 第1
4号
鋳鉄管
クワエ河童先週輔付近できZイ園女学生と共に
パンコック:ラマ一世構付近
ア マ リ ン ホ テ ル か ら ラ マ 一 世 橋 ま で は 30分
3台 の パ ス に 分 乗 し た 女 学 校 生 徒 の 一 回 が あ
位かかる。戦時中に開閉装置を爆撃されたラ
り、これを迎える小さな売庖と喫茶庖がある。
マ一世橋は、そのままで修理して交通に供し
私は数人の女生徒と鉄道橋をパックに記念写
ている D この橋でチャオプラヤ一川を渡ると、
真をとった。技師は運転手である。
シンガポールに通ずる道路に連なる。町の様
鉄道」の建設に従事して戦病死した人々(両
fタイメン
相は逐次静かになるが、ナコンパトム辺りま
軍 共 ) の 慰 霊 塔 が 、 こ の 橋 か ら 50m位 の 所 に
での道路は幅広い中央線地帯あり、四車道の
第二次大戦末期に日本軍の手で建てられたの
外側に舗装はないが歩道が設けられている。
である。この場所は数年前日本人会が主とな
交通量に比して裕々たる道路である。この辺
り敷地を広げ、柵を作り、立札を立てて何と
りからパンポンに至るまでは、道路交文様式
か格好をつけたものだという。参拝人もなく
も近代化している口両側の家なみも昔に比べ
寂しいものである口外人墓地が鉄道橋の下流
てよくなり、村落に入ると両側に自動車修理
分位の右岸に立派なもの
モ ー タ ー ボ ー ト で 15
工場が目立ち、 fEssoJ の 標 識 が 至 る 所 に 見
があり、私は偶然それも参拝したが、多数の
える。パンポン市の十字路のロータリーの真
外人が参拝している。何ともいいようがない。
中にある時計塔は昔のままである。その付近
の家なみはあまり変わっていない。
トンブリ
カンチャナプリー駅前は寂しいものである。
私が行った時、ちょうど列車の発車時刻であ
外れまでは新しい建物があるが、この辺りに
ったのだろう。パンポンの方に動き出したの
なると次第に減る口パンポンの時計塔で道は
で、それを 8m
/
mの カ メ ラ に 収 め た 。 偶 然 と は
西に折れ、カンチャナプリーに至るに従い道
いえ、なつかしい姿をとらえることができた。
は、両側からお b~ いかぶさる巨木の下をくぐ
慰霊塔の引き合せかも知れない。私達のいた
って昔の名残りをとどめている。両側の家も
頃、ここで大爆撃を受け何百本のガソリン入
時に新しい木造があるにしても、売庖や食堂
ドラム缶が空中に次々と舞上った光景は今で
などの位置は変わっていないようである口た
も忘れない。その火は 50kmはなれたパンポン
だ金色の屋根の寺がふえたのが目立つ。小学
からも見えたという。今は、全く兵どもの夢
校の隣りに寺があり、町の公民館というとこ
のあとである口
ろだろう。金色屋根の寺の新築と修理は至る
今のカンチャナブリーの町の中心はここか
所にある。経済回復の一つのしるしであろう。
ら 2km程東にある。新しい近代的建物も 3~
この道はかつて私がカンチャナプリ一一パン
4カ 所 建 っ て い る が 、 そ の あ と の 部 分 は 昔 の
コック聞を何回か往復した道である。無量の
ものに多少手を加えているようだ。町角の食
感慨と共に走る。
堂で昼食をとる。言葉が解らないので注文が
クワエ河のほとり昔のままの「タイメン鉄
できない D しかたがないので、炊事場ヘ行っ
道J の 鉄 道 橋 が あ り 、 そ の そ ば に 当 時 の 記 念
て食物の材料を指でさしやっと食事にありつ
の機関車が、説明の立札と共におかれている。
く
。 7 -アップ、コーラはどこでも通じる口
この辺りは観光のコースになっているらしく、
運転手の口から突然思いがけぬ時に英語のや
4
9
東南アジア見聞記
うなものが飛び出す。こちらの言葉も彼にと
に 2億 年 前 の も の と 称 す る 大 石 が あ る 。 学 名
っては問むだろう口名詞、数字、現在動詞だ
を“仁bngromerateとと称する立札が立っている。
けで片づける。文章にするとお互いに通じな
この寺の歴史は4∞年といわれているから、この石
い。食物を注文するのもむずかしいものだ。
在タイ 2年 の 私 達 の 部 隊 は 、 部 隊 長 の 深 謀
は相当以前からあったものらしい。もっとも、
相当な機械設備がないと動きそうもない。
遠慮で部隊内に「タイ語教育班」を作り、希
チェンマイは京都に似ているといわれるが、
0名 位 だ っ た と 思 う が 、 軍 の 服 務 を さ
望者は 2
タイ国第二の都会であり、至る所に由緒ある
せず、まずタイ語をやらせた。それはタイ人
寺がある。街路は整然とした部分が多いが、
の中にとけ込む素地を作るためである。タイ
家屋は新旧雑居している D 広 い 計 画 道 路 の 片
の人達は、今日本に経済援助と技術援助を求
側に緑地帯があるのはうらやましいことであ
めている。独立国の面子を保つためにその表
る
。
情は堅いが、日本にとっては戦時中を通じて
チェンマイは、パンコックの人々の息抜き
の友邦である。できることなら彼.らの中に入
の場所であり、パンコックの雑踏から逃れる
って彼国のためになりたいと思う。在タイ邦
のだそうである。正月休みなど旅行客でホテ
人の中にも、こう考える人が多いと思う
D
鉄
ルは満室とのこと口パンコックの人々は家族
道隊にタイ語教育班を作った主旨は今でも生
連れで泊るとのこと。旅行案内書によると、
かしたいものである。東南アジアを新しい楽
涼しいと書いであるがそうでもなく、夜でも
園のように思うだけでは困ったものである。
上衣は着ない方がよい位である。
パンコックに帰る自動車の中で、私は両側
夕食はホテルより
5分 位 の “ OLD CHIA
の風景に目をやりながら感傷の数時間を過ご
NMAI" と称する食事をしながら踊りを見る
した次第である。
席に案内される。入場料は 1人 1
00
パーツであ
争チェンマイ
φ
る。ちょうど日本の寄席の感ビで、客席は平
25日は午前 9時 、 パ ン コ ッ ク 発 の 飛 行 機 で
場に毛布をしきゆったりと座る。小さな舞台
チェンマイに向う。 1
0時 40
分頃到着する。パ
があり、ここで踊りがある。食事には普通米
ンコックから丸紅金井氏とスラチャイ氏のご
ともち米を別の椀に入れてくる。副食物を皿
同行をうける口チェンマイ空港で問市水道局
にとり、それをもち米で手づかみにして食べ
の方々の出迎えを受け、直ちに水道局に向う。
る。タイ古来の方法である。副食物は支那料
詳細は「報告書」にかいた通りであるが、水
000度位、普通
源であるピン川の濁度は最高 2,
0度以下、この日は雨後のことで 200度位と
は2
いう。水質は良く、濁りも、ソイルが多いと
のこと、良質の濁りである。貯水池はピン川
の水をヲ!いて貯める。容量40
万トン位で土堰
堤で囲まれている。浄水場はまことに清潔で、
公園という感じである。ピン川を 4
.
5
k
m
遡り、
次の計画の取水口付近に案内を受ける。
水道局の方々と共に市内のある中華料理庖
に入る。昔風の庖であるが何とか用は足りる。
大きな扇風機を備えているが涼しくもなし凡
おそい昼食をとり町を一巡する。前記の貯水
池の近くの第二の水道事務所を経て、貯水池
の説明を受ける。帰途水道局員のご案内で、
ある由緒あるらしい古寺による。境内の一角
チェンマイ水溝の配水池
昭和 4
8
. 5 第1
4号
鋳鉄管
5
0
理式にいくつかの椀に別々の物を入れ、 6つ
ィーになった。私達は例によって会場入口に
の椀を小さな食卓の上に並べ、 4人でそれを
来客を迎え、一人ずつ握手を行なう。それが
つつく口なくなると、また補給してくれる。
30分 位 つ づ く 。 招 待 客 が 揃 う ま で 立 っ て い る
バイキング方式である。椀を空にすると、い
のが習慣だそうだが、この桂度で宴の中に入
くらでも運んでくる。適当に残さないと腹が
る。ちょうど来タイ中であった丸紅の大峡氏
はちきれそうである。食後の第二次の踊りは、
もお招きし、松田社長もご参加をいただく。
小家の外に出た小さなジャングルの中で土の
例によって大塚氏はここでも顔なじみも多く、
上でのハダシの踊りである。この地方の民謡
例の調子で外交手腕を発揮している。他の三
0
時頃終わる。外人
踊 り な の で あ ろ う 。 午 後1
君もなかなか慣れたもので、パンコック最後
客もなかなか多い D
ている。
の夜と張り切っ 7
チェンマイにくる外人客も多く、ホテルで
切符を買い、パスに乗って見物に回るらしい。
チ ャ ム ラ ス 総 裁 は 、 定 刻 7時 に 多 少 お く れ
てみえたが、非常に気をつかっていられるよ
翌 日 の 8時 頃 ホ テ ル の ロ ビ ー は 多 く の 外 人 客
うだ。そして、最後まで私達のお相手をして
で一杯である。ノてンコックにくる旅客は余裕
下さった。おかげさまで、他の方にも総裁を
中心に話がはずむ。チャムラス総裁の言葉の
があれば必ずくるようである。
街の交通機関はサムローが多い。 2パーツ
中に、下水道もやらねばならないが、これは
で相当のせてくれる。目抜通りは自動車も走
水道より Expensiveな の で 、 上 水 道 が 相 当 普
り、サムローと共に雑然としている。一方交
及しないと下水道にかかれない。上水道は 1n-
通の道路もある。南国の太陽は暑く、空気は
comeがあるが下水道はそれがないのでやり難
清く、そして樹木は多く、純生の緑一色であ
いということで、ある口そして、このことも本子
5階
来協力して欲しいという。彼の真意は私にも
建の住宅群が町外れにある。そして、水源地
よく解る。パンコックの中心部がこんなに過
帯 の 汚 染 を 気 に し て 新 取 水 口 は 4.5krn上 流 に
密状態になると、早く下水道に手をつけない
とるわけである。およそ公害とは関係のなさ
と次第にやりにくくなる。責任的立場にある
0
0
0年 に は
そうな北部タイの一都市も、紀元 2
人の絶えず考えることである。私はタイ国の
そうなるといわれている。
ために、早急の問題は首都圏中心部の下水道
る。この地にも、人口増加はあり新しい
開発途上国の通例として、大都会は首都 1
の整備にあると思う。速度は上水道よりおそ
カ所であり、すべての「悪」はここに集まる。
くとも着手は今すぐに必要で、ある。上水道拡
自然破壊も思想問題も公害も、そして社会悪
張のための借款に来春早々世銀ヘ行くという
も。この国の自然はまだまだこわれそうにな
が、総裁の胸の中には上下水道の将来を共に
0
0
0年
い。第二の都市チェンマイの自然も、 2
考えていると私は思った。
の心配もないと思うが、しかし外人観光客の
増加ということは、ホテルの増設、水道の拡
張を必要とする。いつまで平和なチェンマイ
が続くのか、やはり問題がありそうである。
6
. バンコックより香港、羽田
1
1月2
8日
、 1
1時 2
0
分キャセイ航空てもドムアン
空港をたつ。
5日 間 の タ イ 国 訪 問 を 終 え て 香
5時 30
分到着する。ホテルはミラマ
港空港に1
ーである口翌朝ホテルの食堂で今回の調査団
の最後の会食をし、大塚、河田、橋本の三君
27日夜パンコック、アマリンホテルの宴会
はそれぞれ社用で台湾に向い、私と仲島団員
場で親善パーティーを開く。現地商社の方々
9日18
時3
5分 羽 田 空 港 に 無 事 到 着 す る 。 水
は2
のご配慮であらか。め招待状が出されており、
団連塩原専務理事初め関係皆様方のお出迎え
首都圏水道公社、地方都市水道局を初めタイ
を受け、 1
5日 間 の 旅 程 を 完 了 し た 。 こ こ に 再
国側の皆様、また栗野公使、徳岡書記官を初
び本旅行中何かとご好意やご配慮をいただい
め日本側の官庁の方々、および日本商社の方
た関係皆様方に深甚の感謝をささげながら、
名を越えるパーテ
方もご参加をいただき、 40
この見聞記を京冬わる。
Fly UP