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海外視察 - 日本ダクタイル鉄管協会
3 8 昭和 4 8 . 5 第1 4 号 鋳鉄管 臨轟轟轟 東甫アジア 開記 日本鋳鉄管協会理事長 清水清三 1. 概 況 水団連行事のーっとして「東南アジア水道 機 器 市 場 調 査J というものがあるが、今回は に分ける。第一期は 1973~1975年で十 1 t / s e c . 第二期は 1975~1977年で十 1 t / s e c .、 第 三 期 第 3回 目 で あ る 口 仲 島 、 河 田 、 大 塚 、 橋 本 の は 1977~1980年で+ 年 四 氏 と 私 で 五 名 の 調 査 団 を 組 織 し 、 昭 和 47 要 す る 費 用 は 外 貨 で2, 500万ドル、およびイン 1 1月1 5日より 1 1月29日までの 1 5日間、インド 2t/sec.で あ る 。 こ れ に 4 億ルピヤ(1ルピヤは約0.7円) ドネシヤ貨で 6 ネシヤ、シンガポール、タイ、香j 巷を回った。 である D その計画の主要部分は政府決定で、 ここにかかげるのは、その日記に相当するも これによりジャカルタ市は 3 0 0m/ m以 下 の 配 水 のである口 管の計画を行なう。現在は口径 4庁以上のもの 調査は主としてインドネシヤとタイについ てである。その目的を達するためには、これ らの国の水道の現況と将来計画を調べる必要 を鋳鉄管でやっている。また既設の老朽施設 の維持、改良は市当局で行なう。 地方都市については、今のところ七つの都 がある。その詳細は水団連の報告書にもあり、 市(サマリンダ、マラン、パニワンギ、ジョ ここには省くこととするが、その要点だけを クジャカル夕、プロウオケット、チレボン、 あげると次のようである。 ジャムピー)について計画しており、チレボ 争インドネシャ φ ジャカルタ市の現状は 1 970年 で 人 口 489万、 20万、そのうち 120万 は 配 水 管 に 給水人口は2 ン(人口 1 7.5 万)ジャムピー(人口1 2万 ) に ついては日水コンで設計中である。 争タイ国争 よる給水、 1 00万人分は売水による。(売水と タイ国については、首都圏台よびその周辺 は共同給水栓から水売り商人がドラム缶など 9地 区 に つ い て は 首 都 圏 水 道 公 社 に よ り 行 な で各家庭に水を配る。) 1980年の予定としては総人口 610万、給水人 000年である。 う。首都圏水道の目標は紀元 2 現 在 の 総 人 口 約3 00 万人、給水人口は1 85万 で 口 470万 人 と し 、 そ の う ち 配 水 管 に よ る も の 000年には総人口 1, 000万人、給水人口 あり、 2 320万、売水によるもの 1 5 0万 人 分 で あ る 。 新 50万 と 考 え て い る 。 そ の 時 の 給 水 量 は 430 は8 増加能力は 4t / s e c .で あ る 。 こ の 計 画 を 三 期 万t / dと考えている。配水本管は 1, 500切zとし 東南アジア見聞記 ている。周辺地区はこれから計画される D 首 3 9 ない。気にしていた気候も、日本の夏とあま 都圏の第一期計画としては 1973~1977年の 5 り変わりがないようである。チェンマイはタ カ年計画で、現在の給水能力 1 20万 tを240万 t イ国第二の都会で避暑地といわれ、パンコッ にする。その費用は 3 8.84億 パ ー ツ (1ノてーツ ク住民の息抜きの場所であり、正月休暇のホ 5円)である。その後の 2000年 ま で の 計 は約 1 テルの予約は 2カ月位前から必要だそうであ 0 億パーツ ( 1, 200億円)とい 画はタイ側は約 8 る 。 4 8年 の 正 月 に タ イ 国 へ の 日 本 旅 行 者 が 3 っているが、日本側の見方では 1, 500~2 , 000 万人と称されているが、おそらくパンコック 億円位だといっている。今のところ 1 978年 以 もチェンマイも日本旅行者で充満したことだ 後は全然未計画である口第一期計画の財源は、 ろう口 首都圏水道の資金と園内地方起債、および外 債を各%宛と見込んでいる口 地方都市水道は地方都市水道局で、計画せら 羽 田 を た っ た の は 午 前1 0時 30 分 (9時 3 0 分 発のおくれである)。香港、シンガポールを経 9時 1 0分 ( 日 本 時 てジャカルタに着いたのは 1 973年 、 1 974年 の 計 画 と し て 新 設 合 計 1 9 れ 、 1 間2 1日 寺1 0 分)である。 2時間の時差である。 都 市 、 拡 張2 2 都 市 、 合 計4 1都市といっている 香港もシンガポールも空港待合室から飛行機 が、どの程度できるのか疑問である。 に入るたびに金属製品のチェックを行なう。 チェンマイ水道は、すでに東京設計で設計 ハイジャックの影響である。空港の迎路に並 5.5万 人 して第一期工事完了時の給水人口は 1 0 分近くもかかる。係員の諸君は極 んでから 2 給水人口は 4 2, 500人となっている。 めて努事心である。 2. 羽田よりジャカルタヘ 私 達 の 調 査 団 一 行 5名は 1 1月 1 5日東京羽田 ジャカルタの空港では兼松の猪田支唐長ほ かトーメンからも和田氏ほか、および日水コ ンの中島氏ら 6~7 名の出迎えを受ける。直 空港を出発、インドネシヤ(ジャカル夕、ス ちに出迎えの乗用車でホテルに向う。最も有 ラパヤ)、シンガポール、タイ(パンコック、 難いことである。ただしホテルは、その夜は チェンマイ)経由香港に到着、ここで一応解 「ジャカルタホテル」に回され、翌日から予 1月 29日東京着、他の三 団、私と仲島団員は 1 約の「インドネシヤホテル」である。インド 君は台湾を経て帰国した。 ネ シ ヤ ホ テ ル は 部 屋 の 使 用 効 率 96%とか、世 私の最初気にしたのは気候である。出発時 は夏服、夏肌衣にレインコートを着用した。 界第二のレコードがあるそうだ。近頃は特に 世界中よりのジャカルタ訪問客がふえ、ホテ 途 中 香 港 空 港 に て 約 1時 間 体 憩 。 こ こ は 大 し ル満室の日が多いそうである。街の所々に新 て暑さを感 Uな い 。 シ ン ガ ポ ー ル 空 港 で の 休 築中のホテルが自につくのも当然のことであ 憩 約40 分は赤道直下であるが時刻の関係もあ る 口 り、さほど暑くもない。この間の温度は機内 ジャカルタホテルは二流以下のようであり、 8。、シンガポール 29 、 。 アナウンスによると香港2 メインピルは近代式であるが、われわれの入 ジャカルタ 3 0。ということてもあった。ジャカ jレ ったのは旧館の平家建て¥各部屋共広くて風 タは南緯 6 . 5度 で 1 1月 よ り 雨 期 に 入 る 玖 気 温 格はあるが、冷房、浴室なく扇風機付で、棚 としては最も高いように思うが実感は日本の 式の洋服ダンスーっというおそまっさである。 夏とあまり変わらない感ビである。パンコッ さしずめこの辺は大正時代とでもいおうか。 3 度位であるが、 1 2月より幾分涼し クは北緯 1 インドネシヤホテルは世界の一流である。一 い気候になるはずで、あるがやはり日光の下は 般に開発途上国の一流ホテルは欧米の一流ホ 1月下旬から 4月上旬まで 暑い。私がかつて 1 テルにも比すベく、日本の一寸したホテル等 パンコックに居住していた記憶から、 1 1月下 比 べ も の に な ら な い の が 通 例 で あ る 。 昭 和 47 旬はもっと涼しかったように思うが、それも 年1 2月には日航ホテルができるそうであり、 生活態度の相違による気持の上の差かも知れ 49年 開 屈 を 目 指 し て ジ ャ カ ル タ 第 一 の ホ テ ル 4 0 昭和4 8 . 鋳鉄管 を建築中とかいわれている口 1 6日午前 9時 30分 に イ ン ド ネ シ ヤ ホ テ ル に 移る予定。 5 第1 4 号 と思う。またも一つには、日本という国は技 術者を行政官に使いすぎる。この見方からい えば水道技術者は一概に足りないともいえな し 瓦 。 3. インドネシヤ 場官公庁訪問と親善パーティー争 1 6日 午 前 日 時 、 タ マ リ ン 通 り の 日 本 大 使 館 セティアプディ街の日水コン事務所を訪れ る。午後 2時 す ぎ で あ る 。 相 変 わ ら ず 暑 い こ とてもある。 を訪問する。まず岩本一等書記官にわ会いし 中島重樹所長にお会いする。ちょうど北村 て、インドネシヤ水道事情の概要の説明を受 氏も日本より出張中とのことで同席していた ける。その後で田中大使に会見、大使は同時 だく。インドネシヤにおける水道事情と調査 5分 の 時 間 刻の他の会見を割愛していただき 1 計画上のご苦心談をお聞きする。 をいただいた。その日の夜のパーティーの出 この国の現在のやり方はコンサルタントで、 席のお約束も了承された。波多野参事官、ー 計画年次、給水人口、給水量を定めさせ、最 ケ谷書記官にもご挨拶する。 も経済的な風に計画するのだそうである。日 日本の水道は進みすぎているので、インド 本式にいえば、それらのことは発注する役所 ネシヤ水道の話をしても、また逆にインドネ で予定し、これに合うよう効率的な設計を作 シヤに日本の水道の話をしてもピントが合わ るのが習慣であるが、ここではその分までコ ないかも知れないということだが、一応ご説 ンサルタントの領分だそうである。従って、 明をお聞きする。一言でいえば街の表情は明 各都市の実情に合うようプロポーズせねばな 治から昭和まで雑居しているが、水道につい らない。大変な仕事である。早くこの国の技 0年頃までの雑居の感じ ては明治から昭和の 3 術者に、この辺の所を教えないといつまでも である口ジャカルタ水道は人口 4 8 9万 ( 1 9 7 0年) 厄介なことである。コンサルタントの仕事は で、計画としての給水人口は 220万とのこと、 この際やり甲斐があるにしても、彼らがいな まあ昭和 20年 代 と い お う か 、 地 方 で は そ れ 以 くなれば不自由で事が進まないということに 前の感、りがあるからである口明治大正時代と なりかねない。経済的に作るためには、各家 いっても、水が足りないという意味でなく、 庭を訪問してその意向をきき、給水率は売水 住民が必要としないのである。日本でも大正 を含めて実情に合うようにする。計画年次も 時代に大阪市に水道がありながら、市民の一 早いのみがよいのではない、ということにな 部にはなるべく家の中の井戸水を使う風習が る 。 あった。私の少年時代もその一人である。井 日水コンの話にも出たが、「物を売る」とい 戸水は夏は冷たく、冬は温くすこぶる都合の う考えより「方包設を作る」という考えになら 良いものである。この点、からいうと、ジャカ ねばならぬ口このことは日本でも通用するこ ルタでは住民の水道要求に対しではなはだし とである D ま た 出 先 業 界 の た め に 、 日 本 政 府 く給水量が足りないのであり、地方では需給 はもう少し力を入れねばならない。例えば調 が見合っているとすると、ジャカルタの方が 査業務、コンサルタント業務にしでもなんら おくれているということになる。明治大正が かの形で政府のパックアップが必要。このこ 昭 和 20年代よりも進んで、いるとはいわないま とはよい設計、よい施設を与えることに連ら でも、平和な状態であるといえる。 大使館で、日本水道技術者のインドネシヤ なり、東南アジアのためと共に、日本への信 束頁度を高めることになる口 派遣が思うようにならないが日本に水道技術 16 日の午後 7~9 時、インドネシヤホテル 者が足りないのかという話が出たが、私は適 で親善パーティーを開く。現地商社のご努力 当な人はいるが、要はその身分保証制度の問 で関係先の連絡もよく、主客併せて4 0名足ら 題であり、日本政府の認識のいかんにかかる ずのパーティーだが、見晴しのよいホテルの 4 1 東南アジア見聞記 宴会室で行なわれた。少し広すぎるのでテー れから先の旅行にも気が強くなるというもの プル、椅子の配置にも苦心のあとが見られる口 である。現地商社の皆さん方もたびたびのこ 来客は公共事業局のスプラノ次長、ヒダヤッ とでご苦労のことだと思うが、よくつとめて .T.C.A.の研修生の方々、日本ヘ ト次長以下 O いただいた。インドネシヤにおける日本水道 0数 名 、 ご 夫 人 同 伴 も 1 0名 近 来訪された人々 1 外交の第一線という感じを深くした次第であ くではなやかなことである。大使館の岩本書 る。午後 9時 前 に 無 事 終 了 す る 。 昨 夜 は パ ス 記官ほか日本側官庁の方々の顔も見える。こ を使わなかったので直ちに部屋に帰り日記を の時、ちょうど日・タイの某合弁会社設立パ 2時近くになる。 書く。就寝は 1 ーティーあり、ラハマット局長は見えず、田 インドネシヤの第 2日は、公共事業局と市 中大使もその方もあり、 30分 程 わ く れ て ご 夫 水道局を回り、午後ペジョンポンガン冷水場を 人間伴でわ見えになった。兼松の現地女子事 みせていただく。ラハマット局長は昨夜のパ 務 員 2名 に 受 付 を つ と め て い た だ き 、 来 客 の ーティーに欠席したことをまず謝しておられ、 サインを受け、水団連調査団員の名刺をお渡 同時に局員の招待に対する礼を述べられた。 しする O われわれは入口で来客をお迎えする。 また、これからのインドネシヤ水道開発に対 わ客のそろった頃、私は日本式に挨拶した する熱意を述べておられたが、ヨーロッパ形 が、こんな所ではやらないのが例のようであ の貴公子という感むの人である。われわれは る。仲島氏は、ヒダヤット次長ほか 2~3 の この人のために、当地水道発展のための台手 人に技術的質問まで受けタジタジである。わ イ云いをしなければならないと思、う。 かげで顔なじみになったらしいが、このこと 4 静ボゴー Jレ熱帯植物園争 が大切である。現地出張所の必要を思う。細 昼食を日本料理屈「菊]lI J でとる口インド かい点、については、日本での研修のみでは一 ネシヤ娘が日本のカスリの着物に赤ダスキで 方的になりがちである。先方としても商社マ サービスに出る。日本娘と区別しにくい口日 ンに聞けない細部を直接知りたいようである。 本語で話しかけると通り難いィよく似たもの 田中大使のお話も伺った。この国は東南アジ だと思う口その時、当地でも久しぶりという アで最も大きく、興味のあるところであり、 スコールに会う。遅かった今年の雨期もよう われわれとしてもよくしなければならない。 やくやってきたとのこと。兼松江商の多田君 大 使 は 、 そ の 翌 々 日 日 本 に 帰 国 、 米 の 第 2回 の話である。昼食の終わった頃小やみとなる。 λ 。大塚氏は数次の来訪 輸入の話もあるらし l 午後世界ーといわれるボゴール熱帯植物園 とかで顔なりみも多く、なかなかの人気者で に行く。ジャカルタから南へ約 50畑 、 自 動 車 ある。特にご夫人方の接待に特別のお土産を で 1時 間 強 で 着 く 。 オ ラ ン ダ の 植 民 地 時 代 ボ 配るなど堂に入ったものである。河田、橋本 イテンゾルグ(無憂郷の意)といわれ、歴代 両氏は英会話も達者で親善の効果をあげ、こ 総督の別荘地になっていた。また第二次大戦 ジャカルタ:ペジョンポンガン海水場 ボゴール熱帯輔鞠輔 4 2 昭和 4 8 . 5 第1 4号 鋳鉄管 中の日本軍司令官の官邸にもなっていたとい で数曲歌う。現地歌姫の好意は好意として受 75エーカーの広さと 6, 000 種 (1 う。植物園は 2 けでもあまり図に乗らないのがよい。帰途世 万種ともいう)に及ぶ熱帯植物が集められて 界で三カ国しかないという「国技 J [""ハイアラ いるほか、農業に関する各種の研究所、地質 イJ をみる。 検査所、標本館などがある。オニパスの池や ジャカルタの大通りを行く争 数多くの種類のらん、巨木の林に寄生するコ 大通りを行く車中、兼松の多国君からジャ ウモリは有名だそうである口日曜日は見物人 カルタ事情をきく。共産党を一つのふみ台と が多いので自動車は禁止されているが、平日 していた前スカルノ大統領が明かに容共主義 00ルピヤ(約 140円)で自動車が入れる口こ は2 を出し、また独裁の傾向になったので学生運 の地は世界有数の多雨地といわれていたが、 動はこれに反対した。スハルトに政権の移っ 幸いスコールの後で何とか圏内を走れそうで た一つの要因でもある。 ある。日本語の達者な案内の老人があり、案 大通りのある街角にある「ジャカルターフ 内 料 は 1, 550ルピヤである口 2, 000ル ピ ヤ の 請 ェヤー」は毎年あり、 48年は 6 月 16 日 ~7 月 求であるが、誰かがちょうどポケットにあっ 1 8日 の 聞 で あ る 。 資 器 材 を 展 示 し て 、 そ れ を 550ルピヤを摘み出すと、それでよいとい た 1, ジャカルタに寄付しては如何という話もある。 う。こんな商売はこんなことかも知れない。 日本の技術者で、外地の水道をやる意志のある 毎日一件もあれば「御」の字らしい。なんせ、 人は何年位で養成できるかとの問もあったが 下層労制者は月 6, 000ルピヤ ( 4, 500円位)、熟練 私は技術者養成より外地を大切にしようとい 労働者あるいは経験のあるサラリーマンで 4 う日本政府の意志だと思う。既成技術者もい 万ルピヤとか。とかくぜいたくを知らなけれ るが、この人々にその気を起こさせる政府の ば生活に金がかからないというわけである。 態度と処置が大切で、ある。 1 7日夜は兼松、トーメン両者のご好意で「オ ボゴールを通る道はバンドン ジャカルタ アシス」というガーデンレストランに行く。 街道であるが、最近トラックの交通量が急増 オランダ時代の軍人食堂ということで上品な している。インドネシヤ開発の息吹きはここ ところである。主建物を通り抜けたガーデン にも見られる。世界の目はここに集っている に2 0あ る い は そ れ 以 上 の テ ー プ ル を お き 、 一 ように感じられる。風雲正に急である。イン 行1 0名はその一つに座る D 片 隅 に バ ン ド が あ ドネシヤの第一次開発計画では、人口増加に り現地娘が歌う。また、バイオリンをひいて そなえ米、肥料の増産に力を入れており、第 客席の聞を回るところは、ヨーロッパのレス 二次開発計画では鉄鋼業、林業とその加工品 トランを思い出させる。日本人グループがわ れわれのほかにも一組あり、 「さくらさくら」 r 支 那 の 夜 J [""上を向いて歩こう」など日本語 新興都市ジャカルタ大通り も目標になっている。圏内の産業育成はよい が、公害防止の考え方も出ているらしい。 シンガポール、フィリピンでも公害防止に ジャカルタの離通りの住民 東南アジア見聞記 大きな関心を持っている。この閣でも近いう 4 3 大通りには、中心に幅広いグリーンベルト ちに立法化が問題になるだろう。近く資本金 が あ り 、 車 道 は 緩 ・ 急 2筋 に 分 れ て お り 、 十 200万ドルの鋼管の合弁会社がインドネシヤ国 字路にはロータリーがあり、立派な形をなし (間接投資 )50%、 オ ラ ン ダ 、 フ ィ リ ピ ン 各 々 ているが、 f 昔しいことにはナ斤角の口ータリー 25%共 同 出 資 で で き る ら し く 、 ま た 石 綿 管 の も信号灯付きでは意味がない。急激な交通量 合弁会社もできるというニュースがあるらし の増加で信号灯が追加設置されたのであろう口 い。下水道はまだまだ側溝と浸み込み式が多 ボゴール植物園からの帰途、大塚君が榔子 いが、最近ヒューム管の布設が少しされてい の実をほしがる。とある庄の裏に数本の立派 るようである口このあたりの話はまだ大正時 な榔子があり、屈の男に実をとってほしいと 代の感じである。 いうが、彼は今日はもう鋤きたくないという。 「新興の息吹き」を見せて「伸び行く首都J 午 後 5時 頃 の こ と で あ る 。 私 達 の 考 え か ら い ジ ャ カ ル タ 市 は 、 第 二 次 大 戦 後 人 口 が1 0 倍近 えば金になることならやるだろうということ くになり、その中心部は過密になりつつある O になるが、彼らにすればそれは意味のないこ 2倍 に し て も 労 働 時 間 は ふ 1 5階 建 の ホ テ ル 「 イ ン ド ネ シ ヤ 」 は 、 日 本 の とである。給料を 00万ドルで建てたといわれ、 賠償を利用して 8 やしたくない。むしろ、金を沢山もらって何 そこからそう遠くないところにソ連の借款に にっかうのかということらしい口よくよく考 よるアジア大会の競技場があり、そこから港 えねばならない。遂に大塚君は、榔子の実に に向って走るすばらしい道路はアメリカの援 ありつけなかった次第である。 助によるものである。ホテル不足で今でも日 争ジャカルタよりスラバヤヘ争 航ホテルなどいくつかのホテルが建設中であ ジャカルタの用件をーまずすませてスラパ ヤに向う。タマヨラン空港(ジャカルタ)の入 る 。 新興都市ジャカルタには今世界の目が向け 場 税 は2 00ルピヤである。約40分 の 空 路 で あ る られている。インドネシヤホテル前のロータ が、ジャワ島のすぐ北側を島に並行して東に リーには空高くそびえ立つ男女若人の像があ とぷ。南北の幅のせまいこの島は山と海との る。開発途上国の首都には、こんなすばらし 距離が短くて、川の水足も早いように見え、 いシンボルがよく見かけられる口街の家並み 雨期以外には水道水源にも困ると思われる。 も逐次近代化するとはいうものの、タマリン 巨大なダムが必要で、ある。ジャカルタの水源、 通りから少し横に入ると、街並みもこの国特 ジ ャ テ イ ル ブ ー ル ダ ム が 容 量 30億 ト ン (? ) と 有の様相になり、さらに奥に入ると 2 0 世紀の いわれるのも間違いではなさそうである。途 初 め に も ど っ た よ う な 部 分 も あ る 。 こ こ に2 0 中2 0分 位 で 右 手 の 雲 聞 に 南 国 の 下 富 士J をみ 世紀の歴史がみられる。ベチヤ、自転車の多 る。ほかに午寺に高い山はなさそうである口あ い横通りから大通りへ出ると、オートパイ、 るいは他の山々は雲間にかくれているのかも 自動車、 知れない。右手に引くさまざまの雲の姿に、 トラック、パスが混然とならんで走 る。日:本式の横断歩道橋も多い白人口増の激 「富士」をすぎると海岸線は遠く南に去り、 しさのために住宅難も深刻だそうである。町 機は海上をとぷ。この辺りジャワ島東部の北 の中心から少しはずれると電燈も水道もない 岸近くは平野が東西に走り南に広がる。土地 ところがあるという。独立後の首都の町づく はよく耕されているらしい。さらに東に行く りもめざましく、ジャカルタらしさも次第に と雲は白く、高くとぷ口その姿の刻々の変化 うすれてゆく。そして私達水団連の調査団も、 は南国の陽に映えて臼を楽しませる。思わず その一役を買おうとしている。大通りの西側 8" ' 1 mの カ メ ラ が そ の 姿 に す い つ け ら れ る 。 少 にならんでいる「ベチヤ」の表情も住民のと し東に行くと二つの高山が雲上に出て、その まどいが祭せられる。何か胸につかえるもの 形は火山のようである。海岸線は急に北上し がある。 て機首は次第に下る。さらに線雲がみえ、数 鋳鉄管 4 4 昭和4 8 . 5 第1 4 号 百 m に及ぶ白雲のかげが次々と流れて行く。 分間にはまいった。子令房がとまり暑いことで 空から目をはなすと、ようやくスラパヤの空 ある口机の上に紅茶の入っているポットとザ 港につくらしい。 -ア ラ自の砂糖がある。冷蔵庫にはビール、 7 スラパヤはこの国第二の大都会で、人口 1 2 0 ップ、コーラなどが入っているが、停電(毎 万とも 1 5 0万ともいわれている。空i 巷よりホテ 日のようにあるらしい)のことを,思うとちょ ルの T angjung(タンジュン)までは 3 0分位であ っと妙な感りである。 る。町に入る頃から交通量多く、自動車、 ト 当地にはトーメンの出張所あり、ホテルで ラック、自転車、ベチヤが雑然として走り、 偶然(?)小西所長に会う。氏の指示である支 ときどき馬車も加わりわれわれの目を楽しま 那 料 理 屈 に 行 く 。 車 で 5分 位 、 ち ょ っ と し た せる。狭い車道で前車を追い抜乙うとする自 庖である。大きな扇風機もあるが暑いことで 動車がある。しかし町の中心に近づくとそれ ある。飲料水要注意の国柄でもあり、暑い紅 もならず、道幅は広くなるが交通渋滞で自動 茶をとるが汗がジワジワと出る。何ともしょ 車の走る余地が少なくなる。そして、道の両 うがない。目抜き通りも夜は暗い。車で真直 0 側にはベチヤが並んで、いる。ここにもまた 2 ぐホテルに帰る。ジャカルタの疲れが出たの 世紀の歴史をみる。自動車の数はジャカルタ かよく眠れる。 に比しはるかに少なくベチヤに遠慮して走る。 ペチヤはジャカルタのものより上等なのが目 翌朝、ホテルを出てジャランジャギールの スラパヤ浄水場に向う。日曜日なので、また につく。この町の重要交通機関である。市内 ジャカルタよりの連絡もつかなかったのか、 のところどころに高級住宅地が見うけられ、 守衛だけでは話にもならず、門のくぐりから また、オランダ時代と思われる欧州風のなつ 少し入って建物の遠望をカメラに収める。真 かしい建物もならんでおり、ヨーロッパの田 夏の浄水場はどこでも暑い。ホテル、官庁を 舎町を思い出させる。しかし、高層建築は見 出入している聞はよいが、ここは全くの夏で 当らない口 ある。上衣を持つのもおっくうになる。汗が この町の最高級のホテルはタンジュンであ ジンとにじみ出る。空港へ行く道路わきにい る口水道の水質はみたところよさそうである くらかの鉄管がおいである。車をとめてそれ が、蛇口の漏水は止らず、しかしパスは大き 9 3 1年 頃 の 久 保 をみる。フランス製が多い o 1 くて使いよい口日本の最近のホテル浴室の狭 田鉄工の印も見つかったそうである。町を一 さと対照的である。部屋ヘ入った時、停電 5 巡りして空港に向う インドネシア第二の都会スラパヤの浄水場 D 4 5 東南アジア見聞記 シンガポール シンガポール空港には G . E . L .の Cheong氏の 出迎えを受け、グッドウッドホテルに着く口 αlOn Chan, S i e w . Keong氏その他の方々と会談する。こ . E . C .の 金門製作所の関係のG この水道は東南アジアで最も良いという話で ある。その設備は英・米・西独・オランダ・ 日本のものが入っており、維持管理に入ると、 漏水も多く、修理も部品不足で困っているそ うである。維持管理の能力不足で、むやみに / 国際入札にたよるとこうなり勝ちである。 夕食は美人ショーを見ながら中国料理をと るという、植民地特有のレストランである口 水道産業新聞主催の調査団一行の羽田氏ほか 2~3 の人と偶然( ?)顔を会す口私達がここ にいることを聞いて、ちょっと敬意を表しに きたという。明日はマレーシヤへ行くとのこ 道蕗の端に並べられた鯛瞥(シンガポール) のは現行法により罰金を徴集するという。犬 を入れたもの 5 00ドル(シンガポールドル)、 000 魚 を 釣 る も の 500ドル、小用をしたもの 1, ドルなどとかかれている。昔の立小便 50 銭罰 金のことを思い出し、同ピようなことを考え とであった。 翌日午前中は、ホテル推せんの指定観光タ るものだと思う。 クシーで大急ぎで町を一巡する。シンガポー 8 0 0m ; m位か)が延々と並べ 道路の端に鋼管 ( ル市の南方にある小高い丘のマウントフェー であるのが見られる口メーターは金門製が入 パに登る。シンガポール港と市内が一望に入 っている。人口 240万といいながらなわ増加が る。シンガポール港は世界三大美港のーっと 多いらしく、建築中のものも多く、交通量は いわれているが、ここからは残念ながらその 日毎にふえ、水道も 1975年 を 目 途 と し て 拡 張 感りは出ない口 中f;しい。マレー半島縦貫鉄道の起点であり、 HOUSEに行く。ここ 東南アジアの海と空の中心である、ここシン は中国財閥の一人、故胡文虎氏の邸宅て¥同 山 を 降 り て JADE ガポールは東南アジア情報の中心としてこれ 000個ともいわれるヒスイのコレク 氏所有の 1, からの発展がみられる。 ションで有名で、ある。観光料ではないが、門 その日、 20 時 25分 の タ イ 航 空 で シ ン ガ ポ ー 番 に 2シ ン ガ ポ ー ル ド ル を 支 払 う 。 ヒ ス イ 製 ル空港を立ち、一路パンコックドムアン空港 品のほかに前庭と側庭に珍しい動物類の造形 に向う。 や、奇岩怪石の造りものがある。 私はここで一行と分れ、マンダリーホテル のロータリークラブの昼食会に行く D ここで 昨夜の G . E . C .の Siew氏と会う。 午後S iew氏の案内で団員一行と共にシンガ ポール水道局を訪れ、チョオン技師長に会い お話を聞く。 5. タ イ 国 争シンガポールよりドムアン空港へ争 私にとって未知の国インドネシヤの見聞を 終 え て 、 シ ン ガ ポ ー ル の 半 ば 休 養 の 2日聞を へて今ドムアン空港への機上にある。 シンガポールはかつて数日間の生活をした / mであり、それ 400m ここの降雨量は年間 2, 6 0年という を貯水池に貯えている。水道歴史 1 動かず、カセイホテルの がさすがにコスモポリタン都市である。後で 記憶がある。今見たシンガポールは全く別の 貯水池を見る。その一角に立札がある。その 国のようである。シンガポールのマレー鉄道 文句が奮っている。いわく、次の行為をしたも の起点駅から列車で半島を北上し、タイ国に ことがあり、戦時中のことでエレベーターも 6階に何度か昇った 鋳鉄管 4 6 入ったことを思い出す。今、その問。方向に 1時 間 5 0分 の 空 の 旅 を つ づ け る 昭和 4 8 . 5 第1 4号 計画 (73年 ~78年) 3, 884 億パーツの内容であ 夜のことと る。浄水場見学後町を一巡してホテルに帰る。 て都会の灯以外に何も見えない。やがてパン 23日 夜 は 丸 紅 さ ん の 好 意 で 、 南 サ 一 ト ン 通 D コックに近づいたのか街の灯が見える。ピヤ りの近くの日本料理屋「大黒Jで夕食をとる。 タイ通りの勝利記念塔は見るべくもないが、 ちょうど支届長交替の時で、井川前支庖長と 街の形はその灯から想像することができる D 立花新支唐長共に同席され、種々興味あるお ノ 「 fンコック」に帰って来たという感りであ 話を承る。井川支屈長は日本人会長をされた る。ここにはかつて延べ 9か月の思い出があ こともあるらしく、日貨排斥問題の実態につ る 。 いてもご意見を承る。日本人小学校や中学校 22時 30 分を過ぎてドムアン空港に着く。丸 紅、 トーメン、久保田など現地商社の方々の 出迎えを受ける。夜遅いというのに皆様誠に のこと、勤務交流のこと、現地日本人は日・ タイ両国のためにどんな態度をとるべきか等 興味深く承る。 ご苦労様である。われわれにとって誠に有難 24日 は 大 使 館 に 栗 野 公 使 を 訪 れ る 。 藤 崎 大 いことである。久保田の謹尾氏の自動車で仲 使は帰国中である。円借款、日貨排斥問題な 島氏と共にブルンケット通りわきのホテルア ど、わずかな時間ではあったがお話を承る。 0時 に 首 都 圏 水 道 公 社 マリンに着く。明日は 1 27日のパーティーの約束をして、徳、問書記官 を訪れる予定。 の部屋を訪ねる。「海外経済協力基金」大橋氏 φバ ン コ ッ ク 命 も同席される。種々タイ国の事情を聞く。つ 23日午前 1 0 時首都圏水道公社を訪れる。ア い で の こ と で あ る が 、 首 都 圏 水 道 よ り 昭 和 47 ムノイ次長、クラチョック次長、プラノ¥チ 年 4月 に 日 本 の コ ン サ ル タ ン ト の 派 遣 を 日 本 ュアンピットの公社幹部各氏と、大使館の徳 に要請したということである。 岡一等書記官のわ顔もみえる。一同会議室に 午後は地方水道局にダムロン局長を訪れる口 着席、やがてチャムラス総裁も出席される。 首都圏水道計画の概要を伺い、 「首都圏水道 局長以下サコンジット、カシャン、アナンダ のマスタープラン J をいただく。表キ氏にわ 72 のわ話を承る。地方都市水道のためにすこぶ の諸氏も同席される。地方都市水道について 年1 1月」とある。われわれのために特にプリ る熱意をもってわられる。チャムラス氏とい ントされたものらしく有難い乙とである。総 いダムロン氏といい、大事業に取りくんでい 裁は明日の昼食会を約して、他の会議の都合 く気慨を見ることができる。東南アジア唯一 で1 1時頃退席される。 の 伝 統 あ る 独 立 国 rタ イ 国 水 道 」 も 順 調 に 延 午 後 は サ ム セ ン 浄 水 場 に 行 く 口 こ こ で2 0 0 0 年計画の詳細の説明を受ける口差当り パンコック:首都園水道公社 5カ 年 びることであろう。 24日の昼食は昨日のお約束により、チャム バンコック:サムセン海水場 4 7 東南アジア見聞記 ラス総裁のご招待により中国料理を「ホイテ なり、私は単身で出かけることになった)。 ンラオ J においていただく。総裁のほかにア 争力ンチャナフリーへ行く ムノイ、クラチョック、プラハ、 スピト ( P )、 φ カンチャナブリーにある慰霊塔に参拝する チュアンピット、スピット(S)氏 が 同 席 さ れ ために、松田社長が案内しようという話であ る。こちらは団員のほかに丸紅の金井氏が通 ったが、当日の 27日に急に社用ができたらし 訳代りである。総裁はやせ型のおだやかな紳 く、やむを得ず朝の 9時 30分頃ホテルでタク 士である。一つの言葉動作にしても、われわ シーを頼んでもらって私は単身出かけた。後 れに対する配慮が細かい口タイ人は外交上手 で聞くと、松田社長から友人の元戦友に私の といわれているが、同氏らはその言葉にあて ことを頼んであったそうだが、連絡のつく前 はまる。世銀からの借款に関する苦労話をお に私が飛び出したということらしい。ちょう 年早々には米国に行くという 伺いする。 1973 どこの 27日 の 夜 親 善 パ ー テ ィ ー を 催 す の で 時 話である口今、財源確保に最も苦心されてい 聞が気になったのである。私はカンチャナプ るようである。 24日夜はタイートーメン社長西野順次郎氏 リーに半年程いたので地理感には自信があっ た。もっとも街の様子が変わっていると困る のご好意で同氏の私邸に招待を受ける。松田 と思ったが、その時はその時ということで言 アマリンホテル社長も同席される。後で西野 葉の通じないことを承知で出かけた次第であ 氏の著書「日夕イ 400年史」をいただいたが、 る 。 同氏はタイ閣タマサート大学の出身で、 1940 万にもみ 私 が い た 頃 の パ ン コ ッ ク は 人 口 50 年以来在タイ日本外交官の経験者であり、現 たない。自動車といえば官公庁と軍人位のも 在日本人会長である。日本および日本人がも の、主要交通機関は単線の市電とサムローで う少しタイ国およびタイ人のことを考えなけ ある。とのなつかしい市電は、交通量増加の れば、日貨排斥あるいはそれに準ずる行為と ため全部とり除かれている。過密都市での運 考え方はなくならないであろう。外交の基礎 命である。サムローでのんびり走っていた面 はギプ・アンド・テイクを本当の意味で行う 影はどこにもない。道路は自動車、パス、 ことである。このことは頭で解って行為にな ラック、サムロー、オートパイで雑然と混み ト り難いのが人の情というものであり、譲歩は 合っており、街の中心は車が動かない。その 常に強者の側になければならないと私は思う。 混雑ぷりはジャカルタよりひどい。一方交通 私はこう自問自答した次第である。 の道路もとごろどころある。昔なつかしい商 松田社長は元鉄道隊将校で¥私の友人藤野 屈街のニューロード、ヤワロードも一方通行 重信氏(私と同ビ鉄道部隊にいたことがある) である。 4-S通 り と い わ れ た シ ピ ヤ 、 ス リ の親友であり、終戦時のことに話がはずむ口 オン、シーロム、サ一トンの中心道路も下水 氏はその時からこの地に残られて今日に至っ 側溝を埋めて道路幅は広げられたそうだが、 ているが、タイ国における日本民間の最有力 とても交通量の激増には追っけない。 者である。今、同じようにタイ国に残ってい 街にはシチズン、サンヨ一、目立など日本 る元日本軍人は 350名位だろうということであ の広告で一杯である。中国の町は日本の町に 000名とすれば 1割 弱 で る。在タイ日本人を 4, 変わった。日貨排斥も当然で、あろう。臼本人 ある。ご両氏共タイ生活 30年 を 越 す 方 々 で あ の中にはマナーの悪いのがいる。タイ国のた る。私も初対面とは思えず、共通したものを めを思っている日本人達は迷惑している。特 感りた次第である。 27日 に は 両 氏 共 お 出 を 願 に旅行客は心せねばならない。タイ国は昨年 うわけであるが、ちょうど日曜日だから、私 12月 、 の曽遊の地カンチャナプリー(半年租いたこと れ、議会政治が復活したことになっているが、 がある)に案内するとの松田社長の言葉であ 形式だけでいまだ本物になっていない O 国民 る。(このことは同氏の社用の都合で中止と の表情は複雑である。 l年 ぶ り に 憲 法 停 止 の 独 裁 政 治 が と か 4 8 昭和4 8 . 5 第1 4号 鋳鉄管 クワエ河童先週輔付近できZイ園女学生と共に パンコック:ラマ一世構付近 ア マ リ ン ホ テ ル か ら ラ マ 一 世 橋 ま で は 30分 3台 の パ ス に 分 乗 し た 女 学 校 生 徒 の 一 回 が あ 位かかる。戦時中に開閉装置を爆撃されたラ り、これを迎える小さな売庖と喫茶庖がある。 マ一世橋は、そのままで修理して交通に供し 私は数人の女生徒と鉄道橋をパックに記念写 ている D この橋でチャオプラヤ一川を渡ると、 真をとった。技師は運転手である。 シンガポールに通ずる道路に連なる。町の様 鉄道」の建設に従事して戦病死した人々(両 fタイメン 相は逐次静かになるが、ナコンパトム辺りま 軍 共 ) の 慰 霊 塔 が 、 こ の 橋 か ら 50m位 の 所 に での道路は幅広い中央線地帯あり、四車道の 第二次大戦末期に日本軍の手で建てられたの 外側に舗装はないが歩道が設けられている。 である。この場所は数年前日本人会が主とな 交通量に比して裕々たる道路である。この辺 り敷地を広げ、柵を作り、立札を立てて何と りからパンポンに至るまでは、道路交文様式 か格好をつけたものだという。参拝人もなく も近代化している口両側の家なみも昔に比べ 寂しいものである口外人墓地が鉄道橋の下流 てよくなり、村落に入ると両側に自動車修理 分位の右岸に立派なもの モ ー タ ー ボ ー ト で 15 工場が目立ち、 fEssoJ の 標 識 が 至 る 所 に 見 があり、私は偶然それも参拝したが、多数の える。パンポン市の十字路のロータリーの真 外人が参拝している。何ともいいようがない。 中にある時計塔は昔のままである。その付近 の家なみはあまり変わっていない。 トンブリ カンチャナプリー駅前は寂しいものである。 私が行った時、ちょうど列車の発車時刻であ 外れまでは新しい建物があるが、この辺りに ったのだろう。パンポンの方に動き出したの なると次第に減る口パンポンの時計塔で道は で、それを 8m / mの カ メ ラ に 収 め た 。 偶 然 と は 西に折れ、カンチャナプリーに至るに従い道 いえ、なつかしい姿をとらえることができた。 は、両側からお b~ いかぶさる巨木の下をくぐ 慰霊塔の引き合せかも知れない。私達のいた って昔の名残りをとどめている。両側の家も 頃、ここで大爆撃を受け何百本のガソリン入 時に新しい木造があるにしても、売庖や食堂 ドラム缶が空中に次々と舞上った光景は今で などの位置は変わっていないようである口た も忘れない。その火は 50kmはなれたパンポン だ金色の屋根の寺がふえたのが目立つ。小学 からも見えたという。今は、全く兵どもの夢 校の隣りに寺があり、町の公民館というとこ のあとである口 ろだろう。金色屋根の寺の新築と修理は至る 今のカンチャナブリーの町の中心はここか 所にある。経済回復の一つのしるしであろう。 ら 2km程東にある。新しい近代的建物も 3~ この道はかつて私がカンチャナプリ一一パン 4カ 所 建 っ て い る が 、 そ の あ と の 部 分 は 昔 の コック聞を何回か往復した道である。無量の ものに多少手を加えているようだ。町角の食 感慨と共に走る。 堂で昼食をとる。言葉が解らないので注文が クワエ河のほとり昔のままの「タイメン鉄 できない D しかたがないので、炊事場ヘ行っ 道J の 鉄 道 橋 が あ り 、 そ の そ ば に 当 時 の 記 念 て食物の材料を指でさしやっと食事にありつ の機関車が、説明の立札と共におかれている。 く 。 7 -アップ、コーラはどこでも通じる口 この辺りは観光のコースになっているらしく、 運転手の口から突然思いがけぬ時に英語のや 4 9 東南アジア見聞記 うなものが飛び出す。こちらの言葉も彼にと に 2億 年 前 の も の と 称 す る 大 石 が あ る 。 学 名 っては問むだろう口名詞、数字、現在動詞だ を“仁bngromerateとと称する立札が立っている。 けで片づける。文章にするとお互いに通じな この寺の歴史は4∞年といわれているから、この石 い。食物を注文するのもむずかしいものだ。 在タイ 2年 の 私 達 の 部 隊 は 、 部 隊 長 の 深 謀 は相当以前からあったものらしい。もっとも、 相当な機械設備がないと動きそうもない。 遠慮で部隊内に「タイ語教育班」を作り、希 チェンマイは京都に似ているといわれるが、 0名 位 だ っ た と 思 う が 、 軍 の 服 務 を さ 望者は 2 タイ国第二の都会であり、至る所に由緒ある せず、まずタイ語をやらせた。それはタイ人 寺がある。街路は整然とした部分が多いが、 の中にとけ込む素地を作るためである。タイ 家屋は新旧雑居している D 広 い 計 画 道 路 の 片 の人達は、今日本に経済援助と技術援助を求 側に緑地帯があるのはうらやましいことであ めている。独立国の面子を保つためにその表 る 。 情は堅いが、日本にとっては戦時中を通じて チェンマイは、パンコックの人々の息抜き の友邦である。できることなら彼.らの中に入 の場所であり、パンコックの雑踏から逃れる って彼国のためになりたいと思う。在タイ邦 のだそうである。正月休みなど旅行客でホテ 人の中にも、こう考える人が多いと思う D 鉄 ルは満室とのこと口パンコックの人々は家族 道隊にタイ語教育班を作った主旨は今でも生 連れで泊るとのこと。旅行案内書によると、 かしたいものである。東南アジアを新しい楽 涼しいと書いであるがそうでもなく、夜でも 園のように思うだけでは困ったものである。 上衣は着ない方がよい位である。 パンコックに帰る自動車の中で、私は両側 夕食はホテルより 5分 位 の “ OLD CHIA の風景に目をやりながら感傷の数時間を過ご NMAI" と称する食事をしながら踊りを見る した次第である。 席に案内される。入場料は 1人 1 00 パーツであ 争チェンマイ φ る。ちょうど日本の寄席の感ビで、客席は平 25日は午前 9時 、 パ ン コ ッ ク 発 の 飛 行 機 で 場に毛布をしきゆったりと座る。小さな舞台 チェンマイに向う。 1 0時 40 分頃到着する。パ があり、ここで踊りがある。食事には普通米 ンコックから丸紅金井氏とスラチャイ氏のご ともち米を別の椀に入れてくる。副食物を皿 同行をうける口チェンマイ空港で問市水道局 にとり、それをもち米で手づかみにして食べ の方々の出迎えを受け、直ちに水道局に向う。 る。タイ古来の方法である。副食物は支那料 詳細は「報告書」にかいた通りであるが、水 000度位、普通 源であるピン川の濁度は最高 2, 0度以下、この日は雨後のことで 200度位と は2 いう。水質は良く、濁りも、ソイルが多いと のこと、良質の濁りである。貯水池はピン川 の水をヲ!いて貯める。容量40 万トン位で土堰 堤で囲まれている。浄水場はまことに清潔で、 公園という感じである。ピン川を 4 . 5 k m 遡り、 次の計画の取水口付近に案内を受ける。 水道局の方々と共に市内のある中華料理庖 に入る。昔風の庖であるが何とか用は足りる。 大きな扇風機を備えているが涼しくもなし凡 おそい昼食をとり町を一巡する。前記の貯水 池の近くの第二の水道事務所を経て、貯水池 の説明を受ける。帰途水道局員のご案内で、 ある由緒あるらしい古寺による。境内の一角 チェンマイ水溝の配水池 昭和 4 8 . 5 第1 4号 鋳鉄管 5 0 理式にいくつかの椀に別々の物を入れ、 6つ ィーになった。私達は例によって会場入口に の椀を小さな食卓の上に並べ、 4人でそれを 来客を迎え、一人ずつ握手を行なう。それが つつく口なくなると、また補給してくれる。 30分 位 つ づ く 。 招 待 客 が 揃 う ま で 立 っ て い る バイキング方式である。椀を空にすると、い のが習慣だそうだが、この桂度で宴の中に入 くらでも運んでくる。適当に残さないと腹が る。ちょうど来タイ中であった丸紅の大峡氏 はちきれそうである。食後の第二次の踊りは、 もお招きし、松田社長もご参加をいただく。 小家の外に出た小さなジャングルの中で土の 例によって大塚氏はここでも顔なじみも多く、 上でのハダシの踊りである。この地方の民謡 例の調子で外交手腕を発揮している。他の三 0 時頃終わる。外人 踊 り な の で あ ろ う 。 午 後1 君もなかなか慣れたもので、パンコック最後 客もなかなか多い D ている。 の夜と張り切っ 7 チェンマイにくる外人客も多く、ホテルで 切符を買い、パスに乗って見物に回るらしい。 チ ャ ム ラ ス 総 裁 は 、 定 刻 7時 に 多 少 お く れ てみえたが、非常に気をつかっていられるよ 翌 日 の 8時 頃 ホ テ ル の ロ ビ ー は 多 く の 外 人 客 うだ。そして、最後まで私達のお相手をして で一杯である。ノてンコックにくる旅客は余裕 下さった。おかげさまで、他の方にも総裁を 中心に話がはずむ。チャムラス総裁の言葉の があれば必ずくるようである。 街の交通機関はサムローが多い。 2パーツ 中に、下水道もやらねばならないが、これは で相当のせてくれる。目抜通りは自動車も走 水道より Expensiveな の で 、 上 水 道 が 相 当 普 り、サムローと共に雑然としている。一方交 及しないと下水道にかかれない。上水道は 1n- 通の道路もある。南国の太陽は暑く、空気は comeがあるが下水道はそれがないのでやり難 清く、そして樹木は多く、純生の緑一色であ いということで、ある口そして、このことも本子 5階 来協力して欲しいという。彼の真意は私にも 建の住宅群が町外れにある。そして、水源地 よく解る。パンコックの中心部がこんなに過 帯 の 汚 染 を 気 に し て 新 取 水 口 は 4.5krn上 流 に 密状態になると、早く下水道に手をつけない とるわけである。およそ公害とは関係のなさ と次第にやりにくくなる。責任的立場にある 0 0 0年 に は そうな北部タイの一都市も、紀元 2 人の絶えず考えることである。私はタイ国の そうなるといわれている。 ために、早急の問題は首都圏中心部の下水道 る。この地にも、人口増加はあり新しい 開発途上国の通例として、大都会は首都 1 の整備にあると思う。速度は上水道よりおそ カ所であり、すべての「悪」はここに集まる。 くとも着手は今すぐに必要で、ある。上水道拡 自然破壊も思想問題も公害も、そして社会悪 張のための借款に来春早々世銀ヘ行くという も。この国の自然はまだまだこわれそうにな が、総裁の胸の中には上下水道の将来を共に 0 0 0年 い。第二の都市チェンマイの自然も、 2 考えていると私は思った。 の心配もないと思うが、しかし外人観光客の 増加ということは、ホテルの増設、水道の拡 張を必要とする。いつまで平和なチェンマイ が続くのか、やはり問題がありそうである。 6 . バンコックより香港、羽田 1 1月2 8日 、 1 1時 2 0 分キャセイ航空てもドムアン 空港をたつ。 5日 間 の タ イ 国 訪 問 を 終 え て 香 5時 30 分到着する。ホテルはミラマ 港空港に1 ーである口翌朝ホテルの食堂で今回の調査団 の最後の会食をし、大塚、河田、橋本の三君 27日夜パンコック、アマリンホテルの宴会 はそれぞれ社用で台湾に向い、私と仲島団員 場で親善パーティーを開く。現地商社の方々 9日18 時3 5分 羽 田 空 港 に 無 事 到 着 す る 。 水 は2 のご配慮であらか。め招待状が出されており、 団連塩原専務理事初め関係皆様方のお出迎え 首都圏水道公社、地方都市水道局を初めタイ を受け、 1 5日 間 の 旅 程 を 完 了 し た 。 こ こ に 再 国側の皆様、また栗野公使、徳岡書記官を初 び本旅行中何かとご好意やご配慮をいただい め日本側の官庁の方々、および日本商社の方 た関係皆様方に深甚の感謝をささげながら、 名を越えるパーテ 方もご参加をいただき、 40 この見聞記を京冬わる。