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ドイツにおけるアニメの受容

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ドイツにおけるアニメの受容
明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5
1
3号
(
2
0
1
6・1) p
p
.
8
7
1
0
6
ドイツにおけるアニメの受容
一一
1
9
7
0年代のテレビシリーズから考える一一
淳
松海
1.はじめに
1
9
9
0年代後半,
ドイツにマンガ・アニメブームが起こる。このブームが
契機となり,次第にマンガやアニメはドイツ国内でアカデミックな領域にお
ける研究対象ともなっていく九主にアニメに関して論じられた書物に目を
向けてみると,例えばエーファ・メルテンス C
EvaM
e
r
t
e
n
s
)は
,
内でこれまで積極的にアニメ放送を行ってきた民放テレビ局
ドイツ国
RTL2が番組
0
1
1年以降縮小していく決定を下
編成方針を変更し,アニメの放送時聞を 2
したといったアニメを取り巻く現状の報告を,メディアの有害表現から青少
Ju
g
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n
d
s
c
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g
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s
e
t
z
)
. 或い
年を守るために施行された「青少年保護法J(
Ju
g
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u
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z
.
S
t
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s
v
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r
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r
a
g
)
は「青少年メディア保護州際協定 J(
と関連付けながら行っている 2)。また.
fドラゴンボール d
l
.f
N
A
R
U
T
O
d
lと
いったアニメ作品のオリジナル版とテレビで放送されたドイツ語吹き替え版
の聞に確認される映像とセリフの異同を検証することを通して,アニメを
ドイツ国内で放送する際の問題点を指摘するサブリナ・フレヒトナー
C
S
a
b
r
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aF
l
e
c
h
t
n
e
r
) の研究論文が出版され円更にディズニーのアニメー
ションと日本のアニメーションの聞に見られる内容,表現方法などの相違を
M
i
c
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l
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eB
i
c
h
l
e
r
)
様々な視点から詳細に比較対照したミシェル・ビヒラー C
の一冊も世に出ている九このように,文字通り「量」と「質」の両面から
8
8 明治大学教養論集通巻 5
1
3号 (
2
0
1
6・1)
アニメの研究が進められている模様だ。
しかし,こうした研究の対象は 1
9
9
0年代後半のマンガ・アニメブームの
時期に,或いはそれ以降に放送されたアニメ作品が中心となっている。アニ
メがドイツに登場した時期の状況は研究の中に散見されたとしても,纏まっ
た形で報告されてはいない。アニメはドイツのテレビ局で 1
9
7
0年代の前半
に放送が開始されることになる。当時,アニメに触れる機会はテレビのチャ
ンネルを合わせるか,映画館に行くかに限られていた。ただし,
ドイツの映
画館でアニメが 1
9
7
0年代に上映されることはほとんどなかった。そこで,
本論では 1
9
7
0年代にテレビで放送されたシリーズに焦点を定め,どのよう
にアニメがドイツ(西ドイツということになるが)において受容されること
になっていったのかを,
ドイツから発信されたその時代の雑誌記事や現在の
インターネットのサイトに掲載されている情報などを参考にしながら検証し
てみたい。アニメの出発点をドイツの視点から探ることが,
ドイツにおける
アニメの受容の特徴を明らかにしていく際に必要な研究の一つになるのでは
ないかと考えるからである。今から 4
0年以上前の状況が,どのような経路
を辿って現在のドイツで研究の対象ともなっているアニメブームへと烹った
のかを解き明かすためにも,当時の様子を探ってみたい。
2
. ARDの雄跳
1
9
7
1年 1
1月 1
8日,公共放送テレビ局の一つ DasE
r
s
t
e (ドイツ第 lテ
レビ〉を運営する ARD (ドイツ公共放送協会)はアニメシリーズ『スピー
"Speed Racer“:日本語タイトル名『マッハ GoGoGoJ) の
ドレーサー J (
放送安開始する。このシリーズがドイツのテレビで放映された最初のアニメ
となる。 ARD系列の地域放送局 SDR (南ドイツ放送局)の編集局長が子供
向け番組枠の中で放映するために,全 5
2話のうち 8話分のライセンスを購
入したのであった。 1
8歳の若き主人公が様々な装備を施した車に乗って,
ドイツにおけるアニメの受容
8
9
サーキットや公選でライバルたちとカーレースを競い合うこの作品について,
ARDは次のように告知していた。
「このコミックスは日本発である。技術と表現の方法はこの上なく印象
的である。登場人物とストーリーは際立ったコントラストと舷しいほど
の色彩を生命線としている。これらすべては冒険であり,私たちの日常
を思い出させるものは何もな L、
」
九
このシリーズになぜ第 1作目としての白羽の矢が立ったのかは詳らかにさ
9
6
7年から米国で放映され,当地で人気を博
れていない。しかし,すでに 1
した『スピードレーサー』にドイツの放送局が注目したであろうことは想像
に葉監くない。『スピードレーサー』とは,そもそも『マッハ GoGoGoJ のア
メリカ吹き替え版のタイトルであったわけである o ~'鉄腕アトム』の英語吹
き替え版の指揮を執り,ブラウン管を通して「アトム Jを 1
9
6
3年にアメリ
カにデビューさせていたフレッド・ラッド
(
F
r
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dL
a
d
d
)は
,
~スピードレー
サー』の魅力が謎めいた人物設定と l秒を争うスリリングな展開にあるとし
ながら,当時の事情を次のように振り返っている。
9
6
7年
「実際問題としてこの番組にも暴力描写はあった(つまり,この 1
の頃には暴力描写は日本製アニメではすっかり普通になっていた。日本
のテレビ局はそういう内容を少年少女に向けて流すことに何のためらい
, ~鉄人J の経験で我々は露骨な暴力表現
もなかった)。だが『アトム J
をギャグ描写に昇華する術を編み出していた。(略) 1
9
6
0年代末にお目
見えした『マッハJが,この年代に米国で放映された日本製アニメ番組
のなかで一番の人気になったのは驚くにあたらな Lづ
九
放送終了以降も,この作品はアメリカで忘れられることはなかった。 1
9
9
6
9
0 明治大学教養論集通巻 5
1
3
号 (
2
0
1
6・
1
)
年にはフォルクスワーゲン社のコマーシャルに「スピードレーサー Jのキャ
ラクター達が登場し,
ドイツ車の宣伝を行っている。更に
2
0
0
8年にはアニ
メを拠り所とした実写版映画も制作されている九この作品のアメリカでの
関心と人気の高さを示す例といえよう。
では, ~スピードレーサー」はドイツでも放送局の目論見通りに大きな反
響を呼び起こしたのであろうか。確かに,予想以上の反応があった。しかし,
それは『スピードレーサー」の暴力表現に対する激しい批判の声であった。
このアニメを巡り,テレビ局と視聴者,メディアの聞にひと悶着が生じる。
e
rS
p
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g
el
)は
, 1972年
その騒動の様子を,雑誌「デア・シュピーゲル J(D
つ
4月 1
7日に掲載した記事「ブレーキがかけられない JC
"
N
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tzub
r
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r
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s
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n
のなかで伝えているヘこの記事によれば,事の経緯は次のようであった。
放送開始後,放送局 ARD,そしてこのアニメのライセンスを購入した
SDRの編集局長のもとに,父兄や教育関係者からの抗議の声が殺到する。
ドイツの第 l話が日本のシリーズの何話回にあたっていたのかは定かではな
い。「デア・シュピーゲ、ル」の記事によれば,初回はアルプスを舞台とした
カーレースの場面となっている。主人公が天才的なドライピングを披露する
一方で,ライバルたちは「次々とカーブ、から飛び出し,空中で一回転し,岸
壁に激突し,深い谷へと転落し,コースの両脇で炎上し血まみれになって死
。ただし,屍の山があろうとも,主人公には決して「ブレーキが
んでいく J
かけられな L、」のである。第一話はこのように紹介されている。第二話,第
三話はサイコパスな科学者のロケット攻撃から主人公が地球を守るというス
トーリーとなっており,アニメのヒーローが「冥界とこの世の終わり」を視
聴者に親しませることになったとこの記事は寸評を加えている。こうした
内容の『スピードレーサー Jに異議を唱えたのは子供の保護者連ばかりで
はなかった。アニメの放送をスキャンダラスな事件として報道する新聞,
雑誌も現れる。例えば,
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)は
日刊新聞「ディー・ヴェルト J(D
「野蛮な殺人者の心が抱く純粋な喜び J(
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)Vergnugene
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rrohen
ドイツにおけるアニメの受容
9
1
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nu
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) とこのアニメの性質を形容し,また,ある雑誌は
『スピードレーサー」を「ファシズムのあくまでも耐え抜けという映画のみ
に比べうる J(
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) とま
で響えることになる。「デア・シュピーゲル」の記事自体も「情け容赦のな
いコミックシリーズ J(
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S
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e
) とこのアニメを呼び,
「スピードレーサー」に対する批判の声を上げているのである。激しい抗議
の声に, ARDは「スピードレーサー」の放送を急遁第三話で打ち切ること
になる。しかし,これで一件落着とはならなかった。放送打ち切りを惜しみ,
放送再開会願う少年少女から数千通の嘆願書が届いたという理由から,放送
局はカーレースのアニメーションを再びプログラムに組み込もうとしていく。
そのために,全国規模で子供のテレビ視聴の習慣と趣向に関するアンケート
調査が実施される。調査の結果,放送の再開は断念されることになる。この
聞の放送局側の主張は,子供がフィクションと現実の世界を区別することが
できないと教育学の専門家逮が考えるのは,子供の判断能力を極めて過小評
価しているにすぎないという主旨のものであった。その主張に対し「デア・
シュピーゲ lレ」の記事は,ホモエロティックな映画を,まだ社会が十分に成
熟していないという理由から,放送局は放映を中止したではないかと問いか
ける。そして,子供に認める判断能力をどうして成人にも認めないのかと
ARD側に対し論陣を強り,この記事は閉められることになる。
以上が,
ドイツにおける第 1作目となったアニメシリーズを巡る騒動の顛
末である。当初, I
この上なく印象的」と宣伝されたアニメの表現内容と技
法は,多くの成人の視聴者には暴力的と映り,放送局と批判者の聞に「際立つ
たコントラスト」をみせる意見の交換が行われていたのであった。映像の作
り出すバーチャルな世界が現実世界にどの穏度悪影響を及ぼすのかという今
も頻繁に耳にする議論が,アニメ放送開始当時からドイツでも交わされてい
たことがわかる。ただし,現在のドイツにおいては,
r
スピードレーサ J
の暴力的なシーンは「ファシズムの」と形容されるほど強烈な負の印象を見
9
2 明治大学教養論集通巻5
1
3
号 (
2
0
1
6・1)
る者に与えることはないようだ。なぜなら, ARDの初回放送からおよそ 2
0
年後の 1
9
9
3年,民放放送局 RTLは『スピードレーサー」の放映を開始し,
好評を得たとは言えないまでも 4
1話分を放送することになりへその後ドイ
ツ語版 DVDも作成され, 6歳以上の視聴制限付きで販売されることにもな
JC
"
S
a1
io
rMoonつのドイツ語
るからである。『美少女戦士セーラームーンI
版 DVDの制限年齢が 1
2歳以上に設定されていることを考え合わせると,
「スピードレーサー」は極めて低年齢層に向けられたアニメとして現在は扱
9
7
0年代の放映と DVD版に異聞があるのかど
われていることが分かる。 1
うか検証する術がないのではあるが,ここまでの経緯を考え合わせると,放
送開始直後に起こった「スピードレーサー』へ寄せられた批判の矛先が,実
際のところ何に対して向けられていたのかが判明してくる。当時の非難の声
を引き起こしたのは,このアニメの具体的な一つ一つの暴力的なシーンであ
ることは無論のこと,それに加え,先のフレッド・ラッドの表現を借用すれ
ば
, r
1
9
6
7年の噴には暴力描写は日本製アニメではすっかり普通になってい
た」と評されるアニメという子供向け番組そのものに対する違和感,嫌悪感
9
7
0年以前にもアメリカ発のアニメー
ではなかったかと思われる。確かに, 1
ションが,例えば, 1
9
6
5年から 1
9
7
0年まで
"
F
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“(日本語
タイトル名「原始家族フリントストーンJ1)がドイツで放映されていた。た
だし,このカートゥーンシリーズは,もともと成人向けに制作されたもので
あり,原始時代に近代的な生活を営む一家の姿を描くホームコメディーであっ
たi九動く絵による物語はファンタジーに溢れ,ほのぼのとした雰囲気を醸
し出すものであったわけだ。そうしたアニメーションの世界から一転して,
現在の視線から見れば問題にされないレベルの暴力表現であったとはいえ,
テレビ画面上では,実際に車が炎に旬まれ人が死んで L、く。こういったシー
ンも描写していたアニメに対する免疫力がドイツにはなかった。日本製のア
ニメーションとして意識されていたかどうかにかかわらず,板東の地からア
メリカ経由でやってきた子供向け番組が拒絶反応を引き起こしたのも無理か
ドイツにおけるアニメの受容
9
3
らぬことといえよう。
『スピードレーサー」に対するドイツの反応は,後にこのシリーズのキャ
ラクターをフォルクスワーゲン社の CMに採用していくアメリカの対応と
r
対照をなしていて興味深しい1)。アメリカでは. 鉄腕アトム』の放映によっ
て視聴者はこのシリーズ以前にアニメを体験してもいたし. 1
9
6
0年 代 後 半
に生じた子供向けテレビ番組の暴力描写に対する親や教育関係者からの改善
要求運動に対処するために 12) 番組提供者は,再度フレッド・ラッドの表現
を拝借すれば,編集と吹き替えの際に「露骨な暴力表現をギャグ描写に昇華
する術を編み出していた j のであった。アメリカの視聴者も放送関係者もア
ニメに対処する術を,この時点、では,
ドイツに比べ心得ていたと考えること
ができるであろう。更に閉じタイトルのアニメに対する異なった受容の原因
を両国のコミック文化の違いに探すこともできるかもしれない。コミックス
が広く読まれていたアメリカに比べ. 1
9
7
0年代前半のドイツにおけるコミッ
クスに対する評価は低かったと言わざるぞ得ない。コミック文化がなかなか
根付かなかったドイツにおいて,動くコミックスとも見える内容のアニメは,
そもそも文化的価値のないものと判断されていたと考えることもできょう。
しかも,そこに暴力シーンがあったとすれば,アニメに対する評価は二重の
意味で厳しくなっていく。ただし,アニメーションそのものが,
ドイツにお
いて連和感,嫌悪感ぞ引き起こす表現形式であったわけではない。事実,第
二次世界大戦以前からディズニーの短編アニメーション映画は,多くの観客
9
2
6年 に は , ロ ッ テ ・ ラ イ ニ ガ ー C
L
o
t
t
e
を映画館に呼び込んでいたし. 1
R
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) によって美しい切り絵のアニメーション『アクメッド王子の冒
険 JC
"D
ieAbenteuerd
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nAchmed
つ が 13) 更に 1
9
3
5年には,オ
OskarF
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r
) によって,音楽に合わせ丸
スカー・フィッシンガー (
や四角の幾何学模様が立体的にダンスを行う抽象的で実験的なアニメーショ
"
K
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u“〉が制作されるといっ
ン「青のコンポジション JC
た華々しいとは雷えないまでも,確かに存在していた自国のアニメーション
9
4 明治大学教議論集通巻5
1
3
号 (
2
0
1
6・1)
の系譜もあったわけである叫。それどころか, ヒトラーの時代にも,アメリ
カのスタイルを取るコミックスの発行は取り締まりの対象になっていたにも
かかわらず,アニメーションは咲函館での上映を許可されていたばかりでは
なくベナチ政権によってアニメーシ認ン映画の製作が試みられるといった
「特権的な立場」さえ得ていたのであったへこうした文化的背景を持つド
イツで,抵抗なく受け入れられるアニメーションがあるとすれば,それはファ
ンタジーの世界を危険なく安心して堪能できる作品か,或いは芸術性,思想
性の高い作品かということになろう。
作品の内容,加えてドイツの文化的背景にその原因があったとしても,以
上概観してきたように,
ドイツにおける初めてのテレピアニメ放送は,広く
受け入れられたとは言 L、難い結果に終わった。過激なシーンに対する警戒の
声はドイツに限って聞かれるものではないにもかかわらず,圏内のあまりの
9
7
1年以降,日本の独自の
批判の大きさに戸惑ったのであろうか, ARDは 1
シナリオに 2
毒づいて制作されたアニメを放送するのぞ跨蹄したように窺われ
る。確かに,スウェーデンの作家セルマ・ラーゲ、ルレーヴ C
SelmaL
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l
of
)
の児意文学作品を原作とする『ニルスのふしぎな旅~ C
"
N
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o
n“
)
が1
9
8
1年から 1年開放送されてはいたヘしかし,このシリーズを除けば,
1
9
9
5年 1
0月より『美少女戦士セーラームーン」の放送を開始するまで,
ARDのプログラムの中に話題となったアニメ作品安探し出すことができな
いのだ。では, 1
9
7
0年代のドイツのテレビ画面から日本製のアニメーショ
ンは消えてしまったのであろうか。いや,消え去ることにはならなかった。
それどころか,
r
スピードレーサー』に対する批判がいわば「原動力」とな
り,新しい作成スタイルによって生産されたシリーズが次々と誕生し,
ARDとは別のもう一つの公共放送局で放送されることになっていくのであ
る。それらのアニメは,アメリカで行われていた吹き替えの際に「露骨な暴
力表現をギャグ描写に昇華する術」とも異なった方法で制作されていった。
舞台はテレビ局 ZDF (ドイツ第 2テレビ)へと移る。
ドイツにおけるアニメの受容
9
5
3
. ZDFの挑戦
ZDFは 1
9
6
3年に開局する。開局当初は子供向けのプログラムは放映して
9
6
7年に編集局「子供と青少年JC
K
i
n
d
e
rundJ
u
g
e
n
d
) を設
いなかった。 1
立し,その世代に向けての番組安手掛けていくことになる。その当時のドイ
ツの子供向け番組は工作の案内や人形劇,そして「なぞなぞ」といった内容
が主たるものであった。ちょうどその時期ドイツでは学生を中心として,反
6
8年運動」
権威主義,個人の解放を唱え,親の世代への批判安強めていく r
が激化していくこととなる。こうしたいわゆる若者達の「政治の季節」の思
潮が,放送局にも大きな影響を与え,番組内容にも変革をもたらすことになっ
たと言われている。子供向けの番組も,子供だけが夢見ることができるユー
トピア的な世界を舞台とする内容から,社会へ出る準備をするために,現実
の世界の姿を提示する内容へと方針を転換していく。こうして,子供番組に
ぺ。例えば, ZDFは 1
9
7
3年から未就学児に
教育的な要素が盛り込まれて L
むけて,パペット(手遣い人形)が番組進行役を務める "
R
a
p
p
e
l
k
i
s
t
e
“を
放映する。そこでは「セサミストリート」のように「読み,書き」を教える
のではなく,エンターテインメント性を保ちながらも,子供と両親や大人の
聞に確執や語いの絶えないリアルな社会のあり様を,実写のドラマやアニメー
ヘ
ション映画を使って子供たちに伝えていくことが意図されていたという I
この番組は ZDFの編集局「教養と教育 J(
B
i
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gundE
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i
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h
u
n
g
) が担
当した。こうした子供番組をとりまく状況の中で,編集局「子供と青少年」
は,より娯楽性の高い新しいスタイルの子供向け番組を放送しようという試
9
7
3年に部局長として就任したヨーゼフ・
みを行なっていくことになる 19)0 1
ゲーレン C
J
o
s
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fG
o
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l
e
n
) が戦略を練る。彼がアニメに注目をし,新しい
0
0
8年
アニメーションの「生みの親」となっていくのである。ゲーレンが 2
に書いた回顧録「胡散臭いけど大当たり・ドイツテレビ、界へのアニメの道程」
9
6 明治大学教養論集通巻 5
1
3号 (
2
0
1
6・
1
)
(
点u
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t,doche
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.-DerWegd
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rAnimei
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sZ
D
F
.“〉の中に,
新しいアニメが誕生した事情が報告されているω
z。以下に,当事者の声に従っ
て
,
r
大当たり」したというアニメが制作されて L、く経緯を辿ってみること
にした L
。
、
番組作成には資金が必要になる。複数国との共同制作ならば,それぞれの
園の放送局にとっての費用の節約となる。無論,ゲーレンの編集局長就任以
前にも番組の共同制作は行われていた。いずれにしても,共同制作された作
品が各国で共通に理解されるためには,それぞれの国の言語,文化といった
障控寄越えていかなければならない。子供向け番組であるならばなおさらで
ある。そこでアニメーションに視線が向けられてし、く。動く絵ならば,音楽
と同様に,送り手も受け手も言葉と文化の患を超えることが比較的容易であ
るからだ。アニメーションということになれば,日本に注目が集まってし、く。
当時,東ヨーロッパのプラハやブラティスラヴァのスタジオで作られていた
アニメーションの作品にはエンターテインメント性豊かな魅力的なコンテン
ツがなく,アメリカのディズ、ニーのアニメーションは映画館に配給されるこ
とになっていたという。日本はヨーロッパ市場での経済活動の場を求めても
いたし,日本のスタジオには技術力の高い優秀で粘り強く仕事を行うアニメー
ターたちが多数存在もしている。日本はドイツにとって経済面,技術面での
絶好のパートナーということになった。しかし,日本側に全幅の信頼を寄せ
るわけにはいかない。ゲーレンはアニメがヨーロッパの人々の目にどのよう
に映っていたのかを当時を揺り返りながら,次のように述べている。
「ヨーロッパの影響力が及ぶことなく制作された日本のマンガ・アニメ
番組は,多くの人々にとってあまりにも可愛らしいイメージか,甚だし
く反感を起こさせる印象か,いずれにせよセンスのなさとわかりづらさ
を感じさせるある種のデザインの中に,無垢な世界か,或いは残忍でも
あり,同時に頻繁に確認できるようにクマロテスクでもある世界かのどち
ドイツにおけるアニメの受容
9
7
らか安提示していたのである J
2
。
l
1
かなり辛錬なアニメ評となっている。ここでは直接タイトルが挙げられて
はいないのだが,ゲーレンが『スピードレーサー Jの一件を念頭に置いてい
たことは十分に考えられる。ヨーロッパの感性にも受け入れられるためには,
日本独自のデザインやスタイルを修正して L、く必要がある。暴力シーンや入
浴シーンは言うに及ばず,悪霊や悪魔が登場するシーンも場合によっては嫌
悪の念を引き起こすことになる 2九様々な批判を乗り越えていくために慎重
に計画が練られなければならない。その上で, ZDFとオーストリアのテレ
ビ局,そして日本のスタジオの三カ国共同で, 1
9
7
0年代の初頭からアニメー
ションの作成が始められることになった。暴力と残酷なシーンは描かないこ
とという基本線が定められ,ストーリーの題材はできる限りドイツ的なもの,
少なくともヨーロッパ的なものと取り決められた。構想に関するパートを統
括する編集局はドイツに置かれ,アメリカの作家によってストーリーと基本
的作中人物が提案され,コンセプトとストーリーのアニメーション化が日本
のアニメ制作会社で行われることになる。こうして,
ドイツ・オーストリア,
アメリカそして日本の間で,主人公はどんぐり眠をしていていいのかどうか,
日本人ならば面白いと感じる登場人物が意図を持って行う上品とは言えない
言動は西欧の人にとっても同様に滑稽と理解できるものかどうか,といった
細部に渡る描写の入念な打ち合わせが行われたと L、
う
。
以上のようにゲーレンの述べているところに従えば,番組作成のイニシア
ティブは大部分ドイツが握っていたことになる。こうして一話 2
5分の連続
r
小さなバイキングピッケ J(
"
W
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es
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a
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k
e
nManner"
J
レーネル・ヨンソン原作),そして, r
みつばちマーヤの冒険JC
"DieBiene
シリーズ,
Maja“ヴァルデマール・ボンゼルス原作〉が誕生するのである。「小さなバ
イキングビッケ」は 1
9
7
4年 1月より計 7
8話分の放送が,
r
みつばちマーヤ
の冒険』は 1
9
7
6年 9月より 1
0
4話分の放送が ZDFで始まる。これらのシ
9
8 明治大学教養論集通巻 5
1
3号 (
2
0
1
6・
1
)
リーズに対する視聴者の反応は,果たしてどのようなものであったのであろ
うか。保護者,メディア批評家のもとでは評判は芳しくなかったと怯わって
いる。一種のヨーロッパ化されたマンガスタイルの先駆けとなった「小さな
バイキングビッケ』は,腕力を使うことなく知恵によって自らの意思を押し
通すことができるストーリーとはなっているが,このシリーズはひたすら面
r
白いだけで,決して教育学的に好ましいとはいえないと評された 23)0 みつば
ちマーヤの冒険」の放送後には,作品は犯罪的と評され,若い視聴者の美に
対する判断力を台無しにした張本人として制作責任者ゲーレンは I
I
n
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昆虫ジャップ)と呼ばれたと本人が先ほどの回顧文の中で撮り返っ
ている制。確かに,批判の声はよがっている。しかし,放映を打ち切らなけ
ればならない程の激しい抗議の声は聞こえてこない。実際,この 2本のシリー
ズは予定通り最後まで放送される。実に息の長いシリーズとなった。次第に
好評を博したのであろう,同じ手法を取り『ピノキオより
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“)といったシリーズが次々
と共同制作され,
れたものの,
ZDFで放送されることになっていく 25)。批判の声は聞か
r
胡散臭いけど大当たり」というゲーレンの回顧録のタイトル
は,当時の状況を的確に言い表しているといえよう。
「大当たり Jを呼びこんだのには理由があろう。ヨーロッパに馴染みのあ
る児童文学を下敷きにしたうえで, 日本の優れた技術によって画像の美しい
連続シリーズが仕上がったことにその要因を探すことはできょう。ファンタ
ジーの世界を安心して鑑賞でき,
ドイツの文化にも根付いた芸術性の高いシ
リーズがここに登場したのである。更に「小さなバイキングビッケ』では幼
い少年が大人の世界の中で,
r
みつばちマーヤの冒険Jでは幼い蜜嫁の女の
子が未知の世界の中で,それぞれの主人公は自分を取り巻く環境の中で思う
ようにならず戸惑いながらも,活躍し,学び,成長して L、く。こういったス
6
8年運動」以降の社会が子供の教育に向けた要請に対応する
トーリーは, r
ドイツにおけるアニメの受容
9
9
内容であったと言えるかもしれない。作品と時代が共鳴しあう。そこにも
「大当たり」の原因があろう。共同制作された作品は, ~スピードレーサー」
の弱点を幾つもの面で補うものとなった。
ZDFは 1
9
7
7年 9月,今度は「アルプスの少女ハイジ J(
"
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i“ヨハン
ナ・シュピリ原作)のライセンスを日本から購入し放映を開始する。一年間
にわたり放送されたこのアニメシリーズは,
ドイツのメディア企業家レオ・
キルヒ (L
巴oK
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) の要請によって高畑勲,宮崎駿らが制作に携わった作
品である。『アルプスの少女ハイジ』は,この時代を代表するアニメシリー
ズとして評価されていくタイトルとなる加。
1
9
7
0年代,このように ZDFは新しい子供向け番組の制作と放映に挑戦し
ていた。そして,その試みは確かに成功したと言えよう。ここに,共同制作
とはなってはいるが,
ドイツ国内におけるテレビを媒体とした好意的なアニ
メの受容の始まりを見ることができる。ただし, ピッケやマーヤが, 日本が
独自に制作したアニメーションそのものや,日本の文化自体に目を向けさせ
る状況をドイツ圏内で作り出すほど視聴者の関心を急速に高めたわけではな
9
8
0年代の番組内容は前の 1
0年とさほど変わるものでは
かった。 ZDFの 1
ない。共同制作された作品とヨーロッパの文学作品を台本としたアニメ,例
えば「アラビアンナイト
シンドパットの冒険 J(
"Sindbad“
)
, ~あらいぐ
まラスカル JC
"
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rWaschbarつといったシリーズのライセンスが
日本から購入され,放送が続けられるのである η
z 。テレビアニメの状況が変
わるのは民放放送局が増える 1
9
8
0年代後半から 1
9
9
0年代に入ってからのこ
ととなる。この時期から,放送されるアニメのターゲットとする年齢層も上
がり,内容もバラエティーに富んでいく。
4
. その後のピッケ,マーヤ,ハイジ
1
9
7
0年代に ZDFで放送されたアニメシリーズは,その後も根強い人気を
1
0
0 明治大学教養論集通巻 5
1
3
号 (
2
0日・1)
保ち,今日に至るまで繰り返し再放送されている。現在もマーヤ, ビッケ,
ハイジ,アリスといった主人公たちの作品がドイツ,オーストリアの放送局
で放送中であることが,アニメ関係の情報を掲載しているドイツ最大のイン
ターネット・ファンサイト "
animexx.de“によって確認できる紛。これらの
作品が,
ドイツオリジナルのオープニングテーマソングとともに,どれほど
長い間愛好され,親しまれてきたかという証であろう。更にこれら人気のあ
るシリーズは,現在のドイツにおいてドイツ制作のアニメーションだと広く
信じられているという。例えば,
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ゲーテ・インスティトゥート JC
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) のサイトに掲載されている記事「ドイツと日本のアニメーション
映画」悶}には『小さなバイキングピッケ j, ~アルプスの少女ハイジ」といっ
たシリーズは「多くのドイツ人に自周産カルト番組だと思われている Jとの
記述がみられる。そして,この記事はこのような事情から, i日本のアニメ
,そして
は長年にわたり外国に広く受け入れられ,非常に人気が高いこと J
アニメは「独自の方式でつくられてはいても,個別の特徴に摺ることができ
ず,そのためすぐには日本のものだとわからな L、」というこつの結論を導き
出している。アニメは元来「すぐには日本のものだとわからな Lリという表
現方法を持っているという見解は傾聴に値する。しかし, 7
0年代のアニメ
シリーズが「非常に人気が高い」を意味する「自国産カルト番組」だと恩わ
れてきた要因については,もう一歩踏み込んで考える必要があろう。なぜな
ら
ば
, ビッケやマーヤに限れば,彼らがドイツ生まれだと信じられているの
は,これまで検証してきたように,アニメを「意図的に日本のものだとわか
らなくさせた」という点に原因があると思われるからだ。ヨーロッパの文化
の中に日本のスタイルを巧妙に包み込み,動画の中にヨーロッパ世界のイミ
テーションを作り上げていくというドイツ側のコンセプトを,日本のアニメー
ターたちは見事にアニメ化していった。こうした異文化の香りが消されたア
ニメが,
ドイツで子供から成人まで広く長く受け入れられるようになっていっ
たわけである。アニメのいわば「グローパル化」が,すでにこの時点でドイ
ドイツにおけるアニメの受容
1
0
1
ツにおいて意閲的に推し進められていたといえよう。こうした「グローパル
化」は,海外にそのまま輸出されたアニメが自然発生的に起した現象ではな
かったのである。
日本が「舞台裏Jに退くことが,抵抗なくアニメが受け入れられていく要
因の一つになっていくという見方は,
できる。
ドイツにおけるマンガの受容にも確認
ドイツでマンガが翻訳され紹介されるのは,アニメの登場よりも
1
0年遅い 1
9
8
0年代に入ってからのこととなる。 1
9
8
2年に中沢啓治の『はだ
9
8
9年には小池一夫の「子連れ狼Jと石ノ森章太郎の『マ
しのゲン」が, 1
r
ンガ日本経済入門』が翻訳出版されていく。いずれの作品も「原爆J
, 侍J
,
「経済」といった日本の歴史や文化と深く関連づけられたタイトルとなって
いる。 1
9
8
0年代の作品は,この時点では,話題を集めることもなかった。
マンガは, 1
9
9
7年の『ドラゴンボール』までヒット作を待つことになる 30)。
「ドラゴンボール』は東洋の雰囲気は漂ってはいるものの,
日本の現実の社
会と結びっくことのないファンタジーの世界会舞台に,最かにそして複雑に
ストーリーが展開していく物語であった。そこに主人公が成長を遂げる「ド
イツ教養小説」的な筋を感じ取ることもできる(途中からこのマンガは戦闘
シーンの連続になってしまうのであるが〉。このように,アニメにせよ,マ
ンガにせよ,その受容が好意的に行われるスタート地点に,発信元が見えな
くなっている内容の作品が並んでいることは偶然ではないであろう。ドイツ
におけるアニメとマンガの受容の経緯はサブカルチャーが他国で受容されて
いくためには,その当初,ゲーレンが試みたように,子供向けのサブカルチャー
であるからこそなお一層,それぞれの文化の相違を止揚する方策とインター
ナショナルな内容を伴った作品が必要であったことを教えてくれる。
アニメはヨーロッパ文化と時代の要請に対応し,柔軟に安吾変えながら,
グローパルに自らを展開していく力を有していた。そして,テレビシリーズ
が示しているように,少なくともドイツにおいては,その力はただ単に日本
製のアニメーションは面白いからという視点からだけでは捉えきることがで
1
0
2
明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5
1
3号
(
2
0
1
6・1)
きない「越境Jを可能にする力であった。立案者と作成者によって意識して
付与されたその力こそが,アニメの魅力となってし、く。文化の壁を見事に悠々
と飛び越えた故に,制作から 4
5年が過ぎようとしている今も,マーヤは若々
しいままテレビの中毒飛び岡っているのである o
5
. おわりに
では,いつ噴からアニメは日本製のアニメーションとしてドイツで視聴さ
0
1
4年 1
1月 9日に表象
れるようになるのであろうか。この件に闘しでは, 2
文化論学会トーク・イベント「海外で日本の「アニメ」はどう見られている
J において,ハーバード大学東アジア言語・文明学部のアレックス・
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ザルテン
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) が行った報告が参考となる。ここまでのアニメ
の受容の検証とそれ以降のアニメの受容のあり方に大いにかかわりのある箇
所であると思われるため,少々長くなるが学会のニューズレターに掲載され
ている該当箇所を,そのまま引用してみることにしよう。
9
7
0年頃から国営放送で次第に放送さ
「ドイツにおいてテレビアニメは 1
れるようになり,そのなかには「マッハ GoGoGoJ や「アルプスの少
女ハイジ Jといった日本のアニメも存在していた。しかし,それらのア
ニメのクレジットには日本に関するものが表記されていなかったため,
多くの視聴者はこのアニメが日本で制作されていたものと理解していな
かった。一方, ビ、デオパッケージとしてアニメが販売され,国営放送だ
けでなく民間放送も開始される 1
9
8
0年代に入ると,コストの都合上で
日本のクレジットがそのまま収録・放送されるようになり, 日本のアニ
メの認知が圏内で広がっていく
J
3日
1
9
8
0年代,正確には 1
9
9
0年前後からのことになると思われるのだが,日
ドイツにおけるアニメの受容 1
0
3
本の作品だと意識されてアニメは視聴されることになる。そのきっかけがア
ニメそのものの内容,表現方法に興味が深まった結果としての必然の事象で
はなく,そのまま放送されたクレジットであったという指摘は示唆に富む。
無論アニメが日本のサブカルチャーであると判明したとしても,そのことが
視聴率にはマイナスにはならないであろうという放送局の「読み」が消され
なかったクレジットに込められていたことは十分に考えられる。しかし,こ
の時期に至っても日本製であることが堂々と前面に押し出されていたわけで
はなかった。放送局の資金繰りの関係上,アニメは自らの出身地を次第に明
らかにしていくこととなる。そして,もし「クール・ジャパン Jという現象
がドイツに見られるとするならば,そのきっかけは残されたままのクレジッ
トであったことになる。ちなみに,マンガもドイツでは同じ道を辿ることと
なる。マンガ『ドラゴンボール」は印刷にかかるコストの削減と定期的かっ
迅速な刊行を可能とするために,反転印刷することなく, 日本の読みの方向
のまま出版されていく。それ以降ドイツにおいてマンガの「右聞き Jのスタ
イルが定着していくことになるのだ2九アニメは残されたクレジットによっ
て,マンガは変更されなかった読みの方向性によって,内容というよりはむ
しろ経済上の理由から採用されたそのスタイルによって, 日本の作品である
ことがともに認知されていくことになる。この点は,
ドイツにおける日本の
サブカルチャーの受容を考える際にさらなる検討が必要な事象だと,思われる。
0年をかけ,アニメは実に「スロー」
「スピードレーサー』の放送からおよそ 2
9
9
5年に放送が開
にその正体を明らかにしていくことになった。そして, 1
始された『美少女戦士セーラームーン』がドイツにおける本格的なアニメブー
ムを引き起こす契機となっていく。ここから,アニメ受容の新しいステージ
が始まっているように思われる。アニメはアカデミックな領域の研究対象と
もなって L、く。それでは,それ以降,ヨーロッパの文化に配慮、をせずともア
ニメは,
ドイツにおいて人気を得ることが可能となったのであろうか。「ス
ピードレーサー』を視聴した際に, 日本とドイツの文化的差異が引き起こし
1
0
4 明治大学教養論集通巻 5
1
3
号 (
2
0
1
6・1)
た違和感は,グローパルだといわれる時代に解消されたのであろうか。そし
て,本論で検証してきたアニメの受容の始まりに確認できる状況は,
ドイツ
特有のアニメに対する対処の仕方であったのであろうか。今回の検証の通時
的な延長線上と共時的な平面の広がりの中に,考察を続けなければならない
幾つもの問題が残っている。興味が絶えることはない。
《
註
》
1
) ドイツにおいてマンガがどのような視点から批評されてきたのかについては以
下の拙論で考察を試みた。松海淳:rドイツのマンガ批評ぞ読む一明 1
9
8
6年から
現在まで一一J[拓殖大学人文科学研究所『拓殖大学論集人文・自然・人間科
学研究』第 3
2号
, 2
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5
3頁
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.
6
) フレッド・ラッド,ハーヴィー・デネロフ(久美薫訳):アニメが rAN1MEJ
になるまで
7
)
『鉄腕アトム~,アメリカを行く
(NTT 出版),
2
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1
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0
6頁
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スピードレーサー」のアメリカとドイツにおける受容の経緯については,雑誌
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) のオンラインサイトに 2
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8年 2月 1
1日
「デア・シュピーゲル J (
に掲載された記事 "
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2目)
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ubremsen“は「デア・シュピーゲルJ認の以下のウェブサイトに掲
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載され閲覧可能となっている。本論の引用部はここから行った。 h
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ドイツにおけるアニメの受容
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スピードレーサー Jのアメリカとドイツの受容の相違については,
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ドイツの
全国版日刊紙「ディー・ターゲスツァイトゥングJ(D
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) のウェブ
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0
8年 5月 8日付で掲載された記事 "
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nimRennwagen“を
サイトに 2
参考にした。以下に掲載されている。 h
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0月 1
2日)
1
2
) フレッド・ラッド,ハーヴィー・デネロフ寸前掲書J
,9
2頁参照。
1
3
) 日本においては,角川エンタテインメントより「ロッテ・ライニガ一作品集
DVDコレクション Jが 2
0
0
6年に販売されている。
1
4
) オスカー・フィッシンガーについては以下を参照した。カルステン・ラクヴァ
(柴田陽弘,民岩啓子訳):ミッキー・マウス一一ディズニーとドイツ(現代思潮
新社), 2
0
0
2,8
2
8
3頁参照。
1
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6
) ナチス時代のアニメーシ E ン制作の試みについては以下に詳しい。セパスチャ
ン・ロファ(古永真一,中島万紀子,原正人訳):アニメとプロパガンダ
第二
次大戦期の映画と政治(法政大学出版局), 2
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9
) ZDFの子供テレピ番組の制作と内容の変遷についての事情は,連邦政治教育
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) のウェブサイトに掲載さ
れている以下の二本の記事を参考にした。
"ZDF
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)
~アルプスの少女ハイジ」の制作の経緯と評価については「デア・シュピーゲ
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) アニメのテレビ番組表は以下に掲載されている。 h
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0月 1
2日
〕
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本論の引用
部はここから行った。
3
0
) ドイツにおけるマンガの受容については以下の拙論でまとめてみた。松浮淳:
「ドイツにおけるマンガの受容と現在J[明治大学教養論集刊行会「明治大学教養
論集』通巻 4
8
4号
, 2
0
1
2,9
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I2頁]。
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) 1""海外で日本の「アニメ」はどう見られているのか?J:h
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0
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5年 1
0月 1
2日
〕
3
2
) ドイツにおけるマンガの出版スタイルについては以下で考察そ試みた。松津淳:
「ドイツにおけるマンガの受容と現在J [前掲論文] 9
8
1
0
0頁
。
(まつざわ・じゅん理工学部准教授)
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