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Page 1 Page 2 スペインの庭(3)" 7. アルハンブラ ナサリ朝はスペイン

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Page 1 Page 2 スペインの庭(3)" 7. アルハンブラ ナサリ朝はスペイン
\n
Title
Author(s)
Citation
<麒麟> スペインの庭(3)
鳥居, 徳敏; TORII, Tokutoshi
麒麟, 19: 63-89
Date
2010-03-31
Type
Departmental Bulletin Paper
Rights
publisher
KANAGAWA University Repository
スペインの庭 (
3)1
鳥
居
徳
敬
7.アルハ ンフう
ナサ リ朝はスペイ ン最後のイスラム王朝であ り、グラナダはその首都であった。
そ して、その王宮がアルハ ンブラである。アルハ ンブラとはアラビア語で 「
赤い
域 al
Qal
'
aa
1
Hamr
豆'
」を意味 し、王宮それ 自身を指す名称ではない.グラナダ
盆地の小高い丘サ ビカに奪える全長約 2.
2km の城壁 と22塔で囲まれた 『
赤い城』
は、それ 自身で立派な中世都市 としての規模があ り、機能的にも城塞都市 「
カス
バ」であった。 この城壁 に囲まれた都市は城塞、王宮、そ して市街区で構成 され、
この後者には様々な王族や重臣の邸宅 も建設 されていた。 また、谷 を隔てたもう
一つの小高い丘 「
太陽の丘」にも、夏の離宮 『
へネラリーフェ』が存在する。 こ
れ らの王宮や離宮に現存する庭のはか、市街区の邸宅にも庭園の遺構が残 り、あ
るいは遺跡が発掘 されている (
図 1)0
図 1 アルハ ンブラ配置図 (
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63
1232年、ハエ ン近 くのアル ホ-ナでムハ ンマ ド1世 Muhammadi
bnYus
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Ahmar(
11941273)がイスラム教徒たちによ りスルタンと宣言
i
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される。 これがナサ リ朝の始 まりであ り、同王が 1237年グラナダを征服 し、自ら
の首都 とした ことか ら、同王朝はグラナダ王国 とも称 される。ナサ リ朝の居城が
城塞都市アルハ ンブラであ り、これが 1
492年カ トリック両王によ り開城 され るこ
とによ りスペイ ン最後のイスラム王国は消滅 した。 この ことか らナサ リ朝グラナ
ダ王国は1
2371492年 とされる。ただ し、その開始年を1238年 とする記述 も見受
けられるが、 これはイス ラム暦であるビジュラ歴 と西暦では年始年末が一致 しな
いためで、 日付 まで判明 しない限 り、 こうした年号のずれは しば しば起 こる。
イス ラム都市グラナダの旧城塞 (
王宮)は、元来、現アルバイシン地区に存在
し、 これを中核 として都市が形成 された。ムハ ンマ ド1世は この旧城塞 を捨て、
反対の丘サ ビカにアルハ ンブ ラを1238年 に着工す る。 これは新築ではな く、 l
l
世紀に建設された城塞跡を利用するものであった。ただ し、 この場所にはそれ以
前か らも城が建設されてお り、1
4世紀イス ラムの大歴史家アル ・ジヤテイブは、
サ ワル・
アルカイシか らの引用 として、 この城 もまた 「
赤 い城」 と呼ばれ 、9世紀
後半の建設だと述べる2。
アラビア語資料 によれば、ムハ ンマ ド1世はアルハ ンブラへの水路網の整備、
城壁全般、および城塞部 を建設 した3。ただ し、その息子の 2代 目ムハ ンマ ド2世
(
12731302)が城壁工事 を継続 し、要塞 としての防備施設 を完成 させた と考 え
られている。フェルナ ンデス ・プエルタスなどは、城塞部以外の市街区全域の城
壁 を 2代 目の建設 としてお り、同ムハ ンマ ド2世の時代 にアベ ンセ ラーへ官、パ
ルタール上官、さらには旧サ ン・フランシスコ修道院が建設 された とす る4。 ビル
チ ェスはパルタール上官が同 2代 目の王宮であった ことを指摘する5。他方 、3代
目のムハ ンマ ド3世 (
130209)がカル ロス 5世宮東側の最 も小高い場所 に位置
した王のモスク (
16世紀サ ンタ ・マ リア教会堂 に建替え られ る)、すなわちアル
ハ ンブラ市街区のモスクと同浴場 を建設 していることか ら、同王が市街区整備に
着手 していた ことが窺 い知れ る6。 また、パルタール下宮が同ムハ ンマ ド3世の
王宮であ り、同王の時代 に前記 したアベ ンセ ラーへ宮や旧サ ン ・フランシスコ修
道院が建設された説 も根強い。同様 に、離宮のへネ ラリー フェもムハ ンマ ド2世
か 3世の建設 とされている。いずれにして も、同 3世の時代 までにアルハ ンブラ
6
4
の市街区骨格は整備 されていたであろうと推測 される。 しか し、現存する旧王宮
として知 られているアルハ ンブラは、その大部分がナサ リ朝最盛期の 7代 目ユス
フ 1世 (
133354)、
お よびそ の息子 の 8・
1
0代 目ムハ ンマ ド5世 (
135459,1
362-
91)の手 にな り、
前者王宮が コマ- レス宮、そ して後者王宮が ライオ ン宮 に相当す
る。これ以降、グラナダ王国が滅びる15世紀末まで、
重要な造営はなされていない。
したがって、本稿で論ず るアルハ ンブラに関わる庭園は 13世紀最後の 4半世紀
か ら1
4世紀 に出現 した ことにな り、年代的 には前稿で扱 ったセ ビー リヤ王宮の
『
十字路パティオ』改造か らペ ドロ王宮建設 まで、および同じ14世紀のグアグラ
ハ-ラ王宮や トルデ シ- リヤス王宮の建設時期 に重なる。アルハ ンブラの庭園を
考 えるとき、 この点は特 に注 目すべきことであろう。
7.1 パルタール上宮
以前ユスフ 3世 (
140817) の王宮 と考 え られていた この魔境は、キ リス ト教
徒再征服後、カ トリック両王によ りアルハ ンブラ初代守備隊長 a
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de、かつグ
ラナダ王国方面総司令官イニゴ ・メン ド-サ (
初代モンデハル侯爵、及び 2代 目
テ ンデ ィー リヤ伯爵)に贈与されて以来、改造 されて同貴族の邸宅 として存続 し
た。 この事実か らして、アルハ ンブラで同邸宅はカ トリック両王が使用 した旧王
宮、すなわちコマ- レス宮 とライオン宮に次ぎ重要な建築であったに違 いない。
しか し、相当以前か ら廃嘘化 していた この敷地 を1929年国家が買い取 ったときに
は、全 くの廃嘘で古の面影はなかった。同年か らアルハ ンブラ保存建築家 トー レ
ス ・パルバスによ り発掘調査 され、一部図面化 されたものの、南側敷地は私有地
のままであ り、現在 に至 るまで全貌 は判 明 して いない。前記 したよ うに、ビル
チ ェスの指摘に従 えば、 この廃嘘は 2代 目ムハ ンマ ド2世の王宮跡であ り、初代
ムハ ンマ ド1世の居住場所が城塞の塔内に想定されていることか ら、アルハ ンブ
ラでの最初の本格的王宮であった と考 え られる。
トー レス ・パルバスの図面 と現状 をベース としてオ リウエ ラとビルチェスがそ
れぞれの同王宮の推定平面図を作成 している(
図 2)。前者が大きな池のパティオ
を中央 コアとした部分のみを王宮 とするのに対 し、後者は西側の家屋 2棟 とさら
に西側 に広がる庭園部 を含めムハ ンマ ド2世の王宮 と推定する7。
西側庭園部は南か ら北に下がる傾斜地であ り、幅約60m の区画壁で 4分割 され、
65
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図 2 アルハ ンブラ、
パルタール上官 (
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z図面 とOr
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a図面の合成)
段状に造成 されていた。最 も高 い南側庭園には八角形の噴水 と長方形の池が残 る
ものの、イス ラム時代の面影は全 く見 られず、それ らの機能 を想定す ることがで
きない。 さ らに南 には 『
王のモスク』 に所属 した浴場の大 きな池の跡 も見 られる。
1
920年 と23年 の発掘調査 に も関わ らず、当時 の庭 園部 の様 相 を推測 す るには
至 っていない。 この 4分割 された段状庭園の高 さに対応 して、王宮西側部は 4つ
にゾーニ ングされている。南側 の高 い庭園に対応 した 2家屋、その下 の 2段 目に
は前面 に 2つのコの字形の池 をもつ展望楼が存在 し、その前 に階段が配 され、パ
ルタール下宮 と分割す る擁壁が境界壁 を形作 る。 この南側家屋 と大 きなパティオ
の王宮部は南側が未だ発掘 されていないためその全貌は判明 して いない。 この王
宮への入 口が東側北部の想定されてお り、その入 口か ら小さなパテ ィオ を介 して
中央の大パティオに達す る。 この小パテ ィオ周辺 に付属施設が配 され、その南側
には浴場跡が見 られ る。正面玄関は南側 の未発掘部分 に存在 したであろうと推測
される。北東部 の入 口は裏 口であろうし、 ここか ら裏側 の城門 『
鉄の門』に抜け、
離宮 『
へネ ラリー フェ』 に行 くことができる。王宮部本体は細長 い大 きな池 のパ
ティオ (
図 3) を中心 に構成 され、北東部 に入 口を含む付属施設、南東部 に浴場
が配 され る。
66
図 3パルタール上官、王宮パテ ィオ
図 4同左、西側北家屋パテ ィオ
ビルチ ェスは池の両側 に植栽庭園、北側 中央 にはクッパ (
謁見 の間) と前廊 を
推定す る。大きな池 を中心 としたパテ ィオ形式はグ ラナダ王国の雛型 と言えるほ
ど多数存在 (
グラナダ病院 1
367、同 じ1
4世紀 に属すグ ラナダのサ フラ邸 Cas
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、同世紀 または 1
5世紀のヒロ-ネ
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、15
世紀のオル ノ・
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オ ロ通 りの住宅 Ho
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な ど) し、同王宮西側の 2家屋 (
図 4) もその例外ではな く、その代表例は 『コ
マ- レスのパテ ィオ』 に見 られ る。ただ し、 ビルチ ェスが推測す るように十字路
パティオの縦軸が池 に変換 された四分庭園の伝統 を読み取 ることもできる。
東西に延びる小路が このパルタール上官の北壁 に沿 って走 る。東端は北 に下 っ
て行 き 『
鉄の門』 に達 し、西端は直進すれば下 り階段で 2つの鈎形池 を持つ展望
楼テ ラスに、同階段前で南 に曲がれば王宮西側 の北家屋玄関パテ ィオの入 口に、
その入 口に入 らず 同家屋北壁沿 いの小路 を西進すれば、西側 の庭園部 に達す る。
こうした小路の配置か ら、西側家屋がパルタール上官 に付属す るとして も、鈎形
池 の展望楼テ ラスは同王宮か ら分離 しているよ うに推測 され る。 このテ ラスを西
側庭園部 の一部 と考 えるのか、あるいはビルチ ェスが想定す るよ うに、前方の階
段テ ラスを繋ぎの装置 としてパルタール下宮 に属す庭園 と考 えるかは、にわかに
は断定できない。
7,2 パルタール下宮、ムハ ンマ ド3世 (
1
3
02
-0
9)
このパルタール下宮は現在知 られている 『
パルタール』 (
図 11(
参) を指す。旧
王宮 『ライオ ン宮』の東側 に位置す る この王宮は、北側 の広 間=柱廊 とクッパが
67
図 5 パルタール下宮、北側
図6
同左、鈎形池か らの庭園側外観
外観
城壁に馬乗 りにな り、塔建築を形成する.その庭園側前方に柱廊のアーケー ドを
5×25m) があ り、さらに南側の一段高 くなったテラ
映 し込む大きな長池 (
約 13.
スの階段を上ると、前項で述べた 2つの鈎形池 を持つ展望楼テラスに達する。 こ
の望楼か らは大きな池 に 「
柱廊」を映 し込む眺望 を
楽 しむ ことが可能であ り、 ここまで下宮が広がった
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としても決 して不思議ではない。その 「
柱廊」を意
味する言葉が 「
パルタール」であ り、広間の内部装
飾か らムハ ンマ ド3世の時代の建設 と考 え られてい
る。そ して、同王 の王宮 と考 え られ る こち ら側 を
『
下宮』、前述 した南側 のムハ ンマ ド2世宮が位置
的に高い場所 にあることか ら同名の 『
上官』 と命名
され るよ うになった。13世紀未か ら14世紀初 め に
かけては、現在の旧王宮部分 にもこの 『
下宮』 に類
似 した搭建築が並び、同様の庭園が広がっていた こ
とであろうことが推測 され る。例 えば 、5代 目イス
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マイル 1世 (
131425) は現 『コマ- レスの塔』の 図 7 パルタール下宮、平
場所にそれよ り小規模の塔建築 を建設 してお り、そ
68
面図 (
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の孫の7
代 目ユス フ1
世が これを増築 して現在のものにしたのである0
建物 を映 し込む池 を前面 に配す方式はすでにマデ ィナー ト ・アル=サ フラに出
現 したもので、 目新 しいくはない。 しか し、池 に面 した広間はアーケー ドで全面
的に開放 され、桓廊のようで もある。 この広間越 しに主サ ロンのクッパに達する。
北側の森の上に聾える 『
ダーマス (
淑女たち)の塔』に位置するこのクッパか ら
は、対面の丘 に広がるアルバイシン地区やサクロモンテの眺望 を楽 しむ ことがで
きる。 このクッパのみな らず、広間の北面 も窓で開放 され、いかなる場所か らも
南側庭園 と北側絶景が眺め られる。さらに広間西側 2階には 2間よ りなる展望台
があ り、階段部 を除 く全壁面に開口部が穿たれ、前後左右のパ ノラマを享受でき
る。 まさに摩天楼よ り見る風景を味わ うことができる。ある意味で、 この王宮は
大庭園のなかの東屋で もあるのだ。
大きな池の左右、すなわち東西両側が どうなっていたか を推測できるような資
料は存在 しない。東側の城壁上に建設 された小モスク (
礼拝堂)はユスフ 1世の
時代のものであ り、西側の 『
パルタール下宮』 に接 し同じく城壁上に建設された
家屋 も同じくユスフ 1世時のものと考え られていることか ら、 これ らの遺構か ら
はムハ ンマ ド3世宮の庭園の東西の両側の様子 を推測できないのである。
7.3 7ベンセラーへ宮
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69
『
王のモスク』 (
図 1-③)南東の城壁 に接す るアベ ンセ ラーへ宮 (
図 1-⑤)は、
『
パルタール下宮』 と同 じく、南側主サ ロンのクッパが城壁 に馬乗 りになった塔
建築であることか ら、王族 に匹
敵す る重要人物の邸宅であった
であろうことが推測 され る。事
実、アベセ ラーへ家は王家 と密
接に関係する家系であ り、時 に
は王位継承 に際 し、重要な役割
を演 じていた。 ライオ ン宮の南
側 クッパ 『アベ ンセ ラーへ族 の
間』 も同 じ家系に関わる残虐な
図 9 アベ ンセ ラーへ宮、発掘現場
事件 に由来する名称である。前記 したよ うに、ムハ ンマ ド3世の時代 と推定 され
るが、ナサ リ朝建築 としては極めて初期の段階の様相 を呈す ことか ら、2代 目、す
なわちムハ ンマ ド2世の時代 とも推定 されている。
かな りの部分が発掘 されてお り、その規模は王宮 にも匹敵す るものである。東
側の発掘部 には大小 2つの浴場が見 られ、その北東の端部 には 「
休息の間」の存
在が推定 されている。塔建築 のク ッパ北側 に邸宅本体が広がっていた ことであろ
う。オ リウエ ラの推定復元 によれば、中心の長方形パテ ィオ (
約25×1
7m)は東
西の短辺 に柱廊 と広間を配 し、両者 を繋 ぐ長軸 中央の池 によ り 2分割 された植栽
庭園を持 ち、南側 中央 には前記 した ク ッパが位置す る8。 この南側植栽庭園への
クッパ前欠き込みはムハ ンマ ド2世の 『
パルタール上官』庭園部の欠き こみに酷
似 し、 こうした欠き込みが一般的であったよ うにも推測 され る。形式 としてはセ
ビー リヤ王宮の 『
石膏のパテ ィオ』 を長軸 と短軸 との方向性 を変換 した もの と言
えるであろうし、後の 『コマ- レスのパティオ』 に継承 され るものであろう。
東西両側 に配 された柱廊 と広間の構成は こち ら側での主要室の存在が示唆 され
る。 しか し、南側 中央 のク ッパはその構成か ら、さ らなる重要性が推測 され る。
その重要性は望楼 としての機能 を持つ ことに反映 されよう。 このクッパか らは南
に広がる広大な 自然が満喫でき、現在 は森林 のパ ノラマ を享受できるのだ。 ここ
で も人工の庭園パティオか ら大 自然の眺望へ と連続 し、ク ッパが庭園のなかの東
屋的機能 を有 しているのである。
70
7.4 旧サン ・フランシスコ修道院、ムハ ンマ ド2世 (
1
2
7
3
-1
3
02) またはムハ
ンマ ド3世 (
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図1
0 旧サ ン ・フランシスコ修道院、推定平面図 (
Or
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a)
アルハ ンブラの市街区には宮廷人の住宅のはか、宮殿の必需品をまかなう商店
や工場があった。ガ ラス工房や陶器用の窯、なめし革工場、水車、貨幣鋳造所な
どの遺跡が発掘されているのである。 この市街区で規模の点で王宮並の邸宅が 2
軒あ り、一つが前述 したアベ ンセ ラーへ宮、もう一つが旧サ ン ・フランシスコ修
道院、現国営ホテル 『
パ ラ ドール』 (
図 1-㊨)である。現在 の建築はイスラム時
代のものでな く、グラナダ再征服後の1493年、カ トリック両王が この場所にあっ
た邸宅をフランシスコ会に譲渡 して生まれた同市初の修道院であ り、それを取壊
し1
6世紀 に同会が新築 した ものである。ただ し、イス ラム時代の邸宅 の一部で
あった展望楼 とクッパが現存す る。 このク ッパは、グ ラナダ大聖堂脇 の王室墓
廟 ・礼拝堂が完成するまではカ トリック両王の埋葬場所であった ことで知 られて
いる。
71
敷地は市街地 中央部 の小高い場所 に位
置 し、しか も、その敷地内を 『
王の水路』
が走 る。 この用水路は初代ムハ ンマ ド 1
世が整備 した水路網の本管 に相当 し、 こ
の用水路 を通 り旧王宮や城塞へ水 を供給
している。 こうした特権的な場所 に位置
す る大 きな敷地である ことか ら、王族 に
関わ る高い身分の邸宅が存在 したであろ 図 1
1 旧サ ン ・フランシス コ修道院、
うことが推測 される。残 されている装飾
クッパ=展望楼
等か ら、ムハ ンマ ド2世、 もしくは 3世
の時代の建設で、ムハ ンマ ド5世時に改造 された と考 え られている90
オ リウエ ラの推定復元 図 (
図10) によれば、イス ラム時代 の初期邸宅は細長の
十字路パティオ (
約 35.
5×8.
5m)の東西の短辺 に柱廊 と両端 にアル コ-バ を持つ
広間、長辺北側 中央 に現存す るクッパ と展望楼 (
図 11) を配す形式 を取 る。アベ
ンセ ラーへ宮 と同 じく、短辺の東西棟 に主要施設が配置 された ことであろう。同
時に、北側 中央のクッパ もその構成か らコアになるホールであったに違 いな く、
その望楼か らは城壁内の庭園越 しに、アルバイ シンの眺望が享受できる。
十字路長軸 にはその全長 に細長 い池が切 られ るが、 ここにはそのまま用水路の
水が流れていた。 このシステムは同時代 に建設 され、 しか も現存す る離宮 『
へネ
ラリーフェ』のそれ と同一である。 この長軸 に水路のよ うな細長の池 を切 る先例
はセ ビー リヤ王宮の『
十字路パテ ィオ』、おそ らく同王宮 『
交易裁判所パティオ』に
も見 られた ことであろう。
7.5 離宮 『ヘネラ リーフェ』、ムハ ンマ ド2世 (
1
2
7
3
-1
3
0
2) またはムハ ンマ
ド3世 (
1
3
02
-0
9);同宮改造、イスマイル 1せ く
1
31
4-2
5)
へネ ラリー フェはイス ラム時代 の名称 を踏襲 してお り、 「
建築家 (
工匠)の庭
(
果樹菜園)」を意味す る。 この場所 にはム ワッヒ ド朝時代 (
1213世紀)の果樹
菜園が存在 し、そ こには濯概用貯水池 と家屋があった とい う10。 これ をベースに
休息を目的 とした離宮が 2代 目のムハ ンマ ド2世によ り建設 された と考 え られて
いる。一部 には 3代 目ムハ ンマ ド3世の作品 とす る説 もある。確実な ことは装飾
72
に施 された銘によ
り、5代 目イ ス マ
イル 1世によ り戦
勝 を祝 して1
31
7
年にパティオの北
側株屋を改造 して
いることだ。 この
離宮の特徴は正に
果樹菜園に取 り囲
まれていることに
あろう (
図1
2)
0
北側は険 しい急勾
図1
2 へネラリーフェ、配置図 (
Be
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mdde
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r
e
j
a
)
配の傾斜地で菜園
には不適切なが ら、
眺望 に恵まれる。西側は北か ら南にコロラダ、グランデ、そ してフエ ンテ ・ペ一
二 ヤの果樹菜園、また東側一帯にはメルセ リア果樹菜園が広がる。東側 と西側の
果樹菜園を分けるように王の用水路が走 り、メルセ リア果樹菜園にももう一本の
「
テルシオ用水路」が流れ、両者は合流 してアルハ ンブラの市街区と王宮、さら
に城塞へ と給水する。アルハ ンブ ラへの水路網が初代ムハ ンマ ド1世によ り整備
された とするな らば、 この水路を利用 して計画 された離宮 『
へネラリーフェ』は
その後の王の建設 と考えるべきであって、それ以前のムワッヒ ド朝時代の遺構 に
重きを置 くことはできないであろう。
ベルムーデス ・バ レーハは、土地の痩せていることか らこれ らの果樹菜園では
もっぱ らオ リーブが栽培 されていた、 と推測する11。 ビルチ ェスは1
4世紀のグラ
ナダの歴史家アル・
ジャテイブか らの引用 として、「
スルタンの所有地で採れる新
鮮な野菜や美味 しい果物やよ りす ぐった果実で店 を満たす」 と述べ、 この 「
所有
地」はへネラリーフェの果樹菜園を指す とする1
2
。 また、グラナダがキ リス ト教
徒 によ り再征服 されてか ら 9年後 の1
501
年、ブル ゴーニ ュ公 フィ リップ美公
(
1
4781
5
06、後のカステイ- リヤ王 フェリーペ 1世)に伴 い1
501
年グラナダを
訪れたモンティニー領主アン トアン ・デ ・ラレンもまた、次のような記述 を残 し
7
3
I
■
F
、二r Iご }
、
一
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∴
へ. 「
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単 量
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:
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L.李 L二
還
霧
窯
済
誓
図1
3 へネラリーフ工、アルハ ンブ ラか らの外観
ている。
「
前記の要塞 (
アルハ ンブラ)の少 し上、前記 した山 (
太陽の丘)は美 しいなか
で も美 しく、過度なほど手の入 ったへネ ラリー フェと呼ばれ る庭 を持つ。あ らゆ
る種類の見知 らぬ果実で満たされ、た くさんの垣根が作 られ、多様な噴水が湧 き
出ている。その端 には良 く細工が施 され、イス ラム風 に金色 に塗 られた天井 を持
っ大変美 しく、完成度 の高い建物が見 られる。
」1
3(
傍点は論者 による)
さらに、1
600年 に出版 されたグ ラナダの歴史家ルイス ・デ ・マルモル (
1
520
-
1
6
00)の書で も、へネ ラリー フェの果樹菜園には 「
沢 山の果樹が林立 し、良い香
りのす る植物や花」があった、 と記述 されている14。 これ らか らはベルム-デス
の痩せた土地 という推測 を容易に受け入れ るわけにいかない。確かな ことは果樹
菜園のなかに離宮が存在 し、へネ ラリー フェの名称 自身が 「
果樹菜園」を意味す
るほど、 この離宮は果樹菜園 と密接な関係 にあることだ。 こうした果樹菜園で囲
まれて離宮へネラリー フ工は存在す る。
図1
4は1
959年 の発掘調査 の結果 にビルチ ェスが修正 を加 えた中世の離宮平面
推定図である。現況 と大き く相違す る点は、『
水路のパテ ィオ』の北東 に位置す る
現 『
スルタン妃のパテ ィオ』 には未発掘なが ら浴場が存在 した こと、同 じ 『
水路
のパテ ィオ』の西側外壁 に位置する現柱廊が存在せず、唯一展望台のみが存在 し
74
た こと、また東側 に広がる現庭園部はメルセ リア果樹菜 園に含 まれ、モスク (
礼
拝堂) に達すると推測 され る 『
水 の階段』のみが存在 した ことな どであろう。離
宮への入 口には南側 の上入 口と南西部の下入 口が想定 され、前者 に関 してはそれ
に達す る前に表玄関の門が存在 した と考 え られ る。下入 口はアルハ ンブ ラか らは
中世連洛蕗 、
図1
4へネ ラリー フェ、中世の離宮推定平面図 (
Be
r
mdde
zPa
r
e
j
aとVi
l
c
he
z
)
最短距離の道 に接続 され、騎馬 を前提 とす る下馬用パテ ィオ と警備 を目的 とした
守備隊パテ ィオ を通 り、南棟地階の西玄関 に達す るO これ ら2つのパテ ィオは極
めて機能的であ り、パテ ィオ という面で構成 され るイス ラムの空間構成が如実 に
7
5
反映す る。小さな西玄関を入 る と左手 に階段があるのみで、 この薄暗 い階段 を登
ると、予期せぬ水 と緑 の空間が 目の前 に現れ、訪問者 を驚かす。 これが離宮 の中
心 となる 『
水路 のパテ ィオ』 (
図 15)で ある。南棟 は玄関横 に相 当す るものだが、
改造が激 しく、中世 の面影 は余 り遺 されていな い。北棟 は 15世紀末キ リス ト教徒
によ り増築 された 2階 を除 き、保存状態が良 く、前廊 、両端 にアル コーブ を持つ
図1
5 へネ ラ リー フ工、水路 のパテ ィオ
ホール、そ して 中央北側 に突 出す るク ッパ建築 「
玉座 の間」 の三部構成 もイス ラ
ム空間構成 の典型 と言 えよ う。
『
水路 のパテ ィオ』の水路は、初代 のムハ ンマ ド 1世が最初 に建設 した用水路そ
のものであ り、 ここを通 った用水は、その後 アルハ ンブ ラに入 り、 旧フランシス
コ修道院のパテ ィオ を流れた水路 を通過 し、王宮 に水 を供給 しなが ら、要塞部 ま
で達す るアルハ ンブ ラの生命線 に等 しい ものであった。 したが って、 もっ とも新
鮮な水が ここを流れ る ことにな る。現在では この水路 の両側 の噴水か ら水 の連続
0年代 に設置 さ
アーチが作 られ、この離宮 の最大特徴 となって いるが、これ は 191
9世紀末 頃か ら1
958年 までは細長 い水路 が切
れた もので あ り、そ してそ の池 は 1
76
られ るだけであった。 この年の火災で東側株屋が消失 したのを契機 に発掘調査が
な され、その結果、現況の十字路パテ ィオが判明 し、復元 された。
図1
6のパティオ横断面図はその発掘調査の結果であ り、左側が当時の状態 を図
式化 した もの、右側が土壌断面の説明図である。中央の窪みが池 (
-水路)の断
面であ り、その両端のコンク リー ト躯体上部の水面の位置 に12本の排水管が埋め
込 まれ、その うち保存 されていた 7管 はイス ラム時代の ものであった。 これは庭
への散水用であ り、その位置か ら下の45c
m程 の層が庭園用 の黒土、その上に70cm
程の瓦磯が載 り、底は植栽 には不適切な石だ らけの固い地盤であった。 また、そ
の地盤 には植樹用 の円筒状の穴が不規則 に掘 られていた。 これ らの ことか ら、床
面か ら30c
m程下がった位置 に草花や低木か らなる庭園があ り、所 々に糸杉やオ レ
J
、
/I
'
・
【tへ
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
1メートル
図1
6 へネ ラリー フ工、水路のパテ ィオ、断面図 (
Be
r
mdde
zPa
r
e
j
a)
ンジな どが植樹 されていた ことが推測 され る15. したが って、セ ビー リヤ王宮 に
見 られた掘 り下げ られたパティオではな く、前廓や通路の床面 とほぼ 同 じ高 さに
位置す る庭園であった。
また、 この発掘では中央で交差す る横軸の通路が水路の上 に架け られ、西側の
展望台入 口前か ら水路の西側縁 まで鉛管が埋設 されたいた ことが確認 された。 こ
れは交差部 中央 に存在 した噴水への給水管であ り、交差部 には噴水のほか、東屋
も存在 した。 この東屋 の存在 については19世紀半ば の記述や図版で も見 られ、19
世紀 まで存続 した16。 こうした ことか ら現況 の十字路パテ ィオが復元 された もの
の、一度復元 された交差部 中央の噴水は現在見 られず、同 じ位置 に存在 したはず
7
7
図1
7 へネ ラリーフ工、水路のパテ ィオ、十字路交差部
の東屋は復元 されなか った (
図17)0
1
4世紀グ ラナダの隣県 アルメ リア出身の同市で活躍 した苦行者、哲学者、法学
者、かつ詩人で もあったイブ ン・
ルユ ン (
1
2821349)は他界す る前年の 1
3
48年、農
業の書である 『
農法に関わる知恵の美 と目的の原理書』 を著す。中世スペイ ンの
イス ラム農法 に関わるこの貴重な書は、農法の 4大要素 として 「
農地」、「
水」、「
肥
料」、および 「
農作業」を挙げ、それ らを解説す る150項 目、および最後 の 7項 目
の付録で構成 され る。付録最後 の 157項 のみが農業 とは直接関係 しない次のタイ
トル を持つ。すなわち 「
庭園、住宅、および農作業小屋の配置法 について」であ
り、以下がその前半部である。
「
庭々のなかの家の配置は警備 と監視が容易になるよ う高台 を選ぶべきである。
建物は南向き、すなわち地所への入 口に向 くよ うにし、最 も高 い場所 に井戸 と池
を備えるか、 もしくは井戸以上 に、 日陰の場所 を流れ る用水路 を敷 く方がよいで
あろう。住宅はよ り安全で住民に最大 の休息が得 られ るよ う二つの扉 を持つべき
である。」
「
池のところには常 に緑 に満 ち、 目を楽 しませて くれ るよう草木が植 え られ る。
78
少 し離れた所 には花壇や常緑樹 を設けなければな らない。地所はブ ドウ園で取 り
囲まれ、そのなか を巡 る散歩道 にはブ ドウ棚が設け られ る。
」
「
庭は地所 のその他 の部分か ら切 り離す ことを 目的 に これ ら散歩道 の一つに絡
ませなければな らない。ブ ドウ畑の他、果樹林 にはエ ノキや これ に類似する樹木
もなければな らない。なぜな ら、それ らの材木は有益であるか らだ。」
「
ブ ドウ畑か ら少 し離れた ところの地所 の残 った部分 は耕作地 とす る。そ うす
れば、種 まきした ものの収穫が得 られよう。」
「
地所の境界にはイチジクやそれ に類す る樹木 を植 える。大 きい果樹はすべて、
防風林 として地所 を風か ら守 る目的で北側 に植 えるべきである。地所の中央 には
あず まや
座 る場所が備わ り、四周 を眺望できるパ ビリオ ン (
東屋)がなければな らない。た
だ し、東屋 に入 る人は、なかにいる人の話 し声 を聞 くことができず、また東屋 に
向か う人は、気付かれず には通れないよ うにす る。東屋はバ ラの生け垣、あるい
は銀梅花の生け垣や果樹花園にふ さわ しいあ らゆる植物で取 り囲む。幅よ りも奥
行 きを長 くし、視野が見 る方向に広がるよ うにす る。」17 (
傍点は訳者 による強調)
この最後 の段落 に関 しては、同 じアラビア語か らの訳者エウガ ラスが次のよ う
にもスペイ ン語 に訳 している。
「
庭の中心 には東屋がなければ な らな い。それは休息 した り、四周 を眺望 した
りす る人たちのためである。ただ し、そ こに入 る人は、なかにいる人の話 し声 を
聞 くことができず、また誰 にも気付かれ ることな く入 ることができないようにす
る。東屋はバ ラや銀梅花の生け垣 と庭 を飾 るあ らゆる植物で取 り巻かせなければ
な らない。 この庭は幅よ りも奥行 きを長 くし、視野が見 る方 向に広がるようにす
る。
」 18 (
傍点は訳者 による強調)
二 つの訳 の最大 の相違点 は、東屋 の位置 が 「
地所 の中心」なのか、あるいは
「
庭の中心」なのかの違 いであろうO前者の 「
地所」 と訳 した フインカ f
i
nc
aは、
「
田舎 もしくは都市の所有物」、特 に、 「
山や湖、その他 の 自然や家な どを含む相
当に広 い所有地」 を意味す る。広大な農耕地や狩猟場であった り、あるいは広 い
土地付きの邸宅や別荘であった りす るOいずれ にして も、ある程度 の広 さの所有
地であることが原則であ り、都市 にお いて も少な くとも庭 をもつよ うな屋敷でな
いと、 この言葉は使用 されない。イブ ン ・ルユ ンの記述で もこの 「
地所」は農耕
地 を含む広大な土地 に複数 の庭 と複数の散歩道 の存在す る ことを前提 とす る。ま
79
た 「
東屋」の記述か らはその周辺が 自然に開かれた場所、すなわち 「
庭」に位置
することが推測 され る。 このように考 えると、両者の文章の意味す るところは同
じであ り、後者は意訳 と考 え られる し、最終文の主語は 「
東屋」の位置す る 「
庭」
と推測 される。 また、アラビア文学者ガル シア・
ゴメスの訳では、 「
東屋」はただ
「
中心」 とす るだけで、 どこの中心であるのかを特定せず、最終文 の主語 には同
じ 「
庭」を挿入す るものの、 「
庭j
ar
di
n」ではな く、 「
果樹花園 ve
ge
l
」の訳語 を
当てている19。以上のよ うな注釈 を加 えた うえで、引用文 を再読す る と、果樹菜
園に囲まれたへネラリーフェを念頭 に記述 されているよ うに見 える。すなわち、
離宮 『へネ ラリー フェ』は 1
4世紀ナサ リ王朝での屋敷形式の雛型 というか理想形
であったであろうことが推測 され るのである。ただ し、『
水路のパテ ィオ』の中心
に存在 した 「
東屋」か らは四周 を眺望す る ことはできない。 しか しなが ら、パテ ィ
オ西壁 中央に設け られた展望台か らは手前の果樹菜 園越 しにグ ラナダの旧市街 を
背景 とす るアルハ ンブ ラの絶景 を享受できる (
図 18)。 また、北側 に突出 したク ッ
バの 「
玉座」か らも、足元の庭
園越 しにグ ラナダの旧市街か ら
サ クラモ ンテの眺望 を楽 しむ こ
とがで きるので あ る (
図19)0
これ らは正 しく借景であ り、へ
ネ ラリー フェそのものが庭園の
なかの 「
東屋」で もあるのだ。
本稿 (
1) で既述 したよ うに、
「
果樹菜園」は 「
庭」の語源 に
なった用語であ り、壁 に囲まれ
た大規模 の果樹園や菜園を意味
す る20。そ して この果樹菜園の
なかに壁で囲まれた一角 を形成
し、そのコアに十字路のパティ
オ 『
水路のパテ ィオ』 を配 した
ものが この離宮である。パ ラダ
イス (
楽園)の語源はベル シア
語 のパエ リダエザ 「
囲われた場
図 19 へネ ラリー フェ、北棟開 口部借景
所」に あ り、同 じ く本 稿 (
1)
で紹介 したよ うに、古代ベル シ
チ十
り\ル・
/
て
-グ
ア人は 「
庭園のなかの庭園」 を意味す る 「
四分庭園」を楽園 とした。 この伝統 を
パラダイス
継承 したイス ラムの庭園で も、「
四分庭園」である 「
十字路パテ ィオ」は楽園を象
徴 した21。 こう考 えると、へネ ラリー フェ離宮 の果 『
水路のパテ ィオ』は二重三
重の意味でパ ラダイス (
楽園) に関連す るように思 える。
そ もそ も、 「
果樹菜 園」が楽 園である。そ の楽園のなか にさ らに壁で囲まれた
『
水路のパティオ』 もまた楽園である。かつ、その四分庭園 という形式 もまた楽
園なのだ。かつまた、「
十字路パテ ィオ」中心の交差部への東屋や噴水の設置 もベ
ル シアとイス ラムに共通す る楽園の表現で もあった。
中近東の乾燥地帯では緑地やオアシスはそれ 自身ですで にパ ラダイスであ り、
この 自然条件か ら庭園-楽園の図式が形成 されたに違 いない。 したがって、パ ラ
81
ダイスの外側 には乾燥 した地域が広がっていることが前提 となろう。 この意味か
らす ると、グラナダのイス ラム世界は全 く相違す る。グ ロ川 とへこル川 に広がる
沃野であ り、中世のイス ラムではグラナダ 自身が楽園 と見なされていた。
しか しなが ら、へネ ラリー フェは小高い 「
太陽の丘」 に位置 し、そ こには川の
水は届かず、かつては地 中海の禿 山の様相 を呈 していた。 この地 に 『
王の水路』
を開設す ることによ り、へネラリー フェの果樹菜園が可能 となった。今で こそ、
緑 に恵 まれた立地条件 に見 えるが、人工の結果であ り、正 に楽園作 りであったの
である。 この ことは、実はグ ラナダ について も言 えた。イス ラム時代の11世紀 に
な り、盆地の平地 にはグ ロ川 とへこル川か らの用水路 を整備 し、小高 い丘のアル
バイシン地区 とその周辺 にはアグフアグアラ山脈 の湧 き水 を水源 とした用水路 を
建設す ることによ り、それ までの城砦地グラナダは農耕可能な緑地 に変わ り、都
市が形成 され始 めたのであ り、1
3世紀のナサ リ王朝創設者ムハ ンマ ド1
世 による
「
太陽の丘」か らアルハ ンブラに位置す る 「
サ ビカ」の丘 に 『
王の水路』 を巡 ら
せ ることによ り、 この一体 も緑豊かな楽園の様相 を呈す ようになった220
か くしてナサ リ朝 のグ ラナダは、宮殿 の林立す る豊かな水で潅概 され庭園に囲
まれた田園都市 に変貌 したのである。1
4世紀 同王朝の首相、かつ詩人、歴史家、
哲学者、医者で もあったイブ ン ・アル ・ジヤテ イブ (
1
31
374)は次 のよ うにグ
ラナダを讃 えている。
「
神の御加護 になる この都市 の城壁 を、個 人所有 の大 きな庭園や よ く茂 った樹
木が取 囲み、 これ らの背後 にある城壁は、堅固な市域 を形作 っているにもかかわ
らず、消失 したかのよ うに思える。その緑の上 に、高き建物が星々のよ うに輝 い
ている。 この ことを、かつて次のような詩 に読 んだ ことがある。
『
(
グラダナは)
美 しい青年の顔の薄 い口ひげのよ うに、庭 園に囲まれた都市であ
る。』
『
川は女の子 の手首のようであ り、そ こに架かる橋は腕輪 のよ うだ。
』」
「
その周辺はブ ドウ畑や果樹菜 園に恵 まれていない どころか、そ の反対で満 ち
溢れている。そ うした畑や菜園は極めて重要な もので、その価値はそ こか ら得 ら
れる高額の収益 によ り王国に敵対す る人々を接小化 させ る。 というのも、特 にス
ルタンの所有地で採れ る新鮮な野菜や美味 しい果物やよ りす ぐった果実で店舗 を
満た し、たったの 1年で一千金貨の収益 を得て いるか らだ。」
82
「こうした果樹菜園や庭園は、都市のあば ら骨のよ うに散在 してお り、その数は
1
00にも達する。 (
以下、菜園や庭園の具体名が挙げ られ、その最後 にアルハ ンプ
ラとへネ ラリッフェの庭園が リス トア ップされている)」
2
3
前掲 した ビルチ ェス によるへネ ラリー フェの果樹菜 園で の収穫 の推測は この
文 に依拠 しているのだが、この文か らは 1
4世紀 のアルハ ンブ ラやへネ ラリーフェ
か ら眺望できるグラナダが緑豊かな都市であ り、乾燥地帯のアラブ人か ら見れば
楽園のような景観であったであろうことが、容易に推測 され る。
またタンジール (
モ ロッコ)出身の旅行者イブン ・バ トウタフ (
1
37778年没)
も、1
32549年 に当地 に滞在 し、次のような記述 を残 して いる。
「
その (
グ ラナダ)周辺 は いかな る世界 に も比類 なき もので あ り、有 名なへこ
ル川やその他の多数の川 に刻まれた4
0マイルの空間に広がる。庭、果樹園、牧草
地、あるいは菜 園、お城や大 ブ ドウ畑 がグ ラナダ の全域 を取 り囲む。それ らの
もっとも美 しい場所のひ とつが 『
涙の泉』 と呼ばれ る山であ り、そ こには果樹菜
園や庭 々が見 られ る。他 のいかな る都市 も同様 の誉れ に与 る ことはないであろ
う。」
24
ここに出現す る 『
涙の泉』は正 にイブ ン ・アル ・ジヤテ イブ所有 の屋敷であっ
たか、 もしくは将来そ うなる場所であった。 このよ うに当時のグ ラナダが緑豊か
な楽園のような田園都市であった とす るな ら、へネ ラリー フェは内に楽園を持ち、
外 にも楽園を持つ、文字通 り、楽園のなかの離宮であった と定義付けができるよ
うに結論 される。
「
世界で最 も大 きく美 しい詩の本」とはアルハ ンプアの別称である。 これはアル
ハ ンブラの三大壁面装飾手法にアラビア文字 による装飾があ り、その言葉でコー
ランの一節やアルハ ンブラの建物 を讃える詩が刻 まれているか らである。石膏 に
よるこの銘装飾 はへネ ラリー フェで も例外ではない。 この銘の一つがへネラリー
フ工を展望台であると詠 っているのだ。『
水路のパテ ィオ』北棟前廊 の水瓶用 の
ニ ッチには こう刻 まれている。
「
至福のサ ロンの扉 口のタカ (
ニ ッチ)は、展望台で陛下 に供す るもの。神よ、
比類なき王の右手に立ち現われ る (
ニ ッチの)姿は、何 とも美 しい。そ こ (
ニッ
チ) に姿 を見せ る水瓶は、高みに上 る乙女のよ う。
」 25 (
傍点は訳者 による強調)
アルハ ンブラでの重要な部屋 に共通す る特徴 は、入 口のアーチ両側 にニ ッチが
8
3
設け られていることである。 この銘 によ り、ニ ッチが水瓶用だ と判明す る。銘の
「
王の右手」 とは玉座 (
クッパ)か ら見て右側、すなわち前廊か ら入 って左手の
ニ ッチを指 し、 この銘はそ こに刻 まれて いる26。そ して、 この銘 によれば、北棟
サ ロン、 もしくは離宮その ものが 「
展望台」 と規定 されていることになろう。
最後 に、次の点 に注 目す ることを促 したい。『
水路のパテ ィオ』は南棟 と北棟、
および東西の壁で閉 じられた空間であ り、それ 自身で完結 した庭園である。 しか
し、西側の展望台や北側のサ ロンや クッパ に行 けば、視野は外側 の果樹菜園や緑
豊かな市街 区の眺望 を享受でき、空間は開放 され る。 この開放 された空間は、あ
る意味で、内部空間ではない。内部 の庭か ら外部の庭への通過装置 に過 ぎない。
それ故、へネラリー フェの離宮それ 自身が、庭園のなかの東屋、すなわち 「
展望
台」 とでも定義できそ うな建築 と庭 の関係 にあろうと判断され る。
『
水の階段』
この階段は離宮の裏側、北東側 に登 る斜面 に位置す る。高みには小モスク (
礼
拝堂)が存在 した と推定 されてお り、そ こへ達す るための階段が この 『
水の階段』
とされ る。1
526年 に訪れたヴ ェネツ ィア共和 国大使 ア ン ドレア ・ナヴ ァジェロ
(
1
4831
5
29)の記述か らもこの階段は知 られてお り、イス ラムの時代か ら存続
したであろうと推測 され る。ただ し、現在 のもの とは必ず しも一致す る記述では
ないので、下記 にその全文 を紹介す る。
「これ らの場所 (
へネ ラリー フェの庭園やパテ ィオ)の最上部の庭園には、広場
に上る幅広 の階段がある。宮殿 に流れ るすべての水は、その広場 にある一つの大
岩か ら湧き出てお り、いつ、 どのよ うに、また どの量で も水 を流す ことができる
よう、開閉栓で ここに溜め られている。階段は次のよ うに工夫 されている。踏み
段は集水できるよう穴が穿たれてお り、両側 の手摺は細工 された笠石 を頂 き、そ
の笠石は上か ら下 に流れ る水路 を形作 る。高みには これ らの部分それぞれ に独立
した開閉栓があ り、望むな らば、手摺 を流れ る水の開閉栓 を、また時 には踏み段
に注 ぐ水の開閉栓 を開 くことができ、あるいは双方 同時 に開 くこともできるし、
さ らには水量 を増 し、すべての階段 を水没 させた り、 この階段 を上る人々をずぶ
濡れにさせた りして、色々な遊びや戯事 をす ることもできる。」
27
この記述 には、現在 のよ うに階段上の広場の存在が指摘 されているものの、小
8
4
モスクの存在は触れ られていない。 しか し、 この ことで小モスクがすでに存在 し
なかった とは断定できるものではない。逆 に現存 しないものの記述が見 られる。
それは踏み段に穴が穿たれていることで、 この穴は水 を集めると同時に、流出さ
せ ることもできる。恐 らく、穴の下にも水路が走ってお り、 この水路の水を閉鎖
した ときには、手摺の水路か ら溢れる水 をこの踏み段の穴か ら排水 し、逆に、開
閉栓 を解放 した ときには、同 じ穴か ら水が流れ出た ことであろう。同 じナヴ ァ
ジェロの書簡28によれば、 この穴はすべての踏み段 に穿たれていた というか ら、
両者の水路を全開 した ときには、 この引用部 に見 られるように、階段全体が滝の
ようにもなった ことであろう。 こうした庭園における水遊びを駆使 した工夫はイ
タ リア ・ルネサ ンス以降の庭園に出現 し、特 にバ ロック庭園で最盛期 を迎える。
こうした ことか ら、アルハ ンブラの水遊びシステムがイタ リアに影響 したという
図20 へネラリー フェ、水の階段
説 も存在する。イスラム時代のグラナダにはジェノヴ ァ商人を中心 に多 くのイタ
リア人が住んでいたか らで もある。
しか し、現在の踏み段 には一つの穴 も存在 いないが、各踊 り場には噴水、もし
くは噴水の設置を可能にさせる噴水 口が見 られる。訪問者は現在でもこれ らの噴
85
水 の しぶ き と両側 の手摺笠石 の急流 の水路か ら飛ぶ散 る水 しぶ き とか ら逃げ る こ
とは困難で、必ず水 しぶ きの餌食 となろ う。訪れた人は誰で も感 嘆す るよ うに、
夏 のグ ラナダ には最高 の冷涼空間が提供 されて いるのである。かつては、 これ ら
水 しぶきのみな らず 、足元 の階段 を流れ る水 によ り、道行 く人 に心 身の洗われ る
思 いをさせた ことであろう。 これはモス クに入 る前の清浄 を意味す るもの と解釈
できそ うである。
神社仏 閣 には参拝す る前 に身体 の清浄 を 目的 とす る御 手洗 (
水舎)や手水舎
(
お水舎)があるよ うに、モス クな らそ のパテ ィオ に洗浄用 の泉が設 け られてい
る。夏の暑 い 目な ど、神社仏 閣の水舎で水 と戯 れ る子供 のみな らず 、大人たちの
姿 さえ見 られ る。 同 じよ うに、イスタ ンブール の暑 い夏 の 日な ど、礼拝 の時間 に
なって もモス クに入 らず 、清浄用 の泉 に手足 のみな らず、体 に水 をかけて涼 んで
いる子供たちを見 かける。文字通 り身体 を清めて いるのだが、水遊び に しか見 え
ない。 こう考 える と、小モス クの存在 があって こそ、 この 『
水 の階段』 の存在理
由が説明されよ う。『
水 の階段』は正 に礼拝前 に洗浄す る ことを 目的 とす る施設 と
想定できるのである。
アルハ ンブ ラでの水 の様相 には、池 に淀 む水 、噴水 の噴出す る水、水路 の緩や
かに流れ る水、そ して この階段手摺 のよ うに、急勾配 を落 ちて い く滝 のよ うに流
れ る水 とその しぶ きな どが あ り、それぞれ の水 の音色 も相違す る。水 は命 に必要
な実用的な水 のみな らず、視覚、聴覚 、そ して触覚 に感 じる水 として も存在す る。
(
続 く)
1拙稿 「
スペイ ンの庭 (
1)」は 『
麟麟』 (
神奈川大学経営学部十七世紀文学研究
8号 (
2009年 3月)、1
08 (
1
3
)
-88 (
33)頁、 「同 (
2)
」は 『
国際経営
会)、第 1
フォー ラム』(
神奈川大学国際経営研究所)
、T
b.
1
9(
2009年 7月31日)、pp.
21
5-
43頁 に掲載 され る。
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6同上、注 37と56を参照。
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72.以下が相 当部の訳である。
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中央 には座 る場所 を備 え、四周 を眺望できるパ ビリオ ン (
東屋)があろう。
ただ し、東屋 に入 る人は、なか にいる人の話 し声 を聞 くことができず、また東
屋 に向か う人は、気付かれず には到達できないよ うにす る。東屋はバ ラの生け
垣、あるいは銀梅花の生け垣や果樹花園にふ さわ しいあ らゆる植物で取 り囲む。
この果樹花 園は幅 よ りも奥行 きを長 くし、視野が見 る方 向 に広が るよ うにす
る。」 (
傍点は訳者 による強調)
20注 1参照。 「
スペイ ンの庭 (
1)
」、pp.
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21同上 、pp.(
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152.
ただ し、 この引用部銘に相当するガルシア ・ゴメスの訳は以下 となる。
「
喜ば しきサ ロンの扉 口のニ ッチは、陛下の御前、陛下に供す るもの。 この比
類なき王の右手に位置するたたず まい、その美さの何 とも偉大な こと。その水
瓶は、婚礼の時に式台に上る乙女のよう。
」(
同書 、p.
151)
この訳では 「
展望台」 という用語が消えているものの、ガルシア ・ゴメスの
弟子でもあるル ビエラ訳では、以下のように 「
展望台」が出現 している。
「
展望台 としての至福のサ ロンのアーチは,陛下 に供するもの。神よ、無比の
王の右手に立ち上がる姿は、何 とも美 しい。そ こに姿 を見せる水瓶は、高みに
上る乙女のよう。
」(
注 23参照 、Rubi
e
r
a1988,p.
1
47)
ただ しガルシア ・ゴメスによると、 ここでの訳語 「
アーチ」は 「
タカ」すな
わち「
ニ ッチ」を意味 し、後者の訳語の方が有力とする。 また、同じくガルシア・
ゴメスの弟子の以下の最近書でも 「
展望台」が含 まれる。
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28ナヴ ァジェロは旅行記の他、旅行 中にイタ リアへ送った書簡集 も遺 してお り、
その 1通の書簡ではこの 『
水の階段』が以下のようによ り簡潔に説明されている。
「
庭園の上部 には高台に上る幅広 の階段がある。その高台 にある一つの大岩
か ら宮殿へ送 られるすべての水が湧き出てお り、そ こでは、いつ、 どのように
も水 を供給できるよう何種類かの開閉栓が管理 されている。階段は次のように
できている。すべての踏み段には集水用の穴が穿たれてお り、両側の手摺は溝
の刻まれた笠石 を頂 く。高みにはそれぞれ独立 した開閉栓があ り、要望 に従い、
手摺、もしくは踏み段の溝だけに、あるいは双方同時に水を流す ことができる
し、また、た くさんの水 を湧き出させ、用意 された水路か ら溢れてすべてをび
しょ濡れにし、踏み段を洗い、 こうしたいたず らで、上って くる人を濡 らす こ
ともできる。」 (
前注 27の書 、pp.
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