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2014 年度卒業研究論文

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2014 年度卒業研究論文
2014 年度卒業研究論文
人が集る景観まちづくり
CE2011-019
杉田知弥
(指導教員:福田順子)
1. 「景観」と「まちづくり」の背景と目的
1.1
研究背景
2004 年(平成 16 年)に制定された景観法を契機に、これまで一部の限られた地方自治体のみ制定
されてきた「景観条例」が、多くの地方自治体が制定されるようになった。
「景観条例」とは、住民の
より質の高い生活空間を求める声及び、地域の個性と密接に関わる景観をよりよくしたいという要望
に応えるべく、
「良好な都市景観の形成を目的」とした地方自治体の制定する条例のことである。その
始まりは 1968 年(昭和 43 年)、金沢市が制定した「伝統環境保存条例」
(現:「金沢市における伝統環
境の保存及び美しい景観の形成に関する条例」)が最初とされ、後に全国へ普及していった。
しかし、景観条例は、法律の委任に基づかない自主条例(2005 年まで)だったために強制力がなく、
ごくわずかな地方自治体(約 500 団体)が制定するのみで、それ以外は利便性、経済活動優先の都市
計画が進んだ。結果、建築規制がなされていなかったために、人口密度が多い都市区画には高層ビル
と屋外広告が氾濫した。農漁村においても自然物や伝統的建築物は沙汰された上に、ちぐはぐで調和
がとられていない近代的建築物が全国各地で形成されることになった。
景観法は当時の都市景観、農村漁村の街並みから喪失した「地域の個性」、つまり、自然風景及び伝
統的建築物との調和がとれた良好な景観の形成を目指すべく制定された法律である。そして都市計画
や条例、それに基づいて地域住民が締結する景観協定に、実効性・法的強制力をもたせようとするも
のである。これにより、各都道府県及び地方公共団体は景観条例制定に積極的に取り組むことに繋が
った。
1.2
研究目的
2000 年代以降、人口増加、地域経済活性化を目指す「官民一体のまちづくり」の成功例が増加し、
各地の市区町村が我も続けとの思いでまちづくり事業、都市計画の策定に勤しんでいる。
筆者は幼い頃から出身地である山武市の住民が「この町に住んで良かった」と
思えるような魅力
はあるのだろうかと考えていた。
現在、山武市は人口の過疎化が進行しており、早期の対策が必要である。人口増加の促進のために
地域の生活環境、経済を改善、活性化し魅力あるまちづくりが必要だと考えている。現実的かつ実行
可能な対策案を練るために、現代に至るまでのまちづくりの変遷、国内及び海外の事例を調査する。
調査結果を踏まえた上で、自分なりの地域活性化案を提案する。
1
1.3
先行研究と本研究との差異
「景観まちづくり」に関する先行研究を大別すると2つのアプローチがある。
第一のアプローチは、対象(市町村、行政、地方公共団体)を調査し、構造と計画プロセスの分析
と課題点を抽出し考察する研究である。代表的な研究は花岡拓郎の「地域特性に基づく歴史的集落・
町並みの景観まちづくりに関する研究」、及び富田昌子「日本と欧州における 都市景観を活かしたま
ちづくり」、浅野純次の『「町おこしの」経営学』に見ることができる。
第二のアプローチは、景観法、あるいは景観保護制度が制定されるまでの社会背景と経緯、各景観
条例及び景観まちづくりに与えた影響を調査し分析する研究である。代表的な研究は野呂充の「ドイ
ツにおける都市景観法制の形成(三・完) : プロイセンの醜悪化防止法(Verunstaltungsgesetze)を
中心に」である。本研究は第一のアプローチとほぼ共通で、構造と計画プロセスの分析と課題を探り、
そのうえで山武市の景観まちづくりについて提案する。
1.4
「景観」と「まちづくり」の定義
本項では本研究における「景観まちづくり」について定義する。その為に「景観」と「まちづくり」
を別個に定義づけした後、2 つの定義を合一することで「景観まちづくり」の定義とする。
1.4.1
「まちづくり」の定義
本研究では、先行研究の「まちづくり」の定義から共通点を抽出し、「まちづくり」の定義とする。
本定義に関しては、アプローチ方法で取り上げた先行研究以外の研究も含む。
浅野純次は「~その地域の特徴や個性を引き出し、住民生活の質や文化を向上させ物心ともに豊か
で充実した人生を送ることができるよう生活基盤を改革することである。」と定義している。〔浅野純
次『「町おこしの」経営学』(東洋経済新報社,2000 年) 9p〕原昭夫は「都市計画は、農林漁業との健
全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活および機能的な都市活動を確保すべきこと、ならびに、
このためには適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られるべきことを基本理念として
定める
ものとする。」と定義している。〔原昭夫『自治体まちづくり まちづくりをみんなの手で!』(学芸出
版社,2003 年) 16p〕信田和宏は「どんな「まち」にしていくのか、住民が幸せに生活でき、観光客が
楽しめ彼らの生活に付加価値をもたらすような「まち」とは、どうあるべきか、を考えていくことが、
まず基本です。」と定義している。
〔信田和宏『「いなか」おこし!~地域ブランド戦略を創る~』(NTT
出版株式会社,2010 年) 14p〕
これらの定義に共通するのは、「まちづくりを誰がどう行うか」に関しては明確でないが、「目指す
べき地域像を実現させる」といった点である。即ち、
「まちづくり」とは、その地域で生活を営む人々
の暮らしを、文化的・経済的な部分を両立させながら、理想的な姿にするための取り組みであるとい
う認識である。
1.4.2
「景観」の定義
本研究における「景観」についても、先行研究から共通点を抽出し定義とした。
まず、景観法においては基本理念に「良好な景観は、
「国民共有の資産」、
「地域の自然、歴史、文化
等の人々の生活、経済活動等の調和により形成」、「地域の固有の特性と密接に関連」、「地域の活性化
に資する」、「保全のみならず新たに創出すること」を含む。」と書かれている。〔国土交通,景観法,基
本理念〕
またヨーロッパ景観条約では、「景観(landscape)とは、その特徴が自然または人間のそれぞれの
要素の活動、あるいは両者の相互作用の結果である、と人々によって認識されている広がりのある地
域~」と定義している。〔ヨーロッパ景観条約,第一条〕
2
これらの定義では、「景観の具体的な対象が明文されているか否か」に関して差異があるが、「自然
及び人類の生活・経済活動によって形成されるもの」という点は共通する。即ち、景観とは、森林、
ビル群、田園、遺跡など、それぞれの土地の文化的な営みが見えたり、感じ取れるものであるという
認識である。
1.4.3 「景観まちづくり」の定義
上記の「まちづくり」、及び「景観」の定義から、本研究では「景観まちづくり」とは、「地域の文
化的及び経済的によりよい生活環境を目指すため、その地域の特性である景観を活かした戦略性ある
アイデアと活動をもった取り組み」と定義する。
2.
国内、及び海外の「景観まちづくり」
2.1 現代における「まちづくり」の歴史的背景
本章では、わが国における繁華街、住宅街、街路、街並み等、建物や道などが集合している区域(以
後、
『街』と定義)を時代別に調査し、まちづくりの変遷及び特徴を分析する。わが国伝統のまちづく
りを正しく評価し、他国の景観まちづくりとの比較検証に活かすことが目的である。
時代は、(1)縄文時代、(2)明治時代以前、(3)明治時代から平成 10 年代まで、(4)現代、の4つに区
分した。
(1)縄文時代については、「国の街並みの「起源」を探るならば、わが国の黎明期である縄文時代に
ある」という理由による。(2)明治時代以前については、「わが国に西洋の都市計画、まちづくりの思
想が流入する明治時代以前の都市に、わが国伝統のまちづくりの「特徴」がある」という理由である。
(3)明治時代から平成 10 年代までについては、
「西洋思想の都市設計、まちづくりがわが国に流入した
時代」という理由である。(4)現代については、
「(3)を踏まえ、生活の利便性と経済発展を追求しつつ
も、良好な景観を維持しよりよい生活環境を実現する景観まちづくりが動き始めた」という理由によ
る。
2.1.1
町なみの発生
町なみ(同じ職業の世帯が密集した地域)の発生を、集落あるいは村落レベルにまで拡大すると、
縄文時代の草創期(約 13000 年前~10000 年前)にまで遡る。この頃は氷河期から温暖な気候の間氷
期へと気候変動が発生した時代で、その影響により実を実らす広葉樹林帯や小型動物が姿を見せ始め
た。結果、移動を繰り返した旧石器時代の人類は、生活範囲での食料調達が可能になり、自然環境の
変化に適応するため移動をやめて定住するようになった。
2.1.2
明治時代以前のまちづくり
《古代のまちづくり》
わが国で建築物が軒を連ねる街なみが出現するのは古代(飛鳥時代~平安時代)からといわれ、全
国各所に様々な形態の都市や村落が形成され始めるのは近世(戦国時代~江戸時代)からだといわれ
ている。
なにわのみやこ
わが国で最初に計画された都市である 難波 京 (645 年,現・大阪市)は、中国(唐)の都である
ちょうあん
ほ く ぎ らくよう じょう
じょうぼうせい
「 長 安 」や「北魏 洛陽 城 」にならい、大路と小路を整然な碁盤目上に配置された「 条 坊 制 」
を採用している。以後続く、大津京、藤原京、平城京、長岡京、平安京も同じく条坊制を採用してい
3
る。この条坊制に則った都市設計の首都、あるいは副都は「都城」と呼ばれ、遷都先として選ばれる
地理的条件は
山に囲まれた盆地で、海から離れた場所であった。その理由は国防的意味があり、当時最も推力が高
い交通手段である船舶を用いた他国からの侵略を避けるためであると考えられる。
写真1
弥生時代後期の遺跡と知られる登呂遺跡(静岡県)
出所:弥生ミュージアム (http//: www.yoshinogari.jp/ym)
現存する歴史的資料の中で唯一、都城としての景観が明確に記載されているのは平安京のみである。
平安京は、位に応じ居住・商いの可能な場所が厳格に定められ、七条大路に接して東西対象に設けら
れた「東市」「西市」においてのみ商業活動が許されていた。
平安京初期の景観は、貴族の邸宅の塀や、それに寄り添うように建てられた庶民が住む小屋の町並
みで整然とされた様相であった。しかし、年を重ねるごとに段々と平安京は住民の手により自分たち
が暮らやすいよう、自律的なまちづくりが行われるようになる。元々、土地が湿潤で開発が進まず、
こうしょ
荒地化した右京から左京に人口が集中し、人通りが少ない道路は畑や宅地に作り変えられた(巷所 )。
さらに、東市と西市が廃れ街区の中心に市が開かれるようになるなど、京の町なみは人々が暮らし
やすいよう「住みこなし」が行われた。
《近世のまちづくり》
戦国時代に入ると城の防衛施設としての機能と、行政都市・商業都市としての
機能を持つ「城下
町」と呼ばれる都市形態が成立する。城下町の立地条件は平地の山があることで、当時の大名たちは
山の機能、即ち、高くて攻め上りにくい機能を求め、山を開拓し戦争における要塞、さらに物資及び
人材が集まる商いの地として城下町を発展させた。全国各地に城下町が形成されたことにより、さら
に異なる
都市形態も付随するように成立していく。現在の都市や市区町村は歴史を遡ると、城下町
4
等が基盤として形成されていったといえる。
江戸時代に入ると各藩において武士の城下町への定住化が促進され、数千、数万人規模の地方都市
が日本全国各地に成立する。また政治の安定化により港町、宿場町、門前町、鉱山町、在郷町なども
発達する。江戸の街が本格的に発展するのは、幕藩体制が確立した寛永時代(1630 年頃)になってか
らである。理由は諸大名の妻子在府の制と参勤交代の制により、全国の大名の家族と家臣団を江戸に
在住させることにある。武家の増加は商工業者の流入を促し、当時の江戸の推定総人口は約 43 万人で
あったとされる。
図 1 平安京俯瞰図
出所:京都市
(http://www.city.kyoto.lg.jp)
《山とまちづくり》
近世の景観まちづくりといえるのは「山あて」と呼ばれる都市設計であった。「山あて」とは街の至
る所からその町のシンボルといえる「山」が見えるように、即ち、
「山」を町の風景の一部として取り
入れ、それが目印になるように、道路や水路を設けていく手法である。わが国の国土の約 7 割は広義
的に山々でありその数は 1 万 5 千以上と数えられ、古来より山は神や恵の象徴として我が国で崇めら
5
れてきた。そのわが国独自の「山の文化」思想、考え方が近世の都市設計において「山あて」と呼ば
れる手法を生んだ。山ならなんでも良いとうわけではなく、
「山あて」として適合する山の条件は高す
ぎず、低すぎずちょうど良い高さで、立派な形の山姿だと考えられている。
表 1 中世日本の都市構造一覧
出所:国土技術政策総合研究所 (http://www.nilim.go.jp/lab/jd)
《水路と堀のまちづくり》
「山あて」と同様に川、水路網と堀もまちづくりにおいて重要な役割を担って
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いた。江戸や大坂
の大都市や近江八幡等の豊かな水資源がある商業都市は、都市の骨格形成を街路だけでなく水路も使
っていた。当時の都市景観は人為の街路と自然の水面が渾然一体で成り立っていたことが分かる。
図2
歌川広重,広重名所江戸百景
写真 2
近江八幡市(滋賀県)の街なみ
「する賀てふ」
出所:近江八幡観光物産協会
http://www.omi8.com
出所:広重 Hiroshige 「名所江戸百景」(120 図)ヘンリーDスミス著,生活史研究所(2004 年)
図3
鍬形惠林『大江戸鳥瞰図』
出所:東京都立図書館 (http://www.library.metro.tokyo.jp)
《わが国伝統のまちづくりとは》
7
わが国伝統のまちづくりは、
「全ての都市の形態において、山や川などの地形を重要視し、その自然
資源が人工の建築物よりも優先的に都市設計に影響を与える」ことに特徴がある。
2.1.3
明治時代から平成 10 年代までのまちづくり
明治時代以降、わが国の都市設計に関する思想や諸制度は、西洋の都市設計の
思想である「都市
内部の人工物を重要視する」という特性に影響を受ける。都市の近代化のため、明治政府は外国人建
しょうへい
築家を 招 聘 し、外国人居留地改造、銀座煉瓦街、鹿鳴館などを建設させた。さらに 1886 年(明治
19 年)には、東京の中心部をベルリンやパリのように壮麗な都市にしようとする計画案が立ち上がる。
都市の近代化には人工物である街路や鉄道の整備、レンガ造りの巨大建築物の建造が必要不可欠と考
えられ、この近代化の波は、江戸時代の伝統的まちづくりの名残をことごとく破壊していった。江戸
の街なみから眺めることができた富士山は人工の建築物で遮られ、街中に貼り廻られた水路は続々と
埋め立てられる事態に陥る。江戸
以外でも国外との貿易拠点となる横浜や函館などの港都市も同様
に西洋思想のまちづくりが全国各地の行政機関に波及していく。
戦後、1955 年(昭和 35 年)に日本住宅公団が設立されるに及び、各地で大規模団地や人口 10 万人
を超すニュータウン建設が始められる。この大規模建設は単なる住宅供給に留まらず、街路や上下水
道などの生活基盤、巨大施設、街なみなどより広範囲のまちづくりや都市計画の視点が必要になるも
のであった。
明治時代以降のまちづくりは機能性と利便性と経済性を優先させるものであり、結果、わが国は発
展途上国から先進国へと発展する程、経済効果、生活水準の向上をもたらした。しかし、全国各地の
自然環境や歴史的環境の破壊が著しく進み、さらには、人口の一極集中、地域住民同士のコミュニテ
ィの崩壊、公害問題などの解決が難しい都市問題も頻出した。
国や大企業、依頼を受けた開発業者が主導する「都市計画」は、現地の住民の意見が介入されない
まま進行する閉塞したもので、乱開発や市街地の環境悪化問題が続出した。当然、現地の住民は抗議
や改善案を主導者側にアピールするが、意見は力づく封殺されてしまう状況だった。例えば、田村明
の著書「まちづくりの実践」では、
「筆者自身の経験でも、工場や自動車の排ガスで大気が汚染し、住
民の健康を損なうので、大企業に対し公害規制の交渉をしたとき、
「日本の経済のために我慢しろ」と
言われた。~至るところで崖を切り崩す乱開発が行われ、これを抑えようとすると、国や開発業者か
ら「財産権の侵害だ」
「法令に違反することは止めろ」と言われた。」
〔田村明『まちづくりの実践』岩
波新書,1999 年)31 ページ〕と、述べるように、あまりにも急速な都市開発は、本来、現地住民に享
受されるべき利便と居住環境の良化が為されず、逆に都市問題を呼び、約 30 年以上経過した現在にお
いても対処の必要に迫られている。
2.1.4
現代のまちづくり
現在、少子高齢化が進むわが国で多くの市区町村が都市消滅の危機に瀕している。かつては人が行
き交った地方都市の街なか(中心市街地,多様な業種の世帯が密集)はモータリゼーションの進展に伴
い、郊外での住宅開発や大型小売店の立地等により人口が減少し、商業や業務機能が衰退し、空洞化
が深刻化している。その結果、空き地の増加、建物の老朽化等による町並みの崩壊、コミュニティの
劣化、空き家・空き店舗の増加によるまちの活力の低下等が進んでいる。
高度経済成長期に行われた行政主導のまちづくりではこれ等の問題に対応できない。理由は行政側
の地方公共団体には予算と人材が不足しているためである。
しかし、都市消滅危機時代の現代においても、既存のまちづくり観から脱却し、民間企業や NPO 団
8
体がまちづくりを主導し、行政がそれを後押しする、人を呼び込む、人が集まるまちづくりが成功し
ている。その土地で地域の特性(歴史・文化・自然)に応じたまちづくりを進め、知名度の向上、経
済活動の活性化、質の高い生活環境の形成を目指している。
現在、わが国の各地で行われている「まちづくり」は大きく3つの視点が必要であるといわれる。
公共施設や道路等の産業・生活基盤を形成する構造物(インフラ)の開発と改良を重視した意味で使
われる「ハード」、地域の産業経済の衰退と人間
関係の希薄化の問題から脱却するための、「地域興
し」や「人と人との繫がり」を重視した活動の意味で使われる「ソフト」である。加えて、その 2 つ
を繋ぐ考え方として理想、志などの「ハート」を重視する考え方もある。「ハード」と「ソフト」、そ
れらを繋ぐ「ハート」。最後にまちづくりを円滑に進めるための諸制度の整備が、現代のまちづくりで
ある。
2.1.5
まとめ
わが国の街なみの変遷を振り返ると近世までのまちづくりは山や河川などの
自然物と住まう人々
の生活環境が調和しており、その関係を崩さないように建築物やインフラはなるべく周囲の自然物を
そのまま取り入れるよう工夫されていた。
しかし、明治時代以降になると、経済や効率を重視させた都市計画、まちづくりが進む。結果、当
時の国内生活水準は飛躍的に上昇させ、過去に例をみないほどの経済発展をもたらした。しかし、そ
の一方で定住者同士のコミュニティの喪失、都市への一極集中、地域文化や歴史遺産の喪失、自然破
壊や公害の発生など都市問題を引き起こす事態へ導く。
バブル崩壊、人口減少により高度経済成長期の都市計画の主流である行政主導のまちづくりは失敗
が続き、代わりに市民参加型のまちづくりが増加している。
2.2
2.2.1
わが国の事例
由布市~合言葉は「別府にはなるな」
《由布市史の概要》
温泉地としての由布市(以降、湯布院に統一)の歴史は大正時代に始まる。1911 年(明治 44 年)、
油屋熊八(元米問屋)が亀の井旅館(現在の亀の井ホテル別府店)を創業したことがスタートとなる。
「旅人をねんごろにせよ」
(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言
葉に、数々の奇抜且つサービス精神のこもった新しい取り組みで内外から観光客、著名人を招く。
博士である本多静六が講演を行い、ドイツのバーデンバーデンに学ぶ、自然を多く取り入れた静か
な温泉地づくりを提案した。この提案は後の湯布院のまちづくりの指針として活かされることに繋が
る。40 年前まで由布市には旅館が約 20 軒のみの小さな温泉町で、客を取り合うのではなく、それぞ
れが協力し合い地域を発展させる道を選ぶ(例:売上や料理のレシピの公表)。結果、旅館同士の信頼
関係が結ばれ、この信頼関係は後のまちづくりの潤滑剤となる。
《反対運動期》
昭和時代、観光地は大きな施設を建設し集客を狙う施策が一般的であった。1952 年(昭和 57 年)、
国から由布院盆地をダム化する計画が出された。ダムの周辺をリゾート観光地として開発し、水没
する住民には多額の補償金を支払うというものである。この計画をめぐって賛成派の年配者と反対
派の若者で二分された。翌年、この計画は白紙になるが、これを糧に地域住民による主体的なまち
づくりを進めようとする雰囲気が根付く。
ひでかず
1955 年(昭和 30 年)、2 つの町村が合併し新しい湯布院町長となった岩男 頴 一 氏は、反対運動で青
EAAE
9
EA
年団団長の立場であった。岩男氏は「産業・温泉・自然の山野の三つの融合」を掲げ、保養温泉地
構想を打ち出した。新しい顧客を得るために施設を増やすのではなく、固定客を大事にしようとい
う
ものである。岩男氏は約 20 年町長を務めた。1970 年(昭和 45 年)、大手の開発業者によるゴルフフ
場建設計が提出された。これに反対した志手康二(夢想園)、溝口薫平(玉の湯)、中谷健太郎(亀の井別
荘)等の経営者と若者たちであった。彼らは「由布院の自然を守る会」を立ち上げるが、農家や年配者
は経済的豊かさ、道路整備を求めた為、守る会とは対立する。
「まちづくりは多くの人々の共感をえら
なければ成果は出ない」と、守る会は「湯布院の明日を考える会」と名称を改めた。これにより自然
を守りたい派と生活の利便性を求める派が、長い時間をかけて議論し、共鳴をおこした。
ゴルフ場建設案も白紙となり、町は「最も住み良い町こそ優れた観光地である」との考えを持ち、豊
かな自然と温泉、そこに住む人々の充実した落ち着いた生活が、湯布院の最大の観光資源であるとい
う共通意識が形成された。
図表 1
由布市
概要
大分県大分郡
都道府県
127.77㎢
面積
11,667人(05年6月1日)
総人口
湯布院温泉
出所:google Map(http://wwww.google.co.jp)
出所:湯布院観光協会
(http://www.yufuin.gr.jp/)
10
いつ
どこで
誰が
何を
どうした
概要
大正時代~(開拓期) 1952年代年(昭和28年)~ 【反”別府”期】
由布市
油屋 熊八(始祖者)
溝口 薫平(旅館経営者)
本多 静六(林学博士)
志手康二(旅館経営者)
岩男穎一(昭和初代町長)
中谷 健太郎(旅館経営者)
「地元の温泉地を『歓楽街』化ではなく『保養地』としてのまちづくり」
西ドイツを参考に、自然を多く取り入れた心身を癒す『保養地』の温泉街を目指す。
1970年代、度重なる歓楽街(リゾート)化の波に対し反抗。後に、より広範囲の地域づくり
に舵を切り替え、知識人・文化人を呼び込み、「芸術の街」としてのイメージづくりを進め
る。
《『保養地』のまちづくりを目指す》
1971 年(昭和 46 年)、志手氏、中谷氏、そして溝口氏の三人は 50 日間の日程で欧州研修としてヨー
ロッパの観光地、温泉保養地の視察を行った。三人は研修の中でクアオルト(Kurort、温泉保養地) 構
想の推進、まちづくりには、企画者、調整者、伝道者の三人が必要ということを学ぶ。帰国後、彼ら
は観光協会や議会、行政に研修成果を訴え、大型施設よりもホスピタリティーをモットーに、湯布院
の温泉、文化、自然、生活環境を整備し文化的な香り漂う温泉まちの形成を進めた。
写真 3
湯の坪通り
写真 4
湯布院映画祭
出所:トリップアドバイザー
出所:湯布院日記
(http://www.tripadvisor.jp)
(http://blog.goo.ne.jp)
1975 年(昭和 50 年)、大分中部大地震による「湯布院壊滅」の風評被害を乗り越えるべく、湯布院
は様々な情報発信、イベントを企画した。「ゆふいん音楽祭」、「牛喰い絶叫大会」、翌 1976 年(昭和
51 年)には「湯布院映画祭」がスタートし、県内外から観光客を呼び、一気に湯布院町の知名度は全
国区となった。これらのイベントには、元映画副監督である中谷氏が企画を提案し、元役場職員だっ
た溝口氏が行政との調整役務めた。 志手氏は伝道者としてまちづくり組織の拡充、人材育成を担い、
町の将来を担う若者たちに湯布院のまちづくりの理念、考え方を広めた。
《まとめ》
湯布院のまちづくりの特徴は、観光地における自然保護、住民参加のまちづくりなど、観光地づく
11
りを我国で初めて取り組み、成功をおさめたことである。当時、国や開発業者からの「外圧」に若者
たちが抵抗し、湯布院の魅力、豊かな自然環境と静かで心身が休まる雰囲気を守った。
湯布院のまちづくりを成功に導いた要因は、別府や他の観光地の様に「ハード」優先(大型施設)
のまちづくり・歓楽街中心のまちづくりと異なる発想で、古くから続く「ソフト」
(『保養地』)と「ハ
ート」(『別府のようにならない』理念)を維持し、優れた能力と人脈を持つ企画者、調整者、伝道者
の存在があったことである。風土づくりがあったからこそ、現在の由布市は新しい取り組みを受入れ
る余裕を持ち、その実現に寄与する人材が集まると推測する。
2.2.2
近江八幡市~「死に甲斐のあるまちづくり」
《近江八幡市の概要》
八幡堀は 1585 年(天正 13 年)に豊臣秀次が八幡山に城を築き開町したことに始まる。秀次は、八幡
堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、商業都
市として発展させた。さらに秀次は湖上交通において荷船は必ず八幡堀(全長 4km、一級河川『八幡
川』)を通らなければならないと定めた。
1954 年(昭和 29 年)3 月 31 日、蒲生郡八幡町・岡山村・金田村・桐原村・馬淵村が合併して近江
八幡市が発足する。
《八幡堀の汚染化》
モータリゼーションの進展と水運業者による浚渫が行われなくなったため、八幡堀はその機能を失
い荒廃した。堀に堆積したヘドロは 1.8 メートル、総量 50,000 立方メートル、蚊やハエの発生源や市
民による不法投棄の場所と成り、自治会は衛生的見地から 1970 年(昭和 45 年)に 2400 名の署名を
添え、市に改修を陳情した。これを受け滋賀県は堀を埋め、中央に 4m幅のコンクリートU字溝を入
れ、駐車場等に利用する案を出した。この案は市民の賛同を得、市議会の議決を受け、建設省に認可
された。
図表 2
近江八幡市
概要
滋賀県東近江地区
都道府県
177.39km²
面積
総人口 82,384人(2014年8月1日)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp
12
出所:google map
(http://wwww.google.co.jp)
概要
いつから 昭和40 年代
どこで
近江八幡市
川端五兵衛(元近江八幡市長) 浜崎貞之助(JC初代理事長) 八幡堀を守る会
地方自治会
近江八幡JC(Junior Chamber) その他各団体
「近江八幡の水郷」の保存・再生、まちなみの整備
国の重要文化的景観への選定に向けた取り組み
誰が
何を
地方自治会が八幡堀(全長4,750m)の埋立て計画を市に陳情したが、近江八幡青年会
議所が反対し、全市民へ浚渫と復元を呼びかける。堀の清掃活動及び水郷の一部の保存
活動や、それに関連する観光への取り組みを行う。1991年に 国の伝統的建造物群保存地
区選定、2006年には全国初の重要文化的景観(文部科学省)に選定。
どうした
《4 つの課題》
この案に対し、近江八幡青年会議所(以後JCと表記)は「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を
合い言葉に、全市民へ浚渫と復元を呼びかけ始めた。JCは埋め立てが提案される前の 1969 年(昭和
44 年)以来、市民意識調査を行い、独自の市の発展構想をえがき、その中で八幡堀の再生について模
索を重ねていた。JCの主張は「歴史的視点に立ち、八幡堀に新しい価値観の創造を考えよう」とい
う趣旨のもので、7,300 名の署名簿を添え県に陳情すると共に、公聴会で意見陳述するなど一連の運
動を展開した。しかし、JCの主張は、行政はもちろん、市民のコンセンサスさえ得られず孤立状態
に陥った。理由は埋め立ての予算は既に国によって計上されており、加えて多くの市民は 1 日でも早
く回収を望んでいたからである。
1973 年、県と正式な話し合いが行われ、県側はJCに対し 4 つの課題を示した。①どういう形で堀
を修復させるか、②石垣の崩壊防止策、③ヘドロの処理法、④何の為にあえて大きな費用を投じて全
しゅんせつ
面 浚 渫 するのか、その意義と必要性は何か、である。
E A
《保存修景》
回答を模索するなかでJCは「保存修景」の考え方に光明を見出した。保存修景とは、
「歴史的建築
物や景観がもつ伝統的な価値を現代的視点(地場産業や経済的
要素、それを秩序づける法的要素)
で評価し、その時代に合った柔軟なやり方で次代に継承させるもの」で、ありのままに復元、維持保
存することではない方法である。
JCは京都大学工学部建築学科の西川幸治教授の指導と保存修景計画研究会の協力を得、保存修景
案をまとめることができた。石垣の強度とヘドロの問題の技術的な問題に関しては、専門の業者や大
学教授の協力が得られた。ヘドロ処理の技術開発は企業に無償協力を求め解決し、石垣は 400 年前の
建造当時そのままの強度を保持していることが確認された。
《共鳴する市民運動》
県土木事務所等との折衝を続ける中で、JCは八幡堀の自主清掃を始める。この取り組みが功を奏
し、市民の目も変化し始める。差し入れてくれる人、清掃作業を手伝う人、自社のダンプやユンボを
13
貸出してくれる建設業者、意見対立を繰り返してきた行政職員も現われ、近江八幡市の誇りを取り戻
す事業として堀は賑わうようになる。
1975 年(昭和 50 年)9 月、滋賀県は進みかけていた改修工事を中止、国にその予算を返上した。こ
れによりJC及び協力者が提案した保存集計案が認められ、八幡堀は埋め立ての危機から免れた。
《価値の発見と創造》
近江八幡市の「景観まちづくり」の特徴は、現代生活では不要になった歴史的建築物群や景観を、
現代生活の中で生かす新しい価値を創造したことにある。
八幡堀は近江八幡の歴史においてその始まりであり、地域に根ざす文化を具現化した象徴的存在で
ある。
「近江八幡らしさ」そのものである。しかし、歴史的価値があるという点のみで八幡堀をそのま
ま修復したとしても、陸運交通が発達した現代社会の中で八幡堀の運河としての利用価値はまず活か
されない。市民の現代生活の中では無用の長物になる。
JCが提案し官民企業一体となって進めた堀の修景計画は、
「保存修景」の考え方を踏まえ、八幡堀
の「近江八幡らしさ」にこだわり、時代に合った新しい価値を創出した。遊歩道や飛び石、休憩所や
喫茶店も設置され、あやめも植えられ、水辺でくつろいだり、絵を描く人もいる。八幡堀は市民の憩
いの場としての価値が加わった。観光客も訪れるようになり、観光資源としての価値も加わった。八
幡堀は近江八幡に根付いたといえる。
写真 5
八幡堀
出所:近江八幡観光物産協会(http://www.omi8.com)
《JCの功績》
八幡堀の景観まちづくりは各省庁に評価され、重要文化的景観に選定等の功績を残す。市民と行政
による協力や連携により今日の姿まで回復を遂げた八幡堀であるが、その結果を導いたのはJCメン
バーの功績である。JCメンバーが始めた八幡堀の清掃活動を契機に、市民と企業、行政の協力を得
て、
「よみがえる近江八幡の会」の結成、堀と同時並行に水郷の保存活動の開始、まちづくり基金の設
立など、好循環につながった。いずれもJCメンバーが中心となってプランや設計までの実践的な活
動の結果、官・民・企業の垣根を越えた意思統一が行われた。当時、JCの8割は取締役・管理職以
上で、地域との絆が深い事業継承者が多かった。まちづくりを行う上で時間的・金銭的余裕が必要に
なる。JCメンバーはその基準を満たしており、結果として早期に専門家や他団体との接触と連携に
繋がった。
14
《まとめ》
近江八幡市の景観まちづくりは、
「死に甲斐のある街」をコンセプトに、荒廃したかつての象徴的「ハ
ード」の歴史的価値を見直し、現代生活に適したで形で復活させたことである。理念に込められたこ
とは、「人を呼び込むために『開発』するのではなく、住民が快適に暮らせる『まちづくり』」だとい
うことである。そして「時代を追うのでなく、先代が培ってきた歴史や文化、伝統を尊重し、守りな
がら、住民の暮らしを最優先する」という2つの「ハート」がこの「死にがいのある街」という言葉
には込められている。
2.2.3
ニセコ町~「住むことが誇りに思えるまち」
《ニセコ町の概要》
ニセコ町は 1901 年(明治 34 年)11 月、真狩村(現在の留寿都村)から分村し、今の元町地区に戸
長役場を置いたのがはじまりである。基幹産業は農業と観光業で、現在は隣町の倶知安町にまたがる
地域と合わせて
スキーリゾートである。夏の観光産業も活発になっており、夏場にはラフティング、
カヌー、トレッキングなどのアウトドアスポーツも人気がある。
《『ニセコ大橋』続く商店街の再整備》
ニセコ町商工会は 1988 年に本通商店街の道道岩内洞爺線拡幅拡張などを町に具申する。この具申の
背景には「ニセコ大橋」、及び商店街の街並みの再整備の構想があったからである。もともとニセコ町
の土地環境は、駅周辺が谷のようになっており、本通商店街から下って駅に至り、そこからまた迂回
するように上って、スキー場やペンション街がある山間部へ辿り着く構造になっていた。これを、駅
前を通らずに、商店街から直接山へ向かう橋をかけ、そして橋のたもとに続く商店街の町並みを再整
備しようという構想が、商工会役員の間で検討されてきた。
図表 3
ニセコ町
概要
北海道 虻田郡
都道府県
197.13km²
面積
4,858人(2014年9月30日)
総人口
出所:ニセコ町
(http://www.town.niseko.lg.jp/)
出所:google map(http://wwww.google.co.jp)
概要
いつから 1988年(昭和63年)
どこで
誰が
何を
ニセコ町
ニセコ町商工会青年部
逢坂誠二(元町長)
伊東徹秀(コピーライター・地域プランナー)
佐藤隆一(元町長)
商店街の街並みの再整備
「本通商店街地区」の活性化と潤いのある街づくりを行う。13年間の歳月、年間約90日もの会
議、話し合いを重ね、〈道の駅ニセコビュープラザ~ニセコ大橋間>約1.6kmを、通称「綺羅街道」と
どうした
して再整備。再整備の完了後、イベントの企画と運営、シンボルマークの提案等のソフト事業を推
進。
15
《本格的始動》
商工会は、1991 年(平成 3 年)に「地域中小商業活性化事業推進委員会」を設置し、さらに翌年、
町行政も「ニセコ町魅力ある街づくり基本構想」を策定する。以降、道道岩内洞爺線の整備が街づく
りの最重要課題として、住民行政間で本格的な協議検討が始まる。1992 年(平成 4 年)10 月、「まち
づくり推進協議会」が設立され、商工会青年部が中心となり、自分たちでまちの景観を考える会を 1
週間に 2~3 回ほどの頻度で
開催する。住民同士の徹底した議論が交わされ、会合は、以後1年半に
80 回以上、時間にして延べ数百時間にわたり続けられた。その中で、コピーライター兼地域プランナ
ーである伊藤徹秀氏をコンサルタントとして迎え入れ、伊藤氏の意見を取り入れ、商店街の街並みの
新名称が「綺羅街道」に決定する。
《住民組織の役割:住民同士の問題確認と意思統一》
綺羅街道構想を推進する上で重要な役割を果たした主体の一つが、商工会及び住民組織である。早
期から主催として住民同士がまちづくりに関する会合を頻繁に設け、結果、構想推進の障害となる問
題点の発見及び解決法の思案、
「住民一人ひとりが『綺羅街道』を創っている」という意思統一がなさ
れた。
第一は、道路の拡幅工事に伴う周辺住民の合意形成である。綺羅街道は全長 730m、幅員全幅 23m
(歩道 6m×2、車道 11m)の拡張工事を行わなければならない。それに伴い、工事範囲に住居や店を
構える住民の中には、住居を改築することに抵抗感を示す人があり、協議会はまず町内会レベルの会
合を何度も行い、徐々に綺羅街道実現への理解を示す住民を増やし、最終的に全体会議で合意を求め
る手法を採った。
第二は、
「ニセコ綺羅街道住民会議」で締結された「ニセコ綺羅街道街づくり協定書」、いわゆる「ま
ちづくりのガイドライン」の作成である。この協定書にはニセコ町のまちづくり及び景観形成におけ
るルールが記載されており、商業・業務・住居を問わず建物のデザイン(屋根、外壁、窓わく)など
がその色彩・素材から規定されている。こうしたルールづくりに住民が参加し、設計者の感覚と住民
の希望が時にはぶつかりながらも一歩ずつ前進した。
《行政の役割:「情報共有」と「住民参加」》
写真 6
綺羅街道の俯瞰風景写真 1
写真 7
出所:ニセコ町商工会青年部
(http://www.nisseko-seinenbu.com)
突き出し看板
出所:Walker plus
(http://area.walkerplus.com)
16
写真 8
綺羅街道の俯瞰風景写真 2
出所:ニセコ町商工会青年部( http://www.niseko-seinenbu.com)
行政の参画は特に、1994 年(平成 6 年)の逢坂誠二氏の町長就任以降に住民主体のまちづくりを計
画・財政の両面でサポートする形で行われた。具体的には大枠の計画策定と、国・道との折衝窓口並
びに財政的支援である。逢坂氏はまちづくりに関わらず全ての情報公開に積極的に取り組み、従来の
行政においては公開がなされていなかった情報を、請求者に対し率先して公開する体制を構築する。
2001 年(平成 13 年)年 4 月から施行された「ニセコ町まちづくり基本条例(自治基本条例)」におい
ても、「情報共有」と「住民参加」が2本柱である。町民間でまちづくりに関する情報が共有されるため
に、町が積極的に説明責任を果たすことが最低限必要なことであると明文化されている。
《綺羅街道の景観》
2001 年(平成 13 年)、ニセコ大橋の完成から3年後、綺羅街道は完成した。街道 730mの区間は、
電線が完全地中化され、それにより羊蹄山やニセコ連峰をすっきりと望むことができる。6m幅の広い
歩道には白いテーブルと椅子が置かれ、歩道内にある案内看板、標識柱、信号柱、街灯やバスストッ
プは、木を基調とし、支柱の上には山をイメージした三角形の笠で統一されている。建物には、綺羅
街道の名前入りの住居表示板が取り付けられ、商店や事業所には、店の業態をデザインした突き出し
看板が設置されている。
《住民組織の取り組み》
整備の完成後、ニセコ 21 世紀まちづくり実行委員会(樫原和雄代表、会員 160 名)が沿線の花の
植栽や各種のイベントを毎年実施してきている。同実行委員会の取り組みの特徴は、国の省庁や北海
道などと直接交渉をし、様々な事業の補助金を受けるなど自律した活動を行っていることだ。これま
で町役場を通じて活動してきたこれまでのニセコの各種団体の活動とは異なる。
さらに同法人は人材育成やまちづくりのための講演会を従来の教育委員会に変わって主催運営して
おり、住民自治の具現化をより明確にしている。
《まとめ》
ニセコ町の「住むことが誇りに思えるまちづくり」の特徴は、住民組織及び行政が「情報共有」と
「住民参加」を意識した取り組みにより、住民の行政依存意識を減少させ、それと反比例するように
住民自らが率先してまちづくり活動を行う環境を形成させていったことだ。ニセコの行政は従来の数
多くの行政機関が住民に対して秘匿してきた、地域内の人、物、金、情報を徹底して住民に開示して
いくことで、住民及び住民組織はその情報を読み取り、明確かつ早急な事業計画を推進できたと考え
17
られる。
2.3
海外の事例
海外のまちづくりは、日本とは違った特徴がみられる。とくに、ヨーロッパのまちづくりには見る
べき点が多く、ここでは、イギリス、イタリア、ドイツ、フランスの事例を紹介する。
まちづくりにおける景観保全、法整備が進んでいる欧州各国、イギリス、イタリア、ドイツ、フラ
ンスは、都市景観の保全、形成を都市計画のなかで規制している。景観に関する基本法を設け、国家
としての方針を示している国としては、イタリア、フランスがあり、ドイツは景観基本法ではなく連
邦建設法典、連邦自然保護法において景観の保護に言及している。イギリスは、法律上では景観に関
する明文規定を設けていない。
2.3.1
ドイツ~徹底的に景観に配慮
ドイツの都市景観の多くは、伝統的建造物群の記念物として保護されている。その規模は、日本の
伝統的建造物群保存地区よりもさらに広く、都市全体にまで広がっている。
ドイツにおける都市景観の保護・規制に関わる主要な法律は(1)都市計画法、(2) 建築規制法、(3)
記念物保護法がある。(1)は連邦法であり、(2)(3)は州法である。
都市計画法は国土利用計画に基づき、各州の自己管轄区域内の土地利用について具体的な計画を定
める。計画は F プラン(将来土地利用計画)や B プラン(建築
誘導計画)が基本手法であり、それ
ぞれの範囲は、F プランは市域全体、B プランは開発行為等のプラン作成が必要な区域のみで、風景計
画による土地のコントロールすることで、水質、土壌、気候、大気、動植物、眺望を含む土地利用の
実現が図られている。
醜悪化防止法や建築形成法は、都市の美観を守るという意図で成立した法律であり、まず条例とい
う地方に根付いた規制方法をとること(醜悪化防止法)、それをより具体的な規制とすること(建築形
成法)といった段階を経ていった。戦前の都市景観規制は、都市の美観保護と結びついていたといえ
る。
ドイツでは、建築の外観をどのように定め、無秩序な開発から守るべきか、その方法を地方自治体
が定める条例によって、建築の外観規制が行われてきた歴史がある。19 世紀の産業革命後、人口が都
市に集中して生活環境が悪化し都市問題が発生し、中小規模の都市では都市環境を整備する運動が始
まった。道路沿いの建物の
配置から、街全体としての調和を図った住環境整備を重視する方向の活動
が各地方都市で行われる。
20 世紀に入ると郷土保護運動によって、美しい景観を主眼とした都市景観保護が行なわれるように
なる。この背景には、産業化によって都市景観が急速に変化するなかで、伝統的な都市景観に美を見
出す価値観が、国民のなかに広がったことにある。
ドイツの南西部にあるフライブルク市(Freiburg im Breisgau,)では、一定地域内における景観保
全の方針を詳細に示した、都市景観保護に関わるいくつかの条例を制定し、詳細な計画を組み合わせ
ながら景観規制を行っている。特に大聖堂周辺の地区は徹底した規制が図られており、建築事業それ
ぞれに対して周囲の景観と調和するように規制している。それ以外の地区もそれぞれ異なる規制が定
められており、建築物の高さ、急勾配の屋根に丸窓など、屋根や外壁の素材、窓のデザインに伝統的
な意匠を施すことによって、景観を保っている。
マルティン門の脇にあるマクドナルドまでもが景観に配慮した歴史情緒漂う落ち着いた意匠・配色
になっている(通常の黄色い “MacDonald’s”のロゴは使われていない)。
18
写真 9
マクドナルド,フライブルク市店
出所:flickr (URL:https://www.flickr.com)
2.3.2
イギリス~徹底した規制と保護
イギリスの景観まちづくりの起源は 18 世紀の産業革命まで遡る。産業革命以降、工業都市の開発、
農村部からの人口流入により、都市周辺の共有緑地が伐採され消滅の危機に陥った。転機となるのは
20 世紀中ごろに始まったナショナルトラスト運動であった。社会全体が豊かになる中で、急速に経済
力が衰えた貴族やジェントリなどが所有する歴史的建物や土地などが荒れ果てるケースが発生したた
め、これを保全する意味で始まった。保全の資金をその土地の観光の入場料などに求めて収益事業と
したが、最良の状態で観光客を受け入れることで、地域社会の観光開発にも寄与した。
このような大衆の努力と熱意が政府を動かし、景観法、土地利用に強い規制をかけることが実現した。
業者や建築家が開発を行うには、開発許可(プランニング・パーミッション)を地方自治体から得な
ければならない。この手法による規制には「建物の持ち主が代わっても建物は残る。管轄地域に価値
のある建物があればそれを残すのが義務」という開発規制を支える考え方が背景にある。外観を乱す
として建物に商店の看板、パラボラアンテナ、テラス、オフィスに冷房を設置してはならない。さら
に、歴史的建築物群が残る地域(リスティッド・ビルディング)によっては内装工事でさえも自治体
だけでなくその建物を保護するイングリッシュ・ヘリテージ(政府公認の保護団体)の説得が必要に
なる。自分が所有する建物でも自治体の許可がなければ改装はできない。
ロンドンの北西約 200 キロ、標高 300m 以上に達するコッツウォルド(Cotswolds)丘陵に散在する町
や村は、特別自然美観地域 (Area of Outstanding Natural Beauty) として指定され、イギリスの美し
い伝統的田園風景が見られる。コッツウォルズは古くからイギリスを代表するウール製品の産地であ
ったが、産業革命以降、工場は都市部に移り、また石炭を産出しない為、次第に産業が衰えて発展から
取り残された地域となる。 しかしそれが幸運にも、中世から続く伝統的生活と美しい町並み守り続け
る要因となった。
20 世紀に入ると、都会の無機質な生活環境に疲れた人々が、人間らしい暮らしを求めてこの地を訪
れるようになった。このことが村人達に村の景観に対する認識を呼び覚まし、村々が競って古い家屋の
保存や、美観の形成に努めるようになった。その結果、コッツウォルズに活気がよみがえり、イギリス
で「老後に最も暮らしたい場所」として一番に挙げるほど、もっとも有名な観光地として復活した。
注目すべきは国と地方自治体の関係で、環境保護に関する様々な法的権限は保護局にあり、また地
19
元のためになる計画であれば保護局独自の考えに基づき実行できる点である。国は国民のためにその
目的に沿った活動がきちんと実施されているか、常に監視する立場にある。保護局で働くスタッフは
20 代から 40 代の少数精鋭の専門家集団である。
2.3.3
フランス~将来を見据えた都市計画
フランスでは古来より都市の整備や開発に腐心した国で、それは単なる都市計画という枠を超え、
自国の優れた伝統と文化を世界へ発信する為である。
フランスの「景観まちづくり」の特徴は、都市計画の具体的な規制内容について自由度の高い決定
権限を国より与えられ、当該地域の社会的状況や、住宅供給計画、そして交通計画等も考慮に入れた、
持続的で地方自治体を尊重したものである。わが国の都市計画と比較すると規制内容に関する法定の
基準が少なく、規制内容の決定についてより大きな自由度が策定主体である市町村に委ねている。
国は全国各都市の都市計画において、自然的・歴史的・景観的に顕著な性格を有する空間に対して
は、自治体の意向に関係なくは厳格な規制や制御をしき、地方自治体の自由を制限している。1962 年
に策定された通称・マルロー法(正式
名称「フランスの歴史的、美的文化遺産の保護に関する立法
を補完し、かつ不動産修復を保進するための法律」)は当初、歴史的建造物の不動産修復事業を行う上
での事業手法として制度化されたものだった。以降、試行錯誤が重ねられ、現在のように都市計画の
制度における文化遺産の保護・管理、意見調査を制度化したとものに大幅に変化した。
フランスの都市計画の枠組みの範囲内で、上位に位置する国や出先機関は大いなる権限と見識をも
って、大事な規制は直接実行し、下位の市町村や
国民はそれに従ったうえで、地域の独創性を発揮
できるまちづくりを行っている。
地域の独創性を発揮させた例として、パリのフュゾー規制が挙げられる。フュゾー規制とは、定め
られたポイントからのモニュメントの眺望を妨げないように、高さ規制と壁量規制が設定し、歴史的
な景観を損なう建造物を建てることを禁止する条例である。現在、パリ市内の45の景観がこの規制
の対象となっており、業者や国民はパリをパリらしく維持するためにこの規制を受け入れ、良好な都
市環境を維持している。
2.3.4
イタリア~民主導の景観まちづくり
イタリアにはローマやフェレンツェ、ナポリやヴェローナなど歴史的建造物群が保存され、現在で
も人が住み続ける世界文化遺産都市が数多く存在する。イタリアの共和国憲法第九条には「共和国は、
文化の発展と科学技術の研究の促進」を規定するとともに、
「国の景観及び歴史的・芸術的遺産の保護」
を規定しており、このことから紀元前の古代ローマ時代から脈々と受けづかれた文化・遺産を国の宝
として「文化国家」であることを国内外に主張していることがわかる。
イタリアの景観保全の歴史は文化財の保護から出発し、徐々に「眺望の美」という面的地域を対象
に加え,1985 年に制定されたガラッソ法(Legge Glasso)により、州ごとの風景計画の義務付け、国
土の全域まで保全対象を拡大してきた。ここでの風景・景観は、地形、地質、土壌、水系、植生、動
物相、歴史や考古学などを含む総合的環境が対象となっている。イタリアの歴史的建造物の数は神殿
や教会などの文化財のみならず、民家も含めると膨大である。ローマの場合、歴史的市街地の約 3700ha
内に文化財建造物の指定が約 400 あり、それ以外の歴史的建造物の民家や施設を含めると約 4400 にも
及ぶ。
この全ての修繕・維持費用するとなると行政のみの負担では不可能であり、イタリア国民は「文化
財建造物」を保護する事と、建築物の集合体である「都市」を保存する事は、仕組みが違うことを理
解し、
「都市の保存」に関しては行政ではなく民間に任せることがイタリアの「景観まちづくり」の特
20
徴である。それは「レスタウロ(Restauro)=修復の文化」という経済行為として広まっており、施
主という民間人が建築物に投資価値があると判断し、修繕を同じ民間の業者に依頼する。
イタリア北部にあるボローニャ市街地を例に挙げると、歴史地区に現存するルネサンス、バロック
時代の重要な芸術作品と建造物の全体 72%が過去に何らかの修復を受け、 膨大な額の民間投資が行わ
れ、民間主導で事業が進められてきた歴史がある。膨大な費用がかかる問題があるため、ボローニャ
という一部を除いて成功した事例はみられない。
民間業者が市場メカニズムを成立させる役割であるなら、行政の役割は「都市の再評価」として、
建築家がレスタウロしにくい土地の格が低い場所や建築物等をどうするか検討することと、高所得者
や高級店舗による住民の追い出しから起きる都市の空洞化(業務地化)を避けるための一般庶民に対
する「都市の居住化」を推進
することなど、市場メカニズムに任せることによる諸問題の対処で
ある。
民間と行政ではどう対処すべきか検討ができない、妥協できない場合は解決をマフィアに任せるこ
ともある。元々、マフィアはシチリアに多くいた不在地主と被支配者の間を取り持つ存在として発生
し、矛盾を上手に調整していく技術は行政や民間よりも上手であった。マフィアは大資本と小資本の
対立する諸問題の中で、賄賂や暴力を行使することで弱者に無理がいかないような妥協案を提示して
きた。
3
山武市へ提案する「景観まちづくり」
本章は、鍵となる章で、筆者が住む山武市に対する景観まちづくりの提案を行う。現在山武市では
景観計画を立案中で、今後に期待する部分も多いが、本章では、市民として筆者独自の視点で提案し
たいと考える。
3.1
山武市の概要
図表 4 山武市
都道府県
面積
総人口
概要
千葉県
146.38㎢
52,869人(14年12月)
出所:Google Map(http://www.google.co.jp)
図4
山武市の人口推移
21
出所:総務省統計局 国勢調査(http://www. stat.go.jp/data/kokusei/)
山武市は千葉県北東部に位置し、千葉市や成田国際空港まで約 10.30km, 東京都心部から約 70km の
距離にある。日本有数の砂浜海岸である九十九里浜の中央から南側にかけ、約 8km にわたって太平洋
に面している。一年を通じて温暖な気候で、それと肥沃な土壌を活かした農産物、サンブスギ
な
どの林産物、九十九里浜から海産物と、自然の恵み豊かな地域である。観光資源としてあげられるも
のは海水浴やスポーツを楽しめるリゾート地がある。現在の総人口は約 5.8 万人で、ピーク時の 2000
年から徐々に人口が減少している。
3.2
山武市の取り組み
現在、山武市は景観計画の範囲を市内全域とし、その理念を「未来へとつなぐさんむの景観~手を
携えて守り、創り、紡ぐ~」と掲げている。そして景観づくりを推進するための 3 つの目標を次の通
りである。第一に、「想いをつなぐ…住民が市内の景観の現状を身近に感じ、且つ次代へ繋ぐ」。第二
に、
「人と人をつなぐ…
より大きな景観づくりの流れを創りだす」。第三に、
「生業(なりわい)を
つなぐ…林業、農業という生業が景観を保ち、且つ次代へ繋ぐ」。
山武市景観計画の構造は、まず、市民と行政が一緒になって山武市を創る協治の道筋となる「山武市
総合計画」を根幹とし、景観形成に関する方針を示した「山武市都市計画マスタープラン」を踏まえ
策定するものである。そして総合計画を幅広い分野・施策と連携して取組むための基盤として他の関
連計画との整合も図りながら推進されている。
22
図5
山武市の景観計画の位置づけ
出所:山武市景観計画
(http://www.city.sammu.lg.jp/soshiki/17/keikankeikakusakuteiiinkai.html)
3.3
山武市の景観
本節では山武市が有する景観資源を5つに分類し、景観特性や方針等を整理する。
(1)水・緑
九十九里平野では、稲作期には黄金色のじゅうたんが広がり、丘陵地では緑や生き物その共存によ
りホタルも生息する。九十九里浜の鰯漁のために植林された山林にはサンブスギが群生している。丘
陵地から太平洋にかけては作田川や境川、木戸側などが水辺の経験を創出し、下総台地と九十九里平
野の境目には帯状の斜面林が見られる。
こうした高低差のある地形が作り出す豊かな自然は、山武市の景観の骨格を形成している。
(1-1)課題
サンブスギは山武市を代表する銘木であるが、維持管理の困難さ、収益性の減少、後継者不足等に
より、荒廃化が進んでいる。さらに後継者不測は休耕田や工作箒地の増加を生み、圃場整備による田
23
んぼの生き物の減少、市内の道路や水路、河川や海岸のごみ問題など、人の手によって変わる景観が
課題となっている。
写真 10
写真 12
田園
写真 11
九十九里海岸
サンブスギ並木
出所:山武市景観計画(http://www.city.sammu.lg.jp)
(2)暮らしの場、まちなみ
長屋門や槇の生垣などに囲まれた丘陵地の集落、植栽や生垣が残る市街地、屋敷林がある集落など、
自然環境と調和したまちなみは山武市の特徴である。
2つの町村の合併でできた市であることで、
特色ある地域があることに加えて、緑化協定などにより緑化が進む工業団地なども存在し、自然との
調和が図られている。
(2-1)課題
周辺の風景や雰囲気と調和しない建築物や派手な色彩の屋外広告が多く見られる。また、空き家と
空地の増加によるまちなみの連続性や賑わいの喪失、手入れ不足の沿道と街路樹の増加がみられる。
(3)歴史・文化
山武市には多くの歴史や文化が残っている。とくに、市内各所に建てられた寺院や神社は、地域の
生活文化と密接に関わるものであり、人々に広く親しまれている。中でも、標高 30mの石塚山の中腹
に建つ浪切不動院は朱塗りの本堂など、文化的価値の高い建物である。そうした建物の風情といい、
祭の継承など、見るべきもの、伝えるべきものは多い。
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写真 13
植草地区
写真 14
蓮沼海浜公園
出所:山武市景観計画(http://www.city.sammu.lg.jp)
(3-1) 課題
4町村が合併したことによる、地域の歴史・文化に対する人々の関心の低下や愛着新の喪失が見ら
れる。そのことは、結果として地域とそれに根差した自然・歴史・文化と調和したまちなみの喪失が
懸念されることにつながる。
写真 15
浪切不動院
写真 16
本須賀八坂神社例大祭
出所:山武市景観計画((http://www.city.sammu.lg.jp)
(4)活動・人の営み
海と山と田んぼと里山という自然環境に恵まれ、野菜や果物も豊富な山武市では、それらを生かし
た活動や営みが行われている。また、新しい価値を生み出そうという動きも活発化しつつある。
(4-1)課題
(3)とも関連して、営みでは重要になる伝統行事や祭礼への参加意識が低下し、後継者不足による伝
統行事の継承が困難になりつつある。活動規模の低下が懸念され、課題解決策を共有できる横つなが
りの活動団体の関係が希薄している。また、参加者のモラルの低下によるゴミ捨て問題が起きている。
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写真 17
地引網体験交流事業
写真 18
ぐるっと山武 50 ㎞ウォーク
出所:山武市景観計画((http://www.city.sammu.lg.jp)
(5)眺望
海岸線と里山、サンブスギの森などは山武市を代表する眺望であるが、バイパス沿いに新しい商業施
設ができたり、周囲との調和を考えない建築物が増えつつある。また、玄関ともいえる成東駅周辺の
衰退は、眺望の悪化を増幅させる。
(5-1)課題
派手な色彩や高さのある建物や工作物が増加し、眺望景観の喪失が懸念されている。海外の事例や
他都市の事例に倣って、景観を保存する規制やルールが必要になっている。
写真 19
九十九里浜からの眺望
写真 20
成東城跡公園からの眺望
出所:山武市景観計画((http://www.city.sammu.lg.jp)
4.
景観まちづくりへの提案
本研究の調査結果を踏まえ、筆者が考える”景観まちづくり”を山武市に提案する。
4.1 「目標・コンセプト・戦略」づくり
これまでの調査の中で、国内外の「まち」の個性を発揮させ成功したまちづくりの共通点を7つ発
見した。(1)大都市や他の市町村にはないその「まち」独自の個性がある、(2)住民にアイデンティテ
ィがあり、一人一人が「まち」を理解している、(3)「まち」に投資がある(資金、エネルギー、人材、
ノウハウ等)。(4)情報を発信し、また情報が集まる場所である、(5)創造性と将来性がある。(6)市民
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全体の参画がある。
以上の6つの共通点は、短絡的でその場しのぎの計画や施策からは決して生まれない、ということ
である。このことは、今後、何十年にわたって支持され守られるような将来性あるまちづくりの成功
条件であると考える。
筆者が提案する景観まちづくり案が、この成功条件を満たすためには、明確かつ説得力ある「まち
づくり理念」と「目標・コンセプト・戦略」づくりが必要である。
4.2
理念と目標
山武市の景観計画が掲げる 3 つの目標のうち、
「想いをつなぐ」、
「人と人をつなぐ」については賛同
する。理由はまちづくりの成功条件を満たすものであるからである。
「想いをつなぐ」ことで山武市の
住民が市内の景観を取り巻く状況を理解し、将来の世代につないでいかなければならない上に、
「人と
人をつなぐ」ことなしで、まちに投資は得られず、情報も集まらないし、市民の参画も期待できない。
ただ「生業をつなぐ」に関しては賛同できない。その理由は、市内の田園風景やサンブスギ並木が
現状より格段に整備されたとしても、住民にアイデンティティが形成されるか不確かで、且つ住民の
ライフスタイルの発展に寄与する明確なヴィジョンが見えないからだ。特に市内の林業は国外からの
輸入品に需要を以前奪われたままであり、復活のための模索と施策は続いているがまだ先行きは不安
である。また、市内の田園風景も他の市町村と比較しても、あまり特色は見受けられない。
市民全体の参画を得るため、二十年、五十年続く景観まちづくりにするためには、まちの伝統・風
土に合わせ、時代と人々の価値観とニーズに考慮した個性あるコンセプトが必要である。例え「生業」
をつないだとしても、その「生業」が現代の価値観に考慮されず、魅力や強い個性が感じられなけれ
ばまちづくりは進展しない。
筆者は山武市の「生業」が市内だけでなく、県や全国に影響が広がるほどの高い公益性を生むほど
の付加価値を発見すべきだと考え、「生業をつなぐ」ではなく、「生業を育て、つなぐ」にすべきだと
考える。
4.3
コンセプト
コンセプトとは、
「映画の街・ハリウッド」のように、そのまちを「一言で言い表す」ことができる、
主張や強い個性のことである。
山武市が持つ景観資源、観光資源の中で、全国規模でオンリーワンといえるものは、九十九里海岸
とサンブスギであると考える。故に、筆者は山武市の景観まちづくりのコンセプトを、
「サンブスギC
LTのまち・山武市」と提案する。
4.4
CLT(Cross Laminated Timber)
CLTの由来と特徴は以下のとおりである。
「CLTは Cross Laminated Timber の略称で、ひき板の各層を繊維方向が互いに直交するように積
層接着したパネルを示す用語です。海外では、特に欧州を中心に近年利用が急増し、現在年間約
500,000m3 以上の CLT パネルが製造されているとみられます。一般住宅から、中・大規模施設、6~10
階建の集合住宅まで、様々な建築物が海外では建てられています。」
「CLTの建築材料としてのメリットは、寸法安定性の高さ厚みのある製品であることから高い断
熱・遮音・耐火性を持つこと、また、持続可能な木質資源を利用していることによる環境性能の高さ
などが挙げられます。また、CLTパネルを用いた構法として見ると、プレファブ化や、接合具のシ
ンプルさなどによる施工性の速さや、RC 造などと比べた場合の軽量性も大きな魅力です。日本では
2013 年 12 月に JAS(日本農林規格)が制定されました。JAS での CLT の名称は、「直交集成板」とな
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っています。」〔引用:(法)日本CLT協会〕
現在、政府や国土交通省、林野庁はCLTの普及を推進しており、2020 年(平成 32 年)に開催さ
れるオリンピック・パラリンピック東京大会において、選手村などの施設の建設に国産CLTを活用
するよう、研究所や企業に働きかけている。
4.5
戦略
国が国産材の普及を推進する流れは、衰退化した山武市の林業を復活させる好機である。
CLT利用に関する法整備ができ、且つサンブスギを素材とした CLT が実現できると想定した上で、
稚拙ながら筆者の景観まちづくりの戦略を記述する。
まず、戦略上において目指す形は2つある。第一に成東駅やオライ蓮沼など、人の出入りが頻繁な
拠点、もしくはその周辺区域の一部を、サンブスギCLTを資材とした建築物に建て替える。第二に
公益創出として CLT 生産工場を山武市近辺に造設する。
第一の目標には、人が集まる拠点を山武市の特産物であるサンブスギを素材とした CLT に建て替え
ることで、住民に他の市町村にない山武市独自の個性、アイデンティティの確立を促すことを図って
いる。第二の目標は、CLT 生産工場を造設することで、町内外から資金、人材、情報などの投資が起
こり、結果、広い公益が生まれる。山武市以外の市町村も利益を得られることで、町外からの協力も
得やすくなり、事業の成功化に繋がると考える。
第一と第二の目標を実現するためのポイントは3つあり、その一つ目は中央政府からの補助金の効
果的活用である。例えば、政府はCLTが生産できる設備を導入した製材業者に、かつ、その設備の
生産量が年間約 4 万立方メートル以上になる見込みの施設を対象にし。費用のうち半分から 3 分の 1
を補助する方針で審議を続けている。林野庁の計算によると施工費は 30~40 億円だと試算されており、
その他の
組織団体からの助成金もまちづくり事業の取り組みに支給される。
二つ目のポイントは人材の流動化である。行政と民間、地方と大都市の人材の
相互出向を促進さ
せ、景観まちづくりの大きな推進力とする。
三つ目は人材の育成である。都市計画分野、建築分野、経営分野の領域に精通し、
地域の歴史・伝統・文化に理解した人材が求められるが、そのような人材を確保、育成は難しい。マ
ネジメントやリーダーシップが必要とされるまちづくりの人材
開発手法に明確な方法論が確立して
おらず、特に山武市は過疎地域、少子高齢化地域であるため、内発的に人材育成することは限界があ
る。課題解決策として都道府県による人材開発支援、公益法人や NPO 等との連携で地域リーダー、及
びまちづくりに関わる多方面で活躍できる人材の確保、開発の取り組みを強化する仕組みを構築する
必要がある。
おわりに
わが国における「景観まちづくり」に求められることは、大都市と地方の交流を盛んにすることで
はなく、そこに住む人々が抱えるその地域に対する風景、イメージを実現させ、いかに暮らしやすさ、
ライフスタイルの発展に寄与できるかであることが、本研究を進めるうちにわかってきた。
社会問題である少子高齢化問題や地方過疎化の原因は、明治時代の文明開化以降から続いた「まち」
の歴史、文化、環境を無視した都市計画であり、また人々の意識、政治、教育、家庭も戦後になって
自己中心主義化していった。現在、多くの「まち」に多種多様な人々が共存しているが、自己中心主
28
義化した社会の中で育ってきた故に、出会いと交流に抵抗を感じている。問題解決の糸口として、
「景
観まちづくり」のみならず、あらゆる「まちづくり」に求められることは、自己中心主義から脱却し、
身のまわりの人、モノ、自然との関係に強い繋がりと喜びを見出せる環境、基盤づくりであると考え
る。
筆者の山武市に対するイメージは、
「海と森」、
「温暖」、
「のどかな」である。そのイメージを誰かと
共有したり、他者の自分では気が付けなかった全く異なる価値観を見つけたり、それらを目に見える
形で表現させ次世代に繋いでいく「景観まち
づくり」に参画したい気持ちが、本研究を続ける過程
の中でより明確になった。
本研究の成果として提案した山武市の景観まちづくり案は、まだ戦略として成り立っていない上に、
法整備や技術面において十分な知識や情報を知りえているわけではない。不確定要素が多く、実現に
向けて可能性があるかないかも不明である。卒業し、社会人として数十年を過ごし、自分の知識と経
験を活かすことができるようになったら、山武市の景観まちづくりに寄与していきたいと考えている。
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井川博文「都市景観としての文化財-ドイツにおける都市景観保護のための法的制度と
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野呂充 Scheller Andreas「ドイツ連邦共和国フライブルク市の都市景観行政(二・完)」 1/2015
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ニュースダイジェスト「コッツウォルズの魅力の真髄を知る Part1
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佐々木雅幸「住民協働によるまちづくり~住まいの町から文化の町へ~」 1/2015
山武市「山武市景観計画案」 1/2015
総務省統計局 国勢調査 1/2015
一般社団法人 日本CLT協会 1/2015
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