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パウロとヨハネとペトロの手紙 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
パウロとヨハネとペトロの手紙 第二ペトロ書の福音 7 パウロとヨハネとペトロの手紙 3:14-18 ローマ書を読み始めたのが 1972 年の 9 月でした。「20 年で全巻を通読で きるか」と予測を立てたのが、1 年余分にかかりましたけれど、かれこれ 21 年間皆さんにお付き合い頂いて、マタイから黙示録の間の全 27 巻を、御一緒 に読んできた計算になります。厳密にはまだ読了ではなく、ユダ書 2 頁とヨ ハネ第一・第二書が 2 頁残っています。それに、私もまだ、「これで終わり」 とは思っていないのですけれど、今ペトロ書を読み終わるに当たって、不思 議な感動を覚えるのは、この最後の半頁十数行に、手紙の筆者ペトロと、ロ ーマ書の著者パウロと、それにヨハネ福音書の記者が三人、並んで一緒に顔 を出しているように思えるからです。 新約聖書を読んでみて、使徒たちの中で一番強い印象を残すのは誰かと問 われれば、やはり、それはタルソのパウロだと思います。パウロは福音の本 質を―福音が律法とどこで本質的に違うかを明らかにした人です。その意 味でパウロという人は聖書のチャンピオン―霊的天才だと言えるでしょう。 さて、そのパウロ書簡の次に特徴的な文書はといえば、それはヨハネの福音 書かも知れません。「ヨハネは神の思いを汲んだ人()だった」 とは、ギリシャ人の伝えるヨハネ像です。また、教父クレメンスの言葉によ れば、ヨハネは「霊的な福音書を残した」のでした。 この二人に比べると、神学的にはシモン・ペトロは影が薄いかも知れませ ん。しかし、「ペトロの弟子で彼の通訳として働いたのがマルコであった」 という教父イリネオス―の言葉が正しければ、ペトロの伝え たイエスの姿は強烈で、弟子のマルコが書いたマルコ伝だけにとどまらず、 マタイとルカの福音書にも、間接的に大きな影を落としていると言って、言 -1- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 い過ぎではありません。もちろん、ルカは使徒パウロの分身のような存在で したから、そのことをも計算に入れると、私たちはこの最初の 200 頁あまり の頁数の中に、マタイとペトロとパウロとヨハネという、四人の宗教的天才 が体験したイエスの姿を、見ているのです。 パウロとヨハネが、今日読むペトロの文章の中に、とんな形で顔を出して いるか……。ただ単にその名前が出るとか、文体がそれを暗示するという以 上に、パウロの思想とヨハネの信仰が、ここに 21 年間の学びの「総まとめ」 のようになって迫って来るのを私が感じるのは、単に“一人善がり”の感傷 ではないのです。 1.パウロもペトロと同じテーマを扱った。 :14-15. 14.だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一 つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。15. また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたした ちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書 き送ったことでもあります。 ペトロがいう「このこと」(:14)というのは、「主が来られること」で す。本当は「これらのこと」と複数なので、それと関連して述べたこと…… 「希望はこの滅びてしまう天地にはない」こと、「義の宿る新しい天と新し い地とを待ち望む」ことを含んでいます。そして、この再臨される主に「望 みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(1ヨハネ 3: 3)。これはパウロではなくて、ヨハネの第一書簡の言葉です。 ところで、 「私たちの愛する兄弟パウロが、あなたがたに書き送っている」 とペトロが言うのは、果たして「主の再臨」というテーマをさすのか、ある いは、再臨を延ばしておられるように見える主の「忍耐深さ」(:9,15)を -2- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 言うのか……。それとも、もう一つ突っ込んだところで、福音の本質的な性 格についてなのかです。 福音の根本は決して、 「清くあらねば救われない」ということではなくて、 「あなたの清さや立派さと関わりなく、キリストの血で清められている。あ なたはそのままで安心して、信頼して主をお待ちせよ」というのですが、そ こから先の適用が、主に本当にお会いした人と、頭の理屈だけの人とでは、 丸っきり逆になります。つまり、「だから、この体をどう使おうと、どこま で汚れにのめり込もうと、私の勝手だ」というのと、「だからこそこれを、 不義を行う道具にしてはならない。罪という主人のところへ舞い戻る気には なれない。これは死人の中から引き上げて頂いたものだから、“義の器”と して神様に使って頂くのでなければ!」(ローマ 6:13)というのとの違い です。 このテーマは、 本当は、ちょうど 20 年前の 6 月ごろにやっていたのですね。 ローマ書の 6 章の時です。私たちは、言わばブーメランのように、そこへま た戻ってきました。というより、この 21 年間、本当はそのことだけを、「ひ とつ覚え」のように繰り返して学んできました。「魚釣りは、鮒に始まり鮒 に終わる」といいますが、「福音の生き方はローマ書に始まり、ローマ書に 終わる」と言ってもいいでしょう。 ところで、この手紙の筆者は、ローマ書だけを知ってたのでないことは、 次の言葉から分かります。 2.パウロの福音はなぜ曲解されたか。 :16-17. 16.彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には 難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを 聖書の外の部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。 17.それで、 -3- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、 不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。 「難しく理解しにくい」というのは、深遠すぎて頭の悪い者に分からない という意味ではありません。私の「ローマ書の福音」の 2 頁にも書きました ように、これは平凡な「普通の信者たちの群に宛てて書かれた手紙なので… …わたしたちにも分かるはずのもの」なのです。「けれども、ただひとつだ け、ローマ書がわかるための条件があります。……それは……、神の前に自 分の姿を正直に、有りのままに見て問題に気付く心です。自分の情けなさや 醜さ、恐ろしさ ……これを何とかしなければならない! 主よ、どうか助け てください! この感覚と正直さが、ローマ書の扉を開く“鍵”です。」つま り、パウロの手紙はその意味では「難しい」どころか誰にも分かるはずだと 書いたのです。 とすると、「難しくて理解しにくい」とペトロが言ったの は、もっと別の難しさだということになります。それは、人間は肉に留どま るかぎり、なかなか正直にその問題に目を向けたがらないということと、そ れに、一度はキリストを仰いだ人でも、うっかりするとキリストへの信頼よ りは、自分の恰好良さとの取り繕いの方が大事になって、やさしいものを難 しく感じてしまうことがあります。その上、これは福音そのものが非常に危 険なものだから……というと変に聞こえますか? 福音が純粋に正しく説か れれば説かれるほど、それは受け取り損なった人を、安易なだらしなさの中 へのめり込む言い訳を与えてしまうという悲劇です。 これは、我々下手な者が下手な説教をするから誤解を生じる、ということ も無いことはありませんが、使徒パウロほどの人が聖霊に満たされて語った 福音でもそうでした。ローマ書の中でパウロは繰り返し繰り返し、「違う。 絶対違う。そんな考えは、あってはならない」と、激しい口調 で否定していますが、実際パウロの福音を自分流に聞いた人たちの間から、 -4- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 「『恵みが一層豊かに』働くように、我々はこの罪の中にあぐらをかいた方 が良くはないか?」(ローマ 6:1)という声が出たり、「むしろ進んで罪を 犯すようにした方がよいのか―我々が“律法の下に”いるのではなく“恵 みの下に”いるというなら?」(同 6:15,織田訳)と居直る人まで出たので す。ペトロ書のここの部分を読むと、ペトロもやはり、同じ悲しい経験をし ていたことが想像されます。 「無学で心が定まらない」は教養のことではなくて、御言葉へのまじめな 熱意を失ったことと、本当の支えとより所が主キリストよりは自分の宗教的 恰好良さであるような人のことをと言ったのだと 思います。本当の土台に支えられてない人たちです。 チェスタートン G.T.Chesterton という人の言葉に、正しい福音の道は、 細い尾根の上を歩くのに似ているとあります。それは殆ど刃物の刃のように 薄い稜線なのだというのです。あなたが頂くのは、自分の清さや点数とは拘 わりなく、全く一方的な恵みであると同時に、そこから生まれるものは厳し い生きた倫理なのです。救いはただ愛を受けるだけであると同時に、最も聖 なる清い生き方を作り出すのです。そのどちらかがノーブレーキでのさばり 出すと、あっという間に恐ろしい異端の餌食になります。しかし、この細い 尾根の上を歩くことは、普通の平凡人にできる代わりに、ほんとうの意味で キリストに触れて、キリストに捕らえられている人でなければならないとい うのです。 3.ヨハネの基調で結ばれる手紙。 :18. 18.わたしたちの主、贖い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長 しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますよう に、アーメン。 -5- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 福音を浅く安易に見て、「ああ、都合の良い楽な救いだ」と受け止めて、 自分に都合の良い言い訳の陰に意気地なく逃げ込んでしまえば成長はなかっ たけれども、飽きずに繰り返して新鮮な砕けた心でキリストの恵みに触れ直 して、救ってくださるキリスト御自身を深く知る( )ことで、人は信仰者とし て大人に成長するというのです。私たちも、恵みの福音のショックを 21 年前 にパウロのローマ書で経験してから、重ねて二回聞く必要がない位単純なそ の福音を、ルカから、ヨハネから、マタイから、ペトロから、こうして続け て学んできたお陰で、この「成長しなさい」とペトロが言ったことが何であ ったかを知るのです。 「キリスト御自身を知って成長する」というのは、聖書物知りになること でもなく、神学的に深い内容を理解することでもなく、人が感心するような 人格と愛の実績を作ることでもなく、ただ、私は私を救ってくださるキリス トなしには、死んで腐った罪の塊にすぎないことを思い知らされることです。 キリストがいてくださって初めて、私は命を持てるし、勇気に満ちる。私の 清めはキリストの命で一方的に清めていただくしかないのだけれども、それ だけにこの器を不必要に汚すことをしないで、義の道具として神に献げ続け たいと、心から願う願いを強められることです。実にたったそれだけのため、 少なくとも私は、その簡単な一つのことを理論としてではなく、体験で味わ って知るために聖書を読んできたということができます。 最後にペトロはこの成長について、主の栄光を称えて、アーメンで結びま す。この結びの「頌栄」、英語でいう“doxology”ですが、この第二ペトロ 書のそれは、普通のヘブライ式の「頌栄」とは、一つの点で画期的に違って います。栄光はもともと聖なる神に、天の父に……というのが「頌栄」 の伝統的な型です。「主の祈り」の結びでもそうですし、パウロ の書簡でも(ローマ 11:36)このすぐ次のユダ書でも(:25)でも、これは はっきりしています。ただ、この第二ペトロ書だけは、「我らの主であり、 -6- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 我らを救い給うイエス・キリストに栄光あれ、今も、そして永遠の日までも。 アーメン」と結びます。これと実質的に同じことはパウロも(ローマ 1:7, 16:27)告白していたのかも知れません。しかし、ここまではっきりと、「イ エス・キリストに栄光」と言い表しているのは、この第二ペトロが最初で最 後なのです。その意味でこの最後の行に込められた信仰は、ヨハネ伝でイエ スが宣言された聖なる父の意志と同じ響きを聞かせているのです。 「すべての人が、父を崇めると同じに、子を崇めよとの御意志である。」 (ヨハネ 5:23,意訳) 《 結 び 》 始め“ちょっと見”にはあまり魅力的ではなかった第二ペトロ書を、つい に読み終わりました。読み終わった感想は、やはりこれもイエス・キリスト の福音の書だということ、まさに聖書そのものであったということです。し かも、私たちがこの 20 年かけてパウロとヨハネから学んだと同じ救いが、ペ トロの口からしっかり確認されていることです。それに加えて、ペトロの教 えの結論が、パウロがローマ書に打ち出した“異邦人の福音”の確認であっ たことの発見は、私にとっては最大の収穫でした。 (1992/05/31) 《研究者のための注》 1.総括的な結語と勧めのこの部分は、前章の偽教師たちについての警告が続いているも のと思われ、17 節の ,16 節の は主に (2:1)に言及するのでしょう。 2.主の 来臨 を待 ち望む 信徒が「 きずや汚 れが何一 つなく、 全うされて (は ~AlvB. の意)あるよう努力を集中せよ」(:14)に相当する勧めと して、1ヨハネ 3:3があります。 3.「パウロが書き送った」内容を「主の忍耐」と見る人は、ローマ 2:4(3:25,9:22, -7- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. パウロとヨハネとペトロの手紙 11:22)と結び付けます。Green に従って 14 節の勧めと直接つながるものと見ました。 著者は恐らく、既に教会が収集して回覧していたパウロ書簡のいくつかに目を通して いたものと思われます。 4.「ほかの聖書についてもしているように」 (口語訳,直訳) は、「ほかの文書」あるいは、「別に聖書の方にも曲解をしているのと同じに」と読 めば、パウロ書簡をに含めていないことになり、「聖書のほかの部分」 (新共同訳)、「聖書の他の箇所」(新改訳)と読めば、すでに使徒たちの書簡が教会 での朗読で、モーセや預言者と並んでと見なされていたことになります。 -8- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.