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学習メモ
泔坏の水 (全二回) 第七十三回・七十四回 日記 蜻蛉日記 学習のポイント ①作品の位置づけと作者について ②「をさなき人」が声を張り上げて泣く理由とは? ③「音もせず」とは、どういうことか ①「泔坏の水」に対する作者の感慨 ②和歌にこめられた作者の思い ③本文から読み取ることのできる作者の性格 理解を深めるために 平安時代、仮名による日記という新しい文学形式が『土佐日記』によって創出 されてから、主に女性の手になる日記文学が次々と生まれた。この女流日記文学 作品の文学性を支えているのは、自己の内面や心情を隠さずに述べること、いわ ゆる告白である。仮名文字による表現の技術の深まりに伴って、自己の内面を自 由に生き生きと豊かに描くことが可能になった。そして、それが、日記文学とし ての価値を高めているのだ。 * * * そんな王朝女流日記文学を代表する作品と評価されているのが、『蜻蛉日記』 である。 きのつらゆき ふじ わらのみち つなの 紀貫之が女性の筆に仮託し、女性の立場で書いた『土佐日記』を前提として、 はは よりいっそう本格的な日記文学が、およそ四〇年の時を経て出現する。藤原道綱 つづ 母の『蜻蛉日記』だ。 『蜻蛉日記』は、作者・道綱母の結婚生活を中心に記され ている。いわば、夫との結婚生活の歴史が綴られているのだ。そこには、『土佐 日記』に見られたような虚構的な設定はない。その内容は、おおよそ彼女の体験 した事実であると判断して間違いないと思われる。しかし、『蜻蛉日記』は、単 に作者の結婚生活の「記録」としてあるのではない。作者・道綱母の体験をその まま素材として書き連ねることにおいて、実は、作者の内面を一つの世界像とし て具象化していったところに、この作品の意味があるのである。たとえば、道綱 母は、 『蜻蛉日記』の中でしきりに結婚の不幸を訴えている。この不幸感を、彼 女の生き方と密接な関係をもっている主体的な事実と見るならば、彼女がそうし た不幸感をいかにして克服しようとして苦しんだか、その内的葛藤を、『蜻蛉日 ゆえん 記』 の叙述の進行そのものの中に読み取ることができる。そこにこそ、『蜻蛉日記』 の、事実の記録ではない、まさに日記文学である所以が見いだせるのだ。 彼女の結婚が、実際には辛いときばかりでなく楽しいときもあり、その他いろ いろあったであろうとしても、本質において彼女に限りなく人生の苦痛をもたら − 209 − 講師 古典 第1回 第2回 齋藤佳子 第 73・74 回 ▼ ラジオ学習メモ す原因でしかなかったこと。妻という立場が現実にはまったく無力であるにもか かわらず、彼女の生きる道はそこにしかなかったこと。『蜻蛉日記』が細かな点 まで的確に描き出すこうした矛盾は、いわば、その矛盾こそが、作者・道綱母の 人生を統括しているのだといっても過言ではない。 すなわち彼女は、 『蜻蛉日記』を書くことによって、現実には自己を律する根 拠とはならない立場を、みずからの生きる立場として積極的に意義づけたという ことになる。つまり、結婚生活のまったく私的な面を追求する、そのことの中に こそ、彼女の社会的な存在意義があるのであり、自己の内面にしか目を向けてい ない『蜻蛉日記』が、実は彼女の主観的な事実を通して、彼女の置かれた社会的 ず りょう な位置、彼女のたどった人生の社会的な意義をも、客観的に示す結果となってい るということなのである。 * * * ふじ わらのともやす 作者・藤原道綱母は、当時の貴族社会においては中流貴族の、受領階層の家庭 の娘として生まれる。父は、藤原倫寧。家系は、祖先にさかのぼれば摂関家とも へいそく 同じ名門藤原家の傍流である。にもかかわらず、当時の社会における家の格の低 さのために、父・倫寧は高官に昇る道が閉ざされた閉塞的な状況に置かれていた。 地方官生活が長く、文人的な識見をもちつつも、そういった時代の成り行きの中 で受領の地位に甘んじて生きるほかなかったのである。しかしこの時代には、人 生の栄光への希望を託する一つの道がまだ残っていた。チャンスに恵まれれば、 娘が社会的に有力な上流貴族や権勢家に嫁ぐことができ、生まれた子が将来高位 ふじ はらのもろすけ ふじ わらのかねいえ 高官に昇ることもあり得たのである。そのような中で、九五四年、道綱母は、時 の右大臣藤原師輔の三男である藤原兼家と結婚する。父・倫寧をはじめ彼女の縁 者たちは、この右大臣の三男との結婚によって開かれてくる未来に対して大きな 期待を寄せていたにちがいない。しかし、当時兼家にはすでに時姫という妻がい ちよう し せん し て、長男の道隆も生まれていた。また、妻時姫は、道隆をはじめやがて道兼・道 長・超子・詮子と三男二女の母となり、これらの子どもたちが、男子は摂関家の 後継者に、女子は入内して女御になるなど、この上ない立身出世を果たし、藤原 さい しょう 摂関政治の隆盛期を支えたため、その母親として世間からも兼家からも重んじら れた。しかも、兼家の妻妾は、ほかにも町小路の女をはじめ一〇人近くもいたら しく、結婚の翌年に道綱が生まれたものの、兼家との不和がもとで心安まる日々 はなかったようである。これら数多くの女性たちが等しく兼家の妻として存在し えた一夫多妻の社会。道綱母の人生を考えるうえで、それがまず問題であること は言うまでもない。しかし彼女は、この一夫多妻の社会の矛盾を意識したわけで はなかった。たしかに、彼女の前にはしばしばこれらの女性たちが兼家の愛情を 奪い合うライバルとして登場し、そのために彼女は激しい嫉妬と抑えきれない恨 − 210 − みの感情に駆られて、まさに人生の修羅場を体験したにはちがいないが、そうし 古典 た感情の動揺の根底に、自分が兼家の妻の一人にすぎないという彼女の立場に対 する根本的な疑問、一人の男性に幾人もの妻があることの不合理に対する根本的 な疑問を抱いたことはなかったであろうと思われるのだ。むしろ、彼女の結婚に 本来内在する社会的矛盾や不合理を知りうるはずもなかったところにこそ、人間 第 73・74 回 ▼ ラジオ学習メモ としての彼女の限りない苦悩があったと言えるのである。すなわち、当時の歴史 的現実として一夫多妻制は当然であって道綱母も意識せずにそのことを受け入れ ており、夫のいわゆる分散した愛情しか得られない立場にあることをわかってい るにもかかわらず、それでもなお、夫の全面的な愛情をそこに求めずにはいられ ないという思い、兼家の愛情を独占したいと一途に願ってしまう気持ち、そうし たところから彼女の苦悩は生まれてくるのだ。そして、そうした矛盾をはらんだ 彼女の結婚の真実の姿が、作品の中に自ずから客観化されてにじみ出てくるので ある。 * * * 道綱母が、兼家と結婚してからの半生を顧みつつ書き記した『蜻蛉日記』とは、 いったいどのような作品なのか、その文学的な意義について最後に述べておく。 素材は、作者の体験した人生。これほどありのままに体験を生々しく語った作 品を、これ以前には見いだすことができない。しかしそこには、必ずしも作者の 実生活の客観的な状況が表現されているわけではない。ここに書かれているのは しゅうれん むしろ、 彼女の主観でとらえられた真実や現実。いわば、彼女の内面の世界である。 それは、 「ものはかなき身の上」という言い方に端的に示される主題へと 収斂さ れ統一されていく。つまり、彼女の結婚生活が、実際には書かれているような不 幸なことの連続ばかりであったわけではないにしても、人からは好ましげな結婚 生活に見えていたかもしれないけれども、彼女の受け止め方は、それとは著しく 異なるのだ。彼女の主観が不幸だと感じるのである。とくに、彼女の心細さや寂 しさに対して兼家が無関心であることが、繰り返し強調して語られていく。この 作者の不幸の実感が印象深く表現されているのが『蜻蛉日記』なのだ。 こうして、実人生ではまったく無力な立場の彼女が、書くことを通して『蜻蛉 ひら 日記』の中にはじめて真に生きる場を築き、現実にはどうにもならない自己を回 復する道を、苦悩を克服し新たな生きる道を、拓いたのである。 また『蜻蛉日記』は、日記文学作品として高い完成度をもっているだけでなく、 仮名散文での文学表現という面においても、以後輩出する平安女流文学作品に絶 大な影響を与えた作品でもある。とりわけ、人間の心の細やかで繊細な動きを言 語化し、人物の内面のリアリティを表現するという手法は、物語文学の最高傑作 とされる『源氏物語』へとつながっていく。『蜻蛉日記』は、平安日記文学の代 表的作品としてのみならず、平安女流文学の流れを考える上でもきわめて重要な − 211 − 意義をもつ作品なのである。 古典 『蜻蛉日記』を読むことを通して、平安女性の生き方や考え方の一端に触れて みることとしよう。 第 73・74 回 ▼ ラジオ学習メモ 蜻蛉日記 ゆするつき 泔坏の水 ゑん みち つなのは は 藤原道綱母 講師・齋藤佳子 心のどかに暮らす日、はかなきこと言ひ言ひの果てに、我も人もあし う言ひなりて、うち怨じて出づるになりぬ。端の方に歩み出でて、をさ なき人を呼び出でて、「我は今は来じとす。」など言ひ置きて、出でに けるすなはち、はひ入りて、おどろおどろしう泣く。「こはなぞ、こは なぞ。」と言へど、いらへもせで、論なう、さやうにぞあらむと、おし はからるれど、人の聞かむもうたてものぐるほしければ、問ひさして、 いつかむいか とかうこしらへてあるに、五、六日ばかりになりぬるに、音もせず。例 ならぬほどになりぬれば、あなものぐるほし、たはぶれごととこそ我は 思ひしか、はかなき仲なれば、かくてやむやうもありなむかしと思へば、 心細うてながむるほどに、出でし日使ひし泔坏の水は、さながらありけ り。上に塵ゐてあり。かくまでと、あさましう、 み くさ − 212 − 草ゐにけり 絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水 古典 など思ひし日しも、見えたり。例のごとにてやみにけり。かやうに胸つ ぶらはしき折のみあるが、よに心ゆるびなきなむ、わびしかりける。 第 73・74 回 ▼ ラジオ学習メモ 【口語訳】 泔坏の水 (久しぶりに兼家様が訪れて)心穏やかで落ち着いた気持ちで過ごしている日 に、ほんの些細なことを言い合った末に、私もあの人も(互いに)相手をあしざ まに言うようになって、兼家様は、恨み言を言って出て行く仕儀になってしまっ た。 (しかも)兼家様は縁先のほうに歩み出て、幼い人〔道綱〕を呼び出して、 「わ は しはもう来ないぞ。 」などと言い残して、出て行ったところそのとたんに、道綱 (私は) 「これはいったい は部屋に這って入ってきて、激しく大声を上げて泣く。 どうしたの、何があったの。 」と言葉をかけるが、 (道綱は)返事もしないで泣い ているので、 きっとそういうことであろうと、 察しはつくけれども、 人〔侍女たち〕 が聞いたりでもしたら見苦しくとんでもないことなので、 (道綱に)わけを尋ね るのはやめにして、あれこれと道綱をなだめているうちに、五、六日ほどが経っ たが、兼家様からは何の音沙汰もない。 (兼家様の訪れが)いつもとは違う長い 隔たりになってしまったので、 「ああ、なんと狂気じみていることだ、冗談だと ばかり私は思っていたのに、 (もともと)頼りない仲だから、このまま終わりに なるようなこともきっとあるだろうよ。 」と思うと、心細くてぼんやりもの思い にふけっているときに、ふと見ると、兼家様が出て行った日に使った泔坏の水は、 そのまま残っているのだった。水面にほこりが浮いている。 「こんなになるまで あの人は来てくれないのだわ。 」と、驚きあきれて、 二人の仲は、もう終わってしまったのですか。せめてこの泔坏の水にあな たの姿だけでも映っていたら、尋ねることもできるだろうに、 (あなたが残 していった)形見の水には水草が生えてしまって、あなたの姿も映らず、心 中を尋ねることもできないことですよ。 − 213 − などと思っていたちょうどその日に、兼家様は姿を見せた。いつもの調子でしっ 古典 くりしない気持ちのまま、うやむやに過ごしてしまった。こんなふうにはらはら 第 73・74 回 する不安なときばかりあるのは、まったく気の休まることがなくて、やりきれな いことだなあ。 (学習メモ執筆・齋藤佳子) *本文は『新編日本古典文学全集』によった。 ▼ ラジオ学習メモ