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気象・海象が戦局の重大転機となった諸例 (III): トラフ

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気象・海象が戦局の重大転機となった諸例 (III): トラフ
Kobe University Repository : Kernel
Title
気象・海象が戦局の重大転機となった諸例 (III) : トラフ
ァルガー海戦の海洋気象学的解析(Marine
Meteorological Analysis of the Battle of TRAFALGER)
Author(s)
半澤, 正男
Citation
海事資料館年報,18:9-18
Issue date
1990
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005767
Create Date: 2017-03-31
気象・海象が戦局の重大転機となった諸例(1
1
1
)
トラファルガー海戦の海洋気象学的解析半
「英国は各員がその義務を果たすことを求め
i
畢正男
年のノルマンディー上陸作戦のため連合軍側が
る
」
集結した大兵力を初御とさせるものがある。当
(
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ymanw
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)
をあらわす 3
2続の信号旗がネルソン提督 (Adm
7
5
81
8
0
5
) の率いる英艦隊
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oη)の全マス
旗艦ビクトリー号(H.M.S
8
0
5
年の秋も深まった
ト高〈ひるがえったのは 1
1
0月2
1日,午前 1
1時 5
0
分のことであった。この
時は,「 i
毎の英 J, '陸の仏」と言われたように,
ようにして,イベリア半島,
トラファルガー沖
英仏両軍は,おのおのその精鋭をあつめて大決
戦を目論んでいた。ナポレオンはこれだけの陸
上兵力を保持しながら英仏海峡の征海権が英側
にあるため敵前上陸を決行出来ないでいた訳で
ある。
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ナポレオンの基本的な戦略は,“ N
の東大西洋に於て,英艦隊とフランス=スペイ
GrandD
e
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g
n
"と呼ばれているが,その骨子は
ン連合艦隊との間の壮絶な海戦の幕は切って落
次の如きものであったの「ロッシュフォールおよ
ときれた。これが世に言う「トラファルガーの
びツーロン両艦隊を同時に脱出きせー西印度諸
海戦」である。昔から本海戦やネルソン提督に
島方面に向かわせて所在の英艦隊を攻撃,撃破
ついての書物は非常に多し汗牛充棟といった
する。そののち,ロシュフォール,ツーロン両
有様である。しかし乍ら,
),港内に封鎖
艦隊を合わせブエロール沖に至 t
トラファルガー海戦
の時の気象についてや,海戦の海洋気象学的解
されているフランス諸艦を救出し,次いでロシ
析はごく僅かで、ある。本報ではこのような背景
ュフォールに至リ海峡防禦のイギリス艦隊を牽
をふまえて,
トラフアルカー海戦の海洋気象学
的考察を行った。
制する。これにより少なくとも 3
0隻のイギリス
艦隊諸艦が牽制されるであろう。ブレスト艦隊
はこの虚に乗じて,まず l軍団の兵をアイルラ
1• トラファルガー海戦に至るまでの背景
ンドに上陸させる。そうして,帰国してからブ
ーローニュの主力をもって英本土敵前上陸を敢
トラファルガー海戦はいうまでもなく歴史上
行する」というものであった c ナポレオンの最
TheN
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n
i
cWar,
有名なナポレオン戦争 (
も得意とする「味方の分散を集中に転じ反対
1
8
0
3
1
8
1
5
) の一環として生起したものである。
に敵の勢力を分散させる」とし汁巧妙を極めた
この戦争の歴史的。政治的な叙述は本報の目的
戦術で、あった。英本土上陸の予定地点としては
ではないので,海戦に至るまでの両軍の直接的
ダンジネス岬 (
5
05
0
'N,1E)付近が想定きれ
な動きについてだけ略述する。
ていた。
8
0
5
大陸を席巻しつつあヮたナポレオンは, 1
0
0
8
0
5年前半には英仏艦隊の
この戦略にそって 1
年夏までにその大陸軍 OaG
randeArmee) 1
6
衝突かしは、しは生起した。ナポレオンは自己の
万を大陸沿岸に集結,英本土上陸を企図してい
艦隊のみならず,スペイン艦隊をも自己の掌握
8
0
5年 8月 3日の時点て¥陸軍
た。その兵力は 1
下に置き,ビルヌーブ伯 (
ComtedeV
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e
6万 3千余名,馬匹 9千頭,武装上陸用船
兵員 1
1
7
4
8
1
8
1
0
) を仏西連合艦隊の司令長官に任命
舶1
,
3
3
9隻,非武装上│盗用船舶 9
5
4隻,船舶要員
していた。この頃のナポレオンの戦略は次のご
17
f6千余名という驚くべきものであった。後
ときものであった。「先ず集結した英本土上瞳用
9
の大軍を東進させ,スペインのカディス (
Cadiz)
戦 列 艦 , フ リ ゲ ー ト 艦等 2
7隻,旗艦ヒクトリ
に 於 て , 英 の コ リ ン グウ ッ ド提督 (Adm. C
.
ー 号 ( 砲1
0
0
r可搭載の戦列艦)・艦隊は風上側と
Collingwood,1
7
4
8-1
8
1
0) の 監 視 下 に 同 港 に
風下側とに二分きれた二列の単縦陣,風上側は
封鎖されていた艦隊を地中海,イタリア方面に
1隻,風下側は副司令官コリ
ビクトリー号以下 1
転進させよう 」 とした 。 つ ま り , 終 局 的 に は 西
ングウ ッ ド提督座乗のローヤル・ ソペリ ン号 以
方よリ増強さるべき仏艦隊と合した仏西連合艦
下1
1隻,アフリカ号は別途参戦。
隊が英艦隊を撃破,東大西洋=地中海域,特に
英仏海峡の制海権を確保して仏大陸軍の英本土
仏・西連合艦隊
上陸を可能にしようというものであ った。 この
雄大なナポレオンの戦略,戦術も彼の思い通り
には運ばず,
多少の好余曲折ののち両艦隊は遂
に1
0月下旬,
トラファルガー沖で運命の決戦を
行 う に 至 った。
2.英艦隊と仏・西連合艦隊との編成,兵力
司令 長 官
ビルヌーブ提督
戦 列 艦 , フ リ ゲ ー ト 艦 等3
3隻。旗艦ビユセン
タウル号 (
砲8
0門搭載の戦列艦 )。
なお,
ビクトリー号の搭載砲数については,
0
2門
, 1
0
4門 説 が あ る が , 予 備 砲
上記のほか, 1
トラファルガー海戦時の両艦隊の編成・兵力
を含 めこの数字と思われる 。
は次の ごと くで あ った。
3. トラファルガー海戦の経過
この艦隊決戦に臨むネルソン提督のと った戦
術 は 次 の 如 くであ った。 す な わ ち , 全 艦 隊 を 二
分 し , 二 列 の単縦陣つまリ 2本 棒 に な っ て 連 合
艦 隊 の真中に突っ込んで千子 くとい う,いわば 「中
央 突 破」 の勇壮極まりないものであった 。 これ
は成功した場合には戦果はすばらしいものがあ
.~ .
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第│図
トラファルガ一海戦における英艦隊旗艦
ビクトリー号。現在,ポーツマス軍港に
保存展示中。
C
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c
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i他 (
1
9
7
5
) による。
英艦隊
司令長官
1
0-
ネルソ ン提 督
BATTU OFTRAFALGA肉
H 同・
2
1
曲 5
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ω
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第 2図
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同町由
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川
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仰 “抑
~o山岬
~Th"晴岬
ÙP'~' も0・M・
N
←トー
ネルソンの有名な信号が発せられた時,
1
8
0
5年 1
0月2
1日1
1
5
0における両艦隊各艦
の位置。 自は英,黒は仏,灰色はスペイ
ン艦を示す。右が北で,風向はWNWo
Kemp (
1
9
7
6
) による 。
るが,同時に非常な危険を伴う作戦で,いわば、
大きな賭とも言うべきものであった。それは「二
英側の損害も勘くなく司令長官ネルソン提督の
本棒」で接敵中,英艦隊はその両舷を敵艦の織
戦死をはじめ将兵の戦死傷 1,
6
9
1名にのぼった。
烈な砲火にさらされるからである。この事は,
ネルソンは仏艦のマストの上からする小銃の狙
凶に示す開戦初期, 1
8
0
5年 1
0月2
1日午前 1
1時 5
0
撃により重傷を負 L、のち戦死したものである
分における両艦隊の各艦位置図からもうかがわ
が,これは当時の海戦が如何に至近距離で闘わ
れるところである。
れたかを物語るものである。後述する海戦後の
時化により失われたものも含め,
当時の戦列艦の構造を見るとわかる様に,
事
トラファルガ
ー海戦における仏,スペイン側の損害を次表に
の頃,砲は砲甲板に簡単な台車に搭載されて列
示す。ちなみに,イギリス艦隊に喪失艦はなか
べてあった。各艦の砲は,ほぼその真横にしか
った。
発砲できず,艦の進行方向とうしろ向きには発
)一号の平面図には艦
砲出来なかった。ビクト 1
海戦に参加したフランス戦列艦ーーー
ー
1
8隻
.
1
5隻
スペイン戦列艦・…...・・.......…...
の首尾線方向に 2門の砲をえがいであるが,こ
れは予備のものである。この事から戦端開始の
ごく初期にはネルソン艦隊は非常な危険にきら
されていたという事が出来る。
計
計
海戦後再捕獲されたフランス戦列艦
…
…
スベイン戦列艦……………
百
十
ただ,ひとたび中央突破に成功すれば,ネル
ソン艦隊は敵の最も重要で、'同時に最も強力な
3
3隻
1
0I
j2
1日 捕 獲 ま た は 損 害 を 受 け た 仏 戦 列 艦 .
.
.
.
.
.
.
.
.
8隻
スペイン戦列艦
…1
0隻
海戦後費量破または捕獲された 7 ランス戦苦J
I
艦
ー
前衛部隊と,後続部隊とを分断しそれぞれを
1
8隻
l隻
2隻
3隻
I
艦…
スペイン戦宇J
5隻
2隻
計
7隻
包囲して一挙にこれを磯滅することが可能で、あ
結局. l
毎戦参加隻数3
3隻 ー 損 害 , 捕 獲 隻 数2
8隻
る。当時の艦隊は各国とも前衛,中衛,後衛 (
v
a
n,
ニ
c
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n
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r
e,r
e
a
rlに編成されていた。イギリス艦隊
5隻(残存艦船数)
の場合は,それぞれ白,赤,ブルーのエンサイ
ン(旗)を揚げていたので識別が可能であった。
4
. トラフアルガー海戦時の天候の推移
中央突破の目的達成のため,ネルソンは単縦
記録が割合よく残されているので,それらを
陣の先頭に最強,最堅艦を持って来た。ネルソ
丹念に調べるとトラファルガー海戦時の天候の
ン直率隊の方には 3隻の 3層甲板戦列艦ビクト
推移については大凡見当をつけることが可能で
リー号,テメレア号,ネプチューン号を配し,
ある
コリングウッド隊の先頭艦にはロイヤル・ソペ
は今日のように i
M器を使うものでは無かった。
リン号を配するといった陣形であった。正午頃,
しかし,帆船にとって唯一の「動力源」だった
合戦は始まり,ビクトリー号は敵旗艦ビュセン
と言える風,海・潮流については当時の船乗り
タウル号のすぐ近くを突破,ネルソン捨身の中
特有の勘,経験などから今日の測器観測に匹敵
央突破作戦は見事に成功した。この後,両艦隊
すると思われる程精度の高いものがえられてい
D
もっとも,その基礎となる海上気象観i
M
は文字通リ舷舷相摩す大激戦を展開した。壮絶
た。艦船上の観測は航海日誌,戦闘記録などに
な死闘は約 4時間続いたが,遂にネルソンの果
残されているので,それらから海戦当日の天気
断な作戦が功を奏し,英艦隊は圧倒的な勝利を
推移を記す。
収めたのである
O
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r
r
a
i
n
lの記述によると, 1805
テレイン(J.T
仏・西連合艦隊の蒙った損害は手痛いもので
あった。すなわち,艦船の沈没 5隻,捕獲され
7隻,戦死傷約 8,
0
0
0
名であった。しかし
たもの 1
年1
0月2
1日早朝,
トラファルガー岬沖で両艦隊
が初めて遭遇した時の天候は次の如くである。
「・・・…(この)両艦隊は,まるで波の上に浮ぶ純
1
1
隊の戦列艦のほか,ジブラルタルにどうにか辿
自の二つの群のようであった。始めは朝霧が立
1
ム艦 l隻,スペ
ちこめていたが,やがて空も晴れわたり,軽い
りつく事の出来たのは僅かに,
西風が日欠 L、たり止んだりして,海はほとんど凪
イン艦 3隻にすぎず,残余の鑑艇は決戦海面で
いでいた。しかし西から寄せてくる大きな波
沈没,スペイン海岸で座礁または再捕獲される
のうねりは嵐の接近を予告していた。中略。霧
という二重の悲運に見舞われた。前掲の表にこ
も晴れて朝の陽光が輝く中て1 英艦隊は帆を一
の様子がよく出ている。数字については記録,
杯に張って前進したが,風があまり訪れ、ので,
勘定の仕方のちがいのため,諸家により多少の
3ノット以上の速度を出せた戦列艦はほとんど
相違が見られる。荒天時,仏艦の損失が多かっ
無かったようである」。次は戦機がようやく熟
たのは,フランス革命の影響で,仏艦の貴族出
して来た午前 1
1時 0
0分 頃 の も の で あ る し だ
身の士官がへっていたことと,兵員の質の低下
いに大きくなってきた不気味なうねりに気づい
が著るしかった為,英艦より操船法が劣ってい
たネルソンは,長年の艦上体験から来る直観を
たという説もある。
働かせて次々と信号旗を揚げきせた」。優れた
5
.1
9世紀初めの船上気象観測
軍人であったばかりでなく,老練な seamanで
、
も
あったネルソン提督の面白躍如たるものがある
この頃以降の戦闘中の天気描写については,戦
C
我々の目的とする「現代の眼から見た」海戦
闘そのものに忙しかった為,あまり詳しい記述
当時の気象解析を行うためには,やはり当時の
は残されていない。しかし合戦の終末近くに
気象観測,特に船舶上に於けるその実体が最も
なって次の劇的な一章がある
基本的のものとなる。これについては,現行の
r・・・・一多分,ネル
ソンの戦死後約 1時間余りたった午後 5時 3
0
分
ものと思想では変わりがなく,船舶の航海日誌
頃であろうか,アシール号(仏艦)は大爆発を
の気象天候欄が一番参考となる。
起こして轟沈しこの日の海戦をしめくくるに
一海戦時のそれについては,オリバーとキング
は余りに劇的な恐るべき光景が出現した。そし
トン(J.O
l
i
v
e
r,J
.A
.KingtonJ による詳細な
て,大爆発の轟音が消えさっていくにつれて,
トラファルガ、
研究がある。
次第に波立つて来た洋上には,不気味なまでの
静寂が訪れ始めていた JD (石島訳による)
今日でいう海上気象観測,つまり海上の(現
在)天気,風,波,視程等については 1日 3回
さて弔問題は,むしろこの海戦後の天候で、あ
観測が行われていた。観測は,通常日中だけに
った。司令長官ネルソン提督の死という大きな
限られていたので,朝,正午,タの約 6時間お
痛手があったものの,英艦隊は海戦そのもので
きの定時観測ということになるの風は帆船時代
は圧倒的な勝利を収めた。しかし,夕閣が濃く
とあって最重点観測項目で,それだけ観測精度
なるにつれて天候は急速に悪化し;始め,夜に入
も高かったと言える。勿論,目視観測で風速(風
ると遂に今までにその比を見ない程の大時化と
力),風向を出した訳であるが,今日の i~IJ 器観測
なってしまった。丈字通りの狂湖怒、議で,平均
とくらべそうヲ l
けをとらぬものがあったようで
約 2,
0
0
0トンもある残存戦列艦は,敵味方の区
ある。風向はコンパスの 3
2点方位でとられてい
別なく大波に木の葉のように翻弄されるだけで
た。昔の海洋文学によく出てくる「何点」と言
あった。この日のミソドナイトに風は遂に強風
(
G
a
l
e
) 級に達した。 (NearGale
は風力 8,風
う表記法で,
1点 (
p
o
i
n
t
) =1
11
5
',従って 4
0
点は 1r1
5
'X4=45'すなわち NEとなる。これに
速 34-40ノソト, S
torongGale
は風力 9,風速
「風向走まらず」じ「静穏 (
Calm)J とが加わ
41-47ノ、ソト) 後述の天気図解析からもうか
がえるように,海戦前の約 2週間は,静穏な好
る。風力は 1
8
0
5
年イギリス海軍制定の r
)
武力階
級」によって記載され τいる。これは,例の「ビ
天に恵まれていただけ,この時化は両艦隊に,
ューフォルト風力階級 J (
18
3
5年制式となった
一層ひどいものと感じられた事であろう。英艦
ビューフォルト提督Adm.F
.B
e
a
u
f
o
r
t,1774-
D
1
2
D
t戦時の気象事項
上記の諸気象観測成果や, i
1
8
5
7によるもの)の先駅的な!武力基準である
記載資料等を丹念にあつめて,英国のホイーラ
えて「空の状態...;(
曇1
),C
loudy,
以上の風にかu
晴れ, F
a
i
r等 ) と 天 気 J (
雨
,
ー (
D
.A
.Wheeler)は,
1
8
0
5年 1
0月1
0日と,海
戦当日すなわち 1
0月2
1日の天気図(気圧配置凶)
スコールー時
L
、
て
化等),「海面状態」がとられている。特に海面
の復元に成功した。いうまでも無く,船舶
s
w
e
l
l
l に注意が払われている。
状態ではうねり (
の気圧観測は未だ行われていなかったので,風
)が高
うね 1
力司風向司天気等の記録から気圧配置を推定し
ければ迫 1
)米る悪天を告げ、るものであることが
たものである。ある地域の季節別の気圧配置に
これは当該水面で静穏な好天でも,
当時の航海者に卜分理解きれていた為であろう
O
はある一定のパタンがあリ,また天気推移の記
視程については標準がまだ制定されていなかっ
事から逆に気圧配置の大凡の様相を推定するこ
たので各艦まちまちの記載が見られる。いうま
とは可能なので¥同教授の天気図も当時の気圧
o
g
) なので,緯度,
でもなく航海 H誌(ログ, l
配置の大勢を示していると言ってよいであろう。
経
!
支
,
u々の走航距離,操船の記載があリ‘
事
1
8
0
5年 1
0月1
0日の天気図
れらは気象解析に不可欠のものである c
図の左に顔を出しているよく発達した高気圧
これらの他,陸上に於ても現在の「測候所」
に類するものが出来つつあった。例えば英国南
は,この時期の典型的なものであって,カディス
部では 1~1 3凶観測のグ、ソドウいノドハウス観測
;中の北東風はこれをよく示している。一万、英
0月1
0日
, 1
0月
国陸上に於ける天気変化表から 1
1
5日頃,降水を伴う低気圧が 2回通過していた
0月1
0日の天気図には
ことが明らかであるが, 1
ビスケー湾に中心を持つ低気圧があるのがわか
乏
る。この低気圧の偏東風によって英国南部に H
一
Z
n
v
2
・
・
・
かい湿った気流がもたらされた事もわかる。大
‘
3-
西洋の中緯度高気圧がこのあと数日,持続する
が北方では 1
5,1
6日頃,第 2の低気圧が通過した c
英国方面では,季節の進みもあり,さらにスカ
肉
JO
第 3図
イギリスの陸上観測所における 1
8
0
5年 1
0
月の気圧(ミリバー jレ)変化表と降水記
録,実線が口ッシュ氏記録,破線がグッ
ドウッド観測所の記録で,気圧変化を示
す。グッドウッド観測所の雨量は左のス
ケー jレで示してあるが,単位は不明 R
は雨天を示す。 (
W
h
e
e
l
e
r,1
9
8
5による)
ンジナビア半島方面からの寒気の南下がこの第
2低気圧の通過後見られた。ロッシュの記載に
1
0月1
7日,北東からの冷たい気流の流
入がある。さらに 1
0月1
8日になると北東イング
よると,
ランドの天候は「好天 J (
F
a
ir
),I静 穏 J (
C
a
l
m
l
むひょう
となリ,
f
l
片
1
0月2
0日
, 2
1日には「霧氷 J (
a
i
rf
r
o
s
t
s
l
(GoodwoodHouseO
b
s
e
r
v
a
t
o
r
y
) カfあ 1
),
も見られている ο 今日の標準からすると,この
(Newcastle
時期北東インクランドで霧氷現象があったのは
またニューカノスルアポンタイン
uponTyne,5
4
'5
9
'N,l
35
'Wlでは地万の弁理
0
ι
上で気象の篤, 家ジェームス・ロシュ(James
非常に早い生起と言える c 優勢な寒冷高気圧の
寒気の流入と.当時たまたま世界の気候が寒冷
L
o
s
h
l が 1H 3凶 の 非 常 に 優 れ た 気 象 観 測 を
期にあった事*とにその原因が求められよう
1
8
0
3
1
8
3
31干の実に 3
0年間継続して行ってお
ペイン以北のヨーロソパでは,この高気圧は好
1
),
その記鉱も残されている。
l
*
1
8
1
l
紀末葉よ 1
)
、
1
9世紀初頭にかけて.
め(
1
日吐界的な規慎で¥異常な l
f
¥i昆か見ら
6• トラファルガー海戦当日の「復元」天気図
ス
イシケラント(土 1
-
H J
'、
+
J
J
t
l
で い わ れ た こ と は 気 候 学 的 に よ く 生J
Iられており司鈴木,
+
: 1978
の解説や.中同の, A
:u
[W 1
9
7
2
ま
1
1
1
論:とにくわ
二T
)
I"
1
3
1
0
t
hOctober 1805
H
kms
第 4図
8001
復元された 1
8
0
5年 1
0月 1
0日の天気図。
陸上の星印とローマ字は気象観測所を示す。 海上の
記号は軍艦上の気象観測で風向,風力を示す。
(
W
h
e
e
l
e
r,1
9
8
5による)
ブ¥.をもたらしたが, スペ イン南部では天気の劇
的な変化をもたらす要│刈となった。それは、
1
0
)
]1
1~ 1
8H カティ ス;中て‘づ、勺 と続 L、ていた風
司
1
4
力 4~ 5の北西風は,ここから南西 方 向に高気
圧(恐ら くアソレス 高気圧 )があ った事 を示し
ているが,それ が 急 に変わり始めた か ら である。
1
0月1
8日,この風力は 1- 2に急減, 1
9日には
0月2
0日になると風力が
風向が南南西になり, 1
5と再び優勢になると共に風力が南西に変わっ
て来ている
O
これは急速な天候悪化の前兆であ
った 。
2
1
s
t October1805
o
第 5図
'
.:・ !~~I : /
kms
8001
1
)'.'~!...
卜ラファルガー海戦当日, 1
8
0
5年 1
0月2
1日の復元天
気図。 卜ラファルガー沖では風向がWSWになってい
る。この日の早朝,寒冷前線が通過しているのがわ
W
h
e
e
l
e
r,1
9
8
5による)
かる 。 C
-1
5-
1
8
0
5年 1
0月2
1日
,
トラフアルガー海戦当日の
天気図
4
24
2
'N,25
4
'E
),ジブラルタル (
G
i
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r
a
l
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,
0
0
3
60
9
'N,52
1
'W) まで一様に見られる。」
0
0
上i
主のような途中経過ののち,いよいよ運命
の日, 1
0月2
1日をむかえる事になった訳である c
とが現在ではわかっている訳であるが
天気図を見るとわかる様に,この日のものは 1
0
フアルガー・ストーム」といわれるこの時化は
月1
0日の気圧配置と様相が一変している。まず,
毎年生起するものとは比較にならぬ程の激しき
インクランドの北東には高気圧,イベリア半島
と持続性とを備えていた。英艦ユーリヤルス号
の酉の大西洋上には発達中の大低気圧があって
(
H
. M.S
.E
u
r
y
a
l
u
s
l のブラックウッド艦長
この様に,割合定常的に起こる事象であるこ
Iトラ
東進中である o 1
0月2
0日夜,カディス沖にあっ
H
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i
c
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n
e,
はこの時化,風力を「ハリケーン J (
た両艦隊では疾風 (
f
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e
s
hb
r
e
e
z
e
,風力 5,風速
風力 1
2,風速 6
5ノット以上)とまで極言してい
17-21ノソト)が継続し, スコールと雨が報じ
る
。
,
られている。そのうちの 1隻
コンカラー号で
は電光を観測し, ::>し強風 (
f
r
e
s
hg
a
l
e
) を報じ
上層大気の観測は当時は勿論行われておらず,
ているが,寒冷前線通過に伴うものだったので
従って上層の流れについて述べることは全く推
あろう。
測の域を出ない。しか L,当時ブリテン島上空
にあってよく発達した高気圧が持続したのは,
トラファルガー海戦は,この寒冷前線
偏西風の東西示教 (
z
o
n
a
li
n
d
e
x
) が低かった,
通過後,大低気圧の本体来襲前の,つかのまの
いわゆる l
owz
o
n
a
li
n
d
e
x状態であったと言う
好天,静穏な時間に行われたということになる。
ことが出来るかも知れない。これは大気の環流
前述の海戦日早朝のよく晴れて静かな海面の描
中に切離状態 kuto
f
fc
o
n
d
i
t
i
o
n
l を伴いやす
写はこれを示しているものである。同日朝には,
い。大時化をもたらしたトラフアルガー・シス
結局,
寒冷前線はカテーィスやジブラルタルの逼か東に
q
u
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a
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i
o
n
a
r
y
)に持続した
テムが準定常的 (
去り,地中海に入っていたものと判断きれる。
のは,その東進がイベリア半島の陸地,山塊に
よって阻止きれたためとも孟いうるであろう司
7
. トラファルガー海戦直後の大時化
8• トラファルガー海戦余話
スペインはるか西沖の東大西洋にあった大低
気圧は海戦後ますます両艦隊の方に近づいて来
ネルソンの旗艦ビクトリー号について
た。夜の維がおりると共に風は強まり, 1
0月2
2
日には疾風 (
f
r
e
s
hb
r
e
e
z
e,風力 5,風速 17-21
トラファルガー海戦で,ネルソン提督の座乗
ノソト)から強疾風 (
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gb
r
e
e
z
e,風力 6,
した旗艦ビクト 1
)一号(H.M.S
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y
) が現
風速 22-27ノット)となり, 1
0月23日には風は
在もボーツマス軍港に保存・展示されて居 1
),
遂に強風級 (
g
a
l
e
) にまで達した。このような
「現役艦」の一種であるのはよく知られている
しかし,ビクトリー号はこの 1
天気の急変は地中海西部およびイベリア半島南
ところである
部でよく見られるものである。この現象はふつ
隻だけではない。わが国でも気象庁の観測船凌
う「夏」の終リを告げ、るもので, 1
9
6
2年出版の
風丸や,海洋気象台(現神戸海洋気象台)の観
英気象局マニュアルには次の記事が見られる。
測船春風丸に,初代から受けついた司名がつけら
O
れているように,ビクトリー号も英海軍に数隻
「……気圧配置に関連して最も特徴的なのは,
ある。
突然の「秋」の到来であって,おおむね 1
0月2
0日
に生起する(偶然にもトラフアルガー海戦の日
とほぼ一致)。これはベルピグナン (
P
e
r
p
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n
a
n,
ネルソン座乗のビクトリー号は,英海軍では
第 5代目の戦闘艦で¥この名としては最後のも
'EA
nhり
のであうた ? 初代のビクトリ ー 号 はー 1
5
6
0年 英
海戦に於て 東郷 連 合 艦隊 司令長官が発した「 皇
1
5
8
8年 ス ペ イ ン の 無 敵
国の興廃この一戦に在リ 」 は,ネルソンの信 号
艦隊 (
Armadal との決戦では ホー キ ン ズ提 督
に比肩する 名文 で あ る が、 これは 国際信号旗の
海軍カ t購入したもので,
が陪乗し 武功があっ た、
Z旗- 慌 で伝 えられ たc つま 1
),こ の文章が他
のものと共に予め各艦に伝えられていたので,
第 5f
にのビクトリ ー り¥即ちネルソン座乗の
各艦の方では暗号表を捲 って情報を承知 した訳
ものは 英チ ャサムの 造船 所 で 1
7
5
9年 起 工、 七年
である
C
1
7
6
5年 進
2
0年ちかくもかか っ
あろう
2
戦伐の終{なとで~ r期は大幅に遅tL ,
I
J
¥
., 1
7
7
8年峻
Lしている
たれであ るが. それだ け入念 な工事 が 行 われ たc
他1
0
0門 を搭載する第 l級戦列艦で¥2,1
6
2トン
あ ヮた
t
ときは 1
8
6
吹 (
5
7メートル )~
これは 暗 号 と言 うよ リはー 慢の関与 り
で
トラワァ ルガー海戦の 頃は,
日露 戦争時 代ほ
ど船舶用の暗号,聞各号が進歩していなか ったコ
しかし,今 日の国際信号旗 の !
京型となる信号旗
はすでに英海軍に採用 されていた し
‘ 簡単な暗
戦
a, i
4
l
iJ
'
手史をみると . よく
この 「戦列艦 J,
「
何級脂」 というのが出てくる 。 両者とも戦闘
艦の椅りI
,
j 大きさ芋 に よる分類である ご 「
戦列」
(
Ji
ne
) とは介 戦 時
、
・・
・・
・」
号 もすでに 出来ていた 。 それでー ケ
英国は ・
の原文は,次のょっに区切 って信号旗による 1
H
号 に, 今 日の言葉を使えば 「
変 換」 された *
または 航 海時にお ける 戦
闘艦の編隊を L叶 う 特 に帆船時 代 には,軍艦の
大砲は殆ど舷側と直角万向にしか射撃できなか
ENGLANOI
EXPECTSI
THATI
EVERYI
MANI
WILLI
00I
H
ISI
0I
uITIY
J
iは先 航艦 の ウ ェ そ の な かを 進
ゥたか ら
, 戦y
むかたちをば ったc この戦列に 加 わる主要戦闘
I艦というわけである と
艦カ,1政事J
このようにして変換された信号旗は 一 挙に ,
つ ま り 何 べ ん も 上 下 す る こ と な し ビ ク ト リー
一号 の 全マスト 高く 掲 拐 されたの である 、その
二大にイキリス海軍艦船の級日I
jは大約次のとお
リで, このうち ,
1
'-ORE
2 3級艦は戦列艦と 見 な
噌
された
;)~'IJIJ
大 f
j
包数
兵員
トン数
1
001
"
)以!
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.9
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8
0. 7
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.6
4
850-950 2,
0
0
0-2,
600
0
0
0
2,
7
5
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:)純情;
720-4
9
0 1
.300-2,
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)
(
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5
700-900
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2 320-21
200-1
6
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6純情;
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仏 2
4 2
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550-650
11:1~粧
2机舵;
司
杉浦
1
9
7
8
1 に よる
i
皿Ij}~
第 6図
「英国は・・ ・
・・・」の信号はいかにして伝達され
たか
1
3
ヨ亦
.
¥
'
/ c
:
コ
臼
「英国は・・・・・・」をあらわす信号旗が
ビクトリー号のマストにひるがえ っ
た時の姿。
杉浦他 (1979) による 。
数
, 3
2杭, 嗣翻とひるがえる これら信号機を は
'名な 一英国は
「
・
・
…
イj
の信号がトラファル方、
て英海軍将兵 の士気はいやか、うえにも昂ま った
ー海戦の f
t
弥 氏 旗 艦 ピ クト リー号 の橋頭高 く掲
ものと想像さ れる 。 この旗椛信号の方法は有 名
げられたのは,よく 知 られてい る。 しかし ,実
な英海軍元 師ノ、ゥ伯 (
EarlR
ichardHowe,1
7
2
6
際にあの文章がどのような信号旗で各艦に伝え
~99 ) が,
られたかは案外知られていな~ .
.
8
ー海戦から
トラワアルガ
1
00年後 の 1
9
05
年 5月2
7日, 日本海
研 究開発したものと言われる 。
イギ
*DUTYだけが一ー宇づ つの 換 j:信サにな 〆
ノている のは.、
I
}時
この語ヵ、暗 号書になか った事 による
EA
ウ
t
・
唱
リスはもともと情報を重視する国であるが,英
トラファルカ、、ーの海戦が半日,あるいは一日遅
海軍に於ても船舶で使用される旗筑信号,発火
れて両艦隊が大時化の中で戦うようになったら,
信号,暗号の研究は 1
8世紀の中葉から急速に進
或いは戦わなかったら世界の命運は果たしてど
んだ。
7
9
9年には,
トラファルガー海戦の前の 1
うなっていたであろうか。気象毎象という大
すでに英海軍省 (
A
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)か ら 海 軍 戦 闘
自然は我々に尽きることのない司
鑑艇用信号書 J (
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lBookf
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f
実な問題を投げかけ続けている
War)が制定刊行されており,同書には,数字
0
0例も定められているのは注目すべき
信 号 が3
また極的て切
G
謝 辞
ところである。これら信号,暗号の開発には,
ハウ伯のほか,英海軍提督のポッハム卿 (
S
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HomeR
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sPopham,1
7
6
2-1820)や,ノウル
本報を草するに当たり専門の諸事項について
御教示を賜わった神戸商船大学杉浦昭典教授,
ス卿 (
S
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sKnowles,
c
.1
7
0
4-77).ケン
同粛藤賓教授に御礼申し上げる次第である c ま
ベンフェルト提督 (
AdmiralR
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dKempen.
た,丈献,資料の両て、御協力い f
二だいた気象庁海
f
e
l
t,1718-82) 等の力があった。特にポッハム
上気象課梯武治技官,同庁図書資料管理室佐々
卿 の 「 海 事 信 号 書J (
T
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f
木幸子技官,神戸海洋気象台図書係滝本弘子技
MarineVo
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) は,今日の船舶信号の
官,神戸商船大学附属図書館中川健二事務官,
基礎となっているものである
松下i
青事務官の各氏に謝意を表する次第である。
O
なお,本報は平成 2年 1
0月1
8日,神戸で開催
9. 結 論
された日本航海学会第 3
9回海洋五学研究部会の
復元天気図解析によりトラファルガー海戦の
特別講演て叫発表したものである c
英艦隊の勝利は嵐の前の一瞬の静けさをうまく
利用したネルソンの積極果敢な中央突破作戦の
文 献
成功ということがわかった。いうまでもなくネ
ルソンが科学的にこの天候を予知しその利用
をはかったという訳ではな L、。「意表外 J.
奇
襲」を信条とするネルソン一流の戦術,よくい
われる「ネルソンタッチ (
N
e
l
s
o
nt
o
u
c
h
)J が
,
この様に見事な成果を収めたのであろう。これ
は彼の「ツキ」だけで無く,再三述べたように
気象の変化に敏速に対応する能力,すなわち気
象をよく見る眼が彼に生来そなわっていたと言
う事が出来るであろう。
トラファルカ、、ーの海戦は,最終的にナポレオ
ンの英本土上陸を断念させるとし汁世界史上の
一大転回点となった。皮肉にも殆ど同じような
s
i
t
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o
nが. 1
3
0年あまり後の 1
9
4
0
年度,こんど
は英仏海峡を舞台に生起した。英独聞の有名な
)テンの戦い (
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)Jで
「ブ 1
-外 I
I
J三郎(19
8
1
)
西欧海戦史.什ラミえからトラ 7 ァル
ガまで, I
阜書房
・杉浦昭典 (
1
9
7
8
) 帆船史話.舵杜
1
9
7
9
) 船舶信号, f.j.無線電話,海文堂
-杉浦日古典,他 (
・杉浦昭典(19
9
0
) ト
ラ 7 ア ル ガ 海戦の英艦隊旗艦ヴィ
クトリ ,艦隊旗艦 8話¥2),世界の艦船司 6月号町 9
0
-93
・鈴木秀夫・山本武夫 (
1
9
7
8
) 気候と文明・気候の歴史,
気候主人間シリーズ 4,朝倉書問
・竺可柿 (
1
9
7
2
) 中国五千年来気候変遷的初歩研究,中国
社会科学院,考占学報, 1
9
7
2年 第 1坑 15-38
•C
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.Angelucci (
19
7
5
) :LeNavi,Arnold
MondadorriE
(日本版吟!京元美 (
1
9
8
5
) 船の歴史事典, )原書房)
• Kemp,P
.(
19
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) :TheOxfordcompaniont
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. (石島晴夫訳編, ト
書房司昭和 5
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• Wheeler,D
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町
ある。これは主に航空機による死闘であったが,
戦いに敗れたヒトラーは,ナポレオンと同じよ
うに英本土上陸作戦を諦めてしまった。もし,
1
8
Fly UP