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降誕節第 4 主日礼拝説教
「その名はインマヌエル」 要旨
日本キリスト教団藤沢教会
イザヤ書
マタイによる福音書
2016 年 12 月 18 日
7 章 10~14 節
1 章 18~23 節
クリスマスまであと一週間との声を聞
き、いよいよと思うか、まだまだと思う
か、人それぞれであるように思います。
けれども、そこに、クリスマスを迎える
に当たっての私たちの正直な姿があり、
そして、その姿については、神様だけが
ご存じであるということです。そこで、
私たちは思うのです。いずれが信仰的に
ふさわしい態度なのかと。そして、この、
いずれが、というところで生じる拘りが
対立と矛盾を生じさせ、また、そのため
に、人は、神様の御前にある「正しさ」
を求めてやまないことにもなるのです。
そして、クリスマスとは、そうした中で
迎えるものでもあるということです。
した。ただ、夫婦となったこの二人の結
婚生活については、外目には、祝福され
たものであり、また、何よりも、神様の
御心を知った二人にとっては、自らが祝
福されていることはよく知っていること
でもありました。だから、一連の経緯に
ついて、一切口外する必要はなかったの
ですが、しかし、外も内もすべて祝福さ
れているとしか思えない彼らの結婚生活
も、神様がお決めになった、ユダヤの
人々のその共通感覚に従うならば、大き
く逸脱するものでもありました。従って、
この二人の結婚には、初めから対立と矛
盾が拭いきれない形で潜んでいたのであ
り、その行き着く先が、幼子イエスの十
字架でもあったということです。それゆ
え、聖書が福音とまで呼んでいる、この
神様の御心の現れを、人がいくら「正し
い」と連呼してみたところで、そこで露
わにされることは、人が語る正しさゆえ
の矛盾と対立でしかありません。ただ、
それを通らずして、私たちは、クリスマ
スを迎えることもできません。イエス様
の父母がそうであったように、この矛盾
と対立を排除することで迎えるのがクリ
スマスではないからです。
「夫ヨセフは正しい人であったので」
(マタイ 1:19)とあるように、ヨセフは信仰
的に正しい人でした。それゆえ、その正
しさは、婚約者の不誠実さ?に直面した
際にも、正しく現されることとなりまし
た。怒りに任せるのではなく、現実をし
っかりと受け止め、マリアへの憐憫を失
わなかったところに、ヨセフの正しさは
現されることにもなりました。ただし、
それは、物事を穏便にすまそうとする事
なかれ主義が、ヨセフをしてそうさせた
わけではありません。ユダヤの作法に従
って婚約関係を解消しつつも、石打の刑
のようなそれ以上のことを望むことがな
かったからです。従って、聖書の語る正
しさとは、正しさを主張し、正しさゆえ
の権利行使を求めることではありません。
罪人に対しても、その内側より滲み出る
そのままの姿、マリアへの憐憫の情は、
そんなヨセフの正しい姿そのままを表す
ものなのです。ですから、天使のヨセフ
に対する呼びかけは、ヨセフの間違いを
正そうとしてのことではありません。ヨ
セフの正しさを正しさとして受け止めて
いればこそのものであり、だから、その
ヨセフの正しさを用いて、神様は、その
御心を現そうとされたわけです。
ですから、私たちは、クリスマスの出
来事のその奥にあるものを見つめる必要
があるのですが、ただし、それは、悲惨
な現実をただ悲惨だと訴えるためだけに
なすものではありません。「アヴェ・マ
リア」の旋律とその歌詞が人々の心を鷲
掴みするように、クリスマスの出来事は、
やはり美しく、私たちの心の深くに訴え
る力を持つものであり、クリスマスのそ
のような美しさは、矛盾と対立を避ける
ことによって得られる、そんな安っぽい
感動を与えるだけの、見栄えだけの美し
い出来事などではないからです。目に見
えないものを見つめ、答えの見えないと
ころに立って、神様の御心に触れること
が許されるからこそ、クリスマスは、美
しく、温かいものとして私たちの心に届
くのです。
しかしながら、このことは、裏を返せ
ば、神様がヨセフの正しさと乙女マリア
の純潔を利用したということでもありま
1
先週の土曜日、教会付属みくに幼稚園
のクリスマスが行われたのですが、子供
たちの前に、今年は、サンタさんが登場
することはありませんでした。園長初め、
現場の先生方がよく相談し、人の気を引
くイベントとしてのクリスマスではなく、
目に見えるもののその奥にある、きれい
事だけで終わらないクリスマスを子供た
ちに体験して欲しいと願い、サンタの登
場は見送られることになったのです。そ
して、それは、主に現場の先生方の判断
ではありましたが、ヨセフとマリアが、
クリスマスの出来事をきれい事として片
づけるのではなく、御心を御心として御
心のままに受け止め、イエス様を養い育
てたように、教会と幼稚園が軌を一にし
て、イエス様から托された子供たちとこ
れまで関わり続けてきたからこその決断
であったように思います。つまり、クリ
スマスを迎える上で、私たちが何を大事
にしているのか、何をこれまで大事にし、
そして、これからも何を大事にしていこ
うとしているのか、それは、サンタが必
要か必要でないかというところからは見
えてこないものです。なぜなら、もし、
今まではこうだったのに、と言われてし
まうと、気持ちがぐずぐずになりそうに
なる気持ちを一方で抱ている私たちは、
矛盾し、対立する気持ちを自分自身の力
だけで抑えつけることはできないからで
す。けれども、そういうところを通って、
でも、これで行こう、こうしよう、と現
場の先生方が、そう決断できたところに、
クリスマスを迎えるにあたり、私たちが
何を大事にしているのかが現されること
になったのだと思うのです。
神様の御心を信じていないからではなく、
信じているからこそ、その破れを忸怩た
る思いをもってじっと耐え、歩む者だか
らです。だからこそ、ダメだダメだと、
ダメな人間を切り捨てるのではなく、そ
のままの人間性を用い、実際に御心の一
端に触れさせることで現そうとしたのが、
その本当のところの神様の御心であった
ということです。
ですから、クリスマスを迎えるに当た
って私たちは、矛盾する気持ちや現実を
殊更に取り除こうとする必要はありませ
ん。ヨセフマリア夫婦のように、御心を
御心として御心のままに受け入れ、歩め
ばいいのですが、ただ、そうした中で過
ごすクリスマスまでの最後の一週間は、
確かさや手応えを持ち得ぬがゆえに、ダ
メだと思うところばかりにやはり目が向
いてしまうことにもなるのでしょう。そ
して、クリスマスの朝を迎え、手の中に
何もないことを思いつつ、神様の御前へ
と集められることになるのです。けれど
も、だからこそ、クリスマスは喜びなの
です。すでに私たちに与えられている御
子イエス・キリストの救いに与るがゆえ
に、何もないままで神様の御前に集めら
れ、インマヌエル、神我らと共にいまし
たもう、この命、この現実を心から噛み
しめることができるのです。
いよいよなのか、それとも、まだまだ
なのか、拘りを捨てきれないのが私たち
なのだと思います。けれども、このこの
ときの気持ちがどちらに触れていようが、
それは、大したことではありません。ク
リスマスを迎える上で大事なことは、ど
う思い、どう考え、どう言葉を尽くし、
説明できるかではなく、共にいます神様
が、私たちを神救いたもう喜び祝う祝宴
へと招き、その喜びを分かち合う出来事
を今年も経験させようとしているという
ことです。つまりは、私たちは、それほ
どまでに神様に愛され、大事に思われて
いる一人一人であり、その神様がそのよ
うに愛する私たちと共にいてくださって
いることを経験するのが、クリスマスと
いうものだからです。従って、インマヌ
エル、神我らと共にいましたもう、私た
ちの経験に裏打ちされたこの言葉を繰り
返し心に刻み、残りの一週間を過ごし、
共々に喜びの中に神様の御前へと集めら
れる私たちでありたいと思います。
ヨセフマリア夫婦に神様の御心を運ん
できたのは、天使ではありましたが、そ
れが、私たちに分かる形で明らかにされ
たのは、天使が御心を問題のある人間に
伝えたからです。 イザヤが王アハズに
いつまでもどかしい思いをさせるのかと
言い放っているように(イザヤ 7:13)、 そ
の人がたとえどれほど正しい者であった
としても、その正しさは、正しさゆえに
御心に反する可能性を持っているもので
す。神を試みないというその正しさゆえ
に、自由な神様の御心を見誤るのが私た
ち人間だからです。けれども、神様は、
私たちが清らかであろうがなかろうが、
神様の御前にあって、破れを感じざるを
得ない私たちのそのままを用いて、 そ
の御心を明らかにされたのは、私たちが
祈り
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