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現代に息づく文化の香り - 株式会社 日本経済研究所

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現代に息づく文化の香り - 株式会社 日本経済研究所
シリーズ「地域産業の基礎をつくった人々」第10回
寄 稿
現代に息づく文化の香り
~松平不昧の産業振興と現代への影響~
鈴木 眞人
株式会社日本経済研究所 常務執行役員 総務本部経営企画部長兼法務部長
島根県は、現在、県別の人口(712千人)は全国
石州流不昧派の祖として名高い茶人大名としてであ
46位1、高齢化率(29.1%)が全国第2位2の高さで
る。不昧公は江戸時代最高の茶書ともいわれている
ある。出雲大社などは良く知られた存在であるが、
「古今名物類 聚 」を著し、後世に伝えるべき茶の湯
一般には、国内でも過疎化のもっとも進んだ地域の
の道具類についての詳説をおこなっている。ここで
ひとつとの認識であろう。しかし、江戸時代後期の
不昧公がおこなった名物等の分類は現代でも参考と
出雲地方は、国内有数の人口増加地域であり、ま
されているなど、茶道研究で重要な位置づけにあ
た、明治期にかけて経済的に非常に豊かな地域のひ
る。由緒ある茶道具は歴史的な文化財であり、特定
とつであった。その豊かさの基礎を築いたのが、松
の家などに死蔵されてはいけないとする考え方は、
はるさと
こ こんめいぶつるいじゅう
江藩第7代当主の松平不昧(治郷1751~1818年、以
不昧公の事績を考える上でも参考になるだろう。
下、不昧公)である。そして、その豊かさの片鱗は
このような不昧公の影響を受けて、当時、松江城
現代にも引き継がれ、県都松江市などに今も息づい
下では一般庶民にも茶道が広まり、その名残は現代
ている。
に受け継がれている。しかし、不昧公がおこなった
不昧公を世に知らしめているのは、武家流茶道の
のは茶道の普及だけではない。殖産興業による藩の
財政立て直しがまず、その先にあった。
1.不昧公とその時代
関ヶ原の戦いの頃に12百万人と推定される我が国
の人口は、江戸中期に3千万人に達し、以降明治維
新頃まで、大きな変動は無かったといわれている。
経済面でみると、幕藩体制が石高制といういわば米
本位体制であるのに対して、長く平和な時代が続く
江戸時代は、徐々に商業資本を発達させ、市中では
貨幣経済化が一段と進んでくる。豪商、豪農が登場
する一方で、享保の改革などに見られるように、幕
府をはじめとする武家側の諸藩は、緊縮財政に取り
写真1 松平不昧像
出所:Wikipedia「松平治郷」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1
%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsudaira_Fumai.JPG
1
平成23年10月1日現在総務省人口推計
2
平成23年総務省「人口推計」
日経研月報 2013.9
組む必要に迫られていった。
不昧公が家督を継いだ明和4年(1767年)に一緒
に将軍にお目見えしたのが出羽国米沢藩の藩主上杉
【鈴木眞人氏のプロフィール】
1961年 東京生まれ
2004年 専修大学大学院経済学研究科修士課程修了
1985年 北海道東北開発公庫入庫
1999年 日本政策投資銀行東海支店
2006年 松江事務所長など 経て、2013年6月から現職
著書等 「島根産業戦略の再検討」(島根県立大学地域政策研究グループ編『島根の未来を考える-島根地
域政策の課題と展望』)山陰中央新報社 2007年)、「島根県雲南市/㈱吉田ふるさと村の「おたまはん」」
(関満博・古川一郎編『「B級グルメ」の地域ブランド戦略』新評論 2008年)、関満博・鈴木眞人編『信
用金庫の地域貢献』 新評論 2008年、「復興商店街から考えるまちづくり~石巻市中心市街地の未来を考
える~」(関満博・松永桂子編『自立と生活支援に向かう「復興商店街」』新評論 2013年発刊予定
鷹山(治憲1751~1822年)である。その政治/経済
改革の成果ではなく、その後の長期間の発展にもつ
運営の手腕を世間から高く評価されている上杉鷹山
ながる構造的な改革がおこなわれたことを示唆して
の治世の頃の米沢藩の借財は、20万両と言われてい
いる。
るが、不昧公が藩主となった時、松江藩には、その
倍以上の約50万両の借財があった。米沢藩の表石高
2.松江藩の財政立て直し
が15万石である一方、松江藩は18万6千石であるこ
⑴ 不昧公以前
と、東北と山陰の気候の違い、産物の状況などから
元々、松江に城下町を開いたのは、秀吉に仕えた
単純に比較はできないが、松江藩の財政状況が相当
堀尾吉春で、1607年から現存する松江城の築城と城
厳しい状況にあったと考えて差支えないだろう。
下町の形成に取り掛かっている。その後、京極家を
しかし、松江藩が治めていた出雲国では、不昧公
はさんで、寛永15年(1637年)に、信州松本から松
むねのぶ
の父である六代宗衍公の時代から始まった産業振興
平直政が18万6千石を与えられて入府する。
政 策 等 が 徐 々 に 実 を 結 び、 享 保 6 年(1722年)
松江藩は、当初から財政的に豊かではなかった様
222,330人、寛延3年(1750年)234,869人、天明6
子であり、享保16年(1731年)に僅か3歳で封を継
年(1786年)258,916人、天保5年(1834年)315,270
いだ宗衍公の頃には、藩財政は相当の危機的状況に
人と江戸中期から後期にかけての約100年間で全国
あったと言われている。そのため宗衍公は、17歳か
トップクラスの約40%の人口増加を記録している。
ら御直 捌 という藩主親政による改革をおこなった。
このような100年もの人口増加は、当地に豊かな地
主な施策としては、藩校を整備して教育水準を高め
域が出現したことを物語っており、それが一時的な
るとともに、藩内から企画を集めて殖産興業に努
め、そこからの収益による財政改革を目指した。殖
図表1 出雲国の人口推移
江戸期の人口推移(享保6年=100)
産興業の面では、まず、米以外の商品作物を普及す
るために「木苗方」を発足させている。また、出雲
160
地域で古来から盛んにおこなわれていた“たたら製
150
140
130
お じきさばき
出雲
石見
島根計
全国
鉄”によって生じる鉄資源を管理するだけでなく、
付加価値をつけて売るべく鍋・釜を専売する「鍋
座」つくったりした。これらの政策は後の不昧公の
120
時代に花開くことになるが、当時は凶作続きによる
110
年貢の低迷に加え、幕府からの賦役もあり、藩の財
100
政状況自体は一向に回復せず、宗衍公は国家老朝日
90
丹波に藩政改革を託して、38歳の若さで引退し、そ
80
の後に、不昧公が17歳で封を継いだ。
日経研月報 2013.9
⑵ 不昧公の時代
藩営事業の収益と「運上金」などの民間からの課税
国政をまかされた朝日丹波は、まず、江戸・国元
に基づいている推察されるのである。このような残
を通じた人員整理や機構改革などのリストラ策を実
高が右肩上がりで増加していることから、産業振興
施し、石高制に基づく藩の収支均衡を図っている。
策がかなりうまく進んだと考えられる。
さらに、藩内に於いても藩側だけでなくあらゆる債
けつねん
務の破棄を行う「闕年」を断行した。これにより、
⑶ 改革に対する評価
ひとまずは、藩財政の悪化を止めることに成功して
現代においても、業績不振の会社を更生するに
いるが、その一方で大阪商人から50万両に及ぶ借財
は、経営陣の交代をおこない、債務整理を進めると
を背負って改革を進めることになる。松平家に伝わ
ともに、社内リストラを徹底して財務体質を改善す
る「出入捷覧 」には、「御借財御返弁高、明和四年
る。そして、事業の選別化をおこなって収益の確保
亥所務ヨリ天保子所努迄〆、金四拾九万弐千九拾五
をおこない、事業の継続を確実なものとしていく。
両」との記述があり、明和4年(1767年)から天保
そのため、金融機関と協調し、適切なリーダーシッ
12年(1840年)まで74年かけて約50万両の借財を返
プのもと、有能な実務者を配置して、改革を強力に
済したとことが記されている。
推進していくことになる。
朝日丹波の改革は、緊縮財政をとっただけではな
松江藩の改革の構図も全く同様といえよう。石高
く、宗衍の時代から続く藩内の産業振興にも注力し
制の制限の有る部分においては、人員削減などのリ
た。不昧公は、このような朝日丹波の改革を踏ま
ストラ策などで収支均衡を目指す一方、制限の無い
え、寛政8年(1796年)から自ら親政をおこなうこ
収益部門を大いに奨励している。そして、「出入捷
とになるが、その際、家臣たちに伝えたのは「貨殖
覧」の記録を見る限りにおいては、収益部門が儲
理財につとめる」という方針だったといわれてい
かっても、石高制に制限される部門の収支と混同し
る。領内における産業振興を徹底し、先述の鉄以外
ていない。これは、借財の返済という縛りがあった
3
にも朝鮮人参、蝋燭などを藩の直営事業とする一
方、商品作物として裾野の広い木綿は民間での生産
を奨励した。領民との共生を進めながら藩の財務体
質を強化していったのである。
その結果、石高制の下での収支とは別の特別会計
であり、直営事業の収支残とみられる「御金蔵御有
金」の残高は、不昧公の親政開始ごろから急に増加
してくる。
「出入捷覧」をみるに、この「御金蔵御
有金」は、収支残高の累計ではなく、明らかに別会
計として運用されており、飢饉時や幕府からの賦役
などの臨時の出費に宛てられている。その収入は、
写真2 松江城
3
「出入捷覧」は、出雲松平家に伝わった資料で明和4年(1767)から天保10年(1840)までの74年間にわたる松
江藩の歳入、歳出について記載されている。現在、国文学研究資料館史料館所蔵。
日経研月報 2013.9
寄 稿
図表2「出入捷覧」にみる松江藩の長期収支
300,000
250,000
収入合計
200,000
米金払 (実支出計)
150,000
金蔵有金
奥向費用
100,000
0
1767
1771
1775
1779
1783
1787
1791
1795
1799
1803
1807
1811
1815
1819
1823
1827
1831
1835
1839
50,000
不昧公家督
親政
図表3 「出入捷覧」にみる松江藩の主な支出構成
(74年間の平均)
収支差引残
3.1%
逝去
斎恒公
3.産業振興の成果
改革により活発となった松江藩の主な産業につい
奥向費用
7.1%
てみてみる。
まずは、藩の直営事業についていくつかみてみ
その他国
入用
18.1%
る。
先述した「鍋座」は、不昧公の時代に鍋・釜のみ
江戸入用惣〆
26.2%
ふ そう
ならず、農器具や大型の鋳造品も扱う「釜甑方」と
なる。島根県には、今もたたら製鉄の技術が残され
家中 擬作米金合
41.0%
ていることから分かるとおり、斐伊川などで良質な
道中銀
2.3%
京大坂入用
2.4%
砂鉄が産出することから、当時全国的にみても製鉄
が盛んにおこなわれていた。しかし、江戸初期に
は、冬期の農家の副業として小規模に実施されるに
が故に、当初の改革の精神を損なうことがなかった
すぎず、また、砂鉄の採取後の土砂が下流に堆積し
のではないかと推察される。そういった面から、
洪水をひきおこすことから度々禁止令が出ていた。
「出入捷覧」という記録が作成された意義を考えて
その一方で、鉄の商品性が注目される。朝日丹波の
みるのも興味深い。
改革では、斐伊川下流域の治水がおこなわれ、砂鉄
「出入捷覧」
、に記載されている米収入は、年平均
の採取率の向上など技術開発が進んだ結果設備投資
で14万両程度である。これを基礎的な収益力とすれ
も必要となった。そこで大水田地主でもある鉄師た
ば、実に3.5倍の借財返済を実現したことになる。
ちに製鉄に必要な木炭生産をおこなう藩所有の森林
74年かけているとはいえ、米収入だけではなしえな
への出入りを許すなど、協力関係を築き、安定的な
かった事績であり、宗衍公が着手し、朝日丹波の改
鉄の生産をおこなっていく。そして、「釜甑方」で
革を経て不昧公が確立した、当時の松江藩の経済力
は、鍋・釜にしていわば付加価値をつけて製品の取
は極めて高い水準にあったと言えるであろう。
り扱いをおこなった。後年には、茶道具の生産もお
こなったようである。
日経研月報 2013.9
4.今に息づく不昧流
松江市内の中心商店街は、県都とはいえ他の地方
都市と同様、活性化が急務な状態にある。そのよう
な松江市の中心市街地では、茶舗と和菓子店とが協
働したツアーが組まれている。徒歩圏に何軒もある
和菓子店で好きな生菓子を購入し、茶舗にて、抹茶
とともに食することができるのである。このような
ことが出来る商店街は、全国的にみて珍しいだろ
写真3 木綿街道(出雲市平田)
う。「菅田菴」「明々庵」といった不昧公ゆかりの茶
ハゼ
商品作物としては、蝋燭の材料となる櫨 を取り
室は今も当時の面影をのこしたまま利用されてお
扱った「木実方」がある。当時の記録で、宍道湖の
り、これらは、松江を代表する伝統・文化の一つと
周辺などで、そこかしこに櫨が植えてあるという記
なって今も継続しているが、普通の商店街において
述がみられる。櫨は、その油分を採取して木蝋とな
も、このような文化の香りを楽しむことが出来るの
るが、和蝋燭のほか、医薬品や化粧品の原料として
である。
も用いられ、その商品性が高く、西日本各地で生産
不昧公の茶趣味については、一揆のあった年に
されていた。
1500両もの茶器を買い求め、藩財政を困窮におい
「人参方」は、朝鮮人参の栽培と販売を管理して
やったとの説も一時期なされていたようであるが、
いた。漢方薬の原料として珍重されていた朝鮮人参
先述のとおり、大いに経済的な発展を遂げた時期で
は、今でも松江市内(八束町)で生産されている
あり、財政と不釣り合いな出費が行われた様子は伺
が、当時は長崎から清国に輸出されるなどして、莫
えない。「出入捷覧」を見る限り、不昧公の小遣い
大な富をもたらしたと言われている。
に相当する奥向き費用は藩総支出の7~10%程度で
民間資本による代表例は木綿である。治水が完了
あり、他藩の藩主と比較しても決して多い水準では
した斐伊川下流で、砂鉄を採取した後の砂が堆積し
なかった。
た地盤が実は綿花の栽培に適しており、かなり良質
そして、次々と名器と呼ばれる道具を揃える不昧
の木綿が出来たと言われている。そのため、三井越
公は、全国各地で評判を呼び、その茶器の趣味は不
後屋(後の㈱三越)と独占的な契約を結んでいたと
昧公好みとして今に伝承されている。茶道不昧流は
いう話も残っており、出雲市平田の木綿街道では往
今も武家茶道の一派をなしており、当地で盛んに行
時の繁栄振りを偲ぶことができる。また、木綿づく
われているほか、お茶事にちなむお菓子や名物料理
りは、産業の裾野が広く、綿花栽培にかかる労働力
が次々に生まれ、現代に伝えられている。不昧公は
が集中しただけではなく、綿から糸を紡ぐ綿繰機の
茶器を収集するだけではなく、領内の工芸に関わる
生産、木綿を他地域に運ぶ海運関係も盛んになった
技術者の保護などもおこなっており、「楽山焼」「布
と言われている。
志名焼」などの窯元は、今も茶器などの生産を続け
ている。
松江でよく知られた銘菓「山川」「若草」「菜種の
日経研月報 2013.9
寄 稿
まだ松江などに息づいており、他地域と差別化でき
る重要なアイテムとなっている。とはいうものの、
壊されていく街並みもあり、多様な現代社会から、
何を次の世代に引き継いでいくのかを選択すること
が重要になってくる。地域の未来を考えるというこ
とは、実は地域の先達の成し遂げた過去を振り返る
ことによって見えてくるのである。そして、不昧公
の時代を振り返ると、その文化的な蓄積をおこなう
写真4 堀川遊覧船
には経済的な裏付けが必要なことも見えてくる。
江戸時代の農民が虐げられていたという思い込み
里」はいずれも不昧公好みであり、復刻され、現在
と高額な茶器を買い求めたという有る一面からの事
販売中である。最近は、松江城の周囲に巡らされた
実が結びついて、未だに不昧公の治世が悪政であっ
お濠を船頭さんのガイド付きで廻る、堀川遊覧が人
たという説も残っているようである。しかし、これ
気である。お濠に面した家々の様子は、表からとは
まで見てきたとおり、不昧公の時代に藩財政の立て
違った面影もあり、特に水面から見上げる松江城の
直しがおこなわれ、地域経済が大いに発展したとい
威容は、乗船客を往時にしばしタイムスリップさせ
う事実だけでなく、不昧流に残る精神性、「出入捷
る。現代の松江を彩る観光資源の多くが、江戸期か
覧」にみる規律、様々な商品を具体化した企画力/
ら受け継がれてきたものなのである。
行動力などを含めた総合的な判断を加えると、当時
おわりに
産業には栄枯盛衰がある。それは、現代にあって
の松江藩は、藩士のみならず領民も付き従って国づ
くりが進められていたと考えられ、その中心に居た
不昧公は名君であったと判断されるべきであろう。
も同様であり、かつての花形産業や企業が、時流の
変化に翻弄され今は見る影もなくなっている事例は
参考文献
いくらでも存在する。しかし、会社が変わってもブ
鈴木眞人「歴史・文化・伝統の薫る城下町~松江開
ランドが受け継がれる場合があるように、地域に根
府400年に寄せて~」松江2007年 日経研月報 付いた文化はなかなか消えることはない。
平成19年5月号 p.52~55.
島根県においても、江戸期に盛んであった産業
は、明治以降の近代化の流れの中で次々と衰退して
いった。鉄は明治中期以降、八幡製鉄所などで生産
される洋鉄にとって代わられた。蝋燭はランプや電
気の普及とともに需要は激減する。高価な朝鮮人参
の需要は今でもあるかもしれないが、栄養剤などが
普及して、産業と言える規模ではない。木綿は、輸
入品に代替されていった。
不昧流大円会事務局編「松平不昧と茶の湯」不昧公
生誕二百五十周年記念出版実行委員会2002年
乾隆明「松江藩の財政危機を救え」2008年 松江市
教育委員会
松平家編輯部編纂「松平不昧傳」増補復刊 原書房
1999 (1917)
安澤秀一編「松江藩・出入捷覧-松平不昧傳・別
冊」1999年
しかし、茶道に代表される不昧公の残した文化は
日経研月報 2013.9
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