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震災復興に向かう日立・ひたちなか地区の中小企業

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震災復興に向かう日立・ひたちなか地区の中小企業
特別寄稿
震災復興に向かう日立・ひたちなか地区の中小企業
― ひたち立志塾と全国ネットワークの支援 ―
関 満博
明星大学経済学部 教授
2011年3月11日(金)午後2時46分に発生した
によると、ひたちなか市の人的被害としては死者2
東日本大震災により、東日本の太平洋沿岸地域は未
人、行方不明者0人、負傷者26人、物的被害(途中
曽有の事態となった。その被害の全貌は他に譲るに
経過)は全壊83棟、半壊310棟、一部損壊1,057棟、
して、岩手県から宮城県沿岸にかけては巨大な津波
床上浸水207棟、床下浸水169棟、火災1件が報告さ
による被害、福島県は原発事故による被害、そし
れている。また、避難所に関しては、最大避難者数
て、茨城県から千葉県にかけては地震による被害が
は3月12日の9,539人であり、市内に68カ所の避難
目立っている。
所が設置されたが、4月6日には閉鎖された。地震
私自身、岩手県釜石市で被災し、その後、茨城
県日立市∼ひたちなか市(4月16日∼ 17日)
、さら
後に市内全域で停電したが、3月14日には市内全域
で回復している。
に、岩手県宮古市から陸前高田市(4月27日∼5月
この点、日立市についてはまだ詳細な情報はな
4日)に至る被災地を訪問し、特に地域産業、中小
いが、
『日立市報』(4月10日)によると、3月11日
企業の復興に向けて取り組みを開始している。岩手
には避難所69カ所、避難人数1万3,607人を数えた
県、宮城県の沿岸地域は水産業を基幹産業としてお
が、3月30日には避難所3カ所、避難人数81人に減
り、養殖施設、船舶、湾岸の冷蔵・冷凍施設、製氷
少している。家屋被災状況は全壊35棟、半壊50棟、
施設、加工工場、船舶修理等の鉄工所などがほぼ全
床上浸水483棟と報告されている。なお、日立市で
て破壊され、さらに流出しており、この部門の復旧
は死者、行方不明者はいなかったようである。
が最大のテーマになっている。
東日本全域で、5月7日現在、死者1万4,841人、
この点、茨城県の日立・ひたちなかのエリアは、
行方不明者1万63人、避難11万9,967人を数えてい
津波による被害は相対的に小規模なものであり、む
ることからすると、ひたちなか市、日立市の被災は
しろ、地震による被害が大きかった。現場の印象か
相対的に軽微であったということになろう。
らしても、地震そのものの被害は、明らかに岩手、宮
日立製作所関連の被災と復旧状況
城沿岸よりも、茨城、千葉の方が大きいように思う。
だが、日立市、ひたちなか市を中心に常磐線沿
ここでは、東日本大震災に遭遇した日立・ひた
線には日立製作所関連の工場が数多く展開し、老朽
ちなかのエリアに注目し、地域産業、中小企業に焦
化していた場合も少なくなく、地震による産業面の
点を当て、その被災の状況、その後の復旧、復興へ
被害は意外に大きい。
の取り組みをみていく。特に、日立・ひたちなかは、
日立製作所都市開発システム社の『東日本大震
若手経営者による「ひたち立志塾」を形成し、興味
災に伴うひたちなか地区日立グループの復旧状況
深い活動を重ねてきたが、このひたち立志塾の取り
について』(4月7日)によると、
「全ての事業所で
組みは震災復興への一つのあり方を提示するもの
重篤な人的被害はなかった」、
「地震発生後4週間が
であった。その具体的な取り組みに注目し、今後の
経過し、未だ復旧に時間を要する事業所もあるもの
課題を見ていくことにしたい。
の、多くの事業所で生産を開始するなど、徐々にで
はあるが復旧が進んできている」としている。
1.日立・ひたちなかの被災と復旧の状況
『ひたちなか市災害等緊急情報』(4月21日現在)
震災後1カ月弱の主要事業所の4月7日時点で
の状況は以下のとおりである。
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関 満博(せき みつひろ)
明星大学経済学部教授、一橋大学名誉教授、経済学博士
1948年生まれ。成城大学大学院修了。専修大学助教授、一橋大学大学院教授を経て現職。
著書は『阪神復興と地域産業』(新評論・2001年)、『「農」と「モノづくり」の中山間地域』(新評論・
2010年)
、『地域産業の「現場」を行く(第1 ∼ 4集)』(新評論・2008 ∼ 11年)など。
「ひたち立志塾」の塾頭を務める。
日立製作所水戸事業所 当初、多くの生産建屋
で被害を受け工場休業としたが、3月30日か
ら一部生産を再開。
り全ライン稼働を目指し復旧中。
驚異的な「現場」の復活力
ひたちなか地区の日立製作所関連工場の被災と
ルネサスエレクトロニクス 建屋・用役・装置
復旧状況は以上のようなものであるが、岩手県沿岸
等の被害は大きいが、現状1日でも早い復旧
の工場に比べて、地震による被害はかなり大きなも
に向けて急ピッチで作業を進めている。
のであった。また、日立関連の工場の中で世界が注
日立建機常陸那珂工場 壁・天井・照明等が一
部損害。3月下旬から生産再開。
日立建機常陸那珂臨港工場 一部津波により冠
目しているのは、自動車の生命線であるマイコンの
世界シェア30%とされるルネサスエレクトロニク
スの復旧状況であろう。
水。ただし工場建屋の冠水はなし。3月下旬
『日本経済新聞』
(4月28日)によると、取引先
から生産再開。ただし、常陸那珂港区の被害
の自動車メーカーなどが送り込んだ応援要員は最
が大きく、当面横浜港からの輸出とせざるを
大で1日2,500人、徹夜の復旧作業が続き、一部の
得ない見込み。
生産ラインは当初見通しよりも1カ月早い6月15
日立エレクトリックシステムズ 一部生産建屋
の天井落下や壁の亀裂、機械の転倒があった
が、3月22日から生産再開。
東海テック 生産建屋・変電設備が被害を受け
日に再開が決定している。
今回の地震、津波、原発事故により、ハイテク
製品のサプライチェーンの実態が明らかにされ、問
題が生じているが、日本のモノづくり各社の「現場」
たため、工場休業としたが、3月22日から一
は必死の対応を重ね、当初見通しを上回るスピード
部の部門を除き生産再開。
で復旧に向かっている。このような傾向は、先の阪
日立ハイテクノロジーズ 電力供給設備の損傷
神・淡路大震災、中越地震、中越沖地震の際にも観
により、3月21日まで全部門で休業。4月1
察されているのである。日本のモノづくりの「現場」
日に休業解除。仕掛品の生産と出荷を再開。
の力はまことに強い。
ただし、一部建屋が使用不能となったため、
該当する設計部門・生産部門の事業場内外へ
の移転が必要。4月11日から全部門の休業を
解除予定。
2.ひたち立志塾とネットワーク
2011年4月16日、「ひたち立志塾」第4期生の卒
塾式が日立市郊外のJR常磐線大甕駅に近い海岸の
日立オートモティブシステムズ 管理棟建屋の
高台にある㈱TMPの保有するメイプル・カフェで
壁が崩落する他、殆どの建屋が被害を受け、
行われた(1)。当初は3月12日に予定されていたのだ
工場休業とした。3月23日に休業を解除し、
が、震災の翌日でもあり、延期されていた。
生産を再開。4月6日時点ではほぼ100%の設
備稼働状況である。
この「ひたち立志塾」とは、日立市、ひたちな
か市などの中小企業の若手経営者、後継者の集まり
日立工機 勝田工場、佐和工場の生産建屋の損
であり、様々な経営課題を語り合い、経営者として
傷は少なかったが、生産設備は被害を受けた。
の「志」を高めることを目的にしている。スタート
3月28日より一部の生産を再開。4月11日よ
は2007年5月、今年で第5期となる。事務局には日
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立地区産業支援センターとひたちなか商工会議所
塾」、岡山県津山市の「関塾津山」、宮崎県延岡市・
があたり、毎年10人前後の塾生が参集している。
日向市の「こころざし塾」をはじめとして、面識の
実は、このような若手経営者・後継者塾は2000
ない全国の中小企業からも届けられた。全部で26の
年頃から各地で起こり始め、現在、全国で25ほどの
企業・団体から届けられた。早くも3月16日には第
グループが活動している。組織や活動の形態は地域
1陣が届けられている。精密水準器に加え、水平
事情に沿ったものであり、いずれにおいても、単な
器、ジャッキ、コロ、さらに、カップ麺、レトルト
る知識の伝達ではなく、地域に対する「思い」を深
食品が緩衝材として詰め込まれていた。
め、経営者としての「志」を高めることを目指して
いる 。
(2)
「精密水準器を貸してくれませんか」
このひたち立志塾、全国の塾の中でも活動的で
あり、毎月の例会に加え、全国の塾への訪問交流、
これらの機材により、日立・ひたちなか地区の
中小企業は一気に事業再開に踏み出すことができ
た。個々の事情は、後のケース・スタディを参照さ
れたい。
ひたち立志塾(第4期生)成果発表
さらに、毎年海外研修も行っている。また、この全
さて、4月16日の卒塾式は興味深いものとなっ
国の塾は毎年秋に全国大会を開催しているが、2009
た。卒塾生は11人、ひたち立志塾関係者(OB等)が
年には日立を会場に全国から約500人が集まり、活
25人、全国から集まった塾関係者が墨田区6人、八
発な交流を重ねている。
王子市が4人、山形県長井市が1人、さらに、マス
そして、このひたち立志塾の塾生がツイッター
で「茨城県製造業の復旧に精密水準器が多数必要で
す。貸してくれませんか」と全国に呼びかけてい
コミ関係者が数人と全体で約50人の規模となった。
卒塾式は塾生の成果発表から開始され、興味深
い発言が続いた。
る。この呼びかけは、ひたちなか商工会議所工業振
イイダ電子㈱(ひたちなか市)の飯田明由氏は、
興課長であり、ひたち立志塾の事務局を務める小泉
「震災を経て経営者としての覚悟ができた。リスト
力夫氏を通じて全国に拡がり、数日で約30台の精密
ラのない会社。従業員の生活の安定を保障し、育て
水準器等が集まった。
る経営を目指す」。
地震によって機械設備が転倒などした場合、起
㈱川井鉄工所(日立市)の川井一司氏は、
「皆と
こして、さらに水平をとらなければモノは作れな
ガンバリたいから、自分もガンバル。震災後、も
い。これまでの阪神・淡路大震災や柏崎の中越沖地
らった側から、今後はあげる側にまわりたい」。
震の際に観察されたことだが、大企業が機械調整技
創業5年の㈱キャリアプラス(ひたちなか市)の
術者を全国から抱え込んでしまい、中小企業は途方
駒橋達也氏は、
「ポジティブ、行動力、志、向上心、
に暮れた場合が少なくない。神戸の場合、機械調整
責任感、覚悟、いいわけをしない、継続していく」
。
技術者が中小企業にやってきたのは1カ月後とい
黒澤工業㈱(水戸市)の黒澤克之氏は、
「良い会
うケースも報告されている。中小企業が1カ月も仕
社の社員には、経営者の思いが伝わっている。もう
事ができないならば倒産の危機に直面する。日立・
一度仕事を頼みたいと言ってもらえる会社に」
。
ひたちなかの場合、後のケース・スタディで採り上
㈱赤津工業所(日立市)の赤津浩史氏は、
「人の
げる㈱エムテックの松木徹氏が機械調整技術者で
つながりのありがたさ。一人では生きていけない。
もあり、精密水準器を全国から集めるという発想に
我々は生かされている」。
至ったことも興味深い。
㈲光和精機製作所(日立市)の佐藤貴之氏は、
「今
この呼びかけに呼応し、東京墨田区の「フロン
までは上から目線で、自分の思い通りの社員にした
ティアすみだ塾」
、八王子市の「はちおうじ未来
かった。震災後は変わった。社員と社長のこころを
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同調させ、地域に貢献する町工場になる」。
㈱ユニキャスト(日立市)の三ツ堀裕太氏は、
「人
と向き合う。高い志を掲げたい」。
心として、小物の精密金属部品加工に従事している。
受注先から図面をもらい、材料を手当し加工する。
大半は社内でこなすが、一部に加工外注数社
(市内)
、
卒塾生は当初、3月12日に発表するために資料
メッキ2社(隣、東京の京浜島)
、熱処理(築西市)
、
を作成していたのだが、震災を経験し、改めて発表
研磨(市内)に依存している。受注先は日立関係(自
資料を作り直している場合が多かった。1年間の塾
動車部品)30%、三菱重工(兵庫県姫路)30%が中
とその後の震災を踏まえ、もう一回りスケールが大
心であり、近隣のその他の仕事も受けている。
きくなったのではないかと思う。発表を聞いていた
近年、自動旋盤の仕事の多くは海外に移管され、
人びとは、改めてこのようなネットワークの意味を
当社は東日本に残った数少ない自動旋盤の供給力の
振り返っていたのであった。
ある中小企業として存在している。現在の社長は2
代目の松本寿一氏(1947年生まれ)だが、数年前か
3.被災企業の状況と課題
ら実質的には3代目の松木徹専務(1976年生まれ)
以上のように、日立・ひたちなかのエリアは、
が経営にあたっている。従業員
3月11日の東日本大震災により被災した。津波によ
は正社員13人、パート13人の全
る被害は岩手県(3)、宮城県沿岸ほどではなかった
26人体制であった。男女の比率
が、むしろ、地震による建物、機械設備の被害が目
は6:4ほどであった。なお、
立っていた。
松木氏はひたち立志塾発足以
また、日立∼東海∼ひたちなかのゾーンを歩く
と、微妙に地震による被害が異なっているように見
来の第1∼4期生でもある。
松木徹氏
被災の状況とその後
えた。一方では建物がダメージを受け、取り壊しが
震災による被害は、建物には見られず、重量物
必要になっている場合から、機械や棚が倒壊した
の機械が最大50cmほど動き、机の上にあった投影
ケース、あるいは、事務所の書類等が散乱したと
機が転倒、製品を並べていた棚が転倒、建物の中の
いったケースなど、多様なものであった。
ガラス窓が一部破砕した。元々、建物の基礎がしっ
ここでは、震災後ほぼ1カ月を経過した4月17
かりしており、機械が滑ったという受け止め方をし
日に現地を訪れた日立から東海、ひたちなかのゾー
ていた。むしろ、アンカーでしっかり止めていた機
ンの4つの中小企業(ひたち立志塾生、OB)に注
械の取り扱いがやっかいであった。
目し、被災の状況、その後の取り組み、今後の課題
等を見ていくことにしたい。
被災当日、松木氏は東京大田区の展示会に出席
しており、クルマでひたちなかに向かう。渋滞する
一般道を10時間ほどかけて12日の早朝5時30分に
(1)機械が移動、棚が転倒、自力で再開(㈱エムテック)
自宅に着き、玄関にも入らず、自分のクルマに乗り
エムテックは仙台出身の創業者が東京から日立
換え6時には工場にたどり着いた。被災当日は普段
に疎開してきて、1949年にベンチレース1台で創業
は来ていない社長がたまたま出社しており、ブレー
している。納期、技術に優れ日立製作所多賀事業所
カーを落とすなどの指示をしてくれていた。松木氏
の直取引となった。その後、多賀事業所の仕事がひ
は「状況は前の晩に聞いていたが、散乱する現場を
たちなか市の日立製作所那珂事業所に移管される
見て、笑うしかなかった」と述懐していた。松木氏
ことになり、1964年に現在地のひたちなか市津田東
は「復旧は1週間」と受け止めたようであった。従
に着地している。
業員には怪我はなかった。また、従業員の家族等に
仕事はNC自動旋盤約30台(シチズン製27台)を中
も大きな被害はなかった。
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14日から復旧
している。エムテックの場合は、被災後ほぼ1週間
に入り、まず、
で復旧したということになろう。当面、仕事は忙し
2階の散乱した
く、松木氏は「人を入れたい。被災者を入れたい」
製品の片づけ、
と語っているのであった。
油の処理を行
い、15日には機
エムテックの基幹設備であるNC自動旋盤
(2)旧工場は危険、新工場は無事(水戸精工㈱)
械の補正、水平
水戸精工はひたちなか市郊外の山崎工業団地の中
をとった。全国から集められた水準器を借り、自分
に立地していた。このあたりは地盤にやや問題のあ
たちで回復させた。松木氏は家業に戻る前に3年ほ
る丘陵であり、
どシチズンの工場(軽井沢)で工作機械の組立、調
途中の道路は陥
整の仕事をしており、お手の物であった。16日には
没し通行止めに
一部稼働、17日には完全復旧、18日には通常に戻っ
なっていた。迂
た。この間、電気は13日の午前中に回復していた。
回してたどり着
松木氏は「水準器を借りられて助かった。自分で持
いた1991年に建
つべきかな」と振り返っていた。電話の回復は18日
設された水戸精
の午後であった。
工の工場建屋
関西のライバル企業の仕事も受ける
は、外観からは
被災後の周辺の動きとしては、まず、機械メー
特に被害がある
カーのシチズンが応援4人を22日に送り込んでき
ようには見えな
たが、すでに調整は終わっていた。投影機はメー
かった。
ひたちなか郊外の道路は寸断されていた
カーのミツトヨが17日にやってきて調整していっ
水戸精工は
た。今回の被災と復旧を振り返ると、建物の躯体に
1985年、舘文郎
影響はなく、被害は機械のズレ、測定器の転倒、製
氏(1943年生まれ)が樹脂のベローズポンプ等の切
品の散乱であった。電気の復旧も早く、また特に、
削加工を目的にひたちなかで創業している。舘氏は
松木氏が機械調整の技術を有していたこと、さら
それ以前は東京飯田橋の半導体のバルブ・装置メー
に、全国から送られてきた水準器を利用できたこと
カーのハルナに勤め、ひたちなか営業所長に任じて
が早期の復旧につながっている。外注に関しては、
いたのだが、そこから独立している。主力の取引先
メッキは17日から東京の京浜島の業者(㈱新日東電
は日立などであり、半導体関係の他に医療の分析機
化)がクルマで受け取りに来ている。
器の領域などを手掛けてきた。近年、舘社長が出社
水戸精工の工場建屋
また、意外なことだが、姫路の三菱重工の仕事
してくることは少なく、現在は子息で専務の舘裕一
が現在、被災前の倍近く来ている。三菱重工は部品
氏(1975年生まれ)が実質的に経営している。裕一
の2社発注をしている。震災後は毎日、三菱重工か
氏はひたち立志塾の第4期生でもある。
ら復旧状況の確認の電話が寄せられていた。当社の
水戸精工の最大の特質は、フッソ樹脂の精密機
ライバルは関西にいるのだが、材料の調達ができ
械加工であり、競争者はあまり多くない。フッソ樹
ず、むしろ復旧が早く、材料調達のルートを押さえ
脂は耐熱性、耐化学薬品性などに優れ、半導体、医
ていた当社にその分は移管されている。
療機器関係で幅広く採用されている。仕事の流れは
これらの結果、3月18日から納品が開始され、
ユーザーと調整し、加工上の特性を提案し受注して
また、地元の日立の工場も3月22日から受入を開始
いくところから始まる。社内には主要設備としてマ
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シニングセンター(MC)13台、NC旋盤22台が装
ら借りた水準器等で行うことができた。機械は3日
備されている。加工ロットは1個から1万個位ま
で復旧できた。この間、断水は10日ほど続き、近く
で。主力の取引先は、地元の日立をはじめ、東京エ
の川から生活用水を汲んで対応した。電気は3月15
レクトロン関係など多岐にわたる。従業員は58人、
日に通じた。この水戸精工の場合は、古くからの第
月商1億円ほどの事業になっていた。
1工場から新設の第2工場に主力設備をすでに移
なお、後継者の舘専務は高
設していたことから、震災後の復旧は早かった。
校卒業後は専門学校に通って
素早い復旧とユーザーに「安心」を
いたが、夏期休暇などの際に家
このように震災などで被災し、すぐに復旧でき
業の手伝いをしながら、CAD
ない場合、ユーザーが離れてしまうことが指摘され
や機械にのめり込んでいった。
ている(転注という)。だが、今回は少し事情が違っ
事実上、20歳の頃からこの仕事
舘裕一氏
ているようである。
に就いていた。8年ほど前から営業の担当になり、
東京エレクトロン系のフロウエルは、3月14日
どうしてよいかわからず、HPを作って仕事をとって
には2人がポリタン等の資材を持ち込んでお見舞
いくことを模索する。意外にフッソ樹脂加工のでき
いに来ていた。フロウエル側は「こういう時だから
るところは少なく、小ロットながらも大学の研究
仕方がない。顧客と調整する。短納期ものの確認」
室、ベンチャー企業などからの受注が増えていった。
ということであった。また、いつも厳しい名古屋の
建屋は危険、機械は3日で復旧
ユーザーからは、当方の「1週間で目処をつける」
震災による人的な被害は皆無であったが、まだ
という言葉に対して、
「いいだろう」という回答を
勤めて数カ月の中国人従業員(残留孤児関係、国籍
得ていた。ただし、主力の一つである日立は自身の
は日本)が、震災後に故郷の黒龍江省に帰ったまま
被害が大きく、1カ月が経過しても、受け入れ停止
戻ってきていない。
になっていた。
水戸精工の建屋は2階建と4階建の2棟がつな
水戸精工の場合は、古い工場は壊滅状態だが、
がっているのだが、そのつなぎ目の部分が剥離し、危
たまたま新工場に被害がなかったことから3日で
険な状態になっていた。さらに、重量鉄骨に張り付け
復旧できた。水準器など所有しておらず、途方にく
られていたALC板の剥離も気になった。ガラスは十数
れたが、墨田区の中小企業の支援により水準器を手
枚破損し、雨樋
にし、一気に復旧させているのであった。
も落ち、天井の
震災後1カ月を経過した段階で、古い工場の解
空調機等も落ち
体などを引きずってはいるものの、後継者の舘裕一
ていた。専門家
氏は、将来を見つめていた。今後は総合的な樹脂加
の意見では解体
工メーカーとして進む。特に、フッソ樹脂の溶着の
した方がよいと
のことであった。
領域に関心を深めていた。さらに、「医療分析装置
新設の第2工場の機械設備群
ただし、幸いなことに、水戸精工は同じ山崎工
の世界は一人で伸びていく。当方はユーザーに合わ
せて成長していく」と未来を見ていた。その場合、
業団地の中に土地を取得し、第2工場を2010年に完
ユーザーの注文に対して「当たり前に納品できる」
成させ、さらに、新本社社屋も2011年3月末に完成
ことを目指していた。舘裕一氏は「安心がポイン
予定であった。この新しい第2工場の建物は全く被
ト。安心感があると一番先に話が回ってくる。自分
害がなかった。機械が少し移動しただけであった。
はユーザーと現場の翻訳をしていく」と語っている
この移動した機械の補正や水平は墨田区の企業か
のであった。
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ひたち立志塾については、当初「どうなのか。
かし、システム開発事業にも展開し、現在では東海
役にたつのか」と疑問を抱いていたようだが、1年
村で金属塗装業、東京飯田橋でシステム開発事業を
間活動し、さらに震災後の動きにより認識を新たに
展開している。金属塗装部門の従業員は34人、全体
したようであった。地域の中のネットワーク、さら
で40人ほどの事業になっている。なお、小田倉氏は
に地域間のネットワークの重要性を深く感じてい
ひたち立志塾の第1期生の塾長を勤め、OB会でも
るようであった。
重要な役割を果たしている。
1週間で再開にこぎつける
(3)被災は少なく、迅速に再開
3月11日の被災の時は東京飯田橋の事務所にお
(㈱ヒバラコーポレーション)
り、クルマで自宅のある練馬区上井草に戻り、翌12
茨城県東海村は北に日立市、南にひたちなか市
日7時30分に家を出て、国道6号で東海村に向かっ
と接している。原発立地の町村はこれまで電源開発
た。工場に到着したのは午後4時であった。特に、
関連の助成金などが豊かであり、昨今の平成の市町
千葉のあたりの途中の橋の渋滞がたいへんであった。
村合併でも単独制をとったところが少なくない。東
11日の当日は、電気、電話がダメになったが、
海村といえば日本の原子力のルーツというべきと
工場の事務所の水道はかろうじて維持され、周囲の
ころであり、現在は日本原子力開発機構(通称:原
人に配ったと報告されている。当日はとりあえず従
電)、日本原子力発電東海発電所(終了)
・東海第二
業員を帰宅させた。従業員の被害は住宅全壊が1人
発電所(110万Kw)など原子力施設が展開している。
(常陸大宮市)、津波による床上浸水が2人(大洗町)
この電気は東京電力に売電している。
の3人であった。だが、人的被害はなかった。
3月11日の東日本大震災により、原子炉は自動
12日の土曜日には従業員8人が出社してきた。
停止した。なお、2006年に国の耐震指針が改定さ
工場の被害としては、古い工場(1972年設立)の天
れ、茨城県が2007年10月に出した「津波浸水想定」
井のブレースが落下したが、人的被害はなかった。
に基づき東海第二発電所では対策を実施。冷却用海
さらに、工場は昨年補強工事をしており、建物の被
水ポンプを守るため、2010年には従来あった3.3m
害はなかった。また、2007年には隣地に新工場を設
の防護壁に加えて側面にも2.8mの壁を設けた。こ
置したが、基礎工事とアンカーボルトが効いていて
れが幸いし、重大な局面に至らなかった。
建物、機械設備ともに被害はなかった。ただし、建
この東海村に足を踏み入れると、道路や公共施設
物の周辺が大きいところで10cmほど地盤が沈下し
が立派であることを痛感させられる。その東海村の
ていた。一部排水口などに問題があるが、事業遂行
一角に金属塗装に従事するヒバラコーポレーション
に特に支障はなさそうであった。
が立地している。ヒバラコーポレーションの創業は
12日にはまだ電気が通じておらず、溶剤や凝固剤
1973年、先代の小田倉敏美氏(故人)であった。だ
などを装置から抜く作業に従事した。この作業は4日
が、敏美氏は1986年に交通事故で急逝する。当時、
ほどかかった。16日午前中に電気が通じ、再開するこ
現社長の小田倉久視氏(1967
とができた。本
年生まれ)は大学3年生、母
格稼働は3月22
が事業を継承し、久視氏は3
日であった。こ
年ほどシステム会社に在籍
の間、ガソリン、
し、1991年に家業に戻り、1993
重油などの確保
年に26歳で社長に就いている。
小田倉久視氏
その後、かつてのシステム会社勤務の経験を活
が課題となった
が、重油はタン
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ヒバラコーポレーションの新工場の設備
クが満タンであり、さらに翌週には必要な量が確保
(4)被害の少なかった独立系企業(㈱TMP)
できた。ただし、主要材料の樹脂(塗料)が6月以
日立製作所の影響の大きい日立・ひたちなか地区
降、不足することが懸念されていた。また、ガソリ
において、
「絶対にオリジナルしかやらない。下請
ンは当初不安があり、通勤はクルマ3台の乗り合
はやらない」を旗印に掲げ、興味深い歩みを重ねて
い、さらに、近間の人は徒歩などの対応をとった。
いる中小企業がある。社長は1948年2月生まれの団
当面、資材に問題はなく、主力の日立関係も納品を
塊世代。若手経営者・後継者育成を目指すひたち立
受けてもらえている。
志塾の重要な支援者として、卒塾式などの会場を提
外国人従業員の状況、立志塾の付き合い
供してくれている。日立市郊外の大和田町に立地す
ヒバラコーポレーションの場合、従来から外国
るTMPがそれであり、社長は高橋一雄氏であった。
人研修生を入れていたが、この時は作業員としてベ
高橋氏は旧水府村(現常陸大宮市)の農家の生
トナム人男性(25歳/2年、33歳/4カ月)2人を
まれ、勝田工業高校機械科を卒業し、旧岩井市(現
入れていた。25歳のベトナム人は日本語も達者であ
板東市)の日本タイプライター(現キャノンセミコ
り、被災後も動揺もなく日本人従業員と同様に仕事
ンダクター)に入社、生産技術部門に在籍した。そ
をしていた。他方、日本経験の短い33歳のベトナム
の後、父が病気になったことから4年ほどで帰郷
人は動揺し、放射能を気にして、水も野菜も摂らな
し、日立関連の会社に入社、
い日々が続いた。この2人のベトナム人には1軒の
さらに日立エンジニアリング
社宅を提供しており、水や食糧については日本人従
サービスに移っていく。日立
業員たちが助け合っていた。
の水力、火力、タービンなど
また、ヒバラコーポレーションには営業職の中
の設計に従事した。日立周辺
国人女性が1人在籍している。茨城キリスト教大学
の技術者の典型的な歩みとい
を卒業し、日本に10年ほど滞在している。彼女は中
えそうである。
国出張が多く、当日は中国にいた。彼女には全く動
下駄屋の倉庫で1人で創業し、独立系メーカーに発展
揺はなく、中国から必要な支援物資の問い合わせを
してきた。
高橋一雄氏
この点、高橋氏は幼少の頃から「社長になりたい」
「自分で考え、自分で作って、世界に売りたい」と
このように、ヒバラコーポレーションの場合は、
思い続けていた。33歳の時に「いま辞めないと始ま
従業員の自宅にいくつか問題が出たが、工場の被災
らない」と気持ちを固め、次のあてのないまま、家
の程度が低く、10日間ほどで全面稼働できている。
族にも相談せず日立を退職している。
さらに、10日ほど工場が止まったことから、3月の
1982年には常陸太田で下駄屋の倉庫を借りて、
売上額はほぼ半分になったが、4月には平常に戻っ
㈲高橋マシンプランニングを1人で創業している。
ていた。また、納品した製品が転倒し傷をつけた場
自動機の開発設計を目指していった。次第に事業も
合などは、無償で修復に応じていた。7社ほどに対
拡大し、自前の工場が欲しくなり、1991年に社名を
応した。逆に、仕掛品で凹んでしまったものは、立
㈱ティー・エム・ピー(TMP)に変更、現在地に
志塾OBの㈱田代工業所(日立市)に割安で修復し
工場を建設している。当時の従業員は13 ∼ 14人で
てもらっていた。若くして事業を継承し、新規事業
あった。新工場に移ってから5年ほど経過した頃か
分野に展開し、立志塾にも積極的に参加し、幅の広
ら業容は拡大し、現在の事業内容は「マイクロムー
いネットワークを形成。実に落ち着いた対応を示し
ビィ(直行ロボット)の開発、設計、製作」
「FA(自
ているのであった。
動組立装置、選別装置、検査装置等)の開発、設計、
製作」となっている。現在の従業員は40人、女性が
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4∼5人いるが、いずれもCADを扱える。少人数
れたものを起こしたり、粗整理を行った。13日は休
で幅広い能力を備えたメンバーに育て上げていると
みとし、14日には90%復旧させた。そして、15日に
ころにTMPの大きな特徴がある。2011年4月には
は電気が通じた。
予定通り新卒の高校生3人を採用している。
部品の一部がいわきの物流センターにあった
「下請にならない」を原則にしていることから、
が、閉鎖になり、17日にようやく部品が揃った。そ
ユーザーの幅を拡げることに腐心し、当初は自動車
して、徹夜で組み立てし3月18日の金曜日に納品で
関係が多かったが、その後、食品、医療、半導体な
きた。TMPの社内体制は事実上3日で復旧したも
どの領域にも踏み込んでいった。例えば、地場産業
のの、周囲の状況がさらに数日整わず、実質1週間
の納豆のパック機、きのこの小分けパック機、冷凍
で回復した。建物の倒壊等の深刻な被災でない限
食品の超音波切断機、あるいは光ファイバー検査装
り、日本の中小企業の復元力は強く、1週間ほどで
置など興味深い機械設備を開発してきた。
立ち直っていくようである。このあたりは、2007年
特に、近年、TMPの特徴の一つになってきた超
音波関連は東京大田区の多賀電気㈱とのコラボレー
7月の中越沖地震で被災した柏崎の中小企業にも
共通していた(4)。
ションにより可能性の幅を拡げてきた。高橋氏は
「現
中小企業が復旧しても資材が調達しにくく、ま
在、社内に世界一っぽい技術が蓄積してきた」と述
た、納品ができない場合があることが指摘されてい
懐していた。社内には設計、ソフト開発、加工、組
る。常磐線沿線には日立関連の工場が軒を連ねてい
立の一通りの機能が備わり、90%程度は内製として
るが、中には被災の程度が大きく、納品を受けられ
いた。外注はメッキ、塗装、大物鈑金程度であった。
ない状況の工場もある。そのような場合には、中小
勢いのある独立
企業の資金繰りが厳しいものになることが懸念さ
系企業らしく、
れているのである。
建屋はモダンで
4.震災復興と地域中小企業
あり、社内全体
に良質な空気が
今回の東日本大震災に伴う日立市、ひたちなか市
流れていた。現
の中小企業の被害は津波、火災などによる消失はな
在、隣地には新
TMPのモダンな社屋
工場が建設中であった。
く、地震による建物、機械設備の損傷、倒壊、移動
というものであった。この地震そのものの被害という
受注先の開拓については、
「先方の商社が、当方
点では、岩手県、宮城県よりも大きいものであった。
を見つけに来る」場合が70%、その他は展示会、
だが、そのような事態に対して、日立・ひたち
ネットの場合も少なくない。じっくり積み重ねてき
なかの中小企業の復元力は著しく、大半の中小企業
た実績がTMPの存在感を高めているようであっ
はほぼ1週間で復活している。むしろ、大手の日立
た。日立地区を代表する開発型の独立系企業という
製作所関連工場の方が被害が大きかったようであ
ことになろう。
る。そして、それら大企業の工場も必死の対応を重
3日で普及し、1週間で通常に
ね、大半は3月中に再稼働し、注目のルネサスエレ
震災の影響は、機械は少し傾いたりズレたりし、
クトロニクスも予想の1カ月前倒しで6月中旬に
事務所の書類等は散乱したが、建物等には被害がな
は一部再開までこぎつけるところまで来ている。日
く、3日間で復旧していた。震災当日の11日は全員
本のモノづくり企業の逞しさが痛感される。
を帰らせ、家族等の安否を確認させた。翌12日は「出
られる人は、なるべく出よう」ということにし、倒
特に、今回の中小企業の被災と復旧に関してい
くつかの可能性と課題が鮮明化したように思う。
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地域内と地域間のネットワーク
第2に、長期間十分に操業できないような場合、
第1は、ひたち立志塾のような中小企業の若手
従業員の扱いが問題になる。雇用調整金を申請して
経営者・後継者の地域的な集まりが効果的に働いた
も、数カ月かかる。この間の資金繰りに困り、指名
点である。中小企業の若手経営者・後継者の場合、
解雇が行われることも珍しくない。このような事態
社内に閉じこもっている場合が多く、地域の中で孤
に対して、先の支援受注の延長として、従業員を家
立している場合が少なくない。今回のような事態に
族ごと受け入れるということも課題となろう。その
遭遇して、個別に対応できることは限られている。
ような従業員であれば、仕事は慣れており、支援受
特に、同世代の人びとと切磋琢磨する関係を形成し
注はさらに具体的なものになる可能性が高い。
ていることが、復活への最大のエネルギーになって
中小企業は地域の人びとによって成り立ってい
いた。当然、それらは深い協力関係を形成している
る。その人びとに「安心」を提供していくことは、
ことも重要である。
中小企業の存立・発展の基盤となろう。この震災か
第2に、全国の同様の塾との交流により、視野
らの復旧・復興により、日立・ひたちなかの中小企
が拡がり、地域への思いもさらに深いものになって
業は、そうしたことを深く認識することになった。
いった。全国に「精密水準器」を求めたが、即座に
対応できる関係を形成できていたことも大きい。そ
日本列島で仕事をしていく場合、今回のような
の支援の輪の拡がりが、日立・ひたちなかの中小企
災害がいつでも、どこでも起こりうる。そのような
業の若手経営者・後継者に大きな勇気と新たな認識
事態が生じた場合、地域内、地域間のネットワーク
を与えることになった。それは、新たな「希望」と
は新たな意味を帯びてくるであろう。そして、それ
言っても良い。中小企業は個々には生きていけない
が日本の中小企業、地域産業の新たな力になり、相
ことを痛感させたであろう。参加意識がさらに深
互に刺激しあいながら内面の高度化を促していく
まったのではないか。
ことも期待できる。
支援受注、人を預かる
そして、このような経験を重ねた彼らは、次の
課題を深く認識しつつある。
成熟化、空洞化、人口減少、高齢化に直面して
いるわが国の中小企業、地域産業にすれば、このよ
うな枠組みは刺激的な環境を形成することを意味
第1に、
「支援受注」
「応援受注」の可能性である。
し、新たな可能性を生み出していくことはいうまで
中小企業の場合、先に指摘したように、操業できな
もない。ひたち立志塾と全国の塾の拡がりと交流の
い状況が続くと、他の企業へ発注され、回復しても
深まりは、日本の中小企業、地域産業に新たな「希
仕事が戻ってこないことも少なくない。このような
望」に満ちた可能性を予感させているのである。
事態を回避するために、一定期間、ネットワークの
中で仕事を代行し、操業可能になった際に戻すとい
うことである。このようなことが可能であるために
は、お互いが良く知り合っていなければならない。
特に、競合しにくい遠くのグループの付き合いの中
で、このような可能性を求めていくことが課題とさ
れる。地域の中では多様な異業種と交流し、遠い地
域間では似たような構成のグループと交流を深め
ることも一つの課題となろう。「近くの異業種、遠
くの同業種との交流」がテーマとなろう。
(1)この間の事情は、『日刊工業新聞』(2011年4月20日)を参
照されたい。
(2)このような「人材育成塾」の意義と現状については、関満
博『現場主義の人材育成法』
(ちくま新書・2005年)
、同
編『地域産業振興の人材育成塾』(新評論・2007年)を参
照されたい。また、ひたち立志塾のスタートの頃について
は、関満博『地域産業の「現場」を行く/第1集』
(新評論・
2008年)を参照されたい。
(3)釜石の私の被災状況等については、関満博「中小企業が地
域再生の鍵を握る」(『日経トップリーダー』2011年4月)
を参照されたい。
(4)震災後の柏崎の中小企業の状況については、関満博「震災
に立ち向かう柏崎中小製造業」
(
『商工金融』2007年9月)
を参照されたい。
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