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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System

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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
郭沫若・陶晶孫を中心とした中国現代文学の唯美主義と
表現主義の研究
Author(s)
小崎, 太一
Citation
Issue date
2010-08-31
Type
Thesis or Dissertation
URL
http://hdl.handle.net/2298/21461
Right
郭沫若・陶晶孫を中心とした
中国現代文学の唯美主義と表現主義の研究
熊本大学社会文化科学研究科 学位論文
小崎太一
目次
序章
1
第Ⅰ章
第1節 陶晶孫福岡期の唯美主義
第2節 郭沫若初期文学と「水」
第3節 郭沫若初期文学と水泳
第4節 郭沫若留学前旧体詩と李商隠
6
19
29
37
第Ⅱ章
第1節 陶晶孫と関東大震災
第2節 陶晶孫の表現主義と日本モダニズム
46
58
第Ⅲ章
第1節 郭沫若・陶晶孫と福岡
第2節 張定璜と『駱駝』
第3節 陶晶孫と「2人の女の子」
68
77
89
終章
99
初出一覧
文献一覧
100
101
序章
ⅰ
本博論の目的は、1920 年代の中国文学と日本との関係を探ることにある。
中国現代文学1史で 1920 年代と言うと、1919 年の五四運動又は 17 年の雑誌『新青年』
発行2から、1927 年の第一次国共合作の崩壊と翌年の世界恐慌までを指す。それは恰度第
一次世界戦争とそれに乗じた日本の対華二十一ヶ条から、1931 年の九一八柳条溝事件の
前夜までであり、日本の中国侵略の2つの両事件の狭間だが、日中関係が比較的穏やか
だった時期に相当する。
古来より士大夫らによって担われて来た中国の文学だが、「政治への関心の尊重が早く
からこの国の文学の系譜であ」3り、「この国の文明は、政治への関心、人間の善意は政
治を通じてのみ発揚されるという関心、それを軸として発生したのであり、文学もその軸
の上にあ」4った。このような中国文学の政治性は、1842 年に終結したアヘン戦争の敗戦
から、1911 年の辛亥革命による清朝の崩壊・中華民国の成立に至る、国の改良又は革命
を目差した近代文学でも、民国政府への失望と国民改造への希求、亡国の危機感から生ま
れた 1919 年の五四運動から抗日戦争勝利、1949 年の中華人民共和国成立に至る現代文学
でも同じことであった。
その中で 1920 年代は、魯迅の『呐喊』や、本博論でも扱う郭沫若の『女神』等が出版
され、文学研究会や創造社等文学団体が活発な活動をするなど、比較的安定した世相を受
けた多くの成果が生まれた時期である。「狂人日記」を 1918 年に総合雑誌『新青年』、
当時の社会変革主張の急先鋒に掲載し、中国語口語小説の先駆者となった魯迅は、多くの
小説や雑文を通して国民性の改善を訴え続けた。郭沫若らの創造社は、初期のロマン主義
的な、人間性の解放の熱情的な希求から、1927 年以降の後期には共産主義に基づいた理
論構築へと変容したが、常に中国社会の改革を追い求めた。その後の抗日戦争のための必
要と、中国共産党による一党独裁の文化指導等で、これら 20 年代の成果が現在に全面的
に受け継がれたとは言えないが、『詩経』以来延々と続いて来た中国文学の、頂点の1つ
であると言える。
そして重要なのは、それら文学的成果を齎した者の多くが、魯迅と郭沫若を筆頭に、日
本留学経験者だということである。特に創造社は、東京での成立が 1921 年、その後 23 年
までに主要成員は中国へ帰国するが、その後 30 年代の幕開けと言える後期創造社の 1928
年の京都から上海への帰国と、翌年の閉鎖に至るまで、日本と密接な関係を持ち続けた。
この様に 1920 年代は文学的豊穣の時期であり、かつ日中関係が政治的文化的に幸せ
だった時期だった。
1 中国文学の「現代文学」は、大体日本文学だと近代文学に相当する語だが、以下に述べる様に中国文学
には他に「近代文学」があり、両者は区別されている。本博論では現代文学の語で統一する。
2 発行当時の名は『青年雑誌』。
3 吉川幸次郎「中国文学の政治性」113 頁。
4 同上、115 頁
1
ⅱ
この様な 1920 年代文学の中で、私は従来軽視されて来た陶晶孫と、彼の 20 年代の文学
創作の足跡に注目したい。そこに魯迅や郭沫若らの政治性とは別個の、20 年代文学の多
様性を示す実りがあるからだ。
陶晶孫(1897 1952)は先述の創造社の初期からの成員で、郭沫若の九州帝国大学医学
部の同学であり、郭の妻佐藤をとみの妹みさをと結婚し、郭とは言わば義兄弟の間柄だっ
た。後に述べるように非常に存在感のある作品を残し、創造社の全体的な研究には必ず言
及される人物である。しかし 1930 年代初めに中国の文壇から離れ、日本が文化事業とし
て設立した上海自然科学研究所に勤務し、日本が上海を占領した 1937 年以降も上海に留
まり、1944 年に南京で開かれた第三回大東亜文学者大会に余儀なく参加し、日本敗戦後
は台湾に移り、国民党の暗殺を逃れて日本に亡命し、日本に客死した、というその後の経
歴もあり、今に至るまで中国文学史で大きく扱われていない。
しかし彼は、初期創造社の唯美主義的側面を代表する人物だった。彼の代表作「木犀」
は始め日本語で書かれ、その後中国語版が『創造季刊』に掲載されたが、そこに郭沫若は
以下の「附白」を記している:
私はこの作がとても好きになったので、彼を励まして中国語に訳させ、題を「木犀」
に改めた。
この訳文は原文よりずっと遜色があるが、その根本の美しさは幸いま
だ余り損なわれていない。読者には細部まで味わって頂きたい5。
翻訳の問題はあるものの、作品自体の美しさは郭を大いに魅了したものだったことがわか
る。
またこの様な作品自体の美もさることながら、陶の芸術的な才能は、更に多角的なもの
だった。陶は『創造季刊』に数篇作品を発表する一方で、素人ながら雑誌の中扉や挿絵を
担当する。最初の掲載作品が郭の詩に曲を付けた楽譜だったことが示す様に、陶はピアノ
とビオラの奏者として、特に後者では九州帝国大の学生オーケストラ:九大フィルに参加
して活躍した6。加えて陶は箱崎海岸の松林の中に、自ら設計した小屋まで建て、そこで
ピアノを奏で犬と遊ぶ生活まで送っている。
この様な多才さは、大正期の日本でも流行した唯美的な欧州世紀末の美意識である、生
活の全般的な美化そのものであり、この意味で陶は当時中国文壇で勢いを示していた創造
社の中で、一目置かれる存在だった。
1926 年に創造社出版部が出版したアンソロジー『木犀』は、出版社がそれまで出した
書籍に未収の作品を集めたものだが、その表題作が陶の小説であることは、当時の陶の唯
美的文学が、創造社の1つの看板だったことを如実に示す。
この様に陶の初期の唯美主義的文学は、現在通行している政治性を重視する文学史での
軽い扱いでは不充分な、大きな主題として捉えるべき対象なのだ。
5 『創造季刊』第1巻第3期、69 頁。
6 九大フィルについては半澤周三『光芒の序曲』(福岡、葦書房、2001 年)参照。
2
ところがこの様な陶の唯美主義的文学が、1920 年代半ばにして変貌してしまう。23 年
3月に陶は郭沫若と共に九州帝国大医学部を卒業し、郭は妻子を連れて中国に帰国するが、
陶は逆に仙台の東北帝国大学理学部に進学する。恋人の佐藤みさをのいる街へ行ったのだ。
同時に陶は一時期創造社の雑誌に作品を寄稿しなくなる。陶が創造社の誌面に帰ってくる
のは2年後の 25 年 12 月、その間に彼はみさをと結婚していた。そして作品は唯美主義で
なく表現主義のものとなっていた。それが関東大震災後の新感覚派等日本の表現主義文学
の潮流に強い影響を受けたものであり、当時の中国文学の中でかなり異質だったことは、
中期創造社を支えた周全平の以下のぼやきに示されている:
陶晶孫は日本に余りに長く住んだ為に、中国の文法と文字を殆ど忘れてしまってい
る
だから彼が寄稿して来る度にひどすぎる、改めなければと言っている。しかし
又これ故に、他の書いた文字の味わいも中国語が持っているものとは違う様だ7。
しかし異質とは言え、後述する様に私は陶の表現主義文学を中国文学の流れにきちんと
嵌め込むことが出来ると考えている。創造社は日本文学の影響を常に受けて来たが、20
年代半ばからの日本の表現主義の隆盛の直接の影響を受けたものとして、この陶の表現主
義文学が位置付けられ、又それによって表現された日本モダニズムが、創造社初期のロマ
ン主義から、後期の共産主義プロレタリア文学への変容の、断絶を埋める存在だと考えら
れるからだ。
この様に陶晶孫の 1920 年代の文学は、始めの唯美主義から表現主義へと変化するのだ
が、その両者共に中国文学史の上で重要な意義があり、その変化の過程も当然大きな意味
を持っていた。故に私はこの中国文学の多様性を示す 20 年代の陶晶孫文学を、陶晶孫モ
デルとして提起したい。つまり従来の、ロマン主義からプロレタリア文芸へと移行すると
される、政治性を重視する文学史のモデルとは一線を画し、また日本との関係上意義の深
い陶晶孫の 20 年代の文学を、1つの文学モデルとして、本博論で纏めあげたい。
ⅲ
本博論は3章構成である。
第Ⅰ章は唯美主義を扱う。初期創造社と言うと普通ロマン主義だとされ、陶晶孫も後年、
彼ら創造社の初期の文学をロマン主義又は新ロマン主義だと分類している。
何か方針があってやるのかい、彼は一言だけ言った:新ロマン主義。私は一切が分
かった、何故なら私の数篇の文章に関し、私自身がそれがロマン主義に属すと批評出
来たから8。
『創造』の発刊時、沫若は新ロマン主義が『創造』の主な方針だと言った、後に社会
全体が創造社がロマン主義だと認めた、しかし沫若の感受性が強く、彼は何故だか知
7 「尾声」『洪水週年増刊』1926 年、188 頁。
8 「記創造社」『陶晶孫選集』240 頁。
3
らぬが表現主義を好きになった、その間で、ずっと最後まで新ロマン主義の生活を
やったのが達夫、ずっと最後まで新ロマン主義の作品を書いたのが晶孫、ずっと最後
まで通俗小説を書いたのが張資平だ9。
ロマン主義と新ロマン主義が入り乱れて用いられているが、後者は新たなロマン主義の意
味だと考えればよい。詰まり:
群像の一人に張定璜を忘れてはならない、彼の小説は一篇だが、彼は創造の文字体裁
約物全てに意見があり上海に送って来た、これはあの頃恰度日本の新ロマン派が流行
していたものの模倣だが10。
1920 年代初めの日本で風靡していた多方面な美を求めていた唯美的な世紀末芸術であり、
耽美派・後期ロマン主義と今日呼ばれているものだった。
又後述する様に、陶の唯美主義の傾向は夙に指摘されて来たものであるので、第Ⅰ章で
は陶の唯美主義を中心として論じ、陶と身近だった郭沫若の唯美主義的側面と、唯美主義
の影響を受けたロマン主義的側面を論じる。
第Ⅱ章は表現主義を扱う。上述の様に陶晶孫自身は創造社での創作を全てロマン主義と
しているが、1923 年に福岡を離れて2年を置いた 25 年からの創作は表現主義だと私は考
える。それは周全平をぼやかせた様に、当時の中国文学では可成異様なものだったが、
ヨーロッパで第一次世界戦争後に、日本では関東大震災後に風靡した表現主義・立体主
義・ダダ主義・未来主義等の影響を受けたもので、それ等の総称として、本博論では用い
る:
芸術方法の意義上、我々はこれらの流派の創作特色を同一の芸術規範モデルの異なる
時期異なる文化言語環境中の風格の変化したスタイルと看做す理由が完全にあると言
うべきだ──ドイツ語国家と北欧では表現主義、フランスでは立体主義と超現実主義、
イタリアとロシアでは未来主義
もし我々が新しい視点で「モダニズム」より更に
具体的で適当な命名を用いて上述諸流派の詩学上の「統一性」を概括しようとするな
らば、「表現主義」は疑いなく最も相応しい述語だ。何故なら、「表現主義芸術方
法」が正しく上述諸流派の芸術思惟と審美風格上の共通の背景だからだ11。
又表現主義と一体だった日本モダニズムを陶の作品が体現し、陶のこれ等作品が、日本
と常に密接な関係だった創造社の、初期のロマン主義から 30 年代のプロレタリア文学へ
の橋渡しとなる、モダンな作であることも論じた。
第Ⅲ章はその他、1920 年代の郭沫若・陶晶孫・創造社に関する研究を置いている。特
に第3節では、第Ⅰ・Ⅱ章で扱った陶晶孫の非政治的な文学が、政治的になっていく過程
9 「創造三年」『陶晶孫選集』258 頁。
10 陶晶孫「創造社還有幾個人」『陶晶孫選集』253 頁。
11 徐行言・程金城『表現主義与 20 世紀中国文学』8 頁。
4
を示し、私の今後の 30 年代文学研究に繋がる位置付けとなっている。
ⅳ
本博論の執筆目的はまた、1920 年代の日本留学中国人文学整理を通して、現在そして
将来の日中文化交流に、何らかの寄与をすることにある。
前述した様に、対華二十一ヶ条要求と、それへの反発から生まれた 1919 年の五・四運
動から、1927 年の国共合作の崩壊と、翌 28 年の世界恐慌に至までの 20 年代は、日中間の
十五年戦争を前にしての短い、日中の社会が密接で幸福な間柄だった時期である。その様
な 20 年代に中国人知識人が発表した文学は、長い中国文学史の中でも実りある一頁とさ
れている。文学者の中には創造社の成員を中心とした多くの日本留学経験者が含まれてお
り、文化的にも両国関係が実りあるものだったことが示されている。
中華人民共和国の成立から 60 年を経て、我が国と中国は、今後も良好な関係を続けて
行かなければならない。それは只両国だけの問題ではなく、東アジア又は大きく世界全体
にまで影響を与える課題である。
この観点から言って、90 年前の 1920 年代の、両国の関係が非常に実りあるものだった
時の文学を再び研究することは、これからも重要なことであり、本博論で私の提示する従
来の政治性を強調するモデルと離れた、文化的な陶晶孫モデルが、今後の日中両国の相互
理解と友好発展に役立つことを望んでいる。
5
Ⅰ-1 陶晶孫福岡期の唯美主義
序章で述べた様に、私は陶晶孫の福岡期文学中の唯美主義を、当時の中国文学を代表す
るものだと考える。本節ではその陶の福岡期の唯美主義を分析し、中国現代文学の唯美主
義の1つの有り様を示し、本博論の先導としたい。
ⅰ
陶晶孫の文学を語るとき、福岡は欠かすことのできない場所である。
彼の文学活動は九州帝国大学医学部在学中(1919年10月∼1923年3月)、福岡1にくら
していた間に始められた。その時期はちょうど、同学の郭沫若を中心に、日本に学んでい
た中国人留学生たちが創造社を結成(1921年6月)し、機関誌『創造季刊』を発刊して、
当時の中国文芸界に一つの潮流をうみだしたのと重なる。晶孫もその創造社の活動の中で
彼の作品を発表していく。福岡は彼の文学の出発の地だった。
その福岡時代の晶孫の文学を、創造社の盟友である鄭伯奇は以下のように論じる。
文学理論としては、彼は別に何々主義などと主張したりしなかったが、彼の作品の風
格から考えて、当然ロマン主義に属している。しかし、彼には郭沫若や成仿吾のよう
な熱情がなく、郁達夫のような憂鬱がなかった。初期に、彼は芸術至上主義の傾向が
少しあった。彼は超然自得な態度を保ち続けた。生活の苦しさは、少なくとも、彼の
学生時代にはなかったはずだ。それで彼の初期の創作には個人の呻吟や社会への反抗
など探し出せない。彼は幼いときから中国を離れており、彼の言語表現は異国風味に
とても富んでいる。彼の作品は、それゆえある種独特の香りを強く帯びた2。
本論で私は、このように論じられてきた晶孫の福岡時代の文学の、特にその「芸術至上
の傾向」である唯美主義について考えてみたいと思う。
1897年生まれの晶孫が日本・東京に渡って来たのは1906(明治39)年のことである。そ
れ以来、九大に進学するまで彼は東京で生活する3が、それは高階秀爾が指摘する
明治三十年代の後半から四十年代の前半にかけて、わが国の美術界に、日露戦争の勝
利と重なりあって、異常なまでに高揚された一時期が認められる。おそらくそれは、
わが国の美術界が西欧の世紀末というものを受けとめた最初であった4。
ちょうどその時だった。デカダンの雰囲気を帯びたパンの会の結成が明治41(1908)年、
1 正確にいえば福岡市ではなく、1940 年福岡市に合併された箱崎町に住んでいた。ここでいう「福岡」は
行政区分ではなく、同じ文化を共有する地域をさしている。
2 「談陶晶孫的小説《木犀》和《音楽会小曲》」『陶晶孫百歳誕辰紀念集』23頁。
3 「陶晶孫年譜」『陶晶孫百歳誕辰紀念集』、223頁。
4 『日本近代美術史論』126頁。
6
大正期文学を代表するとともに幅広い西洋の芸術作品を日本に紹介した『白樺』の創刊が
明治43(1910)年、後期印象派・フォービズムのフュウザン会の成立が大正元(1912)年
である。そのような時代の雰囲気の中で、晶孫は東京の社会を通して世紀末芸術を吸収し
ていった。彼が当時の美術の世界と近い関係であったことは、彼が『創造季刊』第1巻の
ために木版画を手がけたこと5、または
私は梁上君子に不満足なことが二つある
暖炉の壁にあるブロンズの鹿がなくなっ
たことと、初夏陽光の下、緑陰に憩ふ裸体画が額縁を残して切り取られた事である。
あの絵は私が東京である大家に、半分以上手伝つてもらつて彼のアトリエで描い
たものだ。それ以来私は絵は見込みがないと知つて止めたのだ。私は中学五年生でそ
れを描いた6
という後年の回想から分かる。
そのような東京での影響を受けてうまれた福岡時代の晶孫文学であるから、そこには西
洋の世紀末芸術の、中国文学への影響が当然見出せる。それは従来の現代中国文学研究が
あまり取り上げてこなかった外部との関係、特にここでは日本を介在とした世紀末芸術の
中国文学に対する影響だといっていい。岩佐昌暲は世紀末芸術と中国との関係に触れ、
「世紀末文学・芸術というヨーロッパ近代の文化の移植を中国社会は結局許さなかったの
ではないか」と述べ、それを「中国の近代社会の文化的土壌の問題」7として考えようと
しており、私も同じ問題意識を抱いている。
本論では、福岡時代の晶孫文学に現れる世紀末芸術の影響としての唯美主義を、その重
要な構成要素である「夜」「水」そして「死」を指摘することを通して考えてみたい。
ⅱ
福岡時代の全ての作品で、「夜」は非日常の出来事をうみ出す物語の急展開の舞台と
なっている。「夜」は高階が言うように、世紀末芸術の重要な背景であった。
この時代は、真昼時の輝く太陽よりも、夕暮れの薄明りや、不吉な血の色に光る月の
方をいっそう好んだ。ドビュッシーやフォーレはヴェルレーヌとともに「月の光」を
美しく歌い上げ、ワイルドのサロメの悲劇は、不気味な月明りの下でくりひろげられ
るのである8。
戯曲「黒衣の男」は、湖のほとりの邸宅に住む二人の兄弟が、幻想に迷わされたか次々
5 この点については別の場で詳しく考えてみたい。ここでは『創造季刊』第1巻第1期横排版と第2期の
裏表紙に、晶孫がアールヌーボー風の植物文様を用いていることを指摘しておく。郁達夫(郭沫若補
記)「編輯余談」『創造季刊』1巻1期横排版、1923年、2頁;「編輯余談」『創造季刊』1巻2期、1922年、
22頁;陶晶孫「記創造社」『陶晶孫選集』241頁参考。
6 「留守番日記」『陶晶孫日本文集』190頁。
7 「世紀末の毒」77頁。
8 『世紀末芸術』175頁。
7
に命を失う物語だが、それは
テット 兄さん、こんな寂しい秋の夜には、さっさとドアを閉めた方がいいよ。そし
て灯油をたっぷりつぎ足して、ランプをともし、ピアノを弾こうよ。兄さん、何考え
てるの?
黒衣 ああ、そうだね。そうしようか。お前が何も考えていない時に、僕が一人で考
えてるのはよくないよね。それにもう暗くなってきた、ごらん、そこの下の方の湖の
岸がもう見えなくなった。今夜は本当に真っ暗だ。湖をゆき交う船もいなくなったみ
たいだ、おや、風が吹いている。(室内に入る)9
黒衣 あ、灯油もすぐになくなりそうだ。灯りを小さくしようか――何故こんなに
寒々としているんだ! そう思わないか?――10
という不気味な暗闇の中で展開していく。テットの死を迎えてやっと月が現われ、最後の
場面では黒衣の男が死に赴くのを見届けたかのように、月はまたかくれてしまう。
「木犀」は、九州の大学に学ぶ素威が回想する、彼の中学時代の、彼の小学生の時の教
師トシコとすごした日々を描いた作品だが、
それは月夜だった。庭を散歩したいな。中庭にでると、木犀が異常に香っていた11。
二人が時を過ごす「夜」には運命の予兆が影をさしている。
また、晶孫の福岡時代の文学には、世紀末的な「水」のよどみを見出すことができる。
ボードレールの散文『人工楽園』に、アシーシュに酔ったときの精神状態を水に浸っ
ていることに喩えるくだりだが、これはまさしく十九世紀末のデカダンたちの間に浸
潤していた「水への想像力」の源というべきものだった。たとえば、ユイスマンスの
『さかしま』の主人公デ・ゼッサントは自分の隠れ家を一種の巨大な水族館として作
り上げ、あたかも海底に住んでいるような幻想を楽しんだりしていた。こうした水中
世界の夢想は、ユイスマンに限らず、当時の文学者や美術家の主なテーマの一つで
あった。SF小説の先達ジュール・ヴェルヌの空想小説『海底二万里』(一八七〇
年)は、海底という未知の世界を披露し、水中世界に対する一般の好奇心を強く刺激
した先駆的な作品といえる。これに引き続き、フローベールは『聖アントワーヌの誘
惑』(一八七八年)の末尾部分で、動物とも植物とも見分けのつかない変形された水
中生物の世界を繰り広げ、たちまち当時の話題を集めた。一方、ポウをはじめ、テニ
スン、スウィンバーン、メーテルランク、ローダンバック等の詩に、耽美的・幻想的
空間として水底のモティーフが頻出しはじめるのも、この時代であった12。
9 『音楽会小曲』28頁。
10 『音楽会小曲』30頁。
11 『音楽会小曲』54頁。
8
「黒衣の男」では舞台が中国の太湖湖岸に設定され、その悲劇の引き金となった幻想
を、兄は湖からきた盗賊だと思う。
黒衣 いや、手で手をひき、剣で剣をひきながら、やつらは僕をつかまえにきた!
湖の盗賊どもが僕たちを金持ちと思ったからか13?
また戯曲「尼庵」では、妹を愛する兄が、妹の出家していた山頂の尼庵から彼女を連れ
だすが、彼女は兄との生活を望まず、湖に身を投げる。
兄 ああ、終わった!全てが終わってしまった!――僕の妹は数多くの美しい愛とと
もに死んでしまった!山頂の尼庵よ、山麓の湖よ、なぜ僕の妹をうばったんだ14?
妹が尼庵で生活していたこと自体がある意味人生の上での仮死の状態だといえるが、その
ような死の国から愛する人を連れもどそうとする、オルフェウスやイザナミの説話のよう
な死の世界への訪問というスタイルを用いた作品であり、そこに描かれた湖の存在が、神
秘性を帯びているのは明らかである。
ⅲ
この世紀末的な「水」は、小説「剪春蘿」15に特に明らかに見出せる。あどけない子ど
もの葉
が田舎の寄宿制の学校に入れられ、そこでくらしていたある日の朝、彼は何故
か近くの川の中に溺死しているのを発見される。その水死のさまは
学校の前の川岸に剪春蘿が一つかみ散らばり――若い村人が二人青ざめた顔と黒い髪
の葉
を川の中から引きあげた。
彼の片手には剪春蘿が一株しっかりと握られていた16。
川に横たわる死体、あたりに散らばる花、そしてしっかりと握られていた一株の剪春蘿、
この葉
の視覚的な水死の様を想像すれば、そこにイギリスのラファエロ前派の画家
12 尹相仁『世紀末と漱石』221頁。このような「水」のイメージが、それまでの中国文学に現われなかった
といえばウソになる。例えば郭沫若の「ミサンスロープの夜の歌」(『女神』所収)にでてくる「鮫
人」など、六朝の志怪小説にもとづく語である。しかし郭の詩が田漢訳『サロメ』(『少年中国』2巻9
期、1921年)に寄せられたもであることが示すように、そのイメージは創造社の同人たちが日本で吸収
した世紀末芸術の影響の下で用いられていると思われる。尚この「鮫人」の語については、本章第4節
で晩唐の詩人李商隠との関わりで再考している。
13 『音楽会小曲』37頁。
14 『音楽会小曲』109頁。
15 剪春蘿は中国原産、なでしこ科の観賞植物。和名は「がんぴ」。高さ40∼90㎝に育ち、5∼6月ごろに
直径5㎝くらいの黄赤色の花を次々に開く(牧野富太郎『牧野新日本植物図鑑』図鑑の北隆社、1961年
参考)。
16 『音楽会小曲』69頁。
9
ジョン・ミレイの「オフィーリア」(1852)17に描かれた、死にゆくオフィーリアの姿が
思い浮かばないだろうか。
オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』に出てくるハムレットが愛した女性
であり、悲劇のうちに狂気でおぼれ死ぬことは、以下のハムレットの母の言葉に示されて
いる。
小川のふちに柳の木が、白い葉裏を流れにうつして、斜めにひっそり立っている。オ
フィーリアはその細枝に、きんぽうげ、いらくさ、ひな菊などを巻きつけ、それに、
口さがない羊飼いたちがいやらしい名で呼んでいる紫蘭を、無垢な娘たちのあいだで
は死人の指と呼びならわしているあの紫蘭をそえて。そうして、オフィーリアはきれ
いな花環をつくり、その花の冠を、しだれた枝にかけようとして、よじのぼった折り
も折、意地わるく枝はぽきりと折れ、花環もろとも流れのうえに。すそがひろがり、
まるで人魚のように川面をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の
迫るのも知らぬげに、水に生い水になずんだ生物さながら。ああ、それもつかの間、
ふくらんだすそはたちまち水を吸い、美しい歌声をもぎとるように、あの憐れな牲え
を、川底の泥のなかにひきずりこんでしまって。それきり、あとには何も18。
そのような「シェイクスピア劇においてはせいぜい重要な脇役にすぎな」19かった彼
女だが、世紀末芸術の中では好んで用いられるテーマになっていった。
彼女を初めて舞台中央へ引き出したラファエル前派の人々は、自分たちがあれほど称
讃していたテニスンの女性主人公たちと同じ女性的性質を彼女のなかに見ていたの
だ。彼らによるオフィーリアの花に蔽われた狂気と水死の描写に拍車をかけられて、
彼女の物語は、腕に覚えのある世紀転換期の画家ならば少なくとも一度は描かざるを
得ない主題となった20。
この川に漂うオフィーリアの姿を視覚化し、そのイメージを決定づけたのがミレイの「オ
フィーリア」だとされている。
一八五一年に描かれたさらに有名なミレイ作の「オフィーリア」は、彼女の死への旅
路を追っている。葦間を永遠へと向かう受動的な水上の旅において女性と水が一体と
なっている。可憐ではあっても空しく水中を漂うミレイの死んだオフィーリア21
またこの絵は夏目漱石の『草枕』(1906)の中で重要な役割を果たしているが、晶孫は
17
18
19
20
21
ロンドン:テート・ギャラリー所蔵。
(福田恆存訳)『ハムレット』東京、新潮社(新潮文庫改版)、1988年、158頁。
ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』89頁。
ダイクストラ『倒錯の偶像』89頁。
ダイクストラ『倒錯の偶像』90頁。
10
後年、留学当時に漱石の作品を読んでいたと述べている22。
このように、直接の接触は指摘できないものの、はじめに述べたように当時の美術に親
しんでいた晶孫であるから、彼とミレイの「オフィーリア」との接点は当然あり得た。
ⅳ
ただし「剪春蘿」で川底に横たわるのは、その長い髪をゆらしながら流れていくオ
フィーリアではなく、一人の幼い少年である。この違いの持つ意味は大きい。
世紀末芸術の中では「水」と女性・女性の溺死が、常に結びつけられて考えられていた。
生きているニンフらの故郷はまた死んだニンフらのそれでもある。水は最も女性的な
死の物質だ23
水は若くして美しい死、花ざかりの死の元素であり、人生と文学のドラマにおいて水
は傲慢さも復讐もない死と、マゾヒスト的自殺の元素なのである。水は、自分の苦痛
に泣くことしか知らず、眼がすぐ「涙に溺れる」女性の深い有機体的象徴なのだ24。
ヴィーナスがそこから生まれ、オフィーリアがそこへ帰ってゆく運命にあったように、
水は、いわば女の存在の源なのである25。
晶孫の福岡時代の文学にも、「水」の中の女性の死は描かれている。先程述べたように
「尼庵」がそうである。また「木犀」でのトシコの死は、「水」との関わりが無いかにみ
えるが、素威が木犀の香りの中で彼女と過ごした時を思い出すことから示されるように、
彼女は二人の空間を満たしていた木犀の香りの中に溺れたのだと読み取れる。そしてその
香りは
だが先生はすぐに顔をあげて微笑み、赤い組みヒモをひたした26ビンの中から色付き
の水を、スチーム管にそそいだ――部屋の中じゅうを香りがうずまいた――木犀の香
りが27。
とあるように、その後の彼女の病死を暗示する「水」の性質を帯びていた。いわばトシコ
も「水」に溺れ死んだのだ。
しかし彼女たちの死は、ミレイの描くオフィーリアの死と同じではない。世紀末芸術に
描かれたオフィーリアの死は、ブラム・ダイクストラが厳しく指摘するように
22 「創造社の想い出」内山完造『魯迅の思い出』東京、社会思想社、1979年、185頁;「陶晶孫氏を囲む座
談会」『三田文学』1951年7月、62頁。
23 ガストン・バシュラール『水と夢』123頁。
24 バシュラール『水と夢』125頁。
25 ダイクストラ『倒錯の偶像』221頁。
26 原文「浸着紅絛」を、『陶晶孫選集』28頁は「系着紅絛(赤い組紐が結ばれている)」につくる。
27 『音楽会小曲』56頁。
11
オフィーリアは、狂気に陥ることによって、恋人への献身を最も完璧に立証し、花と
等しい存在であることを示すために自分の体を花で埋め尽くし、ついには、水死して
水底に沈む運命に身を委ね、それによって、女性は従属物であるとする十九世紀の男
性のこのうえなく他愛ない幻想を満足させたのである28。
当時の西洋社会が抱いていたこのような女性への偏見の反映であった。
晶孫の描いた女性の死はどうなのか。それは死にゆく二人の発した、次のそれぞれの言
葉に示されている。
「ああ、僕はずっと子どもでいたいだけなんだ――」
「あなたも成長するわ――成長するのは、本当に嫌なこと。だけど私たちはいっしょ
に成長しましょう。」
「木犀」29 兄 ああ、言うまでもない、僕たちの幼いころの口づけ、僕は僕とお前のこと
を!――
妹 そんな話はしないでよ。――ああ、幼いころは本当によかった!(なきむせぶ
声)
「尼庵」30 それぞれが口にするのは「恋人への献身」ではなく、幼さの尊重である。彼女たちは幼さ
のために死を撰んだのだ。
そしてそれぞれの物語の中で彼女たちの死は、残された男性に彼らの幼い日々の思い出
を、思い出として、明確な形で抱かせるはたらきをした。トシコがいなくなったからこそ
素威の幼年時は
それは喜びさえまだ――「まだ」としか言えない――失われず、まだ希望と目的の中
で輝いていた昔のことだ31。
と回想できる思い出となって残り、また小説「西洋人形」でも
今日君がもってきたバラ――はっきりと思い出せるんだけど、以前ある日にも、こん
なバラが香っていた、バラは同じさま、バラを入れた花瓶も同じさま、机も同じさま、
だけどあの時の人たちは、今日ここに一人足りない、――32
28
29
30
31
32
『音楽会小曲』56頁。
『音楽会小曲』54頁。
『音楽会小曲』99頁。
『音楽会小曲』46頁。
『音楽会小曲』75頁。
12
ピアノの教師が思い出した少年時代は誰かの死と結びついているのが予想される。
子どもの清らかさ・無垢の尊重は、ルソーの『エミール』に端を発するロマン主義文学
の主要なテーマだが、中国現代文学でもそれは五四時期文学に求められていた一つの大き
な課題だった。また日本でも雑誌『赤い鳥』の流行が示すように、当時の晶孫を囲む文学
環境では、童心の尊重は普遍的な傾向だった。
彼女たちの死は、その幼い清らかさのための死だったのだ33。
そしてそのような幼さのための死は、幼い子どもである葉
の死んだ「剪春蘿」でさ
らにはっきりする。
「剪春蘿」の中で、晶孫はミレイの「オフィーリア」の構図そのままに、葉
の手に
はしっかりと剪春蘿を握らせた。オフィーリアが手にしていた花は、彼女が木の枝にかけ
ようとした花環の残りであり、西洋の図像学的にいえば死にゆく彼女の女性としての清ら
かさを現わしている。
葉
の手にしていた剪春蘿はどうか。
剪春蘿は、葉
が寄宿学校に入れられて知りあった年長の友・緑弟とともに、二人で
花畑で育てたものである。
葉
は父親に、
「お前は泣くしか能がない、役立たずめ!」34
としかられ、恋しい家から離され、学校に強制的に入学させられた。彼の祖母の表現だと
「幼いこども」であり、涙もろい純粋な少年として描かれている。
葉
が入学してからの緑弟との関係は、その葉
の汚れなき幼さの延長線上の関係
だといえる。
花畑のちょっと寒々としているが可憐な剪春蘿、すがすがしくけだかい緑弟――葉
も家の中から遠くはなれていることを悲しまなくなった35。
「ああ、葉くん君は僕と別れるのが嫌なんだ、ずっと僕たちはいっしょにいよう、一
つの世界で生きていこう
」36
33 さらに言えばそれは「母親」の死だといえる。福岡時代の晶孫文学は家庭の中の母親の影がうすい。
「木犀」のトシコや「尼庵」の妹は主人公にとってともに幼年時代を過ごした、母親がわりの存在であ
る。それゆえ「母親」としての彼女たちの死は、主人公がその美しい幼年期を保ったままの「母親」と
の別れ、一人の男性としての出発のための死だとも言える。このことがはっきり示されているのが小説
「水葬」(1927年)である。「水葬」は「記憶の中から旧作を書き出した」ものであり、私はその「旧
作」が福岡時代にまで遡り得るのではないかと考える。「水葬」は母親の日本航路上での死と、彼女の
水葬、そしてその後に葉山の海岸に座る、あたかも海からあらわれたかのような主人公の恋人を描いて
おり、晶孫文学と「水」との関わりを考える上で欠かせない作品である。
34 『音楽会小曲』60頁。
35 『音楽会小曲』65頁。
36 『音楽会小曲』66頁。
13
そしてこの、少年たちの汚れなき関係を象徴しているのが剪春蘿である。
「この花は僕たち二人のために咲いた花だ、僕たち二人の友情の花だ! 」37
しかし季節の移り変わりの中で花が姿を変えてゆくのと同じように、二人のこの理想郷
は永遠ではなく、二人の世界には変化が訪れる。葉
の死の前日の花畑は、
その日の午後剪春蘿はまだたくさんの残り花が美しく咲いていた38
と描かれており、「まだ咲いていた」、季節の移り変わりの中で、花が散りゆくのがここ
の描写の中に予告されている。花は散りゆく、つまり葉
と緑弟の友情、そして葉
の清らかな幼さが失われていくのだ。
それは葉
の入学自体が
ああ、僕をここに行かせたのは全てお父さんの名誉心なんだ39。
と、彼の幼年性を損なうためのものであり、いつかはそうならざるを得ないものだったこ
とからも分かる。
それゆえ、川底の葉
が剪春蘿をしっかりと握っていたこと、それはオフィーリアの
握っていた花が彼女の女性としての無垢を象徴していたのと同じように、葉
がその清
らかな子どもの幼さを保ったまま死んだことを現わしているのだ。
ⅴ
このように福岡時代の晶孫文学には、清らかな幼年時代が死によって守られるという構
図が見出せる。
そしてその死が讃美されている。
「剪春蘿」がオフィーリアの死にゆく姿を描いたミレイの絵に影響された小説であるな
らば、それは葉
の死を描いたものであり、幼さを守った彼の死を讃美するために描か
れたのだ。「剪春蘿」は子どもの死を芸術作品化した小説なのだ。
「黒衣の男」では直接に子どもの死、主人公の弟・テットの死が讃美されている。
僕の大切なテットが死んだ!十二歳の幼いテット!
大理石の上で、
あざやかな赤い敷物の上で、
白いかんばせが金のボタンと金の襟に映しだされている。
37 『音楽会小曲』67頁。
38 『音楽会小曲』68頁。
39 『音楽会小曲』64頁。
14
死の神の腕の中で確かに死んだ!彼は貴く死んだ。
彼はあざやかに死の神の腕の中で確かに安らかな眠りについた40。
テットの子どもの清らかさを保ち得たからこそ、その死は貴く、讃美されているのだ。
そして清らかさのために、テットの死は必然とされていた。
僕は人生の全ての試練を通り抜けた、テットも通り抜けてきた。僕とテットはともに
死の間近で生きてきた、僕たちはお前らを恐れない41!
その死は当然の帰結だったのだ42。
子どもの清らかさ・童心が、福岡時代の晶孫文学の周囲で普遍的に求められていた大き
な課題であったことは、先に述べた。
晶孫の福岡時代の文学の場合、問題は、それが子どもないしは幼年時代の思い出が、死
ぬからこそ尊重されている、そしてその死自体が美化されている所にある。ピーター・カ
ヴニーはこのような世紀末文学の唯美主義の傾向を厳しく非難する。
十九世紀中葉から、無垢についての考えが大きく変化した。それは、人間が完全性に
達しうる可能性をもつという生き生きとした表現であったものが、ただ単に静的に
「経験」と対比させられるものとなり、そしてついには、静的どころか、実際には逃
避の傾向そのものとなってしまった
ひどいばあいには、無垢のもつ「生」の積極
的肯定の主張は逆転して、退行と死を指すものになり下がっている。本来あるべき無
垢と経験の葛藤は、始まる前からすでに消え失せ、かわって唯一の結論は死による敗
北にしぼられてしまう43。
福岡時代の晶孫文学は、このような死をめぐる世紀末の唯美性を強く帯びていたのだ。
ⅵ
以上、晶孫の福岡時代の文学に見られる世紀末芸術の唯美主義の影響を、「夜」「水」
「死」を切り口に考えてきた。福岡時代の彼の文学が世紀末色の強いものであったことが、
ここで示されたと思う。
彼が過ごした当時の福岡は、行政面では上水道の敷設・道路の舗装事業など、近代都市
化が達成しようとしていた時期に当たり、また文化面でも劇場や映画館・カフェやダンス
ホールが現われ、デパートが建とうとしていたなど、いわゆるモダンな文化が始まろうと
していた時期であった。
しかし晶孫文学に描かれた福岡のイメージは、あまりいいものではない。
40
41
42
43
『音楽会小曲』43頁。
『音楽会小曲』39頁。
テット(Tett)と dead の語音が近いことも指摘せねばなるまい。
『子どものイメージ』203頁。
15
「木犀」の中で、晶孫はその執筆同時の福岡を
結局ここは田舎であり、古いやしろがひろびろとしているけれど、ただぼんやりと建
っているだけだ。やしろの前を電車がもう通っていて、行き交う人々も全く少なくな
い。
田舎にも田舎の風味があるべきだが、ここはいくらか都会の要素を帯びていて、結
局田舎なのか、都市なのか――田舎だとしたらにぎやかすぎる、都市ならば零落して
いる44。
と表現し、また福岡での生活を、主人公の素威に
馬車馬の生活!
彼の忘れることのできない幼年時代は東京で過ごされたものだった。彼はどうして
も東京に留りたかった。駄目だとしたら、京都に行きたかった
このさらなる希望
さえかなわず、落ちぶれて九州に漂いつき、全く目的などない生活を送っている、何
て悲惨なんだ45!
と言わせ、後年の回想のなかでも、
本屋は丸善書店だけだったが、もう古典を読むのは充分だった、僕の遺伝した反抗精
神がいたる所で邪魔をし、この街にそれほど関心を持てず
卒業の翌日の朝には、
もう汽車に座っており、日本の東北に向かっていた46。
と記している。晶孫は福岡での生活を全く歓迎していなかった。彼の心はそれ以前にくら
していた東京にあったのだ。
それゆえ晶孫文学の中で、福岡はただたち去るだけの場所としか描かれていない。それ
は郭沫若が博多湾の自然を讃美し、その中に自らの自我を歌いあげたのと対照的だった。
ここでもう一度、はじめにあげた鄭伯奇の文にもどってみよう。
文学理論としては、彼は別に何々主義などと主張したりしなかったが、彼の作品の風
格から考えて、当然ロマン主義に属している。しかし、彼には郭沫若や成仿吾のよう
な熱情がなく、郁達夫のような憂鬱がなかった。初期に、彼は芸術至上主義の傾向が
少しあった。彼は超然自得な態度を保ち続けた。生活の苦しさは、少なくとも、彼の
学生時代にはなかったはずだ。それで彼の初期の創作には個人の呻吟や社会への反抗
など探し出せない。彼は幼いときから中国を離れており、彼の言語表現は異国風味に
とても富んでいる。彼の作品は、それゆえある種独特の香りを強く帯びた。
44 『音楽会小曲』44頁。
45 『音楽会小曲』45頁。
46 「晶孫自伝」『陶晶孫選集』236頁。末句は東北帝国大学に進学した意味。
16
彼が非難するように、晶孫の福岡時代の文学が社会とのつながりが無いことは否定でき
ないことである。唯一執筆当時の作者の生活に触れていると思われる「木犀」の中でも、
素威は九州での学生生活から顔をそむけ、幼い思い出の中に逃れているだけだ。
素威はまだ生きている――先生の唯一の遺品である、小さな腕時計を保存し、不思議
な時の思い出と共に、自分とはひどくかけ離れている社会の中で生きている47。
「黒衣の男」や「西洋人形」、「尼庵」の中でも、ただ社会からかけ離れた生活が描かれ
ている。
これはちょうど、先に述べた晶孫文学の中の福岡という場所からの逃避と対応している。
彼は意にそぐわず福岡に流されたからこそ、これまで述べてきた耽美的な作品を描き得
たのかも知れない。
第Ⅱ章第1節で述べる様に、関東大震災後の文学で晶孫は自らの生活や中国に眼を向け
ていくが、その際、福岡時代の晶孫文学が帯びていた世紀末の耽美性は消え失せてしまう。
そこには時代の流行の影響もあるだろうが、それよりもやはり晶孫自身の社会に対する姿
勢の変化がはたらいていたと考えられる。晶孫はその社会性を獲得する代償として、自ら
の意志で福岡時代の唯美主義をふり払ったのだ。
しかし私は、晶孫文学の流れがそうだからといって、福岡時代の彼の文学をただ乗り越
えていくだけのものだったとは考えない。それが豊かな実りであったことは間違いのない
ことなのだから。
そして福岡時代の晶孫文学が帯びていた世紀末の唯美主義は、それ以降の彼の文学の底
部を静かに流れ続けていた。それは彼の文学に変化が訪れる時に、作品の中に必ず顔を現
わしている。中国に帰国後の上海での小説「菜の花の女の子」(1929年)に描かれた、少
女のその後の刑死を暗示するかのように海に投げ捨てられる黄色い菜の花、日本に亡命し
てからの小説「淡水河心中」(1951年)に描かれた、「淡水河にとっては今迄自分に殉じ
た多くの死体のうちの一つ」48である少女の死、明らかに彼女たちにはオフィーリアの姿
が重ねてある。また抗日期の文学を語るとき、生死の境としての「水」の役割りを論じな
い訳にはいかないだろう49。
晶孫文学の中には世紀末の耽美性が、常に秘めつづけられていたのだ。
晶孫の福岡時代の文学は、その後の彼の文学の方向性に影響し続けていたのだ。
47 『音楽会小曲』58頁。
48 『日本への遺書』138頁。
49 『陶晶孫選集』所収「弱虫日記」・「薔薇的夢:伊達書簡」など。
17
Ⅰ-2 郭沫若初期文学と「水」
序論で述べた様に、郭沫若は陶晶孫の「木犀」に寄せた「附白」の中で、陶の唯美主義
を強く推賞していた。本節ではその郭の初期文学を、前節で陶の唯美主義の鍵となる要素
として挙げた「水」を介して分析し、陶文学に通じる唯美主義と、そこに収まらない郭の
初期文学のロマン主義的な個性を指摘する。
導言
早期の郭沫若は「水」の詩人である。
私がここに言う「水」とは、我々の生活の中で普通に見られる、水によって構成されて
いる物質で、「水」の詩人とは、つまり「水」の様々なイメージによって自らの詩意を表
現する者を指す。ガストン・バシュラールが『水と夢』を 1942 年に出版して、「水」の
詩人たちの重要な作品を分析し、幾つかの文化コンプレックス1を提示して以来、それら
は欧米文学の底を常に流れている芸術の源だとされている。
郭もこの様な「水」の詩人だったことは、以下の2点から証明することが出来る:
①郭の早期の詩歌中に「水」のイメージが度々現われる。『女神』の目次を見ただけで
も、「水」に関するタイトル、例えば「湘累」・「海を浴す」・「光の海」等が見出せる。
②彼が当時書いた文学評論中にも、以下の箇所がある:
詩は「作り」出すのではなく、「書き」出すだけのものである。私は詩人の心境とは
例えば澄んだ港湾の海水の様で、風のない時には鏡の様で、宇宙万物のイメージがそ
の中に映し出される;一度風があれば大波が起こり、宇宙万物のイメージがその中で
動き回る。この風が所謂直感で、霊感(Inspiration)であり、起こった波が高く漲
りつめた気持ちである。この動き回るイメージが想像である。これらが、私が思うに
詩の本体であり、それを書き出した時にこそ、体も外貌も備わる。大きな波涛が「雄
渾」な詩となり、つまり屈子の「離騒」、蔡文姫の「胡筎十八拍」、李杜の歌行、ダ
ンテ Dante の『神曲』、ミルトン Milton の『楽園』、ゲーテの『ファウスト』とな
る;小さな波紋が「淡い」詩となり、周代の国風、王維の絶詩となる。日本のいにし
えの西行上人と芭蕉翁の歌句、タゴールの『ギーターンジャリ』となる。これらの詩
の波には、それ自らの周期、振幅(Rhythm2)があり、詩を書く者の些かの作為も、
一瞬の猶予も許さず、その強固さは、ゲーテが言う様に紙の位置を正す時間さえ与え
てくれない。
『三葉集』1920 年1月3 1 『水と夢』33 頁。原文は complexe de culture、文化の中に沈殿した伝統・習慣等。『水と夢』訳註
11、291 頁参考。
2 原文はここにセミコロンがあるが、削除する。
3 『郭沫若全集』文学編 15 巻、14 頁。
19
黄河と揚子江は自然が我々に暗示している二篇の偉大な傑作である。空からの雨露を
受け、地の泉水を取り込み、自らの中に外から来た一切のものを融け込ませ、自らの
血液とし、滔々と流れ、全ての我を流し出す。岸の岩の抵抗があれば破壊し、不合理
な堤防があれば破壊し、全ての血と力を奮い立たせ、全ての気持ちを奮い立たせ、永
遠の平和の海へと滔々と前進せよ!
──黄河・揚子江の様な文学!
これが我々の提出した標語(Motto)だ。
「我々の文学新運動」1923 年5月4 この2篇の文章が証明する様に、郭の早期作品中の「水」は彼自らが希求した文学の方向
であり成就だったのだ。
バシュラールが『水と夢』を出版して以来、欧米と日本での文学研究で少なからぬ関係
研究があるので、本節で提出する「水」の分析を用いれば、郭の早期の作品を欧米文学と
並べて論じることができ、郭の早期文学の世界文学上の相対的な位置を知ることが出来る。
また郭の当時の詩は中国現代文学の成就を代表出来るのだから、郭の世界文学上の相対的
な位置はつまり中国現代文学が当時有していた相対的な位置である。
徐志摩は、もう1人の中国現代文学を代表できる詩人だが、彼がイギリスから戻ってす
ぐ、中国文壇内部で作品を発表し始めた 1923 年5月に、郭の詩中の1句「涙浪滔滔(涙
の波が滔々)」を「偽物だ」と批判したことがある:
私はお前と百日離れて奇縁なことに、
再びお前の門前を行き来しに来た;
私は私の涙の波が滔々たるのを禁じ得ない、
私は私の心の波がみなぎるのを禁じ得ない。
「涙の波」1921 年 10 月5 徐はこう記している:
詩を作る者であるから、感情の作用を些かは免れ得ず、詩人の涙は女の涙よりももっ
と価値がないが、涙を流すには毎回少なくともふさわしい理由が必要だ。蟻を一匹踏
み殺したのも、一つの傷心の理由たるに恥じない。今我々のこの詩人は彼の三ヶ月前
の旧居に戻ったが、その三ヶ月内に別に何ら大きな変遷はなく、彼が感情をどんなに
強くしても、涙をどんなに「豊富」にしても、海の波の様に滔々とはならないだろ
う6!
4 『郭沫若全集』文学編 16 巻、4 頁。
5 「海外帰鴻」(『郭沫若書信集』上册)1992 年、202 頁。原文には題がないが、『郭沫若全集』文学編 5
巻、391 頁に基づいて題を付けた。
6 「雑記(二)」『徐志摩全集』4 巻、10 頁。
20
後に徐は、これを「A Sence of Humour」だと解釈している7。勿論こうも言える、徐は
郭の当時の「家は四壁を空にしている」感覚8を理解しておらず、だからあの様なことを
書いたのだと。又こうも言える、郭と徐この2人の詩人は元々理解し合うことが出来ず、
だから自然とこの矛盾が生まれたのだと。私はここでは当時の徐の人間性については問題
にしないが、1点だけは強調したい、イギリスから戻った徐にとって、郭の作品中の
「水」は詩ではなく、文学でもなかったのだ。
郭の「水」は一体どの様なものだったのか。彼の「水」は世界文学上特殊なものだった
のか。私は欧米文学に詳しくなく、世界文学など論じ切れないが、本節を通じて郭沫若早
期文学中の「水」をきちんと整理し、中国文学の1つの特殊な状況を解くために、研究資
料を提供したいと思う。
郭沫若早期文学中によく現われる「水」は、彼の当時の福岡での自然に富む生活環境及
び当時の創作方法と必ず関係している。郭が 1921 年 10 月に郁達夫に送った手紙から知れ
る様に、彼の当時の大部分の作品は福岡の海辺で創作されている:
草葉を通って海岸に来ても、まだ百歩程の風景がある。海辺の砂浜には、多くの漁船
が並んでいる。私はいつも本を挟んで来てこれら船の中で昼寝する。私は「Inspira tion is born of Idleness」だと本当に信じる、私の多くの作品の、殆どがここで生
まれたのだ9。
彼の故郷楽山の山水、東京にいた時に行ったことのある館山の海岸も、この傾向に影響し
たかも知れない。
この様な環境の下、彼は「水」のイメージを用い「自然」を表現した。その中で私は以
下の3つの特徴に注目した:
ⅰ 融合
郭沫若の一部の詩は「自然」と詩人の「融合」を表現しており、ワーズワース的なエコ
ロジカルなロマン主義の側面を持っている。そこでは「水」の、特に「海」の生き生きと
したイメージが見られる:
太陽が一番高くなった!
無限の太平洋が男性の音調をたたいている!
万象森羅、一つの円形の舞踏!
私はこの舞踏場で波と戯れる!
私の血は海の波とともに満ち、
私の心は太陽の火とともに燃え、
私の生まれて以来の垢とゴミは
7 「『天下本無事』」『徐志摩全集』4 巻、14 頁。「Humour」は「Humowr」となっているが改める。
8 郭沫若『創造十年』(『郭沫若全集』文学編 12 巻)106 頁。
9 郭沫若「海外帰鴻」204 頁。
21
とっくに全て洗い落とされた!
私は今や殻を脱いだ蝉と化し、
この激しい日光の中で声をあげてさけんでいる:
「海を浴す」1919 年9月10 「水」は詩人を「浄化」し、詩人を生まれたすぐの「純粋」な存在へと戻す:
無限の大自然が、
一つの光る海となった。
至る所が生命の光る波、
至る所が新鮮な調べ、
至る所が詩で、
至る所が笑い:
海も笑っている、
山も笑っている、
太陽も笑っている、
私と阿和、私の柔かな苗も、
一緒に笑いの中で笑っている。
阿和、お父さんはどれだい?
彼は空を飛ぶ鳥を指さす。
オハ、私があの鳥!
私があの鳥!
私は白雲と飛び比べしたい、
私は輝く帆船と競争したい。
あなたはどちらが高く飛ぶと思う?
あなたはどちらがちゃんと走れると思う?
「光る海」1920 年3月11 詩人は「水」の中で遊び、彼と「自然」は融けて殆ど一体となっている。
「光る海」に現われた「阿和」は郭自身の息子の名である。当時の郭の詩の中に、
「海」と「孩子(子ども)」が度々一緒に現われる。彼自身もこう書いている:「私の息
子は
私が思うに彼は確かに純粋無垢な天使だ」12。当時の人々は「子ども」が「自
然」を体現していると思っていた、故にこの点からも郭が「水」の中に「自然」と自分が
調和している影を映し出していることが分かる。これは又一種の「浄化」だとも言える、
詩人は「子ども」のイメージを通して自らを子どもの頃の「純粋」に戻らせたいとする:
10 『郭沫若全集』文学編 1 巻、70 頁。
11 『郭沫若全集』文学編 1 巻、91 頁。
12 『三葉集』(『郭沫若全集』文学編 15 巻)42 頁。
22
岸の舟の中に横たわり、
Wilde の詩を耽読する;
横には嬉々と遊んでいる和坊が、
突然私を呼び醒まし。
「父さん、goran13よ!
Are wa kirei desho!」
──夕陽の光の下の大海が、
輝く金の波を浮かせている。
金の波は海の上を移り渡り、
海の島々は皆霧の中に覆われて、
柔らかな太陽はまるで月輪の様で──
童話の中の世界の様だ!
無題 1921 年 10 月14 この様な「融合」の「水」は、郭にとっては必要なものだった。彼は岡山で学んでいた
時に、日本人の家族がいるために留学生運動に参加できず、重い「悩み」を抱えた。15福
岡に来て以来、彼はこの問題を解決するために「融合」の「水」を書き出し、自らを「自
然」の状態に戻し、自らに「再生」の機会を与えた。
ⅱ 神秘
郭沫若の早期作品中の「水」は、時には「運命」又は「悲哀」を表している:
私の心血はもう煮飛ばされてしまった、
麦畑の中では又誰かが宣戦している。
黄河の水は何時清くなる?
人の命は何時終わる?
「女神の再生」1921 年2月16 涙の雫も尽きそうです、
恋人よ、
まだ戻らないの?
私たちは春から秋まで待ち、
13
14
15
16
原文は「garan」とするが改める。
「海外帰鴻」204 頁。
『創造十年』40 頁。
『郭沫若全集』文学編 1 巻、10 頁。
23
秋から夏まで待ち、
待ち過ぎて水は涸れ石も崩れました!
「湘累」1920 年 12 月17 郭は 1923 年 11 月に発表した評論「神話的世界(神話の世界)」にこう記している、こ
れら理智的でない感情は「一切の自然現象の前で」、詩人の創作を通じ、神話となると18。
同時に彼は「神話の世界」の中で、ゲーテの詩「漁夫」を引き、文学が神話に学ぶこと
を提唱している19。そのゲーテの詩が描いているのは1人の女性の水神ニンフが男を誘惑
して溺れさせる物語である。そして郭の当時の戯曲中にも、ゲーテと似た、「水」の中で
男を誘う女がいる:
私たちのこの洞庭湖では、遅くなると、時に妖精が現われ、真っ裸で一糸も纏わず、
同じ歌を永遠に唱い、同じ調べを永遠に吹いている。彼女らはでも吹くのが上手く、
唱うのも上手い。彼女らが吹けば、周囲の住民は皆涙を流し出す。彼女らは唱い飽き
て、吹き飽きたなら、湖水の中に飛び込んで深々と隠れてしまう。現われる時には、
いつも二人の女だ。周囲の住民は彼女らを女英と娥皇だと言い、皆彼女らを拝みに来
る:恋愛の成就を祈る者もいれば、子どもの成育を祈る者もいる;他にあの浮ついた
若者たち、彼女らのために水に飛び込み死ぬ者も本当に少なくない。
「湘累」1920 年 12 月20 私は春の水の様に冷たく、彼は春の風の様に暖かい;
水は春風の懐に入ると、融けて春の水となる。
水は満ち桃の花を浮かべている、彼は水に舟を浮かべている;
浪を立てて彼の舟を覆し、彼は私の中で死ぬ。
「庭梅の花」第2幕、1922 年3月21 これら男を溺れさせる女、特に「湘累」の「裸体で、髪は自然に垂らし、岸辺の岩に並
び座っている」22女は、郭が「神話の世界」で引用したゲーテの詩の中の女の水神と同じ
であり、欧州文化の影響をはっきりと受けて書き出されている。
当時郭の周囲にはある種世紀末の唯美的な雰囲気があった。前節で取り挙げた、当時彼
と一緒に福岡にいた陶晶孫の諸作品、及び郭沫若が献詩を書いた田漢訳の『サロメ』を見
ると、それが分かる。郭沫若のこれら「神秘」の「水」はこの特殊な唯美主義の雰囲気か
ら生まれたものだ。
17
18
19
20
21
22
『郭沫若全集』文学編 1 巻、16 頁。
『郭沫若全集』文学編 15 巻、284 頁。
同前、287 頁。
『郭沫若全集』文学編 1 巻、17 頁。
『郭沫若全集』文学編 6 巻、202 頁。ここでは『創造季刊』1 巻 1 期に依って題を改めた。
『郭沫若全集』文学編 1 巻、16 頁。
24
ⅲ 力
郭の早期作品中の「水」は、時に凶暴な一面を持つ:
私はあの月光の下の海の波を望み、
上古時代の洪水に想い到り、
あるロマン的な奇観に想い到り、
私の心を酔わせた。
あの時広大な大地の上は、
一面の滔々たるあり様となった;
荒山を幾つか残すのみで、
まるで海原の様だった。
「洪水時代」1921 年 12 月23 郭の早期作品中の「自然」を表すこれら「力」の物質は、主に「太陽」で代表されてい
る「火」だ。例えば「鳳凰涅槃」で彼は「火とは私だ」24と讃揚し、「日の出」と「お早
う」では詩人は太陽を直接讃美している。
しかし郭の詩中で、「火」は「水」の一種だと見做せる。郭が「太陽」を描写する時に
は、それがいつも「海」の中で再生すると描く:
曙の潮が満ちた、
曙の潮が満ちた、
死んだ光が生き返った。
春の潮が満ちた、
春の潮が満ちた、
死んだ宇宙が生き返った。
生の潮が満ちた、
生の潮が満ちた、
死んだ鳳凰が生き返った。
「鳳凰涅槃」1920 年1月25 ──新しく造った太陽は、姉さん、何でまだ出て来ないの?
──彼女は熱すぎるので、自爆しそうだから;
まだ海水の中で沐浴しているの!
「女神の再生」1921 年2月26 23 『郭沫若全集』文学編 1 巻、180 頁。
24 『郭沫若全集』文学編 1 巻、44 頁。
25 『郭沫若全集』文学編 1 巻、43 頁。
25
そして「太陽」と呼応するかの様に、詩人の体の中の「血」も沸騰し出すが、それは彼
の体の中の「火」で、当然郭の早期文学の「水」の重要な一部分である:
地球、私の母!
これからは私はお前の深い恩に報いたい、
私は自分の血液で
自らを養い、私の兄弟姉妹を養いたい。
「地球、私の母親」1919 年 12 月27 私の血が私の心の中でどんなに沸騰しているのかあなたは知らないのだ!
「庭梅の花」第2幕、1922 年3月28 「血」と同じく、詩人が悲哀を感じる時の「涙」も、詩人の体中の「水」である。そし
てまた「力」の一種の表現である:
おお、ひどく痛切な歌詞だ!おかげで私まで涙が流れて来た。流れよ!流れよ!私の
命の泉よ!お前が流れ出すと、私の全身の火を消してしまうかの様だ。私が少年のこ
ろ、炎天下の中、長江で泳いでいたのと同じ様に愉快だ。この不可思議なる内在する
霊泉よ、お前は又私をよみ返らせた。蘇らせた!
「湘累」1920 年 12 月29 ああ、私の眼が痛い!痛い!
百度以上の涙の泉に決壊しそうだ!
私のとても可憐な同胞たちよ!
「滬杭車中」1921 年4月30 あの徐志摩に批判された「涙の波が滔々」も、郭の当時の悲憤を表現するために用いられ
た。
この「力」の「水」は、時には詩人の感情が熱烈すぎて、「破滅」の域に達している:
私のこの海の様に深い哀愁は、破滅する日が来るのだろうか?おお、破滅!破滅!よ
うこそ!ようこそ!私は今や何の希望さえ無い、私は破滅の門前で死神がドアを開く
のを待っている。ああ!私は、私はあの「無」の世界に行きたい!(水に飛び込む姿
26 『郭沫若全集』文学編 1 巻、13 頁。
27 『郭沫若全集』文学編 1 巻、84 頁、注 5。
28 『創造季刊』1 巻 1 期竪排版、1922 年 3 月 15 日、8 頁。この部分は『郭沫若全集』文学編 6 巻、211 頁に
はない箇所。
29 『郭沫若全集』文学編 1 巻、23 頁。
30 『郭沫若全集』文学編 1 巻、164 頁。
26
勢をする)
「湘累」1920 年 12 月31 私は私の深紅の血が彼らの屍骸に染み込むのを早く見たい!私の力!私の血!私の憤
懣!私は飢えた蠅の様だぞ!私は檻を脱した猛獣の様だぞ!私は悪人たちの血に飢え
ている!
「庭梅の花」第2章、1922 年3月32 郭は遠く異邦で五・四運動の刺激を受け、彼の作品を発表し始め、当時の彼の文学活動
は五・四運動を声援するために創作された33。これら「力」の「水」は彼の中国への熱烈
な希望の反映である。
結語
郭沫若早期作品中の「水」は、「自然」との調和を志すものの、時に「水」に破壊され、
又時に「神秘」に溺れ死ぬ。例えば「湘累」では屈原の姉の女須は屈がもっと現実的であ
ることをひたすら願うが、屈の心中の「力」と、湖の中の女の「神秘」が、ずっと彼を滅
亡に向かわせている。この3者の関係が不安定なことが見てとれる。
これが郭の早期文学中の「水」の状況である。それは郭の早期文学のあらゆる方向に影
響している。
私が思うに、徐志摩が郭の詩を批判した原因も、ここにある。彼はあの「涙の波が
滔々」が郭文学の中でずっと存在することがないことを知っていたのだ。彼はあの文章を
通し、郭に今後どの道を進むのか選択を迫っている。
第Ⅲ章第2節で述べる様に、創造社が「けんか」を始めた時、彼らは激しい評論で相手
を攻撃する必要があった。郭もあの様な自然と調和する感情の世界に留まることは出来な
かった。彼は福岡の「自然」を離れる決意をし、中国大陸の「社会」生活に入って行った。
彼が選んだのは「力」だった:
大通りで、向き合うのは水門のある水辺ではなく、
向き合うのは働き苦しむ人々の血と汗と生命!
血みどろの生命よ、血みどろの生命
金持ちの自動車の車輪の下で
回り、回り、回り
兄弟たちよ、私は信じる:
この静安寺路の大通りの真ん中に、
激しい火山の爆発がいつかあると!
「上海の清らかな朝」1923 年4月34 31
32
33
34
『郭沫若全集』文学編 1 巻、20 頁。
『創造季刊』1 巻 1 期竪排版、8 頁。この部分も『郭沫若全集』文学編 6 巻、211 頁にない箇所。
『創造十年』64 頁。
『郭沫若全集』文学編 1 巻、319 頁。
27
さらばだ、低徊な情緒!
私の白熱している心臓に二度と纏わり付かないでくれ!
さらばだ、虚無の幻美!
私の鉄と岩の心の扉を二度とノックしないでくれ!
さらばだ、否定の精神!
さらばだ、精巧な刺繍針!
「力の追求者」1923 年5月35 郭は「水」から完全には離れていない。彼の後の作品にも、「力」の「水」が現われて
いる。
しかし「理論」の支持があるために、彼の作品中の「力」の「水」は早期の様な自らを
破壊するのとは違い、相手にだけ与える強烈な打撃と変わっている:
ああ、私はあの洞庭湖を思う、私はあの長江を思う、私はあの東海を思う、あの広大
で見渡す限りの波よ!あの広大で見渡す限りの偉大な力よ!それは自由、それは舞踏、
それは音楽、それは詩!
しかし私は、私には涙が無い。宇宙、宇宙にも涙は無いぞ!涙が何の役に立つ?
我々は雷があるだけで、閃光があるだけで、暴風があるだけで、我々はジメジメした
雨など持たない!これは私の意思で、宇宙の意思だ。轟けよ、風!吼えよ、雷!輝け
よ、電!全ての暗闇の懐に眠るものを、破壊し、破壊し、破壊せよ!
『屈原』1942 年1月36 そしてあの「力」も早期程には強くなくなった。彼は後に早期作品中の「血」に関する
描写を削っている。例えば「地球!私の母親」と「庭梅の花」第2章。後にはあの「涙の
波が滔々」まで削ってしまい、あの「涙の海」一詩から悲憤の感じを取り去ってしまっ
た37。
これが郭文学の変化の足跡である。
郭の早期文学は郭自身によって否定されたが、それ等はしかし中国現代文学をまだ代表
していると言える作品群である。そこに存在していた「水」も、当時の中国文学の成就の
1つだと言える。
35 『郭沫若全集』文学編 1 巻、322 頁。
36 『郭沫若全集』文学編 6 巻、386 頁。
37 『郭沫若全集』文学編 5 巻、391 頁。
28
Ⅰ-3 郭沫若初期文学と水泳
前節で郭沫若の福岡期文学を「水」を介して分析したが、本節ではその郭の「水」の内
在化が、日本泳法という日本の伝統を介したものだったことを論じる。
導言
郭沫若の福岡期文学作品中、「水」は本章前節で分析した様に重要な物質である;『女
神』は博多湾を歌った詩を多く収めており、当時郭沫若の書いた評論中にも「水」のイ
メージがよく言及され、『三葉集』では「詩人の心境は湾の清く澄んだ海水のよう」1と
書き、「海外帰鴻」には「シェリーの様に、海水中に溺れ死ぬことも、私は願う」2と書
いている、等々。
故に水泳、この体を直接「水」に漬ける自然を感じる方法は、郭沫若文学と「水」の関
係を読み解く上で非常に大切である。
郭沫若の福岡での生活も、水泳と密接な繋がりがあったが、これは以下の数点に現われ
ている:①郭沫若の留学期の家への手紙を集めた『桜花書簡』の中で、博多湾は先ず「鳧
水(水遊び、水泳)」3の場として現われた。②郭沫若が箱崎の海岸で張資平とばったり
遭い、彼と創造社「受胎期」4の会話をした時、張資平も「海水浴をする」5ために福岡に
来ていた。③郭沫若がマスコミに最初に発表した作品は「抱和児浴博多湾中(和児を抱い
て博多湾に浴す)」と「鷺鷥」で6、前者に描かれていたものは郭沫若が息子と一緒に海
で水泳したときの情緒だった。④この「和児を抱いて博多湾に浴す」の日本語訳を読んだ
田漢はこの詩を賞讃し7、後に福岡に来て博多湾を目にした時、これがつまり「君が君の
和児と海水浴した」8所かと尋ねた。⑤「浴海(海を浴む)」は『女神』の代表作の一つ
である。⑥「和児を抱いて博多湾に浴す」中の「息子よ!私はお前の心身が海の様に清ら
かで、山の様にさわやかであるのを望む!」9や、「海を浴む」中の「私の血は海の浪と
ともに満ち、私の心は太陽の火とともに燃える」10等は、皆海水浴時の身体感覚を通じて
表してある汎神論の思想で、この汎神論の考えこそ郭沫若が当時主張していた文学思想の
一つだった。⑦郭沫若は福岡を離れて後は、ずっと海水浴に関する作品を書かなかった。
中華人民共和国の成立後に、やっと数篇を書いている11。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
『三葉集』(『郭沫若全集』文学編 15 巻)14 頁。
『郭沫若書信集』上册、205 頁。
『桜花書簡』149 頁。
『創造十年』(『郭沫若全集』文学編 12 巻)48 頁。
『創造十年』39 頁。
『時事新報・学灯』1919 年 9 月 11 日に発表。
『三葉集』73 頁。
『三葉集』112 頁。
『郭沫若全集』文学編 15 巻、73 頁、注 3 から引用。
『郭沫若全集』文学編 1 巻、70 頁。
『潮集』の「北戴河素描」(『郭沫若全集』文学篇 4 巻、25 頁)、『駱駝集』の「試和毛主席韻」(同
113 頁)、『詩詞選』の「下竜湾」(『郭沫若全集』文学篇 5 巻、50 頁)、「看武漢第十一届横渡長江
29
故に、本章では「水泳」への多方面の考察を通して、『女神』中の「水泳」イメージの
本来の意味を復元したい。
ⅰ 水泳経歴
まず私は、郭沫若の来日後の水泳学習と海水浴の経歴を整理したい。
① 1914 年の夏、第一高等学校預科に合格した後に、郭沫若は千葉県房総半島南端の館
山、当時房州と呼ばれていた場所に行き休暇を過ごした。『桜花書簡』にはこう記してい
る:
今年の天気は異常に猛暑で
東京は人口密度が高く、夏に入ると非常に暮らし難い
ので、最近楊伯欽・呉鹿苹と共に房州に避暑に来ているんです。こちらは風景はよく
ない様ですが、気候が東京と比べて涼しいです。その上海辺の近くなので、毎日海水
浴をしており、とても面白く感じてます12。
私は房州に全部で一ヶ月余り暮らし、毎日海で沐浴し、もう五、六丈も遠くまで泳げ
ます。風に吹かれ日に晒され、体全体が黒くなり、東京に帰った当初は、友人が農夫
とふざけて呼んでいて、とても可笑しかったです。精神も健全で、体も頗る強くなり、
ご飯は毎食六、七碗も食べ、以前と比べて眼を見張るものがあります13。
1936 年に日本語で書いた「自然への追懐」にはこう記している:
試験が済むと貰つた官費で直ぐ房州の北条へ海水浴に行つたものだ。北条の鏡ヶ浦は
風のない日は真に鏡の様な平穏さだ。四川の奥深く峨眉山の麓に生まれて、家規とし
て尺14以上の水へ入ることさへ禁ぜられてゐた私に取て、一躍海へ入ることは全く生
れかへつた様な感じがした。だが、経験がなかつたので口を開いた儘、いきなり水泳
部の受持に頭を海へつつこめられ、潮水を一杯飲まされて、とても塩ぱかつた。その
瞬間に空気の経験のなかつた赤ん坊が最初に吸込んだ此の世の冷かさも、恐らく同じ
位につらいものだろうななどと思つた事は憶えてゐる。房州に於ける二ヶ月ばかりの
海岸生活は、とても呑気だつた。よく月夜の晩に友を誘つてボートを操つたり鷹島や
沖島を島巡りをしたり、時としては酒を携帯して島に上陸して飲んだりした15。
彼と一緒に行った呉鹿苹の回憶にはこう記す:
彼が預科に受かった恰度その時、大体六、七月の間、東京の天気は異常に猛暑だった
が、楊伯欽と私と郭老の三人がいて、房州に避暑に行くのを約束した;房州は、海岸
12
13
14
15
比賽」(108 頁)等。馮錫鋼「郭沫若与毛沢東的游泳詞」(『郭沫若学刊』2007 年 3 期、22 頁)参看。
『桜花書簡』26 頁。
『桜花書簡』33 頁。
現在の 30㎝余り。
『文芸』2 巻 2 号、54 頁。
30
地区の一つで、私たちはそこに部屋を一間借り、自分でご飯を作り、約三、四週間暮
らした16。
あの時郭老はまだあまり水泳が出来ず、ある日、彼は独りで海辺まで走って行って泳
ぎ、もう少しで溺れ死ぬところだったが、一人の日本人が彼を救い出し、私たちが暮
らしていた所まで送り返してくれた、残念ながらこの日本人の名前は忘れてしまった。
後に、この事件故に、私と楊伯欽は彼を批判したが、彼はいつもこう言っていた:
「あれが何だってんだい、少し水を飲んだだけじゃないか。」郭老って人は何事に対
しても、楽観的で視野が広かった17。
一高預科の同級生張資平の「夜明けの創造社」はこう記す:
私が九州に行く一週間前のとある午後
郭君は漁師が着る浴衣を着ていて、房州又
はその他の海水浴場から東京に帰って来た様だった18。
注意に値するのは、郭沫若は故郷で「家規として尺以上の水へ入ることさへ禁ぜられて
ゐた」ので、この時「まだあまり水泳が出来」なかった点である。館山に着いた後に、
「水泳部の受持」等の指導の下でやっと泳げる様になった。
その上「漁師が着る浴衣を着ていて」、「風に吹かれ日に晒され、体全体が黒くなり、
東京に帰った当初は、友人が農夫とふざけて呼んでいて」、彼が館山の自然と海水浴に満
足している様子が見て取れる。
② 1915 年の夏、郭沫若は岡山の第六高等学校に分配され、そこで成仿吾と知り合い、
時には共に海に泳ぎに行っている。成の回憶にはこう記す:
岡山で、私たちは一緒に暮らし、一緒に六高に通学し、一緒に操山に登り、一緒に旭
川に船を漕ぎに行き、その上日本の四国の栗林園と瀬戸内海を一緒に旅した。二人で
共に浪を起こして泳ぎ、海を何十里19もの遠くまで泳いで、それからまた海辺に泳ぎ
戻った。彼はいつもこう言っていた、大海原は彼の激情を呼び覚ますことが出来、海
を一目見ると、どんな憂鬱や煩悶も全てが消え去ると20。
③ 1916 年、夏休みを利用して東京に行き、第一高等学校で朱舜水を弔い21、聖ロカ医院
に友人を見舞いに行き、佐藤をとみと知り合った。この時も館山に泳ぎに行っている。
『桜花書簡』にこう記す:
16
17
18
19
20
21
『桜花書簡』27 頁、注 1。
『桜花書簡』34 頁、注 3。
『現代』3 巻 2 期、223 頁。
「十里」は現在の5㎞程度。
「懐念郭沫若」309 頁。
「自然への追懐」55 頁。
31
夏休みがもうすぐです。帰省の件は近頃時事を鑑みるに、出来そうにない勢いに思え
るので、私は近頃矢張り房州に行き海水浴をすると決めました22。
張資平の「夜明けの創造社」にはこう記す:
私はその年(民国五、詰まり 1916)の夏休みは、早くから東京にいる同郷と約束し
ていて、皆で房州に海水浴に行き、そこで家を一軒借りて一、二ヶ月住み我々の脆弱
な体を鍛える予定だった。中国人留学生は皆、日本の正式な学校に入ると、自分の体
格のひ弱さを感じてしまう。
房州で私が海の中から起き上がったばかりで、短パンを穿いたのみで、びしょび
しょなままの時に、ある友人の紹介で、あの有名な猿顔の成灝と知り合った
数日後またこの海岸で郭開貞に遭った。皆で砂浜で高等学校の授業が多すぎること
について話した。その後そこで会うことはなかった。郭開貞はその年の夏休み、その
海岸で彼の安娜を待っていた。彼は恰度安娜を激しく求めていた。これは三葉集と落
葉を参見せねばならない23。
④ 1917 年夏、郭沫若は佐藤をとみとの同居をもう始めており、岡山に留まって夏休み
をすごした。岡山には旭川という川があり、彼はそこで水泳の練習をした。『桜花書簡』
はこう記す:
私は今年岡山に留まり、とても楽しんでおります、毎日午前は家で勉強し、午後は川
に入って水浴びします。岡山市内には小川が流れており、旭川という名のは、沙湾の
茶渓みたいなのです;水は清くて浴びるのに適しており、日本人は会を作って遊泳法
を講習していて、大小の学生が多く会に入っています。私は水泳を学んでもう三年に
なりますが、そんなに進歩しておらず、最近は十丈24程だけ泳げますが、蒸される様
な暑さで、川に一度入ると、自然と涼しくて心地良いです;堤に上がって休憩すると、
太陽が背を照らし、こそばゆく照らすので、本当に説明出来ない楽しさです。私は早
く家に戻り、弟や甥たちを連れて、毎日茶渓に行き、私の学んだ水泳の技を彼らに教
えたいとも考えています25。
⑤ 1918 年6月、もう長男がいた郭沫若は六高を卒業した。彼の小説「月蝕」に依れば、
彼ら一家三人は「日本東北」に避暑と水泳をしに行っている:
六月に私は高等学校を卒業した。卒業後の夏休み、私たちは日本東北の海岸で海水浴
22 『桜花書簡』94 頁。
23 『現代』3 巻 2 期、223 頁。
24 「十丈」は現在の 30m 以上で、先に成仿吾が記した5㎞の数倍と差がありすぎる。思うに3年間学んだ
だけの人が5㎞泳げることなどあまりあり得ない。成仿吾が誇張して書いたのだろう。
25 『桜花書簡』132 頁。
32
をしに行く予定だったが、一ヶ月前に、私の妻は私たちの長男を連れて先に行った26。
郭沫若は「日本東北」とのみ記すが、それは佐藤をとみの故郷仙台のはずだ。何故なら親
戚の訪問以外に、彼らが西日本から東北に行く理由がないからだ。ただしこれは小説の中
でのみ言及されたことである。
⑥同年8月、郭沫若は九州帝国大学に通うために福岡に行き、箱崎海岸で泳いだ。『桜
花書簡』の中では、父母に福岡を紹介し、海辺の自然の美しさと、自分がそこに泳いでい
ることを記している:
住んでいる家は大学からとても近く、二百歩も歩かぬうちに、大学の後門で、授業に
出るのは便利ですね、海岸からも、又遠くなく、空が晴れたら海に入って水泳出来ま
す、今日は天気がとても良く、昼食を食べた後に、水泳に行く積もりです。海岸の山
には蒼々とした松が何万何千本もあり、眼に写るは全て青で、空気もとても新鮮で
す27。
そしてそこで彼は又張資平と遇ってしまう。『創造十年』にはこう記す:
ある日のお昼、私は早めに昼食をとった、午後に起き易いけだるさと眠気から逃れる
ために、私は住み家を走り出て、松林の中で散歩していた。恰度筥崎宮前の参道まで
歩いたら、気付かぬうちに海岸からあがって来た張資平と遇った。
──「お、君は何でここに来たんだい?」
──「お、君も何でここに来たんだい?」
殆ど同時に二人の声が出た。
彼は学校の授業がまだ始まってなかったので、一人で福岡に海水浴に来たの
だった28。
二人でその参道の脇のある石灯の下でかなりの時間話し、張さんは私に昼食をとった
かとたずねた、そして彼は部屋に戻って食事をしたいと言った。私もだから彼につい
て彼の泊まっている所へ行った。彼は何と近くの村のある修築したばかりの下宿屋に
泊まっていた。彼は二階に泊まっていた。六畳の畳の上には卓袱台さえ無く、藤の手
箱が一つあるだけで、手箱の傍には本が何冊か散らばっていた。私が適当に一冊拾っ
て見ると、当時淫書として有名だった『留東外史』だった。
資平が昼食をとってから、二人で又海岸に来た29。
26
27
28
29
『郭沫若全集』文学編 9 巻、53 頁。
『桜花書簡』149 頁。
『郭沫若全集』文学編 12 巻、38 頁。
同前、42 頁。
33
二人で浜辺の石で出来た灯台の傍で服を脱ぎ、海へと向かった。海水は満潮時だった
が、あの博多湾は「遠浅」で、水の中でとても遠くまで歩いても、そのまま海底に足
が着いている。海底浚渫船が一艘湾の中心に近い所でガラガラと働いている。機械を
動かす燃料は軽油で、私たちが海の中で少し泳いだ後、多分風向きが変わったのだが、
元々清潔だった海水が、海面に軽油が浮き上がり、太陽の光の中で虹色に輝いた。大
変だ!大変だ!二人は慌てて又海岸へと走って逃げた。抱洋館の海に面した大楼を見
ていると、遊びに来た男女たちが、最上階でビールを思い切り飲んでいた30。
張の「夜明けの創造社」にはこう記す:
あれは恰度夏休み中だった。私は福岡の箱崎湾で二ヶ月以上海水浴をした。
恰度その時、郭開貞が六高から卒業し、福岡の医科大学に入った。彼と安娜はもう
小さな子どもが一人いた。私たちは箱崎海岸で遇った31。
その後⑦ 1919 年秋、「和児を抱いて博多湾に浴す」と「海を浴す」を発表した。
この様に、郭沫若は 1914 年に一高預科に合格してから、福岡で『女神』の詩篇を書く
まで、毎年の夏水泳の練習を心掛けていた。水泳は郭沫若の留日生活中の無視出来ぬ一部
分だった。
ⅱ 日本の伝統・近代・モダン
以上私は郭沫若の日本での水泳経歴を整理した。そこには注意すべき問題が三つある。
①郭沫若の水泳は、明らかに日本の伝統の色彩を帯びている。
郭沫若は岡山で水泳教室を眼にしたが、彼らが練習していたのは日本泳法の一つ神伝流
だった。岡山神伝流同志会は当時旭川の相生橋の下流で、毎年水泳講習会を開いていた32。
日本は四方が皆海で、武士は昔から水泳を練習し、水中での戦に備えねばならなかった。
日本泳法はヨーロッパのクロール等とは異なり、スピードはあまり重視せず、遠距離の水
泳と各種水中技術の鍛錬を重視した。例えば神伝流は:
平体、横体、立体と自由に泳ぎ得られ、永続泳法であり、永く水に堪え得る特質を
持って居る。
即ち比較的疲労が尠い無理の無い泳法であるから、競泳などには不適当である。片
抜手など美しい泳法である33。
②しかし郭沫若が学んだ日本泳法は近代的な背景を具えたもので、かつての武士の学ん
だ技芸とは違うものになっていた。それは当時の日本国家が推し広めた、近代の色彩を強
30
31
32
33
同前、44 頁。
『現代』3 巻 2 期、224 頁。
『神伝流』55 頁。
西村節『水泳』14 頁。
34
く帯びた健康スポーツだった。
明治二〇年代にみられる海外進出の軍国的風潮は、「海国日本」のスローガンのもと
に海水浴場にも押し寄せる
このような水泳の奨励が、文明開化以降、旧幕府時代に通用した存在理由を失って
わずかに水術師範らの生計の手段に生活を見出していた水術に、新時代における水術
の使命感を抱かせた。もはや、水練は、川泳ぎの時代を捨てて、大海原へ乗り出す海
国男児を相手とせねばならぬ時代へと移ったのである。
そして、明治二四年、これまでの隅田川から神奈川県片瀬へと移動した学習院、明
治二七年、神奈川県大津に開設された一高水泳部につづいて、明治三〇年代になると、
各地の海水浴場には、学生の水泳部がつぎつぎと姿を見せることとなる。これらは、
いずれも日本水泳諸流派のいずれかに属し、スピードよりも一掻き進む距離や型の美
しさ、遠泳に主眼がそそがれていた。今日の静水における競泳とは全く性質の違った
ものである。
しかも、それまでの海水に浴する感覚の海水浴場に、泳ぎの練習場という雰囲気を
持ちこんでいる34。
この意味の上で、私は郭沫若が岡山で記したこの言葉を重視する:
私は早く家に戻り、弟や甥たちを連れて、毎日茶渓に行き、私の学んだ水泳の技を彼
らに教えたいとも考えています35。
郭沫若はこれら近代色彩の水泳が中国に持ち帰るに値すると考えていた。彼は意図的にこ
の体育運動を学んでいた。しかもこれら体育運動の直接の産物は:
風に吹かれ日に晒され、体全体が黒くなり、東京に帰った当初は、友人が農夫とふざ
けて呼んでいて、とても可笑しかったです。精神も健全で、体も頗る強くなり、ご飯
は毎食六、七碗も食べ、以前と比べて眼を見張るものがあります36。
この様な身体の改善だった。郭沫若が持ち帰りたかったのは詰まりこの様な近代的な健康
的国民のイメージだった。
③最後に、当時の海辺での水泳、詰まり海水浴は、一種のモダンな娯楽方式だった。
日本は四面を海に囲まれてはいるが、娯楽としての浜辺での水泳の歴史は左程長くない。
海水浴の習慣も明治以降に欧州から日本に伝わった:
明治 14 年に内務省により日本に導入が図られた
34 木下秀明『スポーツの近代日本史』64 頁。
35 『桜花書簡』132 頁。
36 『桜花書簡』33 頁。
35
初期の海水浴は娯楽性の伴わな
い純然たる医療行為として認識されていたのである37。
明治 38(1905)年,阪神電気鉄道が
海水浴場を開設した。このころから,他の
鉄道資本も海水浴場の開設を積極的に進めるようになった。こうした開設は鉄道旅客
の増加を意図して行われたものである。そのため,海水浴場には遊戯施設が併設され
るなど,行楽としての海水浴が普及した38。
福岡も同様だった:
明治 30 年代末から 40 年代初めに海水浴が行われるようになった海水浴場で
箱崎
が挙げられる。
特徴は、九州鉄道や博多湾岸鉄道等の石炭を輸送する目的で敷設
された鉄道が海水浴場の主催や割引切符の発売を行なう等、大きな役割を果たしてい
る点である。
箱崎は久留米や佐賀からも来訪しており、全体的に遠方からの浴客
が多く
医科大学裏39も同時期に海水浴が行われているが、主に九大生の水泳練習
の場として利用されていた40。
箱崎が代表的な海浜リゾートになったのは、2つの要因が考えられる。糟屋郡役
所41・筥崎宮・九州帝国大学があったため、九州鉄道・博多湾岸鉄道・福博電気軌道
といった交通機関の充実である。もう一つは遠浅の海が海水浴場に大変適していたと
いうことである。そういった要因に加え、箱崎水族館・抱洋閣といった他に類を見な
い施設が存在していたことによって箱崎の海浜リゾートとしての魅力が増していた42。
結語
以上を纏めると、郭沫若は日本に来てから水泳が出来る様になった。水泳は体で自然を
感じる方式であり、日本の伝統と近代・モダンの統一体でもあった。その中の近代性は郭
沫若が持って帰りたかったものだった。郭沫若は水泳詩「和児を抱いて博多湾に浴す」の
中で、この近代性を讃美している。郭沫若の水泳は『女神』に、千代の松原の緑と博多湾
の青の他の、言わば健全的な色彩を添えていた。
37
38
39
40
41
42
小口千明『日本人の相対的環境観』127 頁。
同前、142 頁。
医科大学の南は当時一面の海岸だった。
麻生美希・宮本雅明「福岡市とその近郊における近代海浜リゾートの成立に関する研究」605 頁。
箱崎は当時糟屋郡に属していた。
麻生・宮本「福岡市とその近郊における近代海浜リゾートの成立に関する研究」607 頁。
36
Ⅰ-4 郭沫若留学前旧体詩と李商隠
本章第1節の注 12 で触れた、郭沫若の唯美主義と中国古典文学との関係を、郭の青少
年期の旧体詩に見られる李商隠の影響を切り口に探る。
はじめに
本節の目的は、郭沫若が成都の、四川省城高等学堂分設中学堂(今の石室中学)で学ん
だ時期(1910 1913 年、19 22 歳)に創作した旧体詩に、晩唐の李商隠の影響が見られ
ることの証明と、その位置づけをすることである。
李商隠(811? 858 年)は晩唐を代表する文学者で、役人としては保守・革新派の「牛
李の党争」に巻き込まれるなどで出世できず、主に地方の節度史の幕下に身を寄せた。
『玉谿生詩集』と『樊南文集』が今に伝わる。詩は難解な典故を多用した朦朧とした雰囲
気と、平易な語を用い繊細に感情を訴える恋愛詩が特徴で、「西崑体」として宋初まで強
い影響をもった。その後も李の詩に魅了される文学者は跡を断たず、現代文学では聞一多
が第一詩集に『紅灯』と、李の後述する「夜の雨、北に寄せる」を意識した題を付けてお
り、当代文学でも例えば王蒙の小説集『相見時難』は李の「無題(相見時難)」を用いて
いる。
この様な李商隠文学の影響が、郭沫若にもあったことを、本節ではまず証明する。
郭沫若文学への古典文学の影響は、屈原や李白を中心に論じられて来たが、独り李商隠
に関しては、所見の限り、郭沫若本人も含め誰も言及していない。同じ現代詩でも先述の
聞一多への影響は論じられて来た1のと対照的である。
その原因は何よりも、郭自身が李に言及するのを避けて来たからだ。『郭沫若全集』を
通して、李に言及する箇所は幾つかあるものの、どれも李の詩を文学作品として正面から
扱ったものではない2。又以下に説明する様に、郭は幼年期に確かに李詩を学び、又明ら
かに李詩を利用して自らの詩を成しているのに、自伝や回想中で李に全く触れようとせず、
明らかに李詩と関わることを避けている。
この様な郭の文学への、李商隠の影響がどのようなものかを読み解けば、日本留学を機
にそれを捨て去った郭沫若の意図と、反照としてのその後の彼の留日文学の一側面が現わ
れるのではないだろうか。
また一方で、郭が李詩を熟知していたことを証明できれば、本章第1節注 12 で取りあ
げた郭の「ミサンスロープの夜の歌」の「鮫人」の語が、李の後述する「錦琴」を踏まえ
1 鈴木義昭「聞一多と李商隠」『文芸と批評』5 巻 2, 3 号、1979 年など。
2 現在把握しているのは『郭沫若全集』文学編の以下の5箇所:2巻 279 頁「聴唱《湘累曲》四首」
(1942 年)の「霊犀点点通」の句は、注に云う様に李商隠の「無題(昨夜星晨)」を踏まえていると考
えるのが適当;8巻 250-251; 264-270 頁は李の「利州江潭作」詩を利用して則天武后の出生地を考証し
ている(1961-62 年);15 巻 230 頁「批評与夢」(1923 年)では本節にも挙げた「錦琴」の「望帝春心
托杜鵑」をそのまま引用している;17 巻 220 頁「 一唱雄鶏天下白 」(1958 年)に李の「韓碑」の
「点竄尭典舜典字,涂改清廟生民詩」の句をそのまま引いている。「利州江潭作」を除き全て『唐詩三
百首』に収録。
37
たものである証拠となり、郭の唯美主義的発想の源の1つが李であることになる。
ⅰ 旧体詩学習
現在は四川省楽山市に含まれる、沙湾という河沿いの村の、裕福な商人の家に生まれ
育った郭沫若は、清朝末の旧来の統治が続く中で当然の如く、5歳から自宅の一室に設け
てあった家塾で、科挙を受けるための学習を始めた。
ただし詩との接触は、文字を学ぶ以前からあったという。郭の母:杜邀貞は、不幸な幼
少のためきちんとした勉強が出来なかったが、郭の回想によるとその彼女が郭にそらんじ
て聞かせた唐詩が、彼の一生の最初の文学体験であった。
母は生まれつき頭の良い人で、幼時に父と母のいない孤児となり、全く勉強をしな
かったにも関らず、ただ耳と目だけで、字も少しは知っていて、しかも多くの唐詩を
暗唱出来た。私が勉強を始める前に彼女は私に多くの詩を憶えさせた
『私の童年』3 私の母は事実上私の本当の最初の先生で、私が勉強を始める前に彼女は私に多くの唐
宋人の詩や詞を暗唱させた。
「私の学生時代」4 その後郭は家塾に入り、科挙受験のための詩の学習を始めた:
私自身は科挙時代の余波をかぶった者で、八股は作ったことは無いが、「賦得体」の
詩帖詩や、この種の詩の基礎──二字から七字以上の対語を作ったことがある。これ
らの作業は七、八歳の頃に始めるものだ。しかしこれらの作業の準備、詰まり詩を学
んだり、平仄四声の類を学ぶのは、始めるのが最も早く、五歳の学び始めた時に学ん
だ『三字経』・『唐詩正文』・『詩品』の類から、後に学んだ『詩経』・『唐詩三百
首』・『千家詩』の類に至るまで、全て基礎作業である。
「私の作詩来歴」5 私たちの家塾の規則は、昼間は経書を学び、夜に詩を学ぶだった。詩を学ぶのは言う
までもなく詩を作るための準備である。私たちが学んだのは『唐詩三百首』と『千家
詩』だった。これらは同じ様に全ては理解出来ないものだった
詩を学ぶ上で奇怪な現象があり、比較的分かり易い『千家詩』が私たちに与えた感
銘は浅く、比較的古く難しい唐詩が私に強い興味を抱かせた。唐詩の中で私は王維・
孟浩然が好きで、李白・柳宗元が好きだったが、杜甫が余り好きでなく、韓退之の詩
は私は嫌いで、文も私は嫌いで、彼の思想ときたら私は更に浅薄に思えた。これは後
3 『郭沫若全集』文学編 11 巻、32 頁。
4 『郭沫若全集』文学編 12 巻、7 頁。
5 『郭沫若全集』文学編 16 巻、210 頁。
38
の感情だったかも知れないが。
『私の童年』6 この様な家塾での「基礎作業」を経て、郭は自らも旧体詩創作に親しんでいく:
これらの基礎作業及び練習により、十三歳で小学校に入り新式教育を受けるまで、旧
体詩の陳腐な表現も幾つか学べて、時には今に至るも記憶の中にある絶句の短い章を
幾つか作っていたが、本当の詩への興味と力はまだ無かった。
ここで指摘しておきたいのは、郭が『唐詩三百首』を学んでいることである。現代に至
るまで唐詩の入門書とされている本だが、その中に当然李商隠の詩も収められており、し
かも後述する郭が自らの詩で踏まえたと、私が判断する李の詩は、この『唐詩三百首』に
収められた、中国古典詩に親しみのある者なら誰でも知っている作であった。
ⅱ 成都期作品評価
その後楽山を経て郭沫若は成都に学ぶが、郭沫若が成都で生活していた間に、1911 年
の辛亥革命と、その先駆となった保路運動が起こった。保路運動をここで説明すると、
1904 年に四川総督錫良が設立した川漢鉄路公司は、四川の民間資本家に株を買ってもら
い、四川省独力で武漢の漢口から成都まで線路を敷き始めた。1911 年5月、清朝政府の
郵伝部尚書盛宣懐が川漢鉄路の国有化を命令、鉄道利権で英・仏・独・米の銀行から借款
を得ようとした。川漢鉄路公司は6月 16 日に株主総会を開き、立憲君主派の蒲殿俊と羅
綸の指導の下、翌日四川保路同志会が成立(郭沫若もその場に紛れ込んでいる)7、四川
総督趙爾豊と鋭く対立。夏には革命派が指導する保路軍が、新津など各地で清朝軍と衝突
し、次々と独立を宣言。清朝は武漢の武昌から、大臣の瑞方に鄂軍を率いて四川に向かわ
せたが、この政府軍の不在が、10 月 10 日武昌起義の好条件を生み、辛亥革命の引き金と
なった。
この様な保路運動と、それに続く辛亥革命・中華民国の成立という激動の社会変化の中
で、郭沫若の成都での日々は過ごされた。そしてこの様な成都で郭が書いた詩に、後述す
る様に李商隠の影響が見出せる。
ところが郭沫若本人は、後年の回想で、成都時期の詩作を全く評価していない:
国内の中学で学んでいた数年間、科学方面の教員たちはすべて、新旧不連続の資料で、
科学的な興味を呼び起こすことができず、私自身も古い詩や、古い学問の中で時間を
無駄に費やすしかなかった。この不幸な数年間は、私の後日のどうしても克服出来な
い文学傾向を形作った。
『創造十年』8 6 『郭沫若全集』文学編 11 巻、40 頁。
7 『反正前後』(『郭沫若全集』文学編 11 巻)234 頁。尚その前後に名の現われる朱山は、郭沫若の成都
期旧体詩を考える上で欠かせない存在だと思われるが、その詩の考察は後日の宿題としたい。
39
この時期は私の最も危険な時だった。私は必死に白酒をのみ、麻雀をし、毎晩毎晩泥
酔し、毎晩毎晩無理に賭けた。当時の学校は寮に住むのではなく、授業に出るもの自
由だった。私は一度三日三晩の麻雀をし、その後座るのさえできない程だった。麻雀
をせず酒も飲まない時には京劇を観て(革命の結果京劇を四川に輸入した)、成都の
いわゆる「ごろつき」の真似をし、いつも劇場の第一列に座り、自分が贔屓の女形に
奇怪な声で喝采した。これらより些かちゃんとしている時には下手な詩を作った;杜
甫の「秋興八首」の韻を使い、時に感じ世を憤る律詩の真似をしたり、我が郭家の郭
璞をまねて遊仙詩や擬古詩を幾つか作った。今振り返ってみると少し不快なのだが、
あの頃の青年は、不快なものでも作らせないなら、彼を自殺させるしかなかった。
「黒猫」9 浮ついて乱れた「真似」の生活の中で作った「不快」な作だとしている。
1979 年、郭沫若の没後に、楽山市文管所の編で『郭沫若少年詩稿』(以下『少年詩
稿』と略す)が出版された。沙湾・楽山・成都での、郭の留学前の旧体詩が、郭自身が回
想等に引用したものを除き、網羅的に収められている。全てそれまで一般読者が眼にした
ことの無かった作ばかりで、文管所に保管されている、郭沫若の当時のノートなどから詩
を採集している。
この『少年詩稿』の出版以降、成都期の詩は研究者から高い評価を得ている。唐鑑・唐
明中は『少年詩稿』の「後記」にこう記す:
内容から読むと、大体三つの部分に分けられる。
第一部分は、辛亥革命の前。反封建と、幸福自由への憧れを題材としている。この
時期に早くも、現代科学の物質文明を讃え、人民大衆の発展する科学文明への熱望を
表している。
第二部分は、辛亥革命が勝利を得たことを題材としている。彼の極度に喜ぶ気持ち
が、詩行に溢れている。
第三部分、辛亥革命が失敗した後、彼の極度に喜んでいた気持ちが、国を憂い民を
憂い、時を感じ世を憤るものに変わる。これはこの詩集で最も眼を奪う部分だ。強烈
な革命民主主義と愛国主義の思想が彼の魂の全てを占めている10。
1984 年に李保均は『郭沫若青年時代評伝』の中でこう記している:
強烈な愛国主義思想と強固な反抗精神が、郭沫若のこの時期の革命民主主義思想の主
流だった;それは彼の五四時期の新民主主義革命思想の大発展と提唱の基礎だった。
この時期、資本主義階級の民主主義革命思想の局限性により、彼も時には失望・消
8 『郭沫若全集』文学編 12 巻、65 頁。
9 『郭沫若全集』文学編 11 巻、311 頁。
10 『郭沫若少年詩稿』149 頁。
40
極・低調な気持ちが生まれたが、彼の革命民主主義思想の主流は、始めから終わりま
で前に突っ走ることであり、そして五四時期には新しい飛躍と、新しい昇華を得た11。
1994 年の陳永志『郭沫若の詩歌創作を論ず』の評価は少し厳しい:
ロマン主義の風格を具えている作品はこの時期多くなく、この時期の詩はやはり写実
主義が優勢だった。それら本当に現実を反映している作品は、いい作もあるが、大体
一般化でなければ概念化で、殆どがイメージに乏しく、特に典故の使用が多すぎて、
中には句全てに典故がある詩もある。本当に現実を描き、杜甫の「詩史」のような筆
致で社会生活を反映することは、郭沫若が得意とすることではないようだ。彼の自然
を詠った詩篇は新鮮で、生き生きとしていて、郭沫若の特異な芸術の才能をはっきり
と表している。作家はいつも、すぐには自分の長所を発見して発揮することができな
いものだ、自分に適したテーマと音調を求めるために、実践と模索が必要で、時には
苦しい労働と長々とした時間が必要になる。この時期の郭沫若はつまりこのような時
にあった:詩の強烈な時代感、豪放で淡い風格、自然美への独特の感受性、これら後
の詩の中の安定した特色はもう予兆がはっきりしているが、彼はそれらを自覚的には
認識しておらず、まだ自覚がなくそれら彼個人に属する特別の才能を発揮しており、
古典詩によく見られる古いやり方でいつもその才能に蓋をしている。この矛盾は、新
しい執筆実践が解決するのを待たねばならない。重要なのは我々が、彼の偉大な詩人
としてのそれらの特徴を、彼の創作の最初の段階で、初歩的に、はっきりと現われた
のを見たことだ12。
3者共に、郭の当時の混乱した政治社会への愛国主義的感情の発露を高く評価している。
その中で陳の評価には、唐らや李が賞讃一方なのと違い、成都での郭の旧体詩が、定型詩
で典故をふんだんに用いるのを当然とするスタイルに足を引っ張られている点も指摘する。
これは郭自身が「真似」とし、「不快」だとした側面を指すものであろう。
李商隠詩からの郭の当時の旧体詩への影響も、この「真似」に属すものである。
ところで郭は回想の中で、幾人かの唐詩人の名を挙げ、その中でも杜甫は「秋興八首」
の名まで挙げてその「真似」を告白しているが、引用した回想部だけでなく他でも、郭は
李商隠と自らの成都期の文学との関係に言及していない。次に説明する様に、現存する
『少年詩稿』の郭の詩の中で、李からの影響は歴然としている。後年の郭にとって、成都
期の李詩の影響はただの「真似」なだけでなく、触れたくもなかったものだった。
何故触れたくないかと言えば、それは勿論李商隠からの影響がひどく「真似」であって、
「不快」だったからだろう。ではどの様に「不快」だったのか、それを知るために作品を
見てみよう。
ⅲ 具体的比較
11 『郭沫若青年時代評伝』71 頁。
12 『論郭沫若的詩歌創作』15 頁。
41
船中で雁の声を聞き、呉君耦逖の死を泣く 四13 郭沫若
何事阳侯怒, どうしたんだ、水神が怒り、
噩音千里传。 悪い知らせが千里を越えて伝わった。
鲛人珠有泪, 鮫男の真珠は涙があり、
精卫恨难填。 精衛の恨みは埋め尽くしがたい。
子诞半年甫, 子どもは生まれて半年たったばかり、
椿残三日先。 チャンケンは散る、三日先に。
伤心古无此, 傷心、昔よりこれほどのものはなく、
天道太茫然。 天道はあまりにも茫然としている。
友の水難事故死を悼む郭沫若の詩。3句目の「鲛人珠有泪」と8句目の「茫然」の部分
が、李商隠の以下の詩に通じている:
錦琴14 李商隠
锦瑟无端五十弦, あでやかな琴は理由もなく五十弦、
一弦一柱思华年。 一本の弦一つの琴柱に華やかだった頃を思い出す。
庄生晓梦迷蝴蝶, 荘子の明け方の夢では蝶に迷い、
望帝春心托杜鹃。 望帝の春心は杜鵑に託してある。
沧海月明珠有泪, 青い海の月は明るく、真珠には涙があり、
蓝田日暖玉生烟。 藍田の日は暖かく、玉に煙が生じている。
此情可待成追忆, この思いは追憶となるのを待つべきだろう、
只是当时已惘然。 ただあの時にはもう茫然としていたが。
李が妻の死を悼んだ詩とされている。「珠有涙」の箇所は、本章第1節注 12 でも説明し
ている様に、元々は六朝の志怪小説集『捜神記』巻 12 や、『文選』巻5左思「呉都賦」
の李善注に引く、泣いた涙が真珠となる鮫男の話を踏まえていて、郭の詩も「鮫人珠有
涙」としているから勿論この話を典故としている。そして先述した様に郭は李のこの「錦
瑟」を幼少から親しんでおり、李の「錦瑟」はこの鮫男の話を利用した最も代表的な詩で
あり、かつ同じ「珠有涙」の3文字を使っているので、郭が李詩を意識していた可能性は
高い。
なおこの鮫男の話は、本章第1節注 12 で述べた様に、郭が福岡で 1920 年に書き、後に
『女神』に収めた「ミサンスロープの夜の歌」の「鮫人」の語にも引かれている。『少年
詩稿』所収の 1911 年に書いた「船中で雁の声を聞き、呉君耦逖の死を泣く」が李詩を踏
まえたものであれば、同じ語を用いる「ミサンスロープの夜の歌」にも李詩が影響してい
た可能性が非常に高くなる。「ミサンスロープの夜の歌」はワイルドの『サロメ』の中国
13 『郭沫若少年詩稿』45 頁。
14 『玉谿生詩集箋注』巻 2、493 頁。
42
語訳に付された詩だから、この詩を書いた時に、郭の詩想の中で、ヨーロッパ世紀末の唯
美主義と中国晩唐の唯美主義が結び付いていたことになる。
李詩の「惘然」と郭の「茫然」が通じるとしたが、共に茫然としているという意味で、
前者の現代中国語の発音は wǎngrán、後者は mángrán、前者の「惘」は上声の仄、後者の
「茫」は平声という違いはあるものの、中国語旧体詩の平仄の規則で関係で使い分けられ
得る、通用する語彙である。上の鮫男の話で李詩との関連があったのならば、こちらでも
当然影響があったと考えてよい。
錦里で毛大に遇い、酔った後に□する 一15 郭沫若
乌兔追随几隔年, 太陽と月は追い従い何年も経った、
依稀往事已如烟。 ぼんやりとした以前のことはもう煙のようだ。
灯前共话巴山雨, 灯火の前で一緒に巴の山の雨を語ったが、
总觉罗浮别有天。 羅浮のことはいつも別の世界のことだと思えるよ。
郭沫若のこの詩は錦里、成都武侯祠の東側の飲食街で、郭らが学んでいた現在の石室中
学からもすぐ近くの所だが、そこで楽山時代の旧友と出会い、共に飲んだ際の作品。3句
目「灯前共話巴山雨」は、間違いなく李商隠の以下の詩を踏まえている:
夜の雨、北に送る16 李商隠
君问归期未有期, 君は帰る時期を尋ねるが、まだ決まっていない、
巴山夜雨涨秋池。 巴の山の夜の雨が秋の池の水かさを増している。
何当共剪西窗烛, いつになったら一緒に西窓の蝋燭の芯を切り、
却话巴山夜雨时。 そして巴の山の夜の雨振る時を語れるのだろうか。
巴は今の重慶辺りを指すが、李は一時四川省に滞在し、先述の武侯祠を詠んだ詩も作って
いる。詩中の「君」が誰を指すのか、男女の情交を指す雲雨のイメージから女性特に妻な
のか、又は、中国古典詩では一般的なのだが、男女の愛情男性同士の友情は信頼の例えと
した作なのか、この「夜の雨、北に送る」ははっきりとしないのだが、そこに繰り返し用
いられる「巴山夜雨」の語と、添えて用いられて遠地での雨の夜のイメージを強めている
蝋燭の灯の下で語り合うという設定は、この李詩だけの独創であり、この詩を『唐詩三百
首』で学んでいる郭は間違いなく踏まえて自作を書いている。蜀の故地に育ち、巴の地に
はまだ足を運んだことがない郭が、わざわざ巴の名を挙げているのも、それが李詩の引用
であることを示している。
錦里で毛大に遇い、酔った後に□する 三17 郭沫若
15 『郭沫若少年詩稿』88 頁。
16 『玉谿生詩集箋注』巻 2、354 頁。
17 『郭沫若少年詩稿』88 頁。
43
屈指韶华二十年, 青春の二十年を指折り数えると、
茫茫心绪总如烟。 寄る辺なき気持ちはいつも煙のようだ。
故人相对无长物, 昔の友人と向かい合っていても身についたものもなく、
一弹剑铗一呼天。 剣の柄を弾いたり天に呼びかけたり。
先の郭沫若詩と連作の詩。4句目の「一
である:
一」という繰り返し18が、以下の李詩と同じ
無題19 李商隠
飒飒东南细雨来, サーサーと東南の小雨が来た、
芙蓉塘外有轻雷。 蓮の花咲く池の向こうでかすかに雷が鳴った。
春心莫共花争发, 春の心よ、花と咲くのを競わないでくれ、
一寸相思一寸灰。 一寸の思いは一寸の灰となるのだから。
この李詩も『唐詩三百首』に収めてあり、李詩の有名な「一
り返しが、執筆中の郭の念頭にあってもおかしくない。
一」というリズミカルな繰
先夫愚に寄せる 五20 郭沫若
屈指归期怕有期, 指折り帰る日を数えるけれど、帰る日になるのが恐い。
年来已是惯流离。 何年もの離ればなれももう慣れてしまった。
岂忘故友欢新遇, 昔の友を忘れて、新しい出会いを喜んでいるのではないけれど、
实少长才答旧知。 旧知に返答できる身についたものが本当に少ないのだ。
对榻当年谈剑夕, 向き合った長椅子であの頃剣術を語り合った夕べ、
出囊今日脱锥时。 袋から出るのは今、飛び出す錐の(ように才能を現わす)時。
蒙泉剥果增多福, 蒙泉で果物が落ちれば福が増え、
笑倒迂儒章句师。 古くさい頑固者や言葉遊びするやつを笑い倒す。
この詩も楽山時代の友人に送った詩である。1句目の「 帰期 有期」の部分が、先に
挙げた李の「夜の雨、北に寄せる」の1句目を、間違いなく踏まえている。この繰り返し
も李の、この詩の独創だからだ。
以上4例、成都期の郭沫若の文学が、後には言及さえしなくなる李商隠の、明らかな影
響下にあったことが示されている。
18 なお小説「聖者」(1924 年)に引く「三年前」の詩に、「到処随縁是我家,一篇秋水一杯茶」の句があ
る。『郭沫若全集』文学編 9 巻、62 頁。
19 『玉谿生詩集箋注』巻 2、386 頁。
20 『郭沫若少年詩稿』94 頁。
44
まとめ
たった4例であるが、2点指摘できる。
先ずその引用が『唐詩三百首』所収の、中国読書人なら誰でも知っている作であり、言
わば簡単な利用だったことである。余りにも安直な典故は、後に作者自らを「不快」にさ
せるものである。
又4例中2例が李詩のリズムを利用している。これはつまり詩の発想を李詩の音楽性に
委ねていたことを示しており、後年『女神』の諸作を書いていた時の
詩は「作る」のではなく、ただ「書く」ものだ21。
という、詩人自身の感性を重視する詩論と相反する、他力的な創作である。
この様に郭沫若にとって、成都での自らの李商隠からの影響は、自ら「不快」と総括し
た成都期の旧体詩創作の中でも特に「不快」なものだった。
その後天津・北京を経て郭沫若は日本に留学し、東京・岡山・福岡と居を移す中で口語
自由詩を創作するのだが、その過程で彼は盛唐の王維や孟浩然らの、清淡な自由詩を目標
にしていた。そしてそれと相反する濃厚な李商隠詩は否定されて当然だった。
ただその様な創作の中で、一瞬浮き出て来たのが「ミサンスロープの夜の歌」の「鮫
人」の語だった。この一言に、中国晩唐とヨーロッパ世紀末の唯美主義の繋がっていたこ
とは強調すべきである。
21 『郭沫若全集』文学編 15 巻、14 頁。
45
Ⅱ-1 陶晶孫と関東大震災
前章第1節で陶晶孫の福岡期文学の唯美主義を分析したが、陶がその後福岡を離れ、仙
台・東京で書いた作品には、唯美主義でなく表現主義が見られる。私はこの変化の契機を
関東大震災だと考える。
はじめに
1923年3月31日、郭沫若と陶晶孫はともに九州帝国大学医学部を卒業し、以来彼らはそ
れぞれの道を進むことになる。郭沫若は中国へ帰国し、上海で文学に専念する。陶晶孫は、
創造社の友人たちがほとんど帰国してしまう中で、一人中国に背を向け仙台に赴き学問を
続け、そして郭沫若の妻である佐藤とみの妹みさをと恋をし、後に二人は結ばれる。
同年9月1日、日本の関東地方でマグニチュード7.9、10万名もの死者、4万名もの行
方不明者を出した大地震が発生した。後に云う関東大震災である。
陶晶孫と関東大震災には大きなつながりがある。
東京は陶晶孫にとって成長の場であり、そして彼が幼年時代を過ごした中国江南の風物
にひけを取らない、彼の精神的な拠り所であった。「陶晶孫小伝」によると、「1906年晶
孫十歳の時父親について日本に行き、1907年東京の神田錦華小学校の四年次に転入し
た」1。その後「1919年陶晶孫は日本の九州帝国大学医学部に合格し」2東京から福岡に越
して来るまで、ずっと東京を離れることがなかった。幾つかの短篇小説の中で、陶晶孫は
彼の東京での成長の足跡を描いているが、それらは彼の東京に対する深い思い入れを説明
している、
彼の忘れることのできない幼年時代は東京で過ごしたもので、彼はどんなことがあろ
うと東京に留まりたかった。
「木犀」3 東京は僕の新しい故郷、僕は東京で成長した
「音楽会小曲」4 彼が日本に来た当初、中学生の時、東京はまだどこも馬車の轍で、あの頃もし自動車
が来ようものなら、たくさんの人が家から飛び出して来た。もし西洋人が街を通るな
らば、その後ろには必ず小学生の一団がついて走り回った。彼が中学生の時には、今
の東京の中央駅の前の草地で、盗賊がまだ夜に乗じて女性をさらい殺したりした、そ
1 『陶晶孫選集』399頁。陶晶孫が九大に提出した履歴書の記載によると、彼は錦華小学校に転校する前に
明治40(1907)年に麻布三河台小学校に入学している。錦華小学校への転校は明治41(1908)年の事に
なっている。武継平『郭沫若留日十年』105頁参考。
2 『陶晶孫選集』400頁。
3 『音楽会小曲』45頁。
4 『音楽会小曲』3頁。
46
の草地の一角に今地面をほり Imperial Theatre を建てている。
「二人の女の子」5 陶晶孫にとって重要だった東京の街の崩壊が、彼の中で重要な問題たり得なかったはずが
ない。
関東大震災は日本の文化に大きな影響を与えた。東京は地震により明治以来の封建色を
まだ残した文化を放棄し、モダニズムとプロレタリア文芸とを花開かせた。そしてその一
方で日本政府は思想統治を始め、それはその後中国への本格的な侵略に発展する6。この
様な変化も、必ずや陶晶孫に影響したであろう。
加えて関東大震災は、一般市民が被害を受けた「天災」であっただけでなく、数多くの
朝鮮人や中国人が日本人の手で虐殺された「人災」であった。何名かの日本人社会主義者
も軍によって殺されたが、朝鮮人や中国人の虐殺を前にすると問題にもならない、6千名
の朝鮮人と7百名の中国人が日本人の一般市民や軍・警察によって殺された7。現在の歴
史学者によると、警察が意図的にばらまいたウワサが「流言蜚語」となり、それ故日本人
は朝鮮人・中国人を手にかけた8。しかし、結局は日本人の心にもともとこの様な罪を犯
す原因があったのだ。陶晶孫の生活していた時の日本とは、この様な社会状況であった。
陶晶孫と日本の関係は深く、それは従来の研究者が考えているよりも深い。対象とされ
た研究量の少ない陶晶孫であるが、彼は日本に生き、日本で死に、日本文化に対して深い
造詣を有していた。彼の人生は日本と深く関わっており、かつその文学がよく(そして今
でも)日本風だとされ、彼自身中国語よりも日本語を用いた方が容易に創作できた。
本節で私が論じたいと思っているのはそのような陶晶孫と日本文学との関係であり、加
えて陶晶孫と日本史上の重要な事件である関東大震災との関係である。
関東大震災に対して、これまでの現代中国文学研究は、それがあたかも中国と関係が無
いかのようであるから、研究の対象と見做してこなかった。しかし震災の発生後、多くの
中国人が虐殺された。9月3日、江東区大島町8丁目で軍と労働者が3百名の中国労働者
を虐殺し、9日その調査に来た王希天9は軍に捕えられ、12日秘密裏に殺された。これが
その当時日本に留学していた中国人留学生の文学活動に、全く影響しなかったとは考えら
れない。今日では日本と中国両国で大量の資料が出版されており、私は未訪問だが王希天
の故郷長春には彼の記念館もあるそうである。
本節はこの様な着眼点から、震災当時そしてその後数年間を日本で過ごした陶晶孫と関
東大震災との関係を探っていく。
ⅰ 震災体験の有無と言及
5
6
7
8
9
『音楽会小曲』183頁。
野田正彰『関東大震災に映された日本の社会』(『災害援助』序章 岩波新書 1995)参考。
姜徳相『関東大震災』(中公新書 1975);二木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店 1993)参考。
『関東大震災』。
1896年長春に生まれ。1915年日本に渡り、17年第一高等学校預科入学。18年に周恩来らと「愛国拒約」
運動を起こす。19年名古屋の第八高等学校に入学するも、肺病を得て翌年退学。その後も日本に留まり、
中国人労働者のための活動を続けるも、23年の関東大震災時に日本軍に殺害される。
47
1923年9月1日の関東大震災前後の陶晶孫の足跡は、幸いなことに『周作人日記』に記
されている。本章第3節で詳しく述べるが、陶は夏休みを利用して家族を仙台に残し、彼
独り北京に滞在していたようで、8月20日に初めて周作人を訪問し10、同月23日に周作人
に日本に帰る別れを告げている11。その後9月20日に周作人の手許に仙台の陶晶孫からの
手紙が届いている12。
問題は、陶晶孫が関東大震災と直接関係していたかどうかである。
後に挙げる「音楽会小曲」には震災の際、主人公が「僕はすぐ東京に駆けもどった」と
いう部分がある13が、しかしこれは小説の中の話である。そしてここには震災が与えた被
害の描写がもともとは無かった。『陶晶孫選集』所収のテクストでは、「東京で大震災が
発生した」の後に、「数多くの人が犠牲になった」とある14が、これは陶晶孫の帰国後の
加筆である、帰国以前のテクストである作品集『音楽会小曲』所収文ではこの部分は見出
せない。後に被害状況を加筆する程に、陶晶孫は日本では震災の様子を描き出さなかった。
加えてこの加筆さえ簡単なものである。他のどの作品の中にも震災当時の東京の様子は触
れられていない。陶晶孫を回想するどの文章の中にも彼が当時東京に行ったとは記されて
いない。そして震災当時の東京は9月1日15その日の夜には戒厳令下に置かれ、軍は東京
以外の者の東京に入るのを禁止していた。
故に陶晶孫は震災をこうむった東京に、その時に行っていた可能性は少ないと考えられ
よう。
一方で陶晶孫の文学の中で、関東大震災に触れているのはたったの3ヵ所だけである。
あまりにも少ない。
え、彼女は今どうしているかって?そうさ、それから二ヵ月後は夏休み、彼女はまだ
海岸に、僕はというと日光にいた。
東京で大地震が発生した──その日、彼女は東京に行っていたんだ、僕はすぐ東京
に駆けもどった、けど、とうとう彼女の生死はわからなかった。
「音楽会小曲」16 これは小説のストーリー。
日本の大震災が起こって、又状況は一変した、大震災は日本だけの話だろうって?い
いや、大震災はヨーロッパの戦争が終結してから、各国が反動政策を行っていた時期
だ。その一方でアメリカの富豪は、東洋に映画とダンスを推し広げた。それなら、日
露戦争から大震災までの間に日本に行っていた人は──他の方面は言わず、文学者だ
10
11
12
13
14
15
16
『周作人日記』322頁。
『周作人日記』323頁。
『周作人日記』327頁。
『音楽会小曲』6頁。
『陶晶孫選集』8頁。
『関東大震災』
『音楽会小曲』6頁。
48
け話すが、現在中国文壇にて有名な諸先生は皆この時代の人である。大震災の後はと
いうと、文士先生が──日本でのことだが──皆ダンスを踊れず、ダンスをしようと
せず、新しい世代に少し迎合したロマンな男女の心理作品を描くことができないのに
乗じられ、多くのプロレタリア文学者にハラリとかき乱されてしまい、彼らは自分の
印税で建てた家にもどって妓女を招き酌をしてもらうしかなかった。
「博士の来歴」17 これは小説(?)の中の説明である。私が後に説明する関東大震災が日本文化に与えた影
響が言及されている。
予ねて日本の親友から衣服や食料のことをきかされていたので、さぞ困っているだろ
うと思った。なるほど中年以上の人々の顔色はさほどよくない。しかし若い人々は好
い顔色をしている。賑かな街では、多くの女性はすばらしい美装だ。次の世代にはま
た先祖の苦労は忘れるにちがいない。大震災を忘れてしまったからまた東京の町を焼
いてしまった。
「日本見聞記」18 そしてこれは雑文である。日本が敗戦し、中華人民共和国が成立した後に陶晶孫が台湾か
ら日本へ亡命し、日本で最初に発表した文章の中の一節である。
しかしこれだけを用いて陶晶孫文学が関東大震災を直接どの様に描いていたかを研究し
答えを得ことはできない。それぞれ異なる時期で、異なるスタイルの中に現れた関東大震
災であり、確かにそれは直接震災に言及しているが、あまりにも量が少ない。
数多くの日本人文学者が震災の体験記を残していたり、震災に関する雑文を記している。
秋田雨雀は「骸骨の舞踏」19を発表し、直接に日本人市民による朝鮮人虐殺を表現してい
る。又社会主義の雑誌『種蒔く人』は『種蒔き雑記』を編集し、警察と軍隊によって殺さ
れた社会主義者たちを追悼した。
彼らは皆自らの経験に基づいて文章を記した。震災の際に彼らはちょうど東京にいたか
ら、彼等自身の作品を残すことができた。
そして陶晶孫は震災の際に東京におらず、それ故日本人文学者のような関東大震災の作
品を描かなかった。
震災への沈黙が、まさか陶晶孫が当時取っていた態度ではあるまい。
しかし、社会性のある作品を描いたのが全ての日本人文学者であるわけではなく、逆に
ほとんどの者がただあいまいに不安を述べるだけに留まっており、彼らはその際に表面化
した日本社会の問題を扱うのを避けた。秋田雨雀はこの様な状況に反感をおぼえ、こう記
している、
17 『大衆文芸』2巻2期、205頁。
18 『日本への遺書』23頁。
19 『演劇新潮』1924年4月号。
49
日本の戯曲作家に、その時代の社会反映が余りになさすぎるといふことだ。例へばあ
の怖るべき震災に依つて受けた驚畏もなければ、その後に表はれた反動的社会状態に
対する憤懣もなければ、人間として、民族としての希望も懐疑もない。皆な安住して
十年一日のやうに何事もなかつたやうに筆を執つてゐる
寛大と言つていいか、無
神経といつていいか、日本の戯曲家──単に戯曲家とはいはない──の時代を超越し
た安住振りには驚嘆させられた。ただ二三の作家だけが時代を見やうとしてゐる。然
しその人達の力は弱い。今は主観を解放すべき時だ。私達は眼を上げてもつと広い処
を見なければならない、そして思想と言葉と生活とを自由にすべき時代だ。然し前途
を考へると暗い20。
日本近代文学研究者の稲垣達郎は云う、
ところが、多くの作家は、これについての適確正当な対処をほとんど示さなかった。
震災雑文のなかに、かれみずからもこの流言蜚語に動揺し、おどっていることはしば
しば書かれる(例・久米正雄『鎌倉震災日記』そのほか)。が、それへの批判となる
と、あたかも発言圏外のこととして厳重に遮断機をおろし、もっぱら社会評論家に委
ねているがごとくである。ふしぎな節度の感じである21。
この様に日本人文学者が消極的である時に、外国人である陶晶孫に社会性のある文学を求
めても仕方あるまい。
朝鮮人・中国人虐殺の原因とされている「流言蜚語」が、陶晶孫が当時くらしていた仙
台でどの様に広まり、又仙台で発行されていた新聞等が関東大震災をどの様に仙台市民に
伝えていたかなど、陶晶孫と関東大震災との直接の関係について、我々はさらに調べねば
ならない問題がある。
ⅱ 関東大震災後文学
だが陶晶孫が関東大震災と全く関係が無かったのかと言えば、それは間違いになる、何
故なら関東大震災は、陶晶孫がくらしていた日本の文化に大きな影響を与えたからである。
両者の直接的な関係は当然大きい。
震災後の日本では、ヨーロッパ・アメリカより伝えられた、それまでとははっきりと異
なる文化の影響をうけた風俗が生まれた。本章第2節で取り上げる「日本モダニズム」で
ある。
昭和の初年ごろまで、女性の服装は和服が普通であり、洋装はむしろ少数者の選良意
識の誇示とみられました。それにくらべれば、男性の洋服は一般化してゐましたが、
それでも、電車のなかなどで和服の男性をみかけることは少しも珍しくなかつたので
す。
20 「主観解放の芸術へ」125頁
21 「関東大震災と文壇」427頁。
50
震災前までデパートはどこでも畳敷きで、客は履物をぬいであがることになつてゐ
て、靴には下足番がカバーをかけてくれました。
食事なども、ちよつと落着いてするときは、畳の上にあがるのが普通であり、履物
のまま腰掛けてするのは下品ではしたないことといふ感覚がのこつてゐました。
それがレストランだけでなく、日本風の料理屋でも靴を脱がずにすます方が便利と
されるやうになり、待合や料理屋にかはつてカフェーやバーが都会の遊びの中心と見
られるやうになつたのは、昭和初年ごろからです22。
先に挙げた「博士の来歴」に記されている様に、この変化に陶晶孫は敏感に反応している。
華やかな文化の陰で、関東大震災以後、日本の社会は次第に萎縮してしまう。大正デモ
クラシー・米騒動に代表される民衆が政治に対して得ていた力が、震災を境にだんだんと
無くなってしまった。1925年、治安維持法が発布された。この発布の遠因は大震災の際の
戒厳令にある。
文化の大きな変化の中で、当然日本文芸界にも変化が生じる。震災の後に新感覚派が生
まれ、プロレタリア文芸活動が活発になった。
震災後の東京は、その内実はともかく、パリ、ベルリン、ニューヨーク、上海などの
国際都市をおもわせるテクスチャーに修飾された都市として生まれかわった。ネオン
の妖しい光と鉄筋のビル街、ジャズの噪音とレビューのライン・ダンス──新感覚派
や新興芸術派の文学は、こうした都市の表層をすべって行く視線のたわむれであるに
ちがいなかった。しかし、一方ではその背後に抑圧の構造を読みとろうとする、もう
ひとつの都市文学、プロレタリア文学が着実に支持者を拡大していたのである23。
ここで私は、関東大震災後文学と陶晶孫文学との関係を指摘したい。
震災後に咲いたあだ花と言うべき新感覚派だが、震災後の陶晶孫文学の表現方法はその
表現主義の影響を強く受けている。この点に関しても本章第2節で詳述するが、後に彼は
「日本新感覚派」という文章を記し、新感覚派の表現の例として自らの「短篇三章 Ⅰ 絶
壁」の以下の部分を挙げる、
波しぶき、波しぶき、波しぶきの白、白、白、白:そして眼の中にはドリルが水晶体
の中にある感触が、口で吸い込む空気、吐き出す水分、青い空のひとひら、そして
──そして彼と、彼女の白い衣装がある24。
表現主義文学に関しては、他に陶晶孫文学とダダイスト、舞台演出家そして戯曲作家で
ある村山知義との関係がある。新感覚派に対して同様、彼は「村山知義」という文章を記
しているが、
22 中村光夫『日本の現代小説』457頁。
23 前田愛「東京一九二五年」78頁。
24 『音楽会小曲』138頁。
51
彼の作品の前半はみなドイツに材料を取っている、人形劇「砂漠で」、「スカートを
はいたネロ」は皆初期の作品である、近年は中国に取材しており、「阿片戦争」、
「全線」らがそうである。前期の作品にはたくさんの分かりにくい言葉があるという
欠点があったが、この傾向は私の好みにとても合い、だから私は彼の作品を多く訳し
た、私の思い出す範囲では「兵士について」、「共同ベンチ」、「阿片戦争」、
「やっぱり奴隷だ」、「西部戦線異常なし」がある25。
これらの翻訳の大部分は陶晶孫の帰国後に発表されたものであるが、もし村山の影響が無
かったならば、それらは世に現れなかったであろう。
モダニズムに関しては、他に「Café Pepeau のポスター」についての問題がある。これ
は注意すべき作品である、何故ならその後半が(原文をそのまま挙げる)、
□□的 Modern girl 和 boy 們啊,我們洗杯煮
咖啡,在等你們来了。
咖啡不待説了,Mocca,Java,Brazil
這灰色的都会中,諸君従来没有看見我們
咖啡的黒色麼?
Custard pudding,Neapolitan Icecream
Minted lime,Mince pie
Ecrie,Zinger,
都是老板在
Café Atlier 的 Stove 前
学習来的,
還有酒,酒,酒,
酒要杯脚很高,色彩輝亮,
Cocktail,Cocktail,COCKTAIL,
Rose,Viltet,Rose,
我們老板又是音楽家,他会不以音楽餐你
們麼?──
于是我們有留声機請諸君聴──
Classic,moderne,violon,orchestra,
而他還在籌備 Orchestra Pi peau。
我們老板和厨房,和招待,煮好咖啡,在等你們
了。PIPEAU!
25 『陶晶孫選集』317頁。
52
PIPEAU!
PIPEAU!!
PIPEAU!!!26
これは絵画的な詩だとも言える。
この様に陶晶孫文学と関東大震災の後の日本現代主義文芸は密接な関係があるのだが、
その一方で、陶晶孫文学と日本のプロレタリア文芸も密接な関係を持つ。例えば前に言及
した村山知義の翻訳は全て左翼的な作品である。帰国後の陶晶孫は雑誌『大衆文芸』の編
集を通して日本のプロレタリア文芸を中国の文壇に積極的に紹介した。彼は日本にまだ留
まっていた時に「勘太と熊治」を描き、それ以降左翼的作品を書き始めるのだが、彼のこ
の変化の原因も大震災以降の日本文芸界に於ける左翼文芸活動の隆盛の中に見出せるだろ
う。勿論この影響は一人陶晶孫だけに止まらない、日本から帰国した留学生たちの与えた
刺激により、1930年中国文芸界に左翼作家聯盟が結成された。
陶晶孫文学は又日本ではプロレタリア文芸の対立概念と見做されていた大衆文芸とも関
係がある。大衆文芸と言えば、自然と彼が帰国後に編集した雑誌『大衆文芸』のことに思
い到るが、もともとは郁達夫がこの日本文学でのただの娯楽作品の要素が強く、封建的な
価値観を重んじる「大衆文芸」の意味を理解しており、それで彼は彼の編集する雑誌に
『大衆文芸』と名付けたのであった27。後に陶晶孫がそれを左翼文芸雑誌に変容させ、つ
いにはそれは左聯の機関誌となる。中国現代文学では大衆文芸とはプロレタリア階級の文
芸、つまり文学の目指す理想とされる概念である。陶晶孫は日本の大衆文芸とは関係の無
いかのようであるが、しかし我々は彼が『大衆文芸』誌上にて、日本でその作品の「大衆
文芸」性を批判された貴司山治の小説を翻訳していること28に注意せねばならない。そし
て震災以降の陶晶孫文学の特徴である「都市文学」性も、日本の大衆文芸の影響の下に生
まれたのだと言える。
この様に、関東大震災後の陶晶孫は、当時の日本に於ける震災後文学の影響を大きく受
けているのである。
故にこう言えよう:関東大震災は陶晶孫文学に大きな変化を与えたのだと。
そして我々は言わねばならない:震災後の陶晶孫文学とそれ以前の福岡にて書かれた文
学とでは性質が全く異なるのだと。従来の陶晶孫文学の研究では、彼の日本留学期の文学
を一くくりにし、それを乱雑に「創造社時代」と呼んでいた。しかし我々はここで主張せ
ねばならない:陶晶孫にも関東大震災後文学があったのだと。震災以前の陶晶孫文学に関
しては既に第Ⅰ章第1節で論じたが、私はそのテーマとなっているのは「運命」「幼年」
そして「死」だと考えている。
震災の後の陶晶孫文学は、例えば作品「音楽会小曲」、「二人の女の子」の様に、中国
人留学生の恋愛をテーマとしてよく描くのだが、それは作者自身の生活そのままのもので
あり、日常の世界である。それ以前の陶晶孫の作品でも恋愛というテーマを扱ってはいる、
26 『音楽会小曲』151頁。『選集』のこれらの部分は活字に変化がなく、皆同じ大きさになっている。
27 郁達夫「『大衆文芸』釈」『大衆文芸』1巻1期、1928年。
28 「赤色舞女」『大衆文芸』2巻4期、1930年。
53
しかしそれは主人公の回想の中での、中学生の主人公と小学校の女性教師との間の恋愛
(「木犀」)であり、中国の山深い尼庵での、兄弟二人の恋愛(「尼庵」)であった。そ
れは恋愛と言うよりも、運命と言うべきである、年齢の離れた兄弟間の信頼(「黒衣の
男」)であったり、宿舎の中の少年たちの友情(「剪春蘿」)である。その上震災以前の
作品中の人間関係は、ほとんどが死を以ってその帰結としている。震災後の日本での作品
では死は扱われない、それらは現世的で、より直接的な文学だと言える。勿論この変化の
背景には陶晶孫の実際の生活に於ける恋愛と、結婚の影響もあるだろう。
死に代わって、陶晶孫文学は主人公の過去との断絶を描くようになる。主人公がコン
サートホールで見かけた女性を関東大震災の後その生死の知れなかったかつての恋人と
思ったり(「音楽会小曲」)、北京をさまよい、喫茶店に入り、そこにいた女性のなかに
昔一緒に演奏会に出かけた恋人を見出したり(「哈達門のコーヒー店」)、又は銀座で一
人の女性と遭い、その女性が主人公の昔の知り合いであったりする(「独歩」、「二人の
女の子」)。
「音楽会小曲」にそれが断絶の理由とされていることからも分かるが、この様な状況は
全て関東大震災が陶晶孫文学に与えた影響であると言うことができる。私は前に陶晶孫文
学の震災による破壊以前の東京に対するなつかしみに言及したが、それらはよくこの断絶
とともに描き出されている(「音楽会小曲」、「二人の女の子」)。この点も断絶と震災
との密接な関係を証明している。又「音楽会小曲 I 春」では、震災以前の少女には「彼
女についた使用人」29がおり、そして
お母さんが婚約した人でないとたびたび行き来してはいけないと言うの30。
と言う。彼女はこの様な封建的な状況下で生活している。しかし震災後のこの(?)女性
はカフェに入る、モダンな女性として描かれている。「二人の女の子」では、現在はよく
銀座に「散歩」に行くという、一人でアパートにくらす女性が以前は、
おばの家で私は、厳しく教育されて、ラブレターもたくさんもらったけど、その一枚
一枚をおばに見てもらっていたわ、おばがそのラブレターを批評したがってたから31。
この様な封建的な女性であった。ここにも現在と過去との断絶がある。
陶晶孫文学は関東大震災が日本文化に与えた変化を、ある種の断絶に変え、それを消化
している。
最後に、関東大震災後の陶晶孫文学には、主人公が恋人に自らを中国人だと言う場面が
現れて来る。
僕は支那人、そして君は──
29 『音楽会小曲』4頁。
30 『音楽会小曲』5頁。
31 『音楽会小曲』193頁。
54
「音楽会小曲」32 たのむよ、僕は支那人だけど。
「独歩」33 僕は晶孫、先にちゃんと言っておくけど、僕は支那人だ。
「二人の女の子」34 そして震災後の陶晶孫には、消極的に中国を取り挙げる場面が現れて来る。
僕たちの今年の秋の音楽会で、S市中の音楽家を心から驚かせてみせる、そして彼ら
に指揮しているのが僕、一人の支那人学生だと分からせてみせる。彼は東洋のポーラ
ンド人だ。彼はまだ小学生帽をかぶっていた時に留日中国同盟会の成立を耳にして、
それが彼の心を踊らせたけど、今やもう中華民国に希望など抱かない、彼はただずっ
と日本に留まりたいと考えている、すでに中国人の国民性にはなじまず、自らを世界
の放浪者だと思っている、彼は同期の留学生何人かにずっと日本にいて日本化したと
思われてもよかった、彼は彼の心の中で歌を唱いたかった。
「夏休み」35 彼は江南の女性一人一人が
みんな嫌いだった。江南に帰省すると、彼の抹消の神
経のどの一本でも、必ずみにくさを感じてしまうのだ。そのウルシでぬりたくった様
な髪、かかとの無いぞうり、短い上着からかなりはみ出しているその大きなおしり、
中国の女性を彼は本当に見たくもなかった。
「二人の女の子」36 震災後の文学の中で、陶晶孫は自らに、中国人である自らに自信が持てないかのようであ
る。震災以前では、舞台である場合の他に彼が中国を持ち出すことは無かった。背景が日
本である作品でも、作者は主人公が中国人であるか日本人であるかなど言わない。作者陶
晶孫が中国人であるから、我々は主人公を中国人だと考えている。
この様な変化をもたらした原因は、震災後の日本の社会が陶晶孫の中国人としての自尊
心を圧迫したからに他あるまい。彼は日本に対してほとんど責める言葉を残さないのだ
が、澤地久枝の文章によれば、
陶晶孫夫婦の結婚式は大正 13(1924)年3月3日、日本の雛祭、中国の清明節の日
をえらんで仙台の教会でおこなわれた。みさをの母の内意を受けた親戚が、つとめさ
32
33
34
35
36
『音楽会小曲』5頁。
『音楽会小曲』168頁。
『音楽会小曲』186頁。
『音楽会小曲』154頁。
『音楽会小曲』182頁。
55
きの女学校の寄宿舎へ押しかけてきて、
「佐藤のうちのような格式のある家に生れて、教職について社会的地位もあるのに、
なんだってスナ人のところへゆくんだ」
とはげしく責めたという。
式には佐藤家の親たちは出なかった37。
このような陶晶孫の幸福に影を射す事件もあった。彼は日本で何度も言われ無き差別を受
けたに違いない。これには、関東大震災の際の朝鮮人・中国人への大量大虐殺、そしてそ
れにも関わらずこの罪を問わなかった日本社会の状況も大きく影響していよう38。
それ故、陶晶孫文学は次第に自らが中国人であるという自覚を得るようになる。たとえ
ば「二人の女の子」だが、第Ⅲ章第3節で述べる様に、私はこれを「作者陶晶孫の中国社
会への積極性はないが価値のある直視宣言」だと考える。その後彼はプロレタリア文芸の
創作を始める。1929年に彼は中国に帰国し、上海にて文芸大衆化運動を推し進め、左聯に
参加した。
終わりに
帰国後の文章の中で、陶晶孫はよく自らが中国社会に受け入れられないと言う、
海外で二十年過ごした者が、一たび母国に帰れば、本当に幾分かけ離れた感じがする。
帰国してすぐ、我が国の社会の発展の極致を眼にした、例えば近年の文壇など、一つ
の特異な情景だ。一つの特異な情景だ!
留学時代の友達一人一人が皆相前後して帰国し、多くは文芸界の重要人物になって
いる、彼らはそれぞれがふさわしい成果を挙げており、だから当然僕は文芸界に足を
さし込みたいとは思えなかった。
「編集から投稿まで話す」39 もし大学卒業後に日本の外務省が選んだ義和団事件の賠償金による奨学金が、数年長
く研究させなければ、お前は少しは早く帰国して、ちょっとしたロマン小説でも書い
て、今や文章を売って生活できたであろうに、外国に数年長く留まり、資産階級文学
の爛熟が今にもうれ落ちる部分で生活していたんだ。書いた小説がどうして人に分
かってもらえよう。だからもう文章を売って生活しようとは思えないのさ。
「結局はプチブルだ」40 他の創造社の友人たちに比べて日本で生活した時間が長く、「資産階級文学の爛熟が今に
もうれ落ちる部分で生活してい」て、日本の関東大震災後文学の環境の中でその文学活動
37
38
39
40
「日中の懸橋 佐藤をとみと陶みさを」140頁。
「関東大震災に映された日本の社会」
『大衆文芸』2巻1期、169頁。
『陶晶孫選集』140頁。
56
を続けていたから、1930年前後の、左聯結成時の陶晶孫文学は中国文壇の中で孤立してい
た。例えば銭杏邨は彼の文章を批評し、
陶晶孫君の『巻頭瑣語』によれば、『大衆文芸』誌の目前の、主要な読者対象とされ
ているのは、まだ知識人でなければならないそうだ。目の前に様々の困難があるから
と、彼は労働大衆に向け発展して行くことをその次にしている(陶君ははっきり言わ
ないものの、言葉の意味の間に、この傾向があるのだ)41。
という。プロレタリア文芸を除いて、彼の震災後文芸に対する中国左翼文壇の評価は低
かった。
それ故左翼文芸運動の高まりの中で、その運動の担い手の一人であった陶晶孫は次第に
自らの震災後文学の重要なテーマである恋愛を、失って行く。「菜の花の少女」では、少
女は恋愛を捨てて革命に赴き、最後に主人公は「自分は結局彼女には及ばないことを知っ
た」42。そして「急行列車」43では、恋愛は軽視され、ラブレターを作者はあざわらう。
陶晶孫文学のこの様なゆきづまりについて考える時、私は彼の関東大震災後文学が中国
の文壇では受け入れることのできない程に日本化されていたのだと考えざるを得ない。新
感覚派に代表される日本の表現主義の要素を、中国文学はその当時受け入れることができ
なかった。日本留学のさ中で中国へと思いを馳せ始めたその変化が、帰国した中国で否定
されてしまうとは皮肉なものである。
このように中国現代文学史の本流からは外れているが、陶晶孫の関東大震災後文学は日
本の強い影響を受けたという特別な存在価値があり、日本人と中国文学の関係を読む際に
欠かせない対象である。
41 「大衆文芸与文芸大衆化」60頁。
42 『陶晶孫選集』119頁。
43 『大衆文芸』2巻3期。藤森成吉の「急行列車」(『戦旗』3巻1号、1930年)が原作だが、陶晶孫は翻訳
時にかなり手を加えている。このラブレターへの態度も原作にはない。
57
Ⅱ-2 陶晶孫の表現主義と日本モダニズム
前節で論じた様に、陶晶孫の唯美主義は関東大震災を契機として表現主義に転じたが、
その表現主義によって盛られた内容が日本モダニズムであり、そしてそれは陶が目的を
もって中国文学に持ち込んだ社会思想であった。
はじめに
中国現代文学の展開の過程で、欧米や日本から持込まれた文化の影響を無視することは
できないだろう。魯迅が云うように「持って来たものがなければ
文芸は自ら新文芸と
1
なることができな」かった 。それゆえ、その持込んだものを分析することで、例えば日
本と中国の文化交流の一環を描き出すことができ、また持込んだものを立脚点に、両国の
文化の違いも照らし出すことができる。
1920年代から30年代初頭、日本から中国への文化的持込みには様々なタイプがあったが、
伊藤虎丸は清末の留学生周樹人、即ち魯迅(1902∼09年留学)による革命思想の持込み、
初期創造社(18∼24年)の郭沫若や郁達夫らによる、日本の明治・大正文化を介したロマ
ン主義・芸術至上主義などの持込み、そして後期創造社(28∼29年)によるプロレタリア
文芸の持込みに注目し、彼ら留学生をそれぞれ「政治青年」、「文学青年」、「社会青
年」と例えている2。私はこの指摘が、中国現代文学における日本留学生文学の「類型的
な対立」3を、うまくまとめたものだと考える。
本論は以上のことをふまえ、陶晶孫が 25年から27年までの間に描いた、日本新感覚派
的な作風だとされてきた諸作品を論じる。そして陶が、上記「文学青年」と「社会青年」
の橋渡しをする、「モダン青年」であったことを証明したい。
陶晶孫(1897∼1952年)は、創造社の結成(1921年)以来のメンバーで、初期の小説
「木犀」や戯曲「黒衣の男」などの象徴主義的作風で注目された文学者であり、上記「文
学青年」の一員だった。23年、郭沫若とともに福岡の九州帝国大学医学部を卒業した後、
仙台の東北帝国大学で生理学を学び4、また26年には東京に移り、28年末に帰国するまで
医師として働いた。そして帰国後の上海では左翼作家聯盟に参加し、雑誌『大衆文芸』の
編集を務めるなど、「社会青年」として積極的に活動した。
本論で扱う作品は、このような陶の、仙台と東京で執筆されたものである。これらの作
品を通して、陶は中国文化に日本モダニズムを持ち込んだ。
ⅰ 日本モダニズム
日本モダニズムとは「大正末(一九二〇年代後半)から、昭和十年代の始め(一九三〇
1
2
3
4
魯迅「拿来主義」41頁。
伊藤虎丸「問題としての創造社」『創造社研究』61頁。
同上、63頁。
後述する藤田敏彦「陶晶孫君を憶う」49頁には、「陶君は
仙台に来て、中国の留学生として、東北
大学(物理学教室)に入学し、傍ら、医学部の生理学教室の余のもとで、研究に従事することになつ
た」とあるが、ここでは後述する「医学を学んだ何人かの文人」などの関係から、簡略して説明する。
58
年代なかば)にわたるほぼ一五年ぐらいのあいだ、西洋文化の影響を強く受けて流行した
独特の思想と風俗」5で、「明治以後の日本で、最初の近代化現象である文明開化と、戦
後の占領期にみられるアメリカニゼーションという、二つの大きな近代化のうねりの中間
にみられる、もう一つの近代化のうねりであ」6った。なおここで注記しておくが、例え
ば後述する Shu-mei Shih が「日本モダニズムと中国」の節7で扱っている「日本モダニ
ズム」(原文:Japanese Modernism)と、本論で私が扱う日本モダニズムとでは意味がず
れている。前者の「モダン」(ここでは近代・現代の意)が大きく西欧化を指すのに対し、
私が本論で用いる後者は第1次世界戦争後に西欧社会に広がった、日本では特に関東大震
災後に華開いた、ジャズやモダンガールに代表されるアメリカ化した文化を指している。
その日本モダニズムには二つの側面があった。「一つは、西洋の合理主義、機械主義の
思想であり、それは、フォード・システムに代表される機械工業のもたらした機械文明を
評価する、生活合理主義の思想である。もう一つは、西洋とくにアメリカ映画を通じて移
入された、モダンガール(モガ)と彼女たちをシンボルとした、風俗の解放であ」8った。
また「思想面でのモダニズムが先行し、とりわけ関東大震災を契機に、生活の合理化、西
欧化が決定的になる。具体的には、婦人の洋装化、マーケットの普及、機能的な生活様式
の導入等、実際的なものが多い。そこに見られるのは、個人生活の向上を目ざす合理主義、
そして享楽と生活のバランス感覚であり、一定の経済的な安定を基盤としていた。だが、
不況やマス・メディアの商業主義的センセーショナリズムも加わって、時とともに日本モ
ダニズムは、新しいものの功利的摂取から興味本位の摂取へと、その中心を移動させてい
くことになる。つまり、生活向上という目的を離れ、新しいこと、当時の言葉で言えば、
『尖端』それ自体が、価値として追求されるようになったのである。かくして昭和初期の
『エロ・グロ・ナンセンス』時代が成立する」9。
「エロ・グロ・ナンセンスの意味するところは何か。エロは、もちろんエロティック、
エロティシズムの略語であるが、ここでも日本的変容が生じている。つまり西欧のエロス
などとは無縁で、『性的魅力や露出症的色情さ』を意味する。グロも同様で『変態性欲的
魅力』を指すようになった。ナンセンスは、無意味で馬鹿馬鹿しいことだが、『馬鹿のこ
とではなく、まるで馬鹿のやうになつて』という表現が、本質を言い当てているようだ。
/だが、『エロ・グロ・ナンセンス』のトリニティを貫徹するのは、エロであった。なぜ
なら、グロは、エロが限度を超えて異常化したものであり、事実、グロの代表格であるバ
ラバラ事件や阿部定事件はエロ的要素によって突出しているからである。ナンセンスにし
ても大流行したのはエロ漫談であった。そして『現代流行番付』では、エロチシズムがマ
ルキシズムと対置され、『左翼と性慾の交響楽』の時代と呼ばれている」10。
しかし日本モダニズムは「資本主義的な頽廃として批判」され、「マルクス主義とファ
シズムのするどい対決の中で、モダニズム思想は、いわばその両陣営のいずれからも非難
5
6
7
8
9
10
南博「日本モダニズムについて」5頁。
南博「はしがき」『日本モダニズムの研究』ⅷ頁。
Shu-mei Shih,The Lure of the Modern,p.16.
南博「日本モダニズムについて」5頁。
菅野聡美「昭和モダニズムに関する一考察」161頁。
同上、168頁。
59
され、挟撃にさらされて、おとろえていった」11。
陶が仙台と東京で過ごした時期は、関東大震災を経て、日本モダニズムが隆盛を迎えよ
うとしていた時期とちょうど重なる。
文学においても、「関東大震災後の急速な東京の都市化に呼応して都市文学が隆盛をき
わめるが、その主役になったのは外国帰りの作家、『文芸時代』を中心とする新感覚派、
ダダイスト、『新青年』における江戸川乱歩の活躍などであ」12った。その後27年辺りか
ら「『エロ、グロ、ナンセンス』と言われる現象が文学において氾濫し、折しも隆盛をき
わめるマルクス主義文学との対立あるいは混合によって混沌とした時代相を形成し」13、
30年には新興芸術派が結成される。
従来、陶のモダニズム文学に関しては、中西康代が「創造社の一同人として眺めた場合、
新浪漫派から急激な『左旋回』という道を辿った創造社の同人としては陶晶孫はやや特殊
な方向性を持っている。それが新感覚派への傾斜であ」14り、「一九二五年から一九二七
年にかけて陶晶孫が新感覚派の手法、技法を作品執筆に取り入れることを試みた短編小説
集『音楽会小曲』が、中国における新感覚派小説としては最初のものである」15と指摘し、
陶の文学と日本モダニズム文学を代表する日本新感覚派16との関係を実証した。
また Shu-mei Shih は、「陶は同時代のどの作家より多く、中国語を書き直した。言語
の実験を通してその可能性を広め、映像・音楽と言葉とのつながりを探究し、印象的な認
知や他の官能的な経験が言語表現をまとうとはっきりさせることで」17とし、また魯迅と
比較して「社会的手段のはっきりとした欠如」18を指摘した。
だが Shih の論には日本モダニズムという視座がなく、日本文化の流れをきっちりと把
握し切れておらず、中西も日本新感覚派との関係を云うのみで、日本新感覚派を生んだ社
会思想である日本モダニズムにまで論及を深めていない。
本論で、私はもう一歩踏み込んで、両氏が軽視していた陶と日本モダニズム自体との強
いつながりを立脚点に、日本モダニズムを説明する用語を使い、陶文学中の日本モダニズ
ムからの具体的な影響を探り出し、陶がどのように日本モダニズムを自分のものとし、ど
のように日本モダニズムを中国現代文学に持込んだのかを考察する。
ⅱ 恋愛、「エロ」
1923年、福岡を離れて以降の陶文学には、本章前節で論じた様にそれまでには見られな
かった「恋愛」が描かれるようになる。以前の福岡で執筆された作品に、「恋愛」が全く
描かれていなかった訳ではないのだが、例えば女学生と彼女のピアノ教師の関係を描く
11
12
13
14
15
16
南博「日本モダニズムについて」5頁。
神谷忠孝「都市文学の爛熟と文学」54頁。
同上、59頁。
中西康代「陶晶孫初期作品集『音楽会小曲』と新感覚派に関する一考察」114頁。
同上、125頁。
中国で1930年代に活躍した新感覚派とまぎらわしいので、日本の新感覚派を、日本新感覚派と本論では
統一して表記する(引用を除き)。
17 Shu-mei Shih,The Lure of the Modern,p.94。
18 同上
60
「西洋人形」では、描かれているのは「恋愛」というよりも離別、さらに言えば超越的な
存在としての「運命」である。「黒衣の男」では兄・弟の、「尼庵」では兄・妹の間の関
係が、「剪春蘿」では男子寄宿制学校での生徒間の信頼関係が描かれており、それはいわ
ゆる「恋愛」、当時大学生だった作者の、等身大の恋愛ではなかった。「木犀」ではまた、
「恋愛」を意識したことで二人の関係はちぐはぐになる19。つまり福岡での作品で、「恋
愛」が正面から描かれることはなかった。
この変化の背景には陶自身の「恋愛生活」、つまり佐藤みさをとの恋愛と、結婚の影響
があったと考えられる。後年、陶は仙台での生活を回想し、「この時上海では『創造』
〔季刊〕が『〔創造〕週刊』や『創造日』になるなどにぎやかだったが、私はそこ〔仙
台〕で恋愛生活を送った」20と述べている。
澤地久枝によると、福岡で佐藤と知り合った陶が九大卒業後仙台に赴いたのは、「佐藤
みさをとの結婚が前提にあった」21。佐藤の親戚との摩擦はあったものの、二人はつつま
しく幸せな家庭を築いている。それは「石切町の寓居で味噌汁に入れる葉がなくて玄関脇
に生えた紫蘇の葉を摘むお前さんを発見した時から己達のロマネスクは始まった。日本で
は枯淡に/古妻と話しもなくや目ざし焼く/と詠う」22と、抗日戦争下の上海で回想する
ような、心温まるものだった。伊藤虎丸はこの点に注目し、「男女の事はその人の『思
想』の体質を隠しようもなく示すものだとすれば、これは何よりも彼の思想の真の 新し
さ を語るものだ」23と指摘する。
陶のこのような恋愛は、例えば同じ創造社の同人であった郭沫若や郁達夫と比べてみる
と、非常に恵まれたものだったことが分かる。郭も郁も、家が決めた女性と結婚せねばな
らず、彼女たちとの関係はともに不幸なものだった。二人と違って長男だった陶にも、家
からの重圧はあったはずだ、それは後年中国に帰国した後、父親の意見を聞き、郷里無錫
で医院を開いた24ことからも分かる。尾崎秀実が陶を、「郷里に帰るとその高大な権力を
持つ父親の下で小さくなっている」25と評した由縁である。実際陶も、九歳のときに「父
の文章友達」の娘と婚約している。だが「十五、六の時に親父同志喧嘩したので破談に
なった」26。少なくとも恋愛に関しては、彼の家からの重圧は少なかったようである。つ
まり陶は、「恋愛生活」自体がすでにモダンなものだった。これは陶と郭・郁の描く「恋
愛」の違いにも反映していると考えられる。前者の明るい基調に対し、後者は苦しみの色
を帯びている。
このような陶の仙台での「恋愛生活」が、例えば「愛妻の発生」に描かれている。タイ
トルそのままに、陶が福岡を離れて仙台に赴き、「尚絅女学校に英語教師として奉職し
19
20
21
22
23
24
25
陶晶孫「木犀」『音楽会小曲』53頁。
「晶孫自伝」『陶晶孫選集』237頁。
澤地久枝「日中の架橋 郭をとみと陶みさを」139頁。
陶晶孫「通勤日記」『日本への遺書』164頁。
伊藤虎丸「戦後五十年と『日本への遺書』」223頁。
澤地久枝「日中の架橋 郭をとみと陶みさを」152頁。
尾崎秀実「支那社会経済論」『尾崎秀実著作集』東京、頸草書房、1977年、18頁。なお陶晶孫「身辺雑
記」『日本への遺書』69頁を参照。
26 陶晶孫「少年時代の思い出」『日本への遺書』201頁。
61
て」27いた佐藤を訪ねたことが反映されていると考えられる。また「短編三章」中の第1
章「絶壁」は、後に陶が「息子への手紙」に、「お袋〔佐藤〕は仙台を好かなかつた、俺
は仙台を好いた、あの川もよかつた、馬に乗つて走るあの向山の裏も山もよかつた、馬で
あの絶壁の上まで行つて一緒に落ちる所だつた、ある小説に云ふ娘と一緒に飛び込んだの
はそこのことだ。美しい川だつた」28と記してあることから、陶と佐藤の実際の経験をも
とに描かれていることが分かる。
ところで陶は、福岡・仙台・東京までの作品を収めた作品集『音楽会小曲』の「書後」
に、以下の言葉を記している:「人は誰でも夢を見るが、時にその夢はある風味のものを
帯びていることもあり、筆と紙でそれを書き現わせば、その夢想も時には一つの創造とな
る」29。つまり上のような陶の描いた「恋愛」は、陶の夢想、特に女性に対する性的な夢
想の表現だといえる。
私が何故性的な夢想だと判断するかと言うと、陶の仙台と東京での作品には、女性の性
を感じさせる表現が散見されるからである。「温泉」での視覚、「絶壁」での女性の白い
服への視覚、「二人の女の子」での香りへの嗅覚、つまり「内的直感の象徴化されたも
の」30である新感覚の表現主義の描写は、全て性的な存在としての作中の女性を引き立た
せる働きをしている。
「君の芸名は青いのでなければならない。」
「紫外線の中で、乳房が歌っていなければならない。」
「フン、私の悪口を言う、ちゃんと憶えといてよ、きっと仕返ししてやる。」
「そして水晶のような水の中で、パッとサファイアに変わらなければならない。」
木々のかすかなささやきの中に妖精が踊っている。
「あなたの身の回りで踊らなければならない。」
「成熟したおとめの君が発する雰囲気の中で。」
突然電灯も消えた、室内は紫外線に覆われている、二人は踊っている、まるでサ
ファイアとルビーの踊りのように。
温泉は早朝六時の輝きの中で流れている。
「温泉」31 女性の裸体と結びつけられた明けかかった夜の薄闇の中で、男は女性に触れるかのような、
彼女の回りで踊ることを想像する。
彼はつまずいた、絶壁の片面を為す草の斜面を両人は投げ出された。空、草、空、松、
27
28
29
30
31
澤地久枝「日中の架橋 郭をとみと陶みさを」138頁。
『自然』14号、76頁。
『音楽会小曲』197頁。
横光利一「新感覚論」77頁。
『音楽会小曲』175頁。
62
柔い草、青い空、松の梢、それから彼、それから彼の女の白い足。
しかし海は、海、海、松の木は幸ひ両人を止めなかつた。淵を為てゐる河はやがて、
別々に別れた両人を滑り台から池に落ちるやうに受け取つた。
飛沫、飛沫、その白さ、それから眼にはキリ先が水晶にある感触、口に吸ふ水と空
気、吐く水、青空の切れ端、それから──それから彼、それから彼女の白い衣。
「短編三章」32 女性の足と衣装が、白い残像の形で印象づけられている。女性の足に対するこだわりは、
他に「愛妻の発生」にも見られる33。
もう十一時になった、東京も四馬路のような毎晩のにぎわいはない。彼らは電車に
乗ったが、電車も空だった、電車の夜の雰囲気の中に、だれが下車前にそこに残した
のか分からない香水が彼の鼻を刺激している。
彼女の耳の上の髪が揺れ、彼女の体の柔らかい弾力が彼の肩にぶつかっている。
「二人の女の子」34 香水の残り香が見ず知らぬ、不特定の女性を意識させることに加え、並んで座った女性と
の接触が、男性のその女性への意識をさらに強めている。
中西は「『音楽会小曲』以降の作品に共通して見られる、手法的特徴について考えるな
らば、それは感覚的、というよりも官能的、中でも嗅覚を象徴的に用いた表現であると言
うことができよう。特に女性については『嗅覚』を駆使した表現方法が取られていること
が多い。いわゆる新感覚派的表現方法は勿論、既に彼自身のものとして各所に見られるが、
その中でも彼の個性として特に強く現れたものは、嗅覚的表現なのである。/
従来よ
りその源流に官能的、感覚的表現方法への指向があったことは、『木犀』などの作品にお
いてもかなり強く感じられることであるが、陶の個性は新感覚派という契機を得て一気に
溢れ出た感がある」35と指摘するが、仙台・東京での作品では後述するように「象徴的に
用いた」のではない点の他に、視覚も触覚も、充分に「官能的」である。
またこれらはちょうど、始めに触れた、日本モダニズムの代表的な傾向「エロ」に通じ
るものである。陶のこの時期の作品は、「恋愛」を描いてはいるが、それよりも強く、
「エロ」を内容としているのだ。
32 『音楽会小曲』138頁。ただしここでは以下の翻訳に手を加えて用いた:「短編三つ」『改造』夏季増
刊・現代支那号、東京、改造社、1926年7月6日、119頁。訳者が誰なのかは、現時点では不明。「短編三
章」の初出は1927年10月5日出版の作品集『音楽会小曲』だが、こちらの訳はそれより1年少し早く世
に出ている。執筆は、『音楽会小曲』版テクストの最後(149頁)に、1925年8月21日と記されている。
訳の持つ同時代の文体の味わいが捨て難いので、敢てこの訳を、少しだけ中国語テクストを基に手を加
えて、引用する。なおこの『改造』現代支那号については、鈴木義昭「『改造』「現代支那号」と中国
現代詩人」(『二三十年中国と東西文芸』東京、東方書店、1998年)に詳しい。
33 『音楽会小曲』131頁。
34 『音楽会小曲』187頁。
35 「陶晶孫初期作品集『音楽会小曲』と新感覚派に関する一考察」123頁。
63
「エロ」をさらに露骨に扱った作品として「盲腸炎」がある。一幕の戯曲で、新人医師
の胡乱が、深夜彼の部屋に遊びにきた看護婦Aに、「子どもがどのようにして生まれるの
か」などの際どい質問をされて慌てる、という内容で、男女間の性にかなり踏み込んだ内
容になっている。舞台が病院で、登場人物が全て病院関係者であることが、そのような
「医学知識」が文字になる手助けとなっている。
この作品は北京で1926年、周作人が中心となって出版した雑誌『駱駝』に収められてい
るが、他の収録作品と明らかに毛色の違う作品であるのに、収められたのは、出版のいろ
いろな事情もあるだろうが、当時の時代背景として、東京で流行していた性の解放を謳歌
する「エロ」があり、その反映された作として「盲腸炎」が評価されたことも影響してい
よう。
つまりこのような性の解放を謳ったモダンな作品として、陶のこの時期の「盲腸炎」と、
他の性に触れた作品を位置付けられるのだ。そしてそこには陶自身の恋愛・結婚という経
験が働いている。これらの諸作品は恵まれた恋愛の渦中にあった陶が、そのまさしく同時
代の世相から影響を受け生まれた、時の産物だといえる。
ⅲ「一元論」、合理性
このような日本モダニズムに通じる内容を、陶の作品が持ち得たもう一つの原因として、
私は陶が九州・東北帝国大学で医学・生理学を学んでいたこと、また東京で医師として働
いていたことを挙げたい。
陶は九大卒業後、東北大で生理学を学んだが、そこにはきちんとした目的意識があり、
そしてその意識が文学にまで影響を与えていた。後年の文論「医学を学んだ何人かの文
人」の中で、陶は自らのことをこう分析していることがそれを証明している:
大学に入り、Haeckel の宇宙の謎を四つに分け直し、自らはその第四、意識の問題を
担おうと思い、それで生理学をやったが、後に四つの自然科学の他に、まだ社会の病
因があると知り、それで公衆衛生に入った、医学を文芸に混じり込ませようとせず、
ただ科学の正確さと感覚の分析の必要性を考えた36。
同じような内容を、先述の「息子への手紙」でも述べている:
宇宙の謎に関する此の前の手紙は着いたか、デュボアレーモンやヘツケルは熱心にあ
んな事を考へたり、解釈したりして喜んだものだらう、俺の四ツの謎も理屈があるだ
らう
そのころ〔仙台時代〕俺はいろいろな事を考へた。勉強した、しかしあちこち
には義理が悪かつた、大学は卒業しないし、藤田先生37の所では勉強を完成しないし、
不都合極まる人間だつた、併し俺は勉強した38。
36 『陶晶孫選集』232頁。
37 後述する藤田敏彦を指す。
38 「息子への手紙」72頁。
64
つまり陶が郭沫若と袂を分かち、一人仙台に向かった原因として、陶はドイツの生物学
者エルンスト・ヘッケルと、彼の代表的著作『宇宙の謎』、そしてそこに論述されている
ヘッケルの「一元論」を挙げている。
ヘッケルは、「ドイツにおけるダーウィニズムの支持者・普及者として広く知られ
て」39おり、1898年出版の「『宇宙の謎』はその思想を最も大衆化した代表的著作で、一
般大衆には
通俗哲学書として歓迎されたものである。この本がすぐさまいくつかの国
語に反訳され、著しい廉価版で数十万部の発行をみたことは、当時ひろく話題とさえなっ
た。それだけに、ヘッケルの思想に共鳴するもの、反対するものの間の論争対決は世紀末
から二十世紀初頭にかけてはげしいものがあった」40。
「ヘッケルの思想は、その生物学的研究をよりどころに、とりわけ進化論的立場に立ち
つつ
実証主義をうけいれ、発展させたものということができよう。ヘッケルは非難者
の側から唯物論とみられることをおそれて、彼の思想に『一元論』という名をつけた。一
元論の出発点は、物理の原理・エネルギーの原理・進化論という三つの原則をもとにして
宇宙のすべてを証明しようとする点にあったといえる。そして、こうした原則が自然界に
じつに多彩な応用があるにもかかわらず、社会事象の探究がいぜんとして未開野蛮の域を
脱しないのはこれらの原則がほとんど社会事象には適応されていないところから来ること、
そのために宗教などの迷信鼓吹に毒されているところにあると、ヘッケルは考えたのであ
る」41。そのために「当時までドイツを中心としてとりわけ思想界に流行していた生理学
者デュ・ボア・レーモンらの見解に真向から対決した。デュ・ボア・レーモンはすでに十
九世紀の七十年代から八十年代にかけて
不可知論的思想を展開していた。彼は物質の
本性・力の本質・運動の起原・世界の合目的性・感覚の成因・言語の起原および自由意志
という七つは人知ではとけない謎であり、そこに自然認識の限界があると説いた。そして
これについて思想界・宗教界にはかなりの支持者をえていたのである。/そこで、ヘッケ
ルはこれに対して、十二の宇宙論的命題を設け、こうしたレーモン的謎はすべて解明でき
ると主張した。彼は生物を説明するのに、物理学・化学以外に特別な原理は不要だといい、
生物は無生物と同じ元素からなる物質に自生する現象だとみる生命自生説をとなえた。さ
らにまた精神現象もけっして物質をはなれてあるものではなく、化学親和力のような物質
の属性がごく複雑になったもの、またもともと物質原子は感じたり、欲したりする力をも
ち、凝集して快となり、希薄となって不快を感ずるもの、動物の感覚もその複合で細胞に
宿るもの、とヘッケルは考えた。このようにして彼は、物質の起原ともなり、同時に精神
の源泉ともなり、両者をその二側面とする『実体』をもって万有の根源とした」42。この
ように、ヘッケルの主張したことは「じつは自然科学的唯物論」43であり、先に述べた日
本モダニズムの二つの側面のうちの前者、「西洋の合理主義、機械主義の思想」44そのも
39
40
41
42
43
44
菅井準一「ヘッケル解説」280頁。
同上。
同上。
同上。
同上、281頁。
南博「日本モダニズムについて」5頁。
65
のであった。
「医学を学んだ何人かの文人」に云う、陶の分類した「四つの謎」が何なのかは分から
ないが、陶が解明を自らに課した「意識の問題」にいかに取り組んでいたかは、当時東北
大学での陶の指導教官であった藤田敏彦の回想に詳しい:
運動神経の閾下感応電流刺戟を、短時間を隔てて二回つづけると、第二刺戟が有効と
なる、即ち筋攣縮が起る
。この過程を研究するために、オシログラフ等を用いて、
感応コイルの開閉感応流の時間的経過、ことに開感応流、もしくは蓄電器放電の二回
連続による神経二重刺戟の場合の電流の形と効果との関係などを験べた。その結果は、
第一閾下刺戟の疎通(開路)的作用によつて第二刺戟が有効となるのではなく、両閾
下電流が累加して閾下の強さとなるのである、として解されうると見えた。然るに蓄
電気放電の閾下二重刺戟で、両者が時間的に離れて居て、累加しない刺戟間隔で、第
二刺戟によつて攣縮の起つた場合が現われた。その理由を追及する暇がなくて、実験
を中止しせねばならぬことになつたのである45。
このように意識を伝える筋肉の動きが、電気というものによっていかに生じるかというこ
とを実証していた。意識は物質によって分析されていた。
そしてこの、意識を「一元論」的・唯物論的に考察していたことが、陶の文学に反映さ
れている。例えば先ほど挙げた「絶壁」の場面は、主人公の眼に映ったものを描写した部
分だが、「キリ先が水晶にある感触」や、「口に吸ふ水と空気、吐く水」と、物を用いて
その感覚を表現主義的に表している。他に、
本当に青い夜だ、まるで私たちは CuSO446のくだけた結晶の中にいるようで、本当に
サファイアのベッドだ。だけど君の顔はルビー、君の瞳は黒曜石。
「温泉」47 彼女は全身があたたかな香りを発しているが、きっと全身の分泌腺から発せられたも
のだ
「二人の女の子」48 つまり陶は、物質によって構成される感覚を、また物質を使って科学的に表しているの
だ。そしてそれが表した内容が、先に述べたように新感覚であり、「エロ」であった。陶
の表した「エロ」は、陶のこのような「一元論」的な表現主義によって生み出されている
のである。
そしてこれは印象に頼らない、「西洋の合理主義、機械主義」49的な表現であった。陶
45
46
47
48
49
藤田敏彦「陶晶孫君を憶う」49頁。
硫酸銅。
『音楽会小曲』175頁。
『音楽会小曲』188頁。
南博「日本モダニズムについて」5頁。
66
のこの手法は、当時の合理性を重んじる世の指向とちょうど合致しており、日本モダニズ
ム的な影響の現れだった。
このように陶は、合理的な文体で合理的な表現主義を作り上げ、「エロ」というモダン
な内容を描き出していた。中西氏は「陶には新感覚派の誕生前後しばらくの意識の共有は
あっても、技巧革新を経た後の新感覚派の装飾主義に共感はなかったのである」50と述べ
ているが、そうではなく、この時期の陶は形式と内容、ともに日本モダニズムに染められ
ており、両者は表裏一体で、お互いを欠かせぬものとして積極的に世に問われた。
終わりに
このように陶の仙台と東京で執筆した作品は、性の解放を謳う「エロ」という内容を、
「一元論」的で合理的な表現主義の手法で描いたものであり、日本モダニズムの色を強く
帯びたものだった。
それはそれ以前の「文学青年」らが持っていたロマン主義や唯美主義などとは明らかに
異なるものであり、またそれに続く「社会青年」らの主張したプロレタリア文芸とは相容
れぬものだった。
だが、日本の社会史が示すように、「文学青年」が影響を受けた明治・大正文化と、
「社会青年」が影響を受けた日本のプロレタリア文芸は直結したものではなく、間に日本
モダニズムを介在させねばならなかった。
このような意味で、日本モダニズムを中国現代文学に持ち込んだ「モダン青年」陶の、
仙台と東京で生み出された文芸は、高く評価すべきだと私は考えている。
50 中西康代「陶晶孫初期作品集『音楽会小曲』と新感覚派に関する一考察」124頁。
67
III-1 郭沫若・陶晶孫と福岡
本節では福岡という街が、郭沫若と陶晶孫の文学に刺激を与え、両者がそれを対照的に
作品の中で昇華させたことを論じる。
導言
郭沫若が1921年に出版した作品集『女神』は、力強い自我の主張を帯びて、当時中国で
渦巻いていた五四新文化運動と呼応し、読書層に広い共感をよび、中国現代詩の基礎を築
いた。そこに収められている作品のほとんどが、作者身辺の自然のふところで詩想を得た
ものだが、しかしそれが、五四運動の発生の地であり、当時の中国文化の中心だった北京
ではなく、また当時の中国の経済の中心地であり、『女神』自身もそこから出版された上
海ではなく、ましてや当時多くの中国人留学生が活動していた東京でもなく、福岡という、
日本の一地方都市で書かれたことに、私は強い興味を覚える。
郭が留学生として福岡に滞在したのは1918年8月から1923年3月だが1、1920年9月か
ら1923年3月まで、郭と同じ創造社に参加した陶晶孫も福岡に滞在している。陶が福岡で
書いた諸作品、例えば「木犀」・「黒衣の男」は、その幻想的な繊細さで、中国文学史の
中で異彩を放っている。
このように福岡は、中国文学史を語る上で欠かすことのできない都市空間なのだが、現
在、郭と陶の福岡での文学と、その文学活動を中心に扱った研究は多くなく、朱寿桐の
「博多湾の風物と郭沫若の文学及び文学活動」2、武継平の『郭沫若留日十年』3等がある
のみである。しかしそれらは、彼らが何故福岡に来たのかという問題に触れていない。そ
の答えは簡単にこう言えるかも知れない:九州帝国大学で医学を学ぶために福岡に進学し
て来たのだと。しかしそれならば何故、彼らは九大で学ぼうとしたのだろうか?
郭は後年「博多を追懐する」の中で、旧帝国大学中、九大を卒業した中国人留学生数が
最も多いとし、その理由として:①気候が暖かく、風光明美。②元寇の古跡がある。③そ
の元軍も攻めた梅の名勝太宰府が近くにある、ことを挙げ、かつ郭「自身はというと元代
の戦跡があるから九大入学を選んだ」4と述べている。
しかし郭が福岡にいた間に記した「今津紀游」には、以下のような記述もある:
東京の一高で日本史の講義を聴いていた時にはもう、福岡市の西今津地区に、防塁の
残存がまだ少しあり、日本史上の有名な史跡になっていると聞いていた。その時は飛
んで今津を訪れ、モンゴル人の「馬の蹄はいたる所にあり、緑の草は無い」5戦地を
弔いたくて仕方がなかった。
1
2
3
4
5
翌年1924年4月から10月までも福岡に滞在しているが、本論ではこの時期の文学を扱わない。
『創造社作家研究』78頁。
重慶出版社、2001年。
『郭沫若全集』文学編19巻、334頁。
出典不詳。
68
私は福岡に四年近く住んでいるが、「元寇防塁」がすぐ近くにあるというの
に、一度も弔いに行ってない6。
4年も見に行っていないぐらいだから、彼が後に記した理由は明らかに重要なものではな
い。彼は元寇防塁のために福岡に来たというよりも、さらに切実なある理由のために福岡
に来たのだ。
「詩人である郭沫若と博多湾のつながりは非常に緊密である、これは彼の、影響が最も
大きく、完成度も最も高い詩作(『女神』と『星空』7に収められているほとんど)が皆
博多湾のほとりで生まれたのを指すだけではない。郭沫若の文学及び文学活動と博多湾の
つながりは人々の普通の印象よりとても深い」8のだから、郭と陶、彼らが福岡に来た理
由も、郭の詩を通して、中国現代文学で大きな意義を持つことになる。本章で私は、彼ら
が福岡に来た理由を探ることを通し、福岡という都市の中国現代文学上の意義と影響を考
えてみる。
ⅰ 望んで来たのではない
当時の福岡は、行政面では上水道の敷設・道路の舗装工事など、近代都市化が達成され
ようとしていた時期で、また文化面でも、劇場や映画館、カフェやダンスホールが現れ、
デパートが建とうとしていたなど、いわゆるモダンな文化が始まろうとしていた時期だっ
た9。
その福岡に、私は郭と陶が自ら望んで来たとは考えていない。
郭は博多湾の自然を賛美し詩を成しているが、その一方で、東京にも特別な感情を持っ
ていた:
私が一九一四年初めて東京に行った時、入学試験の準備をした最初の半年は小石川の
辺鄙な場所に住んでおり、一度も銀座に行ったことがなかった。一高予科にいた一年
は青年内向期の絶頂で、銀座のカフェは言うまでもなく、浅草の映画館さえ行ったこ
とがなかった。その後地方へ分配された10。夏休みに時には東京に行く機会があった
が、銀座のカフェなど、本当に禁じられた楽園だった。「カフェの情緒!」この何と
も人をそそる名詞よ11!
郭は東京の文化にあこがれ・羨望を抱いていた。
また彼は京都帝国大学に転学し、文学を学ぼうとしたことがある:
その頃はちょうど私の悩みが絶頂に達した時だった。私が「二月中に京都に行くつも
6
7
8
9
10
11
『郭沫若全集』文学編12巻、305頁。
郭の第二作品集、1923年出版。
朱「博多湾風物与郭沫若文学及文学活動」78頁。
井上精三『博多大正世相史』などに詳しい。
郭は岡山の第六高等学校を卒業して、福岡に来ている。
郭『創造十年』(『郭沫若全集』文学編12巻)114頁。
69
りだ」と書いたのは、転学し、そこの文科大学に入りたかったからだ。しかしこの計
画は実現しなかった、なぜなら仿吾の反対にあったからだ。仿吾はこう考えてい
た、文学を研究するのに文科に入る必要はない12。
郭は福岡に比べ、京都を重視していた、特に文学の研究をするには京都に行かなくてはい
けないと考えていた。京都には同じ創造社の同人が数名いたが、中でも張定璜が師事して
いたのは、当時の日本を代表する文芸評論家の厨川白村だった。対して福岡はと言うと、
文学としては九大の教師や新聞記者ら、地域にとらわれない、外部に広い視野を持った者
たちを中心とした短歌雑誌が、細々とあるのみだった13。郭が京都の文学に憧れたのも無
理はない。
陶晶孫になると、小説の中で福岡と思われる街について、ストレートにこう述べてい
る:
詰まる所田舎で、古い神社が一つ広々としているけれども、ただぼけっと建っている
だけだ:神社の前を電車がもう通っているが、行き交う人はとても少ない。
田舎にも田舎の風味があるべきだ、しかしここは幾ばくかの都会の要素を帯びてい
て、一体田舎なのか都会なのか──田舎としたら俗すぎて、都会としたら零落してい
る
彼は忘れ難い少年時代を東京で過ごした、彼はどうしてでも東京に留まりたかっ
た、もし出来ない時は、京都に行きたかった、そこは彼の絶えず慕っているある先生
の故郷だった、しかしこのちょっとした希望さえ叶えられず、寂しくも九州に流れて
来て、何の目標もない生活を送っている、何て悲惨なんだ14!
しばらくして、年老いた主人が出て来た、たぶん着ているのは夜会服と呼ぶものだろ
うが、あのヨーロッパの楽団とは比べものにならない、彼女はそれをとても残念に
思った15。
この2つの部分はともに福岡で描かれたもので、それ故陶が当時自分が「寂しくも」田舎
の福岡に「流れて来て」、そこの文化は「あのヨーロッパの楽団とは比べものにならな
い」お粗末さ、だからとても「悲惨」だと感じていたことが分かる。
ⅱ 比較的簡単に入学できた
福岡に来た理由としてまず考えられるのが、郭と陶が入学した九州帝国大学が、比較的
容易に入学できたことだ。
九大は、1903年に京都帝国大学付属福岡医科大学として誕生し、1911年には九州帝国大
12
13
14
15
郭『創造十年』82頁。
原田種夫『黎明期の人びと』263頁。
「木犀」『音楽会小曲』44頁。
「洋娃娃」『音楽会小曲』77頁。『陶晶孫選集』42頁所収テクストは「年老いた主人」(原文:年老者
東家)が「年老楽人」になっていて、「たぶん」以下が全て削られている。
70
学となり、工科大学を新設した。1919年には分科大学を改めて医学部・工学部とし、農学
部を新設した。「優秀な教授陣」16を揃え、当時「盛名天下に轟くといつても誇張では
な」17かった。
郭は両親に宛てた手紙にこう書いている:
私が九州に来てもうすぐ四週間です、先日六高から葉書が届き、九州医大が無試験入
学を許可したとありました18
武継平の調査19によると、当時の学生は申請により入学資格を得た。もし申請する学生数
が募集人数を超えた場合、試験を受けなければならず、入学できない可能性もある。もし
受からないと、彼らが受領していた奨学金が止められる。安全に入学するためには、申請
だけで入学できた九大に来るのが最善の策だった。
陶には烈という名の弟がおり、陶が九大で学んでいた時、彼は京都大学で医学を学んで
いた。
京都の朝はきれいでした。私は陶烈が京都の大学に居た間いつもたずねて行ったもの
です。その頃はもっと静かでした20。
当時烈の同学だった金関丈夫によると、
私が京大医学部に在学中、同級生の中に一きわ目立つ男がいた。めったに教室に現わ
れなかったが、彼が姿を見せると、あたりに清芬の気がさっと流れるようだった。そ
の痩せた蒼白な顔を載せた上体が、いつもまっ直ぐに前方を向いていて、恰も寒中の
梅花を見るような、凛然たる気をただよわせた。いつか三条の青年会館で、コロムビ
アレコードの、その頃はじめて日本に舶載されたベートーフェンの第九シムフォニー
を聴いたことがある。私があの黄表紙のオイレンブルグのパルチェで、よちよちと曲
を追っかけていたとき、彼は私の隣席に座っていた。今では初めて聴いたベートー
フェンよりも、隣に座っていた彼の印象の方が、強く心にのこっている21。
烈が京大に行き、陶は何故行かなかったのだろうか?それは彼自らが京大の入学資格を
得られないと思ったからだろう、そして京大よりも容易に入学できる九大を選んだ。
先ほど引用した「木犀」には、以下の部分があった:
彼はどうしてでも東京に留まりたかった、もし出来ない時は、京都に行きたかった、
16
17
18
19
20
21
鬼頭鎮雄『九大風雪記』51頁。
同上、53頁。
『桜花書簡』149頁。
『郭沫若留日十年』58頁。
陶「弱虫日記」『日本への遺書』166頁。
「陶熾博士のことども」『南方文化誌』東京、法政大学出版局、1977年、33頁。
71
そこは彼の絶えず慕っているある先生の故郷だった、しかしこのちょっとした希望さ
え叶えられず、寂しくも九州に流れて来て
勿論小説の一部だからそのまま完全に陶自身の伝記だと考えることは出来ない。その中の
「先生」とは、小説中の Toshiko 先生──主人公素威の小学校時の担任の先生だが、愛
する彼女の京都での死が、素威にある「解決」を与える、京都は故に小説の中で重要な意
味を持つのだが、作者である陶にとっても重要だったとは必ずしもは言えない。
しかし私は、陶は京都に好感を抱いていたと考える、弟が京大に通っていたのだから。
そして陶は弟ら東京や京都に留まった者に引け目を感じていたのだ。だから「九州に流れ
て来」るや、「悲惨」という表現で自己の環境を表現した。
これは陶だけでなく、郭もそうであった。郭の東京や京都への感情はこの理由と、以下
に述べるもう1つの理由なしでは考えられない。
ⅲ 留学生運動から離れる
陶晶孫が自らの第一高等学校時を回想する文中に、このような部分がある:
昔麹町と云った所、今首相官邸になった所はたしか嘗ての中国公使館だった筈だ、勿
論今は昔の景観は少しもない。
その中国公使館で何とも云えない滑稽なことがあった、民国元年の前の年、即ち明
治四十四年、十月革命の消息が東京の留学生界に伝わるや、狂喜した学生はみなあす
こへおしかけた、公使は大清帝国の旗を下した、器物はこわされ、大きなシャンデリ
ヤはたたき下された、公使館内は治外法権だから公使は日本警察を呼んで来ることを
しなかった、当時の公使も学生も偉かった、本郷に居る学生で五銭の電車賃がなくて
麹町迄歩いたのが居た。
次に忘れられないのは「二十一箇条」で、我々はその発表を見て、あまりの常識外
れに驚いた、正に紙一片で中国を属国にすると云う云い方である。我々が公使館に押
しかけ、公使に電報を打たせて居ると、門外を近衛聯隊のラッパ手が三十人ほど、
ラッパを吹き乍ら公使館のまわりをグルグルまわって居る、ラッパの練習位に思って
いたら、あとでそれは公使館に対して、威嚇しているんだと聞いた、日本軍閥の単純
な児戯のようなことに驚いた、あの時は未だ国際法も行われたようだし、学生検束と
云う方法は知らなかったらしい。あの頃学生は強くて公使など何とも思わなかった。
汚職の軍閥や官吏は国内でつかまえられそうになると亡命して来た、彼等は大きい
家に住み、妾を囲い、一番学生に見つかることを恐れた、併し学生は其れ等を相手に
はしなかった22。
この部分は、陶が福岡に来てからは熱烈に留学生運動に参加するのを目にしないのを考
えると、非常に奇異な内容である。
この問題に関し、私はまた次の陶の文に思い当たる:
22 「中日友好のために」『日本への遺書』43頁。
72
中学を終え、高等学校に入った、多くの中国人学生がそこにおり、各地方の訛りがあ
り、きれいには聞きとりにくかったが、私は本国の同学となじむことができると強く
感じ親しみを覚えた、しかしある同学が私を日本風だと罵った、私は思った、彼は他
人の挙動を見て判断を下しただけで、私こそが中国の理想の現れなのだと、しかし私
はこうも考えた、振る舞いやうわづらは重要だ、私はツバを吐かず手で鼻水をこすら
ないが、手を振って官話を喋ることにしよう。彼はしかし虎の皮をかぶった者を恐れ
ていた一人で、支離滅裂な愛国心を持ち、後に政治をやり、外交に混じり込み、今や
懐柔されてしまった23。
陶は小さい頃からずっと日本で成長し、日本の社会の影響を受けている、それで批判を受
けた。
私はこの文を陶の冗談だとは思えない、何故なら郭沫若も自らの苦しい経験をこう記し
ているのだ:
一九一八年の五月、日本の留学生たちの間で「中日軍事協約」に反対するため、非常
に激しい全体ストライキの風潮が発生したことがある。その風潮には一つの副作用が
あった、一部の愛国に極度に熱心な者たちが、漢奸を誅殺する会を組織したのだ。日
本人妻のいる者は全て漢奸とされ、まず警告を一度与え、彼らに即座に離婚すること
を命じ、そうでない場合には武力で臨んだ。この運動は当時異常に猛烈で、東京に住
み日本人妻をもっていて、それが理由で離婚した者は少なくなかった。不幸にも私は
その時安娜24と一年半も同居しており、私たちの一番目の息子和夫が生まれてから
五ヶ月が経っていた。さらに不幸なことに私には生来英雄となる資格がなく、呉起25
のような妻を殺して将軍となる能力がなく、それで私は勿論漢奸の列に並べられた。
ただ幸いなことに私は地方に住んでおり、「武力」のうまみは味わったことがなかっ
た。
全体ストライキは二週間ほど続けられたが、反対した協約はそれで取り消されもし
ないので、全体帰国の決議が生じた。この決議が下されるやいなや、手に金のある者
で帰国した者も少なくなかったが、不幸にも私のような『漢奸』の毎月もらう三十二
円の官費は、三人を養わねばならないもので、普段でさえギリギリの生活をしていた
というのに、どのようにして余った金で帰国の費用を工面できよう?金がないと「愛
国」の資格を失う、「漢奸」の美名が頭上にぶつかっており、まるで鉄で鋳た秦桧26
の様だった。私めの涙腺は発達しているようで、もともと涙は多いのだが、当時私は
23 「晶孫自伝」236頁。
24 郭の妻、佐藤をとみの中国名。
25 戦国時代の政治家・軍人・思想家。斉が魯を攻めた時、妻が斉出身で、斉と通じていると疑われたので
妻を殺し、魯侯の信を得、斉を撃退した。
26 南宋の政治家。北方の金にへりくだった態度を取り、抗戦を主張する軍人岳飛を謀殺したため、後に漢
奸の代表とされる。郭がこの文を書いた当時、中国の各都市にあった岳飛廟には、門前に彼と妻らの、
後ろ手に縛られてひざまずく鋳鉄の像が置かれ、人々がさげすみ唾を吐きかけていた。
73
このような悩みを抱え、人のいない場所で幾度涙を流したか分からない27。
郭と陶はともに高等学校時に発生した留学生運動の中で批判を受け、そして福岡に来た。
故にこう言える:彼らは運動から離れるために、「田舎」福岡の九州大学を選んだのだ。
郭は九大に来た後も夏社と医学同志会28で運動に参加しようとしたが、東京で五四運動に
呼応して運動をくり広げた留学生ら29に比べると、郭の行為は積極的とは言えない30。
彼ら留学生運動の中で傷ついた者にとって、福岡は東京のような激しさのない、彼らに
悲哀を解き放ち安らぎを与える場所だった。それ故、彼らは福岡に来て九大で授業を受け
た。
ⅳ 悲哀と再生の歌
この2つの理由で、陶晶孫の福岡での創作には悲哀が満ちていた。そして当時そのよう
な陶をもっとも理解していたのは、彼の同学郭沫若だった。彼は陶の「木犀」にこう書き
添えている:
原題は「Croire en destinée」(「運命を信じよ」)という、原文はもともと日本語
で、私がこの作品を愛読したので、彼に中国語に訳すよう勧め、題を『木犀』に変え
た。一つの国の文学には、その特別な美しさがあり、それを他の国の文字で表現する
ことは出来ない。本作の訳文は原文に比べるとかなり劣るが、その根本の美は幸いさ
程損なわれていない、読者の細やかな吟味を請う31。
彼ら2人がともに福岡で生活し、同じ悲哀を抱えているから、郭は陶の知音の友となれた
のだ。
郭の福岡での文学といえば、『女神』に代表される豪放な詩歌を普通指すが、それでも
やはり以下のような、悲哀に満ちた詩がある:
何故向こう岸の山は、
頭をさげたまま楽しそうにしないのか?
周りは岸を打つ音、
海よお前は誰に語りかける?
海の言葉はとうとう分からず、
27 『創造十年』39頁。
28 夏社は日本のマスコミの中国侵略に関する言説や資料を集め、中国語に翻訳し、中国の学校とマスコミ
に郵送した団体。『創造十年』63頁参照。医学同志会は、雑誌の出版を通して医学の啓蒙を目指した団
体。雑誌未発行。『三葉集』26頁参照。
29 さねとう けいしゅう「東京の 五四運動 」(『日本留学生史談』東京、第一書房、1981年、第313
頁)に詳しい。
30 当年5月、郭ら九大中国人留学生は「其筋の警戒と内偵」の下にあった。小崎「資料紹介」(『郭沫若
研究会報』4号、2004年5月)19頁参照。
31 『創造季刊』1巻3期、69頁。
74
白い雲の飛んでいるのが見えるのみ32。
海の潮の声は低く低く生まれ、
まるで彼に代わってむせび、
まるで彼に代わって語りかけるようで、
彼の無限の情緒を引き起こした33。
朱寿桐はこれらの詩を挙げ、こう指摘している:
豪放粗暴な詩は大体1919年春から1920年春に渡り書かれた、詩人の記憶中の五四高
潮期とはたぶんこの一年程のことだろう。問題はこの時期に郭沫若はこれら豪放粗暴
な詩の他に、もっと大量の清淡で美しい詩篇を書いている点だ
豪放粗暴な「五四」の高潮の期間中に、彼の大量の詩がこの様に新鮮で清らかで、
明るく広がるように美しいので、完全に断言することができる、清淡で美しい点は郭
沫若の基本的詩風であり、最も一般な詩風である34。
朱がここで云う「清淡で美しい」傾向が、つまり私のいう「悲哀」である。
しかし私はそれを「基本的」又は「最も一般」だとは考えない、それは芸術の源泉では
あるが、同時に文学者の心に受けた傷であり、文学行為とはそれを克服し、昇華すること
の表現でもあるから。郭も詩の創作を通して自らの再生を願った:
私は一人の「人間」ではなく、壊れた人間です、私はあなたの「敬服」にふさわしく
ない人間です、私は今 Phoenix のように、香木を幾らか集めて、私の今持つ形骸を
焼き壊すのを強く望んでいます、悲しい極みの挽歌を唱いながら焼き壊し、あの冷た
く清らかな灰の中から「私」を再生させるのです35!
郭が福岡で創作した詩の中で、福岡の自然は彼を抱きしめ、彼を再生する「母親」とし
て現れる:
私の血は海の波とともに満ち引きし、
私の心は日の光とともに燃える、
私の生まれた時からのホコリやアカ、役立たずのクズが
もう全て洗い落とされた36!
地球、私の母よ!
32
33
34
35
36
「春愁」『郭沫若全集』文学編1巻、134頁。
「嘆逝」『郭沫若全集』文学編5巻、389頁。
「博多湾風物与郭沫若文学及文学活動」79頁。
『三葉集』(『郭沫若全集』文学編15巻)第18頁。
「浴海」『郭沫若全集』文学編1巻、70頁。
75
あなたは私を背負ってこの楽園でとらわれるものもなく。
あなたはそしてあの海の中で、
音楽を奏で、私の霊に安らぎを与えてくれる37。
福岡の自然が郭の「母親」であるなら、博多湾は郭文学を産み出した「子宮」だと言える。
陶晶孫の再生の歌はどうだろうか?高々と再生の歌を唱う郭と違い、陶は常に内向きな
文学姿勢なのだが、後に仙台で過ごした「恋愛生活」がそれである:
仙台の大学のオーケストラは九州大学の壮大さには及ばなかったが、その指揮を続け
て二年任せられ、自由に交響楽を研究できて有益だった、汽車に乗って東京にピアノ
を学びに行った、冬は乗馬を練習したが、あまり進歩しなかった。この時上海では
ちょうど『創造』季刊が『週刊』や『創造日』に改められるなどにぎやかな時だった
が、私はあそこで恋愛生活を送った38。
この時彼は仙台にいたが、彼の「恋愛」は福岡の抱洋閣で佐藤みさをと知り合った時に始
まったのであり、陶の福岡での生活における重要な変化だった。また上に引いた文で陶は
「恋愛生活」と創造社の活動を並べて論じている。つまり陶は「恋愛生活」も一種の文学
行為であり、一種の創作だと考えていたのだ。前節で論じたように、それは関東大震災後
のモダンな文化の影響を受けたものだったのだが、その中で自らが描いた「恋愛生活」が、
陶の再生の歌だった。
結語
この2つの理由で、郭沫若と陶晶孫という2人の文学者は、心に傷を負って福岡に「流
れて来て」、そして福岡は彼らに安らぎを与えた。彼らは福岡であの文学史に残る重要な
諸作品を創作している、特に中国現代文学を代表する郭文学は、博多湾の自然から生まれ
ている。中国現代文学をはぐくんだ揺籃の1つとして、福岡の果たした意義は大きい。
37 「地球,我的母親!」『郭沫若全集』文学編1巻、79頁。
38 「晶孫自伝」237頁。
76
Ⅲ-2 張定璜と『駱駝』
前節で雑誌『駱駝』に言及したが、それは創造社と強い繋がりを持ちながら、人道主義
故に相容れず、しかし陶晶孫の日本モダニズムとは同調するものだった。本節では駱駝社
の一員で、かつ初期創造社の成員だった張定璜に注目し、彼の存在が創造社に齎していた
人道主義の可能性と、その否定された経過を論じる。
はじめに
創造社の誕生を論じる際に、「異軍突起」という言葉がよく用いられる。
創造社という団体は一般に異軍突起だと称されている、何故ならこの団体初期の主要
メンバー郭沫若・郁達夫・成仿吾らは、『新青年』時代の文学革命運動に皆直接は参
加しておらず、当時の啓蒙家たち陳独秀・胡適・劉半農・銭玄同・魯迅や周作人ら
と、皆師弟や朋友の関係を持たなかったからである1。
これは郭沫若が1930年に記した文章だが、彼は「異軍突起」、つまり従来の文学伝統と断
絶するグループ=創造社の突然発生の理由として、それ以前の文学者との繋がりがないこ
とをまず指摘している。そして伝統を拒絶する「異軍」であったからこそ文学革命の中で
多くの敵をつくり、「異端」となり「孤軍」になってしまったと云う。
私はこの「異軍突起」というイメージに違和感を覚える。それがあまりにもロマン主義
的にできすぎているからだ。
従来創造社の誕生は、彼らが『創造季刊』発刊の後すぐに文学研究会と対立したことか
ら、人生派=文学研究会とロマン派・唯美派=創造社という枠組みの中で、思想的な相違
点が注目されてきた。
しかし劉納は『創造社と秦東図書局』の中で、この二者の思想的対立に「根本的な違い
などない」2ことを実証した。
そして劉が対立の要因として取り上げたのが、「打架」(ケンカ)という創造社の姿勢
である。
事実上、『新青年』の周りに集っていた新文学の発起者や協力者だけでなく、先駆者
の提唱した新文学運動の中で立ちあがった文学青年や、後の研究者まで、皆が「五
四」新文学の発生を戦闘と見做していた3
当初の『新青年』と現在の創造社の闘
争の目標はともに「文壇を壟断している」者である、だが『新青年』と「桐城派」・
「宋詩派」の間には「旧」と「新」の原則的な分岐があり、創造社は自らと文学研究
会の間にはもうこの様な性質の分岐を見出せず、彼らの非難する「専断」・「思い上
1 「文学革命之回顧」『郭沫若全集』文学編16巻、98頁。
2 郭沫若『創造十年』(『郭沫若全集』文学編12巻)140頁。
3 『創造社与泰東図書局』178頁。
77
がり」・「閉鎖性」などはみな作風や態度面の問題にすぎなかった。事実上敵対陣営
とするに足る原則的な分岐がもう見出せないので、戦闘は「打架」に変わった4。
このような「打架」が創造社を「異軍突起」にしたと云う。
劉はさらに、
彼らは自らの階級を「プロレタリア階級」にふり分けていた──この言葉への皮相的
な理解から考えるに、資金もなく、背後で支える人物もいない何人かの青年は、言う
までもなく「プロレタリア階級」なのである
「プロレタリア階級者」であるから、
彼らは出版商人からの搾取と「文壇を壟断している」者からの圧迫を受けている。そ
れで、彼らは同じく「被圧迫」者の「天下の無名作家」との連合をよびかけた。連合
して誰と闘うのか?「プロレタリア階級」の闘争対象は勿論ブルジョア及び「資本家
の家の垣根のふもとに立っている」「文壇を壟断してる」者や、「人数の多さをかさ
に着ている」者。この様に、創造社は常に都合のいいロジックで「打架」を「階級闘
争」の範疇に入れてしまった5。
「打架」という姿勢こそが創造社の左翼文芸への貢献を産みだし、その後の中国文学の方
向性を定めたのだとしている。
しかしそうだからといって、創造社を「異軍突起」と言っていいのだろうか。劉が「異
軍突起」自体を否定しない点に、私は不満が残った。
本節で私は、この「異軍突起」というイメージを否定したい。以下に述べるように、そ
れがあまりにも理想化・単純化されたものだからだ。そうではなく、結成当時の創造社に
はやはりそれ以前の文学の伝統を受け継ぎ、そして選択した要素があったと考えられる。
実際に「異軍突起」の語が最初に創造社の出版物に現われるのは、私の現時点での所見
の限りでは、中期創造社の雑誌『洪水』第2巻第23、24期(1926年9月1日)の表紙裏に
載った:
請閲異軍突起的
幻洲半月刊
という広告見出しである。『幻洲半月刊』は、上海で中期創造社を実務的に支えた周全
平・葉霊鳳・潘漢年ら青年たちが、創造社出版部から発行した『A11』と『幻洲(週
刊)』の後継雑誌で、当時広州にいた創造社初期の成員たちは、周らの行動に不快を示し、
26年末に郁達夫が上海に戻って出版部を整理し、それによって周ら中期成員は創造社を離
れ、『幻洲半月刊』は他所で発行された6。この様な問題の原因となった『幻洲半月刊』
の広告に、「異軍突起」の語が、創造社で最初に用いられた。
4 同上、136頁。
5 同上、188頁。
6 鈴木正夫「創造社脱退前後」『郁達夫:悲劇の時代作家』32頁以降参考。
78
言うまでもなく、ここで「異軍突起」なのは『幻洲半月刊』を示し、周らがまだ働いて
いた創造社自体は、この広告では「異軍突起」とは全くされていない。もし創造社も「異
軍突起」であるのならば、広告の言葉に「又」や「還」等の、動作の重複や動作の起こる
状態の持続などを示す副詞が付くはずだが、それが無い。1926年当時の常識では、「異軍
突起」なのは創造社なのではなく、その創造社から起こった『幻洲半月刊』の方だった。
この様に様々な矛盾を抱えているのだが、本節ではその「異軍突起」を切り口に、その
否定材料の1つである創造社と北京文壇との関係と、そこから浮かび上がる問題を考えて
みたい。
ⅰ『創造十年』、北京分部
初・中期創造社の正史とも云うべき『創造十年』の中で郭沫若は、創造社と五四運動の
発祥地である北京との関係の希薄さを、以下のように何度も強調している。
1922年6月、創造社成立時のメンバーには、後に北京大学で教鞭をとる張定璜と徐祖
正7が含まれている。しかし彼らは1923年5月、『創造週報』第1期に成仿吾が発表し、
当時の詩壇を郭沫若を除いて全て否定した「詩の防御戦」を原因に創造社を離れた。
その「防御戦」が生じたために、敵対陣営には全然損害をあたえなかった、しかし逆
に自らは深い傷を負ってしまい、本陣営の一角を壊滅させてしまった。創造社の準備
期にともに参加した張鳳挙8と徐祖正、このお二人の「先生」は、『創造(季刊)』
第一巻第四期の「シェリー記念号」に文章を載せており、鳳挙はその号に「路上」と
いう小説を発表さえした。だが『週報』創刊以後、彼らは仿吾が彼らの文章を改めた
といい、そのまま創造社との関係を絶ってしまった。何度も彼らにその未完の原稿を
寄せ続けるようたのんだ、しかし彼らはそれも謝絶した。互いに文章をちょっと改め
るなんか、私が思うには、友人の間では、断じてあの「広絶交論」9の資料にならな
い。重要な原因はやはりあの「戦い」だったのでは?その一「戦」が我々の北大教授
周作人「導師」を不愉快にしたのは、絶対に確かなのだから10。
同年9月、郁達夫は『創造日』の編集を放棄し、北京に赴き北大の教壇に立つ。それは
創造社からの一時的な離脱を意味していた。
達夫が去ってから、本当に「言葉から行動が分かる」で、ずっと文稿を寄せなくなっ
た。彼は閑な時に『晨報副刊』に投稿したり、雑誌『太平洋』に投稿したりした、し
7 張定璜については本文中に述べる。徐祖正、号は耀辰。張と同じく京都大学に留学し、1922年の帰国後
は北京高等師範学校や北京大学、北京女子師範大学などで教える。張の渡仏後も周作人と行動を共にし、
日本占領下では蟄居、後に漢奸として訴えられた周を擁護する。人民中国成立後も北大で教え、毎月周
のもとを訪れていたが、右派とされ批判される。
8 「鳳挙」は張定璜のもう一つの号。
9 梁・劉峻『文選』55巻。
10 郭沫若『創造十年』196頁。
79
かし創造社のいくつかの刊行物はもう彼の脳裏にはないかのようだった11。
1924年5月、『創造週報』の停刊時に持ちあがった創造社と北京の太平洋社12との合作、
12月の『現代評論』発刊に対しても、創造社のメンバーはあまり熱意を見せていない。
仿吾が『現代評論』に発表した文章はたった一篇のようだ。達夫は始めは少し多め
だった、しかし後では名が見られなくなった。私?前後合わせてたった二篇、一つは
「亭子間中」、もう一つは「哀感」13。
また創造社中期の1926年3月、北京で創造社出版部北京分部が成立している。しかし北
京大学の周りを転々とした後、1927年9月には「成績がよくない」14との理由で閉鎖して
しまっている15。その間北京では三・一八事件や張作霖による思想弾圧があり、1926年8
月には魯迅も北京を去っているなど、分部をとり囲む文学的条件は極めて悪かった。しか
しこの北京分部の短命は、やはり創造社の活動がいかに北京そして北京大学に根づかな
かったかを示していよう。
このように創造社は、北京という都市の帯びていた文化・伝統とは縁遠い存在であり、
そしてそのようなことも含めて創造社は「異軍突起」だとされてきた。
ⅱ 北京文壇との繋がり
しかしこれだけでは説明できない点が幾つかある。何故なら創造社と北京文壇は、その
根底でやはり深い関係を持っていたからだ。
例えば、まず先述の郁達夫の北京行きである。郭沫若の視線で創造社の歴史を綴った
『創造十年』では、それは創造社からの離脱である。しかし郭は一方で郁を「創造社の天
を支える一本の柱」16と呼んでおり、郁なしでは創造社は創造社たり得なかった。そして
郁は多くの点で北京との繋がりを持っていた。郁の第一作品集『沈淪』は、周作人の好意
的な評論「『沈淪』」17を得てはじめて今日の文学史的な地位を得た18。彼が後に『創造月
刊』に発表した「沫若への旧信」19や「一人途上にて」20は、その際の北京での生活を描い
11 同上、181頁。
12 「太平洋社のあのイギリス帰りの学者を、私たちはいつも紳士すぎると感じていた、すこし悪く言うと
官僚味が濃すぎて、すぐには合作ができそうになかった」(『創造十年』183頁)。
13 『創造十年』213頁。
14 「創造社出版部緊要通告」『洪水』3巻34期、1927年9月16日、表紙ウラ。
15 『洪水(半月刊)』と『創造月刊』によると、①北京大学第一院(1926年3月?∼)②北河沿(今の北
河胡同)46号(同年4月?∼)③景山東街・中老胡同17号(同年4月中旬∼)④亮果廠(今の亮果廠胡
同)5号(同年7月?∼1927年9月?)と移り変わっている。当時の所在地が現在のどこなのか、細か
い所は後日の課題とする。
16 『創造十年』178頁。
17 『晨報副鐫』1922年3月26日。
18 鈴木正夫「郁達夫:その生涯と活動」『郁達夫:悲劇の時代作家』6頁。
19 1巻1期、1926年3月。
20 1巻5期、1926年7月。
80
たものである。このように郁は北京と深い関係があり、それを郭のように郁をただ「ブル
ジョア派」21とののしるだけで済ませることはできないはずだ。
次に張定璜と徐祖正である。先述したように彼らは早々と創造社から離れたのだが、郭
が彼らの復帰を「何度も
たのんだ」ことが示すように、その創造社での位置は決して
軽視できないものだった。北京文壇に地位を得た彼らの存在を、創造社研究の中で無視す
ることはできないのだ。
さらに陶晶孫である。私は彼の資料を集めているうちに、彼が周作人を中心とした北京
の文壇と密接な関係にあることを知った。
仙台時代以来の友人である柘植秀臣によると、陶は「一九二四年
冬、北京に旅
行」22している。
また本章第1節に言及した様に、『周作人日記』には、以下のように陶の北京訪問が記
されている。
1923年8月に云う、
二十日
る23。
二十三日
午前
午前
鳳挙と士遠が、陶晶孫そして彼の妹とともに訪問。午後三時に帰
鳳挙と陶君を訪問。午後六時に帰宅24。
同年6月に陶は上海で創造社の『創造日』発刊を決めた会議に参加しているが25、その足
で北京にも赴いたと思われる。
さらに1925年1月に云う、
一日
午前、玄同・幼漁・士遠・尹黙・鳳挙・振南・保子・晶孫・陶棣・川島・伏園が来て
屠蘇を飲む。午後帰る。
二日
晶孫が来て泊まる。
五日
四時、達夫が晶孫を訪問。同席できず。五時になり帰る。
十日
午前七時、晶孫が日本へと発つ26。
これがつまり柘植の云う、1924年冬の北京旅行である。
このように陶は北京文壇、特に周作人を中心としたグループと交流があったようだ。後
21
22
23
24
25
26
「文学革命之回顧」『郭沫若全集』文学編16巻、100頁。
「追憶と業績」陶晶孫『日本への遺書』244頁。
中册、322頁。
中册、323頁。
郭沫若『創造十年』173頁。
中册、424頁。
81
年の文章である「曼殊雑談」に云う、
文学者として私は先輩はもたないのだが、周作人先生だけはだいぶんの年長だから先
輩であるし、先生が「語絲」を出されてからは毎号日本迄おくってくれたのでそれに
よって曼殊のことを初めて知ったが、そのまま私には仲間があったので、北京学派に
は遂に文章を書いておくるようなことはしなかった27。
陶も周作人に目をかけられた若き文学者の一人だったのだ。
そしてその周作人と創造社との関係も注目せねばならない。彼は創造社と対立した文学
研究会の「文学研究会宣言」を執筆した、いわば同会の思想的支柱であり、また先述した
成仿吾「詩の防御戦」の件もあって、創造社との関係はあまりよくなかったと思われてい
る。しかし結成当時に限って言うと、彼は創造社にかなり協力的だった。先程あげた郁の
『沈淪』への好意的な態度もそうだし、成が『創造季刊』第1巻第1期に発表した小説
「ある流浪者の新年」を、当時北京で出版されていた日本語誌『北京週報』上で日本語に
訳して紹介しており28、また九州帝国大学を卒業した郭沫若に対し、「ある時期
開設
にとても力を注いだ」29という北大の東洋文学系への就職を勧めてもおり、そしてそれを
仲介したのが創造社のメンバーで、周の北大での同僚張定璜なのである30。周は創造社と
深い関係にあった。
ⅲ 五四運動を受けつぐ者
そこで私は以下で、張定璜のことを深く考察してみたい。張は1895年生まれ、名は黄、
号は定璜・鳳挙、南昌の人。東京高等師範と京都帝国大学に留学し、帰国後は北京大学や
中法大学、北京女子師範大学などで教鞭をとった。彼はまた初期創造社のメンバーたちの、
北京における活動の中心人物だった。例えば鄭伯奇と穆木天は北京訪問に際して張に世話
になったことを感謝を込めて書き記しており31、陶晶孫が張を頼りにしていたことも先に
述べた通りである。また馮至を『創造季刊』第2巻第1期で世に紹介し、後の彼の詩人と
しての出発の機会を与えたのも彼である。そして郭沫若が北大東洋文学系への誘いを受け
たことは先に記したが、そのことは後にその東洋文学系の教員になった張の立場そのもの
が、初期創造社のメンバーに期待されていたものだったことを示している。後年魯迅らと
ともに北京女子師範大学の闘争に参加することなどから分かるように、彼は時代に積極的
に向かいあった文学者の一人だった。その彼の北京文壇における位置、それを知ることは
成立当時の創造社自身の北京での位置を知ることになる。そして「異軍突起」と称される
創造社の、そのイメージに相反する要素、すなわち創造社がその活動の途上で捨てた五四
の伝統が、張の位置を通して明白になるのだ。
27
28
29
30
31
『日本への遺書』187頁。
30-31号、1922年8月27-9月3日。
周作人『知堂回想録』414頁。
郭沫若『創造十年』166頁。
鄭伯奇「二十年代的一面」王延晞・王利編『鄭伯奇研究資料』72頁;穆木天「我的詩歌創作之回顧」722
頁。
82
張定璜は、陶晶孫の言葉を借りるならば「京都帝大にいた時、運よく大学教授が来て、
すぐに北京に行った」32人物である。「大学教授」とは、北大の教授だった沈尹黙を指し
ている33。
陶は沈と張の接触を「運よく」と表現するが、私は張には、沈と接触する当然の理由が
あったと推定する。沈は1918年1月以来、それまで陳独秀一人で行ってきた『新青年』の
編集を交代で担ったメンバーの一人だった。その『新青年』の第6巻第3期に、「張黄」
という人物の翻訳したモーパッサンの「マダム・バティスト」が掲載されている。張の名
は「黄」である。確証は無いのだが、私はこの「張黄」が張定璜のことだと想像する。東
京高等師範と京都帝国大学で英文学を学び、後にはロマン・ロランの文章を翻訳する34彼
にとって、モーパッサンの訳がさ程難しかったとは考えられない。張が『新青年』に文章
を発表したことがあるのなら、その編集員の一人だった沈との接触は当然だった。
勿論「張黄」が張かどうかに関わらず、京都で当時の日本文芸評論を代表する人物だっ
た厨川白村の教えを受けた張は、『新青年』が五四運動の中で果たした役割りを引き続き
担うべき者だったのであり、北大に職を得た彼の存在は、魯迅に「沫若・田漢の流」35と
揶揄された成立当時の創造社に『三葉集』とは違った色を、陶晶孫の言葉だと「北京学
派」36つまり権威的な色を添えていたのだ37。
その張を、陶はまた次のように評している。
彼の小説は一篇のみだが、彼は『創造季刊』の文字・体裁・句読点全てに意見があり
上海に書いて送ってきた、これは当時の日本で新ロマン主義が流行っていたことによ
る模倣であり、彼の個人的なライフスタイルでもある。ただ同時に創造社が文学革命
の中で、口語をもちい、美を忘れず、旧習を打破し、試作し、横書きし、陳腐な言葉
を排し、文字組み・筆記全てに美しい表現を忘れなかったことを示している38。
陶のこの評価は、間違いなく張が上海の成仿吾に送り、『創造季刊』第1巻第4期に掲載
された「通信」が念頭にあったはずだ。そこには張の、創造社の刊行物に対する以下の3
点の「形式方面」への意見が記されている。
第一、frontispiece、挿絵 vignette などを加える
第二、僕が思うに句読点はやはり一つの文字の地位であるほうがいい
第三、僕は紙質がもう少しいいことを希望する、一番いいのは切り開かない装丁法
32 「創造社還有幾個人」『陶晶孫選集』253頁。
33 沈尹黙「我和北大」陳平原・夏暁虹編『北大旧事』北京、生活・読書・新知三聯書店、1998年、178頁;
吉川幸次郎「沈尹黙氏がこと」『吉川幸次郎全集』22巻、東京、筑摩書房、1975年、328頁。
34 後述する「Millet」など。
35 「致周作人」『魯迅全集』11巻、北京、人民文学出版社、2005年、413頁。
36 「曼殊雑談」『日本への遺書』187頁。
37 小谷一郎氏は「郭沫若『革命と文学』その他」(伊藤虎丸・横山伊勢雄編『中国の文学論』東京、汲古
書院、1987年)の中で、初期創造社における厨川の文学観の「受け止め」を指摘している。304頁。
38 「創造社還有幾個人」253頁。
83
を用い、一つの美の先例を中国書籍に与えること。
以上はみな形式──又は内容とも言える──についてで、その他は全ていい出来
だ。もし画家や音楽家の伝記又は著作をふやすならなおさらいい39。
このような張の意見を、陶は創造社の革新性の中に位置付けている。
この陶による張への評価で注意すべきは、創造社の成立時の唯美主義に、張のこの「形
式方面」への意見が貢献していると指摘している点である。それはただ外観に関わること
ではなく、
装飾に対する関心が最も早くあらわれたのは、ラスキン、モリスを先輩にいただくイ
ギリスの世紀末芸術家たちにおいてであった。それは、人間の生活環境を美しいもの
にし、それによって美に対する洗練された感受性を養おうとするもので、室内装飾、
家具、食器、文房具、本の装釘、印刷、レタリング等、直接生活と結びついたあらゆ
る分野において、華々しく展開された40。
この「美に対する洗練された感受性」であった。
そしてそれは、鄭伯奇が『中国新文学大系』小説三集の「導言」にわざわざ言及するよ
うに、張が「当時文学を専攻していた」41ことも影響していよう。わざわざ言及する程に、
初期創造社の中で文学を専門的に学んだメンバーは少なかった。その中で京大で厨川の教
えを受け、その後北大で文学を講じている張の権威性は、創造社にとって目差す唯美主義
という理想に近づく一つの方法だった。
そしてそれは、蔡元培以来の美学教育の伝統を持つ北京大学、そしてそこに集う文学者
らにとっても同じだったと考えられよう。
ⅳ『駱駝』
ここで私は、張らが駱駝社として1926年に出版した雑誌『駱駝』に注目したい。わずか
一期のみ出版した雑誌なのだが、「中国では珍しいくらいハイカラな」42ものだったとい
う。
それは張が「通信」に述べた、『創造季刊』に対する「形式方面」の要求の具体化した
ものではないだろうか。
私は影印本を見ただけで現物を拝する機会がまだないのだが、それでも充分に『駱駝』
の「ハイカラ」さは理解できる。数多く用いられた挿絵、封面は「下村泰三君」43に描い
てもらい、題字は書家としても有名だった沈尹黙が揮毫している。句点の後ろにスペース
があり、充分に「文字の地位」を得ている。紙質や装丁については現物を見ないと何とも
言えないが、各頁の右下に打たれた次頁最初の文字より「切り開かない装丁」、いわゆる
39
40
41
42
43
『創造季刊』1巻4期、21頁。
高階秀爾『世紀末芸術』125頁。
「現代小説導論(三)」蔡元培等『中国新文学大系導論集』166頁。
伊藤虎丸「〈駱駝〉及び〈駱駝草〉覆印縁起」『駱駝草 附駱駝』13頁。
不明。
84
フランス装だったのでは、そして所有者の好みに応じた製本に対応していたのではないか
と思われる。そして張自身は『駱駝』にロマン・ロランの「Millet」を訳出しているが、
それはフランス・バルビゾン派の「画家」ミレーの「伝記」である。このように『駱駝』
には、「通信」の「形式方面」の意見の一つ一つが反映されているのだ。
そして「Millet」を訳出した張は、そのミレーの絵を『駱駝』に挿絵として十枚用いて
いる。
ミレーの名は、張が「通信」と同じ『創造季刊』第1巻第4期に発表した、彼の唯一の
小説である「路上」にも記されている。
こんな風に、私の心は訳もなく瞬時に、以前思いのまま遊んだ嵐山の千鳥ヶ淵にたど
りついた。あの夕暮れる嵯峨の山々の、ふもとの晩春の雰囲気が瞬時にあたかも
Millet の「晩鐘」のように、静かに私の前に広がった。私はまた京都にたどりつい
た44。
ミレーの「晩鐘」が、ここでは作中の理想郷としての京都の形容に用いられている。そし
てその意味するところは、自らの訳したロマン・ロランの文章に云う、
労働の苦しみを描き、同時にこのようなきびしい苦しさの中に人生の一切の詩を、一
切の美を描く、これが Millet の思想そして彼の芸術の頂点なのだ45。
そして
Tolstoi に
『芸術とはなにか』で文明を過度にきびしく訴えた後で、Millet を
例外とさせ、かつ彼の「晩鐘」や、さらに彼の「くわを持つ男」を、あの「キリスト
教の神を愛し隣人を愛する感情を伝え広める少数の」絵画や、あの「宗教的」と言い
得る、聖ヨハネの云う「人と神、それと人それぞれの結び合い」を実行している芸術
作品の中に並べさせたのも、怪しむに足らない46。
という、美を通した人道主義的な思想の裏付けだった。
そしてこのような理想を抱いて、張は『駱駝』を出版したのだ。これは『駱駝』の出版
に協力した、陶晶孫を含む五人の文学者47の共通の想いだったのだろう。
そしてそれは「通信」の反映なのだから、『駱駝』の装飾性は張の描いた創造社刊行物
の理想像だったのであり、その人道的思想は創造社の選び得た一つの選択肢だったのだ。
ⅴ 捨て去られた可能性
44
45
46
47
張定璜訳「Millet」『駱駝』109頁。
張定璜訳「Millet」15頁。
張定璜訳「Millet」24頁。
張と周作人・徐祖正(以上駱駝社のメンバー、周「代表「駱駝」」145頁による)、陶と沈尹黙。
85
そのような張の、従来の文学史研究における地位はあまりにも低い48。残した文章の絶
対的な少なさ、また後日北伐の完了・国民党の北京入城に際して国民党に入り49、第二次
大戦敗戦後の日本に戦勝国中国の代表として駐在した50彼の国民党政治家としての経歴に
由来する扱いにくさ、それらが彼の今日の地位を定めてしまったのだと思われる。また私
はさらに一つ、郭沫若の張に対する「ひがみ」が、文学史における張への軽視につながっ
たのではと疑う。兄に幾度も叱咤されながらも実学である医学より文学に心を寄せていた
郭は、九大から京大に転学し文学を学ぼうとして諦めた経過がある51。その京大で、郭も
内心あこがれたであろう厨川のもと英文学を学び、しかも創造社成立に胸をおどらせてい
た郭に「上海灘では文学なんて語れない」52と冷や水を浴びせた沈尹黙につれられ、五四
運動の中心地であった北京大学にすんなり就職した張「先生」に、郭が「ひがみ」を抱か
なかったはずがなく、それは郭の『創造十年』の端々に伺うことができる。『創造十年』
で意図的に軽視された張が、その後の創造社研究の中で注目されるはずがなかった。ちな
みに郭は張と徐祖正が創造社と関係を断った後、発表途中の文章の続きを送らなかったと
先にあげた『創造十年』の引用に記すが、実際には後年、徐はその「英国ロマン派の三詩
人──バイロン・シェリー・キーツ」の続篇と言うべき「バイロンの精神」を、1926年6
月の『創造月刊』第1巻第4期に発表しており、また徐が中期創造社の「小夥計」らと交
流があったこと53などを、郭は言及していない。徐のこれらのことを忘れてしまう程、郭
は張を強く意識していたのだと思われる。
だがしかし、北大の教授であった張の参加は、やはり創造社の活動にハクをつけるもの
だったのではないだろうか。だからこそ張は「Shelley」を執筆し、成仿吾に自らの理想
を意見として書き送ったのだろう。
逆に言えば張が創造社を去り、創造社からハクがはがれてしまったことは、創造社が北
大などの権威に頼らずに活動する、その後の方向性を決定したと言える。
先程あげた張の「通信」には、陶晶孫は言及していないが以下のような続きがある。
人は僕らに誌面での論争を強くうながしている。しかしそれは最も芸術的でないこと
であり、割りに合わぬことだ。時には本当に仕方ないが、だけど僕はやはり僕らが高
く乗り越え得ることを望む。このことと dilettante と Literary philistine の力
比べの時間を生産方面にふり当てたら、彼らも満足するだろう。
その後成仿吾は「詩の防御戦」を執筆し、この張の成あての意見を無視した形となるのだ
が54、この張の意見のうらには、
48 銭理群・温儒敏・呉福輝『中国現代文学三十年』では、創造社成立時のメンバーの中に「張鳳挙」とし
て名を連ねるだけである(17頁)。
49 周作人『知堂回想録』p384。
50 周『知堂回想録』382頁;倉石武四郎『中国語五十年』東京、岩波書店(岩波新書)、1973年、84頁。
51 郭『創造十年』82頁;鄭伯奇「憶創造社」『鄭伯奇研究資料』94頁。
52 郭『創造十年』109頁。
53 徐「創造社訪問記与後記」『洪水週年増刊』1926年、147頁。
54 成は張の「通信」と同じ『創造季刊』第1巻第4期の「創造社与文学研究会」で、張の文章を引いて
86
今もし評論における立派な理論をもって統一を無理やりに行う、もしこの不可能なこ
とが実現してしまったとすると、文芸作品はもうその唯一の条件を失っており、事実
上文芸たりえなくなる。何故なら文芸の生命とは自由であり平等ではなく、分離であ
り合併ではないからであり、故に寛容こそが文芸の発達の必要条件なのである55。
という周作人、または
まるでいろいろな宗派の神学者のやうに、各派の芸術家たちは自分で自分を排斥し、
滅してゐる。試みに現代各派の芸術家たちが言ふところに耳をかしてみ給へ、どんな
分野に於ても甲の芸術家が乙の芸術家を否定してゐることに気づくだらう。
そこ
で芸術といふものは、莫大な人力や人名を鵜呑みにし、彼等同士の間の愛情を破壊し
ながら、一向にはつきりした不動なものでないばかりか、その愛好者自身によつても
実に矛盾して解釈されてゐるから、結局、ひろく芸術とは何を意味するものなのか、
特に現に捧げられている犠牲にも名実共に恥ぢないやうな、優れた、有益な芸術とは
何を意味するものかを言明することがむずかしくなつて来るのである56。
というトルストイ、彼らの意味のない論争を非難する言葉があったはずだ。張はこのよう
な五四の人道主義に根ざした思想を創造社に要求して拒まれ、創造社を去った57。
そして張の去った後の創造社は、唯美主義からプロレタリア文学へと方針を変え、1928
年の閉鎖後も中国の文学や社会に大きな影響を与えた。一方で張はと言えば、周作人の同
僚として北京大学の東洋文学系の開設58や日本の「対支文化事業」の中国側交渉者として
活躍するが59、文学的にはほとんど成果を残さず、日本と中国の橋渡し的な彼の活動も全
てが実を結ばなかった。周作人の言葉を借りれば、張らの努力は「徒労に帰した」60だけ
だった。1929年、張は渡仏し、以後の文学的な活動は全く不明である61。
55
56
57
58
59
60
61
「戒め」としている(20頁)が、張の考えを誤解していると思われる。「芸術的でないこと」と成の云
う「文芸自体に関係がないこと」ではニュアンスがずれている。前者は理念的であり、後者は現実的す
ぎる。
「文芸上的寛容」『周作人批評文集』50頁。
『芸術とはなにか』14頁。
劉納氏が『創造社と秦東図書局』で詳しく論じている。また成や郭沫若らの『創造季刊』発刊のための
苦労を、北京にいた張が理解できなかったことによるずれも影響していると考えられよう。
周・張「北京大学に新設する日本文学系に就いて」『北京週報』25号、1922年7月16日、10頁;周『知堂
回想録』414頁。
周・張談「対支文化事業と北京大学」『北京週報』102号、1924年2月24日;張「文化事業の組織と進
行」『北京週報』111号、1924年5月4日;周『知堂回想録』382頁。
『知堂回想録』382頁。
1937年7月27日、郭沫若が日本を脱走し帰国した際、上海で郭を歓迎している(龔継民・方仁念『郭沫
若年譜』天津人民出版社、344頁)。第二次世界戦争後日本に駐在した後、馮至が「一九八五年七月」に
執筆した「影印『沈鐘』半月刊序」では、「いまアメリカにいる」となっている(上海書店出版社、
1993年、7頁)。
87
何故袂を分かった両者の文学者としての将来に、このようなはなはだしい違いが生じた
のだろうか。それややはり劉納氏が云うように、張が「『打架』に熱心でない者」62だっ
たためであろう。
「打架」は創作欲を刺激する作用があるのかもしれない。「打架」においての物書き
は、作者その他諸々の書く動機の他に、ある相当自覚的な動機が含まざるを得ない、
つまり自分の団体の実力を明らかにするという動機が
そうだとすると、創作の
「良し」又は「悪し」は、もう全く作者個人の事ではなく、団体の栄誉、さらには団
体の前途と関係した63。
つまり創造社は「打架」という方向性を選ぶことで、張という思想的なタガをはずし、
彼らのその後の革命文学の隆盛を築き得たのだ。
まとめ
張定璜は初期創造社が抱いていた、幾つかの選択肢の中の一つだと言えよう。もし創造
社が張とともに歩んでいたなら、今日の「異軍突起」のイメージは帯びず、北京文壇と間
近な一小団体として穏健な活動を続けただろう。しかし郭沫若らはそうしなかった。彼ら
は「打架」を始めた、それ故に創造社は今日の、革命文学を切り開いた者としての文学史
的位置を得たのだ。
創造社は「異軍突起」ではない。何故なら成立時の彼らには、様々な可能性があったか
らだ。
「異軍突起」ではなく、北京文壇などの権威との関係を否定することを通して創造社は
成長し、「打架」を胸に羽ばたいたのである。
62 『創造社与秦東図書局』175頁。
63 同上、175頁。
88
Ⅲ-3 陶晶孫と「2人の女の子」
これまで論じて来た様に、本博論は陶晶孫の文学が、政治性とは離れた立場で、唯美主
義から表現主義へと移行したことを論証し、特に後者の盛り込んだ日本モダニズムを評価
したものである。しかし、この様な陶文学の非政治的な成就は、「2人の女の子」のテー
マを通して作者自身の手で変化させられていく。
はじめに
陶晶孫の1927年出版の作品集『音楽会小曲』の、末尾の短編小説「二人の女の子」を、
私は本節で読み解いてみたい。初出は1927年の『創造月刊』第1巻第7期だが、作品末に
は1926年と執筆時が記されている1。
彼の文学は『音楽会小曲』の出版を境にプロレタリア文芸へと移行するのだが、この論
文から導き出した「二人の女の子」の位置付けが、その変化の跡付けの手掛りとなろう。
陶晶孫文学の研究は未だ、全く手付かずの状態であると言え、この彼の文学に現われた
プロレタリア文学への移行という大きな変化も、ただ帰国という彼の人生に於ける事件の
みに於て説明がなされて来た、帰国後の上海にて彼の接した故国の現状が、彼を左翼文芸
活動に向かわせたのだと。伝記中の事件と文学上の変化とを、皆が安易に重ねてそこに大
きな区別をつけている2。しかしそれだけで、この極端な移行が論証されたとは言えない、
人はそんなにも突然に変化する存在ではなく、そこには何らかの過渡的なものが残されて
しかるべきはずである。たとえば本論では取り扱わないが、創造社の末期に陶晶孫が既に
左翼的な作品「勘太と熊治」3を書いている事も、それを明示している4。その様な足跡を、
私は彼の日本における文芸活動を区切る作品集『音楽会小曲』、その末尾の作品「二人の
女の子」に於て探ってみたい。
「二人の女の子」というタイトルであるから、登場する2人の女性の存在から分析せね
ばなるまい、1人は主人公「晶孫」の婚約者で、東京に生活する中国人女性「麗葉」、そ
してもう1人は主人公の昔の知り合いだった、名の一度も記されない日本人の女性である。
主人公は麗葉に会いに東京に来たが、冷たくあしらわれ、その寂しさをまぎらわそうと
1 『創造月刊』第1巻7期に、作品「音楽会小曲」と同時に掲載されたのだが、その「編後記」に王独清
が「今期の原稿はひどくもの寂しかった
幸いにも晶孫の作品『音楽会小曲』が以前からここに在り、
最近彼の小説集の全稿を受け取ってもいたので、私は勝手にその中から一篇を取り出した」と記してお
り(135頁)、その「一篇」がこの「二人の女の子」である、初出は作者の意図的なものではない。余談
になるが、『音楽会小曲』所収作品「水葬」の末尾には「二、三、一九二七、記憶の中から旧作を書き
出す」としてある(『音楽会小曲』91頁)ものの、作品集『音楽会小曲』の最後に置かれたこの作品
「二人の女の子」で、実質的に陶晶孫の『音楽会小曲』の時代は区切られ、まとめられたと言って差し
支えあるまい。
2 この点、前節第1章の問題提起の仕方はよくないのだが、最後にきちんと結びつけられたと自負してい
る。
3 『創造月刊』2巻1期、1928年。
4 故に正確に言えば、陶晶孫文学のプロレタリア文学への移行は、創造社が左傾化して行くのと軌を同じ
くし、帰国に関わりなく行われていた、さらに逆にその変化故に彼の帰国があった。
89
さまよっていた銀座で、昔手紙を送った事もある日本人の女性と再会し、彼女の一人暮ら
しの部屋へ。主人公が睡眠薬から目が覚めると,彼女は主人公と麗葉がその家で二人だけ
で楽しく過ごせる様に手筈をし、自分はどこかへと消え去っていた。麗葉が帰った後に彼
女は又現れる、そして主人公に、彼と麗葉が結婚した後でも今のこの関係を持ち続ける事
を求める。
この作品を濱田麻矢は、「陶晶孫の小説中の日本の女性はみなとてもやさしく、無条件
に主人公の中国人留学生の言う事をきいてくれる」5と、陶晶孫文学の〈日本への親し
み〉の例としてこの作品を位置付けている。濱田の論文は「中国人であるという自覚とな
がく日本に生活していて生じた去り難い思い、及びその両者の間をゆれ動く帰属意識が常
に陶晶孫文学の死に至るも変わらなかった基調なのである」6と言う様に、陶晶孫文学の
それぞれの登場人物が背負う国籍と、それによって物語りに生じる国際性に的をしぼって
論じられているものであるが、この「二人の女の子」に於てもその国際性の見地、日本の
女性のやさしさが描かれているというその見解には当然耳を貸す必要があるだろう。
ⅰ
まず麗葉の事を考えてみる。
中国人なのであるから、当然彼女は中国という国を背負った存在である。しかし彼女の
背負う中国は、他の普通の中国人女性たちが背負っているそれとは多少様相が異なってい
る。日本で生活しているのであるから、彼女の中国は日本の色彩を帯びている、これも又
当然であるが、加えて主人公は彼女をこの様に見ている。
彼は江南の女性一人一人が、母親を除いては
みんなとても嫌いだった。江南に帰
省すると、彼の末梢の神経のどの一本でも、必ず多くのみにくさを感じてしまうの
だ;そのウルシでぬりたくった様な髪、かかとの無いぞうり、短い上着からかなりは
み出しているその大きなおしり──支那の女性を彼は本当に見たくもなかった。
しかしある時
彼はある浙江の女の子と出会った。
彼女はかかとの高い靴をはき、そしておしりまでスッポリ包み込んでいる長い服を
着ていた、だから彼の彼女への思いも他とは違っていた7。
濱田も、この麗葉の持つ彼女の国際性の特徴に、言及してはいるもののそれだけである。
具体的にそれがどんな意味を有するのか、説明がない。
主人公には好きになれなかった当時の中国の女性たち、否、この引用の部分に於ては
「中国」は付け足された言葉に過ぎない、それよりも「江南」というべきであろう、彼の
母もそうである様に彼の故郷、出身地の「江南」に生まれた女性たちのなかで、彼女だけ
が主人公の価値観、センスに合う存在なのであった。中国人であるよりも前に、主人公と
故郷や伝統を同じくする存在である事の方が重要なのである。それはこの物語の中で、麗
5 「文学的『混血児』」222頁。
6 同上、220頁。
7 『音楽会小曲』182頁。
90
葉の事を指す場合には「姑娘」の語が「浙江」、又は「杭州」の語で限定されている事か
らも示されている。
では何故主人公の好みに麗葉の存在が叶ったのであろうか。それは二人が、ともにその
故郷を離れた異国の地である日本の、特に東京で時を過ごしている事が大きく作用してい
る。
彼が 高等学校にいってから、一回目に東京に戻った時には汽車は中央駅に止まった、
二回目は二車線だった京浜電車が四車線になっていた、三回目には Bobbed hair の
女性が銀座の街を歩きまわっていた、四回目に彼は彼女と一緒にフランス料理を食べ
に行き、Soda water を吸って、Restaurant に入った8。
二人は当時の東京の、その変化し続ける文化の中で時を過ごしているのである。
故に、麗葉の国際性はつまり、中国──それも彼女と主人公二人の故郷である江南の名
門の出だという身体に、Bobbed hair やフランス料理、Soda water に示される東京の新
しい文化、第Ⅱ章第2節で説明した「モダン」の衣装をまとう事で出現する〈国際性〉と
いう外観、この二者の共存であると言える。
麗葉の事をさらに、彼女の帯びていた香りから分析してみよう。
この作品に於いて、香りは、女性の存在・性質を象徴する大切なキーワードとなってい
る。その意味でこの作品は、とても嗅覚的な作品である。
ウェイトレスがたくさんいて彼女たちは皆顔を白や赤に塗っていた。
たちはその化粧水の混じった体臭を彼の鼻孔の奥へと届けた9。
ここの女性
もう十一時だった
彼らが電車に乗ると、電車でさえからになっていて、車中の夜
の雰囲気の中で、誰かが降りる前にそこに残した香水の香りが彼の鼻を刺激した10。
一般の女性の存在を表す時にはこの様に、その香りの存在だけを作者は物語の中に漂わせ
ているのであるが、麗葉と、後述する日本の女性の場合にはその香りが彼女らの雰囲気、
性質、そして彼女たちと主人公の間の関係をも指ししめしている。
彼に度胸がなさすぎるからだった
彼は彼女の頭に一度口付ける事が出来た、彼女
の肌の香りが彼の胸から腹部までを何かの奇妙な感覚で包んだ。
だけど彼女は、彼よりももっと活発で、ホームからまた彼を抱きしめ、彼の胸に飛
び込み彼と口づけした、彼女の口びるにはまだ幾らかミルクの香りがした。
汽車が動き出した
彼はただ彼の口びるの周りの奇妙な香りを存分に吸い込んだ、
それは、彼の頬の間でちょっと動いただけですぐに生じる香りだった。
8 『音楽会小曲』184頁。
9 『音楽会小曲』185頁。
10 『音楽会小曲』187頁。
91
一年の間──その二回の休みに、彼は上京した、そして彼女の口びると化粧水と体
温の香りを嗅ぎ帰っていった──11
主人公と麗葉の出会ってすぐのこの回想の場面で、香りを通して描かれているのは二人の、
生じた関係の初々しさ、親密さ、そして麗葉の活発さと、幼なさである。
しかしその様な麗葉の帯びていた香りは、この物語の展開する時間である主人公の「五
回目の上京」の際には、何故か消失してしまっている。
まだ三月で、先程彼女と分かれた時に、彼女の口びるはまだ冷え冷えとしていた12。
今回の上京に際しての、麗葉の主人公に対する態度はあまりにも冷ややかであった。駅の
ホームにはむかえに来ずに、その時間にはまだ眠っていた。彼が食事にさそっても、彼女
はそれを断った。
二人の関係がこの様に変化をきたしている中で、これは後述する日本の女性との会話の
中で浮かび上がって来るのだが、主人公は麗葉との関係に、今一つ満足が得られないでい
た。
彼女はある名門の娘で、省長を務めた事もある人の前妻の娘なんだ、行動的な子で、
僕の様な田舎ものは本当に彼女に追い付けない
彼らはみんな僕の家にも金がある
と思っているけど、事実は全くの逆さ13。
その理由がここに示されている。麗葉と自分が故郷を同じくする事、そしてその故郷の
江南・浙江の名門の出である事、それが主人公の心に影を落としているのだ。
二人の関係の進展につれ、麗葉は主人公の前でその東京という外衣を脱ぎ始めている。
彼女の髪がすこし乱れていた14。
主人公はそこに、彼の故郷的な、彼のセンスに合わない女性を見てしまう。彼の忌み嫌う
故郷の風土が現れるのである。
この様に考えて来る時、彼らの将来的な結婚というものは、主人公が忌み嫌って来た故
郷とふたたび関係をもつ事、言いかえれば彼が自分自身の伝統的・因習的文化に回帰する
という事の、象徴的な出来事であったと言う事が出来る。そして東京という覆いにかくさ
れていたその姿が表面化する時、主人公は直視出来ずに躊躇してしまっている。東京の文
化に、彼は愛惜を感じているのだ。
つまりここに描かれていた麗葉と主人公の関係は、帰国してから左翼文芸活動に身を投
11
12
13
14
『音楽会小曲』183頁。
『音楽会小曲』185頁。
『音楽会小曲』194頁。
『音楽会小曲』191頁。
92
じていた陶晶孫の、その渦中にいる際に示していた中国の社会問題への彼の態度、そのも
のを予見していたものであり、主人公はそこに、正面からぶつかって行く果敢さを持ち得
ないでいた。
そしてそこにもう一人、新たに日本の女性が物語に登場する。
ⅱ
日本の女性は、主人公の少年時代の知り合いであった。
この事を、主人公は彼女との肉体的な接触、そして彼女の香りによって思い出す。
彼女の耳にかかるまき毛がゆれている、彼女の体のやわらかなはずみが彼の肩にあ
たった。
彼はその時になってやっと思い出した。
まだ中学の頃、彼の通学路に女学生が一人いた。 彼女は太った体で、厚い口びる、
ねばった声で同乗の女の子としゃべっていた、しかし当時の太っているのと今の太っ
ているのとでは、感じの上ではかなり違っていた。
彼女は全身からあたたかな香りがする、それは全身の体腺から生じているん
15
だ
。
主人公の感じた触覚、嗅覚的刺激が、彼女を昔の
おばの家で私は、非常に厳しく教育されて、ラブレターもたくさんもらったけど、そ
の一枚一枚をおばに見てもらっていたわ、おばがそのラブレターを批評したがってた
から16。
という古い封建的な姿と、今の彼女の在り方を結びつけている。ここではその感覚が、今
の彼女の存在の裏付け、その証拠、そして主人公との関係の理由となっている。
この物語の中では、その日本の女性は所謂「モダンガール」、封建的な制約から解放さ
れた、大正期日本の流行の先端をゆく存在として描き出されている。二人の再会した場所
である銀座、先述した様に変化し続けている東京の中でもそこは特に変化した、文化的な
魔力をもった場所であった。そして彼女は一人、快適に家に暮らしている、男友達も何人
かいる。
婚約をしたけど、駄目になっちゃった。私自身で破棄したの。彼が私の好みに全然合
わなかったから17。
という言葉は、以前の彼女がそうであった封建の土壌からは生まれない。
15 『音楽会小曲』187頁。
16 『音楽会小曲』193頁。
17 『音楽会小曲』194頁。
93
ところで東京とは、主人公にとって成長の場であった。
彼が日本に来た当初、中学生の時、東京はまだどこも馬車の轍で、あの頃もし自動車
が来るようものなら、たくさんの人が家から飛び出して来た。もし西洋人が街を通る
ならば、その後ろには必ず小学生の一団がついて走り回った。彼が中学生の時には、
今や東京の中央駅の前の草地で、盗賊がまだ夜に乗じて女性をさらい殺したりした、
その草地の一角に今地面をほり Imperial Theatre が建てられている18。
「家はどこ?」
「中野よ。」
中野と聞くと彼はなつかしさがあふれて来た、そこは東京にいた頃よく散歩に出掛
けた場所なのだ。
「今、中野の辺りはどんな風だい19?」
日本の女性が主人公の感覚によって、その以前の思い出とつながりを持ち得たという事
はつまり、彼女が主人公にとっての東京、少年の頃の思い出から今の、変貌をし続ける文
化、その全てを体現しており、彼女の出現によって主人公の幼くして日本に渡って来て以
来の成長の足跡が、具体的に再確認された事になる。彼女はその様な東京での主人公の成
長、そして現在の彼の価値観の象徴であると言える。
その彼女が主人公と麗葉の、仲の修復の機会を提供してくれる。主人公が眠る間に彼女
は勝手に麗葉に連絡し、家へと呼び、主人公と二人の時間を提供する。また
「
彼女はきっと僕を捨てる──」
「何で?」
「Coquetish──と言うかあまりにも行動的だから。」
「でも Coquetish で自分の身を保てる人はたくさんいるわ
20
」
「あなたは彼女の貞操を信じられるの?」
「出来る──けど『出来る』以上は何もない。」
「何で?」
「彼女は男友達が多過ぎる、彼らは彼女が省長の娘だらか、彼女の機嫌を取ってい
る。」
「それなら私は彼女が Kiss の一つさえ彼らに許した事はないと思うわ21。」
この様に彼女は、主人公の麗葉に対する疑問を一つ一つ否定し、彼ら二人の仲を保証する
18
19
20
21
『音楽会小曲』183頁。
『音楽会小曲』187頁。
『音楽会小曲』195頁。
『音楽会小曲』195頁。
94
存在となっている。
そして彼女自身のいるべき場所はどこかというと、
「彼女が二人いるのもいいと思わない?」
「だけど──」
「私はそばにいたいだけ、あなたが彼女と結婚したいのなら、お好きな様に22。」
彼女は自らを二人の、影の立場であると認識している。
この作品のなかで、日本の女性は主人公と麗葉の間の恋愛を維持させる、そんな役割を
ふり当てられているのである。
この事はこの作品のキーワードたる、香りの側面からも導き出せる。
彼女は全身からあたたかい香りが生じていた
ちがうものだ23。
それはあの浙江の女の子のとは全然
「浙江の女の子」つまり麗葉の香りと、彼女の香りが対比されている事がここで分かる
のだが、その日本の女性の香りが、この作品の中で意図的に物語の材料として用いられて
いる箇所がある、主人公と麗葉の為に場所を提供し、自らはいなくなるに際し彼女が残す
手紙に記された、次の言葉である。
ピアノが届いた後あなたの彼女はきっと来ます。それからはこの家はよりあなたの部
屋みたいになるでしょう。
ここには私の残り香がただよっているかも知れないけど、分かってるわよね?
あなたの彼女が帰ってから、私は戻ってきます、だから心配しないで、あなたのお
しゃべりの最中にやって来てジャマしたりしないから24。
ここでその香りは彼女自身の、主人公と麗葉の影であるというその存在を暗示している事
になる。二人の仲を回復させるために手配りをし、自らは香りとなって、そこに漂う。
つまり日本の女性の存在は、消えてしまった麗葉の香りの、その欠落を補う役割を果た
しているのである。そしてそれは、麗葉の香りの消失が彼女のまとっていた東京の文化の
希薄化と同じであった事より、その東京の「モダン」な文化、主人公が成長し続けて来た
その東京の文化を、彼女の香りが補うという意味になる。
ⅲ
そしてその様に考えて来る時、この物語はつまり、主人公と麗葉の関係が新しい局面に
向けて広がっていくその事だけを、そしてそこに託された作者の中国社会に対する態度を
22 『音楽会小曲』195頁。
23 『音楽会小曲』188頁。
24 『音楽会小曲』190頁。
95
描いていた事が分かって来る。言ってしまえば日本の女性の存在は、まぼろしである。彼
女の存在は主人公たち二人の新しい関係を暗示するものなのであり、主人公の成長の再確
認であり、そして新しい文化をも象徴している香りで、二人の仲が又修復出来るのである。
その事はこの作品の後半部分が日本の女性の部屋という、言わば一つの舞台のみで展開
しており、その場所を定めて動かない事、そしてそこでの場面が Veronal という睡眠薬、
言わば舞台装置によって仕切られ、そしてそれが
彼は Veronal の作用する前の彼女の顔や姿を思い出そうと懸命な努力をしたが、結
局全く思い出ず、ひどく Veronal を用いた事を後悔した、全く何か麻薬をもられた
かの様だ25。
と表現される様に人に睡眠だけではなく幻想を抱かせ、記憶を薄めさせる役割を果たして
いる事からも示されている。
この作品の中に於て、日本の女性は結局はまぼろしなのである。
この物語の中のその登場人物の構図は、主人公が自らの成長と、自らの所属している伝
統・文化との、折り合いをつけて行きたいという、作者の希望を構成する要素なのである。
この物語はただ日本の女性のやさしさを描いたものではなく、もっと微妙な、細かい構成
の物語なのである。希望・まぼろしなどの、概念的な存在として日本の女性を取らえなけ
ればならない、この物語に於ける彼女の重要性は、そうでなければ解明する事が出来ない。
加えて日本の女性よりも、本作では麗葉の方が重要な登場人物である。彼女の存在の意味
する伝統と主人公との関係が、この作品のテーマであるから。
ⅳ
ところで陶晶孫には、他にも「愛妻の発生」と「ガールフレンド」という、同じ「2人
の女の子」のテーマが描かれている作品がある。どちらも『音楽会小曲』に収められてい
る。
「愛妻の発生」は1926年の執筆で、題の通り陶と妻の佐藤みさをの間のことが主に描か
れていると想像できるが、主人公無量がF、当然福岡だろう、を離れて、S、こちらは仙
台だろう、の女学校の恋人の許に行き、彼女から他の恋人の存在を疑われるが、
私には音楽の女友達のTさんがいて、彼女はSにいるので、あの某夫人が彼女を私の
恋人とおもったんだ26。
と誤解をといている。無量の名は他の「特選留学生」等の作品にも出てくるので、中国人
留学生たる陶自身がモデルだと思われるが、作中の2人の女の子には国籍の言及はなく、
舞台が日本であろうし、みさをとのことを扱っていると思われるので、共に日本人だと思
われるが、しかしこの作中では女の子と主人公の国際性は言及されない程に全く問題とさ
25 『音楽会小曲』189頁。
26 『音楽会小曲』133頁。
96
れず、ただ主人公と恋人との間の微笑ましい誤解として、他の女の子が扱われているだけ
である。
一方「ガールフレンド」は、執筆時は記されておらず、『音楽会小曲』の稿の出来た
1927年5月以前には書かれたと思われるが、こちらには中国人のX女史と日本人のK子と
いう、作品「二人の女の子」と同じ構図の2人が現われる。X女史は主人公無量に
私は元々我が国の女の子を軽蔑していましたが、あなたに出逢ってから、それが解消
しました27。
と手紙に書かしめ、
彼女の馴れ馴れしさは大使の娘のものだ28。
そして
彼女は男たちの間でとても話題になっていて、帝大に留学している学生を探している
そうだが、帝大の学生は大帝女がいる、ある時、彼女は今日はある大学生と帝国ホテ
ルで食事して、明日は別の大学生の目の前で昨日の大学生の写真を破ってみせる29
女性で、これは作品「二人の女の子」の麗葉と殆ど重なる造形である。一方のK子の描写
は少ないが、X女史とK子は共に東京におり、2人は互いの恋愛を教え合う間柄の様だ。
名に「子」が付くので、K子は日本人であろう。しかしX女史の国際性が「二人の女の
子」の麗葉と同じく重要なのに対し、K子の国際性は希薄で、「二人の女の子」では鍵と
なる2人の女の子の対比が成立していない。
この様に「2人の女の子」のテーマに注目すると、「愛妻の発生」から「ガールフレン
ド」を通し、作品「二人の女の子」に至る国際性の段階的な深化が見出せる。
陶は一歩一歩、作品執筆を通して国際問題への積極性を獲得して来たのだ30。
おわりに
この作品は陶晶孫文学を考えるに際して、大きな存在意義を持つ。始めに述べた様にこ
の作品は作者のプロレタリア文芸への移行の時期の作品である。陶晶孫はこの作品の中で
自らの経歴・自らに刻印した「日本」と、自らの背負う伝統・つまり「中国」との折り合
いをつける事を模索している。
ただしそれは積極的とは言えない。日本の女性が自らの存在を、この物語の中で主張し
始めている。
27
28
29
30
『音楽会小曲』178頁。
『音楽会小曲』178頁。
『音楽会小曲』180頁。
その後上海で1929年に発表した「結局はプチブルだ」の2人の女性については他所で考察する。
97
昨日の夜が私の街をぶらつく最後になるわ、今日から行けなくなっちゃった31。
私あなたに助けてもらいたいのよ32。
彼女は主人公に変化を与えてくれるように要求している。考えてみると彼女は主人公と麗
葉が過ごす時の為に、彼女の家へピアノを置いてくれている。その事はこの、物語の後半
部分の舞台が、主人公の存在がなければ完成していなかった事を示している。
主人公と日本の女性が、相互作用し始めているのである。
そしてこの物語の最後の部分、
彼は昨日の夜の Veronal を思い出した。
今日はどうする?
彼は決めかねていた。
「今日は Veronal どうしようか?」
「ご自由に、けどここにいる間、毎晩は用いないでね──」33
ここに示されている様に、Veronal の効果が否定されようとしている。後半部分の幻想性
が消え去り、まぼろしだった日本の女性が、自らの存在を主張し始めているのである。あ
たかも陶の30年代以降の、日本と中国両国の間で苦しむことを象徴するかのように。
自らの背負う伝統「中国」への視線を、「日本」に留学している陶晶孫文学はこの作品
により示し得たのである。それは陶晶孫文学の1つの大きな区切りとなる成果だった。
31 『音楽会小曲』192頁。
32 『音楽会小曲』193頁。
33 『音楽会小曲』196頁。
98
終章
本博論は、私がこれまで書いて来た論文を1つに纏めたものである。当初の方向性が
はっきりしていなかったため、整理に手間取ったが、結果として1つのストーリー、中国
文学史で説明されるロマン主義からプロレタリア文芸という 1920 年代文学の流れとは違
う、唯美主義から表現主義へと変化した、陶晶孫モデルを打ち立てることができた。特に
陶晶孫の文学が日本と強い繋がりがあるので、日本人の研究者として、20 年代の陶晶孫
モデルを打ち立てられたことに、私は満足している。
勿論本博論に収めた内容だけでは、20 年代文学そして陶晶孫モデルは論じ切れていな
いので、今後も論を重ねていく積もりだ。
その後の 30 年代文学と、この陶晶孫モデルをどう繋げるかも、これからの私の課題の
1つである。ただ 30 年代前半には、陶晶孫は中国文学史の表舞台から立ち去ってしまう。
それで 30 年代以降の文学は、別の大きな尺度で考察する計画である。
本博論を纏めるに、熊本大学の吉川榮一先生には色々と全面的に手助けしていただいた。
熊本学園大学の岩佐昌暲先生にも様々な助言と啓発を頂いた。両恩師には本当に感謝して
いる。また怠惰な私の研究につきあってくれた、私の家族の皆に、最後に感謝を述べる。
99
初出一覧
Ⅰ-1 「陶晶孫の福岡時代の文学にみられる世紀末の耽美性について」『比較社会文化研
究』6 号、1999 年。
Ⅰ-2 「論 涙浪滔滔
巻、2004 年。
:郭沫若早期文学中的
水
意象解析」『九州中国学会報』42
Ⅰ-3 「《女神》与游泳」『郭沫若の世界』福岡、花書院、2010 年。
Ⅰ-4 未発表。
Ⅱ-1 「陶晶孫与関東大地震」朱寿桐・武継平主編『創造社作家研究』福岡、中国書店
(中国現当代文学研究資料叢刊)1999 年。
Ⅱ-2 「陶晶孫による日本モダニズムの持込み」『現代中国』79 号、2005 年。
Ⅲ-1 「福岡と中国現代文学」『熊本学園大学 文学・言語学論集』10 巻 2 号・11 巻 1 号
合併号、2004 年。
Ⅲ-2 「創造社のいわゆる『異軍突起』について:張定璜を中心に」『九州中国学会報』
39 巻、2001 年。
Ⅲ-3 「陶晶孫『両姑娘』への一考察」『比較社会文化研究』4 号、1998 年。
100
文献一覧
テクスト
陶晶孫『音楽会小曲』上海書店(中国現代文学史参考資料)1989 年。
同 『陶晶孫日本文集』上海、華中鉄道(華中鉄道江南叢書)1944 年。
同 『日本への遺書』東京、創元社、1952 年。
同 『陶晶孫選集』北京、人民文学出版社、1995 年。
同 「息子への手紙」『自然』14 号、1944 年 11 月 16 日。
陶晶孫・内山完造「創造社の想い出」内山完造『魯迅の思い出』東京、社会思想社、1979
年。
陶晶孫・佐藤春夫・奥野信太郎・竹内好・丸岡明「陶晶孫氏を囲む座談会」『三田文学』
1951 年 7 月号。
郭沫若『郭沫若全集』文学編、北京、人民文学出版社、1982-92 年。
同 『郭沫若少年詩稿』成都、四川人民出版社、1979 年。
同 『郭沫若書信集』北京、中国社会科学出版社、1992 年。
同 『桜花書簡』成都、四川人民出版社、1981 年。
同 「自然への追懐」『文芸』2 巻 2 号、1936 年。
『創造季刊』上海書店、1983 年。
『創造季刊』東京、アジア出版(創造社資料)1979 年。
『創造週刊』上海書店、1983 年。
『洪水』上海書店、1985 年。
『創造月刊』上海書店、1985 年。
『駱駝草 附駱駝』東京、アジア出版、1982 年。
『大衆文芸』出版社出版年不明影印版。
参考文献・資料
全体
張小紅編『陶晶孫百歳誕辰紀念集』上海、百家出版社、1998 年。
厳安生『陶晶孫 その数奇な生涯』東京、岩波書店、2009 年。
藤田敏彦「陶晶孫君を憶う」『日本医事新報』1815 号、1959 年 2 月 7 日。
澤地久枝「日中の架橋 郭をとみと陶みさを」『続 昭和史のおんな』東京、文藝春秋、
1983 年。
中西康代「陶晶孫初期作品集『音楽会小曲』と新感覚派に関する一考察」『東京女子大学
日本文学』83 号、1995 年。
101
伊藤虎丸「戦後五十年と『日本への遺書』」陶晶孫『日本への遺書』東京、東方書店、
1995 年。
濱田麻矢「文学的 混血児 」『中国現代文学研究叢書』1996 年 3 期。
李保均『郭沫若青年時代評伝』重慶出版社、1984 年。
『郭沫若専集』成都、四川人民出版社(中国当代文学研究資料)1984 年。
陳永志『論郭沫若的詩歌創作』上海外語教育出版社、1994 年。
武継平『郭沫若留日十年』重慶出版社、2001 年。
成仿吾「懐念郭沫若」『成仿吾文集』済南、山東大学出版社、1985 年。
龔済民・方仁念『郭沫若年譜』天津人民出版社(増補版)1992 年。
岩佐昌暲・藤田梨那・武継平編『郭沫若の世界』福岡、花書院、2010 年。
伊藤虎丸編『創造社研究』東京、アジア出版、1979 年。
朱寿桐『情緒:創造社的詩学宇宙』上海文芸出版社(中国現代文学研究叢書)1991 年。
朱寿桐・武継平主編『創造社作家研究』福岡、中国書店(中国現当代文学研究資料叢刊)
1999 年。
黄淳浩『創造社:別求新声于異邦』北京、社会科学文献出版社、1995 年。
劉納『創造社与泰東図書局』南寧、江西教育出版社、1999 年。
張資平「曙新期的創造社」『現代』3 巻 2 期、1933 年。
穆木天「我的詩歌創作之回顧」『現代』4 巻 4 期、1934 年。
鈴木正夫『郁達夫:悲劇の時代作家』東京、研文出版(研文選書)1994 年。
王延晞・王利編『鄭伯奇研究資料』済南、山東大学出版社(中国現代作家作品研究資料叢
書)1996 年。
蔡元培等『中国新文学大系導論集』上海書店(中国現代文学史料参考資料)1982 年。
厳家炎『中国現代小説流派史』北京、人民文学出版社、1989 年。
鄒恬『鄒恬中国現代文学論集』南京、江蘇教育出版社、1998 年。
Shu-mei Shih, The Lure of the Modern, University of California Press, 2001.
岩佐昌暲編『中国現代文学と九州』福岡、九州大学出版会(KUARO 叢書)、2005 年。
周作人『周作人批評文集』珠海出版社、1998 年。
同 『周作人日記』鄭州、大象出版社、1996 年。
同 『知堂回想録』(『周作人文選』自伝)北京、群衆出版社、1999 年。
序章
王瑶『中国新文学史稿』上册(『王瑶文集』3 巻)太原、北岳文芸出版社、1995 年。
銭理群・温儒敏・呉福揮『中国現代文学三十年(修訂本)』北京大学出版社、1998 年。
吉川幸次郎『吉川幸次郎全集』1 巻、東京、筑摩書房、1968 年。
徐行言・程金城『表現主義与 20 世紀中国文学』合肥、安徽教育出版社(20 世紀中国文学
研究叢書)2000 年。
102
半澤周三『光芒の序曲』福岡、葦書房、2001 年。
Ⅰ-1
肖同慶『世紀末思潮与中国現代文学』合肥、安徽教育出版社(20 世紀中国文学研究叢
書)2000 年。
岩佐昌暲「世紀末の毒」『九州中国学会報』31 巻、1993 年。
高階秀爾『世紀末文芸』東京、筑摩書房(ちくま学術文庫)2008 年。
同 『日本近代美術史論』東京、講談社(講談社学術文庫)1990 年。
尹相仁『世紀末と漱石』東京、岩波書店、1994 年。
ブラム・ダイクストラ(富士川義之等訳)『倒錯の偶像』磐田、パピルス、1994 年。
ガストン・バシュラール(小浜俊郎・桜木泰行訳)『水と夢』東京、国文社、1969 年。
新村徹「中国児童文学小史(四)」『野草』30 号、1982 年。
王泉根「 五四 与中国児童文学的現代転形」『中国現代文学研究叢刊』1997 年 1 期。
河原和枝『子ども観の近代』東京、中央公論社(中公新書)1998 年。
ピーター・カヴニー(江川徹監訳)『子どものイメージ』東京、紀伊國屋書店、1979 年。
井上精三『博多対象世相史』福岡、海鳥社、1987 年。
Ⅰ-2
徐志摩『徐志摩全集』4 巻、上海書店、1988 年。
Ⅰ-3
神伝流津山游泳会編『神伝流』(第 40 回日本泳法研究会資料)津山、神伝流津山游泳会、
1991 年。
西村節『水泳』東京、大鐙閣、1923 年。
木下秀明『スポーツの近代日本史』東京、杏林書院、1970 年。
小口千明『日本人の相対的環境観』東京、古今書院、2002 年。
麻生美希・宮本雅明「福岡市とその近郊における近代海浜リゾートの成立に関する研究」
『日本建築学会研究報告書.九州支部.3,計画系』45 号、2006 年。
Ⅰ-4
李商隠(馮浩箋注)『玉谿生詩集箋注』上海古籍出版社(中国古典文学叢書)1979 年。
同 (川合康三選訳)『李商隠詩選』東京、岩波書店(岩波文庫)2008 年。
何其芳『詩歌欣賞』(『何其芳全集』5 巻)北京、人民文学出版社、1983 年。
曾紹敏『漫話四川保路運動』成都、巴蜀書社(巴蜀文化走進千家万戸叢書)2006 年。
Ⅱ-1
姜徳相『関東大震災』東京、中央公論社(中公新書)1975 年。
仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』東京、青木書店、1993 年。
同 編『関東大震災下の中国人虐殺事件』東京、明石書店、2008 年。
103
長春王希天研究会編『王希天紀念文集』長春出版社、1996 年。
同 編『王希天研究文集』長春出版社、1996 年。
吉林省檔案館編『王希天檔案史料選編』長春出版社、1996 年。
王旗・鄭則民・劉輝主編『王希天研究論文集』長春出版社、1998 年。
秋田雨雀「主観解放の芸術へ」『演劇新潮』1924 年 5 月号。
稲垣達郎「関東大震災と文壇」『稲垣達郎学芸文集』3、東京、筑摩書房、1982 年。
中村光夫『日本の現代小説』(『中村光夫全集』11 巻)東京、筑摩書房、1973 年。
前田愛「東京一九二五年」『現代思想』7 巻 8 号、1979 年。
銭杏邨「大衆文芸与文芸大衆化」『阿英文集』香港、生活・読書・新知三聯書店、1979
年。
Ⅱ-2
魯迅「拿来主義」『且介亭雑文』(『魯迅全集』6 巻)北京、人民文学出版社、2005 年。
南博「日本のモダニズムについて」『現代のエスプリ』188 号、1983 年 3 月。
同編『日本モダニズムの研究』東京、ブレーン出版、1982 年。
菅野聡美「昭和モダニズムに関する一考察」『近代日本研究』6 巻、1989 年。
神谷忠孝「都市文学の爛熟と文学」『岩波講座日本文学史』13 巻、東京、岩波書店、
1996 年。
横光利一「新感覚論」『定本 横光利一全集』13 巻、東京、河出書房新社、1982 年。
菅井準一「ヘッケル解説」『世界大思想全集』社会・宗教・科学思想篇 34 巻、東京、河
出書房新社、1961 年。
Ⅲ-1
原田種夫『黎明期の人びと』福岡、西日本新聞社、1974 年。
鬼頭鎮雄『九大風雪記』福岡、西日本新聞社、1948 年。
Ⅲ-2
周作人「代表『駱駝』」『語絲』89 期、1926 年 7 月 26 日。
トルストイ(中村融訳)『芸術とは何か』東京、角川書店(角川文庫)1952 年。
104
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