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中世東シナ海海域における国際商人

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中世東シナ海海域における国際商人
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《特集 東アジア三国史―国際関係・国家・経済》
中世東シナ海海域における国際商人
榎本
渉
海商の時代
倭/日本は古くから朝鮮半島の諸国との間で外交使節の交換を頻
繁に行ない、7 ∼ 9 世紀には隋・唐に遣隋使・遣唐使と呼ばれる朝
貢使節を派遣した。こうした使節の往来を通じて、朝鮮・中国の先
進的な制度・文化が日本に紹介されたことは周知の事実である。た
だしこうした国家主導の交流は、日本史上通時的に見られたわけで
はなく、むしろ例外的な事象だった。新羅は779年を最後に日本に
使節を派遣しなくなり、838年以後は日本の遣唐使派遣もなくなっ
た。比較的長期にわたって日本と交流を続けた渤海も、926年に遊
牧民の契丹に滅ぼされる。契丹がその故地に建てた東丹国からも、
929年日本に使者が派遣されたが、その後に続くことはなかった。
以後も朝鮮・中国の諸国はたびたび日本に外交的接触を試み、時に
は元のように軍事的な圧力を用いて日本を服属させようとした国も
あったが、そうした試みが実を結ぶことはなかった。
それでは日本は 9・10世紀以後、国際的に孤立した絶域となるの
だろうか。実際、かつてはそれに近い理解もされてきた。唐の影響
下に花開いた奈良・平安前期の文化に対して、平安中期の文化を「国
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風文化」と呼び、その変化の原因を遣唐使の停止による中国文化流
入の途絶に求める通俗的な説明にも、そうした発想は色濃く現れて
いる。だが実際には「国風文化」の時代にも平安貴族は漢詩文に価
値を認め、同時代の中国(宋)からもたらされる唐物を愛好してい
たのであり、仮名文学や和様美術の展開は事実としても、それは中
国文化の途絶によるものではない。
こうした発想の前提となったのは、対外交流を国家間交渉、ある
いは外交のみに矮小化させた理解である。日本がもっとも盛んに中
国と交流したのは遣唐使の時代だという認識は根強いが、実は 8・9
世紀の遣唐使は20年に 1 回程度しか派遣されていない。遣唐使の
持ち返った成果が古代国家の整備に大いに寄与したことは事実だ
....
...
が、それは効率的な交流によるものであって、盛んな交流によるも
のとはいえない(むしろ頻度だけでいえば、新羅・渤海との交流の
方が盛んだった)。
そして遣唐使の終焉は交流の衰退を示すものでもない。9 世紀に
なると、新羅や唐の海商(海上貿易に関わる商人)が恒常的に日中
間を往来して、唐に流通する唐や東南アジアの産品を日本に運んで
くるようになったため、多大な費用を費やす上に危険も多く煩瑣な
外交手続きも伴う遣唐使の派遣が、少なくとも海外産品の入手とい
う目的においては不要になっていた。また文化交流については、海
商の船を利用して僧侶を唐に送り込むという形態が採られるように
なった。日中間で連年船便の往来が見られるようになったことは、
人的な交流もはるかに容易にしたのである。貿易の場となった福岡
県では、9 世紀半ば以後の遺跡から中国製陶磁器の破片がまとまっ
て出土するようになるし、僧侶が唐へ渡るのも遣唐使時代よりその
後の方がはるかに頻繁だった。つまり最後の遣唐使が派遣された
838年の前後になって、日中間では経済交流が本格化し、文化交流
も活発化したのである。
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こうした盛んな交流を実現したのは、間違いなく海商である。彼
らの出現とともに東シナ海は、国家使節が行き来する時以外は閉じ
られた空間から、貿易船が恒常的に行き来する開かれた世界へと変
貌を遂げるのである。当時の史料に記されるところを見れば、810
年代に新羅海商が現れ、9 世紀半ばからは唐海商が現れる。その後
王朝の交替とともに呉越海商(呉越国は東シナ海貿易の中心地浙江
を支配した地方政権)
・宋海商が活動するが、いずれも中国系海商と
いう点で唐海商と連続する存在である。
12世紀後半になると、宋の史料には日本・高麗の海商が見えるよ
うになり、宋海商とともに宋・日本間、あるいは宋・高麗間を往来
した。この変化については古くから海商の民族・国籍の視点から語
られ、特に宋海商から日本海商への変化については、宋海商による
日宋貿易独占に批判的な目を向けた日本人が自ら海外に雄飛したも
のとして説明されてきた(森克己『日宋貿易の研究』
)。だが実際に
宋海商の貿易独占を問題視した当時の日本人の発言があるわけでは
なく、この説明は近代日本人の歴史観を多分に反映したものである。
近代化を遂げて列強の仲間入りをし、欧米諸国に伍して海運業や海
上貿易を発展させた戦前の日本の姿(または目標)を投影したもの
という側面が強い。では当時の実態はどのようなものだったと考え
られるのだろうか。以下ではこの問題を考えてみたいと思う。
宋人の「日本商人」
日本海商の活動を伝えるのはもっぱら宋の史料であり、そこには
「日本商人」
「日本商旅」
「倭商」や、彼らの操舵する「日本商船」
「倭
船」
「倭舶」などの語で現れる。本稿ではこれらを代表する語として
「日本商人」を用いることにしたい。宋における「日本商人」の活動
を示す最初の事例は、『宋会要輯稿』職官44に収める1167年の記事
で、毎年夏に「高麗・日本の外国船舶」が明州(浙江省寧波)に到
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来することへの対応が論じられている。この頃には宋商船とは扱わ
れない高麗・日本の商船が、明州に連年来航していたらしい。以後
宋の史料には、しばしば「日本商人」が現れる。
ところが一方で奇妙な事実がある。日宋貿易に関する文献史料は
宋よりも日本側に豊富なのだが、12世紀後半頃に日本人海商が出現
したことを示す文献史料は皆無なのである。1160年代から南宋滅亡
(1276)頃まで日本史料に名前が登場する海商は20例近くあるが、
そのいずれも中国系である。それでは「日本商人」は一体どこにい
たのか。日本の文献では拾い出せないくらい零細な存在だったのだ
ろうか。
この点で注目されるのが謝国明である。彼は1230∼50年代、当時
の国際貿易港博多に居を構えていたことが知られる宋海商で、今で
も博多にはその墓所とされるものが伝わっている。彼が親しくした
えんに
日本僧に円爾がおり、1235年に貿易船で入宋して、臨安(杭州)の
きんざん
ぶしゅんしぱん
径山万寿寺の無準師範 という禅僧に師事してその法を受け、1241
年に帰国した。円爾は帰国直後に博多の海商たちから説法をせがま
れるほどの人気を博し、謝国明は彼のために博多承天寺を建立して
開山としている(『聖一国師年譜』)。その高名はただちに京都まで知
られ、円爾は摂関家の九条道家から京都東福寺の開山として招かれ
るなど、順風満帆だった。そのような中でも円爾は径山との間で連
絡を取りあっており、1242年に径山が火事に見舞われた時は、道家
の協力を得て寺院復興用の木材を用意して、謝国明の手配した船・
海商によって径山に送っている(謝国明自身は渡海しなかったらし
い)。
無準はこの件に感謝して、1249年謝国明にプレゼントを送った。
この時の礼状は今に伝わるが、そこでは謝国明を「日本綱使」と呼
んでいる(『続禅林墨跡』19)。「綱使」とは貿易の責任者の称だが、
「日本」の綱使とされているのは興味深い。宋海商謝国明は、宋では
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日本の商人として扱われていたのである。この例を見ると、宋で
「日本商人」と呼ばれた海商をただちに日本人の海商と見てよいのか、
疑問を感じざるを得ない。
「日本商人」とは近代の民族的な区分に従
って宋海商と区別されたものではなく、日本に拠点を持つ海商、あ
るいは日本側の貿易活動に関与する海商を指していると考える余地
も十分にある。少なくとも宋海商に対抗して渡航した日本人が「日
本商人」であるというストーリーは、ただちには首肯しがたい。
もう一点、1191年の事件を見てみよう(『玉葉』)。これ以前、宋
で「宋朝商人」の楊栄と陳七太が狼藉を起こしたことがあり、宋で
は今後「和朝(日本)の来客」は伝え召すようにとの宣下を出した
という。これを知った大宰府は、彼らを重罪に処して宋に伝えるべ
きだと京都に伝えた。この件について摂政の九条兼実(道家の祖父)
は、日本生まれの楊栄は日本で処罰してよいが、宋生まれの陳七太
は自由に処罰できないのではないかとして、先例を調べるように家
司の藤原宗頼に言いつけている。
貿易港博多を管轄する大宰府では、楊栄と陳七太を宋海商として
一括して処分しようとしているが、兼実は出生地を基準に考えよう
としている。宋で生まれて日本に来た宋海商以外に、来日宋人の子
として日本で生まれた宋海商もいたことがわかるが、彼らをどのよ
うに扱うべきかは、当時にあっても必ずしも自明ではなかったよう
である。一方大宰府の伝聞によれば、宋は彼らを「和朝の来客」、つ
まり日本から来た者として扱ったらしい。宋生まれの宋人だろうが
日本生まれの宋人だろうが関係なく、日本から来航したという形式
を基準に判断しているようである。その形式を認める基準はともか
くとして(おそらく宋で帰国手続きを採るか否かの問題)、当時宋で
は民族的区分に従って海商の扱いを決定するという発想がなかった
可能性がある。
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「日本商人」の意味
先に述べたように、1160年代には「日本商人」とともに「高麗商
人」も出現したが、その中で興味深い例として徐徳栄がいる。彼は
1162年 3 月、宋に賀使を派遣したいという高麗の毅宗の意向を宋
の明州に伝えた(『宋史』高麗伝)
。この時徐徳栄は宋で「高麗綱首」
と呼ばれている(綱首は船長の称)
。ところが宋の高宗はこれを斥け
た。『高麗史』によれば、徐徳栄は同年 6 月に高麗に到来している
が、この時に宋の回答を毅宗に伝えたに違いない。注目すべきは、
彼がこの時高麗で「宋都綱」と呼ばれていることである(都綱は綱
首と同じく船長の称)。宋で「高麗綱首」と呼ばれ、高麗で「宋都綱」
と呼ばれたことを見るに、彼を宋人と見るにせよ高麗人と見るにせ
よ、海商に冠せられる国名が必ずしも民族的区分や国家的帰属によ
ろうやく
るわけではないことは明らかである。同時代の明州の文人楼鑰は徐
徳栄を明州の人と明言しているので(
『攻媿集』巻86)、民族的区分
では宋人だったことになるが、宋人であることと高麗の商人である
ことは矛盾するものではなかった。
さらにややこしいことに、宋における「高麗綱首」としての扱い
は必ずしも固定的なものではなかった。1163年、徐徳栄は宋の孝宗
(高宗から譲位)の密旨を受けて高麗に渡り、毅宗に伝えた。改めて
朝貢を認める内容だったようで、毅宗は翌年徐徳栄の帰国船で朝貢
使を派遣している。この時、徐徳栄は宋で「高麗綱首」としての扱
いは受けず、
「進武副尉」という宋の武官名を冠して呼ばれている。
密命を受けて高麗に派遣されるに当たり、宋で授官されたのだろう
(『宋会要輯稿』蕃夷7)。以上に見る宋での徐徳栄の扱いは、誰の意
向を受けて渡航したのかという点によっているように見える。
海商の国家的帰属の変更は、南宋期の東シナ海に限る特殊なケー
アブー=カシム
スではない。たとえば北宋期の事例をあげると、蒲 加 心 なる人物は
1004年大食(イスラーム勢力)
、1011年勿巡(オマーンのスハール)
、
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1015年に注輦(南インドのチョーラ朝)
、1019年に大食の朝貢使と
して宋に来航している。インド洋・南シナ海で活動するイスラーム
海商が、宋に向かう都度、縁のある国の朝貢使の役目を請け負った
か、朝貢使名義を詐称したものだろう。宋はこれらを問題視せず、
それぞれ各国の朝貢使として受け入れている。宋に来航した海商の
国家的帰属は、近代の国籍のように固定的なものではなかった。こ
の場合は外国間で帰属が変化した例だが、宋と外国の間でも同様に
帰属の変化があり得たことを示すのが徐徳栄の事例と考えられる。
となれば、1160年代から宋に「日本商人」が現れることが意味す
るのは、宋人海商に対抗する日本人海商の出現ではなく、日本社会
と関係を持って活動する海商の出現と考えるべきであって、それが
日本人か宋人かという問題ではないことになろう。寧波(明州)天
一閣で発見された碑文には、1167年に「日本国太宰府博多津居住弟
子丁淵」「日本国太宰府居住弟子張寧」「建州普城県寄日本国孝男張
公意」の 3 人が明州天寧寺に寄進を行なった旨が記されており、日
本を拠点として日宋間を往来した宋海商の活動が垣間見られるが、
特に日本居住を名乗る丁淵・張寧などは、
「日本商人」そのものだっ
た可能性がある。
宋元代の海商は、必ずしも自己の資本のみを元手にして商業活動
にたずさわるのでなく、富豪・大商人などから資本を委託され、そ
の代理人として船を出す場合も多かった。貿易船の経営体制は、資
本募集の効率化やリスクの分散のため、北宋・南宋・元と時代が経
つに従い複雑化する傾向にあったようである(斯波義信『宋代商業
史研究』)。彼らは宋国内外で貿易の経営主を得て、その保護下で出
資を受けて貿易船を運行した。宋が彼らを受け入れるに当たり重要
だったのは、商品を運ぶ海商の民族的区分よりも、派遣主の所在だ
ったと考えられる。
以上を前提に、鎌倉時代に日宋貿易に関わった宋海商を見てみる
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と、多くは日本の寺社や権門と関係を結んで活動していることが確
認できる。たとえば先に見た謝国明は博多の櫛田に居を構え、円爾
だんおつ
のために博多に承天寺を建てて檀越(寺を財政的に支えた在家の信
者)となり、筑前宗像大社の社領小呂島にも権益を持っていた。ま
た1218年に筑前の筥崎八幡宮(石清水八幡宮末社)の関係者とトラ
ブルを起こし殺された張光安という宋海商は、筥崎と大宰府大山寺
(延暦寺末寺)の両寺社の神人の身分を帯びていた。彼らは日本の寺
社・権門との関係の下で船を出したことにより、宋で「日本商人」
として扱われたのではないだろうか。
日本では 9 世紀以来、朝廷が大宰府を介して海商を国家的管理・
保護下に置き、官貿易を遂行する体制を採ってきたが、これは12世
紀半ば(つまり「日本商人」出現の頃)以後行なわれなくなる。宋
海商は日本来航時の活動において自由を得た代わりに、自ら取引相
手・保護者を確保する必要に迫られた。その結果として、寺社・権
門との関係を強めることになったのだろう。
「日本商人」出現はその
結果と考えられる。なお、高麗でも11世紀以来、宋海商が王都の館
舎に収容されて王に献上を行なう体制が採られていたが、1160年代
以後は『高麗史』に関係記事がほとんど現れなくなっており、なん
らかの変化があったようである。
以上のように考えれば、日本人の海外雄飛の証としての「日本商
人」の評価は困難である。宋代の東シナ海は重商主義的発想の下で
各国が商業的覇権を争う場ではなく、海商たちが時の政治情勢や体
制の変化に対応しながら動き回る舞台であり、一見混乱して見える
海商の国家的帰属も、彼らの国家的枠組みを超えた(国家ではとら
えきれない)活動の表れといえる。ただし「日本商人」の船には、
寺社・権門も含めて多くの日本人が出資していたし、これに便乗し
て自ら宋に渡る日本人も少なくなかった。その意味で「日本商人」
が操舵する貿易船には、たしかに多くの日本人が関与していた。し
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かしこの事態が日本人の宋海商との対抗の中で実現したものである
とする従来の説には問題があり、むしろ日本人と宋海商の関係の密
接化の中で実現したものだったと評価するべきであろう。
その後の東シナ海
明が1368年、元をモンゴル高原に放逐し中国を統一した頃、海上
の治安は元末期の内乱の影響で悪化し、明の号令も届かない状態だ
った。1350年代以後、高麗や元の沿岸部では海賊の活動が活発化す
るが、その中には倭寇と呼ばれる日本海賊も含まれていた(前期倭
寇)。東シナ海貿易の中心地だった浙江沿岸部は、元末には張士誠・
方国珍が支配するところだったが、彼らが明に滅ばされ、あるいは
降伏すると、その配下にあった塩徒・海民たちは、権力の及び難い
島嶼部で抵抗を続け、海賊・倭寇勢力と連合するに至る。少なくと
も明の洪武帝は、張・方の残党が倭寇を引き連れて海を荒らしてい
ると考えていた。
明は、海上の鎮静化のために警備体制を強化するとともに、島嶼
を無人化させて住民を内地に強制移住させ、海商の貿易活動を一切
厳禁するという、強引で強圧的な政策を次々と打ち出した。宋元代
に盛況を極めた海上貿易はここに非合法化され、貿易するためには
朝貢使の一行に参加するか(極めて限られた商人以外は不可能)、政
府の目を盗んで密貿易を行なうか(発覚すれば海賊・倭寇と認定さ
れる)、いずれかの選択肢しかなくなった。二度の武力行使にもか
かわらず元に屈服しなかった日本が、明に対しては朝貢使(遣明
使)の派遣に至ったのは、朝貢使以外に貿易を認めないという、明
の特異な政策のためである(元は政治的服属とは関係なく貿易を認
めた)。頻度が極めて制限された日明貿易の規模は日宋・日元貿易
には遠く及ばず、室町期日本では舶来品入手先は主に朝鮮・琉球だ
ったし、明代前中期の文化の同時代的影響は、宋元代のそれと比べ
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てはなはだ希薄だった。
だが1540年代になると、いくつかの新事態が現れる。一つは明国
内の経済的活況、特に商業活動の活発化で、その波の中で、明の商
人たちの中には、禁を犯して海上に出ることを目論む者が続出する。
この活況を生んだ一因はポルトガル人のインド洋進出である。彼ら
の艦隊は1517年に広州に来航して明の海軍によって撃退されたが、
1520年代には浙江の海上に浮かぶ双嶼という島を拠点に、明海商と
の密貿易に従事するようになる。そこでもっとも盛んに取引された
商品は、明国内で需要を高めていた銀だが、折しも1530年代の日本
では、朝鮮から導入した灰吹法という新技術によって銀の大規模な
増産が実現していた。ここに彼ら密貿易商人たちは、1540年代以後
銀を求めて日本に殺到するようになる。彼らの船にはしばしば日本
人も乗り込み、明沿海部での密貿易に従事した。明の地方官は双嶼
の攻略をはじめ、密貿易取り締まりに躍起になったが、密貿易自体
は衰えず、以後も盛況を続けた。
明は彼ら密貿易商人を「倭寇」と呼んだが(後期倭寇)、その中心
は明らかに明海商だった。明海商の船に明人のほかにも日本人・ポ
ルトガル人などが混在していたことは、いくつもの史料が語るとこ
ろであり、
「倭寇」というレッテルにもかかわらず、その実態は民族
を超えた国際貿易集団だった。たとえば、鉄砲の日本伝来の契機と
して有名なポルトガル人の日本初来航は1542年とも1543年とも言
われるが、それは徽州出身の倭寇である王直の船を利用したものだ
った。現実との折り合いを付けず貿易活動を全面的に禁止する明の
政策は、
「倭寇」を鎮静化させるどころか、むしろその活動を暴力的・
反社会的なものに追い詰め、16世紀半ばの東シナ海は未曾有の経済
活況と混乱が同居する海となる。この動向は、明の出海貿易認可や
豊臣秀吉の海賊禁止令などによって、16世紀終わりには落ち着きを
見せるが、最終的な安定までは実に 1 世紀以上を要した。
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このように見ると、9 世紀に海商が現れてから17世紀に近世的な
海上管理体制が構築されるまで、東シナ海は国家・民族の角逐の場
というよりは、そうした枠組みを超え、利を求めて海を行き来する
海上民たちの商業活動の場だったといってよい。近世(江戸時代日
本・清・朝鮮・琉球)になると、この海域を往来する船舶や船員の
帰属は厳密に扱われるようになるが、それは東シナ海の長い歴史の
中では常態ではなく、比較的新しい事態だったのである。
(えのもと
わたる
国際日本文化研究センター准教授)
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