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牛とヨーグルトと南アジア農村経済
94 《がくさい・えっせい》 牛とヨーグルトと南アジア農村経済 黒崎 卓 ヨーグルトのある食卓 年齢よりも若く見えるせいか、その秘訣は何かとよく聞かれる。 ヨーグルトというのがその答えのひとつ。15年以上、私の朝食は、 バナナと自家製ヨーグルトを基本としている。昼食や夕食では、こ のヨーグルトをご飯やソテーした和野菜にかけて食べたりもする。 栃木県の稲作農家に育った私の子ども時分の食生活からは、ヨーグ ルトをご飯にかけることは想像つかない。子どもの頃に食べたヨー グルトは、加糖して保存性を高めた妙なお菓子であり、それほど好 きなものではなかった。 プレーン・ヨーグルトが身近な食べ物になったのは、1990年代初 めに博士論文のためにパキスタン・パンジャーブ州でフィールドワー クをしたときである。プレーン・ヨーグルトとパラータ(小麦の全 粒粉を用い、バターで焼いた薄い無発酵パン)という伝統的朝食が、 予想外に口に合った。また、カレー料理が辛すぎる場合にプレーン・ ヨーグルトを足すと食べやすくなることも学んだ。とはいえ、白飯 にヨーグルトというのは、故郷のコシヒカリになれた味覚からはあ りえないと感じていた。 ©2016 Institute of Statistical Research 牛とヨーグルトと南アジア農村経済 95 これを変えたのが、2000年前後に始めた南インドでの農村調査で ある。年を取ってお腹も弱くなり、以前よりもインド料理のしつこ さがこたえるようになった。そんな時にレストランのメニューに見 つけたのが、 curd rice 。なんと南インドでは、白飯にプレーン・ ヨーグルトをかけて食べるのだ。おしゃれな高級レストランでは、 ナッツを多少振りかけるが、基本的にはただのヨーグルトぶっかけ めし。これが体調を崩しているときの食事として口に合った。いっ たん先入観がなくなると、コシヒカリの白米にもヨーグルトをかけ てみて、美味であることを発見した。それ以降、私の食卓にプレー ン・ヨーグルトは欠かせない。 パンジャーブ農村経済における牛と乳製品 「パンジャーブ」とは、 「5つの水」という意味で、インド亜大陸 北西部のインダス河本流とその主要な支流が作った平原を指す。現 在はパキスタンのパンジャーブ州、インドのパンジャーブ州、ハリ ヤーナー州に分かれているが、歴史的にはひとつのまとまりを持っ た地域であった。 パンジャーブの農村部に足を踏みいれると、灌漑用水路には水が とうとうと流れ、牛や水牛達がのんびりと草を食む光景が目に入る。 現在、世界で一番牛の数が多い国はインドで、さらに隣のパキスタ ンも合わせると5億頭ほどの牛、水牛がいると推計される。その中 でもとくにパンジャーブの村は、牛や水牛の密度が高い。犂を引く ための雄牛の数はトラクターの普及によって着実に減ったが、牛の 数は全体で減っていない。雄牛に替わって、ミルクを取る雌牛・雌 水牛の数が急増しているためである。 以上のような知識をもってフィールドに入り、詳細な家計データ を集めていくと、信じがたい数字が表れた。開発経済学では、生活 水準を示す基本情報として、所得や総消費支出を家計ごとに推計す ©2016 Institute of Statistical Research 96 学際 第2号 るが、その際には、必ず、自家生産・自家消費の農産物を所得と消 費支出の両方に加える( 「帰属計算」と呼ばれる:黒崎 2009参照) 。 農家の主観的な意識としては、 「ただで手に入る消費」だが、経済学 的に考えればこれは、 「庭先価格でまず販売し、その売上げをもって 買い戻して消費する行為」である。そこで、農家の庭先価格を用い て、農家が生産・消費した穀類・野菜・乳製品などを所得・消費に 加えた。パンジャーブの「主食」とされる小麦の消費が農家の総消 費支出に占めるシェアは、調査した約300世帯の平均で14%ほど、 うなずける数字が得られた。ところが乳製品のシェアは27%にも達 した(Kurosaki 1995) 。何か計算ミスをしたのではないかと何度も データをチェックし、間違いがないことを確認したのちに、再びフ ィールドに向かった。 村の食生活は豊富な乳製品に彩られている。高温ゆえに冷蔵庫な しでは生乳はすぐに腐ってしまう。仲買人に販売した残りの生乳は したがって、そのほとんどが農家の庭先で加工される。精製バター (ギー)は伝統的な食用油、ギーをとった残りのミルクは発酵ドリン クのラッシーに変わる。チーズやヨーグルトはもちろん、ミルクを 煮詰めたコーヤは様々なお菓子の基本材料になる。調査農家が販売 せずに家での消費に用いた生乳を現金に換算すると、確かに主食の 小麦よりも大きいのが普通だったのだ。それほど酪農はこの地の食 文化に深く溶け込んでいる。とはいえ調査地(シェイフープーラ県) は、パキスタン・パンジャーブ州の中でもとくに酪農が盛んで、そ の地域の農家のみを対象とした調査なのだから、27%という数字は、 実態を反映したものだったのである。 集めたデータの解析と、様々な仮説を念頭においてのフィールド 再訪を重ねたのち、私の博士論文のメインのテーマは、このような シェイフープーラ県の農家の作物決定行動におけるリスク回避とな った。紆余曲折の後に公刊されたKurosaki and Fafchamps(2002) ©2016 Institute of Statistical Research 牛とヨーグルトと南アジア農村経済 97 は、穀類と乳製品の消費を安定化させるためのリスク回避の配慮が 顕著に作物決定に影響していることを実証し、それによる効率性の 低下が無視できないことを定量的に示したものである。とはいえ、 パンジャーブ農村経済における牛の多面的役割という点では、一面 をとらえたものにすぎない。同じデータを用いてパンジャーブ農村 経済における牛と乳製品の役割を示した論考としては、Kurosaki (1995)のほうが総括的である。 この一連の研究で明らかになったことのひとつが、牛・水牛の飼 育は、特に零細農地しか持たない貧農に対して、生活水準を引き上 げ、安定化させる可能性を持つことであった。パキスタンの中でも パンジャーブ州よりも農村部の貧困が深刻なスィンド州で、日本の 開発援助による畜産技術開発のプロジェクトが、2014年度以降、進 められている(国際協力機構 2015)。このプロジェクト発端のバッ クグランドペーパーとして、私の諸論文が引用されたと聞いて、よ ろこびに堪えない。 牛経済の周辺地、バングラデシュの農村で 博士論文刊行の後、同じ州の別の県でコミュニティ開発をテーマ にした研究を行ったことを除くと、その後の私の研究は、半ば意識 的に、パンジャーブから離れていった。とはいえ、本格的なフィー ルド調査は、基本的に、インドとパキスタンとバングラデシュの三 国に限っている。これは、この三国が、1947年までは同じ英領植民 地だったが故に、長期的に比較することによって、制度や国境の持 つインパクトを明らかにできるのではないか、という問題意識に基 づいている(Kurosaki 2015)。 パキスタンの平原部(パンジャーブ州とスィンド州)およびイン ド北西部(パンジャーブ州、ハリヤーナー州、グジャラート州)な どが、農業生産の面でも食生活の面でも酪農が重要な、いわばユー ©2016 Institute of Statistical Research 98 学際 第2号 ラシア大陸の牛経済中核地である。イラン、トルコの農村部を、知 人のフィールド調査にお邪魔する形で覗きに行き、ヨーグルトとチ ーズの文化という点では共通するものの、ミルク生産の主役が牧畜 民であった点で、耕種農家が混合農法を通じて酪農に取り組んでき た南アジア型とは異なることを実感した。南インド、東インドとバ ングラデシュ、ミャンマーなどでは、農村経済における酪農の重要 性がかなり落ちるが、冒頭の curd rice のような形で食生活には 浸透している。 私が現在進めている研究のひとつに、バングラデシュ北西部の農 村部における極貧層を対象としたマイクロクレジットというのがあ る。調査地は、ブラフマプトラ川の洪水被害が頻繁なこともあり、 グラミン銀行ですら融資の対象にしない地域である。そのような地 域で、少額融資を所得増加につなげるために有効なプロジェクトな どあるのだろうか。 研究協力者のNGOと一緒に行った事前調査では、圧倒的人気のプ ロジェクト候補が、雌牛1頭を飼う零細酪農であった。この研究で は、極貧層の中には、企業家能力が不足しマイクロクレジットを活 用できない者と、能力はあるが資金アクセスだけが不足している者 の両方が存在するはずだとの仮説に基づいて、一部の借り手には強 制的に雌牛を配る「ランダム化比較実験」の手法を取り入れた (Takahashi et al. 2016)。零細酪農がバングラデシュの農村でどれ ほどのインパクトを持つのか、今後の分析が楽しみである。 バングラデシュのフィールドでは、朝食にプレーン・ヨーグルト が出ることはない。代わりに楽しみにしていたのが、ミシュティド イと呼ばれるヨーグルトをベースにしたお菓子である。素焼き壺に 盛られた濃厚なプリンのようなミシュティドイは、フィールド調査 の疲れをいやす最高のスイーツである。 ©2016 Institute of Statistical Research 牛とヨーグルトと南アジア農村経済 99 地域研究者のヨーグルト作り 私にとってのヨーグルトが、地域研究者としての南アジア経済研 究に密接に関連していることが、以上でわかっていただけたことと 思われる。 プレーン・ヨーグルトをたくさん食べる以上、自分で作りたい。 たね そう思って最初にヨーグルト作りを始めたころの種ヨーグルトは、 気難しく、温度調節が面倒だった。何度かだめにしてしまった。そ の後出会って、現在まで十数年の付き合いになるのが、知人に頂い たカスピ海ヨーグルトである。雑菌を防ぐために容器の熱湯消毒を した上で、その容器に常温のミルクを入れ、種ヨーグルトを足して ふたをする。1昼夜前後待つと、ミルクがヨーグルトに見事に変身 する。微妙な温度管理はほとんど必要なく、室温15度から35度くら いの幅広い範囲で発酵が進むところが、私の性にぴったり。もちろ ん、気温や湿度によってできあがるまでの時間も、ヨーグルトのき めにも変化が生じるが、それも一興。今回はどんな出来になったか と楽しみながら味わうのが、私の自家製ヨーグルトである。 容器は、南アジア全域でヨーグルト作りによく使われる素焼きの 壺によく似た壺を使用する。素焼きなので熱湯消毒にやや手間がか かるが、容器の手触り・舌触りも味覚の一部だ。時間が経つと、素 焼きの壺の孔から水分が抜けて、濃縮されていくのも楽しんでいる。 〈参考文献〉 黒崎卓 (2009)『貧困と脆弱性の経済分析』勁草書房。 国際協力機構 (2015)「from Pakistan 伝統の畜産業を後押し、農家を元気 に」『mundi』No.26: 14−15。 Kurosaki, T. (1995) Risk and Insurance in a Household Economy: Role of Livestock in Mixed Farming in Pakistan, Developing Economies, 33(4): 464−485. ―(2015) Long-term Agricultural Growth in India, Pakistan, and ©2016 Institute of Statistical Research 100 学際 第 2 号 Bangladesh from 1901/2 to 2001/2, International Journal of South Asian Studies, 7: 61−86. Kurosaki, T. and M. Fafchamps (2002) Insurance Market Efficiency and Journal of Development Economics, Crop Choices in Pakistan, 67(2): 419−453. Takahashi, K., A. Shonchoy, S. Ito, and T. Kurosaki (2016) How Does Contract Design Affect the Uptake of Microcredit among the Ultra-poor? Experimental Evidence from the River Islands of Northern Bangladesh, Journal of Development Studies, forthcoming (published online: 29 April 2016). (くろさき ©2016 Institute of Statistical Research たかし 一橋大学経済研究所教授)