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佐野乾山事件とバーナード ・ リーチ

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佐野乾山事件とバーナード ・ リーチ
佐野乾山事件とバーナード・リ l チ
真衣子
栃木県佐野地方で制作したという作品群をめぐる真贋論争で
野乾山論争を扱う。これは尾形乾山(一六六三 l一七四三)が
小論では、一九六二年(昭和三十七)頃から始まった、佐
方が強いようである。筆者は古美術品・書について造詣が深
抱えている。現在は確たる証拠はないものの、偽物という見
ものとは異なり、作品群と同時に発見された手控も謎を多く
この事件で本物説を唱え、社会に大きな影響を与えた人物
くないため、新佐野乾山の真贋には判断を下さないが、日本
から約一年間栃木県佐野に滞在し、その後はまた江戸に戻っ
の一人に英国の芸術家バーナード・リ iチ(一八八七 l一九七
ある。尾形光琳の弟である江戸時代の陶芸家、尾形乾山は京
て深川に住んだ。佐野行きは、地元の有力者にして風流人で
九)がいた。一九六二年当時七五才だったリ lチはイギリス
美術史界ではタブ l視された観のあるこの論争をここでは問
ある須藤社川(とせん了松村包休・大川顕道の招きに応じた
でもすでに有名な陶芸家として認められていた。日本におい
都の鳴滝と二条丁字屋町での作陶の後、一七一三年(享保十
ものだった。乾山はこの佐野滞在の聞にも作陶を続けたとさ
ては、白樺派ゃ、柳宗悦・浜田庄司らの民芸運動家達との交
一九六二年以降のいわゆる﹁佐野乾山事件﹂で現れた作品
陶芸家として、その名声はイギリスよりもずっと早くに広ま
流を通して、また富本憲吉と共に七世尾形乾山を任ぜられた
れ、この時期の作品が﹁佐野乾山﹂と称されているものであ
題として捉えていきたい。
である。新佐野乾山は技法、作風の点で真正乾山といわれる
それまでに発見されていた住野乾山とは性格を異にするもの
口
六)に江戸に下向し、入谷に住んだ後、一七三七年(元文二)
はじめに
玉宝.
っていた。この佐野乾山論争に関係した多数の論者の中では、
- 35-
丘註
群をここでは﹁新佐野乾山﹂と呼ぶことにするが、これらは、
る
題を複雑にしたのは明らかである。実際、彼は雑誌、本の中
そのような彼の言説が当時の社会に大きな影響をあたえ、問
作品の制作を裏付ける、乾山筆と言われる手控が存在したた
この事件を取り上げ、本物説、偽物説が飛び交った。一時は、
上げている。その後は毎日新聞を中心に、様々なメディアが
第二の﹁永仁の査事件勺)となるのではないかと、大きく取り
で繰り返し、条件付きではあるにしろ本物説をとなえた。し
めに本物説が優勢かと思われたが、その後手控自体の信恵性
おそらく当時最も有名だった人物であろう。
かし、それが新聞などに取り上げられるときは、しばしば一
が否定され、以来偽物説が優勢となり、結局確かな証拠が無
ここで注意すべきは、一九六二年頃から発生したこの事件
部だけが報道されるなどして、彼の真意が読者に曲解されて
と、それまでの郷土史家達による、尾形乾山の佐野滞在の研
いまま、事件は自然消滅してしまった観がある。
が偽物説を唱えたとする、単なる噂にすぎないようなことが
究とを区別しなくてはいけないということである。そもそも、
伝わることが多かったこともまた確かなのである。また、彼
週刊誌などに掲載されるなど、本物説、偽物説の両方から彼
二章でリ lチがいかにこの事件に関わったか、そして第三章
ここでは、まず第一章でこの事件の背景と経緯をたどり、第
ったという。その後、研究は丸山瓦全から、佐野で教師をし
のは、石塚青我によると、丸山瓦全という佐野の郷土史家だ
尾形乾山が栃木県佐野地方に来ていたという事実を発見した
(1)
が利用された観もある。
で彼がこの事件においてどのような社会的役割を果たしたか
ていた篠崎源三に引き継がれた。彼が一九四二年に﹃佐野乾
(3)
ということについて考察する。
山﹄を出版してから、尾形乾山の佐野滞在が一般に知られる
新聞だった。この記事はごく簡単にバーナード・リ lチがコ
したことを初めて報じたのは、一九六二年一月一九日の朝日
尾形乾山の佐野時代の作品といわれる陶器群が大量に出現
する。ゆえに一九六二年までは特に問題もなく、地道ながら
野乾山事件で発見された一連の手控えと作品とは性質を異に
かに発見されていたが、いずれも由来がはっきりしており、佐
栃木の滝沢家から乾山が佐野で制作したという伝来品がわず
戸伝書)と﹃陶磁製方﹄(いわゆる佐野伝書)の二つの伝書ゃ、
ようになったのである。また乾山の﹃陶工必用﹄(いわゆる江
レクタ1の森川勇が所有する新佐野乾山を七O点ほどを見て、
在野の研究者によって乾山の佐野滞在期が研究されていたの
第一章 佐野乾山事件とは
の毎日新聞が、二O O余点を森川氏が所有していること等を、
本物と断言したことを報道している。そして周年一月二八日
- 36-
修に私費を相当投じるなど、文化財委員会では発言力が大き
を大量に買っていたらしく、古美術商の聞では煙たがられる
である。
第一節佐野乾山事件の背景
氏だけではなかった。米田政勝に佐野乾山を持ち込んだブロー
存在だったようである。古美術界に敵が多かったのは、森田
かったらしい。また、業者を通じずに財にまかせて古美術品
佐野乾山事件が起こり得たのには、次のような土壌があっ
それを判断する基準がほとんと存在していなかったのである。
もし江戸下向後の時期の作品と言われるものが出たとしても、
献からの研究も、特に江戸下向後は空白といっていいほどで、
が少なく、作品研究がそれほど進んでいなかった。また、文
乾山の作品(特に鳴滝・二条丁字屋町時代以外の作品)は数
森川氏や斉藤氏に対する敵意や利害関係から、新佐野乾山が
う利害問題も古美術商の問にはあったようだ。これら業者の
ということになれば、古美術品市場の相場が変動する、とい
百万円以上し、森川氏の二O O点以上という向器が全て本物
人物として通っていた。また、当時乾山の本物であれば一点
カーの斉藤素輝という人物も、古美術商の世界では胡散臭い
(
5
)
た。乾山は市場に贋作が非常に多く出回っていた反面、真正
故に、当時実際に佐野乾山と称される作品群が出現しても、学
森川氏と斉藤氏の共謀による贋作なのではないかという樟測
い集めたものだった。これらが大きな話題となったのは、学
なかなか明らかにしようとしなかったことである。これは、佐
にも原因があった。一つには、森川氏が新佐野乾山の出所を
しかし、これらの憶測が生まれた背景には、実際森川氏側
が生まれたらしい。
術的な面からは容易には対応できなかったのである。
こ れ ら の 新 佐 野 乾 山 は 、 コ レ ク タ l の森川勇が、最初は東
術的に重要であるという事以上に、多くが謎に包まれており、
野の所有者達に税金対策のため、メディアには自分達の名を
京の古美術商である米国政勝から、後は自ら佐野に赴いて買
またリ lチなどの有名人が関わっているというスキャンダル
あかさないよう口止めされたためだという。また、森川氏が
員で、勇氏本人も一九五二年から約三年間、文部省文化財委
いたふしがある。森川勇の父勘一郎氏は元文化財専門審議委
この真贋論争の背後には、人間関係や金銭問題も存在して
している。少し長いが、その部分を引用してみよう。
こと、森川氏が古く見せるために箱に細工をしたことを告白
述のブローカー斉藤氏は一九八五年に、自分が箱書きをした
新佐野乾山の箱を新たに作り替えたという事実もあった。先
(6)
性のためだったようである。
員会の事務局に嘱託として働き、京都博物鎮の名品の修復・補
-3
7ー
﹃佐野乾山﹄にかぎって云えば、あれは箱が駄目で、出てく
原因になったのである。
摘されており、このようなことも森川・斉藤両氏が疑われる
(9)
控や箱書きの字と斉藤氏の字とが似ていることは当時から指
る箱にろくなものがない。私が知る限り乾山の共箱はあり
きものだから、箱書を書いてくれ﹂という。で、森川氏が
そこで、森川氏が云うには、﹁斉藤君、君は商売で字はっ
に人間関係や利害関係が複雑に絡み合っていたからなのであ
た観があるのも、単に美学上の問題だけでなく、上述のよう
の論争が学問的論議を離れ、感情的論争におちいってしまっ
これらの背景のもと、佐野乾山論争は激しさを増した。こ
見つけて来た手控の中から、たとえば,八橋なら八橋'の
る。次にこの論争の経緯をたどってみよう。
ませんでした。
文字を捜し、その上に薄い紙をあてがって、字の練習を何
と、箱に色がついて、古くなっち?っというわけです。そ
染めといって、夜叉の実をたぎらせて、その汁を箱に塗る
作ったものということでした。それを古くするには、夜文
森川さんは大したものだと思っていたら、この箱も新しく
非常にいい箱で、ピチッと合う、いい箱を沢山もっている
その時、森川氏が持って来た箱というのが、古びがついた
我、住友慎一など、偽物説側では篠崎源三、川端康成、水墨
大文学部助教授山根有三ゃ、水尾比目志、青柳瑞穂、石塚青
博物館工芸室長の藤岡了一、国立陶磁試験所の吉竹栄二郎、東
ナード・リ lチ、東京国立博物館技官の林屋晴三、京都工芸
説側では、この事件の渦中の人物である森川勇、そしてバー
まず、この事件に関わった主な人物を挙げてみよう。本物
第二節佐野乾山論争の経緯
度もやって、それを何個か箱に書き入れた。・:(中略)・
んな具合で、私が書いた乾山の箱書は、三つや四つはあり
画家でかな文字研究家の加瀬麓圏、日本陶磁協会の梅沢彦太
ただ箱を代えただけでなく、わざわざ、手控の字に似せて箱
い関係にある団体で、﹃向説﹄という雑誌を発行している。前
の松島倫明など多数である。日本陶磁協会は古美術商とは深
(
7
)
ますよ。いや、もっとかな・:。
書をしたというのである。このことについては森川氏は当時
者の本物説側に学術関係者が多いのに対し、後者には古美術
郎および小森松庵、根津美術館学芸員の奥田直栄、古美術商
何も言及しておらず、当然のことながら、箱も伝世品だろう
商関係が多いのが特色である。これは前節で言及したように、
(8)
という錯覚を人々に起こさせていたようである。しかし、手
- 38-
する偽物説が大部分を占め、それに反比例するように、本物
まず手控の紙について、虫食い孔のまわりが皆黒くなって
森川氏と人間関係・利害関係において敵対していた人物が偽
当初は、手控と陶器の絵や筆跡が合致したことと、本物説
いるので、線香の火で焦がしたのではないかという疑問が出
説論者は次第に口を閉ざしていった。
側に識者が多かったことから、本物説が有力視されていた。し
されたが、筆者が森川氏遺族の方の家で手控の一部を見たと
物説にまわったからである。
かし、これらの本物説の中では、吉竹栄二郎だけが科学的調
ころでは、虫食い孔にはそのような黒い部分はなかった。ま
九六二年六月には東京日本橋の白木屋で、七月には大阪の大
らによって科学的調査がなされることはなかった。また、一
偽物説論者には、他に技術的な面(陶土、秘薬、絵の具)で
の問題点を偽物説の根拠とするものも多かった切実際に彼
主張し、後者はこのことをもって偽物だと主張していた。
く違うことに気付いていたが、前者は作風が変化したのだと
佐野乾山はそれまでの真正乾山のものとは画風・書風が大き
母を拾い出し、それらを手控の字母と比較し、手控の方では
開した。また、加瀬藤圃は真正乾山といわれている書から字
ば旧麿で初夏 H四月であるはずなのに、新暦の感覚がうっか
り顔をのぞかしている点などを指摘一切説得力のある説を展
えば小森松庵は、﹁初夏六月﹂というような表現に、本来なら
に前者では小森松庵が、後者では加瀬藤圃が目立っていた。例
法における問題点ゃ、筆跡の違いを論じたものも多かった。特
た他に、手控の文章における季語・仮名遣い・言葉遣い・文
丸で新佐野乾山展が聞かれたものの、偽物説の人たちが実物
ている点、字母の筆順が違う点などを示した。
同一の字に対応する字母の数が少ない点ゃ、違う字母を使っ
査をしているだけで、ほかの論者の主張の多くは主観的で説
得力に欠けてい同)。最初から、本物・偽物両説の論者は、新
を手にとって観察する機会はほとんど無かったため、彼らの
から、作品を本物だと主張していたため、その手控自体が偽
初本物説論者は作品と手控の内容や筆跡が一致していること
次に問題となったのが、手控の信恵性についてであった。最
ていた。郷土史家の石塚青我は、手控の中に出てくる加数人
土史家達の手によって熱心に実地調査や発掘が行われたりし
野地方では乾山熱はいまだ冷めず、展覧会が開かれたり、郷
物説有力のまま事件が終息するかに見えた。しかし、ただ佐
一九六二年も末になると、佐野乾山論争は下火となり、偽
物であるということを証明しようと、偽物説論者は躍起にな
の人物が佐野に実在したことを調べ、手控の内容が佐野の古
主張に確証があるわけではなかった。
った。一九六二年の論争の後半では、手控の疑問点を問題に
- 39
文書と合致することなどを示した。佐野の高校教諭である渡
したことが書かれていたため、一九六三年十月五、六日に壬
は精力的に本物説を説いていた。彼もまた決定的な証拠を打
リlチと水尾比巴志だけは常に例外であり、特に水尾比呂志
このように本物説が明らかに劣勢だった頃、バーナード・
し、偽物説を受け入れたようにみえた。
生寺を発掘したところ、素焼きの陶片、生粘土、焼き粘土な
ち出すにはいたらなかったが、このような本物説劣勢の状況
辺達也は、手控﹁壬生記﹂に、乾山が壬生寺に滞在して作陶
どが出土した。これには東京国立博物館の林屋晴三が立ち会
その後、やはり議論は停滞していたが、一九七0年 代 後 半
で際だった存在ではあった。
その後、一九六八年頃に問題が再燃する。その契機となっ
から今度は本物説論者が盛んに論壇に登場するようになった。
った。
たのは、前年十一月に電通恒産画廊でおこなわれた﹁光琳・乾
この時期、住友慎一や石塚青我、水尾比呂志がその中心的メ
(問)
山展﹂で出品された乾山の焼物のうち、新佐野乾山と、山本
ンバーであったが、この頃までに新佐野乾山の作品、手控と
(討)
いう字を見たが、前者はまずいと思い、後者はそれよりもよ
った。加瀬藤園によると、山根有三は手控の﹁雪﹂と﹁乾﹂と
てみれば異常に思えるほど、しばしばリ lチの名前が言及さ
なく近い説を展開した。当時の新聞には、現代の我々か胃りし
バーナード・リ lチは数々の著作を通して、本物説に限り
リlチと新佐野乾山
く見えたので﹁乾﹂はいいと言っただけで、手控が本物だと
れている。しかしそれらの記事はリ lチの主張を詳しく紹介
第二章
している。
ではリチャ lド・ウィルソンが偽物説の立場から研究を発表
(お)
如仙という八世乾山を自称する陶工が作った乾山写しが多く
もに数がさらに増えており、再び謎は深まっていった。最近
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入 っ て い た こ と と 、 一 九 六 六 年 に リ l チの内S
N
b昆白ミミな
守主主S が出版され、翌一九六七年にその日本語訳が出たこと
つ
4-
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ここでも、論争の優位をしめたのは偽物説論者だった。こ
は言わなかったと主張し、また、手控を調べる時間的余裕が
す る の で は な く 、 た だ 彼 の ネ lム ・ ヴ ァ リ ュ ー を 利 用 し て 事
の時期には、さらに本物説論者が偽物説にかわることさえあ
その当時無かったとも述べているという。また、一九六二年
どのようにメディアによって報じられたか、その結果どのよ
件を煽っているとしか思えないようなものが多い。リ lチが
(初)
当時は派手に本物説を唱えていた青柳瑞穂も、このころ﹁佐
(幻)
野乾山は偽物であっても、それが美しい限り、価値がある﹂と
-4
0ー
チの著作を通して彼の主張を、また第二節では、リ!チの主
に新佐野乾山と関わったのかをみていこう。第一節ではリl
三章にゆずるとして、ここでは、リ lチが具体的にどのよう
うな社会的役割を彼が果たしたか、ということについては第
可能性も一応あげているのである。
は、﹁私たちの美的判断が間違った﹂かだとして、偽物である
いは、信じられないような人物が今日存在しているか﹂、また
家がいて、絵具も紬薬も手法もそっくり乾山流に作ったか、或
のに)本物でないなら、﹁過去に乾山と同じように偉大な芸術
朝日新聞、毎日新聞などに取り上げられたことはすでに述べ
共にコレクタ l森川勇の京都の家を訪れた。この時のことが
都民芸協会会長の堀内清、六代乾山の娘である尾形奈美らと
六二年一月三日に、京都国立博物館の藤岡了一、白畑よし、京
陶器が佐野で発見されたことを聞く。そして年が明けて一九
志から、乾山作と思われる三冊の手控帖と、一 O Oを越える
一九六一年十二月、リ lチは当時助手をしていた水尾比日
第 一 節 リ lチと佐野乾山論争
している。
的な照射と誠実性によって輝いている、と私は信じている﹂と
真実性にもっとも懐疑的な批判者をも説得するに足る、精神
詳細に亙る豊富な見聞を持っている﹂手控帖について、﹁その
も否定のしょうがない。彼は、﹁美しい絵と人間性と、それに、
の新佐野乾山の写真と手控え帖の内容が掲載されたことから
本的には彼が本物説にたっていたことは、﹃乾山﹄の中に多数
説を唱えているとの考えが一般に流布した。だがそれでも、基
の毎日新聞に載ったことから、彼が全面的に新佐野乾山本物
思う﹂という言葉のみが一月十九日の朝日新聞と二月十三日
しかし、この時に森川氏に語った﹁すばらしい﹂、﹁本物と
(お)
張の背景について考察する。
たが、一九六六年出版のリ lチによる内刊誌お認に詳しく状況が
、
H423
g
N自白白色丹宮玄go
ε穴一
という題で新佐野乾山を報じた。事情に精通している日本
の日曜紙である﹃オブザーバー﹄に
そしてイギリスに帰国した彼は、同年八月十二日イギリス
(幻)
述べられている。訪問する前は半信半疑だったリ lチだが、森
川氏所有の陶器を見たとたんに﹁その美しさと雄海さ﹂に驚
き、﹁一目見て本物と思うばかりでなく、私が今までに見たな
かでもっともすばらしい乾山の焼物﹂だと森川氏に太鼓判を
人相手ではなく、おそらくは尾形乾山という芸術家の存在す
ら知らないだろうイギリス人を対象に書かれたものであるか
(お)
しかしこの時リ lチは無条件にこれらの新佐野乾山を本物
ら、自然と真贋の問題を如何するのではなく、その手控帖の
押したのである。
としたわけではなかった。もし、それらが(これほど美しい
問
- 41-
内容や新佐野乾山が発見された経緯などの表面的な報告にと
の楽焼の上手さ、絵のすばらしさは乾山がやらなくてはどう
はない。純枠なはなしだ﹂とし、また、陶器については﹁あ
(犯)
どまっている。しかし、この形式自体があたかも新佐野乾山
いう人がやったか考えられない﹂としている。
てさえいるのである。これら陶器と手控帖が発見された経緯
呈している。そればかりか、リ lチはここでこれらを肯定し
て、﹁もしもあの時代に、乾山のあとからすぐれた美術家が存
で客観的な立場を守りたい﹂という言葉がそれである。そし
の日本国内での真贋論争には無関係だ。一外人としてあくま
しかし、彼は自分に逃げ道を用意している。﹁私は佐野乾山
(却)
が本物であるということを前提にしたような事実報告の観を
喜吉田町Jとしながらも、森川邸に同席した筆跡
在したとしたら、それはわれわれの何も知らない人であり、そ
(R
鑑 定 士 つZ
E42FZaz宮RJが壷と手控帖の筆跡を鑑定し、
が﹁奇妙だ﹂
﹁彼は、それらが本物で、(筆跡が)一致しているとの自分達
うのことをわかりたいと思う﹂とし、完全に本物説に徹する
(初)
んな人の痕跡は佐野にも何も残っていない。とにかくぽんと
の 確 信 を 強 め た でd m g
白書
g
a
8宣言芯ロ吾記号忍号。
。
5
新聞で紹介された。この記事はリ lチから水尾比目志宛の手
リlチが知っていた乾山の性格がそのまま手控えの中に継続
一九六六年に来日した際には、手控えが発見される前から
でもなく、偽物の可能性をも示唆しているのである。
紙の内容も報じており、その中でリ lチは偽物説を唱える人
していることから、手控えを本物だと確信しているとしなが
この﹃オブザーバー﹄の記事は一九六三年四月七日の毎日
mgEgosanoa包曲目。忌ニ﹂と述べているのである。
たちへの不満をあらわし、﹁陶器と手控えがほんものだという
らも、﹁ここでは真偽を問題にすることは止めて、ただ私の
の時の体験は周年九月の﹃芸術新潮﹄に書かれているが、こ
赴き、手控えに出てくる土地を巡り乾山の足跡をたどった。こ
一九六四年六月六日にリ lチは水尾比目志とともに佐野へ
が乾山の佐野時代の動向を文献的に明らかにするための調査
年十二月に再び佐野を訪問しており、京都大学教授野間光辰
作品と思われる﹂と、消極的に本物説を唱えている。彼は周
印象では、これらの作品は乾山のものに間違いなく、確実な
(泊)
信念はかわっていません﹂と書いていると報じた。
こでも彼は基本的には本物説に立っている。例えば、乾山が
にも同行している。
士だった盲目の老人であった、という手控帖の中の話につい
真相が分からないまま消え去ったかに見えた論争が、再燃し
一九六二年の佐野乾山事件から六年たった一九六八年始め、
︹沼)
美しい笛の音を頼りにその奏者を訪ねてみると、かつては武
て、﹁まことにきれいなはなし﹂で、﹁これはつくりぱなしで
-42-
始める。リ lチが一九六六年に hSHa=を出版し、その日本語
度が大事だとしていた。そのような姿勢がこの乾山論争にお
判断基準とし、理論ではなく﹁直感力﹂で作品を評価する態
良しとしたのは、本当に彼の﹁直感﹂だけからだったのだろ
{鈍)
訳が一九六七年に出たことが原因の一つだったことは先述し
ける彼の主張にもよく表れている。だが、彼が新佐野乾山を
リlチが最後に新佐野乾山について言及したのは、一九七
たとおりである。
﹁陶磁工芸の歴史において最も重要な発見の一つ﹂だとしてい
たほど断定的に新住野乾山が本物であるということを主張し、
を越えて﹄においてだった。彼はここで、これまでになかっ
とを指摘している。しかし、リ lチが視力の衰えのため作陶
の安定を欠いていたとジャネット・リ lチ夫人が回顧したこ
白内障からほとんど視力も衰え、興奮することによって精神
リチャ lド・ウィルソンは、当時のリ lチは布才の高齢で、
うか。
る。また一九六六年の内
2
N
a誌で展開した、基本的に本物説に
をやめたのは一九七0年代になってからで、一九六二年頃は
八年に出版され、一九八二年に日本語訳された自伝﹃東と西
たった主張がそれまで反論を受けたことが無く、反対に擁護
まだ精力的に作陶を続けており、視力の衰えのために新佐野
立場を守るといいながらも、水尾比自志宛の手紙にもみられ
は偽物である可能性を示唆し、自分は部外者として客観的な
これまでみてきたように、リ lチは、公的には新佐野乾山
点と位置づけていたリ iチの晴好に、派手な新佐野乾山が合
磁や李朝の陶器など静かで渋い作品を好み、それらを美の頂
本物だと信じさせたのだろうか。しかし、中国の唐・宋の青
それではやはりリ lチの﹁直感﹂が彼をして新佐野乾山を
(お)
するような研究が今なお続けられているとしている。実際に
リlチに会った森川氏の遺族の話では、リ lチは目が見えて
乾山を正しく評価できなかったとは考えにくい。また、当時
(お)
ったのだが、彼は日本のこのような状況を把握していなかっ
は彼の主張は擁護されるよりも、反論・非難される方が多か
る通り、本物説側に対してはそれらは本物であると確信して
ったとは考えにくい。リ lチが新佐野乾山を本物だと信じた
いたという。
いると述べていた。彼が新佐野乾山を語るとき特徴的なこと
背景には、他の要素があったのではなかろうか。そのことを、
たのである。
は、常に主観的、感情的な表現を使う点である。それは新佐
次節で考察してみたい。
えば、彼は作品がもっ﹁生命力﹂や﹁暖かさ﹂を良い作品の
野乾山に限らず、他の芸術作品を論じる際でもそうである。例
- 43-
また、ほかのところでは、新佐野乾山の陶器の色が、彼が
牲にして、友人のために作陶したという手控の内容の方を信
六代乾山から伝えられたものと同じであるということを述べ
第 二 節 リ l チの新佐野乾山肯定の背景
間、浜田庄司と富本憲吉は健在だった。両者ともこの佐野乾
て い る 。 し か し 、 リ lチはこの佐野事件が起こる前に﹃陶工
用していることが分かる。
山論争から身を引いており、完全に新佐野乾山は偽物だと考
の本﹄で、伝書の内容を公開してしまっていたので、もし新
当時もはや柳宗悦は亡くなっていたが、リ lチの芸術家仲
えていた。富本憲吉とリ lチは友人として仲は良かったもの
佐野乾山が現代出来だとして、その作者がリ iチの本から真
伝書の色が同一だったことは、それらが本物であると彼を納
(幻)
の作風は全く異なり、リ lチはむしろ浜田正司と芸術的に共
似て作った可能性もあるわけである。しかし、新佐野乾山と
の頃から浜田とリ Iチの、素朴な陶器に対する趣味は共通し
得させるのには十分だったようである。リ 1チも今回ばかり
(お)
田庄司とともにイギリスのセント・アイヴスで作陶をし、そ
通の晴好を持っていた。リ lチは一九二O年から三年間、浜
ていた。先に述べたように、リ lチの趣味と新佐野乾山の作
は、手控を含め作品以外の知識、すなわち﹁直感﹂以外のも
また、リ lチと森川家とのプライベートな交流も彼に新佐
風とは全くといっていいほど違っており、彼が浜田庄司と同
浜 田 庄 司 が ど の よ う な 反 応 を 示 し た か は 、 リ l チが
野乾山を偽物とは言いにくい立場に追いやっていたようであ
のから、新佐野乾山に対する評価を下してしまったのである。
﹃
穴
g盟国﹄のなかで述べている。﹁友人の浜田庄司は、発見品
の茶碗﹁時雨﹂を見せてもらい、茶会にも招かれている。ま
る。たとえば、一九六六年に彼は森川勘一郎から本阿弥光悦
じ反応を示したならば、その方がむしろ自然であった。
の信湿性について、もっとも強い反応をした。彼は考えるの
包休のこと]の強情に屈して、任されれば自分ではそんな風に
うに思う。乾山も、時には友人[須藤杜川、大川顕道、松村
リlチは続けてこう述べる。﹁私も同感である。が、私は次のよ
え感じられると。またあるものは形が悪いと言う。﹂そして、
ろうから、その時に彼が森川氏を気遣って新佐野乾山擁護を
二年一月、水尾比目志ら数人と新佐野乾山を見に行った時だ
たという。ただ、リ lチが森川勇に初めて会ったのは一九六
の際にはたびたび接待をうけ、新佐野乾山もいくつかもらっ
た、当の森川勇とは個人的につき合いがあったらしく、来日
(犯)
だ。陶器の装飾があまりにも終始一貫巧妙すぎ、時には虚勢さ
はしないと思われるような、形や模様を作ったのである。﹂こ
したとは考えにくいが、少なくともその後自説を撤回しづら
(お)
こでは、 リlチが陶器に対する自分の﹁直感﹂をある程度犠
- 44-
またほかに水尾比自志の存在も忘れてはならない。彼は当
対する水尾氏の影響力が非常に大きかったこと、そして必然
水尾とリ lチが共に行動することが多かったこと、リ lチに
に、リ lチの新佐野乾山についての主張を考察する際、当時
時、リ lチが民白君主を執筆するに当たって、その助手をつと
的に両者の主張が似通ってきていたことは考慮に入れなけれ
い状況にあったことは確かであろう。
めていた。リ lチは日本語が読めなかったためである。森川
また﹄門
SN2でのリ lチの主張が全く日本で批判されず、む
ばなるまい。
リ!チが日本にいる時はもちろん、イギリスにいる時も、彼
しろ本物説が有力であると彼が信じていたことが、自伝
氏 の 家 に リ l チを連れていく手配をしたのも水尾氏だった。
がリ lチと日本のパイプの役割をしていたのである。もとも
切々。昌弘向島同
しい作品は真正乾山と信じさることができる﹂というもので
ことは、美しい作品を選ぶことにほかならず、また逆に、美
に値する。水尾氏の論理は、﹁真正乾山と信じ得る作品を選ぶ
水尾比目志とリ lチの主張が非常に似通っているのも注目
正司や富本憲吉のそれとは全く違う。リ lチが彼らとは正反
況は、日本に住み、自らの服で判断できる状況にあった浜田
によって取捨選択された情報だった。このようなリ lチの状
本物説を終始一貫主張していた水尾比目志を通しての情報、彼
が知りうる新佐野乾山の知識、日本の動向といえば、それは
に書かれていたように、彼は日本での
と日本美術にそれほどの知識のないリ lチが、水尾比日志の
動向に全くついていっていなかった。イギリスに住むリ lチ
ある。そして、﹁美しさを条件として選ばれた真正乾山には、
対の判断を新佐野乾山に対して下すことになったのも当然の
建
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h地a
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考えに強く影響を受けたのは当然であったろう。
新出の作品[新佐野乾山のこと]が圧倒的な数をしめる﹂と
結果と言えよう。
(却)
粋なはなしだ﹂とし、陶器については﹁あの楽焼の上手さ、絵
いて、﹁きれいなはなし﹂なので、﹁つくりぱなしではない。純
は必ずといっていいほどリ lチが言及されている。まるで、新
によく登場する。特に新聞で佐野乾山事件が紹介されるとき
先章でも述べたが、当時のメディアにリ lチの名前は非常
第三章 結論││リ lチが果たした社会的役割
いうのである。このような水尾比目志の、﹁美しければ本物﹂
という主観的な論理はリ lチの中にも同様に見られる。例え
のすばらしさは乾山がやらなくてはどういう人がやったか考
佐野乾山が騒がれたのは、それ自体の学術上・美学上の問題
ば先述したように、手控の中の笛を吹いていた老人の話につ
えられない﹂としているような場合がそうである。このよう
- 45-
伝えている。﹁作品の少ないといわれてきた乾山の仕事が、一
ったかのようだ。一九六二年六月二十三日の朝日新聞はこう
よりも、リ lチが関わったということの方が大きな原因であ
るのではない。ただ、結果的にはそのような形になってしま
報操作をして、積極的にリ lチを宣伝に利用したと言ってい
ていた観があることは否めない。もちろん、本物説論者が情
を考えると、彼が本物説論者によって、ある意味で利用され
また、リ lチが新佐野乾山は本物であるという主張を否定
時に約二百点ほど見つかった上、イギリスの陶芸家バーナー
になってから、急ににせものか、ほんものかとさわがれた。﹂
したという噂が一時流れたが、これは根も葉もない単なる噂
っているのは否めない事実なのだ。
彼の高名さがいかに事件を大きくしたかが、この記事からだ
で、リ lチもこれを否定した。この噂が誰によって何のため
ド・リ lチ氏までがその芸術性を高く評価したので、ことし
けでも読みとれるだろう。
に流されたのかは分からないが、このことに言及しているの
このように見てくると、この事件でもっとも踊ョりされてい
事件を大きくしたのも彼なら、複雑化したのも彼だった。当
いう見方を強めさせた。日本陶磁協会の小森松庵は、﹁それに
たのはリ lチ だ っ た の で は な い か い う 印 象 が 残 る 。 こ の 事 件
は篠崎源三などの反対論者であった。ここでも、偽物説論者
しても、何故今度の佐野乾山がこれ程さわがれるようになっ
を扇情的に報道するためにマスコミに利用されたり lチ、本
がリ lチを利用しようとしていたことが明らかになる。
たか。それは・:(中略)・:遂に陶芸家バーナード・リ lチが
物・偽物説両方の論者から、自説を強めるために利用された
に、彼の名前の大きさが、世間に新佐野乾山は本物であると
絶讃した、となって現在のような事になったのです。日本人
リlチといったような、リ lチ 像 が こ の 事 件 を と お し て 見 え
初は東京国立博物館の林屋晴三や東大の山根有三なとととも
には欧米人に讃められるとすぐ良い物と思う誠に悪い癖があ
ために様々な立場の人から利用されるという役割、すなわち
てくる。リ lチという人物はその影響力の大きさ、有名さの
ある意味でスケ lプゴ lトとしての役割を、この事件で果た
(引)
リlチが本物説を唱えたことは、他の本物説論者にとって
すことを余儀なくされていたように思われる。
ります﹂と述べている。
は大きな安心感を与えたことだろう。それは大きな宣伝効果
ては特にそうだったろう。リ lチが新佐野乾山や日本の動向
があるからだ。特に新佐野乾山を所有していた森川勇にとっ
について、ある限られた情報しか与えられていなかったこと
- 46-
ていることについては、当時箱書きを書くために手控の字を
二年九月﹀五二頁など。斉藤氏は手控の字と自分の字とが似
(9﹀加瀬箆図﹁乾・山字母表について﹂﹃陶説﹄一一四号こ九六
3
E
h叫凡S
な(
gny 民間認し明言ぬ震時尚昆M
FO白色。ロリ司谷町司
回向﹃富﹃門田戸
としている。﹃自の眼﹄一 O三号四四頁参照。
練習しており、その癖が自分の手紙の中にも表れたのだろう
(1)
呂志訳の﹃乾山﹄(東京美術、一九六七年)の訳注二四七頁で、
て、様々な色と線との交響楽が自由に奏でられており、画面
のカタログ﹃新発見﹁佐野乾山﹂展﹄で、﹁佐野乾山﹂におい
(川)例えば、藤岡了一は一九三七年夏の芸術新潮社主催の展覧会
吉弘EZ♂saa)司・。∞・︿以下h
SNSと略す。)また、水尾比
﹃週刊朝日﹄一九六二年一二月二八日号で偽物説側の篠崎源三
の賛の暢達・雄健な筆致には乾山独自の芸術が主張され、絵
がこのことに言及したことが触れられている。
の士宮が、実は陶芸家加藤唐九郎によって作られた現代物だっ
(2) 一九五九年、重要文化財として指定された鎌倉時代の古瀬戸
画に添えられた書と詩歌が微妙に融合して乾山の芸域を奥深
八七号(一九六二年八月)四O頁
。
(は)上口愚朗﹁新・佐野乾山についての追加﹂﹃日本美術工芸﹄二
いる。三六 t三七頁参照。
れていること、絵の具の発色が現代風であることを指摘して
九六二年八月﹀では、現代どこでも購入できる陶土が用いら
(日)例えば加納白鴎﹁新佐野乾山への疑問﹂﹃陶説﹄一一三号(一
説﹄一 O九号(一九六二年四月)一一ニ頁。
(ロ)例えば小森松庵は﹁突然変異﹂という言葉を使っている。﹃陶
年五月号一一六頁。
(日)例えば森川勇﹁ニセモノ説に答える﹂﹃芸術新潮﹄一九六二
いる。
鮮やかに、時には情熱的に溢れるばかり意欲的だ、と述べて
く豊かなものにしており、特に﹁佐野乾山﹂ではそれが強く
たという贋作事件。
(3) 石塚青我﹁佐野乾山と手控帖について﹂﹃乾山﹄(栃木新聞社、
一九六四年)一四頁。
(4) 篠崎源三﹃佐野乾山﹄(窯芸美術研究所)、同じく﹃佐野乾山﹄
(焼物趣味社)。
O月号一五九ム六O頁、白崎秀雄﹃真贋﹄(講談社、一九六
(5) 松本清張﹁泥の中の﹃佐野乾山﹄﹂﹃芸術新潮﹄一九六二年一
五年)一五三頁に詳しい。
(6) 松本、前掲書一五九頁。
る。﹂﹃自の眼﹄一 O三号(一九八五年六月)四二頁。
(7) ﹁﹃佐野乾山﹄を作ったという疑惑の人斉藤素輝氏初めて誇
出版、一九八八年)では、新佐野乾山の多くの箱書が乾山直
(8) 本物説に立った著作、住友慎一一編﹃佐野乾山の実像﹄(里文
筆ということになっている。
- 47-
註
(日)小森松庵﹁佐野乾山手控帳についての私記﹂﹃陶説﹄一一
。
号(一九六二年六月)二O頁
一三八頁。
は
一 O冊が発見されていたが、この頃までに四O冊をこえて
(幻)一九六二年の六月の新発見﹁佐野乾山﹂展の時点では、手控
いたことを水尾比呂志が述べている。﹁あの﹃佐野乾山﹄を、
(凶)加瀬臨時圃﹁乾山字母表に就いて﹂、﹁乾山字母表に就いて
(終)﹂﹃陶説﹄一一三号(一九六二年八月)、一一四号(一九
事件とその後﹂﹃尾形乾山﹄第三巻(雄山商出版、一九九二年)
ド・ウィルソン、小笠原佐江子共著﹁昭和時代新佐野乾山
︿
弘之局、。なお﹄門2Naa(Z04 42ru堤富号RE--L3H)ゃ、リチヤー
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)mwZ三 F64︿巴-gPRHFOEE 穴gN吉田S E包富島回目吉田4
島r
五年六月)一九頁。
二三年追い求めた執念と新事実﹂﹃自の眼﹄一 O三号(一九八
(げ)例えば、手控﹁壬生記﹂によると、現在は三月一四日に行わ
六二年九月)参照。
(倒的
調べたところ、一七六二年(宝暦一二)に一月一四日から三
る。壬生寺は日光輪王寺の末寺であるため、輪王寺の記録を
れている壬生寺の開帳の日が、一月中旬から下旬になってい
月一四日に開帳の日がかえられたことが分かった。石塚青我
など。
(却)前掲書四八頁。
号四七頁。
(お)リ lチ﹁佐野乾山の跡を辿る﹂﹃芸術新潮﹄一九六四年九月
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0・
(幻)前掲書官-
温(お)前掲書目 y
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お)URFhS
as司ま・訳は水尾比呂志による。
﹁佐野乾山と手控帖について﹂﹃乾山(展覧会カタログ)﹄(栃
。
木新聞社、一九六四年)二O頁
(刊日)渡辺達也﹁壬生常楽寺における窯跡の発掘﹂前掲カタログ二
了二二頁に詳しい。
才の頃から師事し、乾山写しに専念して、自ら八世乾山を名
(印)この人物は愛知県犬山市に来て作陶していた六世乾山に一八
乗っていたという。なお、七世乾山はバーナード・リ lチと
(初)前掲書四九頁。
同
唱
吋
∞
)
司
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a・訳は福田陸太郎による。(日本経済出版社、一九八
(お)∞23丘四 bsny 凶
qskhnHhHS弘司偽記(同b邑02HEF28aEgp
(犯)前掲書八頁。
七頁。
(剖)リ lチ﹁日本のやきもの﹂﹃月刊文化財﹄一九六六年九月号
富本憲吉であるが、彼らは乾山を自分遥の代で終わりにした。
(初)﹁座談会新佐野乾山の出所を探る﹂﹃陶説﹄二三号(一九
六二年八月)二一頁。
。
こ九六二年八月)三O頁
(幻)加瀬鱗圃﹁新発見佐野乾山に就いて(二)﹂﹃陶説﹄一一一一一号
(辺)青柳瑞穂﹁わが光琳と乾山﹂﹃芸術新潮﹄一九六九年八月号
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二年)
(拠)リ lチの芸術作品に対する態度は、彼の著作弘、。号、ぱ
)(M
円
﹃白ロ
邑邑・同bEOREg aEgFSS) の
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o枠(﹃陶工の本﹄
第一章A
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ω ∞窓昌弘虫色 O時国g豆、によく表れている。
(お)﹃尾形乾山﹄五一頁。
(
お)ERE-hSNSZOB・
(幻)前掲書司・ョ・
(お)邦訳は石川欣一訳で中央公論社から一九五五年に出版。
水尾比呂志﹁乾山研究の基礎問題﹂(武蔵野美術大学研究紀
に詳しい。
(鈎)リ lチ﹁日本のやきもの﹂﹃月刊文化財﹄(一九六六年九月)
(
ω
)
小森松庵﹁佐野乾山手控帳についての私記﹂﹃陶説﹄一一一
要、一九六三年)七六頁。
(MU)
号(一九六二年六月)一六頁。
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