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神の支配すでに始まる

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神の支配すでに始まる
神の支配すでに始まる
ルカによる福音 68
神の支配すでに始まる
17:20-37
神の国といういい方は、英語やドイツ語を使う人たちがこしらえた概念ら
しいです。本来は、ユダヤやガリラヤの人たちはそういう神の治める国……
という考え方をしなかったのですね。ユダヤ人が言ったマルクート・シャー
マイムは、神様が支配権を確立して統治なさるできごとを言います。神の統
治です。マルクートは王権ですから、神ご自身があなたの王様になって下さ
る、あなたを隅々まで支配・統治なさること―そういう奇跡が起こること
がマルクート・シャーマイムでした。
ここでファリサイ人の質問の背景になっているのは、そういう王なる神の
御支配であります。「主はとこしえに彼らを治められる」というような予言
がミカ書(4:7)にもありますが、そういう完全な理想的な神の統治の時代
が、メシアの到来とともに始まる……というのが大体この時代の宗教者の理
解でした。
それに……この人たちはそんな理想社会の実現の前に、何か決定的な前兆
があって、誰もが驚いて震え上がるような大事件があるとみていました。た
とえば戦争、内戦、地震や洪水のような災害とか、そういう目を剥くような
できごとが先ずあって、そのあとにメシアによる神の王権支配が実現する。
そういうパターンで物を考えたのです。2 行目の「見られる形」というのは
そういう天変地異や大変動を伴うイメージです。
ですから福音書の中では、イエスがおっしゃる「神の支配」とこの人たち
が期待した「神の支配」のイメージがいつも食い違って、チグハグの対話を
生み出しております。ここもその一つです。
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元々イエスがおっしゃる神の支配は、我々みたいなこの悲しい人間を、神
様の手がしっかり捕えて芯から作り直すことでした。憎しみとか、不信とか、
不潔とか……罪の支配で生きたまま死んでいる人間を、イエスの手で作り直
して清いものにする。また、倒れて腐りかけている魂に命を吹き込んで、生
気に溢れさせる。神はそれをなさろうとして既に手をつけた。神の支配は本
当はもう来ているんだ。自分がそれを必要とする人間だということに早く気
づけ! とおっしゃるのですが、どうして中々人々はそういう面から見ようと
しないままチグハグは大きくなっていくのですね。
先ずイエスの最初のお答えの中に中心テーマを見ていきましょう。
1.神の支配は予想とは別の形でもう始まっていること。
:20-21.
20.神の支配はいつ実現するのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答
えて言われた、「神が王として支配なさるという事実は、外から見て驚くよ
うなできごとを伴って始まるわけではない。 21.また『見よ、ここだ!』と
か『あそこだ!』と言えるような前兆もない。実は神の支配は、もう目の前
に静かに始まっておるのだ」。
最後の一行は少しく言葉を変えて表現しましたが、
と
いうのは、
「あなた方のど真ん中に現存しておる」ということだと思います。
イエスがよく使われたお言葉に、「神の御支配は近づいた」と訳される一
句があります。マルコ(1:15)はギリシャ語でこれを「近づいてしまってお
る」という完了形で書きましたが、これは大方のイメージとは裏腹に「すぐ
目の前に来ている」ということとは違うのですね。
「今すぐにでも実現する」
というのと少し違うのです。その意味で「神の支配は近づいた」というのは
正確な訳ではないとも言えます。
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多分イエスご自身はヘブライ語で、brk' という動詞をお使いになったと思
うのですが、カラーヴというのは「本当はもうここへ来ておる」「現に始ま
って、実現しておる」ということなのです。マタイやマルコの書き方に従っ
てルカもギリシャ語直訳の
(近づいてしまっておる)という形も使
っておりますけれど、面白いことにルカは二箇所でその趣旨を、これは決し
「て近くまで来ている、もうすぐだ」という意味じゃなく、「もう来ている、
既に始まった。目を開けてよく見てごらん、目の前で起こっているよ」とい
う意味だということを明らかにしています。そのルカの正確に説明している
二箇所というのは……
その一つは、私共がちょうど一年位前に読んだ所で「私が現に神の指で悪
霊を追い出している以上、神の支配はもうあなたたちの所に来たんだ」(11:
20)というお言葉がありましたが、私はあそこはルカのクリーン・ヒットで、
イエスのイエスのおっしゃったカーレヴァー・アレーヘム
~k,yl[] hb''r.q"
とい
うオリジナルを最もよく話者の意図を生かして名訳していると思うのですが。
昔も翻訳賞があれば、ここは一等ですね。ここの 17:21 もひょっとしたら同
じ言い方をされたものを、もう一つ砕いてすっきりと意訳しているのかも知
れません。もしそうだとしたら、聖書記者としては最大のインスピレーショ
ンだと思いますが……
以上、趣旨をまとめてみましょう。イエスの趣旨はこうです「神の支配は
いつ来るかじゃない。現にもう来ておる。もしあなたの目が節穴でなかった
ら、よく自分の現実を見て、目の前にいるこの私をよーく眺めてごらん」イ
エスはこう言われたのです。
2.焦るのは弟子たちも同じだが、明白なしるしは
神の支配の仕上げのときにだけある。
:22-25.
仕上げ……というのは、イエスがもうお始めになった神の支配のできごと
が完成する日です。「人の子の日」というのがそれですが、その時にはそれ
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こそ「前兆があるか」どころではない。眼を持っている限り見逃しようのな
い位、輝く栄光のキリストを見ることになる。ただ、それまでは始まりも始
まりなら、途中経過も途中経過、何も目立った目を剥くような大事件や大前
兆はなく淡々と進むから、人が何と言っても惑わされるな! というのがここ
の趣旨でしょう。
22.それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも
見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。 23.人々はあなた
がたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そち
らへ行くな、彼らのあとを追うな。
これは、弟子たちにもやがて苦しい焦りの時代が来ることを見透しておら
れるのです。「もしあの方が、本当に我々の信じる通りの方なのなら、どう
してこの矛盾と苦しみを今取り除いて、王権を実証して見せて下さらないの
か!」多分これは間もなく来る迫害と殉教の時代の弟子たちの呻きと切望で
しょう。でもそれは最後の仕上げの日まで隠されたまま、目に見えないまま、
じっと信じて祈って待つよう定められています。
24 節の頭には、本当は because にあたる一語があって、何故見ることがで
きないのか、何故信じて忍耐する人に委ねられているのか、それは……とい
う所で 24 節に入ります。
24.それは、いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るよう
に、人の子もその日には同じように、すべての人の目に明々白々だからであ
る。 25.しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨て
られねばならない。
どうしてここへこの言葉が入ってくるかを考えてみると、神の支配が始ま
っているのさえ、多くの人は気づかない。自分たちの勝手なイメージに合わ
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せて期待ばかり膨らむから、イエス様が神のキリストであることにも気づか
ない。そのイメージ食い違いのピークが実に、神の支配の一番大事な部分で
やって来る。その一番肝心の所で、同時代の人から偽メシアと判定されて殺
される、というようなことが起こる。いよいよ最後まで、せっかくの神の支
配が始まっていることにも気づかず、「いつ来るか、いつ来るか」ばかり言
っているうちに、突如人の子の日が臨む……という風に、次の区分につなが
ります。
3.(神の支配が来たことが見えなかった人はどうしようもないが)
神の支配の始まりを見た人は、その日に備えよ。
:26-33.
神が人の魂を捕えて支配する―という、イエスのおっしゃった意味での
神の支配、ギリシャ語でいうと
ヘブライ語のオリジナルは
多分マルクート・ハッシャーマイム
~yIm;V'h;-tWKl.m;
というのは、A.D.27 年に
始まってから始まりっぱなしで、世の終わりまでずっと続いているのですね。
先ずイエスが来られて神の指で霊を征服し始めなさった時に、心ある人たち
の目には神の支配は端緒についたのです。
次に 25 節にあるように、十字架の上で死の力、罪の力と対決してお勝ちに
なった時に、まわりは「幻滅だ、無様な奴だ、偽物であることが暴露したァ」
と言っている間に神の支配の最大の事業が進行しているのです。神の支配の
神の支配たる所以が、正に目の前で起こっているんですね。実にそれは「あ
なたがたのただ中にある」―のです。
そして使徒言行録の歴史に入って、更に神の支配の事業は進みます。使徒
言行録の序文によりますと、復活と昇天までのことは、イエスが行い始めた
初めの部分に過ぎないというんです。神の支配は五旬節の後の方が主な部分
なのです。パウロのフィリピ書の言葉で言うと「あなたのうちに神の支配と
いう良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成な
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さる」という神の事業です。あなたや私みたいな材料でも、最後まで清め続
けて下さるというのです。
ただ、そんな神様の御支配など全く始まってもいないし、あんなイエスの
手にそんな力があろうわけはない……という人は、このファリサイ人と同じ
で、「神の支配はいつ来るか」「その時はどんなしるしが起こるか」ばかり
言っているだけなのです。ノアの洪水やソドムの硫黄の火の雨の時と同じで、
最後まで神の意志を無視して滅びまで突っ走る―というのです。
26.そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るで
あろう。 27.ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつ
ぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
28.ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、
植え、建てなどしていたが(世俗の生活、自分中心の生活に埋没していたが
……です)、 29.ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降
ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。 30.人の子が現れる日も、ちょうど
それと同様であろう。 31.その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家
の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどる
な。 32.ロトの妻のことを思い出しなさい。 33.自分の命を救おうとするも
のは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
最後の所は何を言っているかというと、自分の命以上に大事なものをイエ
ス様の中に見た人は、最後の決定的瞬間に自分の持ち物や後にあるものの奴
隷になせずに、信頼すべき方を信頼して本当の命を全うするが、遂に神の支
配を笑って見送った人は、やはり家の中にあるものや後にある執着が最後ま
で邪魔をして、神の与える貴重な命を棒に振るということです。ここもやは
り、神の支配が現に起こっていることに眼が開けた人と黙殺型の人との運命
が、最後はこうなるのも仕方がないということですね。この世と持ち物しか
拠り所がなければ、そのために身を滅ぼすのは避けようがない―という、
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厳しい運命です。あの日、神の支配が来たことをイエスの中に見たか見なか
ったかが、人間の最終的な生き死にまで左右してしまいます。
4.どんな近い関係、どんな親しい間柄も、
神の支配を受けた人と受けられなかった人との
二筋道を合わせられない。
:34-36.
34.あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、
ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。 35.ふたりの女が一
緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残される
であろう。
「取り去られ」の方が、救われて保存されることで、「残される」の方が
大洪水と硫黄の火をかぶることです。36 節が角カッコに入れてあるのは、写
本ではこの一行半が入っているものも多いのですが、ルカの原作には無かっ
たらしい……という記号で、新しい新改訳や共同訳、フランシスコ会訳は 35
節から 37 節へとんでいます。
ふたりの女が同じ家の下女だとすれば、ふたりの男は同じ家の奴隷仲間と
も考えられます。原文は「ふたり」
とあるだけで、男という字は訳者の
補足なんです。ですからこの「ふたり」は夫婦でもあり得るし、親子でも、
兄弟でもあり得るわけです。いずれにせよ、キリストによって神が王として
支配なさることの意味に謙遜に気づいたか、気づかなかったかで、永遠の命
が分かれていく、厳しい現実が描かれています。それがもうこの時に始まっ
ておったのです。
これは正に神の裁きですが、神の支配が現実に目の前に来ているのに、そ
れを黙殺した人は、「他のひとりは残されるであろう」という厳しさの中に
自分を置くことになります。イエス・キリストの中に生ける神の支配を見て
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服するか、ということは決して気分や好みの問題ではないのです。あなたの
お気に召したら、あなたの自由意思で洗礼でも受けてみたら……というよう
な悠長なことではないのです。
もしも、ナザレのイエスの中に神を見て服するか、ということが神ご自身
の意志であれば、人はこの時のファリサイ人と同じように、イエスと出会っ
た時から人の子の日の裁きの場へ行き始めています。「他の人は残される」
という正にその場所に向かって歩き始めています。我々もまた例外ではあり
ません。
「主よ、それはどこであるのですか」という質問をした弟子たちの意図は、
初めに「神の支配はいつ、(どんなしるしを伴って)開始されますか」と質
問したファリサイ人と、さして変わりはなかったと思います。この問いにイ
エスは当時の諺を用いて答えていらっしゃるようですが、この時の厳しい内
容の対話をいやが上にも、厳しい響きで締めくくっておられます。
「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。
死体は神の支配を見送った人でしょう。無視して自己の主権を保った自由
人としての自己の命を救ったつもりの人でしょう。「自分の命を救おうとす
る者は、それを失い」です。「死体のあるところ」それはどこということな
しに、例外なく起こる現実である。イエスはそういう高貴な自由人を、死体
の山として遠望しておられます。その上へ無数のはげたかが空が暗くなる位
に舞い降りてくる絵を描いて、この件の対話を締めくくられます。
最後に一言……
私たちはやはりこのファリサイ人と同じように、自分のイメージでキリス
トに期待を押しつけて焦ることがありますね。神の支配が本当に起こってい
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るのなら、こうなる筈だ。こんなしるしが起こって当然だ。私がこんなこと
で苦しんだり、こんなつらい立場に置かれる筈はない。どうしてだろう―私
の信仰が間違っているのだろうか。神様は私みたいな者は支配して下さらな
いのではないか、と自分を責めて苦しみます。たいていの宗教ではそういう
反省を迫るものですが、キリスト教にはそういうのは無いのです。
神様はあなたを大事に思われないから、そういう試練と矛盾の中に置かれ
るのではなく、大事なものを神の支配の完成の日まで、少しずつ人並みの試
みの中に置かれるのです。ペテロやヨハネでさえ、苦しくて、早く「人の子
の日を一日でも見たいと願っても見ることができない」時もあったと言いま
す。それでも信じて委ねる限り、それは既にあなたの中で始まって、人の子
の日まで着々と進行しています。問題はそれを信じるか信じないかです。
最後にフィリピ書 1 章から朗読して終わります。
3.わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 4.あな
たがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 5.あなたがたが最
初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
6.そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが(神の支配を開
始なさった方が)、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにち
がいないと、確信している。
パウロは確信している言いました。我々もこれを確信して、信じて行きた
いものです。
(1984/05/27)
《研究者のための注》
1. 神の王権支配
をヘブライ語に還元すると、本当はマルクート・
シャーマイムではなく、マルクート・ハー・エローヒームとなる筈です。現に Robert
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神の支配すでに始まる
L. Lindsey のヘブライ語訳マルコ伝では 1:15 でマルクート・ハー・エローヒーム
~yhlah-tWKl.m;
と直訳しています。しかし、イエスの時代のユダヤ人の習慣を考えれば、
むしろイエスがヘブライ語で言われた原形はマルクート・シャーマイム、つまり天の
支配であったでしょう。天はもちろん神の関節表現です。Kittel の英訳第 1 巻 571 頁
以下に「ラビ文献におけるマルクート・シャーマイム」という題で Kuhn の小論文が
載っています。
2. 聖書協会口語訳で「実にあなた方のただ中にある」と訳している、21 節の最後の 3 語
は、字義どおりには within you it is あるいは among you it is で
すが、これには四つの解釈が提案されています。その一、神の支配はあなた方の内部
に起こる内的なものである。ローマ書 14:17 のような意味です。その二、神の支配は
突然あなたたちの間に現れる。この場合
は近い未来に現出することを言います。
その三、神の支配はあなたたちの手の届くところにある。これはローマ書の 10:8 の
ような趣旨でしょうか? その四、神の支配は現にあなたたちの間にある。つまりイエ
スという形で存在し、イエスのお働きという形で進行中である。この第四の解を取り
ました。
3. 神の国は「近づいてしまっている」
については、約一年前に講じた第 43 回
「七十二人の使者たち」の前置きの終わりで示した解釈を私はすでに捨てました。テ
ープの改訂版では、訂正録音しています。この点については David Bivin と Roy B.
Blizzard が Understanding the difficult words of Jesus の 88 頁以下でヘブライ語の
br;q(
' 近づいた)について述べていることは 100%正しいと思います。なおリンゼーは
そのヘブライ語訳マルコ伝の 1:15 で実際
を
ゼーはルカの方はまだ訳していませんが、ルカ 11:20 の
hbr.q'
と訳しています。リン
も当然を
hb'r.q'
となりましょう。本講の 1 の区分の終わりで引用した「私が現に神の指で悪霊を追い
出している以上」という箇所です。
観察を伴って、with observation
4. 20 節の「見られる形で」は、
でありますが、Geldenhuys の 442 頁の註 2 がとても参考になります。
5. 22 節「人の子の日を一日でも」は原文「人の子の日々のうちの一つを」
でどうして一つを(一日を)と言ったのかはハッキリ分かりません。
を
(第一日)の意味にとると、人の子の再臨の時の第一日、つまり人の
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子の日がついに始まるのを心待ちにしていることになります。これも Geldenhuys の
444 頁の註 4 に、Plummer と Klostermann の引用があります。
6. 37 節の
は本当は「わし」ですが、「わし」は群れ集まったり、死肉、腐肉を
食ったりしないということから、「はげたか」「はげわし」と訳されます。多分
は、ここでは広義に使われているのだと思いますが、ハッキリしません。ヨブ記 39
章 30 節の後半がこことよく似ていて、こういう諺があったものかと思わせます。なお
ヨブ記 39:26,27 では、たか
か、
わし、
#nE
とわし
rv,n<
が出ます。もっとも LXX は
た
はげわしの三つが出ます。
7. 31 節の「屋上にいる者」と「畑にいる者」への警告は、マルコ 13:15,16 のような文
字通りの避難指示というよりは、比喩的な表現と見ました。
8. 当日出席してこの話を聞かれた方のひとりが、34 節と 35 節の「取り去られ」「残さ
れ」を今まで逆に考えていました、と言われました。多分日本語の「取り去られ」の
「去られ」がよくないのかもしれません。新改訳は前者を「取られ」として響きを和
らげますが、これでも残される方が救われるように聞こえるでしょうか? フランシス
コ会訳は「連れて行かれ」と「残される」ですが、「連れて行かれる」方を悪い意味
に取られる可能性があれば、共同訳は「連れて行かれ」と「取り残される」。これは
後者の響きが悪い方を暗示します。
は、「自分のものとして受け入れ
る」あるいは「喜んで連れて行く」感じであると思いますが、意味としては、ヨハネ
14:3(私のもとに迎えよう)が一番近いと考えられます。結局 17:34,35 は「ひとり
は御許に迎えられるのに、ひとりは置き去りにされる」と訳しますか……。
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