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人の子を信じたい - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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人の子を信じたい - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
人の子を信じたい
ヨハネによる福音 38
人の子を信じたい
9:35-41
「シロアムの池での盲人開眼」の余波と結果です。ヨハネは眼を癒した奇
跡よりむしろ、このほうに重点を置いています。「余波」はふつう好ましく
ない影響や結果をさすことが多いですから、この場合不適当かも知れません
が、イエスを抹殺したいファリサイ派から言えば、この結果は好ましくない、
いまいましい状況だったのです。
それで、イエスの力で自分の眼が開いたと証言するこの人に、圧力をかけ
て、「お前の証言は偽りだろう。本当は前から見えていたと言え」と強制し
ます。「あのラビは、本当はペテン師だ。正直に言え。」その上男の両親ま
で呼びつけて脅迫したけれども、この人のイエスへの尊敬と感謝は変わりま
せん。「あの方は預言者です。預言者が安息日違反の罪を犯しますか! 私は、
本当に見えなかったのです。それが今は見えるのですから。あの方は神から
来た人としか、考えようがありません。」
どうしてそこまで……と思う位、この平凡な男がイエスを崇めるものです
から、「生まれながら罪の報いを受けている人間が、恐れ多くも長老たちに
何という無礼か!」というので、会堂から破門・追放の処分を食った、とい
うのが前回までヨハネの記録でした。
その処分のことをお聞きになったイエスが、わざわざこの男の住所をしら
べて、探し当ててお声をおかけになる所が、今読んだ前半です。口語訳では
「彼に会って」、この新共同訳では「彼に出会うと」としているので、町で
偶然バッタリ……という感じに響きますが、このはむしろ、
「探し出して」か「見つけ出して」だと思います。「共同訳」が「捜し出し
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人の子を信じたい
て」と訳しましたが、「新共同訳」は「彼に出会うと」にまた戻しました。
翻訳委員の中にそう読む人のほうが多かったのだと思います。私の「新約聖
書ギリシア語小辞典」では、「見つける,見出す」の後に、(努力して探し
た末に見つける)意味をも付記しました。
35.イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会
うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36.彼は答えて言った。
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37.イエ
スは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているの
が、その人だ。」 38.彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
1.「人の子」についての理解と信仰。
この人がイエスのお顔を見るのは、この時が初めてだった筈です。でもあ
の時のお声は、忘れることはなかったでしょう。シロアムの池に行った彼に
とっては、暗黒に光をもたらした神の人、預言者と思った人が、親しく自分
を探しあててまで、訪ねて来られて、直接声をかけて聞いて下さったのです。
「あなたは、人の子に信頼を置けるか?」
この人の答えの仕方から考えると、「人の子」とい
う熟語は、この人の予備知識の中にあったものと思います。ということは、
この時代のエルサレムのユダヤ人たちの間では、この「人の子」という呼び
名は内容を持っていた筈です。この人の最初の返答から推察して、できるこ
となら信じて委ねたい、絶対確かな方……と聞こえます。「人の子」の到来
ということは、多くの人が期待して夢見てはいるが、まさか自分たちの中に
来て立っておられようとは思わなかったでしょう。でも「信じるか、信頼す
るか」と聞かれれば、「信じたい。本当に来ていらっしゃるのなら、私の信
頼を全部投入して委ねたい。その方にこの私の命と運命を全部預けて安心し
たい。」彼にとってはそんな方でした。
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「人の子」のイメージは、ダニエル書(7:13,14)に由来します。地上の
主権・栄光・王権のすべてを、天の父から委ねられて、天の雲に乗って地に
臨まれる方です。地上のあらゆる民族を、血筋にかかわらず、すべて支配統
御して、永遠の国を立てる方が「人の子」です。ユダヤ人もサマリヤ人も、
「やがてその方が来る。その時、人間の悲惨は消えて跡形もなくなる」―そ
んな希望をその方にかけていました。
ただ、その人間の悲惨が“罪と死”であることを見抜いた人は、少なかっ
たし、それを取り除く「人の子」と呼ばれる方が、十字架で処刑されて死ぬ
―そこまで予見した人はいなかったでしょう。
この人自身の信仰がどの程度の理解に基づいていたかは、分かりません。
彼には、お顔を見るのは初めてでも、お声からは絶対間違いようのないその
お方が、「あなたはもうその人に会っている。いや現にあなたとこうして話
しているのだ」と言われた時、「主よ、信じます」と言って彼はひれ伏しま
した。彼は人の子の中に神を見たのか……神の意思を見たか……救いの十字
架のかげを見たのか……それはこの問答からは窺えません。でも、これを伝
えているヨハネの意図は、「あなたはどうする。全面的に信じて委ねられる
か」という問いを二重写しにしているのです。
後半 39 節からの 9 行は、このあと、パリサイ人との盲目論議、晴眼・開眼
論議になりますが、それが息づまる緊張を伝えます。もっとも、盲人開眼の
奇跡の次元からは飛躍もあって、ひとつ捻ってありますから、後半の話は「ひ
とクッション置いて」奇跡とつながることになります。ところでこの 39 節は、
この人が「イエスを拝した」という場面からは、時間的には少し後になるの
かも知れません。
2.「見え始める」ことの意味。
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39.イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こ
うして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
―「裁くため」は明確に二つに分ける意味です。
イエスが「裁くために世に来た」と言われた意図は、この方に触れること
によって、人は不可避的に二つに分かれて行くという現実です。この人との
出会いは、そういう結果を伴わずにはおかない、とイエスご自身が言われる
のです。ここではシロアムでの奇跡は背景に退いて、暗示のヒントにだけな
っています。「見えない者は見えるようになる」に込められた意図は、これ
まで罪の暗黒を悲しんで来た人が、暗黒を除去して頂いて、光の人、清い人
にされて喜ぶことを暗示します。
反対に、「自分の中に罪や暗黒は無い。イエス抜きですべては明るい」と
考える人は、実は暗黒の中にいるのだと、イエスは大胆な断定をされました。
この言葉がパリサイ人に突き刺さったのです。「我々は目が見えないのに目
が明いているつもりで、暗黒の中にいると言うのだ、イエスは!」これは宗
教的エリートには耐えられない侮辱です
40.イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞い
て、「我々も見えないということか」と言った。
原文では で否定を予想する疑問文ですけ
れど、実は皮肉をきかせて「我々を盲目呼ばわり、あなたの意図は読めてお
るぞ」という裏返しの問いです。ここは直訳してみても皮肉は伝わりにくい
のですが、共同訳が割とよく感じを出してます。「我々も目が見えない、と
いうことか!」否定の含蓄を込めた捻った疑問文です。
41.イエスは言われた。「見えなかったのであれば―正直に自分の暗黒を
意識している人なら……ということです―見えなかったのであれば、罪は
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なかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは「自分の内には
暗黒などは無い」と否定したのだ。そうであれば、罪はあなたたちに、いつ
までも付いて回る。取り去りようは無い。
ここまで読んで来ると、シロアムの水を使ってなさった奇跡は、一転二転
して、「罪を知る人などない」、「我々は義人として正しく目が見えている」
と言い切る人が、イエス・キリストに接した結果、何を受けるか何を受け得
ないかが、鋭い形で対立する問いに変えられています。
《 結
論 》
36 節に戻って、この人の内から溢れる正直な気持を眺めてみます。これは
イエスが「あなたは、信頼を投じるか……人の子に」とお尋ねになった時の、
この人の答えです。ここは英訳では Who is he, sir, so that I may believe in
him? と訳しています。「私がその方に信頼を投じられるように」―それ
ができるように、その方が何者かを……」という省略矩形の疑問文で。“Who
is he, sir?”,the man asked.“Tell me so that I may believe in him.”と、
New English Bible は“tell me”を補いました。この人は、その方に自分の
信頼を投入したいのです。日本語では「それはどなたですか」で一度切って、
「その方を信じたいのですが」と言い直しています。教えて下されば、すぐ
その方を私は信じます……という真剣な意図がこの人の言葉の中に窺がわれ
ます。
37 節の主のお言葉がここで、この人の願いと噛み合って、生きて来ます。
「その人をもう、あなたは目で見ているのだよ。― you have seen. こう
してあなたと話している私がそれだ」。
ヨハネはここに、信じようとして学ぶ求道者の思いと、目が開かれて自分
の目で見た人の感動を、前面に出しています。イエスと向かい合って、「本
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当にこの方だ!」ということが見えた時には、ためらわずにこの人を信じて
跪け。私の罪を取り除くのはこの方の流した血だ。私に命を注いで生かした
かったから、この方は死者の中から起き上がった。―それが分かったら、
「主よ、信じます」と告白してイエスを拝せよ。
ヨハネの伝えるイエスの最終的な発言は、メシアの「しるし」としての「開
眼」の業からは飛躍して、「命」と「死」を直視しない暗黒を指し示しまし
た。その暗黒から解放する者が、現にここに来ているのだと、イエスは断言
なさるのです。その方は、あなたが尊敬したり、師と仰いで学ぶ次元の存在
ではない。シロアムの水で目を開かれたこの人とともに、「主よ、信じます」
と言って、ひざまずくべき相手である……と。
このあとヨハネは 14 章で、イエスの驚くべき発言を書き留めることになり
ます。父と、父の命の息とが、子の中に働いて、信じる者にはその三者が一
緒に来て住み込むのだと。「パラクリトス」(地上最大の力強い味方)のリ
レーの中に、あなたを解放する「生ける神」の働きを見よという言葉に込め
て、人はこのイエス・キリストの前になぜ「ひざまずく」ように命じられる
かの秘密が明かされます。本書で著者は英語であれば“God”で代表する「人
に命を与えて生かす存在」、「アダム以来の生命付与者としてあなたに迫る
命の源」である方を“神の息吹”(霊)で代表させてあります。最終的に「三
者の内住」の形で、私やあなたを生かさずに置かない執念の神を“命の息”
(霊)で表わすのが相応しいと考えるからです。「パラクリトス」はその「風,
息」の描写的別名です。
私たちヨハネの読者はまだ、そこまで 10 頁余のスペースを、ヨハネが語る
ままに、イエスの後を追わねばなりません。
(1986/10/12)
《研究者のための注》
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人の子を信じたい
1.「人の子」という呼び名の意味、特にイエスがどんな意味で「人の子」であられたか
については、1981 年 7 月、大阪聖書学院チャペルでのダニエル書によるスピーチ、「人
の子の極致であられる方」1981(録音版)の中で詳述しました。
2.「人の子」という名にこめられた、もう一つの対照的な意味―恥と死と苦悩と挫折
の“代名詞”のような内容を込めた「人の子」については、録音講解全集の「旧・マ
ルコによる福音」第 28 回「捨てられるキリストと彼について行く弟子」1976(録音版)
で語っています。Black や Vermes の指摘に基づく見方です。
3.35 節の問いは、イエスがこの人を捜し出してから、個人的にこの人に近づいて問いか
けられたものだ、というニュアンスを動詞  に読み取りました。この問いは
で、強調の主格代名詞「あなたは」
が文頭に立ちます。文形から言っても、主がこの人を一人だけ特に選び出して、信仰
者の一つの典型・シンボルとされたことが暗示されると解しました。
4.36 節と 38 節に「主よ」という呼び掛けがあります。この人は最初、相手のイ
エスが「人の子」であるのに気づかないことを考えると、「主よ」には尊敬以上の深
い意味はないと見られます。英訳は大てい前者を sir と訳し、後者を Lord と訳して、
ナザレのイエスの持つ意味が変わって行くのを表わします。
5.38 節末尾のイエスを「拝した」は平伏して最大の敬意を表わすことで、
人間に対しても、何らかの聖なる存在と感じた時にはしたとは、ギリ
シャ人や、ローマ人、ペルシャ人については言えることです。使 10:25―コルネリオ
の例を参照。しかしヨハネ福音書の用例では 4:20-24 や 12:20 から見ても、神に対
する尊崇の表現がこの語の内容であり、神に対する敬意をこの人がそのままイエスに
捧げ、イエスもそれをお受けになりました。ヨハネ自身命の息“霊”の示しに従って、
これを記録したのだと私は理解します。
6.「子」と「息」と「父」が人を救うための“力強い行為”をイエスの中に見る理解は
20 年後の 06/10/08「父と子と息の名の中へ」の中で明らかにしました。
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