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フチから学んだアイヌ文化 - アイヌ文化振興・研究推進機構
「フチから学んだアイヌ文化」片山弘子 フチから学んだアイヌ文化 9 月 13 日(火)18:00∼19:30 札幌会場 講師 片山 弘子 アイヌ文化活動アドバイザー その上に倒れたそうです。私が経験したのは、疲れた人は その場から離れて周りで見ていて、だれが最後まで踊れる かという遊びでした。 現在、保存会は月に一度月例会を開いて、踊りの練習を していますが、義務的に行っている気がします。今回、こ のような機会を与えられ、今までのことを振り返り、踊っ ているときの楽しさをもう一度味わってみたいと思いまし た。 ステージで踊る踊りは、乱れないようにするのが当たり 前かもしれません。でも、私たちのところで行うカムイノ ミやイチャルパの後に行う踊りは楽しんで踊らないと先祖 もきっと寂しがっているような気がします。これからは、 自分たちが楽しめる踊りや歌を行っていきたいと思います。 フチたちからは縫い物も教えてもらいました。今は製図 を書いて文様を写していますが、昔は違ったと思います。 製図なんてありませんので、見て縫っていたと思います。 私も初めて縫った着物は、手本の着物の文様を一つ一つ測 りながら縫いました。よくアイヌ文様は左右対称といいま すが、昔の着物は完全に左右対称になっていないものもあ ります。いろいろな本の中にあるいろいろな文様を見て、 ここが違うということがあります。これは、その縫った人 が間違ったのか、それとも、遊び心でわざとそうしたのか はわかりませんが、とても心がなごみます。今の着物は、 確かにきれいに仕上がっています。技術も向上してきてい ます。織布を行っている人たちは、フチたちの心を受け継 いで行っていますので、すばらしいものがたくさんありま す。 私は、友人2人と2年ごとにアイヌ文化振興・研究推進 機構の助成を受け、展示会を行ってきました。1回目は平 成 12 年に沖縄で、2回目は平成 14 年に種子島で、そして 3回目は今年2月に鹿児島市で行いました。初めての沖縄 は紹介していただいて開催することができました。沖縄に は、私たちの仲間がよく行っていましたので、アイヌ民族 について知っている人が多くいました。2回目の種子島は 西之表市の鉄砲館で開催しました。そのときは、役所の方 が毎朝有線放送でアイヌ民族の展示会があることを放送し てくださったので、それを聞いて大勢の方が来てくれまし た。それらの方々は、普段、身近に見ることのない、私た ちアイヌ民族の文化を見たいと来てくださった方々でした。 カムイノミやイチャルパのビデオを放映し、体験コーナー 用にアイヌ文様のコースターをつくっていきました。 また、 鉄砲館で行いましたので、観光客の方も来て、私たちの展 示を見て大変びっくりされ、「どうしてここにアイヌ民族 が」といわれ、ここまでは種子島、そしてここからここま では北海道のアイヌ、そしてここからはまた種子島ですと 鵡川町の片山弘子と申します。人前で話をすることがあ りませんので、うまく伝えることができませんが、よろし くお願いいたします。 私が、アイヌ文化に触れることになったのは、昭和 58 年5月にウタリ生活相談員になったころからです。日本人 として生まれ、育ってきた私は、母親がアイヌだから自分 もアイヌなんだとは思っていましたが、アイヌ民族がどう いうものなのか、考えることもありませんでした。 私が生活相談員になって翌月の6月に、北海道ウタリ協 会鵡川支部会員の研修旅行があり、その旅行に随行するこ とになりました。バスに乗るやいなや1冊の旅行雑誌を渡 され、アイヌ語で言えということでした。町と町との境目 に来たら、その町の名前がアイヌ語でどのような意味かな どを説明することになり、これが相談員としての初仕事で あり、アイヌ文化に触れた最初でした。 そして、当時、鵡川アイヌ無形文化伝承保存会…現在は 鵡川アイヌ文化伝承保存会と名称が変わっていますが…が 行っているカムイノミやイチャルパに参加しました。カム イノミは初めてでしたが、 イチャルパは私が子どものころ、 親戚の家で行っていたのを思い出しました。今思えば、い つも同じ場所で行われたようでした。 このころから、フチ(おばあさん)たちに踊りを教えて もらいました。当時は、カムイノミやイチャルパが終わっ て踊りが始まると、それは楽しいものでした。周りで見て いると、フチたちに、 「何している、ほら、入って踊れ」と いわれて踊ったものでした。一人が声を出して歌うと、す ぐみんなが声を出して歌い踊り出します。 平成6年に、鵡川アイヌ無形文化伝承保存会が伝承する 古式舞踊が国の重要無形民俗文化財に指定されたのを契機 として、鵡川の踊りを崩さないように継承していかなけれ ばならないと、 会員一丸となって行ってきました。 しかし、 私たちの踊りもステージで披露するようになってくると、 それまで自分たちが楽しむために歌ったり踊ったりしてい たのが、だんだん見せるための踊りになってきました。昔 は、ホリッパ…輪になって踊る踊りも、手のたたき方、足 の運び方はそれぞれでした。確かにそうですよね、鵡川に 生まれ、鵡川で育った人たちばかりが集まっているわけで はありません。穂別や二風谷など、ほかのところからお嫁 に来ている人もいますので、当たり前でした。 ハララキ…鶴の舞もそうです。今は輪になって踊ってい ますが、あまり輪になって踊った記憶はありません。動か ないで、その場で腕をはばたかせながら、飛び跳ねて踊っ ていました。だれかが踊り出すと、すぐみんなが歌いなが ら踊りに加わりました。昔は、一人が倒れると、みんなが 37 「フチから学んだアイヌ文化」片山弘子 いいますと、 観光客の方は、 「ここで北海道のアイヌのもの が見れて得した気分だよ」と笑っていました。 3回目は、種子島で友達になった方が鹿児島に転勤にな り、今度は鹿児島で行ったらとの誘いを受けて、鹿児島市 の鹿児島県民交流センターで開催しました。一人でも多く の鹿児島の皆さんに私たちの作品を見て、北の国のアイヌ 民族のことを知っていただきたいと、事前に南日本新聞社 に新聞の掲載をお願いしたところ、快くお受けしていただ き、第1日目には取材にも来られ、写真入りで載せてもら いました。そうしますと、室蘭出身の方とか、鵡川の隣町 の厚真町出身の方とか、北海道を旅行してアイヌのコタン に行ってきたよという方が新聞を見て、懐かしがって来て くださいました。また、少数民族のことを勉強していると いう老夫婦の方もいらして、いろいろな話をしました。ア イヌ民族のことをもっと知りたいといわれ、帰ってきてか らアイヌ文化振興・研究推進機構が刊行している小冊子を 送って喜ばれました。また、展示会に来た方に、 「次は2年 後だね、どこでやるの」と聞かれ、 「これから考えます」と いうと、 「もう一度鹿児島でやって。でなければ、近いとこ ろでやって」といわれ、とてもうれしく思いました。遠い 国へ行って、 私たちアイヌ民族を受け入れてもらい、 また、 たくさんのお友達ができ、展示会を行ってよかったと思い ました。 このように展示会を行っていて、アイヌ語もしっかり覚 えなければと思いました。やはり言葉は大切です。私のア イヌ語の先生の新井田セイノフチは、大正4年生まれの 90 歳です。セイノフチがアイヌ語と真っ正面から向かい合っ たのは、 昭和 63 年に開催された第1回アイヌ民族文化祭の ときだったと思います。踊りの前のアコロイタクでの挨拶 を、一言一言自分で考え、遠い昔の言葉を頭の奥深いとこ ろから聞き出していました。セイノフチの言葉は、昔のア イヌの言葉をわかっている人たちに感動を与えていました。 今でもフチはいいます。「あのときは本当にうれしかった よ。夜も眠れないこともあったよ」と。それで、翌々年の 第3回アイヌ民族文化祭の前に、みんなで練習をしてみる と、アコロイタクでの挨拶がうまくできない、ところどこ ろ言葉を抜かしている。 みんなが心配していると、 フチは、 舞台に上がったらちゃんといえるから大丈夫の一言。 当日、 舞台に上がったフチは、心配そうに見ている私たちを尻目 に、堂々とアコロイタクで挨拶をやってのけたのでした。 平成4年から、 鵡川でもアイヌ語教室を開くことになり、 セイノフチに笹村トヨさん…今は亡くなっていますが…と 共に講師になっていただきました。当初は、私とセイノフ チの妹さんの吉村冬子さんがセイノフチのところへ行き、 日本語の単語をアイヌ語で話してもらうという作業が続き ました。こうして4人で、毎回毎回、自分たちでテキスト をつくり、アイヌ語教室で教材として使用しながら勉強し ました。 セイノフチは、普段でもアイヌ語を使うようにしないと 覚えないよといっていました。そして、翌年の平成5年か ら、北海道ウタリ協会でアイヌ語の共通テキスト「アコロ イタク」の作成作業が始まり、 「アコロイタク」ビデオ版に 38 セイノフチが出演しました。このときは、東京の故片山龍 峯先生がアイヌ語で話しかけるという形をとりました。そ れまでは私たちが日本語で質問し、それに答えてもらって いたのですが、このときはアイヌ語での質問でした。する と、それが刺激になったのか、セイノフチの口からアイヌ 語が出るわ出るわ、 まるで湯水のように湧き出てきました。 それで、現在までアイヌ語教室の講師を務めてくださって います。 初めの頃は、単語ばかりを教わっていましたが、そのう ちみんなが飽きてきましたので、習った単語でカルタをつ くろうということになりました。教室のみんなで絵を描い たり、読み札をつくりました。読み札は、日本語の中に、 その絵のアイヌ語を入れるという工夫をしました。このカ ルタはたいへん楽しいもので、自分たちでつくったことも あり、今でもアイヌ語教室の終了式のときなどに使ってい ます。 その後は、簡単な日常会話に移りました。受講生は、若 い人が少なく、ほとんどが高齢の方ですので、文法等がで きず、また、セイノフチも文法がわからないので、苦労し ました。しかし、セイノフチが話していることはちゃんと 文法に則っていました。あるとき、短い文章をまたカルタ にしてみてはということになり、 取り札にアイヌ語を書き、 読み札は日本語にしてみました。これは、みんなに不人気 でした。それで、どのようにしたら少しでもアイヌ語を楽 しんで覚えるかを考えました。 次に挑戦したのがアイヌ語劇で、私たちが初めて行った アイヌ語劇が桃太郎でした。これは、セイノフチ、吉村冬 子フチの指導を受け、故片山龍峯先生の助言を受けて脚本 をつくりました。しかし、どこか発表する機会がないとみ んな力が入らないのです。それで、北海道ウタリ協会鵡川 支部総会の懇親会のときに発表させてもらうことになりま した。みんな一生懸命言葉を覚え、衣装や小道具をつくり ました。当日は、劇のことばかり気になり、総会の内容が わかりませんでした。 劇が始まる前に、 受講生全員で桃太郎の歌を歌いました。 このような歌です。私は音痴ですので、節がおかしくなる かもしれませんが聞いてください。 ― アイヌ語で桃太郎の歌を歌う − 次の年、北海道ウタリ協会のアイヌ語指導者研修会で発 表することになり、劇ではなく、これを紙芝居にしてみま した。このときに、ある人から、せっかくこのような劇を するのなら、アイヌのウエペケレなどを行ったほうがいい のではとのアドバイスを受けました。その後、アイヌ文化 振興・研究推進機構の平成 10・11 年のアイヌ語指導者育成 事業に参加させていただき、それを機に、平成 12 年度のア イヌ語ラジオ講座第3期(3カ月 14 回)の講師をさせてい ただきました。早稲田大学の田村すゞ子先生のアドバイス を受け、セイノフチから聞いたアイヌ語でテキストをつく りました。 放送が終わった後、 「あのアイヌ語ラジオ講座の 片山ってあなたなの」と、地元の人にいわれ、気恥ずかし 「フチから学んだアイヌ文化」片山弘子 さがありましたが、ラジオ講座を聞いてくれていると思う と、とてもうれしく思いました。 その年、私たちのアイヌ語教室が、アイヌ民族文化祭で シシャモ伝説のアイヌ語劇を行ったのです。若い人たちは ほとんどいなくて、中高齢者ばかりでした。初めは尻込み していた人たちも、 これはしなくてはだめだと思ったのか、 練習に熱が入ってきました。しかし、せりふの読み合わせ がなかなかうまくいきません。どこで区切ればいいのかわ からず、みんな苦労していました。それで、ついに動作を つけての練習となり、セイノフチにも毎回来ていただき、 アドバイスを受けました。せりふが覚えきれず、大きな紙 にせりふを書き、壁に張り、忘れているところを見るよう にしました。何せ私を含めて頭が固くなっている人たちが 多く、なかなかせりふが頭に入りません。でも、みんな必 死でした。出演者以外の人たちは全員衣装や小道具づくり にあたったのですが、ここの場面はこうしたらよいのでは と、みんなの意見を取り入れながらつくってきました。 伊達市でのアイヌ民族文化祭では、私たちは前半に踊り を行い、後半でアイヌ語劇を行いました。アイヌ語劇で一 番あがっていたのは、ナレーションを行った私だったよう です。足はガクガク、手も震えていたのを覚えています。 ほかのみんなは意外と落ち着いていたように思います。ス テージの袖で見ていて、突然、観客席から笑い声が起こっ たので、笑う場面だったのかしらと思っていましたら、あ る人がアドリブをやったそうで、後で聞いて大笑いをしま した。みんな大したものです。その後で、私は、楽しかっ たからもう一度やりたいねといいました。それで、その希 望が叶い、次の年、鵡川町の文化祭に出演し、さらに富良 野市で開催されたアイヌ民族文化祭にも出演しました。今 でもこのとき出ていた人は、 「せりふはまだ覚えているよ、 また何かやりたいね」といっています。 そのほか、アイヌ語教室では、毎年、野外学習として、 ペカンペ採り、アハマメ採り、トゥレプ採りなどを行い、 また、アイヌ料理も教えてもらっています。さらに、アイ ヌ文化振興・研究推進機構の口承文芸伝承者(語り部)育 成事業も行っており、セイノフチからシノッチャやヤイサ マ、ウポポ、アペフチカムイ…火の神様のユカラ、カラス が遊ぶ歌など、いろいろ教えてもらっています。 このアペフチカムイ…火の神様のユカラは、千歳の白沢 ナベフチがアイヌ民族文化祭で行っていたのを聞いて思い 出したのか、 白沢ナベフチが亡くなってしばらくしてから、 突然、セイノフチが、 「わしね、アペフチカムイのユカラい えるよ、 (ナベフチが)亡くなったっていうからさ」といい 出しました。 「いつ覚えたの」と聞くと、 「ずっと昔、一回 だけ聞いたことがあるんだよ」とのことでした。以前、白 沢ナベフチのユカラを聞いて覚えたのかなと思っていたら、 内容が違うのです。ナベフチのユカラを聞いたのがきっか けで、以前に聞いたアペフチカムイのユカラがセイノフチ のユカラとして出てきました。 セイノフチにアペフチカムイのユカラを語ってもらうと、 一回一回微妙に違います。それはそうですよね、文字がな いんです。セイノフチの頭の中に描かれているユカラも、 39 そのときそのときで少々変わっていても当たり前かなと思 います。セイノフチは、字をあまり読みません。フチが、 「わしは字が読めないから」 とずっといっていましたから、 私は、長い間、セイノフチは字が読めないものと思ってい ました。いつだったかちょっと記憶にないのですが、鵡川 に藤村久和先生がいらして、いろいろと鵡川のことを話し てくださる機会がありました。そのとき、藤村先生が、鵡 川のウエペケレではないのですが、一つのウエペケレを話 してくださったことがありました。 二、三日後、セイノフチと会う機会があり、いろいろ話 をしているうちに、「この前の藤村先生のウエペケレいえ るよ」というので、 「いってみて」というと、考えながらそ のウエペケレを語っていました。私には、一度聞いただけ で、フチがいったウエペケレの内容はあまりわかりません でしたが、藤村先生のを聞いたときの、ところどころしか わからないウエペケレの雰囲気を思い出し、感心しました。 セイノフチの記憶力には驚きです。昔のアイヌは、みんな そうだったのでしょう。文字がないので、自分の頭の中が 私たちのノートと同じなのではないでしょうか。 では、ここでセイノフチから教えてもらっている中の一 つ、アペフチカムイ…火の神様のユカラを語ってみたいと 思います。アイヌ語の発音もまだまだうまくできません。 どのようにして覚えていったらいいのか、まだつかめませ ん。フチは、何回も何回もいっていると覚えるといいます が、文字に頼り、日本語訳を思い出しながらですので、と ても難しいです。私の精一杯のアペフチカムイ…火の神様 のユカラを聞いてください。 ― アペフチカムイ朗読 ― 私たちのところには、セイノフチのほかにもまだ何人か 昔のことを教えてくださるフチたちが健在です。今、私た ちがそれを受け継がなければならないと思っています。 現在、鵡川では、2月にチセカムイノミ、8月にアイヌ 碑の前で行うカムイノミ、10 月末に行うシシャモカムイノ ミのと、三つの大きなカムイノミを行っています。鵡川で は、祭司の後ろには、一番歳をとっているフチが座り、そ の下座にほかのフチたちが座ることになっています。そし て、イチャルパについてですが、私は最近まで、身内に新 しい仏様がいるときはイチャルパに参加するものではない と思っていました。 しかし、新しい仏様の場合、イチャルパをしても、その 亡くなった人まで食べ物などが届かないことがあるので、 自分の名前と亡くなった人の名前をいって、その人にも食 べ物などを分け与えてくださいといって、イチャルパをす るそうです。 鵡川のイチャルパは、祭司が1本のイナウを用意してア ペフチカムイを通して、その地域のエカシ一人の名前をい い、みんなに分け与えてくださいと供物を託すのです。 同じ鵡川でも、フチたちによって考え方が違います。こ れは、このフチが間違っている、このフチが本当だという ことではないと思います。このように、アイヌ文化には微 「フチから学んだアイヌ文化」片山弘子 妙な違いがあることがたくさんあります。これを整理しな がら、フチたちの持っているアイヌ文化を、私たちが受け 継いでいきたいと思います。 〔質問〕 シシャモ伝説というのをアイヌ語でされたので すけれども、鵡川町のほうにはほかにも伝説とい うようなものがあるのでしょうか。 〔片山〕 私の住んでいる汐見地区のちょっと手前には、 イモッペ地蔵というお地蔵さんがありまして、毎 年お祭りをしているのですが、流れてきたお地蔵 さんを、汐見の方が拾って奉納したという話があ ります。そのお地蔵さんは、子どもを授かるお地 蔵さんだということで、昔は大変にぎやかなお祭 りをしていました。 あと、鵡川の伝説というのは、いろいろ町史と かにも出ているのですが、それのはっきりとした 形をアイヌ語で話せる方がいらっしゃいません。 NHKの方が昔録音したテープの中に、うちの舅 さんになる方ですが、片山カシンテアシさんが日 本語で話している伝説がいくつかありますが、そ れをアイヌ語で話せる方は、もういらっしゃらな いです。 〔質問〕 片山さんが着ておられる衣装ですが、今のビデ オにも皆さん同じ衣装で出ておられましたが、何 か地域としての決まりみたいなのがあるのでし ょうか。 〔片山〕 この衣装は、 昔から鵡川に伝わっているもので、 昔、親戚のおばあちゃんが持っていたという古い 着物を見せていただいて作ったんです。それで、 今、鵡川の着物はこれに統一しています。私たち は、機動職業訓練等でいろいろな地域の着物をつ くっていますが、踊りのときは鵡川の着物にしょ うということにしています。このイエパヌ(鉢巻) も、鵡川はこういう黒くて刺しゅうのないもので、 そしてこのように長いのです。これが鵡川のだよ ということで統一しています。 〔質問〕 アイヌ語教室には、子どもさんたち…小学生や 中学生、高校生も大勢参加されていらっしゃるの でしょうか。 〔片山〕 二、三年ぐらい前までは何人かの子どもさんも いたんです。実は、私の娘もやはりアイヌ語教室 に通ってきていました。そして、今はうちの事務 局にいる押野さんの双子、朱美さんと里架さん… よくテレビとかに出ていますけれども、その子た ちがずっとアイヌ語教室に通っており、今は苫小 牧駒澤大学でアイヌ語、アイヌのことを勉強して います。子どもたちをアイヌ語教室とか踊りとか に引き込むには、まず親を引き込まないと子ども たちは出て来ないんです。それで、小学生とかの ときは意外と入ってくるのですが、やはり中学、 高校になると徐々に離れていきます。 私の経験からいいますと、私には子どもが4人 40 いるんですが、嫌がった子どももいれば、私と一 緒に踊りに参加したり、アイヌ語教室に行ったり、 地方に踊りに行ったりする子がいました。あると き、その子が学校を休んでいかなければならなく なり、学校へ行って先生に私たちのことをいって、 休ませてほしいといいましたら、先生は了解した のですが、あまりそんなことを言わないでほしい といった子もいます。でも、その子に、「私もア イヌだしお父さんもアイヌだよ。アイヌが何も悪 いことをしたわけでもない、自分たちの文化を 正々堂々とやるんだから、あなたの考えを少し変 えてほしい」と話をしましたところ、それからは どこでやっても、鵡川町の中で文化祭に出演して も何もいわなくなりました。 ですから、お子さんたちをアイヌ語教室とか踊 りに引き込むには、お母さんたちを引き込まなか ったら本当にだめなんです。 〔質問〕 家に不幸があった場合、カムイノミには出られ ないという話しをされましたが、実は私もそう思 っていましたが、出てもいいというのもあるとい うことですか。 〔片山〕 そうです。私もずっとそう思っていました。で すから、うちのおじいちゃん、おばあちゃんが亡 くなったときは、1年間は一切イチャルパしませ んでした。でも、最近、身内の方が亡くなって、 すぐイチャルパに出てきた方がいらっしゃって、 私は本当にびっくりしたんです。その方もいって いましたし、また違う方でイチャルパに出てきた 人が、まだ新しい仏さんがいるのにイチャルパに 出てきたんだけどどうなんだろうねと、いうので す。私が、新しい仏さんの場合は、大体1年ぐら いは出ないものだよって教えられていたという 話しをしましたら、その方は、イチャルパして、 ものを上げてもいろいろな人たちがいらっしゃ いますよね、向こうの世界で。アイヌの先祖の他 に和人の方も来たりするということで、新しい神 様にまで食べ物が届かないことがある。だから、 自分の名前と亡くなった人の名前をいって、ちゃ んとしてあげると、その人まで届くんだよってい う話しを聞いたんです。ですから、どちらが本当 で、どちらが違うということはいえないと思いま す。