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本牧南部地区
第3章談話潮騒本牧南部地区17聖 菱一節o本牧南部地区 日本牧さまざま ●一間門さまざま 垂曰とい 菅といってもはっきりしませんが、間門は四七軒しかなかった そこで作っていた作物は、ネギや大根、さつまいも諺じゃがい もや、麦で、本牧荒井には西洋のアスパラガスなど、珍らしいも のも作っていたこともあります。 この辺の特色ある言葉としては、チャブ屋(小港・本牧にあっ た)、方言では、バカー(馬鹿のこと)、チッチッカー(小さいこ 鍾災前、問門の持物のおかぐらさんがありました。間門は十二 と)、じぶくる(子供が駄々をこれる)、などがあります。 屋号がありますが、屋号があるのは本家筋で、分家は当主の愛 天の氏子です□背は祭のための船を持っていましたが、明治に無 んです。 称や通称で呼ばれてました。明治の末までは、これなしでは通用 くなりました。本牧神社もその一つです。 外人がそのホテルに馬車で遊びに来ました。 建物でした。庭が・圧く、平屋建てでした。 震災前、間門ホテルがありました。外人のホテルで大変綺麗な c)間門ホテル のですね、たしか……。 ました。これは間門の古い人でないと知らないと思います。海軍 五、六十年も背ですが、大砲が海に向けて、実際に据えてあり か今の大鳥中学の入口にも小さな芝居小屋があったと思います。 間門の人達は本牧の木牧亭や北方の松島座へ行きました。たし しませんでした。今でも若い人の間でも、その屋号や愛称でお瓦 い通じています。 綿屋だったんで「綿コー」。かごやだったので一「カンゴャ」、井 戸掘をやってたので「エドャ」、渓間神社に関係あって「セゲ様」 そのほかに「ヤギャ」これは山羊を飼っていたらしい・・・…。それ と大工八五郎さんの「サブ」、荒井五郎さんの「桶屋」などです ね……。 間門の海では、アサリ、ノリ、夜はカニをカンテラをつけて捕 っていました。 こちらの畑は緑ケ丘、本牧、もとの競馬場などにありました。 175第3章談話・潮騒本牧南部地区 前に間門へ行く太い道がありましてね。土雌日暇になると、外 して釣りです。黒鯛二’三歳ぐらいのが、軽くつれた時代です ね。 三渓園は開放当時.、昼夜関係なく、開放されてました。 人が黒塗りの素晴らしい馬車で、間門ホテルへ行くのを見ますで しょう。外人と言うのは何てぜい沢な暮らしをしているんだと思 市電開通前は小・中学生が遠足などには来ていましたが、あま さんのお毛へ神卵やはしご乗りが行ったものです。 町内にとっては恩人ですから、町内の祭りには、必らず一番に原 原皮三郎さんには町内のいろいろな相談にのって頂きました。 卜一○ つなぎでそばを作り、それで祝いましたね。ごく高級なソバです 特に、正月は餅でなく、ラン切りといって、玉子の黄味だけの せて、毎日五つ位手打ちにして、川前させて頂きました。 先代の南太郎さんは大変そば好きで、信州からソバ粉を取り寄 な屋峡(建物)でした。 土台だけ残っている所があるんですが、そこにありまして、立派 昔の松風闇は今の場所ではなくて、現在の松風閣に行く手前に 風閣に長逗留していました。 三渓風にはインドの涛人クゴールが大正五年に来て、隔内の松 本牧が有名になりました。 されてから、槻光寡が増えてきましたね。それで、いちはやく、 り他の客は特別に見えていまそ」んで、明治四十四年、市電が開通 って、何とかして外人の所へ行きたくなったんですよ。百姓の伜 ですからね、私は。 それで、山下町のウィンクル商会の会計に、Y校を出た叔父が 勤めていたので、頼んで入れてもらいました。親父に内緒です。 それからずっと貿易をやり、戦後独立しました。 戦後、また、ホテルが出来る話がでました。三渓園の人口の一 番はじです。三渓園のお客さんを相手にするということですが、 それと密山人同背の管理事務所の建設には(注、付近にⅢ入国 今はどうなっていますやら……。 管理事務所あり)反対署名をしました。密入国する人などに良い 人はいない。風紀上、問題があるということで、全部一軒ずつ、 反対署名をしました。 -0三渓園アラカルト 明治の末頃、須藤さんが中へ入って、この辺を原三渓さんが買 い上げたと剛いています℃何でも一反三円位だったとか冒 原さんの土地の管理は、ずっと須藤さんがしていたようなもの -》」-9C 三渓顧は朋治一一一十九年に一般公附されましたい一二渓胴は下まで 梅が来ていましたから、夕食を終えてから、餌の芋を持って入園 潮騒木牧南部地区176 第3章談話 原嵐太・郎の三渓という号をとって、三渓園としたということが 三と谷の町は低くて川でした。田の水を引いたのです。三シ」谷 原さんは精根尽して立派なものをつくりました。本当のことを は谷で印んぽです。 というところです。剥門から一之谷、山を越えて間門小学校のと 伝えた方がいいんです。うちの親父なんか、率先して附けた方が 新聞に出ていたが、あれは遮っています。あそこは土地が三と谷 ころが二之谷、間門を越えて三之谷で、昔から一一一之谷は風光明蠣 いいと、厚さんに土地を売ったのですc いです。 三渓園が出来た時は、呼ばれてご馳走になりました。地元の反 なところで、・広亟で‐)たか、「三之谷竃・士」というのがあるくら 厚さんは一一一之谷園というのはおかしいから、三渓園としたので いれば、切り売りして家やアパートを建てたりして、名園は出来 対はなかったです。土地の人が反対して土地を売らないで持って 原さんは精根尽して三渓園の建設をやりましたよ。我々は側に なかったと思います。今でも立派なものをつくってくれたと、原 す。渓は谷でしょう。 いて、見ても聞いてもいますよ。そして雅号を一一一渓としたので さんに感謝しています。 本牧は開けはじめたんですが、原さんの地所を借りた人には、一 原さんの刀で電車をこっちに引っ張って来たんです。それから 原さんが社長だか玉役かだったかして、有力者でしたからね。 当時(明治四十二年頃)、市電は横浜電鉄株式会社と言われ、 ●本牧が開ける のでしたからでしょうね。 たね。まァ、三渓園のおかげで、商売が成り立っているようなも この辺りの商店の人が、三渓胴に払う敬意は、大変なものでし ると思います。いい人でしたね。 原さんが今生きていれば、袴を脱いで、背広で眼鏡をかけてい 、一引○ 二渓蝋の鰹が関東大慶災かなんかで全部死んでしまって、何も いなくなったので、本牧の鈴木ハッオさんが鯉を飼っていて、あ の池に入れたのです。 池があるのは本牧の川水池でした。あんなに大きくなかったの です。我々子どものころ鮒釣りにも行きました。鯉もいました。 梅林も、原善三郎さんの時分にはまたなかったです。竹で何も 出来ないところへ、梅を持って来て植えて、池を大きくしたので す。親山の「弱法師」は、箏曲の越野栄松のテーマをモチ1フに したもので、そのパックに梅林の老梅が撒かれています。 談話・潮騒本校南部地区 ノ77第3 スを発行するという、 仇宅を満政するだけのす。 平間、屯銚の脈料パス一覧 招へい策をやりましたね。 平塚組にも、この三と谷の附発には禰当、力になって頂いたも んです。 それから、どんどん住》 それから、どんどん住宅地が出来て、和田山を切りくずしたと ころに宅地を造成し、山はひな段にして別荘地にし、有力者で当 (●三渓園の近く G一観山先生 たものね……□ いて、夏にはその穴に入って遊べ)ました。冷房の祁屋みたいでし 和田山のところなど付近の山所には、あちこちに穴が掘られて わ、たしか……。 いう農家が二軒あって、それで、和田山という名がついたのです 和田山に水牧杣社の旗がありましたね。あの山の中腹に和田と 後に殺された鈴木弁造なども住んでいたんです。 した。あそこへ職浜の財閥は、ほとんど引越して来ましたね。 和田山というのは、北に山をしよって、本牧では一番いい所で 当時から、躯の子大師なんて雄が立ってました。 ぽでしよ。その士一千のところにありましたね。 間Ⅲのほうから来る道路のふちにあったんですよ。両側が田ん し一○ に、地の子屋という澗尾がありましてね。その前にあったんです 三渓園のそばの「亀の子さん」は、昔は霞一車(四丁目)の終点 時、成金といわれた人々が、大勢兄えて仇みました。 この三之谷の埋立てば、原さんが力を入れて和田山をくずし、 その土で平塚組、長坂組などの土木業者が工瓶を行いましたcこ の辺りは「新開地」といわれましたね。 我々の子供の時代、ここらは田んぼだったんですよ。この辺り から、間門周辺まで、ずっと田で、途中、山のふもとに点々と農 家があったんですね。 今の港南病院のところに、干ばつ用の大きな池がありました aC 、7h 農家で地つきの家というのは、一一、一一一軒しかなく、この辺は始 んど原さんの土地でしたね○ 三渓園のこっち側で化物が出るというので、夜店が出る程見物 人が来て、騒いだことがありました。正体が判らないのです。 半年ぐらい経ってやっと捕えてみたら、ショクリョウ蛙(注・ 食用蛙のこと)だったんですが、戦争前のころだったと思いま 第3jWH談訴 ・潮騒本牧南部地区178 山を切りくずしたのと、埋立てたのとは、ほとんど同時に行っ たようです。 下村観山先生が帰られた所の山は、宝山と言われていました』 響き上がったのを翁に持ってゆきました。たったひと晩で一気に 書いてしまったんです。今もそれは残っていると思いますが、私 の妹が原さんのところに行っていたので知ってるんです。 山大観と並ぶ人だと言われますが、当時は、市中ではあまり評判 ね。だから、観山先生は原さんの仕事しかしてませんでした。横 戸と言いました。このあたりは、ずうっと、、んぽでした。沼は 緒になって大里町になりました。一之谷、|一之谷、三之谷、大谷 大谷戸と言いました。この先の土地が、さがりです。それが、一 私が本牧大里町に住みはじめたのは、大正五年でした。当時は (●一本牧大里町かいわい が立たなかったですから。絵が市中に出なかったですね。本当に あそこは原さんのもので、槻山先生を招へいしたんだと思います 原さんだけでしたね。 大地震の時は、三軒位しかいなかったです、あとは、田んぼで その光に、ちょっとありました。家はあまり、なかったです。 しました。ちょっとした来客の時だけだったようですね、出前を したcその川んぼの一番奥には、実業家の小野光景さんのお邸が 下村さんや原さんにお客があると注文があって、寿司の出前を 頼むのはね。原さんにはちゃんとした料理人が居りましたから 現在の町の中央部は沼でしたが、それを埋立てたのは、昭和の ありました。地震のあとで皆さんが引越して来ました。 磯山先生は楢が好きだったんですが、体を悪くしたもので、医 始めごろです。埋立てが済んでからも、しばらくそのままでした ね。普通のときは、この料理人がやったんだと思います。 者から酒を止めるよう、言い渡されたんですね。それで、奥さん が、いわば、箙発のはじめというわけです。 この辺り(太牧大里川)は、高級化宅地で、三個一○銭のゆで 多くZ 一」a::。。。 そして、本牧の漁師達の海苔干し場に使われたこともありまし が私共に相談に来られ、 「医者が言うには、ごく上質のブドウ酒なら、月に何本か飲んで いいと言うご」と頼まれました。それで、Ⅷ治屋に行って舶来の良 い品を一ダースづつ買ってはお届けしていましたc 原さんのところに下村槻山さんがいた時の話がありますc したね: 玉子を、一個五銭で売った方が、よけいに売れるという土地柄で 毎日毎日酒ばかり飲んでいて、ちっとも書きはじめない。ところ ●八聖殿 ある時、三渓翁が観山に屏風絵を依頼していましたが、観山は が、一か月も経ったある日突然一旦那さん出来ました」といって 淡訴・潮騒本枚南部地区 179第3章 そういう計画を立てた人ば、当てが外れて潰れましたよ。それ で安達謙蔵さんも、持っているよりは横浜市に寄付しちゃったほ 安達謙蔵さん(注・八聖殿の創立者、元内務大臣、青少年の修 養に尽力す)が、いらした時は、一時、市民大会が盛んでした。 うがいいって言うんで、市へやっちゃったんですよ。 安達謙蔵さんという人は、若い青年胴を大変大事にした人で 五月五日に毎年、八聖殿で行ないました。出来てから、すぐ、何 年間か統いていました。大会の様子はここまで聞こえ、宮様もい 八聖職が開館のときも、私が二十五、六でしたか、土地の若い ね。糒神修養の場という気持ちということであったようですね。 当時、八聖殿が出来たからと言って、特別地元が恩恵を受けた 人に手伝ってもらいたいというので、私と平塚ジュンイチと庄司 らしたりして、大変な賑わいでした。 事はありませんが、東京の人が横浜へ続々と来るので、誇らしく 一郎(?)とで手伝いました。 となので、三人揃ってモーニングコートを作りましたよ。 それで私共も、きちんとした服を着なければいけないというこ 衆も十二、三名来ることになりました。 その時は斎藤実さんが首相でして、来られるというので、大臣 思ったことがあります。 安達さんは、八聖殿を造る前は、ヘルムの家を借りて避暑して いましたが、それで気に入ったらしいですね。しかし、こちらに 住まわれてからは、すぐ病気になられ、あまり長生きされなかっ たんですが……。 C一ドイツ病院 乗せてもらって、海から見て、あすこがいいということで、決め そこでは普仏戦争の時、青島で職羊した戦傷者を治療をしていま のようなもので山の根に井戸を掘り、水を病院まで上げました。 今の八聖殿のところにドイツ病院が出・来ていてオランダの風車 て今のところに八聖殿を造ったといいます。その八聖殿が出来た した。伽兵なので黒人が多かったということです。 安達謙蔵さんが八聖殿を造るとき、本牧の佐藤さんの親の船に ときは、中を皆に見せてくれました。 ドイツ病院の後は山の上で、赤いレンガがひとかけら残ってい と思います。 ます。今のフグの碑の近くにあります。私は采存してもらいたい o小野さん 八聖殿、あれが出来てね、皆んなが名所にしようということで やったけれど、三渓園に行っても、そこから八聖殿に行く道が整 小野光景さん(注・職浜における財界の大立物)の家は地震で 備されていないんですよこそれでね、お参りのお客が全然ないん ですよ。 談話・潮騒木牧南部地区ノ卯 第3 こわれる前、山の上に屋敷があったのですが、次に今のアパート 親父が鉄砲が好きで罐っていたからです。 したcキジなどの大きい烏はやりませんでしたが、バラ弾を使っ 私も若い頃、銃をいじって、こっそりスズメなどを撃っていま お邸には、テニスコートがあったり、海水プールがあったりし ていましたので、スズメがかたまっているところを撃つと、五羽 のあたりに家を建てて、そこに住んでおりました⑤ ました。それで、そのすぐ下にはポンプがあって、海水をポンプ ぐらい落ちてきました。而白かつたですね。 せんでした。 一般の刀はきまった薬でしたね。新薬なんて、数える程しか出ま 私、薬屋ですが、背は今と違って、薬の懸類は少なく、殆んと うか。 当時、お寿司は並で一人前は蕎麦の五倍位じゃなかったでしょ か。 もり。かけは十銭の吟壹代が一番長かったんじゃないでしょう 由ですけれど。横浜は検浜で統一されていたんです。 昔は組合があって、値段はだいたい同じだったですね□今は自 ました。 漁師のお客さんが多かったですから、もりや天ぷらそばが良く出 昭和初期の頃の景気ですが、うちはそば屋ですか、下のほうの は、ぜいたくな道楽だったんですね。 ますが、これ以前のことですから、親父の鉄砲撃ちは当時として たしか、空気銃は昭和十年代の初めには、磯んだったと思い で引き上げていました。使わない時は、魚を放して、つりをして いたこともあった様ですね。プールは二十メートル位ありまし た。震災後まで残っていました。 小野さんは山一つ待っていて、小野公願と言っていました」哲 郎さんがいました。哲郎夫人は稲葉子爵からお嫁に来た力で、戦 争中は畑を排したりしていました」やはり、御苦労があった様で すね……。 それと、梅林もありました。 小野公風には、案外、自由に入ることが出来ましたね⑤ 小野さんの一番はずれは、外人の家でした。ヘルムさんといい ましたか……。宅地の境に鉄条網がありました。今の臨海公園に なっているあたり全部が、小野さんの地所でした。当時は山にな っていましたがね……。 しかし、戦災の時の爆弾で、木がみんなすっとんでしまいまし たごそれで様子がすっかり、変っちゃったんです。 ●一さまざまに 私の生れた家は問門で、屋号を「お鉄砲」と呼ばれていました’ 181第3章談話・潮騒木牧南部地区 子供のころの男の子の遊びは、鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコ などです。 女の子の遊びは、お手玉、ままごと、かくれんぼなどで、お手 玉の数え歌では「一列らんばんはれつして……」とか「さいじよ う山は霧ふかし……」などでしたわ。 菅は田んぼで中国人が夜カンテラをつけ、棹に針をつけて赤蛙 を取っていました□蛙は青くても持っていってたようですわ…。 (●そこで震災となる 震災のとき、私も潴火にあたったんですが、近藤さんのあたり から火が出て、平塚福太郎さんの家まで焼けました」 薦新さんが元気な頃でしたね。火を消すのに、ぼうぼうの家の 昼を並べて、私達若い者が(私は二十六歳でした)ドブを壊して 水を汲み、畳にかけたものですcですから、火は東田さんまでで 止まったんです。 火災性その程度で止まりましたが、この土地はもと田で、そこ を埋め立てたものですから、地盤がゆるいんですc新しい家ばか りでしたが、大半が潰れてしまいました。 震災当時、三之谷には大杉栄が住んでいました’ あの頃、私は警伽隊長をやってましたでしよ。それで、何か あったら囚るって言うんで、須川さんと言う競分に航ったんで ね。 す。そこには、須川四天王と言われる人達が抜刀で詰めてまして 「何かあったら、行ってやる』」と言うんで、ずいぶんと力強く思 いましたよ。その頃は何もなく警備出来ましたね。私は須川さん の家に住んでいましたから、鬼に金棒でした。 B 金子ふみも「磯浜」の近所のしも大屋の家に住んでいましたね⑤ あの人はつかまったんですね。 震災のとき、夜になると、歩嚇に立たされたりしました□ 一一一之谷を第一、第一一、第三と三区画しまして、誉伽した記憶が あります。 口本牧も焼けた ●新開地繁昌,花屋敷 木牧か新洲地として、賑やかな全盛時代は塵災までで、震災後 は地道に発展したのです。 大正七年か八年の台風で潰れてしまいましたが、花屋敷という ー).し のがありました、私の子供の埴は、まだ象などの動物が膳りまし Jノ れてましたね。 があり、池や滝などあった様です。キリンや猿がいましたね。 平塚組の平塚福太郎さんが経営されていましたが、柵当な規模 淡請・潮騒本牧南部地区182 ね。 よく、あれを平塚さん個人でやっておられましたねえ、本当に かったんです。 で、あれから裏側の多聞院のところまでありましたから随分と広 虎も象も獅子もみんないたねえ。入口が終点の商店街のところ 動物園はあのころにしては大変な規棋でしたよ。趣もいたし、 菊人形やら動物園や迷路なんかがありましたね。 ね。 花屋蚊は、市電の終点近くで平塚さんがやっていたんですよ 池があったり、滝がありました。 まあ、今でいえば、遊園地と動物園を兼ねたものです。 「菊人形」なども開かれ、小学校の遠足などにもずいぶん利Ⅲさ 建物自体、立派ではありませんでしたが、動物がおり、遊園地 のところまで、海に向って、長方形に陸くありましたこ 花屋敏の場所は本牧三之谷、今の並木薬局さんから本牧病院位 おったんですよc 平塚さんは、仕事も相当やつ士人で、八聖殿も平塚さんが請け でしたよ。広かったですねえこ 莞3厳 海水浴も縄慨していましたね。 花屋蚊の入場料は今となっては、ハッキリと覚えてはいません けれど、子供で七、八銭だったんじょあないでしょうか。 O活動写真も 活動写真屋は、道路を嘉てた向こう側に『演舞鐘」という会館 があってね、活動写真をそこでやっていましたね。 新派なんかもやっていましたね() あそこは大したものですよ。何しろ、こけら落しの時には、歌 舞伎座から相当の役者を呼んだんですから。 今の二渓園商店街のこがれ策から桜道の一角にあったんです よ。 でも、割合早く潰れちゃいましてね。あれに行くなら、電車に 乗って伊勢佐木町の喜楽座とかオデヲン座、又楽館なんかに行っ た方がいいっていって……。本牧の人はあんまり行かなかったん じゃないですか? それから、平野ポート屋さんというのがあったんですよ。そこ でもね、田舎芝居がかかったんです。 「東(あずま)」という田舎まわりの一座でしたね。 ●花柳界も 明治の末、喧車が開通して以来、三渓幽にたくさんの客が来は この辺は「野ら」と言っていました。 じめました。花屋蚊の時代には礎んとなりました。それまでば、 潮騒本牧南祁地区 /83第3索談話 私の記録にありますのは、大正元年の十月十側に水牧二業組合 と言う花柳界の組合が出来たとなっています。 ともかく、昭和の初期位まで、いい時代でしたねえ。大正芸者 ね。震災で波れちやいましたが。 その前あたりに、演舞場も出来ていまして、歌舞伎役者も大 勢、来ていましたね。 すが、安い芸者の代名詞ともいわれた様ですね。芸はやっても 大正芸者というのは、大正年間に出たので、そう呼ばれたんで 先が山下町や関内方而でしたので、南から北へ毎日往復するとい で、「つばめ会」というのをつくっていました。だいたい、助め 本牧のこの辺は大正の初期、埋地に移って来た成金の旦那方 ●つばめ会 「都々逸」位でしたもの。芸者一人、三品付き、|時間一円五○ うんで、名づけられたそうです。有力者たちですよ。市川さんな なんかも居りましたし。 銭などありましたね。大久保や蒔田あたりです。一円サービスな 日の出飴や旭館という海水浴場がありましたでしょう。あそこ んかがよくやってましたね。悶遊会をやったり。 昔花柳界と一一一一口ったら、関内、関外、神奈川が三場所と言われた の一か所をつばめ会で買い切っちゃって、会口はパスポートを見 どと言うのもありました。 もんです。「八百政」や「千登世」などが牛耳ってました。それ せて出入りしていましたね。 本牧亭は噺がはねると、家のソバ屋に人が大勢入って来ました 寄席の本牧亭や演舞場も、震災後はなくなりました。 (●にぎわい 友野さんという有名な人もいました。 いました。 旦那方ですから、遊んでくれて、ずいぶん業者は後援してもら から徐々にふえ、当時、花柳界は一九か所ありましたが、今はど こにも残っていませんね。 花柳界も県から医師(先生)が、毎月一回検診していました。 花柳病が見つかると、座敷に出られても泊りは一切駄目といわれ ま、すC この地には、大正元年二葉組合が出来た関係で、よその場所か ら成金さんが来て商売をはじめた様ですが、商売は繁盛して組合 その頃は、料亭では「磯浜」というのが一番大きかったんで かいう役者が来てましたね。こけら落しでは、相当有名な役者が 涜舞館、五十’六十年前ですから、私の記憶では、ヨネゾウと ね。相当、繁昌していた様ですよ。 す。はじめは待合でしたが、その頃はまだ料亭でして、今の三之 来てた様です。 の仕事も忙しかったんです。 谷公園、通称、象の公園のところにありました。いい料亭でした 第3章談話・潮騒本牧南部地区184 この一角に、寄席が出来たり、劇場が出来たりしたのは、かな 三渓園の池のほとりにも、ずっとポンポリを飾り、中に電気を 音頭」、B面は大森のワコウが唄う本牧おけさでした。私のほう レコードのA面は横浜貿易新報社でつくった文吉が唄う「横浜 入れてやりましたね。 当時は横浜の有力者が、この本牧辺りに住んでいたという事で は佐藤惣之肋さんと大村能章さんに頼んでつくったものです。歌 り、繁栄していた証拠でしょうね。 いで、良い品が出ると言われていました。 賑わったのでしょう。問屋の間では、本牧は伊勢佐木川界隈に次 竜宮館の建物は鰹災後に、二之谷の所から入り、海の中にあり ってもらってたから、出来たのですね。あの人は力がありました 私の場合は、本牧ちやぶ屋の倉田さんに子供のように可愛いが い手はコロンビアで決めました。 ました。(注、いまの間門小学校の地先、産業道路)昭和の初め から、呪まれたら、何も出来やしません。私が兄番を出す時も力 (●竜宮館 のころまで、そう六年ぐらいまであったと思います。内は演芸場 を貸してくれました。 中に、馬場を造って馬を飼い、だいぶ、軍へ献納していましたね。 倉田さんは何といっても親分ですよ。戦争中は、チャブ屋街の で、夜になると芝居をやっていました。今でいうチャンバラでし た。どさ回りの役者が夜だけ芝居し、大変繁蝋していました。 CPRを 戦中、花柳界は停止、検番は廃止解散させられました。 一口)戦中はばったり を作ろうと言う事になりました。ところが、そんな大それた事を 芸者も後半は徴用で山下町の木工場などへ出されましたね。 昭和九年五月に、花柳界では景気をつけようというんで、音頭 する金は出せないと言うんです。それでも、横浜貿易新報社とタ 私どもでは、家(注・料理屋)を三菱の察に貸し、私も食堂の 張られるので徴用のがれのためでした。勿論、月給なんてなしで 顧問ということになりました。そうしないと、徴用で工場にひっ イアップまでしてしまったんですから、止めるわけにはいきませ ん。金は全部私が出しました。 後で見たら、八○○円かかったのですが、歌が流行ったので、 木牧の附け始めは、「新開地、新開地」といって非常に賑わっ す。 横須賀・川崎まで宣伝に行きましたし、地元でもやぐらを組ん でしょうか。ですが震災であの辺りがすっかり焼けてしまって、 たんです。三之谷には昭和の初め頃、芸者は二十五、六人もいた お客がどんどん店に来て、かえってもうけましたね。 っちゃいましたから・・・…ねえ。 で、芸者衆総出で宣伝したりしました。ところが、すぐ戦争にな /85節 3章談話・iill1駁木牧南パlj地区 れで、初めて芸者さんが、昔の通りの「旭や」という風呂屋に入 芸者さんが使っていた風呂屋が無くなってしまったんですね。そ ね。 いて、月給をいっぱい取れる人で、漁師なんかには出来なかった 木牧で芸者遊びをしたのは、下町の商工会議所なんかに勤めて 戦争が始まって、しばらく八聖殿で騰視を行っていましたが、 空酷机哨を八聖殿に造り勤務交替をしていました。 私は昭和十年頃ですか……。山手署管内の在郷軍人で、私設防 ●地上防空戦争 りに来たんですね。 そうなると、土地の人は皆んな因襲的で、古いでしょう。そこ へ芸者がチャラチャラした格好をしてやってくるもんですから、 反感を持ったんですね。漁師のおかみさん達は、地味な絡好をし てますでしょう。ですからね、芸者が遠慰して入ればいいですの 軍司令部の中村孝太郎(?)大将が視察に見えて、最後に、 したね。その人の娘時代のことなんですが、お湯に入っていた おクーーさんという小学校の先生がいまして、大変気の強い人で 立野高校と根岸の赤門、和田山の三か所候補地を出し、和田山が こえないといいましたら、場所をさがしてもよしといわれ、今の 射で目を悪くする事と、松の木が風でうなる音で飛行機の音が聞 にね。 ら、芸者がチャラチャラやって来たんで、憤慨しましてね、喧嘩 一番適当と許可を頂き、監視哨をつくったのち、日本で三か所と 「何か注文はないか□」と附かれ、兄崎らしが良すぎて、海の反 になりまして、番台が止めに入ったということがあったと記憶し いう臘視壕を造りました。 その完成時には、軍司令官となっておられた賀陽宮様がお見え 造ったものです。 す。三か所というのは、この和剛山と大分鼎と満州とで試験的に 十五、六年です。地下で飛行機が飛んで来るのが、聞こえるんで 哨として外に出て、眼鏡で機を見る者と、両方おりました。昭和 はかやぶきでしたよ。壕の中で耳をたよりに機を見つける者と動 形は円型の直径五メートル、深さ四’五メートルの壕で、屋根 てます。 うちの親類の者が木牧の芸者に入れ揚げちゃって、没しちゃっ たということもありましたよ。 若い者で身を持ち剛し大人が随分といたんですよ。それでもう 木牧(モク)に居られなくなって、神戸なんかに逃げたりして 。 になりました。 第3竜談話・潮騒本校南部地区186 にあげてある漁船目がけて、機銃掃射なのですよね。船が燃え上 出来た当時、隣りが高射砲隊の陣地、奥には電波探知機の隊が入れてもらえず、とにかく浜へと降りましたが、逃げる私達に陸 ありましたね。 その監視壕は、今は山が削られて認道路になっています。このがるんです。ですから、私達はこわくて、とにかく、水の中に人 私は空襲の時は、隣組組長をやっておりましたご日頃、「空襲 で、本当に地獄でしたね。 幸い難はのがれましたが、それこそ、口ではいえない程のもの 家族で入り、祈りつづけていました。 ほかの監視哨は、県庁、保土ケ谷、金沢、日野公剛基地とにありろうと、海に入りました。敷き布団が流れていたので、その下に ましたれ。 ところで、敵機を発見するのは音ですが、同時に、高度、機 価、進行方向を本部へ電話で連絡するのですよ。 B羽を初めて発見した時は一、○○○メートルから二、○○○ メートルの高度でしたから、こちらの戦闘機とは高度が迷います 時、飛行機がいってしまったあと外へ出て見ると、もう誰もいな ので、私達は観念してましたね。とても、こまかく連絡できませの時の心構え』などを隣組でやっておりましたが、実際に空襲の んものね。ぱい、終戦迄ずうっとやりました。 他の人達も海岸へ逃げていて、皆浜辺にべたべた座って、虚脱 。一一《したので、私もあわてて海岸へ逃げ、三した。 これは、軍の秘密でしたから、一般の人選は全然、わかりませいのですよね。三之谷の方からは真黒の煙が渦をまいて見えて来 んでしょうね。 ●|人それぞれの空襲 横浜空襲の日、主人は磐備で外にいつもⅢていましたので、私状態でしたよ。船が燃えはじめても、皆、消す手段もないのです一 -などでは、全く役に立つものではないんですよね。 「空襲の時の心術え』といっても、普段の消火訓練のバケッリレ 浜で死んだ方はなかった様ですね。 は、家族の者がいつでも逃げられる様に、身の廻りの品をまとめよれ。 ておきました。それを持って、おばあさんと子供二人を連れて飛 び出しました。 両側の家には焼夷弾が落ちてきますし、私共の右側の家では、 爆撃の直撃を受けて、二軒が一家全滅でした。 私は町内会長代理をやっておりました。その頃、術々、皆様に ただ、浜へと逃げるだけでした。途中の防空壕は、いっぱいで話をしていた事は、いざ空襲となった時には、火を消す車など者 187第3章談話.潮騒本牧南部地区 りました。非国民などと言われましたが、空襲に会った時は集合 えずに、ともかく、三渓園の藤棚へ逃げて集合しようと言ってお た。 間門にかけての山が見えなくなってしまって、びっくりしまし こし経って、しずまってから外に出てみましたら、三渓園から、 拙浜が焼けた時は大手町におりました。ラジオで焼けたのをⅢ きの土煙だったと、わかったんです。 そのうち、山が上の方からだんだん見えてきたので、爆撃のと 場所をきちんと決めておいたので、やけどをした方はおられた様 だと聞きましたが、幸にも死者も出ず、後の身のふり方もスムー ズに行われましたね……。 をねらったという事ですよ。海軍のレーダー離地は伊豆半島の先 きましてから、一時頃でしょうか、横浜へ向いました。電車もな 何故、三渓園へ爆撃があったかというと、八聖殿のレーダ基地 端と館山と八聖殿とにあり、一番優秀なレーダー捷地というとこ く、川崎まではトラックに乗せてもらいましたが、それから先は られましたね。 れ、手当も充分にいただいておりまして、他の人にうらやましが 私は民間防空監視員の仕事についていたので、徴用ものがれら ラジオを聞き、家族中で泣きましたね。 終戦の時は仮住まいの物置きで、山の上から流される拡声器の う事でマイりました。 していたのですが、その後、物侭の家も接収ですぐ立ち退けとい た後は焼け残った物置きに住みました。一年ばかりの仮住まいを 幸い家族は防空壕に避難しておりまして無事でした。家が焼け っと、たどり着いた時は夜でした。間門は焼け野原でしたね。 歩きで行きました。六郷の橋も歩いて渡った覚えがあります。や ろで、ここらがやられた様ですね。 私のところでは朧視哨の下にじやが芋畑を作っておりました が、焼夷抓がボンボン落ちるものだから、それをかぶり、杣臭く てとても食べられたものではありませんでしたよ。 私は爆撃の五日前、川崎の登戸の方へ家族を疎開させてありま した。丁度、爆撃の日は、そこへ米の配給を持っていったもので すから、直接は知りませんが横浜が空襲だというんです。川崎か らも横浜の爆撃の音が良く、聞こえるんですね。桜木町までよう やくたどりついて大里町にもどりました。そしたらメチャメチャ でした。 私は四丁目の防空壕に居りましてね。ものすごい音がして、す 潮霊本牧南部地区188 第3章淡話 |c日本軍 戦争中は小野光蝋さんの別邸に節がいて、高射砲の陣地があっ たんで、私共は安心してましたが、鱗りの三渓剛が曝峡されまし た。三浬園は、焼けませんでしたが、こりや高射砲もなにもあっ たもんじゃないと思いましたよ。 私の家は、門柱も爆風で傷だらけです。それが、今も残ってい ますよ。玄関から先の建物は爆風で、みんな、こわれてしまいま した(』そうですね。爆弾は二十発位、落ちましたかね……。 その頃、本牧の先だけが、焼け残っていたんです。富岡とここ が残っていて、最後の編隊がここに落していったんです。何故、 狙われたかと考えても、この辺だけが焼け残っていたからとし たんです。ただ、大規模なものではなかったので、それが理由と 公共施設はあったんです。》てれと、兵隊はいましたc海箙だっ か、考えられません。 り、家にだけ休戸がありましたので、海軍が樽を持って、水をも も思えませんが:.…。 その二渓剛の近くにいた旧日本嗣隊は、空襲で焼けて断水とな らいに来たので、初めて海軍が居ることが分った位ですから、た つかないと思いますが、バガーンと爆弾が落ち、破片がとび散る 燥弥にあった酬のない人には、その被審というものが、想像も いした基地ではありませんでした。 ここは燥弥でやられましたが、焼爽抓ではなかったので、全部 家が残っていましたから、皆寄って来まして、一時は避難した人 がいっぱいいました。 まう経だったのです。しかし、燥卵の後は、皆、引き揚げてしま 鋭い刃物でサクッと切られたようになってしまいました。この破 はあるのに中身がモロニ」ロになってしまう。本でもダンスでも、 時など、布団などまるで、ねずみが巣をつくったように、「がわ」 ったので、淋しくなりました。それで、海耶の兵隊が櫛を持っ 片でやられたら、もう完全に即死ですね……。 水は私の家の井戸の水をもらいに来ました。水を汲み切ってし て、水を汲みに来るのが、むしろ頼もしかったものでした。 この辺一帯は焼けなかったのです.。しかし、六月十日に三渓閲 五月二十九日の爆弾が落ちた時は、大きな穴があきましたが、 根を身にかぶったのかと、瞬間思ったのですが、違うのですね。 いんです。気が付いた時、あたりは、まつ階だった。それで、屋 が、落ちる音を聞いた後、失神したらしく、それ以降、記憶がな 私は爆弾が落ちると言うので、上がりかまちに臥せたんです が狙われ、そのそれ弾だと思いますが、その爆弾でやられまし 舞い上がった土砂のせいだったのです。雷が落ちた時の繰験があ 、よく死なずに た。 189第3章談話・潮迩本牧南部地区 りますが、そんな感じでした。家の中は、畳が見えない程、|而 枠だけしか残らなかったです。とにかく、こわいなんていうも 私共では障子や建具など、ひどかったです。 骸はころがり、松の木には髪の毛がぶら下がったりして、惨憎た 家族が疎開先から帰ってきましたが、夜中に着いたところ、死 っただけで被審はありませんでした。 その土地は柔らかい土地だったので、土が砂のように舞い上が た。 狐ったと思いますが、学校の脇の丘の「お稲荷様,一に落ちまし 二度目の空襲には五○○キロ爆弾が、焼け残った間門小学校を いたのですが、実は焼夷弾でした。 いかとか、二○時間後には爆発するとか、デマが飛んで、大変驚 間門小学校前に、不発の焼爽獅が落ちたのを、時限燥弾でにな 、松の木の髪の毛 共でも爆風で義父を亡くしました。 経験を持っている人が、かなりおられます。六月十日ですね。私 あの通りの人の中には、家族を一一一渓園に逃がした時、亡くした れ、お気の赤に、あごの肉が削れたといいます。 している人がいますが、空襲の時、三渓園の防空壕に逃げてやら 三渓園の通りの商店のおばあさんで、いつも、あごにマスクを ロー離せぬマスク のでは、ありませんでした。ただもう、夢中で……。 に土砂がおおっていました。 パス通りの人の話しでは、外から見ると、この辺りは一耐、ま っ暗だったと言います。四丁目の今の交番のあたりで爆弾にあっ た人は、震動がひどく、メガネがとんだそうです。 o即死 現在、その爆弾が落ちた所に、外人の家があります。そこが以 前は、空地だったんですが、そこに落ちました。それから、門の 脇に一発、亀井さんにも落ちましたし、前の家にも落ちました。 私共の家は爆弾が落ちた真中にいました。もろにかぶってしま った訳です。お隣りの巾井さんは即死でした。池井さんは大変だ ったんです。奥さんと使用人が亡くなって、何もなかったです。 機銃掃射はありませんので、みんな爆弾によっての死亡です ,ね○ 三渓園の神社跡の石段にも、弾痕がありますが、あすこにも、 何十発もの爆弾が落ちました。 お隣りから、今の牧野さん宅あたりと、小野さん、巾井さんと もう少し奥、あの辺は横穴の防空壕があり、だいぶ亡くなりまし た。 後でうかがった話ですが、防空隊長さんが、牧野さんの奥にい らしたが、ひどいけがで亡くなられたそうです。 けれど、ちょっと先行くと、ガラス一枚何ともないんです。 第3章談話・潮騒本牧南部地区190 る有様でしたね。出征している知人の御両親もやられ、心当りの 親類へ連絡などしてあげましたね。 三中の下にはトンネルが沢山あって、東芝の地下工場がつくら れていました。間門小学校のそばです。 三渓園から八聖殿にかけて、六月一○日に爆弾攻撃でやられま した。あの時はひどかったですね。付近一帯、死者も大勢出まし ー」◎ +ノ 焼夷弾攻撃が先で、あとで、爆弾攻撃があったんで、それはよ けい、ひどかったですね。 私は食料関係の仕事をしておりましたので、山手炊事挺身隊長 の辞令をもらいました。いざという時の炊き出しの仕事でした が、自分の事だけで精一杯で、何の仕覗もしませんでしたね。 C天神様ご難 高梨さん(郵便局)持ち、(個人持ち)の天神様がありました が、それが焼け、その焼跡を町会の御輿置き場として借り、土地 焼けた後も毎日のように、米軍は小型飛行機で機銃掃射をして いました。それも家を狙って喋ったんです……。 焼け残った私の家には、家を焼かれて困っていた人三○人ぐら いが、家の中で煮炊きして共同生活をしていました。 なにもかも焼けてしまったんですから。 戦災で家を焼き、寝る所を失った人はバラックが建つまで集団 で、防空壕で共同生活をしてました。そのときは隣組や知人の世 話をよく受けました……。 Cl終戦間近かに ここは本牧で魚が捕れたので、戦中、戦後、食料はあまり、苦 労しませんでした。 終戦の時は、街は大体、出来ていましたが、まだ、大分、空地 がありましてね……。そう、五○○坪位でしたかね。 終戦後に、いまように建物が建てこみましたが、戦前は高級住 を整地していたら、一尺五寸位の天神様の石像が出て来ました。 た。 宅地でして、昭和十六’七年頃は、かなりの土地が空いていまし としてついていたものを、戦争中に広くしたのです。向こうから 今のパス道路は疎開道路でした。小屋のあるあたりに、細い道 御神体ですね。もったいないというので、昭和五十二年二月十五 日に、三渓園に移しました。新聞にも記載されました。 毎月二十五日に縁日をやっていました。 Clみな焼けた 談話・潮騒本牧南部地区 Z91第3ゴ 来ると、つき当りに魚屋があって、一段下がって畠がありまし た。細い道がいっぱい、入りくんでいました。 今の御先の堂(注・多聞院の境外墓地、古い住民の墓所、尾崎 堂とも普く)は、前からあったです。今の道はもとからの道で す。それを今の様に広くしたのです。この前も、疎開道路と一緒 に大里の道を広げようという話がありました、人口がわの人たち が必要がないと言うので、中止になりました。もうニメiトル位 広げておけば良かったのですが、出来なかったです。 曰接収 ●接収忘れまじ 間門は進駐虹の接収で最も変わりました。潅災よりも、戦災よ りも変ったと魁います。 木牧の荒井、ボイラーの辺(束編腕前)はもと一帯の畑でしたc 旧道は本牧まで続いて家がありましたけれど、以前は田んぽでし たc 戦災ではこの辺り(注・間門の中央部)は焼けて有りません が、角にこうよう軒、お某子屋を境に全部向こうは焼けてます。 終戦直後の昭和二十一年、米軍の進駐で、裏の崖(東福院裏) がMPの射準場にされました。 ひと言の断りもなく作られ、ジープ何台かで来て、だいぶ撃っ 射ち込まれていたところの崖が、今でも崩れてきて困っていま てました。 す。 各家庭の庭にある植木や苗類の珍らしいものを黙って持って行 かれました。 洋館の建物には土足で入り込み、玄関に赤紙を貼って接収しま した。日本家屋はそのままでしたが、洋館だけ接収していったん です。 私の家も外見が洋館だったので、接収の赤綏を貼られましたこ ところが米兵が土足のまま入って見たら、内のほうは日本の造作 だったので、接収されずにすみましたご子供が肺炎で寝ていたの もよかったのかも知れません。 私の家内が「魚国」さんに行っていた吟の話です。魚国さんの 所(二之谷バス停近所)は、風が吹けば飛ぶようなバラックの配 給所で、魚の配給所をしていました。そこへジープで黒人が覆面 をしてやって来て、丁度配給のお金を勘定しているところだった ので、マネーマネーといいながら、そのお金をわし掴みにして持 って逃げたことがあります。薄暗くなりかけた時刻でした。これ なんか、ひとつの例ですが、夕方、明りのついている家を黒人が 木牧南部地区192 第3率談話・潮騒 狙っていたので、大変恐ろしい毎晩でした。 私の家は、焼け野原に一軒のバラックなので、 りすらも怖いので、つけないで頑張りました。 ローソクの明か 畑で作っていた、かぼちゃ、収砿するつもりのものを、私共に ひと言の知らせもなく地ならしをして、家を壊そうとしたことも 本牧荒井で、飯場のような建物に人が住んでいましたが、米軍 のブルドーザーがやってきて、人が入っているまま崖から落して しまった事件がありました。米軍は立ち退きを命令したが、附か なかったので一浴したというんです……。 本牧神社などもブルドーザーでやられました。 何月何日までに立ち退かなければトラックで引き倒すと言わ 地をその一画に移しました。接収された基地は、立永からの古い スを作るというんで、収福院さんの上の丘に高い塀を造って、謹 接収地の中には八十四軒の基地がありましたが、進駐軍がハウ れ、脅かされました。そして簡単に家は壊されたんです……。バ 蕊地でした。 あります。 ラックですもん……。 墓地の移転では、米国はキリスト教の図のせいか、進駐顕も手 塀は彼らが人夫を雇って、造ったんです。 終戦直後、米軍(米兵)がいたずらをするというデマで、私達 伝って丁頭に扱ってくれました、もともとあった前の築地の中の その間門が接収された時は、分散して人々は疎開したんです。 は千葉の方へ逃げました。それから兵隊でない外人さんもいたず お堂は焼けましたが、墓地のみ残ったんです。 金をみなで分配しました。 墓地の跡地はみなの意見で売って、防衛庁に買ってもらい、お らをするというので、女子供は遠くへ一時避難しました。 戦後、クリスマスや祝祭日には、外人が外へたくさん遊びに出 るので、日本人は早々と家にもどったんです……。怖いですも 来て、私(男)の体に触って、マネー、マネーと言い、ノーと言 昭和二十年ごろ、逆を歩いていたら三人の進駐耶が突然やって ラー辺の一邪が明け渡されました。しかし、地主が家を建てては 人が接収土地の返還交渉に行きました。そのためかどうか、ボイ イヶルバーカーの所へ、米人へは女の方がいいというので、女の 少しでも土地があれば、家を雌てられるというので、米軍のア ったらオーケーと言い、行ってしまいました。そのときはゾーつ いけないと、その土地を使わせてくれず、日本人同志のトラブル ノル。::。○ としましたね。 潮騒本牧南部地区 1”第3章談話 もあって、当時本当に残念でした。 会長さんの所、東禰院に六地戚があります。特殊なもので、生 麦とここの二つだけといいます。下には舟が付いています。 終戦後、本牧の土地が接収されて、墓地も移ったんですが、そ こにあった阿弥陀堂から移ったものといいます。それ以前は本牧 にあったといわれています。 六人の漁師が海で遭難し、死んだので、六地蔵をつくって、そ れをまつったということです。それが、どういう訳か間門に来 て、阿弥陀堂へ移ったという言い伝えです。 外人の子供に東福院のお石塔を倒されました。お墓や口の上の 墓地に、五六人で入り込み、石塔に縄を緒いつけて、引っ張った 呼び名にしていた目標物が、三十年ぐらい経つと変わっちゃうか らです。歎尾の谷戸と呼ばれたのも、人uに「鉄尾」があったの で、そう呼んだのです。 それから大沢牧場があったから大沢谷戸という具〈nです。 ●)|南部の接収 本牧町や本牧元川は戦災では焼けましたものの、町の形状その ものはあまり変らなかったんですが、戦後の接収によって大きく 変りましたねえ。 接収された土地に住んでいた人達が、ダァーッと、こちらに来 ちゃったんです。元町、八王子というのは、皆三○○坪位の敷地 が。あって、のんびりとしたところだったんだ。ところが、宮原か ら追い出されたから、皆んなこっちへ人って来て、ウワァーッと 混んじゃったんだ。 アメリカの強制接収、あれは僅か一週間でしたからね。焼け跡 以後、米軍では嘘かほんとか、いたずらをした子供の家庭は、ベ 丁度、そのころベトナム戦争がたけなわの頃だったので、それ 町内会長をやっておったんで、八車の本紙に行って、せめて一ヶ るから、一週間以内に立ち退けというて。その時、私は四丁目の ところが、アメリカが来て、ここからここまでの地区を接収す に皆、バラックを建てて仇んでいたんですよ。 トナムに転勤させられるというので、外人の家族は親の方が自 月の猶予をくれと、さんざん掛け合ったんですが、駄目でした で、巾し訳なかったという、詫び状を一札取ってあります。 というんです。日本人が厳重に抗議したところ、英文と日本文 ら、いたずらのないよう子供に注意して、いたずらを止めさせた ね。 で海に突き落すと言われましてねえ……。それは高飛耶な態度で 一週間後に立ち退いていないバラックがあれば、ブルドーザー といいます。しかし特に補償はありませんでしたね……。 いやはやたいへんなときでした。 谷戸の呼び名は時代とともに色々と変わっていますが、それは 潮騒本牧南話地区194 第3章談話 したよ。行く先のない人が沢山いましてね。 市や私共で随分と骨を折って、あちこちに土地を探しました でしてね。だから接収されたんですね。当時は随分役所に交渉し たりして、何とかならないものかと頂握ったんですが、駄目でし たねえ あの頃は役所は弱かったんですよ。 ね。浅間町に三五世帯、麦田の山の根のところに二五、六軒。そ れから三渓園の通り、今の本牧外科病院の辺りに中村元一一-さんの 本牧にはまだまだたくさんの話がありますが、この位にしてお きましょう。 土地が空いていたので、そこにも頼んで十何世帯、岩崎豊太郎さ ○ んの麦をつくっていたところを借りて八軒……という具合にね 大鳥小学校のまわりにも何軒かありましたね。 私は進駐軍が来た頃、漁業組合の役員をやっていたんですけれ ど、一番困ったのは、漁師が陸の力へ移転しちゃうんですよ。接 収されちゃって。漁が出来ないですからね。何とかして、この土 か、原さんの土地とかに入ったんですけれど、どうしても入れな 地の近くに住めるようにと考えて、疎開して空いている土地と い人達は、今の大鳥中学校のところに居てもらったことがあるん です。十軒ばかりね。後で大鳥中学校を創るんだから退いてくれ って言うことになりましてね。又、困ったんですけれど、何と って言うことになりましてね。 が、やっとなりましたけれどこ ・刀9へ0》lと+化しし、一己1L+ハー)ナ内、と あの頃の雰囲気『」は、永久占領という感じでしたから、地主は もうあきらめちゃったんですよ。それで仕方なく調達局の力へ完 渡したんですよ。 三分の二位の人達は売っちゃったんですよ。 もとの木牧小学校は焼けなかったんですよ。鉄筋の立派な建物